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ローマでは、「テロリスト」の要求に応えて市民のデモがあった。「人質解放願いローマでデモ 市民が自発的に行動」ここで、「テロリスト」とカッコ付きの言い方をしているのは、「テロリスト」の定義が統一されていないこともあり、いわゆるマスコミが使う意味で「テロリスト」という言葉を使っているのでカッコ付きにしてある。誰を「テロリスト」だと思うかによって、「テロに屈した」という評価も違ってくるからだ。さて、このデモは、どこかの市民団体が行ったものではなく、人質の家族が、人質を救いたいという願いのもとに行ったものに、賛同する市民などが自発的に参加したものだ。これは、家族やデモに参加した市民は、「テロに屈した」のだろうか。ローマでデモを行うように、というのは犯人側の指示だった。その指示通りに行動したのだから、形の上では「テロに屈した」のである。しかし、これは非難すべき事だろうか。僕は、人質の家族という個人が「テロ」(脅し)に屈してもかまわないと思う。それに同情する市民(個人)が、やはりテロに屈したように見えても、どこが悪いかと思う。国家は「テロに屈する」姿勢を見せてはならないが、個人は、それに屈するように見えようともかまわないと思う。国家のために死を覚悟しろなどとは誰も言えないと思う。僕は、たとえ形としては「テロに屈した」ように見えようとも、ローマでデモが行われたことはとても良かったと思う。これによって、次の段階への期待が持てるようになったからだ。もし何も起こらずにいたら、犯人側は、予告通りに人質を3人とも殺害したかもしれない。そうしたら、イタリア人の側にも大きな恨みを残し、犯人側にとっても、イタリアは国を挙げて自分たちの敵になったと解釈するだろう。しかし、ローマでデモが行われたことにより、これを犯人側がどう受け止めるかという問いかけがなされたことになった。その答が、どう出るかで政治的な動きが変わる可能性が出てきたのではないだろうか。上の記事では、「デモは、米軍の攻撃で多くの死傷者が出ているファルージャのイラク人への連帯も表明。」とも報道されている。これを犯人側が正しく受け止めて、自分たちの要求が満たされたと解釈し、人質を解放することが彼らにとっての正しい政治的判断ではないかと僕は思う。このような判断が出来れば、それは彼らが単なる「テロリスト」ではないということの証明にもなると思う。犯人の側が、人質を解放することを僕は期待し望んでいる。ファルージャでは、米軍の激しい攻撃のもとにイラク市民が多数虐殺されている。これこそは、正しい意味での「テロ」に違いないと思うのだが、ファルージャ市民はこの「テロ」に屈していないように僕には見える。どんなに一般市民が虐殺されようとも、反米勢力が密告などで売り渡されているようには見えないからだ。ファルージャのイラク人こそが、「テロに屈しない」誇り高き人々ではないかと思う。「テロに屈しない」という姿は、ここにこそ見られるのではないだろうか。
2004.04.30
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政府閣僚の中に年金未納者がいたにもかかわらず、政府の年金法案は、深い議論もなされないままに数の論理だけで採決されてしまった。本当に民意の反映であるかどうか疑わしい国会勢力の中で、形式だけは民主主義を整えたやり方で、多くの反対者がある法律が成立した。この法案の審議の過程で暴露された年金の未納については、小泉さんなどは「うっかりしていたのではないか」という言葉で片づけようとしている。「うっかりしていたのではないか=民主党代表の国民年金未加入問題で首相」イラクで人質になった日本人には、不当に重い「自己責任」を追求していた人が、この問題では全く責任を追及することなく、この一言だけで片づけてしまうと言うセンスは何だろうと思う。それは、小泉さんが全く自分自身の責任は感じない無責任なセンスの持ち主であることを自ら語っていることなんだろうと思う。これは江角マキコさんがうっかりしていたのとは全く違うと僕は思う。政府閣僚というのは、法案を提出する側の人間なのである。その人間が、法律の趣旨(年金を納めることの義務)に違反するというのは、うっかりですまされることだろうか。法案に対する不信感を生じさせたことの責任はきわめて重いと思う。しかも、それが充分認識される前に、ろくな審議もせずに成立させてしまった責任はさらに重いと僕は感じる。江角さんの場合は、江角さん本人の責任よりも、江角さんを起用して、江角さんの年金の状況をチェックしていなかった担当者の怠慢の責任が遙かに重い。今回の政治家の場合は、うっかりしていたと言うだけでも責任があると思うが、百歩譲って、その責任を負うべきものが他にもいるのだったら、それはすべて明らかにして、自己責任を明確にして欲しいものだと思う。家族や秘書にまかせておいたといういいわけをしているものもいたが、それなら、家族や秘書の責任も明確にすべきだろう。その行為が、うっかりなどではなく、もし故意に納めないという部分があれば、それはさらに責任が重くなるだろう。竹中平蔵大臣などは、住民税を払っていないという疑惑さえあった人だ。「竹中金融相・疑惑の取引 不動産売却と住民税逃れ」「竹中大臣の奇妙な住民税不払い答弁」このようなことをする大臣は、きわめて疑わしい目で厳しく見なければならないと思う。また、故意でない場合でも、その意識の軽薄さに対しては、政治家としての責任が重くのしかかるものだと思う。この年金の支払いに関する情報に関しては、福田官房長官など一部の政治家の間では、プライバシーの問題だという声が挙がったそうだ。これに対して文春などはどんな反応をしているのだろうか。政治家の子供でさえも公人の一人だと言って、プライバシーの暴露をした文春が、政治家本人の情報で、しかも国会で審議している法案にかかわるというきわめて公益性の高い情報に対して、どんな姿勢を持つかを聞いてみたい気がする。政府閣僚の他に民主党の菅代表も年金未納期間があったそうだ。これも「うっかり」などと言うことで言い訳できるものではない。もしも、この年金未納に対して、菅代表個人の自己責任が大きなものであるのなら、潔く政界から身を引くくらいの覚悟をしてもらいたいものだと思う。それくらい重い自己責任を果たせば、他の政治家もそのままではいられないだろうと思うからだ。しかし、菅代表の自己責任が、政界から身を引くほどの重い自己責任ではないのなら、それをきちんとした形で証明してもらいたいと思う。うっかりしていたのではなく、行政的な手続きに従って、その通りにしていたのに未納になってしまったというのなら、それを明らかにして欲しいと思う。それが明らかになれば、うっかりではなく、制度の不備によって未納になっていると言うことが明らかになる。それならば、同じように制度の不備によって未納になっている人の、不当な非難を弁護することも出来るからだ。「菅直人の今日の一言 私の国民年金について」の中には次のような言葉がある。「しかし共済に入った時にどこかで誤りがあって国保だけでなく国民年金も脱退扱いにしたようだ。手続は厚生省の大臣官房の担当者が私のすむ武蔵野市との間でやってくれたはず。当時の関係者の問い合わせているが自治体との間でどのようなやり取りが合ったのかはよくわからないという返事。」手続きそのものは菅氏が行ったものではないようだ。その過程でどこかに誤りがあったために年金が未納になったらしい。その誤りが「よく分からない」ままであれば、その責任は、人任せにした菅氏が負わなければならない。しかし、厚生大臣官房の担当者がやった手続きに誤りがあるというのは、制度上に大きな問題があると言うことを予想させる。この責任をぜひ明らかにしてもらいたいものだと思う。菅氏の「自己責任」がどこまで及ぶものであるか、これが明らかにされなければ議論することは出来ないだろう。明らかにならなければ、まさに自己責任で菅氏は政界を去るくらいの覚悟をすべきだろうと思う。
2004.04.29
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小泉さんは、ことあるたびに「テロには屈しない」と言うことを語る。人質事件が起こったときも、自衛隊の撤退を聞かれたときに、この言葉を使ったように思う。自衛隊を撤退させれば「テロに屈した」事になるというのは、世の中の大多数を占める世論の考え方である。自衛隊を撤退させなかった政府の対応を評価するという支持が多かった。これは、自衛隊の派遣に反対している人々でさえも、今回の事件で自衛隊を撤退させなかったことは評価していた。宮台真司氏も、自衛隊の撤退は「論理的にあり得ない」というようなことを語っていた。僕も、この言葉を受け入れるが、「論理的に」ということをどう解釈するかでちょっと違う考えも浮かんできた。「論理的」の中身をもっと深く考えてみようと思う。日本は、今度の人質事件で、犯人の側から要求された自衛隊の撤退はしなかった。一方、列車爆破テロが起きたスペインでは、形の上では、そのテロをきっかけとしてイラクへ派遣した軍隊を撤退させることになった。これは「テロに屈した」事になるだろうか。インターネットを検索して、このスペインの撤退が「テロに屈した」と批判しているニュースを探してみたのだが、次の一つしか見つからなかった。「「テロリスト勇気づける」 米国がスペイン撤退に遺憾」ブッシュ大統領は、「テロリストを勇気づけるような誤った措置をとらないよう今後の行動を慎重にすることが重要だ」と語ったという。これはそれほど強い非難ではないなと思う。そうすると、世界はこの事実を「テロに屈した」とは解釈していないのだろうか。スペインの撤退は、「テロリスト」から脅迫を受けて、その後に「その脅迫を受けて」撤退したという形ではない。撤退が、脅迫によるものだということが明白な形で分かるようなものだったら、「テロに屈した」ということになるだろう。これが、「テロに屈した」と見られていないのは、明白な形にはなっていないからだと思う。それでは、どこが違うのだろうか。スペインでは、列車爆破テロは、最初は国内のテロリストの仕業であると政権は主張した。イラク戦争にかかわるテロではないと主張したわけだ。これは、イラク戦争にかかわっているとなったら、それに対しての姿勢を見せなければならないので、それを嫌ったのではないかと思う。スペインの前政権は、世論がイラク戦争と軍隊の派遣に反対していたにもかかわらず、政府自身はアメリカを支持し、イラク占領に加担していた。その立場上、軍隊の撤退をすることはできないだろうと思う。もし、このような政府が軍隊を撤退すれば、それは明らかに「テロに屈して」撤退したと見られるようになる。自らは撤退したくないのに、仕方なく撤退させられてしまうことになるのだから。だから、スペインにおいても前政権のもとに派遣軍が撤退することは「論理的に」あり得なかったと思う。もしそのようなことが起きたら、前政権が「論理的に」行動しなかったということになるのだが、それは起こらなかった。前政権のもと、スペインでは軍隊の撤退はあり得なかったが、このテロ事件は世論の盛り上がりにつながった。それは、イラク戦争への加担が、スペイン国民を危険にさらすという、論理的な因果関係があると言うことに気がついた国民を増やしたように僕は感じた。その国民が前政権を倒し、イラクからの軍隊の撤退を掲げていた新政権を樹立した。多くの国民は、派遣されている軍隊を心配したことはもちろんだろうが、自分自身も、不当なイラク侵略によって危険が増すということに反対したのではないかと思う。この危険は、「自己責任」で引き受けるべき危険ではないと判断したのではないだろうか。不当な行為をしているアメリカのせいで危険になるのはごめんだという気持ちが働いたのではないだろうか。イラクからの軍隊の撤退を掲げて勝利した政権が、その宣言通り撤退をするのは当然のことであるから、これは、撤退するのが「論理的」で、撤退しないことは「論理的にあり得ない」。これは、時間的な経過で言えば、テロが起きた後に軍隊の撤退が起きたわけだが、単純にテロに屈して撤退が決まったとは言えないのではないかと僕は思う。テロによって要求されていた事柄が、いままでの主張と全く反することであって、基本的な考えが全然変わらないのに、主張に反して要求を受け入れたら、それは「テロに屈した」事になるだろう。しかし、テロが要求している事柄を、むしろ基本的には受け入れている側が、テロ事件をきっかけにして世論の大部分を獲得し、最初から主張していた事柄が実現したとしても、それは「テロに屈して」行動が起こったのではなく、最初の主張が実現したというだけのことではないのか。スペインの撤退の構造は、政権交代が起こっての撤退ということだから、「テロに屈した」事にならなかったと僕は解釈する。そういう意味では、日本において自衛隊の撤退が「論理的に」あり得ないということは、小泉政権がその方向を取ることは「論理的に」あり得ないと言えるのではないだろうか。この場合の「論理的」も、その前提として、小泉政権が行うという条件付きの「論理的」ではないかと思う。小泉政権でない政権が、自衛隊を撤退させても、それは「テロに屈した」事にはならないのではないだろうか。残念なことに、日本ではまだ小泉政権は倒れそうにないから、テロに屈しないために自衛隊は駐留し続けなければならない。自衛隊自身の危険は、当事者にはかなり意識されているようで、宿営地から一歩も出られないような状況にあるようだ。国民の方にはまだそれほどの危機意識が芽生えていないから、小泉政権もまだ存続しているのだろうなと思う。日本国民は、この危険を「自己責任」で選択しているという責任意識があるだろうか。人質になった5人に「自己責任」を叫ぶ人たちは、こちらの方の「自己責任」はどう考えているのだろうか。これから、海外へ行く日本人は、日本人だというだけでテロリストにねらわれる危険を十分意識しながら海外へ行かなければならないのではないかと思う。昨日の筑紫哲也のニュース23では、藤原帰一さんが出ていて興味深いことを語っていた。藤原さんは、イラクへ軍隊を派遣した国の大部分は、イギリスを除けば、それほどの責任を感じて派遣しているのではないだろうと語っていた。多くの同盟国は、アメリカが治安をどうにかしてくれるから、いわばつきあいとして、頭数としてアメリカ単独でやっているのではないという証明のためにイラクへ軍隊を派遣している、と語っていた。この解釈を取ると、イラクが危険になったら、それを体を張って何とかすると言うほどの義理は感じないわけだから、撤退する方が普通だろうと思う。スペインの撤退は、政権交代という大義名分があったが、それに続くいくつかの国にはそのようなものはなく、基本的にはアメリカ支持をしていた政権がそのままで撤退を決めている。これは、テロに屈しているのではないだろうか。むしろ、藤原さんの解釈が正しいものだったら、これらの国は、イラクに軍隊を派遣する前に、すでにテロに屈していたと解釈できるのではないだろうか。本気でテロとの戦いをしようとしていたのではない。アメリカとの同盟関係における利益を優先させた行動を取っただけのことである。そう考えると、日本も同じ穴の狢だ。日本も、もうすでにアメリカを支持した時点でテロに屈していたのではないか。そもそも、アメリカに何とかしてもらおうと思っている、自立していない主体性のない国が、テロと戦って、それに屈しないなどと言える方がおかしい。テロと戦うのなら、まず自立した国になることの方が先決だろう。テロに屈しないというのは、テロをしている側の不当性を確信できるのなら、どんなに武力で劣ろうとも、テロに屈しないことが出来るのである。たとえ、戦いを挑んで死ぬことが分かろうとも、誇りを失わない人間は、戦って死ぬ方を選ぶ。いまの、イラクでアメリカの強大な武力に立ち向かうイラクの人々がまさにその人たちだろうと僕は思う。何もかも失っても、なお誇りを失わない人たちは、最後の一人になっても抵抗を続けるだろう。アメリカ軍は、その数を大したことがないと思っているようだが、それが数十万、数百万になっても、「テロに屈しない」でいられるだろうか。「テロリスト」と呼んでいる人々が、犯罪者に過ぎない人であれば、いつまでも「テロに屈しない」と叫んでいてもいいだろうが、その人たちが誇りある抵抗者であれば、その人たちと連帯することは「テロに屈する」事ではない。「論理的」の中身については、イラクで反米活動をしている人たちを、「テロリスト」として見るかどうかと言う姿勢もかかわっているのではないだろうか。彼らを「テロリスト」だと見るのなら、「テロに屈した」形での自衛隊の撤退は、やはり「論理的に」あり得ないのだろう。
2004.04.28
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自己責任論が世界の非常識というのは、世界がそれを嗤って(わらって)いるから非常識だというのではない。論理的には、 世界中で嗤われている → だから自己責任論は非常識だというのとは逆に、 自己責任論は非常識だ → だから世界中で嗤われているというのが論理的には正しい。世界の民主主義国家の教養ある人たちは、論理的な判断をすることが出来る。だから、自己責任論の中にある非論理性を読みとって、そこに非常識さを見るので、それをあえて論じ立てる日本政府やラウド・マイノリティを嗤うのである。それでは、どこが非常識なのか、論理的な矛盾を導きながら考えてみよう。まず次の言い方の中の非常識を抽出してみよう。「危険なところに自分で行ったのだから、自分の判断に対しては自己責任だ。何が起ころうと自分で何とかしなければならない。」自己責任が云々され始めたのは、世の中が不況になり、ハイ・リスクでハイ・リターンな投資がもてはやされ始めた時代だったらしい。このときの自己責任というのは、ハイ・リスクという危険を承知で、自分の判断でそれを選び取ったのだから、その危険から生じる事態は自分で引き受けなければならないという自己責任だった。危険をあえて選んだのだから、その危険から生じる出来事は、自分で引き受けるべきだというのは、確かに似ている。だから、今回の人質事件だって「自己責任」だ、とこのアナロジー(類推)に飛びつきたいという誘惑に駆られるのはよく分かる。しかしよく考えて欲しい。アナロジーが成立するためには、そこに構造的な同一性がなければならないのだ。それがなければ、この論理は単なる詭弁にすぎないものになる。ここで問題にしたいのは、両者の自己責任の正当性をもたらす「危険」の種類についてである。投資における自己責任をもたらす危険は違法なものではない。未来を正確に見通すことが出来れば避けることのできる危険である。見通すことが難しいから、その危険に遭遇する確率が高いということはあるけれども、危険にあうのは、自分の能力が足りないからだということに反対する人はいない。だからこそ自己責任を追及されても納得するのである。しかし、誰かが犯罪的な手段を用いて危険を生じさせた場合はどうなるだろう。詐欺によってだまされて投資した場合に、その詐欺を見抜けなかったおまえが悪いのだから、損をするのは自己責任だと言って、その詐欺を放置するだろうか。詐欺を行ったものを、犯罪者として裁き、その責任を取らせようとするのではないだろうか。詐欺を行ったものにも責任を担わせ、すべてを自己責任にはしないのではないだろうか。もしすべてを自己責任にするのであれば、それは詐欺という犯罪を放置することであり、犯罪を容認することになる。国家が犯罪を容認したら、国民の安全が脅かされるのではないか。「危険をあえて自分で選択した」ということだけで、その危険の中身を問うことなく自己責任を問うということは、このように論理的には犯罪を容認することになる。深く考えのない個人が感情的にこのような論理を使っても大した影響力はないが、国家がこの論理で「自己責任論」をまき散らせば、国家としての責任を放棄していることを宣言しているようなものだ。だから非常識であって、世界中から嗤われるのである。人質になった5人の日本人は、未来の危険を予知できなかったという点に関して、自己責任を負うべき部分がどこかにあるかもしれない。しかし、それは事実をもっと明らかにして、一つ一つ詳しく検討した後に言えることだろう。この段階で言えることは、彼らが遭遇した危険が、彼らの責任になるべき部分が始めから明らかになっている種類のものかどうかを論じることが出来るだけである。誘拐という行為は犯罪行為である。その犯罪に遭遇した彼らの、危険に対する責任は、その大部分を彼らが負うべき性質のものであろうか。冬山の遭難とのアナロジーで考える人もいるようだが、冬山の遭難は、誰かの犯罪的な行為で起こる事件だろうか。自分が冬山の現実を読みとれなかったという、自分の能力に関する責任が大きいから、自己責任を追及されるのではないか。もし誰かが、冬山なんて大したことはないとだまして連れて行って、その上で遭難したら、遭難した人よりも、だました人間の方の責任を大きく問わなければならないのではないか。冬山の遭難で今回の人質事件の自己責任を論じることが出来ると考えるのは、その構造を理解していないことを露呈しているだけではないか。彼ら5人に全く責任がないというわけではないと思う。危険の予知ということでの失敗があったからこそ誘拐という事件に巻き込まれてしまったのだから。しかし、この予知の失敗というのは、彼らがすべて責任を負うような失敗ではない。予知のための情報に間違いがあれば、その情報の提供者にも責任がある。そして、もちろん犯罪の当事者である犯人の犯罪に対する責任が最も大きいはずだ。だからこそ政府は、国家としての義務として犯罪者から彼らを守らなければならなかったのだ。日本国憲法には思想・信条の自由があり、それで差別されてはならないという条項がある。だから、人質になった彼らが、どんな考えを持っていようと、それによって国家が守るか守らないかという差別的な扱いをしてはいけないのである。国家にたてついていたから守らなくていいのだというような論理は、憲法違反なのである。このような事件で、国家が誰かを守るために動いたなら、どんな国民であろうとも守らなければならないというのが国家の義務なのである。もしも、彼らを守らなくていいのだというのなら、逆にどんな国民でも、同じように自己責任を問わなければならないのだ。イラクでは二人の外交官が殺された。痛ましい事件だったが、彼らはティクリットという非常に危険な地域に、しかも占領軍のために働くという、これまた非常に危険な仕事をするために行っていた。この大きな危険にもかかわらず護衛がいなかった。これは、危険を軽視したミスではないのだろうか。このミスに対してどうして自己責任を問わないのだろうか。この不平等の底にある感情というのは何だろうか。日本政府が、人質になった彼らに自己責任を問うというのは、誘拐という犯罪の責任を被害者に背負わせるということである。これは、逆に言うと、誘拐という犯罪の責任を問わずに、犯罪者を放置し、犯罪を容認することでもある。政府は、自らが「テロリスト」と呼んでいるものたちの行為を容認するのだろうか?人質になった人々は、自衛隊派遣に反対し、自衛隊撤退を主張していたから、「テロリスト」に近く、彼らを容認しているという非難もあったが、論理的には、政府こそが「テロリスト」を容認しているのではないか。結論的には、これが一番大きな矛盾であり、これが導かれるような「自己責任論」だから世界中から嗤われるのである。政府が何度も繰り返す「テロに屈しない」という言い方にも論理的なおかしさを感じる。今回犯人の要求に従って自衛隊を撤退したら、これは「テロに屈した」事になるだろう。問題は「要求に従って」と判断する部分を単純に受け取る事への疑問だ。スペインは、列車爆破テロをきっかけに撤退への流れが始まった。これは「テロに屈した」事になるのだろうか。そう判断するのは単純すぎると思う。テロをきっかけにして撤退したとしても、その撤退の構造がすべて同じようには見えない。明日は、このことをちょっと詳しく考えてみようかなと思っている。
2004.04.27
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衆院統一補欠選挙は3選挙区とも自民党の勝利に終わったらしい。<衆院補選>3選挙区とも自民が勝利 与党に参院選への自信この勝利によって、自民党は自らの政策が支持されたというふうに民意を解釈しているようだ。それで国会運営に関しても強気の姿勢を見せ、<年金制度改革>補選3勝を受け28日にも衆院厚労委で採決という方向が見られると報道されている。あれだけ批判の多かった法案が、こんなに簡単に支持されたと解釈されてしまっていいのだろうか。ここで、自民党の政策を支持している民意というものをちょっと考えてみたい。<衆院補選>民主党の前に「自公」の壁 公明票がフル稼働この報道を見ると、自民党勝利のもっとも大きな要素は、公明党の持っている組織票にあるという分析がなされている。この組織票は、民衆が任意に自由に選択した結果としての「民意」とは言い難いものだ。報道では、「埼玉8区では公明党支持層の9割以上が自民候補に投票したと回答」したらしい。選挙結果が「民意の反映」であるという事への疑問の一つとして、主体的な個人が選択した結果としての選挙結果ではないと思えることをあげておく。それでも、そのように主体性のない個人が本当の多数を占めるのなら、残念なことではあるが、主体性がないということが民意であるという結果を受け取らなければならない場合もあるだろう。しかし、選挙で自民党が集めた票が、必ずしも多数派だとは思えない要素もある。<衆院補選>投票率は昨秋の衆院選から大幅に低下これを見ると、今回の投票率は「最も低かった埼玉8区は35.22%」だったそうだ。しかも、実際の得票を比べると、「■埼玉8区=選管最終発表当 52,543 柴山 昌彦38自新(1)=[公] 46,945 木下 厚59民前」<衆院補選>3選挙区の各候補得票数=選管最終発表この得票数の差が、どの程度の比率の差になるか、ここではデータがないが、かなり少ない差であろう事は予想できる。そうすると、少ない投票率の、またその中での絶対多数ではない得票の、そのまた一部の公明票が、この選挙結果を大きく分けてしまったということが考えられる。選挙結果における「民意」とは、このような中身を持ったものなのである。サイレント・マジョリティの意思が反映されず、ラウド・マイノリティの意思が反映された結果での「民意」なのである。このような形の「民意」で選択されたものが、本当の民主主義なのだろうか。このような民意のねじれを生じさせた責任は、まず第一に公明党にある。本当の民意を反映させるためには、公明票という組織票に左右させてはならなかった。そして、投票率の低さで、この公明票の影響を阻止できなかった、反対側の勢力の民主党の責任も大きい。正しく「民意」が反映しないまま、日本の歩んで行く方向は、アメリカ追従のイラク戦争の道になり、年金破綻の道であり、まさに破滅への道を一歩ずつ進んでいるように見える。小型核解禁に問題なし 米政府が議会に報告書この記事は、また見出しが気になる記事である。米政府が、議会に対して「小型核解禁に問題なし」と報告したことは事実に違いない。しかし、政府が報告したからといって、このことが正しいとは限らないのだが、このように報道されてしまうと、あたかもその報告が正しいかのように受け取る人がいないだろうか。「小型核解禁」はおおいに問題があると思うのだが、米政府の立場としては、問題があると報告したらその開発が出来ないのだから、立場上問題がないとしか言えないのに、それをわざわざ見出しにするということに疑問を感じる。記事の内容では、「昨年決まった条項の廃止は米国の大量破壊兵器の不拡散政策に悪影響を与えず、ロシアや中国との核軍拡競争を招く要因にもならない」という米政府の主張と、「米ロの核均衡を崩壊させ、核使用の敷居を下げる」というロシアのイワノフ国防相の言葉を並べている。そして、「米政府が同条項廃止の影響を明確に否定したことにより、今後、小型核の研究、開発に拍車がかかる恐れが出てきた。」と、一応バランスのとれた内容になっている。それだけに、なぜこの見出しになるのかという疑問が消えない。記事の内容から見出しを付け直せば、「小型核の研究、開発に拍車がかかる恐れ」あるいは、「米政府の「小型核解禁に問題なし」の声に疑問」というような見出しになるのではないだろうか。見出しの付け方によって、世論はかなり影響を受けるのではないかと思う。思えば、3人の人質をバッシングする空気を作るのに、マスメディアの「見出し」の付け方も大きな影響を与えたのではないだろうか。我々は、マスメディアの記事の内容とともに、その見出しをも疑ってかからなければならない。
2004.04.26
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昨日の日記で紹介した綿井さんの報告には、綿井さんが石を投げられて驚いたというようなものがあった。それまでは、そのような扱いは受けなかったのに、イラクでの反日感情がかなり剥き出しになってきたという印象を受ける。このイラクでの反日感情というのは、マスコミのニュースではほとんど伝わってこない。自衛隊を派遣したことによって、日本は米軍側に立ったということが鮮明になったので、反日感情が高まると心配した人は多い。今回の人質事件も、その現れだという人もいる。実際のイラクでの反日感情がどうなのかを報告しているニュースをちょっと探してみた。まずは、「久保田弘信イラク日記 1月25日」に記述されているものを見てみよう。「夜でもサマワは非常に治安がよさそうだ。そう 見えるのが恐い。バグダットではかなり反日感情をむき出しにされた。サマワにも反日感情を持った人がいるのが当然だと思う。彼らがいつ急変するのか、それを考えると平和すぎるサマワが余計に恐い。」この時期でもすでにバグダッドでは反日感情がかなりあったと言うことが書かれている。それに比べて「サマワに入ると予想以上の日本人歓迎ぶりに驚く。もともとイラク人は日本人に好感をもっていてくれたが、今のサマワの歓迎ぶりは異常だ」と、サマワの状態がおかしいということも書いている。ケン・ジョセフ氏によれば、サマワでは自衛隊歓迎の意志を表すことが、地元有力者の意志だったというようなことも語っていた。すでに、この時点でもかなりの反日感情があったように見えるのに、それは報道されていない。しかし、人質事件をきっかけにして、それを無視することが出来ないくらいに反日感情が顕在化してきたのではないだろうか。数は少ないが、最近のニュースからちょっと探してみた。「一部に“反日感情” イラク戦で米英支持「裏切られた思い」」見出しでは「一部」と書いてあるが、これには疑問を感じる。本当に一部なんだろうか。日本人であると言うだけで石を投げられるという反日感情は、かなりイラクの人々に共通な感情になっていないだろうか。ここに記述されている次の事実をどう受け止めるかは大事な問題だと思う。「自衛隊のイラク展開についても、復興の手助けになると歓迎する声がある反面、「軍服」に対する違和感を口にする市民も多い。バグダッドで会った店員は、「イラク戦前は日本人が好きだったが、今はそれほどではない。自衛隊は平和目的で来ているというが、米国の圧力がかかっているのは間違いない」と複雑な思いをのぞかせる。」自衛隊派遣の建前の平和目的と、本音の部分の米軍支援に対して、イラクの人々は正しく見つめているのではないだろうか。もしそうであるなら、反日感情が蔓延する方が論理的には整合性があるように見える。イラクの反日感情に関する記事は、この一つしか見つからなかった。これは、情報の操作だろうか。それとも、伝えるほどの情報がないのだろうか。日本にいる我々には分からない。それを伝えてくれる勇気あるジャーナリストを、やはり必要としている。「イラク人雇用拡充 橋・道路再建事業も」というニュースでは、次のような記述がある。「先崎一・陸上幕僚長は22日の記者会見で、イラクの治安情勢について、「イラク全体が不安定な状況だ。サマワ周辺は比較的安定しているが、油断できない」と述べた。その上で、「現地の(自衛隊への)期待感は非常に大きい。これにこたえる事業をしないと期待を裏切り、(自衛隊の)安全確保のうえで非常に大きな問題になる」と懸念を示した。」これは、イラクの反日感情を直接語る記事ではないが、自衛隊の責任者でさえも、期待を裏切れば問題になると語っている。これは、期待を裏切れば反日感情が、サマワでも高まるというふうに受け取れないだろうか。記事が少ないにもかかわらず、僕にはイラクで反日感情が高まっているように感じてならない。この反日感情が高まっている原因は自衛隊派遣にある、と考えるのは論理的に整合性があると思うんだけれどな。最後に、世界の常識を感じるニュースを引用しておこう。「「日本人は人質に冷たい視線」 米メディア 「お上に盾突き」非難浴びる」「AP通信は同日「人質に非難の嵐」との見出しで記事配信。三人が「政府の警告を無視した」「自衛隊を危険にさらした」理由で非難され「受刑者のように家に閉じこめられている」と伝えた。CNNテレビも「黄色いリボンはなかった」と放映した。タイムズ紙、AP通信とも「危険を恐れない国民がいることを日本人は誇りに思うべきだ」とのパウエル米国務長官発言を使って、日本人の反応に異議を唱えた。さらにタイムズ紙は「三人の罪はお上に盾突いたことだ」と分析。政府が言う“自己責任論”を「結局、政府に何も期待するなと言っていることと同じだ」と批判している。」3人の人質を批判するのなら、非常識な「自己責任論」で批判するのではなく、もっとまともな意見で批判してもらいたいものだと思う。そうでなければ、今回のことを教訓にすることはできないだろうと思う。「「不可解」な日本? 人質への非難に驚く米社会」「イラク日本人人質事件で、解放された人質が日本国内で冷淡に扱われたり、非難の声を浴びていることに、米国で驚きが広がっている。善意を尊び、職務の使命感を重視する米国人の目には、日本での現象は「お上」(政府)が個人の信条を虐げていると見え、不可解、奇異に映っているようだ。 米主要紙には22日から23日にかけ「OKAMI(お上)」や「JIKOSEKININ(自己責任)」という日本語が並んだ。 ロサンゼルス・タイムズは「敵意の渦中への帰還」という見出しで人質への対応問題を特集。 小泉純一郎首相が政府の退避勧告を無視しイラク入りした人質を、自己責任論を振りかざし非難したと伝えた。同紙は、対照的な例として、カナダの人道援助活動家の人質が地元モントリオールで温かい歓迎を受けた例を紹介、日本の例は「西側諸国とはまったく違った現象だ」と評した。」これも、日本の常識は世界では非常識であることを見事に語っている。
2004.04.25
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イラクでの人質本人とその家族に対するバッシングの一つに、政府にたてついていたのに、政府に助けを求めるなんてけしからんという感情的な反発がある。僕は、これはおかしいと思う。もし本気でそんな感情を持っていたとしたら、これは近代民主主義国家の国民としての自覚を欠いていると言わざるを得ないのではないだろうか。未だに江戸時代のような「お上意識」という封建主義的な感覚しか持ち合わせていないのではないかと疑う。アメリカの憲法には、国民が政府を倒すことの権利が書かれていたように記憶している。政府が国民にとって、抑圧をし、権利を押さえ込もうとするようなものなら、国民の利益を守るために政府を倒すのが国民としての自覚であるような印象さえ受ける。政府というのは、たまたま現在の時点で権力を持った勢力に過ぎない。日本の国そのものを象徴するようなものではない。その政府に反対の立場を取るのは、単に現在の時点で利害が衝突しているということに過ぎない。利害が衝突していれば政府に文句を言う方が当然の行為だ。我慢して耐えなければならないと言うのは、近代民主主義国家の国民としては失格だ。我慢すれば、不正を温存する可能性がある。そうすれば、不利益は自分だけにとどまらず、他の人間が不利益を被るのも結果的には容認することになる。イラクで人質に取られた人々が、日本国民であることを放棄した人々であれば、政府はその人たちを見捨てたとしても非難はされないだろう。しかし、彼らは国籍を放棄したり、他の国を生活の基盤にして、日本とは縁を切っていた人たちだろうか。日本国民であれば、たとえ反政府の姿勢を持っていようと、その国民の生命・財産を守るのは国家としての義務ではないのだろうか。その義務を果たさないことの根拠としての「自己責任論」は、政府の側の「政府無責任容認論」に過ぎないと思う。国民は、むしろこのような無責任な現在の統治権力としての政府を、批判し打倒するくらいの気持ちを持っていいんじゃないかと思う。現在の政府に逆らう人間は助けなくてもいいなどという非常識な考え方を許してはいけない。政府などは、民主主義国家なら世論によっていくらでも変わりうる存在だ。スペインを見ればよく分かる。その時々の世論によって選択されるに過ぎない政府が、恣意的に守る国民と守らない国民とを差別するようなことを許していたら、国民の自由を弾圧することになるのではないか。これは民主主義の破壊だと思う。マスコミに載ってこないニュースを伝えるフリーのジャーナリストは、結果的に政府を批判し、反政府の立場に立っているようなニュースを伝える場合が多い。しかし、ジャーナリストの基本姿勢というのは、神保哲生氏も語っていたが、どちらの立場にも与しないと言うのが正しいと思う。あくまで中立性を保ち、重要だと判断した事実を伝えるというのがジャーナリストだ。事実の重要性を判断するときに、どちらか一方の側に偏らないようにするのが、ジャーナリストとしてのセンスと言うことになるだろう。かつては、本多勝一さんのように、朝日新聞というマスコミの中にいながらも、そのジャーナリスト感覚を失わない人もいた。しかし、現在のマスコミでは、ジャーナリスト感覚を持っている人はもはや生き残れないのではないかという気がする。マスコミは、権力側の立場からの事実を大量に送りつけるだけで、中立性を守るようなポーズに役立つような、本質的ではない反対の側の事実を時々伝えるだけだ。今や、反政府の側からの重要な事実はどのマスコミも報道しない。このバランスを埋めるために、フリーのジャーナリストが存在しているという感じを僕は受ける。イラクのような危険地帯へ向かう人々は、まさにこの偏った報道に対するバランスを保つために、我々に貴重な事実を伝えてくれているのだと思う。彼らがいなければ、我々は物事を深く考えるための材料を失ってしまう。そういう意味で尊敬されるべき人々なのだと思う。その彼らが命の危険のある誘拐をされたというのなら、彼らの救助に全力を尽くせと言うのは、民主主義を守ることになるのだと僕は思う。現在の政府が、その努力を怠るのなら、政府の義務を果たしていないと批判するのが正しいと思う。その義務をちゃんと果たす政府を要求するのが、民主主義国家の国民としての自覚である。さて、マスコミが流さない貴重なニュースを送ってくれるジャーナリストの報告を一つ紹介しよう。非常に危険であるということが日本人の誰にも分かるようになったイラクで未だに活動を続ける勇気あるジャーナリストである。綿井健陽さんは、イラクにいるからこそ知り得る貴重な情報を送ってくれる。「これが“非戦闘地域”の実体だ!」(週刊金曜日)と題された報告で次のように知らせてくれている。綿井さんは、3人が人質になったと報じられた4月8日に取材のために、危険だと言われたファルージャ近郊に向かっていたらしい。そこで取材をしようとしていたら、次のようなことがあったらしい。「写真を撮ろうとすると、群衆の中から若い男が飛び出し、体当たりしてきた。別の男性が私に向かって石を投げた。石はめがねの右側に当たった。群衆の人たちからも「日本人も米国と同じ。おまえたちは出て行け!」と罵声を浴びせられた。 幸い他の人が止めに入ったので、事なきを得た。これまでイラクでは私が外国人ジャーナリストだと分かると、「どんどん写真を撮れ」「俺の話を聞いてくれ」と、むしろ取材を要望されていたので、これには衝撃を受けた。」今までは、日本は直接占領統治に加担していなかったので、日本のジャーナリストは、イラクの人々の声を世界に伝えてくれる貴重な人々だと受け取られていたのだろう。それが、自衛隊を派遣したことで、占領統治側の人間だと判断する人々が出てきたことをどう受け止めるかということが大事なことだ。この人々は増えていくのだろうか。それともごく一部にとどまるのだろうか。綿井さんのこれまでの仕事を知ったら、イラクの人々の態度も変わるだろうが、まず日本人と言うことで上のような対応が出るということの意味を考えなければならない。それだけ感情的な反応になると言うことは、イラクの人々の絶望もそれだけ深いものがあるのだと思う。このような事実があるというのは、イラクに行かなければ分からない。次のような報告もある。「気になった出来事がある。サマワの小学生たちに自衛隊から贈られた文房具セットだ。同封された白い紙には、「サマーワの友達へ こんにちは、私たちは日本の子供です。皆さんのために勉強道具を贈ります。皆さん、頑張ってください。日本の子供たちより」と、日本語とアラビア語で書いてある。 一人分が500円。これが詰められていた段ボール箱には、値段表が日本語で書いてあるままだった。 しかし、それよりも一つ気になったのは、「日本の子供たちより」という言葉。これは実際には自衛官OBたちからの寄付で購入されたものだ。「ウソだ!」と言いたいのではない。ただ、いくら相手が子供たちでも、「日本の子供たち」という言葉を、こんな時だけ都合よく利用するのは、どちらの子供たちにも失礼だと思っただけだ。これが自衛隊が行っている、文字通り子供だましの「人道援助」の一つの側面である。」これはまことに公益性の高い情報だが、マスコミでこういう記事を見たことは全くない。イラクは危険だからと言うことで、マスコミの記者はみんな退避勧告に従って出ていったように聞いている。政府の情報を垂れ流すだけなのだから、本来はイラクまで出かける必要がないのだから、危険だからそこを出るというのはまことに合理的な行動だ。しかし、イラクに誰もいなくなったら、イラクで何が行われているかは、我々は知りうる方法がない。外国人ジャーナリストは報告しているかもしれないが、日本人の多くは、外国メディアに接することが出来ないので、そのニュースは分からないだろう。ファルージャのことについては、綿井さんでさえ分からないらしい。そこで次のようなニュースも伝わってくる。死者数めぐりせめぎ合い ファルージャ住民側と米軍この記事によると、「中部ファルージャの戦闘での住民の死者数をめぐり、約270人とする米占領当局側と、「600人以上」とする住民側が対立している」そうだ。これは、ファルージャに行って、実際に見てこないとどちらが正しいか分からない。米軍側は、一般民衆であっても武器を持った人間は、すべて武装勢力だと言いたいのかもしれない。しかし、僕は、訓練されていない、自らの誇りを守るために立ち上がった普通の人々は、たとえ武器を持っていようと「市民」であると思う。武装ゲリラではなく民間人だと思う。アメリカが数えている270人という数だって、とんでもない虐殺を示す数だ。600人だから悪くて、270人だったらやむを得ないと言うのではない。しかし、この数字にしてもなんとか小さくしようとするアメリカ側の欺瞞というのを我々は感じなければならないと思う。それを鋭く撃つ事実を報告してくれる、本物のジャーナリストを我々は支持しなければならないと思う。
2004.04.24
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昨日紹介した、神保哲生氏の「自己責任論」批判には、神保氏の主張を巡って素晴らしい議論が展開されている。自己責任というのなら、政府の自己責任こそ問われるべきだこの中で、報道のあり方を巡って神保氏が発言している部分がある。これが非常に示唆に富んだ言葉なので、またこれを紹介したくなった。神保氏は、まず、「まず1点目は、あの3人をバッシングしている人の数は、実はそれほど多くはないのではないかということです」と語り、その根拠として次のような事実をあげる。「私の友人でもある下村健一氏が、人質になった3人の家族の控え室に行って、ファックスやメールを見せてもらったそうですが、実際応援のファックス、メールと批判のファックス、メールの比率は8対2とか9対1で、応援の方が圧倒的に多かったそうです。「なんでこれが「批判のファックスが相次ぐ」なんて記事になるんだ」ってデタラメな報道をする新聞やテレビに憤慨していました。」この事実を知っていれば、報道の方がおかしいという感じを持つだろう。そして、その報道に影響を受けている世論もおかしいんじゃないかという感じを持つだろうと思う。神保氏は、ここら辺の解釈を次のように語っている。「サイレント・マジョリティ(物言わぬ多数派)に対してラウド・マイノリティ(口うるさい多数派)という言葉がありますが、今回のバッシング派も、実はこれに入るのではないかと思ったりします。」日本人というのは、自己主張の少ない国民性を持っている。これは、素質と言うよりも教育による効果が非常に大きいと僕は思っているが、本当の民意よりも、声の大きい人の主張が世間に蔓延すると言うことが多い。まことに民主主義制度にとっては欠点となる国民性を持っている。自己主張する人間をわがままだと見る人が多いのだろうが、その人が何を語っているのかという内容を見て欲しいものだと思う。2点目として神保氏があげている事柄は、報道の問題として非常に大きなものだと思う。「2点目はメディア報道です。やはりこの件に関するメディア報道が、基本的には外務省の記者クラブや官邸の記者クラブから発せられるニュースに限定されていますので、どうしても政府寄りの報道になります。この事件には日本中が注目していましたので、かなり多くの人がテレビや新聞を読んだと思いますが、やはり触れる情報が政府寄りになれば、他に判断材料がありませんから、その情報を受けた人々の視座も政府寄りになるのは避けられないと思います。」日本の報道は信頼性が低いと言うことを前提にして眺めないとならないのではないかと僕は思う。特にマスメディアに対してはそうだ。この信頼性が低いというのは、記者クラブ制度なども一つの原因だと思うので、そういうものが改善されない限り、どこまでも疑ってかかるのが正しいと僕は思う。そこで、最近のニュースも、このような疑いの目で眺めてみようかと思う。どちらの側の視点で報道されているのか。マスコミの報道は、ほとんど権力側の視点がどこかに現れているだろうという前提で報道の内容を見ていこう。まずは次のものだ。「中傷の手紙大量に…拘束3人の住所、HPから削除」これは「大量」という言葉にごまかしがある。総数がたくさんあれば、その中の1割であろうとも「大量」と言っても間違いはないだろう。しかし、ここにはその比率に関する情報は書かれていない。FAXと違って手紙は比率が違うのかもしれないが、記事は、インターネットに掲載された住所等のプライバシーの侵害を報じるものなので、その比率にまで言及していないのかもしれない。しかし、それならこの見出しはおかしくないか。見出しを、記事にふさわしいものにするならば、プライバシーの侵害は恥ずべき事だというものにしなければならないのではないか。そのことによって大量の中傷の手紙が送られるのは間違っているという報道でなければならない。それがこのような見出しになったら、世の中は中傷をする人間の方がたくさんいるのだというイメージになってしまうのではないか。それだけ世の中から嫌われていたら、3人にも何か原因があるのではないかというイメージを持ってしまうのではないか。「いじめられる側にも悪いところがある」という発想がよく聞かれるが、それに通じるような考え方だ。これは、単に事実を伝えただけの記事だというかもしれないが、政府の側に立って間違ったイメージを流すのに役立つ記事だと僕は思う。「<イラク人質>政府・与党の「自己責任論」批判 学者ら」という記事は、ようやく勇気ある知識人が立ち上がったのかと勇気づけられるようなニュースだ。しかし、ここで語られていることは、「田島泰彦・上智大教授さんらは、「ジャーナリストやNGOを政府の管理下におとしめてはならない」と訴えている」ということだけだ。こんな短い文章で、しかも一般的な言い方で、効果的な批判と言えるだろうか。もっと本質的な批判があるはずで、それがマスコミに載ってこない。それに比べて「外務省、危険情報の見直しを検討」という記事の詳しさはなんだろう。そこに意図的なものはないのだろうか。イラク情勢に関する記事も、自衛隊の活動に関しては、サマワは危険であるという情報はほとんど伝えないようにし、人質の「自己責任」を追求できるような、イラクが危険であるという情報は溢れるようになった。しかし、それは同じ国の中の出来事なのである。サマワだけが、どこか別の世界の出来事のように報道されるのはどういう事なんだろうか。「イラク撤退は2週間以内=ドミニカ共和国」と言うように、最近は撤退を決める国が多い。しかし当初は、スペインなども6月をめどに撤退をすると言っていたはずだ。なぜこれが早くなったのかということがほとんど報道されない。スペインなどは、新しい国連決議が期待できないからだと公式には語っていたが、早めなければならない理由がどこかにあるはずだ。国連決議が期待できなくても、特に理由がなければ、それまで待っていてもおかしくはない。特別の理由があるから早まっていると考えるのが論理的だと思う。それが全く報道されていない。田中宇さんの記事から類推すると、ファルージャでの戦闘が広がって、ナジャフ突入などと言うことがあったら、スペイン軍の犠牲が避けられないという状況になりかねないので、撤退を早めるのだと考えるのが合理的だ。逆に言うと、ナジャフ突入の危険性が高いから撤退するのだと類推することも出来る。「来年1月まで部隊削減せず=ポーランド」このような記事も、深読みしない人から見れば、スペインは撤退したけれど、ポーランドは頑張っているんだなというようにしか感じないかもしれない。でも、僕は次のような深読みをしてしまう。「来年1月まで」と期限を区切っているのは、そのあとは分からないよという含みを持たせた発言なのではないかという受け取り方だ。1月までは頑張るけれど、状況によっては撤退したいんだという言い方にも聞こえる。予想以上に状況が悪化すれば、1月を待たずに撤退する可能性もあるだろうと、僕は深読みする。報道は事実の一部を伝えるだけだ。それが事実でないウソである場合は言語道断だが、たとえ事実であっても、疑いを持って眺める視点を失わないようにしたい。それが、特にマスコミの報道である場合は、大いに疑ってかからなければならないと僕は思う。
2004.04.23
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宮台真司氏とともに「マル激トーク・オン・デマンド」を作っている神保哲生氏が、素晴らしい「自己責任論」批判を書いている。神保氏は、世界の非常識である日本の常識に、確固たる反対の声をあげた勇気ある知識人の一人であると思う。そのジャーナリスト精神の高さを次のページを見て味わって欲しいと思う。自己責任というのなら、政府の自己責任こそ問われるべきだこの中から、僕が共感した部分を引用しながら感想を書いてみたいと思う。まずは次のところだ。「まず、彼らは退避勧告が出ている紛争地イラクに危険を承知で出かけて行ったのだから、これは冬山登山や台風下に遊泳禁止地帯でサーフィンをしていて遭難した人たちと同じだ、という議論があるようだが、この喩えは本質の部分で大きくすり替えがある。冬山登山や台風下のサーフィンは、いずれも人助けのために行うものではない。しかし、彼らのうち少なくとも2人は人道支援として、イラクで困っている人たちを自分たちなりの手段で助けるためにイラクに向かった、いわば人助けのためにそこに居合わせた人たちではないか。」たとえというのは、物事を理解するのに役立つものである。それは、問題をより単純化し、難しい部分をより分かりやすいものに変えてイメージすることで理解を助ける。しかし、たとえがたとえとしてふさわしいものであるのは、その構造が同じであると言うことがなければならない。構造が違うものであれば、そのたとえは論点のすり替えに近いものになる。その論点のすり替えを見事に語った部分として上の言葉に僕は共感した。たとえというのは、正しく使えば理解を助けることになるが、間違って使えば理解を誤らせることになる。対立物の統一というものがここにある。弁証法的にとらえることは、物事の理解を深めるものだと思う。本当の比喩というのは次のように使わなければならない。「日本という国は、火事で燃えさかる家に人を助けに入った消防士やボランティアが、怪我をしたり中に閉じ込められたとき、彼らの行為を責め、後にその料金を請求するような国に成り下がってしまったのだろうか。 言うまでもないが、人道復興支援のため日本政府は自衛隊まで派遣しているのだから、今のイラクを火事で燃えさかる家と考えるのはごくごく自然なことのはずだ。」このたとえと、「自己責任論」を語る人が使うたとえと、どちらの方が構造的に共通点があるというふうに判断するだろうか。それは、彼ら3人をどう見るかと言うことにかかわってくる。彼らに対して、偏見を呼び起こすような報道がかなりあったが、それによって彼らを偏見を持った目で眺めてしまうと、「自己責任論」者が語るようなたとえに心を動かされてしまう。しかし、パウエルさんが語るように、3人を「良い目的のために行動を起こした尊敬すべき」若者たちととらえれば、神保氏のたとえに共感するだろう。どちらに賛成するかは、事実の問題と言うよりは、それを見る側の姿勢にかかわってくるのだと思う。「十分な経験を持たない人間を紛争地や被災地に送り出せば、トラブルになる可能性は高い。それは、政府に迷惑をかける可能性があるからまずいのではなく、そもそも人道支援NGOやジャーナリズムの目的に照らしたときに、有効な活動の妨げになるからまずいのだ。何らかのトラブルに発展すれば、他のNGOに迷惑がかかったり、二次災害を引き起こす可能性もあるだろう。」この言葉は、今回の3人に向かって語っているのではなく、一般論として神保氏は語っている。今回の事件からの教訓として考えなければならないだろうというものだ。今回の3人が、この批判に値するかは、今後の事実の解明によって判断しなければならない。この批判に対しては、3人を支持する側から反発があるそうだ。しかし、神保氏は、このような批判もあえてここに載せているのは、これこそがジャーナリストのセンスなのだと、この文章を巡る様々の意見交換の中で語っている。それもこのページを見る中で読んでもらうと、神保氏のジャーナリスト精神の高さを感じてもらえるだろう。ジャーナリストというのは、どちらの立場に立ってもいけないのである。あくまでも第三者として客観的な情報を提供するのがジャーナリストの役割なのである。その上で情報を、それぞれの立場で受け取る人はいるだろうが、自分の立場だけから見る見方は、判断を誤らせる可能性がある。ひいきの引き倒しになってはいけないのである。それだからこそ、すぐれたジャーナリストの報告が、どちらの立場のものによっても価値あるものとして存在するのである。ある立場に立っていても、本当にすぐれた人なら、客観的な情報と客観的な批判を受け入れることが出来る。それは、自分の立場からはなかなか気づかないものなので、それを提出してくれたことをかえって喜ぶだろう。僕は、ジャーナリストではないから、心情的にも現実的にも、一庶民として、反権力であり彼ら3人を支持する立場だ。政府の側の論理のあらの方によく気がつく。それに反して、3人を支持する側の論理のスキはなかなか気づかない。反対の側がそれを指摘しても、反対の側の全体の論理のずさんさから、正しい指摘であっても気づかないことが十分あり得る。しかし、神保氏のように客観的な観点を持った第三者の言葉なら、それを受け取ることが出来るのである。すぐれたジャーナリストの必要性は、このようなところにあるのだと思う。「人助けに行って、人に助けられていうようではダメだ。ニュースの取材に行って、自分がニュースになっているようではダメだ。 NGOセクターもジャーナリズムも、この機会にその点を十分に反省、確認した上で、今後更に有効な活動のために生かして欲しい。」このような指摘は、反対の側からされたら、素直に受け取ることは難しいだろう。神保氏が語るからこそ、これを真摯に受け止めることができるのだと思う。「そもそも日本では少なくとも法的には、イラクは戦闘地帯ではないことになっている。だからこそ、イラク特措法に基づく自衛隊の派遣が可能となっている。そこに「危険を承知で行ったはず」という政府の主張には始めから無理がある。政府が退避勧告と非戦闘地域という2つの相矛盾するメッセージを発していることにも、今回の事件の原因の一端があるし、その点においても政府の責任が問われる。」という指摘は、今回の「自己責任論」批判の本質にかかわるものだと思われる。政府が、このように無理な論理を使ってでも「自己責任論」を展開したがったのは、そもそも上のような指摘の事実に含まれる矛盾を、なんとか露呈させないように、人々の目を別のものに注目させるために仕組まれたものと、僕も感じる。危険なところに行ったのだから「自己責任」だという政府の主張は、安全だから自衛隊を派遣したのだと言うことと整合性をとれない。この一方の矛盾を覆い隠すために、もう一方を声を大きくして言い立てるしかなくなったと思う。「今回人質になった人道支援活動家やフリーのジャーナリストの多くが、イラクへの自衛隊派遣には反対していた。その彼らがイラクで人質になったり遭難したりすれば、「ほら、やっぱりイラクは危険じゃないか」との認識が改めて広がり、イラク特措法の前提要件が崩れるばかりか、国論を2分する中で強行したイラクへの自衛隊派遣への批判が高まる可能性が高い。結局今回の政府の一連の反応の根底にあるものは、それを恐れているだけのことだったのではないか。」という言葉には、僕が感じていたことをもっとも適切な言葉で表現してくれていると感じる。僕も、今度の事件が、イラクがいかにひどい状況になっているかを、多くの日本人に教えてくれただろうと思っている。これをきっかけにして、イラクの虐殺されている側の人々と、日本の多くの人が連帯感を持つことが出来たら、彼らの命がけの行動も、結果としていい方向へ向かうことになるだろうと思う。そうなって欲しいものだ。神保氏の最後の提言は、これに共感し、応える人間がたくさん出てきて欲しいものだと思う。「紛争地帯に軍隊を出す決断を下しておきながら、「非戦闘地域」「人道復興支援」などのレトリックで議論のすり替えを繰り返してきた自らの矛盾を覆い隠すために、善意の市民を生贄に差し出すような政治家たちを、私たちは許してはならない。」この文章のあとには、この文章を巡る意見の交換が書かれている。この議論の水準の高さは感動すら覚えるものだ。論理や議論に関心のある人は、ぜひごらんになっていただきたいものだと思う。このページがもっとメジャーになり、多くの人々に影響力を与えてくれれば、日本の民主主義も大いなる発展の方向に行くんじゃないかと期待できるんだけれどなあ。
2004.04.22
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今日もテレビでは「自己責任」を語る人が多い。世論調査ではないが、町を歩く人に「自己責任があると思うか」と質問して、その結果を知らせるテレビもあった。大部分の人は「自己責任がある」と語る人で、それがないと完全に言い切る人は、100人の中で7人しかいなかった。日本人というのは、条件付き命題の考察が下手だと言っている人がいたが、まさにその通りだなと思った。自己責任の議論は、その前提となる条件を吟味しなければならないのだが、すっかり政府とマスコミの宣伝にのせられた一般市民が、短絡的に自己責任を語っているようにしか僕には見えない。多くの庶民が語る事というのは、今の日本の常識といって間違いはないだろう。しかし、この常識は、どうやら世界の常識とは違うようだ。世界の中ではこれは全くの非常識ではないかと僕は感じる。テレビが、外国のジャーナリストの声をいくつか紹介していたが、外国ではこのような非難はまず起こらないと言う言葉しか聞かれない。ヤフーのニュースでも次のようなものがあった。「自己責任論を批判 「若者誇るべき」と仏紙」「【パリ20日共同】20日付フランス紙ルモンドは、イラク日本人人質事件で、日本政府などの間で「自己責任論」が台頭していることを紹介、「日本人は人道主義に駆り立てられた若者を誇るべきなのに、政府や保守系メディアは解放された人質の無責任さをこき下ろすことにきゅうきゅうとしている」と批判した。 東京発の「日本では人質が解放費用の支払い義務」と題した記事は、解放された人質が「イラクで仕事を続けたい」と発言したことをきっかけに、「日本政府と保守系メディアの間に無理解と怒号が沸き起こった」と指摘。「この慎みのなさは制裁まで伴っている」とし、「人質の家族に謝罪を要求」した上に、健康診断や帰国費用の負担を求めたと批判した。 記事は、「(人質の)若者の純真さと無謀さが(結果として)、死刑制度や難民認定などで国際的に決してよくない日本のイメージを高めた」と評価。パウエル米国務長官が人質に対して、「危険を冒す人がいなければ社会は進歩しない」と慰めの言葉を贈ったことを紹介した。(共同通信)」この、世界にとっては非常識の声が大きくなれば、「無理が通れば道理が引っ込む」ということわざの正しさが証明されてしまう。テレビでドイツ人ジャーナリストが語っていたが、日本ではしかるべき人がこの流れに対して発言しないと、この流れを押しとどめることが出来ないだろうと語っていた。まさに、今知識人の責任が問われている。臆病な知識人は、世の中の流れに逆らうような正論を吐くことができないのだろうと思う。3人を診察した医師が、3人を孤立させてはならないと語っていたが、まさにその通りだと思う。世界の民主主義国家の人々は、3人を支持する人が多いだろうが、日本ではその逆に3人をバッシングする人の方が多い。この非常識をもっとよく考えなければならないだろうと思う。僕も、彼らを孤立させてはならないと思う。僕は、大して影響力のない人間だが、精一杯声を大にして、彼らを支持していきたいと思う。日本でこれだけ非常識が蔓延してしまうのは、一つには日本では情報が充分に開示されていないと言うことがあるのかもしれない。たとえば、今日のテレビでは、高遠さんがイラクで活動していた映像を知らせていた。このような映像がもっと知られていれば、高遠さんが、どのような目的でイラクへ行っていたのか、どのような実績を持っていたのかということがよく分かる。高遠さんのように、活動をしていた人々を、日本にいて何もしていない人が非難するという、そのような状況を批判するコメントを語っている人もいた。テレビの論調も少しずつ変わりつつあるのか。さて、自己責任論を考えるのに役に立ちそうな情報を、田中宇さんのレポートの中に見つけた。イラク駐留各国軍の危機ここで田中さんは、イラクの現状を次のように報告しているのだが、どれだけの日本人がこのことを理解しているだろうか。田中さんは、スペインの撤退について「撤退は間に合うだろうか」と心配している。多くの日本人は、撤退をすること自体に驚いているのではないかと思うが、田中さんは、それが遅すぎないかと心配しているのだ。次のように書いている。「米軍がナジャフに突入すると、これまで米軍統治に対して忍従の態度をとってきたシーア派の人々の堪忍袋の緒が切れ、シーア派が住むイラク中部・南部の各地で反米決起が起きる可能性が高い。シーア派の最高指導者であるシスターニ師(システーニ師)は、米軍がナジャフに突入したら、アメリカとシーア派の友好関係は終わると示唆している。」「米軍がナジャフに突入したら、ナジャフ郊外に駐屯するスペイン軍も、武装したシーア派市民との戦闘に参加せざるを得なくなり、多数の死者が出る。戦況の泥沼化をあおる英米の作戦に巻き込まれるのは馬鹿馬鹿しいので、スペインは6月末の「政権移譲」を待たず、急いで撤退することを決めたのだと思われる。撤退には6週間かかるとされ、その間にナジャフで戦闘が始まったら、スペイン軍は難しい判断を迫られる。」スペインの撤退が早まったのは、米軍のナジャフ侵攻の可能性が高まり、もしそのようなことがあればスペイン軍に犠牲者が出るのは確実だという恐れが高まったからなのだと言うことが分かる。スペイン軍の撤退に関しては、「この数週間に集めた情報で、国連が(スペインが満足できる)安全保障理事会決議案を採択するとは思えないことがわかった」と日本では報道されている。しかし、事態はもっと切迫しているのだと言うことが、田中さんの報告で分かる。田中さんは、「米軍がナジャフに突入したらイギリス軍も撤退? 」ということも書いている。ナジャフ突入は、全く信じがたいほどの無謀な作戦のようだが、どうやらこれをやめようという気配がアメリカからは感じられないらしい。そのために、これからイラクから撤退する軍隊がどんどん増えていくような気もする。イギリスまで撤退したら、いったい日本はどうするのだろう。田中さんは、「アメリカは自滅したい?」というような疑問も投げかけている。イラクはまさに非常に危険な地帯になっている。しかし、このような事実は今までに報道されているだろうか。サマワでは自衛隊が歓迎されているというような記事しか送られていない。その自衛隊は、今は危険なのでほとんど基地の外に出ることも出来ず、人道復興支援どころではないということも全く伝わってこない。このような情報のもとで、今回人質事件が起きたことによって、イラクの危険が伝えられることになったのではないか。人質事件が起こる前から、このように危険な地であると知らせた人がいったい何人いたのか。ファルージャを何とかするということは、ナジャフ突入というような無謀を押しとどめることなのではないだろうか。自衛隊の安全を確保するためには、日本政府は全力を挙げてナジャフ突入を防がなければならないと思う。このような危険が明らかになったからには、今この時点でイラクに入ろうとする人には、自己責任と言うことを言ってもいいだろうが、それでも、何が起こっているかを知らせたいという高い志を持ったジャーナリストが、あえて危険を選ぶことを選択するのなら、僕はそのジャーナリストを尊敬する。勝手なことをやって迷惑をかけたなんて事は絶対に言わない。なんと勇気ある素晴らしい人かと賞賛するだけだ。それが早く日本の常識になって欲しいと思う。田中さんの締めくくりの言葉は、多くの日本人に考えてもらいたいと思うような言葉だ。これを最後に引いておこう。「毎日イラクで殺されている人々は、アメリカの矛盾の犠牲者といえるが、問題なのはアメリカがいくら単独で自滅したくて常軌を逸した行動をしても、世界の他の国々の多くは、まだアメリカに対し、世界を安定させる役割を期待し続けていることだ。たとえば日本や韓国などは、自国の為替の安定のために米国債を買い続け、アメリカが無限に軍事費を拡大できる状態を作っている。これでは、アメリカは自滅したくてもできない。 ブレアのように、ブッシュから断られても参戦したがる人もいる。ブレアはアメリカに対し、国際協調主義の方が良いと説得して改心してもらおうとしているようだが、これはむしろ常軌を逸したアメリカを、より長く延命させることにつながりかねない。世界が最終的にアメリカを見放すまで、ネオコンのアメリカは、イラク人やその他の人々を殺し続けるだろう。」
2004.04.21
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何かの議論をするときに、言葉の定義の違いをそのままにしておいて議論をしても、その議論が実りをあげないというのは、考えてみればすぐ分かることのように僕は感じる。論理というのは、ある命題と違う命題のつながりを判断するものだが、前提となる命題が違ってしまえば、結論が違ってくるのは当然だ。だから、結論が違う両者が、その前提を検討せずに、結論だけを闘わせても議論にはならない。両者のそれぞれの前提を認めれば、論理的にはどちらも整合性をとれるということはいくらでもある。今回世論の問題になっている「自己責任」の問題も、「自己責任があるかないか」という結論を議論しても仕方がないと思う。問題は、自己責任というものをどうとらえるかという、前提にかかわる部分を議論しなければならない。どちらが考える「自己責任」の方が、普遍的な妥当性を持っているかということが重要なのだと思う。僕は、「危険を承知でいったヤツが自分で責任を取るのが当然だ、助けを求めるなんてけしからん」という自己責任の定義には賛成しない。松沢呉一さんが語るように、それは、そのような意味で「自己責任」という言葉を定義している人間が自分自身に適用すればいいものだというふうに考える。他人に押しつける定義ではない。松沢さんが語るように、危険をもたらした責任者(この場合は誘拐犯人を指す)以外に、その責任が追及できない、あとの責任は自分に帰するというのが正しい「自己責任」の定義だと思う。この自己責任の定義は、救いを求めることと対立はしない。むしろ、あのように立派な行動をしている人たちを見捨てるような、そんな情けない行動を日本人が取るということに憤りを感じる。この問題があれほどの世論の対立を引き起こした原因の一つに、右翼と左翼というような問題があるのではないかというのを、「マル激トーク・オン・デマンド」での宮台氏の発言から聞いた。この二つの言葉も、各人にとってその定義が大きく食い違うものもないのではないか。「サヨ」という言葉で左翼批判をしている人間たちが、左翼に対する基本的な知識を全く欠いて、その批判する左翼と同じやり方で批判しているのを宮台氏は指摘していた。「サヨ」に対して、右翼を揶揄するときは「ウヨ」という言葉を使うらしい。これは、どちらも相手をバカにして感情的にすっきりするために、批判をするというよりも悪口を言っているだけのような気がする。だから、このような言葉を使って発言するようなものは、まともな議論ではないので中身そのものを論じるだけの値打ちはない。しかし、この現象を眺めてみると、いろいろと考えさせられるものも出てくるので、こういったものを議論するというよりも、考察の対象として感情的にならずに冷静に、その本質を考えてみたいと思う。だいたいが、「サヨ」とか「ウヨ」とかいう言葉には、最初から相手をバカにしたいという価値判断が含まれている。これは、まともに相手を批判できれば、このような言葉を投げつける必要はないのだが、それが出来ないので、相手を貶めるような言葉を投げつけて相手を出来るだけ低い位置に落としたいという感情を感じる。戦時下の「非国民」という言い方に通じるようなもので、一つのレッテル貼りの効果を持ったものだろうと思う。レッテル貼りというのは、そのレッテルを貼ったものの悪いイメージを相手に重ねることで、相手を貶める効果をねらっているもので、論理的に批判できないときに使いたくなるやり方だ。これは、右翼的な立場だけでなく、左翼的な立場でもたくさんのレッテル貼りがこれまで生まれている。これは、あとになって真実が分かれば、レッテル貼りに過ぎないことがよく分かるのだが、渦中にあるときはなかなか気づかないので被害が大きくなってしまうことが問題だ。今回の人質3人とその家族に対しては、「自己責任論」で非難する人間のほとんどは、このレッテル貼りに過ぎないような気がするが、真実が分かるまではなかなか世論が静かにならないだろうなという感じもする。犯罪報道にしても、逮捕されたというだけでもう犯人だというレッテルを貼るような報道が多い。しかし、もし冤罪だったら、そのレッテル貼りによって受ける不利益は計り知れないものになる。偶然、犯罪の場面に立ち会うという可能性は誰にでもあり得る。だから、レッテル貼りを容認するような社会は、実は我々にとっては非常に危険な社会なのだと思わなければならないが、社会はどうもそのことに鈍感なような気がするのは僕だけだろうか。レッテル貼りに敏感になり、そのような煽動や宣伝に踊らされずにすむようにするには、言葉の定義というものにもっと敏感になる必要があると思う。言葉というのは、悪いイメージを持っている、レッテル貼りに役に立つ言葉として短絡的に受け止めては行けないのだ。立場が違えば定義も違う。敵対する側を「テロリスト」と呼ぶのは、もうすでに立場からする定義が入り込んでいるのだと受け取ってその言葉を見なければならない。さて、右翼と左翼という言葉の定義をちょっと詳しく考えてみよう。辞書的に見ると次のような感じになるだろうか。右翼 〔フランス革命における国民公会で議長席から見て右側に保守派のジロンド派が座ったことから〕保守的・国粋主義的な思想傾向。また、その立場に立つ人や団体。左翼 〔フランス革命時、国民公会で急進派のジャコバン派が議長席から見て左側に座ったことから〕急進的・革命的な政治勢力や人物。ことに、社会主義的または共産主義的傾向の人や団体。歴史的には、フランス革命の時の状況から考えられた比喩的なものの言い方らしい。本質は、右翼は「保守的・国粋主義的」、左翼は、「急進的・革命的あるいは社会主義的・共産主義的」ということにあると思う。しかし、これは言葉を言い換えただけで、「保守」「国粋主義」「急進」「革命」「社会主義」「共産主義」という言葉は、また定義の難しさがあって、こう言い換えたからといって、議論するときの定義の違いが埋められるという期待はなかなか出来ない。宮台真司氏は、「マル激トーク・オン・デマンド」の中で、富の再分配政策を支持するのが左で、それを拒否あるいは出来るだけ極小化するのが右、というような定義をしている。抽象的な議論の出発点としては、価値判断を含まない定義なので、議論が出来そうな定義ではあると思う。しかも、再分配政策を支持する人間は、社会主義的・共産主義的でもあるし、現実がそうなっていないときは急進的・革命的にもなるだろうから、辞書的な意味との整合性もとれる。再分配政策を支持しない人は、自己責任を徹底させるという道を選びたくなるだろうから、現在の体制を変えるよりもそのままにしておきたいと考えるだろうから保守的な考え方とも重なっていくだろう。右翼・左翼を議論しようとしたら、このように価値判断から離れた定義のもとに議論すべきだろう。僕も、右翼や左翼というのは、単に立ち位置の違いにすぎないものだと思っている。問題は、どちらの立ち位置に立って考える方が、自分の理想とするものを実現する道につながるかということなのではないかと思う。再分配政策により、弱者にも温かい手をさしのべることが自分の理想につながる道ならば、そういう人が左翼に心を引かれるのは当然だ。逆に、自助努力によって、自分の力でなんでも解決していくのだというのが理想だったら、右翼的なものに心を引かれるだろう。しかし、日本では、右というと日の丸や君が代に一体化するという、大いなるもの崇高なものとの一体化の心情を持つものが右ということになっている。さらに左も、マルクスや紅衛兵に一体化する心情を持つものが左になっている。こういう心情的な右翼・心情的な左翼という発想をすると、本来はあり得ないような右翼的・左翼的発想が出てしまう。これが「ウヨ」「サヨ」と揶揄されるようなものにつながっていくのだろう。自助努力によって、自分の力で解決するのが右翼ならば、日本に軍事的な脅威を解決する力がないからといって、アメリカに追従してそれに全面的に頼るなんていうのは、本当の右翼の側から見ればなんと情けない考え方だと思うだろう。小林よしのり氏や西部邁氏の、イラク戦争反対の発想は、ある意味では本物の右翼に近いのかなとも感じるところもある。詳しく読んでいないので、そう言いきることは出来ないが。イラクで人質になった人たちは、世界中から見捨てられていたイラクの人たちの側に立って、イラクの人々のために活動をしていた。その人たちに共感して支持するのは、十分左翼的な位置を持った感情だと思う。だから、彼らを左翼ではないかと感じるのは、言葉の使い方としては間違っていないと思う。しかし、左翼だからと言って何か悪いことがあるのだろうか。協力して何かをしていこうと考えるか、困っているかもしれないが、自分で努力して何とかしろと考えるか、基本的な姿勢の違いに過ぎないのではないか。そこでは良いとか悪いとかの価値判断はできないと思う。レッテル貼りというのは、正しい批判を殺すことにもなる。目をくらませてしまうのだ。右翼も左翼も十把一絡げにして論じられるほど単純ではない。右翼の中にも、左翼の中にも、すぐれた人もいれば、どうしようもなく非論理的な人もいるというだけのことではないかと思う。レッテル貼りをすることなく、正しく批判し、正しく評価することが大事だろうと思う。
2004.04.20
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昨日私書箱メールに、パウエルさんの言葉についてのものが入ってきた。それは、パウエルさんが、「自衛隊を派遣していることも誇りに思うべきだ」というようなことも発言していたが、これにも触れるべきだったのではないかというものだった。僕は、この言葉は、パウエルさんの立場から言えば当然出てくる言葉であって、さほど言及する必要を感じなかった。もしもこれと違うようなことをパウエルさんが語ったりすれば、それは驚きだから、必ず取り上げただろう。当たり前のことを語っただけだから、知らせるほどのこともないかなと思ったのだ。それに、あそこで問題にしていたのは、人質になった3人がイラクでしようとしていた行為に関するものだったので、自衛隊派遣についてそれが正しいかどうかを論じる必要もないと思ったのだ。僕は、単純に必要がないから言及しなかっただけなのだが、人によっては、そこに何か意味があると読みとる人もいるのかなと思った。しかし、すべてのことに言及していたら、何を主張したいかポイントがずれてしまうから、取り上げていないことは、あまり大したことではないと考えていることだと受け取ってもらえたらありがたい。そんな風に考えていたら、実は、このことは取り上げるだけの価値があることかもしれないという考えも浮かんできた。パウエルさんが小泉さんを評価するのは、ブッシュ政権の中枢にいるその立場から言って当然である。特に自衛隊派遣を評価するのは、その立場から言って当たり前だ。そのパウエルさんでさえ、人質3人の行為を誇りを感じるものと賞賛するというのは、その考えは、立場を越えた民主主義国家の常識なのではないかという僕の考えを証明するものかもしれないと思えてきた。もし小泉さんが何を言っているかを知っていたら、その立場上パウエルさんは、このことを言えなかったかもしれないが、それを知らなかったのかもしれないな。もし、知っていたとしても、こう語らずにはいられないとしたら、民主主義国家で教養ある人間は、誰でもこのように考えるのだということの証明になるだろう。パウエルさんが、立場から語る言葉を聞き流していた僕に、それに注意するよう促してくれたこのメールに感謝したい。さて、自己責任論の続きだが、「マル激トーク・オン・デマンド」で宮台氏が紹介していた、松沢呉一氏の「黒子の部屋」というページに、「自業自得って…」と題された一文がある。この自己責任論は、実に見事なものだと思うので、僕の日記を訪れる人にも、ぜひごらんになっていただきたいと思う。「松沢呉一●黒子の部屋687」この文章で共感するところはたくさんあるけれど、松沢さんに送られた、人質3人を批判するメールに対して次のように答える言い方は全くその通りだと思う。「Kさんに対して言いたいことは、沢辺さんに言いたいことと一緒です。人を批判するのはいい。しかし、その辺のつまらん情報に踊らされるのでなく、自分の頭を使って想像力を働かせ、ちゃんと批判しましょうよ。人質やその家族に対するバッシングを「Publicity」901号(http://www.emaga.com/info/7777.html)では、子供のイジメに喩えてましたが、どこかの誰かちゃんの真似して人を叩くさまはまさにイジメ。」バッシングする言い方は、どれもこれも同じ言い方で、しかも非論理的だ。感情にまかせて書いているとしか思えない。それに対する批判として、上の言い方は的を射たものだと思う。松沢さんは、「危険なことをわかっていたのだから助ける必要はない」という考えを「愚劣な意見」と一蹴して、それに対して次のような批判を展開する。「この考えは自分に適用できるだけのことで、他者にまで押しつけてはいけません。こう考える人だけが助けを求めることなく死ねばいいのです。」つまり、今自己責任論を展開して、人質を助ける必要はなかったと語る連中は、危険だと分かっていることを自分がやろうとするときは、決して助けを求めないという覚悟を持って主張しなければいけないのだ。そして、それは自分がそう主張するから、自分は助けを求めないということであって、人に押しつける権利はない。そんな主張をしていない人は、助けてもらう権利を放棄していないのである。少なくとも、国民としての義務を果たしている人間だったら、その権利を主張することが出来る。納税の義務、勤労の義務、教育の義務を果たしている人間なら、国民としての権利を主張できるはずである。しかし、この権利を放棄した人間に対しては、国家は権利を保障する必要はない。3人の人質は、この権利を放棄したとどこかで語っていただろうか。自己責任論を語る人間は、自分に関しては、この権利を放棄しているのだと宣言しないと、論理的な整合性がとれないだろうと思う。松沢さんは、この論理を実に痛快に具体的に語ってくれている。「インドに行ってコレラに感染しても、アメリカに行ってピストルを突きつけられても、車が事故ってドアにはさまれて動けなくなっても、寝たばこで火事になっても、近くにある原発から放射能が漏れても、すべて「自業自得」ですから、誰にも助けを求めずに、そのまま死ぬとよろしい(原発の場合は「危険なことを承知の上でそんな場所に住んでいた」という意味です)。でも、あの3人はそんな考えをもってはいないようですから、なんとかして救出すべきで、「危険を知っていたのだから助ける必要がない」という人たちは人のことをとやかく言わず、とっとと自分が勝手に死ねばいいだけのことです。」さらに次のようにたたみかける。「「自分には理解できないから」「自分はやらないから」と他人に「自業自得」なんて言いながら、別の危険なことをやっている人たちは、他者から「自業自得」と言われても、それを受け入れるしかありません。となれば、自分がわずかにでも危険とわかっていることをして、なおかつ救出を求めたいのなら、そのようなことを決して言うべきではないということになります。」松沢さんがこれだけ厳しいことを言うのは、「こういう人たちは「自己決定・自己責任」という言葉を理解できもせずに使っているのではないかと疑え」ると思っているからだろう。自己責任の正しい意味については次のように語っている。これも全く同感だ。「「自己決定・自己責任」はそういう目(危険な目)に遭ったことについて、犯人以外の第三者のせいにすることができないだけのことで、救済されることや正当に防衛することを放棄したものでは全然ありませんよ。」このあとの文章は、あえて危険な地に出かけていく人間の精神の高さを語って、感動的でもある文章だ。ぜひ全文を読んでもらいたいと思う。最後に、次の言葉を引いておこう。これも、声を大にして訴えたいことで、まさにその通りと大きな声で言いたいものだ。「で、「自業自得」なんて言っている人々が屁をこきながらテレビで観ているニュース映像はいったい誰が撮り、雑誌の記事は誰が書いていると思っているわけ? ロボットか。イヌとかネコか。それとも亀か。カメラマンや記者が、危険なことをわかっていても現地に行っているからでしょうが。そういった報道があるから、ファルージャで何が起きているのかを不十分ながら知り、北朝鮮がどうなっているのかをさらに一層不十分ながら知ることができるわけです。」
2004.04.19
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今朝のヤフーを見ていたら、次のニュースが目に入った。「航空機、健診は本人負担 外務省、3人に請求へ」http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040417-00000136-kyodo-polこの記事によると、「外務省邦人保護課によると、邦人救援のため航空機をチャーターした場合、同じルートを飛んでいる民間機のエコノミー片道正規料金を請求するのが規定」と報じられている。だから、この記事は単なる事実を知らせているだけのことだ。しかし、以前のこのような事件で、この種の報道がされたのを僕は覚えていない。どのくらい金がかかっているのかを知らせて、「迷惑をかけている」と言うことを見せるためにわざわざ報道しているのだろうか。これも一つの「表現の自由」なのかな。僕には、世論操作の一つのように見えるけれど。それもかなり姑息なやり方だ。この3人の自己責任に対する見方は、やはりパウエルさんの次の言葉、「危険を知りながら良い目的のためにイラクに入る市民がいることを日本人は誇りに思うべきだ。もし人質になったとしても、『危険をおかしてしまったあなたがたの過ちだ』などと言うべきではない」が正しいのだと思う。このパウエルさんの言葉が、先進民主主義国の常識なのか、パウエルさん個人の考え方なのかは重要な問題だと思う。今日本では、この言葉に対して正反対に近いような考え方がマスコミに溢れている。日本の常識は、世界に通用するものなのか、それとも世界の中では非常識なのかをよく考えてみたいと思う。自己責任というのも、無条件に、自分のやったことの反動は自分で何とかするべきだというふうにとらえるのは、短絡的すぎると思う。やはり条件が大事なのではないかと思う。もし、無条件になんでも自分で責任を取るべきだと考えるのなら、政府などはいらなくなる。この考え方は究極的には無政府主義と同じだろうと思う。この考え方は、力のあるもの富める者に都合のいい自己責任論だ。自分で何とかするだけの力のあるものならば、その人間はこの自己責任論を採りたくなるだろう。それだけの覚悟を持って主張する自己責任論ならいいのだが、政府が責任逃れをし、政府にとって価値がないと思われる人間を見捨てるための合理性をもたらすための自己責任論であるならば、異論を唱えなければならないと思う。実際には、パウエルさんも語っているように「良い目的のために」と言うことが条件として大きくかかわってくるのではないだろうか。宮台氏なども、物見遊山のバックパッカーと人道復興支援に取り組もうとしているNGOあるいはNPOの活動家とは区別すべきだと言うことを語っていた。物見遊山の人間が、自分ではなんの準備もせずに危険地域で危険にあったというのなら、山の危険を知らずに軽装備で登山をして遭難した人間と同じようなもので、多くの人に迷惑をかけたと言われても仕方がないだろう。ほぼ全面的に遭難した人間に責任がある。しかし、人道復興支援に出かけた人間が、それなりの情報を収集し、気をつけて行動していたにもかかわらず、予期せぬ状況で危険な目にあったという場合なら、その責任の重さはかなり違ってくるのではないだろうか。自己責任というのは、そのようなことが分かった時点で問題にされるべきだというのは、江川紹子さんも語っていた。自己責任というのは、このように条件によって変わってくるのではないかというのが僕の考えだ。しかし、どんなに甘い考えで遭難した登山者であっても、遭難した時点で見捨てると言うことはないだろう。だから、自己責任が判断できなくても、危険な目に遭っていればそれを救うことに全力を尽くすのは、その時点では正しい判断だろう。その時点で自己責任論が出てくると言うことが、政府の責任逃れ以外の何ものでもないと思うのは、論理的な帰結ではないかと思う。冷静に考えれば、自己責任論が起こってくる方がおかしいと思うのだが、これが大きな声になって世論が高まっているように見えるのは、「自衛隊撤退」の問題が絡んできたからではないかという考えもあるようだ。「自衛隊撤退」は、政府の政策と真っ向から反する要求で、政府に反対する人間が、政府に助けを求めるのはけしからんという感情的な反発があったように感じる。宮台氏によれば、これが「サヨ批判」に結びついて人質3人に対するひどいバッシングにつながったと言うことだ。「サヨ」というのは、いわゆる「左翼」のことを軽蔑的・差別的に呼ぶときの偏見に満ちた言い方を指すらしい。これは、政府に反対するものを十把一絡げにレッテル張りをするときに使われるらしい。僕などもおそらく「サヨ」と呼ばれているのだろうと思う。人質本人や家族の意見が、自衛隊派遣反対のものだったので、彼らも「サヨ」にされただろうということは容易に想像できる。宮台氏によれば、「左翼」の中に、確かに批判に値する人たちもいるということだ。しかし、そういう人間たちもいるからといって、自衛隊派遣に反対しているというだけで、そのようなものと同じだと短絡的に判断するのは、右翼の側も単純すぎるものだと思う。もっと深い考え方をして欲しいものだと思う。今の人質3人に対するバッシングは、おそらくこの世論操作に乗って騒いでいる短絡的な愉快犯的なものが中心になっているのだろうと思う。宮台氏は、この人質事件がきっかけで、脅されたことの結果で自衛隊が撤退するような形での撤退は、論理的にもあり得ないと言うことも語っていた。むしろ、この事件のために撤退するチャンスを失ったという判断のようだ。イラクの情勢が撤退すべき情勢になったとしても、この事件の間に撤退することは出来ないと言うことだ。僕もそれはその通りだろうと思う。しかし、だからといって、自衛隊撤退を叫ぶことまでも間違いだとは思わない。たとえ自衛隊撤退があり得ないことだとしても、自衛隊撤退を叫ぶ人間もいるのだと言うことを示すのは、ある意味では国益に資することだと思っているのだ。日本国民のすべてが自衛隊派遣を支持しているのだと言うことを示したら、日本人全体がイラクの反米勢力にとっては敵だと言うことになりかねない。今日のテレビを見ていると、イラクでの反米感情というのは、もはや過激な反米勢力だけにとどまらず、普通の市民の間にも広まっていると言うことだ。日本人が一枚岩ではないということを示すのは価値のあることだと僕は思う。そういう価値があることを、「サヨ批判」を展開する人間にも考えて欲しいものだと思う。「サヨ批判」をする人間は、とにかく政府批判をする人間は「サヨ」だと短絡的に考える。しかし、その勢力があるからこそ、間違った道を修正するきっかけも生まれるのである。もし、この声をすべて封じてしまったら、取り返しのつかないほど間違いの結果が深刻にならない限り、それを修正することが出来なくなる。自己責任論は、江川紹子さんが言うように、これから正しい議論が始まるべきだ。それと同時に、国家の責任も議論すべきだろう。個人の責任だけを問題にされてはいけない。最後に一つ付け加えておきたいのは、人質本人や家族が、感謝の気持ちが足りないという批判に対するものだ。迷惑をかけたのだから、謝罪をしなければならないし、感謝の気持ちを言うべきだろうというバッシングだ。そういうことを主張する人たち、特に政府関係者は、次のような言葉にはどういう反応をするだろうか。「「外相の感謝、伝わらない」=クベイシ師が不満表明-イラク邦人解放」http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040417-00000426-jij-int感謝の気持ちが足りないという批判をした政府関係者の人たちは、そういう批判を自分たちに向けられた以上は、深く反省してもらいたいものだ。こういう態度だから、次のようなことも言われてしまうのではないか。「「日本政府は解放望まず」 クバイシ師が痛烈批判」「イラクで拉致された日本人解放に貢献したイラク・イスラム聖職者協会のクバイシ師は17日、高遠菜穂子さん(34)ら3人の解放の際に川口順子外相が同協会に言及しなかったことに触れ「日本政府は人質が解放されず、日本人が誘拐されたり、殺されたりした方がいいと思っているはずだ」などと痛烈に批判した。 同師は「日本政府は(事件を)イラクでの自衛隊駐留を正当化する口実にしたがっている」などとした上で「多くの日本人が自衛隊駐留に反対しているのに、日本の外相が日本人の望みを感じようとしないことに心が痛む」と述べた。 同師は、17日に日本大使館職員から、人質解放への感謝と、外相が聖職者協会に言及しなかったことを謝罪する書簡を受け取ったとしている。」http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040418-00000003-kyodo-int3人の誘拐された事情が詳しく報道されたときに、正しい意味での自己責任が論じられることを期待したい。その際には、必要な情報がすべて報道されるよう、表現の自由を守って欲しいものだと思う。
2004.04.18
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東京犬さんの情報で、新潮と文春が人質3人とその家族にひどい攻撃をしているというのを聞いた。それで僕もこの二つの雑誌を買って読んでみた。東京犬さんが言うように、新潮の方があからさまにひどいという違いはあるものの、どれも品性下劣な個人攻撃であることに変わりはないと思う。人質3人を支援する立場の人がこれを読んだら、感情的に憤りを感じてしまうだろうと思う。しかし、そうなったらこれはある意味ではこの記事を書いた人間の思うつぼかもしれない。この記事を感情的に受け止めるのではなく、ここから読みとれる客観的な情報の意味を考えてみたい。政府の側が、人質の価値を貶めたいと考えるのは、その立場からある意味ではよく理解できる。人質がヒーローになってしまったら、自衛隊派遣の間違いが際だってしまうからだ。だから、あらゆる情報を操って、人質を攻撃したいのは、権力の側の意図だろうと思う。それと同じ事をしている新潮や文春は、権力の側の考えを代弁しているのだと考えられる。感情的に、この記事を受け取るのではなく、権力の側は、この人質事件をどうしたいのかという意図を、この記事から読みとってみたいと思う。そうすれば、今の小泉政権という権力の中枢がどんなものであるかが、より明らかになるだろう。さて、この記事に言及する前に、ぜひとも書いておきたいことがもう一つあった。JNNの単独インタビューに答えたパウエル国務長官の言葉だ。僕は、これをうるとびーずさんの日記で知った。さっそくそれを見てみたいと思って紹介のページに飛んだのだが、これがすでに消えていた。ニュースというのは、時間がたつと消されてしまうと言うことはよくあるけれど、これほどあっという間に消えるとは思わなかった。なぜ、これほど早くこのニュースは消えてしまったのだろうか。インターネットの検索で、やっとキャッシュによるものとしてパウエルさんの言葉を見つけた。「また、パウエル長官は日本の一部で人質になった人の自己責任を指摘したり、軽率だなどと批判する声が出ていることについて、「危険を知りながら良い目的のためにイラクに入る市民がいることを日本人は誇りに思うべきだ。もし人質になったとしても、『危険をおかしてしまったあなたがたの過ちだ』などと言うべきではない」と述べていました。」この言葉と、日本政府の言い方の違いを比べてみて欲しいと思う。民主主義の代表として尊敬に値するパウエル氏の言葉と、封建主義の残りかすを引きずっているような、「お上にたてつくヤツはけしからん」とでも言いたげな日本の政治家の言い方を比べて欲しい。僕は幸いに、筑紫哲也さんのニュース23でこのインタビューを見ることが出来たが、これを目に出来なかった日本人も多いのではないだろうか。このような貴重なニュースが多くの人に届かない状況というのは、表現の自由・報道の自由の大問題ではないのだろうか。もし何らかの意図的な制限があって、このニュースが流されていないのなら、このことに対しては「表現の自由」を守るために闘って欲しいものだと思う。文春が考える「表現の自由」にこのようなものが入っているかどうかをよく見ていきたいものだ。さて、よりひどい新潮の記事をまず見ていきたいと思うが、まず今井君に対する攻撃としては、「「共産党一家」が育てた」と見出しを立てているところにその基本姿勢が象徴されている。ひどい差別と偏見丸出しの言い方で、これだけでもまともなジャーナリズムではないことが明らかだが、それ以上に僕が驚いたのは、未だに共産党とか共産主義に根深い偏見が残っていることだ。歴史的にはソ連が崩壊し、現実の共産主義は国家建設の理論としては崩壊した。だから、共産主義というのは今や学問的な対象としてのマルクスの思想を表す言葉になっているのではないかと僕なんかは思っていた。相手を共産主義者だとののしれば、戦時中の「非国民」と言っているのと同じ効果が生まれると言うことに驚いた。しかし、この立場がまさに権力の側の立場なんだなあと思う。崩壊し、今ではほとんど影響力のない共産主義という言葉に頼って相手を貶めようとしているこの記事に、僕はある意味では権力の側の理論の限界を読みとる感じがする。人質3人をヒーローにせずに、貶めようとするというそもそもの意図が品性下劣なのだと思うが、もっとまともな批判をしないと、これでは論じる対象にも値しないと思う。彼の主張が「革マル」の主張にも近いということも書いてあるが、まともな批判だったら、その近いという思想そのものを批判すべきだろう。一般的に「悪」のイメージを持っているものに近いという言い方で相手を貶めようとするのは、誹謗中傷の常套手段ではないかと僕には見える。高遠さんについては、その過去を暴いて、非行少女だったことを理由に彼女の人格を貶めようとしている。これを見ると、保守的な人間が、道徳的な非難を浴びせて相手を貶めようとするやり方なんだなと感じる。過去にいくら非行という事実があろうとも、それを一生引きずって生きなければならないと言うものではない。これは、前科者はいつまでも白い目で見られても仕方がないという、すさまじい差別的な考え方を基本に持っているのではないかとも考えられる。しかし、実際には、過去に過ちを犯した人間が、それを深く反省し立ち直った場合、何も深く考えず大きな過ちをしないで来た人間よりも、ずっと深く真理を理解するものだ。そういう意味では、高遠さんにはそのような過去があったにもかかわらず、このような素晴らしいボランティア活動をするようにまでなった、その心の奇跡は、単なる親切心でボランティアを始めた人間よりもずっと尊敬できるものだと僕などは感じる。この記事を書いた人間の意図に反して、僕はこれを読んで、もっと高遠さんに対する尊敬の念が高まった。この記事を読んで、高遠さんを嫌悪する感情を生む人間が、この記事を書かせた背景にいるのであって、それが権力の側の立場なんだろうなと思う。記事では、高遠さんがこのような活動が出来るのも、その家が資産家であるからだということをあげている。これはねたみの気持ちを呼び起こす言い方で書かれている。しかし、資産家であるということがそのまま「悪」だと言うことにはならない。むしろ、余った金を退廃的なものに使うくらいなら、高遠さんのような活動に使ってくれた方が、ずっと日本のためになるのではないか。これも、この記事の筆者の意図に反して、僕などは「それがどうしたの?」という感じでしか受け取れない。郡山さんについては、その仕事の苦労と離婚というプライバシーを暴いて、彼の人格を貶めることでヒーローにさせまいという努力をしている。しかし、このプライバシーの暴露は、今回の人質事件とどのように関係しているのだろう。人格攻撃以外の何ものでもないと僕は感じる。何も攻撃する材料が見つからないとき、プライバシーを暴露して相手を貶めようとするのは、文春の問題になった記事と同じ構造を持っていると僕は感じる。この3人に対する個人攻撃のあとには、「自作自演説」について書かれている。さすがに怪しいメディアとして、このようなものにまで言及するのを恥とも思っていないようだ。だが、新潮がこの説を唱えているのではないと言うのは、うまくごまかして書いている。本当はそういいたいのだろうが、そういってしまうだけの確証がないので、伝聞として様々の人間がそう語っていたという形で記事にしている。それだけそのことを語っていたのだから、それにも信憑性があるのではないかと思わせる書き方だ。しかし、権力の側としては、出来るならそうあって欲しいというふうに考えるのはこれもまたよく理解できる。結局、これもまた権力の代弁をするような内容になっているだけだと僕は思う。まだ文春の記事に言及していないし、新潮の記事もまだ残っているが、かなり長くなったので今日はここまでにしておこう。それにしても、今権力の側から語られている「自己責任論」は本当にひどいと思う。自らの政治的判断の間違いに対する責任は一言も言わずに、個人に対してすべての責任をかぶせようとしている。権力の側の「無責任論」だと僕は思う。権力の側が、助ける人間と助けない人間を選別するようなことを許す背景となるような「自己責任論」を許してはいけないと思う。そのような不平等を許してしまえば、個人は権力の顔色をうかがって生きなければならなくなる。個人の自由は殺されてしまうのである。一度不平等を許してしまえば、すべての人間の自由が失われると考えなければならない。文春の出版差し止めに反対した人は、文春に対して出版差し止めを許してしまえば、すべての出版物に対してこのようなことが許されてしまうと言うことを心配したはずだ。今回の人質3人に「自己責任論」が適用されるようなことがあれば、すべての人は国家による救いを当てにしてはいけないのだと宣言されているのだと受け取らなければならない。国民を守らない国家権力を我々は許していいのかという問題にもなってくる。「自己責任論」を適用するには、公平で納得のいく条件を立てなければならないが、そんなことが出来るのだろうか。どんな人間は国家が守ると言うことを決めることが出来るだろうか。危険な状況が起きたときは、まず無条件で守ることが必要なのではないか。そして、責任を云々するのは、事件が解決したあとに、事件の事実を正確に把握してからにするのが論理的に正しいのではないかと思う。
2004.04.17
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すでに他の人の日記にも書かれているのでごらんになった人が多いだろうが、「[TUP速報]287号 米軍はファルージャ市民を虐殺している 04年4月15日」の記事に、アメリカ軍がいかにひどいことをしているかが報告されている。これは、日本のマスコミにはほとんど登場してこないもので、その偏った報道に僕は疑問を感じている。それだけに、この記事の冒頭に次のように語っていることが印象に残る。「ファルージャではここ数日間、市全体が米軍により包囲され、水も電気もないまま、一般市民が「集団処罰」を受けているという。なのにマスコミはその惨状をほとんど報道してはいない。 実際、ファルージャ市内で取材している記者は、たった二人しかいないのだ。私は現場で起こっているだろう残虐行為をこの目で見て世界中に報らせるめ、ファルージャに行くことにした。」このジャーナリストに対して、「有名になりたい」からだという人もいるかもしれない。しかし、「有名になる」というのは結果として起こることかもしれないけれど、「有名になりたい」と言うことだけの動機で、このような行為が出来るものではないし、もしそのような動機だけで事実を眺めれば、そこには「売れる」という観点で事実を眺めてしまうことになってしまうので、貴重な事実を送ってくれたという結果に結びつかないのではないかと思う。ジャーナリストの使命感は、知らせるべき事実があるのに、それが知らされていないときに自分が行かなければならないと感じるものではないかと思う。まして、ファルージャでの取材者が二人しかいないとしたら、そこでとどまるのがジャーナリストの使命だと、この記者は感じたのだろうと思う。あえて危険な道を選んでいる。このジャーナリストは、そこにとどまることをジャーナリストとして選んでいる。自己責任でその危険を引き受けていると言っていいだろう。もし不幸にして何らかの事件や事故に巻き込まれて死ぬようなことがあっても、それは覚悟の上だろう。しかし、だからといって、危険な目にあった人間を「自己責任で行った」のだから助ける必要はないと考えていいものだろうか。「自己責任」を論じるのと、「自己責任」を理由に責任逃れをしたり、人質を見捨てるような発想をするのとは僕は違うと思う。うるとびーずさんの日記に紹介されていた、江川紹子さんの文章「いわゆる「自己責任論」について」というものに僕は深く共感する。これは次のところで見てもらえるといいと思う。http://www.egawashoko.com/menu4/contents/02_1_data_28.htmlここで一番共感する部分は次のところだ。「しかし、3人の命が危機に瀕し、事実関係も未だはっきりせず、彼らが何の弁明も説明もできない状況の中で、彼らの「自己責任」を云々することはフェアではない。」このことだけでもさることながら、ジャーナリストとしての彼らの活動は、「自己責任」という非難を浴びせるものではなく、むしろ尊敬し感謝すべきものではないかと僕は感じる。もっともそうは感じない人がいるから非難を浴びせるのだろうなとは思うけれど。ファルージャからの報告には次のようなものがある。「街でいちばん大きな病院は、そこに出入りしようとする人々を米兵が狙撃するので使えないし、もう一つの病院は米軍がすでに爆撃したので使用不能だ。いまファルージャで機能しているのは、二つの小さな医院だけだった。それはこの医院と、もうひとつは車の修理工場内に設置した臨時医療所だ。私がその小汚い医院にいる間に、米兵に撃たれた女性や子供たちがひっきりなしに運び込まれた。ひとりの女性は首を撃たれ、息をするたびに妙な音をたて、苦しそうにもがいていた。 同じく首を撃たれた小さな子供は、医者が必死で命を救おうとする間も、うつろな目を空に向けて、口から何かを吐き続けた。30分たったころ、医者は二人の命をあきらめざるをえなかった。 外では狙撃の音が断続的に続いていた。米軍の侵略行為で傷ついた犠牲者が次々に運ばれたが、そのほとんどが女性や子供たちだった。」このような情報は、まず日本のマスコミには登場しない。そして、現地に行かなければ得られない情報でもある。日本人3人の人質の事件に関しても、イラクがどのような地であるかというのをこれほどはっきりと知らしめることになったのは他になかった。サマワでの自衛隊は、地元の人々と友好な関係を作っているという記事ばかりで、イラクは安全な地であるというイメージすら与えていたのではないだろうか。イラクが危険であると言うことは、今や政府関係者でも語らざるを得ないほどになっている。「イラクの治安はまだ予断を許さない=川口外相」http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040415-00000636-reu-intこの中で川口外相は、「イラクの治安状態はまだ、予断を許さず、今後ともイラクへの渡航は絶対に控えて欲しいと勧告する」と語っている。イラクは非常に危険なのだ。もはやイラク特措法が適用できる状況ではない。しかし、政府の方針は、「毅然と復興支援を継続 外相、残る2人確認に全力」http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040416-00000017-kyodo-polということになってしまう。これは論理矛盾ではないのだろうか。危険だから、ジャーナリストにさえも行くなと言うのなら、国民は偏った情報を修正することが出来なくなる。ますます、危険を冒してでも情報を伝えるジャーナリストの必要性が増していくのではないか。我々は、そういうジャーナリストを尊敬こそすれ、危険を冒したと言うことを非難すべきではないと僕は思う。彼らは、我々のかわりに貴重な情報を求めてくれているのだ。マスコミが知らせない貴重な情報を与えてくれるジャーナリストとしては、田中宇さんもそのような人であると僕は感じている。田中さんの次の記事には非常に貴重な情報が伝えられている。「米イラク統治の崩壊」http://tanakanews.com/e0413iraq.htmここには、マスコミで「民間人」と報じられている、最初に惨殺が報道されたアメリカ人4人の情報が載せられている。彼らは、「民間人」というイメージでとらえられるような人間たちではないのだ。長い引用になるが次にこの部分を引いておこう。「ファルージャで殺されて遺体を引きずれ回されたアメリカ人4人は「ブラックウォーターUSA」という米軍傘下の非正規戦闘要員の供給会社(戦場における警備業務なども行う会社)と契約していた海軍系などの米特殊部隊の元メンバーで、ファルージャ市内で米軍のための食糧運搬の警備をしている最中にゲリラ攻撃を受けたと発表された。 だが、彼らは実は食糧運搬などしておらず、しかも4人が攻撃され、遺体が引き回されて何時間も騒動が続いていた間、その近くに駐屯していた米軍部隊は全く動かなかった。殺された4人は、ひと目で米占領軍の関係者と分かる白い4輪駆動車に乗り、重武装していた。そのため、殺害事件を誘発するために、米軍がわざと4人を犠牲にしたのではないかという見方が、アメリカの大手マスコミの記事にも出ている。 (国内世論を考えると米軍はこれ以上正規軍の兵力を増やせないため、国防総省は、アメリカやイギリス、南アフリカなどにある非正規戦闘要員の供給会社〈傭兵会社、戦場警備会社〉と契約し、合計2万人の非正規戦闘員を雇用している) 米軍がファルージャで行ったような、占領下の市民をわざと挑発し、怒らせてゲリラ攻撃を煽り、その上で正当防衛と称して大攻撃を仕掛ける作戦は、イスラエル軍がパレスチナ占領地で行っている手法である。そして、今回のファルージャ大攻撃につながる3月31日の「アメリカの民間人」4人がファルージャで殺害された事件も、米軍側が大攻撃を仕掛けるための口実として起こした可能性が高い。」この情報を見ると、「民間人が惨殺された」というイメージがかなり変わってくるのではないだろうか。僕は、このことで、惨殺されたと言うことを弁護したいのではない。どのような人間であろうとも、惨殺するのは理不尽な犯罪には違いないと思う。しかし、イラクの地では、アメリカによってイラクの人々が、これ以上のひどさで惨殺されているのである。その報道が全く出ない中で、このアメリカ人の惨殺だけが大きく報道され、イラクの人々だけが非人間的なことをしているようなイメージを振りまくのは、あまりにも不公平ではないかと思うだけである。その不公平さに、公平を取り戻すために、尊敬すべきジャーナリストがいるのだと僕は思う。「自己責任」は抽象的に語られるものではなく、その状況という具体性を考慮して語らなければならないのではないかと思う。
2004.04.16
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今朝もまた大きなニュースが飛び込んできた。イラクで、さらに日本人二人が拘束されたというのである。しかも、またしてもジャーナリストだった。そして、二人ともフリーのジャーナリストだった。「<イラク>日本人2人がまた拘束の情報 外務省など確認急ぐ」http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040415-00000164-mai-intこの二人に関して、やはり「自己責任」というようなことが言われているが、世論はかなりこの方向に流れているように感じる。「日本人人質事件が起きた後の小泉内閣の対応について、どう思いますか?」というヤフーのアンケートに関して、100点だと答えた人が最も多く34%を占めている。おおむね評価していると考えられる80点までの人を含めると56%の人が支持をしている。このアンケートに関しては、次のところで見ることが出来る。http://polls.yahoo.co.jp/public/archives/589105065/p-topics-43?m=r逆に0点と30点という批判をする人は、33%になっている。この調査は、信頼できる世論調査のように、無作為に抽出したものではないので、そのまま世論の動向ということは考えられないけれど、積極的に声をあげる人の意見は、政府の対応を支持していると考えられるかもしれない。積極的な人たちの声がそのような方向だと、それに反対する声はますます表に出にくくなってくるかもしれない。しかし、この「世論」の動向というのはちょっとおかしいのではないかと僕は感じる。世論というのは、どれくらい情報が与えられているかで大きく揺れるものである。重要な事実が知らされていて、その事実をもとにして判断しようとするなら、世論の動向というのは正しい判断の方向を選択することが期待できる。しかし、情報が制限されており、そこに操作されているということが感じられるときは、情報を操作する側に都合のいい世論が形成される可能性がある。アメリカがイラク侵略に踏み切ったとき、世界中が反対していたのに、アメリカ国内ではそれを支持していた。アメリカでは、イラクへの侵略の面の報道がいっさいなされなかったからだろうと思う。今回「自己責任」と言うことが語られているのを僕がおかしいと思うのは、この言葉によって、政府が救出の努力をしないことを免責するようなニュアンスで語られているからだ。結果として最悪のものが出てきた場合に、それだけの覚悟をして、報道というものに命をかけていたのだと言うことから「自己責任」という言葉が語られるのなら理解できる。しかし、この時点で「自己責任」を語るというのは、政府の責任逃れを容認することになるのではないか。この時点では、政府としては、出来る限りの努力をして救出に当たるべきなのではないだろうか。「中傷 家族追い討ち イラク邦人人質 匿名社会 陰湿さも」http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040415-00000020-nnp-kyuという記事を見ると、逆の意味での「表現の自由」が行使されているのを感じる。政府を批判する方の声は、「自己責任」という声でその表現を押さえつけようと言うことを感じるが、拘束された人質やその家族をバッシングする表現の方はやり放題という感じで、無法状態という感じさえ受ける。この記事では、「十五日で発覚から一週間になるイラクの日本人人質事件。依然、解放の見通しは立たず、心労深まる三人の家族に、心ない中傷や嫌がらせが追い打ちをかけている。「自業自得だ」「自己責任で何とかしろ」―。励ましの声や折り鶴に交じって電話や手紙で届く非難は、大半が匿名か正体の分からない団体名のもので、“匿名社会”の陰湿さも浮き彫りにする。周囲からは「まるでいじめだ」と憤りの声が上がった。」ということが報じられている。批判というのは、どのようなものでも表現の自由があると思う。しかし、それが責任あるものであるには、匿名ではなく責任を持った主体であることを表明する必要があるだろう。上に報じられているものは、内容的にも批判と呼べるものではなく、誹謗中傷と呼ぶべきものだろうと思う。「嫌がらせもはや犯罪 酒匂一郎・九州大大学院法学研究院教授(法哲学)の話 家族に対する匿名の嫌がらせの電話はもはや犯罪に近い。家族が求めた自衛隊の撤退を「理由がない」とあっさりと拒否した政府の姿勢が、社会に対して、家族を攻撃する“お墨付き”を与えてしまったのではないか。背景に、個人よりも国家を優先する社会的傾向の強まりを感じる。」という話では、政府の姿勢を問題にしているが、それをそのまま垂れ流して報道するメディアの責任も大きいのではないかと僕は感じる。「非国民」を作り上げて、それをバッシングする雰囲気を作ることは、表現の自由を守ることにはつながらず、やがては表現の自由を失う道につながるのではないか。かつての戦争の歴史はそれを教えているのではないかと感じる。「会見でも謝罪が先行 ジャーナリスト・大谷昭宏さんの話 精神的に家族が追い込まれ、会見でも謝罪が先行している。家族に「今でも自衛隊撤退を求めるか」と尋ねたが、以前と違い、明確に答えない。撤退要請を圧殺しようと、組織的な嫌がらせがあったのではないか。これでは民主主義国家とはいえない。」大谷さんの意見に全く同感だ。今の報道の状況は、民主主義国家のものとは言えないのではないかと、僕も思う。民主主義国家なら、自衛隊撤退という意見も、言論の自由として、表明することは許されるはずだ。それに対して論理的に反論し、真っ当な批判をするのなら、同じ言論の自由だ。しかし、悪口雑言でそのことを口にすることを非難するのは、言論の封殺に他ならないと思う。「いじめやすい人狙う 評論家・樋口恵子さんの話 憂さ晴らしをしたい人がいじめやすい人を狙っている。目立つこと、自分にできないことへの一種のねたみだろう。苦しんでいる被害者をいじめるとは本当にひどい。」樋口さんの感想は、日本の教育のゆがみがこんな形で出てきているのかなと、教育という仕事に携わっている人間としてはそんな感想を持つ。ねたみというのは、いつも競争相手を意識していなければ生まれてこない感情だ。勝ったとか負けたと言うことを気にしないのなら、誰が、どれだけ素晴らしいことをしようともねたみということを感じない。素晴らしいことをそのまま素直に素晴らしいと思うだけだ。ゆがんだ競争原理に毒された日本の教育が、このような社会の雰囲気を生み出してしまうのではないかというような感想を僕は持つ。表現の自由という問題では、多くの人の日記でも指摘されていたことだが、人質事件の最初のテレビ報道の映像が、アルジャジーラで流されたものの一部をカットしていたという問題がある。神保哲生・宮台真司の「マル激トーク・オン・デマンド」でもそのおかしさを指摘していた。映像そのものが、一般に知らせるにはあまりにも残虐で目を背けたくなるものだったら、それなりの自己規制をするのも分かるが、あの映像に関しては、カットしたと言うことには他の意図が感じられるというのだ。それは、ナイフをのど元に突きつけられている緊迫した場面の映像だった。彼ら3人が、いかにイラクの人道復興支援に努力した人間であっても、すべてのイラク人がそのことを知っているわけではない。毎日大量のイラク人が殺されている中で、殺人者であるアメリカを支持している日本人として3人を見ているイラク人が、感情が高ぶって乱暴なことをするのではないかという危惧を抱かせるような映像になっている。その映像がカットされていると言うことは、事件の状況をソフトなものにするという効果を持つのではないだろうか。ソフトなイメージを与えるから、犯人グループと人質との間には何らかの馴れ合いのような感情があるのだというような憶測が生まれてくるのかもしれない。宮台氏は、たとえ残虐な映像であっても、その残虐さの原因に我々自身がかかわって責任があるのなら、その残虐さを残虐であるという理由で目を背けるのは間違っているのではないかと言うことも語っていた。我々の責任として、その残虐さを生んでいると言うことを意識するために、残虐さを直視する必要があるだろうということだ。僕は、全くその通りだと思う。イラクで行われている大量殺人という残虐さを、我々日本人は目を背けてはならないのだと思う。日本人には、それに対する責任がある。我々は、むしろイラクで何が起こっているのか、その本当のところの報道を要求する権利があると思う。そして、その要求に応えてくれているのが拘束されたフリーのジャーナリストを中心とする人々なのだ。彼らは、本当の意味での表現の自由のための活動をしているのだと思う。マスメディアは、ここでも表現の自由の闘いをしていないと僕は感じる。文春は、出版差し止め問題で表現の自由と言うことを争った。では、この表現の自由に関しても闘ってくれるだろうか。それとも、このようなものは表現の自由の範疇に入らないという判断をするだろうか。メディアの側が、イラク戦争に関して、どれくらい表現の自由をもとにした報道を考えているか、その面からもこれからの事件の行方を見守っていきたいと思う。
2004.04.15
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ちまたでは、政府批判を強める人質の家族に対するバッシングがかなり出ているというニュースがあるようだ。政府に反対する人間は未だに「非国民」という非難を浴びなければならないのだろうか。その中でも、最も卑劣な誹謗中傷は、「自作自演説」で語られているものではないだろうか。これは、まともな場所ではいっさい語られていないようだ。さすがにヤフーのニュースでも一度も目にしたことはない。「狂言誘拐説の検討:週刊アカシックレコード040412」というメールマガジンで、これが論じられている。この著者は、かなり怪しいうさんくさいイメージを持っている人だと僕は感じる。この少し前の号では、朝青龍の引退のスクープを知らせている。これは、完全なガセネタだった。もしこのスクープが本当だったら、信用もしたのだが、これだけの大きなスクープだったら、マスコミが放っておかないはずなので、僕は最初からガセネタではないかと思っていた。このように怪しい媒体の「自作自演説」だが、そもそも「自作自演説」自体がうさんくさいものなのだから、まともな媒体で論じている人間はいないのだろうと思う。どのようにうさんくさいかというものを見てみたいと思う。まず朝青龍引退のガセネタの時と同じように、信頼できる報道メディアからの記事が、「自作自演」に関するものが何もないということに疑問を感じる。もちろん、他の媒体のニュースがないからといって、それを理由にその記事が間違っていると結論づけるのではない。たとえば、田中宇さんは、アメリカのイラク統治がうまくいっていないことを、「わざとうまくいかないようにしている」という仮説を立てている。この仮説も、大手メディアでは全く語られない仮説だ。しかし、これが語られないことは、論理的に整合性のある解釈をすることが出来る。もし、これが事実だとしても、それを知らせることは今のブッシュ政権にとっては、国民に不信を生み政権の信用を落とすことになる。メディアにその論調が出てくることを阻止しようとするだろう。そして、阻止するだけの力が権力にあれば、それはメディアには登場してこない仮説になる。メディアで語られない仮説の中で、権力の側に都合の悪い仮説は、よほどのことがない限り表には出てこないだろうと思う。ところで、イラクで人質になった3人は、メディアを押さえるだけの権力を持っているだろうか。もちろん、そんなものはない。そうであれば、メディアがこの仮説を語らないのは、それの信憑性がきわめて疑わしいからだと僕には考えられる。このような疑わしい仮説を提出すれば、メディアそのものの信用を落としてしまう。だから、確実な証拠が見つからない限りメディアにこの仮説が登場することはないのではないかと思う。逆に言えば、今の段階では、確実な証拠は何もないのだとも感じる。すべては憶測から生まれた仮説なのだろう。世論の反発が恐くて仮説が出せないということを言う人がいるかもしれない。しかし、それが確証のある仮説なら、世論が気づく前にこそ提出する価値があるのだ。世論の大部分がそのように考えるからと言って、その時に提出するようでは、報道機関としての能力が疑われる。僕が宮台氏と神保氏の「マル激トーク・オン・デマンド」を信頼するのは、その時の世論に反していようとも、彼らが確証を得たことは、たとえ少数派であっても明言するところにある。それが論理的に納得できるからなおさらだ。この「自作自演説」には、このような納得が全くない。これが第一の疑問だ。自然科学においては、まず現象のデータを幅広く集め、そのデータをすべて解釈できる整合性のあるものを仮説として設定する。そして、その仮説が科学としての真理であるかどうかを、実験によって確かめる。仮説が予想するような結果を実験で確かめられたら、その仮説が提出している部分に関しては、自然の法則が成り立っていると解釈できるわけだ。社会に対する真理は、やはり今までに知られている事実からある種の仮説を設定するのだが、それは事実から論理的に整合性のある形で導かれなければならない。そこに強引な論理があれば、それだけで仮説の信用は落ちることになる。そして、実験と言うことはたいへん難しいのだが、今まで知られていない新しい事実が見つかったときに、その事実が仮説と整合性があると証明されれば、自然科学の実験と同等な真理性の証明に近いものが得られると思う。まず、「自作自演説」が生まれてきた事実を調べてみよう。その事実と「自作自演説」との論理的つながりが、果たして整合性のあるものなのか。それが納得できないものであれば、やはりこの仮説は信用の薄いものであると僕は思う。「週刊アカシックレコード」の筆者はこの人質事件を、「最大の特徴は、犯人の「ふまじめさ」だ」と語っている。これは、すべての人を納得させる解釈だろうか。この解釈からスタートするこの事件の受け止め方に僕はまず疑問を感じる。「ふまじめ」というのは、受け取り方によって違ってくる。人間を観察しているとひとくくりに「ふまじめ」というのを決められるものではないということが分かるのではないか。このあとに筆者が論じているのは、犯人側の「雑」という面だ。次のようなものを挙げている。・「余計なものが映りすぎている」・「背景の壁や、窓の外の景色、犯人自身の姿などは、犯人たちの隠れ家や背後関係を特定するヒントになるので、映さないのが常識だ」・「犯人たちの体格がよいことから、イラクと違って食糧事情のよい外国の出身者ではないかと推理」・「ほとんど使われてない新品の武器を自慢げに持っていること指して、犯人たちの未熟ぶりを嘲笑した」・「軍事評論家の宇垣大成は、室内で対戦車ロケットを撃てば発射時に出るガスで大火傷を負うことや、ライフルを撃っても銃弾が壁ではねて撃った者も負傷することなどを、犯人たちが理解していないと指摘した」。「さらに宇垣は「武器を持って人質のそばに立つと、人質ともみ合いになったとき暴発の危険がある(人質がライフルを棍棒のように振り回して殴ることもできる)」ので、そんなことも知らないこの犯人たちは、兵士として十分に訓練されていない、と結論付けた」これは、犯人側へのアドバイスと語っているなら理解できないでもないが、これらの事実を次のような結論に結びつけることにどれだけの説得性を感じるだろうか。「が、犯人が武器を持って「安心して」人質のそばに立つことができる理由は、ほかにもある。宇垣のような、大手マスコミに出演する専門家は言いにくいだろうから、代わりに筆者が言おう。それは、人質と犯人の間に「信頼関係」がある場合だ。」上の事実からこのような結論を導き、だから「自作自演」なのだ、犯人側との共同の狂言なのだという主張に結びつけている。しかし、これは強引な論理だ。上の事実は、他の解釈が十分成り立ち得るものであるにもかかわらず、その解釈を捨てる理由を説明することなく、自分に都合の良い結論を提出するその論理は、とても説得性を感じるものではない。人質と犯人の間の「信頼関係」というのは、彼ら3人が今までどのような活動をしていたかを見れば、彼らがイラクの人々に対して「信頼関係」を感じていても不思議はない。自分たちが理解されれば、彼らの敵ではないということを伝えられると思う信頼感だ。「信頼関係」というものも、ここでほのめかされている「自作自演」に協力する「信頼関係」ばかりでなくいろいろなものが想定されるのだと思う。犯人の側の兵士としての未熟さは、イラクの現状を見れば十分理解できるものだと思う。イラクには正規の軍隊は抵抗勢力の側に存在しないので、兵士としての訓練が充分には行われていないだろうと言うことは考え方としては自然だ。同胞が理不尽に殺されている毎日の中で、冷静にメッセージを伝えられるとしたら、その経験を積んだ専門家ででもなければ出来ないだろう。未熟だということが、彼らが一般市民の中から出てきたかもしれないと言うことを想像させるものにもなっている。筆者は、軍事には詳しいのだろうが、すべての事実を軍事的にしか解釈できないのではないかと感じる。軍事的にしか解釈できないので、軍事的におかしいと感じるものはすべて疑ってかかるという姿勢が、「自作自演説」を、他の面を検討することなく、上の事実だけから短絡的に結論したのではないかと僕は感じる。筆者は、このあと犯行声明文を、「高橋和夫・放送大学教授も「イスラムの知識に乏しい者が書いたのではないか」と指摘」しているのを引いて、だからこれは「自作自演」として書かれたのだと論理を展開している。しかし、「イスラムの知識に乏しい者」というのは、イラク人の中には一人もいないのだろうか。これも、事実を短絡的に自分の都合のいい結論に結びつけているようにしか僕には思えない。このあと筆者は、延々とビジネスレターを翻訳することを頼む際の事実を書き連ねているのだが、これは本質とは全く関係のない事実のように僕は思う。もしも、この犯行声明文が、筆者の言うように「自作自演」の結果として作られたものだということが事実であった場合に、筆者が論じていることも関係してくるのだが、その前提が確かめられないときは、単に物知りの知識を披露しているだけのことに過ぎない。筆者は、声明文の内容批判として次のようなものも挙げている。「この犯人たちは異常なほど「日本」にこだわっており、韓国についてはなんの非難もしない(4月10日の共同通信Web版によれば、ほぼ同時機に韓国人の牧師7人を拘束した犯人グループは日本人人質事件の犯人と同じである可能性が高いのに、韓国軍の撤退は要求せずに短時間で牧師7人を釈放した、という)。これは不自然だ。」これも、僕などは必ずしも不自然だとは感じない。違う解釈も十分成り立つことだと思っている。だから、この批判から「自作自演説」が導かれるとは思えない。韓国に関しては、日本ほど突出したアメリカ支持をしているとは思えないし、むしろこのことを一つのメッセージとして受け止めるべきではないのか。韓国の姿勢と日本の姿勢にはどういう違いがあったのかと。それから、もう一つ解釈に付け加えるべき事は、韓国で拘束されたのが牧師という聖職者であったということも関係があるのではないかと僕は想像している。イスラム教は、キリスト教と違って異教徒を絶滅させようとするような侵略的な宗教ではないということを聞いている。聖職者という地位にある人間は、たとえ異教徒であっても尊敬の念を抱くのではないだろうか。これは、僕の解釈が間違っていて、イスラム教は異教徒を許さない宗教なのだとしたら、異教徒である韓国の牧師を助けたのは、よほどの理由があったということなので、ぜひそのよほどの理由を報道してもらいたいものだと思う。筆者は、「狂言である場合、その動機や背景については、次回以降にさらに検討したい。」と語っている。僕も、これが「自作自演」であるという可能性を語るのなら、その動機を論じなければならないと思っている。僕には、その動機が感じられないので、「自作自演説」を信用できないのだ。いったい何のために、命がけでイラクまで行って、そんなことをする必要があるのだろう。有名になりたいから?それだけの理由で命をかけるだろうか。普通は、そういう姑息なやり方を考える人間は、命がけでやろうとは思わないだろう。人が犠牲になっても、自分は安全な場所でなんとか有名になりたいと考える人間だったら、「狂言」という可能性も考えられる。しかし、彼らはそういう人間なんだろうか。筆者の語る動機がどういうものになるか、大いに関心を持って待つことにしよう。もう少し続きがあったのだが、長くなったので掲示板の方へ移そう。
2004.04.14
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イラクでの人質事件が解決したというニュースがなかなか入ってこない。確かな情報がなかなか無く、どれを信じたらいいのか、情報源のない一般市民には何とも判断が付かない状況だ。このようなときに、どのように不確かな情報を受け止めたらいいのかということを考えてみた。基本になるのは、やはり論理的整合性というものだと思う。確かな事実が分からないときは、事実をもとにした結論というのは、ほとんどが一つの「仮説」として扱わなければならないことになる。その仮説をもとにして論理的な帰結を考えたときに、他の事実とどれだけ整合性がとれるかで、その「仮説」の信憑性がはかれるのではないだろうか。このニュースを最初見たときに、「自衛隊撤退」というものに対して、二つの考え方のどちらに賛成するかの判断に迷った。撤退する方が他の事実との整合性がとれるのか、撤退しない方が整合性がとれるのかの判断が出来なかったからだ。しかし、この一連の流れの中であることの判断をもとにすれば、僕の迷いも吹っ切れるのではないかと感じるようになった。それは、イラクに自衛隊がとどまることの意味がどこにあるかという問の答をどこに求めるかという問題だ。この問の答は、人質問題にかかわって撤退するべきかどうかという問いよりも、かなりはっきりした答を出すことが出来る。政府の宣伝では、イラクでの自衛隊は「人道復興支援」を行っているのであり、そこにとどまることの意味は、イラクの人々を助けると言うことが一番のものであるということになる。単純にそれを信じている人は、人質事件をきっかけにして自衛隊が撤退すれば、それは「テロに屈して」脅しをかけられたから逃げるんだというふうに映ってしまうだろう。しかし、僕は自衛隊が「人道復興支援」に行っているとは思っていない。これは、アメリカの支援が目的で、自衛隊という軍隊が行くことに意義があるからこそ派遣されていると僕は受け取っている。「人道復興支援」だというのなら、NGOやNPOの活動こそがそれにふさわしいはずだが、そのような方向の支援を日本政府が行っているというニュースは全く聞かない。だいたい自衛隊の活動は「人道復興支援」になっているのだろうか。現地では、「自衛隊は何もしていない」という評判が広がっているのではないだろうか。水を配ると言うことにしても、NGOであれば遙かに安い費用で出来るものを、莫大な予算を使って自衛隊は行っている。しかも、NGOより遙かに少ない量しか供給できないという風にも書かれていたように記憶している。自衛隊は、イラクにいるということでアメリカ支援をしているという意味しかないのではないだろうか。この意味は、実は大きな問題をはらんでいる意味なのではないかと思う。日本人が、自衛隊がいる意味は「人道復興支援」であるとだまされているだけなら、まだ国内的な問題として我々の努力の問題になる。しかし、世界の国々、とりわけイラクの人々が、自衛隊は人道復興支援に来ているのではなく、アメリカの支援をしに、アメリカの側の占領に加担するために来ているのだと受け取っていたらどうなるだろうか。マスコミの宣伝では、サマワの地では自衛隊が歓迎されていて、自衛隊は他の国の軍隊とは違うのだと言うことが報道されていた。本当に、イラクの一般の人がそう思っているのだろうか。日本がアメリカのイラク侵略をいち早く支持した国であることは世界中が知っているのではないか。むしろ、日本には平和憲法があって、戦争には加担できない国であるというようなことの方が知られていないのではないだろうか。今回の人質事件が、このような流れの中で起こった事件であるとすれば、日本はアメリカの側に立っているのだと宣言し続けてきたことの結果として、「テロリスト」と呼ばれている反米の側のイラク人に日本人がねらわれる原因を作ったのではないか。そうすると、この事件をきっかけにして自衛隊が撤退すると言うことの意味が、「テロに屈して」撤退したという判断とは違う意味を見つけることが出来るのではないだろうか。「テロリスト」と呼ばれているグループだけではなく、一般のイラク人も、日本はアメリカの側に立っているというのがその認識だとしたら、(これは、かなり落胆しながらも、徐々に受け入れている認識ではないだろうか)自衛隊の撤退というのは、その認識が違うのだというメッセージを届ける意味が出てくる。我々は、そのようなメッセージを届けたいと思っているだろうか。僕は届けたいと思う。政府はアメリカに追従していて、不当な戦争であるイラク侵略を支持しているけれど、国民の中にはそれに反対しているものもいるということをイラクの人々に伝えたい。小泉政権が自衛隊撤退を決断することはないだろうが、それだからといって、自衛隊撤退をすべきだという声をあげないのは、日本人全体がアメリカを支持しているという間違ったイメージをイラクの人々(それにつながるイスラムの人々)に伝えてしまうのではないだろうか。世論の高まりがどれくらいのものになるかは分からない。僕と同じような発想で考える人間ばかりではないだろうと思うからだ。しかし、日本人全部が、アメリカ支持をしているのでは無いというメッセージを送るという点で賛成してくれる人は、すべての人が声をあげてもらいたいものだと思う。それが、たとえ今は少数派であろうとも、声をあげることで連帯をしていきたいと思うものだ。イラクの人々にとっては、日本人は大きく二つのグループに分かれていくのではないか。アメリカに協力する人間と、アメリカに反対する人間とに。そして、テロリストと呼ばれる側の人間は、抵抗と報復の手段として、アメリカに協力する側の人間をねらってくるのではないだろうか。もちろんそちらの道を選択して、テロリストとは断固として闘うのだと決断するのも一つの選択だ。しかし、僕は、不当な行為をしているアメリカのせいで敵にされるのはごめんだ。断固とした闘いは、どちらか一方が完全に消滅しない限り終わらない闘いになる。僕は、そういう覚悟をして闘いたくはない。むしろ、イラクの人々と理解し合って、平和に共存する道を探りたい。イラクで拘束された3人の日本人は、アメリカに反対している人間としては、かなり鮮明にその立場を表に出しているのではないかと思う。だから、論理的に考えれば、彼らが犠牲になるはずがないと僕は思う。しかし、そうでない人間は、日本政府の出方によっては非常に危険になる。彼らのように立場を鮮明にして生活できる日本人はそれほど多くはないだろうと思うkからだ。イラクからの自衛隊撤退は、拘束されている3人を救う一助になることはもちろんだが、それ以上に、一般の日本人のこれからの危険を減らすために大事なことなのだと思う。アメリカとの同盟関係にはひびが入るだろうが、不当な理由でねらわれるという理不尽からは解放されるのではないかと思う。アメリカとの同盟関係も、ブッシュ政権が倒れて、もっとまともな政権がアメリカに誕生すれば、そのひびが入った関係ももっと正常な関係に修復できるのではないかと思う。ここにいたって僕の結論もはっきりした。テロに屈して、事件が起こったから自衛隊を撤退すべきだと考えるのではない。イラクの人々に日本人全部が、イラク侵略という不当な戦争を支持しているのではないと言うメッセージを送るために、自衛隊撤退すべきという主張をするのだという考えだ。そして、その主張が、世論の多数を占めるなら、その圧力で小泉政権を倒し、撤退が言える政権を樹立することを期待したい。拘束されている3人に対しては、「自己責任」と言うことと、誹謗中傷に近い「自作自演説」などというのが駆けめぐっているらしい。これは、どちらも確かな情報がないので、一つの仮説の形として提出されているように思うが、論理的な整合性としては疑問を感じる考え方だ。「自己責任」に関しては、どこまでが「責任」の範囲にあるのかということを深く検討しなければならない。責任があるとしても、それを無限に大きく個人に背負わせるような論理は、やはり論理としては間違いだと思う。どこまでの責任を感じるのが妥当なのかという問題は、それほど単純に言い切れる問題ではない。また「自作自演説」については、その方がおもしろおかしく書けるのだろうが、その他の事実との整合性を考えなければならない。まず動機というものがある。そのような動機が本当に整合的に説明されるのか。だいたい、「自作自演」が本当だったら、彼らがこれまで努力して築いてきた信用がすべて失われてしまうことになる。命がけで築いた信用を失っても、なお見合うだけの大きな動機があったのかということに僕は疑問を感じてしまう。このようなことを言い立てる人間は、自分だったらしかねないと言うことを相手に投影して考えているだけなのではないか。下司の勘ぐりということを僕は感じてしまう。この二つの事柄に関しても、確かな情報がないからこそ持ち上がってくるものではないかと思う。もう一度深く考える機会を持ちたいものだと思う。
2004.04.13
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昨日は解放のニュースに素直に喜んだ僕だったけれど、未だに実際に解放されたというニュースが入ってこないことに不安を感じている。情報がないということがこの不安を生むのだが、今朝のテレビでもいくつかの番組でこのことを取り上げていた。中東問題の専門家の高橋和夫教授は、解放が遅れている原因として次のような可能性を挙げていた。1 犯人の側が、人質解放と同時に逮捕される恐れがないよう、人質の解放の方法に手間取っているという技術的な問題で解放が遅れている。2 犯行グループは人質の解放を決めたが、他のグループからの異論が出て、交渉の道具としてまだ利用するという可能性を残したい勢力が、解放を押しとどめている。3 交渉のテクニックとして、一度は解放を約束しておきながら、それを引き延ばし、その間に何らかの見返りを得ようとして水面下で交渉している。僕も、このどれもが可能性のあるものだと思う。最も望むのは、単なるテクニックの問題であって、少し遅れてはいるけれど、解放へ向かっているというのだ。高橋さんも言っていたが、最も好意的に受け取れる可能性だろう。「<イラク邦人人質>「解放」声明後、交渉難航」http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040412-00000082-mai-intというニュースを見ると、単純に解放するだけではなく、何らかの交渉というものがあるような部分も伺える。日本政府が何らかの見返りを提供するという交渉なのか、引き渡し方法や場所を交渉しているのか、どのような交渉かというのは分からないが、交渉の結果がまずくて解放が遅れているのではないことを願っている。日本人の立場としては、拘束されている3人の安否がまず第一番の関心で、その解放を願うのは当然であるが、この事件をその側面だけから見ていると判断を間違えるかもしれない。同じテレビに出演していた国際ジャーナリストの田中宇氏の指摘には、共感できるところが多かった。次のようなものだ。一つは、この事件の発生が、ファルージャ近郊で起こっていると言うことと、そのファルージャでは今大規模なアメリカの掃討作戦が行われていると言うことが、この事件とどう関連しているかを見なければならないと言う指摘だ。ファルージャでは、一般市民を含む600人のイラク人が殺されているといわれている。この理不尽さに対しては、アメリカの傀儡といわれている統治評議会でさえも反発している。「イラク統治評が米軍の封鎖戦で硬化、即時停戦を訴え」http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040410-00000115-yom-int統治評議会では、「米軍の行為は不当で到底受け入れられない」と語り、次のように報じられている。「元外相で統治評議会でも親米色が最も強いアドナン・パチャチ氏は9日、かつてない厳しい口調でファルージャでの米軍を非難した。米軍は同市での米民間人惨殺もあり、「報復同然」(統治評議会筋)の容赦ない掃討作戦を展開、市民に400人以上とも言われる多大な犠牲が出ている。これに「国民の代表」を自任する統治評議会の主要メンバーとして反発したものだ。」このような強い反米感情が渦巻いているときに、「アメリカの側に立っている」と判断された日本の国の一員として、彼らの拘束があるのだという受け取り方をしなければならない。単に日本人が拘束されたと言うことだけではなく、その対処の方向によって、自衛隊派遣が「人道復興支援」なのか、「アメリカの占領政策加担」なのかということが明らかになってしまうのではないだろうか。福田官房長官が、いち早く「撤退する理由がない」と語ったことを見ても分かるように、自衛隊派遣は「アメリカの占領政策加担」であることは、ほぼ明らかなのだが、マスコミの宣伝では「人道復興支援」と言うことになっている。このごまかしが、この事件によって明らかになったと言うことをまた我々は受け止めなければならないだろうと思う。そして一番大事なのは、田中さんも他の出演者の多くも指摘していたが、アメリカのイラク統治は今や完全に破綻したのだと言うことを認識しなければならないことではないかと思う。そもそものイラク侵略が不当なものであり、占領統治そのものもその不当性によって破綻してきた。そのようなアメリカをいつまでも支持し続けると言うことが何を意味するかを、日本人の多くはもっと切実に考えなければならない。田中さんによれば、アメリカのイラク統治の失敗は、まるでわざと失敗するために行動しているようにも見えると語っている。つまり、イラクの安定を望んでいない勢力が、わざと失敗しているのではないかと疑っているのだ。そのようなアメリカをこれからも日本政府は支持し続けるのだろうか。同盟国であるのなら、そのような失敗を正していくような助言が出来てもいいのではないかと思う。このような危険なところに、あえて行くと言うことを非難する声も挙がっているようだが、これは相対的な問題としてとらえた方がいいと思う。ちょっと前に「マル激トーク・オン・デマンド」にゲストで来ていたNGOのケン・ジョセフ氏は、その当時「イラクは安全だ」と言うことを強調していた。フセインの圧政が終わり、イラク人にとって初めて自由を味わう条件が出来てきたと語っていた。しかし、そのイラクに自衛隊が行くことによって、安全だったイラクの地域が、逆に危険地域に変わっていくという指摘をしていた。サマワは、自衛隊が行く前までは安全だっただろうが、自衛隊が行けば危険になるということを強調していた。今回も、自衛隊が行ったことによって日本人が反米勢力にねらわれたという要素があることは否定できないと思う。だから、危険なのだから行くべきではないということを言う人もいるだろう。しかし、彼らは困っている人の力になりたいという、「人道復興支援」が目的で、危険があってもあえてその活動のためにイラク入りを願った人々だ。その行為を、危険があるのだからと非難することが出来るだろうか。非難すべきは、むしろそのような危険を作り上げた方の責任なのではないだろうか。彼らに訪れた危険は、彼らに責任があって起こった危険ではないということを見なければならない。むしろ、彼らは、命がけの行為で、日本がさらされている危険を日本人に知らせてくれているのだと僕は思う。今回は、危険がはっきりと見えるイラクの地での事件だったが、このような危険は、日本がアメリカ支持という姿勢を持ち続ける限り、世界中のどこでも生まれる危険なのだと言うことを我々に知らせてくれているのだと僕は思う。そのような警告を与えてくれる彼らに対して、我々は感謝をすることはあっても、「自己責任」というような非難をすべきではないと思う。決して見捨てるようなことがあってはならないと思う。彼らを見捨てることは、同じように危険が訪れる可能性を持っているすべての日本人も、いざというときには見捨てられることを意味するのではないかと思う。この事件の最初の段階では、日本政府が自衛隊の撤退を決断することはあり得ないだろうという認識を僕は持っていた。その認識は今でも持っているが、今は、たとえそういう政府の姿勢であろうとも、我々は、自衛隊撤退しか彼らを助ける道がないのなら、それを政府に要求し続けるべきではないかと思うようになった。イラク特措法適用の道でもかまわないから、とにかく自衛隊撤退の方向を要求すべきではないかと思う。それは小泉政権には出来ないと言うことであれば、政権交代を望む声を世論の声としてあげていかなければならないだろう。僕は、今は、自衛隊は撤退すべきという主張を強く言いたいと思う。世論もそちらの方を選んで欲しいと思う。
2004.04.12
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今朝ヤフーのニュースを確かめたら、次のニュースが飛び込んできた。「日本人人質3人、24時間以内に解放…中東TV」http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040411-00000003-yom-intどのような理由があるにせよ、犯人の側が正しい政治的判断を持ったことを素直に喜びたいと思う。報道では、彼らのことを「テロリスト」と呼んでいて、僕もそう書いてきたが、「テロリスト」という言葉の響きに、単なる凶悪な犯罪者ということだけではなく、政治的な意志を持った人々というニュアンスが入ってきたのではないかと感じる。彼らが単に凶悪な犯罪者であるのなら、多くの日本人の願いも、イラクの善良な意志を持った人々の声にも耳を貸さずに、最悪の結果を生んだかもしれない。しかし、彼らは、イラクのイスラム教スンニ派法学者組織「イラク・ムスリム・ウラマー協会」が国内の反米勢力に送った「米国に協力していない外国人の拘束者を解放するように」とのメッセージに対し、「イスラム法学者団体の要請に応じ、人質を24時間以内に解放することを決めた」とメッセージを返してきた。「テロリスト」は単なる凶悪な犯罪者ではなかった。政治的意志を持った人々だった。彼らは「レジスタンス」でもあるという面を我々は受け止めなければならないだろう。日本政府は何も出来なかったが、彼らは正しく政治的判断を下した。この声明が確かに実現されて、24時間以内に人質が解放される姿を見たいと思う。今週の「マル激トーク・オン・デマンド」では、この問題にも少し触れており、危険地域へ自らの意志で行ったことに対する「自己責任」の問題にも触れていた。宮台氏の論理は、さすがに意味の深いもので、僕が考えていたものよりも遙かに整合性のとれているものだった。宮台氏は、物見遊山でイラクに行ったバック・パッカーと、今回人質になった「人道復興支援」に携わっていた人たちとは区別して考えるべきだという論理を提出していた。物見遊山で行って、今回のような事件に巻き込まれた場合は、その人間の無知というものに一番の責任があるという論理も正当性を持つ。自己責任の追及も一定の理があると言える。しかし、今回の3人は、政府が何回も宣言している「人道復興支援」を、民間の立場で行っていた人たちだ。宮台氏によれば、日本以外の国では、民間の活動は、NPOやNGOの活動として組織的にやられていて、それが足りない日本の現状を、彼らが個人で補っているような形だったのではないかと言っていた。本来は、日本政府が有効なものとしてやるべきだった「人道復興支援」を、現実にかなり有効な形で成果を上げている人たちを、日本政府が見捨てたという形になったら、それは何を意味するかを考えなければならない。政府の言う「人道復興支援」は、形だけのもので、自衛隊の派遣も、それが本来の目的ではなく「人道復興支援」なんてのはごまかすための建前にしか過ぎないんだと言うことがはっきりしてしまうのではないか。今回の事件は、それがよく分かる事件だったと宮台氏は語っていた。僕もその通りだなと思った。この宮台氏の論理で考えると、日本政府の判断としては、本当の「人道復興支援」をしている彼らを犠牲にしてはいけないということで、テロリストの要求に屈するのではなく、救うための手段が撤退しかないのであるから、まず彼らを救うために撤退を判断するというのが、本当は正しい道だったかもしれないと思った。彼らが、本当の「人道復興支援」をしているからこそ、そのような判断が正しいと思う。しかし、不当なアメリカのイラク攻撃を支持して、ずるずると今日まで来てしまった日本政府にとっては、今回だけ正当な判断をするということは出来なかったのだろう。今回正当な判断をすれば、それまではすべて不当だということを認めなければならなくなるだろうから。日本政府は、またしても政治的判断を間違えた。宮台氏は、最初のボタンの掛け違いというようなことを言っていたが、全くその通りだなと思った。人質が解放されてきたら、今回の事件に限っては、「テロリスト」と呼ばれる側の人が、正しく政治的判断をしたと僕は思った。あとは日本の世論の問題だ。今回の3人は、その行動から、イラクの人々のための「人道復興支援」に携わっていたことは確かだ。米国に協力していないと言うことがはっきりしている。しかし、一般の日本人はどうだろうか。彼ら個人は、米国への協力者ではないが、日本の世論が、不当な占領をしているアメリカを容認しているのであれば、大多数の日本人はアメリカへの協力者として彼らに映るのではないか。我々は、彼らの敵として対峙するのか、そうではないのかの意思表示をしなければならない時を迎えているのではないか。その意思表示が、今度は自衛隊の撤退になるのではないかと思う。イラクの地が、戦闘地帯化した今の段階でも自衛隊を撤退できないとしたら、それは「人道復興支援」のために行った派遣ではなく、アメリカの支援をしに行った派遣であると宣言するようなものだ。テロリストの要求に屈して自衛隊を撤退させるのではなく、正しい政治的判断によって撤退する道を選べるかどうかが、今後にかかっているのではないか。撤退は、おそらく小泉内閣には出来ない。世論が、イラクの人々の敵ではないという意思表示をするためには、小泉政権にノーをいうことが必要だろうと思う。それは、これからの一つ一つの選挙において、我々がどんな意思表示をするかにかかっているのではないだろうか。スペインは、テロに屈したのではなく、不当な戦争を支持しないのだという意志を表すために、前政権を倒すという選挙結果で世論を示したのではないだろうか。「撤退せずに不支持45% 支持43%を上回る」http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040410-00000167-kyodo-polという記事で報道されている世論の動向は、解放のニュースがでる以前のものだ。この問題では、世論は大きく分かれるだろうと思ったが、「イラクで日本人の死傷者が出るなど不測の事態が起きた場合の小泉純一郎首相の政治責任については、80%以上の人が責任があると答えており」と報道されているように、小泉首相の責任については、圧倒的多数の世論が「責任あり」と答えている。「撤退せず」と回答した人は、「テロに屈した」形での撤退に反対している人が多いのではないかと思う。しかし、何も出来なかった政府の姿を見て、「テロに屈した」という形がなくなった今は、むしろ自衛隊は「撤退すべき」というふうに考える人が多くならないだろうかと僕は期待している。世論が、そちらの方向を選択することを僕は期待している。「マル激トーク・オン・デマンド」では、「劣化ウラン弾」について特集を組んで専門家をゲストに語り合っていた。これも非常に興味深い問題だと思った。このほか、今僕の関心を占めているのは、まだまだ文春の問題に絡めて「表現の自由」というものにも論じていないことがたくさんあることだ。「週刊金曜日」には、防衛庁官舎にビラを入れて逮捕された問題をルポしていた。これなどは、「表現の自由」に対する弾圧ではないのだろうかと僕は感じる。文春が、「表現の自由」に対して闘うのなら、この件に関してはどういう態度を取るのだろうか。黙殺するのだろうか。それは、「表現の自由」に対する闘いではないという判断を意味するのだろうか。憲法の問題もまだ途中だ。イラク基本法との関連で考えてみたいとも思っている。冤罪の行方も気になる。ハイチの問題も気になる。そして、僕の日記の傾向が全く変わってしまったきっかけになったアメリカのイラク侵略についても、まだ一応の決着がついたとは言えない。日記のネタに困らないどころか、一日に一回しか書けないことがもどかしいくらいだ。
2004.04.11
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イラクでの日本人人質事件は、たいへん大きな事件なので楽天の日記で取り上げた人も多かったようだ。日記で取り上げるほどこの問題に対して注目している人は、かなりはっきりとした意見を持っているようだ。それは大きく分けて二つあるように見える。 1 自衛隊の即時撤退を求める声 2 自衛隊を撤退すべきではないという声この中間に位置する人の声はあまり聞かれないようだ。即時撤退を求める声は、人質の人命こそが他に優先する事柄であり、犯人グループとの交渉手段がない以上、出来ることとしては撤退意外にはないのではないかという思いから、すぐにでも撤退することを求めるという気持ちが強いのではないだろうか。撤退意外に手段がないということが、この声の基本にあるのではないだろうか。撤退すべきでないという声は、この事件をきっかけにして撤退するとなると、「テロに屈した」という風に見られることを問題にしているように見える。テレビ出演していた中東専門家の高橋教授は、テロに屈したように見られると、今後テロにねらわれる危険も増すという危惧も語っていた。テロによって効果があると思われたら、テロリストはやはりねらってくるだろうと思う。これは、どちらか一方がむちゃくちゃな論理を持っているのなら、世論は正当な方へ流れると思うのだが、どちらにも一理あるという論理だった場合は、世論は大きく割れる可能性が予想される。果たしてどちらの方へ世論が振れるのだろうか。僕は、自衛隊のイラク派遣に対して反対していたので、基本的には自衛隊は撤退すべきだと思っている。それは、今回の事件があったからというのではなく、元々がアメリカの占領政策に協力するためにイラクに行ったと思っているので、そのような形で行くべきではないと考えているので撤退すべきだと思っているのだ。占領政策に加担したからこそ、今回のような事件も起こったのであって、そう言う意味でも撤退すべきだと思っている。しかし、現状認識としては、小泉政権が撤退を決定することはあり得ないだろうと思っている。これは、撤退することが正しいと主張しているのではなく、小泉政権の立場やこれまでの流れを考えていくと、撤退しないということが論理的な帰結となると思うからだ。もし撤退するとしたら、それはよほどのことが起きたときになるだろう。小泉政権としては、今回の事件を「よほどのこと」とはとらえていないと思う。むしろ撤退することは、アメリカの期待を裏切ることであり、小泉政権の終わりを意味すると考えているのではないだろうか。今後撤退する可能性はあるが、2,3日で決断することはできないのではないかと思う。だから、現実的には、自衛隊は撤退しないという前提で3人の人質解放の道を探ることになるのではないだろうか。小泉政権にとっては、撤退してもしなくても厳しい事態であることは変わりないが、撤退する方がより厳しいという判断があると思う。撤退する可能性の一つは、イラク特措法によるものだろう。もはやイラクの地は誰が見ても戦闘地帯であることが明らかになりつつある。サマワの地だけが戦闘地域からはずれると言うことがあるだろうか。この事態がもう少し続くようであれば、イラク特措法によって撤退が決まるかもしれない。これは正当な理由がつけられる撤退だから、小泉政権でも決断せざるを得ないだろう。もう一つの可能性は、世論の高まりによって撤退せざるを得なくなる場合だ。日本の民主主義にとっては、こちらの方向へ行くことを僕は望んでいる。世論が高まっても小泉政権そのものは、その世論を無視することも出来る。小泉さんは、かつて「世論も間違えるときがある」と語っていたから、世論が間違っていると判断したらそれを無視することも出来るだろう。しかし、与党自民党議員は世論を無視しきれなくなると思う。自民党議員にとっては、小泉政権よりも、自分の選挙の票の方が大事だろう。世論が、そういう議員の選挙の行方を心配する気持ちに働きかけるほど高まれば、小泉政権は与党の中の支持基盤を失い崩壊する可能性がある。自衛隊撤退の世論によって小泉政権が崩壊すれば、これは新たな政権は、自衛隊撤退をせざるを得ないだろう。このような形になれば、民主主義によって自衛隊撤退を勝ち得たという形になり、我々にとってはもっとも望ましい形になると思う。ただ、これは2,3日で行えることではないのが、今の事態には有効でない方向だ。自衛隊を派遣したかった勢力にとっては、今回の事件はある意味ではチャンスだととらえたかもしれない。人質を救出するために行動を起こすことは、自衛権の発動と考えることが出来るからだ。武力行使に大義名分をつけることが出来る。しかし、これは大変危険な選択なので、このチャンスを生かそうと考えることがなかったのだろう。ここで日本が、たとえ日本人を救うためだとは言え、武力行使に踏み切れば、それはイラクの人々に対して敵であるということを宣言するようなことになるからだと思う。イラクの人々を敵に回すと言うことは、それはイスラム教と敵対すると言うことにもつながる。これは、日常的なテロの危険を呼び込むことになるだろう。今よりももっとたいへんな事態に直面する。人質救出のために、アメリカの武力を当てにするのはもっと危険だ。特殊部隊の協力などを考える意見を耳にしたが、アメリカの軍事力によって救出作戦をしたら、日本はアメリカの側にいるということを宣言するようなものになる。過激派ではない、親日感情を持っていたイラク人も、そうすれば親日感情を捨てるかもしれない。アメリカは、すべての協力を惜しまないと言っているが、アメリカに協力してもらうことによって、人質はもっと危険になるのではないかと僕は感じる。今のところ、日本に出来ることはほとんどないだろうと思うと、やはり僕は、テロリストと呼ばれている側の人々が、政治的に正しい判断をしてくれることを祈るだけだ。政治的な判断から言えば、人質の命を奪うべきではない。そういうメッセージが彼らに届けばと思う。「<イラク邦人人質>イラク市民も極めて高い関心」http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040410-00000134-mai-intという記事を見ると、このような誘拐という行為までするやり方には、イラクでも賛否両論が渦巻いているようだ。すべてのイラク人が、この過激派と同じではないし、また普通のイラク人の中にも、心情的にこの犯人たちに共感する人々もいるということを日本人は受け止めなければならないと思う。日本の世論は果たしてどちらに向かうだろうか。今の段階でしっかりと自分の主張を持っている人はまだ少数派だろう。大部分は迷っていると思う。しかし、この迷っているサイレント・マジョリティが世論の動向を決める。偏見にとらわれずに事実を深く考えて欲しいと思う。我々は、イラクの普通の人々と共感する気持ちを持ち続けたいものだと思う。拘束された3人の日本人は、犠牲にされてはならないのは当然のことだが、同じように生命の危険にさらされているイラクの普通の人々にも、我々日本人は思いを馳せなければならないと思う。それらの人々と共感する道こそが、庶民としての感情に正直な道であり、それによって世論が形成されて欲しいと思う。この問題は、これからも世論は二つに割れるだろうが、両極端の主張を持つ人間が、感情的あるいは偏見から自分の主張を強弁しようとすれば、これはむちゃくちゃな論理が生まれる可能性がある。たとえば、この3人は危険を承知で言ったのだから、殺されても文句は言えないだろうというようなむちゃくちゃな議論がある。これがなぜむちゃくちゃかと言えば、この考えを別のケースに当てはめて考えてみるとそのむちゃくちゃさが際だってくる。論理というのは適用範囲が広いから論理になるのである。他のケースでも正しく考えることが出来る論理であれば、それは正当な論理だ。しかし、他のケースで正しく考えることが出来なければ、その論理には疑問符を付けざるを得ない。たとえば、ギャングのような組織を考えて、武力によって人々を支配してる無法者がいた場合を考えてみよう。その無法者の犯罪を止めるために、命の危険を冒してでも乗り込んでいく人間に対して、そこが危険なことは分かっているのだから、殺されても文句は言えないと主張できるだろうか。この論理を許してしまえば、力のある人間が支配するのは当たり前だという論理を許すことになる。これは民主主義の否定だろう。民主主義を肯定するなら、理不尽な犯罪、正当性のないものは許してはいけないのだと思う。たとえ危険を承知でイラクに行った日本人であっても、実際に危険な状態になれば、その救出に全力を尽くすのが国家としての義務だろう。そのような国家であればこそ、民主的に支持も受けるのだと思う。国家の都合で、助ける人間と助けない人間を区別するようであれば、それこそそのような国家権力は、民主主義の力で倒さなければならないのだと思う。幸いにして日本はまだ民主国家としての姿勢を失っていない。小泉政権は、その立場上自衛隊の撤退を決断することは出来ないだろうが、全力を尽くして救出に努力すべきだと思う。僕は、犯人の側の政治的判断への期待と、世論の高まりへの期待を持ちながら、この事態を注目していきたいと思う。影響力のある人に、正しい筋道をわかりやすく示してもらいたいと思う。
2004.04.10
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昨日もまた大きなニュースが飛び込んできた。「3邦人イラクで人質、自衛隊撤退を要求」http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040408-00000014-yom-soci日本人がテロの直接の標的にされたという衝撃もさることながら、たった3日しか時間がないということが大変なことだと思う。日本の社会システムというのは、決定までに非常に長い時間がかかるのが常だから、たった3日では、決定が出来ずにずるずると事が進行していくという心配がある。この事件は、いくつかの重要な事柄を我々に教えてくれていると思う。「自衛隊撤退要求は拒否 政府、早期救出に全力」http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040409-00000001-kyodo-polという記事によれば、福田官房長官は「自衛隊はイラクの人々のために人道復興支援を行っており、わが国が撤退する理由はない」と語ったらしい。連日サマワからの報道は、自衛隊がいかに現地の人との交流に力を入れているか、現地の人がいかに自衛隊を歓迎しているかと言うことに関するものばかりだった。しかし、サマワ以外のイラクの地では、連日反米勢力と占領軍との武力衝突のニュースが報道されていた。同じイラク国内の出来事とは思えないような、サマワだけが特殊な地であるというような印象を受ける報道だと僕には感じられた。しかし、この人質事件は、サマワも特殊な場所ではなく、他のイラクの地と変わらないところなのだと言うことを教えているように思う。そして、日本は「人道復興支援」だと言っているが、すべてのイラク人がそのように受け取っているわけではないと言うこともこの事件は教えてくれている。それからもう一つ、日本だけが特別に好感を持たれている国だという幻想も打ち砕いてくれた。さらに、この事件の対応によって、日本の立場というものがより鮮明に世界に印象づけられることになる。これまでの流れから言って、政府がひっくり返らない限り撤退と言うことにはならないだろう。スペインのように政権交代があれば別だが、アメリカの同盟国として、アメリカを支援する立場を強く表明している小泉政権としては、撤退と言うことはあり得ないと思う。今までは、アメリカの占領に加担するという面を薄めるために、「人道復興支援」という面を強調してきたが、この事件によって、占領軍への加担であるということが明らかになるのではないかと思う。アメリカ軍も、事態の重大性を認識し、あらゆる協力を惜しまないと言ってきているが、それは撤退しないという条件の下でのものだろうと思う。ここで日本が撤退すればアメリカにとっては大きな打撃になる。テロリストの戦術が成果を上げたと言うことになるからだ。「テロに屈しない」と言うことを宣言している以上、テロに屈したように見える撤退はどんなことがあろうとも出来ないことだろう。もしそれをするならば、小泉政権が崩壊し、政権交代をした政府がやらなければならないということになるだろうと思う。今後の問題の焦点は、自衛隊が撤退しないと言うことを前提に、どれだけ日本政府の方に外交的手腕を発揮できる余地があるかという点だ。「テロリストとは交渉しない」と言うことになれば、何もせずに3人の日本人を見捨てるような形になる。このように見られるのは政府としても避けたいのではないか。何らかの交渉をして妥協する道を探れるものだろうか。努力したにもかかわらず、相手側が非道だったために犠牲が出たというイメージを作ることが日本政府の戦略になるかもしれない。しかし、3日間でそれだけのことが出来るかどうかは疑問だ。この時間的余裕のなさが判断のミスを呼ぶかもしれない。3人の日本人は、その経歴を見る限りでは、占領軍に加担するためにイラクへ来た人たちではない。「<イラク日本人拘束>拘束された3人の経歴」http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040409-00000077-mai-intむしろその逆に、イラクの反米勢力にとっては、かえって味方となる位置にいるような日本人だ。今までイラクで犠牲になってきた民間人は、民間人とはいえ占領軍に加担してきた人たちであったように僕は記憶している。最初の日本人の犠牲になった外交官2名も、占領軍との連携の仕事に従事していた。先日犠牲になったアメリカの民間人も、形の上で軍人ではないというだけで、実質的には軍人といってもいいような警備会社の人間だった。今回は、全く純粋な民間人ということになる。しかも占領軍とは関係なく、むしろ反対の立場の人たちだ。そのような人たちをねらうと言うことは、テロリストの側にも失敗を招くことにならないだろうか。政治的な意図を読み違えていたら、かえって逆効果を招くことにもなるのではないだろうか。「<イラク日本人拘束>福田官房長官が会見 自衛隊撤退は否定」http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040409-00000099-mai-polという記事の中で、福田官房長官は次のようにも語っている。「自衛隊をイラクに派遣した政府の責任を問う質問には「自衛隊派遣をしなければテロは起こらないのか。テロはどこにおいても起こる。まず今やるべきことを考えるべきではないか」と反論した。」時間的な因果関係としては、 自衛隊の派遣 → 日本人を標的にしたテロの発生ということが起きた。この間に、論理的な因果関係が存在するかどうかと言うことが問題だ。もし論理的につながりがあるのなら、このテロは、自衛隊の派遣が引き起こしたと言うことになり、それを決定した政府に当然の責任があるということになる。このテロを予見し、防ぐことが出来なかったと言うことに関する責任だ。福田官房長官が言うように、テロはどこにでも起きるものであり、自衛隊の派遣があろうがなかろうが起こるものであるのなら、これは予期せぬ事件であり、政府の責任は、その「発生」に関してはないと言うことになるだろう。これからの対処に関しては責任があると思うが。この因果関係に対しては、多くの人が指摘していたように思う。当然その危険を考慮に入れなくてはならなかったのではないかと僕は思う。だれもそのことを言っていないのであれば、事件は予想外のことだろうが、何人もの人がその心配を語っているのであるから、その間には当然論理的な因果関係があって、それを心配する人がたくさんいたのではないだろうか。「まさか本当に起こるとは…防衛庁、官邸に激震走る」http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040408-00000116-yom-sociこの記事にあるように、もし本当に予想外だというのなら、その程度の予想も出来なかった能力の低さを批判する必要があるのではないだろうか。日本政府がどのような対応をするかはまだ未知数だが、事件の発生についても政府には大きな責任があると僕は思う。出来れば、テロリストの側の政治判断で、3人の日本人はむしろ彼らの側に立つ人間だと言うことを理解して処刑を思いとどまるような方向に向かって欲しいと僕は思う。あの3人を処刑すると言うことは、むしろテロリストの側の非道を印象づけることになり、日本の世論をテロリスト非難へと大きく傾けるのではないだろうか。そうなると、日本もテロとの戦争に本格的に入り込んでいってしまうのではないかという感じがする。テロリストの側は、無差別に日本をねらうようになるだろうし、それに対抗するために、日本はイラクでの人道復興支援という仕事よりも、テロの鎮圧の方に力を注がなければならなくなるのではないか。テロというのは、その行為だけを切り離して見ていると、非道な犯罪としてしか見えてこない。しかし、それを歴史的な文脈としてとらえると、それがなぜ発生してきたかという原因をたどることが出来る。その原因の連鎖をどこかで断ち切らない限り、虐げられる人間が存在し続ける限りテロはなくならない。テロリストを根絶するための闘いは、テロリストの起こす犯罪と同じくらい悲惨で非道な暴力を伴うものだ。その連鎖の中に、日本が組み込まれていくかどうかの分岐点に今立たされているような気がする。果たして日本の世論はどちらを選ぶだろうか。テロリストが、日本人3人の処刑を思いとどまってくれるように、僕は強く願っている。
2004.04.09
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「週刊文春」の4月1日号・8日号には、連続して立花隆氏の緊急寄稿が載せられている。これを論理的側面から批判してみたいと思う。立花氏の方が、一般庶民である僕よりも遙かに多くの資料を用いて論じる条件にあるので、事実に関する批判は難しい。しかし、論理的な側面であれば、たとえ事実を知らなくても、論理の使い方としておかしいという面を批判することが出来る。坂本竜馬のエピソードだっただろうか、外国語を勉強している仲間の会話を聞いていて、竜馬がその翻訳の文言が論理的におかしいということを指摘したというものがあったように記憶している。竜馬自身は外国語に堪能というわけではなかったようだが、論理がおかしいということから、翻訳自体も間違っているのではないかと類推したというエピソードだった。そして、その類推はまさに当たっていたというものだったように記憶している。外国語を翻訳できなくても、論理的なおかしさは指摘できるということだ。さて、立花氏は物書きとしてすぐれた人である。そう簡単に論理の間違いを犯す人ではない。しかし、立花氏は、文春を舞台に活躍した人で、文春に対しては客観的な第三者ではない。文春の利益の側に立って発言をする人である。この立場が、立花氏の論理を狂わせる原因になるのではないかと僕は思う。文春の側に立って発言すれば、結論は最初から決まっている。文春を擁護する結論にならざるを得ない。そうすれば、論理の立て方としては、文春の擁護という結論がまず最初にあり、それを証明するための事実を探すというやり方になる。これは論理の使い方としては逆立ちしている。本来は、手に入る限りの事実をもとにして、その事実相互の整合性を図りながら、妥当な解釈に落ち着くような結論を探すというのが論理本来の使い方のはずだ。知られていない事実が分かったら、いつでも結論が修正されるということも考慮に入れなければならない。立花氏が、文春擁護をするために拾ってきた事実に論理としての強引さがないかどうか、また都合の悪い事実を無視しているために、その事実と整合性のとれない論理になっていないかどうか、ここをポイントに立花氏の寄稿を批判的に検討してみたい。これなら、あらゆる事実を知らなければならないということはなく、検討のために必要な事実さえ手に入ればいいということになるだろうか。さて、始めに、文春を擁護していると思われる部分を批判的に見てみようかと思う。まず4月1日号の第一弾の冒頭の部分だ。そこでは、●●というふうに伏せ字が使われているが、これがどうしてかという説明で、「文春の側の見立てでは、先方は常識では考えられない反応を示すから」と書いてある。これは事実ではなくて解釈の一つであると思うが、曖昧なイメージを利用した解釈であって、誹謗中傷に近いような言い方だ。このような言い方で相手側を批判するのは、ジャーナリストの感覚としてはどうかという感じがする。もっとも、立花氏は、この見解は自分のものではなく、「文春側の見立て」であると注意深く記している。こう書けば一応立花氏の責任ではないという逃れ方は出来るかもしれない。しかし、責任を問われそうな文言は自分のものではないという逃げ方は、ちょっと姑息な手段ではないかと思う。やはりジャーナリスト感覚を疑ってしまう。「これはテロ行為である。憲法が保障する言論・出版の自由に対して国家の側が加えてきたテロ行為である。」この言い方に対しては、言葉の意味が正確に使われているのだろうかという疑問を感じる。単に扇情的なイメージをあおり立てるために「テロ」という言葉を利用しているに過ぎないように感じる。「テロ」という言葉の正確な意味は、僕自身もはっきりとつかんでいるわけではないが、この場合に使う言葉だろうかという疑問は大いにある。また、使うなら、はっきりと定義して使わないと、間違ったイメージで伝わるのではないだろうか。言葉に対する厳密さの感覚として、やはりジャーナリストとしてのセンスを疑う。「それはまあ、早めの●●話だから、書かれた本人にすれば、週刊誌に書かれたくないと思うのは分かる。だが、一年で●●なんて話は世の中にごろごろある。ハネムーン帰りの成田空港●●ほど世間体が悪い話でもない。それに、知られたくないといっても、すでにかなりの程度知られていたからこそ週刊文春の耳にも届いたのだろうし、週刊文春を押さえたところで、こんな話は隠しおおせるわけがない(雑誌発禁の効果は期待できない)。また隠し通すべき筋合いの話でもない。私も(●●の)経験があるが、誰だって●●のハンを押すときには、それがいずれ世の中に知れ渡ることを覚悟の上で押すのである。」長い引用になったが、上のような考えは、この問題の基本的なとらえ方の違いから起こるような気がしてならない。立花氏は、事実が大したことではないということで文春を擁護しようとしている。「よくある話だ」「すでに知られている」「いつかは知られる」ということをもとに記事の内容の重要性を貶めている。しかし、ここで問題なのは、それをわざわざマスコミである文春が暴くということなのではないだろうか。大したことのない事実であれば、どうしてわざわざ暴く必要があるのだろうか。「暴く」ということについての正当性についての言及がなく、事実は大したことではないということだけをことさら言うのは、文春擁護のために拾ってきた事実ではないかと感じるのだ。この文章に続けて、次のような記述もある。「●●に至るまでには、いろいろ人に知られたくない裏事情があるのかもしれないし、それこそがプライバシーに属することなのだろうが、週刊文春の記事は、そういう裏事情は何も書いていない。」これは、暗に、あの記事は「プライバシーの侵害」ではないと主張しているように見えるが、はっきりと断定的な書き方はしていない。さすがに、そこまで言い切るには論理的に強引すぎると思ったのではないだろうか。しかし、裏事情を暴露するようなことがあれば、プライバシーの侵害だけではなくて、名誉毀損という問題も生まれてくるのではないだろうか。裏事情が語られていないから「プライバシーの侵害」が問題になるのではないだろうか。立花氏が、文春擁護の立場を離れて書いている部分は、論理的に真っ当な主張のように感じる。たとえば次の部分だ。「救済対象の私的価値と救済に伴って社会全体が失う公的価値を比較衡量するなら、失われる公的価値の方が問題にならないくらい大きいからである。」立花氏が、最初から最後まで一貫してこの立場で論じていれば、論理的な疑問を起こさせない論じ方ができただろうと思う。まあ、その場合でも、文春批判に一言も触れないようであれば、僕は不満を感じるが、擁護さえしなければ、論理的な疑問は感じない。しかし、立花氏としては、文春を擁護せずにはいられない立場にいたのだろうと思う。それが論理的なおかしさを生んだと思う。立花氏は、文春側の主張を、「真紀子の長女ないしその配偶者が、後々田中家の政治的後継者となる可能性があるから、その●●問題も公共の利害に関する事項と見なした」というものを、「いかにもとってつけたような主張である」と、これに対しては少し批判的に書いている。しかし、この批判は次の主張につなげての批判であることを考えなければいけない。「文春が、この記事の眼目は、真紀子の政治家としての適格性を問うことにあったのだと主張していたら、この争いにおいて文春側が破れることはまずなかっただろうということだ。」あの記事を実際に読む限りでは、田中氏の政治家としての適格性を問う内容だとは思えなかった。単なるゴシップとして興味本位に書かれただけのものとしか思えなかった。立花氏が主張するような記事であれば、そう主張するのが正しいが、そう主張してもそれを受け入れられないような記事だったというのが本当のところではないかと思う。立花氏は、実際の記事と離れた一般論としては正しい主張を随所に入れているが、実際の記事が、その正しい一般論に相当するものだという証明はいっさいしていない。しかし、立花氏の主張が論理的に正当性を持つのは、まさに問題の記事が、政治家としての田中氏に関する公益性のある情報であるということが証明されなければならないのではないかと思う。その証明がなく、一般論としての真理をいくら並べても、それはイメージとして文春が正しいというイメージを作り出すための、文春擁護にしかならないのではないか。次の引用などもそれを強く感じる主張だ。「なぜなら、真紀子のように、国会議員という公職にあり、すでに大臣を二度も務めているような有力政治家の言動の中に、政治家としての適格性を疑わせるものがあることを伝える上で、その話題が多少プライベートな領域にまで及んだとしても、それが雑誌の出版事前差し止めなどという憲法上大いに疑義がある司法処分の理由になり得ないことは、最高裁判例によって明らかなのである。それがウソデタラメでない限りかつことさら不穏当な表現でない限り、そういう公的人物の特異な言動を伝えることは公共の利益目的の報道と見なされるからである。」この主張は、正しいことがちりばめられていながら、結果的に文春を擁護するものになっているという、実に巧妙な文章だ。確かに、記事は「出版差し止め」に値するほどの重大性はなかった。しかしそれだからといって、多少プライベートな領域に及んだだけとか、公共の利益目的の報道であるとか、プライバシーの侵害が低かったかのようなイメージを与える言い方には疑問を感じる。ここまででかなり長い日記になってしまったので、残りの部分の批判に対しては、またこの次にしよう。
2004.04.08
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文春の問題を考える上で、僕はプライバシーの問題にかなりこだわっているが、これを正しく考えるためにもう一度この「プライバシー」というものについて詳しく調べてみた。まず、一般的な意味を辞書で引いてみると次のようになる。「プライバシー 2 [privacy] (1)私事。私生活。また、秘密。(2)私生活上の秘密と名誉を第三者におかされない法的権利。」三省堂提供「大辞林 第二版」より これを見ると、「プライバシー」というのは、きわめて個人との関係が深い概念だと感じる。つまり、その所有者が秘密だと考えるかどうかが大きくかかわっているように感じる。他人が決める問題ではないということだ。また、これと関連するもので次のようなものも辞書にある。「プライバシーけん 【プライバシー権】 私生活上の秘密と名誉を第三者におかされない法的権利。人格権の一部と考えられている。〔国内では,判例法上で確立しつつある権利だが,制定法上の規定は存在しない〕」三省堂提供「デイリー 新語辞典」より この権利があると考えられるので、プライバシーの侵害を法的な手段で訴えることが出来るという根拠があるのだろう。これらは、いずれもかなり抽象レベルの高い意味なので、実際にプライバシーが問題になる現実の段階では、現実の持っている様々な条件を含んで考えなければならないだろう。参考になるものをいくつか引用して考えてみたい。宮台真司氏は、次のページで「名誉毀損」と「プライバシーの侵害」を比較してその特徴を記述している。 http://www.miyadai.com/message/?msg_date=20021215「「名誉毀損」の概念は、“人が「自由」に振る舞えるためには一定の「尊厳」が前提となるがゆえに、統治権力は「尊厳」の損壊を抑止する義務を負え”という人権的=憲法的原則すなわち統治権力の義務規定に沿ったものだ。」「「プライバシー侵害」の概念は、それが刑法第12章「住居を侵す罪」の直後に、第13章「秘密を侵す罪」として置かれていることに象徴されるが、憲法13条ならびに35条に基づくいわゆる「住居不可侵権」に関わる人権的=憲法的原則に沿ったものだ。 すなわち、住居不可侵権概念に由来するプライバシー概念とは、人が「自由」に振る舞えるためには、使用・収益・処分を含めて自分でコントロールできるもののルーム(行為領域)が確保されていなければらない”という発想に基づくものなのだ。」かなり難しい文章だが、僕は次のように解釈した。この両者の概念の基礎には、人間が自由に振る舞うと言うことの価値を守ると言うことがまずある。人間が自由に振る舞うためには、二つの方向からの要因が必要で、その二つの方向に当たるのが、「名誉毀損」と「プライバシーの侵害」にかかわって来るというものだ。名誉を守ると言うことは、自分が何ものかの存在であるという「尊厳」を守ることになる。これを持たない人間は、自分を矮小化し、価値を持たない存在だと思ってしまう。そうすると、本来は自分で選択することが出来る道なのに、それを選ぶという気持ちが生まれてこない。「自分のような人間は、このようなことを選択する資格がない」と思ってしまう。これは、「自由」が失われた状態だと思う。人間に与えられた平等な選択肢を選ぶという、主体的条件を守るために、名誉を守るということが必要だ。一方プライバシーの方は、他人の勝手な干渉を許さない、自分だけがコントロールできる領域を確保するものになる。これは、他人の干渉を許さないのであるから、基本的には何を選ぼうと自分の自由であると言える。この自由は、主体的なものではなく、自分の外に存在する客観的なものとしての領域確保という面での自由に当たると思う。このプライバシーを侵されると、いかに自由に対する損害が起きるかは、日本で一番プライバシーが認められていない公人を想像すると理解できるかもしれない。皇室にかかわる人々というのは、自らが自由に振る舞える領域としてのプライバシーがどれくらい存在するものだろうか。プライバシーが狭くなれば、それだけ自由が失われる。このあたりを宮台氏は次のように書いている。「社会システム理論には“選択には選択前提が必要だ”という重要な発想がある。この選択前提は、(1)選択肢が存在するという客体要因と、(2)選ぶ力が存在するという主体要因からなる。名誉毀損が(2)主体要因に関わり、プライバシー侵害が(1)客体要因に関わる。 統治権力と憲法によって、市民の自由な選択を支える「選択前提」の確保を命じられている。それを主体要因と客体要因に関わって確保するために、それぞれ名誉毀損に関わる法制とプライバシーに関わる法制がある──社会システム理論はそのように記述する。」プライバシーは、自由にかかわるものだからこそ大事なものだというのが、ここでの確認だ。しかし、これでもまだまだ抽象度が高いので、現実との関わりがまだ難しい。現実には、文春の問題のように、プライバシーの侵害に当たるかどうかが判断が分かれる問題が出てくるからだ。現実的な問題への具体的な対処としては、次のような資料がある。「(3)「私人の肖像権を尊重し、原則として当人の同意なしに写真を撮影、掲載しない」」「(4)「事件・事故、自殺などについては、個人のプライバシーを尊重し、遺族や関係者への配慮を欠かさず、慎重に取材・報道する」 死者にもプライバシーが存在する以上、自殺については、公人や社会的な関心の高い人物を除いては原則として氏名を公表すべきではなく、一般の事件・事故でも、報道によって当事者や家族の名誉、人権が損なわれるケースについては、慎重な対応が求められる。」http://www.shinbunroren.or.jp/purai.htmここでは、「私人である」と言うことと「本人の同意」というものが、プライバシーの公開については重要なものとして提出されている。「公人や社会的な関心の高い人物」の場合は、例外的にプライバシーの公開がされる場合もあることを示唆している。つまり、プライバシーの権利は基本的に誰にも認められているが、それが「公人」である場合には、例外的に制限される場合があるという理解だろうと思う。「公人」については、今のところ次のように考えられているのが一般的な常識らしい。「*公人の範囲は政治家………………国会議員、地方議会議員行政に関わる者……閣僚、中央省庁幹部、地方公共団体の首長・幹部それに準ずる者……特殊法人の幹部、公益法人の幹部司法に関わる者……裁判官、検察官、警察などの幹部公共の利害・公益に関わる活動をしている団体の幹部……(1)経済団体・業界団体、労働組合、宗教団体の幹部、(2)教育・医療・学術・文化・マスコミ・法曹団体の幹部、(3)政党・政治団体の幹部社会的な影響力を持つ著名人……文化人、芸能人、スポーツ選手など*上記の者が、公共の利害、公益に関わる活動・発言をした場合は、国民の知る権利の対象として報道できる公人と見なす。」また、http://www.dcs.gr.jp/school/program/h15/ci/ci04/text/ci04_05txt.htmlというページには次の記述がある。「平成15年3月14日の最高裁の判例ですが、「プライバシーの侵害については、その事実を公表されない法的利益とこれを公表する理由とを比較衡量し、前者が後者に優越する場合に不法行為が成立する」と書いてあります。つまり、公表されない利益と公表する利益がどういうバランス関係にあるだろうか比べてみるというわけです。一方は個人私生活上の利益、他方はそれを知る利益といったようなものですから、比較衡量といった秤にかけるわけにはいきません。実際上、常識的に見てどちらが重いかを裁判所が判断していくわけです。」この具体的な例としては次のようなものを挙げている。「ある少年が犯した事件について週刊誌が記事を書いた時に、その少年を仮名にしたものの、本名をちょっと変え近くの人が見れば特定できるような仮名を設定しました。それがプライバシー侵害だとして問われたことがありました。俗に「長良川事件」と呼ばれているものです。そういうケースであるということを頭においてこの後、裁判所が言っていることをご覧ください。「本件記事が週刊誌に掲載された当時の被上告人の年齢や社会的地位、当該犯罪行為の内容、これらが公表されることによって被上告人のプライバシーに属する情報が伝達される範囲と被上告人が被る具体的被害の程度、本件記事の目的や意義、公表時の社会的状況、本件記事において当該情報を公表する必要性など、その事実を公表されない法的利益とこれを公表する理由に関する諸事情を個別具体的に審理し、これらを比較衡量して判断することが必要である。」ということを考慮しながら先ほどの、公表されない利益と公表される利益を考えていこうという考え方です。記事の内容が本当に真面目な内容―こんな犯罪をこの世からなくしたいというような―であり、問題となっている犯罪の対応が重大なものであるという時には、プライバシーの利益より、公表する利益を優越するかもしれないということです。逆に、窃盗事件のようなものでどちらかというと覗き見的要素の記事であるならば、あえて実名を報道することに意味はないということになってきます。」ここで重要な指摘は、「記事の内容が本当に真面目な内容―こんな犯罪をこの世からなくしたいというような―であり、問題となっている犯罪の対応が重大なものであるという時には、プライバシーの利益より、公表する利益を優越するかもしれない」という部分だと思った。いずれにしても、プライバシーというのは、基本的に守られなければならないという前提があって、例外的にそれが暴露されることが許される場合があると受け止めるものではないかと思う。マスコミにプライバシーを暴かれるというのは、それなりの有名人でなければ、マスコミ自体が関心を持たないだろうが、普通の一市民であっても、何らかの事件に巻き込まれたりしたらすぐにマスコミの注目の的になる。また、インターネットの発達により、マスコミでなくても、多くの人の目にさらされる場所というものが出来ている。単なる一私人であってもプライバシーの危機が起こる可能性が高まっているのが現在という時代ではないだろうか。我々はもっとプライバシーの危機に敏感であってもいいと思う。次のように、考えもつかないところからプライバシーが侵される恐れもある。「 「アルバイト先で履歴書が回覧された」「派遣先企業で預金口座番号を申告させられた」など、非正社員のプライバシーの侵害について、相談機関に問い合わせや相談が相次いでいる。仕事とは関係のない個人情報を第三者に伝えるのは労働者派遣法違反なのだが、企業側の理解はまだまだ足りないようだ。」http://www.yomiuri.co.jp/komachi/news/20040131sw11.htmマスコミでもない、インターネットでもないところでプライバシーが侵害されている。次の感想に共感する人は多いのではないだろうか。「東京都内の公益法人でアルバイトをしている女性(27)は、初対面の職員に出身校や誕生日などを言い当てられたことがある。尋ねると「職員はアルバイトの履歴書を回覧できるから」と告げられ驚いた。「辞めさせられたくないので、文句は言わず我慢した。職員に自宅までつきまとわれ、辞めてしまったバイト仲間もいる」と話す。 」特に公表する必要のない自分の情報を、全く面識のない人間に知られていたら、自分の自由を侵されていると感じないだろうか。多数の人間が、興味・関心を持っていれば、それをのぞき見的に暴露されてしまうというのを許してはいけないだと思う。もっとも、問題は、社会がそう言うのぞき見的な関心を高く持っていることにあるのかもしれないけれど。そう言う問題よりも、本当に大事な本質的な問題に目を向ける社会であれば、プライバシーを侵害するような情報には見向きもしないかもしれない。プライバシーの問題に関しては、これからも調べていこうと思う。
2004.04.06
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昨日の日記で書いた「チャイナ・シンドローム」で感じた言論の自由の問題で、実際の出来事として連想が浮かんできたのは「外務省沖縄密約事件」だった。これは、沖縄返還交渉で、米側が支払うべき400万ドルを日本側が肩代わりする密約があったと暴露したことに関する事件だった。次のところでこの事件の簡単な説明を見ることが出来る。「◆ 外務省密約事件 ◆」http://www.mainichi.co.jp/news/kotoba/ka/20020628_01.htmlこれは世紀の大スクープだった。これが、その価値が正当に評価されていれば、歴史に残るものとして語り継がれていただろう。しかし、これが人々の記憶に残っているのは、大スクープという面ではなくて、この事実を暴露した記者のプライベートなスキャンダルとして扱われてしまった点だ。そのため、「東京地裁は74年1月、元事務官を有罪(控訴せず確定)とし、西山被告に「取材行為は正当」と無罪を言い渡した」にもかかわらず、「東京高裁は76年7月、1審判決を破棄し懲役4月、執行猶予1年の有罪判決。最高裁は78年6月、「正当な取材活動の範囲を逸脱している」と上告を棄却し」た。この事実は、重大な国家機密である。それが漏れたということは法律に触れる恐れがあるが、その事実そのものが、国民がそれを知ることに社会的な意義があると認めるならば、この暴露にも社会的意義があり、言論の自由・表現の自由を主張しうるものだと思う。だから、この秘密の価値を論議することが大事だったのだと僕は思う。しかし、この秘密を論議するよりも、記者個人のスキャンダルを語る方に国民の関心が向かってしまった。それは、当時のマスコミがそのようなものをあおったからだといわれている。「西山記者報道に何を学ぶかジャーナリズム魂の甦りに期待 平良亀之助」http://www.ryukyushimpo.co.jp/dokusha/koe22/ke030123.htmlという記事の中には、次のような記述がある。「西山氏の行為が、権力により、一方的に事件に仕立てられ、逮捕、有罪とされていく過程で、所属する新聞社はもとより、同業の報道機関からも、何らの支援、擁護がなかったこと。それどころか、一部のメディアは同氏と外務省事務官との私情関係を煽(あお)り立てて、権力側への加担さえ演じたことを問題視してきた。」また、「若い市民のためのパンセ(2000年11月号)いつまで騙されるのか」には、次のような記述も見える。これは、今ではページが失われてしまって、直接見ることが出来ないのだが、「沖縄密約事件」で検索すれば、そのキャッシュを見ることが出来るかもしれない。見られないかもしれないので、ちょっと長いけれど関連部分を引用しよう。「今年五月、朝日新聞と我部政明琉球大学教授は、米国の情報自由法を使って、一九七二年の沖縄の日本復帰のさい、米軍基地施設の改善移転費など約二億ドルを日本政府が「裏負担」するという密約があったことを裏付ける公文書を入手した(朝日5月29日付)。 この「密約」については、私もよく覚えている。というのも、いまから二八年前の五月、本誌(当時は『月刊・考える高校生』)の創刊第2号でこの問題について書いたからだ(この「パンセ」のいわば第一回に当たる)。 当時、国会で大問題になったのは、このとき返還される基地の一部について、それを元の農地に戻すための費用四〇〇万ドルを、返還協定では米国側が支払うとなっているのに、実は日本側が負担するという密約を取り交わしていたという問題だった。 スクープしたのは毎日新聞の西山記者で、外務省の女性事務官の協力を得て極秘公電の写しを入手したのだった。当時の佐藤栄作首相はじめ政府は「断じて密約はない」とたびたび言明した。しかし公電の写しをつきつけられ、予算案の審議も大詰めを迎えていたため、佐藤首相はとにかく「遺憾の意」を表明した。 その翌日、事務官と記者は国家公務員法違反で逮捕される。以後、事件は『週刊サンケイ』『週刊文春』『週刊新潮』などによって二人をめぐるスキャンダルに仕立て上げられ、かんじんの密約問題はどこかに消しとんでしまった。 この事件はマスコミでは「外務省公電漏洩事件」と呼ばれた。しかし私は、問題の本質は政府による密約を「国民の知る権利」にもとづいて暴露したことにあるのだから、「沖縄密約暴露事件」と呼ぶべきだと書いたのだった。 それから二八年。密約の存在は米国の公文書によって証明された。しかも日本が「裏負担」していたのは四〇〇万ドルなどではなく、その五〇倍、二億ドルだったのだ。」ここでは、スキャンダルをあおったメディアとして、『週刊サンケイ』『週刊文春』『週刊新潮』が挙げられている。「文春」というのは、ここでもこういう歴史を背負っているのだなと思った。国民にとって、本当に知りたい情報の暴露としての表現の自由と、その価値を貶めようとする権力の側の暴露としての表現の自由との対立がここにはある。結局、この事件の場合は、権力の側の宣伝に負けて、本当に守らなければならない表現の自由は守られなかった。この表現の自由を守るのは、法的な手続きではなく、世論こそがこれを守らなければならなかったのに、世論はそうならなかった。権力の側の宣伝を見抜けなかったのである。この密約の暴露が事実であったことが米公文書から明らかにされたのは、事件から30年ほどあとだった。「沖縄返還:米公文書「密約」明記 日本が400万ドル肩代わり」http://www.mainichi.co.jp/news/selection/archive/200206/28/20020628k0000m010202000c.htmlこの公文書では、「日本政府の立場を「いかなる密約の存在も、米政府へのいかなる資金提供も否定し、我々(米政府)に報道機関の追及には同じように対応するように求めている」と紹介している。米議会や米国内の報道機関の追及を受けた場合は「密約の存在を認めざるを得ないかもしれない」としつつも、「当面はいかなる形でも400万ドルという数字を公にしないことで日本政府と合意した」と明示している。」と、密約の存在をはっきりと書いている。また、当時の日本社会に対しても、次のような分析が述べられている。「外務省密約事件にも触れて「公電を漏えいした外務省の既婚女性事務官と、公電の内容を暴露した毎日新聞記者との個人的関係が発覚すると、野党は追及をやめてしまった」と分析している。」この事件については、「外務省密約 メディア規制 有事法制 情報は誰のものなのか 元毎日新聞記者 西山太吉さんに聞く」http://www.jca.apc.org/mai-u/nishiyama.htmlというページにも興味深い記述がたくさんある。次のものなどは、痛烈な政府批判であり、政府は反論のしようがないだろうと思う。「――沖縄密約の資料もアメリカ側から出てきた。西山さん 2年前にも出てきたが、今回もアメリカから文書が出てきた。アメリカの公文書館の公文書だ。公文書は客観的な史料として提示されるものだから、ウソがあったらたいへんだ。 公文書がどんどん出てきて詳細多岐にわたっているにもかかわらず、日本政府が「密約はありません」と言っているのは、「アメリカの公文書はウソです」と言っているのと同じだ。 密約はないと言っているが、密約は厳然とある。ないならないで、どうしてないんですかということになる。ところが何も説明しない。それもそのはず、説明のしようがないからだ。説明した途端、またウソの始まりということになる。だから、この数年「密約はありません」という一言でしょう。」次のインタビューの答は、この問題の核心をつくものではないだろうか。「――沖縄密約事件では、結局は最終的に倫理問題とされてしまったが、いま振り返ってみてどう考えておられますか。西山さん 裁判というのは法律で判断するものだから、取材行為について一審は無罪になった。取材行為と人間関係は、そう簡単にダブらせていいかということが問われなければならないが、私は刑法に違反しない限り、法律上の問題は発生しないと考える。その前に言いたいのは、私は外務省から白い紙を取りだしてきて告発されたわけではない。秘密を取ったから告発された。だったらその秘密というのがどういう性質のものかが問題の核心だ。ところが、秘密が問題にされず、対等な人間関係だけがどんどん独り歩きした。 その流れの中で、どんな秘密だったかは疎外されていった。最も日本的な体質だ。取材行為と人間関係を取り上げてもいいが、秘密を取ったのだったら、その秘密はどういう秘密か並行的に論議されないといけない。秘密が保護に値しないものなら、私は何も問題がないんだから。3通の電信文は、条約の偽造につながる。突っ込んで言えば、国権の最高機関である国会の承認案件である条約にウソを書き記したという点で違憲秘密だ。これ以上不当な秘密はない。憲法違反の秘密だ。だから私は、どうしても世に出したかった。」同じような構造を持った「表現の自由」「報道の自由」にかかわる問題がこれから起きたら、西山さんが上で語っている観点を学んで、常にこの方向から物事を見ていきたいものだと思う。そういえばアメリカでは今、リチャード・クラーク氏が911同時多発テロ調査委員会で政府批判の暴露を行っている。それに対して、クラーク氏を逆に批判するような記事も出ているそうだ。http://hiddennews.cocolog-nifty.com/gloomynews/2004/03/post_16.htmlには、「全てはクラーク氏の計算どおり、と批判されるのも無理はない。クラーク氏はペンシルバニア大学とMITを卒業し、ペンタゴンで核兵器問題とヨーロッパの安全情報に関わり、CIA、NSA他にコネを持つという筋金入りのエリート情報部員である。しかも公聴会前には自著「Against All Enemies : Inside the White House's War on Terror--What Really Happened」を発売、「ブッシュ政権批判は注目を浴びるための演出」とわかりやすい批判が起こる」というような記述もあった。これも構造的には、沖縄密約事件と同じようなものを持っている。そのもの自体に対する批判が出来ないので、暴露した人間の個人的な資質に対する攻撃で、暴露した内容の価値を薄めようとしているところだ。かつて日本では、そういった宣伝が功を奏してしまったが、アメリカではそうはならないだろうと僕は思っている。それが、アメリカの民主主義と日本の民主主義の、今の時点での差なのかなとも思う。アメリカの民主主義には、このことで世論が惑わされることのないように願っている。間違っても、日本のレベルに民主主義が近づいてこないようにと願っている。この点では、手本を示してもらいたいものだ。
2004.04.05
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憲法の問題、文春の問題、筋弛緩剤冤罪事件、イラク関連の問題と、実に関心を呼んでくれる問題が目白押しで日記のネタには困らないが、どれを取り上げるか迷ってしまう。その問題にまた一つ大きな問題が加わった。テレビでもこの問題は大きな話題になっていたが、神保哲生・宮台真司の「マル激トーク・オン・デマンド」でも今週の話題になっていた。この問題は、我々にとっての重要な問題で、我々自身が当事者である問題だ。しかし、それが根本的には何が問題の核心なのかというのは非常にわかりにくい。そこでは、我々の利益になるような重要な暴露がなされていない感じがする。このような問題こそ、知られるべき大事な事柄が暴露されていないような気がする。ここにこそ「報道の自由」「表現の自由」を主張して欲しいものだと思うけれど、その声はマスコミからは全く挙がってこない。マスコミの主張する「表現の自由」なんてのは、だから信用できないんだという感じだ。「マル激トーク・オン・デマンド」の今回のゲストは、前衆議院議員の保坂展人氏で、年金基金の問題を提起していた。年金の積立金と言われているこのお金に関して、どこにどれくらい使われているのかというのが、ほとんど不明だというのだ。しかし、その額は非常に巨大なもので、これが不良債権化しているために、年金制度そのものが崩壊しかねないと言われている。そんな大事なことが不明になっていて、何も暴露されないと言うことは、それだけで不正が行われていると言うことを示しているのではないだろうか。年金に絡む疑問をいくつかの報道から拾うと、次のようなものが出てきた。「年金福祉施設は「福祉の増進」を目的に戦後、国有財産を公益法人などが運営する形で進められた。一九六〇年代から大型の施設が次々と建設されたが、民間施設が整備され、景気が低迷したこともあって業績は悪化した。 原因の根源には「天下り体質」がある。公益法人の全役員の約一割が厚生労働省OBである。「天下り」先での経営に本腰を入れてきたのか、はなはだ疑問である。役人感覚のずさんな経営の付けを国民は払わされているのではないか。 問題はここに至っても責任が明確にされていないことだ。国会で審議中の年金改革案は保険料の引き上げ、給付の減少という負担を国民に強いている。年金が湯水のように使われていた実態に、国民誰もが憤りを感じている。」沖縄タイムス社説http://www.okinawatimes.co.jp/edi/20040225.html#no_2この疑問に答え、このようなミスの責任を取らせ、今後はこのようなことが起こらないような対策を講じてある、そういう改革の方向が必要だ。しかし、政府案は次のようなものだという報道もある。「その骨子はありきたりで、抜本策には遠い。社会保険事務費の経費を削ったり、膨大な赤字をつくった委託先の公益法人を整理・統合したり、役員の報酬・退職金を見直したりすると言うが、これは世間では当たり前の企業努力にすぎない。 国民から集めた保険料を今後は年金の給付だけに使うという決定には失笑させられる。職員宿舎や公用車の購入に保険料を充てていたのが間違いで、それを正常に戻すだけだ。天下り先の高額な報酬や退職金にしても疑問視する声は前からあった。それを長年、黙殺したのが役所や官僚の常識ではなかったか。」中国新聞社説http://www.chugoku-np.co.jp/Syasetu/Sh04031201.html政府案が、このようなものであるならば、それを厳しく批判するのが国民の利益を代表するものだろう。今の政府与党と民主党をはじめとする野党の側の対立は、果たして国民益がどっちにあるのかを考えさせられる。マスコミの報道では、どっちなのかがわかりにくいからだ。「政府の年金制度改正関連法案は五年ごとに給付水準や保険料を見直す方式を改め、厚生年金、国民年金ともに保険料を毎年引き上げ二〇一七年度に固定する「保険料固定方式」の導入などが柱。給付水準は現役世代の減少や平8FCFBC余命の伸びで自動的に抑制する。 野党の民主党は「(政府案は)国民年金がうまくいくのかどうかに、全く触れておらず、抜本的な改革とは言えない。負担増ばかりが先行する小手先の改革だ」と批判、四月に対案を提出する構えだ。」琉球新報社説http://www.ryukyushimpo.co.jp/shasetu/sha26/s040322.html#shasetu_2という報道もある。これを見ると、民主党の方がまともなことを言っているんじゃないかという感じもしてくる。次のような報道もあった。「政府案は保険料を段階的に引き上げた後で固定し、給付する年金を抑制するのが柱だ。だが、経済界や労働団体は「保険料が高すぎる」、受給者側は「給付減は死活問題」と反発する。 基礎年金の国庫負担は三分の一から二分の一へ引き上げるが、財源の見通しは立っていない。当面は所得税控除の見直し、つまり増税だが、それでは急場しのぎにすぎない。消費税など税制改正は課題として残されたままだ。」「対する民主党案は、納めた保険料の総額に応じて給付する所得比例年金を創設する。年金が一定水準に満たない人には最低保障年金を支給、財源は新設する年金目的消費税で賄う、という内容だ。 保険料方式を譲らない政府案に対し、保険料と税の二本立てだ。所得に見合った給付は将来を描きやすくし、公平感にもつながる。最低保障に税を充てることで未納問題にも歯止めとなろう。 現行では厚生年金、共済年金、国民年金(基礎年金)と加入制度が分かれる。だが、内実は「どんぶり勘定」で厚生、共済からの持ち出しでやりくりしているのが実態だ。そこに不公平感もある。 民主党案は、そうした問題点に切り込む。所得の正確な把握、制度移行の膨大な作業など難しい課題は抱えるが、抜本改革の視点に立てば十分検討に値する案だ。」東奥日報社説http://www.toonippo.co.jp/shasetsu/sha2004/sha20040323.htmlこのように、細かく具体的に指摘したニュースが欲しいのに、国会の混乱のニュースは、次のような報道しかない。「年金法案いきなり火花、野党は委員会欠席へ」http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040401-00000214-yom-polここでは、政府与党と民主党の言い分を、それぞれ並べているだけで、どちらに妥当性があるかの判断が、その記事を読む限りでは分からない。次のような感じだ。「首相は本会議で「給付と負担を長期的に均衡させ(公的年金制度を)安定的な仕組みとすることで国民の信頼を確保する。ぜひとも成立させてほしい」と述べ、今国会での成立に強い意欲を示した。質問に立った与党議員も「(少子化で保険料を支払う)支え手の減少が見込まれても(給付と負担の)バランスを取ることができる。非常に大きな改革だ」(自民党の能勢和子氏)と訴えた。」「野党は同法案を「骨なし・ごまかし・先送り」(民主党の枝野幸男氏)、「年金不信拡大法案」(同党の古川元久氏)などと激しく批判した。特に問題視したのは首相の年金一元化に関する発言だ。枝野氏は「首相は唐突に一元化の必要性に言及した。(法案に)欠陥があることを知りながら抜本改革だと言うのは詐欺的だ」と迫った。」この報道だけで、どちらが正しいか判断できるとしたら、よほど年金問題に詳しい人だろう。僕にも、今の段階では全く判断が付かない。しかし、マスコミの報道などを見ていると、混乱させている方が何となく悪者というイメージもわいてくる。混乱させている本当の原因はどっちなんだろうと思う。新聞各社の社説を見ると、政府案を評価しているものはきわめて少ないようだ。今後、年金問題は、何が本質的な問題なのかに注目していきたい問題だなと思った。文春問題は、田中氏の長女の側が最高裁への抗告をしないことになって、一応の決着が確定したらしい。双方とも妥当な判断に落ち着いて、次の段階へ進むという感じだろうか。これにも一言言及したいと思ったが、またこの次にしよう。昨日は、撮りためたビデオで、「チャイナ・シンドローム」という古い映画を見た。ここには、原発問題で、事実を隠したい大企業に対して、たった一人でその事実を社会に対して知らせようとする人間が描かれていた。ここにも、一つの「表現の自由」の問題が描かれていたように僕は感じた。原発の重要な欠陥を告発する行為は、一つの暴露であり、大企業にとっては許し難い悪であると受け止められ、権力を使ってでも阻止しようとしてくる。それに対して、その個人は、まさに命がけで「表現の自由」を守るために闘っているように見えた。映画は、この問題に対する答は出していない。問題を投げかけたところでラストを迎えている。解答の出せない難しい問題だから、ユートピア的に「自由」が勝利するとは描けなかったんだろうと思う。この映画では詳しく描かれていなかったけれど、この大企業の秘密を暴露しようとした個人に対して、その反対の側からは、別の意味での暴露をすることも出来るだろうと僕は思った。この個人にとって、秘密にしたいプライバシーを暴露して、その人の言っていることは信用できないものだと宣伝することも出来るだろう。たとえば、原発の欠陥を暴露するのに、その家族についてのことなどは全く無関係であるが、家族関係がうまくいっていないと言うようなプライバシーがあったとき、その人格に対する信用を貶めるには、そのプライバシーの暴露は有効だろう。もし、このようなものまで「表現の自由」に含まれるとしたら、彼が命がけで暴露しようとした「表現の自由」は、全く守られない「表現の自由」になってしまわないか。どちらの「表現の自由」を守るのが、我々庶民にとって利益になるのだろう。「表現の自由」という問題には、このような問題も含まれるのではないかと、あの映画を見てそう思った。
2004.04.04
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文春の問題は、裁判所が妥当な判断を示して、間違った判断を訂正して終わった。これで、あの問題は、「表現の自由」を巡る闘いではなく、文春という私企業の私的利益に関する争いの問題に落ち着いたと僕は思っている。「表現の自由」を巡る闘いが起こるとすればこれからだろうと思う。この文春の騒ぎを前例として、プライバシーの暴露による被害が抑制されるようなら、この騒ぎは大きな意義があったと言えるだろう。また、この騒ぎを利用して、「公人」の概念が、記事の内容との関連で判断されるのではなく、単に「家族」であるという形式で判断されるようにごまかされるようになると、これは「表現の自由」の規制につながってくる。「表現の自由」を巡る闘いになるのは、このような利用のされ方が起こったときなのではないか。文春は、この騒ぎを「表現の自由」にかかわるものだと考えるのなら、今後も、このことに敏感に注意して、批判的な立場を堅持して欲しいものだと思う。そうなったとき初めて、僕も文春の闘いを「表現の自由」を巡る闘いだと理解するだろう。さて、文春の事件以上に我々にとって重要だと思われる問題が、筋弛緩剤事件で裁判所が示した判断の問題だ。この事件に関しては、僕も事実というのは分からない。誰が犯人であるかなんてことは分からない。しかし、彼を犯人だとする見方には大いに疑問がある。むしろ、殺人事件であるとする見方そのものに大いに疑問を感じる。この疑問だらけの殺人事件を、殺人事件として裁いたことに僕は問題を感じる。事実として子供が亡くなったのは確かだ。その子供の死に対して、誰かに責任はあるかもしれない。あるいは、責任を問えない事故なのかもしれない。事実の解釈にはいろいろなものがあるだろう。しかし、これを殺人事件とする解釈にはとうてい賛成できないし、無期懲役の判決が出た被告の犯行だとする判断は間違っていると思う。この判断の間違いは、あの程度の疑わしい証拠で判断すると言うことが間違っていると僕は感じるのだ。証拠が疑わしいのであるから、これは殺人事件として審理に入ってはいけない問題だと思う。このように疑わしい証拠で殺人事件という重大な事件の犯人にされてしまうのであれば、誰でも疑われれば同じ運命に陥る危険がある。我々庶民にとっては、許してはいけない裁判所の判断の間違いはこっちの方ではないかと思う。文春の問題は、地裁の間違いを高裁が訂正した。この筋弛緩剤事件も、地裁の判断が間違いであったと高裁に訂正してもらいたいと思う。少なくとも、高裁の判断が下されるまで、新たな確固たる証拠が出てこなければ、地裁の判断は間違いであると判断されなければならないと思う。岩上安身さんというジャーナリストが、「週刊ポスト」に寄稿した、この事件に関する報告がある。ここには、この事件の証拠がいかにあやふやなものかが報告されている。文春も、この程度の記事で弾圧されるのなら、僕も「表現の自由」に対する弾圧だと言うことで、すぐに支持するんだけれど。あの程度の記事で闘う気にはなれなかった。この記事は、次のところに行くと全文を見ることが出来る。 http://www.hh.iij4u.or.jp/~iwakami/past.htmここからいくつか引用して、この事件を殺人事件として告発することの疑問を考えてみよう。まず弁護団団長の阿部泰雄弁護士の次の言葉を引用しよう。「検察側は後半を先延ばしにして、証拠開示も行なわない。本当に証拠があるのか、現時点ではきわめて疑わしい。逮捕当初の自白は、強引な取り調べでむりやり強要されたものです。捜査当局は、はじめから守くんを犯人と決めつけて見込み捜査を行ない、逮捕・起訴してしまったため、引っ込みがつかなくなり、次々と容疑事実を拡大して拘留を延長し、彼を精神的に追いつめようとしている。これは、典型的な冤罪事件のパターンです」僕は、これはとても説得力のある言葉だと思う。被告が当初自白したような形になったのも、このように解釈すれば納得がいく。事実というのは、全体的なつながりに整合性がとれたものが事実である可能性が高いと思う。事実の解釈として上のものは、かなり信憑性が高いものだと思う。この記事は、2001年4月27日のものだが、その時点で岩上さんは、次の疑問を提出している。「まず、犯罪の凶器として使用されたといわれている筋弛緩剤入りの証拠物件の信憑性。筋弛緩剤は患者の血液サンプルや点滴パックなどから検出されたと一部メディアは報じているが、筋弛緩剤の鑑定結果について捜査当局からの公式発表はいまだにない。また、証拠となるサンプルを、誰が、いつ、どこで手に入れ、保存してきたのかについても曖昧な点が多い。混入の現場に関する目撃証言も同様だ。目撃証人は存在するのか、存在するならば誰なのか、判然としない。 そして決定的なのは犯行の動機だ。守被告が大量殺人に走る動機について、起訴状は一切、触れていないのである。 これらの謎は、公判の開始とともに次第に明らかにされていくはずだった。しかし、1回目の逮捕から3ヶ月が過ぎた今でも、初公判が開かれるメドはたっていない。」この疑問がすべて今回の裁判で明らかにされているようには僕には思えない。この疑問が存在する限り、この裁判は、殺人事件として問えないのではないかと思う。2001年5月4日・11日号では、被告の動機を探っている。まず、初期報道の事実として次のものを挙げる。「守被告の犯行への関与と動機をほのめかす初期報道は、整理すると以下の8点となる。守被告が当直の時に、患者の容態が急変する確率が高かったため、「急変の守」と呼ばれていた。 歩けない患者に対して「散歩したら?」などと心ない言葉を吐くなど、冷酷な一面をあわせもっていた。 准看護士のため給料が少なく、待遇面に不満があった。 半田郁子元院長(当時副院長)との人間関係がうまくいっておらず、困らせようと目論んでいた。 応急処置ができるかどうか、医師の腕を試そうとした。 人の注目を集めたかった。 白衣を着て、医者気取りだった。 女性関係でトラブルを抱え、精神的に不安定だった。 」これが、もしも事実でなかったら、深刻な報道被害の問題をはらんでいると思う。この事件は、冤罪という問題の他にも、報道被害という面からも我々庶民には大きな関わりがある問題を含んでいる。<1>の報道に対して、岩上さんは次のような報告をしている。「しかし、ある元職員は、「守くんが急変にあたることが多かったのは、別に不思議ではない」と振り返る。 「患者が夜間に急変することが多いのは、医療の世界では常識です。北陵クリニックには既婚者で子持ちの看護婦が多くて、10名あまりいる看護スタッフのうち、夜勤ができない人も数名いました。 だから、独身男性の彼に夜勤の割りあてが多くなるのは自然なこと。そして夜勤が多くなれば、急変に出くわす確率も高くなる。それだけのことですよ」」まさに、事実の解釈はどうにでも出来ると言うことの典型がここにある。被告を犯人にしたいと思う解釈をした場合と、事実を冷静に受け止めて解釈した場合とでは、これだけの解釈の違いが出てくる。初期報道をした報道機関は、この程度のことも調査せずに短絡的に、被告が犯人であるという前提で解釈して記事を垂れ流したのであろうか。<2>については次のような事実がある。「患者さんへの態度()についてですが、歩けない60歳前後のある患者さんに『散歩したら?』といったのは、事実です。でもそれは、ご家族がお見舞いに来ていたので、車椅子を使って屋外に出て、外の空気を吸ってきたら、という意味でいったんですよ。その言葉を『歩けないとわかっているのに、散歩したら、と嫌がらせをいわれた』と、悪く受け取られてしまったんですね。言葉足らずのために、患者さんの気持ちを傷つけてしまったことで、彼はすごく落ち込んでました」<2>のような事実の解釈は、被告が、殺人というような凶悪犯罪を行うような人格の持ち主であると想像させる要素がある。もし、被告が犯人でなければ、これはひどい人格攻撃であり名誉毀損であると思う。その他の事柄についても、岩上さんは丁寧に一つずつ、違う解釈が出来るということを事実をもとに証明している。この岩上さんの報告を読むと、被告に対するイメージが全く変わってくるのではないかと思う。この報告は、さらに続くのだが、このあとはまた別の日に考えることにしよう。報道被害に関しては、それをずっと追求し続けている同志社大学の浅野健一さんが、自身のホームページにも書いている。「浜田純一氏に「朝日新聞 報道と人権委」委員辞任を勧告する」http://www1.doshisha.ac.jp/~kasano/FEATURES/2003/sendai.htmここには、仙台弁護士会が出した勧告のことが報告されている。次のものだ。「[勧告は、21日付の前文にある「生命を預かる医療従事者が点滴を凶器にするといった前代未聞の事件はなぜ起きたのか」との表現について「被疑者が犯人であると前提した表現」であり、犯人視報道だとした。また、記事全体についても、この前文を受け、容疑者が犯行を行ったことを前提に識者の意見を聞いており、読者に容疑者が犯人と受け取らせるなどと指摘し、「犯人視報道であり、人権侵害にあたる」とした。」浅野さんは、「市民の好奇心に応えることが報道の任務」と言うことを厳しく批判している。報道機関が、このような態度を持っている限り、報道被害は止まらないだろう。このような姿勢までも「表現の自由」の範疇に入れるのなら、僕は、そのような「表現の自由」は否定されるべきだと思っている。「表現の自由」も、無条件に優位にある概念ではないのだ。それが制限されるべき現実的な条件もあり得る。しかし、それはモラルによって制限されるべきもので、決して法律によって制限されるものではない。法律による制限は、どうしても逸脱する可能性があるからだ。だから、モラルに関しては、もっと厳しく批判しなければならないのだと思う。岩上さんの記事にしても、浅野さんの主張にしても、まだなお語りたいものが多いが、今日も十分長い日記になったので、また明日にしよう。
2004.04.03
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週刊文春の問題について、次のような決定が出されたと報道があった。「<週刊文春>出版差し止め命令取り消し 東京高裁」http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040331-00001152-mai-sociこの記事の中では、「根本真裁判長は「記事には公益性がなく、長女らのプライバシーを侵害するが、事前差し止めを認めなければならないほど、重大な損害を与える恐れがあるとまでは言えない」と判断した。」と報道されている。妥当な判断だと思う。これで、問題は一応の決着を見たという感じだ。それは、最初出されたバランスを欠いた間違った判断が、バランスのとれた妥当な判断に訂正されたということなのだと僕は思う。これは、形の上では、文春やメディアの「表現の自由を守れ」という声が、功を奏して勝利したのだと解釈できるかもしれない。しかし、僕は文春を信用していないので、そう単純に受け取ることは出来ない。裁判所の側が、単純に判断ミスをしたと考えたのかもしれないし、世論の動向を見て、メディアの規制を仕掛けるには時期尚早だと判断して、一度は確信犯的に出した決定を撤回したのかもしれない。問題はこれからなのだと思う。文春の側は、「表現の自由を守れ」と声をあげたのだから、これから以後も、本当の意味で「表現の自由を守る」ために闘う姿勢を見せなければならない。それを注意深く見ていくことにしよう。この判断が妥当だと思うのは、どちらにも偏ることなく、正当に両方を秤にかけてそのバランスを評価していることだ。決定の骨子の次の3点は、僕も妥当だと感じて納得がいく。「・文春の記事は前外相の長女のプライバシーを侵害し、公共性や公益を図る目的は認められない ・表現の自由に対する重大な制約になる事前差し止めを認めるには、慎重な対応が要求される ・記事には、出版差し止めを認めなければならないほどの重大な損害を長女に与える恐れはない」田中氏の長女の側は、「決定を不服として、最高裁への特別抗告を検討するとみられる」と書かれている。しかし、これが最高裁でひっくり返るとはとうてい思えない。もしひっくり返るようなら、その時こそ本当の意味での言論の弾圧と言えるだろう。「検討する」という表現は微妙なもので、もし頭を冷やして論理的に考えることが出来るのなら、損害賠償を求める方の道を選ぶだろうと思う。その際は、このことをセンセーショーナルな話題にした出版差し止めのおかげで、文春が儲けた分の半分くらいは損害賠償でふんだくってもらいたいなと思う。とにかく、あの号が売れたのは、この話題があったからで、それがなかったら実につまらない記事だった。売れ行きの貢献として、儲けの半分は田中氏の長女のものだと思う。本当は、儲けのほとんどが慰謝料で消えるようになれば、わざわざリスクを背負って記事を書くこともなくなるだろうと思う。本当にリスクを背負うのは、世論が見捨てないだけの記事を書けたときになるかもしれない。でも、マスコミがそんなリスクを背負うことはほとんどあり得ないだろうな。マスコミが背負うリスクは、儲けが見合うときだけだろうから。文春の側は、「表現の自由守られたと評価したい」と語っているそうだが、本当に「表現の自由が守られた」と言えるかどうかは、これからなのではないかと思う。次のようなものと、厳しい戦いをしていくことを、文春は問われているのではないか。「報道にも規律大事=週刊文春問題で小泉首相」http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040331-00000725-jij-polこの記事の中では、小泉さんは、「個人のプライバシーを守りながらでも報道の自由(の実現)というのはできる。良識、規律が大事だと思う」と述べたそうだ。「良識」「規律」というのはきわめて抽象的な言葉だ。裁量によってかなりの幅のある解釈が出来る。解釈が少しでも逸脱しないように、文春は厳しい目で動きを見つめて欲しいと思う。せっかく権力の側と反対の方へ立ったのだから、権力の行き過ぎに目を向けることが、本当の「表現の自由を守る」ことになるだろう。この記事の中では、福田官房長官の、「政治家の家族を公人扱いするのはおかしい」という言葉も書かれている。これは、下手をするとごまかされる。田中さんの長女は、「娘だから」プライバシーを保護されたのではない。書かれた記事の事実の部分が、田中氏の公人としての面である政治活動とは全く関係がなかったからプライバシーとして認められたのである。もしも政治活動と関係のある私生活であるならば、それはたとえ意に反して暴露されてもプライバシーの侵害にはならない。ここは、ごまかされないように注意したい。福田さんのようにごまかしをはかる人に対しては、文春は厳しく批判してもらいたいものだ。「[昭龍軒]何のため書くのか /長崎」http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040329-00000002-mai-l42という記事では、次のような感想が書かれているが、僕はとても共感して読んだ。「田中元外相の長女の記事は、事件や事故ではありませんでした。彼女にとっては、人生を左右する大きな出来事でした。私たちは、それを知らなくてもよいことです。わざわざ書く必要があったのでしょうか。 週刊文春は、彼女を「公人」と見た、と書いた理由を説明しています。「公人」だとしても「書かないで」との要請を振り切って書くほどのことなのか、私には疑問です。 駿ちゃんの事件の時は、別の週刊誌の暴走を目の当たりにしました。開かれてもいない会議をさも開かれたように書いたのです。完全な作り事でした。新聞社なら首です。 「出版禁止」にも驚きましたが、前代未聞の結論が出るほどの記事ではなかったことが残念です。真偽さえも定かでない、あるいは知ったことの垂れ流し、人の痛みに土足で踏み込む、そんな記事が多すぎることに、社会がいらだっている象徴なのかもしれません。」それから、「表現の自由」を脅かしそうな兆しは、次のような記事にも見られる。「<週刊文春>「出版の規制は緩やか」と懸念 衆院憲法調査会」http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040402-00000037-mai-soci「衆院憲法調査会、「表現の自由」で論議=自民、雑誌報道に懸念」http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040401-00000991-jij-pol無名の一私人からの声ではなく、公人としての議員から、利害が絡んだ意見として上のようなものが出てくるのには警戒をしなければならない。文春は、ぜひこれらに厳しい批判を加えて欲しいものだ。新聞の社説から、共感できるものをいくつか引用しよう。「高裁の決定は、抗告から十二日目というスピード判断だった。それだけ反響は大きかった。二つの異なった判断が出た背景には、読者の興味をそそるために、書かれる側の人権を侵害しかねないマスコミに対する市民の不信感がある。表現の自由は尊重されなければならないが、同時に報じる側にも、読者の信頼を損ねない不断の努力が欠かせない。 地裁の差し止め決定はバランスを欠く面があったのは否めないが、書かれる側への配慮を求めた点は、残された課題として重い。マスコミに携わるすべてが、肝に銘じておかねばならないだろう。」中国新聞社説http://www.chugoku-np.co.jp/Syasetu/Sh04040101.html「高裁は記事が公共の利害も公益を図る目的もないと指摘している。長女は現時点であくまで一私人であり、プライバシー侵害に当たると認定した。ここまでは地裁の決定と流れは変わらない。 分かれるのは侵害の程度のとらえ方だ。今回の場合、人格への非難といったマイナス評価を伴うものでもなく、回復困難な損害とまではいえないと判断している。 そこで表現の自由の位置づけが鍵になる。高裁は民主主義体制の存立と健全な発展に必要な「憲法上、最も尊重されなければならない権利」と述べる。それを大きく制約する出版物の事前差し止めに対し、「慎重な上にも慎重な対応が要求される」と結論を導いている。 民主社会の血液ともいえる情報の流通が妨げられる事態を想像してみよう。最初はささいなケースでも知らず知らず拡大解釈されないとも限らない。こんどの高裁決定はバランスの取れた視点に立っており、意義深く受け止めたい。 むろん、現在の報道のあり方を容認するものではない。地裁と高裁が前段の事実関係で同様の認定をしたように、プライバシーと表現の自由の二つの権利の比較考量は微妙であり、極めて難しい。」信濃毎日新聞社説http://www.shinmai.co.jp/news/2004/04/01/004.htm「ただ、高裁判断が地裁と明確に異なったのは、高裁が「この記事はプライバシーの権利を侵害するが、プライバシーの内容・程度を考慮すると、事前差し止めを認めなければならないほど、重大な著しい回復困難な損害を被らせる恐れがあるとはいえない」と結論、結果としてプライバシー権より表現の自由を最大限に尊重する判断を下したことだ。 (中略) ただ、週刊文春の記事に問題がなかったわけではない。高裁は、記事の公共性や公益性を否定、プライバシーの侵害も認め、報道する側の姿勢を問い掛けた。安易に公権力の介入を許さないだけの慎重さと、報道と人権の在り方を常に検証していく謙虚さを求めた決定ともいえるだろう。権利を保障されるメディアの義務である。」熊本日々新聞社説http://www.kumanichi.co.jp/iken/iken20040401.html#20040401_0000004574「高裁決定が記事の公共性、公益性を否定し、プライバシー侵害を認めながらも、最も尊重すべき権利として「知る権利」を挙げ、事前差し止めには慎重な対応が必要としたのは、きわめて健全で妥当な判断だ。 (中略)むやみなプライバシー暴露は、「表現の自由」をも危うくする。今回の問題は、新聞も含めメディア全体に向けられた問いかけと受け止めたい。」神戸新聞社説http://www.kobe-np.co.jp/shasetsu04/0401ja25080.htmlいずれの社説も、判断のポイントは、両者のバランスを秤にかけた結果であると受け取れる部分に共感した。無条件の優越性ではなく、条件付きの優越なのだと僕は受け止めている。文春が、差し止められた号の次の週に反論特集を組んだが、ここで、この両者のバランスという観点から文春批判をしていない人の意見は、僕はあまり信用していない。文春に載るから文春批判をしていないと言うこともあるかもしれないが、それは、文春擁護と同じではないかという疑問だ。文春に載るからこそ、文春批判も一言述べておかないと、文春の側に立ってものを言っているのだと思われてしまうのではないだろうか。文春自体が、自らを弁護するのはある意味では当然である。当事者だから、当然自分の利益のために行動するだろう。だからこそ、当事者の意見は、半分くらいの重さで聞かなければならない。当事者でない人間は、第三者として客観的に発言しているように見えるが、両者を平等に語らずに、一方の側の批判だけで終わっていたら、それは、やはり一方の側に肩入れしていると思われても仕方がないのではないだろうか。その発表の媒体が、文春でなければ、必要がないから言及していないと言うこともあり得るかもしれない。それでも僕には不満は残るけれど。論理的には、そういう立場も客観的な第三者的立場としてはある。読売の言い方は、言いすぎだと思うけれど。とにかく、文春の問題は、本質的なことはこれから始まると思った方がいいんじゃないかと僕は感じる。これからが本当の意味での「表現の自由」の危機が訪れると思う。その時に、文春がどんな姿勢を見せるかで、文春の本質も見えてくるだろうと思う。
2004.04.02
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今日もまた大きな意味のあるニュースが入ってきた。「<筋弛緩剤事件>守被告に無期懲役判決 仙台地裁」http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040330-00001014-mai-sociこのニュースが非常に重要だと感じるのは、僕は、これが冤罪の可能性が非常に大きいと感じるからだ。判決では、「5人への点滴に被告が殺意を持って筋弛緩剤を混ぜたとすべて有罪認定し、弁護側の冤罪(えんざい)の主張を退けた」と、冤罪の可能性を否定しているが、それでも僕はこの事件は冤罪ではないかという思いが消えない。事実というのは、なかなか証明することが難しい。みんながよく知っていると思われることでも、かなりの調査をして確かめないと、本当には何があったのかというのを証明するのは難しい。しかし、それが事実であるのなら、全体的な整合性というのは合理的に説明できるようになるはずだ。たとえ個々の事実には疑わしい点があっても、全体としてのつながりは、事実であるならばそれなりに整合性を取ることが出来るはずだ。逆に言えば、事実でなかったら、頭の中で強引につじつまを合わせているところがあるので、どうしてもそのつじつまが合わずに、現実的に整合性をとれない部分が出てきてしまう。守被告を犯人だとすると、このつじつまの合わない事実が実にたくさん出てきてしまうのである。ちょうど数学で言う背理法の証明に似た現象が起きる。守被告が犯人だとする仮定は矛盾を導いてしまうのである。司法試験の情報を発信している福太郎と名乗る人のページがある。その人のページに、この事件の詳しい分析がある。これは、論理的に非常に見事な分析で、守被告を犯人だとする論理の矛盾を鋭くついている。この福太郎という人は、守被告に同情的すぎると言うこともなく、裁判所に対して強い批判を持っているという人でもない。いわば、この問題に対しては第三者的に眺めることの出来る立場にいる。その人の分析だけに、これはかなり信用が出来るという感じがした。以下、 http://tokyo.cool.ne.jp/hukutarou/kousatsu.htmに書かれた文章を見ながら、どこに論理的矛盾があるのか、守被告を犯人とする仮定を調べてみよう。まず、この事件の発端となった報道で逮捕直後に出た、「20人近くに点滴、うち10人が死亡」という記事について分析している。守被告が犯人だとしたら、これは、守被告の点滴によって死んだというふうに想像できる。しかし、これが実際には全くそうではないらしい。それは、病院側の答を見ると分かる。これは1月8日朝日新聞朝刊の記事らしい。「Q:守容疑者が勤務しはじめてから、亡くなったのは何人いるか。副院長:10人前後の患者さんが亡くなっている。 ほとんどが、80、90歳のお年寄り。彼(守容疑者)との関係については、何とも言えない。Q:2年間で10人前後が亡くなったというのは守容疑者がかかわっていたという意味か。副院長:違います。病院全体でと言う意味。Q:多いのか、少ないのか、このくらいの規模の病院としては院長:ちょっと多い。Q:警察には何人分のカルテを出しているのか。副院長:警察には、(逮捕容疑となった)患者の分だけです。Q:輸液した直後に亡くなったケースもあるのか。副院長:直後に亡くなられたケースはなかったと思う。Q:急変は副院長:急変した人はいると思う。」上の記事を見ると、守被告の点滴と患者の死亡の関係は、時間的関係があるだけで、論理的因果関係があるようには見えない。守被告が犯人だとしたら、これはかなりおかしなつじつまの合わない事実になりはしないだろうか。ここのところの論理矛盾を、福太郎さんは、次のように疑問を提出している。「1月7日の記者会見で病院の責任者が「病院全体で10人が死亡、守容疑者との関与は何とも言えない」と言っているのに、2日後の1月9日の毎日新聞が「守容疑者から点滴を受けた後に10人が死亡」と報じているのはどういうことなのか?」次に唯一の物的証拠と言われている、患者の血液、尿、点滴ボトルの鑑定について福太郎さんは疑問を提出している。これが本当に信頼に足るものであれば、守被告は逃げられない立場に追い込まれる。守被告が犯人であれば、これらから筋弛緩剤が検出されるのは当然のことになるからだ。しかし、この物的証拠の信憑性が実に疑わしい。福太郎さんは次のような疑問を提出する。「さらに、警察の捜査の最大の問題点は、物証にある。宮城県警からの依頼で大阪府警が、患者の血液、尿、点滴ボトルの鑑定を行っている。ところが、鑑定に用いられた血液等は5件のすべてで、鑑定で「全量消費」されたとされている。つまり、裁判所が再鑑定しようにもできない状態にある。犯罪捜査規範186条は、「再鑑識のための考慮」として鑑定資料はなるべくその一部を用いて残部は証拠価値を失わないように保存しておかなければならない、と定めており、今回の警察の行動は理解に苦しむ。どうして全部使ってしまったのか?」もし再鑑識が行われて、そこでもなお同じ結果が出てきたら、これは完全な物的証拠となっただろう。どうして、これだけ強力な証拠を残しておかなかったのか。守被告が犯人だとしたら、残しておかないと言う方がおかしいのではないか。つじつまが合わないのではないか。裁判所が判決において、これを証拠として認めたのは、実に不当な扱いだと思う。個々の起訴された患者の様態の変化に関しては、次のような矛盾の指摘もある。守被告が犯人であれば、筋弛緩剤の効力が先に起こるはずだから、呼吸筋も止まるため呼吸停止が起きて死亡の危険が起こる。しかし、実際はそうではないという指摘だ。「第1起訴(11歳女子、現在も植物状態)=アセトン血性嘔吐症(いわゆる自家中毒)及び、半田副院長が挿管できなかったことによる窒息このケースでは、半田副院長が少女の両親から提訴されている。その訴状には、呼吸不全よりも先に意識が低下した旨が記されている(筋弛緩剤は肺の筋肉を動かなくするため、意識低下よりもよりも先に呼吸が停止する)」「第4起訴(45歳男性、容体急変の後回復)=抗生剤(ミノマイシン)の副作用患者には、自分で上半身を起こしたり、話ができたりといった、筋弛緩剤の投与とは矛盾した動作が見られる。(筋弛緩剤を投与されると動けなくなるし、呼吸自体ができない)また、「めまいがする」という症状が抗生剤の副作用と一致する。」この事件は、弁護側の主張では、「半田夫妻が医療過誤や経営難の問題を全部守被告に押しつけた謀略だ」としているようだ。守被告が犯人だとすると、様々の矛盾が指摘できるが、半田夫妻が医療過誤を隠蔽しようと工作したと考えると、矛盾していた事実のつながりが、つじつまが合ってきて論理的に整合性を持ってしまうのだ。福太郎さんも次のように語っている。「この事件が弁護側主張の通り、半田副院長による医療過誤であり、それを隠すために半田夫妻がその責任を守被告にすべてひっかぶせたとすれば、他の事件も含め、すべてつじつまが合ってしまう。半田夫妻による「事件」の捏造、と説明できてしまう。」さらに、この推理を補強するような事実も見つかる。福太郎さんの言葉では次の通りになる。「そもそも、捜査の端緒が半田夫妻による通報であること、二階堂院長(名義を貸しただけのお飾り院長のようだ)が「事件」を報道で知っており、半田夫妻から事前に何の相談も受けていないことは、「事件」が半田夫妻によって謀議されたものであると考えればすべて納得できる。いくら名前だけの院長でも、これほどの重大事件を知らされないのは不自然だ。阿部弁護士はこれを、「謀り事は密なるをもってよしとす」と表現している。」さらに、半田夫妻の謀議であると推理するのに足る動機もあると考えられる。それは、第1起訴の事件が、医療過誤として訴えられているからである。これをなんとか、医療過誤ではないとすることが出来たら、それは半田夫妻にとっては大きな利益になる。事件であるとすることが半田夫妻にとっては利益になるのだ。また、動機という点では、守被告の動機が解明できないのに比べると、この動機は大変わかりやすい。ここら辺のつじつまに関しても、福太郎さんは次のように語っている。「第1起訴事件以外は、それ単体ではおよそ事件であるとは思われそうもないものが、第1起訴事件の後に「これもそうなのでは?」と後付けされたようにも見える。他の4件のうち3件は「被害者」は現在回復して後遺症もなくすっかり元気になっていて、単に容体が急変して危なかった時期がある、というにすぎない。しかも、唯一死亡したのは89歳のおばあちゃんで、死亡時にはその死因は全く疑われていない(主治医の二階堂院長も、当時「心筋梗塞」と診断している)。 一件突拍子もないように見える「事件はない。幻だ」という阿部弁護士の主張は、実はかなり説得力があることがわかるだろう。」守被告の初期における自白についても、福太郎さんは次のような疑問を提出する。もし、守被告が犯人であれば、犯人でしか知り得ない具体的な自白が得られるはずなのであるが、それが全く見られないことが矛盾ではないかと指摘している。「、「自白が証拠の女王」足りうるのはそれが犯行を全ストーリーを物語るからであるにもかかかわらず、守容疑者の自白は「私がやりました」という至極簡単な、抽象的なものにすぎない。そこには、何のストーリーも語られてはいない。さらに、その自白の採取過程は守被告の日記に詳細に語られており、取調官による強要、押しつけ、誘導が強く疑われる。というかほとんど明白だ。普段法律や刑事手続きについて一切触れたことのない人間が、あんな詳細な日記を想像で書けるとはとても信じられない(司法試験受験生ならもしかすると書けるかもしれんが)。これで「自白は信用できる」とか裁判官が言い出すようなら、日本の刑事裁判はおしまいだ、と思うのだが。」自白の抽象性に比べて、それを強要されたという守被告の日記の方は、実に具体的で詳細なことに驚いている。どちらに信憑性があるかは、ほぼ明らかのような感じがする。福太郎さんは、次のような指摘もしている。「この事件がもし冤罪と言うことになれば、警察の信用失墜は、単に「間違えた」だけの普通の冤罪事件よりもはるかに著しい。「警察による証拠(鑑定結果)の捏造」が含まれることになるからだ。たとえ捏造ではなかったとしても、「自供に合わせて鑑定結果を作成した」ことになり、警察による鑑定全体の信用性を疑わしめることになる。」ここからの想像は、あまりにも恐ろしいものなので、そうでないことを願っているのだが、裁判所がこれだけの疑問のある証拠を採用して、ほぼ全面的に検察側の言い分を入れて無期懲役の判決を出したのは、この警察のミスを救うためだったのではないかという想像が僕の頭をよぎった。これが憶測であることを願っているが、このような不完全な証拠で、すべての起訴の件が殺人として認められるのはやはりおかしいと思う。最後に次の福太郎さんの疑問の言葉を引用しよう。「この事件は、どっちに転んでもとんでもない結論となる。 検察の主張が事実とすれば、当初の報道通り、医療関係者による無差別連続殺人、前代未聞の事件となる。しかも、その犯人は周囲から信頼され、仕事も出来、結婚を約束した彼女と同棲中だった、まさに幸せの絶頂にあった男、というのである。」「また、冤罪だとすればもっととんでもない結論だ。ただの「間違い」ではない。警察ないし医療関係者による証拠捏造が行われたことになる。警察による証拠捏造だとすれば、これまでの刑事裁判だって、疑わしくなる、刑事司法に対する国民の信頼が根底からひっくり返ってしまう。」また長くなってしまったので、一部掲示板に移そう。
2004.04.01
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