2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
全33件 (33件中 1-33件目)
1
10月も今日で終わり。大好きな季節に、好きな事を一杯したいのに、人形のことをしたいのに、外野がうるさい。3日に父の3回忌をする。その準備で、精神的にバタバタしている。母は、もっと気楽に考えれば良いのに、あ~、あれはどうしたら良いの、これはどうしたら良いのと、自分で考えられなくなると、直ぐに私に電話してくるから、こっちも、落ち着かず、もう、いい加減にして欲しくて、ついつい「いい加減にして!」と怒鳴ってしまう。日に何回もの電話に、そのたび、仕事の手を止められる。全く、こちらの都合も考えずに、電話してくるのだから、参る。どうしてそう、良い顔ばかりしたいのか解らない。自分の出来る事しか出来ないのだから、自分の身の丈で考えれば良いのに、あれもこれも完璧にしようとし、自分で自分の首を絞める。人のためじゃなくて、結局、自分のためなのだ。そう責めると、自分は年を取って、物が考えられないんだから、仕方が無いでしょうと言う。そうなら、辞めりゃ良いじゃん、出来る事だけすりゃいいじゃん・・と言うと、怒って電話をガチャンと切る。やってらんないっす。とうとう本格的にぶつかって、パパの登場。母も私の言う事は聞かないが、パパの言う事は素直に聞く。パパの「お父さんの3回忌を無事終えることだけが、お母さんの役目じゃないんですか」の当たり前の言葉に、やっと納得する。自分が留守した時の、40過ぎの弟の食事の心配までする。男の子って、そんなに可愛いのかなあ。「そんなもの、私だって、そこら辺で食べますよ」とパパに言われると、「あの子、今免停中で、足が無いのに、どうするの」と来る。免停になったのは自分の責任だし、タクシーだって、電話すりゃ直ぐに来るし、駅まで歩いて電車の乗れば何処にだって行けるのに・・・。パパがそこまで言うとやっと納得する。そこからなのだ。そのレベルの話から、説得しなくちゃならないのだから、こっちはもう、精神的にクタクタ。こりゃ、気持引き締めていかないと、こっちがぶっ倒れちゃう。折角の父の3回忌・・・この言い方は可笑しいな、もとい。心静かに父の3回忌をむかえたいのになあ・・・だな。
2006年10月31日
コメント(0)
どうして、なかなか片付けられないのか、考えた。まず、収納場所が少ないことが第一の理由だなあと気がついた。我が家は、キッチンのほかに、8疊の和室が2つと、洋間が大小4つある。押入れが有るのが、この和室2つと、私達の寝室に、上半分だけの押入れが有るだけ。そのうち一つには寝具が入っている。洋間には、収納場所は皆無。二階の6疊の洋間にロフトが付いていて、その奥が、屋根裏収納になっているが、子ども達のおもちゃやら、何やらで、ロフトの奥にあるから、使い辛く、ロフトに上がるのにも梯子段なので、全く数年何も出し入れしていない。ロフトは、3畳ほどの畳で、書庫にしているが、今は、私の人形の入れる段ボールやら、緩衝材で一杯。押入れって、古いアルバムを入れたり、季節外れの衣類を入れたり、クリスマスの飾りを仕舞ったり、座布団をしまったりする。もうそれだけで、一杯なのだ。衣装ケースも、二つしか入る余地が無い。だから、衣類を仕舞う場所が無いのだ。これは本当に困った状態だなあと思った。そこで、娘達の勉強部屋が、10疊ほどの洋間なので、置き押入れを購入した。しかし、その下は、お客様のお布団で一杯になった。上段は、彼女達の衣装ダンスになった。この布団も、布団圧縮袋を購入し、出来るだけ小さくして入れた。ところが、最近、威力がなくなって、膨らんできて、押入れのドアが開いてきてしまった。本当に、片付かない。物が多すぎるのは、私も認識はしている。捨てれば良いのだが、なかなか出来ない。なぜなら、使うからだ。あ~、この状態を何とか打破しないと、本当に、ゴミ屋敷状態になっちゃう。ADHDの頭で、それを整理するのは、本当に至難の業だ。
2006年10月30日
コメント(0)
高校生の未履修の教科の事が、話題になっている。何だか、日本中に波及しそうな勢い。それだけ、高校が大学受験の予備校化していると言う事なのかなあ。それだけ、大学に行く学生ばかりなのだろうか。日本もアメリカのように、入るのは、簡単にして、卒業がなかなか難しいようにすれば良いのに。・・・と言ったら、パパに、「日本は土地が無いから、大学自体が小さくて、皆が皆、大学に来られても、入る教室がないんだよ」と言われた。なるほどね~。そう言えば、モード学園は、入学が簡単だった。物凄い高い入学金を取られ、毎日、教室に入りきらない学生が出て、詰めて詰めて最初は座っていた。しかし、本当にこれでもかと、毎授業で凄い量の宿題が出され、ゼイゼイ言いながら、週に2日徹夜して提出していたが、気が付くと、6月頃、教室が普通の状態になり、あんなにいたはずの人が、いなくなった。どうしたんだろうと思っていたら、その頃、学園長から父兄に「確かにお子様をお預かりしました」と言うような確認証みたいな手紙が届いた。ああ、この2ヶ月でふるい落としたんだなあと思った。大学もそうすれば、今回の事のような事は無くなるのじゃないかなあ。そうして、ふるい落とされた学生をもう一度、自分に合う程度の学校に入れるように、二次試験を6月くらいにもう一回したら、どうだろうか。昔は、履修に関して、こちらの選択権は無かった。私が高校の頃は、時間割が決まっていて、サボるとめちゃめちゃ先生に叱られた。当たり前のように、全教科の授業に出た。2年生から就職組と進学組に分けられ、数学の授業だけが違ったように思う。本当は、世界史や、地理などが今一番、実生活で役立っているのになあ。そう言えば、娘達は、文系の私大なので、二人とも数学は採らなかった。私も文系だったが、数学はあったし、大好きな授業だった。必ず答えの出る、数式が大好きだった。因数分解なんて、今はもう出来ないが、答えが出た時の快感がたまらなく、好きだった。しかし、今は、何の役にも立っていない。これからどうなるのか、現役高校生がいない我が家では、実感が無い話だが、孫のために、良いようになって欲しいなあ。
2006年10月29日
コメント(4)
今日は、パパと約束どおりに、「父親たちの星条旗」を見に行った。同じく、今日から、翔君の「木更津キャッツアイ」が始まる。シネコンのロビーには、若い女の子が一杯。壁にも、キャッツの面々の映画のポスターとはまた違った写真のポスターが沢山貼られていた。心の中で「翔くん、今日は、別の見に来たの、翔君のはまた来るからね」と言いながら、中に入った。指定の切符は、前日、パソコンから購入。席に座ると、次々入ってくる観客は、皆、老齢のご夫婦や、参戦したのだろうなあ・・というお歳のご老人ばかり。どう見ても、嵐ファンで見に来ているのは、私くらい。驚いちゃった。これほど年配の方ばかりとは・・。始まった。「最後に『硫黄島からの手紙』の予告編があります」とテロップ。最初は、老齢の男性が、うちの中で倒れる場面から。これは現在だろう。いつの間にか、硫黄島の場面になって行った。戦争映画は、何回見ても、嫌だ。物凄い数の軍艦やら、米兵やら、戦車に囲まれてしまう硫黄島。アメリカは、簡単に硫黄島を陥落できると思っていたらしい。しかし、そこは「硫黄島からの手紙」で描かれるのだろうけれど、思わぬ苦戦を強いられる。玉砕を誓った日本兵により、35日を越える長い長い戦いになった。そして、第二次大戦中、唯一、日本兵の犠牲者より、アメリカ軍の犠牲者が上回った場所である。「プライベート・ライアン」を撮ったスピルバーグ製作だから、そのような残忍な死体も出てくる。さっきまで冗談を言い合っていた仲間が、首だけになったり・・・。この映画は、硫黄島に立てこもった日本兵の本拠地、すり鉢山。その頂上に、星条旗を立てた兵士のその後の物語だ。この星条旗が立てられる時、そこに写った6人はその後、3人になり、戦争国債のために、ヒーローに祭り上げられ、帰国し、たった5日で終わると思われていた硫黄島の戦いが長引き、嫌気の指していたアメリカ国民の戦意高揚の道具にされる。しかし、本当は、この6人の立てた星条旗は、最初に立てられた星条旗を記念に欲しいと言い出した軍曹の為に降ろされ、その星条旗の代わりに立てられたものだった。つまり、最初に星条旗を立てたのは、彼らではなかったのだ。しかし、二回目に掲げられた星条旗のほうが、大きく、絵になったために、写真に撮られ、全米に配信され、現在まで残る像にまでなった。生き残った3人は、事実を知っていた。そして、一緒に同じ星条旗を掲げた他の3人がどのような死に方をしたのかも。生き残った3人のうち、本当に戦う兵士は、一人だった。あとの二人は、軍曹に言われて星条旗を持って行った伝令と、倒れそうになった星条旗を思わず支えた衛生兵だった。英雄に祭り上げられ、全米を行脚した3人はその後、ネイティブインディアンの血を引く兵士は、苦しみ抜き、戦場に戻っていき、終戦後はアルコールにおぼれ、行き倒れて生涯を終えてしまう。そして1人は、葬儀屋として成功するが、本当のことは死ぬまで言えずに苦しんだまま生涯を終える。そしてもう1人は、人生に挫折したまま生涯を終える。最初の星条旗を立てた、本当の英雄たちは、硫黄島で命を落とした。実に重い映画だった。見終わったあと、声も出なかった。何と言って良いのか解らなかった。次々死んでいく仲間たち。誤射さえ、頻繁にあった。自国の弾に当たって、死んだ兵士の悔しさはいかばかりだったろう。年下の親友をその場に残し、負傷した兵士を救いに行った主人公の衛生兵が、数日後に、その時に行方不明になった親友の、無残な遺体を見つけた気持はいかばかりだったろう。苦しみぬいた純粋な魂の持ち主だったネイティブアメリカンに向けられたいわれなき差別への気持はいかばかりだったろう。すべて、重かった。私の気持まで潰れてしまいそうだった。最後に「硫黄島からの手紙」の予告編。ニノが、出てたのに、演技してたのに、もう、嵐のファンとして見る事が出来なかった。声を上げて泣き出しそうになっていた。一生懸命こらえて、トイレに入った。こらえきれなくなった。ハンカチを口に当てて、声を殺して暫く泣いた。何故自分が泣いているのか、説明できない。自分でも解らないから。でも、今見た映画が、事実を元にしていること、クリント・イーストウッドが、何を言いたかったのか、漠然とだが、胸に迫った。物凄く沢山の事が、物凄く大切な事が、この映画を通して伝わってきた。兵士たちは事実を言いたかっただろう。しかし、口が裂けても、あの戦場の事実を言えなかった3人の気持が、胸に迫った。どうしようもない、悲しみや、悔しさや、後悔に、胸が痛かった。本当に、重い映画だった。「見てよかったね」と言うと、パパが、「うん、早くもう一つも見たいな」。「硫黄島からの手紙」今度はトイレまできっと我慢できないだろう。声上げて、泣いちゃったらどうしよう。でも、本当、早くみたい。劇場を出て、キャッツ仕様のポップコーンを頼んで、パパとお茶した。「キャッツ」も見たかったが、これ先に見て、良かった。
2006年10月28日
コメント(2)
父の3回忌が、来週になり、母がバタバタしている。そう、ばたばたすることも無いのになあ。今年は、義父の13回忌と父の3回忌がある。義父の13回忌は、おばあちゃんがあの状態だし、京都の親戚たちが、こちらまで来られない途の事だったので、家の一家と、弟一家で済ませた。非常に簡単に済ませたので、樂だった。派手な事を嫌い、一職人として一生を終えた義父らしい穏やかな、13回忌だった。久しぶりに、御祖母ちゃんを連れて、食事に行った。今日は、ラーメンやさん。おばあちゃんは、口はまあまあ達者だったが、体は、もう、介護度4の身体で、歩くのに、介助が必要で、そろそろ足を上げずにすって歩く感じだった。それでも、相変わらずの「食」に対する欲求は強く、見ていて、哀れ以外の何者でもなかった。機械的に口にお箸を運び、普通の人の半分の速さで、ゆっくり食べている。自分の口の場所は解っていても、どのくらいの量を入れて良いのか、もう、余りその加減が出来ない。「少しずつね」と言っても、どうかすると、口に入らないくらいのラーメンをお箸ですくい、口にするものだから、咽喉につっかえる。パパが慌てて「おいおい大丈夫か」と言うと、まだ残っているプライドだろう、苦笑して、「大丈夫、大丈夫」と言う。食べている表情は、無表情。「美味しい?」と聞くと、その顔に表情が戻り、嬉しそうに「ふん」とうなづく。時々、あごに汁がこぼれ、気がつくと、指でぬぐっている。「おかあさん、これこれ」とすぐ横にあるおしぼりを渡す。それが、もう、視界に入っていないのだ。ラーメンの入ったどんぶりのすぐ根元に置いてあるのだが・・・。哀れ。会話は、少なくなったように思う。今日は、内科の診察だった。3日前は、眼科。出血があるので、来月は、また、レーザー手術だそう。もう、これで5回目かなあ。糖尿病の数値は、変わらず良い状態なのだけれど、こうして、じわじわ、あちらこちらに影響が出ている。施設の看護婦さんは、糖尿病の数値が良いので、もう、薬も不用じゃないかと仰るが、糖尿病の既往症は、出ている。血液検査の結果が良ければ、薬が減るかもしれない。でも、家族は、それも怖い。タバコを辞めたパパが最近、凄く太りだした。うるさく、甘いものや、塩辛いものを食べないように言うが、体質は遺伝する。サプリメントを最近さぼっているので、怖い事にならないよう、また、続けないとなあ。チョコレートや、アイスクリームは、毎年の人間ドックで必ず、食べるのを控えるようにと注意書きされたものの中にあるのに、その前を通ると、素通りできないらしい。甘いものが駄目な私には、その気持が解らない。薬で肥満になった私にも、同じ事が書かれているが、薦められても、アイスクリームは、食べないし、チョコレートは、たまに口にするくらいだから、あれほど執着する気持が全く解らない。糖尿病の事を考えると、怖くないのかなあ。糖尿病、本当に、怖いです。
2006年10月27日
コメント(2)
今日は、恒例の友人達とのお食事会。今日は、私が、以前革工芸の展示会のあとに、打ち上げをしたお店。隣の市に有るので、少し遠い。隠れ家みたいに、住宅街にあって、一日に、数客しか予約を取らない。お座敷に座ると、その日のメニューが書かれた紙がテーブルクロスになっている洒落たお店だ。今日は、久しぶりに、7人揃う。幼稚園の先生をしているIさんだけ、今日は参加出来なかった。ベトナムのお土産を渡した。友人の1人は、結婚25周年の銀婚式にカナダに連れて行ってもらったと、沢山綺麗な風景の写真を見せてくれた。お1人は、もうじき、銀婚式なので、ギリシャに行くという。良いなあ。あの高台から、見下ろしたら、信じられないくらい白一色の風景が頭に浮かんだ。私も是非、もう一回、行きたいなあ・・・・。お喋りは楽しい。気心が知れているから、余計だな。私も銀婚式には、ぜーーーたい、パリにもう一回、連れて行ってもらおう。あと2年、頑張って貯金しなくちゃね。お料理も、美味しかった。器のセンスが半端じゃない。器も味のうちとは、良く言ったものだ。量も、丁度良い。何も言わなくても、メインのお肉料理が出てくる頃、ちゃんと小さなお茶碗に、銀杏のご飯が出てきたのには、その心使いが流石だなあと思った。ここ、今度、伯母が来たときに、一緒に来たいなあ。楽しい時間は直ぐに過ぎちゃう。仕事に戻ると言う友人が先に帰った。お名残惜しいが、解散。私は待ち合わせして車を置いてきたショッピングセンターまで、友人の車に乗せてもらって、帰った。帰りに、本屋さんにより、まだ見ていない「木更津キャッツアイ」を借りてきた。そして、読みたかった「地下鉄に乗って」も。暫く、おなかの調子も、体の調子も悪かったが、今日、来ることが出来て良かった。この調子が続くといいのですが・・・。
2006年10月26日
コメント(0)
爆弾抱えるような感じの体。頭痛は、少し和らいだが、まだ痛い。起きたすぐに、肩が、ばりばりに凝っている。下に降りると、パパが、まだいたので、少し揉んで貰う。パパ、韓国も嬉しいけれど、やっぱ、マッサージ機、買い替えようよ。N社のマッサージ機が以前から欲しくて仕方が無い。6人のマッサージ師の指の動きをしてくれると言う。だが、高いと評判の韓国「嵐」鑑賞ツアーのお値段の4倍する。流石のパパも、二の足を踏んでいる。うちにマッサージ機が無ければ、迷い無く買うつもりだが、とりあえず、古いマッサージ機がある。それも、父が使っていた足マッサージも付いてるやつなので、いつもパパは、帰宅して、夕飯を食べるとお風呂に入るまで、そこに座って、TVを見ている。今は、御祖母ちゃんの部屋に置いてある。でも、やっぱ欲しいなあ、あのマッサージ機。あれがあれば、私の頭痛も少しは、楽になるのになあ。午後から、少し動いた。物凄く良いお天気で、ちょっと庭に出たら、日差しが痛かった。勿体無いと思い、お洗濯をした。友人宛に、小包みを幾つか作って、郵便局に行き、今日は、消化の良い物を食べようと、しゃぶしゃぶにする事にし、近くのシャブシャブ屋さんにごまだれを買いに行った。これ、物凄く美味しい。二人分350円と少々高いが、食べに行くことを考えたら、安いものだ。100均で、ちょっと大きめのホーローの保存用の蓋物を買った。横に、100円じゃなかったが、なかなか整理するのに良さそうな竹の籠があった。寸法がわからないので、また買いに来よう。これだけ動けたのは、お昼に、昨日まで、切れていた滋養強壮剤をパパが買ってきて、飲んだからだと思うが、しかし、これまで。もう、動けそうも無い。ハンドルを握っていても、朦朧と成りそうになる。急いで帰宅。少し横になった。しゃぶしゃぶは好評だった。「やっぱ、たれだよね」「うん、いつもと同じお肉とは思えないね」食後に、長野の嵐友が送ってくれたおりんごを頂きながら、明日の用意。明日は、友人との月一のお食事会。久しぶりに1人だけ来られないが、揃う。ベトナムのお土産を用意して、何とか、無事に行けそう。まだ、完治じゃないけれど、頭痛は、治まった。本当に健康な体に生まれたかった。
2006年10月25日
コメント(6)
ぶっ倒れた。午後から少し横になって、起きたら、頭が割れそうになってて、トイレで、凄い勢いで、お昼に食べたものを全部もどした。それでも、大腸のあたりが、しくしくして、頭の痛さは変わらない。頭痛薬を飲んで、二階に上がり、また、寝た。でも、30分もすると、また酷い吐き気に襲われて、慌てて二階からトイレに駆け込む。まだ、胃の中に残っていたものが出る。なんなのよ~。何が悪いのか、どこが悪いのか解らない。お医者さんがまだやってる時間だったが、行っても仕方が無いと思った。いつもの薬を飲んだ。胃腸薬。また、二階に上がって横になる。暫くしたら、玄関のドアを叩く音。電話のベル。誰か鍵を持って行かなかったんだなあ。でも、裏が開いているはずだから・・・。とそのまま横になっていた。何時まで経っても、電話のベルが鳴り止まない。あ、そうか・・・。お昼にパパが出て行った時、私が寝ていたので、鍵を閉めて行ったのだ。もう一度、玄関のドアが叩かれた。私の寝室は、裏のドアより玄関の方が近い。階段の手すりによっかかりながら、下に降りて、玄関のドアの鍵をはずした。案の定、チビが立っていた。「いつも言ってるでしょう、何故、鍵を持って出ないの!!」きつい言いかたになった。チビは、何回も、前科があり、御祖母ちゃんの家に駆け込んだりしていた。今日は、電気がついたままだったので、私が中に居ると思ったのだろう。そのまままた、二階に上がり寝た。次に気が付いたら、パパだった。「どうだ?」「頭割れそう。背中も痛い」暫くパパが背裏を揉んでくれ、少し楽になる。時計を見たら、もう、9時。「食事に行って来るけど、何か買って来ようか」何も、食べたくない。少しTVをつけて見ていた。みなが帰って来て、オネエが部屋に来た。オネエにも背中を揉んでもらった。パパより、力が弱いので、丁度良い。いつもの温シップを貼ってもらった。「これで治るよ」そうだと良いが・・・。今日は、最初に脂汗が噴出した。本当に、こういうの、勘弁して欲しい。突然来るから、参ります。本当に、体、健康になりたい・・。
2006年10月24日
コメント(0)
朝から、凄い雨。この季節にこの激しい雨って珍しい。今日は、一日、どこにも行かずに置こう。一日、好きなTVを見ていた。TVって本当に、面白い。ドラマも、勿論だが、ニュースも。それに、今日は、7時から、翔君の映画「木更津キャッツアイ」のメンバーが出る番組や、ニュースゼロの翔君のコーナー、その後に唯一の嵐5人揃いの「嵐の宿題くん」があるから、楽しみ。友人から、嵐君の韓国公演ツアーに誘われた。前回の台湾の時に行きたかったが、もう、ベトナム行きの話があったので、断念した。韓国は、友人達と、行きたいなあと思っていたし、北朝鮮の情勢の事を考えると、あまり、行くべきじゃないと思っていたので、今回の韓国はやめようと思っていた。だから、パパにも言っていなかった。しかし、お昼に帰って来たパパに、誘っていただいた事を伝えると、いとも簡単に、「行って来いよ」「は~?」「行ける時に、一緒に行ける人がいるんなら、行って来いよ」って、いとも簡単に仰る。「いやいや、今回は、情勢も悪いし、ベトナム行ったばっかりだしさ」と戸惑って言うと「良いのか?後悔するくらいなら、行っとけよ」。迷った気持のまま友人にメールした。すぐに電話。「行こう?」「迷ってる・・」今回は、嵐君とのファンイベントも、グローブ座一杯の人数の人と一緒だから、そう期待も出来ない。行くとしたら、彼女との、贅沢な韓国旅行がメインのつもりで行かないと、きっと馬鹿を見る。「当たるかどうかわかんないし」そうだなあ。折角、パパがああ言ってくれているし、じゃ、行きましょうか。話はとんとん拍子に決まっちゃって、一応、申し込んだ。当たったら嬉しいけど、当たらなくても、何だか納得しちゃう複雑な気持。当たったら、思い切り、楽しんでこよう。あ、でも、私、辛い物と熱い物はだめだから、韓国、食べるものあるかなあ。ベトナムまで5時間、韓国は1時間だそうだから、うんと近い。一度は行って見たかったお隣の国。思わぬ時に、行かれそうになっちゃった。嬉しいような、そうじゃないような、まだ、私の中で戸惑っている。
2006年10月23日
コメント(2)
パパは、朝から従姉妹のダンナ様たちとゴルフ。今日は、仕事関係じゃないから、凄く楽しみにしていた。コンペにはめ込まれたそうで、余計、楽しみらしい。前回のコンペの時、スコアは悪かったが、ブービー賞を取ってきて、凄く良い旅行トランクをゲットしてきた。今回は、どうかな?昨日は、雨と言っていたが、良いお天気になった。なかなか思うように、仕事がはかどらない。お洗濯をして、食器洗い機に何回か掛けて、揺方4時から、ぶり大根を煮た。旬のぶりのあらは、すっごく美味しかった。父がこれ、好きだったんだよなあ。3時間くらい煮込んだので、お大根にも味がしっかり沁み込んで、とっても美味しかった。私もオネエも何がすきって、ぶり大根のぶりの目玉が好き。気持ち悪いと言う人も多いが、目の回りのプリンプリンのコラーゲン一杯の美味しさ。これから、ドンドン美味しい物が出回ります。主婦の腕の見せ所。
2006年10月22日
コメント(0)
何とか、鬱から脱却。午前中に内科医に行ってやっと薬を貰い、服用した。痛かったおなかも、お昼頃には、治った。で、パパと午後から映画の梯子。今日のメニューは、「ブラック・ダリア」と「地下鉄(メトロ)に乗って」。両方ともかなり期待していた。まず、「ブラック・ダリア」一言で言うと、「複雑すぎて、解んなかった」(爆)これは、映画が悪いのじゃなくて、私の理解度が、不十分だったから。登場人物が多すぎ、何が何だか、解らなかった。パパも、同じ感想。途中で、あまりに多い、名前と顔が、一致しなくなったそう。そして起きる事件も多くて、どの名前がどの事件だか解らなくなった。R15指定の映画だったが、行く前は、死体の残忍さが、指定の理由と思って行ったが、そっちに指定が掛かっているのじゃなくて、話の筋に出てくる、性描写に掛かっているのだと見て解った。かなり際どいポルノ映画その物も出てくる。しかし、死体も、かなりなものだ。だが、この題名の「ブラックダリア」は、なかなか出てこない。あれ?これって、警官の物語なの?と思うくらい、最初は、警官の話ばかりで、出てこないのだが、実は、それまでの筋が、謎解きの重要な登場人物の紹介だった。面白くなかった訳じゃない。解らないなりに、面白かった。帰宅してから、パンフレットにストーリーから、犯人までが全部載っていて、「あ~、そう言う事か~」と解り、それでも、もう一回、見に行きたいと思うような面白い内容だった。ハリー・ポッターのあの意地悪な伯母さんが、重要な役どころで出ていた。「地下鉄に乗って」これは、期待はずれも良い所だった。話にまとまりが無い。男女の愛を描きたかったのか、親子の愛を描きたかったのか、両方なら、何だか消化不良って感じだった。タイムスリップするのが、地下鉄の駅なのだが、そのうちに、地下鉄の駅じゃない、普通の時に、寝てる時にまでタイムスリップしちゃうようになったり、死んだ兄が、実は父親が違うといきなり電話で話が出てきて、それじゃ、だれなんだって話で、ただ一回、その話が母親の電話の中に出てくる以外、何も無い。だいたい、愛人と、家庭を持っている男の話だから、普通の主婦である私は最初から、愛人に同情する気にはなれないし、可哀相にも思わない。奥さんは本当に良い人なのに、こいつ、会社の女の子に手を出して・・とか、人の亭主に、何考えてるんだこの女・・とか。最後に過去の世界で、自分の身元が解り、思い切った行動に愛人が出るのだが、多分、結婚していない女性がこの場面を見たら、「わあ、究極の愛だわ、可哀相だわ」と涙物の場面なんだろうが、既婚者で、単純な私は、人の夫に手、出したからバチが当たったのよって思っちゃたし。簡単に言えば、親と絶縁状態の男が、タイムスリップして、親の若い頃に出会い、親の思いを知る。まあ、そういう単純な映画だ。それにからめ、愛人の出生の秘密がドラマチックに描いてある。泣ける映画だと思って出してあったハンカチは、そのままだった。予告編の「ラッシー」に泣いたのに使ったくらい(笑)細かいことを言えば、例えば、昭和39年にタイムスリップした主人公は、その時点で、小学校の5年生くらいだった。・・・と言う事は、私より、年上だから、現在は55歳前後と言う事だし、39年に母親のおなかにいた子であるヒロインは、40年生まれだとして、現在は、40歳前後じゃなきゃおかしい。それを、その昭和39年生まれの堤真一と、23歳の岡本綾が演じているのから、この時点からしておかしい。もし、平成の初めの話として描いたのなら、携帯電話はこれほど普及してないはずだし。やっぱ、おかしいじゃん!!そして、最後に一番変だったのは、タイムスリップできていたのは、主人公の二人だけだったのに、最後の現代の地下鉄の通路に、過去から来たと思われる男が通路に座り込んでいた。あれは全く必要のない人、場面だ。この原作は、「鉄道員」の浅田次郎の原作。同じ作家の作品とは思えない。映画が本当に原作を表現出来ているのか、是非、原作を読んでみたい。何だか、肩透かしをくらった感じ。パパも、「何だかはっきりしない映画だなあ」。親の子を思う表現も、べた過ぎたように思う。申し訳ないが、良い俳優を使って作った割りに、B級と言っても良いような映画だった。ただ、音楽は、すごく良かった。SALYUの声も歌も良いし、小林武史の切ないピアノの曲も素敵だった。さあて、来週は、いよいよ「父親達の星条旗」。これは、期待大です。
2006年10月21日
コメント(2)
鬱が酷い。鬱のときって、何も頭に入らない。だから、鬱のときに、何か言われても覚えてないのだ。母が、どうしても、皮膚科に連れて行ってくれと言う。鬱の時は、表に出るのが、本当に嫌で一苦労なのだ。着替えるのも、面倒だし、お化粧もしないで、そのまま出かけた。気が付いたら、表はかなり寒いのに、半そでのTシャツ。おまけに、Tシャツの前に何かのしみが付いてる。母に言われて気がついた。やっと表に出られたのだからと、ついでに買い物に行くことにした。後ろの座席にオネエのジャージーの上着が置きっぱなしになっていたので、それを羽織った。私は、ジャージーで表に出たことは、人生の中、一度も無い。生まれて始めて、人前でジャージー姿になった。暖かかった。「私の娘が、情けない」今日は無神経な母の言葉も、あまり腹も立たない。いつもなら、物凄い勢いで「何故、そう言う事が言えるのか」と反論するのだが、その気もうせている。この人はこういう人だから、仕方ないよって、気持が萎えてる。自分の買い物は、ほんの少しだった。母も少しだと言うから、行ったのに、相変わらず無神経な母は、レジの表で人前に出たくない最悪の状態の私を放って置いて、自分のペースで、あれこれと買い物をしている。私は、自分が無表情になっていること。笑顔が全く出ない事、気持が全く動かない事が、立っていても解った。大分立って待っていたが、良い加減にして欲しいと思い、カートを押しながら、嬉々と買い物している母に「いい加減にしてくれない?」と言いに行った。「鬱が酷いって言ってるでしょう」少しきつく言うと母は、苦笑しながら「ごめーーん」と言った。この人は、本当に自分の事しか考えられないんだなあと情けなくなる。帰りに午前中にいけなかった内科医に薬を貰いに行こうと思っていた。だが、まだ、時間があったので、本屋さんに寄った。だが、これがいけなかった。すっかり時間を忘れて、レンタルビデオを借りたり、母はCDを買ったりした。はっと思い出し、時計を見ると、もう、内科医は閉まってしまった時間。今日も、薬が貰えなかった。午前中に出ようとしたが、どうしても、出られなかった。母のおかげで出られたので、帰りに寄ろうと思っていたのだが・・・。鬱の時って、こんな感じだ。動作が最短距離で行動できないし、頭の中も、健忘が酷くなる。感情も、こんな事が有ると、いつも母と喧嘩するのだが、その気力も無くなる。無表情になる。早くこういう状態から、抜け出せないかなあ。抗鬱剤を処方してもらっていないから、鬱の嵐が通りすぎるまでどうしようもない。参った。
2006年10月20日
コメント(0)
昨日、本当は、おなかの薬が切れていて、内科に貰いに行くはずだった。それなのに忘れてしまい、今日は、その内科医は、おやすみ。ヤバい。かなりやばいなあと思った。この薬を2回以上飲まないと、下痢や、便秘になる。そして頭痛、吐き気、発熱になっちゃうのだ。まずいなあと思ったが、何とか、あちらこちら探したら、2回分あった。朝は飲まず、お昼も、売薬の整腸剤で何とか済ませた。そして、夜に飲んだ。で、今日。3回分いるのに、あと1回分しかない。一つは、成分はビオフェルミンだと解っているので、売薬で済んだが、あとの胃腸の粘膜を守る薬と、吐き気を止める薬は仕方が無い。夜まで、やはり、腹痛になった。全く、弱い体は、もてあましてしまう。早く寝ちゃおうと、お布団に入ったが、夜中におなかが痛くて、起きた。朝まで、3回二階からトイレに行った。まったくなあ。おまけに、ここのところ、鬱が酷い。良いこと無いなあ。
2006年10月19日
コメント(0)
今日もひと月に一回のカウセリングの日。カウンセラーとゆっくり会うのは、久しぶりだった。なぜなら、いつも私が遅れていくから、カウンセリングの時間がなくなってしまうのだ。普通の人に会う時は、本当に緊張して遅刻しないよう、物凄く早くから用意をする。それでも、気が散って、色色な亊をしてしまい、遅刻したりする。で、物凄く、落ち込む。如何して自分はこうなのか。で、鬱になる。しかし、カウンセラーに会う時は、自分のペースで、気持を樂にして会いに行くから、当然、物凄く遅刻してしまうのだ。でも、今日は、5分の遅刻でいけた。「凄いですね~、5分で済みましたよ」と明るく言ってくださる。幼稚園の子じゃあるまいし・・・と情けなくなり、失笑してしまう。ベトナムから帰って、まだまだ、お土産を送ったり出来ないでいる。もう、帰ってきて、10日にも成るのに。自分をまた、責める。カウンセラーが言う。「帰ってきてから、何をしました?」「行く前に御支払い頂いていたお人形のお代金があって、翌日以降に発送しますと言っていたのですが、翌日は、どうしても出来なくて、その次の日に発送しました。それから、片付けもなかなか出来なかったのですが、今日、やっと全部、旅行に行った物、お土産などを片付けられました。」私にすれば、誠一杯のできた事だった。カウンセラーが言う。「すごいじゃないですか~?」「??」「帰宅した次の日以降に発送するって仰って、ちゃんと、1日あとに、発送できているじゃないですか」「そう・・ですね」「片付けも、今までなら、半年掛かっていた事じゃないですか?」「・・・。」「だって、去年の冬物がまだ、片付いてないんでしょう。それなのに、10日で、片付けられてるじゃないですか?それって、Iさんにとって、すごい事じゃないですか?」そうか~、と思った。こう書いていると、多分、信じてもらえないかもしれない事ばかりだろう。しかし、事実なのだ。混乱と鬱の症状で、なかなか片づけが出来ない。夏に横浜に行った時の物が、まだ、リビングの一部にある。片付けようと思っているのだ。しかし、片付けようと思っても、家事に追われて忘れてしまうのだ。家事をこなす事が、誠一杯なのだ。それが、確かに、帰宅して10日で片付けられたは、奇跡に近いかもしれない。お人形は、物凄いエネルギーを使って、出荷した。梱包の途中で、別の事をし始めそうに成るのをじっと我慢して、早く送らなくちゃと自分に言い聞かせながら、梱包した。そして何とか、出荷した。カウンセラーって、絶対「負」のことは言わない。私の話す言葉、事柄の中から、プラスの事だけ探し出して、私に教えてくれる。言われれば、出来てるじゃない・・・と自分でも気が付く。言われるまで、気がつかないのだ。マイナスポケットに入っちゃうと、全く解らなくなっちゃうのだ。多分、私の幼児期からの母との出来事が、鬱の原因に大きく影響しているのだと思う。母は、私を褒めた事は無かった。いつも、顔をしかめて、きつい口調で言った。「如何してちゃんとできないの?」「如何してちゃんとお勉強しないの」「如何して、お行儀良くできないの」「如何して・・・」何時もいつもそう責められ続けた。母にとって、きちんと色色な亊が出来るのが、当たり前だったのだ。それは、自分が、小学校から高校まで、いつも主席で卒業し、学級委員をし続け、先生のお気に入りの生徒であり続けたから、不出来な娘が歯がゆくて、情けなくて、仕方が無かったのだろう。テストの点数が悪いと「私の娘がこんな成績で情けない」と泣いた。泣くのだ。テストの内容ではなく、点数ですべて判断された。きちんとできて当たり前なのだ。だから、いじめに会った時も、とても言える雰囲気じゃなかったのだ。しかし、高校生になって、私の反撃が始まった。寄ると触ると口喧嘩ばかりの母と私に、父は、「1メートル以内に、近付くな!!」と母と私に怒った。私も、もうその頃から、母を相手にはしなかった。不出来な娘は、一度も母に褒められる事も無く、劣等感の中で成長し、そのまま大人になり、自分に自信がもてないまま、年を重ねた。そして、ある日、とうとう鬱になった。だから、カウンセラーに褒められると、慣れていないので、この人は本気でそう思っているのかと、疑心暗鬼になった。しかし、信頼関係が生まれ、今は素直に、カウンセラーの言葉が聞けるようになった。カウンセリングを受けだして、8年掛かった。自分を責める事で、安心感を得ていた。自信の無さを埋めることが出来た。自分の中に入り込んで、自分の世界にいる事が多かった。でも、それが、間違いだと、教えてもらったのは、親じゃなく、カウンセラーだった。幼児体験は、その人を作る。私は私の子ども達の心を、ちゃんと、守れる母親だったかしら・・・。今、少し不安です。
2006年10月18日
コメント(0)
ひと月に一回の診察日。今回は、このひと月に色色な亊が有ったなあ。自分の鬱に、敏感に気が付くようになった。対処の仕方も、何となくわかってきた。診察を終わり、薬局に行くと、顔なじみの薬剤師さんが、「もう、リタリンを服用しなくても、大丈夫になりましたね」と優しい笑顔で仰った。「大丈夫なのか、どうか・・・。私の主治医が、『やめましょう』って主義の先生ですので、私には良く解りません」と応えた。正直な気持だ。ただ、最近、リタリンを上手に使えば、もしかすると、もっと上手く回っていくのじゃないかとも、思い始めた。最初にこの薬を服用した時、頭の中が、静かになったのが解った。いつも、色色な亊が溢れて、もう、混乱して、何から始めて良いのか、何から考えたら良いのか解らなかったのが、あ、次は、これをすれば良いんだ・・・と解ったし、考えも、途中で投げ出さずに、最後まで自分の考えをまとめることが出来た。だが、今の主治医に代わり、その主治医がこの薬を嫌い、慣習性になるのを恐れ、辞める事になった。だが、薬は、上手く付き合えれば、服用したほうが良いに決まっている。確かに、ADHD障害者の中には、この薬が欲しくて、精神科を渡り歩いている人もいるそうだから、麻薬と同じなのだろうけれど。私は、この薬を、半年から1年服用した。慣習性があるから気をつけるよう、前のベテランの主治医に言われていたから、自分でも、考えがまとまらず、鬱に成りそうな時以外は、服用していなかった。最近、以前のように、そういうように使いたいと思うようになった。時々襲ってくる、鬱の症状に、体がだるくて、何も出来ず、落ち込む時、ああ、リタリンが有ったらなあと思った。しかし、薬に依存しているとは、思わない。もう、その時期は過ぎた。今度の診察の時に、先生に言ってみようと思う。でも、処方してくれるかどうかは、解らない。病気持ちは,本当に、厄介です。
2006年10月17日
コメント(3)
いじめが問題になっている。「いじめ」した方は、どんな気持でするんだろう。ストレスのはけ口?私も、いじめにあった。小学校5年生の時、新橋から、武蔵野に転校した時。もう、今から40年も前。いじめは昔からあった。いじめは昔から陰湿だった。カバンを隠されたり、靴を隠されて上靴のまま帰宅したり。学校の裏に連れて行かれ、水をかけられたり、授業中、机の下からやってきた男の子に、マジックで足に字を書かれたり。反省帳と言うノートが、クラスにあって、今日あった一日の事、反省すべき事を自由に書いて良いのだが、毎日、私の行動が、いわれの無い行動が「悪」として書かれた。その度、「反省します」と言わされた。勿論、ホームルームだから、教師もいた。それでも、隣のクラスに幼馴染がいて、そのクラスの先生が可愛がってくださったので、我慢出来た。しかし、ある日、学校に行けなくなった。クラス担任の女教師は、とてもヒステリックな、見た目にもすぐ解るひいきをしていたが、その教師に、面と向かって言われた。「5年1組の評判を落とさないでね」とても陰湿に、睨むように、背の高い女教師は私の顔の近くまで顔を寄せて、ささやくように言った。それから1週間、学校を休んだ。「学校に行きたく無い」と言う私に、父は、何も聞かず、許してくれたが、教師の娘でプライドの高い母は、世間体を気にし、無理やり、学校に行かされた。そこでまた、前より酷いいじめにあった。隣のクラスの男性教師に「頑張れよ」と仰っていただき、何とか頑張れた。学校は助けてはくれない。学校にたいする不信はその時に生まれた。どうしていじめから脱却したのか。簡単だった。したいようにさせてやった。でも決して泣かなかった。泣いたら、負けだと思ったし、泣いたらいじめは増徴されると思ったから、何をされても、ニコニコしていた。そして、新しいいじめの対象ができ、そっちに移ったから。彼女は、本当に可哀相だったが、転校して行った。そしてほどなくして卒業。中学校は、もうひとつの小学校との混合になり、その学校からの友達が沢山出来た。その学校には、当時TVでも有名な教育評論家の現役教師がいた学校で、みな、本当に優しい、良い子ばかりで、私は、本当に、救われた。私の親は、いじめに会っていた事を、未だに知らない。チビも、教師のいじめにあった。何事も不器用なチビは、教師の気に入る生徒じゃなかった。体罰をする事で有名な男性教諭で、小学校の5,6年、受け持ちだった。事あるごとに、「なんでそう愚図なんだ」「そんな事もわからないのか」級友の前で、罵倒されたそうだ。だから、級友にもそういうイメージで扱われた。そのまま中高に上がったが、出来た友達は、全員、他の学校からきた子だった。チビは、あまり学校の事を言いたがらなかった。それでも、仲の良い、ご父兄から、色色話は入って来た。友達のクラブが終るまで教室で待っていたチビは、用も無いのに学校に残っていたと、その教師に頭を殴られた。チビだけじゃなかった。男の子も、度々、その教師に足蹴りにされていた。頭を殴られた時は、流石に、我慢ができなくて、教員委員会に電話した。学校の名前を言わず、どうしたものかと、相談するつもりだった。しかし、私立の5年生だと言っただけで、向こうから、その教師の名前が出てきた。教育委員会は、すでに、色色報告を受けていたのだ。だか「校長に報告しておきます」だけだった。私立は教師が変わらないから、その教師は、いまだに、チビやオネエの出た学校にいる。チビは、卒業してから、一度も、小学校に行こうとしない。チビの心に2年間にわたる教師のいじめが、大きな傷として残っている。オネエは、学園祭などに、ほかの先生に会いたいと行く。まだ、チビが、小学校にいる頃、職員室に遊びに来たオネエに、その教師は言ったそうだ。「おいK,妹に、もっとちゃんと勉強するように言えよ~」みなのいる前で、大きな声で、そう言ったそうだ。とても恥ずかしかったそうだ。オネエも、傷ついた。なんとまあ、無神経で、人の気持の解らない、人として首をかしげるような人物だが、そんな人間が、教員採用試験に合格すれば、教師になれる時代なのだ。教育委員会も、腐っている。ずっと、このブログを読んでくださってる方は、オネエが痴漢にあった前後の事を読んでくださっているだろう。(2003年07月03日に事件は起きた。校長や、教育委員会との、詳しい事が、お知りになりたい方は、下の一覧から、たどって、読んでいただけたら、幸いです。)その痴漢が私の祖父が校長をしていた小学校の教師だと解った時は、本当に情けなかった。警察から電話があり、パパと二人、警察に行った。まだ、オネエが大学生になって、間もない頃だった。一緒の電車に乗っていた乗客の方に協力してもらい、駅長室に行ったオネエは、駅長さんの「警察に行く?」に、否定し続ける痴漢に怒り「はい」と言ったため、親である私達が警察に呼ばれた。駅長室でも、警察でも否定し続け、嘘の名前や住所、職業を言い、流石に警察ではそれが通用せず、やっと、痴漢行為を認めた。刑事さんは、やってきた私たちに「嘘八百でしたわ」と嘲笑した。私達夫婦が、警察に行くと、廊下で頭を低くして、ぼそぼそと詫びた。パパが怒って、飛び掛らないように、刑事さんが横にいた。私達は、聞きたくなかったが、刑事さんが、聞いてやってくれと言うので仕方なく、聞いた。パパは、切れていた。刑事さんが訴えるかと聞いたのに、オネエは「当たり前です」。そこからが、信じられない出来事の連続だった。翌日の新聞に、小学校教師が痴漢と、大きく記事が出た。しかし、その記事は、事実と全くちがっていた。警察の廊下で頭が床に着きそうなくらい、詫びたのに、新聞では「触ったと認識しておらず、『触れたのが誤解された』と言っている」冗談じゃない。じゃ、あのお詫びは何だったの?すぐに、T新聞社に抗議の電話を入れた。すぐに、担当の記者さんがやってきた。事件の経緯と、刑事さんのいる前で詫びたことを伝えた。ひ弱な女子大生が、恐怖を抑えて、相手の腕にしがみついて突き出した恐怖がわかるかと言った。そうしたら、驚愕の言葉が記者さんの口から出てきた。私達は、すでに、何回か、教育委員会の方と話しをしていた。平身低頭の態度だった。しかし、その記者さんが、言った。「実は、テープを止めてくれといわれ、こういわれました。『H君だからさ、言うけれど』毎日、接している記者さんだったらしい『たかが、痴漢じゃないの』って口調でした。」驚いた。教師が痴漢をしたのだ。それも、教育の基本である小学校の教師が。おまけに校長からも、何度も、家に電話があった。「なにとぞ、穏便に」・・・。私が前校長の孫と知ると「お母さんも、ご存知のように、この時期は、成績の締め切りとか有って、来週には、自宅謹慎を解かないとね~、色色、大変なんですわ」は~?!?!警察で娘が書いた、訴訟状を取り下げろと暗に言っているのだ。「出来心ってこともあるじゃないですか?」娘の言う事には、この教師、自分の乗ってくる駅より前から乗っていたそうだ。つまり、痴漢をするため、逆戻りして、獲物を探して、行為に及んだのだ。どこが、出来心なんだ。それを突くと、校長は黙った。腐っていると思った。学校も、校長も、教育委員会も腐ってると思った。自分の保身ばかりに走る体制。これは、日本の教育体制を、根底から、組みなおさないと、日本は崩壊すると思った。こんな「長」の下に、本当の教育は成り立たない。子供は、馬鹿じゃない。痴漢をした教師が、何故、道徳を教えられるのか。もみ消しに、しつこいくらい電話してきた校長に、子供の純粋な気持が、守れるのか。立派な犯罪に「たかが、痴漢じゃないか」と言う態度で対応した教育委員会に、なんの権限があるのだろう。パパも、私もあまりの酷さの教育界に、幻滅した。子供は、国の宝だ。大人が考えているほど、馬鹿じゃない。ちゃんと、本音も、建前も、わきまえている。だからこそ、本音で接しなければ、ならないのだ。勉強ばかりしてきた教師が多すぎるから、こうなるのだ。教員採用制度に、大きな問題があると思う。私も、試験を受けた。試験の時に、言いたいことを言ったら、学科試験は受かっていたが、面接で落ちた。本当は、言いたいことの言える教師を、採用すべきじゃないのだろうか。じゃなきゃ、教師のいじめはなくならない。教育委員会に、押さえつけられ、校長の事なかれ主義に押さえつけられ、現場の教師に何が出来るのだろう。だから教師のストレスが貯まって、弱い子供に矛先が向くのだ。今の教育界は、腐ってる。それが、私達夫婦の経験した事件から感じた、決定的な感想。ちなみに、痴漢行為をした教師は、「停職6ヶ月」の処分と「罰金3万円」の判決が出たそう。痴漢行為をした小学校教師に、たったそれだけの処分にも驚いた。その教師は、その処分の出る前に、辞職した。処分が出る前なら、経歴に傷がつかないからだろう。今、教育の現場にいるのなら、教えられている子供は、良い迷惑だ。「トカゲの尻尾切り」そんな言葉が、頭に浮かんだ。
2006年10月16日
コメント(6)
映画を見に行った。「ワールド・トレード・センター」そう、9・11の実話を映画化したもの。だが、TVでなんども流された激突シーンは一切無い。ただ、淡々と、本当にその現場にいた人たちから聞き取った映像だけで、構成されていた。これからは、ネタばれになりますので、これから見に行こうと思ってらっしゃる方は、スルーしてください。映画の筋は、普通に出勤した警官たちが、ワールドトレードレンターに飛行機が激突したと言う通報で現場に向かう。それらしい映像は、向かいのビルに異常に大きく映る旅客機の影だけ。激突を感じさせるのは、警察署の中にも、響き渡ってきた、爆音だけ。まさに、彼らが経験した事だけ。彼らは、ごく当たり前に召集され、人々の整理のため、現場に向かう。現場で思った以上の惨状を目の当たりにし、中にいる人たちの救出の為に中に入るのだ。そして、ビルが崩壊し、彼らも、多くの仲間と共に、巻き添えをくらう。生き残った二人の警官が、救出されるまでの長い長い時間をただ、淡々と事実に基づいて描いた映画だ。しかし、その間に彼らの頭の中をよぎった、「死」への恐怖、家族への愛、思いが映像になっている。そして、当然の事ながら、彼らの家族の動揺や、どうしようも無い不安も描かれている。本当に、淡々と、ごく、普通の感覚で。映画と言うより、ドキュメンタリーのように。映画の中にモデルになった彼ら二人、ご本人達も警官役などで出演している。そして、本当に救出に参加した大勢の人も、俳優さんの中、救出シーンに、エキストラとして出演しているのだ。感動した。しゃくりあげてくる涙を、どうしようもなかった。横で、チビも、泣いていた。人って、凄いと思った。彼らの強靭な精神力に、心から、敬意を表したい。そして何より、彼らを励まし、救った彼らの中にあった家族の存在の大きさ。そしてもうひとつ、日常的に宗教のある国が、羨ましく思った。救助も、命がけ。彼らを救い出そうとした警官も、最後の言葉を仲間に残し、中に入っていく。みなが覚悟の上の人助けなのだ。最後に、「この映画を捧げます」と出て、湾岸警察の犠牲者全員の名前が、エンドロールに出、続いて、こうテロップが流れる「2749名が死亡その国籍は87の国に及ぶ343名は消防士湾岸職員の犠牲者は84名、うち37名は警察官。ニューヨーク市警察の警官は23名救出された者は20名。そして、ウィル・ヒメノとジョン・マクローリンは、18番目と19番目の救出者だった」オリバー・ストーン監督の映画だったので、「プラトーン」や「7月4日に生まれて」のような映画だと思っていた。しかし、本当に、静かで、淡々として、時間が、見ている私たちと同じように流れるような映画だった。家族愛、そして、現場にいた人たちの命がけの正直な恐怖。いつでも、自分に置き換えて考えられる余地のある映画だったから、余計に、心の底から感動し、泣いてしまった。行方不明になっているトレードセンターのエレベーターボーイを息子に持つ母親が、「昨日、叱ってしまったの、帰りが遅かったから、叱ってしまったの」とジョンの奥さんに抱きしめられて泣く。母親なら、だれでも、同じ気持を共有できるだろう。叱って、そのまま消息を絶った息子に、如何して叱ってしまったのだろうと自分を責める気持、その切なさ。もう、臨月になろうとしている、ウィルの奥さん。自分の夫が、消息不明と知り、ショックを受け、トイレでもどす。こう言う事が自分に起こったら、当然起きるであろう、そういう普通の感覚、出来事、描写が、心を打つ。監督は、できるだけ実際に有った事だけ、忠実に描こうとしたと、パンフレットに書いてあった。だから、旅客機が、突っ込んだ描写は必要なく、テロに対する批判的な言葉もなく、彼らは、本当に、何が起きたのか正確に知らずに現場に召集され、人々の救出誘導の為に中に入り、崩壊と言う絶望的な出来事に巻き込まれたことだけ、事実に基づき、描かれている。事実、彼らが聞いたのは衝突の音だけ、混乱する現場に行き、その惨事を目の当たりにし、恐怖にかられながらも人々の救出に向かうその事実だけ、描かれている。だから、何故自分達が、瓦礫の下になったのかも知らない。救出され、初めて、崩壊を知るのだ。救出後、彼らは、警官を辞めている。ジョンは、何十回もの手術に耐えた。2年後のある日、足に障害の残った二人を大勢の人々が祝福するパーティが開かれる。ウィルの奥さんのおなかにいた子が、走ってくるところで、映画は終る。そして、先のテロップ。泣かずにいられようか。良い映画を見た。アカデミー賞候補だそうだが、事実の重みみたいな物を、強く感じた。そして、人の思いは、家族を思う思いは、世界共通なのだと思った。だが、一方では、ボランティアで捜索に参加し、もう1人のボランティアと、捜索の打ち切られた夜の間、たった二人で瓦礫の中を探し続け、最初に二人を見つけた海兵隊員は、後に、イラクへの戦いに参戦して行った。本当に、いろいろな人の思いが、交錯する映画だった。是非、皆さんにも見ていただきたい映画だ。良い映画が、一杯。今見たい映画は、「ブラック・ダリア」「地下鉄に乗って」「父親たちの星条旗」。来週は、何を見ようかな?
2006年10月15日
コメント(2)
今日も凄い数のメールを消してたら、見っけ。イェンちゃんからのメール。めちゃくちゃ、嬉しかった。私達が、ベトナムを立ってから、ホテルに電話をしてくれたらしい。「mamaとpapaが、もう、いないのが、残念でした」可愛い事、言ってくれるな~。漢字も使っているが、文章が少しおかしい。でも、ちゃんと日本語。偉いなあ。これから、何度か、メール交換できたら良いなあ。「王様、魚の醤油送ります。hihihihi」なんて、ジョークも入ってる。楽しみが増えました。撮って見ていなかったドラマを全部見た。続けてTVを見るのも、疲れる。この秋の新番組ばかり。やはり「Dr、コトー」は外せないが、その裏の「嫌われ松子の一生」も外せない。原作でも、映画でも、松子の一生をたどっていくのは、甥っ子なのだが、TVでは、姪っ子に代えられていた。どうしてかなあ。甥っ子でも、良いのに。同じ女性の目から見た、生き方を描こうとしているのかな?「14歳の母」は途中まで見て、何だか、身につまされて辞めちゃった。これは、気持が落ち込みそうだから、パスかな?田中美佐子さん、好きなんだけどな。「初めての恋」は、王道の恋愛物だけど、なんか、べたな感じもするなあ。草なぎ(変換文字がアップできません)君の「僕の道」シリーズは、好き。今回の「僕の歩く道」も、すごく良い感じ。特にお母さんの長山藍子さんが、すごい良い。自閉症の青年の自立を描いているのだが、自閉症でも色色な症状があるが、オネエいわく「ありゃ、アスペだね」。「アスペルガー症候群」の事。オネエの行っているボランティアでも、アスペの子が、沢山いるそうだ。一旦、興奮混乱状態になると、そりゃ、落ち着かせるのが、大変だそう。草ナギ君が、とても上手に演じている。最近のドラマは、3ヶ月クールが多い。昔は、半年が多かったように思う。その中でも、今回のTV小説は、特筆したい。田辺聖子さんを、大好きな藤山直美さんが演じている。初めて、新人じゃないヒロインと言う事で、話題になっているが、子供時代、大きな写真館に生まれ、何不自由なく育つのだが、父親を、TOKIOのリーダー城島君が演じている。その父親にいつくしみ、可愛がられて育つのだが、戦争ですべてを失ってしまう。流石の演技力に、何十年ぶりかで、毎日、楽しく見ているが、とても面白い。これは、相当高い視聴率を獲得するのじゃないだろうか。TVは、大好き。見ながら色色すればいいのに、ついつい引き込まれて見てしまう。引き込まれて見られなかったものは、見なくなる。さあて、夕方になっちゃった。今日も、ベトナムの美味しいお醤油で、チキンのソテーでも、作りましょう。
2006年10月14日
コメント(2)
ベトナムの旅行記を更新するのに、丸2日掛かってしまった。思い出したことを自分ために、書き残しておきたかった。イェンちゃんのアドレスを教えてもらっているが、まだ、お礼のメールもできない。考えて見れば、彼女は、日本語で良いのだ。勿論ベトナム語はできないし、フランス語も出来ない。彼女いわく、フランス語より、英語の方が、難しいと言っていたから、英語でのメールじゃない方が良いわけで、日本語で、メールを送ればいいのだ。元気にやっているだろうか。とても人懐こい、可愛い子だった。美人ではないのだが、感じの良い子で、とても品の良い子だった。ご両親と、兄二人と一緒だと言っていたなあ。今日も、日本人を色色なところに案内しているのかな?「Iさんのスカート、好き」と言ってくれた。道を渡るとき、腕をしっかり握って渡ってくれた。最後に一緒に写真を撮った後に、真っ先にパパに「王様、名刺ください」と言った。日本に来たら、本当に、良くしてあげたいと思う子だ。風邪気味なので、久しぶりに美容院で髪を洗ってもらった。蓮の絵を玄関に飾った。やっぱり、綺麗!本当は、額に入れた方が良いのだろうけれど、とりあえず、飾った。パパのだるまは、ドールの入ったキャビネットの上に置いた。見ていると、なかなか良い。気持が安らぐ。電話の乗っているバフェの上に乗せたいが、もう少し片付けないと置けない。早く片付けて、こっちにおいてあげよう。正に、西洋と東洋の融合(笑)写真を現像に出したら、3分の1が、駄目に成っていた。多分、空港の荷物の探知機に乗せちゃったからだろう。トランクに入れて、感光防止の袋に入れて有った方は無事だったから、やはり、原因は、あの機械だなあ。パンフレットやら、チケットやら、色色とって有るので、一緒にアルバムにしようと思う。幸い、デジカメの方は、全部無事だったから、プリントアウトしよう。旅の思い出が薄れないうちに、したい。新婚旅行のアルバムも、現地のお札など一緒にした。フランス、イタリア、ギリシャと行ったので、写真が100枚以上になり、アルバムも、3冊になったが、今では、宝物だ。ベトナムのアルバムも、きっとこれから宝物になるのだろう。ゆっくりしたら、楽しんで作りたいなあ。皮工芸のO先生から電話。丁度、私がベトナムに発った日がレッスン日だったので、その連絡。展示会の後、何もしてないなあ。さあ、しなくちゃいけないこと、したい事が一杯。頑張りましょう。
2006年10月13日
コメント(0)
北朝鮮がきなくさい。核実験?如何して世界は、そんなに寛容なの?やっと日本政府が、すべての北朝鮮船の入港を禁じた。遅すぎるんじゃないの?拉致被害者があんなにいるのに、密輸の温床になっているのに、じれったくて仕方が無かった。日本にいらっしゃる、北朝鮮の方は、自国の長のこういう行為をどう考えていらっしゃるのだろう。正当な行為だと思っていらっしゃるのかなあ。日本にいたら、それが異常な行為だと、どこかで気付いてらっしゃると思う。それでも、たった一人の、一家の行為が止められないのは、どうして?ピョンヤンだけが、北朝鮮じゃないのに、北朝鮮は、ピョンヤンだけと言う感覚の国の長に,如何して黙ってるのだろう。何故クーデターが起きないのか、不思議だ。食糧不足で、国民は、生きるために、何でもしていると言うのに、その国の長が、自分の嗜好品を日本や欧米で調達させている。何故、国民は、怒らないのだろう。脱北する、逃げるしか方法は無いのだろうか。怒る気力さえ、奪われているのだろうか。日本の昔の憲兵のような人がいて、反乱するチャンスが無いのだろうか?解らない国だ。京都市役所の職員が、次々逮捕されている。それも、窃盗、痴漢、飲酒運転、全くモラルも何もあったもんじゃない。市長が、お詫びの文章をだしてからも、事件が3件も起きている。同じ庁舎の中で起きる事件の数では、異常としか言い様がない。普通の感覚ではないなあ。公務員試験に受かるような教育レベルの高い人ばかりなのに、教養がないのだ。最近思うのは、教育と教養は全く別物と言う事。教育レベルの高い人でも、教養の無い人が多すぎる。教養は、親の責任も大きいと思う。ニートが増えているそうだが、ニートなんて、皆が貧乏している時代には無かった。生活できるから、ニートが出来ちゃうのだ。ニートは、その親が悪いと思う。食べる物、着るもの、住むところを、親が心を鬼にして本気で取り上げれば、健康なら、働かざるをえないだろう。有るから、働かなくて済むから、働かないのだ。私は、社会人になったときから、親に家賃、食費を払っていた。だから、お給料の半分を家に入れていた。父は、「18歳までは、扶養の義務があるけれど、18歳過ぎたら扶養の義務はないんだからな」と、中学生の頃から、私にしょっちゅう言っていた。だから、学生の時代も、買い物に行き、夕食を作っていたし、母が、弟と一緒に名古屋のアパートに、移り住んだ時も、弟の高校が終るまでの3年間、母が戻る週末以外は家事一切、私がしていた。だから、今のニートの親の甘さが、全く解らない。その時は、遊びにもなかなか行けない環境に、厳しい親に反発もしたが、結婚してから、お料理も家事も困らずに済んだのは、親に厳しくしてもらったからだと、感謝した。子供を必要以上に甘やかしたら、人間として駄目にしてしまうと、どうして気が付かないのだろう。久しぶりにゆっくりして、新聞を読んで、色色思った。
2006年10月12日
コメント(4)
まだ、旅行の影響で、眠い。しかし、今日は、お人形の出荷がある。行く前にご契約していただいていたので、ずっと気になっていた。頑張って梱包し、他にご注文のあった本と一緒に、郵便局に出荷しに行った。本当は、友達に送る物もあったのだが、それは、後日にしてもらおう。この子、長いこと、我が家にいた。カンマー&ラインハルトと言うメーカーの歩行機能つきの子。日本では、ドイツドールは、シモン&ハルビックや、ケストナー、ハンドウェルクに人気があるが、海外では、ドイツドールでも、このカンマー&ラインハルトは、S&Hなどより人気のあるメーカー。だから、日本人好みのお顔じゃないのかもしれないが、お値段は、S&Hより、高いものが多い。特に、この歩行機能の健在なものは、普通のモールドのお値段に100ドルほど、上乗せされたお値段で取引きされている。今回、余り長くうちにいるのも可哀相になり、仕入れ値を無視してお値下げさせていただいたが、ずっと、この子を欲しいと思ってくださって頂いていた方から、すぐにご連絡があった。で、すぐにこの方のもとにお嫁に行くことになった。伺えば、カンマー&ラインハルトのお人形のコレクターでらっしゃると言う。このメーカーの良さをきちんと解ってくださっていらっしゃる方で、こちらも、本当に嬉しかった。宅配業者に行きお人形を出荷したあと、郵便局に書籍を発送に行き、そこで友人に捕まった。本当に久しぶりに、会った。家は、近所で、内科医を開院されている。そこから2時間、立ち話。ちょっと行って帰ってくるつもりだったので、半そでで出かけてしまったので、寒かった。帰宅しTVを付けたら、あ”--嵐君だーー!出てるじゃないの~。そうだった、今日、7時から3時間嵐君の出る番組があったんだった。30分見逃した。相変わらずの仲の良さ。見ていると、本当に気持がなごむよな~。本当に、良い子ばっかりのグループよね。潤君の「カメハメハ」の時、口と一緒に手が「ドラゴンボール」の「カメハメハーッ」の手つきになってたのが、めっちゃ可愛かった。潤君「ドラゴンボール」が、大好きだからな~、良い問題で良かったね!!何だか、日常が戻ってきた。まだまだ、お土産など片付いてないが、体も、何とか元に戻りつつある。明日から、頑張りますか!
2006年10月11日
コメント(3)
こういうの、時差ぼけって言うのかな?朝から、眠くて仕方が無い。気が付くと、寝ちゃっている。今日は、ベトナムに行く前にお買い上げ頂いていたお人形の発送をしなくちゃならない。なのに、何故だか、体がだるい。風邪、引いちゃったかな?全く使い物になりません。困ったなあ。しなくちゃいけないことだらけなのになあ。体が動かないから、座っていても出来る事だけした。留守中のメールは、150通以上にもなっていた。ほとんど、どうでも良いダイレクトメール。削除するのに、往生した。ベトナムの初日のブログだけ、更新した。向こうに居る間に、携帯のメモに書いてきたので、そのまま書き加えて載せた。画像は後から編集して載せよう。完全に時差ぼけ。ヨーロッパに行った時は、若かったから、こんな事は無かった。体内時計が狂ってるのだ。たかだか2時間の時差でボケててどうすんだって感じ。でも、体は正直、眠くて仕方が無い。午後に、海外から、書籍が届いた。これも、ご注文のあったもの。早く元気になって、仕事しなくちゃ。何時の間にソファで寝てしまい、また、夕方まで寝ちゃった。早く、片付けないとな~。眠いです・・。
2006年10月10日
コメント(2)
朝、7時過ぎ、中部国際空港セントレア到着。行きは、眠かったので、ベトナムまで爆睡したし、席も、窓際で、パパと二つだけの座席だったので、狭かったが、寝られたのだが、流石にベトナムを飛び立って、暫くは、眠れたが、やはり窓際だったのだが、今回は、3席が並んだ席だったので、余計に狭く感じた。お蔭で、ベトナムを12時過ぎに乗って、2時間ほどで目が覚めてしまい、ずっと、名古屋まで起きていた。お蔭で、嵐君の「きっと大丈夫」を3回も聞いてしまった。ベトナム航空の食事は、申し訳ないが、今一。朝食にパンを頼んだが、紅茶は無くて、お茶かコーヒー。そのほかは、トマトジュースとかりんご、オレンジジュースしかない。おかずは、玉子焼きとお大根の煮物のみ。食べた気がしない。セントレアで何か食べようと思った。セントレアに着いて、携帯電話を返しに行き、荷物を受け取ったら、バスの時間がすぐにあったので、大きな荷物を引っ張ってうろうろしないで、早く帰って、美味しい物を食べようと言う事になった。バスの乗り場にいくと、朝の名古屋は、涼しかった。良いお天気。バスに乗って1時間。帰って来ました。バスは、私とパパ以外は、全員、前の停留場で降りて、最後の2人になっちゃった。終点なので、ゆっくり荷物を降ろし、バスを降りた直ぐ前の、開店したばかりの近鉄百貨店の喫茶店に入った。飲みたくて仕方が無かったお紅茶と、クロワッサンサンドを頼んだ。美味しいサンドウィッチと美味しいアイスティを飲んで、やっと、人心地がついた。そこからタクシーに乗って10分、11時前、帰宅。あ~、帰って来ちゃったよ~。着替えに二階に上がったら、そのままベッドに突っ伏して、寝てしまった。気がついた。ありゃありゃ、今、何時?朝?夜?全く解らなかった。時計を見たら、短い針が5、長い針が、3を差してた。夕方?明け方?表は、薄暗い。起きあがって驚いた、着替えの途中で寝てしまっていたのだ。下に降りると、パパが「おお、起きたか」オネエがいた。もう一回時計を見ると、午後5時半近く。何だか、疲れがどっと出た。何もしたくない。台所が凄く綺麗になっていた。まさか、娘がしたのじゃないなあ。御祖母ちゃんが、来てくれたのかな?荷物も、開く気にならない。オネエに聞いたら、昨日、チビの帰りが遅くて、喧嘩になり、罰として、流しの回りの掃除をさせたそう。そうなのか~。暫く、パパと二人、お茶を飲みながら、TVを見ていた。夕食、どうしようかなあ・・。結局、チビが、8時過ぎに帰って来て、近くに食べに行っちゃった。チビは、昨日と、今日、学祭だったそう。それで帰りが遅かったのか。帰宅後、元気になり、お土産を開いて、早速、皆で楽しんだ。パパは、すでにだるまを出して、飾っていた。こうして見ると、なかなか良い物だ。柔和なお顔も、心が和む。自分用に買った物、娘に取られちゃった。可哀相だったのは、チビに買って来たお花の刺繍の靴が、チビには、小さかった事。しっかり寸法を測っていただいたのだが、やはり25.5の足には小さかった。仕方が無い。午後10時、眠くて仕方が無くなり、就寝。ベトナム、楽しかったな~。
2006年10月09日
コメント(0)
その2↓の続きです暫くすると、イェンちゃんが、迎えに来た。「王様、迎えに来ました」(笑)バスに乗ると、もう、二日間ずっと一緒なので、イェンちゃんも私達二人に、親しそうに喋りかけて来て、リラックスしていた。今朝も途中から、私の下の名前で呼んでくれるようになっていた。「Iさん、行きたいとこ有りますか?もう、王様だけなので、どこでも行きますよ」には、笑っちゃった。「戦争記念館にもう一度行きたいのと、ベトナムのお醤油が買いたいだけ」と言うと、「はい、じゃー今から、ちょっと離れてますけど、中国の人の市場に行きます」「中国の市場?」「はい、さっきの市場は、私達が行く普段の市場じゃないんです。今から行く所は、本当にいつも私達が買う市場です」そうなんだ。そりゃ、面白いかも。バスの中で色色な話をした。イェンちゃんは、日本には、行った事が無いそう。学校で日本語を覚えたそうだ。歳は28歳、5人兄弟の末っ子、3人はもう、結婚して家を出て独立しているそう。おばあちゃんは薬屋さんを経営し、大きな屋敷を建てた程お金持ちになったそう。「イェンちゃん、あのね、聞きたいことがあるんだけど、この建物みんな何ですか」次々、通り過ぎる何だか解らないコロニアル風の素敵な建物一つ、一つ、説明して貰った。「学校」だったり「歯医者さん」だったり、カフェだったり、集合住宅だったり。日本の建て方とは全く違うので、解らなかったのだ。バイクがそのまま入って行くのは、どうやら、集合住宅らしい。歯医者さんの説明の時、御祖母ちゃんの話が出た。「病院で出してくれる薬は、物凄く高いです。だから,診察は受けますが、薬は皆、町の薬屋さんで買います」そうなんだ。「10月でも、いつもこんなに暑いの?」「はい、ベトナムの夏休みは、6月から9月までです」「そんなに長いの?何して過ごすの?」「はい、私は、昨日のあの魚を戦わせて遊んだり、家の仕事を手伝いました」良く見ると、バイクに乗っている人は、ノーヘルだが、自転車に乗っている人の多くは、あの、円錐型のベトナムの帽子を被っている。イェンちゃんによるとそういう人は、北の田舎の方の人なんだそうだ。街路樹の下から1メートルくらいが白く塗ってあるのが、パパはずっと気に成っていたらしい。イェンちゃんは、ケラケラ笑った。「それはですね、虫除けです。」「虫除け?」「そう、カップルが、そこでいちゃいちゃしないように、臭い薬が塗って有ります。それと、夜、バイクが追突しないよう、塗って有ります」パパが、どっちが主なんだとつぶやくと、イェンちゃんは、また、面白そうに笑った。着いた場所は、ビンタイ市場。物凄い数の人、人、人。中に入ると、魚のにおいやら、漬物の匂いやら、鼻をつまみたくなるような雑多の匂いがした。やっと人一人が通れるくらいの通路、どの店も天井まで品物が積み上げられていた。偽者のヴィ○ンの店やら、靴の店やら、干し海老の専門店やら、お菓子の専門店。写真で見たように、袋に山になった数種類の干し海老が並ぶ店の前を通ると、プーンと良い香りがしてきた。私もパパもただただ、その品物の多さ、人の多さ、店の多さに唖然としてしまい、言葉も出なかった。あまりの凄さに、撮影する余裕も無く、写真を一枚も撮れなかった。やっと少し広い道に出て、イェンちゃんの、「写真、撮りましょうか」との言葉に我に帰り、パパと二人、記念撮影。「王様、顔、硬いです」イェンちゃんは、可笑しそうにそういうと、明るく笑った。「もう、ものすごいなぁ。感動したわ」普段物に動じないパパが、こう言うのだから、私のような人間にはどれほどの事か、想像に値するだろう。ベトナムと言う国のおなか、魂、真ん中を見たような気がした。フルーツも、見たことの無いような赤い小さな実、長いとげのある小さな赤い実、ドラゴンフルーツ、大好きマンゴー・・etc.ここに、一日いても、飽きない。「さあ、じゃ、戦争記念館行きましょう」とイェンちゃんに言われるまで、とっぷり市場の雰囲気に浸った。「すごい」しか言葉が出てこなかった。戦争記念館に向かう道の途中、事故を見た。広い交差点に強い日差しを浴び、男の人が、頭から血を流して仰向けに倒れていた。人が集まりだし、緑色の制服の警官らしい人が立っていた。少し離れた所に、バイクが横倒したままに成っていた。「あ、事故だ、動かないよ、あの人」と言うと「そりゃそうだろうなあ、こういう状態で、事故が起きない訳がないもんなあ」とパパ。するとイェンちゃんが信じられない事を言った。「ベトナムでは、毎日、事故で1000人、死んでいるんです」「1000人!信じられない」「はい、私も信じられないです」信号機、つけないといけないんじゃないでしょうか、ベトナム政府さん。戦争記念館で、見られなかった棟をみて、絵葉書を買った。後は、お醤油。「醤油、あのマメで出来てるのですよね」「そうそう、魚のは王様が駄目だから」私も何時の間にか、パパを王様と呼んでいた。イェンちゃんが、運転手さんにベトナム語で何か言うと、スーパーマーケットの前でバスが止まった。普通に近代的なお店だった。日本のスーパーと全く同じ方式。籠にマンカウと言う、まるで表面が、ぼこぼこしたうろこのようなフルーツと、美味しそうなマンゴーをまずゲット。お醤油売り場に行くと、有る有る、たくさんのメーカーの物が出ていたが、イェンちゃんが、「これが、一番ポピュラーで美味しいです」と薦めてくれたお醤油の大きなボトルの物を購入した。その横に、ビンのラベルに魚の絵の付いている物も合った。あ、これが、パパの駄目なお魚で出来てるお醤油ね。とイェンちゃんが「私も、これは駄目です」さあ、楽しかったオプショナルツアーも終わり。バスは、ホテルに向かった。イェンちゃんとは、丸二日、楽しい話を沢山した。パパとは、もっと、色色な話をしたそうだ。バスがホテルについた。イェンちゃんも一緒に降りて来てくれた。パパに名刺をくださいと言い、私もイェンちゃんの住所と、メールアドレスを書いてもらい、一緒に記念写真を撮り、抱き合って別れを惜しんだ。本当に彼女には、良くしてもらった。「ありがとう、お元気でね、日本に遊びにきたら、是非、連絡してね」と握手した。イェンちゃんは、何度も振り返り、帰って行った。予約した夕食の時間までまだ、2時間あった。もう、チェックアウトしてしまったから、部屋には入れない。お茶でも飲もうとラウンジで飲み物を頼み、少し休んでから、また、表に出た。ホテルの回りには、沢山のお店が並んでいた。持っているドンを使ってしまおうと、一軒のお店の前を通ったら、昨日、連れて行ってもらったお店で20ドルだった、女の子の刺繍のある、ビーズが沢山ついた皮のバックが7ドルと言う。ドンでは?と聞くと、12万ドンと言う。え?1ドル15000ドンじゃなかったっけ。可愛いピンクのを選び、お金を出した。10万ドン札1枚。1万ドン札一枚。あと5000ドンコインに200ドンコインが少し、全部出したら、少し足りなかった。でも、お店の女の子は、「OK」。面白そうな、絵のお店も見た。和紙を漉いた上に書かれている。ランプのお店も見て、最後に漆や、木の製品のお店に入った。素敵なお箸が一杯。そんなお店も全部日本語で大丈夫なのが、なんとも嬉しかった。街には人に溢れていた。夜の道に、座り込んで、ゲームをする人、飲み物を飲みながら談笑する人。クーラーがない家がほとんどだそう。TVも、つまらないニュースばかりだしなあ。暑い夏の夜、少しでも涼もうと、オートバイにまたがり街を走り回るのは、日本の暴走族と同じだなあ。ホテルに帰ると、アオザイを着た女性が迎えに来ていた。あ、この方、昨日の船上ディナーの時の案内の方。道すがら、色色なホテルの前を通ると、結婚式を終えたウェディングドレスのカップルが何組もいた。ベトナムは夜、式を挙げるようだ。連れられて行くと、ガイドブックに載っていた、ベトナム料理のお店だった。一番奥の席に着くと、お料理が運ばれてきた。やっぱり春巻き、美味しくない。他の海老のお料理やら、脱皮したばかりのカニを、揚げたものやらは、美味しかった。最後は、昨日、船上ディナーの最後と同じ鍋物。日本のシャブシャブの容器だ。日本の鍋物と違うのは、味と、お魚の種類。あとは、お豆腐も、しいたけも、白菜も、ネギも同じ。ベトナムの民俗音楽を、ピンクのアオザイをきた女性が、奏でる中でのお食事。楽しかったベトナムも、これで終わりです。なんだか、もっと居たい気がした。可愛いお花模様のついたお皿に、大きなプリンでコースも終わり。程なくして、彼女が迎えに来て、ホテルに帰った。飛行機は、夜12時過ぎの予定で、迎えは、8時半過ぎまでこない。それじゃ・・とまた表に出た。「ベトナムハウス」と言う有名な店があり、そこでお茶を飲もうと入った。カウンターに座り、ピアノの生演奏を聞きながら、パパはフレンチコーヒーを頼んだ。私は、フルーツジュース。そうしたら、このフレンチコーヒー、ブランデーが入っていた。あ~あ、また、パパが使い物に成らなくなりました。丁度良い時間になりホテルに戻り、預けてあった荷物を出し、迎えを待った。大きなバスが来て、いよいよベトナムともお別れです。ホテルのドアマンに送られて、バスに乗った。二日目に、一緒に漆の工場に行ったOLさんの二人も乗っていた。飛行場までの道は、また、物凄い数のオートバイと、クラクションに、包まれた。そう言えばイェンちゃんが、一番のラッシュは、7時から、9時までと言っていた。飛行場近くになると、オートバイの数は激減した。さすがに眠い。そりゃ、12時近いのだから当たり前か。チェックインし、空港に入ると、凄い人。そう言えば、私自身に、お土産が余りないなあ。そうだ、免税店で、少し買い物をしようと、時間を潰した。1時間ほど待って、搭乗案内があり、飛行機に乗った。あーあ、楽しかった。ベトナム、面白い国。また是非、子ども達と来たいなあ。おまけの話。ヘッドホンを借りて、来た時と同じように、音楽を聴いた。なんと、「日本で一番人気の歌手の歌」との紹介で、ありました。嵐君の「きっと大丈夫」スマップの「ディアウーマン」やら、幸田来未の曲と一緒に。エンドレスで日本まで何回も聴いて帰った。画像は、漆の工場で一目ぼれした蓮の漆の絵、かなり大きい。ホテルのドアマンとドアウーマン、ドーナツのような帽子が可愛い。左下は、デザートのプリンのお皿、何処に行っても、こういう可愛いお皿で出てくる。右下は最後の食事をしたレストランでの生演奏。そして、何もかもに唖然としてしまったビンタイ市場
2006年10月08日
コメント(2)
その2、↓続きですバスに乗って、次に向かったのは統一会堂。昨日、この前を通った時イェンちゃんが、入り口の門の横にある小さな戦車を指差し、「あの戦車が、この門を倒して中に入り、無血の統一独立に成功しました」と言っていたその場所。1945年6月までの半年、日本が占拠していたが、第二次大戦集結とともに明け渡された。これもフランス統治下の建物で、全体にアールヌーボーの洋式。中に入ると、やはり、電気などアールヌーボーそのもの。「中のクーラーなど、全部フランス製です」元々は、1880年代に、フランス人官僚のために立てられたそう。しかし後に、王様(大統領)の居城となった。今は、海外からの要人がくると、政府との会見などが行われるそう。それ以前は、長い間、ベトナムの大統領が使っていたそうだ。部屋は、100以上有る広大な建物。中には大統領の居室やら、会議室、ベトナム戦争の時に、指令を出した執務室などがある。すべての部屋には、ふかふかのじゅうたんが敷かれている。大体、赤の色で、中国製なのか「寿」の字が織り込まれている。もうひとつ、竜の模様のものが多かった。赤と黄色、竜は、王(イェンちゃんはそう言うが「王」とは大統領の事と後でガイドブックを見て知った)の象徴で、他の人は使ったりしてはいけないとされていた。この日パパは、黒の地に薄い金色で竜が全体に細かく描かれているTシャツを着ていた。イェンちゃんは、それを見て、「王様だ!」と大笑い。それから、ずっとイェンちゃんは、パパの事を「王様」と楽しそうに言っては笑った。一番上に上がると、大理石に囲まれた板の間に出た。「ここは王様が、ダンスをしたりした場所です」そこで少し休憩。ダンスをしたような場所なのに、窓のそとには、迷彩色のヘリコプターが置かれていた。売店があり、ミネラルウォーターを売っていたので、購入。ベトナムは、日本と同じように自販機が設置してある。パパは、その写真を何枚も撮っていた。「うちの部品が、入ってるぞ」!!嬉しかった。うちのような零細企業の部品が海を超えて、私達の知らない国の街角に、こうして立つ自販機の中に入っているのだ。「王様、ここまで来て、仕事の鬼」とイェンちゃんが、可笑しそうに笑った。そこから一気に階段を降りて、今度は地下室へ。まるで、軍事要塞のような場所。古い、軍事通信機が各部屋に設置してあり、迷路のように地下通路があった。ベトナム戦争の時は、正にここが、司令室だったそう。壁一杯に、赤ペンやら黒ペンでラインを入れられた古い地図が、何枚も貼られていた。空調のない地下室は、蒸し風呂のようだった。地上に100を超える部屋を擁する建物の地下だ。立ち入り禁止のロープが張られ、まだ、下に沢山の部屋が有るようだった。地下には、大統領の居室もあり、立派なベッドが置かれていた。アメリカ軍がなだれ込んで来た時も、すぐに逃げられるように迷路になっているそう。そこから表に出ると、ベトナムの強い日差しに照らされて、一瞬、目が見えなかった。さらにバスに乗り、今度は戦争記念館へ。ここは、ベトナムに来る前から、一番、来たかったところ。幾つかの棟に分かれて色色な写真や、物が展示されていた。表には、大きなアメリカの戦車が幾つも置かれていた。中に入った。目を覆いたくなるような写真の数々。アメリカ兵に捕まったベトコン。その目はうつろだったり、絶望の色が瞳を覆っていた。中には、足と頭の部分だけ服でつながっている遺体を、誇らしげに銃の先にぶら下げて見せる米兵の写真も。そして、私が一番見たかった写真が掲げられていた。カンボジア戦線で狙撃され34歳で亡くなった日本人フォトジャーナリストの沢田 教一さんの撮った、『安全への逃避』言うまでもなく、ピューリッツァー賞など、沢山の賞を受賞した、水の中を母親が子どもを抱き、他の子ども達と逃げる様子を撮った写真。会えた・・・と思った。泣きそうになった・・・。その写真の下には、アメリカが発行した沢田さんの身分証明証があり、彼の写真と自筆サインがあった。私がこの写真と出会ったのは、多感な中学生の時だったと思う。世界に配信されたその写真の、母親が必死に子供を守り、生き様とする姿に、その写真から目を放すことが出来なかった。彼の写真は度々ニュースや雑誌などで取り上げられたが、最後にカンボジア戦線で、消息を絶ち、後に、狙撃され亡くなったと知った。「キリングフィールド」私が、一番ショックを受け、感動した映画は、このカンボジア戦線の現地通訳カンボジア人と、アメリカのジャーナリストとの実話を映画化したもので、この映画を見ようと思ったのも、沢田さんのことがあったからだった。暫くその前から離れられなかった。そしてもう一枚。10歳くらいの裸の少女が、農道を両手を広げ、裸足で泣きながら歩いている写真。この写真も、タイム誌に掲載され、ピューリッツァー賞など、沢山の賞を受賞した。後にこの少女の追跡調査のようなTV番組を見たが、彼女は今も、元気でアメリカにいる。沢山のベトナム人の遺体を蹴っている米兵の写真など、本当に目を覆いたくなる写真ばかりだ。そして極めつけは、枯葉剤を散布している写真と、ナパーム弾によって焼け野原になった写真と一緒にそこに置かれた、枯葉剤に影響を受けて生まれた、体のくっついた手の数の無い胎児と、奇形のホルマリン漬けにされた二つの胎児。目を背けたくなったが、しっかり見なくちゃいけないと思い、胸の悪さを押さえ、その哀れな姿をしっかり目に焼き付けた。反対側の壁には、数々の写真を癒すように、子ども達の明るい色の絵が飾られていた。イェンちゃんは、中に入らず、表にいた。若い彼女には遠い戦争なのだろうが、やはり、自国民が酷い仕打ちを受けている写真は見たくないのだろう。まだ全部見ていなかったが時間が来てしまい、また、私達はバスに乗った。バスの中で、若い人たちが、よく解らないと私に質問してきたので、ベトナム戦争の経緯やら、先ほどの写真がどれほど多くの日本人の心に残っているかなど話した。そして、戦争が終わり、自国に帰ったアメリカ人の中にも、深く傷つき、心を病んだ人たちが、現在もどれほど多くいるのかも、付け加えた。イェンちゃんによると、枯葉剤の影響は今も残っていると言う。でも今生まれてくる子は「植物人間です」。私達には、分離手術をしたベトちゃん、ドクちゃんの事が記憶に新しい。昨日、バスの中から、片手が肘から下のない、もう片方は全く無い人を見た。彼もベトナム戦争の被害者なのだろう。次にバスが向かったのは、昨日行った雑貨のお店。イェンちゃんが「Kさん、昨日行ったから、二階でお茶、飲みましょう」と言ってくれたが、私は、後ろ髪を引かれる思いで昨日この店を出たので、ここに行くと知って大喜び。パパはイェンちゃんと、二階に上がって行った。私は、昨日買い足らなかったお土産を買い、二階に上がったら、宝石が一杯。そうだ、ベトナムは鉱山があって、サファイヤとルビーが取れるんだった。私がよく見る24時間お買い物番組でも、ベトナム特集の時に、綺麗な石の指輪などが出ている。暫くその綺麗な宝石を見て楽しんだ。最後に行ったのが、ベンタイン市場。物凄い数の店が、一つの建物の中にある。食品から、屋台、アクセサリー、洋服、果物、魚屋、果物屋、民芸品屋。木の下駄に可愛い絵が描かれ、その場で足に合った大きさに調整してくれるお店やら、もう凄い数。イェンちゃんの後をくっ付いて歩く。そこでパパが、去年の出来事をイェンちゃんに話した。「去年、俺の前にいきなりお金をわざと落とした奴がいてね~、『あなたの落としたお金ですか』って聞くんだよ。『違う』って言ったら、すぐにあっちに行っちゃったけど、後から聞いたら、『そうだ』って言ったら、怖いことになっていたらしいよ」イェンちゃんは、突然目を丸くして言った。「私も同じ事されました。でも、私、『はい』って言って、一緒にいた友達とお金持って逃げました」私もパパも大笑い。「そうよ~、逃げて正解だったわよ~、今頃、何されていたか解らないわよ」「はい、怖いんですね~、ここ」イェンちゃんは、慌てて、ツアーの人たちに、「カバン、気をつけてくださいね~」と言ったのには、また、笑っちゃった。ここで私は、バッチャン焼きのはめ込まれた籠の箱を購入。これも値切りにねぎって、12ドルにした。おつりで、欲しかった20000ドン札をゲット。このお札、一箇所、蓮の形に透明になった部分がある、新しいお札だそう。面白いのだが、街角でもどこでも、ベトナムの人は、そこにしゃがみ込み、食事をするのだ。市場の中でも、お客さんそっちのけでしゃがみ込み、ご飯を食べていた。広い市場を散策して、バスに戻った。「ありがとうございます、これで、このツアーは終わりです」とイェンちゃん。午後は、皆さんそれぞれ違う予定らしい。私とパパは、1日の観光案内のオプショナルにしたので、午後も、お世話になるが、イェンちゃんの所属する旅行会社の経営する食堂につれていってもらい、そこで食事を摂った。メニューは、春巻きと、フォー。やはり、春巻きは、余り美味しくなかったが、昨日の「テンプル・クラブ」で出てきたお醤油が付いてきた。聞けば、これ、ベトナムのお醤油だそう。やっぱり美味しい!これ、買って帰ろう。フォーは、サッパリしたお味。生のままのモヤシや、レモンバームがお皿一杯に盛られてきた。そのままフォーに入れて食べた。メチャメチャ美味しい・・・という物じゃないが、まずくも無い。これ、さっぱりした物の好きな母が食べたら、美味しいって言うだろうなあ・・と思いながら頂いた。イェンちゃんは、さっきのカップルが、屋台でお昼を食べたいと言うので、連れて行ったという。おなかの弱い私は、行く前から旅行会社の方に、屋台は辞めておいた方が良いと聞いていたので、パパと、お店だけで食べる約束をしてきた。約束してこなけりゃ、とうに、好奇心の強い私は食べていたに違いない。画像は、沢田教一さんの『安全への逃避』と、沢田さんの身分証。タイム誌を飾った、少女の写真。お昼に食べた春巻きとフォー
2006年10月08日
コメント(4)
ベトナムの3日目。今日は、一日、市内観光。昨日、余り夜の食事に満足していなかったお蔭で、今日は朝から、美味しい食事が出来た。ドラゴンフルーツはじめ、美味しいデニッシュ、トーストの上にお肉を乗せて固めてある物。おみお付けなど等、おなか一杯美味しい物を詰め込んだ。レストランの入り口を出たら「おはようございます」と日本語でご挨拶。見ると、凄く綺麗なホテルの制服を着た女性。「日本人ですか?」「はい」。今日は、朝、チェックアウトしてそのまま出発まで荷物をホテルに預ける。だから、最後の荷造り。来た時は、ごそごそだったトランク、隙間も無いくらい詰め込んだ。買った大きな刺繍のバックも使った。さあて、丸2日お世話になったお部屋ともお別れです。部屋を出て、パパがチェックアウトしている間に、私は、荷物を預けた。ホテルの案内の所に、日本人の従業員の方がいつも座ってらっしゃるのだが、少し話をした。彼女は、日本にいるときから自分で海外で仕事がしたくて、インターネットで就職先を探したそう。日本のシェトランに就職して、ベトナム勤務になったのではなく、直接、ベトナムシェトランの募集で、日本から試験を受けに来たという。パパが驚いて「親御さんに反対されなかった?」と聞くと、「もう、説得が大変でしたが、どうしても、英語を生かせる仕事を海外でしたかった物ですから」と実に爽やかな笑顔。パパは「いやー、うちの娘がそんな事言い出したら、どうするかなあ」と考え込んじゃった。最後に「ご両親は、偉いなあ」と言うと、とても愉快そうに綺麗な笑顔がこぼれた。少し待ったら、昨日のイェンちゃんが、今日はピンクのポロシャツでやってきた。「Kさん、お待たせしました」一緒にバスに乗り込んで、別のホテルに他の観光客を迎えに行った。今日ご一緒するのは、少し年輩の女性客二人と、若いカップルさん。「では、最初に中央郵便局に行きます」街中には、3つの像が立っている。イェンちゃんに聞いたら、3度の元の侵略に国を守った英雄の像(後で調べたらチャン・フン・ダオと言う人)と、私も見てすぐ解ったが、ホーチミンの像だった。フランス統治下に立てられたオペラハウスのような、ルネッサンス風の美しい建物は「市民劇場」と言い、今は、色色なショーをする劇場だそう。ホテルの窓から見えた、大きな美しい建物は、人民委員会庁舎と言い、今は政府の機関になっているが、フランス統治下に建てられた、フランスの施設だったそう。郵便局は、そう遠くない場所にあった。非常に立派な、やはり19世紀末にフランス統治下に建てられた建物。不思議な事に、建物の上部には「アンペア」やら「ワット」やら、電機関係の偉人の名前が、プレートになって掲げられていた。中に入ると、物凄く広い。天井もすっごく高い。折角来たのだから・・とイェンちゃんに頼んで、持っていた2000万ドン札で買えるだけの、今流通している切手を買ってもらった。入り口にアンティークな公衆電話ボックス、その横に、自販機。パパはそれに反応し、写真を撮っていた。そこを出ると、直ぐ前にある聖マリア教会に行った。全部のレンガをフランスから運んで作られたその美しい姿は、パリのノートルダム寺院のようだった。ベトナムは意外なのだが、キリスト教信者が多いと言う。勿論一番は仏教。次がキリスト教信者。かくいうイェンちゃんも、キリスト教信者。薄暗い教会の中に入ると、信者のイェンちゃんは、すぐに柱の根元にある聖水を指につけると胸に十字を切った。私達も、真似をして、指に聖水をつけ十字を切って、中に進んだ。教会の両側にずらっと、沢山の神様の像がそれぞれ区切られた空間に設置され、それぞれ素晴らしいステンドグラスがはめられていた。自分の神様の所で、信者がお祈りしていた。ものすごく違和感があったのは、その像の回りに、ネオンサインが囲ってあったり、ネオンでその神様の名前が作って掲げられてあったりした。私達日本人にとって、ネオンサインは、夜の街のイメージ。イェンちゃんにパパが、何故、ネオンで囲っているのかと聞くと、聖なる光として、私達は見ている・・・と返ってきた。お国の違いだなあ。そのうちの一つの前に来るとイェンちゃんは、「これ、私の神様です」と言い、十字を切った。他の仕切りの中には、懺悔のコーナーもあり、「ここはベトナム人の懺悔するところ」また別の仕切った場所を指して「ここは、他の国の人がするところ」と教えてくれた。たかーーーい天井とアーチ型に仕切られた空間、その美しさに、ただただ、感動した。表に出ると、花嫁さんがいた。「ここは、結婚式もしますが、こうして雑誌の撮影などの場所にもなっています」教会の前に、とても美しい大きなマリア像が立っていた。そこをバックに記念撮影をしようとしたら、教会の鐘が大きく鳴り出した。実に、美しい音色で、長いこと鳴っていた。「お祈りの時間ですね」丁度、11時だった。教会の前から横に伸びる道を指し、「クリスマスには、機械大学の学生が作ったクリスマスカードがここで売られます。」「機械大学?」「そう、余り人が押し寄せるから、バイクが通れなくなるんです」そりゃこの人口が、我先に買いに来るのだから、そうなって当然か。画像は、左上が、大統領官邸で、地下迷路のあった統一会館、右上はフランス統治下に建てられた中央郵便局、左下が、聖マリア教会(サイゴン大教会)右下が、ベンタイン市場
2006年10月08日
コメント(0)
↓の続きです次に連れて行ってくれたのは、普通のお洋服のお店。大阪のOLさん達は、色色楽しんで買い物をしていたが、私は、レジのカウンターの上の金魚が物凄く気になった。赤い、本当に血赤の色の金魚なのだ。そばにいたイェンさんに、聞いた。「ああ、これね、戦う魚です」「?戦う魚?」「そう、私が子供のとき、飼ってました。」「どうやって戦うの?」「ここ」と綺麗な長い、尾ひれを指して「ここを、噛み付いて、戦わせるんです」見た目は本当に綺麗な魚なのに、結構、獰猛なのだ。パパが来てその魚を見ると、「お、闘魚だな」「知ってるの?」「戦わせる魚ですよね」とイェンさんに言うと「そうそう。」大きさは、4センチほどなのだが、その色と言い、泳ぐ姿と言い、実に優雅。そんな魚とは思えなかった。最後に連れて行ってもらったのは、アオザイのお店。天井近くから、本当に綺麗な生地が並んでいた。しかし、ずっと感じていたのは、ベトナムの女性がアオザイが似合うのは、身長が、小さいこと、そして、どの人も八頭身の小さな頭だからなのだ。これが、大きい。パパも、日本人には、似合わないと言う。何故なら、日本人は、ベトナム人より、頭が大きいし、おしりもベトナム人のように高い位置に無いから。女性3人が、全く興味を示さなかったので、イェンさんは、お店の人に挨拶し、5分ほどで、お店を出た。帰りのバスの中でイェンさんに色色質問した。ベトナム人にとって、英語より、フランス語の方が簡単なのだとか、社会主義国なので、一応、決められた職業はあるが、とてもお給料が安く、税金がべらぼうに高く、ほとんどの人は、副業に着いていたりするそう。色色なところに行き、感じたのは、「ホーチミン」と言う名前より「サイゴン」と言った方が通りが良い。川の名前も、「サイゴン川」。多分、「サイゴン」の方が馴染みが深いのだろう。ホーチミンになったのは、南北が統一されてからだと言うから、まだ歴史が浅い。知らなかったが、アメリカに戦争で勝ってから、暫く、アメリカが統治していたそうだ。え?勝ったのに?と思ったが、自力で再興する力が無かったのだろう。そして、起こった南北統一の戦い。それを聞き、納得した事があった。実は、我が家の会社にいるベトナムの子は、南北両方から来ている。同じベトナムの子なのに、余り仲が良くない。生活感覚も大分違う。それは、田舎の子と町の子の違いだろうと思っていたが、南北の出身の違いからだったのだ。なるほどな~。そう言う事か・・・。朝からの「お買い物」オプショルツアーもこれで終わり。順番にホテルに送ってもらい、解散。凄い買い物になっちゃった。とりあえず、部屋に戻った。時間は、午後1時半。面白かった~。少し休憩して、お昼を食べに出る事にした。パパは、以前来た時のことがあるので、ベトナムに来る前から、「食事は美味しくないし、トイレは汚いし、期待するなよ」と言い通しだったが、私は、そうは思っていなかった。どうせ、中年の男性二人の旅。ガイドブックもなしに、地元の会社のベトナム人に一日付き合ってもらい、パクチーたっぷりの食事に辟易し、帰国した。だが、そこは物にこだわる私の事。しっかり、下調べはして来た。100年のフランス統治下に、出来たであろう、素敵なお店もチェック済み。さあさあ、出かけましょう。・・・と雨。きたな・・。だが、たいした降りじゃなく済んだ。ホテルからそう遠くない所に、素敵なアンティークの造りのお店、「テンプル クラブ」と言うお店がある。その頃には、もう、バイクの間を縫って、道も、上手く渡れるようになった。一階は、可愛いテラスのあるカフェなのだが、横の階段を上って行くと、西洋と、東洋が、実に上手く融合した本当に素敵な空間があった。中に入ると、「食事か?お茶か」と聞かれたので、「ティ」と言うと、素晴らしいアンティークの家具の置かれた方に通された。時間が時間だったし、その夜は、サイゴン川の船上ディナーの予定が入っていたので、昨日のディナーのように食べられないといけないと思い、お茶だけにしようと思った。コーヒーと、私は、蓮のお茶を頼んだ。しかし、持って来たメニューは、日本語でも書かれており、美味しそうなメニューに、少し頼む事にした。「カニやきそば」と「お肉と野菜のミックスサンド」。お店は高い天井に、昔のお風呂屋さんに有ったような、プロペラのような黒い大きな羽の扇風機が回っていた。ソファは、フレンチアンティークの真紅のもの。衝立は、透かし彫りのある、古い東洋の物。窓は、高い窓で古い木枠、表を見ると、黄色い壁に中庭あがり、下を見ると、下のカフェの様子が見えた。なにもかも、まるでフランスにいるような、それでいて、アジアのすえた感じもあった。私達の他に、地元の身なりの良い男性が4人、ベトナム語で話し込んでいた。お店の男性は、とても礼儀正しく、象牙の箸とナイフとフォークを机に並べて、お皿にナプキンを置いて行った。運ばれてきたのは、焼きそばと、小皿にお醤油のような物が入った物。パパが「それだ、それ、魚の醤油だぞ、ものすごくまずいぞ」と言う。味、それほど言うなら、みてやろうじゃない。ちょっと指を漬け味をみた。「・・!何言ってるの、美味しいじゃないの!」パパも恐る恐るなめてみた「あ、これ違うわ」そのまま、焼きそばに掛けた。白いかにの身が沢山入った、ビーフンのような素麺のような麺。めちゃめちゃ美味しかった。パパも「うまいなあ、これ」「ほーーらごらんなさい」、ただ、物凄く沢山のパクチーが、添えられていた。もうひとつのサンドウィッチも、具がたっぷりで、とても美味しかった。パパの頼んだベトナムコーヒーも、洒落た小さな箱型のお盆に、コーヒージュガーと、ミルクの入ったポットが、センス良く入れられていたし、私の頼んだお茶も、白い素敵なポットに入れられてきた。このお店、やはり、当たりでした。お店を出て、ホテルまで間、数え切れないほど並んでいるお店で買い物をした。連れて行ってもらったお店もそうだが、どの店に入っても、日本語がOK。全く不自由しなかった。その上、連れて行ってもらったお店より、街に並んだお店の方が、同じものでも、断然安かった。またまた、色色ナお店でお買い物。お店の方とも、記念撮影。買い物をしたら、隣のお店のお茶の券を頂いたので、折角だから、入った。パパは、ベトナムコーヒー、私は、蓮のお茶を。運ばれてきたベトナムコーヒーは、アルミのフィルターに粉が入って、可愛い金魚の模様のカップに乗っていた。私のお茶も、同じカップとポット。これ、欲しいなあ、結構、これ、あっちこっちに売っていた。ふと見ると、お店の表にもあったのでゲット。少し休んで、今度は、サイゴン川のクルーズ。しかし、これには参った。お料理が、これだけ??と言う程度だったし、船が動き出す前に食べ終わってしまった。本場の春巻きは、あまり美味しくない。昼間ご一緒したOLさんと隣同士になり、色色な話をしたり、時間を潰していたら、やっと動き出した。船は1階から3階まであり、それぞれの階で、ベトナムの民族音楽の生演奏やら、炎の曲芸などしていた。風が気持ちよかった。魚の模様に電飾に彩られた派手な船。1時間ほどで、クルーズも終わり。夜景が綺麗な訳でなく、ただ、船のドックが見えていただけ。このクルーズは、はずれだった。外国の人間より、地元のベトナムの人たちが、暑い夜、少しでも涼を求め、楽しむ物のよう。ホテルに帰ったら、パパが一階のラウンジでお茶を飲もうと言うので、私は大好きなマンゴジュースを頼んだ。暫くすると、ピアノの生演奏に、黒人の凄くお尻の大きな、カーリーヘアに黒いドレスのジャズシンガーが出てきて歌いだした。見ていたら、唄いながらこちらにやってきて、パパを見ると、怖い!と言う表情をして笑い、今度は私の方に来た。歌はミニー・リパートの名曲「Loving you」。いきなりマイクを口元に向けられた。いきなりだったが、大好きな歌の一つだったので歌えた。途中まで歌うと、彼女が私の肩を抱いて何やら言った。ラウンジにいた方達から拍手。うぉー、恥ずかしいじゃん!!知ってる歌でよかった~。それから次々、お客さんにマイクを向けていた。暫くいたが、彼女が向こうの方に行っている隙に失礼し部屋に帰った。少しゆっくりしてから、買って来た物を整理してトランクに詰めた。明日は、1日中オプショナルツアーに出るので、朝にチェックアウト。もう、夜中の飛行機で帰国する。この荷物を入れるのが、至難のわざだった。苦節1時間、何とか入れたが、私の漆の絵と、パパのだるまはどうしようも無かった。まあ、お互いの自己責任で持って帰りましょう。さあ、明日は疲れるぞ。早く寝ましょう。画像は、パパの頼んだベトナムコーヒーと、メチャメチャ美味しかった、かに焼きそば。それに、記念撮影したお店の店員さん。
2006年10月07日
コメント(4)
朝食を摂りに下に下りた。流石に、種々雑多な国からの観光客に備え、お料理は、目を見張るくらいの種類が用意されていた。中国からの観光客用のお粥。日本人には嬉しいおみお付け。春巻きやら、当然のフォー。流石に南の国、数え切れないくらいの見た事も無いようなフルーツも。欧米人のために、何種類ものチーズやら、美味しそうなフルーツの乗ったデニッシュ。見た事も無いような、不思議なお料理。普通のホテルのように、目前で作ってくれるオムレツやステーキも。しかし、私もパパも昨日の夜の食事が、まだ、おなかに残っているようで、残念な事に、そう食べられなかった。部屋に戻った。5つ星ホテルだが、流石にトイレはシャワートイレではなかった。行く前、心配した寝巻きはバスローブがあったし、アメニティも充実していたが、シャワートイレじゃなかったのが、玉に瑕。だがそこは、発展途上国だから・・・と、赤ちゃん用のトイレに流せるお尻拭きを用意して行き、これが、凄く役に立った。これから発展途上国に行かれる方は、是非、お持ちになられた方が良い。ん?日本語・・・部屋を見ると、パパがNHKを見ていた。「ありゃ?映った?」「おお、昨日からちゃんと映ってたぞ」「知らなかった」私は、TVのリモコンの数字しか押さなかったが、9までしかなかった。NHKは11チャンネル。日本の放送が入るのだ。そりゃ~、日本の事が、ベトナムの人になじんでる訳だ。でも、昨日、アメリカの放送も入ってたなあ。出かける用意。「必ずスコールがあるから、傘、忘れるなよ」とパパがバスルームから言った。しっかり、日焼け止めを塗って、セントレアで買った帽子も忘れずに持った。下に降りるとすぐに「Kさんですか」と流暢な日本語で呼びかけられ、振り向くと、ポニーテールの白いポロシャツにGパンのベトナム人にしてはがっちりした若い女性が立っていた。彼女に連れられて表に出ると、マイクロバスがあった。海外からの観光客は、それぞれのツアーの会社のマイクロバスで移動していた。私達が乗り込むとその女性が「もう一組、ホテルに迎えに行きますので待ってください」。相変わらず凄い数のバイク。気がついたのだが、タクシーはほとんどがTOYOTAの車なのだ。他も、ほとんど日本車だから、道を走っている車を見ても、余り違和感が無い。他に、中国車と、BMWなどの高級車。パパいわく、最初にベトナムにTOYOTAが工場を作ったから、TOYOTAが多いそうだ。バイクもよく見ると、HONDA,YAMAHA,SUZUKIと日本の物が多い。ガイドの女性に聞くと「中国のバイクもありますが、日本のバイクに乗ると、もう、中国製には、乗れません」私達の他には、もう一組、大阪からのOLの二人連れがバスに加わった。その間もずっと、バイクが凄い勢いでバスの横を通り過ぎる。みると、父親が一番前、母親が一番後ろに乗って、その間に小さな子供を乗せているバイクも。ヘルメットも被らず、4人乗り。見ていても本当に危なっかしい。彼女に違法じゃないのかと尋ねた。「本当は駄目です。でも、警察が来たら(ニっと笑い)、他の道行きます」・・笑っちゃった。相変わらず、バスの前を急に横切る。怖い怖い。「私もどこかに免許をなくしましたので、警官をみると、横の道に入ります」そう言えば、これだけバイクが多いのに、ガソリンスタンドが無い。「国のやってるスタンドは凄く高いです。」・・・・と言う事は、彼女達は、ヤミのガソリンを使っているのだ。発展途上国の闇の部分を具間見た。もう一つ、気が付いた。女性が皆、ストレートヘアを、一つに結んでいるのだ。そう言えば、ホテルの女性従業員も、ベトナムの方は、皆、同じ髪型。「どうしてパーマをかけた方が少ないんですか」と尋ねると、簡単明瞭な答え。「暑いからです」な~るほど。「ホーチミン市は、夏と冬と二つしか季節がありません。でも、北の方は、四季があるので、北の方の人はパーマをかけている人が多いです」そうなんだ、それで、こんなに店舗があるのに、美容院が無い訳だ。街の様子は、本当に綺麗。フランス統治下に建てられた建物が沢山残っている。洒落たコロニアル風の建物が多い。所々、不思議な建物があった。何だろう、バイクでそのまま入っていく。ホテルだけは、コロニアル風だが、近代的なのですぐに解ったが、何せ、英語じゃないから解らない。兎に角、人、人、人。何処に行っても、人とバイクが溢れている。非常に活気のある街だった。最初に連れて行ってもらったのは、アオザイやら、民族衣装やら、雑貨のあるお店。ベトナムは、バッチャン焼きと言う陶器、漆、織物、刺繍、シルクが、主な生産品。蓮の御茶や、ハーブのお茶、それにベトナムコーヒーが、名産。特に、ビーズを施したバックやら小物が、素晴らしい。そして、国の花、国花が「蓮」なのだ。彼女に聞いたら「蓮、夢の花です」。なんて素敵なんでしょう。だから、蓮の刺繍の物が多い。まずは、娘達に、民族衣装のシルクのブラウスと、素敵なビーズ刺繍をしたベルトをゲット。それに、お土産に刺繍の小物をゲット。お店の女性は、皆、あおざいを着ている。制服なのだろうと思っていたら、普通に、街でも、あおざいを着ていた。パパは、お店の女性と座り込んで、なにやら話し込んでいた。ソロソロ疲れてきたなあと思っていたら、「奥さん、こっちにきて、お茶をどうぞ」と、蓮のお茶を出された。このお茶、ベトナムでは、ほとんど普通に飲まれているお茶らしい。なかなか美味しくて、これもゲット。パパにも・・・と持って行くと、なんとパパは、一刀彫のだるまの置物を前に話し込んでるじゃないの。「これ、良いだろう」おいおい、そんな物、置く場所ないよ~。玄関は、この前のビリケンもいるし。確かに普通のだるまと違い、穏やかなお顔をした、少し横に顔をかしげた全体に丸い感じの紫檀の彫り物。下の台と同じ木で掘られ、台には金文字で般若心経が彫られている。もう、放っておきます。また少し買い物をして、お店をソロソロ出る頃、「あれ、買ったから」え!・・・。どうすんだーーーあんなもの!!。あおざいの女性たちに見送られてバスに乗った。その頃になると、大阪のOLさん達とも仲良しに。良いなあ、私がOLの頃には、海外旅行なんて、思いも付かなかった。ガイドさんの名前は、イェンさんと言った。彼女の説明に耳を傾けた。くせのある日本語は、うちの会社のベトナムからの研修生を思い出させた。今回の旅行は言わずに来た。でも、一番私になついてくれている子は、このホーチミン市の出身だ。彼女のように日本に来て、日本語を覚え、帰国後、こういうお店で働くのだろう。「ホーチミン市は、1×1mに4人の人口なんです」すごい!しかし、不思議だったのは、昼間のこの時間に何故にこの凄い数の人が、バイクに乗っているのか。「ベトナムは、政府の機関の休日と、社会主義の会社の休みと、他の会社の休みと全部曜日が違うんです、今日は、政府の関係の休日です」そう言えば、車が多い。「車に乗っているのは。ほとんど政府の機関の会社の人です」そうなんだ。ベトナムなかなか面白い国だ。次のお店は、さっきのお店より、綺麗でセンスも良い。刺繍や、ビーズのバックが所狭しと置いて有るし、奥には、綺麗な水牛の角で作られたサラダサーバーやらスプーンやフォーク、ホワイトシェルで作られた箸置きやら、アロマろうそくやら、編まれた籠のバックやら色色有った。そうか~、ベトナムは、お箸の国だったんだ。沢山のお箸が置かれていたのを見て改めて思い、親近感を覚えた。手刺繍が皮に施されたバックを3つゲット。パパは、ガイドのイェンさんと座って何か話し込んでいる。買い物は、ずっと日本語の話せるアオザイを着た女性店員が付いて回ってくれた。「はい、次のお店に行きますので、終わりにしてください」と言われ、後ろ髪引かれながら、その店を出た。「次は、漆の工場に行きます」漆の工場に着くと、お絞りと、大きな扇子を渡された。そう言えば、さっきのお店も、おしぼりを渡された。私は感じなかったが、それだけ、街が埃っぽいのだろう。色々な説明は、やはり、日本語の話せる男性。丸い顔の笑顔のチャーミングな男性。貝で作られた螺鈿と、あひるの卵の殻の細工、それに絵の具と三種の細工の漆があるそう。あひるの卵を初めて見たが、ニワトリの物より少し大きかった。通路のような所で、はだしに肌の浅黒い男性たちが、黙々と作業していた。中に入ると、物凄く広い店の中に、沢山、漆の作品が並んでいた。大きな物は家具、衝立から、小さな物はコースターまであった。買うつもりが無かったし、漆は、英語で「JAPAN」と言うくらい、日本でも珍しいものじゃないから、端っこに有った洋服など売っているコーナーで、白いかごのバックをゲット。しかし、そこから出た途端、壁に掛かった一つの漆の作品に目が釘付けになった。蓮の絵だった。実にたおやかで、優しい色で、美しい絵だった。大きな葉っぱの前に、長い茎のピンクのふっくらした蕾と、蓮の花。それが、手前の水に映りこんでいる。「綺麗!!」全体に金箔が施され、その上に漆で絵が描かれている。欲しいが高いだろうなあ。・・・・と、さっきの男性の方が来た。「綺麗でしょう」「ええ、綺麗ですね~」「250ドルです」・・・・3万円か~。勿論、日本で買ったら、倍以上だろう。しかし、250ドルは痛い。もっと色色買い物をしたいし、漆は買うつもりが無かったし・・。それでも、引き付けられ見ていたら、「200で良いです」ありゃりゃ、随分簡単に下げちゃうジャン。よし、粘ってみよう。「うーーーん、どうしようかなあ・・・・」と彼の顔を見ると、「180・・・」「・・・。」「う~ん、良いです、じゃ、150ドル」粘る事、10分、はははは、100ドルも下げさせた。まあ、この大きさで、漆で18000円なら、お買い得だろう。「頂きます」パパが横でのたまわった。「俺は、だるま買っちゃったから、何も言えないな」そうだよな~。あのだるまよりお値打ちだし、うちの玄関に飾るならこっちでしょう。バスに戻ると、OLさん達が、「買っちゃったんですか~」「でも、あれ、凄く綺麗でしたものね~」あ~あ、荷物、大変な事になってきちゃいました。さてさて、次のお店は日本人が経営者。街中の小さなお店「KITO」。街中だから、ビュんビュんバイクが通っている。驚いた事に、この凄いバイクの数なのに、交差点に信号が皆無なのだ。だから、道を渡るのも、至難の技。イェンさんは、実に慣れた様子で、手でバイクに止まるように指示しながら、私達は横一列になって、バスの止まった反対側の店に誘導した。その道を渡れた事が、凄く嬉しかった。日本人女性3人が「渡れた!!」と手を叩いてしまうほど、バイクが行き交っている。そのお店は、私の好きそうな、キッチュでポップな小物のお店。可愛い絵の描かれたコーヒーミルやら、髪留め、ポップな陶器、ガラスのコップなど等が、所狭しと置いてある。水牛のお茶用スプーンと、水牛の髪留め、可愛いミルをゲット。中国の植民地だった1000年の影響から、赤いお花の模様の付いた食器も多い。
2006年10月07日
コメント(0)
朝6時起床。7時発のバスで名古屋空港セントレアへ。丁度1時間で到着。11時発の飛行機までチェックインしたら、自由時間。セントレアは、行こう、行こうと思って行けなかったので、思い切り遊んだ。遊びすぎて、最終搭乗案内が聞こえず、気が付いたらもう、出発20分前。慌てて、搭乗口に動く歩道を乗り継いで行ったら、アテンダントの方が「Kさんですか?」「はい、すみません。」でも、私達の後からもう2人、やってきた・・・ホッ。新婚旅行のヨーロッパは、ジャンボ機だった。ルフトハンザの飛行機ばかりに20回ほど乗り継いだ。たった、一回、ストで降りれなかったアテネ空港にフランクフルトから移送された時、小さな飛行機だったが、ファーストクラスに乗った。だから、エコノミー症候群というのが、如何して起きるのか解らなかった。しかし、今回、やっと解りました。もう、その前との座席と座席の間の狭さに驚いてしまった。おいおい、近鉄特急の方がまだ広いよ~。それでも、台風の来ている中、無事飛び立った時は、ほっとした・・動き出してから、私は飛行機が大好きだったのを思い出した。少し、斜めに地上を離れ始めた瞬間が、たまらなく好き。どんどん高度が上がっていく。目前のTVの画面に高度の数字が増えて行くと、わくわくが増した。表を見ると、真っ白な何処までも続く綺麗な雲海。丁度、翼の横の席だったので、飛行機が旋回するために斜めになるところや、気流で翼が揺れるのが見えた。それから、5時間。空の旅。説明も何もかも、ベトナム航空なので、すべて、ベトナム語。ただ、JALとの提携便なので、日本人のアテンダントも乗っていた。ヘッドホンを渡され、色色な音楽を聴いてるうちに、朝が早かったので、寝てしまった。5時間なんてあっという間だった。行きたかった嵐君の公演のあった台湾上空も飛び越えて、時差ジャスト2時間のベトナム、ホーチミン空港に着いたのは、現地時間午後2時。空港に降り立った。タラップを降りて、バスに乗り換えて、空港のビルの中に。暑い。すんごい蒸し暑いっす。でも、そんな事が吹っ飛んじゃうくらいのワクワク。海外に出たのは、23年ぶり。まして、発展途上国やアジアは初めて。TVでは見ていたが、肌でそれを感じたい。手続きを終えて、空港を出ると、私達の名前の書いた紙を持った現地ガイドさんがいた。勿論他にも、まるで戦後の復員兵を探すみたいに、一杯の現地人のお迎えさんが紙をかざしていた。「少しここで待っててください」とたどたどしい日本語で言われ、他の日本人10人ほどで待っていたら、大きなバスがやってきた。その間、何処をみても、英語じゃないフランス語と、ベトナム語の渦に、頭の中が混乱した。英語なら何とか解る。しかし、全く、何が書いて有るのかもアルファベットじゃない文字もわからない。通貨は、米ドルと、ドン。ドンは1ドル15000ドン。発展途上国の特徴であるように、物凄いインフレなのだ。頭が混乱しそうな単位。買い物、大丈夫かなあ。でも、気持は、ワクワク(*^^)v新しくて古い国・・・が第一印象。空港から、ホテルまでの道すがら、フランス統治下の名残を残すコロニアルな素敵な建物が並ぶ。それぞれが嗜好をこらした町並みは、忙しく左右を交互にみていても、一向に飽きない。貧富の差が大きいのがその町並みをみると一目瞭然。大きなルネッサンス風のお屋敷があると思えば、まるで爆撃でも受けたのかと思うような荒れた石造りの無数の小さな商店も。しかし、その活気は素晴らしい、街に勢いがある。車の数より圧倒的に多いオートバイが、まるで曲芸をみせられているように、バスやタクシーの僅かな隙間を縫って追い越していく。それはもう、老若男女すごい数。しかし車も負けてない、凄い数のクラクションに、慣れないこちらは、バスの窓からヒヤヒヤして見ていた。 町の至る所が工事中。建物も、歩道も、所々、瓦礫のようなっているのは、社会主義国の特徴か。1000年に及ぶ、中国の植民地。100年のフランス統治下、ベトナム戦争、その後の南北の統一と経てきたこの国が、外国に翻弄され、今、自国の足でやっと立ち上がり、歩きだした赤ん坊のように、希望に溢れ、それでも、まだ危うさの残る町に足を踏み入れた気がした。バスの車窓からは、私の好奇心を十分刺激する、何だか解らないお店の洪水。写真屋さんだろう、レトロな色のレトロなポスターが貼られている。間口が、凄く皆小さい。後で聞いたら、税金のためだそう。露店に毛のはえたような店から、しっかりした店までが雑多に並ぶ町並み。そんな景色を見ながらホテルに到着。シェラトンで降りたのは私達夫婦だけ。日本語の出来るコーディネーターに食事の予約などお願いし、私たちは部屋に、彼は、他の客と次のホテルに向かった。部屋に入ると、ウェルカムフルーツが。小さなバナナとオレンジ、青いりんごとカードとお皿。窓の外は、17階の眺望。高い建物があまり無いので、ホーチミン市全部が見渡せるようだった。すぐ近くには、美しいルネッサンス洋式の建物、人民委員会庁舎があった。前は、デパートのようだが、たかだか4階ほどしかなかった。そうだ!ベトナムは、大好きな花の国でもあるんだった。 それは夕食の時、まず、出会った。少し頭痛がし、眠った後に見た時は、胸踊る思いだった。私達が予約したのは、ホテルの中のフランス料理のお店。窓際のお席に通された。直ぐ横の、背の高いスタンドに、大、中、小のガラスのボールが有り、その中の水に、生のお花がたっぷり入れられ、ろうそくが浮かべられていた。水の中で、生き生きと咲かせる種々雑多の花の美しさ。そのあまりの美しさに、しばし、見とれてしまった。お料理にも、必ず、お花が添えられた。遠くにはガラス越しの厨房が見えた。中には、ベトナム人ばかりでなく、どうやら、シェフらしいフランス人女性が。ああ、どうりで、細やかな心使いのお料理ばかりだったんだと気付いた。お料理を運んでくれるのは、とても感じの良いベトナム人の女の子。お料理の合間に、私のデジカメに付いていた万華鏡のストラップを見せたら、「 very beautiful!」と何度も目を丸くして万華鏡を覗いて、笑顔で仰った。お料理は本当に美味しい物ばかりだった。メインディッシュの頃には、私もパパもギブアップ。もう、入りません。先のベトナム人の可愛い係りの女性が、美味しくない?と言う仕草をしたので、「No No! Very delicious.」でも、もう、おなかが一杯と手振り身振りで表現。最後に3種のクリームブリュレが出てきた時は、流石に、「悔しいけど、もう、だめだ」とパパ。私は、メインデッシュのお肉さえ、食べられなかった。見ると、横の席の欧米人の小学生くらいの男の子は、みんな、食べられていた。やはり、日本人とは、体の造りが違います。その頃に、シェフの女性がやってきて、ご挨拶。綺麗なフランス語。どうやら、今晩はようこそいらっしゃいました、お料理は如何でした・・と言う意味を言っているよう・・とはこちらの勝手な想像。とりあえず、知ってるフランス語で「メルシー」。とても素敵な笑顔で、同じように「メルシーボクー」と返って来た。部屋に帰ると、飲んだワインのせいで、パパは、そのままベッドに倒れこみ寝ちゃった。私は明日行くお店を地図でチェック。17階の窓から表を見ると、もう、10時近いと言うのに、道には、相変わらず凄い数のオートバイが。そう言えば、コーディネーターが、公園の横を通る時、言っていたっけ。「今日は、『月の祭り』なんです」なんてロマンチックなお祭りなのかと、これから始まるベトナムの街めぐりに余計ワクワクしたものだった。公園には、大勢の人が集まりだし、道端には、本やら、食べ物の屋台が開く準備をしていた。その頭には、あの、すげの傘のようなベトナムの円錐形の帽子が。情緒に溢れていた。日本の空港で借りた国際電話の出来る携帯電話で、日本の留守宅に連絡。チビが嬉しそうに「あ、お母さん!」電話してから気が付いた。時差が2時間あったんだった。え?じゃ、日本は12時。悪い事しちゃったかな。今日は、もう、おなかが一杯で、バスに浸かる気になれなかったので、横にあったシャワールームでシャワーを浴びた。流石にエステの国。シャワーも3箇所にあって、シャワーの口金を回すと、マッサージが出来るようになっていた。当たり前のように、バスソルトも付いていた。TVを付けたら、どこもニュース。面白いなあと思ったのは、日本のことを結構、話題にしていたが、アメリカのことは全く、出てこない。ただ、イギリスのBBCだろうか、英語の放送が入った。後は、フランス語が多かった。多分、TVがあるようなベトナムの家の人は、フランス語も、英語も解るのだろう。見ていて、ああ、そうなんだと思った事は、ベトナムにとっての日本は、日本にとってのアメリカと同じなのだ。ベトナムにとって、日本は、憧れの国であり、とても近い感覚の国なのだ。ベトナム戦争は、私の年代の方には、まだ、記憶に新しいだろう。この小さな国が、軍事力も、軍備も世界最大の国に勝ったのだ。枯葉剤などの影響が未だに残るこの国は、日々、物凄い勢いで進歩しているように思う。そんな中、日本と言う、同じアジアの先進国に、学ぼう、追いつけと国を挙げて、一生懸命な姿勢が、この勢いのある元サイゴンと言われたホーチミンを、ほんの半日、垣間見ただけで、感じられた。それはこれからの2日間でより強く感じる事になった。画像は、所狭しとお店の前に置かれたバイク。どこでもこの状態。飛行機の窓から見えた、メコン川の雄大な流れ。
2006年10月06日
コメント(0)
いよいよベトナム行きです。朝から、用意をしなくちゃいけないのに、全く、こういう時に限って、何故と思うのだが、鬱状態。何度も起き上がって用意をしようとするのだが、持続しない。少し動いては、横になっていた。情けなくて、どうしてなのよ~と誰も居ない家の中、ヒステリックに叫んで見たりするが、声は、誰もいない空間にこだまするだけ。どうにも状態は良くならない。嵐君のHDDに録画してある物を片っ端から見た。でも、一向に良くならない。ええい、ままよ、行くまでに用意すりゃー良いや・・・と、諦めた。お昼過ぎ、パパが帰ってきて、つれないことを言う。「用意できたか」出来る訳が無い。ボーっとしている私に、「いいぞ、いつでもキャンセルしてやるから」行きたくない訳じゃないよ。体が動かないのよ。どうして、どうしてと、自問自答してみても、ジレンマに陥るだけ。これが鬱。もう、何回も経験してきた状態。まさか、行く前になるとは思っても見なかったが・・・。夕方、少し、動けるようになり、クリーニング屋さんに、洋服を取りに行った。夜になり、パパが帰宅してから、必要な薬など買いに出た。普通に動けた!何より、それが嬉しかった。オネエが「もう、会えないかも知れないから言いたいことあったら、言っといて、ジュリアンの散歩のことは解ってるから、それ以外」と電話してきた。「お母さん、朝から鬱が酷くて、まだ何も用意してないから、貴方が帰って来る頃には、まだ起きてるから、大丈夫」と言うと、くくっと笑って、のたまった。「鬱は、夕方になると、動けるように成るんだよ」その通りだった。まったく、娘がカウンセラーになるのも、考え物だなあ。チビには、夕食の時に、緊急の連絡先など渡した。寝不足になっても良いや。飛行機の中で寝れば良い。時間はたっぷりある。それでは、皆様、行って来ます。嵐君台湾公演に行けなかった代わりのベトナム。楽しんで来ようっと。
2006年10月05日
コメント(2)
最近さぼっていたが、ドールのページを少し更新した。UPした子が、いつの間にか皆、お嫁に行ってしまい、気がついたら、「SOLD OUT」ばかりになった。お嫁に行った子を「SOLD DOLL」にアップし、長いことうちにいる子をお値下げした。そろそろ、本腰を入れて、新しい子をアップいないと、叱られそう。晩秋の頃に、メインの「ANTIQUE DOLL」を一新したいと思って、少しずつ、お天気の良い日に撮影しているが、なかなか出来ない。私は、やっぱり、ドールが好きだなあ。撮影の為、閉めたままだったキャビネットを開くと、凄く嬉しい。どの子から撮影しようかなあ・・とか、あ、この子、お洋服代えてあげようかなあ・・とか。そう言えば、この子もいたんだ・・とか。すぐに時間が経ってしまう。今いる子達の中には、もう、30年の付き合いの子もいるし、ここ数年の付き合いの子もいる。よく、Kさんは、お名前をつけないのですか?とたずねられることが多い。お譲りする際も、この子の名前は何と言うのですか・・と聞かれる。しかし、いまだかつて、名前はつけたことが無い。ただ1人、娘が、十朱幸代さんに似ている子を、「十朱さん」と呼んでいる子が1人だけいる。あとは、その人形のファクトリーの名前や、モールドを、ダイレクトに呼んでいるだけ。正直、数が多いので、忘れちゃうからなのだ。数が多い・・・と言うと嫌味に聞こえるかもしれないが、本当に安価な子から、高額の子、外国の子から、日本の子まで、現在我が家にいる子は、40体以上になる。その子達にいちいち名前をつけて、覚えられるほど、私は頭が良くない。だから、つけていないだけなのだ。早くアップして、新しいママの所にお嫁に出し、お名前をつけてもらえるようにしないと、いけません。頑張ろうっと。
2006年10月03日
コメント(0)
歯科医の日。名古屋通いも、なれてきた。30年前は、ずっと通っていた道。学生時代と、社会人と、新婚時代と通算10年。新婚時代は、住んでいた所だ。今住んでいるところより、地理的には、詳しかった。東京から引っ越してきて、この街の学校に通ったのは、3年だけだから、後は、ずっと名古屋だったし・・。子供が幼稚園に通いだしてから、この街を歩くようになった。この街も住んで35年になるから、最近は、名古屋と同じくらい、なじんできた。住めば都とは良く言ったものだ。今日は、歯垢のお掃除だけ、「あとは、旅行から帰ったら、しましょうね」。いつも、歯科医の帰りに、名古屋で食事をして帰る。今日も、そうしようかなあ・・と思った。しかし、ちらっと、電車の駅から車を止めた駐車場までの食堂街の、美味しくて評判の回転寿司のお店が頭に浮かんだ。いつもとても混んでいるが、1人くらいなら何とかなとかも・・・。今日は、このまま、電車に乗ろうっと。マクドナルドの前を通った。あ、そう言えば、パパが何とか言うの食べたいって言っていたなあ。お店入って、買って駅に行った。駅に行くと、丁度急行が出たところ、次の急行まで、あとまだ30分以上ある。ええい、特急に乗っちゃえ~。特急券代500円は勿体無いけど、まあ良いか。ところが、この選択が、実は後から、功を奏した。12時20分駅に着いた。駐車場に向かい、少し買い物をして、家に帰りついた。着替えて、TVを付けたら、ドラマがやっていた。買って来たパイを食べながら見ていたら、ニュース速報。----踏み切り事故で、現在、近鉄名古屋線は上下とも、不通----え?どう言う事?後から知ったが、私が乗った特急が、2つ向こうの駅の踏み切りを通過する頃、クレーン車が踏み切りに入り、送電線をひっ掛けて電車が、そこの駅から、名古屋駅まで不通になったそう。つまり、私が乗った電車以降のこの街まで来る、名古屋発の電車はすべて不通になったと言う事。それも事故が起きたのが、午後12時40分と言うから、まさに、あの電車が、事故現場を無事に通り過ぎたか、過ぎないかの時間だ。我が家は、大きなこの街の駅から、さらに、ローカル線に乗り換えて3つ目なのだが、私はいつも、そのローカル線に乗らずに、車で大きな駅まで行ってしまう。2時過ぎに、母がローカル線に乗ろうとした時、まだ、いつ復旧になるのか解らないと言われ、タクシーで帰って来たそうだから、本当に、名古屋で食事をしていたら、帰ってこられなくなったと言う事。チビが、夜8時過ぎに帰宅したとき、「まだ、凄く遅れていたよ」とのことだそうだから、相当時間、名古屋に足止めをくらうところだった。本当に、これが、危機一髪というのだろう。
2006年10月02日
コメント(0)
朝から凄い雨。なのに、チビも、オネエもデートだってさ~。オネエが可笑しかった。「何処行くの」「・・・・」「映画とか、美術館とか?遊園地?」「そういうの、皆、つまんないって解ったからゲーセン」「はい?」「ゲーセンが一番面白くて、落ち着くって解った」「ばっかじゃない」「だって、コインが6000枚有るんだもん」「6000枚?何それ?」「行く度勝っちゃって、ゲーセンに6000枚、預けてあるの」「どうするのそれ」「全部使うまで、ゲーセンに通う」「・・・・。」もう、22歳の大学院生同士のデートとは、思えません。呆れて、それ以上、聞く気になれなかった。・・・と言うより、似た物同士なんだなあって呆れた。折角、遠くから帰って来た彼との久しぶりのデートが、ゲーセン。高校生じゃないんだからさ~。チビは、名古屋でデートらしい。こっちの方が、ましなんじゃないの~。で、結局、また、パパと二人っきり。「卵、買いに行くか」そうか~、私達のデートは、卵買いに行くってか?それも何だかな~。結局、例の美味しい卵、買いに行くついでに、色色行くことになった。パパは、ゴルフのズボンの直しを取りに、私は、プロショップに、色色な食材を買いに、卵を売ってる養鶏場に行く前に行った。今日、買った物。ごぼうの千切りが一杯入った冷凍、ブロッコリーの冷凍。この前買って、好評だった、スモークした豚ばらを煮た、豚ポーローの冷凍、それにキュー○ーのゴマだれドレッシングの、業務用の大きなボトル、それから、明太子が皮を取り除いて、チューブに入った業務用の物。これ、優れもので、明太子マヨネーズにも出来るし、明太子スパゲティにも出来るし、ほうれん草と和えるのにも良い、一つ買って置くと、凄く重宝する。さてさて、買い物を済ませ、街中から、山の方に向かって走り出した。我が家のある場所を通り越し、ドンドン山の方に向かった。確かホームページによると、このあたりなんだけど・・・。ここそう言えば、パソコンを習いに行った研究学園都市センターのある、鈴鹿山麓リサーチパークへの道だなあ。両側に良く肥えた土の色をした、綺麗な畑が続いていた。あ、あった、あった、「きら○の里」駐車場に車を入れると、大きな養鶏場の明かりが見えた。凄く大きな養鶏場だ。まだ、雨は振り続いていた。販売所に入ると、一杯人が来ていた。トレイに綺麗に並べられた茶色い卵を、皆、物凄く沢山、買っていく。ホームページには、有機肥料で育てた鶏肉の味噌漬けとか載っていたのに、探すと、生のもも肉しか無かった。聞くと、「ああ、もう、やってないんですよ。早く更新しなくちゃいけないんですけど、忙しくてなかなかね~」な~んだ、そうなのね。スーパーみたいに、玉の大きさが揃っている訳じゃないが、本当に、新鮮で美味しいのだ。こんなに近くにあるのだから、また度々来れば良い。今日は、30個買った。母に10個あげよう。トレイに入れただけだと、1個20円。安いよな~。パパが抱えて、私が傘を指して、車に戻った。母のところに寄って、卵を置いて、お茶を飲んだ。「この卵、冷蔵庫にいれちゃだめよ」「あ、そうなんだ、どのくらい?」「3日したら、入れたほうが良いけど、新鮮なうちは、入れたら味がおちるわよ」流石に、田舎育ち。そんなこと、知らなかったから、先日頂いたのは、すぐに、冷蔵庫に入れた。それでも、黄味が黄色くて、盛り上がって、こくがあり、美味しかった。パパとのお買い物デート、なかなか楽しかった。冷蔵庫の中が一杯になった。頑張って、美味しい物、作りましょうね。
2006年10月01日
コメント(0)
全33件 (33件中 1-33件目)
1
![]()

![]()