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〇京の街角を歩いていると、町屋の門口に貼り付けてある奇妙な紙に目が行きます。どんぐり眼にカギ鼻、耳まで裂けた口、にょっきり生えた角、怒り肩にあばら骨。この木版刷りの護符は、角大師と呼ばれ、何と比叡山延暦寺を中興した18世天台座主慈恵大師良源さんの仮の姿。永観3(958)年の正月に入寂されたゆえ、元三大師として崇拝されています。何でも投げる豆を箸で挟み取る妙技を持ったお方だから、閻魔庁の権現とも、天狗の師匠とも称されたお人でした。 角大師の起源は、疫病神が良源を襲ったところ、逆に良源自ら降魔の姿となって、疫病神を追い払った、その姿を模したもののようです。京の町では、この角大師と並んで、門口には豆大師の護符を貼ることも。それは袈裟姿33体の元三大師だとか。
2024.07.31
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〇<紺のれん 吹く秋風になよなよとしるした文字も柳屋の 香う楊子がすんなりと銀杏娘の立姿 あはす両手や白魚の-指も切りましょ願いごと 観音様へ願かけてそっと見上げるまなざしは 江戸紫の藤の花 娘千両色ざかり>お家取り潰しで町娘になったお藤の話。浅草寺の境内には大銀杏があって、仲見世や茶屋の看板娘を銀杏娘と呼んでいました。浮世絵師・鈴木春信のモデルにもなった美人でした。花見の頃に酔っ払いに絡まれたお秋という娘を助けた時の、投げの見事さに、江戸界隈で評判の娘になったとか。-小唄の歌詞の語調が快いのは、七五調になっているからです。-私も調子の良い日は、朝から晩まで鼻歌やリズムに乗って生活しています。
2024.07.30
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〇ドラマ「裸の大将」シリーズで特に有名になった山下清画伯は、実際には放浪先より施設に戻ってから、記憶をもとに貼り絵を製作しておられたようです。つまり驚異的な映像記憶能力を持っておられた訳で、知的障害者の中では特定の分野にずばぬけた才能を発揮する「サヴァン症候群」の可能性が高い人だったとも。 某年某日、テレビドラマ「相棒」の再放送にも似たようなドラマが放映されました。それは兎も角、高血圧が持病の画伯が死の直前に人前でつぶやいた言葉が、「今年の花火はどこへ行こうかな」だったとか。
2024.07.29
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〇昭和45年頃、大和(現りそな)銀行の本店営業部に在籍していた時、預金部門と為替・出納部門は互いに客溜りの加減による対岸の配置でしたが、偶然に夏季休暇が一致した理由なのか、普段それほど親しくもなかった渡辺君と初日は名古屋一泊、翌日は米原経由で芦原温泉郷へ。予約していなかったので、旅館の女性に上から下へと一瞥を食らい、小さ目の部屋に通されました。温泉や料理の記憶は全然残っていませんが、 夜通し亡霊を感じて寝苦しい思いを二人して経験した事は今も残っています。
2024.07.28
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〇大山崎には重要文化財が沢山ありますが、千利休が作ったとされる「待庵」は国宝に指定されています。子供や大人数の団体の拝観は対象外で、駅前にある「妙喜庵」宛、事前の往復ハガキでの予約が必要とされています。利休について書物を繰っている中で、秀吉公の黄金の茶室の件があったので、少し引用します。<1586年9月、秀吉は宮中の小御所に黄金の茶室を持ち込み、天皇や親王方に手づから茶をたてました。吉田兼見は日記に前代見聞の見事さと記しています。それから4年後の九州名護屋城の茶会では、この茶室で雑煮を食べ、茶を飲んだ宗湛は、茶室から道具類までが黄金づくしだったと書き残しています。{金の御座敷のこと、平3畳なり。柱は金を延べて包み、敷居も鴨居も同前なり。壁は金を長さ7尺ほど、広さ5寸ほどずつに延べて雁木にしとみ候。縁の口に4枚の腰障子にして、骨と腰の板は金にして、赤き紋紗にてはりて、畳表は猩々緋、へりには金襴ー萌黄小紋・・・(宗湛日記)}>仮に大山崎にある「待庵」の内部を黄金づくしにしても、採光が充分では無いので、それほど派手ではないのかも知れません。(参考図書「京のかくれ話」の児島孝氏の一文)
2024.07.27
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〇大正15年12月25日から昭和になって、わずか1週間で昭和2年。断髪のモダンガールは大正期に登場していましたが、モダンボーイという呼称は昭和に入ってからで、モボとモガの組合せは、昭和の風俗と言えました。モダンガールは新しい流行を身につけようと躍起になっていましたが、それを追いかけるモボは軽蔑の対象。同時代の流行語に「シャン」がありました。後ろ姿のみマルな女性を「バックシャン」、ハッとするほどの美人を「ハットシャン」と言ったようです。身分の差や良否の差を「ダンチ」と略したり、意味深長を「イミシン」と言ったから、言葉を短めに表現するのは、当世だけでなく、昔にもあったようです。
2024.07.26
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〇谷川彰英著「地名の魅力」(白水社)の144頁に”打出小槌町”と題した一文が載っていました。<摂津の国兎原郡打出村に隠里という所があって、むかしここに長者がすんでいた。一つの宝の槌を持ってこの槌を打ちふるうと願うことが何でも思いどおりにかなうので、それは大切な宝であった。・・・(略)・・・何でもこの小槌は、もと葦屋沖にすんでいた竜神が持っていたもので、それが人に化身して聖武天皇に献上したものらしい。・・・葦屋の七不思議の一として古くから伝わっている。(細川道草「芦屋郷土誌」)> 著者は地名の由来として吉田茂樹氏の<近江国大津の「打出浜」同様、大阪湾の浜に打ち出ている土地という意味で、砂堆地の広がった地形を表現したものが、後世、大黒様の打出の小槌に結びつけたものであろう>という説を引用して居られます。 少し視野を広げて書物を物色していますと、参考になる事柄がどんどん見つかるものですね。この他、「浮気町」(滋賀県守山市:ふけ)や女化(茨城県牛久市:おなばけ)、十八女(徳島県阿南市:さかり)などいっぱい網羅されています。なお大山崎町の宝積寺には打出と小槌が祀られています。
2024.07.25
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○小泉和子さんが著した「昭和 台所なつかし図鑑」の表紙には、わが幼年期とおなじ坊ちゃん刈りの末子、その横に両親、お婆さん、そしておかっぱ頭の長女と丸刈りの6人家族が小ぶり長方形の卓袱台2脚を囲んでいる写真が載っています。また写真の下部には、菜入り擂り鉢と擂粉木、綿入り保温布と木製のお櫃、真ん中に焦げ茶いろの頑丈そうな冷蔵庫(上の段に氷と牛乳瓶、下段には西瓜やビール瓶など)、かつお節削り箱や藁製のたまご容れ、行平、十能などが写っています。 桂米朝師匠が「つぼ算」を演じる枕に、昔の台所と現代の比較を挙げ、<甕が病気したンで台所じゅうのものが見舞いに行きます。大丈夫かえ? ええ大したことはありません、ちょっとシャク(柄杓)が突っ張って・・・>という小噺まで。 明治生まれは明治・大正・昭和を見、大正生まれは大正・昭和・平成を見て亡くなっていかれました。戦後から一大躍進した昭和という時代もどんどんセピア色に変遷していくようです。
2024.07.24
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〇父が梅田の萬字屋書店で購入した古書『旅の仏たち2』丸山尚一著(毎日新聞社)は、富山、福井、滋賀の仏像について、紙面の左が写真、右に700字程度の本文が綴ってあります。湖東の十一面観音と言えば、渡岸寺観音堂の観世音が群を抜いて有名ですが、まさしくあのご尊顔ほど心が癒さる仏様は無いと言えそうです。檜の一木彫、平安初期の官能的なご肢体、装飾類の煌びやかさ、そして後頭部の「大笑面」の悪魔的な不気味さとの対比が見事。都峰前主宰を囲んで有志とマイクロバスにてこの観音さまや石道寺の観音さまを拝観した思い出は今も色褪せず記憶しています。琵琶湖は何度訪れても飽きることがなく、こうした仏様のお膝もとにお参り出来るのも魅力の一つなのでしょう。
2024.07.23
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〇熊本市電は大正13年8月1日に開通した古い鉄道で、今年でちょうど100周年を迎えます。その式典に先立って「推し電投票」を行った結果、映えある1位には、67年前の5014型で、定員120名、西鉄から購入したもの。第2位、64年目の1201号、その10年前の1068号。還暦を超えるものが大半で、平均年齢は48才。また、全国唯一、廣瀬車両製の1060型も現存されていて、熊本市民との縁の深さが理解できます。熊本城・熊本市役所前の停留所からは、立派な石垣と美しい城が真正面から望めます。ユニークな駅名は味噌天神前、それから狸の銅像のある洗馬橋。手まり歌で有名な<洗馬山には狸がおってさ、それを漁師が・・・。>の洗馬。
2024.07.22
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〇 方陰を出づれば影を連れてをり 鈴鹿均八月になると太陽の勢いは益々増して来て、灼熱地獄をもたらせます。喉は渇くし、首筋には発汗が固形化して塩が噴出しているほど。そんな炎昼の中、少しでも日陰を選んで目的の場所へと急ぎます。今、百日紅の葉陰を踏んで、いっ時の涼を得たけれど、わが身の背中を振り返れば、自分のも陰影濃く出来ている。そしてそれは自分の移動に従ってついて来る。自分の影にその身を休めることは出来ないけれど、この小さな陰だって、幼い子供たちの役に立つのかも知れない、ふとそんな思いに囚われたのでしょう。 私達は自分の為にだけ欲求を満たそうとしていたら、一時的にはその欲は充たされますが、なお次なる欲求に苛まれる無限地獄に陥ることになります。けれど、見返りなど意識しないで、無心に他人の役に立つ行いをした時、それらの人々の笑顔に心洗われ、平和で幸せな心境になれるのでしょうね。
2024.07.21
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〇京都は全国の人々から憧れているようですが、町全体が醸し出す幽玄な雰囲気が根源にあるからでしょうか。それは町屋という建物の形や犬走りや駒寄せという外部の設えにもあるのでしょう。最近ほとんど見られなくなった表戸の「猿戸」。ぴたりと嵌め込まれた格子戸に、小さな、頭を下げないと出入りできないような潜り戸のある二重構造の出入り口。名の由来は、この潜り戸の内側の桟の上下二か所に「さる」という簡単な差し込み装置がつけてあって、内側から戸を閉めるとき、この差し込みを鴨居と敷居に差すことで戸締りする構造になっているからです。 更に猿戸を開けると、もう一枚の大戸がついて居て、大戸の裏には「コロロ」と呼ぶ装置があって、板状のものが自動的に落ちてきて鍵の役目をする構造になっているようです。これこそ戦乱による押込み・強盗に備える古来からの京商人の知恵なのでしょう。
2024.07.20
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〇昭和11年(1936)の父の日記を紐解くと、 <7月16日、正午より(宝塚)花組の「起てよ若人」の放送を聞き、夕方、高辻通烏丸西入の家には柴人、恒堂、白川、野風呂、蕉蔭、観崖の諸氏が参集された。 8時から宵山巡り。函谷鉾へは何とか皆さんを招くことができたようですが、大混雑のため、長刀鉾には上れなかったようです。孟宗山、占出山、山伏山、霰天神山、放下鉾、郭巨山、上船鉾を経て、下船鉾を巡回した模様。 翌17日、5時に起床して萬家に泊っておられた柴人さんをお迎えして、瓢亭の朝粥をよばれに同行。これは野風呂先生からのご招待で、他の同席者は蕉蔭、観崖(画伯)、大夢の各氏。朝涼の庭の飛石踏み鳴らし すばるそして山鉾の巡行を見物。柴人さんとは袂れ、鹿水、余瓶のお二人が加わって下加茂のさがみやへ。昼食を摂りながら句会。 曳き方の腰帯に挿す鉾粽 すばる 船鉾の舳に構へ投粽 同など6句が野風呂先生の選に。18日の日記には、午前中の小鹿句会のこと、夜分は水野白川(男爵)邸へ伺い、素径さんから鉾の画の短冊と歌劇の短冊を拝領しています。白川翁は今年だけで祇園会の句130詠まれたとか。ここ数日の来信)柴人、守男、野風呂主宰、恒堂、蕉蔭、そしてホトトギスのみどり女。>とあります。みどり女とは阿部みどり女のことで、長谷川かなめ、杉田久女と並び称せられた人。父とは何度か文通もありました。この方がお描きになった俳画の短冊が遺っていたので、私の句を書いて野風呂記念館に出品したこのは17年も前のことでした。
2024.07.19
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〇人体への医学的探求は、人類の宗教観や諸々のタブーに阻まれながら長い歳月を経て、近代医学へ貢献するに至りました。ドイツから明治初期に持ち込まれた人体標本を模倣することから、国産第一号は東大医学部から生まれました。人体は大雑把に分けて、骨格、筋肉、循環、神経、そして内臓などの系統から成り立ちます。成人は206個の骨を持ち、600余りの筋肉の網が張り巡らされ、血管は総延長凡そ9万6千キロに及び、さらに脳や神経、内臓などの各部分にも無数の組織が働いています。人体標本の脳は三箇所に分かれ、腹部が外れ、内臓の各部が分解できるように作られています。一体の塑像ができると血管作りの段階に入り、針金に和紙を巻いて太さの異なる血管を作ります。さらに幾つかの工程の後、下塗り、彩色が施され、数人の職人でも半日仕事になるのだそうです。<参考文献:「日本の匠たち」遠藤ケイ作(小学館)>
2024.07.18
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〇五代将軍:綱吉の生母である桂昌院は京都西陣の生まれで、父の宗正が武士ながら零落し、幼い彼女を荷台に載せ野菜を売り歩く毎日だったようです。彼女は6才から13才まで、京都西山にある金蔵寺や善峰寺の小間使いや西陣の織り子をしていました。父の先妻が関白二条家で乳母をしていたツテで二条家に奉公しました。これがきっかけで家光公の乳母:春日局に見出されて江戸城に入りました。生類憐みの悪法を出した将軍、また赤穂浪士討入りを裁断した将軍の母として、評判を悪くした彼女ですが、八百屋時代の昔を忘れず、それを家紋(大根が重なった紋)した一面や、春日局への恩義を忘れず、生涯弔い続けた桂昌院の一面も理解してあげたいものですね。<参考図書・楠戸義昭著「家紋 秘められた歴史」(毎日新聞社)>
2024.07.17
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〇「日本系譜総覧」にはいろんな情報があります。「歴朝一覧(天皇)」及び「皇室御系図」、「大名一覧」(これは領地ごと、慶長から明治まで五段階の時期を領地高も一緒に掲載)、「将軍及武家一覧」、「武家重職一覧」、「国母一覧」(玉依姫命から九条節子さままで)、「神宮・官国弊社一覧」など。京都に在る官幣大社には上賀茂・下賀茂、岩清水八幡、松尾、平野、稲荷、平安、八坂神社の八つがあります。官幣中社には梅宮、貴船、大原野、吉田、北野の五つ。別格官幣社には、和気清麿を祀る護王神社、信長の建勲神社、秀吉の豊国神社、三條実美の梨木神社など。古代から戦国までの関所一覧には、大山崎・山崎の山崎関(関戸明神)、大江関、木幡関が載っていました。系図で興味を惹いたのは、孝元天皇の後裔に「紀」や「蘇我」があって、紀貫之と蘇我入鹿が遠い親戚。敏達天皇の後裔に小野妹子、小野道風、小野小町がいること。天武天皇の系統に清原深養父、清少納言、菅原系統に紫式部が絡んできます。お茶では、千利休の弟子として信長、秀吉、高山右近、毛利輝元、茶屋四郎次郎の名前などが載ってきて面白いこと。
2024.07.16
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〇平成11年、中国から天然記念物のトキ夫婦の友友と洋々が贈られ、雛優々が誕生しました。洋々は昨年27才で亡くなりましたが、多くの子孫をのこしました。石川県羽咋市でも小中学生がトキの保護に力を入れて来ました。また7月5日、佐渡市では160人が参集、25周年のセレモーが開催されました。式典では、トキの剥製と骨格(実は洋々の亡骸)が初めて紹介されました。この式典では、地元の小学生3年生~6年生4人ずつの班になって、展示パネルの説明などが立派になされ、太鼓や笛の演奏も立派な出来栄えだったようです。
2024.07.15
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〇夏の風物詩の一つに、鵜飼い船がありますね。成人してから乗船したのは一度位。暗闇の中、松明の明かりに照らされる船べり、鵜匠の巧みな綱のあしらい。こちらに引っ越して来て数年後、嵐山大堰川での鵜飼い船をテーマにした画を地元天神郵便局そばの散髪屋の主が描いておられたのが印象的で、その画が安珍・清姫で有名な奈良の道成寺(現在の鐘は妙満寺)に飾ってあったので、再び驚きました。どういう経緯であの寺に? (この絵も妙満寺に引越しているのでしょうか?) 血まなこの荒鵜に爆ぜる篝かな 高井北社 疲れ鵜を労はる己が指噛ませ 栗田やすし おもしろうてやがてかなしき鵜舟かな 芭 蕉
2024.07.14
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〇集中豪雨に遭われた方々に心からお見舞い申し上げます。さて明治18年6月17日、折からの長雨に淀川が増水して枚方辺りで堤防が決壊しました。北河内、南河内のみならず、網島、桜の宮など天満川堤防から生駒山の麓まで泥水で埋まったのでした。太閤秀吉が万が一に備えて造らせた”わざと切り(和佐登幾利)”の堤防の扱いによって、流木が暴れ、川崎橋、天満橋、天神橋、難波橋が壊れ、市内水びたしになったようです。その為、御成橋(備前島橋)の先の網島にあった大長寺。近松門左衛門の浄瑠璃「心中天網島」で有名な治兵衛・小春の心中墓もろとも押し流され、現在は400メートルほど先に移転していて、寺の跡地は現在、藤田美術館となっています。安永6年(1777)「難波丸網目」という本には大長寺の鯉塚については触れているものの、歌舞伎・浄瑠璃ですっかり有名になった二人の墓は載せて居ません。ところが24年後の「葦の若葉」(蜀山人著)には、<南に行けば野田村なり、小さき流を渡りて右の方に大長寺あり、ここは網島という所なりけり。門の内に地蔵堂あり、その側に鯉塚あり(中略)の右のかたに一の石のしるしあり 釈了智・妙春信女 俗名 かみや治兵衛・きの国や小はる寛政七年丙辰に七十五回忌の卒塔婆をたつ、これは世の人浄るりに作りてかたり伝へし紙治と小春の心中せし処なり>とあって、その年には墓があったことが解ります。一方、翌年の1802年享和2年に大阪に旅した曲亭馬琴の「覊旅漫録」によると<紙屋治兵衛が墓は大坂網島大長寺にあり、近日の大水にこの大長寺決水口にあたり墓所混乱して或るはおし流し或るは崩れたり、故に治兵衛が墓は見ずにゆかずしてやみぬ。>とありますから、たった1年の間に、治兵衛らの心中墓が流されたこと、江戸・明治期にも洪水が頻繁にあったことが解ります。(参考・牧村史陽「大阪史蹟地図」)
2024.07.13
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〇京の町は祇園祭一色。そんな中、物置小屋で見つけたのは「祇園祭巡行絵巻」。 桐の箱を開けると一枚の葉書。父と水魚の交わりをして戴いた新関一杜さんの文面で、以下の通り。 <拝復「吉田すばる論」を書くのはかねてからの私の願いでありましたが、ようやく京鹿子掲載も無事終りましたので、記念のため何か貴兄に差し上げたいものとあれこれ考えて居りましたが、 昨日これをと自分が思うものを買って帰宅した次第です。帰宅したら机上に御手紙があり早速拝見、何よりの「山鉾巡行絵巻」をかえって私に下さる由、 同じ日に期せずして記念品と、これこそお互いの心が通いあったのですね。・・・(中略)・・・本当にお互いが記念品をそれも同じ日に期せずしてと言うことは、 電気のような心の交流を感じました。このことを書きたくて筆をとりました。'75.7.27> つまり同じ「祇園祭巡行絵巻」を同じ日に親友同士が選び、相手に贈ろうとしていた奇跡的な偶然性です。 「祇園祭巡行絵巻」は朝倉悠三さんの竹ペンと墨による白黒の絵巻。前と後の祭が十七日に合体して巡行していた頃の作品で見事な出来栄えです。
2024.07.12
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〇某年7月7日、豊田都峰前主宰が財)京都市芸術文化協会賞を受賞され、その集いに編集長として出席致しました。私のテーブルには、伝統芸能(詩吟)2名、邦楽の尺八2名、琴・三味線2名、バレエの大先生、そして彫刻家1名の8人。いずれも新聞を賑わすような方々。宴の最初には門川京都市長もご挨拶されました。今や芸術文化都市として京都は世界に認められる都市で、それは海外からの観光客数でも証明されています。京の文化を支える人々の集う場所でしたのでいろんな情報交換、語らいを得ることができました。
2024.07.11
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〇文通、ネットの友、そして現実の知人(俳句、合唱、職場)など考えていますと、下は高校生、学生、大学院生、社会人一年生、上は文通(俳句がらみ)の91歳の女性まで多岐に亘ります。職場の友も居ますが、一番親しいのは趣味を通して出来た友人だと思います。大学時代、男声合唱を続けた結果、人生終焉までの友が先輩、同輩、後輩の中に居て下さいます。そして21年前、虚構の世界だと思っていたインターネットでの友人とついに逢う約束が出来ました。俳句を通じて親しくして下さる同年配の「山猿さん」と明日、実家近くで逢うことになりました。明日の午後が楽しみです。翌日、挨拶もそこそこに、お互いの趣味の話や日常生活、そして俳句についていろいろ語らいました。山猿さんは、涼やかな眼の紳士でした。生活の多忙さは、私の3倍。 マラソンに例えるなら、もう最初の5キロでずんずん離されて行きそうな、それほどのパワ~を持った御方でした。 まるで十年来の友のように振舞えたのは、山猿さんのお人柄と、この1年間、ネットを通じて心を通わせてきたからだと思っています。
2024.07.10
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〇蓮の花が数万本、一斉に咲く水生植物公園は草津市にありますが、3日間の特別運行バスは守山から運行、新聞紙上で案内の通り、池に咲き誇る数万個の蓮の群れは、正しく彼岸の世界、さながらでした。珍しい睡蓮も多々生育して居り、この公園(博物館や水族館)だけで一日楽しく過ごせそうな場所でした。昼食は「鮎鴨亭」。その工場の製造工程もガラス越しに見学できます。その奥にある特設の部屋で、表題の雛人形を見せて頂きました。京雛のような上品なお顔、受け唇、五人囃子の人形は髪型も表情も左右の目も微妙に変えてあります。御衣裳は、ブルーを基調とした絣風の夏バージョンで、世に珍しいものを見せて貰いました。
2024.07.09
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〇猛暑の中、快いリズムやハーモニーに接しながら暮らせたら、何とか乗り越えられそうです。先ずは桜染、といっても桜ではなく、紅花染めに白い布を重ねる桜重ねの手法や茜の薄染。檳榔子染はマレーシア原産の檳榔子を使い、天皇の即位式だけに使われる黄櫨染、禁色の深蘇芳、淺蘇芳の類、いわゆる黒染めの石榴染、矢車附子染、オリーブ染、茜染、紅花染、五倍子染、蓬染、ログウッド染、藍染、臭木染、紫根染、紫鉱染ほか数えきれないほど。
2024.07.08
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〇昭和43年9月15日に朝日麦酒から発行された「ホロニガ 第8号」に、<小アンチル、トリニダード・トバコの印象>と題してカメラマンの柴崎政嘉氏の紹介文と七頁に亘る十枚の写真が掲載されていてその中に興味を惹く写真と添え書きがありました。<リンボー・ダンスは、普通、男二人、女一人のチームでおこなう。最初に二人の男が、どこまで棒を下げて、その下をくぐれるかを競い合い、勝った方が女を抱いて棒の下をくぐる権利を得る。写真はその光景で、ショーとは言え、演ずる黒人たちは真剣そのものだ。>とあって、赤地にロウケツ染め模様のような長袖のシャツに、オレンジ色のフィットズボンを履いた男の上に上半身はごつ目のブラジャーだけ、下半身は色鮮やかなスカートのチャーミングな黒人女性が乗っかり、側面から見ればちょうどV字になるようなバランスを保つ恰好をして、棒の下を潜るシーンが写っています。信じられないほどの足腰の強さです。
2024.07.07
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〇手間かけない、時間かけない、頑張らない。この三つを柱にした「新しい掃除術」それが掲題の本で、ラク家事研究家と自称される「みな」さん。クリンネスト1級、整理収納アドバイザー1級の資格を持っておられる。汚れているから掃除をするのよりも、キレイを保つ方が、断然ラク!大切なのは、自分や家族、ライフスタイルに合った掃除の頻度を確立すること。イ)わが家の掃除を、小・中・大に分けるロ)汚れに合った洗剤で効率よく落とすハ)キレイに落とした努力をムダにしない解り易い解説書ですね。
2024.07.06
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〇切れ長の目元に、やや冷たそうな鼻梁 そんな彦星に想いを寄せてしまったのは織姫 源氏の君や業平のように先方から信号を送ってくれない そのもどかしさに機を織る姫の手元も狂いがち 夜の黙(シジマ)が深くなった頃 ようやく腰をあげた彦星 地球上の人間界の一年は永い時間なれど 織姫は震えながら 彦星の通いを待っている
2024.07.05
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〇双方の親の介護問題も踏まえて、銀行の子会社第二の職場は還暦と共に退職。家内が新聞紙上で見つけた「大山崎町ボランティアガイド講座生募集」の記事。その日、一旦長岡の実家に寄り、母の昼食準備等(前略)・・・再び自転車を走らせ歴史資料館に入館して申し込み書に住所氏名等を記入し、申込状態を尋ねてみました。こちらは取り次ぎですから、町役場でお確かめ下さいということなので、「ふるさと案内人養成講座」の申込書を携え、其処から1キロ先の町役場の窓口に行き、願書を提出しました。応募者は多いですかと問えば、いえ、貴方で3人目ですとのことでした。30人募集で多かった場合は地元優先ということでしたので、安心しました。 6月24日が開講で、月3度程度の講習を受け、翌年の3月10日(誕生日の前日)が閉講となります。受講料は2000円+資料実費程度で、要するにふるそとガイドは町の補助による公務?歴史に精通できるし、呆け防止になるから一石二鳥どころか、四鳥ほどのメリットがありますように・・・。
2024.07.04
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〇皆既日食について印象に残っているのは、1958年(昭和33年)4月19日。 当時は大阪住吉区の帝塚山に住んでいて、社宅の庭から太陽を観ていました。あの頃は煤を塗りつけたガラス片か黒下敷きでも平気だったような、失明の危険を今ほど口やかましく徹底していなかったような・・・。 印象的だったことは、真昼時なのに(11時19分スタート)、世の中が次第に暗闇に包まれて行った不快感が感覚として鮮明に残っています。昔の先人たちが神の怒りと考えたのも、うべなるかなと子供ごころに思いました。一番暗くなったのは、午後1時8分、88%も太陽が侵食されました。3時前には元通りの明るさに戻りましたが、草木が風になびき、異様な暗さに包まれた印象はあの世まで土産にすることでしょう。
2024.07.03
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〇朝日新聞社編「日本百年写真館 2」の177頁には昭和初期の松坂屋銀座店1階の化粧品売り場の写真が載せてあり、以下の文章が添えてあります。<大正13年に開店した銀座店は、百貨店では初めて「下足預かり」から「土足入場」へと切り替えられました。当時、土足入場については、便利でよいという賛成論、ほこりで商品が汚れるし、大道商人と変らず品位が下がるという反対論が相半ばしていました。>とあります。大理石の基礎の上に乗せた、ゆるい湾曲を呈するショーケースには無数の細やかな化粧品が整然と並んで居、スピードというネーミングのアーチの横に、小綺麗にして、やや厚化粧の売り子さん。ハットに上下白づくめスーツの男性客2人に着物姿の女性2人。昭和10年頃の亡父の日記にもデパートが何度か登場します。良き時代だったのでしょうね。
2024.07.02
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〇6月末日のラジオでは広島市内の小イワシの刺身の話題が紹介されていました。小イワシ=カタクチイワシが広島の海では大量に収穫できるのだそうで、8月いっぱいまで、市民や旅行者の嗜好となるようです。広島県内漁穫量の60~70%を占めていて、6月10日の解禁によって一斉に水揚げされます。カタクチイワシは通常イラコやシラス、干してちりめんじゃことして食べますが、広島では鮮度を活かして水揚げから4時間以内に市場に出回り、刺身・天ぷらとして食されるのだそうです。
2024.07.01
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