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<法隆寺再び(2)> 11月8日土曜日。私達は斑鳩町の4つの古寺を歩いて訪ねた。法隆寺、中宮寺、法輪寺、法起寺である。これらの寺院はいずれも聖徳太子に因む寺。最終回の今日は、まだ掲載してなかった法隆寺の写真を載せたい。今回もほとんどの建築物が国宝に指定されている。 金堂 金堂。右側にわずかに見えるのが五重塔 金堂の龍の彫刻 金堂 聖霊院 東院(創建当時の僧の生活棟) 境内の石仏 夢殿 夢殿の廂(ひさし)と境内 同上 廂 境内と石灯籠 舎利殿と絵殿 回廊 境内風景 聖徳太子がこよなく愛した斑鳩(いかるが)。この地には太子の宮殿が置かれ、太子はここで仏教に親しみながら学んだのだ。また彼が亡くなった後、彼を愛した人々が彼を偲び、幾つかの寺を建立した。この地に清らかな空気が漂っているのは、きっとそのせいだと思う。この後私達は斑鳩から平城宮跡のある奈良市西大寺へ行くのだが、その模様は少し後に紹介したい。<完>
2014.11.30
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<法隆寺再び> 法隆寺西院地区 私達は聖徳太子が関係する古寺である法隆寺、中宮寺、法輪寺、法起寺を歩いて巡った。今日は前回までに掲載出来なかった写真を載せることにしたい。見える建物のほとんどが国宝と言う境内の雰囲気を味わっていただけたら嬉しい。 中門と金剛力士像(仁王様) 回廊から覗く五重塔 五重塔 回廊 石灯籠と大講堂 五重塔 金堂と五重塔 回廊と経蔵 回廊 回廊 鐘楼 大講堂 金堂と五重塔 金堂と五重塔 繰り返すが建物のほとんどが国宝。私はこれらの大伽藍に圧倒され続けていた。世界文化遺産に指定された古代の木造建築は、ただ静かに境内に治まっていただけなのだが。<続く>
2014.11.29
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<法輪寺と法起寺> 法輪寺の前で休む。腹が空いたが、周囲に食堂などはない。仕方なくお菓子と果物を食べて空腹を凌いだ。それからようやく境内に入る。法隆寺に比べたら寂れた感じ。それに建物が新しそう。 講堂と妙見堂 地蔵堂 金堂 金堂 法輪寺は飛鳥時代末期の創建と伝わる古寺。聖徳太子の子である山背大兄王(やましろのおおえのみこ)が太子の病気平癒を祈って建立したとの寺伝がある。だが、境内には創建当時の建物はなく、重要文化財の仏像などが僅かに残るだけのようだ。山背大兄王は後年蘇我入鹿に攻められ、自ら死を選ぶ。その悲劇が淋しい境内にも反映しているようだが、創建当初は広大な敷地を有していた。現在は法隆寺と同じ聖徳宗に属している。 三重塔 三重塔 石仏 ここから法起寺までは歩いて15分ほど。ここも寂れた感じを受けたが、境内には国宝の三重塔があるようだ。 講堂 多宝塔の心礎石 法起寺は聖徳太子の遺言により太子が法華経を講じた岡本宮を、山背大兄王が寺に改めたとの寺伝が残っている。創建当初は壮大な伽藍が建ち並んでいたようだ。別名岡本寺で、法隆寺と同じ聖徳宗に属する。長らく「ほっきじ」と呼ばれていたが、法隆寺の世界文化遺産指定時に「ほうきじ」と読みを改めた。 三重塔(国宝) 三重塔は景雲3年(706年)の建立で、我が国最古の三重塔。国宝に指定されている。 ここにも白い布をまとった石仏があった。赤い布との違いがあるのだろうか。 松の木の根元に、松ポックリがきれいに並べられていた。面白いのでパチリと1枚。 境内のサザンカは花弁が裂けたタイプのものだった。法輪寺に比べたら法起寺の境内はしっとりと落ち着いていた。こうして57年ぶりの斑鳩では4つの寺を歩いて巡ったが、いずれも法隆寺とセットで「売り出し」ているような印象を受けた。有名な藤の木古墳が見られなかったのが残念だ。この後私達はバスで大和郡山市駅まで行き、そこから電車で平城宮跡へ行くのだが、引き続き明日以降も斑鳩界隈の写真を載せる予定でいる。<続く>
2014.11.28
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<夢殿と中宮寺> 大宝蔵院から夢殿へと向かう。ここが入口で、夢殿の屋根が見えている。 境内 鐘楼 回廊 夢殿(国宝:天平時代)は、天平11年(739年)に行信僧都が斑鳩宮のあった旧地に聖徳太子を偲んで建立した八角形の建物。正式な名称は上宮王院で、東院伽藍の中心的な存在になっている。 左側の救世観音(ぐぜかんのん=国宝:飛鳥時代)は、聖徳太子自身と伝えられる秘仏。 右側は夢殿を建立した行信僧都の座像(国宝:奈良時代)。共に図録から借用した。 屋根と宝珠 門の扉 中宮寺から見える夢殿 ここからは中宮寺で別料金となる。 中宮寺境内 中宮寺本堂 開基は聖徳太子または母である間人皇后とされる門跡寺院(皇族が門主を務める寺院)で尼寺。創建当時は400mほど東側にあり、現在地へ移転したのは16世紀末と推定されている。平安時代以降この寺は衰微し、鎌倉時代になってからようやく復興した。現在の本堂は昭和43年(1968年)に建立されたもの。 弥勒菩薩 本尊の弥勒菩薩(国宝:飛鳥時代=パンフレットから借用)像は、広隆寺の弥勒菩薩像と良く対比される。現状は線香の煙などで全身が黒ずんでいるが、足の裏などの痕跡から当初は彩色されていたと考えられている由。 聖徳太子は推古30年(622年)に48歳で薨去した。妃の一人である橘大郎女は深く悲しみ、太子を偲んで「天寿国」と言う理想の浄土を刺繍で製作した。これが国宝の「天寿国曼荼羅繍帳」(飛鳥時代)。写真はこの模造品でパンフレットから借用した。本堂内には、この模造品が展示されている。 境内の黄色い実 境内の赤い実 この後、私達は歩いて法輪寺へ向かった。のどかな斑鳩の地。これから先は全て初めて訪れる場所だ。森の中に宮内庁書陵部管理陵墓と似たような表札が見えた。 私はてっきり宮内庁の陵墓だと思っていたのだが、「中宮寺の墓地」だったと知ったのは後日のこと。どんどん進んで行くと墓地に出、住民の人に「標識を見なかったのか」と咎められた。私は「見なかったよ。それにここは参道でしょ」と答え、さらに奥の墓陵へと向かった。 中宮寺墓地 ここが中宮寺管轄の墓地。旧皇族である有栖川宮家の陵墓があった。同宮家は大正時代に成立し、昭和になって絶えた。 後日ネットで調べたら中宮寺の門跡をされていたことが分かった。それにしても住民の態度が私には解せない。陵墓を侵す意図などこちらにはまるでないのに、あの過剰な反応はきっと「ここは私達が守っている」との想いだったのだろう。<続く>(注記)悪質な広告が掲載し難いよう、画面をフルサイズにしています。どうぞご理解ください。また、悪質な広告は絶対クリックしないでください。
2014.11.27
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<法隆寺の至宝と夢殿への道> これから向かうのは法隆寺の宝物を収蔵する大宝蔵院だ。 平成10年(1998年)に完成したこの建物のデザインはとても斬新。 大宝蔵院の壁面 同じく壁面 建物の正面。大宝蔵院は中央の百済観音堂を中心にして、東宝蔵院、西宝蔵院があり、これとは別に収蔵庫を持っている。 「大宝蔵」の額が見える。建物内部は全て撮影禁止のため、以下の仏像は図録から借用した。 釈迦三尊像(国宝:飛鳥時代)光背に196文字の銘文がある。 夢違観音(国宝:白鳳時代)悪い夢を良い夢に変えると言う言い伝えを持つ観音像。 左から 百済観音(国宝:飛鳥時代)、飛天像、玉虫の厨子(国宝:飛鳥時代) 法隆寺は聖徳太子が父用明天皇の遺志を継いで建立した寺院。この大宝蔵院に納められた寺宝も、貴重なものばかりだ。それを鑑賞出来たのは本当に幸いだったと思う。 茶所(休憩所)にあった仏画。撮影禁止ではなかった。 左は茶所に安置されていた仏像(撮影可)で、右は法隆寺の刻印(図録から借用)。私はここで法隆寺の図録を購入した。次に東院地区の夢殿へと向かった。 夢殿への道 道の両脇に続く塔頭(たっちゅう)の土塀や連子窓、路地の掘割、石畳道と植栽など、私には目に見えるものが全て好ましく感じた。日本最古の木造寺院には、きっと人を癒す力があるのだと思う。<続く>
2014.11.26
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<法隆寺の境内> 南大門(国宝:室町時代) ここが法隆寺の入口の南大門。最初から圧倒的な存在感だ。法隆寺は推古15年(607年)に聖徳太子によって建立されたとする古代仏教寺院で、別名は斑鳩寺、法隆学問寺など。1993年世界文化遺産に指定され、国宝及び重要文化財に指定されたものは190件、2300点に及んでいる。この南大門からして国宝なのだ。 西院外観 法隆寺は大きく分けて、金堂や五重塔を中心とする西院伽藍と夢殿を中心とする東院伽藍とに分かれており、最初は西院からお参りする順路を取った。 イカル 法隆寺は奈良県斑鳩町にある。斑鳩の名の元になったのがこのイカルで、スズメ目アトリ科の鳥類だ。全長23cmで、太く黄色い嘴を持つ。生息地はロシアの沿海州方面と、日本の山地で繁殖している。斑鳩は一字で「角鳥」と書くのが本来らしい。 中門と五重塔 中門(国宝:飛鳥時代) 実に豪壮な建築物だ。13歳の時の記憶は全くなかった。法隆寺はやっぱり存在感が全然違う。70歳の私の感想はそれだけだった。 左右の金剛力士像(仁王)は奈良時代の製作で、我が国最古のもの。 五重塔(国宝:飛鳥時代) 五重の塔は高さ31.5mで我が国最古のもの。中に仏舎利を安置する。 五重塔内部 中の様子が少しだけ見えた。 金堂(国宝:飛鳥時代) 金堂は本尊を安置するための建物。内部の壁面には国宝の壁画がたくさんあった。だがそれを模写していた昭和24年(1949年)に失火のため焼失。現在は再現壁画が代わりにはめ込まれている。 再現壁画(図録から借用) 龍の彫刻獅子の彫刻 回廊と経蔵(国宝:奈良時代) 大講堂(国宝:平安時代) 水瓶 左側の妻室(さいしつ=重要文化財:平安時代)と右側の東室(とうしつ=国宝:奈良時代)は、共に僧が生活するための建物。 これは寺の宝物を収納するために建てられた綱封蔵(こうふうぞう=国宝:平安時代)と呼ばれる高床式の建物。 同上 綱封蔵の基礎部分 この後私達は法隆寺の宝物を展示する大宝蔵院へ向かった。<続く>
2014.11.25
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<57年ぶりの斑鳩> 11月8日土曜日。さて、奈良の旅の3日目は正直な話、何も決めてなかった。最初は古墳を見ようと思ったが止めた。交通の便もあるが、外から眺めただけではあまり面白くない。木が生い茂って普通の山にしか見えない古墳がほとんどなので、感激は薄いのだ。それに妻が興味を持つかどうか。 それで法隆寺を訪れることにした。そこから京都へ引き返し、東寺と伏見稲荷を見る案を妻に示した。帰路の夜行バスに乗る京都駅前から近いためだ。先ずはJR天理駅まで歩いて電車に乗った。奈良で法隆寺方面へ乗り換えるのだと思ったら、そのままの電車で良いのには驚いた。どうやら「三角形」の路線のようだ。 前日妻が買って喧嘩の原因になった柿とミカンは私が持った。化粧道具も私に持ってと言う。それもリュックに詰めるとかなりの重量だ。JR法隆寺駅前から法隆寺までは案外距離がある。一日中歩くことを考えればバスに乗った方が良いと思って妻に勧めたが、彼女は歩くと言う。それならばと歩き出す。法隆寺付近の観光案内所に寄り、何種類かのパンフレットをもらった。それを見ているうちに法隆寺だけでなく、中宮寺、法輪寺、法起寺へも行きたくなった。歩いて4つのお寺を見ることを妻に告げる。 枯れたアジサイ 斑鳩(いかるが)の後は、この朝予定を変えて奈良の平城宮跡へ行くことに決めていた。テレビのニュースでそこを会場にした「平城京天平祭」が開催中であることが分かったからだ。私が平城宮を最後に観たのが19年前。その後「朱雀門」が再現されたことを知り、この機会に見たくなったのだ。多分京都へはこれからも訪れる機会があるだろうが、そこから一歩奥まった奈良へはなかなか来れないとの判断だ。 大阪勤務時代、法隆寺を訪れる機会があった。だが、私は修学旅行で訪れていたため奈良市内の古墳を見て歩き、妻が1人で行ったのだ。修学旅行は中学2年生の時で、私はまだ13歳だった。あの時は大阪造幣局の通り抜けの桜を見、奈良では東大寺、春日大社と法隆寺に寄り、その後京都の清水寺と滋賀の石山寺に行った。あれは自分にとっては大旅行だった。帰宅後にその時の様子を思い出しながら、短歌を作ったのを今でも良く覚えている。 緑なる春日の宮の朝の風 吊灯籠を揺すりおるかな これは春日大社での印象。赤と緑の鮮やかな大社の建物を、私は思い出していた。 老人の鐘つき堂に一人いて 石山寺は線香の香 これは滋賀県の石山寺の印象。どこか暗いイメージが残っていた。中学生なので、まだ「鐘楼」と言う言葉は知らなかったのだ。そして法隆寺を思い出して詠んだのが次の歌だ。 斑鳩の里にそびえし塔見れば 花の如きのいにしえ思ほゆ 「いにしえ」が昔のことで、「思ほゆ」が思われる意味であることを知っていたのだ。どの歌も極めて観念的だが、それが私が初めて作った記念すべき短歌で、今でも忘れずにいる。まだ幼かったあの日から57年経った。果たして今でも本当に法隆寺を覚えているのだろうか。 パンフレットから その法隆寺が圧倒的な存在感で私の目の前に現れた。いや~っ、これは明日香村とも山の辺の道とも違う感激だ。わずか13歳だった頃の自分と、古稀を迎えて知識と経験とを重ねた自分とでは、物の見え方が丸きり違うことに気づいた私だった。<続く> 今回の旅のバックナンバーに以下の記録があります。興味がある方はご覧ください。 11月10日~14日 「奈良の歴史を訪ねて」(明日香村の話:5回分) 11月15日~21日 「山の辺の道を行く」(7回分)
2014.11.24
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少し前、Tさんに会った。彼は2番目の職場の後輩で野球仲間。若い頃から太っていたが、今は歩くのも辛そうで相当老け込んでいた。学年は彼が1年下。あの分では危ないなあ。そんな風に感じた久しぶりの再会だった。 風邪が少し良くなった頃、M公園へ散歩に行った。颯爽と走っている人がいたので話をした。走った距離は12km。年齢は57歳と爽やかに教えてくれた。なるほど若々しいわけだ。彼は白髪だったが、脚が良く延びる美しいフォーム。私はその年齢の自分を思い出していた。 デジカメを持ってM公園を訪れたのはその数日後。たまには気分転換したいと思ったのだ。紅葉はさらに進み、既に枯葉となって散っている木も多かった。奈良への旅とその日記を書いている間にも、季節は急速に動いていた。朝は窓ガラスが結露する日が増えた。その日撮った写真の幾つかは、目下ブログの「挿絵」として使っている。そろそろ冬が近い仙台だ。 ある日のこと、眼科へ行った。この日はいつもの眼圧検査の他に、約半年ぶりに視野検査をした。学究肌のドクターは言う。「眼圧はその後も変わりないですね。引き続き同じ目薬で対応しましょう」。「視野検査は最初の時と同じ傾向が見られます。緑内障の特徴が現れています」。そうか、私の目はすっかり老人の目そのものになった。後はこれ以上悪化させないことだ。 ある日のこと、歯医者へ行った。このところずっと麻酔薬を注射しながらず歯周ポケット内の歯石を除去しているのだが、この日は歯の痛みを訴えた。レントゲン写真を撮った結果、痛みの原因は歯ではなく、歯根と上顎骨の組織が炎症を起こしていることが分かった。原因は風邪を引いて免疫力が落ちたこと。その部分の治療は不可能で、これからは出来るだけ症状が出ないよう、静かに暮らす必要がある由。もう無理は禁物なんだね。 別の日、循環器内科へ行った。ドクターは久米島マラソンの結果をブログで読んで知っていた。この日は血圧、脈拍とも正常値。「血液サラサラの薬を止めますか」と聞いたらドクターが「止めたら長島監督のようになる危険性がありますよ。血栓が脳に飛ぶと脳梗塞になります。Aさんの心房はちゃんと機能してなく心室の強さでカバーしている状態で、引き続き4種類の薬が必要なんです」。 そうか、そうだったのか。自分の認識が甘かったのだ。以前ドクターからは、心房の血液が不整脈のため心室へ2、3割方逆流してると言われたが、その状態は依然として改善されてなかったのだ。「久米島」ではたまたま走れただけで、ドクターは事故が起きるのを心配していた。これまでのウルトラマラソンや59歳から9年間の肉体労働で、私は長期間かなり体に負担をかけ続けた。私の心臓は、きっとその間悲鳴を上げ続けていたのだろう。ゴメンね私の心臓。 久しぶりに走友達のHPを観た。相変わらず活発な活動をしている仲間達の元気そうな姿が目に飛び込んで来た。眩しいその姿は、かつての自分を彷彿とさせた。でもそれは過去の栄光で、老人ランナーに明るい未来は存在しない。この体調で、今後どんなランニングが出来るのだろう。無理のないレース、負担の少ないランニングを模索する必要があるのは明白だ。それでも自分の健康維持だけでなく、何か意味のあるランニングがしたい。 取りあえず宮城UMCの忘年会へは出る積り。これはウルトラマラソンの仲間達。元々そんなに飲める方ではないが、せめて皆の元気な顔が見たい。所属走友会の忘年会は欠席し、総会を兼ねた新年会へ出る予定。ここ数年の間に、自分が置かれた状況と他の会員の活動状況との間に大きな差が出来た。元々私は何の役にも立ってないが、さらにその感が深まったのは事実。残された生を今後どう生きどう走るかが、これからの自分の課題だ。
2014.11.23
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京都の悪女には驚いた。結婚相談所で知り合った男性と結婚、あるいは付き合う中で、相手を殺して財産を奪うとは。付き合った相手は10人以上。そのうち亡くなった方は分かっているだけで現在7人おられ、そのうちの2人から青酸化合物の反応が出ている由。奪った財産は10億円以上だが、先物取引の失敗で1千万円の借金があり、生活保護を受けているとも言われている。結婚中なのに、もう次の「婚活」をしていたと言うから呆れ果てて物が言えない。 中国船による赤サンゴ密漁も、実に不愉快なニュースだ。200隻以上もの船が小笠原諸島付近までやって来て、天然の赤サンゴを根こそぎ奪って行く。海底には千切れた青い網が幾つも残されているようだ。もちろんここは日本の領海で、サンゴは大事に保護されているもの。こんな状態を放置して良い訳がない。取り締まりが厳しくなった今は日中島影に潜み、夜間密漁をしてるようだ。こんな不法行為は世界に報道して、彼の国の本当の姿を知らせるべきだ。 沖縄県知事選挙が終わった。辺野古移転反対を唱える候補者が、移転容認を掲げる現知事に圧勝した。10万票近い大差だった。これは沖縄県民の意思表示で、新知事はあらゆる手段を使って移転を阻止すると広言しているが、防衛は国の役目。今後軋轢が深まるのは確実だ。しかし普天間基地が現状のままで良い訳がない。沖縄県民の心情が分からなくはないが、今回の事態を一番喜んでいるのは中国政府だと思う。 ケント・ギルバード氏は言う。「パールハーバーを忘れるな」は米国の謀略だったと。つまり第二次世界大戦で日本は宣戦布告しないままハワイを襲ったのではない由。そして日本が挑んだ戦いは決して侵略戦争ではなく、純粋に防衛上の必要のためだった由。彼はこうも言う。戦後の平和は憲法9条によって守られたのではなく、米軍、自衛隊、そして日米安保条約のお陰だと。彼は単なる芸能人ではなく、経営学修士と法学博士の学位を持つ弁護士。私はとても良く納得出来た。 朝日新聞の論調が、少しだけ静かになった気がする。例の「従軍慰安婦強制連行」と「福島原発事故」に関する不正記事を謝罪してから以降のことだ。だが報道機関としての良心と良識を失ったあの行為の代償はとてつもなく大きい。私は抗議のため購読を中止したい気持ちだが、妻は記事を信じているようだ。真実を追求しない報道機関などあり得ない。それを恥とも感じない報道機関はなおさらだ。次期社長は、その過ちを犯した部署の責任者とは呆れ果てる。 高倉健が亡くなった。亨年83歳で死因は悪性リンパ腫。撮影ではいつも周囲を気遣う優しい人だった由。それでもどこかに殺気を帯びたスターでもあったようだ。彼の代名詞とも言える任侠物、評価を高めた「幸せの黄色いハンカチ」や「鉄道員(ぽっぽや)」のいずれも私は一切観ていない。たった1作観たのが遺作となった「あなたへ」。妻を亡くした夫を演じた姿が瞼に浮かぶ。寡黙な大スターは黙ったまま、あの世へと旅立ってしまった。合掌。 昨日衆議院が解散された。野党は「大義なき解散」と言うが、果たして国民はどんな審判を下すのだろう。経済政策が悪いと言う政党も多いが、彼らが政権を取ったら本当に強い日本になれるかは不明。前政権は幼稚過ぎて、全くの期待外れだった。野党の連合はなるのか。そして現政権に立ち向かえるだけの内容を伴えるのか。古稀を過ぎてから私は保守的になったのだろうか。否、そうではなく、より本質が見えるようになっただけと自分では思っているのだが。
2014.11.22
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最終回の今日は山の辺の道の二つの古社の写真を載せることにしたい。一つは今回のスタート地点に近い大神(おおみわ)神社であり、もう一つは終点に近い石上(いそのかみ)神宮である。残った写真は偶然にも10枚ずつだった。説明は最低限に抑えたので、古社の雰囲気を十分に味わっていただきたい。<大神神社> 石段の先に ご神木 手水舎 賽銭箱 大神神社の祭神はヘビと言われている。卵はヘビの好物として供えられたのだろうか。 絵馬奉納所 その先は禁足地 拝殿(重要文化財) さようなら大神神社 <石上神宮> 大鳥居 ご神木 ご神木 楼門(重要文化財) 楼門より拝殿を臨む 連子のある塀 同上 拝殿側面 拝殿正面 国宝の拝殿 伊勢神宮と並ぶ我が国有数の古社である二社は圧倒的な存在感で、境内は厳粛な雰囲気で満たされていた。山の辺の道の象徴とも言える2つの神社を今回歩いて訪ねることが出来、本当に良かったと思っている。<完>
2014.11.21
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<山の辺の風景> 山の辺の道標識 山の辺の道踏破の話を5回かけてようやく書き上げた。私はこの道を3回歩いたと言う想いが強い。1回目は古本にあったコース図を確かめる中で、2回目は当日のウォークで、そして3回目はこのブログを書きながらだ。何度も言うが、歩いた当日は知らなかったことばかりで、いかにも知ってるように書いてるが、これは後日ネットなどで調べたことを加味している。掲載後の推敲も毎度のこと。多い時は1日に15回以上、文章に手を入れた。 この間の体調は最悪だった。酷い風邪を引き、喉の痛みに苦しんでいた。免疫力が落ちたのか、歯まで疼き出した。そんな中で、私は部屋に閉じ籠ってこの旅日記を書き続けていたのだ。それが終わって、ようやく少し安心した私だが、本当はまだ翌日第3日目の話が残っている。今はそれを暫し忘れ、山の辺の道のまだ紹介しなかった写真を載せたい。ともあれ日本最古のこの街道が、古代史の宝庫であったことだけは間違いない。 それにしても山の辺の道は、なぜ険しい山麓にあったのだろう。あれだけアップダウンが厳しいと、牛車(ぎっしゃ)を走らすことも困難だったのではないか。私が考えたのは川の存在。奈良盆地を流れる川は、全て大和川に注ぐ。橋を架けるだけの土木技術が発達してなかった古代は、川幅が狭い上流の方が歩き易かったのではないか。それが私の推論だ。平城京が置かれる頃になると、平野部にもようやく大きな橋が架かったのだろう。行基の架橋もその頃の話だ。 街道沿いの池(左)と畑の赤い大根(右) 歩きながら色んな風景を楽しんだ。道は様々な表情を見せ、ごく稀に集落にも出会った。それでも全般的に見れば、とても静かな道であった。古代の頃はさらに淋しく、人々はきっと難儀しながら歩いたのだろう。 道端のチョウセンアサガオとその実 大和三山 丘の切れ目から時々奈良盆地が見える。ある個所から大和三山が見えた。それが唯一で、その後は全くその姿を見ていない。天の香具山、畝傍山、耳成山が大和三山であることは知っているが、どの山がそうかは分からない。きっと調べれば推定出来ると思うが、幻のままにしておくのも良いだろう。古代から親しまれたそれらの低山にまつわる話も、きっとたくさんあると思う。ブログに載せた写真はパソコンから消すのが私なりの流儀。後は心の中の映像だけだ。 柿の紅葉(左)と柿本人麻呂の歌碑(右) 奈良は柿が多い地方。どこにも柿の木があり、柿の紅葉が美しかった。その枝にはたわわな柿の実。そして山の辺の道のそこかしこに歌碑や句碑が立っていた。柿本人麻呂は有名な古代の歌人。この歌は楷書で明瞭なため再掲しない。「衾道」や「引手の山」は、多分一番最後に載せた写真の風景だと思う。 二上山 大和(奈良)と河内(大阪)の境に聳える二上山は、古来から人々に親しまれて来た山で、歌の対象になることも多かった。特徴ある山容は、遠くからでも良く目立つ。だが私の安物のデジカメでは、ここまで近寄るのが精一杯だった。 左側 さとはあれて人はふりにしやとなれや庭もまかきも秋ののらなる (里は荒れて人は古りにし宿なれや 庭も籬(まがき=垣根)も秋の野良なる) 平安前期の僧、僧正遍照の作 右側 月待て嶺こへけりと聞ままにあはれよふかきはつかりの聲 (月待ちて嶺越えけりと聞くままに 哀れ夜深き初雁の声) 室町時代~戦国時代の武将、十市遠忠の作 左側の「石仏」は大和神社御旅社のもの。昨日も1枚掲載したが、良く見ると陽物(男根)のようにも見える。すると白い布は褌(ふんどし)なのかも知れない。そう考えると、神社との関係に興味をひかれる。右側は玄賓庵付近の宝筐印塔(ほうぎょういんとう)。 のどかな山間の田圃にも、古代の条理制の姿がまだ残っているようだ。 引手の山付近か 多分8時間以上は歩き続けたこの日の旅。山の辺の道の風景を、私はきっといつまでも忘れないだろう。明日は大神神社と石上神宮の残った写真を掲載する予定。<続く>
2014.11.20
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<天理駅までの長い道> 少し話を戻そう。崇神陵を過ぎて暫く行くと、「最古の御社 大和神社御旅所」なる標識が立っていた。最古の社となれば寄らない訳には行かないだろう。そう考えて周囲を見回したら、2つの小さな社があった。 どちらが大和神社で、どちらが御旅所なのだろう。あまり有難味は感じず、後日ネットで調べても、ヒットしたのは立派な他の神社だった。あれは一体何だったのか。何だか「看板に偽りあり」の感が強い。 傍らに石仏があったが、神社と石仏の組み合わせも考えたら変。この付近で柿を安売りしていた。1個10円だと言う。熟してなかなか美味しい。お爺さんが1個おまけしてくれたので40円を渡す。妻は枝から取って食べたが、少し渋かったようだ。売り物の中から少し堅そうなのを選び、妻はお土産用に幾つか買った。小ぶりのミカンも1袋買った。そしてそれが後で夫婦喧嘩の原因になった。 買ったは良いが妻は持とうとしない。弁当もそうだが、持つのは全部私。リュックはズシリと重くつい文句を言うと、妻は怒ってそれなら自分が持つと言い出した。やがて彼女は不機嫌になり、私と離れて歩き出した。旅の途中で土産を買えばロッカーに預ける訳には行かず、全部自分達の重荷になるだけ。安さに釣られ、先のことまで考えないのはいつものことだ。 集合墓 「その先に日本一古い集合墓があるよ」。ある集落でお爺さんが教えてくれた。道を曲がった角にそれらしい墓。確かに墓が密集している。どんな理由で墓が固まったのか奇異に感じたが、先を急いだ。 フユザクラ 妻の様子がおかしい。バス停から1人でバスに乗ろうとしているが、今夜泊るホテルを彼女は知らないのだ。一旦は呼び戻したが、坂道を登り切った所で妻の姿を見失った。一体どこへ消えたのだろう。慌てて坂の下の店で電話を借り、妻の携帯に電話。彼女はかなり先の方まで行っていた。どうやら道は二手に分かれ、妻は別の道を行ったみたいだ。険しい道。淋しい道。こんな道を昔の人は良く旅したものだ。私も必死に後を追った。 妻は石上(いそのかみ)神宮近くまで行っていた。押し黙って歩くうちに、看板を見つけた。どうやらツキノワグマが紀伊半島にも生息しているみたいだ。その保護を呼び掛ける手作りの看板が珍しい。石上神宮はその看板の直ぐ先にあった。 拝殿(国宝) これが国宝の拝殿。石上神宮は布留山の西北麓に鎮座する式内社で、主祭神は布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)。石上神社など9つ以上の別名を持っており、伊勢神宮同様「神宮号」を古記録に認められている有数の古社。伊勢神宮の古名である磯宮(いそのみや)と音が同じ「いそ」を冠するのも偶然ではないようだ。 明治7年(1874年)に大宮司となった菅政友は水戸藩で「大日本史」編纂に関わった歴史家。彼は長年禁足地とされていた場所を発掘し、地中から刀を得た。それが「布都御魂剣」(ふつのみたまのつるぎ)。古来記紀にはこの剣に関する記述が多く、皇室との関係も深そうだ。その後本殿を建てた禁足地は、現在も同じ扱いをしている由。私は1人の神官に国宝の七支刀はどこから出土したのか尋ねた。彼は出土品ではなく伝来品だと答えて、由緒をくれた。 国宝七支刀 菅大宮司が長年田植えの儀式に使われていた七支刀(しちしとう)を良く観察し、刀身に金の象嵌文を発見したことを知ったのは後日のこと。研磨した結果、剣の両面に刻まれた61文字を発見。文字の一部は錆(鉄製のため)で判読出来なかったが、百済が倭に朝貢した際に献上したものと判明した。昭和28年(1953年)国宝に指定。 この刀は形状から、どうやら記紀に記された「ななつさやのたち」と判明。石上神宮は元々崇仏派である蘇我氏と戦って滅亡した排仏派物部氏の武器庫であった由。これもまた不思議な因縁だ。 摂社出雲建雄神社拝殿(国宝) 何気なく撮ったこの建物が国宝であることを知ったのはつい昨日のこと。「出雲建雄神」とは草薙の剣の荒魂のことらしい。草薙の剣はヤマタノオロチの腹から出た伝説上の剣で、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の時に使用したもの。話の背後に古代出雲族との関係や皇室との深い関係が偲ばれて、神宮の起源をとても興味深く感じた。 拝殿内部 この日は朝早く大神神社付近から歩き始めて、午後遅くようやく石上神宮に到着した。2つの古社を訪れることが出来たのは生涯の宝で、もう二度と訪れるのは無理。古代史研究の良いヒントになった神宮に別れを告げ、ここからさらに天理駅まで歩いた。これも実に長い道のりだった。 途中に天理教の巨大な建物。天理市が天理高校や天理大学、そして天理教の病院を持つ「宗教都市」であることは知っていたが、ここまで巨大であることに正直驚いた。 天理教は江戸時代末期に中山みきを教祖として生まれた神道派の宗教。教団の名を染め抜いた法被を着た信徒の姿を大勢見かけた。駅まで続く「天理本通り」の長さにも驚嘆。上の太鼓は本通りの店で見かけ、巫子の写真は張られていたポスターから拝借した。 この日歩いた距離は20km近く。長い道中だったが、ようやく念願の「山の辺の道」踏破を果たすことが出来た。私達が泊ったのは1泊5千円にも満たない安宿だが、夕食は意外にも豪勢だった。誰もいない風呂で旅の汗を流し、酒とビールで祝杯を上げた私だった。<続く>
2014.11.19
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<古墳の宝庫> 一旦山の辺の道と別れ、私達は里へ下りた。古墳を観るためだ。古墳の名は箸墓古墳。纏向(まきむく)には古墳が多いが、折角ここまで来たのだからせめて有名な古墳を何としても観たい。そう思って初めから予定していた。集落の中で場所を尋ね、ようやくその姿が見える場所へ出た。 箸墓古墳 これが箸墓古墳。もう一つの呼び名は「箸中山古墳」。箸中は桜井市の地名だ。全長278mで、後円部の高さが30m。全国でも11番目の大きさで我が国最古の前方後円墳。昨年20人近い考古学関係者の立ち入りが初めて許可されている。 箸墓古墳 ここは宮内庁の管理下にある陵墓の一つで、名称は「大市墓」。被葬者は第7代孝霊天皇の皇女である倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)。 日本書紀によれば、夫は三輪山の神である大物主神。神との通婚譚は巫女(みこ)的な要素が強い女性であることを物語る。大物主神の正体はヘビと言われている。もちろん動物と結婚する人間はおらず伝説と言うことになるが、古代の天皇と豪族との関係を思わせる話ではある。 ネット借用資料 現場にあった航空写真 古墳の全体像が分からないため、ネットから画像を借りた。全国でも最古級の3世紀中頃から後半にかけての築造と考えられ、これが「径百余歩」とされる卑弥呼の墓に比定する根拠。つまりは邪馬台国大和説に繋がることになる。いずれにせよ地区の古墳群の中核的存在だ。 記紀によれば、昼は人が造り、夜は神が造ったとされる伝説上の古墳にようやく会えることが出来た私は大満足だったが、妻はどう感じていたのだろう。ここからは来た道を戻らず、少し先から山の辺の道に向かった。人に聞きながら行くと、景行天皇陵に出た。 景行天皇陵 左側は宮内庁書陵部による表示で、右側は外観 宮内庁管理による陵墓の名は「山辺道上陵」。山の辺の道のほとりにある陵との意味だ。遠方に見えるのが三輪山。さて景行は伝説上の人物である日本武尊(やまとたけるのみこと=第14代仲哀天皇の父とされる)の父で、第12代天皇。記紀によれば、天皇記の半分以上は日本武尊のことが書かれている由。実在が疑われる要因の一つだろう。 和風謚号(いみな)は「おおたらしひこおしろわけのすめらみこと」。このうちの「たらしひこ」は第34代舒明天皇、第35代欽明天皇と共通し、彼らは7世紀前半の人なので、4世紀前半とされる景行とは時代が合わない。後世記紀が編纂された際の「創作」と考えられる所以だ。なお、江戸時代までは崇神天皇陵とされていた由。 航空写真 隣の円墳らしい古墳の傍に、この写真が載った標識があった。古墳の名は渋谷向山古墳。私はてっきりこの円墳(外観はそのように見えた)の名だとばかり思っていたのだが、帰宅後に調べるとこれが景行天皇陵の考古学上の呼称と分かった。墳長310m、後円部の高さは23mの前方後円墳で、4世紀後半の築造と考えられる由。 左側が「渋谷向山古墳」と誤解した「円墳」。地図にも名前は載ってないが、景行陵の陪塚(ばいちょう)かも知れない。右はその付近にあった石仏。 左側の句碑には「二た陵に一人の衛士やほととぎす」とある。「二た陵」は景行陵と付近の崇神陵のことだろう。「衛士」(えじ)は番兵のこと。陵を守る人は現在誰もいないので、恐らくは作者自身のことを言ったのだと思う。右側は奈良盆地の風景で、見えているのは天理市街だ。 崇神天皇陵 古墳の等高図 間もなく崇神天皇陵が見えて来る。宮内庁書陵部による管理上の名称は山辺道勾岡上陵。あまり近過ぎて全体像が分からない。ネットから借りた航空写真を参考にしてほしい。等高図は現場にあったもの。 第10代天皇の彼は、「実在の可能性が見込める初めての天皇」と言われるが反対説もある。第12代の景行に疑義があるのに、それより古い崇神が実在すれば矛盾が生じる。それに第9代までは架空の人物であるなら、その子である崇神も存在しないことになる。 この陵の考古学上の呼称は行燈山(あんどんやま)古墳。全長242m、後円部の高さは23mの前方後円墳だが、「帆立貝式古墳」と考える研究者もいる。これは前方部の長さが短い古墳のこと。確かに航空写真ではそう見え、等高図とは印象が異なる。築造時期は3世紀半ばから後半と考えられている由。 中山大塚古墳 この先にあったのが中山大塚古墳。墓の中に古墳らしきものが見えたためたまたま撮った。これが全長130m、後円部の高さが11.3mの前方後円墳で、箸墓古墳に次ぐ最古級の古墳であることを後日ネットで調べて知った。 この周囲には継体天皇の皇后である手白香皇女衾田陵など、数多くの古墳があるようだ。考古学ファンとしてはまさに垂涎の的だが、時間がないため先を急いだ。<続く>
2014.11.18
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<漂流する神と仏> 狭井神社の小社 1人の神官が足早に私達を追い抜いて行った。さて、そんなに急いでどこへ行くのだろう。神官はつかつかととある小社の前に進み、拝礼した。そこからが狭井(さい)神社の境内だったようだ。ここは大神神社の摂社の一つである。 拝殿への石段 拝殿は工事中のようだが、この裏側に神社の名の由来になった井戸「狭井」があるようだ。そこから湧く水は薬水と呼ばれ、昔から万病に効くとされて来た由。正式な名称は狭井坐大神荒魂(さいにいますおおみわあらみたま)神社である。 狭井神社境内の小社(左)と三輪山登拝口の注意書き(右) この境内に三輪山への登拝口がある。大神神社で私はある方から、三輪山の頂上に磐座があること、登りに1時間半、下りに1時間かかることを聞いていた。注意書きには山は大切な神域なので食事や撮影は禁止し、決して汚さないよう記されていた。登拝希望者は先ずここでお祓いを受け、初穂料を納めてから登るようだ。登りたい気持ちは山々だったが、先を急いだ。 白大社 暫く行くと、道端に小さな社があった。なかなかの風格だ。これも大神神社の摂社なのだろうか。傍らに「白大社」と書かれた石碑が立っていた。小さいけど大社とはねえ。さらに街道を行くと、不思議な雰囲気の一角があった。一体ここは何なのだろう。そう思って私は石仏や石塔を見ていた。 そこへ1人の老人がやって来て、私に教えてくれた。これらはある高僧の墓だと言う。明治になって別な場所からここに移され、新しく作られたものとのこと。道理で形は古いものなのに、そうは感じなかった訳がわかった。それでも実に清らかな印象を受ける。大神神社の一帯は清浄の地として、昔は墓を作らなかったそうだ。 帰宅後に調べたら、ここは玄賓庵と言うお寺の付近。元は別な場所にあったのだが、明治の神仏分離の結果ここに移動したようだ。玄賓僧都(げんぴんそうず)は桓武天皇、嵯峨天皇の信任を断り、三輪山の庵で修行に明け暮れた高僧の由。きっとそれで清浄な雰囲気が漂っていたのだろう。 護摩木を売る店 道の傍らには護摩木が置かれた店があった。こんな静かな山中で、一体誰がこの護摩木を買うと言うのだろう。考えて見れば実に不思議なのだが、さほど違和感がない。先刻出会った「杉玉作り」もそうだが、ここには未だに信仰が深く息づいている地域なのだと思う。 檜原神社社務所 暫く行くと檜原(ひばら)神社の境内に出た。ここは大神神社の最北端の摂社。しかも最も社格が高く、かつ古い歴史を有している由。三輪山が御神体であるため、ここには神殿も拝殿も存在しない。境内の建物はきっと社務所なのだろう。何とシンプルな神社。だがそのシンプルさこそが貴重なのだ。 神社の名を記した標識が立っている。右側に「聖跡倭笠縫邑」云々の文字が読める。古代史ファンの私はどこかで聞いた覚えがある。帰宅後の調査でこの神社も明日香村の飛鳥坐神社同様に、「元伊勢」と呼ばれていることが分かった。倭笠縫邑は「やまとのかさぬいむら」と読む。倭は大和国(奈良県)で、邑(むら)は行政単位ではなく、一集落の意味だろうか。 檜原神社 境内の最奥部に静まり返った一角がある。得体の知れない厳かな雰囲気だ。かつて皇祖神である天照大神(あまてらすおおみかみ)は皇居内で祀られていた。いわゆる「同床共殿」だ。ところが第10代崇神天皇がこれを恐れて皇女鋤入姫命にその神霊を託した。皇女が最初に辿り着いたのがこの社が鎮まる「笠縫邑」だったのだろう。もちろん記紀(古事記と日本書紀のこと)に伝わる伝説だが、最終的に伊勢神宮に鎮まるまで90年を要したと言う。 神籬拡大部 神霊が臨時的に宿る場所を神籬(ひもろぎ)と呼ぶ。檜原神社境内の最奥部の静かな一角が、まさにそれだったのだ。神籬は小さな木の枝や岩とされる。天照大神の神霊はこの場所で何年休んでいたのだろう。なお、神籬の前に立つ鳥居は、「三輪鳥居」と呼ばれる特異な形のもののようだ。 神の漂流は果たして何を物語るのだろうか。「神武東征伝説」によれば、日向を旅立った神武の一行は瀬戸内海を通過し、難波の地から倭(大和)へ入ろうとした。だがここで手長足長と言う兄弟に行く手を阻まれ、ヤタガラスの先導により紀伊半島を大きく迂回して伊勢から入ったとされる。ひょっとしてこの伝説と関係はないのだろうか。素人の古代史ファンは、そんなストーリーを描いてみたのだが。<続く>
2014.11.17
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<神の正体は?> 平等寺 暫くするとコンクリート造りの明るいお寺に出た。平等寺と言うらしい。寺伝によれば聖徳太子の開基とのことだが、旧町史によれば空海開基説があり、奈良興福寺の末寺だったようだ。しかし何故こんな近代的なお寺になったのかが不思議。 平等寺の塔 ここは神仏混淆時代、当時三輪明神と呼ばれていた大神(おおみわ)神社の神護寺だったようだ。それが明治になって神仏分離が進められた時に、寺は破壊されたそうだ。ようやく再建出来たのが昭和52年。それでコンクリート造りになったのだろう。これは帰宅後の調査で知った。 境内の一角に聖徳太子の立像があった。太子が建立した7つの寺の中にこの寺の名前はないが、「由緒」など所詮そんなものかも知れない。 暫く行くと、街道の傍で「杉玉」を作っている店があった。大神神社に捧げる由。杉の枝は脇に積まれていただけだが、私が丸く加工して遊んでみたもの。 さて、杉玉は新酒が出来た際の酒屋の目印だとばかり思っていたのだが、どうやらそれだけではなかったようだ。これも後日知ったのだが、元々は酒の神様に感謝して捧げるものらしい。そして大神神社は酒の神であり、杉玉は神社の杉にあやかったのだとか。ふ~む。 大昔、酒は炊いたご飯を乙女が口で噛み、それを吐き出して作ったと言われている。恐らくは唾液に含まれる酵素が発酵を促したのだろう。日本語の「醸す」(かもす)は「噛む」から変化したとも言われている。そうして出来上がったのがお神酒(みき)。つまり神様に捧げる酒だ。それだけ米は人々の暮らしにとって尊い存在で、それを原料にした酒も先ずは神に献じたのだろう。 やがて鬱蒼とした杉木立の中に、大神神社の境内が見え始めた。ここは大和国一宮。わが国でも最古の神社の一つと伝わっている。神殿はなく、標高467mの三輪山そのものが御神体だ。頂上には磐座(いわくら)があり、昔から磯城(しき)氏の族長自身が祭祀を行って来た由。神官は代々三輪氏が務めているが、三輪氏は古代豪族である磯城氏の末裔と称している由。 三輪山遠望 山頂は境内からは見えず、写真は6kmほど先で撮ったもの。姿が美しい山は太古から神奈備(かんなび)山と呼ばれ、日本人の尊崇を集めて来た。富士山、筑波山、岩木山、大山などがそうだ。社殿が無く、山自体が信仰の対象と言うのは神社の最も古い形で、その後時代が経つと祭祀した頂上に奥宮が建てられ、中腹の中社、麓の本社と次第に里へ下りて来る。きっと人間が楽に参拝出来るよう変化したのだと思う。 拝殿 こちらが拝殿で国の重要文化財に指定された堂々たる建造物。静まる境内には我が国最古とされるだけの雰囲気が漂っている。 境内の一角に柵で囲まれた場所があり、そこに苔むした岩があった。これは頂上の磐座を模したものだろうか。昨日の写真と比較すれば、磐座の畏さは一目瞭然。白砂の上には御幣が鎮まっていた。 拝殿内部とヘビのいる手水舎 祭神は大物主神で、その正体はヘビなのだとか。また大物主は大国主命(おおくにぬしのみこと)の別な姿とされていて、出雲大社の祭神でもある。記紀によれば少なくとも6人以上の妻を持ち、生まれた子供の数は180人以上。それらは神話であるとしても全容を把握するのはなかなか困難だ。つまり日本一古い神社は、それだけ各地の伝説を取り入れる必要があったのだろう。それは古代の天皇が有力豪族に協力を頼まざるを得なかったことと良く似ている。 祀られた石(左)と枯れた大杉のご神木(右) ヘビは今でもご神木の杉の根元に棲んでるそうだが、そこへの立ち入りは禁止されている。酒の神でヘビ。頂上の磐座とそれを祀った古代豪族。天皇や出雲との関係や、摂社檜原神社と伊勢神宮との関係。記紀の神話にある妻子の数。日本の神とは一体何者なのかは分からないが、その混沌がきっと日本らしさなのだと思う。 なにごとのおわしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる 西行法師が伊勢神宮で詠んだ歌だが、漲る聖気に思わず涙をこぼす霊力が神域にはあるのだろう。 土の坂、そして石畳の坂。厳しい山の辺の古道はさらに先へと続いている。<続く> 昨日のブログに、明日香村の方がわざわざコメントを下さった。私にとってはとても嬉しい出来ごとで、心から感謝している。また「山の辺の道」を書き始めて驚いた。まだ写真をほとんど整理してなかったのだ。そこで昨日は200枚以上の写真を慌てて整理した。1枚毎にサイズと名前を決め、時には形を変える作業はなかなか辛いものがある。それに歴史的な事実などの確認が加わる。旅日記も、旅と同じくらいのエネルギーが必要だ。
2014.11.16
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<道に迷う> 橘寺にて 明日香村に滞在したのは7時間ほど。そしてその間に訪れたのが13か所だった。帰宅してから改めて観光地図を見たら、行きたかった個所が半分以上残っていた。それだけ明日香村には歴史的な遺産が多いと言うことだろう。だが、この村を再び訪れることはもう不可能で、頭の中で想像する以外にない。それでも夢を観る楽しさだけは味わえるかも知れない。 橘寺境内 今回の奈良旅行に際して、私は古本屋で4冊の本を買った。明日香村と山の辺の道を確認したかったためだ。出来るだけ正確な地図を観て、それを頼りにする気持ちが私には強い。現地に行けば詳しい観光地図が得られるとは思ったが、油断は禁物。だが、実際は明日香村でも山の辺の道でも何度か道に迷った。決して強がる訳ではないが、自分ではそれもまた何かの勉強だと思っている。 街道沿いの文旦 11月7日(金)旅の3日目。桜井駅前のホテルを8時半に出発。いよいよ念願の山の辺の道を歩くのだ。距離は最低でも15kmにはなるはず。朝食は夕食に比べてかなり粗末だった。宿で作ってもらった弁当2個が入ったリュックは結構重たい。駅でコース図を入手。これを見ながら歩き出したのだが、最初から躓いてしまった。地図に書いてあった山の辺の道の入口までの距離を、私はうっかり見落としていたようだ。 1.5kmほど行き過ぎてから違うことに気づいた。最初に道を訪ねたお爺さんが間違って教えてくれたことを、迷子のせいには出来ない。全ては自分の地図の見方が悪かっただけ。最初から往復3kmほどのロス。ようやくスタート地点を見つけた時の嬉しさ。喜び勇んで大和川に架かる橋を渡った。かつては日本一汚れた川だったが、この辺にその面影はなく、むしろある種の清らかさを感じた。 それもそのはず、この付近が我が国に初めて仏教が伝来した地なのだとか。海柘榴市は「つばいち」と呼ぶ。交通の要衝で、古代から「市」が栄えていた由。随や百済などの使節が大和川を舟で遡り、ここまで来たようだ。川岸には港があった由。ここから明日香までは馬か歩いて行ったのだろう。この静かな住宅地に、かつてそんな栄光の日々が存在したとは。 金屋の石仏 付近には「金屋の石仏」があった。平安後期から鎌倉時代にかけて作られたもので、凝灰岩に弥勒菩薩(左側)と釈迦如来(右側)が浮き彫りにされている。それは帰宅後に知ったことで、当日は仏教伝来との関係を考えていたのだ。 左側が山の辺の道の入口で、右側が古代の街道図。今回歩いた山の辺の道が一番右側の曲がりくねった道で、奈良盆地の東縁を山裾を縫うように通っている。桜井市の三輪山の麓から奈良市の春日山の麓まで続くが、天理市以北は途中から不明個所がある由。これが我が国の歴史に残る最初の道で、さらに明日香へと繋がっていた。 持統天皇4年(680年)の藤原京の造営に前後して、新しい真直ぐな道が造られた。最初に出来たのが上ツ道で、これにより山の辺の道の通行は激減した。次いで中ツ道、下ツ道が整備され、その後も新たな直線の道が造られた。これらは当時官道として整備されたのだが、平安以降その機能は消滅したようだ。結局はその後に造営された平城京との連絡道路だったのだろう。 間もなく藪の中に1本の標識を見つけた。「磯城瑞籬宮(しきみずがきぐう)」とある。これは面白そうと思って小さな神社の境内に入る。ここは崇神天皇の都があった場所のようだ。天皇の名も宮の名も知ってはいたが、何か嘘臭い。白々しい雰囲気で、全くオーラが感じられないのだ。果たして崇神は何代目の天皇だったか。そう思っただけで、再び山の辺の道に戻った。帰宅後に確かめたら彼は10代目だった。 歴史学の定説としては初代の神武から第9代の開化までの天皇は実在しないと考えられている。第10代の崇神から第14代の仲哀までの天皇も実在が妖しいと考える研究者は多い。私があの境内で直感的に嘘臭いと感じたのは、きっと古代からそこが本当の祈りの場所でなかったせいだろう。宮跡の石碑は大正時代に建てられたものらしいが、既に100年以上経過した歴史の重みが、私には全く感じられなかった。 磐座部分拡大図 ここは志貴御県坐(しきのみあがたにいます)神社。鳥居の後の岩は磐座(いわくら)であることを、昨日ネットで調査中に偶然知った。磐座は本来山上にある自然石。天から降りた神が鎮まった場所で厳粛な祈りの対象(神社の原型)だが、ここのはいかにも取って付けた急造の感じ。なお付近の三輪山頂には、「本物」の磐座が存在するそうだ。 我が国最古の豪族と伝えられている磯城(しき)氏も、その存在を疑う研究者が多い由。初期の天皇は磯城氏との関係が深いそうだ。私がこの境内で全く崇高さや厳粛さを感じなかった理由は、案外その辺にあったのだろうか。これは最初から不思議な話だ。<続く>
2014.11.15
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<明日香村アラカルト> 明日香村の風景 歴史的な内容のブログは下調べに何時間かかかり、1回の文章を書くのにも最低2時間以上はかかる。ほとんど何も知らないからだが、何をどう調べたら良いかは分かる。それまでに知っていたこと、旅先の現地で知ったこと、そして帰宅後にネットで調べて分かったこと。それらをミックスして書いているが、新たな知識が広がるのがとても嬉しい。「現場」を観ることで学んだことが1つに繋がり、これまでの謎が解明されることが多いからだ。 明日香村の集落 昨日は原稿を書いている途中に、突然システムが不安定になった。初めての現象だが、何かウイルスが侵入しようとしたのかも知れない。一旦セーブして電源を切った。強力なウイルスバスターが効いたのか、再開後は保存されたデータがスムーズに動いてくれた。一体あれは何だったのだろう。ネットの世界では時々こんな不可思議なことが生じる。さて、今日は明日香村の最終回。説明は最低限に抑えたので、出来るだけ写真を楽しんでいただきたい。 橘寺境内 橘寺の仏像 橘寺本尊 聖徳太子35歳時の座像 境内の馬像は太子の愛馬の由。太子は蘇我氏と共に排仏派の物部氏と戦っており、馬にも乗ったのだろう。 石舞台古墳 蘇我馬子の墓と言われている石舞台古墳は巨大な方墳で、使用された石材の総重量は約2300トン。こんな巨大な古墳を築いたのが古墳時代で、大化の改新後に発布された「薄葬令」により、巨大な墓の築造は禁止された。命令を出した天智天皇自身の陵墓も、それまでの天皇のものに比べたらかなり小規模になった。 飛鳥寺の仏像。右側の聖徳太子孝養像は16歳時の太子像で、製作は鎌倉時代。 飛鳥寺の古代瓦で、創建当時に使用されたもの。 左側は飛鳥寺の古代瓦。これは龍だろうか。恐らくは鬼瓦として用いたのだろうが、とても珍しいものだと思う。右側は飛鳥寺の彩色のない曼荼羅図。 左側は今はない飛鳥寺金堂の礎石。右側は飛鳥寺の鐘楼。 飛鳥坐(あすかにいます)神社。これがエロチックな奇祭を演じる舞台だろうか。 飛鳥坐神社境内の一角にある小さな社。4柱の祭神のいずれかが祀られているのだろうか。 これは創建当時の飛鳥寺だろうか。(埋蔵文化財展示室所蔵) 丘の上から美しい都城を見下す男女の姿。これはきっと華やかだった飛鳥時代の想像図だろう。(埋蔵文化財展示室所蔵) この後私達は桜井市へ移動して一泊。翌日は「山の辺の道」を歩いた。明日からは新シリーズ「山の辺の道を歩く」を開始する予定。引き続きどうぞお楽しみに~♪
2014.11.14
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飛鳥坐神社 「水落遺跡」を探しあぐねているうちに村落の外れに出た。丘の上に飛鳥坐神社(あすかにいますじんじゃ)があるようだ。名前は聞いたことがある。そこで妻と丘へ登った。神社があったが、さらにその上にも何かがあるようだ。行って見ると小さな社があった。ここで出会った人が、この神社にはとても変わった祭があると教えてくれた。何でもセクシーなお祭りなのだとか。 旧社格は「村社」だが、延喜式神名帳にも載っている古社のようで、日本書紀の朱鳥元年(686年)7月の条にも記載がある由。天長6年(829年)現在地に遷宮した記録が残されているが、元の場所がどこかは不明。祭神は事代主命(ことしろぬしのみこと)はじめ4柱だが異説がある。天武天皇の病気平癒を祈願したとの社伝があり、近世には「元伊勢」と呼ばれていたようだ。 それらは帰宅後に調べて分かったことで、この時はまだ何も知らない。ただ、境内にいると、何か不思議な雰囲気をビシビシ感じたことは確か。建物がどこか不自然な感じを受けたが、最近他の神社の建物を移築した由。ああやはりそうだったのかと、今になって納得している。 奇祭のことを後日ネットで調べた。天狗の面をつけた「男」と、お多福の面をつけた「女」が舞台の上で夫婦和合の営みを滑稽な仕草で演じるらしい。いかにも古代のおおらかさを感じる祭だ。古代、筑波山頂では、年に1度だけ他人の妻との自由恋愛が許されていた。ここが明日香村での11番目の訪問先だった。 水落遺跡 12番目の訪問先は水落遺跡。場所は飛鳥坐神社の帰途にようやく発見。昭和47年(1972年)民家建築の予備調査時に遺跡の存在に気づき、それ以来10年以上かけて本格的に発掘調査を行った結果、日本書紀天智天皇10年4月25日の条に記載のある漏刻(水時計)及びその付属施設であることが判明した。 ネットからの借用資料 発掘調査によれば、ここには楼状の建物の他に水利施設、4棟以上の掘立柱建物などがあったことが分かった。次に立ち寄った「埋蔵文化財展示室」に、水落遺跡関係のものと思われる遺物や写真があったので、参考までに載せておきたい。 恐らくはこの写真が水落遺跡のもの。つまり当時の漏刻(水時計)の構造物だ。遠方から水を通すための地下構造物もある。 これは水を貯める「桝」(ます)と、そこから水を流すための設備だろう。 これは石製の水道管と思われる。このような設備を作れたのは、百済の渡来人の石工以外にいないはず。当時の技術の高さを知る貴重な遺物だが、明日香村の地下には未だ知られていないたくさんの歴史的遺産が、数多く眠っているのだろう。 都城模型 最後に立ち寄ったのが「埋蔵文化財展示室」。13番目の訪問先の入場料は無料だが、ここには飛鳥時代の歴史資料がたくさん展示されていた。最初の模型は都城で、恐らくは「板蓋宮」だと思われる。 同上 以下は村内の古墳などから発掘された遺物を復元したものだろう。見事なものが多いので紹介したい。 王冠 鏡 装飾品 装飾品 馬具の一部 閉塞石(古墳石室内部の扉代わり) 具注暦(ぐちゅうれき=当時のカレンダー) この後私達は帰途に着いたのだが、途中で再び道に迷った。村内をグルグル廻るうちに、方向が分からなくなったようだ。<続く>
2014.11.13
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<ジグザグの古代史探訪> 橘寺の境内にて 自転車で明日香村を訪ねる旅は観光地図を見ながらなので、歴史の順番通りとは行かない。道もそうだが歴史の順番もジグザグだ。7つ目の訪問先は橘寺。聖徳太子が建立した7つの寺の1つで、父である第31代用明天皇の別宮を寺に改築したと伝えられている。寺の名は、不老長寿の果物と信じられていた橘の実を植えたことに因む。 聖徳太子はこの地で誕生した由。彼にとっても思い出深い地だったのだろう。寺の直ぐ傍に、「聖徳太子御誕生所」の石碑が立っていた。ただし聖徳太子の名で呼ばれたのは、彼の死後のことだ。 境内の一角に馬の像があった。これは太子の別名「厩戸皇子」(うまやどのおうじ)に由来するのだろうか。祀られているご本尊は、太子が35歳時の座像と伝えられている。 橘寺境内 秋の日差しを浴びる境内は静寂そのものだった。天皇の子でありながら皇太子(摂政)のまま生涯を終えた太子。その太子に4人の妃がいることを、今回初めて知った。彼は有力な豪族である蘇我氏の血を引き、妃も蘇我氏の出自だとばかり思っていたのだがそうではなく、国宝「天寿国曼荼羅繍帳」(法隆寺蔵)を作らせた橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)も妃の一人で皇族だった。 石舞台古墳外観 8つ目の訪問先は「石舞台古墳」。その巨大さは傍に立つ人と比べたら良く分かるだろう。この古墳は蘇我馬子の墓と言われている。大化の改新により彼の孫である蘇我入鹿は中臣鎌子(藤原鎌足)らに暗殺され、彼の子である蘇我蝦夷は自殺した。そのため祖父馬子も反逆者の一族として墓を暴かれたのだろう。元々は土で覆われていたはず。その土を剥ぎ取られ、石室は露わになり、石棺まで破壊された。古代日本最大の豪族蘇我氏は、こうして歴史から消えて行った。 石室内部 石室内から外部を見た図。写っているのは妻だが、これで古墳の巨大さが分かるだろう。巨大な花崗岩は付近の多武峰(とうのみね)から切り出され、運ばれたもの。蘇我氏は天皇家にも劣らぬ権力を振るい、聖徳太子の妃の一人である刀自古郎女(とじこのいらつめ)は馬子の娘であった。 復元された石棺 板蓋宮跡 655年に皇極天皇が斉明天皇として重祚(ちょうそ=同じ人が2度天皇になること)し、板蓋宮(いたぶきのみや)で即位した。板蓋は瓦葺きでない粗末な宮殿だとばかり思っていたのだが、当時の家屋は草葺き、わら葺き、茅葺き(かやぶき)、檜皮葺き(ひはだぶき)が一般的で、製材製板の技術が遅れていた当時としては最先端のもので、瓦は寺院だけで用いる貴重品だった由。 板蓋宮跡 ここ板蓋宮跡が私達の9番目の訪問先になった。規模としてはかなり小さな宮殿だったのだろう。 板蓋宮跡 真ん中の方形の囲いは井戸の跡だろうか。 飛鳥寺裏門 10番目の訪問先は飛鳥寺。当時は法興寺、元興寺(がんごうじ)と呼ばれ、飛鳥寺は別称。平城京遷都の際は元興寺も奈良へ移った。飛鳥寺は596年に蘇我馬子が建立した日本最古の寺で、蘇我氏の氏寺。崇仏派の蘇我氏は排仏派の物部氏と戦って勝利し、それ以降仏教は国の中心思想として重要視される。現在の正式な名称は安居院。 本尊の飛鳥大仏(釈迦如来像)は製造年代の分かる現存の仏像としては我が国最古のもの。百済からの渡来人が605年に造り始め、翌年に完成した。火災に因る損傷の跡が残されている。 寺の秘仏(左)と入鹿首塚(右) 大化の改新(乙巳の変=い(お)っしのへん、645年)により、大臣であった蘇我入鹿は暗殺され、斬首された。その首は、祖父の馬子が建てたこの寺の傍らに葬られた。政変の後、一族の蘇我倉山田石川麻呂が大臣となったが、古代豪族蘇我氏がそれ以降歴史の表舞台に立つことはなかった。 飛鳥時代はわずか100年余りの短い時代だが、その間遣隋使の派遣、朝鮮半島への遠征、大化の改新の政変などの歴史的な大事件が次々に起き、国際的な競争に打ち勝つべく律令国家体制を急速に整えた慌ただしい時代でもあった。 この日の昼食は、奈良の名物である「柿の葉寿司」を、明日香村で食べた。<続く>
2014.11.12
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<27年ぶりの明日香村> 私が明日香村を訪れるのは2度目。初めての訪問は27年前のことだった。後輩が奈良国立文化財研究所に勤務していたこともあって、車で案内してもらったのだ。だが今回は自分自身がペダルを漕ぎ、地図を持って日本の古代史を巡る旅だ。 日本の歴史が旧石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代と続き、その後の飛鳥時代がここ明日香村で始まったことぐらいは私も知っているが、正確な知識は持ち合わせていない。そこで理解を助けるために、簡単にこの時代を紹介したいと思う。538年 仏教伝来588年 蘇我馬子、法興寺(飛鳥寺)の造営を開始592年 推古天皇が豊浦宮で即位593年 聖徳太子が摂政となる603年 冠位十二階を制定 推古天皇が小墾田宮に遷宮。豊浦寺造営開始。606年 飛鳥大仏完成607年 小野妹子などを遣隋使として隋に派遣 630年 第1回遣唐使を派遣641年 山田寺の造営開始645年 中大兄皇子らが蘇我入鹿を暗殺。蘇我蝦夷自殺(大化の改新) 孝徳天皇が難波長柄豊碕宮に遷都646年 大化の改新の詔。薄葬令公布655年 皇極天皇が重祚して斉明天皇となり、飛鳥板蓋宮に即位660年 中大兄皇子が漏刻(水時計)を作る(水落遺跡)663年 白村江の戦いに敗北。百済、任那が滅亡し新羅が朝鮮半島を統一672年 大海人皇子が壬申の乱で勝利し、天武天皇となって飛鳥浄御原宮で即位683年 我が国最古の貨幣である富本銭を鋳造 人口がわずか6千人にも満たず、いまだに減少を続けているこの小さな村に、かつて我が国の最初の律令国家が誕生し、その後の発展の礎を築いたことに驚きを禁じ得ない。この後歴史の舞台はこの地から次第に遠ざかって行くのだが、明日香は今でも日本人の心の故郷のように感じている。 694年 藤原京(橿原市)に遷都701年 大宝律令制定707年 和同開宝鋳造710年 平城京へ遷都712年 古事記完成720年 日本書紀完成 飛鳥時代の服装 最初に訪れたのが高松塚古墳。27年前は壁画の修復工事のため閉鎖されていたが、今は原状に戻っていた。付近の壁画館で壁画の複製などを観た。複製とは言え、いずれも見事なものだ。 玄武(亀神) 鏡 吉備姫王墓 次に訪れたのが吉備姫王(きびひめみこ)の墓。彼女は皇極(斉明)天皇、孝徳天皇の母で欽明天皇の孫に当たる。この墓陵内に4体の猿石と呼ばれる石造物がある。 山王権現 女僧(左)と男 欽明天皇陵 欽明天皇は第29代の天皇で在位は32年間。彼の時代に百済から仏教が伝来した。 欽明天皇陵外観 天武天皇持統天皇陵墓 天武天皇は7世紀後半の第40代天皇で天智天皇(中大兄皇子)の弟。天武天皇の薨去後、皇后が即位して持統天皇となり、死後は檜隈大内陵に合葬された。 陵墓模型 埋蔵文化財展示室にあった陵墓の模型。檜隈大内陵は当時としては珍しい八角形をしていた。(天智天皇陵=京都市山科区も同形) 陵墓外観 外部からは陵墓が八角形をしていることは分からない。この後、私達は「亀石」を見学した。この周囲には大勢の中学生が歴史の学習に来ていて、熱心にメモを取っていた。 亀石 村内にはこのような謎の石造物が数多く存在しているが、その多くは使途が不明のままだ。恐らくは百済から渡来した石工の手によるものではないかと思われる。<続く>
2014.11.11
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<最後の冒険旅行> 今年の旅は容易ではない。そう思いつつ計画を立てた。案の定夏は厳しく、昨年同様体調が悪化した。動悸が激しく胸が苦しい。これで旅行するのは到底無理。そう判断して過去2度不整脈の手術を受けた総合病院を訪ねた。担当医も困惑したようだ。新しい薬を試し、それでも軽快しない場合は入院して心臓に電気ショックを与える由。電気ショックで心臓を動かすのではなく、一瞬止めて不整脈を断ち切るための措置だ。 結局「電気ショック」を受けて、私の古稀を家族で祝う大阪旅行も無事済んだ。だが帰宅後再び不整脈が発生し、それまでの経緯を全て通院中の循環器内科のMドクターに説明した。薬をより強い内容に切り替え、血栓予防剤も併せて服用することになった。問題は副作用だが、どうやら新しい薬に体が馴染んだようで、激しい動悸は何とか治まった。一時は眠っていても130回ほどの動悸で、常にマラソンをしてる状態だったのだ。 新しい薬のお陰で、10月に予定していた長野、群馬、埼玉、東京への旅へも行けた。さらには10月末の沖縄でフルマラソンの「久米島マラソン」を制限時間外ながらも完走することが出来た。当日は30度の真夏日だった。この夏は昨年同様体調が悪く、一時は命の危険性すら感じたほど。それで急遽病院で治療を受けたのだが、まさか全てが計画通り実行出来たとは。ここまで来れたのはまさに奇跡。そして最後に残ったのが、今回の奈良旅行だった。 仙台~京都間は往復共長距離夜行バスを利用する。片道11時間ほどの長旅で、眠れなければ体調を崩すのは必定。そして初日は明日香村をレンタサイクルで巡り、2日目は「山の辺の道」を終日歩く。これは少なくても15kmにはなるはず。重たいリュックを背負っての歩き旅で、妻も一緒に行きたいと言うが本当に大丈夫だろうか。そして3日目は未定。2日間でどう体力を消耗し、どんな健康状態か、それを見極めながら現地で判断するしかない。私はそう考えていた。 奈良の夜明け 妻からもらった睡眠薬のお陰で、夜行バスではぐっすり眠れた。途中腰が痛くなって何度か目覚めたものの、その都度再び深い眠りに落ちた。我ながら案外元気で京都に着き、そこから近鉄で明日香村へ向かった。2度の乗り継ぎも新鮮な経験。誰もいない飛鳥駅前でパンを食べ牛乳を飲み、トイレを済ませて観光パンフも入手した。レンタサイクルは坂の多さを考慮して電動アシスト付きのを借りた。1日1500円。これで世界的に有名な歴史の村を、出来る限り訪ね廻るのだ。 飛鳥駅前の須弥山石像 飛鳥駅前の須弥山がとても立派。これは模造品だが、こんな素晴らしい歴史遺産がたくさん残されているこの村は、一体何と言う不思議な存在なのだろう。邪魔な荷物は全てコインロッカーに預け、必要なものだけを小さなリュックに移し替えた。さあ今日はどんなものに出逢えるか楽しみだ。これも元気だからこそ可能な旅。先ずは健康であることに心から感謝だ。こうして私達夫婦の歴史の旅の第一歩は始まった。<続く>
2014.11.10
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先週水曜日の夜から出かけていた奈良の旅から無事帰宅しました。長い間留守にしましたが、この間にもコメントをいただきありがとうございました。またブログ友の皆さまの所にお邪魔出来ず、申し訳ありませんでした。 今回の旅では400枚近い写真を撮りました。少しずつ整理をしながら旅日記を書きたいと思っています。長い間のご無沙汰を謝し、取りあえず今日は簡単なご報告をしておきますね。11月5日(水)仙台発大阪行きの夜行バスに乗車。11月6日(木)京都駅八条口で下車し、近鉄で明日香へ向かう。終日レンタサイクルで明日香村の歴史探訪。 夜は桜井市のホテルに1泊。11月7日(金)桜井市からスタートし、「山の辺の道」を天理駅まで歩く。途中何度か道に迷い、歩いた距離は合計で19kmほど。11月8日(土)天理市をスタートして斑鳩の里へ。法隆寺、中宮寺、法輪寺、法起寺などを散策。その後バスと電車で平城京跡へ移動。再現なった朱雀門、大極殿などを見学。おりしも開催中の「平城宮天平祭」を楽しむ。その後京都市へ移動し、ライトアップされた夜の東寺を鑑賞。京都駅前から夜行バスに乗車し、翌朝仙台駅へ到着。今回はかなりの強行スケジュールでしたが、なんとか健康を損ねることなく無事帰宅出来て幸いでした。 草で作った鳳凰(明日香村の公園にて) 高松塚古墳の壁画(歴史公園の模写) 奈良盆地名産の柿。今回の旅でもたくさん食べました。 聖徳太子が誕生した橘寺のお地蔵様 歴史街道の案内図。奈良県内は歴史の宝庫です。 日本最古の街道「山の辺の道」の地図の一部。私達も途中で何度か迷いました。 スタートにほど近い大神(おおみわ)神社の境内にて。 街道の周辺にはたくさんの柿畑があり、柿の葉がきれいに紅葉していました。 私が法隆寺を訪れたのは中学校の修学旅行以来57年ぶりのことでした。 平城宮跡地に「朱雀門」が復元されていました。その後に復元された大極殿も見ることが出来、長年の夢を果たすことが出来ました。 今回は往復とも夜行バスを利用し、片道11時間ほどバスに乗りました。腰が痛くなりましたが、何とか眠ることが出来て幸いでした。 旅の模様は、明日からぼちぼち書かせてもらう予定でいます。どうぞお楽しみに~♪
2014.11.09
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本日はこれが2回目です。1回目(本シリーズ8回目)のもご覧いただけると嬉しいです。<南の島の思い出をありがとう♪> 奥武山グラウンド 10月27日月曜日。私は第1便で久米島から中継地の那覇空港へと向かった。仙台行きのフライトまで、約5時間の待ち合わせ。それを利用して那覇市内へ行く。最初に訪れたのは奥武山。モノレールから降りて、グラウンド周辺を歩いた。ここは12回参加したNAHAマラソンのスタート地でもあり、ゴールでもあった懐かしい場所。沖縄の走友達と集まって走ったレース。今後再び訪れることはないはず。そう思いつつ無人のグラウンドを黙って見つめた。 福州園 次に訪れたのが福州園。この中国式の庭園は、沖縄がかつて琉球王国時代に交流があった証として中国の福建省から贈られたもの。付近には当時中国人が住んだ久米村があった。実は今回私が走った久米島も、王朝時代に難破した中国船を助けた縁で必ず進貢船が立ち寄ることになった経緯がある。確かに沖縄にとって中国は、日本同様に身近な国だったのだ。 ヘチマ料理 さらに歩いて国際通りへ行き、平和通りの花笠食堂でヘチマ定食を食べた。沖縄では若いヘチマは野菜として使う。とろみがあって実に美味しい。お吸い物はナカミ(豚の腸)でご飯は赤飯。モズクの酢の物付きで800円。安くて美味くて栄養満点。私はここの沖縄家庭料理が大好きだ。 楚洲の小母さん 市場の中のお菓子屋さん。そこに楚洲(そす)の小母さんが勤めている。私がこの店に立ち寄るようになってから、もう10年になる。小母さんは私のことを「マラソンの人」と呼び、私は「楚洲の小母さん」と呼んでいる。楚洲は沖縄本島北部の小さな集落で、私はたまたまその地名を知っていたし、たった1人で沖縄本島を走って一周した時も、小母さんの故郷を通ったことがある。戸数はわずか5戸ほどの淋しい僻地だった。 おまけのお菓子 今回も小母さんの店でお菓子を買った。小母さんは元気そうに働いていた。歳は私より2歳くらい上の感じ。元気そうな顔を見て安心した私に、小母さんは今回も黙って「おまけ」をくれた。その黒砂糖が入った甘いお菓子を機内で食べた。小母さんと会ったのは3年ぶり。これからはもう会える機会があるかどうか分からない。ありがとう小母さん。どうか元気でいてね。俺も何とか元気で生きて行くから。 笑うシーサー 今回の旅では色んな人と出会い、久米島に来た各地のランナーともずいぶん話した。選手受付の当日、ビラを配っている青年がいた。来年3月に名護市を舞台にした沖縄本島で初めての100kmマラソンを開催する由。私が長年走りたいと願っていたコースだった。そのコースも風景も私は良く知っている。ただ西海岸から東海岸へ抜ける山道だけはまだ走ったことのない未知の道。魅力は感じたが、今の私に走破するだけの力は既にない。 舌を出すシーサー そのパンフレットは那覇空港で北海道のTさんに上げた。彼女は77歳。「サロマ」を連続19回完走した日本のトップランナーだ。だが70歳の時に初めて100kmを完走出来ず、それ以来50kmとフルマラソンに転向した由。今でも年に2回は外国のマラソンを走り、沖縄も大好きな彼女。77歳にして未だに夢を追っている彼女にこそ貴重なパンフレットを譲るべきだと私は思った。何度も頭を下げながら、彼女は嬉しそうに去って行った。 琉球ガラス レース当日体育館の中で隣り合わせたKさんは北海道出身だが、奥さんの実家がある沖縄本島南部の糸満市に移住しガラス職人をされている由。NAHAマラソンの完走メダル(ガラス製)も作ったことがあるそうだ。私も持ってることを告げると、とても喜んでいた。その話を聞いていた青年や、沖縄本島からバイクに乗り、フェリーで久米島に来た中年ランナーなど、色んなランナーと話せて実に楽しかった。 サトウキビ畑 島の居酒屋でアルバイトしていたIさんは神奈川県出身で、カナダで牛の世話をしていた由。久米島でも日中は子牛の面倒を見ているそうだ。だが数日後には島でのアルバイトを止めて外国旅行に行き、その後は九州で仲居さんをする予定と話してくれた。車でホテルまで送ってもらい、別れ際に握手をした。日に焼けたたくましい彼女。その前途に幸多かれと祈る。 魔除けの石 泊ったホテルの従業員は、ほとんどが内地から来た人ばかり。これまでの沖縄旅行でも、そんな人にたくさん出会った。彼らが沖縄に惹かれるのは何故なのだろう。ランナーの中にも沖縄に移住した人が実に多い。今回も那覇のモノレールで、偶然そんな人に出会った。北海道出身のNさんだ。彼女は久米島マラソンからの帰りで、フェリーに乗った由。サヨウナラ沖縄。懐かしい島よ。次に私が来られるのは、果たしていつになるのだろう。<完>(お知らせ) 今日の夕方から妻と旅に出ます。今回の行き先は奈良。帰宅は11月9日日曜日の朝。それまで留守にしますので、どうぞよろしくお願いしますね~!! なお沖縄の写真はまだたくさん残っており、いずれ新しいシリーズを掲載する予定です。<10月のラン&ウォーク>ラン回数:10回 ラン距離:118km ウォーク:84km 月間合計:202km 年間合計:1820km うちラン:1041km これまでの累計:85411km
2014.11.05
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<宴と謎の解明> 着替えを終えて 着替えを終えた私はバス停へ向かった。だが空港方面へのバスが出るのは3時間ほど先のようだ。タクシーが何台か待っていたが、私は乗らずにグラウンドへ引き返した。前日の選手受付でもらった「食事券」を使って見ようと思ったのだ。舞台ではレース後のパーティーが開かれている。賑やかな音楽を聞きながら、私は沖縄ソバを食べた。何の具も入ってない麺だけのもの。券は500円分相当で、ソバ1杯分で終わった。 エイサーの演舞 隣の席のランナーが話しかけて来た。私が仙台から来たことを知ると、色々聞き出そうとする。来年、所属走友会のメンバーで「仙台国際ハーフ」を走りに来るそうだ。彼が試飲用の泡盛を取りに行ってる間に、私は焼き鳥を注文。やがて彼の仲間が次々にやって来て、思わぬ交流が始まった。私も沖縄勤務の経験があるため話が弾む。泡盛を何杯か飲むうち、彼らの仲間がいる場所まで連れて行かれた。 エイサーと青年達 沖縄ではレース後にこうしてグラウンド内で打ち上げパーティーをするのが普通だ。彼らは沖縄本島宜野湾市の走友会所属メンバーで、その中に第1回NAHAマラソンで優勝したA選手も混じっていた。沖縄ではトップクラスの市民ランナーだが、レース当日の朝にアキレス腱を傷め、途中リタイヤした由。親しみ易い人柄で、たちまち打ち解けた。私は彼の職業も知っていたし、彼らの市の駅伝大会にも出たことがあった。 演技を待つ人達 久米島出身のUさんも親しみ易い人で、「仙台国際ハーフ」を走ったことがある由。Aさん同様「久米島マラソン」で優勝し、招待選手に選ばれたようだ。話の輪はどんどん広がり、私のかつての職場の若いランナーまで紹介され、地元の人もやって来た。猛烈なスコールも気にならずに楽しい一時を過ごし、タイミング良く帰りのバスに乗ることが出来た。 スタート前にM黒さんと そのバスにM黒さんがいたのも偶然か。レース中に低体温になった彼だが、無事ゴールしたようで何より。レース中の私を見てどう感じたか尋ねると、「あのペースを守ればゴール出来る」と見ていた由。嘘にしても嬉しい言葉。旅先で会った同郷のランナー。2度目の沖縄移住の彼とは、ホテルの前で別れた。私は入浴後、送迎車に乗って居酒屋へ行き、ソーメンチャンプルーとゴーヤチャンプルーを食べた。 島の人々 気になっていた関門のことはその夜に調べた。「大会要項」には見つからなかったが、「プログラム」にはちゃんと載っているのに驚いた。これは選手受付時にもらったため、事前に見なかったのだ。「大会要項」に関門のことを「発見」したのは、帰宅後3日目のこと。ブログを書きながら事実を確かめるために見直した際、記載があるのに気づいたのだ。ただしコース図はとても見難く、関門のことも分かり難い場所に小さく書いてあった。 女性達の踊り 驚いた私は大会事務局宛てに早速手紙を書いた。もちろん迷惑をかけたお詫びだが、合わせて若干の意見も書かせてもらった。資料にはかなりの不備があると感じたためだ。より良い大会にするためには、改善の余地がある。ただし、外部の意見を取り入れるかどうかは彼ら自身の問題。閉鎖的な島では、役場と警察が絶対的な権力を握っている。引退する老ランナーの意見など、彼らにとっては「屁」でもないはず。 大会コース図 だが手紙は出さなかった。まだ「完走記」を書いてる途中で、「要項」を参考にする必要があったからだ。完走記が終わりに近づいた頃、もっと大きな過ちに気づいた。コース図が、関門の位置も距離もおかしいのだ。このためさらに資料を修正し、「追伸」も書いた。手紙8枚、そして修正した要項とプログラム2枚分が入った封筒を、昨日ようやく郵便局から島へ送った。 「第1関門」付近の火山地形 私が書いた長い手紙を、大会本部の人が果たして読んでくれるかどうか。書き終わり、手紙を出した後で、私は少し虚しい気持ちになった。私が書いたことなど、結局は弱者のたわごとだったのではないか。自分の都合に合わせた意見だったのではないか。そして渋々でも私を最後まで走らせてくれたのは、案外私が住む仙台市との友好関係からだったのかも知れない。人生に誤解はつきもの。そう思えば「幻のゴール」も案外悪くない。<続く> 本日はもう1回分続きます。
2014.11.05
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<老ランナーの迷走> 第9ASでは既にテントが撤収されていた。異変を感じた私はスタッフに言った。「大会要項を見せてください。要項には関門のことなど書いてないですよ」。この時に関門や制限時間が書かれた要項を示されたら、私は黙ってそれに従った。それがルールだからだ。だが、不思議なことに要項が手元になかったようだ。普通ならあり得ない話。第一ウルトラマラソンなら、第○関門(○km地点)と書かれた標識があるのが普通なのだ。 続けて私は言った。「高いお金を払ってここまで来てるんです。はっきりしないまま走るのを止められるのは困ります」。困ったスタッフは本部と携帯電話で話し出した。その間に私はお握りを1個もらって食べた。恐らくはスタッフの昼食用だろうが、他に食べ物はない。食べるものが無ければランナーは走れないのだ。 シークワーサー 「今食事中です」。携帯での連絡がさらに続いている。33km地点にも関門があると言う。埒が明かないので私は言った。「ともかく次の関門まで走ります」。するとスタッフが水が入ったペットボトルを1本くれた。私はそれを持って再び走り出した。ずいぶんここでロスしてしまった。ともかく行ける所まで行こう。 それにしてもなぜこんなことが起きるのか不思議でならない。確かに往路あのASに寄った時は、自分の体調をスタッフに話した。ひょっとしてそれを心配したのだろうか。もう道路上には誰もおらず、どこがコースなのかも分からなくなった。迷いながら赤い「コーン」を捜す。だが、空港付近で道を間違えたようだ。曲がり角にスタッフがおらず、私は右へ行った。だが、どうも様子がおかしい。 前から走って来た車を停めると、それは私が泊っているホテルの送迎車だった。たまたまレースを終えたランナーが乗っていて、「ここはコースじゃないですよ」と教えてくれた。慌てて元の場所に引き返す。約1kmほどのロス。次にタクシーを停めて聞いた。「真直ぐ行けば役場の人がいますよ」と乗っていた島の人が教えてくれた。これで少し安心。暫く行くと道端にスタッフらしいお爺さんがいた。 そこが第10ASだったようだ。私は水を飲もうとして立ち止まった。だが片付けられて、もう水がない。その途端に痙攣が起きた。それを見たお爺さんが「休みなさい」と言う。「いや、レースの途中なので走ります」。困ったお爺さんは本部と携帯電話で連絡。「本人は足切りされた意識がないよ」。そんな声を無視し、私はポシェットからアスリートソルトを出して口に含んだ。大量の発汗でミネラル分を失ったのが痙攣の原因と考えたのだ。 少し歩くと大丈夫そうなので、再び走り出した。ポシェットからバームクーヘンを出して、2個食べる。これは「非常食」として忍ばせておいたもの。ほかに黒飴も3個ほど入れているが、これは最後の手段。逆向きなので景色は違うが。確かにここはマラソンコースだ。安心して次の「関門」に向かう。 30km地点の通過は12時55分。スタート後5時間25分が経過している。この5kmに1時間2分かかった。2つのASでのロスと、道に迷った影響もあるはず。暫く行くと大会本部の車がいたのでコースを聞いた。信号から右折すると消防署に出る由。その先に関門があるそうだ。確かにコースには見覚えがあった。何年か前に走った「八丈島一周」のコースと似てるのは、きっとどちらも「島」だからだろう。 いよいよ33km地点。ここにあると言う関門を捜した。だが、それらしいものはどこにもない。直ぐ近くにいた大会本部の車に向かって私は言った。「関門がどこにもないよ。ゴールまで走るからね」。スタッフの人が本部に連絡したかどうかは分からないが、私はまだレース中だと自分に言い聞かせた。仲泊集落では、私を最終ランナーだと思った島の人が応援してくれた。それも2人もだ。「ありがとう、ありがとう」私も声援に応えた。 35km地点の通過は13時52分。スタートから6時間22分が経過している。ゴールまで残り7km余り。走れるのは間違いない。そして制限まで38分。思わぬアクシデントがなければ十分時間内完走が出来たはず。峠道の坂を登っている時、車が停まって中から女性が声をかけた。「ゴールまでお送りしますよ」。どうやら私を迎えに来たスタッフの方のようだ。「まだレース中なので」と私は丁重に断った。 峠の頂上付近で女性が待っていた。第9(往路の第7)ASにいた女性スタッフの人だ。憂いを秘めた美人が、なぜここに?彼女は言った。「ゴールまで車で送ります」。「今日は70歳の引退レースなんですよ。だから最後まで走ります」。私は彼女に手を振って再び走り始めた。きっと彼女はあのASで、私の主張を聞いていたのだ。それで申し訳ないと感じて、わざわざ車で追い駆けて来たのだと思う。どうもありがとうね、2人の女性スタッフ達よ。 謝名堂集落のパパイヤ 山城集落で少しコースに迷ったが、真我里集落の分岐点では迷わずに済んだ。謝名堂集落に入ると、いよいよゴールが近くなる。安心して写真を撮った。大会本部の車が道路の赤い「コーン」を片づけていて、途中からコースが分からなくなった。「距離表示」も38kmで片づけられて分からない。仕方なくそのまま直進していると「奥武島橋」への道路標識が見えた。どうやらグラウンドへの曲がり角を、通り過ぎてしまったようだ。 フクギ並木 慌てて戻ると、車に乗った女性が「まだ走ってるんですか」と声をかけてくれ、ゴールの方向を教えてくれた。その後から大会本部の車がやって来た。「片づけられたのでコースが分からなくなったよ」と言うと、「シッシッ」と手で払うような仕草をした。あっちへ行けと言ってるようだ。大会スタッフの言うことを聞かない厄介な内地のランナー。きっと私のことが、彼らにはそんな風に伝わっているのだろう。結局ここでも2km以上余分に走った計算。合計で3kmはロスしたはず。 「幻のゴール後」 ようやくゴールまで帰って来た。放送も拍手もない静かなフィニッシュ。タイムは7時間32分15秒。制限を32分以上オーバーしている。でも42.195kmではなく45kmの幻のゴール。もし道に迷わず、途中スタッフといざこざがなければ、時間内に戻って来れたと思う。何かがおかしいが、それも大会ル-ルであれば仕方ないこと。ともあれこうして私の「引退レース」は終わった。体育館で朝預けた荷物を受け取り、着替えをする。<続く>
2014.11.04
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<走友のエールと謎の関門> イーフビーチ復路(7km周辺~7.5km周辺) 10km地点の通過タイムは、確か1時間52分だったと思う。この日はストップウオッチ機能にせず、通常の時刻表示にしていたため、頭の中で逆算していた。こんなペースでの完走は到底無理だが、なぜか焦りはなかった。自分の遅さはどうしようもなく、体が暑さに慣れてペースがこれ以上落ちないよう注意するのが大切だ。山城集落から小さな峠を越えて儀間集落へと入ると、徐々に人家が増えて来る。 大港橋の上から写真を撮る。ここは約14km地点。左側が白瀬川の上流で、右手の丘が昨日訪れた伊敷索(ちなは)城のある場所。右手の河口が、当時の港だろう。やがて背後から大勢のランナーが来た。彼らは1時間30分遅れでスタートしたハーフマラソンの選手達。コースも距離もフルとは異なるが、それにしてもスピードが全然違って速い。 15km地点周辺の集落では、見事な仮装の応援があった。思わずカメラを向けると、手を振ってポーズを決めてくれた。島民の暖かい気持ちが、走っているランナーにも伝わって来る。 さらに行くと17km地点の第5AS(エイドステーション)。東日本大震災の被災地ランナーにとっては、「がんばろう東北」の文字が何よりも嬉しいエール。楽天イーグルスの帽子を被った少年の写真を撮り損ねたのが残念。初日に行った居酒屋はとっくに過ぎた。ハーフのランナーは折り返し点の「ほたるドーム」方向に進む。ここは楽天1軍のキャンプ地。前方からはフルマラソンの選手が次々に折り返して来る。 松並木のある広い道は往路の18km付近。前方からランナーの姿。最初に声をかけたのがM黒さん。だがどうも様子がおかしい。いつもは元気な彼が、熱中症で低体温になったみたいで体が冷たい。彼はここまで31kmを走り、私とは既に13kmもの差をつけている。今日は30度の真夏日。ランナーの疲労感が激しいのは当然なのだ。 続いて誰かが近寄り、「佐渡島一周で一緒だったS鳥です」と私の手を握った。彼も仙台のウルトラ仲間だが、ゴール後にプログラムを確認したら住所が沖縄に変わっていた。「埼玉のIです」と別なランナー。彼は那覇からのJTA機で隣席だった方。私の「宮城UMC」ユニフォームは蛍光色でかなり目立つ。おまけに帽子も同じオレンジ色。遥か遠い南の島で受ける走友達からのエールが、疲労困憊の老ランナーには何よりも嬉しい励ましだ。 空港付近から海岸へ出た。20km地点の通過は10時51分。スタート後3時間21分が経過。10km地点からの10kmに1時間29分を要した。少しペースが上がったようだ。だが、ここから先が地獄だった。コースは平坦になり、眺めも単調なものに変わった。ミーフガーの折り返し点までがとても長い地獄の道に感じる。 日蔭は全くない。これまでのAS(エイドステーション)で蓄えたエネルギーと水分は、既に枯渇した感じ。続いて帰って来るランナーの姿。だが私には人のことを気にかける余裕は全くない。 ところが22km地点の第7ASで、スタッフが突然胸のチップを外した。タイムオーバーで時間切れらしい。私は慌てた。こんな場所に関門があったことを全然知らないのだ。申し込んだ際の地図にも、そんな関門は書いてなかったはず。それに関門の制限タイムなど見たこともなかった。一瞬頭の中が白くなったが、スタッフの「でも走って良いですよ」の声を聞き、その先も折り返し点に向かって走り続けた。22km過ぎ 「チップ外されなかった?」。折り返し点から帰って来るランナーが私に聞いた。「外されたよ」。答えながら、私はとても不思議な気持ちだった。何故あんな場所に関門があったのだろう。でもチップを外しても走れるなら良いか。だが、それがとんでもない誤解だったことに、この時はまだ気づいていない。 折り返し点の「ミーフガー」(左)と25km地点。 25km地点の通過は11時53分。スタート後4時間23分、この5kmに1時間2分を要している。疲労が増し、スピードはさらに落ちた。体内の「スピード計」は既に壊れていたが、どうやら「距離計」まで壊れたようだ。再び立ち寄った復路第9ASの様子が何やらおかしい。どうやらここで私を止める積りのようだ。<続く>
2014.11.03
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<ラストレース・苦しみの始まり> 10月25日土曜日。マラソンの前日、レースの受付をする。会場は島の東部にある体育館で、外のグラウンドは東北楽天2軍のキャンプの際の練習場になる由。少し淋しく感じる場所だった。ゼッケンナンバーには小さな穴が無数に開けられている。これは風通しを良くして、少しでも楽に走れるための工夫だろう。 参加賞はスカイブルーの半袖Tシャツと、特製の泡盛だった。グリーンボトルの「久米島の久米仙」は、アルコール度数30度の古酒(クースー)みたい。 10月26日日曜日。レース当日は4時前に目覚めた。先ずトイレを済ませてから準備にかかる。両膝と両足にテーピーング。上は「宮城UMC」のユニフォーム(ランニングシャツ)で、下はハーフタイツ。走る時はこれに帽子と首冷却用の鉢巻き、そしてカメラやアスリートソルトなどが入ったポシェットを腰に。5時からレストランで朝食。ウルトラマラソンだと大抵は3時に朝食なので楽な方。5時50分、ホテル前からスタート地点までのバスに乗り込む。 体育館に荷物を預け、グラウンドに出て軽く体操。3種類の薬は朝食後に飲んだ。果たして高温下の42kmがどんなレースになるのか皆目見当がつかない。マラソンゲートに向かう。スタートは7時半。少しでも涼しい時間帯に走るための工夫なのだろう。昨年のフルマラソン参加者は400名にも満たない。恐らくは今年も同様なはず。その時私の名前を呼ぶ声が聞こえた。驚いて振り返ると、懐かしい顔がそこにあった。 左が私で、右が走友のM黒さん。 何と宮城UMC仲間のM黒さんだった。北海道から2度目の沖縄移住をしたばかりとのこと。数年前は偶然NAHAマラソンでばったり会った。2万人以上走る大会で会えたのはまさに奇跡。きっと彼とは何か縁があるのだろう。 招待選手はカンボジア国籍の「猫ひろし」。彼は先日アジア大会で走ったばかり。今日はハーフマラソンにでるようだ。仙台からは「仙台国際ハーフマラソン」で好成績を上げた市民ランナーのOさん(広瀬川RC)が招待選手として来られていた。女子招待のK野選手(クラブターチン)にはお会いしていない。 開会式、カウントダウンに続いて、7時30分ちょうど合図のピストルが鳴る。曇った空に蒸し暑い空気。手にはサプリメントとアスリートソルトが入ったスポーツドリンクのペットボトル。いつものスタイルだ。大勢のランナーに抜かれ、たちまち後方に取り残された。集落を一周しサトウキビ畑に出る頃、小雨。これは良い。雨は気温を下げて走りやすいはず。だが、その雨も直ぐに止んだ。 この日の作戦は極力写真を撮らないこと。それが引退レース完走の秘訣になると思ったからだ。だが、どうしても撮りたくなるのが私の悪い癖。1枚だけなら良いだろう。そう思って雨に濡れるサトウキビ畑を撮った。茶色いのは塩害のせいだ。集落を抜けて県道に出、そこから南に向かう。もう私の後には数人もいない。それでも自分のレースをする。このペースを守り、「奇跡」が起こるのを信じるだけだ。 だが体が重く、脚が思うように伸びてくれない。これは最近の練習と同じ。老化と体調不良による練習不足で、筋力が極端に落ちたのだと思う。歩いている人にも抜かれるスピードしか出ないのは悔しいが、これが現実の私の姿。コースは県道から第1折り返し地点のある海岸方向へ入った。美しい光景が左手に広がる。 ついランナーよりカメラマンとしての私の方が勝ってしまった。いかんいかんと思いつつ、カメラを取り出して海を撮る。こんなきれいな景色を撮らないと、一生後悔する。「作戦」は早くも崩れ始めた。後はなるようにしかならないと開き直る。 左は往路5km付近で、右は折り返し後の復路8km付近。東シナ海が光っている。 折り返し点のイーフビーチでは、住民の方々が懸命に応援してくれ、久しぶりに沖縄を走った気になった。昨年の5月に西表島と小浜島を走って以来だ。男性の老ランナーに続き、74歳の女性ランナーにも抜かれた。彼らは競歩のように歩いている。きっと走れなくなった代わりの早歩き。マラソンへの強い想いが、そんなスタイルになったのだと思う。 銭田集落で「移住記念碑」を発見し、どこから来たかを住人に尋ねた。1人は「明治の頃に首里から」。これは「琉球処分」による没落士族の子孫だろう。もう1人の答は「ヤンバルから」。これは沖縄本島の北部。先祖は食えなくなった農民だったのかも。 今は塩害で弱ったサトウキビも、ちゃんと収穫は出来るみたいだ。それを聞いて少し安心し、再び県道へ出た。真我里集落はちょうど10km地点。残りは32km。ここからが長い長い戦いだ。気温は30度まで上がり、汗が噴き出る。だが無我夢中でそれも気にならず、必死のランが続く。<続く>
2014.11.02
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<久米島の歴史を訪ねて その2> 田圃(左)と田芋(ターウム)畑(右) 琉球王朝が石垣島で起きた「オヤケアカハチの乱」に宮古島の仲宗根豊見親と久米島の君南風を送って戦わせたのは、自らの手を汚さないため。オヤケアカハチは琉球王朝にとっては反逆者だが、八重山の民衆にとっては英雄的な存在だ。 水田と田芋畑があった。田芋(ターウム)はねっとりとした食感で、水田で育てる。久米島は水に恵まれた島。だから沖縄でも珍しい水田があったのだ。 五枝の松 運転手さんが「五枝の松」に案内してくれた。松の種類はリュウキュウマツで、普通のものは上に真直ぐ伸びる。ここは地下が岩だらけのため栄養が乏しく、枝は低く垂れ下がったのだとか。確かに見事な枝ぶりだった。具志川城 次に向かったのが具志川城。これで「ぐしかわぐすく」と読む。久米島を最初に支配した按司(あじ)の次男がこの城の主で、先刻訪ねた上江洲家の先祖に当たる由。城が築かれたのは14世紀初めで、久米島が琉球王朝の支配下に入ったのが16世紀初頭なので、この城が使われたのは約200年間だけ。その後は廃城になったのだろう。近年城壁が整備され、国の史跡に指定。 城域を示す図面 城の立地と石垣のカーブは、沖縄本島の勝連城と似ている。沖縄本島には具志川城と言う名の城(ぐすく)が2か所あるが、いずれも海の傍の崖の上にある。ただし、旧具志川市(現おもろ市)の具志川城は「城」ではなく聖地だった。日本の城と違って沖縄の「ぐすく」は、聖地や風葬墓の性格を有するものがある。 「おもろ」の石碑 具志川城を謡った「おもろ」の一節が石碑に刻まれていた。「おもろさうし」は琉球王朝時代の文学で、節をつけて歌う「歌謡」と呼ばれる詩。具志川城はとても立派で栄えており、港には唐(中国)や大和(日本)の貿易船も到来して、城は黄金に満たされていると言うような内容みたいだ。 見張り台 この高台から外国船などを見張っていたようだ。写真はまだたくさんあるが、別の機会に紹介したい。 次に向かったのがドーガー。左手がドーガーの全体像で、右側の拝所(うがんじゅ)には香炉が置かれていた。「ガー」とは井戸や泉水のことで、沖縄の島々ではとても貴重な存在だ。そのため聖地として信仰の対象でもある。 左手が堂井。これでドーガーと読む。泡盛の銘柄「久米島の久米仙」はこの水で作る。今でも現役の泉で、水が滾々と湧き出ている。右側は近くの比屋井(ヒヤガー)で、現在では飲料水になってないようだ。 ミーフガー 次に訪ねたのがミーフガー。この「ガー」は正しくは「グワー」で小さい、可愛いの意味。つまり「穴っこ」だ。前夜居酒屋の女将に久米島で訪ねるとしたらどこがお薦めか尋ねた。その答がここ。「女性の・・」と言いかけたのでピンと来た。よその島からも子宝を授かりたい女性が拝みに来、拝所がある由。そして明日のフルマラソンの折り返し点。 左の「ウティダ石」は琉球王朝時代の暦石。粟国島から太陽が昇れば春分、渡名喜島から太陽が昇れば夏至、渡嘉敷島から太陽が昇れば秋分と言うように、太陽の位置で農作業の目安にした。 右の標識は久米島紬(つむぎ)の顕彰碑。中国から伝わった紬の技術はここで発展し、税として首里の王府に納められた。また有名な奄美の大島紬の技術は、久米島から伝えられた由。 宇江城 次に向かったのが宇江城(うえぐすく)。島の支配者の長男の居城だった由。標高309.5mの山上にあるこの城は県内で最も高地にある城で、眼下には東シナ海が広がる。国の史跡に指定。 城の案内図 城域はとても広く、複数の郭(くるわ)や見張り台、井戸、抜け道などを有している。 石垣の一部 沖縄の城の石垣は普通穴が開いた柔らかい石灰岩であることが多いが、ここの石は先ほど訪れた具志川城同様、堅い石灰岩(写真)もあった。沖縄本島北部にある今帰仁城(世界文化遺産)の石質に良く似ている。 城跡に立つ私 後の海は東シナ海。この海を渡って中国や日本の貿易船が久米島へやって来たのだろう。 アーラ岳遠景 遥か彼方のアーラ岳(287m)が一番初めに噴火して出来たそうだ。次にこの周辺が噴火して2つの山が繋がり、久米島になった由。ミーフガー付近の海岸には、火山弾と思われる石や、噴火によって出来た火山地形が残されていたが、別な機会に紹介したい。 伊敷索城の石垣 最後に訪れたのが伊敷索城(ちなはぐすく)跡。これで「ちなは」とはとても読めない。この島の最初の支配者がこの城の主で父親の伊敷索按司。城の直ぐ下を白瀬川が流れ、その河口を港として使ったようだ。石垣は柔らかい珊瑚礁で、崩れたまま放置されている。沖縄本島恩納村の山田城跡ととても良く似た感じだ。この城跡の下の県道が翌日のマラソンコースになっている。 ソーキソバ 島の歴史を訪ねる旅は私にとってはとても有益なものだった。タクシー料金1万円を支払い、食堂で軟骨ソーキソバ(600円)を食べる。右側の小さな瓶はコーレーグース(高麗薬)。唐辛子を泡盛に付け込んだ調味料で、独特の味と香り。 この後、翌日のレースの選手受付を済ませ、臨時のバスでホテルへ戻った。沖縄勤務当時の先輩N氏の実家には鍵がかかり、ご家族と会えなかったのが残念だ。<続く>
2014.11.01
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