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<久米島の歴史を訪ねて その1> 私が泊ったホテル 10月25日土曜日。旅の2日目は4時前に目が覚めた。いつもならブログを更新するのだが、パソコンがないために手持無沙汰。仕方なく体操や読書で時間を潰す。6時過ぎ、空が少し明るくなって来たため海岸へ出る。ここはホテルのプライベートビーチ。ホテルは全室オーシャンビューのようだ。 久米島の夜明け 少し沖にサンゴ礁(リーフ)が見える。この内側が遠浅で、砂の白さと太陽の光でエメラルドグリーンに見える。沖縄では「イノー」と呼び、昔はここで魚や貝を捕った。リーフの外側が外洋で急に深くなり、色も濃紺に変わる。遠くに見える山はアーラ山(287m)で、あの付近もマラソンのコースだ。 それにしても木の葉が全て茶色に変色していたのが気になった。変色の理由は後で知った。台風19号は風台風で雨が降らず、そのため塩害を受けたのだそうだ。枯れた葉の下から、若い葉が芽生えていた。木は枯れてはいないようで、セミがジージーと煩いほど鳴いていた。朝食は7時からレストランでバイキング方式。地元の野菜などをたっぷり食べる。部屋に戻って朝の連続ドラマを観、フロントへ電話。9時にタクシーを予約し、島の観光に行く予定。だが私のは単なる観光ではなく、久米島の歴史を辿る旅なのだ。古い沖縄の地図を見ながら、訪ねたい個所をチェックした。3時間もあれば全部行けるはず。ついでに明日のマラソンの選手受付を済ませる積りだ。 運転手のOさん 9時前、予約したタクシーが来た。運転手さんに行きたい先を6つほど告げる。島出身の彼は観光案内することも多いらしく、早速メモを取る。私は島の主な産業と人口。塩害の話。琉球王朝時代の間切(まぎり=島の言葉ではまじり=行政区分)、城(ぐすく)と御嶽(うたき=聖なる場所)の存在など、聞きたかったことを彼に尋ねた。 上江洲家住宅 最初に行ったのが国の重要文化財指定の上江洲家住宅。これで「うえず」と読む。先祖は島の城主だった由。宅地の広さは661坪で、建物部分が92坪の堂々たるもの。主な部分は乾隆19年(1754年)の建築。琉球王朝時代で、これは中国の年代。第2次世界大戦の際、久米島は米軍の「艦砲射撃」を受けなかったそうだ。それでこんな古い建物が残ったのだ。まさに奇跡的なことだ。 家の前の石は「ひんぷん」(屏風)と呼ばれる目隠し。家の主人や重要な来客はこの門を入るが、女性の家族などは別の入口から入るのが風習。帰宅後もらったパンフレットを見たら、王朝時代は「親雲上」だった由。これは「ペイチン」と呼ばれる身分で武士。無役の士(さむれー=さむらい)→ 里之子(さとぬし)→ 親雲上 → 親方(うえーかた)→ 三司官(さんしかん=大臣クラス)→ 王子(王になれなかった、あるいはなる前の王族)→ 琉球王 が当時の序列だ。 メーヌヤ メーヌヤ(前の家)と呼ばれる蔵。ここが農作物などを保管する高床式の建物。上江洲家は首里王府から任命を受けて、具志川間切(明治以降は具志川村、現在は合併して久米島町)の地頭代(税金を取り立てる役職)をしていたのだろう。当時の久米島が課せられた税は、米と久米島絣(かすり)。どちらも琉球王朝では貴重な産物で、王族、貴族、士族の食料や着物に仕立てられた。 フール これはフールと呼ばれる建物。左側がトイレで、右側が豚小屋。これだけきれいに残っているのは、県内では他にないはず。戦前までの主な食料はサツマイモで、大量の大便が排泄される。これを豚の餌にしたのだ。ベトナムのトイレが池の上にあって、便が魚の餌になるのと一緒。極めて合理的な生活の知恵なのだ。沖縄の人は恥じるが、これは最もエコであり文化性の高いもの。もちろん今はどこにも残っておらず、ここでも使用もされてはいないのだが。 主家の裏側に糸繰機が置かれていた。これで絣の元になる木綿を紡いだのだろう。 家の裏庭。石垣と植木のバランスがとても美しく、いかにも高級士族の屋敷らしい雰囲気を醸し出している。 今は石で覆われてしまったが、元々は野菜などを洗うための水場があったそうだ。 母屋の東側にある小屋。東は太陽が登る聖なる方向で、家の守り神をこの小屋で祀った。 小屋の棚には上江洲家の守り神が祀られていた。因みに沖縄では東は「あがり」と言う。これは太陽が上がるため。西は「いり」と呼ぶ。これは太陽が入る(沈む)ため。因みに南は「はえ」。これは南風(はえ)から来ており、北は「にし」と呼ぶ。北風(にし)に由来する。東は生命復活の源である太陽(てぃーだ=天道=てんとう=おてんとさまが語源)が上る、聖なる方向。 やはり上江洲家住宅は素晴らしかった。沖縄本島中城村の中村家住宅も琉球王朝時代の建物が奇跡的に残り、同じように国の重要文化財に指定されている。フールもあるが屋根付きではなかった。こちらは子豚が行き来出来る「穴」が開いている。親豚や兄豚の所に行って、自由に餌を食べるための工夫だ。 君南風殿内 次に向かったのが君南風殿内。これで「ちんべーどんち」と読む。君南風は原始神道の祝女(ノロ)で、琉球王朝の卑弥呼に当たる「聞得大君」(きこえおおきみ)に次ぐ高位の神女。殿内は高貴な建物の意味。琉球王朝時代、石垣島で起きたオヤケアカハチの反乱を鎮めたのが宮古島の仲宗根豊見親(なかそねとゆみやー)と君南風。豊見親は武力で反乱を鎮め、君南風は呪術で鎮めた訳だ。 殿内の内部 これは殿内の内部。今では内地の神社とあまり変わらないが、元々は自然崇拝なので境内には大きな樹木などがあったはず。「君南風」の称号は首里王府から任命書により、代々正式に任命された。現在でもここで雨乞いの儀式をしているそうだ。 境内の岩 これは境内の岩。沖縄では霊力のことを「シジ」と呼び、大きな岩や樹木に霊力が宿ると考えていた。日本神道も全く同様の起源を持つ。この岩もきっとシジの高いものとして置かれたのだろう。<文字制限のため明日に続く>
2014.10.31
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<仙台から久米島へ> 仙台空港とANA1863便 仙台空港から11時50分発那覇空港行きのANA1863便に乗る。機内でサンドイッチとコンソメスープの昼食。隣の席は那覇までわざわざ飲みに行くと言う寡黙で陰気臭い青年。この日機中から見えたのは、仙台空港付近、福島県の阿武隈山中、山梨県と八ヶ岳、愛知県の知多半島、伊勢湾、三重県の英虞湾、同長島付近、和歌山県の串本付近だった。空は割と晴れていたが、そこから先は太平洋の上で何も見えなくなった。 知多半島と微かにセントレア空港が見える。 串本と大島 鹿児島の薩南諸島付近からは、南国らしい空と雲の色に変わった。機内から見えた島は、徳之島の一部くらいだけ。次に見えたのは沖縄県最北端の伊平屋島。そして野甫島。伊是名島は一部しか見えなかった。 国頭村の奥間ビーチ 国頭村の奥間ビーチは特徴のある形をしてるため、直ぐに分かる。直ぐ傍の国道58号線を、私は2度走っている。一度は北端の辺戸岬に向かって、またもう一度は辺戸岬から名護市方面に向かって。 糸満上空 ANA1863便はこの後沖縄本島上空を西海岸から東海岸に抜けた。伊計島、桃原島、浜比嘉島、津堅島などが見えた。懐かしい風景だ。勝連半島を突っ切り、知念半島を大きく迂回して、機体は糸満上空を過ぎて着陸態勢に入った。瀬長島の上から滑走路に入る。3年ぶりの那覇空港に、たくさんの自衛隊機が見えた。 那覇空港のラン いつものように、空港ではたくさんのランが出迎えてくれる。久米島空港行きのJTA機に乗るまで、3時間近くを空港ビル内で過ごす。少しだけ散歩して見る。この空港での離発着は、私の場合恐らく50回を越えているはず。 空港ビルのステンドグラス 物騒な掲示 売店の女性従業員がにこやかにポーズを取ってくれた。メンソーレ♪(ようこそ、お出でくださいました) JTA876便 久米島へはこのJTA876便で行く。小型機で、機内はとても狭い。隣席は埼玉県のIさん。やはり久米島マラソンを走るそうだ。お嬢さんが結婚して久米島におられることもあり、何度もマラソンに来たことがある由。とても気さくで良い方だった。レース中18km付近ですれ違った際、挨拶してくれた。機内から見えたのは前島、渡嘉敷島、慶良間諸島。わずか35分ほどのフライトだった。 ホテルのイルミネーション 空港からホテルまで歩こうと思ったが、直ぐに暗くなり始めた。道が分かり難く、街灯もないらしい。幸い送迎用のホテルのマイクロバスが停まっており、これに乗れた。空港からホテルまでは1kmくらいしかないようだ。 チェックインの際、色々説明を受ける。レストランは全て予約制で料金も高そう。荷物を部屋に置いて、かなり離れた集落の居酒屋へ行くことにした。送迎車があって便利だし、サービスのドリンクもあるみたい。 北海道の3人娘達と 隣の席にランナーらしい3人組がいた。思い切って話しかけると、北海道から来られた職場の仲間とのこと。話に花が咲き、泡盛を3杯飲んだ。銘柄は「久米島の久米仙」。これは素直な味で、沖縄勤務の時は良く愛飲していた懐かしい泡盛。注文したソーメンチャンプルーは1人で食べ、ゴーヤチャンプルーとアンダーミソ(甘い油味噌)入りのお握りは皆で分けて食べた。 ビールが大好きなお嬢さん達で、次々にジョッキを空ける。全員ハーフマラソンに出るそうだ。私のブログを教えると、早速携帯で確認している。彼女らのHNも決めた。左側の「二人っこ」さんは一番若くてクールな印象。その隣の「やえの桜」さんは落ち着いた先輩。右側の「このの」さんは明るいスピードランナーで、ブログも開設してる由。帰宅後、早速私のブログに書き込みをしてくれた。これも何かの縁。ありがとうね、三人娘達!! 私はこの後ホテルに戻り、入浴後直ぐに眠ったが、彼女達はまだ部屋で飲んだようだ。恐るべし北海道女子軍団。こうして旅の初日は更けて行った。なお、写真の掲載は許可を受けているので念のため。<続く>
2014.10.30
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私は沖縄が好きだ。3年間沖縄に勤務して住んだせいもあるが、転勤後も20回近く訪れている。私の趣味の筆頭は長い間ランニングだったため、沖縄でも実に良く走った。10回完走した「NAHAマラソン」や「宮古島ワイドーマラソン」(100km)、たった1人でリュックを背負って走った「沖縄本島単独1周ラン」などが忘れられない。沖縄の各地を走った合計は3千km以上に及び、今回も引退レースとして「久米島マラソン」を選んだ。 心配な点もあった。自分の健康だ。かかりつけのMドクターもこんな状態で走って大丈夫か心配していた。私は不整脈の手術を2度受け、今年の9月には心臓に電気ショックを与えた。それでも別の種類の不整脈が起き、息苦しさを覚えることもある。 Mドクターが心配するのは、不整脈抑制剤は心拍数を下げる働きをするが、マラソンは心拍数を上げることになる。体の中で起こる相反する作用が、どんな影響をもたらすかだ。それに今回から飲み始めた新しい薬の副作用が、どんな風に出るのかどうかも。 それに加えて、暑い沖縄で走ると大量の汗をかき、血栓が起きやすいとの心配もある由。それで血液凝固防止剤も服用し始めたのだが、実際に血栓が詰まって脳梗塞になった人も知っているとドクターは言う。これまで飲んでいた不整脈抑制剤の併用も効果がある由。そんな訳で、今回は血圧降下剤も含め4種類の薬を持参しての旅になった。 平成2年沖縄の職場での駅伝大会優勝 私自身の心配も自分の体調だった。暑い沖縄で果たしてどう体調が変化するのかどうか。今年の夏は絶不調で入院したほど。だから7月、8月の暑い時期はほとんど走っていないのだ。10月下旬と言っても沖縄では26度はあり、下手をすれば30度にもなる。その猛暑の中で、70歳の自分が果たして42.195kmを走り切れるのかどうか。 平成3年沖縄本島縦断駅伝(左が私) 最近の練習距離はせいぜい10km程度。最後に15kmほどまで走れるようになったが、全くスピードが出ないため相当時間がかかる。「久米島」の制限は7時間なので、完走出来たとしても恐らくはギリギリのはず。そこで作戦を立てた。レース中の写真撮影を極端に減らすことだ。スタート時とゴール時、そして途中で数枚程度にしたら、何とか行けるかも知れない。 同上 私と久米島との因縁についても触れておきたい。平成2年、当時沖縄で勤務していた私は「久米島マラソン」にエントリーした。島を一周する23kmの時だ。だが結局レースには出なかった。理由は台風が来ていたためだ。沖縄の離島では台風が来れば、しばらく船は出ない。私はちょうど研修中で、どうしても休む訳には行かなかった。それで止むなく参加を断念したのだ。あれから25年。ようやく久米島を走る夢が実現するのだ。 サトウキビ畑 同じ職場のNさんが、久米島の出身だった。私より10歳年長で私の部下。当時久米島には高校がなかったため彼は沖縄本島の高校に入り、その後国立の琉球大学を卒業した優秀な人だ。彼は退職後琉球民謡と三線(さんしん=内地の三味線)を習い始めたと聞いた。悠々自適の生活だ。だが、その後奥様を病気で亡くされたようだ。淋しい話だが、それからずっと彼の音信は聞いていない。 デイゴ模様の琉球漆器 当時の職場には、久米島出身の大田昌秀教授がおられた。法文学部所属で専門は確か憲法学だったと思う。私も構内で何度か顔を合わせているが、本土から来た若造の管理職が、島で名高い教授に声をかけることなど到底出来る雰囲気ではなかった。大田先生はその後沖縄県知事に転身した。平和運動家でもあった彼を、県民が放っておかなかったのだろう。私と久米島との関わりはたったそれだけ。その島を今回初めて訪れる。そして、これが最初で最後の訪問になるはずだ。 久米島の位置 さて、タイトルに掲げた「不思議島球美」だが、日本の古い文献に最初に久米島が登場する名前が「球美」なのだ。恐らくは現地の人間は「くめ」と言ったのだろうが、大和の人間には「くみ」としか聞こえなかった。日本語が5母音制なのに対して、琉球語は3母音制のため、そう聞こえたのだと思う。 ついでに同書に登場する「阿児奈波」(あじなは)が沖縄本島で、「志覚」(しかく)が石垣島のこと。それらもまあまあ音が近く、何となく分かりそうな気がする。 久米島は久米の仙人が雲の上から地上の裸の婦人を見て、墜落したとも伝わる島。果たして今回の旅はどんな旅になるのだろう。そして私の引退レースには、果たしてどんなドラマが待っているのだろう。<続く>
2014.10.29
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我が家の小菊 またまた夜中に目覚めてしまいました。ブログを立ち上げ、昨夜いただいたコメントへの返事を書き終えたばかりです。私の健康を心配して訪れて下さったブロ友さん、そして久米島で一緒だった北海道の3人娘から、早速コメントいただいたのには驚きました。皆さん、本当にありがとうございます。 今日から久米島の話を書けると良いのですが、何しろ280枚ほど写真を撮ったものですから、その整理に暫くかかるのですよねえ。そこで今日1日だけ猶予をいただき、連載中の旅の写真を載せたいと思います。どうぞご了承くださいね~。< 大阪歴史博物館 > 最初は9月13日に訪れた大阪歴史博物館の様子です。ここは大阪城公園の目の前にあります。 以前にも載せましたが、これが博物館です。とても変わった形をしています。先ず最上階の10階まで上がって、そこから7階まで1階ずつ下がりながら見学する方式を取っています。 飛鳥時代にこの地にあった「難波宮」の宮廷内を再現したものです。難波宮は明日香の副都のような存在でした。 御座船型の山車です。珍しいですね。 衣服を着けていない裸雛(はだかびな)です。これも珍品ですね。 江戸時代の大坂の橋の様子を再現したものです。「江戸東京博物館」の展示に良く似ています。 大坂の町屋とその内部の様子です。 芝居小屋の外観です。 芝居小屋外観の一部です。 同じく、芝居小屋外観の一部です。 芝居小屋の内部です。きっと歌舞伎だけでなく、人形浄瑠璃などの演目も掛けられてたのでしょうか。 以下は同じ日に訪れた大阪市の天保山周辺の風景です。< 天保山風景 > 天保山の大観覧車です。 海遊館(水族館)の裏手の海岸です。ここから対岸のホテルまで連絡船に乗ります。 上と同じ場所です。 船中の家族です。(2人の孫と次男) 上の道路は「阪神高速湾岸線」で、目の前の船は観光船「サンタマリア号」です。 頭上を湾岸線が通ります。 船中からの風景です。 私達が泊ったホテルです。連絡船はホテルの直ぐ裏側に着きます。<不定期に続く>
2014.10.28
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「久米島マラソン」から無事帰宅しました。マラソンの方はスピードが出ない上に、気温が30度の真夏日になり、制限時間オーバーで何とかゴールしました。まあ、大変なレースでしたよ。旅の話とマラソンの話は、写真を整理しながら書きたいと思っています。留守中のコメント、どうもありがとうございました。
2014.10.27
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9月13日土曜日。住吉大社から天王寺まで路面電車の阪堺電鉄に乗り、そこから四天王寺に向かいました。四天王寺は聖徳太子が建てた七つの寺院の一つです。他の六つとは、法隆寺、広隆寺、法起寺、中宮寺、橘寺、葛城寺です。また建立に際して「大帝塚山古墳」を破壊して境内にしたためか、荒陵寺(あらはかでら)の異名を持っています。元々はJR森ノ宮駅付近に建てられたとの説もあり、当時は湿地帯の難波潟の傍だったせいか、「難波大寺」や「御津寺」の異名もあるようです。 本来は特定宗派に所属しない八宗兼学の寺でしたが、その後天台宗となり、1946年(昭和21年)からは和宗総本山となっています。蘇我馬子が建立した法興寺(飛鳥寺)と並ぶ、我が国最古の仏教寺院です。寺の名は、神道を重んじる物部守屋と戦った際に、太子が額に四天王も木像を結んで臨んだことに因むと言われています。勝利後、約束通りに新しい寺院を建て、四天王寺と名付けたとされています。 お寺の入口に鳥居が残されています。神仏混淆の名残でしょうか。とても珍しい風景ですね。 前方に山門が見えています。 山門を潜ると「シャワーミスト」が待っていました。これで身を清めるのでしょうか? 私が初めてここを訪れたのは大阪勤務を命じられた18年前でした。聖徳太子が建てたお寺を是非見たかったからですが、コンクリート造りの建物に、正直ガッカリしたものです。それが今回はそのような感じを全く受けず、荘厳さを感じたのは何故でしょうね。 一説に因れば、この寺は敗れた物部守屋一族の霊を慰めるために建てたとも言われています。またこの周辺を根拠地にしていた難波吉士(なにわのきし)の氏寺だったとの説もあるようですが、実態は謎のままです。 この後で訪れた大阪歴史博物館で見つけた四天王寺の古い絵図です。見事なものですね。 これは白想殿でしょうか。関西のブログ友きっかいくんの書き込みによれば、四天王寺の住職は建築家でもあり、コンクリート造りの白想殿を自分で建てたそうですよ。また奥様のご両親はこのお寺に眠っているとのことです。合掌。 ここから先は「有料ゾーン」のため入りませんでした。そのため少々窮屈そうな感じの写真が続きます。 折角の五重塔も廂に隠れています。ゴメンなさ~い!! こちらも同様ですが、これはこれで風情があると思うのですがね。 是非ここに来たいと願っていた次男には、この寺がどう見えたのでしょうね? また私と次男に着いて来ただけの妻には、どんな風景が見えたのでしょう。 この後私達は地下鉄に乗って、大坂城の傍にある大阪歴史博物館へと移動します。以下は博物館の建物から観た大阪城です。 天下統一して秀吉が築いた大坂城も、今はコンクリート造りの近代的な城に変わりました。晩年、2度に亘って朝鮮半島に攻め入った秀吉と日本人は、半島の国から嫌われています。でも彼らの祖先である高麗も元軍と合流して2度我が国を襲い、対馬、壱岐(どちらも長崎県)の島民をほぼ皆殺しにしています。 朝鮮半島の人々は戦前日本が併合していた時代をまるで悪魔のように呪います。でも実質2千年近く支配された中国のことはあまり悪く言いません。それは中国が半島の人にとっては「親」で、日本は「弟」だからだそうです。親はどんなに悪くても自分の親。そして「弟」は決して兄の上に立ってはいけないと言うのが半島の人々の心理であり、儒教に基づく真理なのだそうです。 でも日本人は一度も朝鮮半島の人々の「弟」だと考えたことはないのです。実は遣隋使、遣唐使の時代から、日本と朝鮮半島の国々は、序列を巡って争って来ました。「どちらがより中国の皇帝の近くに立つか」を問題にしたのです。日本はその後中国に従うのを止め、遣唐使船を廃止しました。危険を冒してまで中国から学ぶことはないと判断したためです。でも中国と陸続きの半島では、従属を止められないのです。現在も何だか良く似てますねえ。 出土した古い瓦 「自分達は日本の兄。兄が困っている時に弟が助けるのは当然のこと」。朝鮮半島の人々の歪んだ気持ちは今も続いています。北朝鮮も韓国と同じ民族なので、きっと同じように考えているのでしょうね。大阪城を見ながら、私はそんなことを思っています。多分最近読んだ本の影響でしょう。<不定期に続く>SSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSS さて、私は今日から旅へ出ます。行き先は沖縄の久米島です。目的は観光とマラソン。日曜日に「久米島マラソン」(フル)に出ます。これが多分私の引退レースになるはずです。完走出来るかどうかは分かりません。今は自分の体調が自分でコントロール出来ず、複数の薬のお世話になっています。血圧降下剤、不整脈抑止剤、血液凝固防止剤などです。帰宅は27日、月曜日の夜です。それまで留守にしますが、よろしくね♪ 留守中にいただいたコメントへの返事は帰宅後になります。では皆様、またお会いする日まで御機嫌よう♪
2014.10.24
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<大阪・住吉大社 その2> 9月13日土曜日の早朝、私は妻、次男と共に大阪の住吉大社を訪れました。ここは江戸時代まで、大阪湾の直ぐ傍だったようで、神社の南側には仁徳天皇が開いた住之江津(住吉津)がありました。 この港は奈良時代から平安初期にかけて、遣隋使船や遣唐使船の母港として機能し、遥かシルクロードに繋がる国際港でもありました。 仁徳天皇と言えば、堺市にある同天皇陵が有名です。エジプトのピラミッドにも匹敵する土木工事で、世界的な規模の前方後円墳です。周囲にはその他にも巨大な天皇陵が築かれ、一帯は「中百舌鳥古墳群」と呼ばれています。 古代、百済、新羅、高句麗などから戦乱を避けて逃げて来た朝鮮半島の人々も、きっとこの港に着き、海上から巨大な古墳群を観たことでしょう。異国の人の目に、堂々たる天皇陵はどんな風に映ったのでしょうね。その前に、明石海峡を通過した船は、五色塚古墳(神戸市垂水区)の葺石で覆われた前方後円墳を目にしたはず。頭上に聳える巨大な古墳に、度肝を抜かれたことでしょうね。 住吉大社の境内に「石舞台」があることを、帰宅後にネットで知りました。残念ながら観ることは出来ませんでしたが、舞楽殿の古い形で屋根のない石造りの舞台を想像しています。 私も国内の有名な神社を幾つか訪れていますが、住吉大社の立派な建築物は想像以上でした。 境内を散策する妻と次男です。 広い境内には4つの本宮があります。第一本宮に祀られているのが底筒男命(そこつつのをのみこと)、第二本宮に中筒男命、第三本宮に表筒(うはつつ)男命、そして第四本宮に祀られているのが神功皇后です。 神功皇后は第14代仲哀天皇の皇后で応神天皇の母に当たり、本名を息長足姫(おきながたらしひめ)と言います。 息長氏は琵琶湖北部を治める古代豪族で、琵琶湖と若狭周辺の水上交通を抑えていました。継体天皇の皇后も息長氏出身です。当時の天皇はまだ力が弱く、豪族の力を後ろ盾にしていたのです。 住吉大社と深い繋がりがある九州の宗像大社。宗像氏も海上交通を握る海人族の一人であり、出雲大社の出雲氏も遥か能登半島まで遠征する海人族でした。島根の古い神社ではウミヘビが神の使いとされています。ウミヘビはインド洋から産卵のため、日本近海へやって来ます。古代の出雲大社は、海岸から境内まで巨大な階段が架けられていました。やはり海との関係が深かった証拠です。 今はすっかり陸地となった境内も昔は海の直ぐ傍。この交通の要衝を誰が抑えるかで、激しい戦いが繰り広げられた時代があったのでしょう。 丹塗りの社殿が朝日に輝いています。 青空に映える社殿の姿は、実に荘厳でした。 さすがは摂津国一宮だけあって、堂々たる風格です。 早朝の住吉大社を後に、私達が次に向かった先は四天王寺でした。<続く>
2014.10.23
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<大阪・住吉大社 その1> 9月13日土曜日。ホテルを朝早く出て、向かった先は住吉大社でした。前日の貴船神社同様、ここは同行した次男の希望による訪問。もちろん私自身も以前から行きたいと思っていた個所でした。 これは反橋(そりはし)。いわゆる太鼓橋です。境内に入ると直ぐに出会うのがこの橋です。さすがは摂津国一宮だけあって、堂々たる風格です。登り易いように「階段」がつけられています。 珍しい反橋からの眺めをカメラに収めました。 ここはかつて海の傍。仁徳天皇が開いた住之江津(住吉津)は当時の国際港で、ここから中国大陸への遣隋使船や遣唐使船が船出しました。住吉大社は大和朝廷の国際戦略と深く関わっていたのです。 これは住吉大社の古地図です。後で訪れる大阪歴史博物館で見つけました。 これは奉納されていた絵馬です。これを見ても、この神社が航海と深い関係があったことが良く分かります。また、中国大陸との航路を守る役目を担った宗像大社(福岡県宗像市)とも、強い結びつきがあります。共に朝廷の戦略と深い関係にあったのです。 参拝の前に手や口を灌ぐ手水舎には、ウサギの石像があります。これは妊娠中の体で朝鮮半島へ遠征した神功皇后が卯年生まれだったことに因んでいるようです。皇后は同社の祭神の一柱です。 手水舎遠景。立っているのは次男です。 境内には楠が目立ち、ご神木として扱われていました。ひょっとしたら南北朝時代、この周辺を勢力範囲に治めていた楠正成と関係があるのかも知れません。彼は皇室に対する深い尊崇を持った武将でしたので。 広い境内の一角には、校倉造の倉庫がありました。ひょっとしたら古代の航海で入手した貿易品を一時保管した場所だったのかも知れません。 この蔵のような建物は、比較的新しそうです。 石灯籠が覆屋で守られています。きっと古い時代の貴重なものなのでしょう。 こちらは境内に鎮座する摂社の扉です。小さな社ですらただならぬ厳粛さが漂っています。 境内を散策する妻です。早朝の境内は静まりかえっていました。今回は比較的地味な写真が多かったのですが、明日も住吉大社をご紹介する予定です。<続く>
2014.10.22
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<京都・貴船神社> このシリーズは今年行った旅の写真集です。既に旅行記は書いていますが、その時に紹介出来なかった写真を載せたいと思います。第1回は京都市の北方にある貴船神社で、周囲には幼少時の義経が預けられた鞍馬寺があります。最初に出て来るのは本宮です。9月12日に探訪しました。 上の建物の裏側はこんな風になっています。つまり崖造りです。 ご神木の桂です。 本殿ではお勤め中で、祝詞を上げていました。 本宮裏手の山にある小さな滝。貴船神社は治水の神でもあります。 橋を渡って奥宮に向かいます。 奥宮に向かう道の途中に、古い杉が生えています。 ご神木の「相生の杉」は樹齢千年以上と伝えられています。貴船とは気が生まれる根源で、気生根(きぶね)が名前の興りと言う説があります。神武天皇(伝説上の人物ですが)の母が黄色い船(黄船)に乗って淀川、鴨川経由でここまで登って来たとの説よりは、よほど説得力があると私は思うのですが。 これと以下の2枚は奥宮です。ここが本来の本宮だったそうです。すると元々の奥宮は、さらに山奥にあった訳です。きっとその場所こそ「気生根」に相応しい厳粛で神秘的な場所なのでしょう。<続く>
2014.10.21
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「山の遭難保険の期限が切れるが、更新しないことにした」。昨日読んだブログにそう書かれていた。こよなく山を愛する岩手のニッパさんは、私より数歳年上のはず。そう書かざるを得なかった彼の気持ちが、私には痛いほど良く分かる。歳を取り、なかなか治らない怪我。そして幾つかの病気で時々入院する日々。思うように動かない体に、つい弱音が出るのだと思う。 それは私も全く同様だ。来年はレースはとても無理で、せいぜい家の近辺を練習で走るくらいではないか。悲しいが、それが私の現実だ。かつて私は「NAHAマラソン」の最高年齢完走記録を破ろうと、本気になって考えていた。67歳の私はまだフルマラソンを4時間15分で走る力があった。当時の記録は76歳、そして同マラソンの制限は6時間15分。だから10年間で2時間遅れるほどの体力を維持さえすれば、簡単に実現すると思ったのだ。 だが、東日本大震災が未曽有の災害を引き起こしたあの年、私の体に異常が起きた。思いもよらかなった不整脈だ。薬による治療は激しい副作用で断念。翌年は専門の病院に入院して手術を受けた。だが、2度の手術でも治らず、先月は3度目の入院で心臓へ電気ショックを与えた。それでも新型のものが姿を変えて再び現れ出た不整脈。そのことも含めて、通院しているM内科へ先日報告に行った。 ドクターは大変驚いていた。心電図を観た彼の表情が暗い。早速新しい薬を試すことになった。血栓予防のため、「血液サラサラ」の薬も飲む必要があるとのこと。それにしても手術や処置を受ける度に、新型の不整脈が現れると言う厳しい現実。新しい薬の作用は強く、「だるさ」や「胃のもたれ」もある由。無理やり薬で発症を抑え込むのだから、何らかの副作用が出るのは当然とドクター。取りあえず1週間はこのまま様子を見ることになった。 M内科へ行ったのはK病院での入院治療記録を届けるためだが、数日後に迫った久米島マラソンへの備えでもあった。26度の気温の中での42.195kmは、今の私にとっては地獄のような厳しさ。そしてそれが私の最後のレースになるはずだ。もちろん数ヶ月前のエントリー時には、完走出来る自信があるから申し込む。だがレース当日の体調が確約出来ないのが私の現実だ。 私は今回以下の目標を立てた。1.まずレース当日まで生きていること。2.当日はレースのある地(沖縄県久米島)にいること。3.当日スタートラインに立つこと。4.レース当日はコースを走れるか、また歩けるかの体調にあること。5.時間内完走が無理だと判断したら、途中リタイア出来る心の余裕があること。6.しかし、最後までゴールを目指す強い精神力も同時に備えていること。 冗談だと思うかも知れないが、私は真剣そのもの。当日スタートラインに立つまでには色んな障害がある。例えば自分の体調であり、家族の反対であり、台風などの気象条件であり、思わぬ突発事故などだ。それに今回はまだドクターから最終的なゴーサインが出ていない。だが走るのが無理なら途中まで歩けば良いし、それすら無理な場合は観光に切り替えれば済む話。今回は私の古稀記念レースでありお祝いの旅。リスクを背負う覚悟も出来ている積りだ。 幸いにして台風の襲来はなさそう。残るのは自分の体調だけ。だが、それが一番の問題だろう。久米島の大会本部からゼッケンナンバー通知も届いたし、ツーリストからはチケットも届いた。多分スタートラインには何とか立てると思うが、心配な点もある。今私を苦しめているのは、強い薬の副作用。血液サラサラの薬は飲んでいない。今日は歯科で歯周ポケットから歯石を取る処置を受ける。その際血が止まらないと困るためだ。 それにしても良くここまで来れたものだ。先月の大阪への家族旅行前。あの時は到底旅行するのは無理と思うほど体調は最悪だった。K病院で受けた治療のお陰で、その後も妻と長野、群馬、埼玉、東京へ旅行出来たし、今回久米島へも行けそう。だが、来年は選択の幅がグッと狭まるのは確実。それだけ老化による体力低下が著しく、体調も良くないからだ。そんな自分に出来ることは何だろう。 レースへの参加は言うに及ばず、所属する走友会とウルトラマラソン仲間との行事参加も厳しくなるはず。それでも何とか走り続けたいし、ランニングとの関係は保ちたい。それを見つけるのが来年の課題になるのではないか。面白きかな人生。愉快なり人生。35年間走ったことで、私の人生は実に充実したものだった。そしてヨレヨレになりながらも、自分の足で少しでも前進したいと願っている。 走友のT田氏が、先日写真を送ってくれた。「えちごくびき野」100kmレース参加時のものだ。もうウルトラマラソンが無理な私にとっては何の役にも立たないが、チャレンジする走友達の姿に感動することだけは出来る。引退間際の老ランナーが今後出来ることは何だろう。それが最後の宿題。 ありがとう走友達。ありがとう私の家族。そして35年も走り続けられたことに、心から感謝したい私だ。
2014.10.20
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『ふしぎな岬のものがたり』から タイトルに「ふしぎ」がついているくらいだから、やはりこれは不思議な話なのだろう。原作は森沢明夫。監督と企画が『八日目の蝉』の成島出。そして吉永小百合が今回初めて企画に加わった。 出演は岬のカフェの主人に吉永小百合。その甥役に阿部寛。不思議な客役に笑福亭鶴瓶。出戻りの娘役が竹内結子。それを笹野高史、石橋蓮司、米倉斉加年、吉幾三らベテランの脇役が支える。ばんばひろふみ、因幡晃、堀内孝雄らが町の職員OBとしてバンドを組み歌を歌うのだが、本職なので歌が上手過ぎるのが難点か。 夫に先立たれた妻が切り盛りする岬の喫茶店。両親を知らずに育った甥は、愛する叔母を一途に守り続ける。30年もこの喫茶店に通っている会社員や、霊感の強い少女や、出戻りの娘がこの寂れた喫茶店と関わりを持つ。 鶴瓶は『おとうと』などでも小百合と共演している。なぜいつもにやけた顔をした落語家が、小百合の弟役になれるのか不思議でしょうがない。彼は酔うと下半身を曝す癖がある人物。NHKには彼の名を冠した番組があり、旅先でふらりと民家を訪れ、独特の話術でたちまち人の心をつかんでしまう。今回はヒロインに心を寄せる会社員役。最後は岬の沖をフェリーに乗って関西へ帰って行くのだが、「結論」は示されないまま。 「不思議さ」がこの映画を貫くテーマだが、その一方で人間の交流の暖かさをじっくり描く。人の弱さや業、それをふんわりと包み込む絆こそ、監督が、そして初めて企画に携わったベテラン女優が一番描きたかったものだったのではないのか。 『蜩ノ記』から 『蜩』はヒグラシと読む。一日中物悲しい声で鳴いているあのセミのことだ。脚本と監督が小泉尭で、原作は葉室麟。出演は主役の武士に役所広司、その妻に原田美枝子、娘役に堀北真希。監視役の青年武士が岡田准一。藩主の側室役に寺島しのぶ。密命を帯びた家老役に井川比佐志。これは藤沢周平の世界そのもの。封建的な武士の世界を描く時代劇だ。 十年後の切腹を命令され、蟄居(ちっきょ)しながら藩内の家譜を調べ続ける武士。彼は藩主のたっての願いを受け入れ、従容(しょうよう)と死に就く。それを不思議とも思わない妻と娘。彼女達は心から夫、そして父を信じて疑わない。監視役を命じられた若武者は、やがて毅然とした男の姿に心酔して行く。 ここには武士の矜持は描かれていても、日本列島を取り巻く世界情勢などはどこ吹く風で、何の関係もない。自己完結で終わる世界だ。同じ時代でも、少し前に観た『柘榴坂の仇討』には、幕末から明治期にかけての武士の苦しみや社会の劇的な変化が描かれていた。これが「時代小説」と「歴史小説」の違い。前者には何の魅力も感じず、「時代」や「時代に翻弄される人間像」がより明確に描かれる後者に強く惹かれる私だ。 『ぶどうのなみだ』から 監督、脚本は『しあわせのパン』の三島有紀子。出演者は農園の兄役が大泉洋で弟役が染谷将太。キャンピングカーに乗って気ままな旅を続ける娘役が、シンガーソングライターの安藤裕子。村人役がきたろうや田口トモロヲ。 家を捨てて東京で音楽の道を目差していた長男が、北海道の我が家に帰って来る。彼は父が残したブドウ、「黒いダイヤ」と呼ばれるピノ・ノワールを育て理想のワイン造りに没頭する。一方、歳の離れた弟は父が自慢だった麦を守り続ける。一つ屋根の下で繰り広げられる兄弟の葛藤。そこへふらりと現れて巨大な穴を掘り出す若い女性。彼女は幼い頃、母に捨てられた苦い過去を持つ。 若い女性がスコップ一本で、あんな深い穴を掘れる訳がない。第一掘った土の量と外に盛られた土の量が違い過ぎるし、大量の土が崩れて危険だろう。それに村人が奏でる楽器編成では、あんな音量が出るはずがない。それは夢を失った老人の瑣末な常識で、女性監督の感性とは相容れないものなのだろう。ともかくこの映画が風車に突進するドン・キホーテみたいに、何とも不思議な感覚を持つものであることは確かなようだ。 何度も失敗を繰り返しても挑戦し続ける物狂おしい長男と、それを屈折した心で優しく見守る弟。彼らを取り巻く不思議な村人達。現実にはあり得ない事象を、この映画は追及して止まない。「人間の持つ複雑な一面と不可思議さ」。それが女性監督が描きたかった世界ではないのか。 「ぶどうのなみだ」とは、春先にブドウの枝から流れ出す透明な液体のこと。それは長い眠りから目覚めたブドウが、ようやく活動を開始しようとする「合図」なのかも知れない。
2014.10.19
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皆様今日は~!!今日の写真は花が中心です。以前にも観たことがあると感じるかも知れませんが、全て載せるのは初めてのものばかりです。秋の色、素敵ですね。では、早速ご覧いただくことにしますね♪ 一面の黄色い花はマリーゴールドです。 白い花はソバの花です。 一面に続くソバ畑も、収穫期の今では色が変わって来ています。 名前の知らない黄色い花が、青空にくっきりと映えています。 秋来ぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかれぬる 藤原敏行 季節は目に見えませんが、静かにかつ確実に動いているようです。 ツルウメモドキも今ごろはさらに色づいてることでしょう。 ニシキギの葉っぱが真っ赤な秋の色にかわりました。 宝石みたいなブドウは、まさに秋の色そのものですね。 そのうちにまた、秋の色を捜しに行きたいな。
2014.10.18
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10月も半ばを過ぎ、ますます秋が深まった感があります。撮り過ぎて載せられなかった写真を、秋の思い出として再び載せたいと思います。今日は秋の田圃。美しい景色を楽しんでいただけたら嬉しいです。 黄金色に輝くあの頃の田圃は、実にきれいでしたね。それが今ではすっかり淋しい風景に変わり、気温もぐっと低くなって来ました。これからは晩秋を迎え、そして一日ごとに冬に向かうのです。 こうして見ると、日本の田圃はやっぱり良いですね。何だかとても懐かしく感じます。ところで我が家もようやく新米に変わりました。それも「銀しゃり」です。暫くの間玄米を食べていたのですが、久しぶりの白米は全然味が違い、食欲が増して困るほどです。 明日は別な秋の色をおとどけしますね。ではでは~♪
2014.10.17
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9月22日月曜日。私は自転車に乗ってある所へ向かった。それは長年探していた古墳。前日地底の森ミュージアムを案内してくれたのは、ここでボランティアをしてる我が町内会のK副会長。その彼が古墳が載った地図を見せてくれたのだ。ずっと見つからずにいた幻の古墳に、今日こそ会える。そう思うと、私の胸は知らず知らずに高鳴った。 捜し続けていた古墳の名は「王ノ壇古墳」。四角い形をした方墳らしい。かつては周濠(墓を取り囲む堀)もあったようだ。この古墳の名が、やがてこの地区の名前である「大野田」に変化したとも聞く。この周辺にはかつてかなりの古墳があった。だが埋蔵文化財調査の後はことごとく埋め戻され、その上にビルや住宅が建っている。ここは20年以上も発掘調査を続け、たった一つだけ残されたのが地区の名の元となった方墳なのだ。 それらしい場所をグルグル廻っているうちに、あるマンションで見つけたのがこれ。「王ノ壇古墳」がこの周辺にあるのは確か。だが幾ら捜してもそれらしいものはない。古くから住んでそうなお宅を訪ねたが、住人の小母さんは知らないと言う。虚しく戻る途中、2人の自転車に乗った高校生に出会った。「ダメ元」で彼女達に古墳の場所を尋ねた。すると意外や意外。そのうちの1人が知っていて、私を案内してくれたのだ。やったー!! それがこの場所。何だ何だ~っ?これが古墳だって?ここはさっき私が通り過ぎた場所。てっきり何かの工事現場だと思ったのだ。残土をブルドーザーでかき集めたような小山。どうしてもこれが古墳とは思えない。高校生にお礼を言って、私はその「現場」に近づいてみた。看板があった。どうやら王ノ壇古墳に関する案内のようだ。とすると、この場所が古墳であることは間違いないが、なぜこんなことになったのかが謎。 これが古墳の在りし日の姿。私が捜し求めていた古墳はこんな姿だったのだ。それが開発ですっかり形を変えた。古墳の東側は新しく出来た道路に削られ、元の姿を失った。発掘調査後に周囲を再整備するため、一旦古墳を破壊したのだと思う。 こちらは発掘調査時のもの。私も何年か前、この付近での現地説明会に出たことがあった。ここは東北地方でも珍しい古墳群があった場所。それを開発の名の元にことごとく破壊した。埋蔵文化財調査なんて、言って見れば行政側の言い訳みたいなもの。私達の遠い祖先達が眠る古墳。当時の文化や歴史を伝える重要な手掛かりが、全ては闇に葬られてしまったのだから。 横長の説明板を撮ったが、くっつけても読めるかどうか。この古墳がこの地の名前の興りになったことなどが記されていた。その貴重な古墳が何と無残な姿だろう。恐らくは元の状態に復元するはずだが、それはもう古墳ではなく、ただの土山ではないのか。 こちらは古墳の頂上に建てられていた板碑(いたび)。恐らくは鎌倉時代の仏教遺跡だと思う。頭部に刻まれた梵字は古代インドのサンスクリット語。現在は会話では使われず、文字としてしか用いられていない。本来は薄い石に刻むのだが、これらは笊川(ざるがわ)の河原石みたい。 私は虚しい気分で再びペダルを漕いだ。帰る途中に小さな神社があった。名前は春日神社。ここにも説明板。元の神社は西北の方向150m離れた場所にあった。それが土地整備のために移転したのだ。埋蔵文化財調査を行った結果、地下に古墳があった。そこから見つかったのが右側の「隼人の革盾」(はやとのかわだて)だ。 これは宮中を警備する時に用いるもの。当時この地方を支配していた権力者はかなり大和朝廷とも親しい関係があったのか、親睦の証としてこの盾が朝廷から贈られた。盾はその後土の中で腐ったが、色と紋様が土に付着して残った。復元写真は前日博物館でKさんが見せてくれたもの。私もこの話は聞いたことがある。 隼人の革盾が発見されたのは東北地方ではここだけで、全国でも数か所しかない由。その貴重な古墳すら壊される文化行政とは一体何なのだろう。この地区は多賀城以前に国府があったとされる郡山遺跡(仙台市太白区郡山)に近く、そこに勤務した官人の住居だった由。古代東北文化の最先端の地が跡形もなく壊され、近代的な街に変貌してしまう理不尽さ。 10月12日日曜日。私はランニングの途中にここを通った。あれから19日。周囲の様子がすっかり変わり、荒々しい工事現場が公園風に治まっていた。台風が去った14日、私は再度デジカメ持参で訪れた。小山は整えられ、古墳らしく変身していた。多分これから芝生を張ったりするのだろう。 立ち入り禁止の柵を越えて中に入ると、片隅に石が転がっていた。そのうちの幾つかは、前回の写真に載っていた石。左側はその細部だ。消えかかっているが、微かに梵字が読める。右側は江戸時代の天保年間に建てられた雷神石のようだ。この地区にたった一つだけ残った古墳。周囲の様子がかつての風景とはすっかり変わってしまったが、やがて小山の頂上には石碑が戻されるはず。 さて、私の近所には長年の開発で姿を消した古墳が数多くある。そのうちの一つをかつて東京国立博物館で見たことがある。何と、石棺は雨ざらしになっていた。1500年後にまさかそんな扱いをされるとは、古代の勇者も考えてなかったはずだ。嗚呼。
2014.10.16
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9月21日日曜日。この日は町内会の行事で、近所の博物館へ出かけた。ビルの谷間にある古代米の田圃の直ぐ隣にある博物館だ。 この博物館は2つの名前を持っている。1つは正式名称の「仙台市富沢遺跡保存館」。そしてもう1つが通称の「地底の森ミュージアム」。それにしても「地底の森」なんて、不思議な名前だと思わない?そんな名前がついたのには、ちゃんとした訳があるんだよ。 元々、ここには小学校を建てる予定だったのさ。その工事中に発見されたのがこの遺跡。事前の「埋蔵文化財調査」で土を掘って行くと、その一番下から出て来たのが約2万年前の「森の跡」だったんだ。 それをそっくり保存し、かつ見学出来るようにしたのがこの博物館って訳。埋没林と言うのは、それほど珍しいものではないそうだ。でもね、そこで当時の人間(これは日本人の遠い祖先だね)が残した痕や、動物が棲んだ痕跡まで残っている遺跡は、世界にもほとんど例がないそうだ。そこで莫大な費用をかけて、この博物館を作ったんだって。この大昔の森は、博物館の地下にある。それで「地底の森」って名前を付けたんだね。 これが私達の先祖で、旧石器人。2万年前のこの時代は今よりも気温が7度から8度も低く、「氷河期」と呼ばれていたのさ。ここは小さな川が幾つか流れ込む湿地帯でね、鹿などの獣が水を飲みに来たんだよ。それを知っていたご先祖様達は、獲物を待ち構えてここに来たんだね。寒くて焚火をしたので、その痕も残ってるんだ。そして狩りの道具である石器を捨てた痕なんかもね。 左側がシカの標本で、右側がここで発掘されたシカの糞なんだ。「ふ~ん」なんて言ってるのは誰? そしてこれがご先祖様達が使っていた石器。つまり石製の道具だね。左側は「ハンドハンマー」と呼ばれている。これはものを砕いたり、叩いたりする時に使ったんだ。そして右側が石匙(いしさじ)。形がスプーンみたいに見えるのでそう呼ばれているが、実際は獲物の皮を剥ぐ時に使ったんだ。この時代はまだ土器がない。だから「無土器文化」と呼ばれることもあるんだよ。 当時の森の様子を再現したのが左の写真。これは博物館の周囲に氷河期の樹木を植えたんだ。右はその代表的な樹であるチョウセンゴヨウマツの実。美味しい「マツの実」はこの松ポックリの間に入っているんだよ。でもね、地球温暖化が進んでいる今では、当時の樹木は育ちにくいそうだ。 そうそう、一つ珍しいものを紹介しよう。この森の一角で咲いていたのが、ナガホノシロワレモコウ。漢字で書くと「長穂の白吾亦紅」。文字通り穂が長くて白い花のワレモコウなんだ。珍しいだろ? ところで、ここから出たのは旧石器時代のものだけじゃないんだ。地表に近いのは新しい時代のもので、深く掘るほど古い時代のものが出る。左側の写真は「剥ぎ取り地層」と言ってね、ここの地層をある厚さで剥ぎ取ったもの。勿論下が古く、上になるほど新しい時代の地層って訳。 右側は良く知ってる縄文式土器だよね。この縄文時代になってからようやく土器が使われるんだ。縄文土器は世界でも有数の優秀な土器なのさ。 この2つはどちらも弥生式土器なんだよ。左側の土器の縁にはアイヌの紋様みたいなのが付いてるけど、これもれっきとした弥生式土器。なかなか珍しいもののようだ。 そしてこれが弥生時代の石包丁。包丁と言っても料理に使う訳じゃなく、稲穂の先端を刈り取る道具でね。2つの穴に紐を通し、手に巻いて使ったみたい。当時は苗を育てる技術はなく、「もみ」を直接田圃にばら撒く方式だったのさ。蒔かれたもみの状態によって発育が違って来る。だから実った穂だけをこの道具で刈り取り、今のような一斉稲刈り方式じゃなかったのさ。 そうそう、見学会の最後に良いことを聞いてね。翌日私はある場所を訪ねてみたんだ。でも長くなるので、その話は明日にしよう。じゃあ、またね~♪
2014.10.15
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妻との旅、そしてその旅日記を書いているうちに半月が過ぎた。中にはいささか旧聞となったものもあるが、今日は私が気になったニュースや話題について記してみたい。 さて、大型の台風19号は一体どこを通過しているのだろう。九州南部から四国南部を通り、関西方面に向かったことは知っているが、昨夜は疲れて早めに眠ってしまった。窓の外は雨。それもかなり強い雨で、時々風の音も聞こえる。土砂崩れがあった広島市。同じく伊豆大島の西側。そして御嶽山の噴火で大量に降った火山灰がどうなるか心配。 その御嶽山で被害に遭った方の救出劇でも心を傷めた。亡くなった方の大半は、体や頭部に噴石の直撃を受けたことが原因のようだ。大きな石が物凄い速度でぶつかったらひとたまりもない。胸くらいまで深い泥流の中での救助活動は、さぞ困難を極めたことだろう。救助隊の活動に、心から敬意を表したい。 そして驚くべきことに、今回の噴火の前には異常とも思える変化があったと言う。これは山小屋の経営者などの話。彼らによれば、数日前から通常とは違う位置から強い噴煙が出たり、かなり遠方まで強い硫黄臭がしていたそうだ。ところが設置した地震計のうち、7台ほどが故障中。これでは的確な避難情報は望めない。今後は山岳関係者からも情報入手の必要性がありそうだ。 さて、とっくの昔に終了したアジア大会だが、主催国である韓国の運営は異常だったのではないか。日本選手はバトミントン競技で急に向かい風を受けたり、サッカー選手の宿舎ではエレベーターや水道の「故障」で、22階まで歩かされたり、水が出なかったりした。 ところが不利な条件に置かれたのは日本選手だけでなく、ボクシングやレスリングなどで韓国と戦った相手国も同様だったとか。打たれてフラフラになった韓国選手が判定勝ちするような種目が続いたようで、試合後非常に怒っていた。インドの女性選手などは銀メダルを韓国選手の首にかけて退場したとか。こんなことがあったせいか、韓国の金メダル数はトップの中国に次いで2位となり、日本は3位に終わった。 一方、中国で開催された世界体操選手権では、日本は団体戦で中国に微差で敗れ銀メダルに終わった。恐らくはこちらも「アウェイの洗礼」を受けたのだろう。ライバル国で不利な判定を受けたら、勝てるものも勝てなくなる。エース内村選手は前から肩を傷めていたが、最後まで良く頑張ったように思う。若手が充実している日本チームなので、これからもきっと頑張ってくれると思う。政治の世界同様、両国のアンフェアさが際立つ。 男子テニスの錦織選手は、ジャパンオープンでも優勝し、世界ランクを1つあげて過去最高の7位に上昇した。試合後、感極まって泣いていた彼の姿が印象的だった。その後の香港オープンでは、残念ながら前から傷めていた臀部に痛みが出て1回戦での敗退に終わった。ツアーの激務の中で常に良い体調を維持するのは至難の業なのだろうが、これからも頑張って欲しいと願っている。 日本のプロ野球は、CSが始まった。セリーグは阪神タイガースが1勝1引分で広島カープを下し、ジャイアンツとの決勝戦に臨むことになった。 パリーグはオリックスと日本ハムが1勝1敗だったが、大阪での最終戦は台風19号の影響で中止され、今日に延期された。さて、どんな結果になるか楽しみだ。そんな中で日ハムの大谷投手の活躍ぶりが凄い。投手としても10勝以上の勝ち星を上げ、打者としては確かホームランを10本ほど打ってるはず。まさに獅子奮迅の活躍とはこのこと。 それに反して、我が東北楽天の凋落ぶりが酷過ぎる。昨年日本一のチームが今季は最下位。最後も6連敗のままシーズンを終えた。田中投手の退団、星野監督の長期欠場など理由はあるだろうが、選手層の薄さは否めない。それに外国人選手の活躍も、今季は目立たなかった。 星野監督の後任人事もなかなか公表されない。多分三木谷オーナーが迷っているのだろう。さっさと決断し、新監督の元に新たなスタートを切って欲しいと願うのは、多くのファンが共通のはず。 今年度のノーベル物理学賞に3人の日本人研究者が選ばれたのは、実に喜ばしいことだった。85歳の老教授から、まだ54歳の新進気鋭の教授までと年齢も幅広い。中には中村さんのように、青色ダイオードの発明を巡って所属した会社と裁判まで起こした兵もいる。それぞれの長期に亘る努力と、研究に対する真摯な態度に敬意を表したい。 日本人が発明し、商品化に成功したLEDは、世界のエネルギー革命に寄与し、人類の発展に貢献したのは明らか。政治やスポーツの世界でアンフェアなあの両国に対して、心から「ザマー見ろ」と叫びたい気持ちだ。 ノーベル平和賞はパキスタンの少女マララさんと、インドの人権運動家カイラシュさんの頭上に輝いた。この両国は領土を巡って未だに紛争を続けているが、2人は受賞を機に両国の関係修復を企図していると聞いた。まだ高校生のマララさんがイスラム教過激派ヒズボラの手によって、頭部を銃撃された悲劇。彼女はそれにもめげず、女性教育の必要性を世界に訴え続けた。あの国連での演説は凄かった。魂を揺さぶられるような演説。とても17歳とは思えなかった。 そんな彼女を、今後も襲撃し続けると公表したイスラム教過激派。男だけが中心になって活躍する宗教なんておかしいし変だと思う。だが狂信的な集団は、今や政府のない「イスラム国」まで作るほど。 日本の憲法9条が受賞の対象になるとの噂があったが、私は受賞しなかったのは正解だと思う。法律は絶対ではないし、日本の平和は9条だけで守られて来た訳ではないからだ。そんな狭量な精神で憲法を束縛してはいけない。平和は観念ではなく生活の実態だ。そして世界の常識と連動しているものだ。 同じくノーベル文学賞はフランス人文学者の頭上に輝き、以前から噂の高かった村上春樹氏は今回も受賞を免れた。これも私は騒ぎ過ぎだと思う。私はあまり面白いとも感じないし、文学の好みは人によって大きく異なる。憲法9条同様、我が国の「インテリ層」の脆弱さの表れとでも言えようか。 それにしても小保方さんの博士論文に関する早大の最終裁定は酷かった。再度科学倫理を受講し、大学の指導の下に論文を修正したら学位を承認すると言う内容。そんな甘い裁定は最低だ。彼女のせいで、人が1人死んでいる。博士論文にもSTAP論文にも不正とねつ造があったと認定されているのに、こんな裁定はないだろう。今回の結論は、同大学の評価を貶める以外の何者でもないと思うのだが。
2014.10.14
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<嵐の東京を歩く> 10月5日日曜日。旅の最終日は、東京で息子と落ち合う予定。ただ、この日は台風18号の接近で、関東地方も朝から強い雨になることが予想されていた。このため上野駅で会う時間も正午から9時半へ、さらに9時へと変更した。早めの帰宅を考えたのだ。上野に着いた私達はロッカーに荷物を収納し、改札口で次男を待った。 長男からは結局何の連絡もなかった。私の古稀を祝う大阪での家族会の時も、反応しなかった長男。帰省時に妻が小言を言ったら、それが面白くなかったようだ。40を過ぎても心が通じない長男と経済的な自立が出来ない次男。まだ結婚も出来ない彼らの将来がどうなるのか、親としてはとても気がかりだ。私達がいつまでも元気な保証はないし、いつまで経済的な援助が出来るとは限らない。 車中では穏やかだった空が、駅から一歩外へ出たら猛烈な風雨。その雨の中を、先ず向かったのが湯島天神。だが、途中でずぶ濡れ状態に。気を利かせた次男がドンキ○ーテへ入った。私はここでビニールの雨合羽とタオルを買い、妻は安物のブーツを買った。まさかの大雨で夫婦喧嘩を始めた両親を、彼が救ってくれたのだ。それにしても酷い雨。ランニングシューズが、たちまち水浸しになる。 本殿 湯島天神は通称で、正式な名称は湯島天満宮。社伝によれば雄略天皇時代の創建とのことだが、5世紀の東京などほぼ無人状態だったはず。南北朝時代の正平10年(1355年)、住民の請願により学問の神である菅原道真公を勧請して合祀したと言う伝えの方が正鵠を得ているように思う。 ここは東京勤務だったまだ20代の頃に、一度だけ来たことがある。仙台から転勤し、新しい仕事を覚えるのに必死だったことを次男に教えた。当時の私は今の彼より8歳若く、既に結婚もしていた。今にして思えば、あの時ほど辛く厳しかったことはなかった。 この日も、妻のショルダーバッグは私が持った。だが中に入れようとしてもビニール合羽は窮屈で、たちまちバッグは濡れてしまった。雨の中を神田明神まで急ぐ。ここは初めて通った道。坂が多く、本郷台地が海に接していた頃の感じがまだ残っている。太田道灌が江戸城を築いた頃が偲ばれる。 神田明神は通称で、正式な名称は神田神社。元々この地には伊勢神宮の神田があった。それが名前の興りだ。 祭神は一之宮には大己貴命(オオナムチノミコト=大黒様)。二之宮には少彦名命(スクナヒコナノミコト=えびす様)。そして三之宮には平安時代の武将である平将門。かれは反乱を起こし、京都で曝し首になった。だが嘉元年間(14世紀初頭)の疫病流行で多数の死者が出たのは将門の祟りとされ、延慶2年(1309年)神として、この神社に合祀された。勝負事にもご利益がある由。 随神門正面 随神門裏面 本殿 次に向かったのが湯島聖堂。ここは徳川五代将軍綱吉が、儒学の振興を図るために元禄3年(1690年)この地に聖堂を建て、大学頭(だいがくのかみ)である林家から廟殿と家塾を移した。 寛永9年(1797年)には幕府直轄の昌平坂学問所を開設。明治に入るとここに文部省が置かれ、以降博物館(現在の東京国立博物館)、東京師範学校(現在の筑波大学)、東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)、書籍館(しょじゃくかん=現在の図書館)が次々に設置され、我が国の近代教育の嚆矢となった。 聖堂の中 孔子像 湯島聖堂の構内では、雨に濡れながらお茶の花が咲いていた。ここから聖橋を渡り、私達は最後の訪問地へと向かった。 これはニコライ堂と呼ばれている。キリスト教の一派であるギリシャ正教だが、ここは日本国内なので「ロシア正教」ではなく「日本ハリストス正教会」が正しく、正式名称は「東京復活大聖堂」。ニコライは聖人の名を冠した通称。 明治24年(1891年)に竣工したこの建物は、日本で最初でかつ最大の教会建築。ビザンチン様式の建築美で、昭和37年(1962年)国の重要文化財に指定されている。 第二次世界大戦中に迫害された大勢のユダヤ人に対して、大量のビザを発行して国外脱出を助けた正義の人、杉原千畝(当時のリトアニア領事館領事代理)は、この教会の信者で一時教会の教師も勤めていたことがあるようだ。 この後私達は、御茶ノ水駅近辺で早目の昼食を摂った。次男は上野駅まで見送ってくれた。最後は雨で散々な東京見物だったが、妻と2人の今回の旅は案外充実したものだったように思う。東北新幹線の車中では、濡れた合羽やタオル、靴などを干し、ビショ濡れの靴下を替えてようやく落ち着いた。雨は途中で止み、仙台へ着いた頃は曇り空。東京の嵐が、まるで嘘のような静けさだった。 さて今回の旅では、一度も「座席指定」を取らなかった。「大人の休日倶楽部パス」は通常6回まで座席指定が可能。今回は不要と考えたその勘が、どうやら当たったようだ。 榛名湖畔の私 旅から帰った翌日には、写真の整理を終えた。疲労感の中で旅日記を書き出した時、初めて左手首の痛みに気づいた。旅行中はきっと緊張していたのだと思う。消炎剤を吹きかけ、湿布薬を張って必死になって治した。痛みは2日後にはきれいに消えていた。 帰宅の翌日は大雨。台風の影響だ。激しい雨の中を、次の旅の費用を支払いに行った。その後の旅の「足」も確保し、観光地図が載った本も2冊買った。旅は心の慰め。果たして老妻と一緒の旅が、これから何度出来るかどうか。そして3人の子供達と、これから何度会えるかどうか。人生の旅は、もう少し続きそうだ。<完>
2014.10.13
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<小江戸川越 その2> 私は本丸御殿から喜多院へ向かおうとしていた。そこは江戸城から「徳川幕府三代将軍家光公誕生の間」や「春日局化粧の間」が移築された、川越市内でも有数の寺院。だが、妻はお土産を買いたいので「蔵造りの町並み」へ戻りたいと言う。ここは彼女の言い分を聞いて、再び蔵のある中心街へ向かった。 川越市の街中には蔵が40近く残っている。中には江戸時代のものもあるが、大半は明治26年(1893年)以降のもの。その年、川越は大火に遭って市内の主な建物が焼失した。火災を防ぐために考えられたのが、火に強い蔵造りの建物を数多く造ることだった。ここは第2次世界大戦の空襲にも遭わずに済んだ。こうして川越には蔵を含む古い建物がたくさん残り、中には重要文化財に指定されたものもある。川越観光の目玉だ。 いなせな若者が、観光客を乗せた人力車を引っ張って走る。その風景は蔵の街にぴったりだ。 ここは老舗の中。店内には明治期や大正時代の古い看板などが数多く展示されている。普段は撮影禁止だが、私が仙台から来たと聞いて、特別に許可してくれた。ご主人は研究者肌の方で、東日本大震災の折りに、宮城県内へボランティアとして来てくれた由。被災地にとってはありがたく、このような配慮がとても嬉しく感じた。 老舗の中から、表通りを撮らせてもらったのがこの写真。格子窓を通して街の様子が窺えるのが面白い。 左側はハーフマラソンのポスター。実は私が川越を意識したのは、ウルトラマラソンがきっかけ。名前は「小江戸大江戸○○」とか言い、80kmから200kmまでの幾つかコースがある。昨年何人かの走友が走った時に、ここが蔵の街であることを知って興味を持ったのだ。 右側はナタマメ。これは中心街の建物の前に植えられていた。確か頻尿の薬になるとか聞いた。珍しいので写真を撮ってみた。長さは20cmほど。 この青緑色をしたルネッサンス様式の建物は、大正7年(1918年)に建てられた「旧第八十五銀行本店」で、国の登録有形文化財に指定されている。現在は、ある都市銀行の川越支店として活躍中。まだ現役の建物だ。 こちらは蔵造りの町並みの一角にある「時の鐘」。最初のものは寛永年間(1624~1644年)に藩主酒井忠勝よって建てられ、現在の鐘楼は明治26年の大火後の建造。400年近くに亘って川越の町に時を知らせ、現在も6時、正午、午後3時、午後6時の4回、機械によって市民に時刻を知らせ続けている。 残念ながら喜多院へは行けなかったが、次回の楽しみにしよう。その夜、私達は安い中華料理店で夕食を摂った。中ジョッキでは足らず、私はコンビニでワンカップを買い、ホテルに帰ってから部屋で飲んだ。明日は旅の最終日。「メイン行事」は無事終わり、後1日残すだけ。その油断が酔いにつながったのだろう。 私はその夜、床へ転げ落ちて左手首を強打した。帰宅後に見たら腫れ上がり、捻挫してしまったようだ。酒に酔ったこともあるが、原因はダブルベッド。慣れないベッドで動き回り、墜落したのだ。妻は夜具を剥いで床で寝、夜中に目が覚めた時、私はパジャマ姿だった。慌てて予備の毛布を捜して体に掛け、何とか眠った。こうして3日目の夜は更けて行った。<続く>
2014.10.12
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<小江戸川越 その1> 朝早く榛名湖畔を後にした私達は、正午には埼玉県川越市に到着していた。駅のロッカーに荷物を入れようとしてビックリ。最初のロッカーには古い酒のような液体が零れており、たちまち私のリュックが濡れてしまった。これが第1の失敗。第2の失敗は東口ではなく西口へ出たこと。そして第3の失敗は、目的地への道を間違えたことだ。これも通行人の方に正しい行き方を教えてもらって、事無きを得た。 昼食は小さな神社の境内で、カツ丼を食べた。これは途中のデパ地下で買ったもの。昼過ぎだったため、100円引きになっていた。さて、川越市は「小江戸」と呼ばれている。「小京都」と呼ばれる町が全国に幾つかあるが、こちらは「こえど」と発音する。街中に江戸時代の面影がたくさん残り、歴代藩主が徳川幕府と深い関係のある大名ばかりだったことが原因だと思う。では、早速川越の町を紹介しよう。 川越は埼玉県の南西部に位置する、人口約35万人の都市である。蔵などの古い街並みが残り、伝統的なお祭りが開催される川越は観光の街でもあり、大勢の観光客が市内の目抜き通りを闊歩している。 市内「蔵造りの町並み」で見かけた、瓢箪の細工物と狐のお面。 川越祭で活躍する山車(だし)のポスター。 蓮馨寺の境内で見た「おびんづる様」(釈迦の高弟で本名はビンドラ バラダージャ:十六羅漢の1人=左)と鯛型おみくじの安鯛(右)。 市内で最も有名な「蔵造りの町並み」は次回にし、今回は先ず川越氷川神社へ行ってみたい。 氷川神社本殿。ここには川越(当時は河越)に最初に城を築いた太田道灌が祭神の一人として祀られている。道灌は関東管領だった上杉氏側の一武将で、室町時代初期の人。足利氏と戦うため、父道真と共に最初の江戸城、岩付(岩槻)城、河越城の三城を同時に築城した。神社は古墳時代の創建とも伝えられ、現在の社殿は江戸城二の丸に三代将軍家光が建立した東照宮を移築したもの。 同神社の境内。右側の小川では紙製の人形(ひとがた)を浮かべて吉凶を占う神事が行われ、溶けた紙が底に沈んでいた。 次に私達が向かったのが「本丸御殿」。これはかつての川越城の建物の一部だ。 本丸御殿の外観。市内の寺に残されていた江戸時代末期の建物をここに移築。また「家老詰所」は、廃城令公布前の明治初期のもの。 左側は築城当時の古地図。幕末の戦いで官軍に破れた川越藩は、恭順の意を表するために全ての濠を明治元年に埋め立てた。現在はそのうちの一つ「中ノ門堀」(赤い字の個所)の一部だけが掘り戻され、再現されている。 右側のポスターは柳沢吉保の肖像。五代将軍綱吉の寵愛を受けた彼は側用人として権勢を振るい、7万2千石の川越城主となった。後には大老格に登り詰め松平姓を賜ったほど出世した大名だが、綱吉の死と共に権力を失って現在の「六義園」(東京都文京区)に隠居する。 左側は発掘された川越城の鬼瓦。右側は本丸御殿の軒先の装飾。共に徳川家の紋「三つ葉葵」である。 家老詰所側から見た本丸御殿の建物。 左側は襖絵で、右側は槍袋(熊の皮製)。 左側は板敷きの廊下で、右側は畳敷きの廊下。 往時の評定の様子を再現したもの。 現在の御殿内では子供達が三味線の稽古(左側)や、琴の稽古(右側)に励んでいる。 この辺りから妻に疲労が出始めたようで、私に脱いだ靴を持たせようとしたり、「ショルダーバッグが重くて肩が痛い」と言い出した。だが翌日には、「そんなことは絶対言ってない」と言い張る。私が彼女のショルダーバッグまで持ったのは言うまでもない。<続く>
2014.10.11
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<ウォークとランと榛名湖畔の花々> 颯爽と走る青年を見て、自分も走って湖畔を一周したいと思った。チェックインしてランニング姿に着替えた時、妻も一緒に走りたいと言い出した。この日は朝に6km走っており、旅の疲れもある。それは無理と判断し、私も歩くことにした。日はまだ高く、半袖とランパンでも早歩きすれば寒くないはず。こうして1周6kmの湖畔ウォークが始まった。走るのは明朝、旅先では無理しない方が良い。 樹木を透して湖水が見える。私の好きな風景だ。昨年旅した北海道の大沼国定公園にも似ているが、あそこよりもっと雄大だ。湖岸を一周するコースを覚えるのも大切な仕事。明日の朝道に迷わないために、しっかり道と景色を観ておく必要がある。 湖水に浮かぶボートや釣り人達。なかなか素敵で、絵になりそう。そう思ってカメラを向ける。 樹間の榛名富士と湖面。たまらなく好きな風景の連続に、思わず何度もシャッターを切る。コースの途中から急な登りになった。榛名富士と「ヒトモッコ山」の間の坂道だ。明日は歩いた方が無難。下り坂がさらにきついため、今日と同様に「時計回り」の方が走り易いと判断。坂を下り切ると「多目的ゾーン」に出た。ここに前日写真を載せた馬が2頭いた。きっと観光客を試乗させるのだろう。 ここだけに紅葉が見られた。全てが桜の樹だ。赤ではなく、赤褐色なのは仕方がない。それに私達の目的は体を動かすこと。でも素敵な景色を見られて良かった。宿泊施設に戻り、展望風呂から観た夕方の景色が一段と素晴らしかった。慌ててカメラを取りに行ったが、既に夕日は落ち暗い湖水が見えただけ。昨日の最後の大きな写真がそれだ。湖面に光る夕日が本当に素敵だったのに残念無念。 翌日は10月4日土曜日。旅の3日目は湖畔の宿で目覚めた。日の出は6時10分ごろだが、5時半には明るくなるらしい。寒くないようタイツと半袖にし、手袋も着用。エネルギー補充のため、前日小布施で拾った王琳(黄色いリンゴ)と干し芋を妻と分け合った。これで準備は完璧。フロントにキーを預けたら、係の人が目を丸くして驚いていた。こんな早朝から走りに行く老人など、普通いないもんねえ。 前日、光る湖面に浮かんでいた2艘のボートは、まだ静かに眠ったまま。 私が夢中になって写真を撮っている間に、妻はドンドン先へと走って行った。「早朝は何が起きるか分からないから離れないように」と、あれほど注意していたのにだ。案の定、別れ道の個所に妻の姿がない。「お母さ~ん、お母さ~ん」と大声で叫んだら、彼女は慌てて別な方向から戻って来た。特に悪びれた様子はない。前日のウォークでしっかりコースを確認していないのだ。1人だけならきっと迷子になったはず。危ない、危ない。 こうして、ランニングは「無事」終了した。最後に湖畔で撮った高原の花々を、記念に載せておこう。 マツムシソウ、カワラナデシコ、ヤマトリカブト、ミゾソバなど名前を知ってる花もあったが、名前を知らない花も混じっていた。 さて、宿泊施設を退出する際、部屋にあったアンケート用紙に、感じたことを若干書かせてもらった。それはスタッフの心構えや、食事内容に関するもの。景色は素晴らしい上に、施設が清潔で気持ち良く過ごせた。必要なのはちょっとした気遣いだけだ。 楽しい思い出を残してくれた榛名湖を後に、一路埼玉県の川越市に向かった私達だった。<続く>
2014.10.10
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<湯田中温泉から榛名湖へ> 10月3日金曜日。旅の第2日目は、妻とのランニングで始まった。一旦盆地方向に下ってから引き返し、今度は湯田中温泉の奥にある渋温泉方向に向かった。ここは前夜にも散策しようとして、突然の雨に断念した場所。何としても妻に見せたかった風景が、以下のものだ。 渋温泉の中心街 ここは渋温泉の中心街で、7年前に「長野マラソン」(フル)を走った際泊った所。レース当日の早朝も温泉に入って失敗した苦い思い出がある。熱い温泉ですっかり疲れ、下りを飛ばした「つけ」が後で効いて、記録は散々だった。それでもコースの景色は抜群で、真っ白な雪を被った北アルプスの山々や、桜、桃、杏、菜の花が咲き乱れる千曲川の光景が今でもはっきりと脳裏に残っている。 温泉街の六地蔵 温泉街には古いお地蔵様が祀られている。 これは「八番湯」と「九番湯」。多分公共の共同温泉で料金はとても安く、渋温泉の宿泊客は確か3か所は無料で入浴出来たと記憶している。いずれにせよ、湯田中に比べればとても賑やかで、風情がある温泉だ。難点は駅から遠いこと。私がマラソン時に泊った際は、長野市から特別のバスで直接ここまで送ってもらった。 温泉街の突き当たりにあるのが「温泉寺」。これは正式な名称だ。付近には「湯神社」もある。温泉にまつわる寺や神社があるのは、温泉が古くから住民の暮らしの中心にあったからだろう。そして観光客が絶えず、地域の繁栄が続くことを、この地の人々は祈り続けた来たのではないか。約6kmを走り終えた私達は温泉に入って汗を流し、朝食後はここから群馬県の榛名山に向かった。そこが第2日目の観光先であり、宿泊地でもあった。 左側の写真は、群馬県のゆるキャラ「ぐんまちゃん」。JR高崎駅でこの可愛い仔馬の出迎えを受け、駅西口から群馬バスで終点の榛名湖畔まで行った。問題はトイレと昼食。バスの乗車時間は約1時間30分。急いで飛び乗ったものの、果たして空腹と尿意に耐えられるかどうか。空腹は茨城名産の「干し芋」を食べて凌ぎ、トイレは途中の榛名営業所での休憩時間に助けられた。まさに冷や冷やものであった。 榛名湖の水面は1084m。かなりの高地だ。ここは火山地形で、湖はかつてのカルデラの痕。標高1391mの榛名山(榛名富士)ほかの山々は、カルデラを取り囲む外輪山に当たる。ここのマンホールは榛名富士をデザイン化したもの。終点で降りた私達はレストランで「ワカサギ天ぷらソバ」を食べ、ここから2km先の宿泊先へ歩いて向かった。 榛名富士と遊覧船 榛名湖と周囲の山々 左の山は烏帽子(えぼし)岳で、標高は1350m。榛名富士より、わずか13m低いだけなのにこんな風に見えるのが不思議だが、すこし奥まっているのだろう。 榛名湖と榛名富士とコスモスの花。これは絵になりますねえ。 こんな風景を見ながら湖岸を歩くのは気持ちが良いものだ。 紅葉にはまだ早かったが、これは日程の関係で仕方がないこと。それに私達の旅の目的は紅葉狩りではなく、大いに歩くことにあった。ここは宿泊場所とは逆の方向で、散歩時に撮影したもの。 ここが私達が泊った施設。ホテルではなく、国民宿舎だったことが、現地に行って初めて分かった。驚いたのは「工事につき休館中」の張り紙がしてあったこと。これには慌てたが、良く見たら工事期間は前日まで。紙を剥がすのを忘れていたのだ。こんな宿泊施設があるだろうか。その心配が後で現実のものとなる。 5階の展望風呂から見た風景。ロケーションは最高なのだが、不満な点も若干あった。<続く> 今日の「おまけ」は、昨夜の皆既月食です。大きさもまちまちで、トリミングしています。残念ながら、私のデジカメではこれが限界でした。
2014.10.09
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<小布施町「栗の小道」と湯田中温泉> 私達夫婦が訪れた長野県小布施町は人口1万1千人の町で、北信濃地域では有数の観光地として名高い。この町では葛飾北斎など歴史的な遺産を活用した街づくりが人気を呼んでいる。主な産業は観光、果樹栽培などの農業、そして観光客を相手にした製菓業など。 驚くことにこの小さな町内には、美術館や博物館が7館、宿泊施設を含めて温泉が8か所、観光果樹園が10か所、レストランなどのお食事処が15店舗、名産店が21店舗、宿が4か所もあり、一大観光地なのである。今回はその中の「栗の小道」周辺を紹介したい。なかなか風情のある風景を楽しんでいただけたら嬉しい。 写真が大きくて少々重たくなったがお許しあれ。町内には「北斎館」をはじめとする素晴らしい美術館がたくさんあるが、今回は時間が無くて観ることが出来ずに残念だった。また、天領時代の代官所などがある「陣屋小路」も訪れることが出来なかった。ここにある陣屋稲荷は往時のまま石の祠が残っているようだ。 この後私達は再び長野電鉄に乗って、湯田中温泉のある終点の山内町へと向かった。その車中から見えたのが千曲川。島崎藤村の「千曲川旅情の歌」で有名で、下流の新潟県に入ると信濃川と呼ばれ、日本海に注ぐ我が国有数の大河である。上杉謙信と武田信玄が戦った「川中島」はこの上流にあり、「長野マラソン」のコースにも入っている。 私達が泊った湯田中温泉は、郊外の少し寂れた温泉だった。お湯の温度が高く、天然かけ流しの温泉は、とても気持ちが良かった。こうして第1日目の夜は更けて行ったのである。 今日の「おまけ」は湯田中温泉のマンホールのふた。なんと猿が温泉に浸かっている絵だ。冬になって寒くなると、野生の猿がここの温泉に入りに来るらしい。宿の人に聞いたら本当のことと言う。<続く>
2014.10.08
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<不運な武将> 可愛い仁王様 観光案内所の職員が勧めた岩松院への道は果物がたくさん実る楽しい道で、2kmほどの距離が全く気にならなかった。仁王門にはこんな可愛い表情の仁王様が立っていた。ここは曹洞宗のお寺で、山号は梅洞山と言うようだ。 説明板 境内の説明板を読んで驚いた。何とこの寺は戦国武将福島正則の菩提寺だったのだ。秀吉の縁者であり、幼い頃から秀吉の小姓として仕えた正則は、賤ヶ岳の戦いなどで武功を立てて出世した武将。後には四国征伐や九州平定にも加わり、伊予国今治24万石を拝領。関ヶ原の戦いでは東軍につき、安芸と備後に約50万石を拝領した大大名のはず。それが何故こんな村里の寺に葬られたのだろう。急にそんな疑問が沸いたのだった。 福島正則公霊廟 説明板及び帰宅後ネットで調べた結果、正則は居城の広島城の石垣が台風で被害を受けたため修復したのだが、江戸幕府はその工事は正式な許可を受けておらず、しかも城を増強したとして罰し、信濃国高井郡など4万5千石に減俸転封した。家督を譲った長男が早世したため2万5千石を幕府に返上し、64歳で没後は検死役が到着する前に遺体を火葬したとして所領を没収されたようだ。 子孫は旗本として生き残ったようだが、非情な処分に変わりはない。「軍師官兵衛」の黒田藩や東北の大藩である伊達藩など外様大名が生き残ったのに対して、武骨で旧豊臣家を愛する気持ちが強かった正則は、二代将軍秀忠にとってはきっと「目の上のたんこぶ」だったのだろう。まさかあの有名な福島正則が、こんな片田舎で死んでいたとは。彼の無念を偲びつつ、私達はこの霊廟前で遅い昼食を摂った。 本堂天井画(葛飾北斎筆) 本堂で何やら録音の声がした。何かを説明しているようだが、その時は全く気にならなかった。後で資料を見たら、本堂の天井画は葛飾北斎の直筆である「八方睨み鳳凰図」らしい。北斎は小布施出身の豪商と親しく、彼の招きにより何度かこの地を訪れて求められるままに絵を描いた。それらを保存するための美術館「北斎館」も町内にある。 浄光寺山門 次に向かったのは浄光寺。そこへの道も両側に果樹園が広がる長閑なものだった。浄光寺は真言宗豊山派の寺で、岩松院からもさほど遠くはない。この山門が実に奇妙で、寺なのに注連縄が飾られていた。ちょっと不思議なパワーポイントみたいだ。 浄光寺石段 本堂へ続く石段がまた凄い。さほど加工されてない自然の石が多くて、とても荒削りなもの。参詣者にとってはかなり登り難いのだが、いかにも信仰の道の厳しさが漂っている。 険しい石段の上にあったのがこの薬師堂。室町時代の創建で、国の重要文化財に指定されている。いかにも重厚な藁ぶき屋根は圧巻だ。なぜこの山里に、これほどまでの寺が建てられたのだろう。現在は「ボケ封じ」や「良縁成就」の寺として人気があるようだ。 境内の石仏 静かな境内に、何体かの石仏が立っていた。これはそのうちの一つだが、なぜかお顔が欠けている。災害にあって壊れたと言うよりは、何か理由があってわざわざお顔を欠いたように見える。これもまた謎のままだ。 境内の石仏2 こちらは穏やかな表情をされた石仏。体全体にうっすらと苔が生えていた。こんな姿で果たして何年立ち続けて来たのだろう。 さて、この寺から私達は「馬場先中通り」などを通り、3kmほどの道のりを歩いて町の中心部に戻った。町内には「周遊シャトルバス」も運行してるのだが、自分の足で歩いた方が面白いし、生きた勉強になる。町の中心地は観光の主要スポットだが、今日はその一部を紹介したい。 これらは「栗の小道」の両側にある屋敷の庭の一部。なかなか趣ある風情に感心した。一度ここを旅行で訪れたことがある妻は、小道の入口を思い出したようだ。「栗の小道」の素晴らしい情景は明日改めて紹介することにしたい。<続く>
2014.10.07
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<果樹の町小布施> 旅の楽しみ方は人それぞれだろう。今回私達夫婦が選んだのはJRの「大人の休日倶楽部パス」とネットで探した安宿の組み合わせだった。JR東日本管轄の路線を4日間自由に乗り降り出来るパスは、安価でとても魅力的だ。だが、昨年は梅雨の時期と厳寒期の2回しか使えなかった。観光の閑散期に営業成績を上げるための「作戦」なのだろう。だが今年は9月下旬から10月上旬の期間が加わった。これを利用しない手はないだろう。 長野新幹線の終着駅で降り、そこから長野電鉄に乗った。これは私鉄なので別料金。小布施駅の観光案内所で資料をもらい、見所などの説明を受ける。最初に向かったのは2km先の岩松寺。道端にはたくさんの果樹。善光寺平は寒暖の差が大きいため、糖度の高い果物が採れるのだろう。たわわに実った果樹は、都会に住む者にとっては珍しく、間近に見るととても興奮する。 道端にもたくさんの果物が落ちていた。ここでは誰も拾わないようだ。勿体ないので拾ってリュックに入れた。以下はその「成果」。ミニのリンゴ、ミニの桃と黄琳は後で洗って食べた。巨峰は200円で買ったもので、これも旅行中に食べた。いずれも糖度が高く、適当に酸味もあって実に美味しかった。 この道はかつて城下の馬場へ通じていたのだろう。今は狭い農道で、周囲はブドウなどの果樹畑。4粒くらいしかない小さ房が残っていた。これは売りものにならないのだろう。それを摘まんで口に含んだ。完熟で甘く、濃厚な味。なんだかとても豊かな気持ちになった。黄琳は公園の前の並木で、枝には金色の実が鈴なりだった。落ちていた中で一番きれいな実を拾った。 道端の神社にも懐かしさを感じた。お寺は戦国大名福島正則の菩提寺である岩松院と、重要文化財「薬師堂」を有する浄土光寺を巡った。町の中心街へ戻り、「栗の小道」など観光地を見学。この町で「小布施見にマラソン」と言うハーフマラソンが開催されていることは知っていた。見所が多く「おもてなし」が有名な大会だそうだが、町を散策してそのことが十分に納得出来た。お寺や観光地の様子は、明日以降に紹介したい。<続く>
2014.10.06
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3泊4日の旅から、先ほど無事帰宅しました。明日から写真の整理にかかり、旅のレポート開始は早くても明後日からになると思われます。今日は簡単な紹介に留め、その後留守中に戴いたコメントへの返事を書かせていただきますね。留守中のご来訪とコメント、心から感謝しています。 10月2日(木)晴れ:宮城県→長野県 小布施町=2つのお寺、果物畑の道、趣あるお店、栗の小道など6kmを散策 (宿泊)湯田中温泉=山内町を2km散策 10月3日(金)晴れ:長野県→群馬県 朝、妻と湯田中温泉、渋温泉を6kmランニング その後群馬県の榛名湖へ移動し、湖岸1周など8km散策 (宿泊)榛名湖畔 10月4日(土)晴れ:群馬県→埼玉県 朝、妻と榛名湖岸をランニングで一周6km その後埼玉県川越市に移動、市内の蔵の町などを散策 (宿泊)川越市10月5日(日)雨:埼玉県→東京都→宮城県 上野駅で次男と待ち合わせし、雨の中湯島、神田周辺を4km散策 早目の昼食後帰途につく。 4日間で妻と一緒に40km以上歩いたり走ったりした今回の旅でした。最終日の東京では大雨 でずぶ濡れになりましたが、きっとそれも良い思い出になることでしょう。
2014.10.05
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ヒマワリの種 「お気に入り」を少しだけ整理した。これからは極力自分の生き方に相応しいサイトを中心に見たいと思ったのだ。もう長年の義理は不要で、シンプルイズベスト。琴線に触れ、私の心の栄養になるものだけを残したつもり。 それにしても最近のアクセス数の急増は異常。ある方によれば、これは中国からのアクセスなのだとか。真偽のほどは分からないが、何だか不気味。もしそれが本当なら、きっと日本の豊かさに驚くように思うのだが。 ナナカマド 100円ショップで「写真立て」を2個買った。消費税込みで216円。白いフレームのには大阪の道頓堀で娘が撮った家族の写真を、そして焦げ茶のフレームのには、5月に登った岩手の姫神山での妻との2ショットの写真を入れた。とても安物とは思えない重厚さ。2つともパソコンの近くに置いているが、なかなか良い雰囲気。これからも良い写真があれば、手元に飾りたいと思う。 シュウメイギク 10月に入ったせいか、少しだけ涼しくなったような気がする。それでも例年よりはずっと気温が高いはずだ。この夏は体調が悪くてあまり走れなかった。小康状態の今は、なるべくランパンランシャツ姿で走るようにしている。これは月末に出る「久米島マラソン」対策でもある。現地は多分30度近いだろう。汗をかく練習をしてないと、レースで苦しむのは目に見えているからだ。 山ブドウ 昨日もそのスタイルで、M公園内を10km走った。園内の芝生や雑草が造園業者の手で刈られていた。これからは足を守るため、舗装道路と芝生の道を交互に走ろうと思う。またその方が、違う景色や楽しみを味わえて良い。体調が良い時は出来るだけ体を動かす。これは老後の健康のため、とても大事なことのように思う。 渋柿 今日は朝食を食べたら妻と旅へ出る。「大人の休日倶楽部」を使った4日間の旅だ。宿泊先はネットで安宿を捜し、予約してある。初日の行き先は長野県。長野で降りて長野電鉄に乗り換え、小布施の街をぶらつく予定。小さな町だが見どころがたくさんあると聞く。夜は湯田中温泉泊まり。ここは長野電鉄の終点で降りて、少しだけ歩く。夕方は温泉街を散歩し、翌朝時間があれば妻と走ろうと思う。 ツタの葉 2日目は群馬県の榛名湖畔を訪ねる。高崎で新幹線を降りてそこから群馬バスに乗り、終点の榛名湖で降りる。群馬のブログ友であるyuriさんによれば、もう紅葉が始まっているとか。湖畔の宿から見る榛名山はどんなだろう。湖の周囲は5km程度らしいので、出来たら妻と歩いたり走ったりしたいと思っている。紅葉と湖と宿の料理を満喫出来たら嬉しい。 コスモス 3日目は埼玉県の川越に移動。ここには「小江戸」と呼ばれる古い街並みが残っている由。時間はたっぷりあるので、お城、蔵、古い商店などを歩いて訪ねたい。泊る予定のシティホテルは夕食の付かないプランなので、この日は外食することになる。それもまた楽しいはず。翌朝時間があれば、少し街中を走りたい。旅先で走るのも良い思い出だ。 イヌサフラン 4日目は東京で次男と落ち合う。神田明神や赤坂や後楽園を見たいと伝えてあるが、その他の訪問先は次男に一任。昨年も彼に東京を案内してもらったが、私達が知らない東京の素顔を見られて結構面白かった。唯一心配なのが雨。天気予報によれば、この日は台風の影響で「曇り時々雨」になるみたい。これも台風の進路次第。雨の東京を歩くのも、案外風情があるように思っている。 サンザシ そんな訳で、帰宅は10月5日(日)の夜遅くになります。その間留守にしますが、よろしくね。また留守中にいただいたコメントへの返事は、6日以降になりますのでご了承ください。それでは皆様ご機嫌よう~♪。
2014.10.02
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赤いシャツで走りに行く橋を渡り坂を登るたちまち悲鳴を上げる俺の心臓ここに来たのは11カ月ぶりそれにこの夏俺は体調不良で1カ月以上も走れなかったそれでも俺の心臓はやがて坂道にも慣れて来る この団地から引っ越した走友もいた今も住んでいながらなかなか会えない仲間もいる所属走友会の練習コースは遠くへと変わったが俺は今でもこのコースが好きだ 坂が続く厳しい道冬は凍って滑りやすい道頂上からは太平洋が見えるこの山の道が マンホールの蓋を撮っていると団地の人が話しかけて来たイントネーションで広島出身だと分かった俺より2歳若いその人は11回も転勤したと笑う偶然だが俺も転勤は11回そして四国の松山で勤務したのも一緒ブログの名前を教えたが果たして読んでくれただろうか 山の上で俺は見たススキの向こうの青い空とコスモスの向こうの故郷の街を11カ月ぶりに見る風景はなんだかとても懐かしかった 山を下り風を切って堤防の上を走るリンゴ畑に近づいたら突然ガス鉄砲が鳴ったおいおい間違うんじゃないよ俺はただリンゴを撮ろうとしただけだよさらに行くと秋空の下に真っ白い花ソバ畑が一面に広がっていた 北海道の支笏湖では6人の走友がみごと100kmを完走したようだそして明日の「秋田内陸」でも大勢の仲間が100km先のゴールを目指すだろうだが俺はのろのろと歩くようなスピードでしか走れないそれでも何度か死にかけたこの俺がこうして走れるのはまさに「奇跡」とでも言うべきもの 名も知らぬ花よこんな俺だが俺はこれからも走るつもりだ無様なフォームのまま命ある限り季節の移ろいを友にして<9月のラン&ウォーク>ラン回数:11回 ラン距離:96km ウォーク:85km 月間合計:181km 年間合計:1618km うちラン:923km これまでの累計:85209km
2014.10.01
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