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なんだか、何もしたくなくて、パパは、1人でゴルフに行っちゃったし、朝から、皆で、グダグダ。「今日は、大晦日なのにね~」と何回か口にするが、相変わらず、何もしたくない。大晦日と、口にして、やっと自覚するような不思議な感じ。自分では、そう、ダメージはないように思ってはいるが、やはり、お祖母ちゃんのことが、まだまだ、尾を引いている。そりゃ、無理ないなあ。だって、まだ、やっと20日だもんね。パパも、お正月に私が寝込みのを恐れて、「何もするなよ」だって。でも、夕方から、さすがにTVを見るのも疲れ、お玄関と、おトイレだけでも、綺麗にしようと、重い腰を上げた。し始めると、綺麗になるのが、気持ちよくて、隅から隅まで綺麗にしたくなる。ビリケンさんの耳の穴まで綺麗にしてあげた。そうすると、新しいお花が欲しくなる。好きなアロマオイルを炊いて、はい、お玄関終わり。次は、おトイレ。最近は本当に、優れものがあるもので、暫く掃除していなかったおトイレが、ピカピカになった。以前の薬剤は、綺麗にはなったが、匂いがきつくて、嫌いだったが、今日初めて使った物は、香りも良いし、本当に、ピカピカになって、ありゃ?うちのおトイレ、こんなに綺麗だったかしら・・・と思うくらい、綺麗にしてくれた。おまけに樂チン。夕方帰って来たパパと一緒に、買い物に出た。綺麗なスィートピーと、かすみ草の花束を買って、お玄関に生けた。届いていたお節をお重に詰めるのも、なんだか億劫。良いや、明日、朝、詰めようっと。父が亡くなった時でさえ、きちんと、伊達巻を焼いたが、今年は、焼く気にもなれなかった。父も11月だったが、それ以上に気持ちが萎えているのか・・・。伊達巻をうちで作るようになって、10年以上になるが、作らなかったのは、今年が初めてだ。夕飯は、皆で、近くのお蕎麦屋さんに早めに、年越しそばを食べに行った。私達が帰る頃、凄く込みだした。早めに行って正解。夜11時過ぎ、母を迎えに行った。父が亡くなってから、お正月は、うちで一緒に迎えていた。去年は、お祖母ちゃんもいたのに・・・。ジャニーズカウントダウンが始まる頃。もう、何もしたくなく、座って、TVを観ていた。東京ドームは、ファンの人で凄い盛り上がり。嵐君は、今年、一体、何回着たのか・・・と思う程着ていたピンクのスーツ。途中、コンサートで、毎回着ているスパンコールのコートで、出てきた。潤君は、紫。今年も、一杯会えたね。来年は、どのくらい、会えるのかなあ。嵐君だけが、元気の源です。今年は、最後の最後に、とんでもない事があった一年だった。思い出そうとしても、何があったのか、頭に浮かばない。お祖母ちゃんが、亡くなった事が、まだ、あまりに大きすぎて。振り回されている自分が、物凄く、悔しい。良いことだって、沢山有った筈なのになあ。来年こそ、良い年にしたい。
2006年12月31日
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昨日の、雪、雪、雪の曇り空に打って変わって、今日は、お天気。パパは、明日のゴルフの事が気になって仕方が無い。昨日の雪で、半分諦めていた。ゴルフ場は、雨でも、嵐でもやっているのだが、さすがに雪の時だけは、ボールが見えないので、クローズになる。昨日、早速、電話したら、温暖な気候の三重県南部。1センチの雪も降らなかったそうで、パパはルンルン。雪は上がったものの、道には、まだ雪がアイスバーン状態で残っている。喪服に着替え、皆で、黒の靴を履いて行ったが、難所があった。お寺さんは、とても古い街にあり、お寺さんの駐車場に入るのは、到底、パパの大きな車では無理で、いつも、お寺さんの横の細い道を上がった広い道の横に止めさせていただいているのだが、その坂が、急で、雪がまだまだ残っていて、娘達と、キャーキャー言いながら、降りた。パパも、滑り落ちそうになる私に、口は「大丈夫か~」と言っていたが、顔は思い切り笑っていた。意地でも、転ぶまいと、頑張って降りた。本堂は、ものすごく寒かった。奥さんは、お餅つきのお手伝いで、いらっしゃらないそう。お父様のお経は、本当に、良いお声です。ツーーーンと寒いお堂の空気は、とても澄んでいて、お経の声が綺麗に響きわたった。お祖母ちゃんが亡くなって、今日で丁度20日。まだ、それだけしか経っていないんだなあ。気持の整理が付かないのは、当たり前か・・・。日に日に、お祖母ちゃんの部屋に入れなくなっている。おばあちゃんが、施設にいた頃は、平気だったのに、お骨があることで、お祖母ちゃんがそこに居る様な気になっているのだ。申し訳ないが、早く、お骨を納骨したい。49日までは仕方がないよね。我慢、我慢。これも、煩悩です。阿弥陀様、お釈迦様、お許しくださいませ。帰りに、久しぶりに皆で、子ども達の学校だった学園のそばの懐かしいコーラス部の溜まり場だったお店に、スパゲティを食べに行った。ここの「わさびとかにのスパゲティ」が超美味なのだ。久しぶりに食べた子ども達も、「やっぱ、美味しいね~」私は、やっぱり、家族で一緒に食べれば、何でも美味しいなあ・・とつくづく思った。49日まで、まだ、半分以上あるなあ。頑張れ私。
2006年12月30日
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昨夜の夜、犬が吠えた。うちの犬は、庭に父の忘れ形見のジュンと、裏の駐車場の中に、お下の弱くなった大型犬のジュリアンがいる。ジュンの方が良く吠えるのだが、今晩はどういうわけか、駐車場のジュリアンが良く吠える。犬の散歩をしている人が、前を通ったりすると、暫く吠えるが、人がいなくなると、鳴きやむのに、さっきから、ずっと吠えている。おかしい。泥棒か・・・・・。時間は夜12時近い。こんな時間に、絶対おかしい。立ち上がって、そっと、裏のドアの窓をずらしてみた。ん?我が家の駐車場は、キッチンとリビングの下にある。駐車場にジュリアンを入れるようになってから、私の車だけしか入らなくなり、娘の車と、パパの車は、歩道に乗り上げて置いてある。ここの住宅街は、駐禁ではないので、皆さん、そうやって止めてらっしゃる。その、ドアの下の、娘とパパの車の前で、誰かが、ごぞごぞやっているのだ。もう、ビックリしたの何のって。車上狙い?この団地はよく被害に遭う。慌てて、そばにいいたオネエに、「お父さん!起こして」と言った。娘の尋常じゃない「お父さん!お父さん!!」の叫び声に、リビングでぐうぐう寝ていたパパが飛び起きた。「何だ!」「パパ、表に誰かいるの!」今までそこで、だらしなく寝ていた人と思えない敏捷さで、パパが、起き上がり靴を履いて表に飛び出した。「何してんだ!」裏のドアの直ぐ下の物置の電気をつけた。もう一つ、我が家は、センサー付きのライトが、点く様になっており、パパに反応して、駐車場の電気もパッとついた。そこには、白いジャンパーを着た、初老の男の人が、「キーが無い、キーがない」とつぶやきながらまだ、そこから離れようとしない。私も、パパに次いで下に降りた。「この車、うちのですけれど」と言うと、その人は、私の顔を見た。ん?顔がおかしい。パパが「おい、救急車、顔が血だらけだよ」と言うので良く見ると、本当に顔中、血だらけだった。家に駆け上がって、119番。「火事ですか、救急車ですか」と言う声がすぐに聞こえた。我が家の人間で無いこと、状況を話し、住所を言った。もう一度、表にでると、風は冷たいし、物凄く寒かった。「今、救急車呼びましたよ」と言うと、そのおじさんは、後ずさりし始め、「困るよ、良いよ、そんのいらない」と言い出した。パパが「何言ってるんだ、顔が血だらけじゃないか」と言うと、逃げ出そうとする。「警察呼べ!」とパパが言うので、もう一度、家の中に戻ると、オネエが「御母さん、顔真っ青だよ、私が電話するから、そこにいなさい」と言って、110番してくれた。素足で、寒空に上着も着ないで、出て行ったものだから、寒くてがたがた震えてしまった。娘も表に出て行った。暫くすると、救急車のサイレンが聞こえてきたので、誘導しようと、コートを着て、表に出た。少し迷ったようだが、すぐに、こちらに向かってきた。腕を振って誘導して裏に来てもらった。「患者さんはどこですか」「あちらです」と、少しずつ逃げ出して、パパと離れた所にいたおじさんの居る方を指した。救急隊員の方が、おじさんを救急車に乗せた。「今、警察も呼びました」と伝えると、「警察はだめだよ。警察は嫌だ」と、おじさんが暴れだした。お酒臭かった。うちの方を見ると、パトカーが、二台、到着していた。警官が事情を聞かせてくれと言うので、見たままを伝えた。暫く、そのまま事情を聞かれ、もう、寒くて立っていられなくなり家の中に入ったら、もう一台、黒塗りの赤色灯をつけた車がゆっくりやって来た。あとでオネエに聞いたら、刑事さんだそう。それも、茶髪の若い刑事と、女性刑事!あ~、見たかったなあ。「女刑事、格好よかったよ~」とはオネエ。私は、素足のままだったので、すっかり足が冷えてしまい、つってしまい、そのまま家の中から見ていた。おじさんは、ここの団地とは、全く違った団地の名前を言った。警察の方が、「近くですか」と聞かれるので「知りません」と答えた。どうやら、車でここまで乗ってきて、何かに車がぶつかって顔を打ち、脳震盪でも起こしたのだろう、気が付くと、我が家の前にいて、自分の車と間違え、「キーが無い、キーが無い」と言っていたらしい。・・・というのも、我が家の横は、大きな橋なのだが、どこからか、その橋の上に大きな車が運ばれてきて、その回りをおまわりさんたちが、調べていたのが、窓から見えたから、これは、私の推理(笑)警察を呼ばれて困ると言ったのは、飲酒運転がばれちゃうからだったらしい。全く、刑事さんまで出動してきて、我が家の前から横の大きな橋の上は、二台のパトカーと、救急車、それに覆面パトまで揃って、深夜の大捜査だった。本当に、人騒がせな人でした。それにしても、こんな大騒ぎの最中、だれも、野次馬がいなかった。皆さんもう、年末で、早くに休まれたのだろう。朝、寒さで目が覚めた。この冬、初めての事だ。ここのところずっと、50肩で、右腕が、痛いのだが、起き上がって、カーテンを開けると、!!!!、一面、真っ白。うっそーー。おじさん、あのままだったら、凍死していたかもしれないなあ。警察からは、何も言ってこない。どうなったんだろうなあ。本当に、まるで北海道のような風景。ベトナムのイェンちゃんに写真を送ってあげようと思い、写真に撮った。午前中、パパと雪の中、買い物に行った。「4」と「9」の日にだけ開く、市に「かに」を買いに行ったが、この雪で、店じまいしてしまっていた。仕方がないので、横のショッピングセンターに行った。雪のおかげで、暮れの大型ショッピングセンターは、がら空き。さっさと用事を済ませ、家で留守番している子ども達の希望を聞いて、お昼ごはんを買って、明日のお参りのお菓子も買って、お正月は、喪中で出来ないけれど、パパの好きなスモークサーモンを買って、カニを買って、帰宅した。積雪量、20cmはある。こういう日は、うちの中にいるに限ります。
2006年12月29日
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昨日より遅い電車で、難波に出た。電車を降りて、すぐにタクシーに乗って、劇場のある、大阪厚生年金会館に向かった。本当なら、Mさんと、ランチの約束だったが、どうにも都合が悪くなり、大変申し訳なかったが、遅れて行った。この大千秋楽のチケットは、Mさんと一緒に申し込み、私がはずれ、彼女が当ててくださった、プラチナチケットだ。彼女は、2階の、中ほどの席も、前の方も同じS席であることが、納得がいかないらしい。私も、以前はそうだった。如何して同じファンクラブチケットなのに、こんなに差があるのか・・・と何度も思ったものだが、何度か良い席に当たったときは、上を見上げ、ああ、あの人たちも、同じチケットなんだなあと、申し訳ないような気持だった。席に向かうと、ぽっかり私の席だけが空いていて、すぐに、その横にすわってらしたのが、Mさんだと解かった。お互い、初対面だったが、そんな気が全くせず、開演までの僅かな時間を惜しんで、お喋りした。Mさんは、思ったとおり、薬科大を出た薬剤師さんそのもの・・と言う感じの一本筋の通った、賢そうな、感じの良い方だった。青山の真ん中あたり、昨日の一番前、そして今日の二階中ほど。一つのお芝居で、これほど、色色な席に恵まれたのは、ファンになって、初めてだ。嵐君のおかげで、随分、お芝居を見た。3年前の「ウェスト・サイド・ストーリ」を初め、昨年からは、「理由なき反抗」「エデンの東」「燕のいる駅」「ビューティフル・ゲーム」「幕末バンプー」今年は、なんと言っても、「白夜の女騎士」と「テンセイクンプー」。皆、面白かった。半分は、千秋楽も見た。お芝居の千秋楽は、本当に、良いものだ。今日の千秋楽は、大ちゃんのお芝居の千秋楽には、いつもおまけがついている。今年も、去年のように、見た人の数や、当日券に並んだ人数が読み上げられる度に、劇場の中で、ため息や、歓声が上がった。そして、今年の出し物は、それぞれ、出演者の詳しい紹介が行われた。可笑しかったのは、秋本奈緒美さんの紹介の時、彼女の若かりし頃に出したCDが、彼女の知らない間に用意されていたようで、その歌が流れると、秋本さんは、前につんのめっていた。そして「嵐の大野智」と紹介されると、嬉しそうに爽やかな笑顔で、大ちゃん登場。最後に、作家のきださんが、舞台に呼ばれ、上がってらしてご挨拶。そして、大ちゃん、きださんが、出演者とスタッフに胴上げをされた。会場の観客も、皆総立ちになり、一緒に両手を挙げて、胴上げするような感じだった。下に降ろされた大ちゃんは、思わず大泣き。会場から「泣かないで」と声が飛ぶと照れたように「うるせ~」会場から暖かい笑いが起きた。そして、全スタッフと出演者から、プレゼントが渡された。大ちゃんが、座り込んで開けると、工具のセット。いつも面白いギャグを言う武田さんが「これで、また、好きな物作ってください」と言うと、大ちゃん嬉しそう。きださんは、大きなガンダムの箱を貰っていた。そして、大ちゃんの舞台では恒例になった、記念写真。客席をバックに、スタッフ、出演者全員で撮るのだ。「良い?みんなも、ちゃんと入ってね」と振り返りながら、大ちゃん。優しい奴だなあ。カーテンコールで登場したときには大きな声で「ありがとーー」実に爽やか。一つまた、大きくなったね大ちゃん。そして、何回か続いたカーテンコールの後は、「ね、おれシャワー浴びて、着替えて、東京かえんないといけないから・・」。あ、また言った。去年も言いましたよね。「頼むから、東京にかえしてくれー」って。会場から「えーーーー」って言われて、笑っていたけれど、今回も、やっぱり、おうちが大好きな大ちゃんでした。名残惜しかったが、Mさんと、一緒に劇場を出た。そして難波に戻り、いつものお店で肉まんを買い、いつものお店で、今日は、食べている時間は無かったが、持ち帰る分を作ってもらっている間に、Mさんと楽しいおしゃべり。昨日は、お好み焼きだったので、今日は、美味しい、美味しい塩焼きそばと、ネギ焼き。1時間弱だったが、Mさんとのお喋りは、本当に楽しかった。何より、Mさんとは、何だかとても、気持ちが樂にお話できた。そして、彼女の広島弁「じゃけん」が、なんとも可愛かった。広島弁は、生まれて初めて「生」で聞いたが、良いものです。映画「ALWAYS」で、もたいまさこさんが言う台詞にこんなのがある。「お国の言葉は、宝です。大切になさい」本当だなと、Mさんとおしゃべりしていて、そう思った。時間が来たので、Mさんと別れ、難波の駅から電車に乗った。昨日からの頭痛は、消えていた。楽しかったな~。前回、青山に見に行ってから、私の回りの状況は、大きく変わった。この二日のお芝居も諦めようと思ったくらいだった。家族の皆様、私の自由にさせてくださって、ありがとうです。これから、色色大変ですが、頑張ろう。
2006年12月28日
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寝不足で、まだ、少し頭痛がするが、どうにか、大丈夫そう。起き上がって、カバンの中を見たら、幸福の青い封筒(ジャニーズ事務所からチケット関連の物はいつもこの封筒なのでこう呼ぶ)はそこにそのままあった。午前8時半、パパに駅まで送ってもらい、9時の電車で難波に。頭痛は相変わらず、最悪のコンディション。兎に角、電車の二時間、寝るに徹した。幸い、大阪行きの乗客は、少なく、隣の席は、最後まで誰も乗車してこず、ゆっくり寝れた。頭痛も、無くなっていた。この日をどんなに楽しみにしていた事か。前回青山に行ってからの、信じられない日々。今日は、すべて、忘れて、楽しもう。パパも、そう言って、送り出してくれたのだから。「元気もらっといで」。難波に着き、待ち合わせしていたJちゃんに再会。1年ぶりかなあ。一緒にいつもの大阪難波の「ゆかり」さんへ。まだ、早かったので席はすきすき。楽しく話しをしながら・・・・と言うより、私の話を一方的に聞いていただきながら、美味しいお好み焼きと、今日は、塩焼きそばも、頂いた。帰りに取りに来る、家族の分のお好み焼きを予約し、大阪厚生年金に向かった。今日の席は、最前列。ファンクラブに入って、こんな良いお席は、初めて当たった。おまけに、劇場に入ってビックリした。まんまん中。私の前には、中心を示す、白いバッテンの印と、赤い小さなライトが、役者さん用に舞台中心に向けて点いていた。コンサートなら、こんな席は、この上ない席だが、お芝居は、斜め上を向いたまま、疲れるなあ・・・と思った。案の定、台詞を言っている役者さんにしか顔を向けられない。だが、近い。大ちゃんが、倒れこむと、その手や、髪の毛は、50センチ先にあった。大ちゃんの手は、女性のように、綺麗な手なのだが、その綺麗な白くて細い指、つめの形まで、解かっちゃうくらいだった。青山劇場もそう後ろの方じゃなかったが、小さな声の早口の台詞が聞こえなかったりした。今回は、全部の台詞がわかった。そして何より、自分の前には人がいないわけで、お芝居を、まるで私1人で見ている感じ。よって、感情の入り込みも、強かった。青山では、正直、前半は、あまり面白くなく、眠かった。しかし、目前で繰り広げられる役者さんたちの、丁々発止の台詞のキャッチボールと、大ちゃんの本当に凄い動きに、眠くなる暇は無かった。解からなかった筋も、全部わかった、理解できた。そして、「流れる滝のような汗」を生まれて初めて、目前に見た。ああ、こう言う事を言うんだ・・・と思った。動きの止まった芝居の大ちゃんの顎の先から、本当に、滴り落ちる汗。1秒に一回大きな汗の粒が、舞台に落ちる。凄い!!。この芝居の間に、たぶん、大ちゃんは、かなり体重を落としたと思った。青山で見た時より、痩せてしまっていたように感じた。共演の秋本さんもとても、小さなお顔の方だった。やはり目前で見た女優さんのお顔は、本当に美しかった。大人の女性の美しさみたいな、品格みたいな物を感じた。休憩の時、また、少し頭痛が戻ってきた。目をつぶって、シートに沈んで、暫く気持も身体も、休めた。後半は、凄いテンポで、進んだ。大ちゃんの魂の輝き、芝居にのめりこみ、「薫」になりきっている姿に、後半の中ほどから、涙が目にたまり始めた。本当にこの人は、凄い。舞台で芝居をするために、生まれてきたような人だと思った。そして、エンディング。素晴らしかった。カーテンコールも、青山より、一回多かった。「あと2回ですけど、がんばります」爽やかな笑顔で、拍手に応えた。4回目のカーテンコールは、舞台を端から端まで走り、5回目のカーテンコールには、青山の時のように、緞帳が降りて来ても、良いように、目前でバタンと横になり、最後に緞帳が下りる最後50センチくらいの時、手でVサインをしながら、直ぐ前の私の方を見てくれた。最後まで、ファンを大切にする大ちゃんに感謝。劇場を出て、難波に戻り、少し時間があったので、高島屋に入り、色色見て、頼んであったお好み焼きを受け取り、電車に乗った。体調は、やはり、良くない。塩辛い物が食べたかった。こういう時は、体調が良くない証拠。売店で、少し塩気のある物と、お茶を買って、電車に乗った。帰りの特急は、結構混んでいた。頭の芯が、ズキンズキンしていた。帰宅後、薬を飲んだが、治らない。娘達に、背中を揉んでもらい、早めに、休んだ。大ちゃん、今日、見せてもらったよ。貴方の魂の輝き。素晴らしかったです。
2006年12月27日
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昨日から、身体の調子が最悪。おなかの左のいつもの場所が、ドーンとして、吐き気と、頭痛。薬を服用するも、全く効き目なし。娘に、いつものように、背中中、温シップを貼ってもらうが、暫く横になっても治らず。困ったなあ・・・。明日は、折角楽しみにしていた、大ちゃんの大阪公演なのに。それも、奇跡の最前列なのに・・・。夜、用意をしていて、さあ、あとはチケットだけ・・・と、いつも入れておく引き出しを見たら、無い。何処にも無い。嘘・・・・。頭は痛いし、チケットは無いし、皆、寝てしまった夜中。1人で、「無い・・無い・・」とつぶやきながらあちこち探した。誰かが見ていたら、頭が可笑しくなったのじゃないかと思うくらい、半狂乱になった。こういう時の鬱って、本当に最低なのだ。頭は痛いし、チケットは無いし、このまま生きていたら、また、こう言う事が有るんだなあと思っちゃうのだ。このまま生きていたら、ADHD障害から、また、こうして半狂乱になって、探し物をしなきゃいけなくなるんだ・・・。全く、冷静な物の考え方が出来なくなる。死んでしまおう。引き出しをひっくり返しても、何処を探しても、無いチケット。キッチンの椅子に腰を落として沢山の薬のシートを前に、とうとうそこまで考えちゃった。二階で寝ているパパを起こそうか・・・。迷惑掛けたくない。冷静に考えれば、死んだ方が、迷惑掛けるのに。それが、解からないのだ。鬱ってそういう病気なのだから仕方がない。折角、お芝居見られると思ったのに・・・。しかし、快方に向かっている鬱、思い留まった。「寝たら、何とかなるかも知れない」「とりあえず、寝ちゃおう」二階にあがり、横になった。しかし、一回、死のうとしたのだ。気持が、落ち着かなくて、眠れる訳が無い。何度も、横のパパを起こそうとして、手を引っ込めた。しかし、睡魔には叶わない。明け方、眠りに落ちた。そして、思い出したのだ。夢うつつの状態、眠りに落ちていく瞬間、チケットが、まだ、東京に行った時のカバンの中に入れたままだったこと。東京から戻って、お祖母ちゃんのごたごたに巻き込まれ、片付ける暇が無かった。そうなのだ、大ちゃんのお芝居を見に行って帰ってきてから、大きく日々が変わってしまったのだった。カバンを片付ける暇も無く、駆け回っていたのだった。起き上がって、カバンの中を見ようと思うのだけれど、どうしても身体が言う事が利かない、そのまま、眠りにおちた。鬱、頭痛、本当に厄介です。
2006年12月26日
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お祖母ちゃんの部屋には、相変わらず、余り入れない。お花屋さんから、「そろそろ、籠を引き取りに行きますが」と言う電話があった。しかし、お花がどうなっているのか、部屋に入らない私には、解からなかった。パパに、話をした。すぐに、対応してくれ、大きなお花の入った花籠二つ、果物の入ったこれも、大きな籠も、部屋から出してくれた。すぐに、電話で、お花屋さんにきてもらい、引き取っていただいた。果物は、傷んだ物もあったので、処分したり、冷蔵庫に保存したりした。パパが、話をしようと言った。お祖母ちゃんが亡くなって、丸二週間。まだまだ、私の中で、気持の整理がついてないこと。いまだに、お祖母ちゃんの部屋には、怖くては入れないことなど話した。申し訳ないが、本当に、貴方には申し訳がないが、お祖母ちゃんのお骨があるあの部屋には、入れないと。泣きながら話した。パパにしてみれば,大切な自分の親の事を、自分の女房が、これほどまで、恐怖に感じているのは、とても辛い事だろう。本当に申し訳ないと思っているが、どうしようもない。何故怖いのか、自分でも解からない。なぜなら、もう、生きてない人なのだから。確かに生きている時は、私が、良かれと思ってした事が、すべて、お祖母ちゃんには通じず、悪意にばかり取られて、如何してこの人は、私をそんなに信じられないんだろう、どうして、そんなに悪意に物事を取るんだろう・・・と苦しんだ。自分じゃ、意識していなかったが、確かに、お風呂に入れなくなり、お祖母ちゃんの話をすると、身体が痙攣するようになってしまい、精神的な診断が「恐怖症状」と言うものだったそうだが、今は、もう、その相手がいないのだ。それなのに、部屋に入れない。自分でも、本当に情けない事なのだ。なんて意気地のない奴なのかと、また、自分を責めてしまう。そして、鬱になる悪循環。母は、もう、終ったのよ、もう、何もなくなったのよ・・と昨日、泣いた私に言った。しかし、私の中では、何もまだ終っていないのだ。どうしてだか、解からない。本当に解からないのだ。パパも、ただただ、泣いて訴えられて、困っただろう。心から、申し訳ないと思う。とんでもない女房を貰っちゃったと、思っているだろう。よく、我慢してくれていると思う。パパには、感謝と、申し訳なさで一杯なのだ。しかし、気持を全部、正直に話して、軽くなった。その分、パパの気持が重くなっちゃったかもしれないが。ゴメンネ。そして、ありがとう。
2006年12月25日
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今日は、クリスマス。お祖母ちゃんのことで、いつも飾る、リースや、サンタのドールや、他のオーナメント、置物も、箱から出さず、過ぎてしまった。玄関のドアには、「忌中」の張り紙だけのクリスマス。それでも、昨日、チビが、名古屋で予約してあったチキンを取りに行ってくれ、パパとのお使いから帰ると、母と一緒に出かけていたオネエから、母からのプレゼントが届いていた。中を開けると、毛皮のマフラーが出てきた。それが、うちの猫と同じ色で、出してソファの上に置いてあったら、みなが間違えて、ビックリしたのが、可笑しかった。クリスマスの日が日曜と言う事もあり、ケーキを取りに行ったら、ケーキ屋さんの前が、もう、一杯の車で、なんと、警備員さんが、出ていた。お顔の良く知ったお人形のように可愛い店員さんに「いつも、ありがとうございます」とお礼にシャンペンを頂いた。予約したので、そのおまけのお紅茶のパックも頂いちゃった。喪中の少し気の重いクリスマスだったが、いつものように、チキンを頂き、マッシュポテトみたいに失敗しちゃったポテトサラダを食べ、皆で、チョコレートのガナッシュケーキを食べた。ここのケーキは、本当に美味しいです。他のお店のチョコガナッシュは、甘すぎてたべられないのだが、ここのは、とても上品な甘さで、大人の味だ。こうしてあと何年、娘達とクリスマスのパーティができるのかな。今日は珍しくパパがそう言った。寂しいんだなきっと。大丈夫、孫ができたら、うるさいくらい賑やかなクリスマスが送れるよ。きっと。
2006年12月24日
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今日は、御祖母ちゃんのニ七日の法要の日。お寺に10時に行った。すっかり冬景色のお庭。本堂に入ると、いらしたのは、先生。お父様の方ではなかった。持って行った御祖母ちゃんの遺影と、お骨白木のお位牌をお供えして、読経が始まった。なんだか、訳がわからないうちに、日が過ぎていった。日常の事務的なことは、父の時に比べると「皆無」に近いくらい、何もする事がない。それなのに、全く、日が、過ぎるのが、解からないくらいなのだ。不思議な感覚。まだまだ、私の中で、気持の整理がついていないからだろう。読経の間、御祖母ちゃんの遺影を見ていた。この人のお蔭で、随分痛い思いをさせられた。だが、この写真の頃は、まだ、全然そんな事はなかったのに。御祖母ちゃんの写真を見ただけで、身体の芯が、まだジーンとする。恐怖に似ている感覚。嫌悪感とはまた違う、感覚。しかし、間違いなく、この人がパパを生み、育てたのだ。そして、私と出会い、一生の伴侶になった。その大切な、大切な親なのだ。御祖母ちゃんが、糖尿病になっていなかったら、認知症になっていなかったら、全く違った関係になれただろうに・・・。頭では解っていた。しかし、感情が、言う事を聴いてくれない。いつまで、こんなことが続くのだろう。大きな阿弥陀様の像に、手を合わせながら、深く、救いを求めるような気持になった。先生の読経は、生真面目なお経だった。とても良い先生なのだ。英語の先生で、進路指導もしていただいた。PTAの役員会でも、いつも良く通るお声で、お話なさった。子供達が学校とご縁が切れた年から、こうして御祖母ちゃんのことで、また、ご縁が出来た。以前から、先生のご実家とは知ってはいたが、読経はしていただいていなかった。30分ほどで、終わり、また、風呂敷に遺影と位牌を包み、お骨をチビに持ってもらい、先生と、お母様にご挨拶して、お寺を後にした。チビが、お数珠を無くしたとかで、帰りに仏具屋さんに寄った。そこで、少し、お仏壇を見せていただいた。今、うちにある物は、簡易式のもので、御祖母ちゃんが買ったものだった。その前にも、古い物があったそうだが、御祖母ちゃんが買い換えたそうだ。正直、御祖母ちゃんの「物」のような気がしてしまい、触れなかった。だから、新しい物が欲しくて、買うつもりだった。しかし、お仏壇は、結構なお値段がした。今日は見せていただくだけ・・・と、父の時に、古いお仏壇を綺麗にしてもらったご縁で顔馴染みのお店の経営者の方と、お茶を頂きながら、いろいろなお話をさせて頂いた。今日は、色色、勉強になりました。
2006年12月23日
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明日は、御祖母ちゃんのニ七日のお参りの日。オネエは、どうしても抜け出せない授業があるとか。仕方ないよね。夜、パパとお寺さんへのお供えのお菓子を買いに行ったり、買い物に出た。なんだか、食事を作る事が出なくて、チビも、お友達と食事をしてくるとか、オネエも、学校の近くで食べてくる・・と言うので、パパと、近くのおすし屋さんに行った。ここ、回転すしなのだが、なかなか美味しい。お値段も、結構、良いからかな?私は、いつも、あなごの長焼きと、かにみそと、いくらを頼む。パパは、サーモンが好き。今日は、先日、食べられなかった、えんがわの長焼きと、赤貝も頼んだ。なんだか、少し贅沢かなあ。そう言えば、ここんとこ、毎週ここで御寿司を食べてる。どれだけ、好きなんだと思われてるだろうなあ。近いし、好きな量で食べられるから、少食の私には、回転寿司は、向いてるのだ。この街は、本当に、お刺身だけは、美味しい。こりこりした食感は、新鮮だからこそだ。海も、近い・・・というより、港町だもんね。ただ、御寿司の好きな東京の叔母に連れられて行った御寿司やさんに比べると、しゃり、ご飯が今一なのだ。なんだろう、酢が足りないのか、ご飯が柔らかいのか、解からない。「御寿司は、しゃりだ」と良く言われる。だが、私たちには、これで充分美味しい。あまり食べられない私は、いつも、一皿をパパに半分食べてもらう。おなか一杯になり、少し幸せになって、帰宅。子ども達も、程なくして帰って来た。明日は、寒いお堂の中での読経。風邪引かないようにしないとね。
2006年12月22日
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御祖母ちゃんが逝って早10日過ぎたのに、何をしていたのか、解からないくらい、何もしていない。御祖母ちゃんの祭壇は、そのまま御祖母ちゃんの部屋だった和室にある。お供えしてあった、いちごが、カビだらけになっちゃった。頂いたメロンもお供えしてあったので、慌てて見たら、もう、柔らかくなっちゃってる。冷蔵庫に移したが、果物の籠は、触らずそのまま。今朝から、TVで訃報のニュースばかり。一時代を築いた放送作家の青島幸男さん。それに、大好きだった、岸田今日子さん。凄くショックだったのは、岸田今日子さん。すべての意味で、憧れの方だった。ニュースで一方を聞いた時は、「うっそ~」と思わず叫んでしまった。童話作家になりたかった私にとって、岸田さんの書く童話は、絶対まねの出来ない岸田ワールドを持っていた憧れのものだった。特に、「ひとみしりな入り江」と、「子供にしてあげたお話、してあげなかったお話」は、本当に、大好きだった。してあげなかった話の中の「うさぎこころ」の話。切なくて、切なくて、仕方がなかった。その他にも、どの本に入っていたか、忘れたが、「いるか」と言う話は、なんとまあ、セクシーなのに、嫌味のない話だったのか。こんな風に、まるでオブラートにくるんで、言葉を直接的な表現じゃなく、その向こうに、限りない広がりを持たせて、表現できるなんて、それまでは、思いもしなかった。岸田今日子さんの独特の表現は、本当に、素晴らしい表現だった。この上なく、残酷な話なのに、残酷じゃなく、この上なく、切ないのに、思い切り鋭く、その相反する表現が、全く違和感なくこちらの心に入ってくるのだ。それを、岸田さん自身のあの素敵なお声で呼んだカセットテープは、私の宝物だ。その岸田今日子さんが、旅立たれた。勿論、女優さんとしても、かの大名作「傷だらけの天使」の得体のしれない女ボスの役から、人の良い町のお医者さんまで、本当に素敵な女優さんだった。先月、前夫の仲谷昇さんが、亡くなったばかりとか。その後を追うように逝かれた事が、哀しい。ご冥福をお祈りします。
2006年12月21日
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カウセリングの日だった。こんなに、待ち遠しいと思ったカウンセリングも、久しぶりだった。やはり、御祖母ちゃんの死は、私の中で、消化しきれない、大変ショックなことだった。御祖母ちゃんが亡くなって今日で、丁度10日。事務的なことが、済み、落ち着いてくる時期なのに、毎日、心の中は、ざわざわと、波立って行くばかりだった。誰か、なんの関係も無い人に、気持を吐露してしまいたかった。しかし、先週お葬式で、診察にいけなかったので、カウンセリングの時間を削って、診察の時間に当てられた。だから、いつもの半分近くになってしまった。まず、この数日、御祖母ちゃんの施設探しから、やっと見つかったその日に御祖母ちゃんが倒れた事。そして丸二日生きつづけ、旅立って行った事。御祖母ちゃんが、炉に入って行った後、非常に複雑な思いで、潰れそうになり、号泣してしまったことなど、本当に、吐き出すようなつもりで、話し始めた。自分の声が、いつもより小さいことがとても不思議だった。そして声の小ささに反比例して、感情が、激しく動いた。自分が、何を考えて、何を感じているのか、まるで、心がしびれてしまっているような感覚だと話した。長いこと、確執のあった、鬱が酷くなった原因の一つだった人がいなくなり、ほっとしたような、全然ちがうような、哀しいような、全く哀しくないような、言わば、進む道の小石のような存在だったはずだったのに、実は、大きな支えだったような気もしていたり、もう、混乱しまくっていた。時々涙する私に、いつもより、言葉のトーンを落としたカウンセラーの優しい言葉が、心に沁み込んで行った。時間が足りなかった。本当は、ひと月に一回のカウンセリングなのだが、私自身がとても不安定な状態だったので、来月早々に、予約を入れてくださった。まだまだ、私には、必要な場所なんだなあと、今日はつくづく実感して帰った。お花を買いたかったが、いまだに余り入れないでいる御祖母ちゃんの部屋の溢れんばかりの花を思い出し、買う事も出来なかった。本当に、心がしびれてしまっている。
2006年12月20日
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今日したこと、「寝た」ただそれだけ。自分でも、何故?ってくらい、寝た。寝すぎると、疲労する・・・と何かで読んだことがあるが、起きていられないくらい眠くて、眠くて仕方が無くて、寝たから、多分、ここのところの疲労からの睡眠不足だったのかもしれない。人間の身体って、本当に不思議だなあ。こうして、不足する物を、きちんと帳尻合わせて、作用する。脳の不思議か。誰か偉い先生が、「脳は、宇宙と同じくらい広い」って言っていたなあ。かく言う自分だって、ADHDと言う障害を持ち、その不思議に振り回されているのだから。今日、行けたら病院に行こうと思っていたのに、とうとう行けなかった。鬱は、本当に困った物だ。抗鬱剤を服用できないから、なかなか完治しない。弱い体は、全く、はしにも棒にも掛からない。健康に生まれていたら、御祖母ちゃんとの戦いも負けなかったろうし、もっと、違った人生が送れたのだろうに・・・。何もしなくても一日は確実に過ぎていく。勿体無い。本当に勿体無い。歳を取ったせいか、余計にそう思う。友人の中には、一日が、私の3倍の密度の人もいる。彼女の人生の時間を私の人生の時間に合わせたら、彼女の20年分くらいしか、生きてないような感じだなあ。多分、私はこれで良いのかもしれない。御祖母ちゃんが、亡くなって10日。何も前に進んでいない気がする。明日は、1センチでも、前に進めると良いのだけれど・・。
2006年12月19日
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日常が始まり、御祖母ちゃんのいない日々が、積み重なっていく。早、一週間が過ぎたのに、御祖母ちゃんの部屋は、まだ、何も片付いてない。まだ、何も、手がつけられない。御祖母ちゃんが、亡くなったら、御祖母ちゃんの部屋は、すべての家具を処分し、畳も替え、ふすまも替え、リビングとの境も開け放し、新しいお仏壇を購入しようと思った。だが、相変わらず、物置状態のまま、祭壇の横で、盆灯篭が、回っているだけ。四十九日が過ぎるまで、仕方がないのかなあ。今日は、流石に精神的にも、肉体的にも深いところからの疲労が出たのか、朝から、動けない。鬱も出ているみたい。夕方、パパが、また出かけたが、ソファで横になったまま動けないでいる私に「しっかりしてくれよ~」と言って、おでこに手を当てた。熱があるわけじゃないから、やっぱり、鬱なんだろうなあ。先週、お葬式の日が、精神科の診察日だった。今、診察は、ほとんど、薬を貰う為だけに行っている。薬は、いつも多めに出してくれるから、余っている分が重なって、まだ、充分にある。明日、出かけられることが出来たら、私の担当医の日だから、貰いに行こうか。それより、明後日のカウンセリングを、早く受けたい。やはり、私の中で、片付けられない気持が、渦巻いている。そしてその気持を自覚する度、また、苦しみが生まれている。全くの悪循環。これじゃ、何時まで経っても、鬱は治らない。自分でも、馬鹿みたい・・・と思う。早く、吹っ切れたら、良いのに。吹っ切れたら、どんなに樂だろうと思う。自分の精神的な弱さに、もう、辟易しているのになあ。バタバタしていたから、紅葉の時期が過ぎちゃった。イェンちゃんに、もみじの紅葉の写真を送ってあげる約束だったのに、写真を撮る暇が無かった。ベトナムで一緒に撮った写真も、クリスマスプレゼントと一緒にして送ってあげたかったのになあ。明日から、頑張ろう。頑張れるかなあ、私。
2006年12月18日
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朝から、「硫黄島からの手紙」を見に行く準備。昨日のうちに、チケットをパソコンから買って置けばよかったのに、まだ、自分がいけるかどうか不安だったので、買わずにシネコンに行ったら、案の定、もう一杯で、前から二列目しか席が無かった。おまけに、最初に、CMなどあるから・・・とゆっくり入ったら、もう始まってしまっていた。あ~、何たる失態。全く、ハリウッド映画と言う感じは無かった。すべて日本語、すべて、日本人の出演だったから、反対に、何故、この映画が、外人の監督じゃなきゃ撮れなかったのかと、非常に残念だった。この映画を見る前、私は、栗林忠道さんの「栗林忠道、硫黄島からの手紙」と言う書簡集を読んだ。御祖母ちゃんの通夜の日、パパと一緒に書店に入った時、「かくも品格のある日本人がいた」と言う、帯に惹かれ、購入して読んだ。栗林さんの、本当に家族を愛する気持が溢れた書簡に、度々、涙がこぼれた。まだ、映画を見る前だったので、どういう状況で書かれたのかは、書簡に書かれた「考えられないくらい蒸し暑く・・」とか、「すぐに、咽喉が乾くが、雨水しかなく・・」とかの文章で、極限の地にいた事くらいしか想像がつかなかった。そして、映画を見た。なんて、人間らしい、すべて解ってらっしゃった方だったのかと思った。解かっていながら、そこに赴任しなければならないご自分の運命を呪いもせず淡々と、任務に人間らしく就いてらっしゃった事に、感動した。大好きなニノは、もう、ニノじゃなく、西郷だった。この映画は、西郷の目を通して描かれたように思う。この時代、西条のように、世の中を斜にみている若者が、どれだけいたのだろうか。戦争に批判的で、なんとしても生きて帰ると思い続けていた若者は、あの時代、非国民だった。しかし、本当は、これが、すべての若者の本音だったのだろう。嵐の中で、ニノは、まさに西郷なのだが、ファンだけしか知らないニノが、西郷になって、画面の中にいた。鼻に抜けるように賢くて、口が達者で、器用で、斜に物事を見据えるニノ。本当に、西郷はニノそのものだった。最後まで凛として生きた栗林中将と、ロサンゼルスオリンピックで、馬術で金メダルを取ったバロン西さん。実在の人物を描いた映画は、実に深い。よくぞ、ここまでクリント・イーストウッドは、外人の目から描いたと拍手を送りたい。日本人の魂も、きちんと描かれていた。ニノは、ほとんど出ずっぱり。始まって10分もすると、ファンとしての目じゃなく、日本人としての目で見ていた。そして、悲劇の最後に向かって映画は進んでいく。見に行くにあたって、私は、多分、号泣してしまうだろうと、「父親たちの星条旗」を見た後、思った。しかし、淡々と映画は進み、残酷な戦闘シーンも、しばしの安息の時間のシーンも、兵士たちの思いを描いたシーンも、難なく過ぎた。そして、最後に、栗林がニノを助けたシーンもニノが、米兵に助けられ、担架の上で、この上なく美しい夕景を見ながら涙したシーンも大丈夫だった。しかし、しかし、最後の現代、硫黄島の遺骨収集団が、土の中から兵士たちの書いた、届けられなかった家族への手紙を発掘したシーンで、もう、どうしようもないくらい込み上げ、横でパパが大丈夫かと笑うほど、嗚咽してしまった。どんなに、その手紙を家族に届けたかっただろう・・・。どんな思いで、そこに埋めたのだろう・・・。62年経って、こうして日本中の人に知ってもらい、手紙にこめられた魂がやっと報われた・・・そう思ったら、もう、たまらなかった。涙はどんどん溢れ、声も上げてしまった。誰も居なくなった劇場で、一番後まで座っていた。ひとしきり泣いて、やっと立つ事ができた。「これは、フィクションじゃない、事実」ニノが「62年経って、やっと、手紙を日本中に届ける事ができた。この事実をやっと、知って頂けることが出来た」と言っていた意味が、ひしひしと心に迫った。何故、すべてを理解した栗林や、バロン西が、こんな運命に巻き込まれなければならなかったのか。当時の日本の政府、東条英機が悪いのか、真珠湾がきっかけになったのなら、山本五十六が悪いのか。最後に和平を画策した近衛文麿 らの思いを握りつぶした木戸幸一らが悪いのか・・・。長い時間を掛けて、論議されてきた。多分、その時代の空気が、呪われていたとしか、今は、思えない。軍国主義の世の中、言いたいことも言えず、運命に翻弄された多くの人々がいた事を、決して忘れてはいけない。戦争は、二つの国に、何も残さなかった。ただただ、家族の悲しみだけを、心の傷だけを残した。こんな素晴らしい、反戦映画を、外国の監督が作った事が、やはり、日本人として残念。硫黄島、今は、自衛隊の施設があるだけだそうだ。しかし、未だに、収集されていない遺骨が何万もあるそう。多分、日本人の物だけでなく、米兵の物も、一緒に眠っているのだ。いわば、島自体が、英霊の眠る墓所なのだ。ご冥福をお祈りしたい。合掌。
2006年12月17日
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御祖母ちゃんが亡くなって、初めての土曜日。先週の土曜から、見たかった「硫黄島からの手紙」が始まっている。先週の今頃、まだ、御祖母ちゃんの命の火は消えていなかった。私達は、病院にずっと詰めていた。時間と言うのは、満遍なく、誰の物にも、平等に過ぎていく。一秒は、だれにも1秒でしかなく、哀しいときも、嬉しいときも止める事は出来ない。まして、自分の思いが、全く整理できていない時の1秒は、とてもとても短い。同じ1秒なのに、長く感じる時は、案外幸せなのかもしれない。パパが、「見に行こうか」と言い出したが、今日はそんな気になれないし、言い出した時間が上映時間に合わず、明日にした。物凄く楽しみな映画だった。ニノが出ているからである事も勿論だったが、「父親たちの星条旗」がとてもよかったし、アメリカ人のクリント・イーストウッドが、アメリカから描いた、「父親たちの星条旗」をあのように描いたのなら、日本側からの硫黄島を、どのように描いているのか、非常に興味があった。明日、楽しみだね。映画を見る気持の余裕が、パパに出てきたのは、とても良いことだと思った。相変わらず私は、御祖母ちゃんの部屋の祭壇に毎日の焼香が出来ない。父の時も、そうだった。父自身が、抹香臭い事が大嫌いで、お線香の匂いを嫌ったから、娘時代、我が家に本家のお仏壇がやってきた時、毎日、お米を炊くと真っ先にごはんさんをあげたり、お水を母に言われ、あげたりしていたが、お線香は、たかなかった。そういう躾をしてもらったにもかかわらず、今、きちんと出来ていないのは、私のお仏壇に対するこだわりもあるのかもしれない。午後からやっとパパと二人で、お香典の整理をした。会社関係、友人、親戚、知り合いに分けて整理していく。パパがパソコンに表を作り、書き込んだ。父の時の資料が有ったので、作業は、父の時ほど大変ではなかった。こう言う事は、一回でも経験しとくもんなのだなあ・・・。私は相変わらず、お骨の置いてある祭壇に、あまり近づけない。もう、亡くなっているのに、まだ私の中で、御祖母ちゃんが恐怖の対象になっているのだ。その度、自分に言い聞かせる。「もう、いないんだから」「もう、死んじゃったんだよ」パパが聞いたら、怒るだろうなあ・・・と思いながら、そう思わずには、自分を動かす事が出来ないのだ。しおれてしまったお花をどかしたり、熟しすぎた果物をどけたり、祭壇に近付こうとすると、まだ、そんな気持が頭をもたげてしまうのだから、自分でも困ったものだと思う。情けないが、まだまだ、私の中で、御祖母ちゃんに対する思いは消えていない。晩年の御祖母ちゃんへは、ただただ「哀れ」の思いだけだったが、居なくなった今になって、ふつふつと、あの日々が蘇ってしまう。更年期に掛かった、この5年の辛かった思いは、なかなか消えないだろう。多分、この思いが消えるには、同じだけの年月が掛かるかもしれない。私が、もう、初老になってしまうまで、消えないかもしれない。私の時間を返して・・と恨みつらみを言ってみても、その相手はもう、居ないのだから、空しい。もしかすると、この思いを消すことが、神様の私への宿題だったのかもしれないし、御祖母ちゃんとの5年を乗り越える事が、私がこの世に生を受けた宿題なのかもしれない。まだまだ、心の整理はついてない。胸がきりきりとする思いも、まだ、残っている。これが、消えた時、私は、生まれ変わり、宿題を出せる時なのかもしれないなあ。
2006年12月16日
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今日から、パパは通常出勤した。子ども達も、昨日から、学校に行きだした。チビは、お友達にノートを見せてもらい、休んでいた日の授業に、試験に出るところの講義があったっと知り、嘆いていた。オネエは、もっと大変だった。今日から、京都の大学での学会で、二泊三日の大学からの14人の参加で、朝早くから出かけていった。その下準備が出来なかったと、昨夜も遅くまでレポートを書いていた。お気樂なのは、私だけか・・・。御祖母ちゃんがこんな事にならなかったら、昨日から、パパと二人、会社の取引先の会社の80周年記念で、小田原の本社で行われる記念パーティに泊まりでご招待のはずだった。本当なら今頃は、小田原城でも、観光しているはずだった。そして、今日は、革工芸の日だった。小田原に行け無くなったし、行こうかな・・とも思ったが、既に、小田原に行くので、お休みを申し出ていたので、辞めた。お葬式が終って、まだ3日目だし、少し不謹慎かな・・・?と思ったのも理由。でも、正直、私のする事は、あまり無かった。お人形関係の方には、喪中は関係ないので、年賀状を作った。パパも、会社関係は、年賀状を出すそうだし、私も折角時間を掛けて撮影した写真があるので、年賀状を作った。お客様分だけなので、余り数は無かったが、それでも、40枚近く刷った。可愛いお人形の写真半分に、ご挨拶の文を編集し、時間を掛けて作った。うん、なかなか良い。昨日刷った欠礼葉書も一緒に、午後から郵便局に出しに行った。夕方、パパが親会社の方達と忘年会に行くので、出かけた。今、パパは、うちの工業団地の理事長になっている。2年に一回の交代制で、今年と来年、お役に就いているので、こういうお付き合いが大変。会場は、御祖母ちゃんが亡くなった病院の前のおすし屋さん。送って行った。今日は、オネエも居ないし、チビと夕食は二人きり。チビとフライドチキンを買いに行き、二人で、つまんないね~と言いながら食べた。ソロソロお風呂に入って寝ようかなあ・・・と思っていたら、パパから電話。どうにもこうにもタクシーが捕まらない、迎えに来て欲しいと言うのだ。時間は午前1時。おいおい、何だよも~。しかし、タクシーが捕まらないのなら仕方が無いなあ。用意をして駅前に迎えに行くと、忘年会シーズンの街中は、こんな時間なのに、まるで昼間のような賑わい。歩道に溢れた酔客が、道に出てきて、危ない、危ない。そりゃ~、確かにこんなに人がいちゃ、タクシーは捕まらないだろう。ましてや、飲酒運転の規制が厳しくなった。パパだけかと思ったら、なんと、お客様までいらした。ご挨拶して、パパは助手席に、お客様は、後ろに乗っていただいた。あ~、お化粧してきて良かったわ~。うちとは全然違う方向の方がお1人と、うちより、遠い同じ方向の方がお1人。お顔は、何度か拝見している、親会社の方だった。もう、車の中で、ご機嫌、ご機嫌。下ネタは出てくるし、私しゃどうすりゃ良いの?って感じだった。こういう時は、ただただ、ニコニコしながら、運転するに限る。しかし、偉いなあと思ったのは、そんなに酔っていらっしゃるのに、ちゃんと、私に道を教えてくださった。うちと全然違う方向の方のお宅は、なんと、チビのお友達のお宅の直ぐ前だった。そして、お二人を送り終えて、やっと家路についたのは、午前2時近く。やれやれ、パパ、ご苦労様。表の顔のパパはこうして時々見る。ゲームに興じて大好きなお菓子を食べてるだれだれのパパばかり見てると、嫌になっちゃうけど、たまに、こうして表の顔のパパを見るのも、なかなか良いものだな。でも、眠いって!!
2006年12月15日
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今日も、パパは、会社を休んだ。パパがいなくても、会社が回って行っていることが、何にもまして、ありがたい。それでも、取引先から、時々携帯に電話が掛かってくる。昨夜、一週間ぶりに、やっとゆっくり睡眠をとった。本当に爆睡し、今朝は、思い切り寝坊した。本当だったら、昨日、御祖母ちゃんは新しい施設に入所の予定だった。温泉付きの、広い、設備の整った施設だったのに、本当に残念な気持。しかし、御祖母ちゃんには、良かったのかどうかは、今となっては解からない。私達の気持ちとして、残念なだけなのかもしれない。パパと少し表に出た。まず郵便局に行き、年賀葉書を、仏事用の葉書に交換してもらった。初めて知ったが、普通の書き損じの葉書を交換してもらうには、何がしかの手数料を取られる。しかし、年賀状を出そうと買った年賀葉書が、誰かが亡くなって出せなくなり、仏事用の葉書に取り替えてもらう時、全く手数料は取られないのだ。ただ、誰が、何時亡くなったか、その人が葉書を替えに来た人とどういう関係なのか,書く書類を出さなくてはならない。郵政省も、なかなか親切な制度があるんだなあ。一つ勉強しました。帰宅し、お昼にした。父の時は、翌日にお香典の整理をし、パソコンで名簿を作り、市役所に行ったり、銀行に行ったり、本当に、暫く、うちの中には居ない毎日を過ごした。だが、今回は何故か、一番後でするべき、遺品の整理を施設でして、2日も経つのに、お香典にはまだ、手もつけていない。何だか、順番が反対に動いているような気がした。それは、やはり、父の時はパパが率先して動いてくれたからだと思う。今回は、パパの御母さんな訳で、そうそう、パパは父の時のようには動けないのだろう。ましてパパは、口には出さないが、まだ自分を責めている。ずっと、パパがしてきたことは、苦しむ理由なんか無いと思うが、パパの気持の問題だから、仕方ないよね。それじゃ、私は私の出来る事をしようと、欠礼葉書を作り始めた。斎場のHさんによると、15日が、目安なんだそうだ。つまり、12月15日前後に亡くなった家族が一番迷うのが、この欠礼葉書だそうだ。御祖母ちゃんは10日に亡くなり12日に葬儀が済んだ。来て下さった方は解ってらっしゃるが、遠方の方は知らないはず。だから、お年賀状の受付開始の15日がタイムリミットなのだそうだ。会計報告にいらしたHさんに、今日中に作って、明日投函しようと思う・・・と言うと、「あ、それが良いですね。明日なら、まだ、失礼になりませんから」とのこと。そうなんだ。15日を過ぎ、余り遅くなると、もう、投函してしまった方が多いから失礼に当たってしまうのだそう。じゃ、そういう場合どうするのですか?・・と聞くと、「お正月にお年賀状が来た方に、寒中見舞いで、『喪中で、賀状を出せなかった』と返事を出します。」な~るほど。その見本も置いて行ってくださった。また、勉強になりました。一日掛かって、欠礼葉書を仕上げ、印刷した。12日に葬儀が終って、16日に届いたら、少し早すぎないかなあ・・・とも思ったが、文面に「去る10日に・・」と入れればそれも、おかしくないだろうと思った。パパは、お昼からずっと、色々な所にお礼の電話をしていたが、夕方、こんな時に、ゲームをし始めた。きっと、パパも色々な思いで、潰れそうなんだね。良いよ、良いよ、ゆっくり、気持も身体も休めてください。夕食は、皆で、表に食べに行った。沖縄料理。団地の直ぐ下に有るお店。美味しかった。明日は、何をしようかな・・・・。
2006年12月14日
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今日は、お寺からお借りしていた阿弥陀さんをお返しに行く日。この阿弥陀さんの図は、今まで知らなかったが、葬儀の法話の時、お坊さんの話では、何と、あの京都、本能寺から譲り受けた物だったそう。パパが大好きな信長が、命を絶たれた本能寺の阿弥陀さん。本当に、こちらのお寺さんとは、ご縁が有ります。阿弥陀さんをお返しし、お布施をお渡しし、今後の7日ごとのお参りの予定を決めさせていただいた。委細のお話が終わり、お茶を頂く段になり、いつも穏やかな奥様が仰った。「本当に仏縁ですね。お通夜から戻りました息子が『kさんじゃないか、娘さん達は良いお子達だよ』と申してました」と仰った。社交辞令でも、やはり、子供を褒めて頂くと嬉しいものだ。まして、本当に、お通夜のお経の後で、オネエがお茶をお出ししたら、オネエの顔をご覧になり「おっ」と仰られて、ご挨拶された。人の世のご縁とは、本当に味なものだなあ。お寺を後にし、御祖母ちゃんの病院に向かった。取り込んでいて、まだ、入院許可証の書類も出していなかった。入院費やらの費用を支払い、病院を出て、お昼を食べにお蕎麦屋さんに行った。昼食後は、貸衣装を返しに行った。こういう時の雨は嫌だなあ。実は、今日は、パパの47回目の誕生日だったのだ。「俺の誕生日にかからないように、全部終った日になるように、お袋は逝ったんだなあ」とパパが言った。そうかもしれないね。約束通り、テーラーOさんに母からのプレゼントのスーツを取りに行った。そして、お菓子を買って、御祖母ちゃんの施設に向かった。御祖母ちゃんの施設の片付けは、後でも良いと言われたが、パパはまず、片付けてしまいたかったらしい。一応、今月末まで、お借りする事になっているそうだが、こういう施設を、本当に沢山の方がお待ちなのは、充分、身に沁みて解かっているから、見学にいらした方にも、気持ちよく見ていただけるよう、早く、片付けてしまいたかったのだろう。すっかり夜になるまで、片付けは掛かった。御祖母ちゃんは、キャリアウーマンだったから、そのお洋服の数は、並じゃなかった。パパが「皆処分しろ」と言うのだが、ゴミ袋に次々下着などは処分したが、お洋服は、良い物が多く、捨てるに忍びなく、三分の一は段ボールに良い物だけを詰めて、京都の姑の妹に送るようにした。何回か施設のkさんが、美味しい梅昆布茶やら、おしぼりを持って来てくださった。誇りっぽい作業だったので、すぐに咽喉が乾き、ありがたかった。写真や、手紙などはパパが整理し、衣類は私が整理したが、大きなゴミ袋に5つになった。もっと時間に余裕があれば、恵まれない世界の人に送ってあげる方法もあったかもしれないのに、残念だった。作業が終ったのは、もう、6時を過ぎていた。よくお礼を言って、御祖母ちゃんが4年近くお世話になったグループホーム「H」を後にした。そのまま叔母に作った段ボールの荷物を出しに行き、夕食の買い物に行った。パパには、内緒だったが、義妹にケーキを買って帰った時、パパのケーキも予約してあったので、最後にケーキを取りに行き、帰宅した。夜、ささやかな誕生日の御祝いをした。プレゼントを買いに行く暇が無かったので、私からのプレゼントは、年末ジャンボの宝くじ20枚。当たるといいね!!まだまだ、お参りに来て下さった組長さんやら、お友達にお礼に行かないと・・・。気がつけば、まだ、何も葬儀の後処理をしていない。あ~、明日から、まだまだ大変です。頑張りましょう。
2006年12月13日
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朝6時半起床。表は雨。こんな日の雨は、気が滅入る。そそくさと用意し、そのまま葬祭場に行く用意をし、パパに美容院に送ってもらった。シャンプー台に頭を乗せ、シャンプーしていただいている間だけが、ほっと自分に戻る事が出来た時間だった。何だか、こんな時間久しぶりのような気がした。髪をセットし、喪服を着せていただき、草履を履き、荷物を持って表に出て、オネエの車を待った。オネエの車でチビと3人、斎場に着いた。10時から、写真撮影があったので、もう、親戚は揃っていた。挨拶し下に降りて、写真を数枚撮った。二階に戻り、時間まで母と娘達といた。パパは、雑用に走り回っていた。母が、御祖母ちゃんが亡くなる以前からの事を知っていたので、私の体を気遣ってくれたが、長男の嫁、しっかりしなくちゃなあ。お寺さんがいらしたので、パパとご挨拶。今日は、お父様の方。下に降りて、親族の席に座った。パパは昨日、通夜の最後のご挨拶で、御祖母ちゃんの事に触れ、あやしくなったので、今日は、御祖母ちゃんの事は言わないそうだ。葬儀が始まる前、友人達が来て下さった。それまで、気持がしゃんとしていたのだが、彼女達の顔を見た途端、涙が止まらなくなりそうになって、困った。心からの感謝の気持で一杯。本当に多くの方が、ご焼香にきてくださった。喪主のパパに次いで、娘達と焼香した。最後のお別れの時、流石のパパが泣いた。パパ、貴方は、本当に、よく頑張りました。御祖母ちゃんから仕事中に電話があると、必ず出て、施設から電話があると、必ず仕事が終ってから行って、施設の方からも、お褒めの言葉を頂きましたよ。御祖母ちゃんの病院には、眼科、脳外科、内科、循環器科すべて付き添い、本当に、親孝行な息子でした。鬱病が酷くなった情の無い駄目な嫁を頼らず、本当に、本当に、頑張りました。それなのに、最後の日、眼科に行った際、食事に連れて行かなかったと自分を責めて・・。「あんた、ため息ばかりやな」と言った御祖母ちゃんに「あんたのせいや」と言ったから、こんな事になったんだと自分を責めて・・・。そんな事は無いです。絶対に無いです。それは、この5年、御祖母ちゃんを引き取ってからずっと傍で見てきた私が、声を大にして言えます。パパ、本当に、本当に、ご苦労様でした。お花に埋もれた御祖母ちゃんは、とても安らかな顔だった。私は、小さく御祖母ちゃんの冷たい頬に手を添えて言った。「ごめんね」それが、私の精一杯の気持だった。泣き声の中、御祖母ちゃんの棺に蓋がされた。霊柩車には、パパと私が乗った。大きなクラクションが鳴り、出棺した。この葬祭場の良い所は、市の斎場まで車で1分の場所にあること。つまり、歩いていける距離なのだ。すぐに着き、御祖母ちゃんは降ろされ、親族だけのお別れがあり、御祖母ちゃんは、炉に入っていった。私は、何故かこの時、一番崩れそうになった。母が横で支えてくれなかったら、倒れそうになった。「貴方達は、良くやったわよ」と泣きじゃくる私に、母は何度も言った。幾らそういわれても、私自身が納得していなかった。「もう、泣くのやめなさい」母親としての言葉だろう。私も自分が何故、こんなに泣くのか解からなかった。哀しいからじゃない。壮絶な、この5年の思いがすべて噴出したのだと思う。母に背中を擦られて、どうにか、自分を取り戻した。待合の間に、広い部屋に皆さんを誘導し、用意してあったお昼の御弁当を召し上がっていただいた。食後のコーヒーを出す頃に、お帰りになる方に挨拶。そして骨上げの時間になった。御祖母ちゃんの骨は、父のに比べると、もう、バラバラだった。女性と言う事も有るのだろう。順番に骨上げの儀式をして、また、葬祭場に戻り、初七日の法要をしていただいた。夕方、親戚にお花や、果物を持って帰っていただき、後片付けをし、斎場の担当者と話しをし、義弟一家と一緒に着替えて葬祭場を後にした。うちに帰ると、お骨にしている間に、葬祭場の方が娘達と帰宅し、御祖母ちゃんの部屋に祭壇を設え、綺麗にお花などが飾ってくれてあった。御祖母ちゃんのお骨をそこに安置し、皆で順番に焼香した。弟一家と、娘達が買って来たお菓子を食べながら、お茶を飲んで、やっとくつろいだ。終ったね。とりあえず、皆、ご苦労様でした。これから、まだまだ、大変だけれど、頑張りましょう。雨が上がった頃、弟達は、帰って行った。終った。本当に、そんな感じだった。
2006年12月12日
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10時に納棺する予定だったので、8時過ぎまで寝た。お葬式が終ったら、回り灯篭やら蓮の飾りや祭壇を、御祖母ちゃんの部屋に設置しなければならない。今、御祖母ちゃんの部屋は、物置状態だから片付けないとならない。朝食を摂り、パパと二人で片付けた。重いジョーバや、マッサージイス、人形用の段ボール、御祖母ちゃんが京都から持って来た布団袋やら、もう大変だった。こう言う事は、普段からしとくべきだなあ。10時過ぎ、葬祭場に行った。湯かんされ、綺麗にお化粧された御祖母ちゃんを、パパや、義弟たちが持ち上げ、お棺に納棺した。一息ついたので、弟夫婦と4人で、お昼を摂りに行った。一旦葬祭場に戻り、それから、お通夜まで、色色な所に行った。太って父の作ってくれた喪服が着られなくなったので、貸衣装屋さんにまず行き、喪服を借りた。パパは、気持が落ち着かないのだろう、横の書店に入って、色色な本を買った。弟が、タイピンが無いというので、紳士服のお店に行き、買い、一旦帰宅し、喪服の用意をして、美容院に予約し持って行った。この日、義妹の誕生日だった。可哀相にこんな日と重なり、お祝いもできないのはあまりにも・・・と思い、いつものケーキ屋さんでケーキを買って、うちの冷蔵庫に保存したケーキ屋さんは、クリスマス前の華やかな飾り付けで、お客さんも沢山だった。こんな時だが、パパは以前予約した、会社の社員に渡すクリスマス用の可愛いお菓子の詰め合わせの確認をしていた。7時からのお通夜なので、6時には行かなければならない。5時半、用意をし、葬祭場に向かった。控え室に入ると、お棺に入れられた御祖母ちゃんがそこにいた。窓から覗き込むと、まるで生きているように、綺麗な顔だった。パパが呼ぶので下に降りたら、受付をしてくれる従業員の方達が来てくれたので、お手伝いのお礼と、挨拶をした。田舎では町内の組で、受付などをするのが慣わしなのだが、父の時も社葬だったので、受付は、うちの従業員さんにお願いした。今回も、してくださると仰って頂き、パパがお願いした。お顔馴染みの方ばかりで、こちらも安心だった。祭壇を見に斎場の中を覗いた。可愛い色の花で綺麗に飾られた祭壇に、御祖母ちゃんの写真がカラーで、後ろに電気の入った大きな額になっていた。この写真、お義父さんが肺癌の手術をし、一時帰宅になった時、叔父の家の前で撮った、もう、12年前の物で、御祖母ちゃんが、まだ若くて太っている時の写真だった。会場を決める時にパパは、小さい方にしようと言ったが、私は、亡くなって1日経っているので、多分大勢の方がいらっしゃるので、大きな方が良いと少し言い合いになった。結局、大きい方の会場にしたが、義弟が「お姉さんの意見で正解だったね」と言ってくれるほど、沢山の方がご焼香くださった。お通夜は、時間通りに始まった。本当に、あの方も、あの方もいらしてくださった。ありがたい。パパと、義弟が入り口で皆様をお送りした。二階に上がり、明日また来るから・・とお帰りになる、京都から来た親戚達に挨拶し、見送った。弟一家と頼んであった助六を食べ、娘達にケーキを取りに行ってもらった。義妹は、ケーキを見ると、驚き、そして、喜んでくれた。「御祖母ちゃん、何もこんな日に、やっぱり嫁姑だからわざとこの日にって思ってたの」と言って、皆の笑いを誘った。義妹と御祖母ちゃんとは、家が近かった分、私以上に壮絶な確執があった。内心、本気で義妹がそう思ったのも、無理はない。ささやかだが、皆でお祝いした。多分、可哀相に、彼女には一生忘れらない誕生日になっただろう・・・。もう一晩、そこに泊まる弟達にお休みを言い、我が家は、帰宅した。明日は、朝早くから美容院に着付けに行く。早く寝なくちゃ、倒れてしまいそうだ。しかし、もう少し部屋を片付け、午前1時過ぎ、二階に上がった。
2006年12月11日
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明け方、御祖母ちゃんの脈拍の数値は、10台まで下がったが、数値は一向に動かなくなった。朝7時過ぎ、このまま変わらないから、一旦寝に帰ろう・・と言う事になった。後の事を看護婦さんに頼み、皆で病室を出て、帰宅した。弟からの電話で、今日は、御祖母ちゃんの兄弟たちが京都から来る途の事。子ども達も疲れきっていたが、そのまま3時間だけ寝て、11時過ぎ、パパの車と娘の車二台で、家族で病院に戻った。病室に入ると、やはり叔父や叔母たちが来ていた。叔母に「さっき、先生が呼びに来たよ」と言われ、パパと病室を出ようとしたら、医師が入って来た。「残念ですが、心臓の動きが無くなりました。瞳孔も散逸しています。」しかし、数値は、まだ18あるじゃない?「これは、機械の磁気の影響です」それじゃ、私達が帰宅した頃には、もう、御祖母ちゃんは亡くなっていたと言う事か・・・。医師は、目にライトをあて、聴診器を御祖母ちゃんの胸にあて、身を起こすと「午前11時半、死亡を確認しました」静かに言って一礼した。多分、数時間前にもう、医師による死亡確認が出来ていたのだろう。いとも簡単に、形式のように、死亡確認がされた。あっけない一瞬だった。終った。・・・・そう思った。こうして御祖母ちゃんは、旅立って行った。ヘナヘナと座り込むかもしれないと思っていたが、叔母達の手前、気持はしっかりしていた。もし、誰も居なかったら、多分、私は、座り込んでしまったかもしれない。そのくらい、身体中のものが抜けて行った。すぐにパパが、あちこちに連絡をした。叔母達は、食事に出て行った。霊安室に行くのに、バスタオルが無かった。車で来ていた娘に、バスタオルを買って来てもらった。パジャマは、昨日、お見舞いに来てくださったケアのKさんが、すぐに戻り、持って来てくださってあった。看護士さんに身体を拭いていただくため、私達は部屋を出された。暫くして、呼ばれ、皆と一緒に部屋に入った。御祖母ちゃんは、二日間口に入れられていた人口呼吸器を外され、ベッドの上に静かに横たわっていた。その後、霊安室に運ばれ、すでに来ていた葬儀屋さんに託された。御祖母ちゃんの隣には、パパじゃなく、私が座った。病院を出る時、父の時と同じように、医師と看護士さんが、深く礼をして見送ってくださった。パパは、後ろから、自分の車で付いて来た。病院からすぐに葬祭場に行くのは、気持が重かった。葬祭場は、家の直ぐ近くだ。あんなに家に帰りたがっていた御祖母ちゃん。家の回りを回って頂こうとお願いし、御祖母ちゃんと、一旦家に帰り、一週してもらい、父の葬儀をした同じ葬祭場に入った。程なくして、弟一家も滋賀からやってきた。枕教を上げていただくのに、いつものお寺さんに連絡し、御祖母ちゃんは小さな部屋に安置された。お寺さんが、3時過ぎにきてくださるというので、私達は、昼食を摂りに出た。そして、これは、ほんとうに、驚いてしまったのだが、枕教を上げに来て下さったのは、お父様の方ではなく、娘達の恩師。娘達をそれぞれロンドンに引率してくださった、先生だった。今日中にお通夜にするかどうか迷ったが、結局、明日お通夜、明後日お葬式・・・と言う事にした。それからが、大変だった。会場を決めたり、ご焼香の方に持って帰って頂くものを決めたり、お花の手配をしたり、雑事に追われ、気がついたら、もう夜になってしまっていた。いつもの宅配の御寿司を取って、皆で食べ、一息ついた。、義弟一家は、二階の控え室に宿泊する事になり、近所の私達は帰宅した。疲れていたが、夜、死亡届を出しに市役所に向かった。夜の市役所は、工事中であることもあいまって、何処が、夜間入り口なのかわからなかった。駐車場に車を止め、くるくる大きな市役所の庁舎を回って、反対側の入り口から入り、夜間受付に行った。書類を書き、遺体処理の許可証をもらい、また、大きく回って駐車場に戻った。疲れて眠っているような体に、夜風が気持ち良かった。暗い道をパパとスタスタ歩きながら、思った。明日から、大変です。しっかりしなくっちゃ。
2006年12月10日
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朝、8時過ぎまで寝てしまった。着替えて、下に降りると、パパが、犬のジュリアンのトイレの掃除をしていた。最近、ボケてきたのか、きちんとトイレにしなくなり、一昨日は、とうとうパパが切れて、もう、駐車場に出す事にした。朝食にどうかと思ったが、パパはまだ、おでんを食べていなかった。「食べる?」と聞くと「おお」。作った時は、こんな事になるなんて、思っても見なかった。あの日、次の施設に面接に行ったんだった。毎日、火だけは入れていたおでんは、しっかり、中まで味がしみ、この上なく美味しく成っていた。「美味しいね」「旨いなあ」何だか、気持がほっとした。このおでん種を買った日、こんな日に食べる事になろうとは、想像もつかなかった。人の運命なんて、本当に、明日は解からないものだそれからパパは、犬小屋を買いに走った。何もこんな時に・・・と思ったが、私以上に、親思いの人が、そんな事をしているのだから、もう、何も言うまいと思い、そのまま1人で病院に向かった。病室には、もう、義弟一家が来ていた。御祖母ちゃんの状態は、昨日と少しも変わらなかった。昼食に弟一家が出たのと入れ違いに、御祖母ちゃんがお世話になっていたホームの方がお見舞いにいらした。「いかがですか」と仰って、心配そうにしてくださるので、中に入っていただいた。ベッドの傍に立ち、「Kさん、目開けて」とおっしゃって、涙ぐんでらっしゃった。「動くんですよ」と御祖母ちゃんの手を擦ると、御祖母ちゃんは、身体をよじった。それを見て、ケアマネージャーのKさんは、驚き、「こんなに反応するのに、もう、意識は戻らないんですか?」と仰った。誰だってそう思う。私だって、その反応に驚いた一人だから。「奥さん、何か要る物があったら、仰ってください」と言っていただいたので、病院を出る時のパジャマをお願いした。「お体、無理なさらないでくださいね」と仰ってくださり、Kさんと、もう1人のケアの方は帰っていかれた。お昼過ぎ、パパがやっと来た。「どうだ?」「うん、全然変わりないよ」脈拍の数値が、少し下がったくらい。相変わらず、足を擦ると、足を動かしたり、首を動かしたりした。これで、脳死以上なのか・・・。私は、吹っ切れたのか、御祖母ちゃんの手を握る事が出来ていた。意識も無く、自発呼吸も出来ないが、人間の身体は神秘だ、御祖母ちゃんの手は少し汗ばんでいた。医師がやってきた。パパが、聞いた。「死亡の状態とは、どういう状態ですか?」「意識が無い、瞳孔が開いている、心臓が停止しているの3つの状態が重なった時点で、死亡確認になります」今の御祖母ちゃんは、少し瞳孔も散逸し始めていると言う。あと一つ、心臓が止まってしまうと、「死亡」になってしまうのだそうだ。しかし、脈拍は、40まで下がったが、そのまま60~35くらいまで非常に幅のある数値で動いていた。娘達もやってきたので、弟一家と交代に、病院の前にある、洒落たレストランに行った。ここのオムレツ、父が入院している時に、よく持ち帰りにしてもらい、病室に持って行ったものだ。ゆっくり、食事を摂った。長期戦になるのは、誰の目にも明らかだった。夕方、一旦弟一家が、滋賀に帰ることになった。次に来る時は、御祖母ちゃんの命の火が消えているかもしれない事は、覚悟の上だった。看護士の義妹は、実に冷静だった。この状態から、死亡の状態まで、そう変わらないことが解かっていたのだろう。遅くならないうちにと、5時ごろ、病室を出て行った。うちも、一旦、病室を出て、夕食を摂りに出た。何だか無償にお肉が食べたくなり、近くのアジアンカフェに行きお肉料理を食べた。私は疲れると、お肉が無償に食べたくなる。病室に戻ると、御祖母ちゃんの数値は、30~20台になっていた。何だか、このままここにいないと、いけないような気になった。パパが、うちも帰ろうか・・と言い出したが、私はここにいる・・と言うと、じゃ、皆,居ようと言う事になった。娘達は、流石に二日目で疲れたのだろう、御祖母ちゃんの足元につっぷして寝ていたが、私は、うつらうつらしかできなかった。脈拍の数値は、更に下がり、どうかすると、下は18まで下がった。表はまた雨が降り出していた。
2006年12月09日
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昨夜帰宅後、ここ数日のばたばたで、買ったまま開けても見なかったDVDレコーダーをやっと設置、生放送だった嵐くんの出ていた歌番組を初録画し、友人に送るDVDを作る準備をした。パパは理事会の会合と忘年会に出掛けてまだ帰ってこない。うつらうつらしていたらパパの呼ぶ声で目が覚め、時間を見ると午前1時。また、うつらうつらして、チビに起こされ起き上がった途端、電話がけたたましく鳴り飛び上がった。時間は、午前2時過ぎ。チビは、お風呂から出て寝ようとしていた。こんな時間に誰?チビと顔を見合わせた。イタ電?恐る恐る、受話器を上げ、耳に当てると、聞き覚えのある声。御祖母ちゃんの施設のケアマネージャーのKさんだった。「こんな時間にすみません。実は今Kさんがベッドの下で倒れているのが見つかりました。口から戻された跡がありましたので、うちの看護士のOを呼び、救急車を要請しました。多分、脳梗塞だと思いますので、病院が解かり次第、もう一度連絡します」最初は寝ぼけた頭に何のことか分からなかったが、途中から、こりゃただ事じゃないと慌てた。どうしよう、大変だ。すぐに、二階に駆け上がり、寝入ったばかりのパパを揺り起こした。「パパ、御祖母ちゃんが大変」お酒を飲んでいる上、寝入ったはかりだったパパは、「気持ち悪い」を連発、頼りにならない。私がしっかりしなくっちゃ。下に降りて、Kさんの携帯に電話を入れると、搬送先はいつもの病院だと解かった。着替えて用意をし、お酒の残っているパパは運転が出来ないので、私がパパの車を運転し、病院に駆けつけた。チビには、もしもの時には電話するから、取り合えず寝ているように言った。ERの待合室に入ると、施設の夜勤の男性と、看護士のOさんがいらした。ナースセンターに行くと、「待合室でお呼びするまで、お待ち下さい」と言われ、待合室に戻った。夜勤の男性によると、1時の見回りの時は、御祖母ちゃんはベッドに寝ていたそう。しかし、2時の見回りの時には、ベッドの下で倒れているのが見つかったそうだ。隣がリビングで、大きな音がしなかったので、多分、トイレに立とうとして梗塞を起こし、そのまま静かに倒れたのだろうとの事。病院に着くまでは、意識もあったそうだ。「息子さんも、直ぐに来るからね・・と言いましたら、うんうんと頷いてましたよ」。処置室と、レントゲン室をERの看護士さんが、足早に行き来しているのが見えた。2時間ほど待たされ、家族が診察室に呼ばれた。並べられたCTの写真は、素人目に見ても、半分以上に出血の跡が見て取れ、相当悪い状態だとすぐに解かった。「大変厳しい状況です。脳梗塞を起こし、かつ、見ていただけば分かりますように、出血が広範囲に及んで、脳官を圧迫しています。」家族として、どう判断すれば良いのか、混乱した。「滋賀に弟がいるのですが…」と言ってみた。「すぐに来てもらってください。どのくらい掛かりますか?」「2時間ちょっとです。」「う~ん、間に合えば良いんですが…」「え?!そんな状態なんですか!?」「はい、脳死より悪い状態と思ってください。脳梗塞を起こし、そこから、脳出血を起こしています。残念ですが、この状態ですと、数時間しかもたないでしょう。間に合うと良いのですが・・」診察室を出ると、看護士さんに「個室がいいですか?特別室にしますか?」と聞かれた。混乱した頭で、数時間しかいないのならと思い、機械的に「個室で」と言ってしまった。パパは、義弟に電話をしに行った。私も子ども達に連絡しようと、すぐに家に電話したがなかなか出ない。オネエの携帯に掛け続け、ようやく出た。寝呆け眼の声がしたが、状況を告げるとしゃんとし、すぐに来るよう伝えた。そこまで付き添ってくださっていた施設の夜勤の男性と、看護士のOさんに状態を報告し、お礼を言って、帰っていただいた。個室に移った御祖母ちゃんは、呼吸器をつけられていた。「もう、自発呼吸は無いです」先生は、静かな声で仰った。「もう、意識が戻ることは、ないのですか?」「はい、ありません」。直ぐに、オネエとチビが、駆け付けた。個室に移されてからも、何度か医師がやってきて、弟が間に合うと良いが…と心配していただいた。付けられた機械が警報音を発するたび娘達が泣きながら「御祖母ちゃん」と呼び掛けた。御祖母ちゃんに付けられた心電図の機械の数値も、さっきより、落ちてきた。子ども達が「おばあちゃん」と呼びかけると、その度、数値が上がる、それなのに意識はもう、戻る事はないのだ。「お義母さん、頑張って、もうすぐTちゃんが来るから」と呼ぶと、また、数値が上がった。意識は無かった。脳の状態からも、戻る可能性は無かった。おばあちゃんの、この状態を前にし、頭が混乱していた。そこには、この5年、確執の中にいた人が、静かに、命の最後の炎をともして、口に呼吸器をくわえ、横たわっていた。手を握って泣いている娘達の横で、未だ触れる事さえ出来ない自分がいた。意識の無くなったおばあちゃんに、反対に、心の中をみすかされている気さえした。こんな時にまで、そんな事しか考えられない自分が、とても汚いものに思えた。そして、思った。この人の命が尽きた時、私はもしかすると、へなへなと座り込んでしまうかもしれない。おばあちゃんへの色色な思い・・・と言う支えがなくなった時、自分はどうなるのだろう…恐かった、心から恐かった。折角、次の施設が見つかったと言うのに、折角、温泉付きの素敵な施設なのに、もう、御祖母ちゃんは入所する事は無いのだ。3年お世話になった施設から移り、おばあちゃんとの関係も、仕切りなおしだなあ・・と思っていたのに・・・。滋賀の弟はすぐに家を出たらしく、「Tさん、かなり動揺して出て行きました、運転が心配ですので、もしもの事があってもそちらに着くまで、電話はしないで下さい」と義妹から電話があった。雨の夜道だ、女房として、心配して当然だ。表が白々と明け始めた頃、義弟が到着した。疲れた顔をしたまま、おばあちゃんの顔に近付き「お母さん、お母さん、遅くなってごめんな」と呼び掛けた。姑が最後まで、心配ばかりしていた息子の呼び掛けにも、機械だけが反応した。聞こえているのだろうか…しかし、夜が明けても、お昼になっても、御祖母ちゃんは、そのままだった。確かに3時間ごとに、脈拍の数値は少しずつ落ちていくが、呼吸器をつけられ、眠ったようにそこに生きていた。・・・と、見間違いか、御祖母ちゃんの足が動いた気がした。まさか・・。お昼近くになっても、あと数時間と言われたおはあちゃんの状態は変わらなかった。パパと義弟は、外来が始まって、がらがらになったERの待合室に睡眠を取りに行った。娘達も、ベッドの横で、椅子に座ったまま、うたた寝していた。こんな事なら、特別室を頼んだら良かった。そうすれば、簡易ベッドもあったし、ソファもあったから、交代で仮眠できたのに。パパが看護士さんに、特別室に移せないかと問うたら、「危険ですので、無理です」と言われた。当たり前か・・・。おばあちゃんの足を、タオルケットの上からそっと擦った。途端、膝を曲げた!えっ!もう一回擦った。今度は、確かに動いた。「動いた!」私の声に目を覚ました娘達も確認した。しかし、巡回に来た看護士さんは、つれなく言った。「筋肉が、外的刺激に反応しているだけなんですよ」なんだ、そうなんだ…。夕方、義弟家族が到着し、おばあちゃんに話し掛け、呼び掛けると、機械の波形は、激しく変化した。甥っこも、姪っこも、泣きながら呼び掛けたが、堅く閉ざされた目は、開くことは無かった。何度か先生が来てくださって、仰った。「こんな事は珍しいです。何時間もこんな状態なのは、相当、心臓の強い方なんでしょうねぇ」御祖母ちゃん、身体に気をつけ糖尿病にならなかったら、長生き出来たかもしれないのに・・。そして、また夜になった。交代で食事を摂ったが、流石に皆、昨夜寝ておらず、疲れていた。看護士の義妹を残し、義弟達は、駅前のホテルに部屋を取り病院を出た。パパと相談し、私たちも一旦帰宅し、睡眠を取ることにした。午後11時近く、帰宅。長い長い一日が過ぎた。これからが、大変な予想はついた。眠かった。お化粧も落とさず、そのまま二階に上がると、ベッドに倒れこみ、眠りに落ちた。折角、次の施設が見つかったのに・・・。折角、温泉に入れて、おばあちゃん、喜ぶと思っていたのに・・・。なんて事だろう・・・。
2006年12月08日
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ここ数日の疲れから、朝、起きられなかった。朝からくもり。今日は、午後から、長島の老健に行く予定。午前中に、今日こそ東京で買って来たおでんだねで、おでんを作ろうと思った。しかし、いざ作ろうとしたら、大根やら、こんにゃくが無い。銀行にも行かなければ…と思いつつ、なかなか表にでられない。午前中、パパは御祖母ちゃんを連れて眼科に行った。御祖母ちゃんが病院に行く時は、いつも、3人で昼食に行く。しかし、12時近くになっても電話が無かった。10時半にパパから、仕事でなかなか抜け出せなくて、今から遅くなったが病院に御祖母ちゃんを連れて行くと電話があったきり。本当は、私が連れて行けば良いのだが、ここ1年、もう、御祖母ちゃんは、私の言う事など聞かなくなり、以前のように、車を取ってくる間に何処かに行ってしまったりするので、パパが連れて行くようになった。1時過ぎ、今から戻ると電話が入った。今日は、3時から長島の施設のケアマネージャーのFさんとの約束があるので、御祖母ちゃんのお昼は、施設に頼んだそう。こりゃ大変だー!おでんがまだ作ってない!慌てて近くのスーパーに走った。だいこん、こんにゃく、牛スジ、それにレトルトのカレーを買って表にでたら、パパの車。一緒に帰宅し、私はすぐに、買って来た大根やこんにゃくを切っておなべにつぎつぎ放り込み、おでんだねも、入れて行ったが、やはり、おでん種の内、揚げていないものは痛んでしまっていた。仕方ないよね。おばあちゃんの事で駆け回っていて、今日までばたばたして、とてもおでんなど作っている余裕など無かったんだから。でも、気持ちは最低…煮込み始めて、私もカレーを食べ、二階に上がり、出掛ける用意をした。おでんの火を消し、パパと振り出した雨の中、長島に向かった。前回は一般道路から行ったので、1時間近く掛かったが、今回は、30分ほどでいけた。これなら、そう遠くなく、施設に入れれば、御の字だ。小雨降る中施設に着くと、応接室に通されFさんが、やってきた。とても体の大きな、柔道でもされていたのじゃないかと思うような体つきの、30代前半の男性。こちらの事情を、熱心に聴いてくださった。約1時間、色色な話をさせて頂いた結果、入所がほぼ決定した。9日にFさんが、今の施設に御祖母ちゃんの面接に行き、13日に、入所と言う予定になった。あ~、良かった。こんな事って、奇跡に近いことだ。何年も待ってらっしゃる方がいるのに、なんとまあ、ありがたい事だこと。Fさんによくお礼を言って、施設を出た。すぐに、今の施設のケアマネージャーのKさんに電話を入れた。「え?!本当ですか?すっごいですね~、Kさん、本当に、運が良いですね」Kさんも、驚いていた。そりゃそうだ。こんなに、とんとん拍子に事が運ぶのは、奇跡に近い。何年も待ってらっしゃる方も居る中、すぐに、決まったのだから。今の施設では、もう、面倒が看られない状態になっていたから、暫く、精神科に入ってくれと言われ、薬漬けにさせるのが、どうしても嫌だった。その入院の日が11日の予定だったのだ。ギリギリセーフで、精神科に行かせずに済んだのだ。長島の施設は、なかなか良い施設だった。お風呂も、天然の温泉だ。御祖母ちゃん、喜ぶだろうなあ。私もパパも、ほっと胸撫で下ろした気持だった。今の施設には、本当に、お世話になった。ありがとうございました。雨はまだ上がらなかったが、私もパパも、ほっとした嬉しさで一杯だった。帰宅後、パパは理事会の会合と忘年会に出かけ、私と子ども達は、おでんを食べた。うん、やっぱ、美味しい!!おでん種は、ここに限ります。
2006年12月07日
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朝から人間ドック。今年で、私は、10年目、10回目の人間ドック。おかげさまで、大した難点も無く、今日まで来た。体は弱いが、病気は無い。肥満だけが、悩みの種。しかし、人間ドックも、ある意味、自己満足にしかならない事は、父の事で思い知らされた。父は、人間ドックも、きちんとしていたのに、血液の癌、骨髄異形症候群で亡くなった。人間ドックでは、内蔵しかわからない。血液検査もあるが、検査項目に当てはまらなかった病気だったから仕方ない。でも、やらないよりは良いと、今年もパパと二人受けた。10回目の記念とかで、ペアのステンレスのカップを頂いた。パパは、今回で15回目なのに、「俺の時は、何もくれなかったぞ」(笑)バリウムも、へいちゃら。ただ、去年と違ったのは、血圧が高かった事。最後の診察で、夫婦揃って呼ばれて、また駄目だしされた。パパが「こいつ、本当に、あまり食べないのに、どうしてこんなに肥満になるんでしょう」と聞くと、やはり「この薬の副作用ですから、どうしようもないんですよ」「どうしたら、痩せますか」半分、泣き出しそうな気持で尋ねた。「痩せるのは・・・・、無理ですね~」死刑宣告された気分。またまた、医者に言われちゃったのだ。痩せられないって・・。努力しても、駄目だって・・・・。私はどうすりゃ良いんだろう・・・・・。まだまだ暫く、この自分に不本意な体と、付き合わなければならないのだ。辛い。着替えて、食事を摂った。ここ数年、すごくドックが混んできた。パパと行き始めた頃は、一日、20人ほどしか居なかったから、予約も直ぐ取れた。しかし、ここ数年、座る椅子もないほどドックを受ける人が増えてきた。今回も、本当は来年の二月の予定だったのが、キャンセル待ちでキャンセルが出て今日になった。それだけ、健康を気にする人が増えたのだろう。この病院の横にも老健が付いているので、ドックが終ってから健康増進センターからそちらに行った。相談員に今の状況を話し、申し込みをした。やはり、現在の待ち人は、50人以上だそう。ここは、状態じゃなく、申し込み順だそうなので、あと5年以上は駄目だろう。そこを出て、一度、長島を見たいと思ったので、そのまま長島の老健に向かった。長島。長島温泉と言う、巨大レジャー施設のあるところだ。遊園地、温泉保養施設、ホテル、巨大アウトレットショッピングモールがある。結構、一流の有名な歌手が来るので、関西方面から観光客が押し寄せる。その山側に病院はあった。何のことは無い、従姉妹の家から歩いて直ぐの場所だった。しかし、突然訪れたので、担当者は不在。当たり前だ。仕切りなおしで、家の近くに引き返した。それから、N病院の老健、K病院の老健、S病院の老健を次々訪ね、こちらの事情を話し、相談し、申し込んだ。もう、表は暗くなり始めていた。最後に、4年前に申し込んでいた近くの特養E苑にもう一度相談に行った。E苑を出る頃は、もう、表は真っ暗、時間は7時を回っていた。パパも、私もくたくたになった。まだまだ、始まったばかり。明日は、長島のケアマネージャーに会いに行かなくちゃ。パパ、頑張ろうね。
2006年12月06日
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今日は、パパと午前中にパパの洋服屋さんに行き、仮縫いをしてもらい、直ぐ横の市役所に行く、予定。お昼前、一旦会社に出ていたパパが戻ってきて、二人で、資料を持って出かけた。お蕎麦屋さんで昼食を済ませた。テーラーOさんは、手際よく、仮縫いをして行った。母からのバースディプレゼントだった。母は、父が亡くなってから、父の葬儀前後の色色大変だった事務処理を、ほとんどパパがしてくれたのに感謝して、パパに、スーツを作ってあげたくて仕方が無かった。所が、忙しいパパは、なかなかOさんの所に行く暇が無く、昨年は、間に合わず、ようやく念願かなって、今年のバースディに間に合うように、作ったのだ。少し太ったパパが、仮縫いの出来上がったスーツを着ると、物凄く、大きく見えた。Oさんのお店を出て、隣の市役所に入った。介護福祉課は、3階。エレベーターに乗らず、階段で上がった。福祉課に行くと、担当の方に事情を話した。昔の担当だったIさんは、非常に熱心な方で、別室に私達を招きいれてくれ、親身に話を長い時間聞いてくださった。しかし、何処かの介護施設にヘッドハンティングされたらしく、昨年から、もう、いらっしゃらなかった。今日の担当のHさんも、熱心に話しを聞いてくださった。こちらの事情も解ってくださり、色色な資料を検討してくれ、出た言葉、「あ、長島が空いているかもしれないです」直ぐに、電話を入れていただいた。何と言う、幸運。やはり、空いているというのだ。ただ、ここは、我が家から、遠いのが少し躊躇した理由。それでも一応、他の老健も申し込んである特養も、もう一度事情を話そうと、Hさんに資料を頂き、パパと市役所を後にした。もう、表は、暗く成っていた。明日は、二人で人間ドックだから、少し、近くを探してみよう。これからが、大変だ。頑張らなくちゃね。
2006年12月05日
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朝、ゆっくり起きて、食事を摂りに下に降りた。今日は月曜日。コートやマフラーに顔を埋めながら、足早に、出勤する人たちが、ガラスの向こうに見えた。私の他には、小さな子を連れた女性が、一組いただけ。荷物を段ボールに詰め、昨日、品川の駅店で買った母へのお土産も入れ梱包。品川の駅は、改札の中にショッピングモールが出来ており、以前母と来たとき、買ったおせんべいのお店がお気に入り。ここの揚げ海老せんが、超美味なのだ。家族には海老せんを、母は普通のお海苔のおせんべいが好きなので、それにした。11時、ホテルを出て、渋谷に行き、井の頭線でいつものように吉祥寺に。そこからバスで10分。伯母の家に着いた。伯母は、思ったより元気で、安心。従姉妹と、伯母と楽しいおしゃべり。伯母が、最近、写真を整理したとかで、私の写真を持って来てくれた。そこには、まだ、若くて、綺麗な私がいた。この「綺麗」と言うのは、若さゆえの、20歳前後の誰でも女性が一番綺麗な時期の「綺麗」。何だか、凄く嬉しかった。最近、色色な雑事に追われて、自分の顔をまともに見たことが無い。そこにいるのは、一番輝いていた頃の自分だった。未来がまだまだ一杯あって、恋もしていただろう若い私だ。こんな時間もあったんだなあ・・と、今さらながら、思った。今日は、従姉妹が出かけるので、早めに失礼した。また、バスに乗って、吉祥寺に戻った。従姉妹が用事の無い時は、三鷹の駅に送ってくれるのだが、この三鷹の駅前から、吉祥寺の駅前までが、私の出た中学校の学区。吉祥寺で少しお買い物。朝が遅かったので、3時を過ぎていたが、小さなステーキハウスに入り、美味しいお肉を頂いた。いつも行く、駅前のフォルクローレのお洋服やさんに行くと、超、可愛い赤い生地に一杯の刺繍、ボアの裏地の暖かそうなべストがあったのでゲット。これは、チビに、その横に、オネエの気に入りそうな、素敵な柄のベロアのワンピース。これもゲット。ついでに、フリンジの付いた変わったデザインのカーディガンを見っけ。これは私のためにゲット。このお店、本当にいつも面白い物があるから、大好き。商店街に戻って、おでん種を買った。ここのおでん種じゃないと、美味しいおでんが食べられないのだ。本当に、ここのおでん種屋さんは、美味しいのだ。こういうお店は、東京にしかない。家の近くで、幾ら値段の高い紀○のおでん種を使っても、このお店のには叶わない。だから、冬に吉祥寺に帰って来ると、必ずここでおでん種を買って帰るのだ。しかし、ものすごく、重いのが、玉に瑕。まあ、仕方ないなあ。今日は、少しいつもより早く、帰宅するつもりだったので、そのまま吉祥寺の駅から、名古屋まで切符を買い、電車で東京駅に出た。最近は、品川ばかり、乗降していたので、東京駅は、久しぶり。車窓から、大好きな東京タワーの綺麗なライトアップを見ながら東京を離れた。夜8時過ぎ帰宅。少し疲れました。でも、楽しかったなあ。明日から、また、御祖母ちゃんの施設探しです。頑張れる元気、貰ってきました。大ちゃん、嵐友の皆様、ありがとうございました。
2006年12月04日
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今日は、待ちに待った、大ちゃんの「テンセイクンプ^」の舞台の日。パパに駅まで送ってもらい、電車に乗った。公演は、夜6時からの回だったが、嵐友達と、久しぶりの「クンプーランチ」、楽しみ。昨日までの疲れから、新幹線の中は爆睡。品川に着いて、そのまま渋谷に行き、青山劇場に向かった。向こうから、Kちゃんが、手を振って来てくれた。「久しぶり~、お元気でしたか?」二人とも、笑顔笑顔。そのまま私は荷物をホテルのフロントに置きに上がった。青山劇場は、上が、こどもの城と言う施設になっている。週刊誌を読む方には、皇室の愛子さまやらが、遊びにいらっしゃる所とご存知だろう。さらにその上に、ホテルがついているのだ。ここが、お値段が凄くお値打ちで、その上なかなか綺麗で、一昨年の「ウェスト・サイド・ストーリー」の時に利用してから、お気に入り。暖かいのでコートを脱いで、ストールだけにして下に降りた。いたいた、皆揃っていた。みなにご挨拶して、近くの洒落たイタメシ屋さんへ。本当は、もう二人メンバーの予定だったのだが、長野からの電車が、雪で遅れて、参加できなくなっちゃった、残念。美味しいパスタや、ドルチェを頂きながら、楽しいお喋り。Kちゃんのお土産を頂いたり、嬉しい事も一杯。お1人、初めてお目にかかった方がいらした。きっとTさんのお友達なんだなあ・・・と思って、ずーーっと居た。その方だけ、マチネだったので、先に出ていかれた。そこで、大失敗。「今の方、どなた?Tさんのお友達」と問う私に、一瞬みなの目が点になった。そして、次に、爆笑が起きた。「いっこさんが、お誘いしたBさんよ~」「!!!!!!!」そうだったんだ~。お顔を知らなかったし、こちらも何も伺わなかったので、Bさんは、いらっしゃっていないとばかり思っていた。「わあ~、どうしよう・・・失礼しちゃったよ~」と落ち込む私に、皆は、まだ、爆笑中。Kちゃんに「もう、ほんとに面白い、旦那様は、大変だわね~」としみじみ言われちゃった。あ~、本とに、そうだよな~。てっきり、Tさんのお友達だとばかり思っていたから、あまり、お喋りもしなかった。自分からお誘いしといて、物凄く失礼しちゃいました。申し訳ないm(__)m一旦、お店を出て、解散。私は、いつものように、青山から表参道の「HANAE・MORI」ビルへ歩いていった。ドールのお洋服を探しに行ったのだが、お値段と、あまり数がなく、そのまま帰ろうとしたら、ウィンドウの中に鎮座する可愛い子を見っけ。伺ったら、EJの3号だそう。随分、お値打ちになっていたが、今は、資金不足。でも、とても可愛い子だった。ホテルの部屋に戻り、少し休憩し、公演の時間になったので、下に降りた。並んで中に入り、パンフレットを買おうとしたら、小さな人垣が出来ていた。ふとそちらを見ると、見覚えある人が椅子に座っていた。あっ、目黒兄やんだ!!!皆、携帯で、写真を撮っている。ちょっとしたスターだ。私も、記念撮影。ついでに、一緒に記念撮影。その間中、目黒兄やんは、汗をふきふきしていた。中に入ると、程なくして開演。「テンセイクンプー」最初は、これまでの「センゴクプー」「バクマツバンプー」のパロディを織り込んだり、筋も、あまりわからなかったが、後半、休憩を挟んで、物凄いことに気がついた。大ちゃんが、タイムスリップして、あだ討ちをやめさせる、無益な戦いで、人の命を失うのを、止める筋なのだが、大ちゃん演じる、「薫」の意思に反し、衣装を着けると、色色な動きをしてしまうのだが、これは、すごく、難しいお芝居だと思った。物凄く早い動きをするのだが、それは、「薫」の意思ではなく、身につけた衣装が勝手にしてしまう・・・と言う設定だから、物凄く早い動きの殺陣にしても、カンフーにしても、自分の意思ではないように演じなくてはならない。だが、大ちゃんは、実に旨く、表現できていた。凄い!!。これは、身のこなしの軽い大ちゃんにしか出来ない離れ業だと思った。それに気がついてから、大ちゃんの動きに、目が奪われた。この人、本当に、物凄い才能を持っている人なんだと思った。パンフレットにも、作家のきださんが、「大ちゃんが、動けることが前回の『バクマツバンプー』で解かっちゃったので、今回は、可哀相だけど・・」動く舞台にしたそう。「薫」になりきった大ちゃんが、感きまわって涙を流すシーンも、綺麗な涙が大ちゃんの頬を流れ、感動的に演じた。今回の席は、前から10列以内だったので、大ちゃんの表情が良くわかった。カーテンコールは、4回。3回目に主たる出演者と出てきて、客席に向かってご挨拶。「今日で3回目、終りましたが、どうでしたか?良かった?」会場から、大きな拍手。共演の秋本奈緒美さんも、綺麗な笑顔。「まだ始まったばかりですので、怪我をしないよう頑張ります」そして、幕が閉まったが、拍手が鳴り止まない。4回目の幕が上がった時、悲鳴に近い、歓声が上がった。大ちゃんは、セットの上に乗って、皆にいつもの可愛い笑顔で、応えてくれた。幕が閉まり始めると、両手で思い切りVサインをしたり、手を振ったりしながら幕と一緒にしゃがみ、皆から見えるように、どんどん小さく座って見えなくなった。大ちゃんらしくて、とても嬉しかった。表に出て、大ちゃんの大きなポスターを撮ったが、上のライトが邪魔になり上手く撮れなかったので、明日、もう一回撮ることにし、夕食は、隣の青山のビルの地下で、摂った。ホテルに戻ったのは、もう、10時過ぎ。流石に疲れた。明日は、伯母に会いに行こう。大ちゃん、お芝居素晴らしかったです。大阪まで、半月以上ありますが、どう、練れていくでしょう。楽しみです。
2006年12月03日
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パパと、施設の看護士さんと御祖母ちゃんと病院に行った。もう、歩けない御祖母ちゃんは、車椅子に乗った。風邪が流行っていて、午後が休診の病院は、物凄く混んでいた。暫く待たされ、呼ばれた。中に入ると、先日大きな病院で撮った脳のCTの写真があった。「こうして見ますと、以前の写真と変わりないですね」施設の看護士さんは、「意外」と言うお顔をなさった。「血液検査の結果も、良いですね。血糖値も低いですし、問題はないです」実は、今日来たのは、施設の看護士さんが、今の状態では、もう、今のグループホームでは、お世話が無理だと踏んで、この病院で、老健の紹介をしてもらおうと思っての事だった。しかし、老健は、家族で探してください、見つかれば、紹介状は書きます・・とのことだった。そして、先生のご意見としては、転ぶのは、メンタルな部分の問題かもしれないので、また、精神科への入院を考えるのも、方法だと言う事。看護士さんは、納得できない様子だった。そのまま4人で施設に帰った。御祖母ちゃんにお昼ご飯を食べさせている間、リビングで、ケアマネージャーのKさんも交え、話し合いになった。「私は、Kさんをこのままここに置いておくのは、可哀相だと思います」と仰る。それは言われなくても重々承知だった。元々グループホームは、自分で食事が出来、自分でトイレが出来、自分で入浴ができるのが、入所の条件だった。今の御祖母ちゃんは、どの条件も満たしていない。「Kさんこそ、こういう方こそが、老健に入るべき人なんです」言われなくたって、解っている。だが、空きが無いのだから仕方が無い。しかし、最初にこちらにお世話になった時は、要介護度2だったが、今は、特別養護老人ホームに入れる条件の介護度4に上がっている。そこで、明日から、老健と、特養を探そうという話になった。ケアマネージャーのKさんに後の事をお願いし、施設を後にした。「私、明日、行って良いかなあ」。恐る恐る言ってみた。「おお、良いぞ、俺も、明後日ゴルフだし、嵐君に元気貰って来いよ」「うん、元気貰ってまた、火曜から頑張るよ」良かった。これで行けます。ここのところ、ずっと、鬱状態だった。御祖母ちゃんの事も気になってはいるが、このままだと、とても、頑張れそうも無かった。ここで、一息入れ、また、現実の厳しい世界に戻ろう。その前に、嵐君に、大ちゃんに元気貰ってこよう。午後から、大変だった。明日の切符を買いに行き、ご入金のあった人形の梱包、発送、書籍の発送をしたり、銀行に行ったり、買い物に行ったり、結局、帰宅したのは、午後7時過ぎ。それから、夕食を作り、明日の用意をし始め、寝たのは夜中の2時。明日、疲れるかも・・・・。
2006年12月02日
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ブログを書こうと思えないくらい、ここのところ、気持が落ち込んだ。1日、御祖母ちゃんの施設からパパに電話があった。とにかく来てくれと言う。最近、認知症がますます酷くなり、夜、壁を叩いて「たすけてー」と叫ぶそうだ。先日、御祖母ちゃんと食事に行った際、以前より症状が重くなっているなあとは思った。支えが無ければ、歩けないし、食事をしていても、ポロポロ食べ物は落とすし、お箸もまともに持てていなかった。こちらが何か言えば、受け答えは出来るものの、黙っている時は、放心状態の時も多い。「明日、病院に一緒に来てくれるか」とパパが言うので、「うん」と答えた。「そんなに悪いの?」と聞くと、「もう、危ないって言ってる」とパパ。危ないって、どう言う事?聞けば、施設の中で、良く転ぶという。そりゃ、あれだけ歩けないのだから、そうだろう。しかし、法改正で、この春からグループホームにも看護士が常駐することになった。その看護士さんが、これだけ転ぶのは、脳に障害が新しく出来たのじゃないかと仰るのだ。また、脳梗塞?もしそうだったら、これで4回目。気持が一度に重くなった。明後日、大ちゃんの舞台に東京に行くつもりだったが、行けなくなるかもしれないなあ。でも、パパの前では言えない。一昨年のニノの舞台の前日、低血糖症を起こし、救急車で運ばれ、結局、行けなかった。チケットを無駄にしてしまった。またか~。内心そう思ったが、仕方が無い。腹の立つことは山ほどある。あれほど、糖尿病だから、食べるのは控えて・・と言っても、「ええやん」と言い、わがまま放題食べていた。「糖尿病にクロレラが良いから飲んでください」と言っても、「そんなもん」と一向にこちらの言う事を聞き入れなかった。何か言うと「あんたらの世話にはならへん」と言い、憎まれ口を叩いていたのに、結局、皆に迷惑を掛けている。もう少し、健康に留意し、子供に迷惑を掛けないようにしてくれていたら、「あんなに、頑張ってくれたのに、こうなったのだから」とこちらも快くお世話が出来たのに。いつも、いつも、そういう思いがある。あんなに、こっちが健康に気をつけるよう言っても、全く聞き入れようとせず、したい放題して、何故、こちらに尻拭いが来るのか・・・と本当に腹が立った。だが、今となっては、ただただ、「哀れ」の思いしかない。自業自得で、今、充分、本人が苦しんでいる。認知症は、けっして、本人が何もわからなくて幸せなんかじゃない。あんなになっても、プライドも残っているし、どんなにお世話していただいていても、「ありがとう」と言えない ハングリーな気持だけしかないのだ。本当に不幸だ。それが、たとえ、姑のように、自分が招いた結果でも。明日、病院に行った結果で、舞台をキャンセルしなくちゃなあ。チケットは、仕方が無い。気持、まだ、立ち直って無いのになあ・・。
2006年12月01日
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