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1ヶ月あまりの入院生活も過ぎてみればあっという間で、残りわずか3日となった。思えば とても素敵な入院生活だった。入院生活の愉しみ方の本が書けそうなくらいだ。院内は隅々まで探検した。食堂の自販機は、各階ラインナップが異なる。3階は80円の飲料が豊富。ココアは4階。エレベーターには表示されないけれど、階段を使うと3階と4階の間に謎のスペースがある。昨日見つけた非常階段は全面ガラス張りで、高岡の夜景(笑)が一望できる。1人でぼんやりするのに一番のお気に入りスポットだ。誰もいない階段を地下まで降りて霊安室の向こう側に出た時は、小心者の私は心臓がバクバクした。今日はボランティアルームなるものを見つけたので、お邪魔して簡単な仕事を手伝わせてもらった。(後註:翌日婦長さんに禁止された・・)エレベーターに乗る時は、3台のうちのどれが来るかひそかに予想を立てることにした(当たらない事の方が多い)1人遊びばかりではない。部屋を移られたFさんのところには毎日顔を出している。Fさんは2,3日前、夜中にベッドからずり落ちてしまって自力では起き上がれず、看護婦さんが通りかかるまで床に寝ていたそうだ。幸いどこも何ともなかったからなのだけど、真面目に話して下さる口調がどこかユーモラスで笑ってしまった。そういうお人柄なのだろう。お隣のSさんと一緒にお風呂に入って背中を流してさし上げたり。同室の皆でお茶会をしたり。私の追い出し会もして下さるそうだ。もうほとんど痛みのなくなった私には、上げ膳据え膳でストレスもなく、天国のようなところだ。主治医の先生は、松葉杖が完全に取れるまで居ていいと言う。・・でもやっぱり、私は大好きなしーちゃんのところに帰る事にしよう・・。
2002年05月28日
22日、お隣のSさんのお兄さん(高校時代の先生のお父上)が「食べかけだけど」と言ってお見舞いにチョコレートを持ってきて下さった。普段 貰ってばかりで返すものがない、と気にされていたSさんは、ここぞとばかり、それを箱ごと私に下さった。あらこんなに頂いていいんですか?と聞いたら、私も半分取ったからどうぞもらって、と言う。確かに箱の中のチョコは半分。喜ばせる事から喜んであげる事に作戦を変えた私は、実は同じチョコを持っていたけど、まあ嬉しい!と受け取った。・・・・今日、頂いたチョコと本を1冊持って1階ロビーへ降り、ベンチに腰を下ろしてチョコの包みを開いたら、それは、何ていうかコーヒー牛乳色をしていた。私の持ってるのとは違う種類の味なのかも、と思い口に入れると、甘みはあるけど何だかチョコの味じゃない。食感もチョコじゃない。よく見ると、色も何だかまだらだ。私は怖くなって、2粒持ってきていたうちの1つは捨ててしまった。部屋に戻って箱を見てみると、やっぱり賞味期限を過ぎていた。・・2年も。先生のお宅の一体どこから出てきたのだろう・・・。せっかく頂いたけど、チョコの箱は捨てさせてもらった。気付かれないように1階まで捨てに行った。さて問題は、Sさんに告げるか否か。Sさんの手元にはまだ少しある筈。彼女が食べるかもしれないし、人にあげるかも知れない。でも、言えばどんなに嫌な思いをさせるだろう。私には言う勇気がない。ほんとうの優しさって何だろう・・?一粒食べてしまった私のお腹が何ともないのがせめてもの救いだ。
2002年05月24日
昨日 隣りのSさんと話していて、意外な事実が発覚した。1つは彼女が、高校の時の理科の先生のおば様であった事。とても目立つ先生だったので よく覚えている。懐かしくて感激した。今日、偶然先生のお父上(Sさんのお兄さん)がお見舞いにいらしたので 先生によろしく、と言付けたが、まあ十数年前の、受け持ちでもない生徒の事を覚えている筈はあるまい。もう1つは、Sさんのお誕生日がほんの2日前だったこと。たまたま星座の話をしていて判った。言ってくださればよかったのに、と言うと すっかり忘れていた、と言う。彼女はいつも気が滅入り、いつも不安がり、いつも人をうらやんでいる。私がいくら言葉を尽くしても気の晴れる様子がないので、直接喜んでもらえる様な事をしたいなあと思っていた私は、お誕生日のお祝いをする事にした。で、今朝 売店に行ってみたら、ケーキが売っていなかった(どうりでお見舞いにケーキをくれる人がいないと思ったら)お花も花籠しかなくて、手にギブス、身内の人のお見舞いもあまりない彼女には、その後の処理が迷惑だろう。私は迷い、廊下を行きつ戻りつした挙句、思いきって斜向かいの個室のNさんを訪ねた。Nさんとその付き添いのお姉さんとは日頃わりと仲良くしているので、事情を説明して、お姉さんに買い物のついでにケーキを買ってきて下さるようお願いしてみた。お姉さんは快く引き受けて下さり、早速買いに行って下さって、皆でささやかなパーティを催す事になった。病院生活はたいそうヒマだ。・・だけど、何かしようとなるとなかなか時間が合わない。回診、リハビリ、こちらに見舞い客、あちらに見舞い客、シャワー・・・。ようやく2時半に斜向かいにお邪魔することができた。でも、結果は×××Sさんはいつも「ああ今日は何して過ごそうか。ヒマやなあ。嫌やなあ」と言っているのに、たまには気分を変えてお呼ばれに行きましょう、と言うと行きしぶる。「本当に私が行っても邪魔じゃない?」と、何度も聞く。「邪魔じゃないですよ。みんなヒマだから大歓迎ですよ」となだめつつお連れする。ケーキはおいしいと仰って下さったけど、こんな事してもらっても何も返せない、というSさんに、食べてもらう迄が一苦労だった。 お誕生日おめでとうございます。 これも何かのご縁ですから、どうぞお祝いさせてください。 こんな機会でもないと滅多にケーキも食べられないから、 今日はSさんのおかげで私たちまでこんなおいしそうなケーキが 食べられてとっても嬉しいんですよ。 喜んで頂きたくてやった事だから、遠慮されると却って 悲しいわ・・・そして30分ほど歓談して部屋に戻ると、「ああこんな事なら誕生日だって言わなきゃよかった」と言われてしまった。がーん・・・。ますます太るとか夕食が入らなくなるとか言われそうな気がして、一緒にお散歩したが、これもあまりお気に召さなかったようだ。私は悲しい。でも、彼女はもっと悲しみの中で生きているのだろう。彼女と一生をともに過ごすのは難しいかもしれない。でもせめて私の入院中は、お互いになるべく楽しく過ごしていきたいのだけど・・・。
2002年05月22日
昨日おばあちゃんFさんについて書いていて、眠くなって寝てしまった。又いつでも書けると思っていたのに、今突然引っ越しされてしまった。車椅子で散歩に連れ出されたと思っていたら、ベッドも荷物も運び出された。看護婦さんの近くの部屋になるらしい。90歳のFさんの看護には、介護の要素も含まれてくる。その対応は、その時の担当の看護婦さんによってまちまちだ。私は爪も切ってあげた。葡萄もむいてあげたし、箸も洗った。看護婦さん(嫌なYさん)が一度Fさんのご飯に飲み薬をかけていった時、悲しそうなFさんを見てあんまりひどいと思い、病院のご意見箱に匿名で投書もした。あまり私が手を出しすぎると看護婦さんに嫌がられる、放って置いた方が、という意識と戦いながら、やっぱり放っておけなかった。もしかしたら却って煩わしかったのかもしれない。Fさんの申告で部屋を移ることになったのかもしれない・・何かしてもらう度「あっちゃ堪忍え。気の毒な。ありがとありがと」とすまながっていた。いつも痛くて唸っていたけど、滅多にナースコールしなかった。ナースコールが、手の届かないところに巻いてある事もよくあったし、ナースコールのシステム自体よく分かっていない節もあったけど。3人子供を産んだところでご主人が戦死されたそうだ。お舅さんやその後妻さんによくいじめられたと言う。苦労の多い人生だったけど、それでも病気らしい病気もせずにきたのに、90になってこんな痛い目に合ってなんちゅうこっちゃ、とFさん。(家の中で滑って骨折されたのだ)今日から看護婦さんによく面倒見てもらって、お元気で、幸せでいてください・・・後記(6/9)病室を変わったのはFさんの申告ではありませんでした。いつの間にか違う部屋になっとって、最初どこにおるがやらわからんかった、と、Fさんはきょとんとしてました。私は退院まで毎日大好きなFさんの病室を訪ねたけど、退院後リハビリで病院に行った時、廊下でお会いしたFさんは、病衣ではない私が誰だか分からない様子で、やっぱりきょとんとしていました。転院されるFさんに どうぞお元気でいて下さい、と言ったらはあ、どうもどうも、と、不思議そうに私を見ていた・・・ほんとうに、お元気でいて下さいますように・・。
2002年05月20日
向かいのおばあちゃんはとても可愛い。大好きだ。よく痛みで唸っているが、その唸りの合間に、たまに「なんまんだぶ、なんまんだぶ」とか「はーぎっちょんちょん」とか妙な合いの手?が入って、思わず吹き出しそうになる。さっき(夜8時ごろ)、寝ている布団の中から片手をあげで揺らめかせていた。いったん布団に引っ込めた手をまた出して、ゆらゆらさせている。何だかよく分からないので 寒いですか、ととりあえず聞いてみたら、「姉ちゃん、気の毒やれど幕引いてくれんか」と言う。よく分からないけどカーテンを閉めたかったらしい。おばあちゃんは今も唸っている。さっきからずっと唸っているので 看護婦さん呼びましょうか?と聞いてみたけど、我慢する、と言う。
2002年05月19日
お隣・・といっても隣りはよく人が変わる。3人目の隣人だ。(後註:多分4人目)彼女はとても苦労性だ。手を骨折して入院した翌日手術だったが、朝からずっと「嫌やなあ。怖いなあ。どのくらい時間かかるのかなあ」と言っている。「麻酔かけちゃうから、目が覚めたら全部終わってて怖くなかったですよ」と言っても「そうけえ」と言いつつまた怖いなあ、と言っている。まあ、当然と言えば当然なのだけど。手術の後も「この点滴いつまでせんなんがいろ?」「あと3週間もギブスしとらんなん。ああ嫌や」と、いつも溜息をついている。「でも病院にいるともっとひどい人もたくさんいるし、まだ軽く済んで良かったと思わないとねえ」「くよくよしても仕方がないし、のんびりして、治ったらまた頑張りましょう」と元気づけようと思っても、「そうねえ」で終わってしまう。結局「本当にねえ。辛いですねえ」と、私も溜め息のおつき合い。彼女の人生には、何も良い事がないらしい。旦那さん共々入退院を繰り返しているらしく、お金の心配もされている。息子は40にもなるのに頼りなくて、結婚する気もないらしいのよ、とまた溜め息。その言葉通り、息子さんと思しき人は、一度用事のあった時以外お見舞いにも来ない。来ても挨拶もしなければ、お母さんをいたわる様子もない。(男の子ってそんなものかもしれないが)「夜寝る前にエロ本を見ないと眠れないんですけど、それはまあ 男だから当然ですけどねえ」なんて言いながら「お嫁に来てほしいわあ」とか言われても。あら、ご本人が欲しがって下さらない所には行けませんわ、と笑顔でかわしながら、内心まっぴらごめんだと思ってしまう。苦労性が不幸を呼び込むのか、疲れが彼女を苦労性にしてしまったのか。心持をもう少し前向きにしないと、いつまで経っても幸せにはなれないと思うけど、それができれば苦労しないか。だけど不思議と、同世代の人たちとおしゃべりするより、こうしてここでおばあちゃん達としゃべっている方が、心が落ち着く。案外、嘆く人は嘆いている状態が幸せなのかもしれない。向かいのおばあちゃんが「毎日どんよりしとって何とかならんもんかねえ」と言った時、見舞い客が 明日から1週間ほど晴れそうだ、と言うと、なんだか拍子抜けしたような顔をしていた。
2002年05月18日
5月?日(日付なし)今日は途中から嫌いな看護婦さんに代わってしまった。彼女の全てを否定するつもりはないけどやっぱりキツすぎる。嫌がるおばあちゃんのひざを無理に曲げて「さすがにそれはキツいよ」とお医者さんにも言われていた。お昼「あお向けになれ言うがけ?」と聞くおばあちゃんの言葉尻を捕らえて「誰も『なれ!』なんて言ってないでしょ?その方が楽でいいよっ て言ってるだけじゃない。何でそんなキカン事言うの!」と怒っている。おばあちゃんは言葉の意味を確認しているだけなのに。さんざ悲鳴をあげて体を起こし、ようやくご飯が食べられるようになったおばあちゃんに「ご飯のときは痛くないがいね。都合のいい体やね」なんて言っている。もしかしたら冗談のつもりなんだろうか。ああ嫌い。看護婦さんのいない隙に、体を動かすのを手伝おうとしたのを、隣りのおばあちゃんがちゃべちゃべと(もちろん良かれと思って)看護婦さんに報告してしまった。案の定「そういう事は私たちでやります。危ないからやめてください」と言われた。仰る通りです。でもあなたのやり方はかわいそうで見ていられないもの。彼女みたいな人は“はっきりものを言うのが私のイイところ♪”とか思ってるんだろうか。後記(6/6)感情(怒り)にまかせた日記を、さめてから書くのって恥ずかしい・・・これでもちょっとソフトに書き直しました^^;
2002年05月10日
病院での人との距離の取り方に少し慣れてきた。病院では24時間誰かと一緒。でもそのつもりでいると、人の苦手な私は疲労困ぱいする。だからお互い気の向いた時だけ言葉を交わし、あとは知らん顔。それでいいのだ。それが病院内での暗黙のルールなのか、少し考える。私に合っているのなら、一般社会でもそれで構わない気がする。ただ、向かいで苦しんで唸っているおばあちゃんを知らん顔してご飯を食べていると、自分が鬼のように思えて涙が出てくる。見かねて看護婦さんを呼ぶ。おばあちゃんにイタタタタ!!!!と言われながらも、少しでもいい具合にしてくれようとする看護婦さんはやっぱり天使だ。花は1階の売店から吸い上げられ各階の病室を彩るお見舞いの言葉、お詫びの言葉、ナースコール、感謝・・・病院では何千回、何万回同じことが繰り返されるんだろう・・・後記(6/5)“病院内での暗黙のルール”というか雰囲気は、病室のメンバーが変わる度簡単に変わった。ベッドに寝たきりだった最初の1週間が過ぎると部屋を抜け出せるようになって、いつも誰かと一緒、ではなくなった気楽さもあってか、“居るのにお互い知らん顔”する機会は減った。退院の頃には本当にアットホームな雰囲気だった。これまで私は自分から人に話しかけることがあまりなく、居心地の悪い沈黙のせいで余計人を苦手に感じてきた。人が苦手だから話さない、話さないから人が苦手・・でも、ほんの些細な一言でそれまでの気まずい沈黙が破れ、相手も思いがけず笑顔を向けてくれる事を知った。この取りとめのない日記を書き綴っていた頃は、一般社会でも知らん顔を決め込みたいと思っていた。でも今は、急には無理かもしれないけど、自分にはめていた“人が苦手”という枠を外せるかも知れない・・と思う。少し成長できたようで嬉しい。とか書いてるうちに、やっぱり駄目かも、一時の高揚感でしかないかも・・と自信がなくなってきてしまった。あまり深く考えないことにしよう。
2002年05月05日
4月30日手術が終わった後、とても寒かったところで意識が戻った。毛布をかけてもらったけどまだ寒くて、しばらくガチガチ震えていた。意識が戻るのは、霧が晴れるように、というのとは少し違う。親に聞いたら、目を開けてブツブツ言って、ちょっと気持ち悪かったらしい。私の記憶の中の“意識の戻った時期”と少しズレがあるのかも知れない。ともちゃんがお見舞いに来てくれていたそうだが、それには気がつかなかった。そうだ、酸素マスクもつけていた。“私もう元気になったからこれもう要らないんじゃない?”と外してもらったのは覚えているが、その後また眠ったらしい。手術が始まった時には既に意識がなかった。どこかに運ばれていって、ここで手術するんですか?と聞くと違う、と言われた。その後もう分からない。皮膚を切って骨沿いに金を入れるという一大事にまったく苦痛を伴わないのは、何だか不思議な感じがする。事故の時はあんなに痛くて怖かったのに、天と地ほどの違いだ。死にもきっと2種類あるのだろう。苦しまずに死にたいものだ。夜中に痛みが始まった。注射をうってもらって落ち着いてきたと思ったら、今度は何とお尻が痛くて眠れない。せっかく足の痛みが和らいでいるのにもったいない。ほとんど眠れないまま朝になり、再び足の痛みも激しくなってもう1本注射をうってもらった。 × × × ×ここはパラダイスではない。最初 痛みと引き換えに、皆優しくいたわり合う病院という場所で心が癒せると思った。でも看護婦さんの中にもきっっつい人はいる。感情の激しい人。嫌味を言わずにいられない人。私は足が痛いのに無理やり車椅子に乗せられそうになり、一々悲鳴をあげないでよ、と放り出され、涙がぽろぽろ出た。向かいのおばあちゃんもいろいろ言われ、ハイ、ハイと小さくなっている。でも人口構成的にはやっぱり病院には優しい人が多いだろうか。そんな気もする。看護婦さんはあちこちで呼ばれ、重労働で大変なのだ。頭が下がる。・・・方もいれば、やっぱり“もう少し人間勉強してよね!!!”という人もいる。 ↑ 1人だけのようだ。この人がいない日は心が平穏後記(6/4):私のいた病棟のキカン看護婦さんは二人のようで、他はやっぱり優しい方たちばかりでした。最初はぽろぽろ泣いていた私も病院に慣れてくると、キカン看護婦さんが行くなり病室のみんなと舌を出し、“看護婦さんも様々ねえ”なんて笑えるようになりました。
2002年05月03日
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