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10月26日、私たちおじさん合唱団の「種子島演奏旅行」団一行は団員50人余の他、参加希望の家族等も含めて60人余の団体となり、高速船・ジェットフォイルに乗り込んだ。10時30分発で種子島までは1時間35分の海上の旅である。快晴に恵まれて、錦江湾外に出ても波もなく、予定通り11時35分に種子島・西之表港に到着。そこではかって種子島で教べんをとった先生で団員でもある恩師や私たち一行を迎えるべく、教え子さんたちが「おじゃりもうせ種子島」の横断幕を持って出迎えてくださった。さらに出迎えのバスの前には今回、自主文化事業として主催いただいた「西之表市教育委員会」の方々が歓迎の横断幕を持って待っていただいていた。ただただ皆さんの温かい歓迎に感謝あるのみだ。 バスが西之表市民会館大ホールにつくと、すでに今日の演奏会の立看板が設置されていた。 控室に入り、弁当の昼食となったが、私たちの部屋からは、南国特有のガジュマルの樹が歓迎してくれているのが見える。見事なものだ。角度が悪くて見えにくいが、樹から垂れ下がった枝が下の土に根付いている。ガジュマルはここ種子島やすぐ近くの屋久島以南に自生すると言われている。 夜6時30分開演の演奏会はたくさんの西之表市民をはじめ、中種子町、南種子町からも聴きにきていただいたとのことで、大盛会に終わった。演奏会終了後もたくさんの方がロビーに残っておられたので、久しぶりにストーム(本来の意味は嵐だが、大げさに表現すれば、コンサートなどで大きな渦が起こり共鳴するようなこと)の流れになり、ロシア民謡の「ステンカラージン」やウエルナーの「野ばら」などを気持ちよく歌い、たくさんの拍手をいただいた。 その夜は、今回の演奏会のために、ご尽力いただいた西之表市教育委員会、西之表市文化協会の関係者の皆さん、賛助出演していただいた「西之表市民合唱団・コールわかさ」の皆さんと一緒に祝賀会を催し、歌の交歓などもあり、こちらも大いに盛り上がった。 翌27日はホテルを朝8時30分に貸し切りバスで出発し芸術鑑賞授業で演奏する中種子中学校へ。体育館には「スクールコンサート」の看板が掲げれている。 生徒さんたちは、大変よく教育されているようで、鑑賞態度は満点。一曲ごとに大きな拍手もいただき気持ちよく演奏出来た。途中、簡単に男声合唱の仕組みなども司会者が説明したので、男声合唱についても理解してもらえたと思う。 最後は生徒さんと一緒に「Believe」を大合唱し、生徒代表からは身に余るお礼の言葉をいただいて、「スクールコンサート」は終わった。 今回、二つの演奏会場で歌ったが、最後に元気をもらうのは、いつもこちら側のおじさんたちである。いろいろな反響や言葉を聞くとおじさんたちは歳や疲れを忘れて感激し、「よし、また元気で練習して、聴いてくださる人によろこんでもらえるようにまた頑張ろう」と思うのである。
2014.10.28
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司馬遼太郎の小説「故郷忘じがたく候」のルーツ・日置市伊集院町美山(旧苗代川)を訪ねた。薩摩焼の「沈寿官」鹿児島旧士族家はその韓国風の姓名が世襲であり、この小説の主人公・14代沈寿官もその名である。(現在14代もご存命であるが、そのご子息が15代沈寿官を襲名されている) 上の写真は大型バスも駐車できる大駐車場から入る「沈寿官窯」の入り口である。当日は休業日だったため、下の武家門の正面入り口は閉じられていた。 入り口を入ると右側に韓国風の四阿がある。 これは立派な日本式五輪塔? それとも韓国風なのか。 司馬遼太郎 「故郷忘じがたく候」の記念碑とこれを建立した九州文学同人の叙碑である。そこには次のように書かれている。 昭和43年、司馬遼太郎氏が小説の取材で沈寿官家を訪れた。美山の集落を尋ね歩き、あらゆる文献、史料を調べあげて「故郷忘じがたく候」を書きあげた。これは氏の中短編小説の中でも第一級の不朽の名作といえる。 その後、「街道をゆく」にも美山が取り上げられることになる。出会いから三十余年、司馬さんの人と作品を、こよなく愛し続けた14代沈寿官の文学碑建立の悲願が、九州文学同人、会員百二十余名の力強い賛同を得て達成されたことを大きな喜びとしたい。 2000年10月吉日 九州文学代表 高尾 稔 下の写真は武家門が今に残る「沈寿官窯」正門である。 この小説を私が初めて知り、読んだのは今から10年くらい前のことだった。そして今回60数ページにわたるものを、一気に読み返してみた。 薩摩焼のルーツ、とりわけこの小説では司馬遼太郎と親交のあった主人公の14代沈寿官を通じてそれが分かるようになっている。慶長2年(1597)の豊臣秀吉のの朝鮮出征(慶長の役)に出兵した第17代薩摩藩主・島津義弘は慶長3年(1598)約80名の朝鮮陶工たちを連れ帰った。その中の40余名が串木野島平に到着した。朝鮮慶尚北道青松の名門、沈氏の沈当吉もその中の一人だった。即ち14代の先祖である。慶長8年(1603)串木野から現在地の伊集院苗代川(現在、美山という)に移住した。そこから400年余りこの地で薩摩焼は発展を遂げ、世界にも知られる陶器となった。 一言で言えば、やがて陶工たちは鹿児島旧士族として取り立てられるのだが、異国から強制的に連れてこられた後、苦難に満ちた歴史に変わりはなかったという事である。小説の中の例挙については、ネット上では、司馬遼太郎の「司馬史観」のなせる業という反論もあり、伝承と史実の難しさをこのことでも痛感した。 興味のある方は「故郷忘じがたく候」を読んでみると面白いと思う。私も薩摩鹿児島に住む者として、今後もいろいろ調べてみたい。 2022年9月22日追記yokota115さんから、又貴重な写真がメールで届いた。沈壽官窯の庭園で数年前に写したいう謎の石像の写真である。私もこれまで多くの石像をん見てきたが初めて見るもので、これまで見てきた日本本来の石像とは趣が違う。そこでネットで調べた所、韓国の「トルハルバン」(「石製の爺さん」を意味する)に行き着いた。wikipediaによると「パクスモリ」「武石木」「偶石木」「翁仲石」とも言うようだ。初めて制作されたのは、李氏朝鮮時代1754年頃とされているとのことで、「トルハルバン」という言葉は1971年に済州島民俗資料第2号で指定され、以降正式名称として使用されているとのこと。済州島各地で約45の「トルハルバン」があるが、その石像の形と表情は少しづつ異なる。(ネットの検索でその多様なトルハルバンを見ることができたが、ここでは割愛する)大きい目、鼻。唇は閉じた顔で韓国伝統の帽子(モジャ)をかぶり、両手を合わせるのが共通の特徴。平均約180cmのトルハルバンは済州島の象徴であり、街の入口などに建てられ守護神と芸術的機能を兼ね備える。(以上wikipedia) 沈壽官窯庭園のこの「トルハルバン」がどこから持ち込まれたのか、あるいはそれを模して日本で造られたその由来は、次回訪問のときに聞いてみたい。
2014.10.18
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いやあ 台風がこれくらいで良かった。写真は午前11時の我が家の上空である。鹿児島市は全域にわたり現在も避難勧告は出ているのだ。 今年の台風19号は前宣伝では、ハリケーンにも勝るとも劣らないということだったので、この数日はテレビの天気予報に注意をはらっていた。子供のころルース台風という今でも忘れることの出来ない大きな台風に遭遇して以来、台風は怖いものということが刷り込まれていたが、ここ10年くらいは地球温暖化などの影響なのか鹿児島に大きな台風の襲来はなかった。予報はあっても、幸い肩透かしという事が多く、その分 九州一円や中・四国などに災害が起きることがことが多くなったような気がする。 それでも今回はhPaも低く猛烈な台風と聞いたので、雨戸も閉めて、植木鉢も安全な場所に移動させて襲来に備えた。ご近所さんも皆さん同じような様子だった。 昨夜は久しぶりに閉めた雨戸がガタガタ音をたてるので、何回も目が覚めるほどの雨風だったが、今朝は枕崎に上陸したというニュースみた直後から逆に雨風も治まってきて、午前11時には写真のような有様である。 今回もいい意味で肩すかしを食い、もうこれからは、どういう予報があっても、雨戸を閉めたりバタバタすることはしないぞと思う事だった。
2014.10.13
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宇宙センターあるの種子島でおじさん合唱団の演奏会が開かれることになった。種子島は鹿児島県本土最南端の佐多岬より南東約40kmに位置し離島の多い鹿児島県でも奄美大島に次いで二番目の人口、約33000人を擁し、面積も奄美大島、屋久島に次いで三番目に大きい。 特に有名なのが、最近も打ち上げられたロケット発射の種子島宇宙センターであろう。その他、鉄砲伝来の地としても子供の頃から皆さんご存知のとおりである。昔から有名な「種子鋏」「種子島焼」もあり、最近ではさつまいもの「安濃芋」も有名になっている。 私と種子島の関連については当ブログ2012年10月4日付の「私にとっての種子島と屋久島」に詳しい。その私にも縁のあった種子島に今回、上のチラシの通り、演奏旅行に行くことになった。もっとも私にとっては種子島演奏旅行は2回目のことである。それは大学3年生の昭和35年(1960)7月9日から19日までの実に11日間の長い間の演奏旅行であった。54年も前のことで、当時は高速船もなく、初めての船旅のツワモノどもが船酔いの恐ろしさも知らず、甲板で騒いでいたが、やがて一人づつ船酔いで撃沈され、一人去り、二人去り、歩く元気も無くなった者はそのまま真夏の太陽の照射を受けながらも甲板に突っ伏してしまう有様だった。 宿泊は演奏をする学校の講堂や家庭科教室をお願いして毎日宿は変わった。ただ種子島では西之表の高台にあった榕城小学校に毎晩宿泊し、そこを起点に蓮日島内の小・中・高校を回ったような記憶がある。夜は公会堂みたいなところで一般の方への演奏もした記憶がある。当時は米は現物持参でオカズはエッセン当番が買い物から調理まで一切を取り仕切り造っていた。 今回10月26日 西之表市自主文化事業として「西之表市民合唱団コールわかさ」さんの賛助出演をいただいて演奏会を開くことになった。 翌10月27日(月)午前中は「中種子中学校」での演奏である。私たちもたくさんのステージを経験してきたが、今回の種子島の二会場での演奏会は,平成17年(2005)奄美大島三会場以来の離島での演奏会であり、総勢60名弱のおじさん達が張り切っている。
2014.10.11
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10月に入り、暑さもやわらいできたきたので、かねて行きたかった「來迎寺跡墓塔群」を訪ねた。国道3号線を薩摩川内市方向に走り、いちき串木野市の入り口に当たる「島内」の信号から左折し食品加工会社の手前から左折、その先を右折する。鬱蒼とした山道に入るが少し走ると左側に表示板がみえる。そこに無理に車を突っ込み、歩いて進むと墓地に到着した。しかしその道は草が生い茂り、折れた竹が道に倒れ、蜘蛛の巣が張るという惨憺たる様子だった。 この「來迎寺跡墓搭群」については、上記2枚の写真の説明板にも書いてあるが、「鹿児島県の歴史散歩」(鹿児島県高等学校歴史部会編)には次のような説明がある。 來迎寺は中世豪族・市來氏の菩提寺で、寺跡には五輪塔や石塔がたち並び、3代時家・4代氏家・5代忠家・6代家親の墓などが確認できる。 中世、市來院を支配していた市來氏は、室町時代の7代久家のとき、島津立久に滅ぼされた。立久は長里に両親の菩提寺として龍雲寺(当ブログ2012年2月13日、14日に記事を書いた)を建立し、文明5年(1473)來迎寺領の水田3町歩と、山野畑地などを龍雲寺に寄進した。その後、龍雲寺の玄済が天文17年(1548)に末寺として來迎寺を再建ぢし、明治初年の廃仏毀釈により廃寺となった。跡地には「文永十二(1275)年四月二十に日」銘の島津忠久の母丹後の局の墓所とされる碑がある。 したの写真は丹後の局の墓標である。 余談だが、墓所に入り入り口近くで写真を写す間は何事もなかったのだが、奥の方に進み写真を撮り始めると物凄い蚊の大軍に襲われた。ここで蚊に刺されてデング熱に罹る恐れはないのだが、そいうことが頭をかすめて、その以降の写真はデジカメのボロカメラだったせいかブレが酷く使い物にならない。それだけではなく、あとで拾おうと思って楽しみにしていた地面を覆うばかりの銀杏の実も一個も拾えず早々に退散した。いろいろな場所を巡るが季節がらもあってこれほどの蚊に遭遇したのは初めてだった。墓巡りも季節を選んで行くことにしよう。もっとも蛇やマムシや蜂と遭遇しなかったのは幸いであった。
2014.10.08
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鹿児島の工芸品として知られる薩摩焼は有田焼や伊万里焼などとルーツを同じくする焼物として知られている。1598年、文禄・慶長の役(韓国では壬申倭乱といわれる)で薩摩藩の島津義弘は、朝鮮半島から多くの陶芸技術者を連れ帰った。そのうちいちき串木野市の島平に上陸した投降43名は、後に苗代川(現在の美山)に安住の地を求めて今日に至っている。 以上のことは、次の案内板に詳しいが、東市来町は平成の合併により、現在は日置市になった。 この「共同登り窯」と下の写真の「日韓友好の炎」は、日本に連れてこられた陶工たちの400年の歴史を振り返り連綿と続く薩摩焼の技法の伝承と発展、併せて日韓友好のシンボルとなるようにと思って造られたものと私は思う。 「共同登り窯」と「日韓友好の炎」のある場所は「薩摩焼陶遊館」のすぐ後ろにあり、孟宗竹の林もある落ち着く場所である。これまでも数回訪れたが、いつも心を癒してくれる。 今年も11月2日から4日まで「美山窯元祭り」が開催される。窯元の他、いろいろな工房や喫茶店なども多く、秋の一日を楽しむことが出来る。
2014.10.07
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夕方6時過ぎのことだ。家の外が赤く染まっているのに気がついた。急いで外に出てみると、久しぶりに見る夕焼けである。 明日は台風接近が伝えられており、私が明日行く予定の講演会も中止になり、連絡が来たほどなのに「この夕焼けは何なのだ」と思い、ヤフーの知恵袋に「夕焼けと天気」と入力して検索してみた。いろいろな書き込みを見る中に納得のいくものがあった。 曰く 「夕焼けのあとは晴れ」は正しいが「夕焼けの次の日は晴れ」というのは、それほど精度が高くない。確度は60%くらいか。 とあり納得する。(上の写真は我が家の前から西空を写したもの) 一番上の写真の我が家前から更に5分くらい歩いて写したのが次の2枚である。この下には新幹線が終点の鹿児島中央駅に向かう線路がある。 今回私が今日の夕焼けにいつも以上に興味を持ったのにはわけがある。それは最近見た プレミアムアーカイブス ハイビジョンスペッシャル「永六輔のにっぽん夕焼け紀行」を見たことである。アーカイブスとうたってある通り、だいぶ前に放送されたもののようだが今回見る機会を得たのだ。 日本の夕焼けの名所を紹介しながら、そのうちのいくつかには永六輔自身が訪ねていくもので、あの懐かしいラジオ番組「誰かとどこかで」の名コンビ遠藤泰子の語り、「赤とんぼ」や「夕焼け小焼け」の歌をバックに流れるのを聞きながら夢のような気持ちで見入ったものだった。そいうこともあり今回いつもより敏感に夕焼けに反応したのだ。 番組で見た日本の夕焼けの名所も訪ねてみたいが、鹿児島県内にも私の知る夕日の名所は数多くある。これからまた思い出すままに訪ねてみたい。そいう気持ちを取り戻すくらい素晴らしい番組だったが、幸い録画をしておいたので、いつかみることも出来る。 皆さんも身近な夕日をたまには見てみませんか。
2014.10.04
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昨夜、近所の友人Iさんから「赤福」をいただいた。伊勢神宮に行ってこられたとのこと。私にとって「赤福」との対面は約一年前に行った高校の同期会による熊野・伊勢旅行以来のことである。夕食後にもかかわらず、甘党の私はすぐ2個いただいた。大変おいしかった。 上の2枚の写真は昨年私が写してきたもので、11月14日の拙ブログのもを再録した。 高校の同期会では昨年の旅行で盛り上がったところで決めた「〇〇八期 大和路ツアー」を11月18日~20日に向けて準備中である。今年から来年に向けて「後期高齢者」となる同期生の元気なうちにというささやかな抵抗の旅でもある。終わったら、拙ブログで紹介したい。
2014.10.02
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