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去年(こぞ)見てし 秋の月夜(つくよ)は 照らせれど 相見し妹は いや年さかる(― 去年並んで一緒に眺めた秋の月は、今日も美しく夜空に光り輝いているのだが、愛妻は益々年隔たり、私から遠ざかる一方なのだ…) 衾(ふすま)路(ぢ)を 引出(ひきで)の山に 妹を置きて 山路を行けば 生けるともなし( (― 引出の山に亡妻を葬って、私一人で帰って来ると、生きている自分までが生きて在るような気がしないことであるよ) うつそみと 思ひし時 携へて わが二人見し 出で立ちの 百枝槻(ももえつき)の木 こちごちに 枝させる如 春の葉の 茂きがごとく 思へりし 妹にはあれど たのめりし 妹にはあれど 世の中を背きし得ねば かぎろひの 燃ゆる荒野に 白栲の 天領巾隠(あまひれかく)り 鳥じもの 朝立ちい行きて 入日なす 隠(かく)りにしかば 吾妹子が 形見に置ける 緑児(みどりご)の 乞ひ泣くごとに 取り委(まか)する 物しなければ 男(をとこ)じもの 腋はさみ持ち 吾妹子と 二人わが宿(ね)し 枕づく 嬬屋(つまや)の内に 晝は うらさび暮らし 夜は 息づき明(あか)し 嘆けども せむすべ知らに 戀ふれども 逢ふよしを無み 大島の 羽易(はかひ)の山に 汝(な)が戀ふる 妹は座(いま)すと 人のいへば 石根(いはね)さくみて なづみ來(こ)し 好(よ)けくもぞ無き うつそみと 思ひし妹が 灰にてませば(― いつまでもこの世に生きてあると、思い込んでいた頃に、二人並んで眺めた、家を出た直ぐの場所に立っている、多くの枝が出ている槻の大樹、八方に枝を伸ばしているが、春に芽吹く葉が繁茂する、その様に精一杯に愛情を育み、心の底から愛し慕った若妻であった。心底頼りにしていた連れ合いであったが、世の中の非情な道理には反発し得ないので、大気がゆらゆらと揺らめいている荒野、白く美しい頭巾に包まれて身を隠すようにして、鳥のごとくに朝方にあの世にと旅立ってしまった妻、その愛しい妻が形見として残していった幼子が、何かを求めて泣き叫ぶ度に、手に取って与える物が何もないので、男の身で嬰児を脇に挟んで、今は亡き愛妻と共寝していた新婚の部屋の中で、昼は嘆き暮らし、夜も溜息をつきながら夜明けを迎え、苦しみ悩むけれどもどうしようもないのだ。恋しいと切なく思うけれども、逢う事は不可能なのだ。大島のはがいの山にお前の恋慕う相手は居ると、人が言ったので、岩のゴロゴロして難渋する道を踏み分けてやって来たが、良いことは何もなかった、生きて在るのかと疑った妻は既に火葬されて、ひと握りの灰に変わってしまっていたのだから) 去年(こぞ)見てし 秋の月夜(つくよ)は 渡れども 相見し妹は いや年さかる(― 昨年に妻と共に見た月は、こうこうと照り輝きながら大空を渡っていくが、一緒に見た妻の方は年を経るごとにいよいよ隔たり、遠ざかってしまうばかりだ) 衾(ふすま)路(じ)を 引出(ひきで)の山に 妹を置きて 山路思ふに生(い)けるともなし(― 引出の山の麓に妻の屍を置いて、亡妻が入っていく山路の困難さを考える時に、私としては生きている心地もしないことだ) 家に来て わが家を見れば 玉床(たまどこ)の 外(ほか)に向きけり 妹が木枕(こまくら)(― 家に戻って来て、新婚の部屋を見ると、妻の使っていた黄楊・つげ製の木枕が外に転がっているのだった) 秋山の したへる妹 なよ竹の とをよる子らは いかさまに 思ひをれか 栲縄(たくなは)の 長き命を 露こそば 朝(あした)に置きて 夕(ゆふべ)は 消ゆと言へ 霧こそば 夕に立ちて 朝は 失(う)すと言へ 梓弓(あづさゆみ) 音聞くわれも おぼに見し 事悔(くや)しきを 敷栲(しきたへ)の 手枕(たまくら)まきて 劍刀(つるぎたち) 身に副(そ)へ寝(ね)けむ 若草の その夫(つま)の子は さぶしみか 思ひて寝らむ 悔しみか 思うひ戀ふらむ 時ならず 過ぎにし子らが 朝露のごと 夕霧のごと(― 秋の山が赤く色づく様に、美しいわが妻、細く嫋(しなや)かなナヨ竹の如くに、柔らかくしなやかな妻は、なんと思っているのか、長い命であるものを、露ならばこそ朝置いて早くも夕方には消える言うが、霧ならばこそ夕方に立って朝には失せると言うけれども…。その評判を聞いている私も、仄かに見ただけだった事が後悔されるのに、互いに手枕を巻いて、身に副(そ)えて寝たであろう夫は、淋しく思って寝ていることであろうか。悔しく思って恋い慕っていることであろうか。まだ死ぬべき時でもないのに亡くなってしまった吉備(きび)の津の采女(うねめ、宮中で炊事や食事などを司った女官。郡司の子女で容姿端麗な者を選んだ)が、あたかも朝露の如くに、夕霧の如くに) 樂浪(ささなみ)の 志賀津(しがつ)の子らが 罷道(まかりぢ)の 川瀬の道を 見ればさぶしも(― 志賀津の人々の葬送の道である、川瀬の道筋を目にすると、心が淋しい事だ) 天數(そらかぞ)ふ 大津の子が 逢ひし日に おぼに見しかば 今に悔しき(― 大津の人と逢った際に、はっきりと見なかったので、今になると後悔されることであるよ)
2022年02月27日
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ひさかたの 天知らしぬる 君ゆゑに 日月も知らず 戀ひ渡るかも(― 今は、薨去されて天をお治めになるようになられた高市皇子であるのに、月日の流れ去るのも知らずに、いつまでも恋い慕い続ける我々である) 埴安の 池の堤(つつみ)の 隠沼(こもりぬ)の 行方(ゆくへ)を知らに 舎人はまとふ(― 高市皇子の御殿があった埴安の地にある、隠り沼の水が何処へ流れ去るのか行方が分からないように、舎人達は自分達が一体どうしたら良いのか分からないで、迷い抜いている事だ) 哭澤(なきさわ)の 神社(もり)に神酒(みわ)すゑ 禱祈(いの)れども わご王(おおきみ)は 高日知らしぬ(― 哭沢の神社に神酒を供えて祈るけれども、高市皇子はこの世に留まられることなく、高い天に上って、天の国を治められるようになってしまわれた) 降る雪は あはにな降りそ 吉隠(よなばり)の 猪養(ゐかひ)の岡の 寒からまくに(― 降る雪は多く降らないでいて欲しい。恋しい、但馬皇女・たぢまのひめみこ の眠っている猪養の岡が寒くなるだろうから) やすみしし わご王 高光る 日の皇子 ひさかたの 天つ宮に 神(かむ)ながら 神(かみ)と座(いま)せば 其(そこ)をしも あやにかしこみ 晝はも 日のことごと 夜(よる)はも 夜(よ)のことごと 臥(ふ)し居(ゐ)嘆けど 飽き足らぬかも(― わが弓削皇子・ゆげのみこ が今は、神上りまして、天上の宮に神として鎮まっておいでになるので、それをおそれ謹んで、昼は一日中、夜も夜通し、臥したり座ったりして嘆くけれども、尚、飽き足らない気持ちであるよ) 王は 神にし座(ま)せば 天雲(あまくも)の 五百重(いほへ)が下に 隠(かく)り給ひぬ(― 皇子は神でいらせられるので、薨去された今は、幾へにも重なった天の雲のうちに、お隠れになってしまわれた) ささなみの 志賀さざれ波 しくしくに 常にと君が 思ほせりける(― ささなみの志賀の湖の小さく頻りに立つ波ではないが、弓削皇子は 永く生きたいものだ と頻りに思われておいでだったのに…) 天飛(あまと)ぶや 輕の道 吾妹子(わぎもこ)が 里にしあれば ねもころに 見まく欲(ほ)しけど 止まず行かば 人目を多み 數多(まね)く行かば 人知りぬべみ 狹根葛(さねかづら) 後も逢はむと 大船(おほぶね)の 思ひ慿(たの)みて 玉かぎる 磐垣淵(いはかきふち)の 隠(こも)りのみ 戀ひつつあるに 渡る日の 暮れ行くが如(ごと) 照る月の 雲隠(かく)る如 沖つ藻の 靡きし妹(いも)は 黄葉(もみちば)の 過ぎて去(い)にきと 玉梓(たまづさ)の 使の言へば 梓弓(あづさゆみ) 聲(おと)に聞きて 言はむ術(すべ) 爲むすべ知らに 聲のみを 聞きてあり得ねば わが戀ふる 千重(ちへ)の一重(ひとへ)も 慰むる 情(こころ)もありやと 吾妹子が 止まず出で見し 輕の市に あが立ち聞けば 玉襷(たまたすき) 畝火(うねび)の山に 鳴く鳥の 聲も聞えず 玉鉾(たまほこ)の 道行く人も 一人だに 似てし行かねば すべをなみ 妹が名喚(よ)びて 袖そ振りつる(― 軽の路は私の愛妻の里であるから、よくよく見たいと思うけれども、いつも行ったならば、人目が多いので目に付くし、しばしば行ったならばきっと人が知るであろう。それは煩い事だから、まあまあ後になってから逢おうと、大船の如くに頼りにして、心の中だけで恋しく想い続けていたのに、空を渡る太陽が暮れて行くように、照る月が雲隠れしてしまうように、靡き寄った妻は亡くなってしまったと、使の者が来て言うので、それを聞いて何と言って良いやら分からずに、報せだけを聞いてじっとしてはいられないので、自分の悲しいと思う千分の一でも慰められるだろうかと、愛妻がいつも出て見ていた軽の市に、佇んで耳を澄ましてみると、懐かしい声は聞こえず、道行く人も一人も似た人が通らないので、何とも仕方なく、妻の名を呼んで、袖を振ったことである) 秋山の 黄葉(もみぢ)を茂み 迷(まと)ひぬる 妹を求めむ 山道(やまぢ)知らずも(― 秋の山の黄葉があまりに茂っているので、迷い入ってしまった、恋しい亡妻を探し求める道が分からなくて) 黄葉(もみちば)の 散りゆくなべに 玉梓(たまづさ)の 使を見れば 逢ひし日 思ほゆ(― 黄葉の散って行くとともに、使の者が来るのを見ると、ああこのようにして、懐かしい便りが来たのだと、愛妻に会った日の事が思い出される) うつせみと 思ひし時に 取り持ちて わが二人見し 走出(はしりで)の 堤(つつみ)に立てる 槻(つき)の木の こちごちの枝(え)の 春の葉の 茂きが如く 思へりし 妹(いも)にはあれど たのめりし 兒らにはあれど 世の中を 背きし得ねば かぎろひの 燃ゆる荒野に 白栲(しろたへ)の 天領巾(あまひれ)隠(かく)り 鳥じもの 朝立ちいまして 入日なす 隠りにしか 吾妹子(あぎもこ)が 形見(かたみ)に置ける みどり兒の 乞ひ泣くごとに 取り與ふる 物し無ければ 男(をとこ)じもの 腋(わき)はさみ持ち 吾妹子と 二人わが宿(ね)し 枕づく 嬬屋(つまや)の内に 晝はも うらさび暮し 夜はも 息づき明(あか)し 嘆けども せんすべ知らに 戀ふれども 逢ふ由(よし)を無み 大島の 羽易(はがひ)の山に わが戀ふる 妹は座(いま)すと 人の言へば 石根(いはね)さくみて なづみ來し 吉(よ)けくもそなき うつせみと 思ひし妹が 玉かぎる ほのかにだにも 見へぬ思へば(― この世の人であった時に、我々二人で手に取って見た、門の前に立っている槻の木であるが、その多くの枝に春の葉が多く繁っているように、繁く思いを寄せていた妻であるが、頼みにしていた愛妻であるが、世の中の道理に背く事は出来ないから、かぎろいの燃える荒野に、白く美しい領巾で身を隠し、鳥のように朝立って行かれて、入日の様に隠れたしまったので、愛しい亡妻が形見としておいて行った嬰児が、何かを欲しがって泣く度ごとに、取って与える物もないから、男であるのに赤子を脇に抱えて、妻と一緒に寝た新婚の家の中で、昼は昼で心寂しく暮らし、夜は夜で溜息を吐いて明かし、嘆くのだが、何としたらよいのやら分からないので、恋しく思っても逢う手立てはないので、羽易の山に恋しい妻は居られると人が言うので、岩を踏み分けて難渋してやって来たが、良いこともない。この世の人だと思っていた妻が、ほのかにさえ姿が見えないから)
2022年02月24日
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飛鳥(とぶとり)の 明日香の河の 上(かみ)つ瀬に 石橋(いははし)渡し 下(しも)つ瀬に 打橋(うちはし)渡す 石橋に生(お)ひ靡ける 玉藻もぞ 絶ゆせば生ふる 打橋に 生ひををれ る 川藻もぞ 枯るればはゆる 何しかも わご王(おおきみ)の 立たせば 玉藻のもころ 臥(こや)せば 川藻の如く 靡(なび)かひし 宜しき君が 朝宮を 忘れ給ふや 夕宮を 背(そむ)き給ふや うつそみと 思ひし時 春べは 花折りかざし 秋立てば 黄葉(もみちば)かざし 敷栲の 袖たづさはり 鏡なす 見れども飽かず 望月(もちつき)の いやめづらしみ 思ほしし 君と時々 幸(いでま)して 遊び給ひし 御食(みけ)向(むか)ふ 城上(きのへ)の宮を 常宮(とこみや)と 定め給ひて あぢさはふ 目言(めごと)も絶えぬ 然れかも あやに悲しみ ぬえ鳥の 片戀(かたこひ)嬬(つま) 朝鳥の 通はす君が 夏草の 思ひ萎(しな)えて 夕星(ゆふつつ)の か行きかく行き 大船(おおぶね)の たゆたふ見れば 慰むる 情(こころ)もあらぬ そこ故に せむすべ知れや 音にのみ 名のみも絶えず 天地(あめつち)の いや遠長く 偲(しの)ひ行かむ み名に懸かせる 明日香河(あすかがは) 萬代(よろづよ)までに 愛(は)しきやし わご王(おおきみ)の 形見かここを(― 明日香川の上流の瀬には石橋を渡し、下流の瀬には打橋を渡してある。その石橋に打ち靡いている玉藻も、切れれば新しく伸びてくるし、石橋に伸び繁っている川藻も、枯れると新しく芽を出してくる。それなのに何故、皇女様は、お立ちになられれば玉藻の様に、お臥しになれば川藻の様に、お互いに靡き合われた立派な背の君の、朝宮をお忘れになられるのであろうか。夕宮をお背きになられるのであろうか。この世の人であった時、春には花を折りかざし、秋になれば黄葉をかざし、袖を連ねて、鏡のように見ても飽きることなく、満月のようにいよいよ見たく、褒め讚えなされた背の君と、時折にお出ましになられてお遊びになられた城上の宮を、今は永久の宮とお定めになられて、お逢いになることも言葉を交わされる事も絶えてしまった。その為か、何とも言えずに悲しく思って、片恋に苦しむ背の君様は、朝星や夕星であるが如くに、あちらこちらと行き来しては、心も静まらず、沈みきって居られるのを目の前にする時に、自分の心をどう慰めて良いのか分からずに居る。それ故に、どうする術も知らないが、せめてその音だけでも、名だけでも、絶えず天地の様に遠く、長く、お偲びして行きたいと思うのです。懐かしい明日香という御名を負っている明日香河を、万代までも…。哀れ、此処は、私が追慕の念に耐えない、わが皇女様の形見の場所であるよ) 明日香川 しがらみ渡し 塞(せ)かませば 流るる水も のどかあらまし(― 明日香川に柵を渡して、水をせき止めたならば、流れる水もゆったりとしていることであろう) 明日香川 明日だに見むと 思へやも わご王(おほきみ)の 御名忘れせぬ(― せめて明日だけでもお逢いしたい。が、お逢いできるとは思えないのに、わが明日香皇女の御名が忘れられないことであるよ) かけまくも ゆゆしきかも 言はまくも あやに畏(かしこ)き 明日香の 眞神(まかみ)の原に ひさかたの 天つ御門を かしこくも 定め給ひて 神さぶと 磐(いは)隠(かく)ります やすみしし わご大君の きこしめす 背面(そとも)の國の 眞木立つ不破(ふは)山越えて 高麗劍(こまつるぎ) 和蹔(わざみ)が原の 行宮(かりみや)に 天降(あも)り座(いま)して 天の下 治め給ひ 食(を)す國を 定めたまふと 鶏(とり)が鳴く 吾妻(あづま)の國の 御軍士(いくさ)を 召し給ひて ちはやぶる 人を和(やは)せと 服従(まつろ)はぬ 國を治(をさ)めと 皇子ながら 任(まけ)給へば 大御身(おほみみ)に 太刀(たち)取り帯(お)ばし 大御手(おおみて)に 弓取り持たし 御軍士を あどもひたまひ 齊(ととの)ふる 鼓(つづみ)の音は 雷(いかづち)の 聲(おと)と聞くまで 吹き響(な)せる 小角(くだ)の音も 敵(あた)見たる 虎か吼(ほ)ゆかと 諸人(もろひと)の おびゆるまでに 捧げたる 幡(はた)の靡(なびき)は 冬ごもり 春さり來れば 野ごとに 着(つ)きてある火の 風の共(むた) 靡くががごとく 取り持てる 弓はずの騒(さわき) み雪降る 冬の林に 飄風(つむじ)かも い巻き渡ると 思ふまで 聞きの恐(かしこ)く 引き放つ 矢の繁(しげ)けく 大雪の 亂れて來(きた)れ 服従(まつろ)はず 立ち向ひしも 露霜の 消(け)なば消ぬべく 行く鳥の あらそふ間(はし)に 渡會(わたらひ)の齊(いつき)の宮ゆ 神風(かむかぜ)に い吹き惑はし 天雲(あまくも)を 日の目も見せず 常闇(とこやみ)に 覆(おほ)ひ給ひて 定めてし 瑞穂の國を 神ながら 太敷きまして やすみしし わご大王(おおきみ)の 天の下 申し給へば 萬代(よろづよ)に 然(しか)しもあらむと 木綿(ゆう)花の 榮ゆる時に わご大王 皇子の御門を 神宮(かむみや)に 装(よそ)ひまつりて 使はしし 御門の人も 白栲(しろたへ)の 麻衣(あさころも)着(き) 埴安(はにやす)の 御門の原に 茜(あかね)さす 日のことごと 鹿(しし)じもの い匍(は)ひ伏しつつ ぬばたまの 夕(ゆうべ)になれば 大殿を ふりさけ見つつ 鶉(うづら)なす い匍ひもとほり 侍(さもら)へど 侍ひ得ねば 春鳥の さまよひぬれば 嘆きも いまだ過ぎぬに 憶ひも いまだ盡きねば 言(こと)さへく 百済(くだら)の原ゆ 神葬(かむはぶ)り 葬りいまして 麻裳(あさも)よし 城上(きのへ)の宮を 常宮(とこみや)と 高くまつりて 神ながら 鎮(しづ)まりましぬ 然れども わご大王の 萬代と 思ほしめして 作らしし 香久山の宮 萬代に 過ぎむと思へや 天の如 ふり放(さ)け見つつ 玉襷(たまたすき) かけて偲(しの)はむ 恐(かしこ)かれども(― 心にかけて思うことも慎むべく、口に言うこともまことに恐れ多い、明日香の真神の原に、天つ御門をお定めなされ、今は神らしく振舞われるとて、磐隠れておいでになる我らが天武天皇が、お治めになる北の国の不破山を越えて、わざみが原の行宮に天降りなされて、天下を平らかになさり、国をお定めになろうと、東の国の兵士をお召になり、乱暴をする人を和らげよ、服従しない国を治めよと、皇子の身でいらせられる高市皇子に、お任せになったので、皇子は、大御身に太刀をおはきになり、御手に弓を取り持たれて、兵士を呼びたて整えられ、隊伍を整える鼓の音は雷の音と聞こえるほどで、吹き立てる小角の音も、敵に向かった虎が吼えるのかと人々が怯える程であり、捧げ持った旗の靡く様は、春先に野ごとにつける火が風と共に靡く様である。取り持っている弓はずの鳴り響く様は、雪の降る冬の林につむじ風が吹きまいて、押しわたって行くのかと思うほど、聞くも恐ろしく、引き放つ矢の繁く多いことは、大雪が乱れ降るようで、従わずに立ち向かった敵軍も、死ぬなら死ねと命をかけて争うその時に、伊勢の神宮から神風を吹かせて敵を惑わし、天雲で日の目も見せず世界を常闇におおい隠されて、平定されたこの瑞穂の国を、神そのままに天皇がお治めになって、わが高市皇子が天下の政治を執り行われたので、万代までその様に続くだろうと思われ、天下は大いに栄えている時に、突然、皇子の御門を喪の神宮にお装い申し上げて、皇子のお使いなされた人々も麻の喪服を着て、埴安の御門の原に、昼は日の暮れるまで、鹿の様に匍い伏し続け、夕方になると大殿を振り仰いで見やり続け、鴨のように這い回り、伺候していても、その甲斐がないので、春鳥のように泣いていると、嘆きもまだ過ぎ去らないのに、思いも未だ尽きないにもかかわらず、百済の原を御葬列が通って行き、城上の宮を永久の宮と高くお祭りして、皇子は神として鎮まってしまわれた。しかしながら、わが高市皇子が万代までとお思いになってお作りになった香久山の宮が、万代の後までも、滅びるだろうなどと思われようか。無窮の大空のように仰ぎ見やりながら心にかけてお偲び申し上げよう。恐れ多い事であるけれども)
2022年02月19日
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み立たしの 島を見る時 にはたづみ 流るる涙 止めそかねつつ(― 皇子が嘗てお立ちになられた庭園を目にする時に、にわか雨の如くに流れ出る私の涙を、止めることが出来ないことだ) 橘の 島の宮には 飽かねかも 佐田の岡邊に 宿直(とのゐ)しに行く(― 橘にある、島の宮では飽き足りないからであろうか、佐田の岡の宮にまで、宿直・警備に行くことだ) み立たしの 島をも家と 住む鳥も 荒びな行きそ 年かはるまで(― 皇子のお立ちになった島の御殿を自分の家として住む鳥も、どうか、せめて来年までは此処を離れないでいて欲しい) み立たしの 島の荒磯(ありそ)を 今見れば 生ひざりし草 生ひにけるかも(― 皇子がお立ちになられた島の御殿の、庭の泉水の飾り石には、以前にはなかった草が生えていることであるよ) 鳥ぐら立て 飼ひし鴈(かり)の子 巣立ちなば 檀の岡に 飛び帰り來ね(― 鳥小屋を作って飼っていた雁の子供よ、無事に最長したのであれば、あの故郷とも言うべき檀の岡に、帰って来ておくれよ、忘れずに) わが御門 千代永久(ちよとことば)に 榮えむと 思ひてありし われし悲しも(― 我々がお仕えしていた宮殿は、永久不変に繁栄すると信じていたのに…、実に断腸の悲しみである、嗚呼) 東(ひむかし)の 瀧(たき)の御門に 伺侍(さもら)へど 昨日も今日も 召すことも無し(― 宮殿の正門にある、庭に水を引き入れる滝の御門の警備の任に精励しているが、昨日も今日も皇子からの御声が掛からない事だ。悲しみの極致であることよ) 水傳(つた)ふ 磯の浦廻(うらみ)の 石上(いは)つつじ 茂(も)く開(さ)く道を また見なむかも(― 水が沿って流れている、岩の水際の曲がり角にある飾り岩に盛んに咲いている躑躅。この道を、私は再び見ることが出来るであろうか…。恐らく、これが見納めであろう) 一日(ひとひ)には 千たび參(まゐ)りし 東(ひむかし)の 大き御門を 入りかねぬかも(― 一日に千回も通っていた宮殿の東側の正門であるが、今はそこを訪れることは叶わないことだ) つれも無き 佐太(さだ)の岡邊に 帰り居ば 島の御階(みはし)に 誰(たれ)か住まはむ(― 今では何の縁故も無くなってしまった佐太の岡辺に帰ってみたところで、島の階段に敬愛する皇子はいらっしゃらないのだから、何方がお住まいになられていらっしゃるのか、何とも虚しい空虚な気持ちであるよ) 朝曇り 日の入りぬれば み立たしの 島に下(お)り居て 嘆きつるかも(― 朝、曇っていて日が隠れてしまったので、皇子がかつてお立ちになった島に降りて居て、嘆き悲しんだことである) 朝日照る 島の御門に おぼぼしく 人音(ひとおと)もせねば まうら哉しも(― 朝日の明るく照っている島の御門には、人の音もしないので、胸も晴れやらず悲しいことだ) 眞木柱(まきはしら) 太き心は ありしかど このわが心 鎮めかねつも(― 立派なまきの柱の如き大きな心を持っているのだが、その私の心が動揺して止まないのを、抑えることが出来ないでいる事だ) けころもを 春冬設(ま)けて 幸(いでま)しし 宇陀(うだ)の大野(おほの)は 思ほえむかも(― 毛の衣を、冬用、春用と用意して、皇子がかつて猟遊なさった宇陀の大野であるが、皇子の御霊は当時を懐かしく追憶なさっておられるであろうか…) 朝日照る 佐太の岡邊に 鳴く鳥の 夜泣きかへらふ この年ころを(― 朝日の照る島の岡辺に頻りに鳴いている鳥の如くに、我々はこの一年の間、毎夜泣き続けているのである) はたこらが 夜晝と言はず 行く路を われはことごと 宮道(みやぢ)にぞする(― 農夫達が夜と昼に毎日通っている道であるが、私は専ら殯宮へ日参する為に歩いているこの頃である) 飛鳥(とぶとり)の 明日香(あすか)の河の 上(かみ)つ瀬に 生ふる玉藻は 下(しも)つ瀬に 流れ觸(ふ)らばふ 玉藻なす か寄りかく寄り 靡合(なびか)ひし 嬬(つま)の命の たたなづく 柔膚(にきはだ)すらを 劔刀(つるぎたち) 身に副(そ)へ寐(ね)ねば ぬばたまの 夜床も荒るらむ そこ故に慰めかねて けだしくも 逢ふやと思ひて 玉垂(たまだれ)の 越智(をち)の大野の 朝露に 玉裳(たまも)はひづち 夕霧に 衣はぬれて 草枕 旅宿(たびね)かもする 逢はぬ君ゆゑ(― 明日香河の上流の、瀬に生える藻は流れて、下流の瀬に触れ合っている。その玉藻ではないけれども、ああ寄り、こう寄っては、お互いに靡きあった夫の尊が、肉付きのよい柔らかい膚さえも身に添えて寝ることがないので、夜の寝床も荒れていることであろう。それ故に、心を慰めようとしても慰め得ずに、もしや忍坂部(おさかべ)の皇子にお逢いするかも知れないと考えて、越智の大野の朝露に衣の裳の裾は泥に塗れ、夕霧に上着は濡れ通って、草を枕の旅寝をするであろうか。もはやお会い出来ない皇子でいらっしゃるのに…) 敷栲(しきたへ)の 袖かへし君 玉垂(たまだれ)の 越野(をちの)過ぎゆく またも逢はめやも(― 敷栲の袖を交し合って共に寝た皇子は、越野を過ぎて遠く去ってしまわれた。再び逢う事があろうか、ありはしないのだが)
2022年02月16日
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神風(かむかぜ)の 伊勢の國にも あらましを なにしか來けむ 君もあらなくに(― 神風の吹く神聖な伊勢の国に居ればよかったのに、どうして大和に戻って来たのでありましょうか。もうお慕い申し上げる私の大津の皇子様はこの世にはいらっしゃらないと言うのに) 見まく欲(ほ)り わがする君も あらなくに なにしか來けむ 馬疲るるに(― お会いしたいと願うお方も居ないというのに、どうして帰っ来てしまったのでしょう。馬が疲れると言うのに) うつそみの 人にあるわれや 明日よりは 二上山を 弟世(いろせ)とわが見む(― 現世に生きている私は、明日からはこの二上山を弟と思って眺めましょうよ) 磯の上に 生(お)ふる馬醉木(あしび)を 手折(たを)らめど 見すべき君が ありと言はなくに(― 岩のほとりに伸びている馬酔木を、手折ろうと思うのだけれど、それを見せるべき最愛の弟はもうこの世にいるとは、誰も言わないことですのに…、彼は春に小さな壺状の白い可憐な花を咲かせる馬酔木をこよなく愛していたので) 天地(あめつち)の 初(はじめ)の時 ひさかたの 天(あめ)の河原(かはら)に八百萬(やほよろづ) 千萬(ちよろづ)神の 神集(かむつど)ひ 集(つど)ひ座(いま)して 神分(はか)り 分りし時に 天照らす 日女(ひるめ)のみ尊(みこと) 天をば 知らしめすと 葦原(あしはら)の 瑞穂(みづほ)の國を 天地の 寄り合ひの極(きはみ) 知らしめす 神の命(みこと)と 天雲(あまくも)の 八重(やへ)かき別きて 神下(かむくだ)し 座(いま)せまつりし 高照らす 日の皇子(みこ)は 飛鳥(とぶとり)の 浄(きよみ)の宮に 神ながら 太敷(ふとし)きまして 天皇(すめろき)の 敷きます國と 天の原 石門(いはと)を開き 神(かむ)あがり あがり座(いま)しぬ わご王(おほきみ) 皇子の命(みこと)の 天の下 知らしめませば 春花の貴(たふと)からむと 望月(もちつき)の 満(たたは)しけむと 天の下 四方(よも)の人の 大船の 思ひ憑(たの)みて 天(あま)つ水 仰ぎて待つに いかさまに 思ほしめせか 由縁(つれ)もなき 眞弓(まゆみ)の岡に 宮柱 太敷(ふとし)き座(いま)し 御殿(みあらか)を高知りまして 朝ごとに 御言(みこと)問はさぬ 日月の 數多(まね)くなりぬる そこゆゑに 皇子(みこ)の宮人(みやひと) 行方(ゆくへ)知らずも(― 天地の初めの時に、天の河原で多くの神々が集まって相談された際に、天照らす大御神は天界をお治めになられる為に、この日本の国の地の果てまで統治する神として、天雲を掻き分けて派遣なされた日並・ひなめし 皇子は、この日本国の飛鳥の浄御原の宮に、神として光り輝く存在であります。その御母君・持統天皇が支配なさる国であるからと、天の原の岩戸を開いて、お隠れになってしまわれた。この日並御子が御治めになられるのだったなら、春の花の如くに尊いであろうと、又、満月の如くに満ち足りて盛んであろうにと、天下の四方の人々が頼みにして、旱天に慈雨を待つように天を仰いで待っていたのに、皇子は何とお思いになられたのでしょうか、縁もない真弓の岡に殯(もがり)の宮、貴人の墓、をお作りになって、朝ごとの仰せ、ご命令がないままで既に多くの月日が流れ去ってしまっている。それゆえに、皇子の朝廷人達はこれからどうしたらよいのか分からないでいるのだ) ひさかたの 天(あめ)見るごとく 仰ぎ見し 皇子(みこ)の御門(みかど)の 荒れまく 惜しも(― 大空を仰ぎ見るようにして崇拝していた日並皇子の御殿が、荒廃して行くだろうことが残念で堪らない) あかねさす 日は照らせれど ぬばたまの 夜渡る月の 隠(かく)らく惜しも(― 天の日、太陽は希望に満ちて輝いているが、夜の空を渡る月が隠れてしまう事は、実に惜しいことだ) 島の宮 勾(まがり)の池の 放ち鳥 人目に戀ひて 池に潜(かづ)かず(― 島の宮の勾がりの池の放ち鳥も、皇子の薨去を悲しく思い、人目を恋しがって池に潜ろうともしないことだ) 高光る わが日の皇子の 萬代(よろづよ)に 國知らさまし 島の宮はも(― 高光る、わが皇太子様が、万代までも国をお治めになられる筈だった、この島の宮の御殿であるよ) 高光る わが日の皇子の いましませば 島の御門は 荒れざらましを(― 高く光彩を発しておられる、我らが誇る王子様がご存命であらせられたならば、島の御門はこれほどに荒廃したりせずに堂々たる威容を今も輝かせていたであろうに、痛恨の極みでありまする) よそに見し 檀(まゆみ、主に弓を作る材料にしたから言う)の岡も 君ませば 常(とこ)つ御門(みかど)と宿直(とのゐ)するかも(― これまでは自分とは無縁の場所として見ていた檀の岡であるが、日並皇子が葬られておいでですから、もはや変わらない永久の御所として、宿直して警備することである) 夢(いめ)にだに 見ざりしものを おぼぼしく 宮出もするか 佐日(さひ)の隈廻(くまみ)を(― 夢にさえ考えた事はなかった、心も晴れず茫然として、檜前・ひのくま の曲がりくねった道を宮に出仕することであるよ) 天地(あめつち)と 共に終へむと 思ひつつ 仕へ奉りし 情(こころ)たがひぬ(― あめつちの有らん限り、お仕えして往こうと思いつつ御奉仕申し上げて来たのだが、事、志とは違ってしまった) 朝日照る 佐太(さだ)の岡邊(をかべ)に群れ居つつ わが泣く涙 止む時もなし(― 朝日が美しく照り映えている佐太の岡辺に群れ集っては、私の泣く涙は止む時がないことだ)
2022年02月12日
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うつせみし 神に堪(あ)へねば 離(さか)り居て 朝嘆く君 放(さか)り居て わが戀ふる君 玉ならば 手に巻き持ちて 衣(きぬ)ならば 脱(ぬ)く時もなく わが戀ふる 君そ昨(きぞ)の夜 夢(いめ)に見えつる(― 人間は到底神に近寄ることが出来ないものであるから、神上がりなさった大君にお逢いできずに、離れていて朝夕に、私の恋い嘆く大君、玉ならば手に巻き持ち、衣なら脱ぐ時も無く、私の恋しく思う大君が昨夜、夢に見えたことである) かからむの 懐(こころ)知りせば 大御船 泊(は)てし泊(とま)りに 標(しめ)結(ゆ)はましを(― こうなるだろうと前から分かっていたならば、天皇のお乗りになっていた大御船の泊まっていた港にシメを結って、大御船を留めて、天皇が天路を旅立たれないようにするのだった) やすみしし わご大君の 大御船 待ちか戀ふらむ 志賀の辛崎(― わが大君の大御船を、志賀の辛崎は恋い慕い、お待ちしているのであろうか) 鯨魚(いさな)取り 淡海(あふみ)を 沖放(さ)けて 漕(こ)ぎ來る船 邉(へ)附きて 漕ぎ來る船 沖つ櫂(かい) いたくな撥(は)ねそ 邉つ櫂 いたくな撥ねそ 若草の 夫(つま)の 思ふ鳥立つ(― 淡海の海の、遠く沖辺を漕いで来る舟よ、岸辺沿いに漕いで来る舟よ。沖の舟もひどく櫂を撥ねないでおくれ、岸の櫂もひどく撥ねないでおくれ。懐かしい私の夫が愛していた鳥が、驚いて飛び立つから) ささ浪の 大山守(おおやまもり)は 誰(た)がためか 山に標(しめ)結う 君もあらなくに(― ささ浪の大山守は誰のために山に標を結って守るのか、山の持主でいらっしゃる天智天皇はもはやいらっしゃらないのに) やすみしし わご大君の かしこきや 御陵(みはか)仕ふる 山科の 鏡の山に 夜はも 夜のことごと 晝はも 日のことごと 哭(ね)のみを 泣きつつ在りてや 百磯城(ももしき)の 大宮人は 去(ゆ)き別れなむ(― わが大君の、恐れ多いお墓にお仕えしている山科の鏡の山に、夜は毎夜、夜を込めて、昼は毎日、日もすがら泣いてばかりいたが、今はもう、別れ去ってしまうのであろうか) 三諸(みもろ)の神の 神杉 夢にだに 見むとすれども 寝(い)ねぬ夜ぞ 多き(― 三輪の大神が鎮座なさっていらっしゃる三輪山の、尊い神杉ではないけれども、せめて、今は亡き十市皇女(とをちのひめみこ)を夢に見たいと思うけれども、皇女を失った強い悲しみで眠れない夜が多いのだ) 三輪山の 山邊眞麻木綿短木綿(やまべまそゆふみじかゆふ) かくのみ故(ゆゑ)に 長しと思ひき(― 三輪山の山の辺にある真麻の木綿は短いが、その様に皇女の命も短いものだったのに、私は知らずに長いものだと信じ込んでいたのだ) 山振(やまぶき)の 立ち儀(よそ)ひたる 山清水(やましみづ) 酌(く)みに行かめど 道知らなくに(― 美しく黄色い花の山吹が周りに立って飾っている、山の清水を汲みに行こうと思うのだが、黄泉までも訪ねて行きたいと思うのだが、道が分からないのだ) やすみしし わご大君 夕されば 見(め)し給ふらし 明けくれば 問ふ給ふらし 神岳(かみをか)の 山の黄葉(もみち)を 今日もかも 問ひ給はまし 明日もかも 見(め)し賜はまし その山を 振り放(さ)け見つつ 夕されば あやに悲しび 明けくれば うらさび暮し 荒栲(あらたへ)の 衣の袖は 乾(ふ)る時もなし(― わが大君が、夕方はご覧になり、朝は御訊ねになるように思われる、神岳の山の黄葉を、今日もお尋ねになられ、明日も御覧になるであろうか。その山を眺めやっては、私持統天皇は夕方になると無性に悲しくなり、夜が明けると心寂しく暮らしては、喪服の袖は乾く時がないのだ) 燃ゆる火も 取りて裹(つつ)みて 袋には入ると 言はずや 面(おも)知らなくも(― 燃えている火を袋に入れることさえ出来ると、言うではないか。それなのに、私は亡くなった天皇を心に思うようには出来ないでいるのです。こんなに悲しい事があって良いでしょうか、不条理すぎる現実でありまする) 北山に たなびく雲の 靑雲の 星離(さか)り行き 月を離りて(― 北山の上に棚引いている雲の、薄青く白い雲が今、星を離れて去り、月を離れて去っていこうとしている。このように天上の運行に示される如く、大君は私を後に残して、去って行かれた) 明日香(あすか)の 清御原(きよみはら)の宮に 天の下 知らしめしし やすみしし わご大君 高照らす 日の皇子(みこ) いかさまに 思ほしめせか 神風(かむかぜ)の 伊勢の國は 沖つ藻も 靡きし波に 潮氣(しほけ)のみ 香(かを)れる國に 味(うま)こり あやにともしき 高照らす 日の皇子(― 明日香の清御原の宮で、天下をお治めになられた天武天皇、わが大君、日の皇子は、どうのようにお思いなされたからか、神風の吹く伊勢の国、沖の藻も靡いた波に、潮のけのほのかに立つ国を経由なされて……、( 遥かなる祖先の故郷へと旅立たれた )私、持統天皇にとって、口では言い表せない程に愛しい、日の皇子でいらっしゃいます)
2022年02月09日
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つのさはふ 石見(いはみ)の海の 言(こと)さへく 韓(から)の崎なる 海石(いくり)にそ 深海松(ふかみる)生(お)ふる 荒磯(ありそ)にそ 玉藻は生ふる 玉藻なす 靡(なび)き寐(ね)し兒を 深海松の 深めて思(も)へど さ寐し夜は いくだもあらず 這(は)ふ蔓(つた)の 別れし來れば 肝向(きもむか)ふ 心を痛み 思ひつつ かへりみすれど 大船の 渡(わたり)の山の 黄葉(もみちば)の 散りの亂(まが)ひに 妹が袖 さやにも見えず 嬬(つま)隠(こも)る 屋上(やかみ)の山の 雲間より 渡らふ月の 惜しけども 隠(かく)ろひ來(く)れば 天(あま)つたふ 入日さしぬれ 大夫(ますらを)と 思へるわれも 敷栲(しきたへ)の 衣の袖は 通りて濡れぬ(― 石見の海の、韓の崎にある危険な暗礁に、海藻の深海松は生える、荒々しい磯に玉藻は生える。その玉藻ではないが、靡くようにして共寝した妻を心に深く思うけれども、共に寝た夜は少なくて、地面を這う蔓が先が別れる様に、別れて来てしまったので、心痛さに、あれこれと思い返しては後ろを振り返って見るのだが、渡りの山の黄葉の葉が散り乱れているので、妻の振る袖ははっきりと見えず、屋上(やかみ)の山の雲間を渡って行く月の様に、惜しいけれども見えなくなって来る、その時に、丁度入日が射してきたので、立派な男子だと自負している自分も、着衣の袖は涙で濡れ通ってしまっていることだ) 靑駒の 足掻(あがき)を早み 雲居(くもゐ)にそ 妹があたりを 過ぎて來にける(― 私が乗っている、青みががった白馬の脚の運びが速いので、妻の家の辺りを過ぎて、遥か遠くなってしまったなあ) 秋山に 落つる黄葉(もみちば) しましくは な散り亂(まが)ひそ 妹があたり見む(― 秋の山に散る黄葉よ、しばらくは乱れ散るのを止めてくれないか。妻の家の辺りを見たいので) 石見(いはみ)の海 津の浦を無み 浦無しと 人こそ見らめ 潟無しと人こそ見らめ よしゑやし 浦は無くとも よしゑやし 潟は無くとも 勇魚(いさな)取り 海邊を指して 柔田津(にきたづ)の 荒磯(ありそ)の上に か靑なる 玉藻沖つ藻 明け來れば 浪こそ來寄せ 夕されば 風こそ來寄せ 浪の共(むた) か寄りかく寄る 玉藻なす 靡きわが宿(ね)し 敷栲の(しきたへ)の 妹が手本(たもと)を 露霜の 置きてし來れば この道の 八十隈(やそくま)ごとに 萬度(よろづたび) かへり見すれど いや遠(とほ)に 里放(さとさか)り來ぬ いや高に 山も越え來ぬ 愛(は)しきやし わが嬬(つま)の兒(こ)が 夏草の 思ひ萎(しな)えて 嘆くらむ 角(つの)の里見む 靡けこの山(― 石見の海には浦がない、潟がないと人は見るだろう、嗚呼、それでも鯨を勇敢に捕獲する漁師は海辺を目指して、柔田津の荒々しい磯の上には真っ青な玉藻や沖の藻が、寄せて来る波や風が朝に夕に打ち寄せる。その素敵な藻ではないが、靡いて寝た最愛の妻の許を私は別れて来てしまったことだ。今辿っている屈曲する道の曲がり角毎に振り返って後ろを見るけれども、益々遥かに、遠く離れてしまった。益々、高い山を越えて来たことだ。ああ、愛しの妻が夏草のように萎れて嘆いている、角の里が見たいのだ、ひれ伏せ、邪魔な山め、身を屈めるのだ) 石見の海 打歌(うつた)の山の 木の際(ま)より わが振る袖を 妹見つらむか(― 石見の海際にある打歌の山の、木の間から、私が振っている袖を、妻は見ているであろうか) な思ひと 君は言へども 逢はむ時 何時(いつ)と知りてか わが戀ひざらむ(― 心配などするな、そう貴方は仰るのですが、せめて、何時の日に再会出来るのか、それだけでも分かっていれば、私はこんなにも気を揉まないでしょうがねえ) 磐代(いはしろ)の 濱松が枝を 引き結び 真幸(まさき)くあらば また還り見む(― 私は反逆の罪を負って流刑地に赴くのだが、今こうして磐代の松の枝を引き結んで、無事を祈願するのだ。幸運に恵まれたなら、生還して、再びこの松を目にする事が出来るのだが…) 家にあれば 笥(け)に盛る飯(いひ)を 草枕旅にしあれば 椎(しひ)の葉に盛る(― 自宅に居たならば金属製の立派な器・笥に、蒸し飯を盛って神に供えるのであるが、今は旅の途中なので、失礼ながら簡素な椎の葉を代用して供するしか、方法がありません。どうぞ、お許しを戴きたく存じまする) 鳥羽(とりは)成し あり通ひつつ 見らめども 人こそ知らね 松は知るらむ(― 鳥が羽を動かして空を飛ぶように、有馬の皇子の御魂は常にこの辺りの空を通って、見ておられるであろうが、人の方はそれを知らなくとも神の憑代(よりしろ)である、皇子が枝を結んだ神聖な松の木はその事実を知っているであろうよ) 後(のち)見むと 君が結べる 磐代の 小松がうれを また見けむかも(― 後に再び見ようと言って君が結ばれた侭になって今も有る、磐代の松、その当時は子松であった松の木末を、再びご覧になられたであろうか) 天(あま)の原 振り放(さ)け見れば 大君の 御壽(みいのち)は長く 天足(あまた)らしたり(― 蒼穹の大空を振り仰いで見ると、天智天皇様の御命は、長久に、天一杯に満ち満ちていらっしゃいます) 靑旗(あをはた)の 木幡(こはた)の上を かよふとは 目には見れども 直(ただ)に逢はぬかも(― 木の葉が盛んに繁っているので、青旗を立て並べた如くに見える、山科の木幡の山の辺りを天智天皇の尊い御魂が通っておられると、目には見えるのだけれども、直接にお会いすることが叶わないのですよ、本当に悲しい限りでありまする) 人はよし 思ひ止むとも 玉鬘(たまかずら) 影に見えつつ 忘らえぬかも(― ほかの人はよしやこの悲しみを忘れることがあったとしても、私は天皇の面影がありありと見えているので、忘れることなどは出来ません)
2022年02月07日
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吉野川 逝(ゆ)く瀬の早み しましくも 淀むことなく ありこせぬかも(― 吉野川の瀬の流れの速い所はほんの少しの間も停滞することがない。その様に、我々二人の恋人の仲も、すらすらと事が運んでくれないかなあ) 吾妹兒(わぎもこ)に 戀ひつつあらずは 秋萩(あきはぎ)の 咲きてて散りぬる 花にあらましを(― 何時までもあの人を恋い慕ってなどいないで、あの秋萩の様に潔く、花を咲かせて直ぐに散ってしまった方がよかったのに…。生きていても貴女は私の心を受け入れてはくれないのだから) 夕さらば 潮満ち來(き)なむ 住吉(すみのえの)の 淺鹿(あさか)の浦に 玉藻(たまも)刈りてな(― 日が暮れていったならきっと潮が満ちてくるだろう、あの住吉の浅鹿の浦で、玉藻を刈りたいものだ。恋する人を自分の物にしたと強く思うのだ) 大船(おおぶね)の 泊(は)つる泊(まり)りの たゆたひに 物思(も)ひ痩せぬ 人の兒ゆえに(― 大船の停泊する港で舟が揺れて安定しないように、私の心は常に動揺して止まない。貴女は他人の妻だと言うのに、それを承知で恋してしまった自分は、罰を受けでもする如くに恋の想いに苦しみ痩せに痩せてしまった。自業自得だが、苦しくて堪らないことだ) たけばぬれ たかねば長き 妹(いも)が髪 この頃見ぬに 掻きれつらむか(― 掻き上げればほどけ、掻き上げなければ長すぎる貴女の髪は、この頃見ないが、掻き上げて整えただろうか…) 人は皆 今は長しと たけと言へど 君が見し髪 亂れたりとも(― 人は皆が、今は長くなったので、掻き上げなさいと言うけれど、貴方が見た髪ですもの、たとえ乱れていてもそのままにしておきますわ) 橘(たちばな)の 蔭履(ふ)む路(みち)の 八衢(やちまた)に 物をそ思ふ 妹(いも)に逢はずて(― 都の街路には橘の樹が植えられているが、その木陰を踏んで行く道が八方に分かれている如くに、私は今あれこれと思い乱れていることであるよ。最愛の女性に会えないので…) 遊士(みやびを))と われは聞けるを 屋戸(やど)貸さず われを還(かへ)せり おその風流士(みやびを)(― 私はあなたのことを風雅を解するお方だと聞いておりました。そのあなたが私に宿も貸さないで帰すとは、一体どうしたことでありましょうか…。間抜けとしか表現できない無粋さですことね) 遊士(みやびを)に われはありけり 屋戸貸さず 還(かへ)ししわれそ 風流士にはある(― 若く美しい貴女が醜い老婆に変装して、火を借りに来たのを、気付かなかったのではなくて、真の風流を愛でる雅なダンディーだからこそ、敢えて拒否して、御帰ししたのですよ。その様な姑息な手段に頼らずに、正面から求愛したら如何ですか? それなら、即座に宿をお貸し致しましょう、可愛い貴女) わが聞きし 耳に好く似る 葦(あし)のうれの 足痛(あしひ)くわが背(せ) 勤(つと)めたぶべし(― 私が噂に聞いていた様に、貴方は葦の成長する場所の先端と同じように、ひょろつく足の障害がお有りのようですね。おみ足の病を大切になさり、頑張って下さいませ、あまり無理をなさらずに) 古(ふ)りにし 嫗(おみな)にしてや かくばかり 戀に沈まむ 手童(てわらは)の如(ごと)(― 御婆ちゃんの歳になったと言うのに、こんなにも、恋などという病に沈み苦しみ悩むのでしょうか、知りませんでしたよ実際に体験するまでは。まるで、初心な子供ではありませんか) 丹生(にふ)の河瀬は 渡らずて ゆくゆくと 戀(こひ)痛(いた)きわが背(せ) いで通ひ來(こ)ね(― 危険が潜んでいると思われる、丹生の河瀬などは渡らないで、姉さんの所においでなさいな、可愛い弟君よ。苦しい恋の心を晴らしかねて悶々としているのは、傍で見ていてもお気の毒でなりません) 石見(いはみ)の海 角(つの)の浦廻(うらみ)を 浦なしと 人こそ見らめ 潟(かた)なしと 人こそ見らめ よしゑやし 浦は無くとも よしゑやし 潟は無くとも 鯨(いさな)取り 海邊を指して 和多津(にきたづ)の 荒磯(ありそ)の上に か靑なる 玉藻沖つ藻 朝羽(あさは)振る 風こそ寄せめ 夕羽(ゆうは)振る 浪こそ來寄せ 浪の共(むた) か寄りかく寄る 玉藻なす 寄り寝し妹を 露霜の 置きてし來れば この道の 八十隈(やそくま)毎(ごと)に 萬(よろづ)たび かへりみすれど いや遠(とほ)に 里は放(さか)りぬ いや高に 山も越え來ぬ 夏草の 思ひ萎(しな)えて 偲(しの)ふらむ 妹が門(かど)見む 靡けこの山(― 石見の海の、角の浦廻には良い浦はない、良い潟もないと、人は見ていようが、たとえそうであっても和多津の海辺の岩の辺りには、青い玉藻や沖の藻を、朝と夕に風や波が寄せて来るので、その寄せて来る波と一緒になって、こう寄ったりああ寄ったりする玉藻の如くに、相寄って夜毎に共寝した愛しい妻を、私は角の里に一人置いてきたから、この道の曲がり角毎に幾度も振り返って見るのだ。が、いよいよ、益々里は遠く離れて行き、いよいよ高く山を越えて来てしまった。今頃は愛する妻は、夏草の様に打しおれて憶い嘆き、私を遥かに慕っていることだろう。せめて家の門をこの目で見たいと思うのだ。靡いて伏せてくれ、この山よ、私の視界を邪魔しないように…) 石見のや 高角山(たかつのやま)の木の際(ま)より わが振る袖を 妹見つらむか(― 石見の高角山の木の間から、私が振っている袖を、妻は見たであろうか) 小竹(ささ)の葉は み山もさやに 亂(みだ)るとも われは妹思ふ 別れ來ぬれば(― 小竹の葉は山全体をざわざわさせて、山の神様も私に同情しているかのよう、風に乱れているけれども、私は乱れたりせずに、一心に妻の事を心に思っているのだ。別れて来たのであるから) 石見なる 高角山の木の間ゆも 我が袖振るを 妹見けむかも(― 石見の高角山の木の間越しに私が振った袖を、妻は見たであろうかなあ)
2022年02月04日
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玉葛(かづら) 實(み)ならぬ樹(き)には ちはやぶる 神そ着(つ)くとふ ならぬ樹ごとに(― 玉葛のように実のならない樹には、恐ろしい神がとり憑くと言います。実のならない樹毎に) 玉葛 花のみ咲きて 成らざるは 誰(た)が戀ひにあらめ 吾(あ)は戀ひ思(も)ふを(― 玉葛のように花だけ咲いて実の生らない、誠実さのない恋は、どなたの恋なのでしょうか。私はあなた様を心の底からお慕い申しておりますのに) わが里に 大雪降れり 大原の 古(ふ)りにし里に 落(ふ)らまくは後(のち)(― 私の住む里には今日大雪が降ったぞ。君が住む大原なぞという古臭い里に降るのは、大分後のことだろうよ、きっと。どんなもんだい) わが岡の オカミに言ひて 落(ふ)らしめし 雪の摧(くだ)けし 其處(そこ)に散りけむ(― 私の住む岡の、水の神様に言いつけて降らせた雪のかけらが、そちらに飛び散ったものでしょうよ。それなのに、先に降ったなどと得意げに仰る。まあ、可笑しいことですよ) わが背子(せこ)を 大和へ遣(や)ると さ夜深(ふ)けて 暁(あかとき)露に わが立ち濡れし(― 弟を大和に帰してやると言うので、私が見送って佇んでいると、夜は深けて、未明の露に私は全身が濡れてしまったことである) 二人行けど 行き過ぎ難き 秋山を いかにか君が 獨り越ゆらむ(― 二人で行っても物淋しく行き過ぎ難い秋の山を、弟はどのようにして一人で越えているであろうか…) あしひきの 山のしずくに 妹(いも)待つと われ立ち濡れぬ 山のしづくに(― 愛する女性(ひと)を待つということで、戸外にずっと佇んでいたので、私はすっかり山の雫に濡れてしまった) 吾(あ)を待つと 君が濡れけむ あしひきの 山のしづくに ならましものを (― 私を待っていて、愛しいあなたが濡れてしまった、その山の露に、出来るのならば私がなってみたかったのに) 大船(おおぶね)の 津守の占(うら)に 告(の)らむとは まさしに知りて わが二人宿(ね)し(― あの津守の占いに表れていたとは、我々二人が結ばれるであろうことは、以前から、ひょっとしたら前世からの約束事でも、あったのであろうよ。何とも、運命的な出会いではあったよ、二人の恋は) 大名兒(おほなご)を 彼方(をちかた)野邊(のべ)に 刈る草(かや)の 束(つか)の間(あひだ)も われ忘れめや(― 大名児を、遠野で刈る草のひと束の間でも、私は忘れるであろうか、決して忘れることはない) 古(いにしへ)に 戀ふる鳥かも 弓弦葉(ゆづるは)の 御井(ゐ)の上より 鳴き渡り行く(― 天武天皇が御在世であった昔を、恋い慕っている鳥なのであろうか、交譲木・ゆづるは の御井の上を鳴きながら渡って行くのは) 古に 戀ふらむ鳥は 霍公鳥(ほととぎす) けだしや鳴きし わが念(も)へる如(ごと)(― 昔を恋い慕って鳴いたという鳥はホトトギスで、恐らく私が昔を想い、慕っているような気持で鳴いたのでありましょう) み吉野の 玉松が枝(え)は 愛(は)しきかも 君が御言(みこと)を持ちて 通はく(― 吉野の苔が付着した美しい松の枝は、とても愛しいものだ。愛するお方の御言葉を携えてやって来るのですからねえ) 秋の田の 穂向(ほむき)の寄れる こと寄りに 君に寄りなな 事痛(こちた)かりとも(― 秋の田の稲穂がひとつの方向に偏っている様に、ただひた向きに愛するあなた様に寄り添いたいと思いますわ、たとい世間の取沙汰が酷いものであったとしても) 後れ居て 戀つつあらずは 追ひ及(し)かむ 道の阿廻(くまみ)に 標(しめ)結(ゆ)へわが背(せ)(― 後に一人残ってあなたを恋慕ってなどいないで、追って行って追いつきたいと思うのです。あなた、どうか道しるべを曲がり角毎に結びつけて置いてくださいな、お願いです) 人言(ひとごと)を 繁み言痛(こちた)み 己(おの)が世に 未だ渡らぬ 朝川渡る(― 世間の人の噂が、あれこれと煩く酷いので、生まれてまだ経験したことの無かった、朝の川を渡る羽目になりましたよ、人目を避ける為に) 大夫(ますらを)や 片戀ひせむと 嘆けども 鬼(しこ)の大夫 なほ戀ひにけり(― 自分は天晴れ、大丈夫だと自負している。その大丈夫たる者が片恋、靡こうともしない相手に恋心を一方的に寄せたりする、醜悪な行為には及ばない。そう信じていたのに、このアホバカな大丈夫は無様にも期待を裏切ってくれたことだ、何たる無様なことか) 嘆きつつ 大夫(ますらをのこ)の 戀ふれこそ わが髪結(ゆふかみ)の 漬(ひ)ぢてぬれけれ(― あなた様の如くに御立派な男性が私に一方的に心を寄せて下さる。そんな信じ難い有難い嘆きが蔭にあったなぞと、夢にも存じませんでした。道理で、人々が言っていた様に、私の結った髪が濡れて、緩んだりしたのでしたね。今の今まで、全く気がつきませんでした)
2022年02月02日
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