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今週の「マル激トーク・オン・デマンド」では、ジェンキンスさんについての隠された情報が語られていた。それは、よく探してみるとヤフーのニュースなどでも関連したものを見ることが出来るが、本当のところが伝わるようには報道されていない。関連したものとは次のようなものだ。「面会できず無念訴え ジェンキンスさんのおい」「ジェンキンスさんのおい、「日本側から面会を拒否されている」」最初の記事では次のように報道されている。「ハイマンさんは17日に来日し面会を待った。しかし、日本側が治療を理由に断ったとし「外務省の担当者は、病室の電話番号も教えてくれなかった」と話した。 さらに、曽我さんの依頼で以前に、親類らでジェンキンスさんへのビデオメッセージを録画し外務省側に託したが、手渡されていなかったとして「一体何のためだったのか」と非難。自分の母親に電話で事情を伝えると、母親は「(肉親なのに)どうして会えないの」と泣いたという。」治療を理由に面会を断ったというが、別の報道では面会謝絶をするほどの重病だとは伝えられていなかったのではないだろうか。ジェンキンスさんについては、脱走罪の訴追のことばかりが報道されていて、上のようなニュースはほとんど小さい扱いだったので、僕も「マル激」で指摘されるまでは気づかなかった。いったいどれくらいの人がこの記事に気がついただろうか。記事を読む限りでは、日本政府の対応は実に理不尽な対応だと思う。肉親への面会を許さないどころか、ビデオメッセージさえも届けていないようだ。ハイマンさんが、「一体何のためだったのか」と非難するのも当然だと思う。母親が、「(肉親なのに)どうして会えないの」と泣いたというのも、母親に同情する。しかし、このニュースでは「なぜそうなのか」ということが全く分からない。ここに、隠された情報があるのを僕は感じる。もう一つのニュースでは次のような報道がされている。「拉致被害者、曽我ひとみさんの夫のチャールズ・ジェンキンスさんのおいで、米国から来日しているジェームズ・ハイマンさんが24日、ジェンキンスさんの入院先の病院に見舞いに行くことを禁じられていると語った。また、おじが脱走したという証拠はない、と強調した。 ジェンキンスさんは18日、病気治療のため一家4人で来日・帰国し、現在は都内の病院に入院している。 ハイマンさんはおじとの再会のため、一週間前日本に到着し、何度も面会を求めたが、日本側から断られたという。」ここでは、ハイマンさんが、単に面会を断られたのではなく「入院先の病院に見舞いに行くことを禁じられている」と強い表現がされている。これは、ハイマンさんからジェンキンスさんへと伝わって欲しくないことがあるのだろうと「マル激」で宮台氏が推測していた。それは、ニュースの中で語られている「おじが脱走したという証拠はない」という事実ではないかという推測だった。宮台氏の話によると、ジェンキンスさんさんが脱走したとされた証拠は、ジェンキンスさんの手紙だということだったが、その手紙が実は存在していない、少なくともアメリカ政府には残っていないことをハイマンさんが伝えに来たことを、ジェンキンスさんの耳に入れたくないのではないかという推測が語られた。ここから後は僕の推測なのだが、もしジェンキンスさんが脱走兵でなかったらその影響はどのようなところに現れてくるのかを考えてみた。宮台氏は、脱走ではなく「置き去り」にされた可能性もあると示唆していた。もし「置き去り」であるとしたら、米軍というのも兵士個人を大事にしていたわけではないのだということが暴露されてしまう。米軍というのは、「プライベート・ライアン」という映画にも象徴されるように、たとえ危険を冒してでも一人の兵隊を大事にするような幻想があった。これがそうでなかったら、戦争支持の世論に大きな影響を与えるだろう。もし、米軍が兵士を置き去りにするような軍隊だったら、イラクでの米軍の活動というものが、それまでの米軍の持っていた立派な軍隊という幻想を消し去ってしまうだろう。兵士は使い捨てにされている消耗品のように感じ始めるかもしれない。ジェンキンスさんは、脱走兵でなければならない、というのが米軍の立場なのではないだろうか。ジェンキンスさんは、米軍との間に司法取引をして、罪を軽減してもらうらしいという報道が溢れている。司法取引によってジェンキンスさんが罪を認めれば、米軍にとっては実に都合がいいだろう。しかし、脱走の証拠がなかったら、ジェンキンスさんが法廷で争うという可能性も出てきてしまう。軍法会議というのは非公開だそうだから、押し切ることも出来るかもしれないが、世間がこれだけ注目しているのではあまりに無理なことは出来なくなるだろう。もし確かな証拠がないとしたら、司法取引こそがアメリカにとってもっとも望ましいことなのだと思う。ジェンキンスさんにとって望ましいのではなく、アメリカにとってもっとも望ましいことなのだと思う。その方向を崩しかねないから、日本政府はハイマンさんがジェンキンスさんに会うことを妨害したのではないか。僕は、「マル激」で宮台氏の指摘を聞いたから、上の記事からこのような推測が出来たけれど、もしその指摘を聞かなかったら、この記事を読んでもそこまで考えられなかっただろうと思う。何しろ、この記事に目をとめることさえなかったのだから。しかし、ジェンキンスさんの問題において、この記事は非常に重要なものだと思う。それが重要性を感じないような報道がされているのは、重要な情報が隠されていると僕は感じてしまうのだ。今後、アメリカ側の望むように、ジェンキンスさんが司法取引に応じて罪を認めるのだろうか。そして、日本政府はそれを助けるために働くのだろうか。司法取引でジェンキンスさんが家族とともに日本で生活できるようになったとしても、それはアメリカの思惑が通っただけだとしたら、それを素直に喜べるだろうか。未だに国家に翻弄されているジェンキンスさんを気の毒に思う。「マル檄」では、もう一つアメリカでの狂牛病に関連して、ある町でのクロイツフェルト・ヤコブ病の異常発生というニュースを知らせていた。神保さん、宮台さんの話に寄れば、このニュースは、ほとんど日本では知らされていないということだった。僕は、田中宇さんの「狂牛病とアメリカ 004年7月6日 田中 宇」という記事で知っていたが、他の所では全く報道されていないニュースらしい。このニュースが重要だというのは、ここからアメリカの狂牛病検査のずさんさが予想されてしまうからだ。田中さんに寄れば、「100万人に1人の奇病が、同じ職場から3年間に2人も出るのはおかしい。そう感じたスカーベックは、地元新聞の訃報などを使い、地元におけるヤコブ病での死亡を調べてみた。すると、さらに驚くべきことが分かった。ガーデンステート競技場の約100人の職員のうち2人、競技場の会員パス(一定料金で何回でも入れる常連者用の定期券)の保有者1000人のうち7人がヤコブ病で死亡していたのである。このほか、競技場内のレストランで食事したことがあるという人がヤコブ病で死んだケースも見つかり、合計で13人の競技場に出入りしていた人々がヤコブ病で死んだことが分かった。」というのがその町の状況だったらしい。これは、狂牛病に感染した牛の肉が、そのレストランに紛れ込んだことを推測させる。それが原因でヤコブ病に感染したのではないかと疑われるからだ。感染した牛の肉が紛れ込むというのは、検査が完全ではないということを意味する。検査というのは、人間がやることだから完全でなくても仕方がないという考えもあるだろうが、狂牛病からヤコブ病になったら、これは100%死に至る病気だと神保さんは強調していた。つまり、これは限りなく完全を求めて検査をしなければならないことであって、完全でなくても仕方がないとされるものではないのだ。神保さんの情報に寄れば、アメリカでの肉牛は3500万頭いるらしいが、そのうち検査されるのは2万頭程度だということも言っていた。その検査の実態を日本の消費者が知ったら、果たしてアメリカ産の牛肉を食べたいと思うだろうか。このアメリカの一地域でのヤコブ病に関する情報は、地域の問題で言えば大したことではないのだろうが、日本の牛肉消費に関する情報としては実に重い意味を持っている情報だ。その情報が全く流れてこないというのは、何を意味しているのか。牛肉輸入に関わっている利権の問題が働いているのだろうか。隠された情報は、一見何でもない小さい情報のように見える。しかし、それがどれほど重い大きな意味を持っているかを感じ取るのがジャーナリストのセンスだ。このニュースを、7月6日の時点で伝えていた田中宇さんは、やはりすぐれたジャーナリストだと思う。隠された重要な情報を知らせてくれる人を、常に注意深くチェックしていきたいものだと思う。田中宇さん、神保哲生さん、宮台真司さん、この3人は、特に重要だなと思う。
2004.07.28
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小熊英二さんが「<民主>と<愛国>」で報告している戦争体験の中に集団疎開がある。これは戦時下での中間集団全体主義を表している具体例だと思う。僕は、夜間中学に通う人たちからも疎開体験を聞いたけれど、おおむね小熊さんが報告していることと同じだった。それは、常につらい体験として語られるものであって、ノスタルジーを感じて、ともに頑張ったと想い出を語れるようなものではなかった。小熊さんも、柴田道子さんという人の次の回想を報告している。「私たちの部屋は学寮中の模範だった。規律を守り、あまり騒がず、先生を困らせることがない、その上よく勉強する班、先生は全くそれ以上の何を求めよう。だが先生の目が届かないところで恐ろしいことが起こっていた。……(班長の)A子は、自分の気に入らぬことが起こったとき、先生からお小言をちょうだいしたとき、よくこの仲間はずれを行った。B子は誰先生にひいきされているからとか、C子のところには家からよく手紙が来すぎるとか、たわいない理由から、班中の子供に命令して、B子をぶつとか、その日はC子と口をきかないことなどの厳しい制裁をするのだった。この仲間はずれは順番のように回ってくる。被告の子供は、一時も早く仲間はずれから解放されたくてじっと我慢して班長の許しを待つのだ。反発したり、ともに同情したりすると、すぐ仲間はずれが自分の所に回ってくる。…… そのうち子供たちは、班長の気を損ねないように色目を使うことを覚えた。東京から送られてきたお菓子を班長には多く与えるなどの形をとって現れた。……郷愁にかりたてられ、お手洗いに入って泣き、あるいは夜、布団の中で声を殺して泣いたものだ。」この記述を読むと、もう60年以上も前のことなのに、今の学校状況でも全く変わっていない、この時代から続いているものがあることに気づかされる。中間集団で権力を持っている人間が、いかにそこで全体主義的な圧力をかけているか、そして、その権力を握った人間が、いかに腐敗していくかというのが見て取れる。権力の座にいる人間は、自らの失敗を思い知ることが出来ないので、腐敗してもそれに気づかない。だから腐敗がどんどん進んでいってしまうのだろうと思う。権力の腐敗を防ぐには、権力が間違えたときに、その間違いを思い知らせるメカニズムが必要だ。上記の疎開集団の問題でいえば、班長という小権力者の上に君臨する教師という上位の権力者がその間違いに気づくことが出来れば、班長という権力者の腐敗を少しは押しとどめることが出来る。しかし、教師という権力者は、班長の腐敗を見ることが出来ない。それは、見たくないから見えないということなのだと思う。班長の腐敗を見ないことにすれば、表向きは、その班は規律を守るよく勉強するいい班であるからだ。教師という権力者は、その下にある小権力者に汚い仕事をまかせて、表面的な実績をかすめ取るという習性があると思う。恨みはすべて小権力者に負わせて、自分は実績だけを認めさせることが出来るからだ。この構造も変えなければ中間集団全体主義の克服が出来ないのではないかと僕は感じる。どこに本質的な責任があるかということを誰もが知る必要があるだろう。また、虐げられている弱者が、すぐに逃げ出すことが出来るメカニズムを作れば、我慢の上に成り立っている実績などすぐに崩れてしまうので、これも問題の解決の一つの方向だろうと思う。しかし、教師の場合は、善意から中間集団全体主義に加担する場合もあるので、この克服はきわめて困難を感じるものだ。まじめで誠実な教師集団には、全生研(確か、「全国生活指導研究会」というようなものだったと思う)というものが一世を風靡した時代があった。ここで行われた班活動の指導は、僕には中間集団全体主義を強める効果を持ったものに感じたものだ。班全体で責任を負うというシステムは、その頭に立つ班長に権限を集中することになる。集団疎開の子供たちと同じだ。仮説実験授業研究会では、早い時期からこの班活動に関しては批判的だったが、規律を指導したり、班長の指導力を育てるということで、かなり熱心にこの活動が研究されていたようだ。実際には、同調圧力による奴隷的な心情を育てることになったり、班長の指導力ではなく、恣意的な支配力を育てるような結果になったのではないかと僕は感じる。特に、それに輪をかけたのは、班同士で競争をさせたことだろう。競争において負けた原因を、できの悪い班員のせいにすれば、そこからはいじめが発生することはほとんど必然的なものではないかと思えるからである。しかし、いまでもこのような中間集団全体主義を助長する班活動は学校に生き残っているのではないだろうか。僕は幸いなことに、そのようなものが全くない夜間中学というところで仕事をしているけれど、普通の昼間の学校ではまだ生き残っているのではないだろうか。それがおかしいという感覚を持たなければならないと思うが、この同調圧力は、使い方によっては、規律を守る勉強をする子供を作るので、教師にとっては誘惑されることになるのだろう。しかし、それは本当の意味で規律を守る自立した子供を育てているのではないことに気づかなければならないと思う。小熊さんは、疎開児童の状況は大人社会の縮図だったと語って、これを「上位から下位への「抑圧移譲」」という言葉で表現している。まことに適切な言葉だと思う。「抑圧移譲」は、人間を支配するときには効率的なメカニズムになる。旧日本軍では、下士官と呼ばれる地位にあったものがこの「抑圧移譲」を受け持っていた。下士官にある程度の権力を認めてやって、下にいるものへの抑圧を許可してやれば、恨みはすべて下士官へ行くが、支配体制という点では非常に効率的に支配できる。学校が未だにこのような「抑圧移譲」のメカニズムを残しているのは、支配と指導を混同しているからだと思う。教師のいうことによく従うのは、指導の結果として表れる場合もあれば、支配の結果として表れることもある。どっちの結果なのかということに、教師は敏感でなければならない。教師は指導者でなければならない。決して支配者になってはいけないのだ。
2004.07.27
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小熊英二さんが「<民主>と<愛国>」第1章で描く戦争体験の中で、庶民生活におけるモラルの問題というのは、僕自身は映画や小説で多く接していたものなので、小熊さんの文章を読んで事実としての裏付けを感じるというのがその感想だ。特に、建前としての高い道徳性は、学校教育における「修身」科目などに象徴されるようなものがあったが、本音の部分ではかなりあからさまな不道徳が横行していたことを見ると、「道徳を声高に叫び立てれば立てるほど、実際には不道徳が横行している」という社会法則が成り立ちそうな感じがする。小熊さんが報告するのは、まずは総戦力体制下の軍需工場の実態だ。国家のために滅私奉公させるという全体主義体制のもとで、上の地位にいる人間ほど滅私奉公せず、むしろ公を私のために奉公させるような私利私欲に走る人間が多かったという事実を知らせている。まずは、セクショナリズムからくる誤りとして、次のようなものをあげている。「しかし、ここでも陸海軍のセクショナリズムは著しかった。同一のドイツ製エンジンをライセンス生産するのに、陸海軍が別個に交渉して二重にライセンス料を支払い、別個の名称が付けられた。兵器開発計画は陸海軍の各部署ごとに乱立状態となり、実現に至ったものは少なかった。こうして生まれた兵器は多種多様に及び、生産の増大が妨げられた。弾丸や部品は、同種の兵器でも陸海軍で規格が違い、互換使用が出来なかった。」全く非合理的なことが行われていたのだ。これでは、最前線で戦う兵士が浮かばれない。そもそも、日本軍というのは、兵隊そのものは1銭5厘で調達できるというような非人間的な姿勢を持っていたので、人間よりも兵器を大事にするというような間違った戦略を持っていた。しかし、肝心の兵器でさえもこのような感覚で考えていたのでは、合理的思考をしていたアメリカやヨーロッパの国に対抗できると考える方が無理のような気がする。軍国主義下の日本社会のものの考え方は、全体主義という言葉で表されるが、非合理的思考という面が非常に強い。全体主義というのは、判断停止になるような絶対的真理を信じるという点では、原理主義に近い「狂信」をもとにしていると考えることも出来る。「狂信」というのは、合理的思考をする人間にはなかなか持ちにくい感覚だ。「狂信」に陥ったとき、合理的思考もどこかへ行ってしまうのかもしれない。日本の軍隊は、軍隊内部の競争で相手に勝つことの方が大事で、肝心の戦争の相手に勝つことは合理的に考えられなかったのだろう。そのような合理的思考が出来ない軍隊が戦闘に勝てないのはある意味で当然であり、歴史を振り返れば、勝てなくて良かったという感じがする。そのような軍隊が勝ってしまえば、「無理が通れば道理が引っ込む」という状態になりかねないからだ。モラルの問題では、小熊さんは次のようなことを指摘している。「民間には不足していた各種の資材が、軍需工場には優先的に配給されていた。このことは、軍需工場の役職員が物資を闇市場に横流しすれば、法外な利益が得られることを意味した。生産資材の横流しで原料不足が激化しただけでなく、不良部品も闇ルートから工場に納入された。こうした状況にもかかわらず、軍需商は製品の規格基準を下げ、表面的な生産目標を達成しようとした。」権益が生じるところはモラルが低下し、私利私欲に走る人間に利用されるというのは、時代を超えた社会の法則かもしれない。いまでもこの構造は変わらないだろう。これを断ち切るには、権益が生じる構造を替えなければならないのだが、構造改革を叫ぶ小泉首相の下でも、改革された構造は一つもない。権益を手放さない人間たちの強い抵抗がそこにはあると思う。全体主義国家だったかつての日本では、この権益を守るために権力が利用されただろうと思う。そうなると、モラルの低下はもっとひどくなるだろうと思う。そしてそれを覆い隠すものとして精神主義というものが登場してくる。これは非合理的な思考に通ずるものだ。これはまだ日本社会に根強く残っているもので、学校教育などでも、心がけ次第で何でも出来るというような幻想がまだ残っているのではないかと思う。戦時中のエピソードとして、小熊さんはこの精神主義に通じるものとして次のようなものをあげている。それは、工場での徴用労働でのものだ。「強行される長時間労働と、食糧の不足は、生産能率と士気を低下させ、不良品の増加や無断欠勤の続出を招いた。そうした状況への対処として、憲兵の見回りや、軍隊組織に習った職階制が導入され、不合理な精神主義も横行した。中島飛行機尾島工場の事例では、1944年6月に、1日30分ずつ3回の「突撃時間」が実施された。この時間中は拡声器で突撃ラッパが演奏され、「突撃精神」で作業することが命令されたのである。しかし作業が冷静に行えないため、かえって不良品の増加を招くだけの結果に終わった。」精神主義の困るところは、このように方法的な失敗が明らかだと思えるようなものでさえも、「心がけが足りない」あるいは「心がけが悪い」から能率が上がらないのだと解釈されてしまうところだ。このような精神主義は、まだまだ日本社会のあちこちで残っているのを僕は感じる。それは破滅への道を歩んでいるのだが、破滅してみないと分からないということが「狂信」の「狂信」たる所以だろうと思う。前回の日本軍や、今回の軍需工場のモラル低下というのは、主に地位の上の人間の方を見ていったものだが、上の人間が腐敗していたら、下の人間はそれに習うようになる。一般の徴用された工場労働者も、腐敗しなければ生きていけない世界では、腐敗することが必然になる。次のような感じだったらしい。「工場での食糧配給は、わずかだった。公定配給量が少なかっただけでなく、職制による横流しや横領があったからだった。武田に寄れば、「工員はもちろんのこと、工場を行学一体の教場として勇んで出てきた中学生たちまでが食券の偽造を始め、1回に2食分、3食分を食べることによって、空腹を満たす道を捻出して、何ら矛盾を感じない人間になってしまっていた。」虚偽は虚偽を生み、横領は横領を生んだ。「嘘に対する嘘の対策は、自然の護身方法であった」からである。」このようなモラルの荒廃を生んだ原因は、国家的な全体主義にありそうな気が僕はしている。しかも日本の場合は、国家の全体主義を支えるための中間集団での全体主義があった。ここでは、権力の側にいる人間が判断することが正しいとされるのであるから、非合理的な思考が支配し、合理的な思考はかえって否定される。「無理が通れば道理が引っ込む」のである。精神主義がまだ生き残っているのは、日本社会には中間集団全体主義がまだ残っているからだ。日本社会のいじめの根本には、この中間集団全体主義があるからだと主張したのは、社会学者の内藤朝雄さんだった。小熊英二さんも、戦争体験としての、中間集団主義によるいじめの例をいくつか紹介している。今度は、これを詳しく見て行きたいと思う。全体主義に関連していえば、フセインが独裁していたイラクや、金正日が独裁している朝鮮民主主義人民共和国も全体主義だといわれている。この全体主義国家にも、非合理的な思考と極端な精神主義が蔓延していたら、この両方の特徴は、全体主義に付属するものと考えてもいいものだろうと思う。朝鮮民主主義人民共和国にはまだ情報が入ってこない分からないところがたくさんあるが、イラクについては、これから多くの情報がもたらされる可能性がある。全体主義と非合理的思考・精神主義の問題など、その関連性を考える材料が得られたら興味深いものになると思う。
2004.07.26
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小熊英二さんの「<民主>と<愛国>」は、間違った戦後史認識を改めるために書いたと小熊さん自身が語っている。戦後史認識で大事なものとして、小熊さんは、戦後思想の理解を中心に据えているが、それは「その背景となった戦争体験を知らずして、理解することは出来ない」とも語っている。そこで第1章は戦争体験について書いている。その書かれている戦争体験は、戦争中のモラルについてのものを中心にしている。これは、戦争中のモラルの崩壊というものが、ある意味では敗戦をもたらしたと解釈できることから、その反省から戦後思想がスタートしたと考えることが出来る。そういう意味で、モラルの問題は戦後思想に対して大きな影響を与えたと小熊さんは判断している。僕も、小熊さんが語るこのモラルの荒廃というものが、やはり戦争に負けた原因として大きなものだと感じる。これは、モラルさえ保つことが出来れば勝っていたかもしれないという後悔を感じているのではない。侵略戦争であった日本の戦争は結果的に負けて良かったのだと思う。むしろ、侵略戦争であったが故にモラルの崩壊が必然的に伴い、それが戦略のデタラメさに結びつき、戦闘に勝てない条件を作り上げて敗戦に結びついたと、合理的に理解できるような気がするのだ。これは、アメリカのイラク戦争にも通じるものではないかと思っている。イラク戦争もアメリカの侵略であることは間違いがない。しかも、アメリカ軍にモラルの荒廃がもたらされているのも日本の場合と同じだ。武器においては圧倒的にアメリカ軍が勝っているのに、未だにアメリカは戦争に勝利していないように見える。モラルの崩壊は、やはり戦争へのミスを誘発し、必然的に勝てない戦争になっていくのではないだろうか。日本とアメリカの戦争は、武器においても圧倒的に劣っていた日本が負けたのは必然的だったが、もしイラク戦争で、逆に圧倒的に武器において勝るアメリカが、戦闘においては勝ったが「戦争そのものには勝てなかった」という結果に終わると、モラルの崩壊した国は戦争に勝てないということがかなり法則的なものになるかもしれない。さて、小熊さんの記述で、モラルの崩壊を具体的に見ていくと次のようなものがあげられている。まずは、セクショナリズムに毒されていた軍隊内の無責任からくるモラルについて書いている。当時の大本営海軍部の参謀の回想を引用しよう。「……事務当局は二手に分かれて、情勢判断を起草する組と、政策事項を起草する組とになっていた。本当なら、情勢判断に基づいて政策が生まれるはずなのだが、両者並行して起草するから、情勢判断が決まらないうちに、政策が決定してしまった。いや、本当は、「こんな決定をしなければならないから、御前会議を開いて貰おう。御前会議を開くとなれば、情勢判断を提出せねばならぬ」という具合であった。結論が先で、判断は後であった。」このようなことをしていれば、現状を正しく認識することが出来なくなり、判断の間違いがたくさん出てくるだろう。日本軍の戦闘においては、無駄死にとも言えることがたくさんあったのではないかと想像させる。軍隊内の問題として次のような指摘もある。「そもそも陸海軍の上層部では、中央勤務が出世コースであり、前線行きは忌避されがちであった。そのため中央には、前線の実情を知らないものが多かった。戦局の厳しさを認識して意見を具申しようとした大本営海軍部の参謀は、同僚からこう制止されたという。「こんなことを言い出したら、貴様は明日にでもニューギニアかソロモンの最前線に転勤だ。戦死するのもいいだろうが、闇から闇に葬られることになるんだ。」判断する能力のないものが判断をする位置にいるという無責任が日本軍にはあったのだ。最初から、判断の間違いが予想される構造であるのに、それが改善されるようにはなっていない。判断を間違えても、その責任を問われないような構造にもなっているのだ。イラク戦争においてアメリカを支持することの間違いを提言した天木直人さんが、その提言の正しさ故に外務省を去ることになったということは、この無責任構造はまだ日本社会に温存されているのだなと思う。もっとも判断にふさわしい人間の判断を信頼せず、何も知らない判断能力のない人間の判断が、単に上の地位にあるというだけでとられてしまう。しかも、その判断が間違いであることが明らかになっても責任をとらないシステムができあがってしまっている。無責任のシステムの例としては、小泉首相が、その隊員の手記に感動していた特攻戦法についての指摘もある。特攻に行かされる人間が、死を前にしたぎりぎりの精神状態で考え抜いたことに対しては、たとえ特攻に反対するものでも、その心情に感動をすることがあるかもしれない。しかし、特攻戦法の基本にある無責任さを知ってしまったら、それがいかにむごい感動なのかというのも感じるのではないだろうか。特攻戦法については、その戦果が期待できないことがすでに軍上層部では予測されていたらしい。小熊さんに寄れば、「海軍令部の予測では、8機から10機が同時に最良の条件で命中しなければ空母や戦艦は撃沈できないこと、出撃する特攻機のうち一割程度が敵の位置に到着できるだけであろうことなどが、沖縄戦の時点ですでに算定されていた。そのためもあって、特攻で沈められた大型艦船は存在しなかった。」そうだ。特攻戦法は、実際に戦果を挙げるために考えられたというよりも、これだけのことをしていると宣伝のために使われた可能性が高かったようだ。フィリピン戦線にいたある陸軍パイロットの回想には次のようにあるらしい。「当時の高級参謀たちは、上からの命令に何とか帳尻を合わせることに必死であった。つまり、特攻を出すことによって、架空の戦果を作り出すわけである。 しかも、いったん特攻に出した人間が生きていることは、彼らにとって、はなはだまずい。せっかく作り上げた架空の戦果は台無しになるし、特選を申請したのも嘘になる。これは何が何でも本人に死んでもらわねば面子が立たない。」特攻戦術は、航空隊だけでなく、1945年4月、戦艦「大和」と護衛艦が沖縄への「水上特攻」に向かっていったそうだ。このときの状況を小熊さんは次のように書いている。「ほとんど何らの戦果もなく米軍機に沈められた。この出撃に成算がないことは海軍中央も承知であり、しかも出撃の数日前までは、そうした計画自体が存在しなかったといわれる。」ここでもやはり無責任の構造が現れている。これは、「もと連合艦隊参謀長の日記によると、「大和」出撃のきっかけは、海軍の軍令部総長が、沖縄への特攻作戦計画を天皇に上奏したことだった。その際、「航空部隊だけの総攻撃なるや」と天皇の質問があり、総長がその場で「全兵力を使用いたすと奉答」したのである。」と書かれている。正しい現状分析から作戦を立てているのではないから、質問されたことに正しく答えることが出来ず、口から出任せで作戦が行われてしまうような無責任構造が生じてしまうのだろう。この作戦で4000名近くが死んだという。「しかし、そうした命令を下した司令官や参謀が、作戦失敗の責任を問われることはなかった」そうだ。失敗に対して責任をとらないのだから、失敗を防げるわけがない。このようにして、無責任というモラルの低下が、敗戦までの悲惨な道を準備していったのだなということがよく分かる。このような軍隊内部の無責任体制は、映画や小説ではよく描かれているかもしれない。五味川順平の「人間の条件」や「戦争と人間」にはそのようなものを感じる。おそらく、これが本当の姿に近いのだろうと思うけれど、映画や小説はフィクションであるから、これを本当だとそのまま受け取るわけにはいかない。しかし、歴史教育では、このあたりのことはほとんど教えられないのではないだろうか。僕も、このようなことは、学校で教えられたのではなく、自分で調べて勉強したものだ。軍隊のモラルの低下は、そもそも無謀な戦争を始めたことの原因にもつながっているようだ。そして、戦争の悲惨さを増加させたのも、このモラルの低下の影響が大きい。そういう意味では、多くの日本人が学ぶ価値のある歴史だと僕は思うのだけれど、果たしてどれだけの人が、このようなことを知っているだろうか。小熊さんは、モラルについては、この後に庶民の生活の間でのモラルの崩壊も語っている。戦争中は、軍隊のモラルの低下を始めとして、あらゆるところでモラルが崩壊していたのだなと思う。それは、きっとあの戦争が侵略戦争であったことが、モラルの崩壊というものに象徴的に現れているのだろうと僕は思う。この次は、その庶民の間のモラルについて見ていきたいと思う。
2004.07.25
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田中宇氏がそのメールマガジンで「キリスト教原理主義」について書いていたので、これをちょっと調べてみた。まずは、「「宗教国家」アメリカは原理主義を克服できるか?」という森孝一(アメリカ宗教史)さんという人の文章を見つけた。これは、アメリカを宗教国家であると指摘し、その状況の下での「キリスト教原理主義」の問題を教えてくれている。なかなか興味深いものなので、注目したいところを引用しながら考えてみたい。「「唯一の超大国」であるアメリカが、「宗教国家」であるという現実については、日本においてはほとんど認識されていない」と森さんは語っている。僕も、アメリカに対するイメージとしては、先進民主主義国家であり、ビジネスライクな国であり、その国民は合理的な考え方をする人々というイメージを持っていた。いったいどのような面が「宗教国家」であると言えるのだろうか。「「9.11」直後から、アメリカ社会には星条旗が氾濫した。未曾有の国家的危機に直面して、アメリカ国民は星条旗のもとに団結する必要性を直感したのである。 星条旗とともに「9.11」の直後からアメリカ社会に急速に広がったものがあった。それが”God Bless America”(神よ、アメリカを祝福したまえ)という言葉と、同名の愛国歌であった。作曲者は「ホワイト・クリスマス」を作曲したアービン・ベーリンである。一九三八年に作曲されたこの歌は、公式の国歌以上にアメリカ国民に親しまれ、第二の国歌ともいうべきものとなっている。」と森さんは報告している。この歌の歌詞は、日本語にすると次のようになるらしい。「神よ、アメリカを祝福したまえ 私の愛するこの大地を。 アメリカのかたわらに立ち、アメリカを導きたまえ 上よりの光によって、闇夜のなかにあっても。 連なる山々から大平原を抜けて、大海原にいたるまで 神よ、アメリカを祝福したまえ、私の愛するこの故国を、 神よ、アメリカを祝福したまえ、私の愛するこの故国を。」これは、単に歌の問題であるという解釈も出来るかもしれない。これだけで宗教国家であると判断するのは無理があるとも言えるかもしれない。しかし、これが宗教国家としての一つの象徴的な現れだととらえたら、元々宗教に大きなウェイトがあったから、このような歌が人々にすぐ受け入れられるようになったとも言える。そのような素地としての宗教があったのではないかと予想されるのである。日本でも、君が代が受け入れられるような素地があれば、そこには一種の宗教的な雰囲気があると言えるだろう。ところが「残念?」かもしれないが、学校行事において君が代を熱心に歌う人は少ない。そういう意味では、日本においてはある種の宗教が人々を支配しているという傾向は見られないのかもしれない。しかし、アメリカにおいては、上記の歌が、かなりの熱心さを持って人々に歌われているようなのだ。これは、宗教的気分の象徴的現れだと解釈できるのかもしれない。この気分を表すもう一つの事実として、森さんは911後の最初の日曜日に訪れた教会での礼拝する人々の多さについて次のように語っている。「これは何も「グライド・メモリアル教会」だけのことではなかった。ギャラップ調査機関の世論調査によれば、それまで四〇パーセントであった礼拝出席率が、「9.11」直後には四七パーセントにまで上昇している。1 「あなたは先週、礼拝に出席しましたか」という質問項目による礼拝出席率についての世論調査結果は、アメリカの場合、第二次世界大戦終了以降、ほぼ四〇パーセントを維持している。これはかつてキリスト教国であったヨーロッパ諸国が一〇パーセント前後であることと比較すると、きわめて特徴的な数字である。 昨年12月に行われたギャラップの世論調査によれば、「あなたの生活にとって、宗教はどの程度重要か」という質問に対して、アメリカ人の八六パーセントが「非常に重要」あるいは「重要」と答えている。ギャラップが同じ時期にイスラーム圏の九ヶ国で一万人を対象に行った同じ内容の世論調査では、「重要」と答えた者は七二パーセントであった。2イスラーム諸国よりもアメリカの方が、より宗教的であるということを示す世論調査として興味深い。」アメリカという国は、想像以上に、宗教が生活の中に浸透している国だったのではないかと、これを読むと思える。アメリカは近代民主主義国家であるから、形としては政教分離をとっているが、森さんは、アメリカにおける宗教的気分に関しては、「見えざる国教」というような言葉でそれを表現している。「アメリカには法的には国教は存在しない。しかし現実には「見えざる国教」が存在し、国教と同じ機能を果たしているのである。すなわち、アメリカにおける宗教の特徴は、憲法修正第一条によって政教分離と信教の自由を法的に保障し、多様な宗教のあり方と宗教を信じない自由を最大限に保障しながら、同時に、「見えざる国教」によって多様なアメリカを統合するというものであった。」アメリカでは特定の宗教組織が政治に関わったり、公的な利益を得たりすることは制限されているが、特定の具体的な宗教ではない、宗教的気分が一般に共有されていると思われているものに対しては、それが人々にある種の影響力を持っていても許容されているようだ。このような宗教的環境のもとでの「原理主義」の存在がどのようにアメリカの政治にも影響を与えるのだろうか。森さんは、「「原理主義とは何か」を定義することは、そう簡単なことではない。本来は、キリスト教理解の一つの立場であり、神学的概念であったが、今日における意味は、政治的意味合いが強い。」と語りながら、森さんの定義を次のように提出している。「原理主義者は、自分たちは真理を知っていると考える。その真理は単純であり、聖書やクルアーン(コーラン)やグルの言葉の中に明白に示されている。すなわち、正典は解釈されることなく、文字通り直解的に信じるべきものである。このように原理主義者は、信仰理解において保守的な人びとである。しかし原理主義者は、ただ個人的レベルでの信仰理解において保守的であるだけでなく、自分たちの保守的価値観を現実の政治において実現しようとする人びとである。「政治参加」が原理主義者と単なる保守的信仰者を区別するものである。政治への参加の仕方は、テロからアメリカの宗教右派のようなロビー活動まで、さまざまであろう。」この定義を見ると、「原理主義」というのは、日本における「カルト宗教」の持っている特徴に重なるような感じがする。怖さを感じるのは、「原理主義者は、ただ個人的レベルでの信仰理解において保守的であるだけでなく、自分たちの保守的価値観を現実の政治において実現しようとする人びとである」という指摘だ。「原理主義」は、単に個人の思想・信条の自由の範囲にとどまらず、政治的な力を得て、その宗教の信仰を持たない人間に対しても大きな影響力を持つということだ。森さんは、「原理主義」は誤りであるということも指摘している。「十戒の第一戒である「わたしをおいてほかに神があってはならない」は、ユダヤ教とキリスト教における、もっとも重要な教えである。「アッラーフのほかに神なし」はイスラームの根本的な信仰告白である。この二つの教えを、原理主義者は、そしてリベラル派はどのように理解するのだろうか。原理主義的な理解の仕方は明白である。自分たちの「神」のみが絶対であり、それ以外の神を信じるものは真理から逸脱しているという理解である。一方、リベラル派はこの教えをつぎのように理解する。「絶対なるもの」は「神」のみであり、その「神」を信じる宗教も、宗教理念も、国家も、国家理念も、すべては絶対的ではない。真理は原理主義者が考えるほど明白なものではなく、究極的には「終末」においてのみ明らかになるものである。この有限性への理解が、宗教と信仰者を謙遜にする。原理主義者の誤りは、「神」と自分たちの宗教を混同しているところにある。これが宗教の超越的あり方である。」この考え方に僕も賛成する。「原理主義」的な考え方は、独善的であり、自らの誤謬という可能性を全く考えていない。誤謬に対して鈍感なセンスは、それがまた誤謬に陥る可能性を高める。田中宇さんが、「キリストの再臨とアメリカの政治」という文章で警告した「キリスト教原理主義」の危うさも、森さんの指摘に通じるところがある。田中さんは、危うさをもっと具体的に展開している。聖書にある最後の審判までを、現実の中東情勢になぞらえて、それが自然にそのようなことが起こるのを待つのではなく、政治に働きかけて「キリストの再臨」を早めようとしているのが「キリスト教原理主義者」だと解釈している。田中さんは次のように語っている。「原理主義の立場をとるキリスト教徒は世界中にいるが、多くの信者は、キリストの再臨を待ちこがれているものの、自分たちの方から国際政治を動かして最終戦争の状態を作ろうとはしていない。その意味でアメリカのキリスト教原理主義は少数派であり、アメリカ的な能動的な価値観に基づいた特殊な存在である。大昔から自然に形成された伝統のある社会に住む日本人など多くの国の人々にとって、歴史は「自然に起きたこと」の連続体であるが、近代になって建国されたアメリカでは「歴史は自分たちの行動力で作るもの」という考え方が強い。 キリスト教では、イエスの再臨がいつ起きるかは人間が事前に知ることができないとされているが、そうした受け身の状態に満足できないアメリカのキリスト教徒の中には、キリスト教徒の全員が幸せになれるイエス再臨後の至福の千年間を早く実現したいがために「聖書の記述と同じような出来事を起こし、現実と聖書とをシンクロナイズ(同調)させれば、キリストが再臨するに違いない」と考える人々がいる。 」カルト宗教が危険なものであるということは、日本におけるオウム真理教の行動などを考えると、よく理解できる。そのカルト宗教とほとんど同じような行動をするのではないかという恐れのある「キリスト教原理主義」は、同じように危険を感じるものだ。しかも、それが唯一の軍事超大国アメリカで強い影響力を持っているとしたら、その恐ろしさは倍加するような感じがする。この恐れに対して、それを回避する可能性として、田中さんは「キリスト教原理主義」に内在する矛盾をあげている。「キリスト教原理主義は、イスラエルの拡大を支援しているが、それはイスラエルとイスラム教徒との戦いが激化してキリストの再臨につながるからであり、キリストが再臨したらユダヤ教徒はキリスト教に改宗するか、異教徒として焼き殺される群衆の中に入れられて「用済み」になる。これに対してイスラエル人の目標はイスラエル国家の生き残りであり、この点で、両者の同盟関係は矛盾をはらんでいる。」キリスト教原理主義がイスラエルを支援するのは、それが「キリストの再臨」をもたらすことを早める限りでの支援だと解釈している。つまり、キリスト教原理主義者にとっては、イスラエルが最後には破滅することを願って支援するとも言えるのだと思う。この矛盾が、どこかで歯止めになる可能性があるかもしれない。長かったので、続きをコメントの方に移す。
2004.07.24
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「<民主>と<愛国>」を書いた小熊英二氏のページに、「「小熊英二さん『〈民主〉と〈愛国〉』を語る(上) 」という文章がある。その中に、表題にあるような戦後史認識の間違いを指摘する文章がある。戦争を論じる際に、「侵略戦争ではなかった」というような戦争そのものに対する間違った認識が、保守政治家から語られることがある。これは、「侵略戦争ではないと考えられる一面もあった」と遠慮がちにいえばまだ許されるのだろうが、本質としての「侵略性」を否定するところに認識の間違いがあると思う。しかし戦争の認識ではなく、戦後認識の間違いを指摘した人には出会わなかった。僕は何年か前に「新しい歴史教科書を作る会」の教科書を批判し、その戦争に対する認識の根本的間違いがどこにあるかというのを考えたことがあったけれど、小熊さんは、戦後史の方にスポットを当ててその批判もしている。これはとても新鮮さを感じた見方だった。小熊さんは、ここで次のように語っている。「しかし当時の私の知っている範囲から見ても、議論の前提になっている「戦後」の認識が間違いだらけだということが、はっきり分かった。例えば小林よしのりさんの『戦争論』は、戦争に対する無知ばかりでなく、戦後史に対する無知に基づいて書かれています。 ところが小林さんや「つくる会」を批判するにあたって、戦争の歴史認識が誤っているという話は多かったけれど、戦後の認識が誤っているという意見は非常に少なかった。つまり、小林さんや「つくる会」を批判する側も、戦後認識があやふやだということです。そこで戦後について、きちんと押さえておかなければいけないなと思った。」「作る会」の基本姿勢は、歴史は「事実」を記述したものではなくて「物語」だというものがあるので、自分たちに都合のいい一面的な「事実」だけを拾い出しているという特徴は当時の批判にもたくさんあった。しかし、これはいくら批判しても、歴史とはそういうものだと認識している相手には、批判そのものの意味が届かない。解釈というものは自由だから、その自由に解釈したものが歴史だといわれてしまえば、もう議論することは出来なくなる。だから、「作る会」に対する批判は、その主張をしている「作る会」の人々に対して語っているのではなく、それを見ている人々に向けて批判を届けているのだと僕は感じていた。そして、その批判は多くの人々の共感を呼び、「作る会」の教科書の採択に反対する世論というものがかなり高まった。保守的な勢力は、教育委員会を牛耳って採択の方向を目指したようだが、これが危ういところで阻止できたというのが、以前の採択の時だったように思う。ここで小熊さんが語っている戦後史の間違いというのは、歴史を物語だと見る観点からの指摘ではない。物語だと見るのなら、そもそも間違いという認識が生まれない。物語は、フィクションなのであるから。小熊さんが語る間違いは、歴史を事実の総合から判断して、そこに本質的な意味を読みとる解釈の妥当性を考えた上での間違いの指摘だろうと思う。僕は、まだ具体的に指摘できるまで「<民主>と<愛国>」を読み込んでいないけれど、これと「作る会」の主張を教科書から判断して、小熊さんのこの指摘をもっとよく考えてみたいと思う。彼らは、どの部分をどのように間違えているのか、を探してみたい。僕は、「作る会」の持っている基本的な考え方の「歴史は物語である」ということに批判的なのだが、これに賛同する人々も多くいるだろうと思う。小熊さんの次の指摘も的確なものだと感じるからだ。「それからもう一つ、私は小林よしのりの『戦争論』を読んで、共感はしなかったけれど、「これは売れるだろうな」と思った。記述は間違いだらけだけど、今の時代の気分というか、現代社会に対する漠然とした不満をつかまえていると思ったからです。 たとえば『戦争論』の冒頭は、渋谷の街頭でサラリーマンがぼんやりした顔で歩き、女子高生が座りこんでいる絵が書かれて、「平和だ…。あちこちがただれてくるような平和さだ」「家族はバラバラ、離婚率は急上昇、援助交際という名でごまかす少女売春、中学生はキレる流行に乗ってナイフで刺しまくり」などと書かれている。そして「戦後の日本」は、アメリカに影響された「戦後民主主義」のもとでミーイズムと利己主義が蔓延し、モラルが崩壊してしまった時代であるとされ、それに対照させて「人びとが公に尽くしていた時代」としての戦争や特攻隊が美化されているわけです。」現実というものが、自分の理想とする姿と大きく乖離していて、不満がたくさんあるときに、これこそが理想の姿だというものを見ることが出来れば、不満を抱いている人間はそれに飛びつきたくなるだろう。しかも、過去の世界であれば、同じような矛盾をはらんでいたとしてもそれを無視して理想化することも出来る。それが歴史なのだといわれて、気分的に受け入れやすいものになっていたら、それに共感する人もいるだろう。小熊さんもそうだと思うが、僕は現実を正しく認識したいと思っている。現実にたとえ醜い面があろうとも、その醜さを現実の姿として受け入れることが正しい態度だと思っている。そして、なぜ醜い姿をさらしているのかを合理的に理解し、その醜さを合理的に改善していく道を探りたいと思うものだ。そこから眼を逸らして、醜さの根本原因を取り除くのではなく、醜さが表に出てこないように隠してしまうことに疑問を感じてしまう。日本のかつての戦争が侵略戦争であったと正しく認識し、その原因を深く考えることで、二度と侵略戦争を起こさないようにすることが、現実への正しい対処だと思う。侵略戦争であると認識することが、かつての日本人への侮辱だとするようなメンタリティは持っていない。むしろ合理的に理解することで、戦争を避けられなかった理由というものも理解できるし、今ならその避けられなかった理由も克服する道を見つけることが出来るだろうと、過去という歴史を教訓にすることも出来ると思っている。侵略戦争だと正しく認識することは、過去への侮辱ではなく、過去を正しく受け止めることなのだと思っている。現実を正しく認識することを恐れる人間が、物語としての歴史にすがりつき、過去を賛美して気分だけを慰めるのではないかと僕は感じる。今の問題は、今の対処の仕方をよく考えて解決するべきなんだと思う。過去を賛美して気分だけ良くなっても、今の問題は解決しない。問題は先送りになるだけだ。「作る会」の歴史教科書は、そういう気分の問題は解決してくれるかもしれないが、本当の問題を解決できないから多くの人の賛同を得ることが出来なかったのだろうと思う。このインタビューで小熊さんは黒澤映画について語っているが、この視点もたいへん面白いものだと感じる。次のような文章が見える。「最近の映画とは、出演者の顔が違う。ちょっと曖昧な記憶なんですが、80年頃に映画監督の浦山桐郎だったと思いますが、「黒澤明さんはいい時代に映画をつくった。『七人の侍』では村人の脇役にいたるまで、みんなすごい顔をしている。もうあんな顔をした人間を集めることはできない」と言っていました。 たしかに当時の日本には、戦争で殺人をしたことがある人、自分が殺されそうになった人、飢えや犯罪を経験した人、人間がそばで死ぬのを経験した人などがたくさんいた。しかも、まだ記憶が生々しいわけです。そういう人間の顔を集めて映画をとれば、それだけである迫力は出るでしょう。」「そういうことを念頭において、たとえば『仁義なき戦い』とかも見てみたんですが、ダメでしたね。73年の映画ですから、顔が全然違うのです。敗戦直後の焼け跡闇市を描いていても、雰囲気が出てこない。 それで『七人の侍』のあと、その映画館の黒澤特集を一通りみてみました。それで感じたのは、『七人の侍』に限らず、黒澤というのはまさに「戦後」の監督だったということです。私が『〈民主〉と〈愛国〉』で述べた、「第一の戦後」にあたる一九四五年から五四年までが、黒澤映画の一番面白い時期です。そのあと、原水爆問題を描いた『生きものの記録』が55年に公開されるわけですが、どこか歯車がずれはじめている。そのあとの『隠し砦の三悪人』や『用心棒』などは、映画としての完成度は高いのですが、もう時代とシンクロしているようには思えない。そして65年の『赤ひげ』を最後に、そのあとは「絵巻物語り」ですね。ものすごい大作なんだけれど、どこか空虚な感じになっていく。これはもう、戦後思想がたどった軌跡そのものといってもよいと感じました。」小熊さんは、敗戦直後の気分を象徴するものとして黒澤映画をとらえている。そして、敗戦直後のあの時代だったからこそ、あれだけの映画が撮れたのではないかという解釈を展開している。黒澤監督は、映画監督として非常にすぐれていた人であることは確かだが、それが、あの戦後の一時期に活躍したということで、日本映画史に燦然と輝く巨人になったのではないかという解釈だろうと僕は思う。「仁義なき戦い」は確か深作欣二監督だったと思うが、黒澤監督と比べて、監督としての力量にそれほどの差はないのではないかと思う。むしろ、時代の差が作品の差となって現れているのではないだろうか。小熊さんは、そのように解釈しているように感じる。「時代が英雄を作る」という言葉があるが、その時代を理解するために歴史というものがあるのではないだろうか。時代を正しく理解できる歴史こそが価値のある歴史だと思う。英雄がなぜ英雄として存在できたのか、それを合理的に理解させてくれる歴史こそが、多くの人にとって価値のある歴史ではないだろうか。単に愛国的気分を満足させてくれる物語を歴史ととらえるのは、認識としては浅はかなのではないだろうか。「<民主>と<愛国>」はとても刺激的な本である。何度か図書館で借りたのだが、なかなか全部読み切れないので思い切って購入してしまった。900ページ以上もある本で、本体だけで6300円もする本だったが、深く読み込みたいと思ったので購入した。これだけ高い本を買ったのは、学生の頃に専門書を買ったとき以来かな。この本を読み込んで、戦後史の理解を踏まえた上で、もう一度「作る会」の教科書を検討してみようかなと思う。
2004.07.23
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田中宇さんが、「キリストの再臨とアメリカの政治」という新しい文章を書いている。これは、「「華氏911」とイスラエル 」の続きの文章であると断っている。しかし、そこには「華氏911」に対する言及はほとんどない。つまり、前の文章もそうだったが、この文章も、「華氏911」という映画に対する批評なんかではないのである。ましてや、映画の価値を落とすような批判をしているのではない。あくまでも、ジャーナリストの目から映画の持っている位置づけというものを考えたものだと僕は思う。ジャーナリストとしての田中さんから見ると、イラク戦争を理解するのに、ブッシュ大統領とサウジアラビアの関係だけを取り上げたのでは、正しい現状認識にならないと感じたのだと思う。ネオコンとイスラエルの関係に踏み込んでこそ本質が見えるというのがジャーナリストの目なんだろうと思う。だから、「華氏911」で<イラク戦争の問題は、ブッシュとサウジアラビアの関係こそが本質だ>と思い込むと、理解は半分だけにとどまると警告したかったのだろう。そこに描かれていないイスラエルについて注意をしなければならないと言いたかったのだろう。これは、「華氏911」と映画の価値を落とすことではないと、僕なんかは思うんだけれど、マイケル・ムーアのファンの一部は、これが映画の評価を落とすと受け取ったのではないだろうか。確かに、この指摘は、マイケル・ムーアがジャーナリストとしてはその報告に欠けたところがあるという指摘になっている。しかし、マイケル・ムーアをジャーナリストではないと認識すれば、ジャーナリストとしては欠けているところが、他の視点で見ればすぐれているところにも見えてくるのではないだろうか。僕は、マイケル・ムーアの本質は、運動家としての側面にあるんじゃないかと思う。「ボウリング・フォー・コロンバイン」を見た限りでは、あれは、単に事実を知らせて、そこから社会の問題をあぶり出させてみせるというジャーナリスト的な手法ではないような感じもする。ムーアは、暴力の根元には銃を持つことの自由が存在する、という認識を明確に持っているように僕は感じた。つまり、ムーアの立場は、銃の保有の自由に対する反対であり、銃規制に対する賛成の立場ではないかと思った。普通ジャーナリスト的なドキュメンタリーなら、問題の所在を知らせるための事実を映像にするだろう。しかし、ムーアは、映像にしながら、銃規制につながるような成果をそこで作り上げているような感じがする。ある大手スーパーでは商品として銃弾を売っていたが、高校生たちの運動で、それを商品としては置かせないという結果をもたらせたことを映画は報告していた。しかし、その映像は、高校生の運動の結果としてそのような成果があったというよりも、ムーアが撮影していたおかげで、それがスーパーへのプレッシャーになり、ムーアの撮影が高校生の運動を後押しして、それだけの成果をもたらしたというふうに僕は感じた。普通なら、圧倒的多数の民衆の声が運動に勝利をもたらすと考えるのだが、このムーアの映像では、ほんの数人とムーアだけでこれだけの成果を上げているように見える。ムーアの持っているメディア的な圧力が運動において大きな力を持っているのだということが分かる。スーパーとしては、高校生たちの働きかけに対して、その対応によってはものすごいイメージダウンになるような宣伝になることを恐れたのだろう。マイケル・ムーアは、新しいタイプの運動家だという感じが僕にはしている。そして同時にすぐれたドキュメンタリー作家だったので、それを有効に運動に活用しているように見える。「華氏911」も、ジャーナリストが作ったドキュメンタリーだと受け取ると、田中さんが指摘するような欠けた部分があることを感じてしまうが、運動家が作ったものだと受け取ると、運動としては有効に働いていると言えるのではないだろうか。ムーアの目的は<ブッシュ再選阻止>だと思う。一連の著書もその目的で書かれていた。この運動の目的には、「華氏911」はたいへん有効に働いていると思う。映画を潰そうとする動きがかえって宣伝にもなっているなんていうのは、運動としてはかなりうまいやり方だと思う。ジャーナリスト的には、イスラエルとネオコンの批判も必要だろうが、運動として、ブッシュとともにこれらも敵に回した場合、あまりにも敵の力が強すぎて、運動としては力に余る敵を相手にしすぎるかもしれない。運動というものが勝利を目指すのなら、まずは勝てる相手に力を集中する必要もあるだろう。今はブッシュを倒せる可能性の方が高くなったのだから、現段階ではある程度イスラエルやネオコンの勢力と妥協しても、目的であるブッシュの方に力を集中するというのは、運動としては正しい<政治的判断>だと思う。運動には<政治的判断>が必要だと思う。よく「大事だからやらなければならない」とか、正論をもとに運動を進めようとする者がいるけれど、これは、<運動は勝てなくても良いから、自分の良心を満足させるためにやるのだ>と主張しているように僕には見える。僕は、これは運動論としては間違いだと思う。運動は、勝てる問題に力を集中して、勝つことを目的にしなければならないと思う。勝てない相手に対しては、<死んだふり>をして、勝てる条件が作られるのを待つことが運動論的には正しいと思う。勝つためには政治的判断も必要だ。そして、勝てなかったときは、何が勝てない原因だったかを反省することも必要だろう。日本の古いタイプの運動は、勝てなくても、これは大事だからやらなければならないという悲壮感で行っているものが多い。僕は、悲壮感で運動をするのは嫌いだ。マイケル・ムーアに好感を抱くのは、彼の運動には悲壮感がないということだろう。勝てる条件のある運動には勝っているという、その計算の正しさに彼の優秀さを感じる。マイケル・ムーアは、自分の立場を前面に押し出して表現をしているのであるから、彼はジャーナリストではない。ジャーナリストは、常に第三者的な立場で事実に対処しなければならないと僕は思うからだ。田中宇さんは、ジャーナリストだと思う。ジャーナリストは、あえて立場をなくして表現をしているのだと思う。客観性というものを守るために。田中宇さんは、最新の記事で、人口比でいえば2%に過ぎないアメリカのユダヤ系の人々が、どうしてこれほどまでにアメリカの政治に影響力を持っているのかを解明しようと事実を集めている。イラク戦争を、ブッシュの失敗として糾弾をするということが目的ではない。それに影響を与えた、イスラエル勢力とネオコンが、なぜそれほどまでの影響力を持ち、彼らの真の目的がどこにあるか、ということがジャーナリストとしての関心なのである。田中さんは、それに対して善悪というような道徳的な価値評価をしていない。これもジャーナリストとしての姿勢の表れだろう。問題は、価値判断をすることではなく、現状を合理的・理性的に理解することなのである。田中さんは、イスラエルやユダヤ系という特徴そのものがアメリカの政治を動かしているというよりも、アメリカにおけるキリスト教原理主義の考え方が、イスラエルの利益と一致する部分があるために、一見イスラエルに有利なようにアメリカの政治が動いているように見えるだけではないかという推論を展開している。アメリカにおいては、キリスト教原理主義は、ある程度の多数派を形成していて、それが国政に大きな影響を与えているという理解をしている。田中さんのこの解釈(仮説)に対しては、僕はまだ全面的に賛成するだけの材料を持っていないので、一つの仮説としては面白いなと感じる程度なのが今の時点での受け取り方だ。田中さんの文章をもっとよく読み込んで、他の事実をもっとよく知ってから、この解釈(仮説)をもう一度考えてみたいと思う。
2004.07.22
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現代社会は、テロの危険が日常的なものになり、理解不可能とも思える衝撃的な事件が起こり、予想もしていなかった天災にも襲われる(一部では人災ではないかという声もあるが)というように、「一寸先は闇」というような不安の時代であると言ってもいいだろう。何が起こるか分からないというのが不安のイメージだが、その分からないものに備えなければいけないということが、いっそう不安を高めるということになっている。この不安の時代を考える上でとてもいいヒントが宮台氏のBlogの「「相互監視社会」の到来が生み出す恐怖~公権力と市民、アウトローの関係性 」という文章の中にある。宮台氏は、社会に存在する漠然とした不安感の背景に、「〈社会〉が自分で問題を解決できるという「自信」を失っていることがある」ということを指摘している。そのため、かつてなら「凶悪事件など、〈社会〉が自ら解決できない例外的な場合にのみ〈国家〉が介入する、というあり方が基本」だったけれど、今はあらゆる場面での国家の介入を、むしろ国民の方が望むというあり方が出てきてしまっている。確かにテロなどを防ぐには、国家的な仕組みが必要だろう。しかしそれを警戒するために、国家の介入を許すというのは我々の自由を侵すことにならないだろうか。テロの対策のためには、一人一人が、どんな人間で、彼が危険がないかの情報を持たなければならないが、それを無制限に権力の側に許していいのだろうか。かなりの部分で我々のプライバシーが侵されることにも耐えなければならないとしたら、その不安の種をもう一度考えてみる必要があるのではないだろうか。犯罪を防ぐためということで、あらゆる場所に監視カメラを設置するように求められているという。宮台氏は、かつての日本社会では、小さな共同体がかなりの地域の問題を解決する力があったと語っている。しかし、今の日本ではもはやそのような地域共同体はなくなってしまったという。だから、我々に地域でのトラブルを解決する力がなくなっているので、監視カメラに頼ったり、それをもとに国家権力に守ってもらうという発想になってくるという。我々の問題を我々で解決できなくなったのだから、国家にその解決をゆだねるのはある意味では仕方のないことだとも解釈できる。しかし、これほどまでに、我々に解決能力がなくなったのは、日本的特徴というものもあるのかもしれない。宮台氏は、「近代社会は、本来、「〈国家〉とは怖いものだ」という認識を出発点としていたはずなのだ」と語っているが、日本人にはその感覚が薄いということも指摘している。「〈国家〉よりも、テロリストやアウトロー、外国人犯罪のほうが恐いらしい」というふうに見える。最近は、<プチ右翼>と呼ばれる人たちの中に、「国家は間違いをしない(国家は善意によって動く)」「(無条件に)国家は国民のために働く」という受け取り方をしている者もいるようだが、日本社会が西欧のような近代を通過しなかったために、「〈国家〉とは怖いものだ」という自覚がないのだろう。このようなメンタリティに対して、宮台氏は、「かくして日本人たちは、〈社会〉の問題を〈社会〉で解決する気概を失い、あれもこれも〈国家〉に依存したがる幼児的マインドに陥った。「何かというと先生に告げ口する弱虫小学生」のような存在に成り下がった。〈国家〉の威を借りて強がるだけの脆弱な虫けらどもが〈社会〉にあふれてきているのだ。」と喝破している。権力の中枢にいる小泉さんが、イラクで人質になった青年たちのバッシングにお墨付きをつけたとたんに、その声が一気に溢れてきた状況などを見ると、この宮台氏の言葉の正しさを感じる。近代社会に生きている人間のメンタリティを持っていれば、かえって政府の攻撃から個人を守ろうとする気持ちが浮かんでくるものだろうと僕なんかは思うのだが。国家と一体化する人間が出てくるのは、その方が不安を持たずにすむからだろうと思う。「長いものには巻かれろ」という言葉があるが、不安から逃れたくて、そうしたくなる人間が増えたということだろうか。かつてもそういう人間はいたが、かつてはそういう人間は軽蔑の対象だった。しかし、今は市民権を獲得したというか、強い(長い)アメリカに追随する(巻かれる)ことが必ずしも軽蔑の対象になっていない姿もあったりする。「長いものには巻かれろ」ということわざは、今は抵抗しても相手に勝つだけの力がないから、その力を蓄える間は、潰されないために面従腹背をするために、いわばネタ(あえてするウソ)として長い(強い)ものに巻かれているのだという使われ方をしたのではないだろうか。いつまでも巻かれる状況にいることがいいという意味での使われ方ではなかったと思う。それが今では、どんなに軽蔑されようとも、最強のアメリカに追随することが日本の幸せだと信じている人がいるのに驚かされる。人々の不安が高まると、「長いものには巻かれろ」という雰囲気はますます高まるかもしれない。その不安を高めるのに大きな影響を与えているのはマスコミだ。宮台氏も次のように指摘している。「こうした傾向を後押ししたのがマスコミだ。かつては「テロ」などと呼ばなかった対象まで、〈国家〉の役人が言うがままに、何もかも「テロ」だと称するようになった。何もかも「テロ」だと称することは、〈社会〉のほうが〈国家〉よりも恐いという印象を強める機能を果たす。時代の流れを呼んで役人どもはワザとそうしている。 かつてハイジャックはテロと呼ばれなかった。「海外旅行するときはテロやハイジャックには気を付けて下さい」という具合に、テロとハイジャックは別カテゴリーとして並列された。79年のダッカ空港事件も「テロリストがハイジャックをした」というふうに報道された。今ではハイジャック自体がテロだと呼ばれてしまう。 テロリズムやテロリストの「テロ」は「恐怖」を語源とする。この言葉は、クーデターと並んで何やら「国家転覆」の匂いがする。「犯罪」と呼ばず「テロ」と呼ぶことで、「〈社会〉が〈国家〉を脅かしている」「〈社会〉のほうが〈国家〉よりも恐い」といった印象が強められる。マスコミがこうした流れに加担している。」マスコミのあおる不安が世論に影響を与え、必要以上の支配する力を権力の側に与えている。この不安は、センセーショナルな事件を繰り返し報道することで、心理的な雰囲気として作り上げているようだ。宮台氏は、次のようにも指摘している。「青少年犯罪は減少傾向なのに、衝撃的事件を繰り返し報道し、「子供たちは恐ろしい」との不安が植え付けられる。かくして少年法重罰化や有害メディア規制の流れが作られた。 」このような不安の時代に、我々はどう対処していけばいいだろうか。マスコミの煽動に乗せられず、冷静に現状認識するためには何が必要だろうか。不安の原因は、それが分からないということにあることは確かだ。実際に恐いのは何なのかが具体的に指摘できるようになれば不安にはならない。テロが不安をかき立てるのは、それがいつどこで起きるかが全く分からないからだ。可能性だけが肥大していくことが不安を高める。犯罪の可能性にしても、最近のセンセーショナルなものは、いつどこで起きるか分からない犯罪だからそれに不安を感じるのだと思う。原因と結果が論理的につながっているものには我々は不安は感じない。それを防衛する可能性も見つけることが出来るからだ。どんなに気をつけていてもそれが防げないという感覚が一番不安を高める。不安を沈めるには、最終的には、現代社会というものを本当に深く理解するしかないのかという感じがする。自分に都合のいい面だけを見るのではなく、世界の多面を、多面として受け止め、その中から本質を表している象徴的な一面を嗅ぎ取る直感を養うことが不安の時代を生き抜く知恵になるのではないだろうか。宮台氏の文章は、その知恵をつかむヒントを与えてくれると、いつもそう感じている。
2004.07.21
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僕が宮台真司氏をすぐれていると感じているのは、宮台氏の現状認識の鋭さを感じるからだ。現在という時の社会がどんな状況にあるのかというのは、大変難しい解釈だ。社会というのは、それをそのまま見ることが出来ない。我々の目の前に現れるのはいつでも個別的な存在の姿だけである。しかし、社会というのは、その個別的なものを越えて、集団として一段高い視点から眺めないとその姿が見えてこない。今週の「マル激トーク・オン・デマンド」では、少年犯罪に詳しいジャーナリストの藤井誠二氏をゲストに迎えて語っている。マスコミの報道などを鵜呑みにしていると、現在は少年犯罪が増加して、少年が危険な時代であるというようなイメージが広がっているのではないだろうか。そして、その危険性を防衛するためには、少年犯罪に対して厳罰化をすることによって抑止する方向が正しいと思っている人が多くはないだろうか。このようなイメージは、現状認識が違ってくるとかなり違ってくる。宮台さんも藤井さんも、少年犯罪の質的変化は認めているが、単純な量的変化を押さえるという発想からの厳罰化には疑問を呈している。質的変化のもっとも象徴的な現象としては「人格の乖離」というものをあげている。日常的にはごく普通の少年・少女でありながら、ある場面では全く違う人格になってしまうという現象だ。ごく普通の優等生に近い少年・少女たちが、信じられないような凶悪犯罪を犯すというのを、精神的な疾患のように感じてしまいかねないが、このような現象を理解するのに「人格の乖離」という考えを用いている。かつての犯罪を犯す少年・少女たちは、その犯罪に至る原因が貧困であったり、虐待であったり、因果関係が理解しやすいものがあった。だから、それを防ぐためには、貧困の解消をしたり、虐待をされる環境を切り離したりと、対処する方法が考えられた。しかし、人格の乖離をする少年・少女たちは、普段は全く問題が現れないのであるから、対処の方法が見つからない。どんな場面で人格の乖離が起こるかという法則も分かっていない。人格の乖離が起こる場としては、ネット上のコミュニケーションがその場になるということは言われている。ネット上では匿名の存在になれるので、普段とは全く違う自分を演じることが出来る。しかも演じた自分が受け入れられるようなら、その演技から逃れられなくなることにもなるだろう。だから、ネットへの参加は危険だということで、子供をネットから遠ざけるという議論が起こることもある。しかし、遠ざけたからといって、その影響を排除できるものではない。遠ざけている間にイメージがふくらんでいき、初めて接することが出来るようになったら、かえってその影響が大きくなってしまい、人格の乖離現象がもっと深くなってしまうということも考えられる。宮台さんは、この問題に関しては、遠ざけるというような方法は不可能だと語っていた。だから、むしろ免疫性をつける方法を考えるべきではないかと語っていた。多少影響されたとしても、それが強くなりすぎないようにする方法を考える方が、より現実的だというわけだ。僕もそう思う。現在の社会では悪影響を与えるようなものは星の数ほどあるのではないかと思う。かつてなら、そんなものは少なかったし、子供たちはもっと面白い遊びがあってコミュニケーションを深めていた。だから放っておいても、社会生活に支障を来すほど育ち方がゆがむということが少なかったと思う。しかし、現代社会は、子供がまともに育つにはまことに誘惑されるものに満ちあふれている。「免疫性」という考え方は、現代社会で子供をまともに育てようと思ったら、最も重要な概念ではないかと僕は感じた。「マル激」では、現代社会の現状認識について「疑心暗鬼」という言葉も宮台さんが語っていた。何が本当なのかが、これほど信用できなくなった時代はかつてなかったのではないだろうか。以前に「ネタ(あえてするウソ)」と「ベタ(本当のこと)」について書いたことがあるが、これは、「ベタ」が存在するから「ネタ」として軽く受け流すことも出来るのだと思う。もし「ベタ」が存在しないと思ったら、すべてを「ネタ」として受け取らなければならなくなり、その「ウラ」は何があるかというのをいつも読まなければならなくなる。この「疑心暗鬼」は人間に強い孤立感を与えるだろう。親しくしてくれている人が、本当は何らかの利害関係があって、それに利用するために親しくしてくれているのであって、本当ではないと思ったら、誰も信用できる人がいなくなってしまう。このような「疑心暗鬼」の中で生きていると、うっかり「ベタ」の関係が作れたと思い込むと、今度はその「ベタ」がそうではないということを感じさせられたら、期待していた分だけ恨みが深くなる。以前だったら、なんでもない軋轢やケンカの一種に、殺したいほどの感情の高まりを感じてしまうのは、そのようなことが原因していないだろうか。免疫性を持っていたら、「人間は誤解をするものだ」とか「感情というのはいつでも安定しているものではない」というような単純な真理を受け入れることが出来る。また、このようなものだと社会を理解していくことが年をとる・成長するということでもあるだろう。インターネット上では、非常に攻撃性の強い人格をよく見ることがある。面と向かったら決して言えないようなことを書くことが出来るのがネットというものだ。そういうものがネットだという理解があると、たとえ自分の方に攻撃の矛先が向いても、かなりの免疫性を持つことが出来る。これが、ネチケットいうものがあるという幻想を抱いていたりすると、ケシカランという感情がわいてきて、免疫性が下がるということが起きたりするだろう。僕は、インターネットを始めたのは、早くも遅くもないが、ネチケットなどというものは、素人を脅すためにちょっと知識のあるヤツが使うだけの言葉だと思っている。そう思っていれば、この言葉に脅されそうになったときも免疫性を持つことが出来るだろう。ネチケットに限らず、人間の礼儀の基礎にあるのは深い教養であって、知識だけの人間には臨機応変に礼儀を考えることは出来ない。学生が面接の時に礼儀の知識を詰め込んでも、経験ある面接官から見れば、知識だけの人間か教養を基礎に持っている人間かはすぐに分かる。ネチケットの知識を振りかざす人間ほど、本来の教養に自信がないから知識を振りかざすのだろうと思う。教養は覚えるだけでは身に付かないからだ。免疫性のためには、表面的な知識ではなく、その本質を理解した深い知識が必要だ。物事を相対化して眺める広い視野というものも必要だ。何かの思い込みで、真理はこれしかないと思ってはいけない。どんなに真理だと思えるものも、時・所・条件によっていつでも誤謬に転化するという相対化が必要だと思う。そして、どのようなときに真理が誤謬に転化するかということを、実感としてつかむことによって、これしかないという真理によって追いつめられそうになったときに、相対化によって免疫性を持つことが出来るようになるのではないかと思う。僕は、仮説実験授業の提唱者である板倉聖宣さんが語った「どっちに転んでもシメタ」という言葉で、相対化と免疫性を持つようにしている。このところ書いた文章で、田中宇さんとマイケル・ムーア監督という、僕がすぐれていると感じている二人が、一見対立しているような状況を見てしまったことを書いた。これは、どちらも正しいのだと固く考えていたら、この対立を受け入れるのは難しくなるだろう。しかし、立場によって人間が語ることが違うのは当然だという一般論を受け入れていれば、二人の立場の違いを理解することで、この矛盾から生じる心の動揺を沈めることが出来る。免疫性を持つことが出来るのだ。むしろ、このことで、二人の立場というものが以前よりもいっそうよく分かったという感じがして、「どっちに転んでもシメタ」という感じがする。免疫性を持つには、広い視野と相対化が必要だ。そのためには、やっぱり弁証法が役に立つと思うな。僕が宮台さんが語ることが好きなのは、その言葉のあらゆる部分に弁証法を感じるからだろうなと思う。
2004.07.20
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田中宇さんの「『華氏911』は、タカ派やイスラエルが有利になるような配慮を持って制作された可能性が大きい」という言葉を批判した文章がある。「2004-07-16 「華氏911」がネオコンの陰謀?」というものだ。書いたのは町山智浩氏というカリフォルニア州オークランドで生活する映画評論家だ。この批判の観点にちょっと疑問があるので考えてみたい。町山氏は、「これはもう大変な国際的スクープ、スキャンダルです。ムーアが宿敵のはずのネオコンに実は協力していたなんて、まったくジェームズ・ボンドは実はKGBのスパイだったみたいな大事件です。これが本当なら、『華氏911』を観てムーアに共感した全世界の数百万人の人々はみんなだまされていたことになります。」というふうに書いているが、この解釈は、あまりに大げさなのではないかと感じる。「タカ派やイスラエルが有利になるような配慮を持って制作された」という指摘は、それほど驚くほどのことではないと思う。マイケル・ムーア監督にとっての宿敵はブッシュの方であって、ネオコンがブッシュを見放したのであれば、両者の利害は一致するのであるから、政治的に結びついたとしても不思議はない。問題は、マイケル・ムーアがジャーナリストであるということだ。ジャーナリストにとっては、政治的に行動するということは命取りになりかねない。政治的行動の選択は、そこからもたらされる利害関係ということが最重要なものになる。利害関係がひっくり返るのなら、前言をひっくり返すのは、政治的行動に関してはごく普通のことだ。しかし、ジャーナリストは、事実というものをさらけ出すことを仕事にしている。この事実の暴露が、利害によって恣意的に行われてしまえば、客観性というものに信頼が出来なくなる。どうせ、自分にとって都合のいいことしか出さないんだろうと思われてしまう。だから、ジャーナリストは、利害から離れた立場に立たないとならないわけだ。マイケル・ムーアが、ジャーナリストではなくて、ある種の運動家であるならば、政治的に行動するのは少しも不思議ではない。運動のために利益になると思えば政治的に行動するだろう。また、ジャーナリストではなく、ビジネスマンとしてのフィルムメーカーだとしたら、売るためには、結果的に政治的な行動と見られようと、売るために有利な行動を取るというのも理解できる。芸術家としてのドキュメンタリー作家だったとしたらどうだろうか。芸術家は、自分が作りたいものを作るのが理想ではあるが、政治的な影響が大きいものを作る場合は、弾圧を受けて潰される恐れがあるので、妥協しながら作るということもあるだろう。ネオコンと妥協する道を選べば、とりあえずブッシュを批判することは可能だということがあった場合は、「タカ派やイスラエルが有利になるような配慮を持って制作された」ということもあり得るだろう。いずれにしても、ジャーナリストでなければ、田中さんが語った可能性はいくらでも想像しうるもので、大げさに驚くほどのものではない。町山氏は、マイケル・ムーアの方を高く評価しているようなので、その評価を落とすような記述については仰天してしまうというのはよく分かるが、これほど大げさに驚いてみせるほどのものでもないだろうと僕は思う。ちょっと考えれば、このようなものを思いつく人は多いに違いない。「ムーアが「タカ派やイスラエルに有利になるよう」に『華氏911』を作ったとしながら、なんで彼がそんなことをしたのか、理由がどこにも書いてありません。それによってムーアがどういう利益を得るのか、その動機も書いてありません。もちろんネオコンと彼のコネクションを裏付ける事実も書いてありません。」という文章に関しては、単なる読み間違いではないかと思う。田中さんが語ったのは「可能性が大きい」ということに過ぎない。まだ可能性を語っているだけなのだから、町山氏がここで指摘するようなものが書かれていないとしても、それは「必要がない」から書かなかっただけだと僕は思う。田中さんが、「可能性」の話ではなくて、ハッキリと断言したのなら、その理由や動機、あるいは事実としての証拠を提出しなければならないだろう。しかし、田中さんはまだ断言をしていない。むしろ、「可能性」を語っただけでこれだけの過剰反応をする方が僕には驚きだ。町山氏は、「それなのに田中氏は、ムーアがイスラエルとネオコンの利益になるように「華氏911」を作ったという「陰謀説」を展開しているのです。」とも語っているが、これは文章読解能力の問題を感じる判断だ。田中さんは、「可能性」を語っただけなのに、それが「陰謀説」を主張しているように受け取るというのは、やはり過剰反応だ。正しく文章の意味を読みとっていない。町山氏は、「田中氏は、おそらく『華氏911』を見てないと思います。」と憶測でものを語っているが、論理的な批判をするときは、憶測には気をつけなければならない。それは、この憶測を根拠にして推論するようなことをしていると、憶測が間違った場合は、推論そのものの信頼性もなくなるからだ。憶測をもとにするのではない推論だったらいいが、うっかりすると憶測をもとにした推論につながりやすいので憶測には気をつけた方がいい。憶測を語りたいときは、いくつかの事実をあげておいて、結果的にそこからこう憶測できるという書き方をしておいた方がいいだろう。憶測は、いつでも結果的に得られるものとして語らなければいけない。決して憶測から出発してはいけないのだ。「だって映画を観れば、「イスラエル援助を批判してない理由」はすぐわかるはずですから。理由は「とりあえず関係ないから」。これは同時多発テロとイラク戦争についての映画であって、たった二時間の映画だから、論旨を絞っているのです。」憶測の次にこう語っているのだが、この映画に対する評価を見ると、どうも論理的におかしいのではないかと感じる。イラク戦争というのは、石油利権の問題が原因にあるといわれ、ブッシュと石油利権との深い結びつきからそれを批判するという方向がある。その方向が、マイケル・ムーアが「華氏911」で描いたサウジアラビアとブッシュの関係なのだろう。だから、「華氏911」は、ブッシュのイラク戦争に関して一面的な事実を指摘していることは確かだ。そして、この一面的な事実が、本質的な事実であれば、この一面がイラク戦争のほぼ全面を代表していると考えることが出来る。しかし、イラク戦争には別の一面を指摘する考えもある。それは、中東におけるイスラエルにとっての脅威であるイラクを排除しようという、イスラエルの利害からくる一面だ。イラクは、中東で一番の軍事大国だった。石油から得られる利益をつぎ込めば、イスラエルにとっては十分脅威を感じるほどのものだった。このイラクを排除するということは、イスラエルにとっての利益なのだから、イラク戦争を語るときにイスラエル援助は、「とりあえず関係ないから」と言えるものなのだろうか。関係ないという判断をしたとすれば、それはイスラエルの利益になっているのではないだろうか。「とりあえず関係ないから」という判断は、物事を単純にとらえすぎていないだろうか。マイケル・ムーアはそこまで深くこのイラク戦争を考えることが出来なかったのだろうか。もし、マイケル・ムーアが、そこまで考えの中に入っていながらも、あえて「イスラエル援助を批判してない」ならば、そこには政治的判断が入っていたかもしれないと「憶測」出来るだろう。「憶測」は、このように結果的に導かれるものだ。マイケル・ムーアほどの優秀な人間が、イラク戦争とイスラエルが関係ないなどと考えているだろうか。イラク戦争においてイスラエルのことを語らないというのは、論旨を絞るというよりも、そこから目をそらせているという判断の方が僕は信用できる。イスラエルのことを語れば、二つの側面からイラク戦争を批判できるはずなのに、あえてそれをしなかったという感じもする。ただ、サウジアラビア批判だったら、アメリカ人は容易に受け入れるだろうが、イスラエル批判についてはなかなか容易には受け入れがたいという判断があれば、マイケル・ムーアがそれを盛り込まなかった理由もありそうな気がする。映画というのは、多くの人に見てもらわなければ価値がない。多くの人から敬遠されるような内容は避けたいと思うのが制作者だろう。もし、そういう判断があれば、これはやはり政治的判断だろう。マイケル・ムーア自身はイスラエルに対する批判を持っていても、映画の興行的な影響としてそれを避けたということは可能性がないだろうか。僕は、「とりあえず関係ないから」という理由は信じられないけれど、一般アメリカ人が映画を受け入れるかどうかという配慮から、「イスラエル援助を批判してない理由」を見つけるのであれば、いくらかは信じることが出来る。「しかも、田中氏は「『華氏911』はイスラエル支援に賛同している」という理由ではなく、「『華氏911』はイスラエル支援について何も言っていない」という理由で、ムーアがイスラエル支援を擁護していると論じています。この理論はあまりにムチャクチャです。」この批判に対しては、批判としてあまりにムチャクチャだというのを感じる。田中さんが、「『華氏911』はイスラエル支援に賛同している」という文章を書いている部分はない。また、「ムーアがイスラエル支援を擁護している」と書いている部分もない。田中さんはこう語っているのだ。「確かに、この映画の主張を鵜呑みにする人が多いほど、イラク戦争を起こして泥沼化させた張本人であるネオコン勢力は、罪をブッシュとサウジアラビアに押し付けることができ、自分たちの責任を問われずにすむ。」イスラエル支援について語らないことによって、何がもたらされるかを考えることが重要なのだ。結果的に「罪をブッシュとサウジアラビアに押し付けることができ、自分たちの責任を問われずにすむ。」からこそ、「911とサウジアラビアのつながりを強調する一方で、イスラエルやネオコンの影響力について全く語っていない「華氏911」は、タカ派やイスラエルが有利になるような配慮を持って制作された可能性が大きい」というふうに「憶測(解釈)」されるのである。イスラエルについて何も語らないのがおかしいのは、イスラエルがイラク戦争に関係があるからである。全く無関係なら、それは語らなくても当然だ。問題は、無関係であるという判断が間違えているということだ。マイケル・ムーアがインタビューで、「ゲイ結婚についても言及してないよ。二時間しかないから何もかも盛り込めないよ」と語ったとしたら、僕はこれは詭弁だと思う。無関係なものを言及しないのは当たり前だが、このような比喩を語るということは、イラク戦争についてマイケル・ムーアはイスラエルは無関係だと判断しているのだと語っているようなものだ。しかし、その認識は間違えていると思う。間違えていると分かっていながらマイケル・ムーアがこう語っているのなら、それは詭弁だと思う。町山氏は、「つまり田中氏は、ムーアの映画や著作に直接あたらずに、ネットで拾った記事だけを元に『華氏911』をネオコンの陰謀と決めつけたと思われます。それは自分ではレコードを聴かないで、他人のレコ評読んで、それだけを元にレコ評書くのと同じです。」というふうに田中さんを批判しているが、これが印象批判にすぎないものであれば、かえって町山氏の考えの浅さを示している文章だと僕は感じている。「田中氏は、ムーアの映画や著作に直接あたらず」ということに対して、町山氏は証拠のようなものがあるのだろうか。「ネットで拾った記事だけを元に『華氏911』をネオコンの陰謀と決めつけた」というのは、町山氏が田中さんの文章を正確に読めなかっただけの、誤読だと僕は思う。
2004.07.18
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田中宇氏は、その情報収集能力の高さで、様々の情報を入手し、その情報の間の論理的整合性を考えながら、その情報の解釈というものを知らせるタイプのジャーナリストだ。現場に飛んでいって事実を調べることもあるが、それは、解釈したものがどれだけ現実性を持っているかを確かめに行くような感じで、現場に行くことによって新たな情報を付け加えていくという感じはしない。世の中には解釈のしようがないと思われるような強烈なインパクトをもった事実もあるが、ほとんどの事実は、様々の解釈が出来るような内容をもっている。だから事実を知るだけでは、その事実の「本質的な意味」は分からない。田中さんのように、その解釈を語ってくれる人は、その解釈に賛同できるとき、あるいは自分が気づかなかった解釈を知って考えを深めることが出来たときには、大いなる価値を感じることが出来る。さて田中さんのこのレポート(「「華氏911」とイスラエル 」)では、マイケル・ムーア監督の「華氏911」というドキュメンタリー映画の解釈を提出している。この映画はドキュメンタリーであるから、それは「事実」をつなげたものである。「事実」というのは、単独で提出されている限りでは、単に現実の一側面を反映したものであるに過ぎないが、つなげることによってある種の解釈も生まれてくる。その解釈として、「ブッシュ政権を憎む人が世界中で増えた中で、マスコミで報じられてこなかったブッシュ政権の暗部を描いたこの映画が絶賛され「ムーアはブッシュの謀略を暴いた」という指摘があちこちから出てくるのは当然といえる。ところが、米国人の中でも、911以来、アメリカの政治情勢をウォッチし続けてきた人々はむしろ、この映画を見て「謀略をやっているのはムーアの方ではないか」と感じている。」というものも存在する。「ムーアはブッシュの謀略を暴いた」という解釈と、「謀略をやっているのはムーアの方ではないか」という解釈は、全く正反対のものではあるが、どちらも解釈としては可能な事実が存在する。ある種の事実をつなげれば、そう解釈することも出来るのである。事実というのは、本来そういう性格を持ったものだ。単独では、「そうも見える」という程度に過ぎないのに、いくつかをつなげていくと、「このようにしか見えない」という解釈ができあがってくるのだ。そして、「このようにしか」という側面は、違う面を切り捨てて解釈しているから「このようにしか見えない」ということにもなる。この場合、切り捨てた部分が末梢的で本質と関係ないと判断したことが正しければ、「このようにしか見えない」という判断が現実への妥当性を持つことになる。現実への妥当性というのは、現実を正しく反映し、現実のこれからを正しく予想できる解釈になっているということだ。「ムーアはブッシュの謀略を暴いた」という解釈は、ムーアが取り上げた「事実」がブッシュ政権の本質を描いており、911のテロの本質を描いていると受け取っているからだ。僕は、この映画をまだ見ていないが、多くの人々が絶賛するこの映画がすぐれていることは間違いないだろうという気がする。マイケル・ムーア監督の他の作品の「ボウリング・フォー・コロンバイン」はDVDで見た。これがとてもすぐれたドキュメンタリーであると思ったので、「華氏911」もすぐれたものだろうという期待をしている。ドキュメンタリーにエンタテインメント性を強く出しすぎているという批判もあるかもしれないが、多くの人に訴える効果を高めるという点で、エンタテインメント性が、扇動的な間違った感情をあおるというものでない限りでは、ドキュメンタリーの優秀性を毀損するものではないと僕は思った。「ムーアはブッシュの謀略を暴いた」という解釈は、映画を見た多くの人が感じる解釈だろう。そして、そのような解釈が生まれることを期待してマイケル・ムーア監督は、この映画を作っていると思うので、そういう意味では意図したとおりの効果が生まれているという点でも、このドキュメンタリーはすぐれていると言えると思う。さらにいえば、それを作ることの出来たマイケル・ムーア監督もすぐれていると言えるだろう。この解釈に比べて、「謀略をやっているのはムーアの方ではないか」という解釈は、よほど注意深く映画を見なければ生まれてこない解釈だろう。これは、ムーアが描いていないことの意味を考えることから生まれてくる解釈だからだ。描いたことを受け取って解釈するのならば、映画を見た人は簡単に解釈できる。しかし、描かれていないことを取り上げて、「なぜか」と解釈するのは、映画が描いている世界以上の広い世界を見る目がなければ生まれてこない解釈だ。しかし、描いていないことを考慮に入れて、その解釈を考えるということは、深読みのしすぎをしているという誤りの可能性もある。仮説実験授業的に表現するなら、「頭がいいから間違える」というタイプの間違いだ。解釈というのは「仮説」に過ぎないのだから、間違える可能性をいつもはらんでいる。解釈は、どの事実をつなげるかによって変わってくる。事実をつなげるというのは、大事な事実と末梢的な無視しても良い事実を区別するということでもある。その判断が正しいかどうかで、解釈の妥当性が高まるかどうかが決まってくる。田中さんもいくつかの解釈を提出しているが、それが「絶対的に正しい」という主張は一つもしていない。いずれの解釈も、「フィーズビリティ・スタディ」の一つとして提出しているだけだ。「フィーズビリティ・スタディ」は、とりあえず可能性のある解釈をすべて洗い出してみようという考え方だ。洗い出してみた可能性の間に、高い・低いという、これまた解釈も存在するが、たとえわずかでも可能性があると思えるものはすべて洗い出すのが「フィーズビリティ・スタディ」というものだ。この基本的な考え方が分からないと、田中さんが語っていることも正しく理解することが出来ないだろう。田中さんは、どの可能性も、自分自身はこれを主張するというふうに、一つに決めるような書き方をすることはない。確率的にこの可能性が高いだろうという主張をするときがあるかもしれないが、これに違いないという書き方はしない。このような文章の読み方をしないと、田中さんの主張は、いったい何を言いたいのだろうということが分からなくなるだろう。田中さんの文章を注意深く見ると、事実を語る部分は次のような書き方をしている。「……サウジと親密なブッシュ大統領はそれを隠そうと試み、米国民の目をそらすためにイラク戦争を始めた、と示唆する内容になっている。 」「……この映画はブッシュ政権にとって手痛いイメージダウンにつながるのではないかと予測された。 」「この映画は11月の米大統領選挙の結果を変えることになるかもしれない、とも指摘されている。」「……この映画には、全くそれが描かれていない。」「……「ネオコン」としてではなく「共和党右派」として登場している。」これは、それぞれ断定の言葉で結ばれている。つまり、この判断が正しいかどうかというのは、ある意味では単純に事実と照合すればすぐ分かるのだという書き方がされている。また「予測された」という言葉や「指摘されている」という言葉は、田中さんではない「誰か」が「予測している」「指摘している」という意味にとれる。だから、誰かが「予測し」「指摘し」ていれば、この「事実」が正しいということは証明される。これに対し、単純な事実との照合では判断できないことは、ある種の解釈という「仮説」を語っているのだということが分かる書き方をしている。次のような部分だ。「米国人の中でも、911以来、アメリカの政治情勢をウォッチし続けてきた人々はむしろ、この映画を見て「謀略をやっているのはムーアの方ではないか」と感じている。」ここでは、「アメリカの政治情勢をウォッチし続けてきた人々」という、ある種の情報を持っている人にとっては、「……感じている」という言葉で、これが解釈であることを語っている。しかも、この解釈は、「アメリカの政治情勢をウォッチし続けてきた人々」の解釈であって、田中さん自身は、これに対して全面的に賛成しているかどうかは語っていない。慎重な態度で語っているのである。「私が見るところ、……」という書き方では、自らの解釈を語っている。この解釈を語った結びでは、「このような状況から考えると、911とサウジアラビアのつながりを強調する一方で、イスラエルやネオコンの影響力について全く語っていない「華氏911」は、タカ派やイスラエルが有利になるような配慮を持って制作された可能性が大きい。」というふうに語っている。これも、「可能性が大きい」という言葉で結ばれているということは、一つの解釈であるという主張なのだと思う。この可能性が、現実にもそうだと証明されるには、まだ証拠が必要だろう。制作意図という問題でいえば、作り手であるマイケル・ムーアが「そうだ」といえば確かな証拠にはなるが、そういわない場合は、状況証拠を固める必要があるだろう。いずれにしても、まだ「可能性」の段階であって、「これに違いない」という段階ではない。「フィーズビリティ・スタディ」の一つに過ぎないのだ。しかし、この可能性が現実のものになったら、マイケル・ムーア監督のジャーナリスト性が揺らぐことは確かだろう。ジャーナリストは、あくまでも第三者的で中立を守らなければ信頼性が薄くなるので、政治的にある立場に有利に働くような意図を持っていたら、その主張の客観性は失われる。可能性が現実性になるかは注目をしていきたいものだと思う。この可能性が否定されれば、田中さんが提出した解釈の一つは間違いだったということにもなるわけだが、この間違いの解釈も受け取り方によって違ってくる。フィーズビリティ・スタディの一つとして、可能性の一つが否定されただけだと受け取ることも出来る。また、結びの言葉の、「可能性が大きい」というものを一つの判断だと受け取って、このような判断をした考え方そのものが否定されたと受け取ることも出来るだろう。その時は、田中さんの判断の甘さが指摘されるものだと思われる。しかし、これは、可能性が否定されたときのことであるから、逆に言えば、可能性が現実性になり、マイケル・ムーア監督の制作意図にある種の政治性があることが現実のものとして証明されるようなことがあれば、「可能性が大きい」という言葉は、実に聡明な先見性を表すものとも言えるわけだ。果たしてどちらの結果が出るか、マイケル・ムーア監督と田中宇さんの二人のジャーナリスト性の証明がされるのかもしれない。僕は、どちらもすぐれた人だと思っているので、どのような結果が出るのかは全く見当がつかない。どちらの結果が出ても、その結果に対しては、また妥当な解釈を見つけていくしかないだろうと思っている。長かったので、一部コメントの方に付け加える。
2004.07.17
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今回の選挙結果だけではなく、その前からの傾向として、2大政党制への流れが否定できないものになってきた、と言われている。「マル激トーク・オン・デマンド」の中でも、その点では意見が一致していた。民主党が躍進したというのは、とりあえず非自民の中でのもっとも政権交代可能性のあるところに浮動票が集中したということを示していると解釈できるだろう。しかし、「マル激」の中では、2大政党制の方が政治的にも望ましいのだという話にはならなかった。とにかく、自民党的な古い体質の政治からの転換を図るためには、一度政権交代がなければどうしようもないだろうから、とりあえず今の時点では2大政党制への流れを世論は期待しているのだという解釈だった。未来永劫にわたって2大政党制を望んでいるかどうかは分からない。そこまで先を見通している世論ではないという感じだ。そもそも小泉さんがあれだけの人気を博して、高い支持率を獲得したのは、「自民党をぶっ壊す」という言葉に人々が期待したからだ。政権交代が起こらなくても、小泉さんなら自民党を変えてくれると人々が期待したからだ。しかし、現状を見てみると、小泉さんでも自民党を変えられなかったと思っている人々が多くなっただろう。それならば、自民党でない政権にするしかないと考える人が増えたのが、2大政党制への流れにつながっているのだと僕も思う。2大政党制の利点として、政権交代可能な対抗勢力の存在をあげる人は多い。そういう対抗勢力があればこそ、支持を獲得するための政策論議が深まるという期待をしている人が多い。また、失敗して支持を失うようなら、直ちに政権交代の可能性があれば、失敗に対して慎重にもなるのではないかという期待も出来そうだ。しかし、現実にはどうだろうか。2大政党制というのは、政権交代という点でしか期待の出来ない、根本的に矛盾をはらんだ構造になっていないだろうかという疑問が僕にはある。2大政党制への流れは、今回のように自民党があれだけひどくなったのにまだ政権交代が出来ないという状況の中でのみ有効な流れなのではないだろうか。これが、常態になってしまったら、それは少数意見の切り捨てということにならないだろうかと僕は感じる。現実の条件を離れて、2大政党制を抽象的に検討してみようと思う。今回の選挙での比例区の投票というのは、ある意味での民意を反映していると思うので、この結果からいろいろと考えてみたいと思う。報道に寄れば、各党の比例区での得票率は次のようになっている。民主 21,137,458 (37.79%)自民 16,797,687 (30.03%)公明 8,621,265 (15.41%)共産 4,362,574 ( 7.80%)社民 2,990,665 ( 5.35%) 女性 989,882 ( 1.77%) みどり 903,775 ( 1.62%) 新風 128,478 ( 0.23%)この数字を見ると、民主と自民の両方を逢わせた約68%の人々が2大政党制への流れを支持していると解釈できるだろう。これは多数派ではあるが、「圧倒的」多数派とは言えないかもしれない。この68%は、投票した人の中での割合だが、全体の投票率が57%程度であることを考えると、有権者全体の中では、これは39%ほどになる。つまり、2大政党制への流れを支持すると表に現れた意見は、有権者の4割ほどだということだ。この表に現れた意見も、今回に限ってそう思ったのか、それとも基本的に2大政党制の方がいいと思ったのかは分からない。選挙制度に小選挙区制が取られたのは、基本的に2大政党制を目指すという構造を選んだということだろうと思う。そういう意味では、民意は2大政党制を選んだとも言える。しかし、2大政党制の問題が実感としてあらわになってくると、この民意も変わってくるだろう。僕は、一番の根本の問題は、上に表れた数字において、2大政党を支持した人々の意志は政治に反映されるけれども、それ以外の人々の意志が無視されるということにあると感じる。共産党支持の8%、社民党支持の5%という数字は、無視してもやむを得ない数字なのだろうか。小選挙区で、この得票率しかとれなければ、小選挙区で議席を獲得することはおそらく出来ない。いつまでも圧倒的少数派にとどまるだろう。その圧倒的少数派を無視するという制度は、多数派の失敗につながらないかという恐れはないのだろうか。物事というのは、多数派には見えにくいが少数派にはよく見えるということがたくさんある。その見えにくいことが、いつでも無視しうるような末梢的なことであればそれほどの問題は生じないが、それを見ないでいたことが取り返しのつかないミスにつながったりはしないだろうか。バブルの頃は、土地に投資しない人間は圧倒的少数派だった。多数派は金儲けに奔走していた。その金儲けが、実体のない空虚なものでいつか終わりがくるというのは、多数派にとっては見えにくい真理だっただろう。「いつか終わりがくる」というのは、その「いつか」が分からなければ、負け犬の遠吠えのように聞こえるだろう。しかし、実際にはその「いつか」が訪れる日が来る。バブルに踊るという、多数派のミスによるツケは、未だに日本経済に影響を与えている。あの頃、もし少数派によるものの見方をすくい上げる構造があったら、これほどひどい影響を残さないところで歯止めをかけられたかもしれない。年金財源の無駄遣いも、大規模公共事業による地方財政の破綻も、少数派を活かす構造を持っていれば、あれだけひどくなってから手をつけるという、先送りのミスだけは防げたのではないだろうか。日本でもやっと、内部告発者を守る法律を作ろうという考えが生まれてきたが、これも、少数派の意見に耳を傾けようということだろうと思う。2大政党制には、少数派の意見を無視するという構造が含まれている。これに僕は大きな危惧を感じる。それは、自民・民主という2大政党が、実に日本的な2大政党で、基本的にはあまり変わらない性格を持っているからだ。単に政権交代の反対勢力というだけで、基本的には両方とも古い体質を持った保守政党だ。そうすると、自民党に見えていないことが民主党に見えると期待するのはかなり無理がある。今後も2大政党という状況が続くのなら、この見えないところをどう見ていくかというのを考えなければならない。内部告発者に対しては、組織に対する裏切り者という見方もまだ日本には根強く残っている。そうではなくて、組織の中の多数派には見えないところを見ている貴重な人間たちというとらえ方をしなければ、内部告発者を本当に守ることは出来ない。内部告発者を本当に守ることが出来なければ、破滅に向かうような大きなミスに事前に気づくことが出来なくなる。少数派を大事にするというのは、単に人道的な配慮というのではなく、きわめて現実的な選択なのだと思う。気分の問題ではないのだ。2大政党制への流れというのは、今の自民党政治を終わりにしたいという、この閉塞状況を打破するための方便として人々が望んでいるのだと僕は思いたい。そして、その閉塞状況を打開できたあとは、少数派の意見を大事に出来るような構造をもう一度考えるべきだと思っている。そうでなければ、同じ過ちをもう一度繰り返すことになるのではないかと思う。2大政党制の流れの中で、大きくもなく小さくもない公明党は、その存在の意味を大きくしている。公明党を抱えた勢力がその時点での多数派になるという、いわゆるキャスチング・ボートを握ることになっている。そうすると、圧倒的少数派ではないが、少数派の意志が、多数派を押さえて君臨するということも表れてくる。この少数派の意志に間違いがないのであれば問題は生じないが、もし少数派の個別的利益に資するだけの意志だったら、間違いを生じる恐れがある。2大政党制は、このような矛盾もはらんでいるだろう。多数派の意志が必ずしも実現されないということもあり得る。少数派であろうとも、正しさが証明される前は、多数派と同じ重さを持った意見を提出できるという制度が欲しいと思う。正しさの証明がされた考えが最終的に決定されるべきだと思う。たとえ少数派の意見であっても、より正しいと思えることが、正しさの証明をする過程で見えてくるような制度を考えるべきだ。そうすれば、多くの人が正しさを理解して、やがてその意見が多数派になっていくという健全な方向が見えてくるだろう。多数派の利益をもとにして、少数派の意見が殺されてしまう、そのような傾向を2大政党制は持っているように僕は感じる。2大政党制への流れが、今の自民党支配を終わらせたいという願いのもとでのみのものであればと僕は願っている。
2004.07.16
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今週の「マル激トーク・オン・デマンド」は、政治学者の山口二郎さんをゲストに、今回の参議院選挙について語っていた。その山口さんの言葉に、今回の選挙を指して「脱組織選挙」というものがあった。今回が「脱組織」ということは、今までが「組織」的な選挙だったということでもある。つまり、今までは選挙の結果というのは、純粋な民意ではなくて、ある種の組織的な動員による集票だったという理解だ。純粋な民意というのは、僕の場合は、個人の自由な判断によるものを基礎としている。それは、個人の意志の集まったものが統計的に「民意」というものになると考えている。これが、日本では今までは見られず、地域のつながりとか、会社ぐるみとかいう形で組織的に選挙動員がされてきた。この組織的というのが、組織の圧力によって、個人の意志に反した選択を押しつけるものなら、それはだんだんと崩壊していくものになるだろう。日本社会もそれくらいには民主主義的になっていると思う。実際には、組織の利益が個人の利益に直結している部分があって、それを個人が理解していたので、組織的な選挙動員というものが有効だったのではないかと思う。自民党的な政治が、「地方への富の再配分」にあるという指摘はいろいろな人からされている。僕もその通りだと思う。これが地方への組織的な利益を生み、その利益が個人に還元されるという仕組みで自民党は多くの支持を得てきたという感じがする。この「富の再配分」をするには、ある種の利権をつかんで、その利権から生み出される富を地元に引っ張っていかなければならない。この利権をつかむことが、今では「私腹を肥やす」という批判に結びついているのだが、政治家自身についていえば、このような単純な批判で済ませる問題ではないような気がする。政治家個人の目的は、私腹を肥やすことよりも、地元に利益を引っ張っていって、それによって自分への支持を高めるということにあるのではないだろうか。刑事被告人となっている鈴木宗男氏にしても、自分が私腹を肥やすために賄賂を受け取ったという認識は全くないようだ。おそらく、鈴木氏の支持者にしても、鈴木氏は、その支持者を助けるために働いたのであって、自己の利益のために動いたとは思っていないだろう。利害当事者でない、外から眺める我々から見ると、「ムネオハウス」などというものが自己顕示欲を満足させるもののように見えるが、ある種の利権をつかんで、利益を引っ張るには、それなりの力を持たなければならないから、力をつかんだという象徴が「ムネオハウス」という言葉に表れていると解釈することも出来る。田中角栄元首相の評価というものも、利権の構造から汚職政治家というイメージがあるが、もっと大きな観点から、政治家としての大きな仕事をするために、力を持たなければならない過程でどうしても利権をつかむ必要があったという解釈をする人もいる。政治家の評価をするには、政治家としての大きな仕事について評価すべきで、その手段としてのダーティな部分で大きな仕事までも否定すべきではないという考えもある。利権をつかみ、富を再配分する旧来の政治が、地方の組織的な支持基盤を作り、これまでの自民党支配を支えてきた。これは、ある意味では多くの人に利益をもたらしてきたのだから、政治としては正しい面もあったのだと思う。しかし、これが続かなくなったというのが、現実の正しいとらえ方ではないだろうか。なぜ続かなくなったのかはいろいろな解釈があるだろうが、利権をつかんでいるのが政治家だけだったら、それは「富の再配分」を生み出すというプラスの面を持っていたのだろう。しかし、官僚という役人が利権をつかんだことがこの構造をむしばんでいったのではないだろうか。役人がつかんだ利権は、役人個人に還元されるだけで、政治的な意味がない。政治家は、利権をつかむために、役人が利権を持つことも黙認したのだろうが、それがあまりにも大きな影響を与えるほどに肥大したために、政治家がつかんだ利権を地方に持って帰れなくなったというのが出てきているのではないだろうか。役人がつかんだ利権が、利益を食いつぶして、多くの人に利益を還元しなくなった最たるものは、年金に関するものではないだろうかと思う。政治家がいくら利権をつかんでも、それがもはや地方に還元できなくなってきたというのが、現在の一番の問題なのではないだろうか。それによって、地方での組織的な選挙も機能しなくなっているのではないだろうか。旧来の利権政治家では、もはや利益を持ってこれないということが実感として分かってしまったのではないだろうか。今回の地方票は、これまでの自民党支持者が民主党に入れるということが多かったようだ。これは、とにかく何かが変わらないと、自分たちの閉塞感は抜け出せないという思いがあるのではないかという気がする。今までのやり方ではもはや希望はないという思いが、今までの「組織選挙」を否定して、「脱組織選挙」の方向へ行っているのではないだろうか。今回もそうだったが、これからの選挙は常に「浮動票」がもっとも大きな影響を持ったものとして働いてくるのではないか。ようやく、本当の意味での民意が反映するようになるのかもしれない。今回の選挙は低投票率だったにもかかわらず、もっとも浮動票が集まった民主党が躍進した。低投票率なら、組織票がある政党が有利なはずだが、自民党に関しては、その組織票が組織票として機能しなかったと考えても良いのではないだろうか。組織票が機能したのは、唯一公明党だけのような気がする。山口さんに寄れば、「脱組織選挙」であるからこそ、「組織」が残っている公明党の強さが際だったとも言える感じだ。公明党の場合は、その背後にある創価学会という組織の利益とまだ利益が一致しているのだろう。そして、学会員個人の利益もまだずれてはいないので、組織的な支持が続いているのだろうと思う。しかし、これがずれていく可能性はかなりあるのではないかと僕は感じる。平和を希求する宗教的感情を持っている人たちが、政治的判断とはいえ、「戦争が出来るようにする憲法」とどう気持ちの折り合いをつけていくかは難しい問題だと思う。憲法論議がこれから起きてくるだろうが、これによって組織的な行動に亀裂が生じる可能性はかなりはらんでいると思う。これからの選挙が、「脱組織選挙」の方へ行くとしたら、これからの政治の方向もある程度見通せるのではないかと感じる。今回の選挙に対して「脱組織」という評価をするのは、今後を考えるのにとても有効な観点ではないかと思った。組織選挙を支えていたのは利権の構造なのであるから、脱組織なら利権の構造を否定してくれるかもしれない。これは、個人主義的な思いを強く抱いている僕としては、未来に対する希望を感じる方向だ。今回脱組織という空気を民主党がもっと敏感に感じていたら、拮抗していた選挙区でも自民党を破ることが出来て、歴史的大勝利になっていたかもしれない。しかし、民主党にも古い体質がかなり残っている。宮台さんが指摘していたが、ある選挙区では、連合的な利権に乗っかった組織の利益を代表する候補者が露骨な組織選挙をやったらしい。このような候補者が残るようなら民主党も、浮動票を本当に獲得するということはないだろう。共産党に関しては、ある方向から見ればやはり組織選挙であることに変わりがない。その方針の正しさで選択するというよりも、まず支持というものがあって、支持をしているから投票するという感じを受ける。公明党と同じ構造になっていると僕が主張すれば、それには反対する人が多いだろうか。支持をしている人が投票してくれるという発想は、圧倒的少数派にとっては将来性のない考え方だ。正しい主張をすれば支持が集まるという発想に変えなければならないだろう。そして、支持が集まらなかったという結果が出てきたら、「主張そのものが間違っていた」のか「主張は正しかったが、その伝え方を間違えていた」のか、深く検討すべきだと思う。とにかく、支持が集まらなかった原因は自分の方にあるという発想が必要だ。政治的な働きかけをする場合は、「理解しない相手が悪い」と言っても仕方がないのだから。社民党に関しては、山口さんがかなり厳しい論評をしていた。もはや歴史的使命は終わっているのであって、社民党という組織は、もはや専従職員を養うために存続しているに過ぎないと語っていた。「護憲」という主張に対しても、その主張そのものが空想的な間違いに過ぎないのか、主張そのものは正しいが、その伝え方が間違えているのか、社民党も深く検討しなければならないだろう。非現実的な空想的な理想主義を語る人間は「社民党」と揶揄されるらしい。そのようなイメージを持たれてしまったのは、政党としては致命的なダメージだろうと思う。ここから抜け出すのはとても難しいだろう。利権の構造というのは、不当に利益を享受するものが存在する構造だ。これが崩れていって、利益を享受するにしても、そこに正当性を求めるようになれば、利権はなくなっていくだろう。本当に実力のある人間が、ある種の利益を受けたとしても、それは不当なものではない。富の再配分にしても、誰でも同じように分配してしまうと、宮台氏が語る「フリー・ライダー(ただ乗り野郎)」が出てきてしまうが、自助努力で富をつかもうとする人間にチャンスを与える意味での再配分だったら、利権の構造は崩れるだろう。利権の構造が崩れていけば、「脱組織選挙」の方向はますます強まっていくだろう。しばらくは選挙がないようだが、次の選挙までの間に、利権の構造に注目していくのは、今回の選挙の評価に関して、正しい方向を見せてくれるのではないだろうか。そして、利権をもとに支配をしていた自民党は、利権が崩れていけば、その支配にピリオドを打たざるを得ないだろうという気がする。果たしてどうなるか。
2004.07.15
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近鉄とオリックスとの合併が発表されたとき、スポーツ評論家の二宮清純さんは、それをプロ野球の「終わりの始まり」と表現し、「滅びへのカウントダウン」が始まったと語っていた。今度の選挙に対しても、同じような見方があちこちで語られているようだ。数字の上では、改選前の議席数をとれなかったので、「自民敗北」であり、改選前の議席数を上回った「民主躍進」であると表現できるだろう。しかし、数字以上の内容を具体的に検討してみると、これは自民党政治が代表する「古い体質の政治」の「終わりの始まり」であり「滅びへのカウントダウン」なのではないかという感じが僕にもしてきた。古い体質の自民党的な政治というのは、「地方への再配分」という言葉でイメージできるのではないだろうか。都市部というのは、人も物も金も集中するので、さほどの努力をすることなく、生活水準の向上が経済発展とともにもたらされていると思う。しかし、日本経済という大きなひとくくりのパイは大きくなっても、地方にはその恩恵がなかなかやってこない。そんなときに、日本経済を支えているのは、地方の勤勉な人々だということで、地方の支持を集め、地方の利益を引っ張ってくるという政治家が中央に進出していくということになってきたような感じがする。これはある意味では必要なことだっただろうと思う。高度経済成長の時代は、地方から都市部へ流入していく労働力というものに頼ってきたのだから、経済成長を支えているのは地方の力だということにも一理ある。その地方に、経済成長の恩恵を返していくのは当然のことであるだろう。その恩恵を返す方法として、地方への大規模公共事業というものもあったのだろう。それが本当に必要であるかどうかは分からないけれど、大きなダムを一つ建設すれば、それによって地元に落ちる金はたいへんなものになるだろう。他の方法で金を落とすものが見つからなければこの大規模公共事業に頼るのも論理的には必然なのかもしれない。しかし、バブルがはじけて、パイそのものが縮小していっている時代は、地方へ利益を引っ張っていくといっても、それによって国の経済力がますます落ち込んでいくことにもなりかねないという時代になってしまった。一時的には金が落ちても、その後の悪影響を考えると、単純に利益を引っ張っていくということに、地方の人々も期待できなくなってきたのではないだろうか。長野県では、長野オリンピックの頃に投入されたお金が、当時は施設建設などで落ちていったのだろうが、いまはその維持費に苦しんでいるそうだ。ワールドカップの時に立派なサッカー場を作った自治体も、ほとんど利用されない競技場の維持に四苦八苦しているという。いままでの手法ではもはや期待は出来ない。根本からの構造改革をしない限り、この閉塞感を抜け出すことが出来ない。これがバブル後の日本人の大多数の感覚なのではないだろうか。だから、小泉さんが華々しく登場してきたとき、人々はその「構造改革」に期待して大きな支持を与えたのではないだろうか。それは、小泉さんの最初の総裁選において、古い体質を持っていたと思われた地方でも、小泉さんは圧倒的な支持を得たことからそう言えるのではないかと感じる。しかし、3年ほどたってみても、小泉さんは何も改革が出来なかった。古い体質をそのまま温存している。そして、それをごまかすために、ほとんどピエロのようにしか見えないデタラメな発言をし続けている。いままでなら、小泉さんへの期待感から、デタラメな発言も面白さの方で受け取られていたが、もはやメッキがはがれてしまい、そのピエロ性が明らかになってしまったのではないかと思う。それが今回の選挙での、小泉さんの支持率低下に現れているのではないだろうか。多くの国民が、ようやく小泉改革の本質が分かってきた。そのデタラメさに目を向けるようになったことの表れがこの選挙ではないかという感じがしてきた。小泉さんは、自民党をぶっ壊すといって登場し、その古い政治を新しく再生するという期待を人々に与えた。しかし、結局は古い体質は壊れず、小泉さんは利権に群がる自民党体質を温存し、その延命に役立っただけだった。共産党内部から出てきたゴルバチョフには、ソビエト共産党は壊せなかったのと同じように、自民党から出てきた小泉さんには自民党は壊せなかった。エリツィンのように引導を渡す人間が必要なのだろう。それが民主党の岡田さんになるかどうかは分からないが、時代の流れとしては、そのような方向を向いている、という意見に僕は賛成したいと思う。党首交代のごたごたがあったにもかかわらず、民主党がこれだけ伸びたのは、やはり自民党政治に引導を渡して欲しいという民意が大きいのではないかと僕には思える。今回の選挙は、公明党のおかげで、自民党は決定的に引導を渡されるまでは行かなかった。しかし、これだけ公明党に頼らざるを得ないということは、やはり自民党政治の「滅びへのカウントダウン」なのだろう。もはや古い手法では、これまでの支持者にすらそっぽを向かれるようになっているのだと思う。こんな解釈を、神保哲生と宮台真司の「マル激トーク・オン・デマンド」を聞いたり、選挙を批評した新聞各社の社説を見たりして感じた。「マル激トーク・オン・デマンド」に関しては、その内容をもっとよく分析して書いてみたいと思うが、新聞各社の社説の中から、僕が解釈した内容に近いものを引用して最後の締めくくりとしたいと思う。「しかし、再選を果たした昨年の総裁選前後から「抵抗勢力」と決定的な対立を避ける無難な政権運営にかじを切った。「自民党をぶっ壊す」と宣言した就任当時の新鮮さは薄れ、頼みの内閣支持率も40%前後までに下降している。 イラク、年金問題と並んで是非が問われたのが首相の政治改革路線である。どん底にあった日本の景気は、確かに明るさが見えてきた。その一方で、企業のリストラが進み日本社会は「勝ち組」と「負け組」に分かれ、階層分化も進む。社会的弱者に国がどの程度手を差し伸べるべきなのか、構造改革路線にはこうした視点が抜けている。首相が「改革の本丸」と位置付ける郵政民営化についても、党内の反対勢力に配慮して論議を先送りし、争点化を避けてしまった。 自民党は各世論調査で苦戦が伝えられてから、公明党と支持母体の創価学会頼みのあからさまな選挙戦に乗り出した。もはや自力で勝ち抜けない自民党の「衰退」を象徴する姿だった。憲法改正や教育基本法改正で深い溝のある両党が、いびつな関係にならないか気になるところである。」「中国新聞社説 「小泉政治」に厳しい審判」「投票結果に込められた国民の思いは、小泉純一郎首相への「失望」に尽きるだろう。三年前の参院選で「自民党を変え、日本を変える」と叫んで登場した小泉首相に、国民は熱狂的な支持を与え、自民党は大勝した。そして昨年の衆院選では改革の雲行きは怪しくなっていたが、それでも国民は今しばらく、首相に改革実現への時間を与えよう、とした。だが、今では多くの国民が、改革の中身と粗っぽい手法に疑問を持ち始めている。」「神戸新聞社説 審判下った参院選/首相に「失望」が突き付けられた 」「しかしながら、参院選の結果から読みとれるのは、政権政党としての自民党が、議席に表れた結果以上に危機的な状況に追い込まれていることである。 自民党の支持基盤は大きく揺らいでいる。それはこれまで自民党の金城湯池とされた地方の一人区で、十四勝十三敗と民主党と互角の勝敗になったことからも明らかである。 三年前、自民党は一人区で二十五勝二敗だった。自民党が圧倒的な強みを発揮してきた地方でも、自民党離れが進んでいるという見方を否定することはできない。 それは地方ほど小泉改革のしわ寄せを受け、景気回復の効果もほとんど及んでいないことと無縁ではないだろう。自民党を支えてきた地方の土建業界も、商工業界も深刻な不況にあえいでいる。」「東奥日報社説 小泉改革はどうなるのか 」「目標議席を確保できなかった以上に、わずか一議席とは言え、民主党が自民党の議席を上回り、改選議席で比較第一党になった事実を、首相はどう認識しているのだろうか。衆院選ならば、議会制民主主義の原則に従って、政権を明け渡さなければならない事態である。それほど、この審判に込められた国民の声は重いはずである。 そうなった理由は二つある。ひとつは「人生いろいろ」発言に代表される首相の、はぐらかしとも、開き直りともとれる不誠実な言動だ。いまひとつは、改革が事実上骨抜きになってしまった道路公団民営化に見られるように、国民は小泉改革は掛け声だけだ、とみていることだ。」「神戸新聞社説 首相会見/国民の声が聞こえてない 」「苦戦が伝えられた一人区で、最終盤に公明党に泣きついて協力を得たことが大きい。加えて、北朝鮮拉致被害者の曽我ひとみさん一家再会や社会保険庁長官への民間人起用など、必死になって「サプライズ」を演出した結果だ。 そう考えると、自民党の土台は大きく揺らぎ、集票力の衰えは一段と顕著になったと言わざるを得ない。昨年の総選挙では民主党に全国の比例票数で下回り、今回はさらに議席数でも敗れた。参院選の議席が野党第一党を下回ったのは、大敗した一九八九年の宇野宗佑首相以来のことだ。」「山陰中央新報社説 参院選後の政局/求心力低下は避けられない」
2004.07.14
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何事も、評価をするということは難しいものだ。評価というのは基本的に「解釈」に過ぎないので、その正しさを証明することが出来ない。今の時点では、それが妥当であるかどうかという印象を語るしかないからだ。数学における評価というものを考えてみても、「数学が出来る」というような抽象的な評価は出来ない。どのような現象を捉えて「数学が出来る」というのか、その具体的な評価基準を作ることが出来ないからだ。もっとも客観的な評価は、ある時点で、ある試験を課して、その時点では正解を何%書けたかということが事実として知られるだけだ。だから、特殊な時点の特殊な問題に対して、どれだけ出来たかという評価は、かなり信憑性が出てくるだろう。しかし、それにしても、問題の正解というものが、誰の目から見ても確かに正解だと思われるほどハッキリしていなければならない。誤解されそうな問題が入っていたら、評価の信憑性はそれだけ低下する。それに、この評価は未来永劫変わらないわけではない。問題が変われば結果が変わるわけだから、あくまでも、この時点で、ある特殊な問題が出来たという評価にとどまるだけだ。数学という白黒がハッキリ出せるものであっても、評価というものはそれほど信用できるものではない。これが、「数学への興味・関心」という「数学的態度」を評価したり、「数学的能力」を評価しようとすれば、ほとんど信用できない評価になってしまうだろう。僕は大学での数学科の同級生が、高校までは最高の数学の評価を得ていたのに、大学では「学問」と呼べるレベルの数学がほとんど出来ていないのを見てきた。高校までの評価がいかにいい加減かが分かる。さて、表題にしている選挙の評価というものを、今回の参議院選挙に当てはめてみると、これは信頼できるものがほとんどないのではないかと感じる。新聞報道などでは、「自民敗北」「民主勝利」などという文字が躍っているが、本当にそうだろうかと僕は疑問に思う。自民党が改選前の議席を獲得できなかったという、それだけの単純な基準で「敗北」などという評価が下せるのだろうか。また、勝った・負けたという次元で選挙を評価しようということに、僕はそもそも疑問を感じる。選挙は、スポーツのような勝ち負けを競うゲームなのだろうか。正当なルールがあり、審判がいて、インチキがないように誰もが注目し、ゲームが終わったあとは、なんの影響も後に残さないという、スポーツのような要素を持っているのだろうか。結果として、勝ち負けが出てしまうのは仕方がないとしても、勝ち負けを競うものだととらえるのには僕は大いに疑問を感じる。勝ち負けで選挙を評価するのは、占いが当たったかどうかで評価するようなものだ。選挙の評価というのは、今後の予想を伴った評価で、今後にどのような影響を与えるかということが分かる形で評価すべきなのではないだろうか。評価としては、今回の結果を解釈することになるのだが、その解釈が、今後を正しく予想しているかどうかで、解釈としての評価の妥当性が確かめられる、というような評価をすべきではないのだろうか。今の段階では、市井の一個人である僕には、選挙の全体像をつかむだけの情報がないので、とてもまとまった評価は出来ない。しかし、評価の観点はいくつか考えられる気がする。それは次のようなものになるだろうか。1 今回の選挙を自民党・公明党の与党はどう受け止めるか。2 批判と受け止めて、これまでのことを反省して改めるか。たとえば、説明責任を果たしていないという批判に対して、これからは、十分な説明をするようになるだろうか。3 与党として両党を合わせれば過半数を取ったことを「支持」と受け止めて、これまでの方向をさらに押し進めるようになるのか。4 民主党は数字の伸びをどう受け止めるか。与党への批判が回ってきた「期待票」と受け止めるか、民主党自体が「支持」されたものだと受け止めるか。5 人々の、民主党への期待はどういうものか。また、その期待に民主党が応えていけるかどうか。なぜ浮動票は民主党を選んだのか。6 民主党以外の野党は軒並み議席数を減らした。これをどう受け止めるか。これらの政党は、基本的な大衆的支持を失ったと言えるのか。それとも、選挙制度に問題があるのか。また、共産党・社民党は、これをどう受け止めているのか。7 本当の意味での民意というのはあるのか。また、民意があるとしたら、それは今回の選挙で反映されたのか。政府与党の何が支持され、何が拒否されたのか。8 民意を作るには、一人一人に情報が行き渡り、判断をする材料がなければならない。それがちゃんと出来るような環境があるかどうか。マスメディアを始めとする選挙報道のあり方はどうだったのか。9 投票行動に関するもので、投票しやすい条件が作られているかどうか。アメリカの大統領選などでは、黒人の票などは、民意として反映しないように、黒人が投票しにくくなるような制度になっていると、マイケル・ムーアが批判していた。そういうものは、日本の選挙制度ではないのだろうか。ざっと考えただけでも、このような疑問がわいてくる。この疑問に関連した観点というもので、今回の選挙を評価することを考えてみたいものだと思う。どっちが勝ったかということよりも、今後どうなるかということの方が我々には大事なのだと思う。今回の選挙の結果を受けて、日本の政治はいったいどの方向を歩んでいくのだろうか。憲法「改正」の道を歩んでいくのだろうか。利権の構造はそのままで先送りにされ、いよいよ修正のきかない時点に達して破綻が明らかになっていくのだろうか。それとも、ひょっとして何もかもうまくいって、いま懸念されている問題が解決の方へ向かっていくのだろうか。未来の予測は難しいが、「予想なしに予想外のことは見えない」と板倉さんが語っている。泥縄式に現実にあわてることがないように、あらゆる可能性を予測しておくフィーズビリティ・スタディをしておきたいものだと思う。
2004.07.13
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論理矛盾というのは、書かれている事実が間違っているということではない。たとえば昨日の日記では、彼の主張の中の、「定住者資格は、血統主義だけを取っている為に日系2世や3世の帰国に対して、出生地主義の国家が付与した国籍との関係から発行される場合と、難民認定された人が祖国に帰還するまでの間、日本国内に滞在する為に発行される場合に限られている。」という部分に関して、「限られている」という部分は、事実の間違いだと僕は指摘した。その根拠として、「定住者ビザというのは、もともと曖昧さのある入管法上のビザないし在留資格の中でも最も曖昧なビザと言えましょう。すなわち、実際には、明確な基準はまだあまりありません。ただ、法務省告示の形である程度の類型化・定型化もはかられています。但し、上記の告示はいわゆる「例示列挙」であって、「限定列挙」ではないことに留意する必要があります。」「定住者ビザの法務Q&A 」というものも挙げておいた。事実の間違いというのは、論理の間違いではない。論理の間違いというのは、そこで展開されている主張の中に、対立する二つの主張が入り込んでいるということなのだ。これは対立しているので、論理的な矛盾を生じさせる。論理というものが現実をよく反映したものであれば、論理的な矛盾は現実には成立し得ない。論理が現実を反映していなければ、論理に矛盾があっても、現実は違うと言えるかもしれないが、現実を反映しない論理など誰が信用できるだろうか。いずれにしても、論理に矛盾があるというのは、何らかの証明をしたいと思ったらどうしても避けなければならない大事なことだ。彼が避けられなかった論理矛盾を具体的に分析していこう。「全く帰化できる望みがないのなら「特例」というのも分かりますが、帰化できる方法がありながら特例というのは無茶と言うものですな。(7月9日16時22分) 」という言葉に対しては、次のように図式化してみよう。 全く帰化できる望みがない → 特例を認めるこれとの論理矛盾は、「法治国家で暮らしたいのならば法律に従う、これ常識。 (7月7日11時4分)」という言葉との整合性だ。「全く帰化できる望みがない」のなら、法律ではそれは認められないということだ。それでも特例を認めるというのは、「法律をねじ曲げ」ることにならないのだろうか。「特例」という言葉にしてしまえば、「法律をねじ曲げ」るという言葉とは違うので、論理の矛盾が出てこないと思っているのだろうか。論理の矛盾は、その言葉の意味するところを理解して判断するものだ。字面で判断するものじゃない。実際には、現実の理解としては、タイ少女が日本で引き続き生活していきたいという希望は、入国管理法という壁があって、このままの状態では希望が叶えられないということだ。だから、法律の機械的な適用ではなく、現実のもっている例外性を考慮して、特例の一つとして、引き続き彼女が日本で生活する許可が欲しいということだと思う。「全く帰化できる望みがないのなら「特例」というのも分かります」という言い方は、望みがないときに限り「特例」を認めるということなのである。それじゃ、「特例」を認める根拠はどこにあるのか。客観的根拠は何も語っていない。どうやって、その「特例」が法律に則っていることを証明するのだろうか。根拠がないのに認めるというのは「法律をねじ曲げる」ことではないのか。もう一つの論理矛盾は、法相発言に関するものだ。その発言は報道によると次のようなものだ。「野沢法相は、東京入管が定住資格を認めなかったことについては「定められた要件に該当するか慎重に判断した結果と聞いているが、本人にとって良い結論が得られる方向で、再検討するよう入管当局に指示した」と述べ、最終的に定住資格を認めることも視野に置いていることを示唆した。」「<メビサさん>法相が在留資格更新と定住資格の検討を指示 」この発言を素直に受け取れば、一度下した入管の判断を、人道的な観点から見直して、「本人にとって良い結論が得られる方向で、再検討する」と語っているように読める。この記事の最後には、小泉さんの「小泉純一郎首相はメビサさんの問題について、「私は人道的配慮がされるべきだと思っています」と述べ、自らの意向を反映させた措置であることを示唆した。」という言葉も紹介されており、ここではハッキリと「人道的配慮」という言葉まで使われている。つまり、法相も首相も、この少女に関することには、「人道的」な面を優先させて法律を運用することを考えているというふうに読める。これは、少女を支援したいと考えている人たちと同じではないかと思う。そうすると、某Sくんは、「「現実の特殊性」や「人道的配慮」という名目で法律をねじ曲げるのは法治国家の精神ではないと言ってるんです。 (7月7日11時4分) 」と主張しているのだから、論理的な一貫性を保つなら、法相や首相に対しても、「法律をねじ曲げ」ていると批判しなければならないんじゃないかと思う。しかし、なぜか彼は法相と首相に対しては批判の目を向けることが出来ない。こんな回答をしている。「法務大臣の裁量で発行できるとなっているが、この裁量は、国益の代表者の一人としての職業上の裁量であって、温情や署名の多寡で、規定対象外の人に対してルールを捻じ曲げて発行するようなものではない。」「>小泉さんも、「私は人道的配慮がされるべきだと思っています」と言っているんだけれど、これも「法律をねじ曲げ」ているのかな?-----具体的に何か指示しましたか?別に意見を言うことが悪いことだとは思いませんがね。 (7月9日16時22分) 」普通の人が「人道的配慮」を要求するのは、「法律をねじ曲げ」ていることになるけれど、法相がやるのなら、「裁量」の範囲内だという解釈は、同じ事柄に対するダブルスタンダード(二重基準)ではないのだろうか。ダブルスタンダードがすべて悪いわけではないが、この場合は果たして正当性を主張できるのだろうか。法律というのは、エライ人間が使うのなら、恣意的に「裁量」の範囲でやってもいいというのだろうか。それこそ「法律をねじ曲げ」ているのではないか。問題は、その裁量が正しいかどうかということなのである。正しいことの理由に温情や署名を挙げるのは間違いだが、「裁量」だから正しいとも言えないのだ。実際には、法相が事実を判断して、定住資格を認めることが正しいと判断したら、それを出すことが出来るというのが「裁量」ということの理解だろう。正しいかどうかは、あくまでも論理の問題だ。署名がたくさん集まったのは、その審査もしないで機械的に判断したから、もう一度考えてくれという意味で署名が集まったのである。署名が集まったから認めろという意味ではない。それから、小泉さんは、その発言を素直に受け取れば、決定に対して「人道的配慮」をするようにということが「自らの意向」であると読める。彼が、批判していたのは、「「現実の特殊性」や「人道的配慮」という名目で法律をねじ曲げる」ということだ。だから、この場合は、「人道的配慮」という名目で「法律をねじ曲げて」いることにならないのかというのを僕は聞いたわけだ。答は、イエスかノーかという二者択一になる。彼はハッキリとノーとは言わなかったが、「別に意見を言うことが悪いことだとは思いませんがね」と言っている以上、小泉さんの発言は、彼の言っている「法律をねじ曲げて」いることにはなっていないと判断しているわけだ。そうすると、彼が署名に対して非難をすることがまた論理的に分からなくなってくる。署名の実行力がほとんどないことは、署名というものをしたことのある人間だったら実感として知っている。これこそ、実行力を伴わない「意見」にすぎないものだ。だから、彼の判断からすれば、少しも悪いことではないはずなのに、「温情や署名の多寡で、規定対象外の人に対してルールを捻じ曲げて」と考えるのは、署名というものに実行力があると思っている現状認識の間違いではないかとも思える。また、小泉さんは、日本国総理大臣なんだから、意見を言うだけで大きな影響力を持つ。それに対して、「具体的に何か指示しましたか?」と、具体的な指示がなければ、責任が生じないと感じる、その責任感覚も普通の感覚ではない。小泉さんなら喜んでその意見を受け入れるだろうが。実際には、この現実を理解するには、法律というのが、人間社会の矛盾を解決するために作られたものであると了解すればいいだけのことである。その矛盾が、経験済みで、すでに予想されたものであれば、当然法律にその対処が書いてあるだろうが、まだ経験していない矛盾が生じた場合は、その現実をこそ深く分析して、どのように対処するのが正しいのかを判断して法律を書き換えるということをしていくのである。それを、法律の条文が絶対だと思うような「形而上学的思考」を持っていると、現実にその解釈が出来ない問題にぶつかっても、解釈に詭弁を使って対処するしかなくなるのである。現実を正しく認識しさえすればすむ問題であるのに。法律の条文に機械的に従うことが法治国家というものであれば、憲法9条に違反しているイラクへの自衛隊派遣は、「法律をねじ曲げて」いることにならないのかどうか、ぜひ聞いてみたい気もするが、論理的にまともな答が返ってくるとは思えない。論理というのは高度に抽象的なものである。抽象的であるから、対象の属性というものがほとんど捨てられている。つまり、対象の違いによってその適用を変えるということが許されないのである。ダブルスタンダード(二重基準)を当てはめるときは、その論理が、対象の属性のどこを問題にしているのか、その問題そのものが二重性を持っているということを証明して、論理の適用に違いがあることをいわなければならない。対象の違いを何も語らず、自分に都合のいい結論を出すために論理をかえる(変える?・替える?・換える?)のは、普通の言葉で言うと「詭弁」という。「人道的配慮」をすることを主張することが、少女の支援者と法相・首相で違いがあるというのなら、その違いの根拠を示さないと、論理は破綻するのである。ボタンの掛け違いのそもそもの始まりは、入管法という法律が、文章解釈をしたものがいつでも正しいという思い込みなのである。現実は文章解釈を越えているのだから、現実を理解して、事実を基に妥当性を考えるというふうにすれば、問題は解決の方向へ向かうのである。しかし、文章解釈が絶対だという思い込みがあれば、どんな事実を見ても分からないだろうな。それが、「形而上学的思考」の限界だものね。
2004.07.12
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某S氏くんの「なんだ読んでいないのか。 (7月6日23時39分)」という言葉の意味を受け取るのも苦労したものだ。この言葉は、タイ少女の問題が「法務省は7日午前0時に期限が切れるメビサさんの在留資格の延長を認める方針を6日、決めた」という結果が出たことを巡って交わされたものだった。この報道では、定住資格が出たということではなくて、それの判断が出来るまで、とりあえずちょっと延長したということが書かれていた。定住資格を出すかどうかは、法務省にとっては重大な問題なので、それをすぐに回答することは出来ないだろうが、強制送還という「非人道的」な措置を出すこともはばかられる。そうしたら、論理的に考えれば、今までの在留資格を延長して、定住資格を得るかどうかの判断をするための調査をするということが、「論理的に考えれば、当然の措置」だと僕は理解すると彼に送った。そして、僕はこう理解するけれど、君はどう理解するのかを聞いたわけだ。その時に、彼の方で、「貴方の理解はどうなんでしょうね (7月6日21時3分)」と聞いてきたので、この質問の前に、すでに僕は、「論理的に考えれば、当然の措置だと思うよ。僕の理解はね。ところで、君の理解はどうなのかな? (7月6日10時57分) 」と書いていたので、(書き込みに記されている時間を比較して欲しい)、僕の理解はすでに書いたので、「なんだ読んでいないのか。(7月6日23時14分) 」と返事をした。それに対して、彼も同じように「なんだ読んでいないのか。 (7月6日23時39分)」と書いてきたので、僕は困ってしまったのだ。僕の理解は確かに書いてあるのに、彼の理解は掲示板のどこにも見あたらなかったからだ。しかし、今全体を振り返ってみて、この「なんだ読んでいないのか。 (7月6日23時39分)」という言葉の意味が分かった。彼の、「なんだ読んでいないのか。 (7月6日23時39分)」という言葉より前の書き込みは次のものしかない。「我が国は明治以来の由緒正しい法治国家ですから。自分に都合のいい時は法律をねじ曲げろって言うのは人治国家ですな。 (7月5日20時4分)」「少女だから、可哀想だから法律をねじ曲げてでも強制送還するなと言うのは法治国家のやることではないと言いたかったんですがね。まあ、理解しようという気にない人には意味のないことでしたね。 (7月6日10時28分)」僕は、最初は、この言葉の中の「自分に都合のいい時は法律をねじ曲げろ」とか「少女だから、可哀想だから法律をねじ曲げてでも強制送還するな」という言葉は、彼の言葉ではなくて、誰か他の人が言っていることを、彼が批判しているのだと思っていた。だから、彼がタイ少女の在留資格の問題に対して、どのような理解をしているかは書いていないのだと思って、それを聞こうと思って、「君の理解はどうなのかな?」という質問をしたのだった。しかし、ここに書かれていることが、誰か他の人の言ったことではなく、これこそが彼の考えていたことであれば、すでに書かれていたのだから、「なんだ読んでいないのか。 (7月6日23時39分)」という言葉も頷けるのである。ということで、ようやくこの言葉の意味が分かった。もちろん、彼は、「自分に都合のいい時は法律をねじ曲げろ」とか「少女だから、可哀想だから法律をねじ曲げてでも強制送還するな」と主張しているのではない。その反対に、このように主張するのを批判しているのである。しかし、この批判が成立する前提には、批判するような事実があるということがなければならない。何も事実ではないことは批判できないのだ。それは単なる勘違いということになる。そうすると、彼が、「法律をねじ曲げ」と受け取っている事実というのはどこにあるのだろうか。それは、法律の解釈から生まれてくるとしか思えない。どんな理由であれタイ少女に定住資格を与えるというのは、彼にとっては「法律をねじ曲げて」いるとしか思えないのだろう。この法律に対する認識が、僕やタイ少女を支援する人々と違うので、彼は支援する人々を批判せずにはいられないのだろう。しかし、これは法律に対する解釈の間違いと、その間違いをもたらした「形而上学的思考」の間違いが、このような解釈を生んでいると僕は感じている。法律では、養子の場合の定住資格について、次のようになっているらしい。「次に、養子縁組と在留資格の関係ですが、普通養子の場合には縁組によって当然に在留資格を取得できるわけではありません(6歳未満の者を一定の要件のもとで養子とする特別養子の場合には「日本人の配偶者等」の在留資格が与えられます)。」「なっとく法律相談<外国人を養子にできる?>」このことから伺えるのは、6歳未満の養子であれば、一定の要件のもとで定住資格が得られると言うことだ。これは、6歳以上の養子については、原則として定住資格は認めないという風に読める。だからこそ、入管も機械的な対応としては認めないということになったのだろう。しかし、この原則がいかなる時にも変わらないと、固定的に「形而上学的」に考えれば、それは現実に対応できなくなるだろう。現実は、法律が想定していなかった例外を常に生み出すからだ。もしタイ少女のケースが例外に当たるものだったら、6歳未満という場合でないにもかかわらず定住資格が与えられると言うことになるだろう。その判断に対して、彼は「法律をねじ曲げ」たとしか受け取れないようだ。彼にとっては、この法律の適用の例外は考えられないことなのだろう。「形而上学的思考」は例外を認めることが出来ない。実際には、現実はこのケースが例外であるかどうかを判断するという方向に行った。「出入国管理法は、6歳未満の子供が養子になった場合など一定の要件について定住資格を認めているが、それ以外についても「特別な理由」がある場合は定住資格を認めると定めている。メビサさんの両親は亡くなっているため、タイに扶養できる親せきなどがいないことが資料などで確認できれば、「特別な理由」に該当する可能性が出てくるとみられる。」「<メビサさん>法相が在留資格更新と定住資格の検討を指示 」僕は、現実の様々な条件を配慮して、法律の解釈を変えるのが、論理的に当然だと思っているのでそう理解していると言うことを語った。この現実への臨機応変の対処に対して、あくまでも「法律をねじ曲げ」ると解釈している彼が、この現実をどう理解するかというのを僕は聞きたかったのだが、そういうふうに質問を受け取ってくれなかったようだ。それから、在留資格を定めた法律に関しては、その理解が間違っているのではないかと思える記述もあった。「ちなみに彼女が申請している定住者資格とは、血統主義だけを取っている為に日系2世や3世の帰国に対して、出生地主義の国家が付与した国籍との関係から発行される場合と、難民認定された人が祖国に帰還するまでの間、日本国内に滞在する為に発行される場合に限られている。温情や署名の多寡で、規定対象外の人に対してルールを捻じ曲げて発行するのは法治国家の精神ではない。 (7月6日23時39分) 」これは、彼が繰り返し主張していることだが、定住資格についてインターネットで検索すると、「定住者ビザの法務Q&A 」というものが見つかる。ここでは、「定住者ビザとは、法務大臣が特別な理由を考慮し一定の在留期間を指定して居住を認める者のためのビザないし在留資格のことをいいます。定住者ビザは、あまり聞いたことがないビザかもしれませんが、ビザ法務では非常に重要です。」というふうに定住者について説明している。そして、「具体的には、法務省の告示(定住告示)に以下のように例示列挙されています。」と書いて、実に多岐にわたってその対象者を列挙している。そして、その列挙したあとに、「定住者ビザというのは、もともと曖昧さのある入管法上のビザないし在留資格の中でも最も曖昧なビザと言えましょう。すなわち、実際には、明確な基準はまだあまりありません。ただ、法務省告示の形である程度の類型化・定型化もはかられています。但し、上記の告示はいわゆる「例示列挙」であって、「限定列挙」ではないことに留意する必要があります。」と付け加えている。「限られている」わけではないのである。これを「限られている」と考えてしまうのは、そういうふうに書いてある情報をどこかで見たからそう言っているのだろうか。しかし、論理的に考えてみて、そう限られていたら、現実に対処することが難しくなることが分かるだろう。だから、それはちょっとおかしいのではないかという誤謬に対するセンスが必要だと思う。それは、上に紹介したページでも、こう語られている。「Q3: 上記の告示に該当しないときでも定住者ビザは与えられるのですか?A3: 与えられることはあります。本来、入管法令には色々な種類のビザないし在留資格が規定されていますが、それらに当てはまらないものでも、法秩序全体の精神からみて、在留を認容するのを相当とするべき事案はいくらでもありえます。つまり、すべてを網羅的に列挙するのは困難なのです。」現実は、ある意味で無限に多様で豊かだということである。その豊かさに対応するためには、緩い曖昧な規定が必要なのである。それは、決して「法律をねじ曲げ」ることではない。むしろ、現実に正しく対処するために、法律に柔軟性を持たせているだけのことである。もちろん合法的にだ。報道に寄れば少女は、「昨年2月、短期滞在資格で入国した。現在は帰国準備などを目的とする「特定活動」の在留資格を得ている。7日で期限が切れるため、5日に東京入国管理局に資格延長を申請していた。」ということだ。より長く日本に滞在できる定住者として認めてもらいたいというのは、きわめて当たり前の希望だと思う。何しろ、少女は、これからもずっと祖母の元で暮らすことを考えているのだから。問題は、身よりのない少女が、祖母を頼って日本で暮らしているのを、何か不当な目的があるというふうに判断するかどうかということだ。不当な目的があることが分かれば、定住資格は得られないだろう。しかし、身よりのない少女が祖母の元で暮らすというだけの理由であれば、これは人道的に考えても特別の配慮で定住資格を出しても法解釈上は問題ないだろうという問題なのだと僕はとらえている。決して「法律をねじ曲げて」いるのではない。定住資格に対するやりとりは、論理の破綻というよりも、定住資格をどうとらえるかという誤解の問題だと思うが、この誤解の原因には、やはり「形而上学的思考」である、物事を固定的に見るという誤謬が関わっているだろうと思う。法律解釈が固すぎるのだと思う。さて、この次は、論理破綻がもっと際だつような所を分析してみようと思う。これは、彼の言葉の中の論理矛盾を指摘することで、破綻した論理が、いかにして矛盾を導いてしまうかということを分析してみようと思う。
2004.07.11
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僕の日記を訪れてくれている人は、どのくらい掲示板の方を訪れてくれているだろうか。楽天日記の掲示板は、個人的なやりとりを公表しているにすぎないものなので、あまり関心のないものはのぞかないで通り過ぎていくだろうが、このところは、某S氏くんと、タイ少女の問題をめぐってやりとりをしている。僕は、彼の論理はすでに破綻していると判断しているのだが、論理に関心のある人は、具体的にどこが破綻しているのかを考えてみると論理の訓練になると思う。個々の書き込みに書かれていることにとらわれていると、その破綻はなかなか見えてこないかもしれない。へりくつというのはどうにでも語れるものだから、個々のやりとりは、それなりにお互いに理屈を言っているように見えるからだ。論理が破綻しているかどうかを判断するには、その全体像をつかんで、個々の論理が、全体の中でどう位置づけられるかを見ることが出来なければならない。このやりとりの最初から、ちょっと詳しく分析して、彼の論理がどうして破綻しているかというのを僕なりに説明してみようかと思う。これは、破綻した論理を使っている当人には分かりにくいものだが、岡目八目という言葉もあるように、利害から離れた他人からは、その破綻がよく見えるだろうと思う。僕も論理の応用問題として、彼の論理の破綻を論理の問題として解いてみようかと思う。まず、彼は最初の書き込みで、「我が国は明治以来の由緒正しい法治国家ですから。自分に都合のいい時は法律をねじ曲げろって言うのは人治国家ですな。 (7月5日20時4分) 」と書き込んでいた。そこで、僕は、「言う」という言葉があったので、「自分に都合のいい時は法律をねじ曲げろ」というのを、誰が言っていたのかというのを問題にした。この主張は、明らかに間違ったものだから、誰がそのようなことを語っていたのかを明らかにすれば、それを言った人間を批判すれば、この主張はそれで終わりだからだ。しかし、彼の返事は期待したものではなかった。誰が言ったのかという「誰」には答えてくれなかった。次のようなものだ。「少女だから、可哀想だから法律をねじ曲げてでも強制送還するなと言うのは法治国家のやることではないと言いたかったんですがね。(略) (7月6日10時28分)」「法律をねじ曲げろ」ということの内容として、「少女だから、可哀想だから法律をねじ曲げてでも強制送還するな」というふうに、「強制送還するな」ということの理由として、「少女だから、可哀想だから」という理由を挙げている。これも不当な主張なので、いったい誰がこのような主張をしているのかということを僕はまた聞いた。僕の感覚としては、誰かが彼の言うような主張をしていて、それを彼が非難していると思っていたのだ。そして、僕はその「誰か」が間違っていると考えているので、彼がそれを主張することには少しも反対しない。だから僕も同じようにその「誰か」を非難してやろうと思っていたのだが、彼はその「誰か」を指定することが出来なかった。彼の「言う」という言葉を使った部分は、実は誰かが言っていたことではなく、彼がそう考えているということを表しているに過ぎないのだということがその後のやりとりで分かった。これは、彼が意味している「法律をねじ曲げて」という部分の認識を考えるとそういう受け取り方が出てくる。「法律をねじ曲げてでも少女を救え」と誰かが主張しているのではなく、「少女を救いたい」と願っている人間はすべて法律をねじ曲げているのだと、彼が解釈している、と考えざるを得ない。それは次のような言葉から伺える。「血は法よりも強いというのは、人治主義を正当化するセリフですね。法治主義は、血縁や義理人情よりもルールが強くなければ維持できないんですが。14才の少女で可哀想だから法律をねじ曲げてでも日本に居させろと言うのは法治国家ではあり得ない論理です。(7月6日23時39分)」少女を救いたいと願っている人が、具体的にどのような考えを持っているのか、事実を調べることなく、「14才の少女で可哀想だから法律をねじ曲げてでも日本に居させろ」と主張していると、彼が受け取っているのが、この文章から伺える。もし、本当に少女を救いたいと願っている人のすべてが、彼が思い込んでいるような主張をしているのなら、彼の非難も当たっているのだが、これはとんでもない事実誤認だと僕は思う。実際に、僕自身は、少しもそんなことを思っていないにもかかわらず、少女を人道的に救いたいと思っている。あくまでも合法的に。「温情や署名の多寡で、規定対象外の人に対してルールを捻じ曲げて発行するのは法治国家の精神ではない。 (7月6日23時39分) 」これも、彼の思い込みだ。「温情や署名の多寡」で運動が勝利に導かれると思っているとしたら、運動に対して非常に甘い認識しか持っていないといわざるを得ない。いくら日本全国の「温情や署名」が集まろうと、論理的に正当な強い根拠がない限り運動は勝利に終わることはない。時にはそれがあってすらも運動が勝利しないこともあり得るのだ。実際には、報道にもあるとおり、「出入国管理法は、6歳未満の子供が養子になった場合など一定の要件について定住資格を認めているが、それ以外についても「特別な理由」がある場合は定住資格を認めると定めている。メビサさんの両親は亡くなっているため、タイに扶養できる親せきなどがいないことが資料などで確認できれば、「特別な理由」に該当する可能性が出てくるとみられる。」「<メビサさん>法相が在留資格更新と定住資格の検討を指示 」「特別な理由」があることが証明されれば、「法律をねじ曲げる」ことなく、定住資格を認めることが出来るのである。彼には、現実が特別な理由を発生させるということが理解できないのだろうか。どんなことがあっても、法律が一字一句、自分の解釈通りに適用されないと、「法律をねじ曲げた」と解釈するのだろうか。彼のような思考法は、哲学史では「形而上学的思考」と呼ばれている。これは、自分の頭の中で作り上げた世界を固定化して、現実を無視して思考を進める方法である。これは、それが出来る対象について考えているときは、正しい結果をもたらす。ある種の数学は、定まった対象に対して固定的な思考をすることもあるので、その場合に限り、形而上学的思考も真理をとらえることが出来る。対象が、ある意味での固定性という特徴を持っていれば、形而上学的思考でも真理をとらえることが出来る。しかし、対象が変化するものである場合は、固定的にとらえる形而上学的思考では、その変化をとらえることが出来ずに誤謬に陥る。彼は、法律を形而上学的にとらえ、現実をあくまでも法律にあわせようとする形而上学的思考に陥っている。しかし、現実は変化するものであり、法律というものが人間のためにあるものであり、社会の安定のためにあるものであるという認識があれば、現実の変化に対応して、弁証法的思考が出来なければならない。弁証法的思考というのは、言葉は難しいが、臨機応変に、現実に従って考えを進めろということだ。ことわざ的な思考を考えるといい。「急がば回れ」ということわざと、「善は急げ」ということわざがあるが、これは両方とも真理だと我々は認識している。それは、ある場合には、慎重に事を進めて「急がば回れ」が真理であることを理解し、ある場合には、タイミングが大事だということから、急ぐことが正しいと理解するからである。状況によって真理が違うという理解をしている。このことわざ的理解が出来る人間だったら、弁証法的思考が出来るのである。彼の論理の破綻の根本原因は、弁証法的思考が出来ず、形而上学的思考に陥っていることにあると僕は理解している。それは、対象が弁証法的特性を持っているにもかかわらず、そのように対象にあわせた思考が出来ないから論理が破綻するのだと思っている。彼の論理の破綻の根本原因を僕はそのように論理の構造に見るわけだが、これを、全体の地図と思って、さらに具体的に彼の個々の発言を分析していこう。しかし、ここまでで十分長い文章になったので、続きはまた明日にしよう。続きは明日だが、最後に一つだけ付け加えておこう。ここに書いた文章は、彼に対する批判ではない。僕は原則として個人は批判しない。彼がどんな考えを持っていようと、それは彼の自由だ。彼が、ある種の一般性を代表しない限り批判する気はない。これは批判ではなく、彼とのやりとりのまとめなのだと僕は思っている。彼が僕の所にやってきたので、このようなやりとりが生まれた。そうでなければ、僕は彼に対して何か言及するということはなかっただろう。そういう意味で、これは批判というものでは決してないのである。
2004.07.10
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「多数決原理」を否定するという牧さんの運動論を紹介したが、これになかなか賛成できない心情というのは、真理はいかにして得られるかという考えに寄っているような気がする。多数決で多数の賛成を得られた考えというのは、必ずしも真理ではないのだが、それに積極的に賛成した人間は、「仮説」であることを忘れて「真理」のように思い込んでしまうのかもしれない。「真理」であれば、押しつけることにためらいがなくなってしまう。科学の歴史を少し振り返ってみれば、革命的な新発見の真理というのは、たいていは最初の頃は少数派だ。それは当時の常識から見ればあまりにも常識はずれなので、検討することなく真理性を否定されている。コペルニクスの地動説は、その正しさを今は誰も疑う人がいないけれど、彼は死んでからでなければその考えを公にすることが出来なかった。産褥熱の原因を突き止めて、消毒を徹底させることでそれを防いだゼンメルヴァイスの真理は、立場上の利害が絡んでいたので、多数派を得るのに時間がかかった。患者の死亡の原因が、医者自身が消毒というものに気がつかなかったからだという、医者の責任であるという主張は、消毒というものに気を遣わなかった時代には受け入れがたいものだったのだろう。多数派に支持される「仮説」というのは、大した影響を持たないものだったら、冷静な判断をしさえすれば、かなりの人が「真理」である「仮説」を支持するようになるだろう。しかし、ある種の利害が絡んでくると、「真理」の判断に「利害」が影響を与えてくる。客観的な観点から「真理」を判断するのではなく、「利害」という観点から、利益をもたらす方を「真理」だと判断する気持ちが働いてくる。歴史を振り返れば、多数決では真理が判定できないと言うことに気づくだろう。真理の判定には、多数決ではない確かな方法が必要なのである。そして、その確かな方法が見つからない間は、真理は決定しないのであるから、どのような意見であろうと「仮説」の一つに過ぎないのだという認識が必要だと思う。それが、どんなに確からしく見えようと、どんなに権威のある人間が言っていようと。それがマルクスが座右の銘にした「すべてを疑え」と言うことの精神だろう。僕は、昨日の日記で「珍獣くえすの書きなぐり日記」の[2004.7.6]の記述を批判した。それは、「養子に対して定住者資格を発行するとなると、日本で労働したい人に養子縁組の権利を売るビジネスが可能になる。婚姻の権利を売るビジネスでは、一度に一人しか入国させられないが、養子ならば何十人でも入国させられる。したがって、書類だけの養子に対して定住者資格を発行するようなことは、絶対に認められない。」という、これ自体では「真理」だと思える文章も批判の対象にした。それは、この文章自体の「真理性」を批判したのではなく、この文章が持っている「真理性」が、他のことの「真理性」の証明に使われているので批判をしたのである。ここでは、「書類だけの養子に対して定住者資格を発行するようなことは、絶対に認められない」という正しい主張がされている。このこと自体は、抽象的な表現であるが、僕は正しいと思う。しかし、抽象的であるだけに、現実に具体的に適用するときは、その適用した現実が、この抽象的な主張と同じ構造を持っていることも、「証明されなければならない事実」なのである。タイ少女の問題が、「書類だけの養子に対して定住者資格を発行する」という問題であるかどうかは、自明なことではない。書類だけの養子ではないと主張する人がいるので、もっと充分に調べて結論を出して欲しいと言っているのである。むしろ、書類だけで、6歳未満ではないから申請を受け付けないと言うことの方が、現実を無視した形式主義なのではないかと批判しているのである。「書類だけの養子に対して定住者資格を発行するようなことは、絶対に認められない」というのは、正しい主張であるが、これは、タイ少女の問題が、この真理に当てはまると言うことを証明はしない。タイ少女の問題が、この認められないケースに当てはまると言うことが証明されたとき、定住者資格を発行しないと言うことの正当性が証明されるという、論理的な関係になっているのである。タイ少女の問題について何らかの証明をしたいのなら、具体的にその問題における事実を用いて証明しなければならないのである。抽象的にあることが証明できるからと言って、それのアナロジー(類推)で真理が証明されるという構造にはなっていない。真理に対して敏感な人間は、それが確かに証明されているかどうかを気にする。そして、確かな証明がされていないときは、それは誤謬の可能性を残しているという受け取り方をするのだ。まことに真理の証明は難しいという前置きが長くなったが、それだけに、牧さんが主張する格言として、次のような言葉が有効性を持つことが分かる。・「べし」「べからず」でやせ細り・小さな禁止が大きな抑圧「べし」「べからず」で主張することが出来ることと言うのは、真理であることがハッキリしていることだ。しかし、真理であることがハッキリしていれば、こんな風に力んで主張しなくても、結果として真理が実現するのを余裕を持って見ていればいいとも言える。真理であることの確信を持っているときは、牧さんが語っているように、「なるほど、うまくいっているときには押しつけないはないなァ」と言うことになって、少数の反対派に押しつけをすることなく運動が進んでいるのだろうと思う。しかし、真理であることの確信が持てないと、押しつけないと誰も動かないという状態になりかねないと心配になってくる。そうすると、運動は「やせ細り」という状態になっていく。誰も動かないので押しつけるようになり、押しつけるからますます動かなくなると言う悪循環になる。労働組合の衰退などは、この悪循環の結果なのではないだろうか。この「べし」「べからず」というのは、日本の学校教育の中でも数限りなく存在する。しかし、学校の側が主張する「べし」「べからず」のなかで、それが真理であることが証明されたものは一つもない。いったい誰が、それを押しつけてもいいという正当性を証明した人がいただろうか。牧さんはこんな主張をしている。「学校などもそうですね。「べし、べからず」が多すぎます。たとえば学校で決める校則をとってみても、実に細かくいろいろと決めている。一つ一つをとってみると、どうでもいいようなことばかりなんです。髪の毛の長さだとか、靴下の色だとか……それに従ったところでどうと言うこともないようなことがたくさん書き連ねてあります。 決める方(学校)からすれば「こんなどうでもいいようなことなんだから、学校側の言うことを聞いてくれ」と言うことで、そういう校則を作っちゃう。ところが、決められた方(生徒側)からすれば、逆に、いやもっと深刻に「そんなどうでもいいことでさえ、俺たちの自由にならないのか」となります。これはもうたいへんな抑圧です。人権問題だと僕は思います。 人殺しや泥棒を禁止されたって、誰も抑圧だなどとは感じません。みんながしてはいけないと思っていることを禁止されたって、抑圧なんかに感じません。「どうでもいいこと」を禁止されるから、ものすごく抑圧に感じるわけです。」この意見に僕は大いに共感する。学校は、自ら押しつけるものに関して、それが真理であるかどうか証明をしなければならないと思う。そして、証明できないことについては、押しつけをしてはいけないんだと考えなければならないと思う。証明できないことを押しつければ、自らの意に反して従うという奴隷根性を育てることになってしまうのだ。そして、奴隷になりたくない主体性を持った人間は、このような押しつけに対して反発するだろう。この反発する人間こそが、本当は自ら考え・自ら行動する人間であるはずなのに、真理性に鈍感であると、そういう人間を正しく評価できない。正当な反発を、単なる非行としてしかとらえられなくなる。そして、ますます押しつけを強化するという悪循環に陥る。真理性の証明というのを気にすることは、真理に対する敏感さを育てる。そして、それは誤謬に対する敏感さにも通じる。このような真理と誤謬に対する敏感さを持った人間が、議論の果てに多数決をするのなら、僕はその多数決はかなり信用してもいいだろうと思っている。それは、たとえ間違えたとしても、その間違いから何かを学べる間違いになるだろう。本当に難しい問題を解決するには、間違いを重ねて、間違いから学ぶことが出来なければ、困難を乗り越えることは出来ない。民主主義が本当に機能して、大衆の利益を実現するようになるのも、大衆の一人一人が、真理と誤謬に敏感になり、証明された真理だけを信じるというふうになったときに、現実のものになるのではないだろうか。そして、信頼される民主主義になるのではないだろうか。
2004.07.09
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タイ少女の問題に関しては、テレビの報道などもあり、この楽天でも何人かの人が日記で取り上げていた。僕の掲示板でも、ここ何日かやりとりが続いている。僕も、この問題に無関心だったわけではないけれど、個人的に何か付け加えることがなかったので、あえて日記では取り上げなかった。この問題は論理的には少しも難しくないと思う。「<メビサさん>法相が在留資格更新と定住資格の検討を指示 」という記事によれば、「出入国管理法は、6歳未満の子供が養子になった場合など一定の要件について定住資格を認めているが、それ以外についても「特別な理由」がある場合は定住資格を認めると定めている。メビサさんの両親は亡くなっているため、タイに扶養できる親せきなどがいないことが資料などで確認できれば、「特別な理由」に該当する可能性が出てくるとみられる。」と言うことが報じられている。だから、問題は「特別な理由」が証明できるかどうかと言うことなのである。タイ少女が13歳だからとか、かわいそうという同情から、「法律をねじ曲げてでも」少女が日本にいられるように働きかけるという問題ではない。法律の規定に従って、「特別な理由」に該当するような事実があるかどうかを調べるという問題なのである。「特別な理由」があれば法律に従って少女の在留を認めればいいだけの話なのである。もちろん、「特別の理由」に該当しないという判断をしてもいいが、それは、その判断が妥当かどうかと言う批判は受けると言うことを自覚しておかなければならないだろう。判断の妥当性を主張するには、事実をしっかりと調べなければならない。事実を調べもせずに機械的に法律を適用しようと言うことに多くの人が疑問を感じて反対しているのだと思う。事実を調べるにはある程度の時間がかかるだろうから、「日本滞在、認める方針 タイ人少女問題」という記事にあるように、「東京入国管理局は6日、在留期間を3カ月延長し、メビサさんの親族の現況などをあらためて調べ、今後の在留資格を判断する方針を決めた。」と言うことにもなるのだろう。これは、きわめて論理的に正当な対応なんだと思う。もっと早い時期にこのような対応がなされていれば、多くの人が心を痛めるような問題にはなっていなかっただろう。この事実の確認については、一般市民である我々には確かめる方法がない。だから、これはしかるべき所の調査を待たなければならない。事実が分からなければ、これから先の判断というものは、論理的には出来ないのである。だから、僕もこのことには、今まではあえて言及はしなかった。今後、何らかの事実が発表されるときがあれば、その時にまた振り返ってみようかと思う。この問題に対しては、僕は法律の機械的適用に疑問を感じていたが、入管の窓口の担当者に責任があるとは思わない。僕も行政の末端に位置するような役人の端くれなので、役人の立場上の振る舞いというのは理解できる。立場上定められた行動をしなければならないと言う役人は、個人の判断を仕事の面で出すことが出来ない。個人的にはタイ少女に同情的であっても、入国管理法という法律を守らなければならない窓口担当者としては、機械的にそれを適用して対処するしかない。こんな時に臨機応変に対応されたら、その対応の妥当性を判断しなければならないが、個人としてそれが出来ないケースもたくさん出てくるだろう。役人の対応は、ある程度機械的にならざるを得ない。それを補うのは、責任を持つべき高い地位にいる人間の判断だ。だから、いくつかの報道にあるように、法相の判断で「特別の配慮」をするのは、窓口の役人の限界を補うものとして、これまたまことに論理的に正当なことなのだと思う。「野沢法相は、東京入管が定住資格を認めなかったことについては「定められた要件に該当するか慎重に判断した結果と聞いているが、本人にとって良い結論が得られる方向で、再検討するよう入管当局に指示した」と述べ、最終的に定住資格を認めることも視野に置いていることを示唆した。」「<メビサさん>法相が在留資格更新と定住資格の検討を指示 」「野沢太三法相は六日の記者会見で、「本人にとってよい結論を得られる方向で再検討するよう、入管当局に指示した」と述べ、日本での滞在を認める方針を明らかにした。」「タイ少女の滞在 法相、認める方針 両親と死別、祖母頼り来日」「法相は「人道上の配慮」から、メビサさんが日本に定住できる方法を検討するよう法務省に指示。同省は今後、メビサさんを日本に滞在させたまま、タイに扶養者がいないことを証明する書類手続きを経て、「定住者」資格への切り替えが可能かどうかを検討する。」「タイ人少女メビサさんの在留延長認める、定住も視野」最後の引用に見られるように、「人道上の配慮」というものが、法相の判断においては大きかっただろうと思う。何しろ政府は、イラクで「人道復興支援」をするのだと主張しているのだから、国内で「非人道的」な行為をすれば、政府が語る「人道」というものに疑念が生じる。「人道」と言うことでの批判を避けたいという思いが働いただろうと思う。「人道」という言葉は、小泉さんの話にも現れている。「小泉純一郎首相はメビサさんの問題について、「私は人道的配慮がされるべきだと思っています」と述べ、自らの意向を反映させた措置であることを示唆した。」「<メビサさん>法相が在留資格更新と定住資格の検討を指示 」こういう背景があったと言うことは、この少女にとってはまことに運が良かったと思う。もし、政府が「人道上のこと」に敏感でなかったら、単なる一少女のことなどは無視されていたかもしれない。この問題がこのような展開になったのは、少女のために動いた多くの人の運動の結果だと僕は思っているけれども、その運動が「勝ち」の方向に振れたのは、「人道」を配慮するという状況が客観的にあったからだろうと思う。運動論を紹介した牧さんの発想で考えれば、これは、「勝てる運動」としての要素を持っていたのだろうと僕は思う。署名やインターネットの声が、政府への働きかけとして影響を与えたと解釈できるだろう。これは、大衆運動としては、久々の希望の光を感じるものだ。現実が論理的な方向を歩むのなら、ある程度このような正当性のある方へ向かうだろうという感じが僕はしていた。論理を無視するような方向が見えたら批判しなければならないと思ったが、論理的な方向に行ったので、僕はこのことにはあえて言及したいとは思っていなかった。しかし、掲示板で話題になり、僕と違う解釈がどういうものから生まれてくるかがよく分かったので、これをまとめておきたいという気持ちになって、このことに関連するニュースをいろいろと集めてみた。その際に、疑問に思ったことが一つある。「法相告示では、永住者の養子でも6歳未満であれば定住者への資格変更が認められる」という記事を読んだが、6歳以上ではなぜ認められないかという理由を書いた記事がどこにも見あたらなかったことだ。6歳で区切ることを批判しているのではない。どんな年齢でも、養子縁組さえすれば定住が認められるという制度になっていれば、それを悪用する人間も出てくるという懸念はよく分かるから、どこかで区切りを入れることは論理的に正当だと思う。しかし、その区切りを入れることの理由をいくつか挙げておくべきではないかという気がしてならない。どういう懸念を避けるために区切りを設けたかと言うことを。その理由が分かれば、「特別な場合」というのを判断することが出来るからだ。それがなかったら、窓口としては6歳という機械的な区切りで判断するしかなくなってしまうだろうと思うからだ。窓口の人間の人間性というものを、もっと発揮できるように理由をいくつか明記しておいて、その場合は特別の配慮をするための調査をするという規定になっているべきではないかと僕は感じた。そうすれば、窓口の人間だって、冷たい態度だと分かっていながらも、そうせざるを得ないと言う葛藤を味わうことが少なくなるだろう。最後に、「珍獣くえすの書きなぐり日記」の[2004.7.6]の記述をちょっと批判しておこう。僕は、個人を批判すると言うことは原則的にやらないことにしている。その個人が、何らかの一般性を代表しているときに限り、一般論としてその主張を批判することにしている。ここでの主張も、この主張を一般論として受け取って批判したいと思う。僕は、この人に対して何らの個人的な情報を持っていないので、個人的な面での批判は何ももっていない。上のページに表れた文章を見る限りでの一般論としての批判である。ここには、「ボタンの掛け違いの始まりは、日本人と結婚した祖母という存在に有る。祖国を捨てたのに孫は捨てていないというわがままが、全ての根本である。この申請者はタイに存在する筈の母方の血縁者に養育してもらうというのが筋であり、母方の血縁者が養育を放棄しているのであれば、タイ政府が孤児として処理するというのが正当な手続きである。」と言う文章が見られる。これは、一般論として展開すれば、国際結婚というものをどう見るかという解釈の問題として受け取ることが出来る。彼が、このような観点で国際結婚を見ているというのは仕方のないことだが、これが「客観的な見方」だと考えたら間違えるだろう。日本は二重国籍を認めていないので、結婚して日本国籍を取得した場合は、「国籍を棄てた」ように見えるが、それを「祖国を棄てた」と解釈するのは、かなり情緒的な解釈だと思う。「祖国を棄てた」という言葉に、どのような意味を込めているのか分からないと、これを客観的に受け取ることは出来ない。実際には、二重国籍を認めてくれれば、国籍も棄てる必要がなくなるだろう。現実的には、国籍を棄てずに、定住者として外国人登録をしているものもいると思う。また、「孫を捨てていないというわがまま」という判断も疑問に思うところだ。「わがまま」という言葉をどう定義しているのだろうか。「孫を捨てない」というのは、単に愛情を持っているということではないのだろうか。それをわがままととらえる解釈に僕は疑問を感じる。また、「祖国を捨てたのに孫は捨てていないというわがまま」という判断は、ある種の条件付き命題ととらえることも出来る。「祖国を捨てた」という前提があるにもかかわらず、「孫を捨てていないというわがまま」を言うのは不当な主張だというふうに読みとれる。つまり、前提となる「祖国を捨てた」という判断が、この主張においてはかなり大きなウェイトを占める。この判断が間違っていたら、この主張は論理的には成立しなくなるのだ。タイ少女の祖母は、本当に「祖国を捨てた」のだろうか。長くなったので、一部コメントの方に移す。
2004.07.08
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田中宇さんの最新のメールマガジンが届いた。これは、次の所にアクセスすると見ることが出来る。「狂牛病とアメリカ 」ここで田中さんが直接語っているのは、アメリカの執っている狂牛病対策の政策への疑問だ。アメリカが行っているような対策は、基本的に狂牛病の被害を防ぐことに役立っていないのではないかと主張している。それは、利権の絡んでいる人間の利益を守るために、他の理由を優先させて安全性を危険にさらしているという批判だ。田中さんが扱っているのは現実的な問題で、これからどうなっていくかが分からない問題だ。だから、田中さんは自分の主張をすべて「仮説」という形で語っている。その「仮説」は、これから事実が確かめられることで「真理」の資格を獲得するかどうかが決まってくる。それが「真理」であることが信頼できるかどうかは、田中さんが構築する論理が、今までに知られた事実と整合性がとれているかどうかにかかっている。今までに知られた事実と整合性がとれているからと言って、まだ知られていない事実は考慮の中に入っていないのであるから、それが大きな影響を与えるものだった場合は、田中さんの「仮説」が間違っている場合も大いにあり得るわけだ。この結果をとらえて、田中さんの「仮説」を否定的に評価することも出来る。しかし、僕は田中さんが構築した論理の「過程」を評価する。その「過程」が論理的に納得のいくものであれば、もし間違えた場合も、その間違いを論理的に受け止めることも出来る。間違いをこれからの問題を考える際の参考にすることが出来るのだ。この狂牛病に関するレポートも、田中さんの論理のすばらしさを感じるものだと僕は思っている。どこを僕が評価するのか、具体的に見ていきたいと思う。田中さんの報告は、「アメリカ東海岸のニュージャージ州に住むフリーランスライターのジャネット・スカーベック(Janet Skarbek)さん」のクロイツフェルト・ヤコブ病の調査のことから始まる。ヤコブ病というのは、「ヤコブ病は100万人に1人しかかからない病気」と言われているくらい珍しい病気らしい。それが、「ヤコブ病で死んだ2人は、同じ職場に勤めていたことがあるのだった」と言うことを知って、スカーベックさんは、「100万人に1人の奇病が、同じ職場から3年間に2人も出るのはおかしい」と感じて調査を始めた。ここまではちょっと鋭い感覚を持っている人ならば誰でも気づくようなことだろう。しかし、これは確率的なことなので、現実的には本当に偶然的なことも起こりうると考えられるのがまた確率現象でもある。「変だなあ」と思っても、その印象だけでは「変だ」という判断にすぐ結びつくことはない。しかし、スカーベックさんが、これは「変ではないか」と疑問を提出したときに、「変ではない」と即座に断定するような反応が出てくると、「変ではないか」という疑問が正しいのではないかという可能性が高まっていくと僕は思う。普通は、「変だ」という判断も「変ではない」という判断も、互いに同等なもので、どちらかに優位性があるかどうかはよく調査してみないと分からない。だから、その疑問を解消するためによく調査をしましょうという判断がかえってくるのが普通ではないかと思う。スカーベックさんが感じた疑問というのは、彼が調査した「13人の死因は、いずれも散発性のヤコブ病と診断されていた」が、「散発性ヤコブ病は100万人に1人しか発症しないが、競技場の従業員や会員の発症率は、その何千倍という大きさだった」のはおかしいではないかという疑問だった。田中さんの記事によると、当局は、このスカーベックさんの疑問に対して最初はなんの回答も与えなかったらしいが、狂牛病騒ぎが起きてから、その様子が変わったらしい。「当局からは何の返答もなかったが、昨年12月、アメリカ北西部ワシントン州の屠場で狂牛病の牛が見つかり、全米が大騒ぎになった後、スカーベックの調査は一気に米内外のマスコミの注目を集めるようになった。その後、CDCから依頼を受けた地元ニュージャージ州の保健局がスカーベックの調査について再度検証したが、その結果は「13人は全員が散発性ヤコブ病の症状であり、変異性ではない。アメリカでは狂牛病は発生しておらず、変異性のヤコブ病が起きることはない」というものだった。」昨年12月に大騒ぎになってから注目されたというのだから、回答が出されるまでが少し早すぎないだろうかと僕は疑問を感じる。ちゃんと調査されたのだろうかという疑問を感じる。さらに、その結論を出すことの理由として、「アメリカでは狂牛病は発生しておらず」と言うことを理由にすることにも疑問を感じる。スカーベックさんの疑問は、まさに「アメリカで狂牛病が発生したのではないか」という疑問だったはずなのに、その疑問を否定したことを、証明なしに根拠にしているように僕には感じられる。これは論理的におかしいのではないかという疑問だ。僕に生じた、この「おかしいのではないか」という思いを、田中さんは、様々の事実で、そのおかしさが生じてくる合理性を説明している。普通で考えればおかしいのだが、そこに何らかの利権が絡んでいると言うことが読みとれると、そのおかしさが、実は利権のための動きだと言うことが理解できてくるのだ。おかしさというのは、頭の中に生まれた論理的矛盾だが、それは、現実の解釈が、普通はこうであるはずだというものがあって、それに照らして考えるとおかしいという判断になる。しかし、現実が、僕が考えている普通とは違うものであった場合は、そのおかしさは十分現実に存在するものとしてとらえられる。そして、改善すべくは、そのおかしさを存在させている現実の条件の方であって、この場合で言えば、一部の人間の利権をそのままにしておいて、狂牛病の安全性を確保することが出来ないのではないかと考えることだ。だから、利権の構造の改革こそが、安全性の確保のために必要だという論理展開になる。田中さんが指摘する利権の構造には次のようなものがある。「ニューヨークタイムスによると、農務省の広報担当責任者であるアリサ・ハリソンは、アン・ベネマン農務長官によって現職に任命される以前は、牛肉産業の業界団体である「全米牛肉協会」の広報担当部長をしていた。ハリソン女史は、牛肉生産者のために米政府による安全強化政策に抵抗したり、「アメリカには狂牛病は存在しない」と主張するプレス発表をおこなうことなどが仕事だった。 ハリソン女史は、農務省に入ってからも「アメリカには狂牛病は存在しない」とする発表資料を作り続けたが、農務省に入ることで、彼女は自らの主張を「業界」の主張から「国家」の主張へと格上げすることに成功したことになる。 このほか、ベネマン長官のもとで政策を立案している農務省の高官たちの中には、畜産や農業の業界団体の戦略家から転進してきた人が多い。たとえば長官の首席補佐官をつとめるデール・ムーアは全米牛肉協会の首席ロビイスト(政府に圧力をかける担当)だった。農務省は、業界に乗っ取られている感がある。ブッシュ政権は、選挙時に政治献金をもらう見返りに、業界の戦略家が官庁に入って業界寄りの政策を立案することを許したのだと思われる。」このように、業界の利益を代表する人間が、政府を代表して調査の結果などを発表すれば、それは、業界に有利になるように、業界の利権を守る方向での発表になることが理解できそうだ。この背景があれば、「おかしい」ことが少しも「おかしくなくなってしまう」。このほか、利権に絡んだ事実では、田中さんは次のようなものも指摘している。「アメリカの牛肉業界団体と大手4社の生産者は、日本向けだけに狂牛病検査を認めると、米国内の消費者も検査を求めるようになり、やがてすべての牛を検査しなければならなくなり、膨大な費用がかかるとして検査に反対している。農務省は彼らを意を受けて、できるだけ検査を行わない戦略を採り、検査をやりたいという一部の生産者に対しては「今年秋には日本政府と政治的な折り合いをつけ、検査を実施せずに対日輸出が再開できると思われる。もう少し辛抱すれば、検査費用なしで日本に輸出できるようになる」と説得している。」スカーベックさんの疑問がどうしてあのような扱いを受けたのかは、このような背景を知るとよく理解できる。疑問が間違いであると証明できるのならいいが、もしも疑問が正しいと言うことが証明されてしまったら、利権の構造はすべて壊れてしまう。利権の構造を守るためには、スカーベックさんの疑問を否定しなければならない。それも、ちゃんとした理由で否定しようとすると、かえってやぶ蛇になって逆の結果が出てくる恐れがあるから、曖昧にしたり、無理な理由で否定しなければならなくなる。これが「おかしい」と感じることにまたつながってくるから論理をひっくり返すというのは難しいものである。田中さんは最後に、「もう一つ、的外れかもしれないが心配なのは、アメリカの狂牛病発生は、もしかするとアメリカ上層部に自国経済を自滅させようとしている勢力がいることとつながっているのではないか、という懸念である。」と語っているので、この文章だけを見ている人間は、田中さんは「陰謀論者」だというふうに見えてくるだろう。しかし、田中さんは、この判断を「懸念」であると言って、締めくくりには、「ただし、私のこの見方は、他の問題に対して米政府が行っていることからの類推で考えたものであり、明確な根拠のある分析ではない。」と語っている。上の判断は、あくまでも類推であり「仮説」に過ぎないのだと言うことを明言している。仮説を提起しておくというのは、考えられるあらゆる可能性を頭の中に入れておくと言うだけのことで、これこそが正しい解釈だと主張しているのではない。一つの可能性として考えられることが、他の可能性を排除しても主張できるというのは、確かな証拠をつかんだときだけである。確かな証拠をつかんでもいないのに、「陰謀があるに違いない」と言うことを根拠にして「陰謀」を主張すれば、これは眉唾物の「陰謀論」になるが、可能性の一つとしてそれも考慮の中に入れておこうというのは、論理的な考えとして少しもおかしいものではない。それは、確かな証拠が得られるまではあくまでも「仮説」として扱われるだけなのである。僕は、田中さんの論理展開の見事さの方を評価する。結果的に予測が当たったかどうかだけを見るような、占い師的な評価はしない。過程を評価するので、田中さんは素晴らしいと思うのだ。
2004.07.07
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「反対のことは せず させず」という「多数決原理」を否定したやり方で現実に運動をした例というのを、牧さんの文章から紹介してみよう。「目から鱗が落ちる」という感じで受け止めてもらえれば、僕と同じ感覚を持ってもらえるかもしれない。クロム酸塩というクロムという金属の酸化物を製造している「日本化学工業」という会社があった。クロム酸塩というのは、皮をなめしたりメッキなどに必要なもので、日本化学工業は市場占有率が60%くらいあった、この業界では大手だったらしい。「六価」という言葉は、原子価が六価であることを表しているのだが、クロムというのは重金属で、非常に危険な物質だと言うことだ。その粉塵を吸うと癌になったりするそうだ。六価クロムで有名になったのは、「鼻中隔穿孔」と呼ばれるもので、鼻中隔(鼻の穴のついたての部分)に穴があくことが新聞でも報道されていた。このような六価クロムの危険性は、それまでもよく知られていて、上のような被害が報告されていたにもかかわらず、会社の側はちゃんとした対策を取っていなかったようだ。牧さんがこの運動に関わったきっかけは、たまたま仲間に、上のような被害を労働災害として闘争をしたために会社をクビになった日本化学工業の社員がいたからだそうだ。その仲間から運動の相談をされて、牧さんが提案したやり方が「反対のことは せず させず」というやり方だったそうだ。そしてそのやり方でこの運動は大勝利をおさめたと牧さんは評価している。この運動を組織する被害者の人たちは全部で100人以上いて、地域も様々で、お年寄りも多いという状況だったらしい。普通なら、各地域のブロックを作り、代表を選び、その代表で会を運営していくというのが、日本における運動の「良くあるスタイル」だ。しかし、このような代表制だと、決定に直接関わっていないので、自らの意志が反映しないと言うことがありうる。そうすると、必ずしも賛成ではないことが決定された場合に、決定されたからと言うことで押しつけられるという「多数決原理」が避けられなくなる。直接の被害を受けた人たちは、切実な思いを持ってはいるものの、今までも運動を起こしたわけではなく、会社からは見捨てられていたような感じだった。ある意味では主体性に欠けていたとも言える感じだった。そういう人たちに、押しつけを感じてしまうような組織方針を採ったら、運動はおしまいになってしまうだろうと牧さんは判断したのだった。牧さんにやる気があっても、牧さんはあくまでもサポーターの立場だ。当事者の被害者たちにその気がなかったら運動は成り立たない。運動を成り立たせるために、牧さんは「多数決原理」の否定という方針で運動を進めようとしたのだと思う。このほかに、もう一つの特徴として、牧さんは「全員参加の総会主義でやろう」ということを考えていたそうだ。事務局がいろいろと提案はするけれど、決定をするのは全員参加の総会でやるという方針を採った。この二つの基本方針が運動の行方にどのような影響を与えるかを考えてみたい。総会で決定に関することはすべて扱うということは、その決定に関しては何らかの意味での責任を担うという意識を持つことになるだろう。主体性が生まれてくることになると思う。誰かが決めてくれることを待つというのではなく、自らが決定に関与すると言うことが主体性を育てるのだと思う。そして、その決定に関して反対の立場なら、決定したことの行動に関しては、必ずしも参加しなくても良いというのであれば、反対であれば態度を明確にしておいた方がいいという気持ちにもなるだろう。ここでも主体性という点が鮮明になるような気がする。決定は、多数の意見によって決定されるのであるから、賛成した多数が運動の主体を担うのがある意味では当然なんだと思う。このような方針を採って運動を押し進めると、議論は激烈になるけれども、決定を受け入れるときは議論の参加者はほとんど納得をしてその決定を受け入れるようになる。反対者には無理矢理決定を押しつけないのだし、邪魔をするなという要求は受け入れられる要求だからだ。当事者と応援団に関する関係についても、示唆に富む意見が書かれている。運動というのはあくまでも当事者が主にならなければ進まないから、決定に関しては当事者にゆだねなければならない。応援団が、これが正しいのだという押しつけをしてはいけない。しかし、正しいか正しくないかを決定していない、「仮説」を出し合う議論の段階では、応援団もどんな考えも出していいという言論の自由を保障しなければならないだろう。だいたい、応援団の方が運動に関しての経験もたくさんあり、議論の段階ではむしろ応援団の方が主になるだろう。しかし、決定に関しては、極端なことを言えば、応援団の数は有効票に入れないくらい、当事者の意見の方を重視すると言うことが必要になるんじゃないかと思う。運動の決定は、あくまでも当事者が担うと言うことだ。実際に運動を進めていくと、会社へ押しかけたりする必要も出てくるらしいが、被害者の中には会社へ押しかけていくのはどうもいやだなあと思ったりする人も出てきたりする。その人たちには、決定したのだからと言うことで、いやなことを押しつけると言うことは決してしないように気をつけたようだ。それは、賛成した人たちが担うことだと考えたのだ。牧さんは次のような誘い方をしたらしい。「みんなで決めたんだから、会としてはやる。でも、あなたは来るも来ないも勝手です。まァどんなもんだか見物がてらご覧になりにいらっしゃいよ。野次馬の中に入って一緒に見てりゃ面白いんじゃないの。」このような方針で進めた運動は、牧さんの予想通りにうまくいってしまうのだが、その評価を次のように牧さんは語っている。「そうすると、次の総会の時にもやはりその人たちも出てきます。その時に、行動に参加しなかったことで、その人たちを差別するようなことは一切しない。その時の意見に賛成できなかったんだから、その行動に参加しなくったって当たり前だと。 こうやって運営していくと、組織は分裂することはありません。分裂するどころか、結束は固まるばかりです。反対の意見の人まで強制して行動させるから「ふざけるな!」となって、分裂しちゃうんです。それを強制されなければ、納得がいくわけです。そうすれば、元々志は同じなんですから、分裂するわけがない。」運動の分裂を避けるために「多数決原理」の否定がいかに有効かという経験を牧さんは語っている。しかも、これは分裂を避けるという消極的な効果にとどまらず、かえって結束を強くする方向にも影響を与えると言うことも経験したようだ。運動においては、この方針は僕もかなり有効だと思う。そして、運動というのは、主体性を持った人たちが、何かに働きかけようとしたときに生まれるものだから、主体性を持った活動全般に、運動の論理が有効に適用されるのではないかと思う。主体性を育てようとしている教育の世界でも、本当はこの「多数決原理」の否定をうまく取り入れなければならないんじゃないかと僕は感じている。今の学校教育が奴隷教育に等しいもので、全く主体性を育てていないのは、「多数決原理」が支配しているからではないかと僕には感じられるのだ。運動において、牧さんが語る「多数決原理」の否定はとても有効だということが分かったが、勘違いしてならないのは、この方法でやりさえすれば「どんな」運動でもうまくいくと思ってはいけないことだ。有効な方法というのは、「勝てる」運動を運営するときに有効性を発揮するのであって、最初から勝ち目のない運動を運営するときには、全く有効性を発揮しない。「勝てる」運動であるにもかかわらず、間違った運営でそれを潰してしまうことが多い中で、牧さんの方法を使えば、うまくいくというふうに考えなければならないのだと思う。六価クロムの事件に関しては、その有害性が明らかなもので、被害者の無知につけ込んで会社がごまかしていたのだと言うことがハッキリしていた。だから、被害者の要求が当然のことであって、会社の言い逃れを一つ一つ否定して行きさえすれば勝てるという運動だったようだ。それが、それまでは被害者の孤立というものに助けられて会社の方が言い逃れをしていたという状況だったようだ。被害者が団結することが出来れば、上の運動は勝利が見えてくる。だから分裂しないような運動方針が必要だったのだろう。このように、「勝てる」見込みのある運動だから、うまく行く方向が見えてくる方針が有効に働くのだと思う。このことに関連して、牧さんはさらに示唆に富むことを語っている。次の言葉などは、崩壊した社会主義国家の失敗を分析するヒントにもなるのではないだろうか。分裂した労働運動を解釈する際にも有効な考え方だと思う。「ところが、日本の組織ではしばしば正反対のことが行われる。反対派に無理矢理に多数派の言う行動をやらせる。その行動をやることが、組織に対する忠誠度のテストにされる。このロイヤリティ・テストくらい運動を暗くするものはない。そしてこれくらい運動をダメにするものはありません。 そこでは組織に対する忠誠というのは、組織がその時決めた方針に対する忠誠というふうに受け取られている。しかし、その時々の方針に対する忠誠と、組織のそもそもの目的に対する忠誠とは、本来別のものです。ある場合には、その時の方針に反対だというのが組織そのものの目的に対して忠誠であることもある。それだのに、その時々の、正しいかもしれないけど、間違っているかもしれないような方針に従うことだけが忠誠だとされたら、これはもうやっていられない。」全くその通りだと思う。いわゆる愛国心だって、今の日本政府の方針に逆らうことこそが真の「愛国心」だと考えることだって出来る。多数決で決めたから正しいという保証なんかどこにもないのだと言うことを認識しなければならないだろう。さらに最後に、反対のことをさせないという方針を採ったら、誰も何もやらなくなるではないかという意見が聞こえてくることに対して、牧さんが次のよう語っている文を引用して締めくくりにしよう。運動というのを、苦しくてもまじめにやらなければならないと思っている、優等生的な人間には生まれてこない発想だと思うが、僕は大いに共感するものだ。「まァこんなことを言うとすぐ、「冗談じゃない、そんなこと言ったらみんな出てこなくなっちゃう」という声が聞こえてきそうです。しかし、その声に対する私の答は簡単。「大部分の人が出てこないような行動なら、そんな行動を決めた方針が間違っとる。直ちに運動方針を再検討しなさい」と言うことです。あるいは「大部分の人が参加しないような運動なら、それは運動自体が間違っとる。そんな運動おやめなさい」と言うことです。」よく、「これは大事だからやらなければならない」と主張するまじめな人がいるけれど、運動というのは、「大事だから」という理由でやるものではないはずだ。「大事」なものなどは世の中に溢れている。そのすべてに対して運動なんか出来るわけがない。運動をするのは、客観的情勢が「勝てる」という判断が出来るものをやるべきなのであって、「勝てない」と思ったら手を出すべきではない。その「勝てない」運動は、牧さんが語るように、「大部分の人が出てこないような行動」を提起するような運動だ。「多数決原理」を否定するような組織だったら、僕も主体的に熱心な運動をすることが出来るんだけれどなあ。なかなかそういう組織というのは見あたらない。残念なことだ。仕方がないので、僕は反対のことを押しつけられそうになると、いつもその組織を離れる結果になってしまう。たいていは、そのような組織は衰退しているんだけれど、牧さんのように学べる人が少ない。これも、誤謬に鈍感なせいだろうか。
2004.07.06
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以前に「マル激トーク・オン・デマンド」で、世論調査を疑え、というようなテーマの時があった。最近は、世論調査というものがよく紹介されるが、それをどう受け取るかという問題は、現実の社会をどう解釈するかという問題と密接に関わっている。疑問を持たずに、鵜呑みにするような解釈をすれば、判断を誤るのではないかという感じがしてならない。世論というのは、社会の中の大部分の人が、ある種の問題に対してどのように考えている人が多いかという分布を、擬似的にとらえようとするものだと僕は思う。これは、対象とする人すべての意見を聞くのであれば、かなり正確に捉えられるかもしれないが、それは不可能なので、常に擬似的にしかとらえられないものだと思う。また、ある種の問題というのは、その問題の設定や、答の言い方によっては、分類が非常に難しいこともあり得る。そうなると、擬似的にさえとらえているのかどうかと言うのも疑わしくなる。また世論というものが本当に存在するのかという疑問もある。世論というのは、ある種の問題に対する人々の判断の分布を問題にするのだが、そもそも判断が出来る人が圧倒的に少なかったら、それは「世論」と呼べるのだろうか。誰か判断をする人間に同調しているだけの人間の方が圧倒的に多ければ、同調している対象の人間が、ちょっとしたきっかけで変われば、「世論」は大きく変わったと言っていいのだろうか。それは、「世論」が変わったのではなく、最初から「世論」なるものはなかったのではないだろうか。付和雷同するような人々が多いときは、世論なるものは存在しないのではないか。だいたい世論調査というのは、「もしかしたら、世論の動向は、こんな風になっているかもしれませんよ」という「仮説(解釈)」を提出しているだけのことなのではないだろうか。時々、その世論調査を、自分の主張の正しさを示すために使っているのではないかと受け取れるものを見かけることがある。そういうふうに自分の主張が真理であることを証明しようとする、真理に対するセンスは、僕には全く狂ったセンスにしか見えない。誤謬に対する鈍感なセンスだ。真理は世論調査によって証明されるものではない。事実を論理的に考えて、論理と現実(事実)が一致するという整合性を証明することで、真理であることが証明されるのである。世論調査を、自らの主張の証明の補強に使おうという心理が働くのは、論理だけでは弱いという思いから使いたくなるのではないかとも思える。ブッシュ大統領がイラク開戦に踏み切ったとき、アメリカの世論はブッシュ支持に大きく振れた。圧倒的に支持されたからと言って、ブッシュ大統領のイラク攻撃が正しかったという結論には結びつかなかった。イラク攻撃に関しては、それが失敗だったという評価が固まりつつあるが、それでもまだそう評価できない人間がいる間は、失敗だと言うことは完全な真理とは言えないかもしれない。しかし、かなりの多くの人が、イラク攻撃が失敗だったと認めるようになれば、そう判断することが正しいという見方をすることによって、かつて世論がブッシュ大統領のイラク攻撃を支持したのは、誤った判断が影響して支持したのだと解釈が出来る。世論調査の結果というのは、何かが正しいことを証明するのではなく、その時々の大多数の人々の判断が、結果的に見て妥当なものだったかどうかを、あとから判断するのに役立つものかもしれない。そういう意味では、世論調査が古いからといって、その古さを古いと言うだけで批判することは出来ない。古い調査であっても、その時点での人々の意識を分析するのであれば、十分いま考える意味があるといえるのである。古い調査をもとにして、現在を予測しようとすれば、それは間違った判断に結びつくかもしれないが、古い調査の古い点を考慮して受け取れば、古いものでも大きな価値を持つのだと思う。新しい調査が価値を持つのは、何らかの主張の正しさを考えるときに価値を持つのではなく、現在から未来へかけて、世論が影響を与えるような現象に対して、正確な予想を立てたいときに、調査が役に立つ場合が出てくるのではないだろうか。選挙の予想をするときに世論調査が利用されるのは、このような考え方のもとではないだろうか。それは予想であるから、必ずしも当たるとは限らないが、当たる確率を出来るだけ大きくするために(世論)調査が使われると受け取った方がいいのではないだろうか。世論調査が現実を正しく反映しているかどうかは、その質問の仕方・標本の抽出の選び方など、世論調査の方法を検討することで判断することが出来る。しかし、現在発表される世論調査というものは、結果は報道されるが、その過程が報道されることはほとんどない。世論調査の専門家がやっているのであるから、現在考えられる最高の方法でやっていることを信用するしかない。しかし、現在考えられる最高の方法であっても、全く新しい面を調査する場合に遭遇したら、その新しい問題に対しても最高の方法で調査されているかどうかは分からない。世論調査は、常に誤差の中にある。それを意識して、鵜呑みにしないように気をつけなければならないのではないかと思う。真理であるかどうかを考える基礎になるのは、やはり論理の方だ。世論調査は、その論理を展開するときに、見落としていたことや・重要性を忘れていたことなどに気づくために利用した方がいいだろう。世論調査を短絡的に他のことに結びつけて解釈してはいけないと思う。世論調査が表している表面的な事実は何かと言うことを正確に捉えなければならない。世論調査だけでは、決して本質的なことは分からないのであり、結論めいたものを出してはいけないと思う。世論調査については、統計の学習とともに、もっと深く考えてから、実際の調査を見ていきたいと思う。勘違いして受け取らないために。
2004.07.05
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民主主義制度の一つの特徴である「多数決原理」について、僕の尊敬する板倉さんは、最後の奴隷制というような表現を使っていた。多数決というのは形式的には、何か物事を決定するときに、それが意見が分かれるようなときは、多数の意見に従う決定をするということを意味する。いくつかの選択肢から、何か一つを決定するときに、もっとも賛成した人間が多いものを選ぶというのが、民主主義的な多数決の考え方だ。そして、その多数決で決定したことがある種の「拘束力」を持つと考えるのが「多数決原理」である。たとえ多数決で反対意見に投票したものでも、多数決で決定したことに対しては従わなければならないと言うものが多数決「原理」なのである。たとえ反対であっても、その意志に反して決定を押しつけるというのを、板倉さんは「奴隷制」だととらえた。板倉さんの「奴隷制」だという考え方に違和感を感じる人もいるだろう。「みんなで決定したものはみんなで従う」ということは、民主主義の時代に生きている人はほとんど疑いを持っていない考え方だからではないかと僕には感じる。しかし、板倉さんのようにこの考えに疑問を提出する人もいる。そして、前に紹介した牧さんもこの「多数決原理」に違和感を持っている人だ。この「多数決原理」がいかなる場合でも間違っていると、牧さんが主張しているのではない。これは板倉さんも同じだ。「多数決原理」が正しい場合もあるだろう。「多数決原理」で物事を進めなければ困る場合もあるだろう。しかし、ある場合には「多数決原理」が事態を阻害し、失敗をもたらすこともある。その失敗を正しく認識して、「多数決原理」が通用しない場合・条件をつかむことによって、物事をもっと深く・正しく認識したいと考えるわけだ。そんなことを牧さんの「運動論いろは」から学びたいと思う。ここでは、「反対のことは せず させず」と語って、「多数決原理」を否定している。それは次のような失敗を教訓としている。運動において「多数決原理」に従うのは、少数派にとってはひどい押しつけと感じるものになる。しかしそれでもなお決定に従わせようとすると、「そんなこと一緒にやらされるくらいなら、俺たちは別の組織を作って、俺たちの思うように運動をする、ということに必ずなる」と牧さんは主張している。「多数決原理」は運動を分裂させてしまう方向に働く。牧さんは、運動を遂行するときに限っては、「多数決原理」はその運動の阻害になり、運動を分裂に導くだけだと主張する。だからこそ、運動においては「多数決原理」は間違いだという主張になる。運動を進める人間は、その運動に賛成する人間だけでいいというのなら、どんどん分裂しても多数決原理を押しつけていけばいいだろう。しかし、そうして運動がどんどん小さくなっていけば、運動は大衆的支持を失い、その目標が実現されることはなくなるだろう。運動は、大衆的支持を得るという手段を用いて展開しなければならない。この大衆的支持を得るには、「多数決原理」を押しつけてはならないのである。牧さんは、運動の方針というものを基本的に次のようなものと考える。「そもそも多数を取ったからといって、その意見なり方針なりが運動を成功させるかどうかはわかりゃしない。多数を取ったって、その方針が正しいかどうかは、その方針に従って運動をやってみた結果、すなわち実験の結果が出なきゃわかりゃしません。その実験をやる前には、少数意見も多数意見も両方とも等しい価値しか持っていない。」つまり、方針というのは「仮説」に過ぎないんだから、反対する人がいて当然だと考えるわけだ。それは解釈に過ぎないんだから、観点が違う人は違う解釈をするに決まっている。正しさが証明されて「真理」になるのであれば、それを理解できないのは、理解できない方が悪いと言うことになるが、「真理」になる前であれば、どう解釈しようとそれは自由である。なお逆に、結果が出て運動が失敗したにもかかわらず、今度はその結果を解釈して、「仮説」である方針の間違いを認めない人間もいる。方針が間違っていたのではなく、妨害するヤツがいたとか、情勢が悪かったとか解釈をするヤツがいるが、こういうヤツは、方針を立てるときにそれを見抜けなかった自らの不明が証明されたと言うことが分かっていないのである。運動においては、結果は解釈してはいけない。解釈するのは方針という「仮説」である。反対する権利を持っている人に対して、方針が正しいかどうかの実験をやらせるというのは非常にまずいと牧さんは主張している。これは頷ける指摘だ。反対しているのだから、運動の成功に疑いを持って動かなければならないことになる。こういう人間が、成功に向かって熱心に活動をするとは思えない。熱心さがなくても成功がもたらされるほど、簡単なものが運動としてなされることがあるだろうか。「本気にならずに(なれずに)やってうまくいくほど運動というものは甘かありません。」と牧さんは書いている。こういう風に論理的に考えて(解釈して)も、運動において「多数決原理」を押しつけることは、失敗をもたらすとしか思えない。牧さんは、このことを次のように語っている。「--よく、運動がうまく進まない、うまくいかないのは、日本に近代が確立していないためだ。近代的な個=市民が確立していないからだといった議論がなされたりします。そういう議論に対しては私は「冗談じゃない」と。「運動がうまくいかないのは、運動が参加者個々の自主性を抑圧し、ひどい押しつけをしているからなんだ」と言うんです。」僕もそう思う。僕はそれほど多くの運動に参加したわけではないけれど、運動というのは、崩壊した社会主義の国の国民はこのように感じただろうというような、主体性の抑圧を感じながら活動する種類の運動ばかりだった。そういう意味では、古い時代の左翼運動は僕は嫌いだ。「多数決原理」という奴隷制がそこにはあるからだ。牧さんの言葉に僕が共感するのは、僕が、運動における「多数決原理」を、牧さんと同じように認識しているからだからだと思う。そういう経験があるから、牧さんが言うことがよく分かる。しかし、牧さんは、「多数決原理」に反対するからといって、「押しつけ」にすべて反対するのではない。「多数決原理」がもたらす「押しつけ」は、「押しつけ」の中での特殊なものなのだ。「多数決原理」も、「運動における」という条件を付けた場合に間違いになるという認識だが、「押しつけ」についても、どんな条件の時に間違いになるかという発想でとらえている。こんな感じだ。「押しつけといってもいろいろあります。で、押しつけられた当人、教育・授業においては生徒--その生徒が押しつけだと感じないようなことはどんどん押しつけちゃってかまわない。そういう押しつけはかまわない。効率もいい。しかし、生徒が「これは押しつけだ」と感じるような押しつけはやっちゃーならん。これが原則です。」実に明快な論理だ。相手の主体性というものが判断の基準であり、主体性を抑圧するような押しつけはやらない、しかし主体性の制限だと感じないような押しつけなら、本人が押しつけだと感じないのだから押しつけてもいいという考えだ。教師というのは、自分の考えが、どの種類の「押しつけ」になっているかという判断を直ちに行うセンスを磨かなければならないだろう。それが教師の資質の一つだと思う。この「押しつけ」は、運動の最大の阻害要因になっていると牧さんは言うのだが、「多数決原理」が残っている限り、この「押しつけ」が生まれる可能性はいつまでも残る。何しろ決定に対して反対意見を持っているものに決定を「押しつけ」るのであるから、主体性を抑圧する「押しつけ」であることは明らかだ。この「押しつけ」を排除するためにも、運動においては「多数決原理」はやめようと牧さんは提案する。しかしそうすると、いつでも「そんなことやって運動が成り立つものか」という反論に会うことになる。日本の古い運動の中で過ごした人には、決めたことを押しつけないと人は動かないと思っている人が多い。しかし、決められたことに対して行動しない人間の方が多いと言うことは、実は多数決の結果の方が間違いだという認識をしなければいけないんじゃないかと思う。嫌々賛成する人が多くなる多数決などは、主体性を持った人が、自分の意見を選んで決定した多数決ではないのである。人に行動を押しつけるのではなく、多数決の方を否定すべきだという方が論理的だろう。牧さんは、六価クロム禍公害反対運動の例を挙げて、この「多数決原理」を否定した運動の成功例を語っている。この成功例を理解した人は、運動において「多数決原理」を否定する方が正しいという確信を持つことだろう。しかし、文章があまりにも長くなってしまったので、この具体例は今度紹介することにしよう。
2004.07.04
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僕が師と仰ぐ三浦つとむさんは、誤謬論の重要性を強調している。特に、独創的な新しい問題に取り組む人間は、最初から成功をもたらすような単純な問題と取り組んでいるのではないから、手探りで一歩ずつ進めながら、失敗や誤謬を正しく評価して軌道修正しながら歩むことが必要だ。しかし、これまで文部省が進めてきた、知識偏重の教育の弊害だろうか、最初から「正解」がある問題ばかりを解いている学校優等生は、この失敗から学ぶと言うことが出来ない。新しい問題で、自分の頭で考えなければならない問題なのに、どこかに「正解」があるんじゃないかと知識を探しているような学校優等生が多いんじゃないかと思う。失敗から学ぶことが出来るのは、むしろ学校劣等生の方だろう。僕が尊敬する板倉聖宣さんも学校劣等生だった。東大を卒業した板倉さんを学校劣等生と呼ぶのは形容矛盾かもしれないが、数学の応用問題は良くできたけれど、単純計算はミスばかりをしていたという子供時代を考えると、板倉さんは学校優等生ではなかったと思う。板倉さん自身も語っているのだが、東大へ入ったのも、単にその時代に生まれ合わせたという「運」の問題だったそうだ。板倉さんは、仮説実験授業を提唱したが、そこでは「予想」の重要性を強調している。「予想」はこれから起こることを考えるのであるから、現実の条件を読み間違えたり・見落としていたりすれば当然失敗することになる。しかし、予想があるからこそ、それを読み間違えたとか・見落としていたとか言うことが分かるのである。予想がなければ、その自覚をすることが出来ないので、読み間違いにも見落としにも気づかないで行ってしまう。イラクに自衛隊を派遣したとき、宮台氏は、当のイラク人たちが米軍の占領に対して反感を持っているような状況の所に「軍隊」を送れば、現地で今まで活動してきたNGOやNPOのような民間活動家が危険にさらされるとずっとその予想を語っていた。それが国際的常識だと。このような予想を持っていれば、イラクでの人質拘束事件が起こったことも、軍隊を派遣している国の民間人が危険にさらされている現状を見ても、この予想と関連させて理解すれば、その事実は予想の正しさを示す(証明する)ものだと理解するだろう。しかし、予想をしなかった人間は、その行為を結果から解釈して、「テロリスト」はとんでもない犯罪を犯す奴らだと言うことしか頭に浮かんでこないかもしれない。しかし、そんなことが頭に浮かんできても、解決の方向は何も考えられない。「テロに屈するな」と叫ぶだけで、どうすれば「屈しない」でいられるかという具体的な方法は何も考えられない。失敗から学ぶことが出来ないからである。アメリカではマイケル・ムーア監督の新作が、ドキュメンタリー映画史上最大のヒットの記録を作っているらしい。これは、アメリカ人が失敗から学んでいることを意味しているんだろうと僕は感じている。ブッシュの支持率が下がり、大統領選で敗北をすれば、アメリカ人は本当に失敗から学ぶことが出来たんだなと僕は思うだろう。さて日本ではどうだろうか。来週は参議院選挙があるが、果たして我々日本人は、破滅への道を一歩ずつ歩んでいることをちゃんと自覚しているだろうか。果たして失敗から学んでいるだろうか。失敗を学ぶと言うことは、失敗を失敗として受け止めて、その原因を合理的に受け止めると言うことだ。原因が合理的に分かれば、それの対処も合理的に出来る。小泉さんが破滅への道を選んでいるのは、天災のように偶然降りかかった災難ではない。利権に絡む人間たちが、自分たちの利権を手放さないでいるために、本来は公益を守らなければならないところで、私益が優先されて破綻につながっているのである。失敗から学ぶ人間だったら、それが見えてくるはずだが、失敗から学べない人間には見えてこないだろう。失敗から学ぶというのは学校優等生には出来ない。「正解」のある問題しか解いたことがない人間には出来ないものなのだ。学校優等生の欠点は、試行錯誤が出来ないことだが、優等生であるために、自分の欠点を自覚できないという欠点もあるために、なお失敗から学ぶことが出来なくなる。自分のように頭のいい人間が失敗をするはずがないと思い込んでいるようだ。逆に言えば、失敗する人間はみんなバカに見えてくるのだろう。そうなると、ますます失敗を評価することが出来なくなり、失敗から学ぶことが出来なくなる。学校優等生でない人は、学校優等生からはずれた人に注目し、その人が具体的に失敗からどのように学んだかというのを見た方がいいだろう。そういう人として、僕はいろいろな人に注目したけれど、仮説実験授業研究会の牧衷さんという人に注目してきた。牧さんは、50年代の学生運動に関わった人で、その指導的立場にいた人だった。50年代の運動は、牧さんに言わせると次のような雰囲気を持ったものだったらしい。「その、1950年の4月から6月くらいの間に学生運動がものすごく高揚いたします。当時、私のいた東大教養学部には2000人くらいの学生がいたんですが、5月1日のメーデーに参加したのが10数人だったと思います。5月4日の「5.4運動」の記念デモには確か16人、それから5月16日にもデモをやりました。このときは……あまり正確には覚えていませんが、30~40人が参加したと思います。 それが6月4日のレッド・パージ反対のデモの時には、駒場だけで800人くらい集まった。これ、常時登校者が1000人くらいだから、800人というと8割方の学生が集まったことになる。 このように、わずか数週間--1ヶ月もない間にものすごい変化をする。」このように、牧さんは、運動の初期において輝かしい成功を経験することになる。この成功は、牧さんに、どんなことでも出来るという過信を与えたようだ。その思いが頂点に達したのは、1956年の砂川基地闘争の勝利だったようだ。牧さん自身の言葉でこの気分を伝えると次のような感じになる。「それで砂川闘争--砂川基地の拡張阻止闘争というのをやるわけです。これは、日本国政府がハッキリ「拡張する」と言ったのを、完全に阻止しちゃった。日本の大衆運動史上まれに見る勝利の闘争であります。こういう大闘争を学生が先頭に立ってやり、そして成功する、というくらい学生運動は力をつけていました。」運動というのは、まだ起こっていない現実に働きかけて、現実を変えていこうとする営みである。そこには様々の予想が生まれて、その予想のもとに行動すると言うことが必要になってくる。予想をしない運動などは、行き当たりばったりになり、ほとんど失敗する。かなり深く考えて予想をしても失敗は多い。砂川闘争のように成功する例は、本当にまれな例なのである。運動こそは、創造性を働かせて、失敗から学ばなければ成功しない最たるものなのだ。上のように輝かしい道を歩んでいた牧さんも、やがて大きな失敗に遭遇し挫折することになる。牧さんの挫折は、「試験ボイコット」という運動にかかわるものだ。レッド・パージというのは、大学から共産党員及びその同調者を追放するという形で牧さんたちの前に現れた。それに反対するために、牧さんたちは、学生に対して「試験ボイコット」を呼びかけた。第1回目の運動は大成功に終わった。学校側は試験をやろうとしたが、学生が一人もいないという事態に、試験そのものが成立せず、試験の中止を声明せざるを得なくなったそうだ。「試験ボイコット」の運動は大成功したが、レッド・パージの方は反対声明文にもかかわらずいっこうに中止する気配というものがなかったようだ。これは、ある意味では当然とも言えるもので、「試験ボイコット」の直接の影響は大学側にはあるけれども、政府や占領軍には直接の影響はないのだから、それに動かされなかったとしても仕方がない。しかし、牧さんたちは、「試験ボイコット」運動が大成功に終わったので、引き続き2回目の「試験ボイコット」運動をしようとしたらしい。それは、論理的に言えば、「レッド・パージ反対のためにやった」のだから、レッド・パージが引っ込められない以上、反対のためにやるべきだという論理になる。このとき牧さんは、全学連委員長の武井昭夫さんと論争をして勝ってしまい、「試験ボイコット」の方針を提出することになる。しかし、その方針は、学生たちの投票で否決されてしまい、民主的な支持を得なかった。運動家の間では圧倒的に支持された牧さんが、一般の学生には支持されなかったのである。この挫折をどうとらえるかと言うことから牧さんの「運動論」の追求が始まったらしい。1度目は圧倒的な支持を受けたのに、2度目はなぜ支持されなかったのか。何が違うのかと言うことを失敗から学ばなければならないと考えたのだろう。牧さんが論争に勝ってしまった相手の武井さんは、およそ次のようなことを語っていたらしい。「君の再試験ボイコットをやらなきゃならんと言う理屈も、やりたい気持ちも十分分かる。僕だって君と同じくらい再試験ボイコットはやりたいんだ。また、君の回ってきたクラスの学生たちがやろうといっているのも本当だろう。だが、それは君の周りの学生だからそうなんだ。それは学生の全部じゃない。君の影響の及ばない学生たちはそうじゃないかもしれないじゃないか。これまで大きな闘争をやって、活動家も学生も疲れている。くたびれているのに、ここでまた大きなエネルギーのいる闘争を無理押しにやろうとしても失敗するだろう。再試験ボイコットをやらなきゃならん、やりたいという気持ちは十分分かるが、それだからといって、それで再試験ボイコットが出来ると結論するのは、希望を持って現実にかえる議論だ。」牧さんは、当時はこの論理に納得がいかなくて反論をしたらしい。そして、多くの運動家は、牧さんの反論の方に賛意を示した。武井さんの言葉は、敗北主義のように見えたのだろう。しかし、実際には武井さんの言葉の方が正しいことが証明されてしまった。牧さんがこの失敗を反省し学ぶことが出来たのは、上の武井さんの言葉(予想)があったからではないかと僕は思う。武井さんの予想がまさに正しかったから、牧さんは、自らの失敗を深く受け止めることが出来たのではないだろうか。武井さんに見えていたことが、なぜ牧さんには見えなかったか、それが牧さんの問題意識の出発点だったようだ。もし牧さんが、失敗から学ぶことが出来ないで、この挫折をただ解釈するだけだったら、「世の中は自分の思ったとおりにはならないのだ」という苦い思いを抱いて、「だから世の中に合わせるしかない」と考えたかもしれない。学生運動を通り抜けた多くの人々は、たいていはそのように考えて、高度経済成長を支えるモーレツサラリーマンになっていったと僕は感じている。失敗から学ぶことができた牧さんは、未だに運動に関わり続けているし、現実を鋭く見抜く方法というものを教えてくれる。僕も、自らの人生は失敗の繰り返しだと思うだけに、牧さんのように失敗を正しく受け止めて自分を鍛えていきたいものだと思う。牧さんの、失敗に対する具体的な学び方を書きたかったが、すでに十分長い文章になったので、それはまたこの次にしよう。人間は失敗からこそ深く学ぶことが出来る。学校優等生でない多くの人間は、優等生にならずにすんで、この資質を失わないでいられることを感謝することにした方がいいと思う。この資質は、一度失ってしまうと、なかなか取り戻すことが難しくなるからだ。
2004.07.03
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評価というのは事実ではない。事実に対する自分の見方という主観を語るのであるから、基本的には解釈である。だから、ある意味ではどのように評価しようと、それは評価する人間の自由だ。自分の主観にのみ基づく評価であろうと、好き・嫌いという好みをそのまま語った印象評価であろうと、評価である限りでは何を言おうと自由だ。それが言論の自由というものだろう。しかし、評価を公にするということは、それに共感して欲しいと言うことがあるだろう。そうすると、自分だけが思っている主観的な評価ではなく、そこに何らかの客観性を持たせて、他人も同じように感じるという部分を持たせた方が、評価としては効果的だ。そういう客観性を持った評価は、自分がそう評価した根拠である事実を指摘して、それがあるから自分はこう評価するのだという語り方をしなければならないだろう。その評価によって何らかの利害関係が生じるような評価は、特にこの客観性を持たせることを考えなければならない。学校での教員の評価なども、教員個人の資質に依存した主観的な評価ではなく、誰が見ても妥当だと思えるような客観的な評価が求められるのは、その評価が生徒にとっては大きな利害を生むものになるからだろう。さて、いま田中宇さんというジャーナリストの評価を巡って掲示板でやりとりをしている。評価一般に関しては、僕は上のように考えるので、誰が田中さんをどう評価しようと、それは解釈である限りでは、なんとでも言えるものだと思っている。どう評価しようとかまわない。僕の評価は田中さんの論理性を高く評価するというものだ。僕は田中さんを高く評価するが、そうでない人がいても少しも不思議ではない。デリケートな問題を論じていれば、異論があるのは当然で、異論を持っている人間は高く評価したくないと言う者もいるだろう。そういった評価が、説得性のあるものだったら、僕の評価にも影響を与えるだろうけれど、説得性がないと思えば、僕の評価が変わることはない。その説得性は、上に書いた一般論でも指摘しているが、具体的な指摘を根拠にした言い方によるものが説得性があると僕は感じている。具体的な指摘が何もなく、単に印象を語っているだけであれば、その印象を始めから持っているものなら共感するだろうが、そうでない人間は全く共感できない。単に見解の相違だと思うだけだ。注目している部分の違いが評価に表れていると思うのだが、それを具体的に語らなければ、意見として受け止めることも出来ない。もし実りある対話をしたいと考えるのなら、自分がどうしてそのような見解(評価)を持ったかを具体的に語らなければならないと思う。僕はこういう考え方を持っているので、なぜ田中さんを高く評価するかというのを、田中さんの文章を具体的に引用して、どの部分が僕にそう思わせたのかを具体的に語ろうと思う。田中さんの文章を見て、僕と同じように感じてくれる人がいたら、僕の語ることに少しは客観性があるということになるだろう。田中さんは「田中宇の国際ニュース解説」というメールマガジンを出しているが、その2004年6月19日のもので、「ネオコンは中道派の別働隊だった?」というものがある。これから文章を具体的に引用して僕の評価を語ろう。この文章は、特に選んだものではなく、僕が持っているものの最新のメールマガジンを選んだだけのものだ。田中さんの文章は、どれも高く評価できるものなので、目についたものを適当に選んでも、必ず高く評価できるという予想から、この文章を選んでみた。まずこの冒頭の文章を僕は評価する。「ネオコンが開戦事由をでっち上げて挙行したイラク戦争は、アメリカの世界的な信用を傷つけた。米軍がイラクに縛りつけられたことにより、アメリカは軍事的な世界覇権をも失い、それに反比例する形でロシア、中国、北朝鮮、イランなど、アメリカが仮想敵とみなしてきた国々が力をつけている。ネオコンが提唱した単独覇権主義の戦略は完全に破綻し、今やこの戦略を続けるほど、アメリカは軍事力と威信を浪費する体制ができている。」と田中さんは語っているのだが、米軍の威信の失墜を、単に印象として語るのではなく、イラク戦争によって偏りを見せた軍事力の使い方が、他の所にどのような影響を与えた結果として威信が失墜したかを論理的なつながりで語っている。この論理性を僕は高く評価するのだ。アメリカのこのような失敗の原因を作ったのは、ネオコンと呼ばれるグループだが、それに対して田中さんは「アメリカを自滅させるようなことをしたのに、ネオコンはほとんど誰も辞めさせられていない」という疑問を提出している。もしも正義の人だったら、このことに怒りを燃やして、道徳的な憤慨を語ることだろう。しかし、田中さんは、この疑問に対して合理的な解答を見つけるべく事実を検討するという姿勢を持つ。これこそがジャーナリストとしての姿勢だと僕は思う。ここでも僕が田中さんをジャーナリストとして高く評価する根拠を一つ語ることが出来る。田中さんは、ビルダーバーグ会議(毎年1回、アメリカ、カナダとヨーロッパ諸国で影響力を持つ約120人が集まり、政治経済や環境問題なども含む多様な国際問題について討議する完全非公開の会合)というものに、ネオコンが招かれていることを指摘して、ネオコンの失敗は最初から予測されたものとして展開されているのではないかと推測している。このような推測は、一見すると「陰謀説」のように見える。わざわざ失敗をして混乱させるというのは、合理的に考える人間からは「陰謀」のようにしか見えない。しかし、そこに合理性を発見できれば、このように考えるのは必ずしも「陰謀説」と呼ばれるように、「根拠のないものをすべて陰謀に結びつける」というような考え方ではないことを感じるだろう。日本の真珠湾攻撃はアメリカの「陰謀」であるということがよく語られる。これは、何も根拠がないのであれば「陰謀説」であるが、様々の事実が解明されて、その論理的解釈をつなげていくと、「陰謀」であったという方が「事実」ではないかと思える可能性が高くなっている。アメリカという国は、真珠湾以前にも、「アラモの砦」などで陰謀を図っているという歴史がある。「陰謀説」であるか、正しい推論から導いた「陰謀」だという結論かは、その推論を見て評価しなければならない。「陰謀」のようなことを語っているという印象で、直ちに「陰謀説」だと解釈するのは単純な思い込みであるように僕は感じる。「陰謀」のように見える根拠として田中さんは次のような指摘をしている。「ネオコンの単独覇権主義が失敗したのだから、もはやネオコンは「用済み」にされてもいいはずなのに、事態は逆だ。昨年に引き続き今年の会議でも3人のネオコンが呼ばれたということは、むしろネオコンがアメリカをイラク戦争に引きずり込んで失敗させたことは、ビルダーバーグ会議で事前に予測された展開だったのではないかと思える。 (私のような在野のウォッチャーでさえ、イラク戦争は泥沼化すると開戦前から指摘できたのだから、ネオコンにやらせたらイラクは泥沼化するとビルダーバーグの人々は予測していたはずだ)」イラクで戦争をしたら泥沼化すると言っていたのは、田中さんだけではない。論理的な判断が出来る人はほとんどすべてがそう語っていた。だから、田中さんが、「ビルダーバーグの人々は予測していたはずだ」と語ることには根拠がある。そして、予測していてその通りに失敗したにもかかわらず、ネオコンが排除されないと言うことは、ネオコンは、その失敗を実際に遂行するという「陰謀」を行ったと解釈も出来るという主張を田中さんはここでしているのだろうと僕は感じる。田中さんの、「ネオコンはビルダーバーグ会議の意を受けてアメリカの政権中枢に送り込まれ、計画通りにアメリカをイラク戦争の泥沼に引きずり込んだ可能性がある。ネオコンと中道派は対立しているように振る舞ってきたが、実は両者は役割分担していただけではないか、ということだ。そう考えると、イラクが泥沼化してもネオコンがほとんど誰も政権の座から外されていないことも納得できる。 」という文章だけを単独で取り上げて論じたら、これは「陰謀説」を語っているようにしか見えないだろう。しかし、上の結論を導き出す事実の指摘と論理の構成を、全体像としてつかむなら、この主張は、「根拠のない陰謀説」ではなくて、「根拠のある陰謀説」であることが分かる。これが分かるかどうかで、田中さんをどう評価するかが決まってくるだろう。「陰謀」というのは、目的がはっきり分かるとなぜ陰謀が企てられるかというのも納得できる。「アラモの砦」も「真珠湾」も、強大な軍事力でただ叩くだけでは、世論というものがその正当性を信じてくれない可能性がある。「相手が悪いんだ」という世論を興せば、どんな残酷な叩き方をしても、ある意味では認められてしまうと言うことがあるだろう。アメリカ先住民や日本人に加えられたその後の残虐な戦闘は、「アラモの砦」や「真珠湾」があったからこそ行えたのではないかと思える。その目的があれば、陰謀を図るのも理解できる。この目的を田中さんはどうとらえているか。それは次のような意見で語られている。「ネオコンや中道派、ビルダーバーグなどがそろって同じ策略を行ってきたのだとすれば、彼らの目指すものは何なのか。私が見るところでは、それは「世界を多極的なシステムに転換する」ことだったのではないかと思われる。」それまでのアメリカは単独覇権主義だったが、多極的なシステムにするということは、国際協調主義に転換すると言うことを意味する。単独覇権主義では国益が図れないという判断があるのだろうか。田中さんは、「ネオコンがわざわざ単独覇権主義を宣言しなくても、アメリカは以前から事実上単独覇権体制だったのに、ネオコンが不必要に宣言してしまったため、世界の国々はかえってアメリカに協力しにくくなった」と語っているが、単独覇権主義を極端に押し進めればアメリカの国力がどんどん弱くなっていくと言うことを語っている。それでは、いままでの事実上単独覇権主義だった状況を、そのまま続けることはやがて破綻すると思ったために、その路線を変えるためにわざわざネオコンが、それを早めるようなやり方を担ったんだろうか。これは、普通に考えるとかなり無理がある「陰謀説」になる。もっといい方法もあったのではないかと感じるからだ。それでもなお、そのような主張に見えるようなことを語るのは、何か理由があるのだろうか。多極的なシステムを作ることは、アメリカの中道派にとっては経済的に重要なことだったらしい。それは、アメリカ以外にも、経済的に活性化する拠点を作って、アメリカの経済の発展をより大きくする効果があると思われるからだ。アメリカ一国だけが繁栄すればいいと言うのは、論理的に成り立たないのだ。全体の底上げが出来なければアメリカでさえもやがては衰退する。日本のプロ野球を見ていると、巨人だけが繁栄するという形がいま破綻するのを見るような気がするので、アメリカの中道派のこの考えは正しいと僕は思う。そして、そのためにこそこの陰謀が企てられたと田中さんは考えているようだ。次の部分を引用しよう。「ネオコンは、人権重視の単独覇権主義というタカ派の方針を踏襲したふりをしつつ、実際は人権を無視し、国際協調を壊して身勝手な外交を展開することによって、タカ派のふりをしてタカ派の作戦を潰したのだと思われる。イラク占領の泥沼化を機にアメリカは威信を失い、中道派が目指してきた多極型の世界が生まれつつある。」このことを直接証明できる事実を田中さんはまだ提出していない。それはまだ見つかっていないので、これは「仮説」の段階にあると言っていいだろう。しかし、そういった事実は、これからどのようなものに注目していけば見えてくるのかを田中さんは語っている。長くなったので一部をコメントの方に移す。
2004.07.02
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この本は、その帯の部分に「イラクの泥沼を日本外交の失敗と言わずして、なんと言うのか!?」という言葉を掲げているように、小泉首相に対する批判の書である。人物評価の書だと言っても言い。この評価に共感する人もいれば、共感しない人もいるだろう。評価というのは解釈であるからそうなって当然だ。小泉さんは個人ではあるが、日本国を代表する総理大臣でもある。だから、小泉さんに対する批判は、個人的な批判ではなく、総理大臣という立場に対する批判である。個人に対する批判を公にする意義というのは、個人が代表する立場に対する批判であるときに存在すると僕は考える。市井の一個人に対しては、批判を公表する必要はない。それは、親しい人間がいさめてやればいいだけのことだ。なぜ親しい人間でなければならないかというと、親しい人間でなければ、おそらく忠告というものを冷静に聞くことは出来ないだろうからだ。親しくもないのに、いきなり忠告をしてくる人間がいるが、僕にはその神経は理解できない。「小さな親切、大きなお世話」という言葉があるが、まさにそのような感じのするものだと思う。忠告ではなく、ある意味の公的な批判を返しているのであれば理解できる。しかし、どう見ても、個人的な資質に関することを書いているとしか思えないような記述を見ると、何の目的があってそのようなことをしているのかが僕には理解できない。理解できないだけに、そのような人間が、深層心理では何を望んでいるのかを知るのは大いに関心を持つものだが、そのような人間が書いていることには僕はほとんど関心を持たない。さて、この天木さんの本では、小泉さんの個人的な資質に関しても書かれている部分があるのを感じる。しかし、これは個人の欠点をあげつらって攻撃しているのではない。その資質が、日本の指導者としてふさわしいかという一般論的な部分を問題にしてるのである。個人にとどまっているのではないから、それを指摘して公表することに意義が出てくるのである。同じことをしても、条件が違えば、意義があると評価できたり、意義がないと評価できたり、全く正反対の評価も出来る。これが弁証法的思考というものだ。現実を正しく受け止めるには、弁証法を忘れてはいけないと思う。この本の前半部分を少し読んだだけなのだが、天木さんが語る小泉首相批判を引用してみよう。まずはまえがきの部分に表された次のようなものだ。「言葉は荒く無責任で、刃向かうものに容赦のない攻撃を加え、異なる意見に耳を傾けず、知識に対する謙虚さを忘れている小泉首相がこの国の指導者を続ける限り、日本中のあらゆるものが劣化していく。小泉首相を「わかりやすい」「面白い」と支え続けて、大きなものを失いつつあることに気づいていないのが、今の日本の姿ではないのか。」この文章はちょっと抽象的なので、具体的な知識がなければ共感をするのは難しいかもしれない。「無責任」というのは、何を指して「無責任」と言っているのかを知らなければ、単なる悪口雑言に聞こえるかもしれない。しかし、「無責任」の内容を具体的に知っている人間がこれを読めば、その通りと共感するに違いない。小泉発言の無責任さは随所に現れている。特にイラクに関しては、何がなんでもアメリカ支持をするために、矛盾したことでもなんでも言い逃れをするための無責任発言はたくさんあった。大量破壊兵器を巡る発言や、「非戦闘地域」を巡る発言などを思い出せば、その無責任さを知ることが出来るだろう。「フセインが見つからないからと言って、フセインがいないわけじゃないんだから、大量破壊兵器が見つからないからと言って、大量破壊兵器がないことにはならない」というような発言に唖然となった人は多かった。「私に聞いても分かるわけないじゃないか」というような発言は、面白かったかもしれないが、無責任であることは確かだ。「攻撃」に関して言えば、批判者に対しては、批判にまともに答えることをせずに、揚げ足を取るような答弁を繰り返すことにそれが現れていると僕は感じている。批判を嫌うというのは、「異なる意見に耳を傾けない」と言うことの表れだろう。「知識に対する謙虚さがない」というのは、天木さんが何度も批判しているが、日本の歴史に対する無知からくることを指しているのだろうと思う。靖国神社参拝に対して、どうして中国や韓国が敏感に反応するかと言うことが少しも分かっていない。歴史を全く知ろうとしないことへの表れだろう。「改革」という言葉を叫ぶだけで、「改革」の中身については何も分かっていないと言うのも、道路公団の問題で明らかになってしまった。これも「知識に対する謙虚さがない」ことの表れだろうと思う。ここで批判されているような資質が、総理大臣という立場にいる人でなく、なんの影響力もないただのおじさんのものであれば、それほど深刻にはならないだろう。世の中から見捨てられるのを寂しく感じて反省してもらえばいいだけのことかもしれない。しかし、総理大臣がこのような資質を持っていたら、国の進む方向に悪影響が出る恐れがある。だからこそ個人的な資質の問題であっても、公的に批判されなければならないのだと思う。このような批判を受け止めるのも、総理大臣としての公的な責任の一つだろう。首相としての行為を具体的に批判したのは、人質事件に関連して天木さんは次の点を批判する。「すなわち、今回の人質事件で、日本政府が深刻に受け止めるべきは、小泉首相がブッシュ大統領を支持し、自衛隊をイラクへ派遣したことが、イラク国民に「敵対行動」と受け止められている事実だ。そして、その結果、日本人の生命が確実に危険にさらされてしまったと言うことである。これから起こるであろうさらなる危機は、今回のような拉致だけに限らない。米国のイラクへの軍事占領と虐殺が続く限り、日本国民はあらゆる危険におびえねばならなくなったのだ。」これも僕には、全くその通りだと思えることだが、違う解釈をする人もいるだろうと思う。それはそれで仕方がないが、これに共感するかどうかで、これからの行動が違ってくることは考えなければならないだろう。アメリカが主張する「テロとの闘い」が正しいと思っている人間は、たとえどんな危険が発生しようと断固として戦う方向を選ぶだろう。しかし、天木さんの言葉に共感する人間は、その危険が「引き受けるだけの価値がある」危険だとは感じない。だからこそ、危険があればそれを避ける方向を模索するという行動になっていくのだと思う。知識に関する批判では、中東における「テロ」という言葉の意味をもっと深く考えると言うことの前提になる知識のなさを天木さんは批判している。中東の事件を、小泉首相は何度となく「テロに屈しない」という言葉で語った。これに対して天木さんは次のように語る。「そもそも、何をもって「テロ」と呼ぶのかは、中東政治と関わる上で細心の注意を払わねばならぬ問題である。その定義について国際的なコンセンサスがないばかりか、イスラエル、米国の立場からとアラブ諸国側からとでは、正反対の意味を持つ。 すなわち「自爆テロ」という言葉で象徴されるパレスチナ人のイスラエルに対する無差別攻撃は、イスラエル、米国にとっては「テロ」である。彼らの安全保障を脅かすあらゆる攻撃を、イスラエル、米国は「テロ」と呼ぶのだ。 しかし、圧倒的軍事力で無辜の市民を巻き添えにするイスラエル、米国の攻撃は、パレスチナ人、アラブ人にとっては紛れもなく、「国家テロ」なのだ。そのような「国家テロ」に体を張って戦うことは抵抗運動であり、民衆蜂起であるのだ。」小泉首相は、「テロ」という言葉をイラク人の側の行為に使うことで、自らの政治的立場を表明していることを自覚しているだろうか。自覚して言葉を使っているのなら、それはそれで仕方がないが、自覚していないで、何も知らないで「テロ」という言葉を使っているとしたら政治家としては失格である。政治家の公の発言は、すべて政治的発言として受け止められるのである。中東の人たちを敵に回したくないと思ったら、「テロ」という言葉の使い方に気を遣って、たとえ自分では本心では「テロ」だと思っていても、その言葉を使わないようにするのが政治家というものだろうと思う。この言葉を使えば、アメリカは喜ぶかもしれないが、中東の多くの人々を敵に回すのは確かだ。それは国益にかなうことなのか。アメリカにだけ喜ばれていればいいのか。もしそうならば、やはり宮台氏が言うように、「ケツ舐め支援」と批判されても仕方がないんじゃないのか。天木さんの鋭い批判はこれからも続く。続きを読むのが楽しみだ。さて、久しぶりに最近のニュースについてちょっと書いておこう。近鉄を買収したいと表明したライブドアという会社が出てきたらしい。この会社に対して、プロ野球側はかなり冷たい反応をしているように見える。これに対して、僕には次のような解釈が浮かんできた。ライブドアという会社は、現在の新しい時代を生き抜く新しい発想を持った会社のように見える。それに対して、プロ野球という企業は、旧態依然とした、古い体質の企業のように見える。「マル激」に出ていた二宮さんによれば、プロ野球というのは、親企業の宣伝媒体くらいにしか考えられていない企業だったらしい。その経営者は、親企業からの出向で、経営として成り立たなくても責任は取らないし、やがては親企業に帰ってしまう人間たちだ。だから、ほとんど企業努力というのがなされていないと批判していた。これだけ現実から学習をしない会社も珍しい、と二宮氏は語っていた。たとえ赤字が出ても、それは親企業の宣伝費くらいにしか考えられていない。それに対して、新しい発想を持った人間が、宣伝ではなく、本気で経営を考えて参入しようとしたら、これは古い人間にとっては脅威だろう。自分たちが淘汰される恐れがある。だから、ライブドアが参入するのはかなり難しいと僕は思う。問題は、ファンがどのようにこれをとらえるかだろう。旧態依然としたプロ野球であっても、とにかく巨人が勝ちさえすればいいんだよ、ということで残っているプロ野球ファンだったら、1リーグになろうが、巨人が強ければいいと言うことになる。しかし、野球そのものを楽しみたいというファンは、巨人だけが勝つリーグ戦にはほとんど興味を失うだろう。二宮さんは、1リーグ制にはほとんど魅力がないといっていた。しかも巨人だけが強いリーグなんかができあがったら、たとえば6月の時点で巨人が独走するような展開にでもなったら、その後は誰も見なくなるだろうと語っていた。しかし、それでもなおプロ野球のオーナーたちは、すでに1リーグ制が既成事実のように振る舞っている。ファンはいったいどの方向を望むだろうか。僕は、1リーグ制になったら、プロ野球人気が地に落ちて、衰退して欲しいと思っている。今でさえプロ野球に対する関心がないのに、1リーグ制になって、巨人のためだけのプロ野球ができあがったら、それはもはやニュースにすら関心を持たなくなる。心あるプロ野球ファンは、1リーグ制を目指すプロ野球を見捨てて欲しいと思う。そして、もしライブドアが、新しい発想でプロ野球経営に乗り出すのだとしたら、それを支持しプロ野球を再生する方向を支持して欲しいと思う。ライブドアという会社が本気でプロ野球のことを考えているかどうかはまだ分からない。しかし、今のプロ野球のオーナーたちが、1リーグ制に全く異議を唱えない以上、もはや彼らには期待できないと言うことだけは確かな感じがするので、少しでも良くなる可能性のある方に期待をしようと思う。
2004.07.01
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