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『春を背負って』は、突然の父親の死によって、山小屋の経営を引き継ぐ青年の話である。監督は木村大作。彼が初めてメガホンを持った作品が『剱岳・点の記』。これは新田次郎原作の小説を映画化したもので、最新の地図を作るため高山に登って測量する明治の男達の話だった。高い評価を受けたあの映画が、彼の唯一の作品だった。たった1作で、もう映画は良いと思っていたそうだ。 ところが何気なく書店で読んだ本が、彼の心を捕えてしまった。原作は奥秩父が舞台だったようだが、360度どこを見回しても絵になる立山を、彼はまたしてもロケ地に選んだ。標高3015mの立山連峰大汝山だ。その山頂にある「菫小屋」を、東京でトレーダーをやっていた青年(松山ケンイチ)が引き継ぐことになる。この山小屋を手伝う娘(蒼井優)と謎の山男(豊川悦司)の組み合わせがまた絶妙。 私は「立山登山マラニック」に3度出場し、2度雄山(3003m)の頂上に立ったことがある。このレースは海抜0mの富山湾を早朝に発ち、標高2500mの室堂を経由し、雄山山頂がゴールの過酷なマラニックである。距離は65kmしかないが、高低差は3003m。周囲の風景は抜群だ。あの立山の懐かしい景色。雄大な立山連峰をスクリーンで観ながら、唯一参加した山岳レースを思い出していた私だった。 『ノア 約束の舟』は、旧約聖書の創世記に記された「ノアの方舟」の話である。乱れ切った人間の世界に怒った神は、ノアの家族を除いて全ての人類を滅ぼすことを決断する。大洪水を起こして飲み込んでしまうのだ。30年以上も前のこと、アメリカの軍事衛星がトルコのアララット山(5165m)中腹に巨大な船があるのを発見したことがあった。これは「ノアの方舟」に間違ない。考古学者は色めき立ち、世界もこのニュースに注目した。 だが、結果的にそうではなかったようだ。方舟は旧約聖書にその大きさや形が厳密に記されているが、発見されたのは、現代風な船の形をしていたのだ。それにしても何故そんな船の残骸が、高山に残っていたのだろう。実はこの「ノアの方舟」の話には元になった伝説がある。古代シュメール帝国の粘土板に記された洪水神話や、ギルガメシュ叙事詩に記された神話。共にチグリス・ユーフラテス川流域で起きた大洪水と神の怒りの話だ。 旧約聖書によればノアの年齢は500歳から600歳。3人の息子にそれぞれ妻がいることになっているが、映画では違う。それでも神の意志を尊重すべきか家族を信じるかで、ノアの苦悩は深まるばかり。人間の業そのものが映画のテーマだ。巨大な方舟、選ばれた動物の大群、世界の最後を思わせる嵐と大雨など、見どころはたくさんある。長い漂流の後に方舟は岸に漂着し、たった1人で荒野に向かう息子の姿。あれが私達の祖先なのだろうか。 『ポンペイ』は古代ローマ帝国時代の別荘地だが、西暦79年ベスビオ火山の爆発によって町全体が火砕流に飲み込まれる。歴史的な事実にフィクションを取り混ぜて、この映画は作られている。ユネスコ世界文化遺産の代表とも言えるポンペイ遺跡の発掘物は、私もこれまでに2度この目で確かめているが、実に見事な芸術作品ばかり。町全体が一気に火山灰に覆われたのだから丸ごと残るのは当然だが、逃げ惑うポンペイ人の悲鳴が聞こえて来そうだった。 映画では、戦争で捕えられたケルト人奴隷の剣闘士が、ポンペイ人の娘に命を助けられたことをきっかけに恋心が芽生える。壮大なコロセウムで繰り広げられる凄惨な殺戮。貴族の娯楽を目的にした奴隷達同士の無意味な戦い。人口2万のポンペイ市民は、その野蛮な様子を観て酔いしれる。そこに火山の爆発だ。コロセウムも瀟洒な別荘地も港も、飛んで来る火山弾や地震の振動で破壊されて行く。 どうしたらあんな映像が撮れるのだろう。きっとCGを駆使しているのだろうが、観ている私達は自分まで火山の火砕流に巻き込まれて行くような錯覚に陥る。なるほど歴史は過酷だ。あれほど享楽に耽っていた街が、たった1日で地上から消え去るのだから。立ちつくす若い男女の背後から、ベスビオ火山の火砕流が迫る。ポンペイの遺物には、抱き合って接吻する男女の遺骸がある。まるで彫刻みたいに美しいが、それは本物の遺骸なのだ。
2014.06.30
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6月もそろそろ終わりに近づいた。しばらく中休みを続けていた梅雨だが、昨日から再び雨が降り出し、すっかり乾燥した庭が黒々と潤っている。さて、撮り貯めた花の写真はまだ残っているのだが、そろそろ決着をつけたいと思う。 最後はやはりこの花で締めよう。梅雨の時期に最も似合うアジサイの花だ。だが私が撮る対象は、有名な古寺のそれではなく、極く近所の庭に咲く普通の花。それも半径500mほどの範囲のものだ。アジサイは虹の色。そして夢の色。今日はアジサイの花を心行くまで楽しみ、梅雨の鬱陶しさを暫し忘れていただきたいと思う。 <今日の一枚> 今日の1枚はウエディングドレス。先日病院へ行った時にたまたま撮ったもの。「6月の花嫁」は幸せになれるとか聞いたが、その理由は知らない。我が家には2人の息子がいるが、大都会で暮らす低収入の彼らにも、こんなドレスを着た素敵なお嫁さんが来てくれたら、親としてどんなに嬉しいことか。ご近所にも独身の男女が多いが、何と勿体ない日々を過ごしているのだろう。先行きの長くない爺は、時々そんなことを考えてみる。<完>
2014.06.29
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昨年の秋、バスツアーで長野県の蓼科高原に行きました。その時訪れた先の一つが、「バラクラ・イングリッシュガーデン」でした。英国式の洗練された庭園で、50分間の訪問時間の中で私は140枚ほど写真を撮ったのです。あれが花の魅力に取りつかれた最初だったように思います。何せ庭園内には何十種類もの花が咲き乱れていたのです。それ以来、私は花を見るとどうしてもデジカメを向けたくなるのです。 < 今日の一枚 > 今日の一枚は小学生達です。花は病院への行き帰りに撮ったものです。この日は病院での診察を終えた後、近くの動物園に寄りました。仙台市では65歳を過ぎると、市営の施設は無料で入れるところが多いのです。たまには動物の写真でも撮ろうと思ったのですが、園内にはたくさんの小学生達が見学に来ていました。これはたまたま休憩している彼らの姿を撮らせてもらったものです。動物園の写真は、近く載せる予定です。どうぞお楽しみに~♪<続く>
2014.06.28
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昨日は隣の市まで「あやめ祭」を観に行っていました。併せて国府多賀城と多賀城廃寺を訪れ、最後に東北歴史博物館で開催中の「日本発掘」を観て来ました。いずれもかなりの収穫で、行った甲斐がありました。そのことは近いうちに紹介しますね。さて、今日は「6月の花」シリーズの4回目。近所を散歩中に撮った花々をお楽しみくださいね~。 ≪ 今日の1枚 ≫ 今日の1枚はツルムラサキです。我家の家庭菜園では、目下何種類かの野菜が育っています。その中で、葉野菜はツルムラサキと雲南百薬とサンチェです。そのいずれかを摘み取り、夫婦で毎日食べています。ナスやシソも収穫が始まりました。パセリも時々サラダに入れています。今月はジャガイモや玉ネギも収穫を終えました。こんな風に、自家製の野菜を食べて、私達夫婦の健康が保たれています。<続く>
2014.06.27
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最後のコロンビア戦も1対4の惨敗に終わった。3点目を取られた所で、私はテレビを消した。楽しみにしていたワールドカップだが、もう戦うことは出来ない。「優勝します」。本田のあの大口を、私は許せる。それくらいの気持ちがないと、世界では戦えないと思うのだ。 それよりも緒戦のコートジュボアール戦で1点を取り、守りに入ったのが今回の惨敗の原因だろう。FIFAのランキングは案外正当だったようだ。ザッケローニ監督は自分の責任を認め、辞意を表明した。それにしてもスペインやイタリアやイングランドが決勝トーナメントへ進めなかったとはねえ。やはりワールドカップには魔物が棲んでいるのかも知れない。 都議会の不規則発言に決着がついたようだ。今回のセクハラ発言は酷かった。若い女性議員に向かって、「結婚しないのか」、「産めないのか」はないだろう。結局「結婚しないのか」発言の自民党議員は名乗り出て、会派を離脱したものの、「産めないのか」発言の議員は名乗り出ず、議会もそれ以上追及しないことを決議したとか。困ったもんだ。 今回の事件は、国際的な話題になった。世界ではあんな発言をしたら、直ちに侮辱したとして辞任させられるだろう。それくらい日本の認識が低い訳だ。ただ、若い女性にはもっと結婚して子供を産んで欲しいと願うのは本当だ。それは若い男性も同様。このまま少子化、高齢化が続けば、日本の将来は危ういのも事実。 岐阜県のとある市長が買収容疑で逮捕された。まだ29歳。全国で1番若い市長だった由。市長になる前は市議会議員。その頃から環境保全関係の業者が目をつけ、金品を授与していたそうだ。まだ疑義の詳細は明らかになってないが、収賄の金額は1回5万円から10万円の単位。わずか50万円にも満たない金額でも収賄、贈賄で逮捕される我が国は正義の国と言えよう。それに比べたら韓国や中国の議員の汚職は「底なし」だ。 「河野談話」の再検証結果が先日公表された。それによれば「談話」は韓国政府からの働きかけによって作られた「妥協の産物」だったことが分かった。元慰安婦と名乗る16名の婦人は、全て韓国政府が指定し、彼女らに対する日本側の聞き込み調査は全くなかったようだ。その16名の噂は他で聞いているが、強制的に慰安婦になった人は誰もいないようだ。貧しかった時代は親が自分の娘を売ったり、高額な手当てを頼りに自分の意思で慰安婦になる者も多かったのだ。 だが、政治的な決着のシナリオは最初から決まっていた。文言の擦り合わせも何度か行われ、「談話」の公表後はそれで両政府が決着し、問題は終了するはずだった。ところが韓国政府はその後従軍慰安婦は日本軍の強制だったと言い出し、今では米国などに「従軍慰安婦の像」を建て、フランスの漫画展で、我が国の「蛮行」を世界に訴えている。 「従軍慰安婦」が強制ではなかったこと、旅行の自由や高額な報酬を得ていたことなどの事実は、当時の米国側の調査結果で明らかになっている。それは今でもワシントンの公文書館に残っている。中国の唱える「南京大虐殺」もそうだが、片一方が言い続け、もう一方が黙っていると、それがいつの間にか歴史上の事実として定着してしまうのだ。事実なら仕方ないが、事実でないことを受け入れることは出来ない。政府には真実を述べて欲しいと願う。 「STAP細胞事件」を取り上げるのは今回で4回目。理研の組織改革委員会の調査結果により、組織の改組と関係者の厳重処罰、新たな管理者の任命が提議された。また小保方さんらがNATUREへ投稿した論文で、STAP細胞の根拠として掲載された写真が、山梨大学の若山教授が提供した基幹細胞に拠るものとは異なっていたことも判明した。 それに関して彼女は、ES細胞も実験室に在ったと話している。だがそれはおかしい。たとえ冷凍庫の中にES細胞があったとしても、それはあの実験で使われてはいけないもの。それがどうして論文の写真に入れ換わるのか。初めに本件が問題になったのは「論文作法」だった。コピペや不正な引用や写真の切り張りは、研究者としてやってはいけない初歩的なルール。それを知っていながら、彼女はやった。 それを理研は不正行為と認定したのだ。ところが、実験の中心である細胞が別の物と入れ換わっていたのでは話にならない。組織改革委員会が「世界の科学界の3大不正」と指摘したことも頷ける。そして、当該論文を取り下げることを彼女も表明した。いや、数々の事実が明らかになり、表明せざるを得なかったのだと思う。今彼女はSTAP細胞が本当に存在するのか確認するための実験に立ち会っている由。科学の世界での事実の確認は、政治の世界よりさらに厳しいのだ。
2014.06.26
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ここ何ヶ月かの間、マウンテンバイクがやけに重たく感じた。もう10年近く乗っててチェーンには錆もついている。車体が軽いため何度か倒れ、そのせいで歪みが出てブレーキがきつくなったのだろうくらいにしか思ってなかったのだ。それに私の体力が衰えたことも、ペダルが重く感じる原因だろうとも。それにしても下り坂でも重いのはどう考えても変。一時は新しい自転車を買おうと思っていたのだが、「駄目元」で自転車屋で一度見てもらおう。 診断の結果、何とブレーキ用のケーブルが切れていたことが分かった。つまり常にブレーキがかかった状態になっていたのだ。これで漕ぐのは無理。私の体力が衰えたのは事実としても、これでは下り坂でも重かった訳だ。こんな状態になったのは多分2度目だと思うのだが、その時の対応をすっかり忘れてしまったようだ。やっぱり歳だね。 「お父さん、おかしいよ」と妻が言う。今年の市民税、県民税が前年の倍以上になっている。疑問を持った妻が市役所に電話で聞くと、原因は確定申告をしてないからだろうとのこと。これからでも修正出来ると言うので区役所へ行った。幸い主な関係書類は一式残っていた。やはり確定申告をしないと損らしい。係の人が丁寧に対応してくれて、税金は半分ほどに減ることになった。 今年の確定申告の時期に、私は体調が悪かった。それに確か収入が400万円以下の人は確定申告をしなくて良いように書いてあった。そして「医療控除」も計算したらわずかに10万円に達しなかったため、領収書をメモ用紙代わりに使ってしまったのだ。それが、どうやら勘違いだったようだ。税務署に行くと還付金がありますよ。そう言われて、直したばかりのマウンテンバイクに乗って、遠い税務署へ行って見た。 こちらも係員に付き添ってもらって、端末から入力した。結果は1万7千円ほどの還付金が戻って来ることになり、各種の証明書類は申告書に張りつけて提出した。それに所得の少ない人は、医療控除の金額も低いのだそうだ。つまり10万円以下でも大丈夫だった訳だ。これは知らないと損。税金なんてものは、聞かないと誰も教えてくれない変な仕組み。それにもっと歳を取れば、遠くて不便な税務署へ直接行けなくなると思うのだが。 一昨日の夜、入浴時に体重計に乗って驚いた。何と体重がいつの間にか増えていたのだ。思い当たる原因は間食。最近は朝食後直ぐから、お茶を飲みながらお菓子を食べてパソコンに向かっていた。きっとあれが原因のはず。もうかなり遅くなったランニングのペースだが、体重が増えればさらにピンチ。そこで昨日はまだ暑さが残る時間帯に走りに行った。たっぷり汗をかいて夜体重計に乗ると、いつもの数値に戻っていた。危ない、危ない。何とかセーフだ。 歳を取るとどうしても代謝量が落ちる。特にそれまで体を動かしていた人が急に運動を止めると、その傾向が強いのではないだろうか。だけど人間歳を取れば、徐々に動けなくなるのが普通。私のように定年後肉体労働をやりながら過酷なウルトラマラソンに挑戦して来たランナーが、急に運動しなくなると大変なことになる。不調と運動の皮肉な関係はこれからも続くだろうし、より深刻になるのだろう。 先日眼科へ行った。眼圧の下がり方は順調で、緑内障の進行は今のところ停止しているようだ。若い眼科医が何か口籠っていた。薬局へ処方箋を出すと年老いた薬剤師が「目薬は1本にしますか。それとも2本?」と尋ねる。「4週間以上経過した目薬は捨てるようにと書かれてますけど」。私は答えた。どうやらそうではなかったようで、冷蔵庫に入れなくても効果が下がることはない由。2カ月に1度の診療だと収益が減るのが、医者が口籠った原因なのだろう。 その数日後、循環器内科へ行った。私の顔を観てドクターが「元気そうですね」と言う。先日の50kmレースで、日に焼けたのだ。診察の結果、血圧も脈拍も正常だった。そこでドクターに日本人間ドック学会の新基準について尋ねた。血圧や血糖値の基準がこれまでと著しく変わった例の件だ。「私はもう血圧降下剤を飲みません」。あれ以降、そう申し出た患者が何人かいたそうだ。 「Aさんの場合も血圧降下剤を飲まなくて良いかもね。それでも飲んでた方が安心ですよ」。ドクターの口調は、どことなく自信なさそうに感じた。それでも私は飲み続ける道を選択し、そのまま処方箋を薬局へ出した。今、世間では製薬会社と複数の大学との間で、治験薬のデータに関する不正が問題になっている。人間の体を実験材料にし、金儲けの手段に使ってもらっては困るんだよなあ。そう思いつつ、歩いて家に帰った。
2014.06.25
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「奥の細道」の旅で芭蕉と曽良は、塩竃から小舟で松島へ渡った。当時は陸路が整備されておらず、海路の方が一般的だったのだ。松島へ着いた2人は、雄島へも訪れている。ここは松島海岸からほど近い、周囲400mほどの小島で、平安末期から修行僧が岩窟に籠って終日経を唱えていた聖地。つまり信仰の島だったのだ。その島を5月31日、「みちのくラン」の帰りに私も訪れて見た。多分これで3度目のはずだ。 雄島の名は、ここが高僧の修行の場であり、女人禁制だったことに拠る。小さな島の到る所に苔むした石仏や石塔があり、当時の面影が残されている。 この島はかつて瑞巌寺に所属していた。同寺は平安時代の創建で、鎌倉時代の途中に真言宗から臨済宗に変わっている。島には108の岩窟があり、1つ1つの岩窟に修行僧が起居していたのだろう。 恐らく僧達の食べ物は、瑞巌寺の庫裏から運ばれたのではないか。それに排泄物の処理や衣服の洗濯などを世話する人もいたと思う。寝具などはあったのだろうか。そして寒風吹きすさぶ冬期は、どんな風に過ごしていたのだろう。 今は無人の島。僧達が読経に明け暮れていた岩窟には、供養のため石仏や石塔が安置されている。 中には度重なる地震で落ちたのか、別の頭部が据えられた石仏もあった。 奥の石塔は、一見宝筐印塔のようにも見える。恐らくは後世の人が供えたのだろう。 海岸からわずか20mほどしか離れていないこの島は、まるで別世界。 100人を越える僧達がこの岩窟で来る日も来る日も経を唱え、己が身の成仏と世の泰平を祈ったのだろう。 今、この島を訪れる人はさほど多くない。まして古の僧の修行にまで思いを馳せる人は。この日も若い男女が石に座って何やら話し込んでいた。 島は砂岩や凝灰岩で出来ている。そのため岩窟も彫り易かったのだろうが、長い年月のうちに風化が進んで行く。 変わり行く島の様子を無言で眺める石仏。 岩を刻んだこの階段を、果たして何人の僧が行き来したのだろう。 周回道路の最奥部に、ぽっかり開いた空間がある。そこに穿たれた石窟群。 ここは見仏堂跡。見仏上人は法力によって自由に空間を移動出来たと伝えられる高僧で、長治元年(1104年)に伯耆国(鳥取県)から松島へやって来た。奥州藤原氏初代の清衡と同時代の人だ。 上人は12年もの間この岩窟に籠って、日夜六万部に及ぶ法華経を唱えた由。その高徳を讃えて鳥羽天皇が本尊一体と松の苗千本を彼に授けた。そのため「御島」とも呼ばれたそうだ。 それから約500年後に訪れた芭蕉と曽良は、この光景を観てどう感じたのだろう。多分江戸初期には既に修行僧は居らず、島も荒れ果てていたのではないだろうか。 洞窟の奥の細道は本来渡月橋に繋がって島を一周しているのだが、地震に拠る崩壊のためその先へ進むことは出来なかった。そしてちょうどその時デジカメのバッテリーが切れ、これが最後の一枚になってしまった。<完>
2014.06.24
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5月31日。私は多くの走友と「第10回みちのくラン」に参加した。仙台市内を15km走り、電車で塩竃に移動して塩竃神社に参拝し、その後遊覧船に乗って塩竃から松島へ渡った。ホテルの温泉に入った私は、懇親会に出る仲間と別れ、一人帰途に着いた。体調が良くなかったからだ。駅に向かう途中に寄ったのは、ある小島。名前を雄島と言う。 これは雄島の位置。松島の街並みから南へ500mほど下った海岸にある。周囲はわずか400mほどの細長い小島だ。 私がこの島を観たかった理由の一つは、あの「東日本大震災」で受けた被害が、その後どうなったのかを確かめるためだった。理由の二つ目は、駅に行く途中にこの島があるため。実はこの小島は聖域でもあるのだ。赤い橋の先の島が雄島。この橋が地震で壊れたと聞いていたのだが、あれから3年2カ月が経ち、橋は架け直されていた。 橋の名は渡月橋。月に渡る橋と書くが、ここが別に月見の名所だった訳ではない。橋の向こうに石窟が見える。そう。この島はかつて瑞巌寺に所属する信仰の島だったのだ。 島に渡って時計回りに左へ行こうとすると行き止まり。ロープが張ってあって、その先へは進めない。どうやら地震で周回道路が崩壊したようだ。仕方なく岩窟の様子をデジカメで撮り、道沿いに右側へ廻った。 崩れた石窟が道の直ぐ傍にある。 かつては108の石窟が、この小さな島にあったようだ。108は人間の煩悩の数。大晦日の夜に撞く「除夜の鐘」の数と一緒だ。その一つ一つに修行僧が籠り、朝な夕なに経文を唱えていたのだろう。だがそれから長い年月が経ち、現在では50ほどしか石窟は残っていないようだ。 これは重要文化財の「頼賢の碑」を守るための鞘堂(さやどう)。頼賢は鎌倉時代の高僧で建久7年(1196年)京都に生まれ、文永10年(1274年)78歳で没した。晩年は鎌倉で過ごしたようだ。その彼が22年間に亘り、この島で修行したようだ。 鞘堂の傍に、この石碑の謂れについて書かれた説明板があった。 この小島の至る所に古い石碑や句碑、石仏などが建てられている。平安時代に創建された瑞巌寺は、元々真言宗の寺で、境内にはたくさんの石窟が残っている。それが鎌倉時代の途中から禅寺になった。宗派は臨済宗である。 この島へも芭蕉と弟子の曽良は訪れている。元禄2年(1689年)の春に江戸を発った2人は、旧暦5月9日(新暦6月27日)の早朝に塩竃神社を参拝し、その後小舟に乗って松島を訪れた。当時の松島は民家が80軒ほどの寒村だが、30もの寺があったようだ。陸路が整備されてなかったため、海路によらざるを得なかった訳だ。 芭蕉と曽良の2人も、恐らくはこのような苔むした石塔などを観たのだろう。 そもそも何故芭蕉は奥深い陸奥へ旅しようと考えたのだろう。それは陸奥が古来より「歌枕」の宝庫だったことが理由の一つだと思う。そしてその歌枕を訪ねた先人が漂浪の歌人西行だった。奥州藤原氏が頼朝に攻め滅ばされる前と後の2回、西行は陸奥を訪れている。その西行の足取りを、芭蕉は辿ろうとしたようだ。 西行は宮廷に仕える「北面の武士」であったが、道ならぬ恋に溺れて逐電し、やがて僧となって歌を詠みながら全国を行脚した。芭蕉も元は武士。恐らくは「滅び」の美学が身についていたことだろう。ここ松島へはかつて西行も訪ねている。だから芭蕉も松島を訪ねるのが、「奥の細道」の一番の目的であった。 さて、この島に「新左衛門稲荷」の伝説が残されている。この地のキツネが正一位の称号を受けるために都に旅する。ところが帰路暴風にあって遭難し、石巻に向かう千石船に助けられてようやくこの島に戻ったと言うのである。キツネの話はともかく、江戸と石巻を行き来する千石船が往来していたことは事実。仙台藩では干拓事業によって米を増産し、それを江戸へ運んで巨利を得ていた。北上川の河口に位置する石巻は、藩内の米の一大集散地だったのだ。 左が芭蕉の句碑で、右が曽良の句碑である。 朝よさを 誰まつしまぞ 方心 芭蕉 松島や 鶴に身をかれ ほととぎす 曽良 朝な夕なに松島への想いが浮かぶ。それはきっと誰か私を思う人がこの島にいて、私を待っているからだろう。松島に対する芭蕉の強い想いが伝わる一句だ。「ああ松島や」は後年作られた伝説に過ぎない。当時の芭蕉はまだ評価が低く、恐らく瑞巌寺の住職も会ってくれなかっただろうと物の本に記されている。 これに対して曽良の句は、しきりに鳴いているホトトギスよ、ここは松島。松に合うのは鶴なのだよ。だからお前も鶴に頼んでその身を借りて来たらどうなのと詠う。 不思議なことに、私はこの島でアヤメを観た。誰が植えたのか、それとも野生のものか。水分が乏しく、しかも潮風の厳しい小島でアヤメと出会うとはまさに奇跡。実は芭蕉が仙台から松島へと旅立つ朝、陸奥国分寺付近でアヤメを詠っているのだ。 あやめ草 足に結(むすば)ん 草鞋の緒 旧暦5月7日、塩竃、松島へ向かう主従に、仙台の俳人ははなむけに海苔1包みと干し飯、それに紺の染め緒(そめお)がついた草鞋(わらじ)を手渡した。芭蕉はとても喜び、草鞋の鼻緒(はなお)に菖蒲を飾った。菖蒲は勝負や尚武につながり、縁起が良いと考えたのではないだろうか。そのアヤメが彼らが訪れた雄島に咲いていたのだ。これは偶然なのか、それとも奇跡と言うべきだろうか。<続く>
2014.06.23
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≪ 花の名前 ≫ 「お父さん、月下美人が咲いたよ」。先日妻が私に教えてくれた。「ああ、またか」と私は心の中でつぶやき、「お母さん、それはクジャクサボテンだよ」と妻に言った。これは毎年のこと。この花が咲くと決まって、こんな会話が交わされる我が家。妻も花は好きだが、あまり名前は知らない方。私も知らないのだが、花好きな方のブログを見ているうちに、少しは覚えることもあるのだ。 昨年沖縄へ旅行した時も、たくさんの花を現地で撮った。だが、てっきり沖縄の花と思ったのがそうではなく、たまたま私が初めて見ただけのものだった。その一つが「ヒルザキツキミソウ」。夢を見るような色合いの花の名前を間違えることは、それ以来なくなった。 当然花の名は知ってた方が良いのだが、もし知らなくても花を楽しむことは出来る。そんな訳で、今日も花の名は記さないでおこう。だが、我が家の周辺にこれだけの花があると言うことは、花が好きな人が多い証拠なのは間違いないはずだ。 < 今日の1枚 > 今日の1枚は柿。今年はほとんど我が家の柿は花を咲かせなかった。梅も花は少なく、実が生ったのはわずか1個だけ。ユズに至っては、全く花が咲かなかった。何故なんだろうと不思議に思ったのだが、考えて見ればいずれも去年はかなり思い切って剪定をしている。それもまだ暑さが残るうちに。果樹は剪定の時期が大事。春先のまだ寒い時に剪定すると、その勢いで春に若い枝がどんどん生えて来る。やはり樹木の特性を知らないと駄目なんだねえ。≪不定期に続く≫
2014.06.22
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いかにもお手軽のようですが、私は散歩中に花を見るとつい撮りたくなるのです。今日もそんな花の特集です。 六月の花 五月にも花は咲いた そして 七月もたくさんの花が咲くのだろう だが今は六月 だから俺は六月の花を撮る 病院への往き還りに 散策や買い物のついでに 首からぶら下げた愛用のデジカメで 愛犬が死んで一年と七カ月 今ではたった一人雨の中を歩く俺だ < 今日の1枚 > 今日の1枚は我が家で採れたジャガイモです。種類はメイクイン。3月半ばに種イモを植え、6月半ばに収穫しました。その時、小さなイモがたくさん土の中から出て来たのです。そのまま捨てるのは忍びがたく、妻に茹でてもらいました。 皮ごと食べると、いがらっぽい味がします。それで面倒でも1個1個皮を剥き、バターを入れて「チン」してみました。するととても香ばしいジャガイモに大変身。こうして私は3日ほどかけて、チビのジャガイモを主食代わりに全部食べたのです。まるでドイツ人にでもなったような気分でした。
2014.06.21
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花を見るとつい写真を撮りたくなるのはなぜでしょうね。今回も散歩しながら撮った花の写真がずいぶん貯まってしまいました。そうなるとどうしても気になって、早くブログに載せたくなります。そんな訳で、暫くの間近所の花をお楽しみくださいね。なお、間違ってはいけないので、花の名は記さないことにします。 < 今日の1枚 > 今日の1枚は梅干し作りです。ビンの中で既に梅酢が上がって来ています。昨年の梅干しは私が作り今も食べていますが、今年の梅干しは妻が作っています。現在は塩でもんだ赤シソを入れてあります。さて、どんな梅干しに仕上がりますか。気になるのは、今日の対ギリシャ戦ですね。ザックジャパン、頑張れ~!!
2014.06.20
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5月31日。「第10回みちのくラン」で私達は仙台市内を走り終えた後電車で移動して塩竃神社に参拝し、塩竃観光港から遊覧船に乗った。それもマラニックのコースに含まれていたからだ。行き先は松島。ちょうど1時間の船旅であった。私達は次々に現れる島々の姿を楽しんだのである。 実は今から325年も前に、これと同じ風景を芭蕉と曽良も観ている。彼らが旅したのは元禄2年(1689年)の旧暦5月9日。新暦だと6月27日に当たるこの日、2人は塩竃から小舟に乗って松島を訪れている。当時の松島近辺は陸路が十分整備されておらず、海路を辿るのが一般的だったようだ。この旅の様子を記したのがあの有名な「奥の細道」である。 世間に良く知られているのが、芭蕉の逸話。天下の名勝である松島を観た芭蕉は、あまりの素晴らしさに句を作れず、「松島や ああ松島や 松島や」と吟じたと言われている。だがこれは事実とは異なる。この句は江戸末期の狂歌師であった田原坊の「松島や さて松島や 松島や」が下敷きになっていて、これを芭蕉が感嘆して「ああ」と詠んだと伝わったのが「事実」として広まったのだ。 何故そのようなことになったのか。理由の一つは「奥の細道」自体にある。何とその中には松島で詠んだ句が一つも書かれていないのである。では、芭蕉は本当に松島で句が作れなかったのだろうか。いや、そんなことはない。弟子の曽良(そら)の日記には、芭蕉が松島で詠んだ四つの句が記されている。「ああ松島や」が載ってないのは勿論だ。 その中の一つが次の句である。 島々や 千々(ちぢ)にくだけて 夏の海 陰暦五月は既に夏であった。 私達の船の旅は1時間だったが、芭蕉と曽良はどれくらい舟の旅を楽しんだのだろう。松島湾の水深は10m以下。さほど危険な旅ではなかっただろう。 ある小島に海鳥が群がっていた。デジカメの望遠機能を使うと、どうやらその島には海鳥達の巣があり、子育てをしてるように見えた。実は観光船からの海鳥への餌付けは今年から禁止されている。餌付けが海鳥の繁殖を助け、彼らの落とす大量の糞が、松枯れの一つの原因になると考えたためだ。 遠くを行くのは観光船。松島湾内には幾つかの遊覧コースがあり、様々な景色を楽しめる。中には奥松島の外洋から男性的な断崖絶壁を楽しむコースもある。 遠浅の海では「ハゼ釣り」が盛んであった。昔は釣ったハゼを焼いて干し、お正月のお雑煮の出汁にしたのである。私も若い頃船に乗ってハゼ釣りをしたことがある。餌は確かアサリの身だったと記憶しているのだが。 遥か遠くには練習中のヨットも見えた。この日は波風のない、穏やかな日であった。 前方に福浦島へ渡る赤い橋が見えて来た。もうそろそろ下船の時間だ。 波の浸食で削られたこの小島は、陸地と小さな橋で結ばれている。松に隠れて良く見えないが、ここには国の重要文化財である「五大堂」がある。堂の中に「五大明王」が祀られているのが名の興り。遠い古代、都から陸奥の蝦夷を征伐にやって来た将軍坂上田村麻呂が、戦勝を祈願してここに戦の神である毘沙門堂を建てたのが始めと伝わっている。 松島上陸後、私達は5つのコースに分かれて楽しんだ。1つは「西行戻しの松」方面へのマラニック。これはまだ走り足らないランナーへの配慮。2つ目が五大堂、福浦島方面の散策。3つ目が瑞巌寺境内の散策。4つ目が自由行動で、5つ目がホテルへの直行。懇親会へ出ない私は迷わずホテルへの直行を選んだ。荷物は既にホテルに届いており、これから風呂に入って汗を流すのだ。 この景色はホテルの露天風呂から眺めたもの。眼下に天下の名勝である松島を観ながら入る露天風呂は最高だ。もちろんここも天然の温泉。まさに極楽であった。私は走って草臥れた両脚を、お湯の中でゆっくり擦った。 風呂から上がり、着替えを済ませた私は仲間と別れ、一人帰路に着いた。だが、駅に向かう途中に寄ったのがこの島だった。島の名は雄島(おしま)。この島はとても小さいながら、古い歴史を秘めている。 島からは、松島の湾に係留されたたくさんの船が見えた。 松の合間から光って見える海面。この後私はこの島で静寂な一時を心行くまで楽しんだのである。その模様は改めて紹介することにし、塩竃から松島への船旅の話はひとまずこれで終えたい。<完>
2014.06.19
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5月31日日曜日。「第10回みちのくラン」で、私達は仙台市内を走った後電車で塩竃に移動して塩竃神社に参拝し、港から遊覧船に乗って松島へ向かった。 私達が乗ったのは、赤い線の「島めぐり芭蕉コース」だが、「奥の細道」で芭蕉と弟子の曽良が乗った小舟は、もっと海岸に近い黒の線に沿ったものだったのではないか。 この日は曇りだったためあまり海の色は冴えないのだが、次々に現れる小島の姿を私達は楽しんでいた。 これは「仁王島」と呼ばれる小島。首の辺りをセメントで補強してある。松島の島々は砂岩、礫岩、凝灰岩など非常にもろい岩質で出来ていて、波や風による浸食を受け易いのだ。 多分この島の名は「鐘島」だったはず。そう言えば、鐘の形に見えなくもない。 大抵の島には松が生い茂っているのだが、中にはこんな風に松が枯れてしまった島もある。 波の浸食で4つも穴が開いた島。ふ~む絶景、絶景♪ 松島湾には大小260もの島が点在している。そのうち有人の島はわずか4つだけだ。 松島湾はとても浅く、水深は10m以下なのだとか。 松島丘陵の東端が溺れ谷となって海水が入り込み、山頂が島となって残ったのが松島だと言われている。 松島は「日本三景」の一つ。他の2つは丹後の「天橋立」と「安芸の宮島」である。 島の名は「兜(かぶと)島」。果たして兜に見えるだろうか。 「奥の細道」で芭蕉は、「松島は笑ふ如く、象潟はうらむがごとし」と記している。芭蕉と曽良が松島を訪れたのは新暦の6月27日。太平洋岸の松島は太陽が出て明るかったのだろう。それに対して新暦の8月2日に訪れた秋田の象潟(きさがた)では雨が降っていたようだ。一行が訪れた当時の象潟はまだ浅海に浮かぶ島だったが、その後の地震で、今は「陸上の島」になっている。 「東日本大震災」の大津波はまだ記憶に新しいが、塩竃市の海岸部では大きな被害があったのに対し、松島町の海岸部はほとんど被害がなかった。その理由は、湾に浮かぶ大小の島々が津波の衝撃を緩和したためだ。だが有人の島では被害が起き、今でもその影響が残っている。 こちらも先程の「兜島」に良く似ている。波の浸食の激しさを物語る島の形だ。 松島湾遊覧船巡航時間は約1時間。私達のマラニックはまだ続く。 芭蕉と曽良の2人も、小舟の上から同じ景色を見たに違いない。彼らの旅は元禄2年のこと。今から325年前の旧暦5月9日(新暦だと6月27日)であった。<続く>
2014.06.18
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5月31日土曜日。「第10回みちのくラン」で、私達は仙台市内を15km走り、JR宮城野駅から仙石線で本塩竃駅へと移動した。そこから裏道を塩竃神社へと歩いた。神社への参拝もマラニックのコースに含まれていたためだ。早速塩竃神社の境内を紹介しよう。なお便宜上、写真の順番は組み替えてある。 これは神社への参道と東神門。急な表参道と異なり、こちらの坂は緩い。江戸時代はこの参道の入り口の直ぐ近くまで、海が迫っていたようだ。 こちらは急な表参道を登った上にある随神門。塩竃神社は奥州一宮であり、古代は国府多賀城を鎮護する国家的な神社であった。この門は、それに相応しいきらびやかな姿をしている。門の左右にはそれぞれ神将が居て、この門を守っている。 唐門の内側、拝殿の手前に2頭の狛犬がいる。長年の風雨に曝されて、かつての鋭さは消えてしまったが、一風変わった風貌の狛犬だ。神社の境内には、天然記念物の「塩竃桜」や、葉の裏側に経文などを書いたと言われる「多羅葉」(たらよう)の木がある。 鉄製の宝灯である。厳かな雰囲気の宝灯は、頼朝に攻められて滅亡した奥州藤原氏第三代秀衡の三男忠衡の寄進と伝わるが、鑑定の結果後世のものと分かったようだ。 塩竃神社には左宮、右宮、別宮があるが、これは左宮と右宮共通の拝殿である。この神社は奥州一宮でありながら、「延喜式」に名前が乗っていない不思議な存在だが、平安時代初期の公文書で朝廷から手厚く遇されていたことが分かる。また奥州藤原氏を始め、後には仙台藩の庇護を受けて、宝物殿にはたくさんの国宝が残されている。なお末社の「釜神社」では製塩の神事が執り行われており、古代から国府多賀城へ塩を送っていたことが推察される。 さて話は変わるが、元禄2年(1689年)の春、芭蕉は弟子の曽良と2人江戸を発って、みちのくへと旅立った。この旅の模様を記したのが「奥の細道」である。5月7日(新暦だと6月23日)に仙台を発った芭蕉一行は、5月9日(同6月25日)早朝に、塩竃神社を参拝している。その頃の参道は、海岸沿いにあったそうだ。 さて、塩竃神社参拝後私達は昼食を摂り、塩竃観光港へと移動した。そこから遊覧船に乗って、松島へと向かうのである。松島湾の遊覧船に乗ったのは「みちのくラン」が初めてで、今回は2回目の乗船だった。 この待合室に、小さな銅像が立っていた。何とこれは旅姿の松尾芭蕉。芭蕉一行も塩竃から舟に乗ったのだ。当時、松島近辺は街道が整備されておらず、舟で渡るのが一般的だったようだ。松島の小高い丘の上には「西行戻しの松」と言うのがあるが、古代の歌人西行も歩いて松島へ行くことが出来ず、引き返して舟に乗ったのだろう。 遊覧船は午後1時に出航した。最初に見えて来るのが「馬放島」(まはなしじま)。かつて塩竃神社の神馬をこの島に放したのが島の名になったようだ。夏の暑さで弱った神馬は、この島のミネラルたっぷりな草を食べると元気になったようだ。きっと潮風の塩分が草に付着してたのだろう。 ここからは湾に点在する島の風景を楽しんでもらうことにしたい。ただ当日は曇りで、島の色や海の色があまり冴えないのが残念なのだが。 中にはこんな風に、松が枯れてしまった小島もある。松枯れ病にでも罹ったのだろうか。 遊覧船からのカモメへの餌付けは今年から禁止された。環境保護のためである。餌付けで増え過ぎた海鳥が大量の糞を落とし、それが原因で松が枯れてしまうのも理由の一つのようだ。松島の松が枯れたらタダの島。洒落にもならない。遊覧船の旅は約1時間。この後もまだまだ海の風景は続く。<続く>
2014.06.17
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ゴーヤ ザックジャパン、残念でしたね。後半疲れが出て運動量が落ちた所で立て続けの失点。悔しかったなあ。次は何とか頑張って欲しいね。 東北楽天、昨日もリードしておきながらの逆転負け。悔しいなあ、この負けは。去年日本一を争った巨人が相手だけに、意地を見せて欲しかったんだけどなあ。これで借金13の堂々たる最下位。何とか巻き返して欲しいなあ。 キュウリ 横綱白鵬が29度目の優勝を果たしながら、翌日記者会見に応じなかった理由が分かった。あの時奥様が4番目の子供を流産した直後だったらしい。それで彼は心から喜べなかったんだね。横綱の奥様を思う優しい気持ちに、全国から励ましの声が届いたそうだよ。 先日の夕方、何気なくテレビを観ていて驚いた。そこに宮城UMCの長老、O原さんが映っていたんだよね。彼は77歳のアスリート。かかとの骨折で1年間試合に出られなかったそうだが、見事に復帰して8台のハードルを跳び越える彼は、何と宮城UMCのユニフォーム姿だった。嬉しいね、実に。俺も引退なんて言ってられないかな? 玉ネギ 何だか急に天気が良くなったもんだから、ここ数日は畑仕事に打ち込んでいたのさ。まあ畑と言っても家の敷地の中なので狭いんだけどね。先ずは昨年の10月、100本の苗を植えた玉ネギの収穫。今回はネキリムシにかなりやられて、わずか54個の収穫に終わったのが残念。でも中には結構大きいのが獲れて嬉しかったなあ。 その跡を掘り返して、モロッコインゲンの種を蒔いた。上手く育つと良いなあ。そうそう、その中に、たった1個だけど、昨年の旅行で長野の野辺山の駅で拾った「花豆」を蒔いたのさ。その後ネットで調べたら、何と花豆(ベニバナインゲン)は、標高700m以上の土地じゃないと育たないみたい。これにはビックリしたなあ。まあ「駄目元」だけどね。 ジャガイモ ついでにジャガイモのメイクインも掘ってしまった。これは3月の中旬に19個の小さな種イモを半分に切って植えたのさ。それが結構収穫があって驚いた。まあ小さいのまで入れると、2箱以上になったかな。これはきっと今年いっぱい食べられるかもね。私は小さいのまで妻に茹でてもらって、少しずつ食べているんだ。戦後の物がない時代に育った私は、とても食べ物を粗末には出来ないんだよね。 サンチェ 東の畑のジャガイモの跡には、サンチェの苗を移植したんだ。これはお向いさんからもらったんだけどね。暑さにも結構強くて、移植した後は萎れていたけど、水を撒いたらまた元気を取り戻したよ。ここには、庭に生えてたシソも3本ほど移植したんだ。これは昨年の秋に種をばら蒔いたヤツ。きっと大きく育ってくれると思うよ。 南の畑のジャガイモの跡には、ブロッコリーの種を蒔いた。昨年は9月に蒔いたため、収穫は今年の春になったんだ。それで今回は、早めに蒔いた訳。我家の畑は、常にフル回転状態なんだよね。 ツルムラサキ ツルムラサキは今季の初収穫だったね。早速茹でて食べたけど、まだ粘り気が全然なくて淡白な味だった。きっとこれから粘り気が出てくるのかな。蔓が少し延びたので、支柱を立ててビニール紐で結んでおいた。後で追肥もしたけどね。 雲南百薬 雲南百薬には、1本支柱を増やしたんだ。脇芽の蔓が延びて来たからね。で、蔓の先端を切り、コップに差しておいた。もしも根が出たら、植えようと思うんだ。これは葉が小さいため、本数が少ないと効率が悪いからね。この根元にも実はジャガイモを植えていたんだよ。幸い雲南百薬には、全く影響が出なくて良かった♪ ナス ナスは不要な葉を切り落としたんだ。その方が良く栄養が行き渡るからね。そしてもう実が生ってるのもあったんだ。埃を被って汚れてるけど洗えばピカピカ。今年の初物だよ。やっぱり嬉しいな。 トマト 梅雨の長雨で根が腐るのを心配してたトマトだけど、暑い日が戻ったので一安心。これも畝が狭いため、葉っぱを剪定してるんだ。太陽が全般的に当たるようにね。これは脇芽を摘み、延びた茎をビニール紐でしばり、追肥を施す。もう下から2段目辺りまで実が生ってる。今のところは順調だね。これと別に、去年の「こぼれ種」が発芽したのも4本育てているよ。 娘からのプレゼント ところで昨日は「父の日」。四国に住んでいる長女から、九州の焼酎が届いたよ。いつもは安物の焼酎しか飲まないんだけど、これは本物の麦焼酎。ずっと高級な味がするんだろうな。夕方長女にお礼の電話。2人の孫や目下家単身赴任中の夫君も含めて、全員元気なようで何より。この秋には久しぶりに会えると良いな。 山形の漬物 「ただいま~♪」と、夕方妻が帰宅した。彼女は油絵の仲間と一緒に、月1回写生旅行に行くんだ。昨日行ったのは山形でね、お土産に漬物を買って来てくれた。山形は私も4年勤務したことがあるけど、盆地が多くて質の良い果物や野菜がたくさん獲れる。それを素材にした漬物がまた美味しいんだよね。これも「父の日」のささやかなプレゼント代わり。頑張って留守番したご褒美だね、きっと。
2014.06.16
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6月8日に出場した「いわて銀河」50kmの部のコース沿いに咲いていた花々を、走り、歩きながらデジカメで撮りました。花の名前はあくまでも私の推察です。その点を前もってご了解ください。 ニッコウキスゲ 「そうさのう。こびっと走ってみるか」。爺さんランナーはそうつぶやいて、走り出したんだと。 アヤメ 時は2014年6月8日日曜日、所は岩手県西和賀町。男が出たのは「第10回いわて銀河」50kmの部。 ゴールドコイン だが走り出して間もなく男は立ち止まり、デジカメで写真を撮り始めたのさ。 ルピナス 男にはまったく焦った様子がない。なぜって、その日が引退レースと男は決めていたようなのだ。 コンフリー 男が撮ったのは、ごくありふれた岩手の景色と道端に咲く花々。 ノリウツギ だが、わずか9km走った辺りで男は苦しみ出した。 トチの花 最近は体調が悪くてほとんど走っておらず、4kmの散歩が関の山だった男。 キバナショウブ それでもそれなりに自分は準備をしたと、男は考えていたようだ。 オオテマリ 準備と言うのは体重が増えないよう注意し、床屋で髪を短く切っただけなんだけどね。 ツリガネスイセン そうそう。1週間前の「みちのくラン」では、男は仲間と一緒に15kmをふうふう言いながら走ったのさ。 山藤 それで「ひょっとしたら何とか走れるかも知れない」。男はそう考えてこのレースをキャンセルしなかったんだねえ。 クレマチス 9km過ぎ。男の背後には大会審判長が乗った観察車がぴったり張り付いていたんだと。 バイカウツギ あるいはハクウンボク 男はその時点で最後尾だった。つまりビリと言う訳。それでも男は少しも慌てず、写真を撮り続けていたみたい。 シャクヤク 12km過ぎ。100kmの部とコースが合流してから、男はいくらか元気になったんだと。 エゴノキ 出逢った走友達が男を励ましてくれたからだ。T田さん、T脇さん、Kさん、そしてO川さん、本当にありがとうね。男は今でもそのことがとても嬉しかったようだ。 ハタザオギキョウ 日が暮れる前に、男はボロボロになって雫石町のゴールに辿り着いた。迎えてくれたのは、遥か彼方で優しく男を見守っていた姫神山だったんだと。 シラン 「もし風景や花々を撮らなかったら、もっと早くゴール出来たのかな」。風が男に尋ねた。 ヤマブキショウマ 「いや、それはどうだろうね。案外そのために足が休まり、結果的にゴール出来たのかも知れないよ」。そう言って男はニッコリ笑った。 ピンクのマーガレット これが男にとって、フルマラソン以上のレースの100回目の完走だったみたい。走り始めてから35年目のことさ。 シャクヤク 「どうやらウルトラマラソンには、時々こんな「奇跡」が起きるらしいね」。花が笑った。「お爺さんはこの後もまだ走るのかなあ」。風がつぶやいた。はい、これで今日の話はお終いだよ。トンカラリ。
2014.06.15
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≪ ゴール後のメモ ≫ ゴール後、「認定証」をもらいに行く。これはリタイヤの証明みたいなもの。私が「完走したけどリタイヤです」と言うと、受付の青年が戸惑っていた。それでも事情が分かったようだ。こんな物は別にどうでも良いのだが、話の種。次にキャッシュバックのコーナーへ行き、2千円を受け取る。これは昨年のうちに申し込んだランナーだけが受け取れるもの。つまり「早割」みたいなものだ。 参加賞のTシャツ 次に体育館の中で朝預けていた荷物と参加賞、「飲食物引換券」をもらう。もう時間が遅いので体育館は空いており、男子更衣室もがら空きだった。荷物をロッカーに入れてシャワー。ようやくレース中にかいた汗を流す。荷物を整理してリュックに詰め、着替えてから体育館を出る。 完走メダル裏側 テント村では牛肉などが「引換券」で食べられ、ビールも無料で飲めるのだが、盛岡行きのバスの確認が先。バス乗り場には既に長い列で乗り切れず、7時発の乗り場へと歩いて移動。もう飲食する暇はない。先ずは最短で帰宅する道を選ぶ。何とかギリギリで座席に座れ、ラッキー。隣の人は北海道から来たランナー。100kmの部だが、50kmでリタイヤした由。昨年仕事で来た岩手県が好きになり、今回初めてこの大会に申し込んだそうだ。 岩手山(45km地点) 私が時間外にゴールし、何も食べてないことを話すと、彼はもらった「わさびお握り」を2個くれた。「でもお茶がないと食べられないし」と言うと、今度は関西から来た女性ランナーがお茶の入ったペットボトルをくれた。まだ胃が落ち着かないためお握りは食べられないが、体内の水分を失ったせいか、お茶はゴクゴク飲める。これが実に美味しい。結局盛岡駅まで北海道の人とマラソン談議を続けていた。 夕暮れ(47km地点) 東北新幹線の車中で遅い食事。何分レース中にはろくに物を食べていない。もらったお握りはそのままで、駅で買った弁当を食べる。少しでもおかずを食べて体力の回復を図る必要があるからだ。缶ビールも美味かった。 大会プログラムでレースに参加した走友の名前を確認。100kmの部は男子10名、女子4名が知り合いだった。昔に比べたらかなり少ない。50kmの部では、茨城県から参加した夫妻だけしか知らなかった。次に写真の整理。不要だと思う画像を捨てる。完走記を書くためのものを含め、全部で80枚近く残した。 雫石川(48km地点) 家には9時半ごろに着いたが、妻は既に眠っていた。荷物を片づけ、汗をかいた洗濯物を水洗いしてバケツへ。入浴後は自室でパソコンを開き、留守中にもらったコメントへの返事。そしてレースの簡単な結果報告を書いた。 70歳ともなると、疲労はなかなか退かない。その疲労と戦いながら、完走記を書いた。思い出に残る今大会。体力が落ちた自分にとっては、ウルトラマラソンの厳しさを思い知らされたレースだった。だが、数日後には、7月のマラニックを申し込み、もう一度フルマラソンを走ってみたいとの気持ちも蘇った。 レースの翌日妻が言う。「きっとお父さんはレース中に倒れ、担架で運ばれたと思った」と。そこで私は言った。運営がちゃんとした大会ではリタイヤ収容バスがあるから大丈夫なんだよ」と。「それでウルトラはお金が高いのね」と妻。そして「次はどこを走るの」と聞く。私は7月と8月の恒例のマラニックの名前を妻に告げた。<完>(お知らせ) 明日はレース中に撮った花の写真の特集です。どうぞお楽しみに~♪
2014.06.14
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≪ 薄暮の姫神山と4年ぶりのゴール ≫ 最後の関門 40.5km地点の最後の関門に着いたのは、スタート後6時間35分27秒後。制限時間の4分33秒前だった。やれやれ、これでゴールまで走る権利は出来たがどうするか。先ずは43km地点までは何としても行きたい。フルマラソンの距離を超えれば、ちょうど今回が100回目のフル以上のレース完走になるからだ。 今回は体調に合わせて目標を変えた。初めは1つ目の関門突破。次に銀河高原の関門突破。さらに30km走破から40km走破へ。そしてフルマラソン越えへと。これでもう本望。今日はレースに出た甲斐があったと言うもの。私はその後も道端の花を撮り続けた。最後の関門では、係の小母ちゃんが私の手に飴を3個無理やり握らせてくれた。これも結果的に良かった。それを食べたことで、僅かな糖分が前進へのエネルギーに変わった。 間もなく左折すると目の前に登り坂。この坂は500mも続く。もう登って走る体力がないため、手を振って歩く。途中、白い花をつけた樹を発見。多分エゴノキで久しぶりの対面だ。これもカメラに収める。夕方が近いのか気温が下がって来たようだ。坂道を登り切ると43km過ぎ。このまま進めば45km地点に到達する。 45km地点 表示は「残り5km」に変わった。ここまで7時間20分45秒。もう十分、ここでリタイアして収容バスが来るのを待とう。ところが待てど暮らせどバスは来ない。制限時間内にゴールするのは無理だが、ここからさらに自分の足で走って見るか。右折してゴールに向かえば最後まで行くしかない。収容バスは直進して雫石総合運動公園に向かうことを私は知っていた。 姫神山 遥か遠くに姫神山が見えた。デジカメを出して記念撮影。標高1124mのあの山へは、2週間前に登ったばかり。いつもならここでは岩手山の雄大な景色が出迎えてくれるのだが、今年は麓まで厚い雲に覆われている。でもその代わりに姫神山が見られて嬉しい。田圃道に夕暮れが迫る。 夕景色 振り返ると西の空に残照はなく、秋田駒ケ岳らしい山が曇り空に立っていた。良くここまで来れたものだ。今日は8km付近で早くもリタイヤを考えた。それほど私の体調は最悪だった。それでも我慢して走ったり歩いたりしているうちに、きっと体がウルトラマラソンのペースを思い出したのだろう。頭と両膝に水をかけたのも正解で、痛みが出ずに済んだ。いつもなら35km付近で出る股関節痛もなく、38km付近で出た脇腹痛もほどなく消えてくれた。 雫石川に架かる橋 目の前に橋が現れる。橋の上から雫石川を眺める。前半に見た和賀川は南下した後、錦秋湖から東流して北上川に合流し、この雫石川は東に向かって大河北上川に注ぐのだ。この橋を渡れば残り2km。以前は坂の手前のASで冷えた果物の缶詰を出してくれたのだが、今回はコーラだけ。全般的に「いわて銀河」のエイドの質が落ちている。これではランナーが完走するのはきついと思う。 坂を登り切って左折。人影の消えた道を1人ゴールへと向かう。前方にスタッフ。そこから右折してグラウンドへ。ついに「後1km」の表示が見えて来る。そこからの道が実に長く感じる。もう体力の限界で、距離感が完全に狂っているのだ。スタッフが私を追い越してゴールへ走った。私の後からも2人のランナーがゴールに向かって走っているようだ。 「ゼッケンナンバー5051番は50kmの部、宮城県のAさん。時間は過ぎてますが最後まで頑張っています」。遠くから場内アナウンスが聞こえる。思わず涙が零れそうになるのを必死に堪える。両手を上げてゴールに飛び込む。スタッフが駆け寄り、私の首に完走メダルをかけてくれた。タイムは8時間09分03秒。50kmの部では初。4年ぶりのゴールだった。だがこれは時間内完走でないためリタイヤ扱いになるのだが、私の中では立派な完走だ。<続く> ゴール後の私 完走メダル(表)
2014.06.13
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≪ 鉄人と最後の関門 ≫ 25km地点 25km地点の通過は4時間04分51秒。これでようやく半分まで来たのだが、この時はそんな意識はなかった。何せどこまで行けるかは自分の体調次第で、全く予定が立たないのだ。28km地点の給水所は、かつて私が大会本部に要望して設置してもらった所。今回は近所の主婦の方がボランティアで給水係に出られていた。ここでクッキーを1枚いただく。これも自分達の提供のようだ。1枚のクッキーが、前進のエネルギーに変わる。 O川さんの勇姿 27km辺りで後から私の名前を呼ぶ声。振り返ると同じ走友会のO川さんだった。私がここにいるのが不思議そうだったが、直ぐにゼッケンで50kmの部と分かったようだ。100kmの部とは言え、スピードランナーの彼が今頃こんな場所にいる方が変。 話をすると5月の連休に走った「川の道」520kmの疲れがまだ残っている由。彼はかつて盛岡から仙台までたった1人で200kmを走ったことがある。それもこれも全ては「川の道」の練習のため。そうして2年連続完走の偉業を達成したのだ。 28km地点の私 会えて良かった。ずっと彼のことが気にかかっていたのに、仕事の関係で5月末の「みちのくラン」でも会えなかった彼。「撮りますか」とO川さん。彼はそんな優しい心づかいが出来る男だ。暫く一緒に歩いたが、やがて彼はゴールに向かって走り出した。 今回の「川の道」ではゴール寸前にコースを間違いそうになり、ゴールしたのは制限時間のわずか20秒前だった由。我が走友会には2年連続で520kmを完走した勇者が2人いる。彼らこそまさに鉄の心と脚を持った鉄人なのだ。 30km地点 30km地点の通過は4時間52分41秒。今の体調で良くここまで来れたものだ。次の関門は36.6km地点で制限時間は午後4時。歩かなければ間に合うかも知れない。ここから下りが始まり、間もなくトンネルを過ぎると急な坂道になる。今までに4回走ったこのコースは、まだ鮮明に記憶として残っていた。 魔の下り坂 ここが魔の下り坂。峠越えをする100kmの部では、峠の真っ暗で寒いトンネルを抜けると急激な下り坂がある。あそこで飛ばすと、この坂が利いて来るのだ。幸か不幸か50kmの部の私は前半かなり歩いた。そのためにまだ坂道を走って下る力が残っていたようだ。ゆっくりとでも走れるのが有難い。それにコースを覚えているのも有利なはず。 林の中の標識 慎重に走って何とか下り坂が終わった。ここからは暫くほぼ平坦な道が続く。道路に落ちていた「黒飴」を拾って食べる。これも貴重なエネルギー源。無駄には出来ない。ここからが本番と立ち止まり、ペットボトルにサプリの粉を入れた。だがペットボトルの水はほとんど無くなっていた。慌てて周囲を見回す。左手の森に小川が流れている。そこにペットボトルを沈めて水を入れた。浅いため何度か動作を繰り返す。水はようやく8分ほどまで満たされた。よ~し、また前進だ。 杉林を見ながら 左手に見事な杉林が見えて来る。ようやくここまで来れた。またこの景色を観られるとは思わなかった。途中でリタイヤしたランナーを収容するバスは県道1号線を直進するため、この景色は2つの関門(100kmの部は3つ)をクリヤーしないと見られない。感慨が胸を過る。だがここから次の関門までが長く感じる。 「このペースで次の関門がクリヤー出来ますか?」と若い女性。「キロ10分ペースでも走っていれば大丈夫」と私。その声を遮るように別の女性ランナーが言った。「でも最後の関門を通過しても登り坂があるからキロ8分ペースは無理。今のうちに貯金を作っておかないと完走出来ないよ」。なるほどその通り。まだ「現役」の頃の私なら、きっと同じような計算をしたはず。2人は先へ行った。私は相変わらずのペースで、登り坂は歩いた。 鶯宿ダム湖 やがて右手の下方に鶯宿ダム湖が見えて来る。ここはちょっとした登り坂なのだが、その僅かの傾斜が苦しい。それにしても何故35km地点の標識が見えて来ないのだろう。同じような疑問を、他のランナーもぶつけているのが聞こえた。これは標識の位置がおかしいのではなく、疲労のためにペースが落ち、距離感が狂うのが原因だ。 35km地点 ようやく35km地点の標識発見。通過は5時間44分30秒。この5kmに約52分もかかっている。これで次の関門までの時間が残り僅かになった。坂道を下ると前方に人影。3つ目の関門だ。 3つ目の関門(36.3km地点) 36.3km地点。これが3つ目の関門だが、何とか時間前に辿り着いた。頭から水を被り、両膝にも冷たい水をかける。これでかなり体温を下げ、炎症を抑えることが出来る。スポーツドリンクと水を飲み、バナナを食べて直ぐに出発。次の関門は「賢治ワールド」で近いのだが、制限時間がギリギリの上坂道が続く。いつまでも休んでいる訳には行かない。最後の関門は40.5km。そこまで行けたら立派なもの。これは自分でも予想外の大健闘だ。 40km地点の通過は6時間27分45秒。次の関門まで500m。大きく手を振りながら必死になって坂を登る。ついに県道1号線と合流。少し先に最後の関門が見えて来た。これは嬉しい。最後の頑張りだ。<続く>
2014.06.12
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≪ 走友達のエール ≫ 胃がムカムカして来たのは、久しぶりのウルトラレースに体が慣れてなかったためだろう。「今年のランナーの通過は早い」。9.6k地点のASスタッフがそう言っていたことを思い出す。道端に立っていたスタッフに100kmの部との合流点まで後何kmか尋ねたが、答えは何度聞いても「20km」。そんな訳はなく、間もなくのはずだ。私の予想通り、暫くすると森の中から走って来るランナーの姿が見えた。100kmの部のランナーだ。 合流点を過ぎた橋の上 スタッフの指示に従って道を曲がる。間もなく和賀川に架かる赤い橋を渡る。良く見ると背中にゼッケンナンバーのないランナーが多い。尋ねると100kmの部では、途中で3回雨に降られた由。きっとその時に濡れて千切れたのだ。いつの間にか観察車は消えていた。続々と100kmの部のランナーが来るため、無意味になったのだと思う。 15km地点 15km地点を2時間15分14秒で通過。良くこの体調でここまで来れたものだ。その時後から私の名前を呼ぶ声がした。振り返ると宮城UMC仲間のT田さんだった。「戦場カメラマン」の彼はレースで走りながら200枚もの写真を撮る。その写真をいつもメールで送ってくれる奇特な人だ。この時もお互いに写真を撮り合った。そして彼はこの後の関門でも密かに私の写真を撮ってくれていたようだ。 T田氏の勇姿 よほど慌てていたのか、16.5km地点の第1関門(100kmの部では2つ目)では、写真も撮らずタイムも残してなかった。ベテランランナーに次の関門の制限時間を尋ねると、十分間に合いそう。そこで酢飯を味噌汁に入れてかき込んだ。結局後にも先にもご飯があったのはここだけ。腹に溜まりエネルギー源になるご飯は、ウルトラレースには欠かせない貴重な食べ物だ。 ここに同じ走友会のT脇さんがいた。彼女とは数年前の「えちごくびき野100km」でデッドヒートを演じたことがあった。あの時彼女はまだ40代。道理で速かった訳だ。エールを交わして走り出す。直ぐにT田さんを抜く。友達を待っていたようで、直ぐに抜き返された。T脇さんも直ぐに私を抜いて行った。 暫くして見慣れたユニフォームが追い抜いて行った。追い着いて声をかけると、その人はサングラスを外して私を見た。やはりKさんだ。黙って私の手を握るKさん。疲労困憊ですっかり冷え切った私の手。「今日は引退レースなんだよ」。そう言うと、まるで青い鳥が羽ばたくように彼女の姿は見えなくなった。あのスピードならきっと12時間台前半で2度目の完走を果たしたはず。 20km地点 20km地点の通過は3時間09分31秒。いつもなら暑さに苦しむこの登り坂が、曇って気温が低い今日は楽に感じる。きっと体もレースに慣れて来たのだろう。100kmの部の仮装ランナーが次々に私を抜いて行った。「忍者赤影」は背中に大刀を背負い、菅笠を被った修行僧は裸足。「足は大丈夫なの?」の声にピースサインの余裕ぶり。そして「埼玉のはるな愛」は長身の女装ランナーで、顔は男そのものだった。 間もなく県道1号線を左折して銀河高原への折り返しに入る。前方にT脇さんを発見。急いで走り、エールの交換。そこからコースが左折し、彼女の姿はたちまち見えなくなった。次にやって来たT田さんが「Aさん、時間は十分にあるからゴール出来るよ」と一言。この男は私の体調を知らないのだろうかと思ったが、彼の言葉がなぜか私の頭にこびり着いていた。 銀河高原ホテル 間もなく銀河高原。まだ元気が良かった頃は、ここで美味しい地ビールを飲んだものだ。今年の折り返し点はホテルの構内ではなく、少し先の道路。そこをUターンして2つ目の関門に到着。ここは100kmの部に出た昨年リタイヤした場所。73.3kmが昨年私が走った最長記録だった。 2つ目の関門の前で ここでも次の関門の制限時間を聞いた。走れば何とか間に合いそう。慌てて牛乳寒天をかき込んでスタート。3つ目の関門は少し遠く、その途中に猛烈な下り坂がある。その衝撃に私の脚腰が果たして耐えられるかどうか。走友の姿を探しながら折り返しを下る。だが、知ってる顔は誰一人見つからなかった。 銀河高原の折り返し 間もなく左折して山の中の道に入る。ここを走るのは4年ぶり。4年前のレースが私が100kmを完走した最後だった。今年は50kmだが、とてもゴール出来るような体調ではない。だが私の頭の中には、先刻T田さんが励ましてくれた言葉が蘇っていた。そうだ1つでも先の関門を突破しよう。それが俺の引退への花道だ。<続く>
2014.06.11
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≪ 苦しみの始まり ≫ 大会パンフ いつものように3時半に目覚める。良く眠っている相棒を起こさないよう静かに部屋を出、最初のトイレを済ませる。その後、廊下に座って両足、両膝、両脚に厳重にテーピング。そしてテーピングが剥がれないよう、下はインナーとハーフタイツを履いて再び就寝。2度寝から起きたのは5時過ぎ。7時間ほど睡眠が取れたら十分だ。外は明るい。雨は昨夜のうちに止んだようだ。7時前に洗顔を済ませ、ロビーのテレビで天気予報を見る。 食事は大広間で7時から。100kmの部だと深夜の2時に起きて準備し、その直後に早い朝食を摂るのが普通。それに比べたらスタート時間が遅い50kmの部は、ゆっくり出来て助かる。ただ夕食同様、野菜が少ないのが唯一の難点か。これだとなかなかトイレに難儀するのだ。8時前に受付のため、体育館に向かう。部屋の相棒は受付後は体育館に居るとのこと。 50kmの部の選手受付 私は一旦宿へ帰り、部屋でシャツにゼッケンナンバーを着けた。まさか晴れるとは予想しなかった。つい前日までの予報では「雨時々曇り」。だから半袖シャツで良いと思ったのだが、雨が降らなければランニングシャツの方がベストだった。首を冷やすための「鉢巻き」も持参しなかった。帽子と小さめのタオルハンカチは必携。小ぶりのポシェットの中には、小銭、サプリの小袋が1袋、塩の小袋、そしてデジカメ。途中リタイアを考えればこれで十分のはず。 スタート前の自分 体調はまあまあ。直前まで宿で休み、9時20分にスタート地点へ向かう。ゴールへの荷物を預け、軽く体操して体をほぐす。それから体育館の中で開会式に臨んだ。形式的な挨拶が続く。それも今から50km走るランナーを鼓舞するようなものではなく、暗い声。後は自分で自分を励ますしかない。 これが50kmの部のコース図。アップダウンは峠越えをする100kmの部よりは少ないが、それでも結構脚へ負担をかけるだろう。ゴールまでの4つの関門が緑色の丸の個所。最初の関門は16.5km先。そこまで行くのも今の体調ではきついはず。出来たら23.3km地点の第2関門までは行きたい。100kmの部だと73.3km地点の銀河高原だが、そこがこれまでリタイヤした最短地点。今回はその先のコース風景を見たかったのだが、多分無理のはず。 スタート前の風景 意外だったのがスタート時の方向。このままゴールのある雫石町へ北行するのだとばかり思っていたのだが、一旦距離調整のため南に向かうようだ。最初から坂道の連続とはねえ。スタートは10時ジャスト。カウントダウンも無しに合図のピストルが鳴った。下り坂を走り出すランナーの群れ。私はゆっくり最初の一歩を踏み出した。いよいよ長いレースの始まりだ。果たして今日はどんな苦しみを味わうのだろう。 和賀川の流れ 折り返し点は案外近く、800mほど先にあった。そこから引き返して登り坂へ。たちまち大勢のランナーに抜かれ、私は最後尾に近かった。それでもポシェットからデジカメを取り出し、和賀川の流れを撮った。この人は何を考えているのだろう。不思議そうな顔をして私を抜いて行くランナー達。これで良いんだよ。今日は私の引退レース。思い切り記念写真を撮ろう。 キロ表示と腕時計を見比べながら走る。キロ7分程度のスピードだ。これは散歩しかしてない自分にはきつい。だが、ペースは「流れ」に任せた。きっとランナーとしての意識がまだどこかに残っているのだろう。スタート直後はどうしても他のランナーのペースに影響されがち。距離表示は7km地点でなくなった。後は自分の体と相談しながら走るしかない。 和賀川再び 再び和賀川を撮る。やがてコースは山道に入った。周囲は樹木に覆われている。胸が苦しい。息が苦しい。きっとペースが速過ぎたのだ。うめき声を上げながら走り、そして歩く。練習不足が早くも現れたのだ。「走った距離はウソをつかない」。これがランニングの世界の鉄則。練習してなければレースで苦しむのが当然なのだ。 最初のエイドステーションにて ようやく9.6km地点のエイドステーション(AS)に辿り着く。私はスポーツドリンクのペットボトルを持って走っているから良いが、ここまで水なしで走ったランナーは苦しかったはず。気温が上がれば喉が渇き、発汗が促され、体内の水分がたちまち不足する。ここで冷たい水を飲み、バナナを食べ、塩をなめ、ペットボトルにスポーツドリンクを補充。そして頭から水を被って再スタート。 森の中のコース 森の中は涼しくて助かる。こんな所ではでは帽子を脱いだ方が良い。少しでも発汗を防ぐためだ。相変わらず走ると胸が苦しい。散歩では心肺機能がさほど鍛えられないためだろう。こんなスピードでも不整脈手術を2度受けた私の心臓は、フル回転してるはずだ。思わずうめき声が漏れる。まだ元気だった頃は、歌を口ずさみながら走ったものだ。今口から出るのはうめき声だけ。苦しくて歩く。そして少しだけまた走る。前方のランナーも苦しそうだ。 観察車が背後から いつの間にか、私が最終ランナーになってしまったようだ。背後からぴったり大会本部の観察車が着いて来る。だが焦りはない。これも2度目の経験。3年前の「秋田内陸100km」では最初の8km地点で不整脈が起き、私は最終ランナーになって45kmでリタイアしたことがあった。あれ以来の観察車。これもきっと良い思い出になるはずだ。車を気にせず、私は道端の花をカメラに収めながら次のASに向かった。<続く>
2014.06.10
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≪ 不安を胸に ≫ 東北新幹線の車中から 東北新幹線で北上市に向かう車中から見る空は、何だか鬱陶しい。北海道を除くすべての地方が梅雨入りした日本列島。明日のレースも雨の中を走ることになるだろう。そう覚悟を決めていた。雨は苦にならない。むしろ長い距離を走るウルトラレースでは、酷使する脚の筋肉が冷やされて却って良いくらいだ。だが、私の心配は、天候とは違ったところにあった。 北上線の車両は1両のみ JR北上駅で北上線に乗り換える。車両はたった1両だったが、何とか座ることは出来た。心配と言うのは一番長い付き合いだったYさんが最近ブログを更新してなかったことだった。それに親戚が亡くなり、レース当日の夕方が通夜。妻に列席を頼んだものの、どこかにやましい気持ちが残った。妻と妻の姉の様子も心配の種。自身の不調も重なり、それらのことが私の心を暗くしていたのだ。 錦秋湖 席を移動し、ランナーらしい夫婦の向かいに座る。茨城県の方で、奥様は今回が初ウルトラらしい。ご主人はサポート役としてして、何とか奥様を完走させたい由。私も茨城県には11年勤務し、彼らの街も知っている。茨城県内でのレースやマラニックの話に花が咲く。茨城は35年前に私がランニングを始めた懐かしい土地柄でもあった。 ほっと湯田駅の温泉 「ほっと湯田駅」で下車。駅の直ぐ横に温泉があった。まるで「駅中温泉」だ。宿のマイクロバスが待っていた。運転手さんに聞くと、宿の風呂も天然の温泉らしい。これは楽しみ。宿は明日のレースのスタート地点にもなっていて便利。「いわて銀河ウルトラマラソン」に出るのはこれで確か8回目だが、50kmの部への参加は初めて。その50kmでさえ、今回は完走するのは無理。どこまで行けるか分からないが、「引退レース」を楽しむのみ。 沢内バーデン これが今夜の宿の「沢内バーデン」。沢内と言うのは昔の村名で、南部藩の隠れ里と言われた米どころ。名うての豪雪地帯でもある。スタッフの方に尋ねると、この宿も第3セクターの経営らしい。早速散歩に出かける。明日の選手受付場所の体育館を確認するためでもあった。周囲には「雪国研究所」や、水車小屋風の建物もあって不思議な感じ。直ぐ裏山はスキー場みたい。 水車小屋風の建物 歩いているうちに、すり減ったシューズの底に違和感を感じた。最近は散歩ばかりで走っていない。きっと久しぶりのランニングシューズが足に馴染まないのだろう。膝用のサポーターを家に忘れたことを、新幹線の車中で気づいていた。まあ、一旦スタートラインンに立つと決めた以上は走るだけ。今出来る最大の準備をすれば、それで良いのだ。 宿の大浴場 宿に戻って大浴場に行った。ここは源泉かけ流しの「志賀来温泉」。塩分や硫黄分が混じって筋肉痛などに効果があるようだ。明日酷使する自分の脚を風呂の中で擦る。露天風呂、サウナ、水風呂にも入った。今回のレースへの備えは、姫神登山以来の疲れを取るために極力休養し、床屋に行って髪を短く切ったことぐらい。それだけでも、体への負担を幾分かは軽減出来るはず。 その夜、部屋の相棒が着いたのは9時前。福島県の出身で、自宅は仙台。目下秋田へ単身赴任中の由。本人は練習不足だと言うが、明日のレースでは密かに記録を狙っているようだ。偶然にも彼の出身大学は私の最後の勤務先でもあった。彼が学んだ学部へも、仕事で何度か行ったことがある。10時過ぎに就寝。深夜、物凄い雨の音に目が覚めた。これは雨のレースになる。そう思いながら、再び眠りに就いた。<続く>
2014.06.09
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私の引退レースとして予定していた「第10回いわて銀河」から無事帰宅しました。最近は体調不良のため、せいぜい4kmほどの散歩しか出来ず、今回も30km行ければ「恩の字」と思っていました。ところが久しぶりのレースに苦しみ、最初の10kmでリタイアを覚悟しました。何せ私の直ぐ後には大会本部の監督車が着いて来ていたのです。 何とか16km地点の関門通過に成功し、まだ制限時間に余裕があったため、その後の関門通過に挑戦しました。その結果制限タイムをオーバーしたものの、8時間09分03秒で50kmを完走出来ました。これは走友T田さんが73km地点の折り返しで励ましてくれたのと、徐々に体調が良くなってこれまでの経験を生かして走れたためでしょう。これでフルマラソン以上のレースの完走はちょうど100回目。ちょうど良い区切りになりました。 レースの模様は、写真の整理を終了してから開始したいと思っています。どうぞお楽しみに~!!
2014.06.08
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おどける走友 宮城野原駅から電車で本塩竃駅へ。ランニングシャツで走って汗をかいたため、この間に冷房で体がすっかり冷えてしまった。それにしても11年の間には色んなことがあった。愛する家族を失った走友。福島原発の事故で家族との離散を余儀なくされた走友。病気で走ることが出来なくなった走友。がんの手術を受けた走友。そして不整脈の手術を2度受け、老化のためにほとんど走れなくなってしまった自分。 塩竃神社 本塩竃駅で下車し、裏道を通って塩竃神社に向かう。ここは陸奥国一宮で、太古から国府多賀城の守護神だ。いつもなら表参道を行くのだが、これはちょっと予想外。広い境内が気持ち良い。天然記念物の「塩竃桜」は、すっかり葉桜になっていた。思い思いに本殿に向かって参拝。この神社は古くから尊崇が篤く、たくさんの秘宝が宝物殿に納められている。伊達藩の庇護を受けたせいか、神門などの建物も実に立派だ。 私の昼食 そこから駅に戻り、近所のスーパーへ。昼食は各自自由で、レストランで食べた人もいれば、弁当を買った人もいる。私は寿司弁当と焼きプリンを買い、良く頑張った自分へのご褒美にロング缶を1本。これを公園の木陰に持参してゆっくり食べた。冷たいビールが美味い。走った後に飲むのは心配だったが、大丈夫で助かった。最近は疲れやすいし、直ぐに酔うのだ。暑かったこの日の最高気温は、32度に達していたようだ。ゴクゴクゴク。ああ美味い。 遊覧船待合室の長老達 昼食後は塩竃観光港に移動。ここから松島へは遊覧船に乗る。この料金も入って、今日の会費がたったの千円とは安い。さて、昼食にビールを飲むのはウルトラランナーの常道。中には神社に向かう途中に歩きながら飲んでいたツワモノもいた。待合室に集まった仲間のほとんどが、ビールを飲んだような感じの顔をしている。 私達が乗った船 1時ジャスト。遊覧船が出航する。これから塩釜港を出て湾内の島々を一巡りし、松島観光港に向かう。約1時間の旅だ。T田さん、C一さんと同席。彼らは県内のウルトラ仲間で古川組。早朝に家から20km近く走って小牛田駅に向かい、そこから仙台への一番電車に乗った由。私より1学年下のC一さんは目下不調で走れず、電車を乗り継いで塩竃へ来たそうだ。そうか。強者もそんな歳になったんだねえ。T田さんがご馳走してくれた生ビールが美味い。 甲板からの眺め しばし歓談後、甲板に出る。折角の遊覧船だ。ここで写真を撮らない手はない。小さな島々が次々に目の前に現れる。その都度船内放送で島の名前が告げられるが、直ぐに忘れてしまう。それほど松島の島の数は多いのだ。ただ曇り空で島や波が暗いのが残念だ。 新婚さん、いらっしゃ~い♡ こちらは新婚ほやほやの2人。彼らはランニングを通じて結ばれたのだ。若い夫婦が同じ趣味を持てるのは良いね。どこへでも一緒に走りに行けるもの。私は彼を「ホリエモン」と呼んでいたのだが、今回名簿を見て本当の名前を知った次第。 ホテルへの坂道 1時間後、船は松島観光港に着いた。ここからゴールのホテルまでは以下のコースに分かれる。A西行戻り松方面へのランニング、B瑞巌寺散策、C五大堂、福浦島散策、D自由行動、Eホテル直行の5つ。懇親会に出ない私は迷わず最後のホテル直行を選んだ。ここで入浴してさっぱりし、着替えてから帰宅するのだ。朝スタッフに預けた荷物は、既にホテルに到着してる由。山の上のホテルに向かって歩く仲間は10人ほどか。 ゴールのホテル これがゴールのホテル。昨年の3月に高校のクラス会で「古稀の祝い」をした会場だ。私は翌朝、ここから自宅まで30kmを走って帰ったのだ。残念ながら、今はとてもそんな元気はない。 記念写真 荷物を受け取り、記念撮影。後日この写真が入った「完走証」が届けられる予定だ。これで10回目の「みちのくラン」が無事終わった。本当の名前は「ENJOY JOGGER in みちのく」と言うのだが、誰もそうは呼ばず、親しみを込めて「みちのくラン」と呼んでいる。ありがとうね、私は9回走らせてもらったよ♪ ホテルの露天風呂 入浴券を受け取り、荷物を持って大浴場へ。更衣室で足、膝、太股のテーピングをはがす。このお陰で何とか走ることが出来て感謝だ。体を洗った後、広い浴槽に身を沈め、酷使した脚を擦る。最後まで良く頑張ってくれたね、俺の脚よ。これからも少しで良いから走れると良いなあ。一旦上がってカメラを取りに戻り、露天風呂を撮った。眼下には先ほど遊覧船に乗った松島湾の美しい光景が見えた。ただシャッターを押したのに、走友が写ってなかったのが残念だ。 T田氏の勇姿 玄関先にいたスタッフのD夫妻にお礼を言って、ホテルを後にした。駅への急な坂を下る途中、T田さんに会った。ありがとうねT田さん。「戦場カメラマン」の彼は、自分が参加したレースの写真をメールに添付して送ってくれる律儀な男だ。もう自由に走れなくなった自分だが、未だに続く走友の篤い友情が嬉しい。彼がこの時若干浮かない表情をしていたのは、カメラのバッテリーが切れたためと後日知った。私のデジカメもこの後、同じような運命になるのだ。 坂道の途中のツツジ こうして「第10回みちのくラン」は終わった。このマラニックが自分の引退レースになると覚悟していたのだが、苦しみながらも何とか走れた。長い間いつも熱心に準備してくれたスタッフの仲間達に心から感謝したい。そして全国からわざわざ集まってくれた走友達よ、これからもどうぞ元気でね。仲間達はこれからホテルで飲み放題の大宴会だが、私はこれで十分満足だ。サヨウナラそしてありがとう。いつまでも忘れないよ、みちのくランのことは。<完> 私は午後から出かけ、帰宅は明日の深夜になります。この間にいただいたコメントへの返事は後日になります。どうぞよろしくお願いしますね~!!ではでは。
2014.06.07
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Sパパと雲峰師匠(右) このマラニック(ピクニック気分でマラソンを楽しむと言う意味の造語)は、走る歌人雲峰師匠を師と仰ぐ峰倶楽部のメンバーであるK峰さんが、師匠を「おもてなし」するために始めたもの。その輪が次第に広がって今の形になったと私は理解している。また5000km級のウルトラレースである「トランスヨーロッパ」を3度とも完走したSパパも、当初からの参加メンバー。宮城県出身の彼は、芭蕉が辿った「奥の細道」を全踏破している。 スタート前の参加者 エイドステーションで英気を養った私達は、次の目的地に向かって走り出す。ここからはしばらく撮った写真がないため、スタート前の写真を載せたい。東北大学工学部のキャンパスを西に向かい、理学部の角から宮城教育大学方面に向かう。ゴルフ場跡の工事現場は、地下鉄東西線の「青葉山駅」。昔ここには開拓農民も3家族いた。今から50年前の話だ。宮城教育大学手前の谷に沿って右折し、東北大学馬術部厩舎を経由して薬学部の裏に出る。 仮装組と熟女2人 急な坂道を下って亀岡に出る。亀岡八幡宮の由来について話す。そこから牛越橋方面に左折。橋の手前で三居沢方面から戻って来るA班の姿が見えた。発電所跡と不動尊を観て来た由。当初のコースには入ってないが、リーダーの判断で急遽変更。明治時代に東北で最初に出来た発電所は、レンガ造りの小さなもの。そしてその奥の三瀧不動尊は薄暗く、シャッターを押したのに写っていなかった。 スタート前の「奥女中」 牛越橋を渡り、広瀬川に沿って市内に向かう。この道はタータントラックを真似た材料で舗装され、とても走り易い。澱橋を渡って川内へ入り、さらに仲の瀬橋を渡って西公園へ。ここは「仙台国際ハーフ」のコース。 皆はそのままコースに沿って定禅寺通りへと向かったが、私はリーダーのM井さんに断り、そのまま広瀬通りを直進してkoboスタに向かった。発電所に寄ったため途中からスピードが上がり、普段走ってない私にはもう限界だったのだ。 つつじが岡大通りのバラ あんなスピードで走ったのは昨年の「仙台国際ハーフ」以来。厳重にテーピングしたのに、膝が痛み、脚も痛い。さて私は、この日のために3つの準備をした。1つ目が先ず生きること。2つ目が極力体重を増やさないこと。3つ目は暑い中での速歩だった。これは冗談ではなく本心。それほど私の体調は悪かった。そして最高気温が27度になると言う当日に備えるため、それが私に出来る最大の対応策だったのだ。 駅前通りでA班に追い着いた。驚くM仙人に事情を話す。74歳の彼は今でも楽に100kmを完走する実力者だが、この1、2年で急速に老化が進んだ私は長い距離どころか短い距離さえ走るのが困難。だから今回のマラニックが引退レースになると覚悟していたのだ。鉄砲町の古い街並みが、近代的なビル街に変貌していた。この周辺の再開発はすさまじい。つつじが岡大通りを直進する途中、バラの花を撮る。 koboスタ風景 10時20分。東北楽天の本拠地であるkoboスタに到着。途中でかなり歩いた。やはりあのまま走り切る力が、今の私にはない。それは初めから分かっていての参加だった。 10回目になるこの「みちのくラン」は、今年が最後になる予定。だから何としても参加したかったのだ。三々五々メンバーが到着した。その中にH多さんの姿もあった。彼女も今は全く走っておらず、苦しくなったら途中からタクシーに乗る積りだった由。その気持ちが私にはとても良く理解出来る。 新潟ひょうきん族 嬉しそうな走友達の顔、顔、顔。koboスタ外の路上では、楽天のユニフォームを着た球団スタッフが座って、何やら打ち合わせ中。そして隣の陸上競技場では、全国の小学生の陸上大会が開かれていた。汗を拭きながら、JR仙石線宮城野原駅に歩いて移動。ここまで走った距離は15km。ショートカットした私は、多分14kmくらいだろう。<続く>
2014.06.06
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むすび丸シール 5月31日土曜日。私は3時過ぎに目覚めてブログを書き、その後走る準備を始めた。両足、両膝、そして両脛にテーピングを施す。上はランニングシャツ、下はサポート機能があるハーフタイツにした。そして右膝にはサポーター。首には冷却機能のある「鉢巻き」。 今日は第10回みちのくランの日。どういう訳かこのところ不調続きで、これが今年最初の「レース」。20km程度のマラニックに過ぎないが、今の私にとってはかなり厳しい距離だ。 宮城県公式マスコット「むすび丸」 朝食を摂り、上着を着て自転車で最寄りのJR駅まで行く。その途中でランニングから帰宅中の妻に出逢った。「お父さん気をつけてね」と妻。私が不調でほとんど走れないことを知っているのだ。 電車で1駅の仙台駅で降り、集合場所に指定された「政宗のステンドグラス」へと直行。そこに神奈川の髭カクさんがいた。彼と会うのは昨年の「浜名湖一周」以来。76歳の彼は時間外ながら見事100kmを走破し、途中船に乗ってショートカットした私は70kmを走った。 政宗のステンドグラス(部分) 「外に皆がいるよ」と髭カクさん。なるほどペディストリアンデッキに仲間が集まっていた。宮城県のウルトラ仲間の他に、遠くは愛知県から来られたランナーの姿。そして神奈川、千葉、東京、埼玉、新潟のランナーも見えた。久しぶりに会う仲間に挨拶。やはりレース前のこの雰囲気は独特だ。中には既にバッチリと仮装を決めたランナーもいる。皆このマラニックに参加するのを楽しみにしていたようだ。 仲間のランナー達 この大会は今から11年前に始まった。第1回は仙台からJR仙山線の作並駅まで、山の中を30km走ったそうだ。私が参加したのは翌年の第2回大会が最初。これは逆に作並駅から仙台まで山の中を走った。途中東日本大震災のため止むなく中止した年もあったが、Kさん始めスタッフの熱心な準備の下、続けられて来た楽しい大会なのだ。最近は松島周辺のマラニックが多く、遊覧船に乗った年もあったっけ。 会長のM仙人 大会スタッフ 会長のM仙人の挨拶に続き、スタッフのSさんからコースなどの説明があった。事前に会費を支払い、名簿やコース図などの資料を受け取っている。今回は仙台市内を15kmほど走るようだ。それから電車で塩竃市に向かい、遊覧船で松島に行く由。そうか、それならひょっとして最後まで走ることが出来るかも知れない。私の胸に、少しだけ安堵の気持ちが過った。だがその半面不安もあった。この時既にめまいが起きていたからだ。 記念撮影 合わせて56名の参加者とスタッフが仙台駅をバックにして記念撮影。この後、班ごとに青葉城に向かって出発した。私は2つ目のB班。先頭を行くのは今年の連休に「川の道」520kmを完走したK合さん。そして「しんがり」はM井さん。 先ず青葉通りをゆっくり歩き出し、それからランニングに変わった。5月の「仙台国際ハーフ」では走れなかった道を、今生茂ったケヤキ並木を見ながら走っている。ただし、車道ではなく歩道なのが残念だが。 スタート前の自分 私は前から4番目辺りにいて、走りながら仙台の観光案内をした。地下鉄の工事の進捗状況、江戸時代の大橋の工事の模様、広瀬川の河畔にあったキリシタンの水牢のことなどだ。大橋を渡り、博物館の敷地に入る。 ここでは日本初のスケートリンクの話や、伊達政宗の胸像の話、青葉城内で酒を醸造した話、そしてこの周辺の地下では昔亜炭(あたん)と言う石炭のなり損ないを掘っていたこと、そのために城の石垣が崩れたこと、東日本大震災による石垣の修復工事の話などをした。 博物館の裏手から青葉城の登り口に出る。この急な坂道は私の帰宅ランのコースでもあり、高校の運動会のマラソンコースでもあった。 青葉城の仮装組 青葉城でトイレ休憩。そして天守台から仙台市内を見下ろす。仮装組の2人が政宗の騎馬像の前でおどける。「悪代官」は千葉のAさん。彼はこのスタイルで100kmレースを楽々完走する強者。「奥女中」の方は千葉のKさんか。彼は「チーム車座」所属。この2人の掛け合いが実に愉快なのだ。特にひょうきんなKさんに拍手!! 新潟組の2人 新潟組の2人の頭には「被り物」。T居さんは青ガエルで、お猿さんはK林さんか。ここから青葉城の搦め手(裏門)へ出て、東北大学工学部方面に向かう。この一帯は藩政当時から伐採禁止の原始林で、その一部は東北大学の植物園になっている。 工学部の一角にエイドステーションがあった。距離が短い今回はこれが最初で最後のエイド。各地のランナーが差し入れしてくれた食糧と冷たい飲物が用意されており、感謝していただく。<続く>(注)冒頭の「むすび丸シール」は配布資料の中に参加賞として入っていたもの。別に「バッチ」もあった。 むすび丸バッチ<5月のラン&ウォーク> ラン7回73km ウォーク91km 月間合計164km 年間合計920km (うちラン)576km これまでの累計84601km
2014.06.05
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映画『神様のカルテ2』を観たのは3月末。長野県の地方病院で、地域医療に取り組む医者達がテーマだった。原作者は医者の経歴を持つ新進気鋭の作家。所々に感動の種が散りばめられてはいたが、私の心が揺す振られることはなかった。確かに医者の日常は描けているかも知れないが、病に苦しむ人間の姿や、地域医療の問題点を描けていない。私にはそう思えたのだ。 ナスの花 その頃読んでいた小説は、柳美里の『命』四部作。16歳から10年以上同棲した相手である劇団主宰者の東由多加が末期がんに冒されたと知り、共に暮らす道を選択する彼女。出版社から莫大な金額を前借りし、時には最新の治療を受けるために渡米し、さらにより高度の治療を求めて転院を繰り返す彼ら。彼女の体内には新しい生命が宿り、やがて彼女は出産する。相手は妻のいる男だが、彼女が身籠ったと知って去って行く。 乳飲み子を抱えながらの壮絶な看護の日々。だが、刻々と最後の日が近づく。排便にも苦しむ東。小説家である柳は、その姿を丹念に描く。東の希望の光は幼子の命。自分とは血のつながってない子供の成長だけを楽しみに、何とか生きようとする姿は鬼気迫るものがある。 生と死のせめぎ合い。だが食べられない東は、とうとう最後の日を迎える。壮絶な戦いの日々を描くこの四部作は、元医者の小説を基にした薄っぺらな映画を、完全に凌駕していた。 4月末に観た『アナと雪の女王』はアンデルセンの童話を下敷きにして作られたミュージカルアニメ。これがなかなかの出来だった。子供だけでなく大人も楽しめる内容で、恋と王女姉妹の愛が交錯する。人間不信に陥った姉の女王を救うべく、妹は厳しい氷の世界を訪ねて行く。 これまでの国内の興業記録を塗り替えたこの作品は、女優松たか子が姉のエルザを、そして神田沙也加が妹のアナの声優を務め、2人の美しい歌声が評判になった。愛は氷をも溶かしたのだ。 トマトの花 この頃に読んでいた小説は、柳美里の『石を泳ぐ魚』。韓国人女性と在日韓国人2世である女性(柳)との不思議な関係の話だった。この原作はプライバシーを侵害されたとして裁判になり、柳は敗訴した。だからこの小説は、書き直したもので、相手の印象はかなりぼやけたものになっている。 破壊された家庭と在日韓国人の心情、民族は同じでも育った国によって異なる精神構造。作者の研ぎ澄まされた神経が、読み手に伝わる小説だった。 5月に観たのが『テルマエロマエII』。古代ローマの温泉技師が、古代ローマと現代の日本を行き来する空想の世界で、原作は同名の人気漫画。今回はブルガリアにわざわざ作った古代ローマのコロシアムのセットや、元横綱曙や元大関の琴欧州の出演が話題を呼んだが、あまり前作と変わり映えしない印象を私は受けた。 ジャガイモの花 この頃読んでいた小説は、柳美里の『家族の標本』。様々な家庭のエピソードが、パンドラの箱から次々に飛び出す。不幸を絵に描いたような話が、これでもかこれでもかと続くのだが、そんな話がきっと彼女の小説の「肥やし」になっているのだろう。この世に理想的な家庭など在りはしない。まして社会体制と人間関係が複雑な現代においては。 比較的最近になって観たのが『WOOD JOB ~神去なあなあ日常~』。大学受験に失敗した都会の青年が、三重の山村で林業にチャレンジする話だ。原作は三浦しをんの小説。現代青年の頼りない心情、高齢化と過疎化が進む山村生活、重労働で安い外国産の木材に押される林業の実態、そして都会と山村の暮らしぶりの違いが、映画を通じて鋭利に描かれて行く。 厳しい山村での暮らしに、あれほど弱々しかった青年が次第に鍛えられて行く。自由な精神が封建的な山村では通じないのだが、なぜか青年にはその不自由さが好ましく感じられ、一度は脱走した山の暮らしに再び戻って行く。 山に入る儀式は神聖だ。山の樹木や獣は、山神の許可なしには採れないのだ。巨木を切り倒し、そしてそれを里まで運び出す。その姿そのものが太古から伝わる宗教儀式なのだろう。下らないテレビ番組よりは、この映画を観た方がよっぽど勉強になる。私はそう感じた。
2014.06.04
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30度を超える暑さがようやく治まった。それでも27度はあった昨日。これはもう春ではなく夏の陽気。そして九州と山口県では、昨日から梅雨に入った由。季節は動き、花も変わる。垣根を賑わせていたモッコウバラは、今無残な姿になり、それに代わってバラが咲き始めている。今日はそんな我が家の花達を紹介したい。 ナデシコ かさねとは 八重撫子の 名なるべし ナデシコの中でも特に八重咲きのものを、人は「かさね」と呼ぶ。芭蕉『奥の細道』の一句。 ムラサキツユクサ この花が咲き出すと梅雨が近い。紫露草 ツユクサ科ムラサキツユクサ属 白花シラン ラン科シラン属 普通はピンク色なので紫蘭と言うのだろうが、中には白花のものもあり、結構長く咲いている。 ドイツアヤメ ジャーマンアイリスと呼ぶのが普通かも。アヤメ科アヤメ属 不明1 不明2 不明3 我が家の庭には、妻がどこからかもらって来て植えた花が幾つもある。私が名前を知らないだけで、どの花にもちゃんと名前が付けられているはずだが。 ナツツバキ 普通はシャラ(沙羅)と呼んでいるこの花が、今年も咲き始めた。玄関脇のはまだ咲かず、花も少し違っている。ツバキ科で花もツバキに似ているが、葉は全く異なる。 今、妻は庭の草を取り、ミニバラの移植に夢中だ。狭い我が家の庭だが少しずつ手を加えて、それなりに楽しめるようになった。老後の楽しみの一つは庭。私の担当は、家庭菜園だ。
2014.06.03
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このところ日本列島は猛暑が続いている。昨日、仙台の最高気温は32.2度まで上がったようだ。2階の我が部屋は、まるで蒸し風呂。夜になっても気温が下がらずに困り、とうとう夏用の布団に切り替えた。こんなに暑いのは、エルニーニョ現象が原因らしい。夏は暑く、冬はとても寒くなるのだとか。そう言えば去年の夏も暑さに苦しみ、冬は厳しい寒さが続き、仙台でも78年ぶりの大雪が降った。 チャゲアスのASKAが麻薬所持と使用の疑いで逮捕された。逮捕のきっかけは、夫人が警察に通報したためのようだ。麻薬使用の影響で、彼は家庭で暴力をふるうことが多かったらしい。このままでは駄目になると感じた夫人が、夫を救うために止むなく通報したのだとか。その後警察は彼の行動を監視し、逮捕に漕ぎ着けた。毛髪や尿から「証拠」が出ていたにも関わらず、彼は所持も使用も否定していたが、最後は全て認めたようだ。 あれほど素晴らしい才能の持ち主でも、麻薬や覚醒剤に頼りたくなる心境が凡人の私には理解出来ない。麻薬や覚醒剤は、一旦使用するとその罠からなかなか逃れることは出来ないそうだ。そうして常習性が高まって行くのだろう。その背後には暴力団がいる。そして薬の密輸と売人の存在が不可欠なようだ。これまでも有名な芸能人が何人か逮捕されているが、華やかな世界にもきっと闇の部分があるのだろう。 健康の基準が大きく変わりそうだ。先日日本人間ドック学会が、高血圧などの基準を変更した。それによれば、今回正常とされた数値は、これまでのものより20近く高い。私は高血圧の薬を飲み始めてから10年近くなるが、飲まなくても良かったことになる。何だか納得が行かない。高血圧抑制剤は、一生飲み続ける必要があると言われて来たからだ。同じように血液中のコレステロール値なども見直された。メタボの基準値もそうだったかも知れない。 これは医療費を少しでも圧縮したいとする政府の意向が背後にあると聞いた。高齢化が進めば、国民が支払う医療費が増え、国民健康保険の政府負担分も増えて行く。それを何とか抑えたいということだろう。ところが医者や病院側にとって、今回の見直しは「改悪」だ。勿論反対の理由は収入が減るためだ。本当のところはどうなのか。国民が知りたいのはその1点。基準値がこんなに大きく変わって、本当に大丈夫なのだろうか。 北朝鮮が、日本人拉致被害者などの再調査に応じる姿勢を見せ始めた。中国寄りだった首脳を処刑して以来、中国の北朝鮮に対する態度が一変した。重油も全然入らなくなった。勿論外貨の不足も際立っている。国際的な制裁措置が利いているのに加えて、あの国は慢性的な食糧不足に悩んでいる。原爆やミサイルや軍備に使う金はあっても、自国民を食わせる金はない。あれだけ真剣なのは、相当困っているはず。 だが、そもそも「再調査」すること自体がおかしい。あれは国家が指揮した犯罪。初めから生死が分かっているのだ。それなのに別人の遺骨を渡して死んだと通報する不誠実さ。「駆け引き」だけで食糧支援を受けようとする魂胆。どこまで信用出来るのか分からないが、拉致した人は全員日本に還して欲しいと言うのが日本政府の立場。あの国が常識が通じる国に変わる日が、本当に来るのだろうか。 宇宙飛行士の若田さんが、先日地球に帰還した。日本人として初めて国際宇宙船の艦長を務めた若田さんは、地球を600周以上する中で、数多くの実験を試み、日本製のロボットと会話していたようだ。同船内にはロシアの飛行士とアメリカの飛行士が乗り組んでいたが、ウクライナ情勢を巡っての対立などは全くなかったそうだ。平和な国際宇宙船の艦長として活躍した彼の英語は素晴らしかった。彼の後にもまだ2人の日本人宇宙飛行士がいるとは心強い。 大相撲五月場所で29回目の優勝を果たした横綱白鵬が、翌日の記者会見を拒否した。あの温和な横綱がなぜ記者会見しなかったのか、理由は明らかになっておらず、何とも不思議に感じた。その彼が、先日宮城県北部の大崎市を訪れ、落成なった市立病院に優勝額などを寄付した由。東日本大震災後、慰問に訪れた縁に拠るものとか。白鵬の優しい人柄を物語る、心温まるニュースだ。
2014.06.02
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5月24日土曜日。私はバスツアーで、岩手県の姫神山(1123m)に登った。遠くから眺めた時の美しく整った稜線、そして山頂部の巨岩群は、古代から神が降り立ち、地上の神々が集った場所と伝わるのも頷ける。田中澄江のエッセイ『新花の百名山』にも紹介されたこの山の花と植物を、今日も紹介したい。 ブナの赤ちゃんの葉は、いかにも瑞々しい。こうして新しい森の生命が、再生されて行く。 アカヤシオ(赤八汐) ツツジ科ツツジ属 地味な色が多い山の中で、一際目立つピンクの花は、とても華やかに見えた。 ミネザクラ(峰桜) バラ科サクラ属 山頂に近い岩場にこの花は咲いていた。足元の不安定な中で、どうしても撮りたくて苦労した。仲間達はどんどん前へ行くからである。ここからの眺めは絶景だったが、風景まで撮る心の余裕が私にはなかった。 ミネヤナギ(峰柳) ヤナギ科ヤナギ属 ミネザクラが咲いていた個所からほど近い岩場に、へばり付くように生えていた。風雪に耐え、栄養の乏しい岩場で生きているこの木は、驚くような低木だ。それでもこの花を見たら、やはりヤナギらしい特徴を持っていた。 共にスミレの仲間であろう。我が国には70種類近いスミレがあるらしい。私は山岳ガイドと離れて撮影していたため、花の名前を無線で添乗員さんに聞いてもらうこともあったが、ガイド自身も正確なスミレの名前は知らなかったようだ。ここからの花は、下山途中に撮ったものである。 フデリンドウ(筆竜胆) リンドウ科リンドウ属 驚くほど小さな花だ。これでもかなりズームした積りだが、これ以上は無理だった。こんな豆粒みたいな花でも、ちゃんとリンドウらしい雰囲気はある。 シラネアオイ(白根葵) シラネアオイ科シラネアオイ属 一属一種の花と言われる我が国の代表的な高山植物。ただし、キンポウゲ科とする説もある。 マムシグサ(蝮草) サトイモ科テンナンショウ属 まだ小さくて、マムシグサの特徴はさほど現れていない。 ヤブレガサ(破れ傘) キク科ヤブレガサ属 これを破れた傘に見立てた日本人の感性が微笑ましい。この植物にも果たして花は咲くのだろうか。 フキノトウ(蕗の薹)の綿毛 ブロ友さんのブログで写真は観たことがあったが、実際に自分の目で観たのは、今回が初めてだった。今回初見の花はこの他にもたくさんあったので、大収穫と言うべきだろう。 ツバメオモト(燕万年青) ユリ科ツバメオモト属 葉の形がツバメの尻尾に似ていることからの命名だろうか。そして、この植物にも花が咲くのだろうか。 チゴユリ(稚児百合) イヌサフラン科チゴユリ属 これも小さな花だ。ユリの名がついているが、ユリ科ではないようだ。これは近くの山にもあるはずだ。 ウスバサイシン(薄葉細辛) ウマノスズクサ科カンアオイ属 とても不思議な形をしてる花。色も珍しい。これは独特の匂いを放ち、虫をおびき寄せるための「装置」なのだろうか。属する科の名前も面白い。 さて今回は、山を登り下りする合間の撮影で忙しい思いはしたが、とても良い経験になり面白かった。残る問題は私自身の体力だけだ。果たしてこれからも登山を楽しむだけの体力と気力が残されているかどうか。<完>
2014.06.01
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