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パオロ・タヴィアーノ「遺灰は語る」 タヴィアーニ兄弟というイタリアで映画を作ってきた兄弟がいて、兄のヴィト―リオが2018年に90歳でなくなり、弟のパオロが2022年、88歳で作られた作品だそうです。50年ほど前に「父 パードレ・パドローネ」という映画を見た記憶がありますが、内容は何も覚えていません。 今回は予告編を見ていて、「ウン?」 という気分になってやって来ました。 パオロ・タヴィアーニ監督の「遺灰は語る」です。 ピランデッロという、戦前のイタリア文学の巨匠、ムッソリーニを支持したファシスト作家で、ノーベル賞、光文社古典新訳シリーズの最初のころ、「月を見つけたチャウラ」(光文社文庫)という本が出て読んだような、読まなかったような、まあ、そういう、あやふやな記憶の人物がストックホルムでノーベル賞の授賞式に出ているシーンから映画は始まりました。 白黒の画面で、どうも実写のニュースフィルムのようですが、その作家の臨終のシーンあたりから独特の、まあ、そういうしか言い方がわかりません(笑)、映像が展開し始めます。 病室は、なんだかSF調ですし、その後の展開は、懐かしい、あのリアリズム! って言いたい感じなのですが、ほとんどコメディです。 遺骨の搬送を命じられたシチリアからの特使の真面目くさった様子が笑えます。いっしょに飛行機に乗るのは縁起が悪いと言っておりてしまう乗客とか、ギリシアの壺は拝めないとごねる神父とか、新しい容器に移し替えようとするとあふれてしまう遺灰とか、子供用の棺の行進とそれを笑う市民とか、なんだかしみじみと可笑しいのです。で、移し替えるときに余ってしまった遺灰をどうするのかと思っていると、画面がフルカラーにかわって、真っ青な海に撒かれるシーンで遺灰の旅が終わりました。すごいなあ・・・ まあ、なにがスゴイのだか、説明できないのですが、とりあえずスゴイわけで、ボーっと浸っていると、第2部「釘」が始まりました。こちらは色が印象的な作品で、こちらも凄いのですが、やっぱり説明するのが難しいのですね。 移民の父が営む酒場で楽しく踊っていたはずの少年が天から落ちてきた釘に人生を翻弄されるのですが、その少年の眼というか表情がすばらしくて見ってしまいます。終わってみると、どうも墓守の話だったようで、再び唸ってしまいました。 邦題は「遺灰は語る」ですが、イタリアでの題は「Leonora addio」、訳せば、「さらばレオノーラ」ということになるそうで、タヴィアーニ監督が兄弟で撮ろうとしていて撮れなかった作品の題らしいのですが、兄に先立たれて、残された弟、パオロ・タヴィアーニという88歳の監督が何を伝えようとして、この映画を撮ったのか、そう考えると、遺灰がシチリアの青い海に撒かれたシーンや、殺してしまった少女の墓の前に立つ、老いた少年の姿が浮かんできますね。 やっぱり、タヴィアーニ兄弟で撮った作品、できれば見てみたいものですね。なにはともあれ、パオロ・タヴィアーニという老監督に拍手!でした。監督 パオロ・タヴィアーニ製作 ドナテッラ・パレルモ脚本 パオロ・タヴィアーニ撮影 パオロ・カルネラ シモーネ・ザンパーニ美術 エミータ・フリガート衣装 リーナ・ネルリ・タヴィアーニ編集 ロベルト・ペルピニャーニ音楽 ニコラ・ピオバーニキャストファブリツィオ・フェラカーネ(シチリア島アグリジェント市の特使)マッテオ・ピッティルーティ(バスティアネッド)ロベルト・ヘルリッカ(ピランデッロの声)2022年・90分・PG12・イタリア原題「Leonora addio」2023・07・11・no89・シネ・リーブル神戸no200
2023.07.15
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ニール・ジョーダン「探偵マーロウ」 SCC(シマクマ・シネマ・クラブ)第7弾!です。最近お気に入りのリーアム・ニーソンが、あのフィリップ・マーロウを演じるというわけで、シマクマ君はかなり自信をもって提案したのがニール・ジョーダン監督の「探偵マーロウ」でした。 ところが、ところが、見終えて劇場を出て、M氏の最初の一言で、がっくりでした。「チャンドラーのマーロウって、あんなふうにマッッチョというか、ドンパチやる探偵なのですかねえ?」「・・・・・・」 グウの音も出ないとはこういうことをいうのでしょうね。 我々の世代なら知っている人が多いと思うの野ですが、フィリップ・マーロウって下に貼りましたが、こういうことを口にする探偵なんですね。 If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive. まあ、いろんな訳があるらしいのですが、ボクでも知っているのが、推理作家の生島治郎訳です。タフでなければ生きて行けない。優しくなれなければ生きている資格がない。 いかがです、聞いたことあるでしょ。訥弁でブッキラボウなんだけど、語りの人なんですよね。チャンドラーの「長いお別れ」とかお読みになるとわかるのですが、事件のありさまや現場について語って聞かせる探偵なんですよね、フィリップ・マーロウって。だから、シマクマ君はリーアム・ニーソンに期待して、提案したのです。 映画は出だしから、その渋いマーロウと1930年代のハリウッドというか、ロサンゼルスというか、まあ、ニューヨークじゃない感じ、裏がありそうな成金趣味の美人、ヒスパニック(メキシコ)や黒人に対する隠然たる差別、ギムレットとかマティーニとかのお酒の飲み方、それぞれ、なかなか味のある展開なのですが、とどのつまりに、なんだか妙にマッチョな結末が待っていたわけなんですね。なんだかなあ???? まあ、そんなふうに思っていると、先程の一言でガックリでした。それにしても、M氏も鋭いですね。推理小説的謎解きの筋運びで描くと、なんか、マーロウのキャラが薄っぺらくなっちゃって、どこがいいのか分らないものだから、どうせならすっきりした結末を! とか、なんとかという感じで、わかりやすくマッチョなキャラにしちゃったんじゃないかっていう気がしていたのですが、どうも、そのあたりを見破っていらっしゃったようですね。 ネット上のレビューとか見ると、結構、好評なようで、ようするに意固地なこだわりなのかもしれませんが、仕方がないですね。 「あのー、あたりってなかなかないんですね。」 M氏のその日のお別れのセリフなのですが、いやはや、こういう場合はなんとお答えしていいのか、ボクが責任感じてもしようがないのですが、やっぱり責任感じちゃいますね(笑)。監督 ニール・ジョーダン原作 ジョン・バンビル脚本 ウィリアム・モナハン ニール・ジョーダン撮影 シャビ・ヒメネス美術 ジョン・ベアード衣装 ベッツィ・ハイマン編集 ミック・マホン音楽 デビッド・ホームズキャストリーアム・ニーソン(フィリップ・マーロウ)ダイアン・クルーガー(クレア・キャヴェンディッシュ)ジェシカ・ラング(ドロシー・クインキャノン)アドウェール・アキノエ=アグバエ(セドリック)ダニー・ヒューストン(フロイド・ハンソン)アラン・カミング(ルー・ヘンドリックス)コルム・ミーニー(バーニー・オールズ)フランソワ・アルノー(ニコ・ピーターソン)ダニエラ・メルヒオール(リン・ピーターソン)イアン・ハートサーナ・カーズレイク2022年・109分・PG12・アメリカ・アイルランド・フランス合作原題「Marlowe」2023・06・26・no78」・シネ・リーブル神戸no197・SCC第7回
2023.07.14
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セバスティアン・マイゼ「大いなる自由」 「希望の灯り」という、数年前に見たドイツの映画で主役をしていたフランツ・ロゴフスキという俳優が主役らしいというので、見に来ました。 セバスティアン・マイゼという監督の「大いなる自由」という作品です。見終えて、ボンヤリ振り返っていて、最初から最後まで、画面上に女性が一人も出てこなかったんじゃあなかったかということに気づいて唖然としました。 映画の舞台は1945年、1957年、1969年の西ドイツの刑務所でした。 1945年、ドイツ第三帝国の崩壊直後、解放軍であった連合国によって管理されていた刑務所で、偶然、同房になったハンスとマッチョの権化のようなヴィクトールの出会いです。「オレに触るな!変態!」 象徴的なセリフで映画が動き始めました。どうなるんだろう、この二人? 山積みされたナチスの軍服から鍵十字のワッペンを剥ぎ取り、黙々と仕立て直しの作業に従事する主人公ハンスが映ります。 で、ヴィクトールが、毛嫌いしていたはずのハンスの腕に彫られた収容番号の入れ墨に気づくところから、一気に輪郭が見え始めました。 ハンスの腕をつかんだヴィクトールがいいました。「消してやろうか?」 隠し持った刺青の道具で番号が消されていきます。 第三帝国のドイツで「同性愛者」が「反社会分子」とみなされて、ユダヤ人、共産主義者、精神病者などとともに強制収容所への「収容」の対象であったことはボクでも知っていますが、戦後の東西ドイツに男性同性愛を禁じる刑法175条という法律があったことは知りませんでした。刑務所ではナチス時代に刑務官だった人間たちが戦後も同じ職業に在職し、いかにも官僚的な無表情で情け容赦のない暴力をふるっています。 1957年、二人が出会った日から10年以上たった、同じ刑務所です。再び収監されたハンスと、服役を続けているヴィクトールの再会です。 ヴィクトールに恩赦のチャンスが巡ってきますが、出所直前のある日、不安に駆られたヴィクトールは隠し持っていたヘロインを自ら注射して気を失い、恩赦を逃します。再び同房になった二人ですが、今度はハンスが薬物依存のヴィクトールを献身的に看病し、東ドイツへの逃亡をささやきます。「どこにも逃げていくことはできない!」 ヴィクトールは、そう叫びながら、戦地から帰った家で、知らない男と寝ていた妻を発見し、男と妻を殺した経緯を語ります。話を聞き終えたハンスはヴィクトールを抱きしめます。 実は、この年、東ドイツでは175条が失効していたのを見終えた後で知りました。 1969年、刑務所の娯楽室で月面着陸のテレビ放送をみているハンスとヴィクトールをはじめとした囚人たちのシーンが映ります。ハンスは娯楽室のテーブルに刑法175条の失効を大見出しにした週刊誌を発見します。1940年、ナチス時代の収容所収監に始まって以来、繰り返し罰され続けてきたハンスの「罪」が無くなったのです。 ハンスの二の腕には、収容番号の入れ墨を消すためにヴィクトールが彫ってくれた、まあ、ボクには意味の分からない大きな青黒い刺青が見えます。「たばこの差し入れをよろしく頼むよ。」 ヴィクトールからの三度目の別れの言葉に送られて出所するハンスに行くところはあるのでしょうか。 たった今、ガラスをぶち割ったショー・ウィンドウの薄明かりに照らされて真夜中の路上に座り込んでいる暗い影でしかないハンスが映っています。世界の真相のただ中で哀しく座り込んでいる人間の姿です。 その姿を見ながら思い浮かんできたのは、長い同房生活で、一度だけ愛の行為に及ぶハンスとヴィクトールですが、翌朝、中庭での散歩の時間のシーンです。「俺は、ホントは違うんだ。」「わかっている。」 ヴィクトールが恥ずかしそうに言葉をかけ、ハンスが一言答えて、二人は抱き合います。チラシの抱擁のシーンです。 ハンス・ホフマンを演じたフランツ・ロゴフスキ、刑務所で老いていくマッチョのヴィクトールを演じたゲオルク・フリードリヒ、二人ともいい俳優ですね。拍手! タバコに火をつけるシーンが、実に印象に残る哀しい作品でした。拍手!監督 セバスティアン・マイゼ脚本 トーマス・ライダー セバスティアン・マイゼ撮影 クリステル・フォルニエ美術 ミヒャエル・ランデル衣装 ターニャ・ハウスナー アンドレア・ヘルツル編集 ジョアナ・スクリンツィ音楽 ニルス・ペッター・モルベル ペーター・ブロッツマンキャストフランツ・ロゴフスキ(ハンス・ホフマン)ゲオルク・フリードリヒ(ヴィクトール)アントン・フォン・ルケ(レオ)トーマス・プレン(オスカー)2021年・116分・R15+・オーストリア・ドイツ合作原題「Great Freedom」2023・07・07・no85・シネ・リーブル神戸no199
2023.07.09
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クロード・ジディ・Jr「テノール」 なんか、楽しくてスカッとする映画はないかいな? そういう目論見で見当を付けてやってきたシネ・リーブル神戸です。観たのはクロード・ジディ・Jrという若い監督の「テノール」という作品です。 正解でした。まあ、オペラを本気でご覧になったり、お聞きになっている方がご覧になると、オペラの男性テノールのとしては素人という評価が下されそうですが、ボクのような素人にはとても楽しい音楽映画でした。 現代のフランスという国、まあ、ヨーロッパの国々のといったほうがいいかもしれませんが、を舞台にした作品に共通するのが、移民、貧困、格差というリアルな問題群が背景には必ず登場することですが、この作品では貧困地域のフリーターでラップ大好き青年アントワーヌ君の、実に、「マンガ的」ビルドゥングスロマン、地域対抗ラップ歌手からオペラ座のテノールへという夢物語が語られていました。 主役を演じているのはMB14という本物のラップ歌手だそうですが、オペラも、もちろん知りませんが、ラップってなに?の徘徊老人には、上手も下手もわかりません(笑)。こんなこと起こったら面白いやろ! まあ、そういう雰囲気ののりが映画全体を包んでいて、とてもいい感じで、ラップ青年アントワーヌ君がプッチーニの名曲「誰も寝てはならぬ」をオペラ座で歌う大団円はなかなか感動的でした。オペラ座なんて来たこともない地域のガキたちが、まあ、もう、おっさんという連中もいるわけですが場所にビビりながら、大喜びしている姿に拍手!でした。 だいたい、この年になって、相変わらず少年マンガのファンであり続けてるおつむの老人には、こういう筋書きはこたえられませんね。でもね、何とか抜け出せないかと若者たちがとんがっている格差をベースにしているところは、結構マジだと思うんですよね。そのあたりが、観ていてシラケない理由かもしれませんね。監督のクロード・ジディ・Jr.の今後に期待して、拍手!でした。監督 クロード・ジディ・Jr.脚本 ラファエル・ベノリエル シリル・ドルー クロード・ジディ・Jr.撮影 ローラン・ダイアン美術 リズ・ペオ衣装 レナイグ・ペリオット=ブールベン 編集 ベンジャミン・ファブルール音楽 ローラン・ペレズ・デル・マールキャストミシェル・ラロック(マリー・ロワゾー)MB14(アントワーヌ・ゼルカウィ)ギョーム・デュエム(ディディエ)マエバ・エル・アロウシ(サミア)サミール・デカザエリオサミール・デカザマリー・オペール(ジョセフィーヌ)ルイ・ド・ラビ二エール(マキシム)ステファン・デバク(ピエール)ロベルト・アラーニャ(ロベルト・アラーニャ本人役)ドゥードゥー・マスタオスカー・コップ2022年・101分・G・フランス原題「Tenor」2023・06・13 ・no70・シネ・リーブル神戸no196
2023.06.24
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トッド・フィールド「TAR ・ター」シネ・リーブル神戸 SCC(シマクマ・シネマ・クラブ)の第5回の鑑賞作品は気合を入れて選びました(笑)。第1回にイオセリアーニなんていうのを見たせいか、なんとなく「ハズレ」が続いているのを、まあ、主催者は気にしています。これはハズレへんやろ! 提案したのはトッド・フィールドという監督で、ケイト・ブランシェットという有名な女優さんが怪演していると評判の「TAR ・ター」でした。 見終えていつものしゃべりが始まりました。「で、何点ですか?」「・・・・・Mさん、おにぎり持ってきてましたよね。実はボクも持っています。天気もいいし、メリケン波止場のベンチで食べませんか?」「えっ?映画見てて食べちゃいましたよ(笑)。」「えー?隣りで、ゴソゴソしてたようですが、あの時ですか?」「はい。」 というわけで、メリケン波止場のベンチに移動しておしゃべりの続きです。「クラッシック音楽は得意なMさん、どうでした?」「イヤァー、今日はぼくからですか?ウーン、音楽についてはイマイチでしたね。後でセクハラの証拠に挙げられる男子学生とのやり取りシーンで主人公がピアノを弾きながら話しますね。あの時、主人公が弾いてたのがバッハの平均律という曲ですが、セリフとのアンバランスが割と印象深ったなと思いました。」「ああー、冷静に見てますねえ。ボクは、まあ、なんというか、ブチ切れています。」「0点?」「いや、点をつける感じじゃないというか。ボクね、音楽映画だと思って観てたんですね。で、いきなりなんですが、主人公の音楽家としての動作が、とても指揮者というふうには見えなくて、ようするに見世物というか、これってハッタリじゃねーか!という気分で、ドン引きしちゃったんですね。曲目もマーラーとか、あんまり好きではないのですが、でも、あの扱い方はちょっと失礼じゃないのといいたくなるくらい、いい加減だと感じちゃって、ダメでしたね。演奏シーンが、まあ、主人公のキャラクターのための道具でしかないというか。」「音楽映画じゃないですよね。」「そう、ただのスキャンダル映画というか。批評家は権力論とか持ち出して来るんじゃないですかね。でもね、フルトヴェングラーとかカラヤンの話が、どっかであったでしょ。あの取り上げ方も、たとえば、フルトヴェングラーのナチス問題というのは、かなり有名な話なんですよね。 主人公が音楽の本質云々についてしゃべってましたが、そこでは、ある種の芸術至上主義が、政治的な悪に対して脆弱であるとでもいう話で使われていたように思いましたが、それって、ものすごく皮相的というか、単純化した話になっていて、大戦後のフルトヴェングラーの苦難の歴史に対する評価は抜け落ちてる気がして、なんだか不愉快でしたね。 なんというか、取り上げ方が図式的でしたね。 ボクね、ここの所、偶然ですが、池内紀の『闘う文豪とナチス・ドイツ』という中公新書を読んだところなのですが、ナチスのイベントでヴァーグナーをやるのですが、指揮するのを断ったトスカニーニの代わりにフルトヴェングラーがやるとかいうことについて、マンの日記のコメントを取り上げて論じていたりして、いろいろ考えさせられるんですが、そのあたりの深さはこの作品にはありませんね。 ハラスメントの話題やいじめの話題も、主人公の性格設定のための演出なのかもしれませんが、実にありきたりで乱暴だし、とどのつまりは、地獄の黙示録ネタで、メコン川にワニがいるとかいないとか、聴衆がモンスターハンターだかなんだかのお面をつけて正装している演奏会とかの落ちには、まあ、アッシニハ、カカワリゴザンセン!、勝手にやっとけ! でしたね。 ああ、それからバーンスタインの話題が出ていましたね。主人公の音楽観の説明でしょうが、あれって70年代ですよね。当時、10代だとすると、今日の主人公は60歳を超えていないとおかしいのですが、どうなんですかね。小沢征爾とかがバーンスタインの弟子といっていいと思いますが、彼はたしか大江と同い年で、80歳を超えていますよ。ズレてません?主人公のリアリティのための作りごとやなあって感じましたよ。だから、見終えてすぐ、なんで、Mさんどう?って聞いた気持ち、わかってもらえます?(笑)。」「 なんか、お怒りですねえ(笑)。たしかにコロナがどうとか言ってましたから、映画の舞台の時代は同時代ですよね。で、バーンスタインの番組のシーンが、オシマイの方にありましたが、思い出のシーンというか、ビデオの録画を見ていましたよね。 ちなみに佐渡裕は、自分は最晩年のバーンスタインの弟子だと言ってますが、あの主人公を佐渡裕と同世代と考えることに、それほど無理はないと思うんですが。」「えー?主人公、60歳越えていたんですか?そうなると、ケイト・ブランシェット、まさに怪演!ですね(笑)。」 まあ、こういう調子で、期待を裏切られてハチャメチャでした。 で、数日後にM氏からメールがありました。「ちょっと、若い知り合いのいるところでターの感想を思うままに口にしたんですが、えらいことでしたよ。ケイト・ブランシェットって、ものすごく支持率高くて、あの映画も評判なのだそうで、あの時のまま、ブログに書いたりしたら炎上ですよ!」「えーっ?そうなんですか・・・・・。」 まあ、この忠告にビビったせいもあるのですが、投稿が遅れました。見損じているところもあるのでしょうが、世間の評判にはついていけない映画でした。自分にウソついても仕方がないので、このままアップします。 ドキ!ドキ!(笑)監督 トッド・フィールド脚本 トッド・フィールド撮影 フロリアン・ホーフマイスター美術 マルコ・ビットナー・ロッサー衣装 ビナ・ダイヘレル編集 モニカ・ウィリ音楽 ヒドゥル・グドナドッティルキャストケイト・ブランシェット(リディア・ター)ノエミ・メルラン(フランチェスカ・レンティーニ)ニーナ・ホス(シャロン・グッドナウ)ソフィー・カウアー(オルガ・メトキナ)アラン・コーデュナー(セバスチャン・ブリックス)ジュリアン・グローバー(アンドリス・デイヴィス)マーク・ストロング(エリオット・カプラン)2022年・158分・G・アメリカ 原題「Tar」SCCno5・2023・06・05・no67・シネ・リーブル神戸no194
2023.06.09
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ヴィム・ヴェンダース「ベルリン・天使の詩」シネ・リーブル神戸 この日はチッチキ夫人と二人でアベック映画でした。「完全に寝てたよ(笑)。」「うん、何回見ても寝るなあ。コロンボ刑事出てたやろ。」「うん、出てた。面白かったよ。」「最初に塔の上だかに天使が出てきて、カラーとか白黒とか、まあ、いろいろ技が駆使されて、意識が朦朧となって、後は気持ちよくゆすぶられて。」「うん、何度か、イビキをかきそうやったから揺すったけど。」「それは、それは、ご迷惑をおかけしました(笑)。」「うん、迷惑!」「周りの人に迷惑かけんで、よかったね(笑)。」 まあ、ようするに詩的とかについていけないんでしょうね。「ヴィム・ヴェンダース レトロスペクティブ ROAD MOVIES 夢の涯てまでも」という特集の1本だったのですが、見ているこっちが「夢の涯て」で眠りこけていたのでは感想になりませんね。完敗でした(笑)。監督 ヴィム・ヴェンダース製作 ヴィム・ヴェンダース アナトール・ドーマン製作総指揮 イングリット・ビンディシュ脚本 ヴィム・ベンダース ペーター・ハントケ撮影 アンリ・アルカン美術 ハイディ・ルーディ編集 ペーター・プルツィゴッダ音楽 ユルゲン・クニーパーキャストブルーノ・ガンツ(天使ダニエル)ソルベーグ・ドマルタン(マリオン)オットー・ザンダー(天使カシエル)クルト・ボウワ(老詩人ホメロス)ピーター・フォーク(ピーター・フォーク) 1987年・128分・G・西ドイツ・アメリカ合作原題「Der Himmel uber Berlin」日本初公開:1988年4月23日2022・01・13-no7・シネ・リーブル神戸no205
2023.05.28
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ユホ・クオスマネン「コンパートメントNo.6」シネ・リーブル神戸 一緒に100days100bookcoversと題してFB上で本の紹介ごっこをしているお友達たちが「いいよ!」 と噂し合っている映画、ユホ・クオスマネンというフィンランドの監督の「コンパートメントNo.6」という作品を見ました。こんなに後味のいい作品は久しぶりでした。 ラウラ(セイディ・ハーラ)という女子学生がムルマンスクというロシア最北端、だから世界最北端の町まで夜行列車に乗って旅をするお話でした。目的はペトログリフというのですから古代の岩面彫刻の遺跡の見学です。 ラウラは歴史学を勉強しているらしいフィンランドの学生ですが、今は語学留学のためにモスクワにやって来ていて、イリーナ(ディナーラ・ドルカーロワ)という女性の先生の家に下宿しているようです。 で、その先生とは恋愛関係にあると、まあ、当人は思っているようですが、先生(?)、恋人(?)イリーナの発案で始まったはずの今回の旅なのですが、その恋人だか、先生だかのドタ・キャンで一人旅になっているという映画の始まりでした。 この辺りで、「えっ?」 と思ったシーンがありました。それはイリーナのサロンに集まっていた人たちの誰かの発言でした。「チャパーエフと空虚」読んだ? ペレーヴィンというロシアの作家の1990年代の終わり頃の作品で、日本では「ロシアの村上春樹」 とかのキャッチ・コピー付きで群像社というところから出版されていますが、確か映画にもなった作品です。 そこでのラウラの返事は「買ったけど読んでいない・・・」 とかなんとかのぐずぐずで、「そうか、そうか、ボクも買ったけど、読んでないわ(笑)。」 と好感を持ったのですが、そこから、部屋のベッドにもぐりこんで寝ているラウラに覆いかぶさるように「愛(?)」の行為に及ぶイリーナとのシーンが、なかなか象徴的でしたね。 結局一人で乗ることになった夜行列車のコンパートメントのシーンに登場するのは若いロシア人のリョーハ(ユーリー・ボリソフ)ひとりです。 で、この男が映画的には素晴らしいですね。プーチンとかアメリカだったらトランプとかを支持しそうな、いかにもなオニーさんで、コンパートメントに陣取ると、早速、ウォッカかなんかを飲みながら厚かましさ丸出しです。「列車は初めてか?」「 何をしにどこに行く?」「 何をやっている?」 とどのつまりは「仕事は売春か?」 と、のたもうて、ラウラの下半身に手を差し入れんばかりです。 焦ったラウラは、何とか逃げ出そうと車掌と交渉したりもするのですが、結局、男の反対のベッドの上段に逃げ込むしかなくて、いや、ホント、こころから同情しましたね。で、このシーンで面白かったのは男の二つのセリフです。「タイタニックは見たか?」「愛しているってどういうんだ」 イリーナのサロンでは、ロシアの村上春樹が話題だったのですが、ここでは「タイタニック」です。時代はピッタリ符合しています。で、上段ベッドに立て籠もっているラウラは、今度は上から見下ろしていて、男のセリフにこう答えるのです。「ハイスタ・ヴィットゥ」 字幕にどう出ていたか忘れましたが、要するに「くそったれ!」とか、まあ英語なら「ファック・ユー!」とかなのでしょうね。マア、映画好きならすぐにピンときそうですが、「おっ、このセリフ、どこで、どう落とすねん?」 ですよね(笑)。 で、ここからが、完全な(?)ロード・ムービーで、ボクの興味は、ラウラはいつ、上のベッドから下に降りてくるのかなのですが、ペテルブルグでの老婆との出会いとか、インチキなバックパッカー野郎の登場とか、いろいろあって面白いのですがなかなか降りてきません。とどのつまりは極北の地で・・・・。 まあ、いろいろあった上でのことなのですが、終わりの方のシーンで、なんだか、寒々として、本当にペトルグリフとかあるのといぶかるような雪原というか、寒風吹きすさぶ海岸というかで二人が寝そべるんですが、いや、愛し合って抱き合うとかじゃなくてですよ、これが、いかにも寒くて「馬鹿じゃないの!」 とは思うのですが、いいんですねえ(笑)。 世界の果てで、人が人に会えた喜びが零下30度の寒風にさらされているって、サイコー!だと思いませんか(笑)。 寒い中でよく頑張ったラウラ(セイディ・ハーラ)とリョーハ(ユーリー・ボリソフ)に拍手!ですね。ペテルブルグのオバーちゃんを出した監督のユホ・クオスマネンにも拍手! ところで、ムルマンスクってロシア領なのですね。乗車するすぐにパスポートとか調べられるので、フィンランドかノルウェーだと思い込んでいたのですが、家に帰って調べて「ああ、そうか!」でした。監督 ユホ・クオスマネン原作 ロサ・リクソム脚本 アンドニス・フェルドマニス リビア・ウルマン ユホ・クオスマネン撮影 J=P・パッシ美術 カリ・カンカーンパー編集 ユッシ・ラウタニエミキャストセイディ・ハーラ(ラウラ)ユーリー・ボリソフ(リョーハ)ディナーラ・ドルカーロワ(イリーナ)ユリア・アウグ2021年・107分・G・フィンランド・ロシア・エストニア・ドイツ合作原題「Hytti Nro 6」2023・02・21-no024・シネ・リーブル神戸no193
2023.05.22
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フェリックス・バン・ヒュルーニンゲン 、シャルロッテ・ファンデルメールシュ「帰れない山」シネ・リーブル神戸 1970年代の終わりころだったでしょうか、「見てから読むか、読んでから見るか。」 というキャッチ・コピーで角川映画が大騒ぎしたことがありますが、覚えていらっしゃるでしょうか。 今回は読んだから観た映画でした。 映画はフェリックス・バン・ヒュルーニンゲン、 シャルロッテ・ファンデルメールシュというお二人が、ご夫婦で、監督、脚本をなさっているらしい「帰れない山」です。 この作品はパオロ・コニェッティという、確か、新潮社のクレストブックのシリーズで翻訳されているイタリアの作家の同名の小説の映画化ですが、原作を数年前に読んでいたこともあって、これは、SCC、ピッタリ、行けるんちゃうか!?読んでから見る人と、見てから読む人と、ちょうどやん! まあ、そんなふうに期待して提案しました。もちろん、原作が面白かったからです。第3回SCC(シマクマ・シネマ・クラブ)でした。 街の少年ピエトロと山の少年ブルーノの、山と、父と、友情を描いた作品でした。 で、見終えて、あの質問でした(笑)。 「今日の作品は何点くらいですか?」「なんだか、なあーですね。」「えっ?30点とか?」「イヤぁー、そんなことはないですが、なんか、納得いかないんですねェ。どうでしたか?」「あのォー、村上春樹の『風の歌を聴け』ってありましたでしょ。あの主人公の僕と鼠みたいだなと。真面目な青春映画かなと。結構、面白かったですよ。」「ふーん、そうか。なるほど、そうですよね。ねえ、ちょっとビールでもどうですか。」「いいですねえ(笑)。お茶で、おそばで、第3回は、いよいよ、ちょっと一杯ですね。」 というわけで、元町商店街の金時食堂のテーブルに座って再開です。「あのね、読んでから観た感想だとね、その青春映画というか、友情映画というかになっちゃってるのが不満なんですね。」「というと?」「なんか、まあ、無茶苦茶な言いぐさなんですが、今、見終えて、原作読んでみようって、思います?」「ああー、思いつきませんでしたね。」「主人公の二人に共通するのは父親との葛藤ですよね。で、葛藤のシンボルのように山が目の前にそびえていました。生まれ育ったアルプスの山に残るのはブルーノ、宗教的なというか、なんか意味ありげな山論にかぶれて、父親から遠く離れたヒマラヤにやってくるのがピエトロでしたよね。で、数年後に再会して、ブルーノが山で破滅していく姿をピエトロが見守って映画は終わりましたよね。二人にとって山って何だったのかということが、ぼくにはピンボケなんですよね。」「作品の中で『鼠くん』が山を抽象的に捉えるなと言ってましたね。」「そうなんです。あのセリフはとても重層的というか、小説では、もっと分厚く描かれていたと思うのですが、映画ではちょっと、まあ、ボクが原作をそう読んだということですが、よくわからないんです。ウーン・・・なんだと思うんですね。」「なんか、違う映画を見てたようですね(笑)。」「まあ、山も美しいし、登場人物たちも悪くない作品なのですが、たぶん、脚本の段階で、ボクに言わせればですが、原作を読み損じてるような、なんだかありきたりに青春映画にしてしまったような気がしましたね。読んでから見たから、余計に、なんだよ!なんでしょうね(笑)」 というわけでした。蛇足ですが、映画そのものは美しい風景と、人間の自然との親和、葛藤を人生に重ねて撮っている作品で、悪くいう筋合いはありません。でも、シマクマ君の採点では、残念ですが、50点を越えなかったんですよね。まあ、そういうわけで、やっぱり今回も、ちょっと残念な第3回SCC映画会でした。 さて、次はもう決まっています。パルシネマで「トニー滝谷」です。二人とも「読んでから見る」作品ですね。楽しみですね(笑)。監督 フェリックス・バン・ヒュルーニンゲン シャルロッテ・ファンデルメールシュ原作 パオロ・コニェッティ脚本 フェリックス・バン・ヒュルーニンゲン シャルロッテ・ファンデルメールシュ撮影 ルーベン・インペンス編集 ニコ・ルーネン音楽 ダニエル・ノーグレンキャストルカ・マリネッリ(ピエトロ)アレッサンドロ・ボルギ(ブルーノ)フィリッポ・ティーミ(ジョヴァンニ)エレナ・リエッティ(フランチェス)クリスティアーノ・サッセッラ(子供の頃のブルーノ)ルーポ・バルビエロ(子供の頃のピエトロ)アンドレア・パルマ(10代のピエトロ)フランチェスコ・パロンベッリ(10代のブルーノ)エリザベッタ・マッズッロ(ラーラ)スラクシャ・パンタ(アスミ)2022年・147分・G・イタリア・ベルギー・フランス合作原題「Le otto montagne」SCCno3・2023・05・15-no061・シネ・リーブル神戸no189
2023.05.17
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オタール・イオセリアーニ「トスカーナの小さな修道院」シネ・リーブル神戸 同居人のチッチキ夫人と一緒にやって来ました。シマクマ君が見終えて帰ると、あれこれうるさく騒ぐので、それならという気分でついてきたようです。イオセリアーニ「トスカーナの小さな修道院」です。1時間ぐらいのドキュメンタリー作品のようです。イオセリアーニ特集ですが、シマクマ君は4本目ですが、チッチキ夫人は初めてです。 トスカーナっていうのは、イタリアの、まあ、山の中ですね(知りませんけど)。映像で見る限り、四方を山に囲まれた田舎の村です。村のはずれに修道院があって5人の修道士が暮らしていて、お祈りとか、なんか、みんなで声を合わせて歌を唄うとか、修道院のまわりの村で暮らしている人の生活とか、まあ、山の村の生活ドキュメンタリー、修道院編という感じでした。聞こえてくる音楽、というか歌声が、先日見たジョージアのドキュメンリー「唯一、ゲオルギア」で聞こえてきたのと似ていると思いました。 見終えた帰り道に、チッチキ夫人がなにかいい始めました。「ねえ、あの、修道士とかの人たちって、本物?」「うん、ドキュメンタリーっていうことやから、映ってる人らは、まあ、それぞれ、やっぱり本物やろう。」「なんか、俳優さんが、修道院の人を演じてるみたいな気がせえへんかった?」「えっ?それって、やらせということ?」「ちがう、ちがう。お芝居してはるみたいやった、いうてんねんよ。年寄りの人と若い人が、なんか段取りこだわってしてはったやん。なんか、毎日のことやろうに、こだわり方がわざとらしいというか、そんな感じかなあ。」「歌うたうとことかか・・・」「うん、お祈りの仕方とか。なんか、リーダーが指揮みたいなことしてはる感じのとこ。ほかの人、わざとらしいというか…」「修道院って、そういう、なんか、お芝居めいたことするようなとこなんかな?」「でも、村の人がやってた豚の解体とかリアルやったよね。」「うん、まあ、ああいうシーン見るのは初めてやけど、ちょっとドキドキしたな。背骨のとこ縦に切っていくの見てて、あんた、自分の背骨を縦に切られるような気がせえへんかったか?」「ええー、それどういう意味?そんなんせえへんわ。ああ、それと、修道士の服って洗濯して、村のおばさんが洗うんやね。」「あの、白い服な。」「あの人ら、ホンマに神さんとか信じてはるんやろか?」「信じる人になろうとしてはるんちゃうの。よう知らんけど。」「なんか、そこが、ずーっと、不思議やったわ。でも、こういう映画は、まあ、もう、ええわ。」「うん、ボクもどんな映画か知らんかったからなあ。でも、どっか、共通してんねんな。この監督。」「他のは知らんけど、まあ、遠慮しとくわ(笑)。」 というわけで、無事、帰宅しましたが、妙に印象に残ったのが「豚の解体」「選択」「お祈りの段取り」あたりなのでしたが、これってどういうことなのでしょうね。(笑)監督 オタール・イオセリアーニ編集 オタール・イオセリアーニ、マリー=アニェス・ブラン、アニー・シュヴァレイ1988年・57分・フランス・原題「Un Petit Monastere en Toscane」2023・03・12-no037・シネ・リーブル神戸no185
2023.05.11
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イエジー・スコリモフスキ「EO」シネ・リーブル神戸 なんといいますか、いや、まあ、スゴイ映画でしたね。「ロバ」ってご存知ですか?漢字だと「驢馬」って書くらしいですが、ドン・キホーテに出てくるサンチョ・パンサが乗っているあの動物ですね。そのロバが主人公なんです。時々、雄たけびというか、啼くというか、するのですけど、別になんか言うわけじゃあありません。ただのロバです。 見たのはイエジー・スコリモフスキというポーランドの監督の「EO」です。 で、そのロバくんがサーカスでどんな芸をしているのかよくわからなかったのですが、とにかく、サーカスの舞台でなんかしているシーンから始まりました。相方の女性のセリフを聞いているとイーオーと聞こえます。名前がEOなのですね。 だから、まあ、EOと名付けられて、相方のカサンドラ(サンドラ・ジマルスカ)に愛されて、一緒に芸をしていたロバくんが、破産だか、借金だかのせいで暮らしていたサーカスから連れていかれてしまうんです。で、そこから流浪の旅です。ロバくんのロード・ムービーというわけです。 チラシにもスコリモフスキという監督がその映画に刺激を受けて作ったと書いてありますが、この映画を見ていて思い出したロベール・ブレッソンというフランスの監督の1960年代の映画に「バルタザールどこへ行く」という、とにかく結末が哀しい映画があります。その映画もバルタザールという名前のロバくんの、まあ、いってしまえばロード・ムービーだったわけですが、ボクにはバルタザールの眼差しが焼き付いています。人間とは違う、確かに、ロバの眼だったという印象で、たぶん、そこに揺さぶられて記憶に残っているのだと思います。 で、この作品のイーオーくんについても、印象に残ったのは眼でした。それぞれの場面で泣いたり、呆れたりしているように見えるのです。涙を流しているかのシーンもありました。もっとも、この映画の場合は、一緒に登場する馬とか牛とかの眼とか仕草にもにも表情があるのが、もう一つの特徴でしたが、見ているボクは、そのあたりで眠くなってしまいました。なんとなくボンヤリしてしまいました。 最近見たイオセリアーニという不思議な監督のいくつかの映画とか、中国映画でリー・ルイジュン監督の「小さき麦の花」なんかにも、ロバが出てきます。 イオセリアーニの場合は「オッ、ロバやん!」 という感じで、それぞれの作品にやたらと登場する鳥とか犬とかと同様に、実に唐突に出てくるロバという印象の映画でした。 一方、「小さき麦の花」には家畜としてのロバが、貧しい夫婦の生活を支える動物として登場していました。 その映画を見ながら、日本の、例えば、ボクが育った50年前の但馬地方の農村であれば、農家の玄関を入れば左側が牛小屋で右側が座敷であるような家の中で、一頭だけ飼われていた眼の大きな牛のことを思い出したのですが、前近代というか、一時代古い農耕社会の象徴的な存在で、いかにも、愚かなのですが、働き者で、夫婦から愛され、大切にされているロバでした。 この映画のイーオーくんは、それらとは少し違いました。彼はロバだけど、ロバではないという印象ですね。 トコトコと歩き続けるイーオーくんの眼に映る人間たちの冷たい眼差し、敵意なのか友情なのか馬や牛たちの表情、異様に美しい夕日、飛沫をあげて落下する滝、渦巻く水流、流れの上の橋の真ん中に佇むイーオーくんをボーっと眺めているとエンド・ロールでした。「入り込めなかったなあ・・・」 ため息をついて座り込んでいると、久しぶりに盛況だった客席の人たちが我勝ちに起ち上がり、出口の灯りが場内に差し込み始めました。「ああ、こういうことなんだ。」 なんとなく、さみしい得心が浮かんできて、やっぱり、イーオーくんに拍手!、イエジー・スコリモフスキ監督に拍手!だと思いました。 まあ、それにしても、納得という気分ではありません。どうしてでしょうね(笑)。監督 イエジー・スコリモフスキJerzy Sklimowski脚本 エバ・ピアスコフスカ イエジー・スコリモフスキ 撮影 ミハウ・ディメク編集 アグニェシュカ・グリンスカ音楽 パベウ・ミキェティンキャストサンドラ・ジマルスカ(カサンドラ)ロレンツォ・ズルゾロ(ヴィトー)マテウシュ・コシチュキェビチ(マテオ)イザベル・ユペール(伯爵夫人)2022年・88分・G・ポーランド・イタリア合作原題「EO」2023・05・10-no060]・シネ・リーブル神戸no184
2023.05.10
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アリ・アッバシ「聖地には蜘蛛が巣を張る」シネ・リーブル神戸 第2回SCC(シマクマ・シネマ・クラブ)で観たのは、アリ・アッバシという監督の「聖地には蜘蛛が巣を張る」でした。予告編に惹かれてお誘いしましたが、見終えて、ちょっと空振りだった気がして、引き気味だったのですが、あの質問でした。「シマクマさん、今日の作品は何点くらいですか?」「お、やっぱり!」と、やっぱり、心の中では笑いそうになりながら、今回は、ほぼ、即答でした。「50点くらいかなあ・・・」 映画の舞台はイランという国で、よく解りませんがイスラム教の聖地の町ようでした。街角に立つ娼婦をねらった連続殺人事件が起こっているのですが、事件は迷宮入りの様相です。K察による捜査の実態を疑ったラヒミ(ザーラ・アミール・エブラヒミ)という女性のジャーナリストが現地に乗り込み、実態を調べ始めます。 このあたりで、謎の犯人捜し映画だと思って観ていると、意外なことに、犯人はすぐに正体をあらわしてしまいます。サイード(メフディ・バジェスタニ)という名の実直そうな中年男でした。 こう書くと、いかにもネタバレの感想を書いているようですが、ごらんになれば納得していただけると思いますが、多分、そうではありません。サイードはラヒリの身を挺したというか、命がけのというかの活躍で、あっけなく逮捕されてしまって、裁判沙汰ということになります。 この辺りでは、サイードの犯した連続娼婦殺しを巡って、イスラム原理主義的言辞が飛び交い始めて、「ああ、こっちなのか」 と納得しかけたのですが、結果的にサイードは絞首刑になってしまいます。「ポカーン・・・」 メディと権力、貧困と売春、宗教と司法、男性原理と女性差別、数え上げ始めれば、まさに現代社会で問い直されている問題の現実的な端緒ともいうべき、まあ、社会描写としてリアルなシーンが次々と描かれていくのですが、結局、何が言いたいのかわからない、で、何が言いたいのかわからないことだけはよくわかる、そういう、気分の結末でした。 一緒にご覧になったM氏も不可解だったようで、「これって、現地で撮った映画なのですかね?」「いや、ヨーロッパ系の資本で作っているから、ちがう感じですね。イスラムの映画って、社会の描き方によっては、とても現地では取れないということがあるようです。」「で、こういうふうに、外れかな、という場合はどうするのですか?」「ははは、外れは、外れですよね。まあ、小説でもそうですよね。しようがないですね。」「はい。まあ、そうですね。」「ただ、ボク、なんか、引っかかるんですよね。帰って調べてみますね。」 とか、何とかで、せっかく、二人で観たにもかかわらず盛り上がりに欠ける結末で、で、ちょっと遅めのお昼でしたが、ご一緒にそばかなんか食べて別れました。 で、以下に記したのが、その夜のM氏あてのライン上でのボクの発言です。 ええーっと、本日の映画ですが、やはり、現地で撮られた映画ではなさそうですね。よくわからないのですが、イラン本国では、たぶん、上映どころか、作ったこと自体が犯罪の可能性さえあるかも、ということのようです 舞台はイランのマシュハドという有名な聖地らしいですね。映画が描ている連続娼婦殺人事件は2000年くらいに、実際にその街で起きた事件らしいです。 「悪魔の詩」という作品を書いたサルマン・ラシュディという作家が、当時のイランの最高指導者ホメイニから死刑宣告を受けたことがありましたが、それが1990年代だったと思います。で、今日の映画は、どうも、そのころのイランを描いていたようです。 イラン革命というのご存知ですか?ぼくにはわけがわかっていないのですが、何派だったか忘れましたが、イスラムの宗教原理主義を国家レベルで実行するという革命だったような気がしますが、その革命の指導者がホメイニですね。 ああ、ホメイニは1989年に死んでいます。ラシュディがホメイニから死刑宣告を受けたのは1989年ころのようです。 イラン革命の結果生まれたのは共和主義と徹底したイスラム化の国家体制らしいです。で、ボクにでもわかるのは女性に対する宗教的抑圧というか、まあ、乱暴な言い方かもしれませんが、娼婦は殺してもいいけど、買春する男性は問題にならないというような、ボクたちの目から見れば、実に不公平な通念を宗教的には擁護している社会が生まれたということのようですね。だから、こんな例の出し方自体が、なにいってんの!という社会かもしれないってことですね。 例えば、ボクたちの目から見れば、この映画で、まあ、猟奇的な殺人鬼に見えてしまうサイードという主人公の名前ですが、ムハンマドというイスラムの預言者、コーランを語った人の直系子孫の名前ですね。犯人が聖人なのですね。そのあたりも面白い事実だと思います。 今日の映画は、実在の事件を題材にして、フェミニズム的な、まあ、いかにもヨーロッパ的リベラリズムの観点で見直そうとしている作品という一面もあるのかもしれませんが、どうも、それだけでもなさそうですね。。 というのは、描かれている社会そのものが、サイードを信条的に支持する宗教的な感覚と、ヨーロッパ的な近代「法」を順守する社会的感覚、それから、助けるのかと思っていると、平気でサイードの刑を執行してしまうような、まあ、世俗的な権力者固有の感覚が、まあ、他にもあるかもしれませんが、重層化していて、ラヒリの告発の意味が映画として表現しきれていないのかもしれません。 加えていえば、「わかるように描くとラシュディの二の舞のようなことになるのでは・・・」という懸念も制作者にはあった可能性まであるわけで、その結果、わけがわからない映画になってしまったのかもしれませんね。 まあ、複雑すぎて、何がが焦点化されているのかわからないと思うのは、見ているこっちの責任であるかもしれません。 インチキ宗教が権力の中枢と結託していることが話題になっていますが、実は、それ以前に、天皇制という、まあ、いってみれば、謎の宗教制度を象徴というようなことばで目隠しされながら、どんよりとした平和に閉じこもり、よその宗教なんて興味ないという気分で、外部を見失っているのが現代の日本という社会一般の傾向だと思うのですが、そういう社会に浸りきっているボク自身、イスラム社会のことなんて、ホント、何にもわかっていないというのはよくわかりましたね。 まあ、こんなふうに、気になったことをあれこれ調べたりするのが、ボクの映画の見方ですね(笑) 小説とかの読み方にも、その傾向があります。うざいでしょ(笑) というわけで、結局、要領を得ないのですが、感想です。ラインに書いたといってますが、こんなにあれこれ書いたわけではありません。あれこれ付け足しています(笑)。Mさん、ご容赦くださいね。 で、結局、ネタをばらしていますが、その点は、まだ見ていない方々、どうぞご容赦ください。さて、 第3回SCCは何を見ようかな?監督 アリ・アッバシ脚本 アリ・アッバシ アフシン・カムラン・バーラミ撮影 ナディーム・カールセン美術 リナ・ノールドクビスト編集 ハイデー・サフィヤリ オリビア・ニーアガート=ホルム音楽 マーティン・ディルコフキャストメフディ・バジェスタニ(サイード)ザーラ・アミール・エブラヒミ(ラヒミ)アラシュ・アシュティアニ(シャリフィ)フォルザン・ジャムシドネジャド(ファテメ)2022年・118分・R15+・デンマーク・ドイツ・スウェーデン・フランス合作原題「Holy Spider」2023・04・21-no054・シネ・リーブル神戸no183・SCC第2回
2023.05.09
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ショーン・ベイカー「レッド・ロケット」シネ・リーブル神戸 久々に、18禁映画を見ました。まあ、見る前には気づいていなかったんですが(笑)。ショーン・ベイカーという監督の「レッド・ロケット」という作品でした。まごうかたなきアメリカ映画でしたが、ハリウッド映画のニュアンスはありません。監督が独特というか、個人的というか、なんだろうな、こう作ったら見る人がイイネ!するだろうという気遣い絶無という印象でした。「レッド・ロケット」という題名の意味が、ボクには最後まで解らない映画でもありました。 長距離バスの座席で寝ている男のシーンで始まりました。到着したのはテキサスの田舎町らしいのですが、ジーパンとTシャツだけのなりで、手ぶらです。バスを降りてなんだか殺風景な街を、今、ちょっと家から出て来たという風情で歩き始めます。遠くにコンビナートという感じの工場群が見えて、やがて、いかにもアメリカの田舎町という感じの住居にたどり着き、そこから、まあ、わけのわからないインチキ炸裂!でした。 男はマイキー・セイバー(サイモン・レックス)といいます。元だか、現役だかわかりませんが、ポルノ映画の男優で、ロサンゼルスで尾羽うち枯らした結果、昔の(実は今も)結婚相手であるレクシー(ブリー・エルロッド)という女性の所に舞い戻ってきた宿無しで、バス代の残りの22ドルあるきりの一文無しで、着た切りスズメでした。 久しぶりのマイキーの登場をあからさまに嫌がっていたレクシーは実の母親リルと暮らしています。昔はポルノ女優だったようですが、現在の収入はネット売春のようで、貧困と怠惰そのものの母娘家庭ですが、実は前夫(?)の子供がいて施設に預けています。ああ、それから犬を飼っています。 義母、妻ともに嫌がっているのをものともせず、とにかく、あれこれ、ペラペラまくし立て、無理やり上がり込んで居座り続けるマイキーですが、レクシーはレクシーで大麻の密売でマイキーが持ち帰る金に釣られながら、マイキーとの情事の再開に、「まあ、どうでもいいわ・・・」 ということになっていきます。 マイキーは昔馴染みから大麻を手に入れ、その密売で小遣い稼ぎを始めますが、「夢」はポルノ・スターとしての復活というか、とにかく、アブク銭をつかむことのようで、その「野望(?)」の餌食になるのがドーナツ屋のアルバイトの高校生ストロベリー(スザンナ・サン)でした。 17歳の女の子にポルノ・スターの夢を見させるためにマイキーが頼るのは、いつでも出まかせが云える口先と、あたかも「愛」の行為であるかに思わせる、場所と時間を問わない肉体関係だけですが ― まあ、そこのところの描写が18禁の理由でしたが、こういうばかばかしい夢は見ないように18歳に見せたほうがいいとボクは思いました(笑) ― ちょっとスレているつもりの17歳は信じちゃうんですよねという、文無し口先男マイキーの一か月のお話でした。アホか!といいたいところなのですが、ちょっと待てよ?と思い直しました。 この映画で、マイキーというニーチャン、いや、オッちゃんか?、が自転車でうろつく夜の街を照らしているのは巨大なコンビナートの灯りです。義理の母のリルが、朝早くから夜遅くまでずっと見ているテレビ画面では、なんと、あのトランプが演説し続けています。マイキーが自慢するのは、ネット上に拡散している彼の主演したポルノ映像の評判で、レクシーは母と二人の窮窮とした生活を、寄る年波を厚化粧で隠したネット売春で支えています。 マイキーの出鱈目な行動はともかくも、そういう背景が繰り返し挿入されているところがこの映画の特徴です。割合、いいタイミングで、そういう現実的な要素が挿入されています。監督は、かなり意図的だと思いました。 で、その意図って、ひょっとすると、現代アメリカをある角度で輪切りにすればこうなんだよ。 というメッセージだったんじゃないでしょうか。個人の自由こそを、尊重し、讃えていたはずの社会が、自己責任という御都合主義を持ち出さざるを得ないほどに貧困にあえいでいるにもかかわらず、疑似現実のネット社会こそが現実であるかのような錯覚の中ではモラルも常識も隠蔽され、忘れられ、失われていって、インチキがまかり通っているこの社会をどう思いますか? まあ、こういう問いかけですね。これって、かなりスルドイ問いですよね。この監督って、そういう人なんじゃないでしょうか。 で、そう考え始めると、この映画の、映画として最も俊逸なのは、それらすべてを、残念ながら名前がわからないのですが、レクシーの家の、実に愛嬌のある飼い犬につぶさに見させているところだと思うんですね。犬の種類はボクにはわかりませんが、かなりでかい犬です。 観客は「犬」なのです。これって、どういう意味でしょうね。 まあ、そういうふうに考え直してみると、とても「あほか!」 とか言ってマイキーにあきれて馬鹿にするでは済まないどころか、他人ごとではないリアルがこの作品にはあるのではないかと、思わないでもないわけです。 まあ、「ひょっとして、そうかな?!」 程度ですけどね。 でも、この監督の次の作品が出れば、きっと見るでしょうね。そういう意味でショーン・ベイカー監督に拍手!でした。それから、文字通り素っ裸でエレクトーンを弾いて歌った、これがうまい!、ストロベリーを演じたスザンナ・サンという女優さんに拍手!です。この女優さん、ものすごく素人ぽい、いや、ホントに素人(?)、のですが、ひょっとしたら化けそうですよ。 まあ、それにしても、いろんな映画がありますねえ、でも、この映画「レッド・ロケット」ってどいう意味なんでしょうね。 というのが最後まで引っ掛かりました(笑)。監督 ショーン・ベイカー脚本 ショーン・ベイカー クリス・バーゴッチ撮影 ドリュー・ダニエルズ美術 ステフォニック編集 ショーン・ベイカキャストサイモン・レックス(マイキー・セイバー)ブリー・エルロッド(レクシー)スザンナ・サン(ストロベリー)2021年・130分・R18+・アメリカ原題「Red Rocket」2023・05・02-no058 ・シネ・リーブル神戸no182
2023.05.04
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オタール・イオセリアーニ「皆さま、ごきげんよう」シネ・リーブル神戸「ノンシャランといきましょう、こんな世界だからこそ。」の「オタール・イオセリアーニ映画祭~ジョージア、そしてパリ~」に通い続けてきましたが、そろそろ大詰めです。 ところで、2023年の3月のことです。ここ、数年、月に一度集まって一緒に本を読んでいるMさんとおっしゃるおにーさん、いや、おっちゃんが、おっしゃいました。「あのー、わたし4月から行くところが、まあ、無くなっちゃたんですよね。何にもすることがないというわけでもないのですが、一つ、どうでしょう、シマクマさんの映画館徘徊に同道させていただくというのは?」「えーっ?はい。全然かまいませんが、ボクが見る映画って、選んでいる意識はないのですが、あんまりおもしろくないですよ。」「いえいえ、いつもいつも、フツーの人、あんまり見ないような映画をご覧になっているようですが、そこが面白そうだなということなんですよ。で、シマクマ・シネマ・クラブ、通称SCCという呼び名でいかがでしょう。」 なんか、褒められてるのかあきれられてるのかわからないようなお言葉なのですが、まあ、勇気を奮って「これ、見ますが、一緒に行きますか?」 とお誘いしたのがこの映画でした。 オタール・イオセリアーニの最新作!「皆さま、ごきげんよう」です。 舞台は現代のパリのようです。なんだか怪しげな武器売買の男がアパートの管理人のようで、どうもその男の友達が人類学者なんでしょうか、骸骨集めが趣味のようです。この二人が主役のようですが、主役らしいドラマが始まるわけではありません。 で、多分、ジョージアから来たんだと思いますが、どこからやってきたのかわからない男が石ころを拾い集めて家を建てていたり、なんだか機嫌の好さそうな男はホームレスだったり、ローラースケートの悪たれのおにーちゃん、おねーちゃんはかっぱらいだったり、警察官は警察官で「あんた何やってんの?」 みたいなことをしていたり、ストーリーを説明することはボクにはできない映画でした。で、最後は、家を建てていた男の家の外壁に、びっしりと貼られているポスターと、煙突からたなびく白い煙のシーンで終わりました。 何とも言えない不可解さと、まあ、満足とはとても言えないのですが、なんとはなしの納得感に、思わず、笑い出しそうでしたが、そうそう、今日はお友達連れでした。 二人で映画館を出て歩き始めるとお友達が口火を切りました。「シマクマさん、今日の映画は何点くらいですか?」「お、きたな!」 と心の中では笑いそうになりながら、しばらく考え込んで答えました。「80点くらいかなあ・・・」「ああ、そうなんですね。それって、かなり高得点?」「はい、いや、まあ、ボクは、いいんですが、困りませんでした?」「えっ?」「だから、ストーリーもないし、結末もオチもないし。腹立ちませんでした?」「いや、最後の壁中ポスターの家のシーンとか、よかったじゃないですか。絵でいえば抽象画なんでしょうね。印象的なシーンのコラージュというか。」「そう、そう。抽象画かどうかはわからないですが、これがイオセリアーニという人というか、わけわからなさ炸裂だったですよね。ボク、ここのところ、この人にはまっていて、10本くらい続けてみてるんですけど、みんな、こんな感じです。で、理屈いうのあきらめたんですけど、いいなという感じはいつもあるんです。」「こんなの見るの初めてですが、悪くなかったですよ(笑)」「あっ、じゃあ、また、来ますか?」「もちろんです。」 ホッとしましたね。 この後、喫茶店とかで、ウジャウジャ話し込みましたが、一人徘徊ではなかったことなので、新鮮で楽しかったですね。 というわけで、第1回SCC、無事終了しました(笑)。「さて、次回はなにを見ようかな?」監督 オタール・イオセリアーニ脚本 オタール・イオセリアーニ撮影 ジュリー・グリュヌボーム美術 ドゥニ・シャンプノワ バジャ・ヤラガニア衣装 マイラ・ラメダン・レビ アンヌ・カラトジスビリ編集 オタール・イオセリアーニ エマニュエル・ルジャンドル音楽 ニコラ・ズラビシュビリキャストリュフュ(管理人)アミラン・アミラナシビリ(人類学者)マチアス・ユング(警察署長)エンリコ・ゲッジ(男爵)ピエール・エテックス(ホームレス)トニー・ガトリフ(ゴロツキ)ミレ・ステビク(警察署長の運転手)ミレ・ステビクマチュー・アマルリック(家を建てる男)オタール・イオセリアーニ2015年・121分・フランス・ジョージア合作原題「Chant d'hiver」日本初公開2016年12月17日2023・03・22-no043・シネ・リーブル神戸no180
2023.04.19
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ダルデンヌ兄弟「トリとロキタ」シネ・リーブル神戸 2023年の4月に入って、久しぶりの帰省があり、帰って来てみるとPCが壊れているという事件があり、仕事が始まるという焦りがあり、ようやく映画館に復帰したのが4月の10日の月曜日で、観たのは、予告編で気になっていたこの作品、ダルデンヌ兄弟の「トリとロキタ」でした。 最初から最後まで、徹底して救いのない映画でした。しかし、ここまで、徹底できるところにヨーロッパ映画の確かさと、ダルデンヌ兄弟という映画作家の思想の深さを実感しました。「なぜ彼が弟だと分かったの?」 アフリカからベルギーにたどり着き、滞在ビザを得るための面接で、弟トリ(パブロ・シルズ)との再会の事情を尋問官から静かに問い質され、緊張した表情で目を瞠っている少女ロキタ(ジョエリー・ムブンドゥ)のアップから映画は始まり、共に生きていくはずだった姉ロキタのことを語る弟トリが中空を睨み据えた顔のアップで映画は終わりました。「ロキター!」 トリの叫び声が頭の中に、繰り返し、繰り返し響き渡るような錯覚にとらわれて、暗くなった映画館で、しばらく座り込んでいると、スタッフの若い女性が入ってこられて、掃除を始められたのですが、先日、ポケットに入れていた老眼鏡を座席の下に落とした時に、拾っていただいた方だったので、思わず声を掛けました。「先日は、お世話になりました。で、この作品はご覧になりましたか?」「はい、厳しい映画ですね。ダルデンヌ兄弟の作品は好きで見てきたのですが、こんなに厳しいのは初めてでした。今までに見たどの作品も、どこかにあかりがあるのですが、これはない気がしました。」「そうか、やっぱり、そう思いますか。でも、悪くないですよね。この厳しさというか・・・」「そうなんです。友達とかにはすすめられないのに、やはり、見てよかったというか。私は見たよというか。」「ありがとう。いつも、いろいろ迷惑かけて、ごめんね。話せて、ホッとしました。また来ますね。」「いえいえ、はい、今度は、ホッとできる映画も選んでくださいね(笑)。」 会話した通りです。見終えて、楽しい映画ではありません。誰にも、おすすめしません。しかし、ボクはこの映画が突き付けてきたことを、もう、知らないとは言えないと思いました。 それは、この映画を見た前後、偶然、読んでいた「河馬に噛まれる」(講談社便庫)という、つい先日亡くなった、大江健三郎の小説集の中に、「この項つづく」という詩人で小説家の中野重治の作品中の言葉が引用されていましたが、ボクの中で「この項つづく」というべきものを、この映画に突き付けられたということです。 説明不足ですが、大江と中野の「この項つづく」は、以前書いた「河馬に噛まれる」の感想にも少し書いています。おそらく、今後も言及することになると思いますのであしからず、です。 それにしても、ダルデンヌ兄弟、すごいですね、こういう映画製作者がヨーロッパにはいるのですね。ちょっとうれしいですね。静かに拍手!です。ロキタとトリを演じたジョエリー・ムブンドゥとパブロ・シルズにも、もちろん拍手!です。まいりました(笑)。監督 ジャン=ピエール・ダルデンヌ リュック・ダルデンヌ脚本 ジャン=ピエール・ダルデンヌ リュック・ダルデンヌ撮影 ブノワ・デルボー美術 イゴール・ガブリエル衣装 ドロテ・ギロー編集 マリー=エレーヌ・ドゾキャストパブロ・シルズ(トリ)ジョエリー・ムブンドゥ(ロキタ)アルバン・ウカイ(ベティム)ティヒメン・フーファールツ(ルーカス)シャルロット・デ・ブライネ(マルゴ)ナデージュ・エドラオゴ(ジャスティーヌ)マルク・ジンガ(フィルマン)2022年・89分・G・ベルギー・フランス合作原題「Tori et Lokita」2023・04・10-no050・シネ・リーブル神戸no179
2023.04.17
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オタール・イオセリアーニ「月曜日に乾杯!」シネ・リーブル神戸 オタール・イオセリアーニ特集、3本目は「月曜日に乾杯!」でした。観終えて、思わず笑ってしまいました。 主人公は、よく見ると男前なのですが、なんとなくやる気が出ない感じの中年男です。名前はヴァンサン(ジャック・ビドウ)で、妻(アンヌ・クラブズ=タルナブスキ)と子供が二人います。毎朝工場にやって来て働いています。このルーティーンが面白いのですが、やたら煙草を吸います。家では妻にいろいろいわれて、でも、結構、真面目に家具の修繕とかしています。本当は絵を描きたいようなのですが、そんな落ち着いた雰囲気は家の中にはありません。 二人の息子のおにーちゃんはお父さんがスケッチ・ブックに描いていた絵を模写して教会で壁画を描いています。多分、映画の舞台はフランスの田舎町なのですが、壁画はジョージアの守り神らしいです。弟君は自転車の部品とかいじるのが好きなようです。 ある日、危篤(?)の父親(ラズラフ・キンスキー)を見舞って、父の家にやって来ますが、集まっている人たちを追い払うと、死ぬはずの父親は実は元気で、見ていたぼくの記憶があやふやなので、正確ではありませんが、息子のヴァンサンにこう言います。「お前は世界を見て回らなければならない。まず、おれの旧友がいるヴェニスに行け!」 で、分厚い札束を渡します。変といえば変な話ですが、なんかワクワクしましたね。これがイオセリアーニかな? でしたね(笑)。 次の日、いつものように工場にやって来たヴァンサンは、いつものように入り口でタバコを吸い終わっても、中に入りません。で、旅に出ちゃうんです。 もちろん、行先はヴェニスです。で、彼の手には煙草にワインです。まあ、それにしても、この監督の登場人物たちはこの二つがお好きですねえ。ずっとお酒をのんで、タバコを吸っています(笑)。 見ているこっちは「おいおい、いいのかよ!」 なのですが、どうも、「それでいいのだ!」 のようです。 で、旅先から家には絵葉書を書きます。だって、芸術家の町だし、彼も絵を描きたいんですからね。 留守宅では、奥さんがおかんむりです。夫から来た絵葉書なんて破っちゃいます。そりゃそうでしょう。子供たちは、それぞれ好き勝手にやっていて、でも、お母さんが破り捨てた父さんからの絵ハガキをつぎはぎして、おばーちゃんはそれを大事に壁に貼ります。 まあ、ここから、あれこれお話があるのですが、最後にヴァンサンは帰ってきます。さすがにたじろいでいるヴァンサンですが、気づいた奥さんの言葉がこうでした。「おかえり。」えー、それでいいのかよ! なのですが、やっぱり、それでいいのだ! なのですね。まあ、笑うしかありませんよね。ぼくくらいの御年であれば、まあ、いいかもしれませんが、若い方がこの映画を観て真似したりするのはやめた方がいいと思います。まあ、死にかけの父親が金庫から札束を出して、「世界を見て来い!」 なんていうシチュエーションが夢のようですから、難しいですね。たとえば、ぼくなんかにも似たような年齢の息子は複数いますが、金庫も札束もありませんからねえ。 それにしてもオタール・イオセリアーニ、スゴイです。拍手!です。どこにも角が立っていないのですが、映画の映し出す現実(虚構ですが)のどこかに裂けめというか割れめというかがあるんですね。だから、たぶん、見ているボクは最後の、いつものルーティーンが、再び始まるシーンにホッとするんでしょうね。 うーん、謎は深まるばかりでした(笑)。でもね、なんだかおもしろいんですよね。監督 オタール・イオセリアーニ製作 マルティーヌ・マリニャック脚本 オタール・イオセリアーニ撮影 ウィリアム・ルプチャンスキー美術 エマニュエル・ド・ショビニ衣装 コーリ・ダンブロージョ編集 オタール・イオセリアーニ エバ・レンキェビチュ音楽 ニコラ・ズラビシュビリキャストジャック・ビドウ(ヴァンサン)アンヌ・クラブズ=タルナブスキ(妻)ナルダ・ブランシェ(母)ラズラフ・キンスキー(父)ダト・タリエラシュビリ(息子)アドリアン・パショー(息子)アリーゴ・モッツォ(カルロ)オタール・イオセリアーニ(エンゾ・ディ・マルテイーノ)ジェレミー・ロシニュー(司祭)ヤニック・カルパンティエ(郵便配達人)2002年・127分・フランス・イタリア合作原題「Lundi matin」日本初公開 2003年10月11日2023・03・11-no035・シネ・リーブル神戸no178
2023.04.01
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オタール・イオセリアーニ「月の寵児たち」シネ・リーブル神戸 1本目に「唯一、ゲオルギア」というドキュメンタリー作品で見始めたオタール・イオセリアーニ映画祭ですが、「いよいよ、ドラマ映画だ!」 と勢い込んでやって来たシネ・リーブルでしたがずっこけました(笑)。 観たのは「月の寵児たち」という1984年の作品で、日本では劇場初公開だそうです。 映画は、どこかのお屋敷でお皿が割れるシーンで始まりました。で、お皿が造られるシーンがあって、もちろん陶芸の職人たちによってですよ、で、どうも18世紀末に造られたらしいのその絵皿が、この映画の「主人公」であったらしいということに気づいたのは映画が終わった時でしたから、まあ、後の祭りです(笑)。 だって、お屋敷には美しい中年のマダムと、どうも警察方面の偉い人である夫や子供たちがいて、マダムが百一匹わんちゃんのお母さんみたいな犬を連れて、犬ごと自動車に、それも、まあ、見る人が見れば名だたる名車に違いない高級車に乗ってお出かけして、なぜか別の男と出来ているなんていうおはなしや、風采の上がらない、ちょっと禿げた男が朝目覚めると、なぜか隣に寝ていた奥さん(?)はお腹立ちで、とっととベッドを出ていってしまい、ベッドに忘れているブラジャーを「あの、これ、いるでしょ。」 とか何とかいいながらバスルームに追いかける男を、またしても頭ごなしに罵倒して、お着替えをすませてお仕事に行くのですが、勤め先はなんだか高級な美容サロンだったりする話が続きます。男は男で、壊れた電気器具の修理屋さんのお仕事のようなのですが、またしても、なぜかなのですが、爆弾をつくって販売していたりするのも稼業のようで、取引相手として出てくるのが、アラブだかイスラムだかのテロリストだったりして、で、男が造った、また、別の爆弾が使われるのが町の広場の銅像破壊で、実行犯が、またまた、「なぜか」なのですが、怒って出て行った美容師の妻の、実家の父親だったりするんです。 もうちょっと付け加えると、マダムと紳士のお屋敷には、なんだか立派な絵がたくさん飾ってあるのですが、その中の一枚、裸の女性の肖像画(上の写真にちょっとだけ写っています)ですが、が、上に書いたお皿とともに、この映画の「主人公」であったらしいのですね。 お皿はやたらにわれて、絵はどんどんちいさくなるというのがこの映画のメイン・ストーリーなのでした。 ね、何をいっているのかわからないでしょ。自分でもわからないからずっこけたとしか言いようがないわけですが、困ったことに、たとえば、上の二組の男女は犯人関係者のカップルとK察関係者のカップルというふうに、なぜか繋がっている世界の断片のように映し出される一つ一つのシーンが、妙に「そそる」というか、気をひかれるのですね。 ちょっと、大上段ですが、映画という表現はモンタージュされた映像の連鎖にコンテクストを読みとることで成り立っていると思うのですが、この映画は、「読み取れるものなら読み取ってみろよ」 とでも、いっているようでした。まあ、見ているこっちは、やけくそ気味な気分で「絵皿と裸婦画の運命」 とかなんとか、無理やり分かった気になろうとしたわけですが、多分、間違っているでしょうね。重層性とかポリフォニーとかで説明する向きもあるようですが、それも、ちょっと違うと思いました。 ぼくの記憶に残ったのは窓と動物と乗り物、そして、上のような子どもたちのシーンですが、たとえば、このシーンに何の意味があるのかわからい訳で、とりとめがないですね。 まあ、浸っていたのに、急に放り出されたような気分で映画は終わりましたが、奥さんに逃げられた爆弾つくりの男のあわれに拍手!でした(笑)。 ああ、それから、「月の寵児たち」というのは、何か有名な詩の文句のようですね。始まりの頃に出てきますが、前後がどうだったかは忘れました。でも、ぼくが子どもシーンを気にしたのは、そこにひっぱられていたのかもしれませんね(笑)。監督 オタール・イオセリアーニ脚本 オタール・イオセリアーニ ジェラール・ブラッシュ撮影 フィリップ・テアオディエール音楽 ニコラ・ズラビシュビリキャストアリックス・ド・モンテギュパスカル・オビエベルナール・エイゼンシッツマチュー・アマルリック1984年・101分・フランス・イタリア合作原題「Les favoris de la lune」2023・03・09-no034・シネ・リーブル神戸no177
2023.03.22
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オタール・イオセリアーニ「唯一、ゲオルギア」シネ・リーブル神戸 《オタール・イオセリアーニ映画祭~ジョージア、そしてパリ~》と銘打った特集上映が2023年3月の初旬からシネ・リーブル神戸で始まりました。 ぼくは知りませんでしたがイオセリアーニという監督は、1934年2月2日、旧ソビエト連邦グルジア共和国(現ジョージア)のトビリシに生まれて、モスクワ大学とかで数学とか工学とかを学んだ後に映画を撮り始めた人のようです。もともとはジョージアという国で映画を撮っていた人らしいですが、『落葉』(1968)、『歌うつぐみがおりました』(1970)、『田園詩』(1976)といった作品で評価され、1979年にフランスのパリに制作拠点を移し、以後、作る映画がことごとくヴェネチアやカンヌで評価され続けているという人らしいです。もっとも、パリへの移住には祖国での弾圧を避けるという理由があったようで、そのあたりにも興味をひかれます。 ロシア映画・ジョージア映画に詳しい知人から、イオセリアーニはいいわよ。ぜひ観てね! というお薦めもあってやってきました。 で、観たのは「唯一、ゲオルギア」という長編ドキュメンタリーでした。 1994年の作品で、もともとはテレビ番組としてつくられたフィルムだそうです。第1部、第2部ではゲオルギアの歴史、民族、民俗文化がたどられていて、第三部が1994年現在のゲオルギア、ジョージアですね。ソビエト連邦の崩壊過程における、連邦を構成していた周辺国家と中央国家ロシアとの権力争奪の確執が見事に抉り出されていました。現前している、25年後のウクライナ情勢の解説として、ぼくは見ましたが、セルゲイ・ロズニツァのドキュメンタリーに通じる角の立ったリアルな作品! でした。拍手!監督 オタール・イオセリアーニ1994年・246分・フランス原題「Seule, Georgie」2023・03・08-no033・シネ・リーブル神戸no176 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2023.03.17
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マッティ・ゲショネック「ヒトラーのための虐殺会議」シネ・リーブル神戸 今年になって、この映画が上映されていることは知っていました、ナチス映画、ホロ・コースト映画といえば、なんとなく観に行ってしまうのですが、題が「ヒトラーのための虐殺会議」とあって、「ヒットラー暗殺とかの陰謀映画かな?」と、勝手に勘違いして「まあ、どうでもいいか。」とか思っていたのですが、題名を読み返して、どうもそうではないらしいことに気づいて、「まあ、観てみましょう。」と思い直してやって来たシネ・リーブルでしたが、あたり!でした。 観たのはマッティ・ゲショネック監督の「ヒトラーのための虐殺会議」です。 原題を確認すると「Die Wannseekonferenz」で、そのまま日本語にすれば「ヴァンゼー会議」です。これなら、勘違いは起こりません。1942年、ヨーロッパのユダヤ人1100万人の絶滅計画を立案・決定した歴史に残る会議です。 出席者はゲシュタポの長官ハイドリヒ親衛隊大将に召集された13人と、資料及び計画の実質的提案者であり、ゲシュタポのユダヤ人担当課長だったアドルフ・アイヒマン親衛隊中佐、そして、書記のインゲブルク・ヴェーレマン女史の16名です。 ゲシュタポと通称で書いていますが、国家保安本部、保安警察のことです。まあ、秘密警察というほうがわかりがいいですかね。 映画は、会議の朝から会議終了までの、まあ、いわばドキュメンタリー仕立ての作品でした。もちろんBGMなど使われません。ナチス映画に挿入されることが多い歴史的なフィルムも一切使われていません。良質の室内劇の趣で、会議の進行と出席者の発言がくっきりと刻印されていきます。 少し調べて驚きましたが、この会議の議事録は残されているらしく、その歴史的な議事録が忠実に再現されていた印象です。 会議が終わり、議場であったヴァンゼー湖畔の別荘を去っていく人々や、今晩、どこかのキャバレーで気晴らしをすることを呼びかける若い将校が映し出され、最後にアイヒマンを労い満足げに任地に帰るハイドリヒ長官の車が出たところで映画は終わりました。 映画学校の歴史好きな学生が、まじめに作り上げた歴史映画といった印象でしたが、唸りました。決定された内容に今更驚いたわけではありません。映像に映し出されている80年前の人びと振る舞いが、現代の高級官僚社会を彷彿とさせたことが驚きでした。 会議を主催したハイドリヒ長官は、この半年後に死亡しますが、有能な事務官僚であったアイヒマンは戦後まで生き残り、アルゼンチンでの逃亡生活中にモサド(イスラエルの秘密警察)に捕えられエルサレムでの裁判の結果、絞首刑になりました。1962年のことです。「一人の死は悲劇だが、集団の死は統計上の数字に過ぎない」 一人だったか、百人だったか忘れましたが、こういう言葉を残したと言われている人です。そのあたりについて哲学者のハンナ・アーレントが「エルサレムのアイヒマン」(大久保和郎訳・みすず書房)の中だったかで「彼は愚かではなかった。完全な無思想性―これは愚かさとは決して同じではない、それが彼をあの時代の最大の犯罪者の一人にした素因だったのだ。」 と評して、いろいろ話題になりました。 絶対的権力者に媚びることで出世や保身を目指しているハイドリヒという人物やほかの官僚たちをどう考えるかということにもまして、有能な官僚であることの無思想性こそが「時代の最大の犯罪者」を生み出すとアーレントが言ったのは50年以上前のことですが、映画を観終えて、コロナ騒動の顛末や、オリンピック汚職の記事が新聞紙上をにぎわしている様子に、マッティ・ゲショネック監督の意図というか狙いがここにあると感じたのは穿ちすぎなのでしょうか。 何はともあれ、マッティ・ゲショネック監督に拍手!でした。 余談ですが、映画の中に時代を映すものは、まあ、親衛隊の制服とかは別にして、ほとんどありません。ただ、官僚たちが公用車で乗り付ける、今の目で見ればクラッシク・カーですが、そのロゴがベンツなのですね。メルセデス・ベンツが正式名で、メルセデスというのはユダヤ系の女性の名前だと思いますが、戦時は国策会社化していて、この映画では公用車として出てくるんですね。で、戦後も、まあ、ご存知の通り世界のベンツなのですね。そのあたりが、ちょっと、面白いと思いましたね(笑)。監督 マッティ・ゲショネック製作 ラインホルト・エルショット フリードリヒ・ウトカー製作総指揮 オリバー・ベルビン脚本 マグヌス・ファットロット パウル・モンメルツ撮影 テオ・ビールケンズ美術 ベルント・レペル衣装 エスター・バルツ編集 ディルク・グラウキャストフィリップ・ホフマイヤー(ラインハルト・ハイドリヒ ゲシュタポ長官・親衛隊大将)マキシミリアン・ブリュックナー(カール・エバーハルト・シェーンガルト ポーランド保安警察およびSD司令官、親衛隊上級大佐)マティアス・ブントシュー(エーリッヒ・ノイマン 四ヵ年計画省次官)ファビアン・ブッシュ(ゲルハルト・クロップ ナチ党官房法務局長)ジェイコブ・ディール(ハインリヒ・ミュラー ゲシュタポ局長、親衛隊中将)ペーター・ヨルダン(アルフレート・マイヤー 東部占領地省次官・北ヴェストファーレン大管区指導者)アルント・クラビッター(ローラント・フライスラー 司法省次官)フレデリック・リンケマン(ルドルフ・ランゲトヴィア 保安警察及びSD司令官代理、親衛隊少佐)トーマス・ロイブル(フリードリヒ・ヴィルヘルム・クリツィンガー 首相官房局長)サッシャ・ネイサン(ヨーゼフ・ビューラー ポーランド総督府次官)マルクス・シュラインツアー(オットー・ホーフマン 親衛隊人種及び移住本部本部長、親衛隊中将)ジーモン・シュバルツ(マルティン・ルター 外務省次官補)ラファエル・シュタホビアク(ゲオルク・ライプブラント 東部占領地省局長)ゴーデハート・ギーズ(ヴィルヘルム・シュトゥッカート 内務省次官)ヨハネス・アルマイヤー(アドルフ・アイヒマン ゲシュタポユダヤ人担当課長、親衛隊中佐)リリー・フィクナー(インゲブルク・ヴェーレマン 書記)2022年・112分・G・ドイツ原題「Die Wannseekonferenz」2023・02・09-no016・シネ・リーブル神戸no173
2023.02.10
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デビッド・ロウリー「グリーン・ナイト」シネリーブル神戸 久しぶりのシネリーブルでした。ここのところ、明るくて楽しいそうな路線に惹かれる傾向が強いシマクマ君ですが「A24史上、最も美しく、最も壮大なダーク・ファンタジー」というチラシの文句につられてやってきました。 もっとも、「A24て何?」、「ダーク・ファンタジーってなに?」、「デヴィッド・ロウリーって誰?」なわけで、実は何の見当もつかないまま席に着きました。 チラシには、ほかにも「円卓の騎士」とか「トールキン」とかいう言葉もあって、「子供でも、見ていれば分かるんだろう!」と高を括って見始めて、往生しました(笑) 往生した理由は二つです。一つ目は、画面が暗いのです。ドラマ展開とは関係なく、映像そのものが暗くて、ボクの目では見分けがつかないシーンがとても多い印象でした。多分、加齢の結果の影響がかなりあるとは思うのですが、そのせいで、眠くなって往生しましたが、きっと、イギリスは暗いんでしょうね(笑)。 二つ目は、ファンタジーを描いているシーンが、単なる不思議ではなくて、何かを比喩しているのだろうということは、なんとなくわかるのですが、物語のコンテキストというか、話の筋として、どういう「意味」なのかがよく分からなかったことです。 一番引っかかったのは、超ネタバレなのは分かっていていうのですが、この映画は、最後に、一度、描かれたはずの、グリーン・ナイトと主人公のガウェイン青年の別れのシーンが、もう一度描かれていて、描き直された、二度目の、そして、映画の、このラスト・シーンこそが、この物語の、おそらくは作者が描いたテーマ、それはたぶん青年の旅の意味だろうと思うのですが、それを解き明かすシーンになっているのはずなのですが、このシーンを見ていて、その意味、あるいは旅の途上で、青年を支え続けた、今風の言葉でいえば、あるアイテムに込められた意味の解釈、謎解きが、すっきりと腑に落ちない、難しいということに「ここまで来てこれかよ!」と往生したのですが、なんと、エンドロールの後、すべてが終わったはずの画面に、あるシーンが浮かび上がってきたのです。ここで、出してくるのですから、やはり、監督によるこの作品の解法の暗示なわけでしょうかね。こういうやり方は好きなのですが、この映画では、意味深なこのシーンそのものが、ぼくには、まったく意味不明で、とどのつまりに、もう一度往生させられたという映画でした(笑)。 映画そのものは、青年が円卓の騎士に成長するための旅を描いた、型としては、ありがちな成長譚で、本来はわかりやすいはずですし、映し出される映像に浮かび上がる自然はあくまでも美しく、人の動きを追うカメラにも工夫が感じられて面白いのですが、如何せん、「これってどういう意味?」が、割合頻繁に襲い掛かってきて、ボンヤリ居眠りをしながら見ている徘徊老人には少々手ごわい作品でした。どなたか、わかりやすく解説していただけませんか(笑) 監督デビッド・ロウリーには「よくぞ、ここまで、ゴチャゴチャやってくれたものだ!」という気持ちを込めて、まあ、やけくそ半分ですが、拍手!でした(笑)。監督 デビッド・ロウリー脚本 デビッド・ロウリー撮影 アンドリュー・D・パレルモ美術 ジェイド・ヒーリー衣装 マウゴシャ・トゥルジャンスカ編集 デビッド・ロウリー音楽 ダニエル・ハートマンキャストデブ・パテル(サー・ガウェイン)アリシア・ビカンダー(エセル)ジョエル・エドガートン(城の主人)サリタ・チョウドリー(モーガン・ル・フェイ)ケイト・ディッキー(女王)バリー・コーガン(盗賊)ラルフ・アイネソン(緑の騎士)ショーン・ハリス(アーサー王)2021年製作・130分・G・アメリカ・カナダ・アイルランド合作原題「The Green Knight」2022・12・06-no135・シネリーブル神戸no170
2022.12.08
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フランソワ・トリュフォー「突然炎のごとく」シネ・リーブル神戸 1976年ころに、山根成之という監督で、主演が郷ひろみと秋吉久美子、脚本が、あの頃面白いと評判だった中島丈博の映画で「突然嵐のように」という映画がありました。 まあ、その当時、秋吉久美子は絶対的だったのですが、郷ひろみが思いのほかよくて(えらそうで、すみません。)記憶に残りました。もっとも、同じ監督で、同じ主演コンビの組み合わせで、多分、脚本は違ったと思いますが、「さらば夏の光よ」の2本しか見た記憶がないので、当てにはなりません。 何の話をしたいのかわからないで出しですが、今回見たトリュフォーの「突然炎のごとく」は、どうしても見なきゃと思った理由と、その、郷ひろみの映画の記憶がダブって、何が何だかわからないままシネリーブルにやってきたという話です。 で、フランソワ・トリュフォーの冒険シリーズの2本目は「突然炎のごとく」でした。1964年の映画です。初めて見たのは40年前で、今では精神科の開業医をやっている、まあ、いろいろうるさかった年下の友人が「ゴダールは知っているか、トリュフォーは見たのか」とか、あれこれうるさいので、名画座の特集を探して見た記憶がありますが、「これは、いいじゃないか」という漠然とした記憶しかありませんでした。 ぼくが説明するまでもない有名な作品ですが、原題が「Jules et Jim」とあるように、ジュール(オスカー・ウェルナー)とジム(アンリ・セール)という二人の男性とカトリーヌ(ジャンヌ・モロー)という、まあ、映画の中の表現でいえば「女神の唇」を持つ女性の、意味の分からない三角関係です。 現代であれば「なんとか障害」とかのレッテルを貼られかねないカトリーヌという女性の「こまった症候群」に、あくまでも付き合い続ける二人の男性の姿をボンヤリ見つめながら、破滅しかありえない関係の描き方の徹底性に感動しました。 1910年代の、だから第1次世界大戦前後のヨーロッパ社会を背景にしながら、オーストリアとフランスという敵国同士で戦った青年の友情が、なんだかアホらしいラブ・コメディのテンポで描かれているかのように始まるのですが、ラストはどうも、そうではなかったようです。「これがフランソワ・トリュフォーなんだよな。」 とかなんとか納得したようなことを感じながら、「これ」が何を指しているのかわからない。まあ、それがトリュフォーなんですね。 40年前には、破滅をものともしない主人公たちの、それぞれの在り方をどう感じていたのでしょう。「どうなってもいいや。」とどこかで思っていたあの頃、この映画がジャストミートしたことは間違いないのですが、どちらにしても先が見え始めた年齢になった今は、「あれから40年経つけど、カトリーヌとか、やっぱりいなかったよな。」という、わけのわからない感慨に浸ってしまいながらも、たとえば、屈託のない明るい笑顔や、美しい凝視から、どことなく苦悩が兆す眼差しへと突然炎のごとく変化していくジャンヌ・モローから目が離せないスリリングな作品でした。 やっぱりカトリーヌ(ジャンヌ・モロー)はよかったですね。拍手!でした。監督 フランソワ・トリュフォー製作 マルセル・ベルベール原作 アンリ=ピエール・ロシェ脚本 フランソワ・トリュフォー ジャン・グリュオー撮影 ラウール・クタール音楽 ジョルジュ・ドルリューキャストジャンヌ・モロー(カトリーヌ)オスカー・ウェルナー(ジュール)アンリ・セール(ジム)マリー・デュボ(テレーズ)ヴァンナ・ユルビノ(ジルベルト)ボリス・バシアク(アルベール)サビーヌ・オードパン(サビーヌ)1961年・107分・フランス原題「Jules et Jim」日本初公開1964年2月1日2022・10・04-no116・シネ・リーブル神戸no167
2022.10.11
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フランソワ・トリュフォー「逃げ去る恋」シネ・リーブル神戸 「生誕90周年上映 フランソワ・トリュフォーの冒険」というシリーズが始まりました。まあ、トリュフォーですから、70年代に映画に引き込まれた徘徊老人としては、見ないわけにはいかない気分で出かけて来たシネ・リーブルでしたが、月曜日ということもあるのでしょが、100人くらいの小さなホールですが、5人でした。 見かけ上のことですが、若い人(?)が一人、あとは同年配の客ばかりでした。まあ、今どき、そういうことなのかもしれませんね。この作品は1978年だそうですが、あの頃、トリュフォーといえば、満員だったような記憶もありますが、まあ、その記憶も怪しいですね。 で、シリーズの最初に見たのは「逃げ去る恋」という、1978年の映画です。「大人はわかってくれない」で始まった、「ドワネルもの」というシリーズの最終作だそうです。 映画全体の雰囲気としては総集編という感じでした。なんだか、ろくでもない主人公アントワーヌ・ドワネル君(ジャン=ピエール・レオ)が書いたらしい「自伝小説」の、恋のエピソードが次々と映し出されて、ちら、ちらと、なんだか見覚えのあるシーンもあるような、ないような、それがどうも過去の映画の断片なのですね。だって、ドワネル君って、記憶では少年だったような気がしますね。そんなシーンも確かにありました。 で、、まあ、その、彼が書いた小説を読むコレット(マリー=フランス・ピジェ)という、かつて恋仲であった女性の記憶を揺さぶっているわけです。で、まあ、客であるぼくが見ているのは、その映像と、寝転んで小説を読んでいるコレットなわけで、たとえば、笑いながら、今、目の前で小説を読んでいるコレットの想起しているはずの記憶の映像と、ぼくが見ている映像との関係のあやふや感が面白いといえば面白いのですが、トリュフォーなんて、全くの久しぶりのぼくには、映画を見ながら、自分が何を見ているのか、ピンとこないわけで、ちょっとボーゼンとする感じなのです。「こういう場合はどうすればいいのでしょうね。」とか思いながら「いや、これって、死んじゃう前の・・・」と考え込んだりで、まあ、あれこれ首を傾げる鑑賞でした(笑) 多分、あの臨場感の感覚なのでしょうね、おもしろいのは。それにしても、あの頃、何を感じて、こういう映画を見ていたんでしょうねえ。まあ、40年以上昔の話ですが(笑)。監督 フランソワ・トリュフォー脚本 フランソワ・トリュフォー ジャン・オーレル シュザンヌ・シフマン撮影 ネストール・アルメンドロスキャストジャン=ピエール・レオ(アントワーヌ・ドワネル主人公・印刷工・作家)マリー=フランス・ピジェ(コレット弁護士)クロード・ジャド(クリスチーヌ・ダルボン協議離婚の妻)ドロテ(サビーヌ レコード店員)ダニエル・メズギッシュ(グザヴィエ サビーヌの兄・コレットの相手)ダニ(リリアーヌ浮気相手)1978年・95分・PG12・フランス原題「L'amour en fuite」日本初公開 1982年4月10日2022・10・03-no115・シネ・リーブル神戸no166
2022.10.10
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ユライ・ムラヴェツ・Jr.「ウクライナから平和を叫ぶ」シネ・リーブル神戸 シネ・リーブルの1週間限定上映のドキュメンタリー映画でした。最終日に「やっぱり!」と思って見に来ました。映画はスロバキアのユライ・ムラヴェツ・Jr.という写真家が、テレビ・クルーと一緒にウクライナに入り、現地で生きている人々一人一人のポートレートと発言を記録した「ウクライナから平和を叫ぶ Peace to YOU ALL」作品でした。 ぼくはロシアによるウクライナ軍事侵攻で、初めて旧ソビエト崩壊後のウクライナをはじめとする旧ソビエトの独立地域の悲惨に気づきました。おそらくウクライナだけではないのでしょうね。 ウクライナに関しては、セルゲイ・ロズニツァの「ドンバス」という映画で衝撃を受けました。国を二分する親ロシア派、反ロシア派のせめぎあいが、明らかな軍事侵攻、「戦争」という手段によって明確化してきていますが、ゴルバチョフの大統領辞任で始まったソビエト解体以降の、旧ソビエトの実態に関心を持つということを全くしてこなかったので、「ドンバス」という作品が暴いているのが何で、何が明らかになっているのかさえ分からないというのが正直なところでした。 今回の映画に関しても、なんとなく億劫な気分でしたが、見てよかったですね。映画そのものが2016年に制作されているので、今、目の前で進行している事態と直結するわけではありません。しかし、あくまでも第三者の写真家として、2016年現在のウクライナで起こっていたことに対して、老人であり、少女であり、ホームレスであり、傷痍軍人であり、そのほかさまざまな人達がどう考えて暮らしているのか、ストレートな答えを映し出しているこのフィルムは、かつて、歌人の宮柊ニが詠んだ歌を、くっきりと思い出させてくれました。中国に兵なりし日の五ヶ年をしみじみと思う戦争は悪だ 政治的立場情勢判断はいろいろあるのでしょうが、戦争は悪です。まず、そのことは譲れません。監督・脚本・撮影ユライ・ムラベツ・Jr.2016年・67分・G・スロバキア原題「Mir Vam」2022・09・13-no107・シネ・リーブル神戸no162
2022.09.16
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カンテミール・バラーゴフ「戦争と女の顔」シネ・リーブル神戸 ベラルーシのノーベル賞作家スベトラーナ・アレクシエービッチに「戦争は女の顔をしていない」(岩波現代文庫)というノンフィクションがあります。日本では小梅けいとさんによってマンガ化されていますが、ロシアではカンテミール・バラーゴフという新鋭監督によって映画になったようです。 原作は、第2次世界大戦中、従軍し復員した女性兵士たちの長く哀しい戦後をルポルタージュした傑作です。映画が、ソビエト・ロシアの崩壊を経て、ようやく描かれた「戦後文学」、大祖国戦争(ソビエト・ロシアの解放戦争)批判の作品をどんなふうに描いているのか興味を感じて見に来ました。 小梅さんの「戦争は女の顔をしていない」(KADOIKAWA)は原作に忠実なマンガ化で、現在第3巻が発売されていますが、誠実な力作です。 で、この映画です。原案という言葉通り、アレクシエービッチの原作から得たインスピレーションを映画で表現した作品で、原作の歴史的リアリズムを越えた迫力を実感しました。 第二次世界大戦、ソビエトふうに言うなら大祖国戦争に兵士として従軍し前線から復員した元女性兵士イーヤ(ビクトリア・ミロシニチェンコ)は幼い男の子パーシュカ(ティモフェイ・グラスコフ)を育てながら、傷痍軍人たちの治療に当たる病院で看護師として働いています。1945年のレニングラードが舞台です。 やがて、映画には彼女の戦友であり、男の子のパーシュカの実の母であるマーシャ(バシリサ・ペレリギナ)という女性が登場します。 イーヤはチラシの写真の女性です。金髪の美しい、美人ですが表情の動かない、並外れたノッポの女性です。マーシャは少し茶色がかった黒髪で、なぜか眼差しにウソを感じさせる美人です。裸になった彼女の下腹部には大きな傷跡があります。 第二次世界大戦のソビエトでは、50万人を超える女性兵士が従軍し、祖国防衛戦争を戦ったことは有名です。彼女たちは兵士として「英雄」ですが、女性としては最前線の男性兵士の慰安婦であったという偏見から、復員後、ひどい差別の対象であったことがスベトラーナ・アレクシエービッチの「戦争は女の顔をしていない」(岩波現代文庫)を読めばわかります。 この映画は、戦場の現実の中で、人間であることの条件を失ったり、奪われたりした二人の女性の悲劇を描いていました。 この上なく残酷で、哀切で、辛い展開の作品でした。映画の前半、イーヤは繰り返し襲ってくる意識喪失の発作の中で、そこまで可愛がっていた幼いパーシュカ少年を殺してしまいます。そこから映画は、原作の深部へと降りていくかのように、監督のインスピレーションの世界へと展開し始めるように感じました。 この映画には戦場のシーンは全く出てきません。まあ、戦後の話ではあるのですが、そこが俊逸だと思ったのですが、戦場を想起させるのは、今、目の前にいる、壊された人間であり、見捨てられた女性である二人の登場人物の姿と、病院にいる傷痍軍人たちだけです。 PTSDという言葉を、わかったふうに使う風潮があります。しかし、戦争や暴力や災害によって壊されてしまった人間も、また、生きていく他に方法がないという現実については、PTSDとい言葉や、現象についていくら勉強しからといっても、わかるわけではありません。 笑うことを失ったイーヤも、薄ら笑いで人を見るマーシャも、彼女たちが帰ってきた平和な世界は、結局、見捨てているのではないか、映画は、そう問いかけていました。 スベトラーナ・アレクシエービッチの原作が対比した「戦争」と「女の顔」を、「世界」と「女」の対比へと深化させてみせたカンテミール・バラーゴフという監督に拍手!ですね。これは、明らかに現代の映画でした。 で、やはり二人の女性、イーヤとマーシャを演じたビクトリア・ミロシニチェンコとバシリサ・ペレリギナに拍手!です。二人の表情のやり取りは、実にスリリングで、人間の意識の深層を、顔の表面、多分目の表情に浮かびあがらせながら、実は真相(本当のこと)と言いながら空虚なのではないか、空っぽなのではないか、という不安を感じさせる演技で、撮影技術だけではこうはいかないと感じさせてくれました。 まあ、それにしても。暗くて切ない映画でしたね。疲れました(笑)。監督 カンテミール・バラーゴフ製作 アレクサンドル・ロドニャンスキー セルゲイ・メルクモフ原案 スベトラーナ・アレクシエービチ脚本 カンテミール・バラーゴフ アレクサンドル・チェレホフ撮影 クセニア・セレダ音楽 エフゲニー・ガルペリンキャストビクトリア・ミロシニチェンコ(イーヤ)バシリサ・ペレリギナ(マーシャ)アンドレイ・バイコフ(ニコライ・イワノヴィッチ院長)クセニヤ・クテポワ(リュボーフィ)イーゴリ・シローコ(フサーシャ)コンスタンチン・バラキレフ(ステパン)ティモフェイ・グラスコフ(パーシュカ)2019年・137分・PG12・ロシア原題「Dylda」(ロシア語)「Beanpole」(英語)2022・08・02・no96 シネ・リーブル神戸no162
2022.08.17
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ブラッド・ファーマン「L.A.コールドケース」シネ・リーブル神戸 昨秋だったでしょうか、「MINAMATA」で、七変化ぶりに感心したジョニー・デップという俳優さんが気になって見に来ました。相方のフォレスト・ウィティカーという俳優さんも有名な方らしいので素手が、ぼくは知りませんでした。 90年代にロサンゼルスで起こった事件をネタにした映画でした。人気のラッパーであった「2パック」という人と「ノートリアス・B.I.G」という二人のミュージシャン.が殺害されたらしいのですが、未解決のまま放置されているという事件の映画化でした。 ジョニー・デップ演じるラッセル・プール元刑事と新聞記者ジャック(フォレスト・ウィテカー)というお二人の渋い演技で物語の輪郭は割合くっきりしているのですが、なにせ18年前の事件の謎を追うのですから、画面にはプール元刑事の記憶の中にある「複数の現在」が映し出されていって、それが、まずややこしいうえに、事件は事件で、複数の登場人物による複数の現場、複数の時間の映像が重ねられていくわけで、見ていて訝しいことこの上作品でした。 まあ、進行役というか、客観的な視点の持ち主である新聞記者ジャックがプール元刑事の推理を理解していくのに合わせて、見ているぼくも、なんとなく真相の方向性をつかめるという仕組みの映画でした。 で、帰ってきて、この事件が未解決のまま、今でも放置されているうえに、この映画の公開を巡って、何らかの、政治的妨害まであったらしいことを知って、愕然としました。 映画の終盤、プール元刑事とジャック記者は、事件の真相のカギである捜査記録の公開を要求しますが「捜査中の事件の証拠」は公開できないという壁にぶつかってしまう上に、真相を究明していたプール元刑事が心臓まひで急死してしまう(実話だからしようがない)という、クライム・サスペンスとしては、いかにも、アンチ・クライマックスな結末なのですが、実は、そういう終わり方の中に、現実社会に対する批判が凝集されていた、つまりは、クライマックスだったのです。 最近、お葬式が話題になっているアベ某の悪事について、情報開示が拒否されたり、公開される情報が黒塗りだったり、「ホント、ようやるわ💢」ということが、ニッポンという国でもありましたが、この映画でも、チンピラの悪(ワル)たちは名指しで指弾されていますが、権力の中枢に隠れている巨悪、腐敗については「におい」だけしか表現できていません。つまりは、この作品は、そういう構造そのものを描いていて、映画そのもののわかりにくさの理由も、公開に妨害が入るということの理由もそこに起因しているということなのでしょうね。 監督であるブラッド・ファーマンやジョニー・デップとフォレスト・ウィテカーといった人たちは、ロサンゼルス市警内部なのか、アメリカの政治中枢なのか、正体ははっきりしませんが、そこに「ウソ」が存在することを告知して見せているわけで、ある意味、命がけの演技なのですね。そこはやっぱり拍手!ですね。 権力の構造的腐敗が、トカゲのしっぽ切りで批判をそらし、法律の悪用で真実を隠ぺいする、それをマスコミが無批判に唱和する、構造的な「マインド・コントロール」が世界中を覆っているのが現実かもしれません。 まあ、幻想かもしれませんが、こういう映画をまじめに作るところにアメリカの健全さを感じました。 監督 ブラッド・ファーマン原作 ランドール・サリバン脚本 クリスチャン・コントレラス撮影 モニカ・レンチェフスカ美術 クレイ・グリフィス衣装 デニス・ウィンゲイト編集 レオ・トロンベッタ音楽 クリス・ハジアンキャストジョニー・デップ(ラッセル・プール)フォレスト・ウィテカー(新聞記者ジャック)トビー・ハスデイトン・キャリーシェー・ウィガムニール・ブラウン・Jr.シャミア・アンダーソンマイケル・パレザンダー・バークレイローレンス・メイソンルイス・ハーサムジャマール・ウーラードアミン・ジョセフ2018年・112分・G・アメリカ・イギリス合作原題「City of Lies」2022・08・10・no97・シネ・リーブル神戸no161
2022.08.15
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ドゥニ・ビルヌーブ「灼熱の魂」シネ・リーブル神戸 予告編を見ていて「エッ?」と思いました。主人公らしい女性に見覚えがありました。「一年ほど前に見たモロッコの町で、パンをこねていたおばさんじゃないか。」 見終えて、再確認しました。マリヤム・トゥザニという監督の「モロッコ、彼女たちの朝」という作品でパン屋を営んでいた未亡人アブラを演じていたルブナ・アザバルという女優さんでした。 で、今日の映画はリドリー・スコット監督の「ブレードランナー」の続編や「砂の惑星」なんていうSF(?)を撮って評判らしいドゥニ・ビルヌーブという監督の出世作「灼熱の魂」、まあ、邦題が「ちょっと、あんたねえ」なのですが、原題は「Incendies」、直訳なら「火事」でしょうか。原作の戯曲があるらしく、その邦訳は「やけこげる魂」だそうで、そっちは理解できますが、映画のチラシのように「灼熱」という熟語を当てると、語感が内容にそぐわないと思ったのですが、まあ、その映画を見ました。 なるほど、出世作というだけありました。ドゥニ・ビルヌーブという監督の才能を感じました。 カナダに住んでいる、まだ、50歳半ばくらいでしょうか、老年に差し掛かった女性ナワル・マルワン(ルブナ・アザバル)がなくなって、大学生くらいの年齢の二人の子ども、女性がジャンヌ・マルワン(メリッサ・デゾルモー=プーラン)と男性がシモン・マルワン(マキシム・ゴーデット)の双子のようですが、公証人(レミー・ジラール)から遺書を受け取るところから映画は始まります。「父」と「兄」を探せ、探し出したうえで、二人宛の遺書を開封せよ。 まあ、そういう指示が書き残されていて、二人が「母の人生」をたどりかえすというお話でした。 母が生まれたのは中東のどこかの田舎の村で、キリスト教系の住民とイスラム経系の住民が、互いを敵として戦っている地域という設定です。地名や学校名は出てきますが、架空の場所のようです。 で、その村のキリスト教の住民の家に育ったナワル・マルワンという娘が、異教徒の難民と恋に落ち、駆け落ちしようとしますが、兄弟に発見され、恋人はその場で射殺されますが、娘は、祖母の助けもあり、身籠っていた一人目の子どもを生み落とします。そこから、この娘が、どんな経緯で村を出て、その後、何があって、結果的に、二人の子供を連れて、どうしてカナダくんだりまでやってきたのかというのが、二人の子供がたどった母の人生の謎ときでした。 が、まあ、ちょっとネタバレですが、母の人生の謎を追っていた二人は、やがて、自分たち自身の出生の秘密、父、母、兄、そして二人の双子という家族の秘密にまでたどり着きます。 秘密の謎を解くカギは、ジャンヌ・マルワンが大学で研究している数学者オイラーの方程式にありました。 映画が始まって、ジャンヌのキャラクター紹介のように提示されたこの方程式を見て「謎」の見当がつく人が、実際にいるのかどうか、ぼくには想像できませんが、後半に入ったあたりで、三人の子どもを生んだナワル・マルワンは、実はアンティゴネーを生んだイオカステーではないのかという予感は、フト、きざしました。 映画の始まりの母からの遺言「父と兄を探せ」がジャンヌ=アンティゴネーに与えられたヒントじゃないかという予感です。では、じゃあ、オイディプス王は誰なのかというわけですが、ここまででも、ちょっとバラし過ぎている気もします。どうぞ、作品をご覧ください。なかなかスリリングですよ。 この映画の物語を支えているのが有名な数式とあまりにも有名なギリシア悲劇というところは、まあ、ぼくとしては好みですし、面白いのですが、ちょっと話が作られ過ぎているきらいがあるところが引っかかりました。 しかし、岩と砂の山岳地帯の風景があり、その谷間の底を走るバスを俯瞰したパレスチナの風景と、ただ、ただ、何の躊躇もなく人が殺される殺伐たるテロルの光景には息をのみました。それだけでもすごい映画だと思います。 悲惨で過酷な人生を生きながら、「母」であり、最期まで、子どもたちに「愛」を伝えようとした、女性ナワル・マルワンを演じたルブナ・アザバルに拍手!でした。 監督 ドゥニ・ビルヌーブ原作 ワジディ・ムアワッド脚本 ドゥニ・ビルヌーブ撮影 アンドレ・チュルパン美術 アンドレ=リン・ボパルラン衣装 ソフィー・ルフェーブル編集 モニック・ダルトンヌ音楽 グレゴワール・エッツェル挿入歌 レディオヘッドキャストルブナ・アザバル(ナワル・マルワン)メリッサ・デゾルモー=プーラン(ジャンヌ・マルワン)マキシム・ゴーデット(シモン・マルワン)レミー・ジラール(公証人ルベル)2010年・131分・PG12・カナダ・フランス合作原題「Incendies」日本初公開2011年12月17日2022・08・12・no98・シネ・リーブル神戸no160
2022.08.14
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パトリック・インバート「神々の山嶺」シネ・リーブル神戸 フランスのパトリック・インバートという監督のアニメーション映画で、谷口ジローの同名のマンガ作品をアニメ化した作品ですが、夢枕獏の、もともとの原作は1998年に柴田錬三郎賞を取った山岳小説です。 で、その頃、はまっていた冒険小説というジャンルで、日本冒険小説協会大賞を受賞したこともあって、伝奇バイオレンス系の作品には手を出しかねていた作家だったのですが、この作品は読んで面白かった記憶があります。 新田次郎の「孤高の人(上・下)」(新潮文庫)に、浪人時代生活だったころにはまって以来、山岳小説をはじめ、探検物なんかも好きでしたが、2000年を超えたあたりから、まあ、50歳を境にでしょうか、あまり読まなくなってしまいました。 作画の谷口ジローという漫画家についても「坊ちゃんの時代(五部作)」(双葉社)や「孤独のグルメ」(扶桑社)のファンで読んでいるつもりでしたが、夢枕獏のこの小説が谷口ジローによってマンガ化され、評判をとっていたことには気づいていませんでした。 シネ・リーブルで予告編を見ていて「あれ?」っと、ようやく気付いた次第です。ここの所の暑さに辟易していることもあって、エベレストの風景でも見て涼んで来ようという気分で、久しぶりにやって来たシネ・リーブル神戸でした。 映画はシンプルでした。エベレスト初登頂の謎を巡って、無酸素で未踏ルートに挑む孤高の登山家羽生丈二を山岳雑誌のカメラマン深町誠が追うという構成で描かれた山岳ミステリーでした。 物語の中盤、羽生のザイル・パートナーとして登場し、不幸にも転落死する青年が岸文太郎と名付けられていることにハッとしました。新田次郎の「孤高の人」の主人公加藤文太郎を思い出しながら、夢枕獏の原作のストーリーが浮かんできたからです。 そんなにたくさん見ているわけではありませんが、ヨーロッパのアニメ映画の良さだと、勝手に称賛している静かな映像でつくられていて、特に自然の風景の美しさは、写真ではないかと思わせる細密さで堪能しました。 原画の谷口ジローは、作品の完成を待たずになくなってしまったわけですが、谷口ジローの絵の、ストップモーションの繰り返しのような独特のテンポがそのままアニメーションとして生きていて納得の作品でした。 情動を煽らない、静かなテンポで作品を完成させたパトリック・インバートという監督に拍手!でした。 懐かしさに浸りながら、客も少なく、涼しい映画館というのは、まあ、極楽ですね。監督 パトリック・インバート原作(作)夢枕獏原作(画)谷口ジロー脚本マガリ・プゾル パトリック・インバート ジャン=シャルル・オストレロ音楽アミン・ブアファ2021年・94分・G・フランス・ルクセンブルク合作原題「Le sommet des dieux」2022・08・02-no95・シネ・リーブル神戸no159
2022.08.04
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ギリーズ・マッキノン「君を想い、バスに乗る」シネ・リーブル神戸 予告編を見て惹かれました。かなりなお年寄りがグレートブリテン島を路線バスを使って縦断するようです。バス停に立っている、この男どこかで見たことがある気がしました。 映画はギリーズ・マッキノン監督の「君を想い、バスに乗る」でした。 若い夫婦のようですが、カップルの女性の方が泣きながら男性に「ここではないところ、ここからずっと離れたところに連れて行ってほしい。ここにはもう戻ってきたくない。」と、まあ、そんなニュアンスを訴えかけていて、二人は旅に出て、田舎のアパートにたどり着くシーンで映画は始まりました。 で、ポスターに写っているバス停の老人が、小さなトランクを片手に近所の子どもと仲良しのようで、こんなふうに声をかけられたらいいなという雰囲気の挨拶をしながらバス停にやってきて、バスに乗ると顔見知りらしい運転手がたずねます。「どこまで行くんだ?」「ランズ・エンド」「なんだって?1300キロだぞ。」「これがある。」 件の老人はフリーパスらしいカードを見せて、バスが出発します。 グレートブリテン島を北の端から南の端まで路線バスの旅が始まりました。彼が最初に乗ったバス亭がジョン・オ・グローツ村で、北の端です。目的地はランズ・エンド岬で南の端の岬です。 イギリスには「ランズ・エンド・トゥ・ジョン・オ・グローツLand's End to John o' Groats」略すとLEJOGという言い回しの言葉があるようで、訳すと「究極の旅路」という意味だそうですが、老人の旅程はその言い回しの復路ということになります。 老人の人生の回想とバス旅で遭遇する小事件が、交互に描かれるロード・ムービーでした。シビアな映画ファンであれば、バスを乗り換えるたびに脈絡もなく起こる小事件の描き方や、リアリティーについて不満をお持ちになるかもしれませんが、68歳のシマクマ君は堪能しました。 画面に引き込まれた理由は、ひとえに、90歳で、妻に先立たれ、自らも死にかけの老人、トム・ハーパーを演じたティモシー・スポールの存在感のある表情と物腰によるものでした。 ネタバレで申し訳ないのですが、70年前に失った、いつまでも1歳の娘の墓に詣でて、バスに乗って以来、仏頂面を続けてきた老人がポロリとこぼした涙には、彼の「究極の旅路」の往路のすべてかきらめいているようで、もらい泣きせずにはいられませんでした。とにもかくにもトム・ハーパ老人(ティモシー・スポール)に拍手!でした。 老人が載る路線バスがどれもシャレていたこと、ロンドン以外でも二階建てバスが走っていること、羊もバスに載せること、バスに乗ってくる人々の姿が、普通で、とても良かったこと、まあ、数え上げればいろいろありますが、スコットランドから、イングランド、ウェールズと呼ばれるイギリスのそれぞれの地方の風景が記憶に残りました。まあ、イギリスの俳優さんの演技はいいですね。この映画のティモシー・スポールもよかったですね。 で、この爺さん役の俳優さんのことですが、思い出しました。イメルダ・スタウントンが主演した「輝ける人生」、リチャード・ロンクレイン監督の作品ですが、その映画で認知の奥さんの介護で苦労した老人でした。まあ、そういう役が似合いなのでしょうかね(笑)。まだ若い俳優さんだったと思うのですが。 別の日に見に行ったチッチキ夫人が面白いことをいいました。「健さんの旅もよかったけど、こっちの方がホントだなと思ったよ。」「ふーん、それで、あなた、灰だけど、どこにほってほしいか、どっかに書いててね。」「えっ?やっぱり私が先なの?」 最後は、むずかしい会話になってしまいましたが、この映画を60歳以上の老人が見た場合、避けられない問題ではないでしょうか(笑)。まあ、人はそれぞれ、振り返ればなんでもない哀しい人生を送っていて、やがて、死んでしまうのは避けられないわけで、題名は「The Last Bus」のままの方がよかったですね。監督 ギリーズ・マッキノン脚本 ジョー・エインズワース撮影 ジョージ・キャメロン・ゲッデス美術 アンディ・ハリス衣装 ジル・ホーン編集 アン・ソペル音楽 ニック・ロイド・ウェバーキャストティモシー・スポール(トム・ハーパー)フィリス・ローガン(メアリー)2021年・86分・G・イギリス原題「The Last Bus」2022・06・13・no79・シネ・リーブル神戸no157
2022.06.22
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アンドレイ・コンチャロフスキー「親愛なる同志たちへ」シネ・リーブル神戸 予告編を見ていて、ソビエト・ロシアの時代、フルシチョフ政権下の1962年に起こったノヴォチェルカッスク虐殺事件を題材にした作品だと気づいてやってきました。2020年に撮られた作品らしいですが、ソビエト映画の巨匠とチラシにあるアンドレイ・コンチャロフスキーという監督の作品を見るのはこれが初めてです。映画は「親愛なる同志たちへ」です。 スターリンを批判することで、政治的失脚を免れたフルシチョフの時代のソビエト社会の真相を、かなりな率直さで描いた作品でした。 主人公は女性でした。名前はリューダ、年齢は40代後半(?)、はやりのことばでいえばシングルマザーで、党の地区委員会の「幹部」です。 同じ地区委員会の「幹部」の男性との不倫(?)シーンから映画は始まりました。地位を利用しての生活物資の入手、官僚機構の秩序からはみ出す発言や行動、看護兵としての赤軍従軍歴の誇りと自信、英雄的赤軍兵士との不倫(?)の恋の結果の、妊娠、出産、シングル・マザーとして育ててきた娘への愛。 「外」からの視点で見れば、彼女は素朴で傲慢なスターリニストとして描かれています。「共産主義」の理想をお題目にして、偶像崇拝と事実の隠ぺい、反対者に対する粛清をセットにして権力を維持したソビエト体制の最も素朴かつ絶対的な崇拝者です。 彼女は「官僚体制」の特権階級であることに自足しており、そうであるからこそ、自分自身がスターリンと、そしてスターリンを批判した現党中央と同じ穴の狢であり、目の前で繰り広げられている虐殺が自ら盲信する「共産主義」の美名のもとになされていることに気づくことが出来ません。 映画は、ソビエト体制が崩壊して、初めて明らかになったノヴォチェルカッスク虐殺の最中、娘の安否を気遣い、右往左往するリューダを描くことで、官僚主義、あるいは、特権的教条主義のご都合主義の実態を暴いていきますが、目の前で起きている現実によって「人間的」、「心情的」葛藤に晒されていくリューダにしろ、地区KGPのヴィクトルにせよ、スターリン主義のソビエト体制そのものへの批判にはたどり着けない姿を描き切ったアンドレイ・コンチャロフスキー監督に唸りました。 かつて「実録連合赤軍」を撮った若松孝二や、韓国の光州事件を題材にした「タクシー運転手」を撮ったチャン・フン監督を彷彿とさせましたが、彼ら以上に、アンドレイ・コンチャロフスキー監督の国家体制としてのスターリン主義に対しての、他人ごとではない批判の深さを感じました。 現実に、現在のロシアでも元KGBの権力者が戦争を始めています。スターリン主義の常套手段だった秘密警察による民衆監視と排他的ナショナリズムを煽って独裁化しているようにも見えます。この作品の批判の矛先は現在のロシアの政治体制にまで届いているかのようです。 もっとも、権力者に対する無批判と情動的な排他主義は、とても他人事とは思えないムードが極東の島国にもひろがっているわけです。たとえば「忖度」という言葉がはやりましたが、権力者に対する官僚の「忖度」は、「おもねり」であって、実は官僚自身の「自己利益」の誘導にすぎないと思うのですが、誰か、きちんと指弾したのでしょうか。 何はともあれ、おろかなリューダをリアルに熱演したユリア・ビソツカヤと、彼女を描いたアンドレイ・コンチャロフスキー監督に拍手!でした。監督 アンドレイ・コンチャロフスキー製作 アンドレイ・コンチャロフスキー製作総指揮 オレサ・ヒュドラ製作統括 アリシェル・ウスマノフ脚本 アンドレイ・コンチャロフスキー エレナ・キセリョワ撮影 アンドレイ・ナイジョーノフ美術 イリーナ・オシナ衣装 コンスタンチン・マズール編集 セルゲイ・タラスキン カロリーナ・マチェイェフスカ音楽 ポリーナ・ボリンキナキャストユリア・ビソツカヤ(リューダ 党地区委員)アンドレイ・グセフ(ヴィクトル 地区KGP)ウラジスラフ・コマロフ(ロギノフ 党地区委員)ユリア・ビソツカヤ(スヴェッカ リューダの娘)セルゲイ・アーリッシュ(リューダの父)2020年・121分・G・ロシア原題「Dorogie Tovarischi」2022・04・25-no64・シネ・リーブル神戸no151
2022.05.23
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フィリップ・ファラルドー「マイ・ニューヨーク・ダイアリー」シネ・リーブル神戸 2022年の連休は人にビビって外出をあきらめていました。で、連休明けの5月9日、早速やってきたシネ・リーブルでしたが、当てがはずれて結構な入場者でした。 見たのはフィリップ・ファラルドーという知らない監督で「マイ・ニューヨーク・ダイアリー」という作品でした。サリンジャーがらみのお話という理由だけで選んだ作品ですが、客の大半がジジババだったのは、まあ、案の定という感じでしたが、お話の筋も古典的でした。 サリンジャーという作家は、日本でいえば戦後文学の次、「第三の新人」位の世代の人で、ノルマンジー上陸作戦にも従軍した、れっきとした「太平洋戦争」の「戦後文学」の人なのですが、日本では、ここ10年、人気の翻訳家、柴田元幸や村上春樹の新訳が出たこともあって、「現代文学」みたいな扱いですが、野崎孝の名訳「ライ麦畑でつかまえて」(白水社)が出たのは1964年のことです。その後「フラニーとズーイ」とか「バナナフィッシュにうってつけの日」とかの「グラース家の物語」も、同じく野崎孝の訳でしたが、ぼくが高校生のころすでに新潮文庫の棚に並んでいました。 で、その後というか、1960年以降、サリンジャーは1作も書いていません。でも、映画のネタにはなるのです。不思議です。 4年ほど前に「ライ麦畑で出会ったら」という、サリンジャーを探しに行く少年の映画がありましたが、今回の「マイ・ニューヨーク・ダイアリー」はよく似た印象の作品でした。まあ、あの映画は主役が男の子で、女の子に出会うのに対して、今回は女の子で、おばさんに出会う話でした(笑)。 原作がJ・D・サリンジャーを担当する女性エージェントと新人アシスタントを描いたジョアンナ・ラコフという人の自叙伝なのだそうですが、映画は、端折って言えば「サリンジャー探し」の老若男女を阻止するお仕事をする女性の話でした。 「My Salinger Year」というのが原題だそうですが、新米アシスタントのジョアンナとサリンジャーの出会いは、はっきり言ってありきたりです。キャッチ・コピーに「大人の自分探し」とありますが、今一ピンときません。 サリンジャーなんて読んだこともないのに、サリンジャー担当のベテラン・エージェントのアシスタントを務める90年代の文学少女の大胆さというか、幼さというかに圧倒されるばかりです。 そのうえ、映画の画面以外のアクシデントでしたが、隣席で寝入ったおじさんの大鼾が耳元に響きます。「何をご覧になるおつもりでお座りになったのか存じませんが、そりゃあ、お眠りになるのも無理はない展開だとは思うのですが・・・!」 まあ、そういう同情というか、怒りというかを感じないではない展開でしたが、救いはありました。ジョアンナのボスを演じる女性の演技です。別に、特別な所作や表情をするわけではありません。しかし、なかなかいいのです。時代の存在感があるのです。「誰だこれは?」 家に帰って、チッチキ夫人にチラシを見せておしゃべりしていると、珍しく質問です。「シガニー・ウィーバーって、出てはったん?!」「ええー、あの人、ああ、あのおばさん、エイリアンのあの人やったんか?」「エイリアンの、あの人やったん?って、気付かんかったん?」「うん、まったく!一人で映画持たしてはった。上手やったで。」「でも、気付かんかったんやろ(笑)」 サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえてThe Catcher in the Rye」は単行本出版だったようですが、それ以降の「グラース家シリーズ」は「ニューヨーカー」という雑誌に掲載された作品です。映画に出てくるベテラン・エージェントのマーガレット(シガニー・ウィーバー)は、その時代のアメリカの出版エージェントの匂いとプライドを感じさせる編集者という役柄を好演していました。まあ、なんといっても「エイリアン」に怯まない女性ですから、貫禄が違いますね(笑)。 というわけで、久しぶりのシガニー・ウィーバーに拍手!でした。監督・脚本 フィリップ・ファラルドー原作 「サリンジャーと過ごした日々」(ジョアンナ・ラコフ 著 井上里 訳 柏書房)撮影 サラ・ミシャラ美術 エリース・ドゥ・ブロワ衣装 パトリシア・マクニール アン・ロス編集 メアリー・フィンレイ音楽 マーティン・レオンキャストマーガレット・クアリー(ジョアンナ)シガニー・ウィーバー(マーガレット)ダグラス・ブース(ドン)サーナ・カーズレイク(ジェニー)ブライアン・F・オバーン(ヒュー)コルム・フィオール(ダニエル)セオドア・ペレリン(ノースカロライナ州ウィンストン・セーラム在住の青年)2020年・101分・G・アイルランド・カナダ合作原題「My Salinger Year」2022・05・09-no66・シネ・リーブル神戸no150
2022.05.14
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ケネス・ブラナー「ベルファスト」シネ・リーブル神戸 1969年ですから、もう50年以上も前のことですが、北アイルランドからイングランドのレディングという町に引っ越してきた少年から一通の手紙を受け取りました。 こんにちは、みなさんはベルファストという町をご存知ですか。ぼくが先週まで家族と暮らしていた北アイルランドの港町です。 ぼくの家族はおじいちゃんとおばあちゃん、お父さんとお母さん、おにーちゃん、そしてぼく。それがぼくの家族です。ぼくの名前はバディです。年は1960年生まれで、9歳です。今、一番好きなのは「騎士ごっこ」です。学校はちょっと苦手です。最近気になる女の子がいて、教室で後ろから見ていてドキドキします。でも、はずかしいから名前はいえません。 お父さんとお母さんは子供のころからのなかよしで、今でもとてもなかよしですが、時々大げんかをしたりして、悲しいときもあります。お父さんはロンドンに出稼ぎに行っていて、いつもは留守です。お金の事とかで、お母さんが電話口で泣いたり怒ったりしていることもあります。でも、ぼくとお兄ちゃんは、お母さんと三人でお父さんの留守を守っています。お父さんとぼくの合言葉はBe carefulです。 おじいちゃんとおばあちゃんはとてもなかよしでした。おじいちゃんはぼくに算数とか人生とか、なんでも教えてくれました。おばあちゃんは、ちょっとふとりすぎで歩くのがしんどいのですが、いつもぼくとおじいちゃんを見守ってくれていて、おじいちゃんはおばあちゃんに頭が上がりませんでした。そんなおじいちゃんとおばあちゃんが、今でもぼくは大好きです。 でも、ずっとしんどかったらしい肺の具合が悪くなって、おじいちゃんは死んでしまいました。そして、父さんとお母さんもベルファストの町を出て行くことに決めてしまいました。 ぼくがカトリックの人のお店からお菓子を盗んできて警察の人がうちにやって来たり、プロテスタントの人がお父さんを裏切り者だと言って、ぼくを人質にしたり、お母さんが悲しむことばっかり続いたことも、引っ越しの大きな原因です。 一人でベルファストに残ることになったおばあちゃんは、出発の日に「振り返らないで、しっかり前を向いて行きなさい。」と言ってくれましたが、ぼくは振り返らないではいられません。 少年は、その後、演劇学校を出て俳優になり、やがて映画監督になったようです。その彼から、最近ビデオ・レターを受け取りました。少年時代の家族の姿がドラマチックに写っているモノクロのドキュメンタリー・フィルムでしたが、それを編集し直して「ベルファスト」という映画にしたらしいのですが、その映画ははアカデミー賞で脚本賞をとったそうです。劇場で見ましたが、失われた時がうつくしく描かれていて、胸を打つ作品になっていました。 と、まあ、紹介すればこうなるわけですが、一つだけ引っかかるのは、少年は大人になって映画として1969年のベルファストを描いているわけですが、カトリックとプロテスタントの争いが、大英帝国の植民地主義の結果であることについて、なんとなく判断保留のまま描いていることでした。 映画のラストシーンで名優ジュディ・デンチがベルファストの町を出ていく子供たちの家族に言い放った「振りむかずに、前を向いてすすめ」という「名セリフ」を聴きながら、ふと、思ったのですが、イギリスのアイルランド問題はこの50年で片が付いたのでしょうか。 とはいうものの、家族の物語としてみれば、たとえば、出稼ぎ暮らしの夫(ジェイミー・ドーナン)が妻(カトリーナ・バルフ)に向かって言う「子どもたちは、みんな、あなたが育てたんだ」という和解のセリフをはじめとする夫婦げんかのリアルさや、散り散りになりそうな若い家族を支える祖父母の存在の描き方は、さすがケネス・ブラナーなわけで、しっかり泣かせていただきました。 おじいちゃんのキアラン・ハインズ、おばあちゃんの、まあ、ちょっと太り過ぎじゃないかと心配でしたが、ジュディ・デンチには文句なしに拍手!でした。監督 ケネス・ブラナー脚本 ケネス・ブラナー撮影 ハリス・ザンバーラウコス美術 ジム・クレイ衣装 シャーロット・ウォルター編集 ウナ・ニ・ドンガイル音楽 バン・モリソンキャストジュード・ヒル(バディ)ルイス・マカスキー(ウィル お兄ちゃん)カトリーナ・バルフ(お母さん)ジェイミー・ドーナン(お父さん)ジュディ・デンチ(おばあちゃん)キアラン・ハインズ(おじいちゃん)コリン・モーガン(ビリー・クラントン)2021年・98分・G・イギリス原題「Belfast」2022・03・28-no40・シネ・リーブル神戸no148
2022.04.22
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アスガー・ファルハディ「英雄の証明」シネ・リーブル神戸 アスガー・ファルハディというイランの監督の「英雄の証明」という作品を見ました。先週、キアロスタミという監督の初期の特集に通ったこともあって、「イラン」という国の名前に興味を惹かれてやってきました。 映画の本筋とは、少しずれますがイランという国の刑務所制度に驚きました。服役中に「休暇」があって、この映画の事件はその休暇のあいだに、服役者である男が家族のものとに帰宅した時に起こるという設定でした。日本の刑務所制度について知っているわけではありませんが、服役中に「休暇」はないのではないでしょうか。 で、その事件というのは、服役休暇の男が「拾った金貨を返す」という出来事ですが、テレビ、新聞という既存のマスメディアと、いわゆるSNSメディアの対決による「拾った金貨を返したという事実」の捏造ごっこが、映画のサスペンスの肝でした。「借金で服役中の人間がせっかく手に入れた金貨を返した!」 ニュースを美談として仰々しく報道するメディア。美談に便乗する、刑務所の偉い人たちや慈善団体の思惑。男に金を貸して騙されたと思っている人たちの怒り。新たに起こる事態を、再び、三度、ニュースにしてはやし立てるメディア。大手メディアの美談を叩くSNSの投稿。だんだん宙に浮いていく男の行動の真実。 メディアを巡る現代社会の断面の一つが鮮やかに映像化され、自分がしたことを見失いない、メディアによって引き起こされていく事態に追い詰められていく男とその恋人、ただでさえスラスラとは表現できない吃音の息子の三人が、ニュースの嵐の中を真実を求めてさまよう巡礼のように描かれていきます。三人は、果たして真実にたどり着くができたのでしょうか。 ファルハディ監督は「本当の事は吃音でしか語ることができない」という真理を描こうとして、案外、古典的な結論にたどり着いたとは思いましたが、刑務所に帰っていく男と、それを見送る少年の姿にホッとしたのも事実です。 ニュースの嵐に翻弄されるラヒム・ソルタニ(アミール・ジャディディ)とその息子シアヴァシュ(サレー・カリマイ)に拍手!でした。 余談ですが、「由宇子の天秤」という邦画のことを思い出しました。世間の評判とは裏腹になんとなく納得がいかなかったのですが、現代社会の断面をえぐろうとしているという意味で、よく似た作品だと思いました。監督 アスガー・ファルハディ脚本 アスガー・ファルハディ撮影 アリ・ガーズィ美術 メーディ・ムサビ衣装 ネガル・ネマティ編集 ハイデー・サフィヤリキャストアミール・ジャディディ(ラヒム・ソルタニ)サレー・カリマイ(シアヴァシュ:息子)サハル・ゴルデュースト(ファルコンデ:恋人)モーセン・タナバンデ(バーラム:金を貸した男)マルヤム・シャーダイ(マリ)アリレザ・ジャハンディデ(ホセイン)サリナ・ファルハディ(マザニン)フェレシュテ・サドル・アラファイ(ラドミラ婦人)2021年・127分・G・イラン・フランス合作原題「A Hero」2022・04・12-no52・シネ・リーブル神戸no147
2022.04.16
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クリストス・ニク「林檎とポラロイド」シネ・リーブル神戸 ギリシャの新人監督だそうです。予告編を見ていると、なんだか気難しそうな男が子供用の自転車に乗って、自分でポラロイド写真を撮っているシーンが気を引きました。見たのはクリストス・ニク「林檎とポラロイド」でした。 ラジオからでしょうか、スカボロー・フェアがかかっていて、なんだか散らかった、暗い部屋に座っていると思っていた男(アリス・セルベタリス)が頭をゴンゴン壁だか柱だかにぶつけていました。それが映画の始まりでした。 後から考えると、最初のこのシーンがどこなのか、何をしているのかが謎というか、ポイントだったようです。 で、男がそのアパートから出て来て街に出て花を買ったような記憶があるのですが、勘違いかもしれません。シーンが変わって「この光の加減は何だ?」と思っていると夜のバスの車内からの町の風景でした。 男はバスの中で眠り込んだまま、終着駅まで乗ってきて、運転手さんに誰何され、身分証も持たず、名前も分からない、で、記憶喪失騒ぎが始まります。 病院に収容された男は、あれこれ調べられますが、最近よくあるらしい記憶障害で、記憶の回復の可能性を否定され、「あたらしい人格」のためのプログラムが始まります。 医者に指示された行動を体験し、ポラロイドで写真を撮るというものです。気になっていた子供用の自転車に乗るのは、このプログラムの進行上での出来事でした。意識下にある記憶と身体的な記憶、近過去の記憶と、昔の幼児的な記憶という、それぞれ二項対立的な二通りの視点から描こうとしているプロットでしょうが、記憶をそのように解析するのは、ちょっと通俗かもしれません。 一方で、面白いのは、医者に指示された行動以外で、この男が自分からする行動は林檎を食べることでした。「おふくろの味」という言葉を持ち出すまでもなく、「味覚」や「味わい」は身体記憶の最たるものといっていいと思いますが、そう考えれば、この男は、病院に収容された最初から「記憶」を失ってなどいない、あるいは、記憶に支えられた「アイデンティティー」を失ってなどいなかったのではないかと疑うこともできます。まあ、失っていたにせよ、自ら閉ざしていたにせよ、カギになるのは林檎でした。いつも林檎を買う八百屋のオヤジの「林檎には記憶を助ける作用もある。」という言葉を聴いて、男が林檎を買うのはやめて、オレンジを買うのはなぜかということです。 ここから、男が失った、あるいは、封印した「記憶」とはなにか、ということが見ているシマクマくんの中で沸き起こって来たというわけです。 映画は「あたらしい人格」のためのプログラムに沿って行動する男を追って展開します。酒場での遊興、女との出会い、自動車事故、終末期の病人との出会いと死の看取り。そして葬儀への参列です。 男が最初のシーンの部屋に戻ってきて映画は終わりますが、部屋に残されていたのは腐りかけの林檎が盛られた果物皿でした。 その林檎の中から、何とか食べられる破片を切り取って口にした男の中に、どんな味が広がっていったのでしょう。 最後まで、ほとんどしゃべらない男を演じ、心中に深々と広がる寂寥と孤独を表現してみせてくれたアリス・セルベタリスに拍手!でした。 まあ、勝手な思い込みかもしれませんが(笑)、「あたらしい人格」のためのプログラムなどという、映画的といえば映画的なのですが、考えてみればインチキ臭い話に引き込みながら、実に巧妙に一人の男の記憶を暗示して見せた監督クリストス・ニクの、新人とは思えない手管にも拍手!でした。 挿入される音楽やダンス。八百屋の店先や、それぞれの部屋の光のトーン。医者たちの芝居がかった演技と主人公の無表情。それぞれが実に入念に演出された作品だと思いました。 主人公に子供用の自転車を操らせるアンバランスなシーンなんて、筋運びとしては実に考えられたシーンだと思うのですが、なんともシャレていました。 この監督が、今後、どんな作品を撮るのかチョット楽しみですね。監督 クリストス・ニク脚本 クリストス・ニク スタブロス・ラプティス撮影 バルトシュ・シュフィニャルスキ編集 ヨルゴス・ザフィリス音楽 ザ・ボーイキャストアリス・セルベタリスソフィア・ゲオルゴバシリアナ・カレジドゥアルジョリス・バキルティス2020年・90分・G・ギリシャ・ポーランド・スロベニア合作原題「Mila」2022・03・23-no38・シネ・リーブル神戸
2022.03.23
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マリヤム・モガッダム 、ベタシュ・サナイハ「白い牛のバラッド」シネ・リーブル神戸 不思議な白い広場の真ん中に白い牛がします。正面には窓が横並びにあって、白い壁の建物の上に見えるのは鉄条網のようです。右と左の壁に沿って黒衣の人間が並んでいます。刑務所の中庭でしょうか。音はしません。 映画の中で、このシーンがフラッシュバックのように、何度か映し出されます。この映画を見終えて、記憶に浮かんでくるのは、まず、そのシーンでした。 主人公はテヘランの牛乳工場に勤めるシングル・マザーで名前はミナです。夫ババクは殺人罪で逮捕され、1年ほど前に死刑でなくなっているようです。遺影だけの登場です。今、彼女がともに暮らしているのは小学生の娘でビタちゃんです。聴覚障害なのでしょうか、彼女は手話で話しかけてくるのですが、最近「コーダ」という映画を見たばかりのシマクマ君は、妙に親近感を感じました。 この母と子が二人で、バス停だかのベンチに並んで座っている姿が、記憶に残った二つ目のシーンです。何気ないのですが、胸打たれるシーンでした。 ある日、裁判所に呼び出されたミナに、夫の死刑が冤罪で誤審の結果であったことが告げられます。そこからがこの映画のストーリーなわけですが、あまりに無理やりな筋運びについていけませんでした。 誤審の判決を下した判事レザが「身分」を隠してミナの元を訪れます。 「夫、バハクからの借金を返す」 偽りの理由を口にして、金を渡します。彼には悪意はありません。そのうえで住むところに困っていたミナ親子に住居を提供するなど、次々と親切の限りを尽くします。 シマクマ君としては裁判官であるレザのこの心情は理解の範疇内ですが、行動は理解できません。我々の社会のシステム運用上の常識から考えてあり得ませんね。判事として判決を下した責任性は彼一人が負うべきものではないし、負うこともできません。ここに、この映画の「なんだかなあ?」があったように思います。 一方、夫の冤罪での死を知った絶望と怒りの最中、職場の人員削減で失職したミナは、賠償金を当てにしてたかり始める夫の母や兄弟からのがれ、レザの親切にすがるのですが、彼女が心の中で求めていることは裁判で死刑判決を下した判事の謝罪でした。 やがて、ミナが恋するようになり、ビダちゃんもなついていく身分不詳の親切な男は、夫の裁判の判事であったという話なのです。 映画のサスペンスは「すべてを知っている男」と「何も知らない女」のあいだの「齟齬」、あるいは「行き違い」がいつ暴露されるのかというところにあるわけですが、設定そのものにリアリティがありませんから、見ているシマクマ君はついていけません。 で、男と女が破局をむかえた、そのあとのラストに母と子二人のバス停のシーンが映し出されます。話の筋はハチャメチャだと思うのですが、このシーンの迫力は半端ではありませんでした。 まあ、そういうシーンに対する好みもあるのですが、この映画には彼女たち母と子を追いつめてゆく社会の制度や風習に対する抗いのようなのもずっと流れていて、社会の圧力の中に座る二人のさびしい姿を映し出しているところは、やはり一見に値すると思いました。 その抗いは、この映画ではイランという社会を背景に描かれていますが、わたしたちの社会にも通用する普遍性を感じさせるものでした。 哀しい母と子を演じたマリヤム・モガッダム(ミナ)さんとアヴィン・プルラウフィ(ビタ娘)さんに拍手!でした。 刑務所の広場(?)の白い牛は、ミナの頭の中の光景だと思いましたが、あの牛が、果たして夫の象徴なのかどうか、そのあたりがなかなか後に残るところだと思いました。 監督で主演のマリヤム・モガッダムは、自らの父を死刑で失った女性で、母の名前がミナだったそうです。そのあたりも意味深ですね。監督 マリヤム・モガッダム ベタシュ・サナイハ脚本 マリヤム・モガッダム ベタシュ・サナイハ撮影 アミン・ジャファリキャストマリヤム・モガッダム(ミナ)アヴィン・プルラウフィ(ビタ娘)アリレザ・サニファル(レザ)プーリア・ラヒミサム(義弟)2020年・105分・G・イラン・フランス合作原題「Ghasideyeh gave sefid」2022・02・28-no24・シネ・リーブル神戸no145
2022.03.22
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アピチャッポン・ウィーラセタクン「メモリア」シネ・リーブル神戸 予告編の、妙に抽象的な映像と、男性なのか女性名なのかよく分からない背の高い登場人物が気になって、どうしようかと悩んだ末に、最終日ということにうながされてやってきました。 見たのはアピチャッポン・ウィーラセタクンという監督の「メモリア」という作品です。監督はタイの人らしいですが、映画の舞台は南米のコロンビアだそうです。背の高い人はティルダ・スウィントンという女優さんでした。 暗い部屋に誰かいるようで、大きな物音がして、ベッドにいたらしい人が動き始めますが、その部屋でなにが起きているのか意味不明でした。 部屋にいたのはジェシカ(ティルダ・スウィントン)という女性で、その時に彼女が聞いた「音」について調べ始めます。まあ、そういう展開の映画でしたが、その音が、どうも、彼女にだけ聴こえていることが徐々にわかり始めたあたりから、ただ、ただ、ぼんやり見続けた作品でした。 考古学者アニエス(ジャンヌ・バリバール)が解説する発掘された古代の頭蓋骨のシーンとか、実在したのかしなかったのかぼくにはよくわからなかった音響技師(フアン・パブロ・ウレゴ)による音の再現シーンとか、ジェシカが錯綜する光を映し出している壁の前で立ち止まるシーンとか、ボンヤリとながら印象に残ったシーンもあるのですが、それらが何をあらわしているのかが浮かんでこないのですからしようがありません。 とどのつまりは、ジェシカが想起する記憶、あるいは脳内の意識が、個を越えて、時間を越えて、宇宙的な広がりの中の断片であるかのようなシーンになるのですが、ぼくの中で、動くものはありませんでした。 脳内で、その人独自の「音」を聴くということは、現実にあることのようですが、その現象に対して、ある種の共有感、リアル感が、全く湧いてこなかったぼくのような人間には、この映画は、単に意味不明としか言いようがないのでしょうね。チラシには「圧倒的」な「音」というキャッチ・コピーの文句がありますが、シマクマ君には、なにが、どう、「圧倒的」だったのかがよく分かりませんでした。 異様に眠い映画でしたが、眠り込むこともなく見続けました。で、最後に宇宙船のようなものが飛び去ったシーンには、マジ、のけぞってしまいました。「どうしてこうなるのだ!?」 入場に際していただいたはがきです。困ったことに、この写真を見直しても、シマクマ君の頭の中に浮かんでくるのは「ボンヤリ」と意味をなさない困惑です。 いやはや、何とも言えない映画体験でした。寝こんでてしまわずに最後まで見たシマクマ君に拍手!でした(笑)。監督 アピチャッポン・ウィーラセタクン脚本 アピチャッポン・ウィーラセタクン撮影 サヨムプー・ムックディープロムキャストティルダ・スウィントン(ジェシカ 頭の中で音がする人)エルキン・ディアス(記憶を所有する謎の男)ジャンヌ・バリバール(考古学者アニエス)フアン・パブロ・ウレゴ(謎の音響技師)2021年・136分・G・コロンビア・タイ・イギリス・メキシコ・フランス・ドイツ・カタール合作原題「Memoria」2022・03・17-no36・シネリーブル神戸no144
2022.03.21
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マイケル・ドウェック グレゴリー・カーショウ「白いトリュフの宿る森」シネ・リーブル神戸 北イタリアの山岳地帯に「白トリュフ」という珍味で有名なキノコの産地があるそうです。トリュフといわれても食べたことも見たこともないのですから、この映画の中で「ああ、いい香りだ」と言葉でいう人や、陶酔した表情を浮かべる様子を撮ったシーンが繰り返し映るのですが、なんの感慨もわきません(笑)。 調べてみるとお値段は5グラム、5000円とかの代物らしくて、ぼくがご飯にふりかけてお醤油をかけて食べるのが好きな、パックに入った鰹節が1パック5グラムだそうだからシャレになりません。 なんで、そんな映画を見に来たかというと、予告編を見ていて老夫婦がテーブルの上に完熟トマトを山盛りにして座っているシーンがあったのですが、その様子が妙に気に入ってしまったからでした。 見たのはマイケル・ドウェック とグレゴリー・カーショウという二人の共同監督のドキュメンタリーで「白いトリュフの宿る森」でした。 山の斜面を上空から映し出していて、犬と人がよじ登る様子が雑木の中に見えるシーンから映画が始まりました。岩山ではなくて緑の美しい「里山」という光景です。山の斜面を犬が、落ち着きなく行ったり来たりして、人がゴソゴソ這いまわってるようです。 そこから、北イタリアの田舎の村の犬と老人の映画でした。原題が「The Truffle Hunters」のようなのですが、スクリーンに登場する老ハンターたちは、どなたも映っている姿を見ているだけで「なんか、いいなあ、いいんじゃない!」と納得させられる表情と動きでした。 上のチラシの写真の犬と爺さんは、90歳を過ぎて独り暮らしになっているアウレリオ爺さんと、彼の愛犬です。悔しいことに、この愛犬の名前が、映画の中で何度も名前が呼ばれていたにもかかわらず、映画館を出ると全く思い出せません。犬の種類とかよく分かりませんが、ご覧の通り、ちょっと大型のプードルで、トリュフ探しの名犬らしいのですが、一緒に食事をしている姿や、この写真のように話しているシーンが、何ともいえずいいのです。 アウレリオ爺さんは、自分が死んでしまったあとの愛犬のことが心配でならないのですが、実際に「譲ってほしい」とやって来た人には、相手の子どものことを引き合いに出した名セリフ(まあ、ぼくがそう思っただけですが)で煙にまくシーンなどは、ドキュメンタリーなのにセリフを仕込んだんじゃないかと疑いたくなるほどドラマティックです。 期待していたトマトのシーンの男女はカルロ・ゴネッラという爺さんとその奥さんでした。部屋の灯りに輝く完熟のトマトの美しさもさることながら、奥さんがトマトをボール水で洗って、夫のカルロがテーブルに積み上げていくという、ただそれだけのシーンでした。そこにカルロがいる必要があるのかどうか、奥さんの仕事を手伝っているのか邪魔しているのかよく分からなようなシーンなのですが、奥さんの方が大柄で、ちょっといかつくて、カルロが童顔なのが何とも言えない味わいでした。 奥さんは、カルロが夜のうちから山に入って、相変わらずトリュフに夢中になっているのが心配でなりません。で、二人が話し合うシーンがありました。「もう、年金をもらっている年なんだから。」「この前みたいに山でケガをしたり、なんかあったら他の人に迷惑をかけるから。」「今まで、さんざん好きにしてきたんだから」説得の言葉をあれこれ繰り返し口にするのですが、「怪我をして痛いのは俺なんだから」とか、なんとか、カルロには馬の耳に念仏です。 映画は奥さんの目を盗んで、こっそり窓から抜け出すカルロと喜んでまつわりつく愛犬のシーンで終わりますが、今まで見たどんなドキュメンタリーにもなかったハッピーエンディングでした。最高でしたね。 そういえば、雑木の中でトリュフを探し回って、道に下りてきたアウレリオ爺さんが、山のなかではぐれた愛犬に呼びかけるシーンがありました。「オーイ、〇〇!お父さんはもう帰るよ。早く下りておいで。」 と、まあ、親子の会話なのですが、そこからしばらくたったシーンで山に行ったカルロに家の窓から奥さんが叫びます。「カルロー、カルロ―、早く帰っていらっしゃい。もう、食事の時間よぉー」 かたや90歳を超えた爺さんと愛犬、かたや、たがいに90歳になろうかという婆さんとその夫です。 斯くして人生の夕暮れは暮れていくのでした。爺さん、婆さん、愛犬たちに拍手!でした。 で、トリュフについて分かったことですが、ちょっとジャガイモか生姜のような塊で、生のままパスタとかに薄くスライスして食すのだそうです。豚が探すのかと思っていましたが、犬が探すようです。おいしいんですかね?(笑)監督 マイケル・ドウェック グレゴリー・カーショウ製作 マイケル・ドウェック グレゴリー・カーショウ脚本 マイケル・ドウェック グレゴリー・カーショウ撮影 マイケル・ドウェック グレゴリー・カーショウ編集 シャーロット・ムンク・ベンツェン音楽 エド・コルテスキャストカルロ・ゴネッラとその妻アウレリオ・コンテルノと愛犬アンジェロ・ガリアルディセルジオ・コーダ2020年・84分・G・イタリア・アメリカ・ギリシャ合作原題「The Truffle Hunters」2022・03・03-no27・シネ・リーブル神戸no141
2022.03.05
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ブレイク・エドワーズ「ビクター・ビクトリア」シネ・リーブル神戸 「愛しのミュージカル映画たち」の第4弾はブレイク・エドワーズ監督の「ビクター・ビクトリア」でした。今回のライン・アップの中でこの1本だけが80年代の作品でした。主演はジュリー・アンドリュースです。マリリン・モンロー・ジュディ・ガーランド、グレース・ケリーとかなり若くして不幸な最期を遂げた女優さんたちが続いたのですが、彼女は80歳を超えてお元気のようです。最近ではアニメ映画の声優とかなさっていて、作品は忘れましたが、どこかでお声を聴いた記憶があります。 シマクマ君にとっては、なんといっても「メリー・ポピンズ」と「サウンド・オブ・ミュージック」の人です。シマクマ君は田舎者ですから、高校生くらいまで、あまり映画を見た記憶がありませんが、「サウンド・オブ・ミュージック」は、学校の体育館で見たことがある気がします。学校の体育館!ですよ。 で、この作品ですが、それらの作品よりずっと後に作られた作品で、監督のブレイク・エドワーズは彼女のご亭主で、まあ、この監督さんは、ぼくの中では、オードリー・ヘップバーンの「ティファ―二―で朝食を」とか、トニー・カーティス、ジャック・レモンの「グレート・レース」の人です。「ピンク・パンサー」もそうだったっけ、っていう感じですね。 新しい旦那さんが、奥さんのために「新境地」を開拓しようと作ったミュージカル・コメディといった趣で、結構面白い作品でした。 1930年代のパリのナイトクラブが舞台で、ゲイを売り物にしているトディー(ロバート・プレストン)という、もう薹が立った感じの芸人さんと、オペラ歌手を夢見ているソプラノ歌手ビクトリア(ジュリー・アンドリュース)が組んで、ポーランドからやって来た「男装の麗人」ならぬ「女装の紳士」という設定で、「ビクトリア」を「ビクター」で売り出そうという、ドタバタ・ラブ・ロマンスでした。 何オクターブも発声できるジュリー・アンドリュースの声のすごさが、映画の肝で、一番高いソプラノの音で歌えば客が手にしているグラスもワイン・ボトルも砕け散る(本当に)というオチがついています。 戦前のパリのナイト・クラブといえば、ムーラン・ルージュが思い浮かびますが、この映画に赤い風車が出てくるわけではありません。しかし、映画の中ではナイト・クラブの出し物の猥雑さはかなり追及されていて、そこらあたりも面白さの一つでした。 ただ、ジュリー・アンドリュースという女優さんが、たとえば、この作品ではマフィアのボス(ジェームズ・ガーナー)と恋に落ちるという、かなり色っぽくてセクシーな役柄なのですが、なぜか「サウンド・オブ・ミュージック」の「マリア」に見えてしまうのには困りました。 彼女の声を聴くと反射的に浮かんでしまうぼくの思いこみもあるのでしょうが、歌い方だけじゃなくて、彼女の姿が持っている雰囲気が、どこか真面目なのですね。この「愛しのミュージカル映画たち」のシリーズで、今日まで、歌を歌い、恋する乙女を演じる女優さんを5人立てつづけてみてきましたが、役柄のせいだけではないその人らしさというのがそれぞれにあることがよく分かって勉強になりますね。 で、この作品の拍手はというと、端役のグレアム・スタークという方ですね。レストランのウェイターの役なのですが、味のある演技で笑わせてくれます。笑いどころはほかにもあるのですが、なかなか、忘れられそうもない無表情が拍手!でした。監督 ブレイク・エドワーズ製作 ブレイク・エドワーズ トニー・アダムス脚本 ブレイク・エドワーズ撮影 ディック・ブッシュ美術 ロジャー・マウス音楽 ヘンリー・マンシーニ振付 パディー・ストーンキャストジュリー・アンドリュース(ビクター・ビクトリア)ジェームズ・ガーナー(マフィアのボス・キング)ロバート・プレストン(ゲイの歌手・トディー)レスリー・アン・ウォーレン(キングの色・ノーマ)アレックス・カラス(スカッシュ)ジョン・リス=デイヴィス(カッセル)ピーター・アーン(ラビス)マルコム・ジェイミソン(リチャード)グレアム・スターク(ウェイター)1982年・133分・G・アメリカ原題:Victor/Victoria配給:東京テアトル日本初公開:1983年1月22日2022・03・04-no28・シネ・リーブル神戸no140
2022.03.05
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チャールズ・ウォルターズ「上流階級」シネ・リーブル神戸 「愛しのミュージカル映画たち」の第3弾は、昨日の「イースター・パレード」のチャールズ・ウォルターズ監督の「上流階級」という映画です。毎回なんの予備知識も仕入れず見ていますが、画面にグレース・ケリーが出てきてのけぞりそうになりました。 「上流階級って、あんた、これやとドキュメンタリーやん。」 さすがのぼくでも、彼女がモナコかどこかの王様に見初められ(?)て、王妃になったことくらいは知っていましたが、この映画が映画スターだった彼女の最後の作品だったことは、もちろん知りませんでした。 話は映画と関係ありませんが、ここまで見て来たモンローやジュディ・ガーランドと同様に、彼女もまた最後が不幸だった人ですよね。まあ、偶然でしょうが、今回の企画の次の女優さんが誰なのか、ちょっと気になりますね。 で、映画ですが、不思議な演出(?)で、映画会社のライオンや、出演者のタイトルがあらわれる前に、実に長々と前奏の音楽が流れます。画面は暗いままで、たぶん1分や2分ということはなかったと思いますが、なんの意味があったのかぼくにはわかりませんでした。 で、サッチモこと、ルイ・アームストロングのしゃべりと演奏で映画は始まります。彼がこの作品の進行役というわけです。なんか、贅沢な設定です。 ジャズ・ミュージシャンのデクスター(ビング・クロスビー)とスキャンダル雑誌のトップ屋マコーリー(フランク・シナトラ)、堅物の実業家ジョージ(ジョン・ランド)が、美貌の令嬢サマンサ(グレース・ケリー)を巡って、どっちかというとシッチャカメッチャカのラブ・アフェイアを繰り広げますが、ようするにビング・クロスビーとフランク・シナトラとグレース・ケリーのための映画で、サッチモは盛り上げ役でした。 もっとも、グレース・ケリーこそ20代ですが、後の二人はおっさんです。だから、まあ、「後は段取りなわけ」ってことでしょう。それでも「シナトラが若いなあ」とは思いましたが、それは今見るからでしょうね。 ちょっと、おっさん映画という気がしました。いかにも1950年代のハリウッドの大物映画という印象でした。まあ、ビング・クロスビーとかシナトラの歌とかに興味が湧かないからでしょうね。まあ、そのあたりは好き嫌いなのでしようがないですね。 ルイ・アームストロングの演奏と表情、妹キャロライン役だったリディア・リードに拍手!でした。監督 チャールズ・ウォルターズ製作 ソル・C・シーゲル原作 フィリップ・バリー脚本 ジョン・パトリック撮影 ポール・C・ボーゲル音楽 コール・ポーターキャストビング・クロスビー(C・K・デクスター=ヘヴン 音楽家・前夫)グレース・ケリー(トレイシー・サマンサ・ロード お金持ちの令嬢)フランク・シナトラ(マコーリー・コナー雑誌記者)ルイ・アームストロング(ルイ・アームストロング ジャズメン)セレステ・ホルム(エリザベス・インブリー雑誌記者) ジョン・ランド(ジョージ・キットリッジ新夫)リディア・リード(キャロライン・ロード妹)1956年・111分・G・アメリカ原題「High Society」配給 東京テアトル日本初公開 1956年10月20日2022・03・02-no26・シネ・リーブル神戸no139
2022.03.02
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チャールズ・ウォルターズ「イースター・パレード」シネ・リーブル神戸 「愛しのミュージカル映画たち」の第2弾はチャールズ・ウォルターズ監督の「イースター・パレード」でした。フレッド・アステアとジュディ・ガーランドです。 フレッド・アステアといえば「ザッツ・エンタテインメント That's Entertainment!」(1974)で初めて見たことは憶えています。 で、たしか、同じころの「タワーリング・インフェルノ」で、妙に記憶に残る詐欺師のじいさんだったような気がしますが、この人が歌って踊っている作品を1本まるまる映画館で見た記憶はありません。歌って踊っている姿をスクリーンで見るのは、今日が初めてでした。 「ザッツ・エンタテインメント That's Entertainment!」が封切られた当時、小林信彦や和田誠がアメリカ映画ネタのコラムで、ハリウッドのミュージカル映画とかを話題にしていたのを読んで、頭の中で想像はしていましたが、初めてスクリーンで見て納得しました。滑るように動くタップダンスの軽快さはスクリーンで見ないと体感できませんね。 女性と踊るシーンももちろんですが、映画が始まって早々のシーンですが、おもちゃ屋の店内で縫いぐるみのウサギを巡って少年と掛け合うシーンには、まあ、そういうふうに作られているとは思うのですが、いきなり鷲づかみされた気分で、目と耳はくぎ付けでした。「イヤーぁ、スゴイなあ、スゴイなあ。」 で、お相手はジュディ・ガーランドでした。ジュディ・ガーランドといえば「オズの魔法使い」というパターンが定番で、ぼくもそうですが、先日のマリリン・モンローもそうでしたが、今となってみれば、彼女も若すぎる、あんまり幸せでない最後を迎えた人という記憶が先に浮かんでしまいます。でも、映画では違いました。 スクリーンの彼女は溌溂として若々しくて、歌もダンスも堪能させてくれるのですが、演技の表情がまっすぐな印象ですばらしいですね。 最後の劇中ショーの町の風来坊二人組の演技なんて、「ブロードウェイだろうが、なんだろうが、そりゃあ、ウケるわな」とブロードウェイなんて知りませんが、納得でした。 見終えて、ただ一つ、引っかかったことをいえば、ハンナ・ブラウンを演じたジュディ・ガーランドはどう見ても20代の田舎からやって来た娘ですが、彼女が恋する師匠でもあり相方でもあるドン・ヒューズ(フレッド・アステア)は、どう若く見ても50代なのですね。密かに、いや、告白もしますが、横恋慕するジョニー(ピーター・ローフォード)は20代のハンサムボーイです。 「フレッド・アステアのダンスの凄みはともかく、ここでハンナがこのおっさんにほれるかな?」 恋に年の差をいうのは野暮とはいうものの、ちょっと、そう感じてしまいました。 で、帰ってきて調べてみると、この作品は1948年の封切りですが、ジーン・ケリー、「雨に歌えば」のあの人ですね、が主役で始められたらしいのですが、彼が骨折かなんかしてしまったために。急遽アステアが代役で出たんだそうです。アステアは1899年生まれで、このとき50歳ですが、ジーン・ケリーは1912年生まれ、今でいうならアラフォーですね。恋の相手としてはこの年の差は大きいですね。 ジーン・ケリーとジュディ・ガーランドの「イースター・パレード」、想像すると、これまたワクワクしますね。 調べたついでに気づいたのですが、「ザッツ・エンタテインメント」で、今思い出す女性のスターはライザ・ミネリですが、彼女はジュディ・ガーランドの娘さんなのですね。いやはや、アメリカのエンターテインメントの世界はスゴイですね。 まあ、それにしてもジュディ・ガーランドとフレッド・アステアには拍手!拍手!でした。 ところで、この企画は、それぞれの回の先着??名に絵葉書が配られていて、最初の写真はその絵はがきです。古いポスターの絵柄のようですが、ちょっと嬉しいので、ブログの写真で使いたいと思います。(笑)監督 チャールズ・ウォルターズ製作 アーサー・フリード脚本 シドニー・シェルダン音楽 アーヴィング・バーリン音楽監督 ジョニー・グリーン撮影監督 ハリー・ストラドリング編集 アルバート・アクスト美術 セドリック・ギボンズ、ジャック・マーティン・スミス装置:エドウィン・B・ウィリス衣裳:アイリーン、ヴァレス録音:ダグラス・シアラーキャストジュディ・ガーランド(ハンナ・ブラウン)フレッド・アステア(ドン・ヒューズ)ピーター・ローフォード(ジョナサン・ハロウ3世 通称ジョニー)アン・ミラー(ナディーン・ヘイル)ジュールス・マンシン(フランソワ)1948年・103分・G・アメリカ原題「Easter Parade」配給:東京テアトル日本初公開 1950年2月14日2022・03・01-no25・シネ・リーブル神戸no138
2022.03.01
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ホン・ウィジョン「声もなく」シネ・リーブル神戸 半月ほど前の予告編で妙に気になっていたいた映画でした。ポスターのお二―ちゃんの顔を、どこかで見たことがあると思うのですがわかりません。「どうしようかなあ・・・」「でも、この子役おもろそうやん。」 最終日に決断(そんな、おおげさな!)してやってきました。ホン・ウィジョン監督の「声もなく」です。 で、わかりました、この青年は「バーニング」で自動車に火をつけて焼いたあいつです。あのの映画の主役ジョンス青年を演じたユ・アイン君が今度は自転車に乗っていました。 韓国ではトップ・スター(?)の一人らしいのですが、まあ、そのあたりが全く分かっていないのがシマクマ君です。 で、そのユ・アイン君が丸刈りにして挑んだ役柄が、耳は聴こえるようなのですが、口をきくことができない青年テイン君です。 どうも妹ムンジュ(イ・ガウン)と二人、親のいない孤児の兄妹だったようなのですが、チャンボク(ユ・ジェミョン)という、足の不自由な中年男に拾われて暮らしているようです。 で、このチャンボクというおっさんですが、表向きは「卵売り」で生活していますが、実は犯罪組織の死体処理というのが正業で、その手伝いをしているのがテイン君なのでした。 お話は、その下請け業者の二人に、雇い主の犯罪組織の方から誘拐してきた少女チョヒ(ムン・スンア)ちゃんを預かれという、まあ、考えてみれば何となくごまかしのききそうな下請け仕事ではなくて、直接犯罪に加担する仕事が舞い込んでしまい、断るに断れないまま誘拐事件の共犯になってしまうのですが、今度は、本家の犯罪組織の仲間割れで、誘拐事件は空中分解してしまい、引き取り手がなくなった少女チョヒちゃんだけが手元に残るというドタバタな展開の中の下請け犯罪者の悲哀(笑)を描いたかのような展開です。で、これがなかなかの映画なのでした。だと思いました。 まず、テイン青年の、口がきけないのですから当たり前ですが、無言の表情がすばらしいのです。無言の青年と二人の少女がゴミ屋敷のような棲家での生活のなかで、互いのコミュニケーションを成り立たせていく様は胸を打ちました。 もう一つ、この作品の演出の不思議は、死体の片づけなどという、まあ、重労働(?)を終えて、テイン青年が少女チョヒちゃんを自転車に載せて、妹ムンジュちゃんの待つ村はずれの棲家に帰る夕暮れの空が、チラシの写真のような絵にかいたような茜色なのです。偶然、夕焼けだったといってしまえばそれまでですが、たしか(ちょっとあやふやですが)一度ならず美しい夕暮れを映し出すことで、この作品が単なる犯罪映画ではないことを感じさせました。 この作品の、英語の題名は「Voice of Silence」だそうですが、「沈黙のことば」と直訳した方が、映画の中のテイン青年の哀しさを正しく言い当てている気がしました。 完成度では及びませんが、是枝裕和監督の「万引き家族」に似たテイストを感じました。監督のホン・ウィジョンという人は1982年生まれの女性らしいですが拍手!ですね。コントロールが少々甘い気はしましたが、いきなり剛速球でした。次の作品が楽しみな監督だと思いました。 テイン青年役のユ・アイン、そして二人の少女にも、もちろん拍手!でした。特にチョヒを演じたムン・スンアという少女のしたたかな演技は子供のすることとは思えない小癪さで、拍手!拍手!でした。 イヤ、ホント、見逃さなくてよかった、よかった。韓国映画は若い人もすごいです(笑)。 監督 ホン・ウィジョン製作 キム・テワン脚本 ホン・ウィジョン撮影 パク・ジョンフン編集 ハン・ミヨン音楽 ヒョクジン チャン・ヨンジンキャストユ・アイン(テイン・口のきけない青年)ユ・ジェミョン(チャンボク・おっさん)ムン・スンア(チョヒ・人質の少女)イ・ガウン(ムンジュ・幼い妹)イム・ガンソン(ヨンソク)チョ・ハソク(チョンハン)スン・ヒョンベ(スンチョル)ユ・ソンジュ(イルキュ)2020年・99分・G・韓国原題「Voice of Silence」2022・02・17-no20・シネ・リーブル神戸no136
2022.02.26
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ジャンフランコ・ロージ「国境の夜想曲」シネ・リーブル神戸 ジャンフランコ・ロージ監督の「国境の夜想曲」という作品を見ました。3年以上の歳月をかけ、イラク、シリア、レバノン、クルディスタンの国境地帯を、一人で旅しながらこの映画を撮影した作品だそうです。 ジャンフランコ・ロージという監督の作品は、もちろん初めてでした。ナレーションだったか字幕だったか覚えていませんが、上に書いた作品の制作過程が、少しだけ解説されて、ドキュメンタリーだと気づきました。 兵士でしょうか、小隊ごとに掛け声をかけながらランニングしているシーンで始まりました。夕暮れ時の練兵場のようです。繰り返し聴こえてくるかけ声と足音が耳に残りました。 国境の要塞。女たちの集まる集会所。たむろする兵士。子供たちのあどけないおしゃべり。葦がうっそうと茂っている水辺に小さな船を出す男。男が撃ち落とした獲物を少年が犬のように探しに走る狩場。 朝まだきの薄闇の中の輝く水平線。日が落ちてだんだん暗くなっていく夕暮れ。その向こうに、少し明るさの残っている地平線。 黄昏時っていいますが、まさしく「たそがれ」、「誰ぞ彼(たそがれ)」、「彼は誰(かはたれ)」の中に少年が立っています。 映像が、ただの羅列、イメージの重ね合わせに見えてコンテキストがとらえきれません。そんなふうな困惑の中で見ていたのですが、どこかの国境シーンを見ながら、ハタと膝を打ちました。「カメラの主が旅をしているんだ。」 国境から国境へ旅を続けている人間がいて、彼だか、彼女だかが、漫然とではなく、「ああ。これは!」と思ったシーンが映像に残されているようです。 そこには継続的な時間の流れはありません。夕暮れ、夜明け、「たそがれ」の光景が、時間の流れを断ち切ったかのような美しさで映し出されますが、同時に不安が刻まれていくシーンが繰り返しあらわれてきます。 たとえば、ポスターにある印象的な少年の表情は、映像としてみる限りは、一瞬にして過去のものになっていくのですが、旅を終え、映像を編集している監督自身の脳裏に、フラッシュバックのように浮かぶ光景の中に、少年の目の哀しさが際立っていたことは間違いないことだと思いました。 息子の死を嘆く女たちの愁嘆。自動小銃がおもちゃのような子供たちの日常。家族を人質にとられた女の叫び。隊列を組みグランドを走る兵士。 犬になって今日の食い扶持を稼ぐために道端に立つ少年の目が見ていたのは「未来」なのでしょうか。映画を見終えた夕暮れの帰り道、繰り返し、繰り返し、浮かんでくるのは少年の眼差しでした。平和な町のたそがれを歩いていながら、あの少年になんと声をかければいいのか、そんな、どうにもならない苛立ちも浮かびます。 ただでさえ、世界はこんな様子だというのに、戦争を始める権力者がいて、いいの、悪いのと、陰謀論だの、地政学だのを口にする、他人事に浮かれる陽気な世界があります。 「どんな場所でも、どんな夜でも、必ず朝は来る」のでしょうか。 カメラ一つ持って、国境から国境へ、おそらく命がけで歩いたジャンフランコ・ロージというイタリア人に拍手!でした。 それから、今も道端に立って遠くを見つめている少年たちに拍手!です。監督 ジャンフランコ・ロージ撮影 ジャンフランコ・ロージ編集 ヤーコポ・クアドリ ファブリツィオ・フェデリコ2020年・104分・イタリア・フランス・ドイツ合作原題「Notturno」2022・02・12-no17・シネ・リーブル神戸no135
2022.02.17
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トム・マッカーシー「スティルウォーター」シネ・リーブル 1月の終わりごろシネ・リーブルでチラシをもらって帰ってきてチッチキ夫人に見せました。「マット・デイモンやん。」「有名なんか?」「そうね、知らんっていうたら、ピーチ姫に無視されるくらいかなあ。」「プライベート・ライアン?」「それはトム・ハンクス。でも、出てたかも。オーシャンズ11が有名かなあ?」「それはブラピとクルーニーちゃうんか。」「あの映画、有名人、たくさん出てるやん。」「ああ、なんか思い出したで。アダム・ドライバーいうやつと決闘してたなあ。あんた見てへんやつ。」 というわけでシネ・リーブルにやって来ました。見たのはトム・マッカーシー監督の「スティルウォータ」です。 黄色い(?)ドアが映っていて、そのドアが引きはがされて、だんだんシーンが広がっていくと、地域一帯が廃墟で、オクラホマを襲ったハリケーンの被災地だということがわかっていきます。題名の「スティルウォーター」というのはオクラホマ州の町の名前のようです。帰って調べてみると、アメリカのほぼど真ん中の町でした。京都の亀岡市と姉妹都市だそうです。 被災地の後片付けの仕事をしているのがビル・ベイカー(マット・デイモン)でした。いかにもトランプを支持しそうな白人の肉体労働者ですが、犯罪歴のために投票権をはく奪されています。高校中退、アルコール中毒、服役、妻の自殺、母を失ったあと祖母に育てられた娘アリソン(アビゲイル・ブレスリン)は留学先のフランス、マルセイユで服役中。容疑は殺人。同棲していた同性愛の恋人を殺した容疑です。こうして、映画を見ながら分かったことを書き上げていくと最悪(?)の人生を歩んでいる男がビル・ベイカーです。 男は食事の度に娘アリソンの幸せを祈る祈りをあげます。娘に去られた男はアルコールや薬物をやめ、更生を誓って働いているのです。その男が娘との面会のためにマルセイユにやってくるところから映画は動き始めました。 マルセイユにやって来たビルですが、言ってしまえば場日ガバ日やらわからない世界に放り込まれた感じです。まず、言葉が通じません。娘とは会えますが、彼女が弁護士あてに書いて、男に託した短いフランス語の手紙すら読めません。娘は冤罪を訴えているのですが、父親にその話はしようとしません。娘から見た父親はその程度のやつなわけで、そこがこの映画の肝の一つかもしれません。手紙を読んだ弁護士は娘の冤罪の訴えに取り合いませんが、彼は自分には話してくれない娘の無実を信じて行動しはじめます。 結果的に、殺人に手を下したアラブ系の男性の存在が実証され、父は娘を連れてスティルウォータに帰ってきます。こう書くと、あたかもハッピーエンドの結末であったかのようですが、果たしてどうでしょう。そのあたりは見ていただくほかありません。 記憶に残った最も美しいシーンがあります。マルセイユに到着直後、ビル・ベイカーが泊まった木賃宿の廊下で部屋に入れないで座りこんでいるマヤ(リロウ・シアウヴァウド)という少女との出会いのシーンです。まあ、おじいさんはこういうのに弱いのです(笑) シングル・マザーで、売れない舞台女優の母ヴィルジニー(カミーユ・コッタン)と暮らしている小学生のマヤちゃんは鍵を持たされていないために自室から締め出されていたのですが、言葉も分からないビルがフロント・カウンターに掛け合うシーンです。 ヨーロッパ社会の経済格差や人種的混沌の坩堝のような安宿の廊下で見せたアメリカの肉体労働者のふるまいは、実際、自分もどうしていいかわからな境遇なのですが、まっとうに生きるということはどういうことなのかということをストレートに表現していてグッときました。 このシーンもそうなのですが、この映画の中でのマット・デイモンの演技は、一昔前なら「男らしいってわかるかい」といって称賛されていた存在感の表現から、マッチョな「男らしさ」を捨てることでうまれる、まあ、なんというか、哀しみにあふれていると思いました。 アメリカの貧困の深部からヨーロッパの暗部を旅して帰ってくる男は「行かなくちゃ」とは思っていても、「行きたかった」わけじゃなかったかもしれません。ただ、ここにじっとしていられなかったことは確かです。娘から見ればカス野郎かもしれないのですが、父親なのですから。 自分はダメな父親だけれど、世界はまともかもしれないと思っていたかもしれません。娘を救えるかどうかも、気持ちだけが先走った賭けだったかもしれません。で、たしかに賭けには勝ったはずなのです。オクラホマの世間は大騒ぎして浮かれています。 が、やっぱり、男には世界はクソで、生きていくことが哀しいだけなんです。彼はきっと、握りこぶしをもう一度握りしめながらこう思ったんじゃないでしょうか。「明日から、オレは、何を祈ればいいのだろう。」 まあ、適当なまとめで申し訳ありませんが、そんな男を見事に演じたマット・デイモンに拍手!でした。「最期の決闘裁判」では覚えられなかった彼を今回はしかと記憶したはずです。 それから、ビル(マット・デイモン)に懐いたマヤちゃん(リロウ・シアウヴァウド)、と彼女のママ、ヴィルジニー(カミーユ・コッタン)にも拍手!でした。悪くない親子でしたが、ママはちょっと苦手かもです。 現代のアメリカ社会とヨーロッパ社会を交差させることで、分厚い現代世界を見せてくれた監督トム・マッカーシーにも拍手!ですね。なんか、とても勉強になりました(笑)。監督 トム・マッカーシー脚本 トム・マッカーシー マーカス・ヒンチー トーマス・ビデガン ノエ・ドゥブレ撮影 マサノブ・タカヤナギ美術 フィリップ・メッシーナ編集 トム・マカードル音楽 マイケル・ダナキャストマット・デイモン(ビル・ベイカー 父)アビゲイル・ブレスリン(アリソン・ベイカー 娘)カミーユ・コッタン(ヴィルジニー シングル・マザー)リロウ・シアウヴァウド(マヤ 娘)ディアナ・ダナガン(シャロン)イディル・アズーリ(アキーム)アンヌ・ル・ニ(レパーク)ムーサ・マースクリ(ディロサ)ウィリアム・ナディラム(パトリック)2021年・139分・G・アメリカ原題「Stillwater」2022・02・08-no14・シネ・リーブルno134
2022.02.13
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ヤン・ゴズラン「ブラックボックス 音声分析捜査」シネ・リーブル神戸 コロナ騒ぎでとんでもない数字がネット上に踊っています。とはいいながら、家でじっとしているのはやはり耐えられなくて久しぶりにやって来たシネ・リーブル神戸でした。見たのはフランスのミステリーで、ヤン・ゴズランという監督の「ブラックボックス音声分析捜査」です。 飛行機が墜落した後、飛行データや操縦室のやり取りを録音した、昔でいえば録音テープのことを「ブラックボックス」というのだそうです。その「音」の分析をする分析官が主人公マチュー・ヴァスール(ピエール・ニネ)で、最新型のジェット旅客機の墜落事故の真相を雑音の中から見つけ出すというストーリーでした。 なかなか、面白かったのですが、なんと、一番大事なところを聴き落してしまったようで、映画が結末を迎えたにもかかわらず「えっ?マチューはどうなったの?」とトイレを我慢しながらエンド・ロールを呆然と眺めている始末で、帰宅するや否や叫んでしまいました。「アンナ、主人公がどうなったかわからんかってん!」「ええー、また寝てたんちゃウの」「いや、なかなか緊迫したシーンの連続で、寝てなんかおられへんかったわ!」「じゃあ、面白かったんやん」「うん、でもな、最後がわかれへんかってん」 悔しながら、監督の意図的な策略に引っ掛かったようです。というか、映画というのは目を開けて見ていればわかると思っていたらしくじるように作られていたようです。 この映画は、ずっと雑音の中から真相を聞き出す、ちょっと尋常ではない耳の持ち主の主人公の姿を追い続けている作品で、見ているこちらも、主人公と一緒に、くりかえしノイズを聴き続けながら主因行に同化していくパターンで見ているこっちを引き込んでいきます。とはいうものの、雑音ばっかり聴いていると、いい加減飽きてしまうわけです。ところが最後の最後に、こっちが聞き耳を立てていないとわからなくなってしまうトリックだったのですね。 でもまあ、仕方がないですね。悔しながらよくできていました。監督ヤン・ゴズランと狂気と見まごう孤独な分析官マチューを、まさに迫真の演技で演じたピエール・ニネに拍手!でした。 これからご覧になる皆様に老爺心から申し上げます。この作品は「見る」ことはもちろんですが、耳を澄ませて「聴く」映画ですよ!「真実を聴き逃すな!」 チラシの裏面にちゃんと書いてありました。これって客向けの命令だったのです。トホホ(笑)監督 ヤン・ゴズラン脚本 ヤン・ゴズラン シモン・ムタイルー ニコラ・ブーベ=ルブラー撮影 ピエール・コットロー美術 ミシェル・バルテレミ編集 バランタン・フェロン音楽 フィリップ・ロンビキャストピエール・ニネ(マチュー・ヴァスール:音声分析官)ルー・ドゥ・ラージュ(ノエミ・ヴァスール:妻)アンドレ・デュソリエ(フィリップ・レニエ:)2021年・129分・G・フランス原題「Boite noire」2022・02・02-no13・シネ・リーブル神戸no133
2022.02.03
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ジョン・シャインフェルド「チェイシング トレイン」シネ・リーブル神戸 「ジャズ史上最大のカリスマ」ジョン・コルトレーンの生誕95周年だそうで、彼の誕生から、死までを追ったドキュメンタリーでした。「95周年って、記念するんですかね?」とか思いましたが、手際よくまとめられた「ジョン・コルトレーン小伝」という感じで、挿入される音楽がBGMふうに扱つかわれている感じが物足りませんでしたが、勉強になりました。 とは言いながら、一番驚いたことは、いかにもアホな話なのですが、コルトレーンは1967年に亡くなっていたということに初めて気づいたことでした。 モダン・ジャズなんて聞いたこともない田舎者が20歳で神戸にやってきて、ステレオの装置を手に入れ、最初に買ったLPレコードの1枚が「ジャイアント・ステップス」だったことをよく覚えています。ちなみに、もう一枚は、ボブ・ディランの二枚組、発売されたばかりの「偉大なる復活」でした。 ジャズとは喫茶店で出会いました。三宮の生田筋にあった「ピサ」とか、よく覚えていないのですが「さりげなく」とか「木馬」とかいうお店があったと思います。西宮の北口に「デュオ」という喫茶店もあって、ずっと後のことですが、村上春樹を読んでいて、この名前と出会って、「おおー!」と思いましたが、東京の新宿だかにある、同じ名前のお店の話で、「なんだ、ちがうのか。」でした。 その当時、ジャズ喫茶というのは一人でウロウロするタイプの少年(?)には、なかなか居心地のいい場所だったのですね。 学校にフィットしないまま、名画座とジャズ喫茶を居場所にして暮らしていた記憶ですが、その頃「コルトレーンがいいな」って思ったようです。 でも、その時、彼が、すでにこの世の人ではないということには気付いていなかったことに、映画を見ながら気付いて愕然としました。 その後、映画にも出てきましたが、アリス・コルトレーンがピアノを弾いている、フリー・ジャズそのものというLPを、買ったか借りたかして聴いたときに、「ああ、コルトレーンは死んだんだな。」って思ったことは憶えていますが、それは、その頃の5年くらい後の記憶なのです。なんのことはない、その音楽に入れ込み始めた初めっからコルトレーンはこの世にいなかったんです。一体、何を考えて入れ込んでいたんでしょうね。まあ、そういうことを、次々と思い出させる映画でした。 一方で、年を取ったソニー・ロリンズとか、カルロス・サンタナが出てきて、いろいろ嬉しかったのですが、大統領だったビル・クリントンが出て来たときにはのけぞりそうになりました。 それでもやっぱり、映像のなかのジョン・コルトレーンには拍手!でした。こういうモノクロのポスターを天上に貼っった部屋に住んで、「マイ・フェイヴァリット・シングス」を、フリージャズめかして鼻歌で歌いながら、学校にも行かず、映画館に毎日通っていた日々があったことは、今や、自分だけの記憶ですね。ホント、あの頃、何がしたかったんでしょう。まあ、今と、ちょっと似ているような気もしますが(笑)。監督 ジョン・シャインフェルド脚本 ジョン・シャインフェルド撮影 スタン・テイラー編集 ピーター・S・リンチ2世音楽 ジョン・コルトレーンキャストジョン・コルトレーンソニー・ロリンズマッコイ・タイナーウェイン・ショーターベニー・ゴルソンジミー・ヒースレジー・ワークマンウィントン・マルサリスカマシ・ワシントンカルロス・サンタナコモンジョン・デンスモアビル・クリントン藤岡靖洋デンゼル・ワシントン(ジョン・コルトレーンの声)2016年・99分・G・アメリカ原題「Chasing Trane」 The John Coltrane Documentaryシネ・リーブル神戸no129
2021.12.23
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アレクサンダー・ナナウ「コレクティブ 国家の嘘」シネ・リーブル神戸 シネ・リーブルの予告を見ていて、「ウン?」と思っていると、映画好きの友人たちの評判が聞こえてきて、「そうか、そうか」という気分で出かけてきたシネ・リーブルでした。 映画はルーマニアのアレクサンダー・ナナウというドキュメンタリーの監督の作品で、病院経営者と薬品会社、政治家が結託して、市民の命をもてあそびながら、闇の金儲けに勤しむ世界を、ドキュメント、あからさまにした作品、「コレクティブ」です。 驚いたことが二つあります。 一つは、登場人物たち、新聞記者のトロンタンやその仲間、改革派の若い大臣ボイクレスクという人たちが、まるで俳優のようだったことです。 いつものようにぼんやり見ながら、ドキュメンタリィーではなくて、普通のミステリー映画だと思い込んでしまいそうでした。それは、たぶん、「出来事」を捉えているカメラのある場所のせいだと思います。 新聞記者たちの会話や、大臣の執務室での会話、それぞれ、オフレコに近い会議の内容が直に映し撮られる場所でカメラが回っていて、本当に撮っているのです。で、そこの会話がミステリー映画のセリフのようなのでした。 二つ目は、結末です。政治家や医療関係者のありえない程の腐敗が報じられているさなかに行われた選挙の結果、勝ったのは、なんと汚職まみれの政治家たちだったことです。 ぼくは、2021年秋の衆議院選挙の直後この映画を見ましたが、「日本」という国の選挙結果と、「ルーマニア」という国のこの映画の結末がそっくりだったことに客席から転げ落ちそうな気分になったのでした。 映画監督の森達也さんが、この映画についてこんな発言をしておられるのをネット上に見つけました。 すごい映画を観た。まずはこれに尽きる。誰だってそう思う。次にあなたは思う。なんてひどい国だ。私たちの国はまだましだ。でもならば考えてほしい。 私たちの国は記者会見が一般公開されていない。自分たちの執務をドキュメンタリーで撮られることを了解する大臣もいない。 つまり日本ではこんな映画は作れない。ならば同じことが起きてもわからない。 一人でも多くの人に観てほしい。そして気づいてほしい。権力監視について私たちの国は圧倒的に遅れているのだと。 たとえば、この国には、コロナ騒ぎに乗じて役にも立たないマスクを配った総理大臣がいましたが、そこで動いた何百億だか、何千億だかの公金の行方は闇のかなたという現実があります。 公共(?)テレビ放送は、投票率が上がるのを阻止することが目的のように、選挙戦報道をオミットするかのような、意図的な放送を繰り返し、民放は程度の低さの極限を目指すかのような、インチキな政治家・政治評論家のおしゃべりや、これでもかとを謂わんばかりの、文字どうりバカげた「お笑い」を流し続けています。 森さんは「権力監視について私たちの国は圧倒的に遅れているのだ」とおっしゃっていますが、むしろ、誰が意図しているのかわかりませんが、腐敗権力にとって一番都合のいい「愚民政策」政策を明るく受け入れている「権力崇拝」においては、世界の先頭を走っているのだという方がいいのかもしれませんね。 ハヤリ言葉で言うなら、「自己責任」を弱者に押し付け、無能な「ダメージ・コントロール」能力をさらけ出しながら、自らの責任を糊塗する「リスク・マネージメント」言語を、政治家のみならず、メディアも弄んでいるということなのでしょうが、明るく楽しいディストピアが着々と進行しているのは間違いないようですね。 いやはや、それにしても、この国の医療や福祉の美名の下にも、きっと、この手の腐敗が進行しているに違いないのですが、暴くカメラは出現するのでしょうか。 しかし、この映画に関して言えば、ここまで「奥深く?」カメラを駆使して暴いたアレクサンダー・ナナウ監督に拍手!でした。監督 アレクサンダー・ナナウ脚本 アントアネタ・オプリ アレクサンダー・ナナウ撮影 アレクサンダー・ナナウ編集 アレクサンダー・ナナウ ジョージ・クレイグ ダナ・ブネスク音楽 キャン・バヤニキャストカタリン・トロンタン(新聞記者)カメリア・ロイウテディ・ウルスレァヌブラド・ボイクレスク(新任の保健大臣)ナルチス・ホジャ2019年・109分・G・ルーマニア・ルクセンブルク・ドイツ合作原題「Colectiv」2021・11・09‐no106シネ・リーブル神戸no126
2021.11.16
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イ・ファンギョン「偽りの隣人 ある諜報員の告白」シネ・リーブル神戸 週間限定公開とかで、すぐに終わるということでやってきたシネ・リーブルでした。実は住まいの二階あたりで改築工事中らしく、サンデー毎日の自宅ゴロゴロ生活の予定だったシマクマ君、頭上から直接響いてくる騒音に音を上げて逃げ出してきたのです。 でも、まあ、80年代からの「民主化」をテーマにした韓国映画ということで、ちょっと期待してやってきました。 チラシにもありますが「タクシー運転手」とか、「1987、ある戦いの真実」とか、個人的な見方にすぎませんが、韓国映画の、ちょっとやりすぎで、どこか笑えて、それでいて「民主化」ということを正面から受け止めようとしているニュアンスがぼくは好きです。 今日の映画はイ・ファンギョン「偽りの隣人 ある諜報員の告白」です。 この作品もサスペンス仕立てではありますが、どこかコメディを強く意識している監督なのでしょうね、結構、シリアスでバイオレンスな展開を「笑い」で引っ張っている演出に笑ってしまいました。 やる気はあるけど、まっすぐにしか考えられない諜報員ユ・デグォン(チョン・ウ)が旧式トイレの便壺から登場するのがスタートです。 まあ、この辺りから生真面目な「民主化」賛歌ではないことは予想できるわけで、結果的に最後まで結構笑わせてくれたところが好み映画でした。 まっすぐにしか考えられない諜報員ユ・デグォン(チョン・ウ)が、外国帰りの大統領候補イ・ウィシク(オ・ダルス)の自宅を盗聴するとどうなるかというストーリーで、1970年代から続いた、朴正煕の政敵、金大中に対する弾圧をモデルにしているとすぐにわかるストーリーでした。 金大中が実際に交通事故を装って「暗殺」されかけたことは、今では公然の事実です。しかし、その事件の中で、彼の長女が殺されるということがあったのかどうかまではよく知りませんが、この映画の中では殺されてしまいます。 まっすぐにしか考えられない、愛国主義者の諜報員ユ・デグォン(チョン・ウ)が、はっきりと上司に楯突き、「殺してこい」と命じられながらも、自らが盗聴している民主化大統領候補イ・ウィシク(オ・ダルス)を救うため、人間として「まっすぐ」に行動する契機になるのがその事件なのですが、この時代の後、民主化を支持した韓国の人々にとって、「タクシー運転手」の主人公がそうであったように、主人公の素朴な心情の描き方に「ほんとうの事」を感じました。 最後のクライマックスシーンのカー・チェイスの最中、素っ裸になって路上を走り回る、主人公の「滑稽さ」と正直な「善意」の姿は、韓国の民主化の「強さ」と「弱さ」の両方を表している印象を持ちました。特にこの作品は「愛国」者が「民主」化を選ぶ姿を描くことで、「本当の愛国」を問いかけているのだろうと思うのですが、一抹の疑問が残ったことも忘れないでおこうと思いました。 マア、それにしてもシリアスと、漫才のような掛け合いの笑いを演じ、最後は裸になって頑張ったチョン・ウ(ユ・デグォン)に拍手!でした。監督 イ・ファンギョン脚本 イ・ファンギョンキャストチョン・ウ(ユ・デグォン)オ・ダルス(イ・ウィシク)キム・ヒウォンキム・ビョンチョル2020年・130分・G・韓国原題「Best Friend」2021・10・05‐no90シネ・リーブル神戸no124
2021.10.25
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スザンナ・ニッキャレッリ「ミス・マルクス」シネ・リーブル神戸 予告編を見ていて「インターナショナル」が、ちょっとロック調な編曲で聞こえてきて「おっ、インターや」とか思ってやってきました。 この歌はフランス語では「L'Internationale」というそうですが、パリ・コミューンあたりで歌われ始めた歌だそうです。今年2021年の夏に見たのですが、スペイン市民戦争を舞台にした「ジョゼップ 戦場の画家」というアニメの中で「ワルシャワ労働歌」という歌が歌われていて、まあ、懐かしさの余りだと思いますが、思わず涙したのですが、二匹目のどじょうを狙ってやってきたというわけです。 カール・マルクス、この名前を聞いてワクワクするなんて言う人は、まあ、研究者ならいざ知らず、いくら若くても還暦ゴールを切った人ばかりだろうと思いますが、その中でも若いほうだと自賛しながら、結構ワクワクしてやってきました。「マルクスの娘かあ!?あんまり幸せな人生だった気はしないなあ」そういう関心もありました。 スザンナ・ニッキャレッリというイタリアの女性の監督の作品でした。映画の構成の骨として、ショパンのようなクラッシク音楽、インターナショナルのような労働歌、ダウンタウンボーイズが歌うロックミュージックの三通りの音楽を使っているところが独特でしたが、展開がパターン化してしまったという感じがしました。 問題の「インターナショナル」は、映画のなかでは伴奏なしで素朴に歌われていて、印象的ではあるのですがインパクトに欠けるきらいがあったと思いました。 映画は、例えば子供たちに重労働を課す、19世紀の「原」資本主義の社会に異議を唱える社会主義者「ミス・マルクス」の不幸を現代的なフェミニズムの観点から描いているところが新しいと思いました。 もっとも、彼女の周囲の「男性」たち、父マルクスから、夫エイブリングに至るまで、全員、立つ瀬なしというか、まあ、時代の人たちなのですが、そのことが、かえって1970年代の女性解放運動がすでに指摘していた問題が、何一つ解決していない「現代」を浮き彫りにしている印象でした。 ホント、どうなっているのでしょうね。 社会主義者として生きることを運命づけられているかに見える「ミス・マルクス」の孤独を美しく、気高く演じたロモーラ・ガライに拍手!でした。監督 スザンナ・ニッキャレッリ脚本 スザンナ・ニッキャレッリ撮影 クリステル・フォルニエ美術 アレッサンドロ・バンヌッチ イゴール・ガブリエル衣装 マッシモ・カンティーニ・パリーニ音楽 ガット・チリエージャ・コントロ・イル・グランデ・フレッド ダウンタウン・ボーイズキャストロモーラ・ガライ(エリノア・マルクス:マルクスの三女)パトリック・ケネディ(エドワード・エイヴリング:夫)ジョン・ゴードン・シンクレア(フリードリヒ・エンゲルス)フェリシティ・モンタギュー(ヘレーネ・デムート:マルクス家の家政婦)2020年・107分・PG12・イタリア・ベルギー合作原題「Miss Marx」2021・10・15‐no95 シネ・リーブル神戸no123
2021.10.19
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マリヤム・トゥザニ「モロッコ、彼女たちの朝」シネ・リーブル神戸 北アフリカ、モロッコ、その名前を聞けば、もうそれだけで心が躍る町カサブランカ、アラビアンナイトのドアに印をつける物語を彷彿とさせるメディナ(下町)の路地が映り、重そうな木のドアが次々と映し出されます。 街角のドアの前に座りこみ、やがて、再び立ち上がってヨタヨタと歩きはじめる女性は身重で、ほとんど臨月を思わせる大きなおなかを抱えています。 見知らぬ家のドアの前に立ち、仕事を乞う身重の女サミア(ニスリン・エラディ)に、ドアの向こうの人びとは迷惑そうな顔をしながらも、彼女とおなかの中の子供の幸運を祈る言葉を口にしてドアを閉めます。 夫に先立たれ、小学生でしょうか、幼い娘ワルダを育てながら小さなパン屋を営むことで生計をたてているアブラ(ルブナ・アザバル)は、カーテンの隙間から、街角に座りこむ身重の女を見ています。 そんなシーンから始まった映画は、二人の女、サミアとアブラの出会いを描き、やがて、新しく「アダム」という名を与えられた赤ん坊とサミアが、アブラとその娘ワルダのもとから、ドアを開け出発するシーンで終わります。 人が人と出会うとはどういうことなのか。人間が人間を励ますとはどうすることなのか。女性が子供を身ごもるとはどういうことなのか。子どもを生むとは、子供を育てるとは、畳みかけてくる難問とは裏腹に、とてつもなく美しい映像が目の前に広がります。 ありきたりな言い草ですが、フェルメールの絵を彷彿とさせる、灯りがどこから差し込んでくるわからない部屋の少し暗い光の中で、パン生地を練り小麦粉を篩う女性たちの美しさは、そこにこそ物語があるのですが、物語など知らぬとでも言いたげな風情で、人間が生きていることの美しさを描き出していました。 一人の女の生き方が、もう一人の、追いつめられている女を励まし、「女手一つ」で育てられている一人の少女の笑顔がこの世から捨てられかかっていた赤ん坊の命を救うという、奇跡のように美しい作品でした。 人のいい粉屋の男は登場しますが、それぞれの女がそれぞれの生き方を自ら選び取っていく姿を描いた堂々たる作品だと思いました。 カサブランカの下町メディナの独特の迷路と閉ざされた扉、そして群衆が、映画が最初からさしだしている難問を暗示しているのですが、フェルメールの絵のように、光はどこかから、そっと差し込んでいて、「希望」を感じさせ続けていたふしぎな作品でしたが、そうした「物語」の作り方に加えて、室内の調度や装飾、パン作りの小道具にマリヤム・トゥザニという女性監督のセンスの良さが印象に残りました。 とてつもなく不愛想な顔で押し通しながら、ふとゆるんだ表情が、異様に美しいルブナ・アザバル、本当に妊娠して出産しているのではと思わせるニスリン・エラディという二人の女優さんの演技と、文句なく愛くるしいワルダを演じた少女に拍手!拍手!監督 マリヤム・トゥザニ製作 ナビル・アユチ脚本 マリヤム・トゥザニ ナビル・アユチ撮影 ビルジニー・スルデーキャストルブナ・アザバル(アブラ)ニスリン・エラディ(サミア)2019年製作・101分・G・モロッコ・フランス・ベルギー合作原題「Adam」2021・09・20‐no85シネ・リーブル神戸no120
2021.09.23
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エイリーク・スベンソン「ホロコーストの罪人」シネ・リーブル神戸 1940年代、ナチス・ドイツに降伏したノルウェーに暮らす、ノルウェー系ユダヤ人「ブラウデ家」の悲劇を描いたノルウェー映画でした。 肉屋を営む父、裁縫で稼ぐ母、ボクシングに励む次男チャールズをはじめとする三男一女の4人姉弟の6人家族です。リトアニアからユダヤ人迫害を避けて亡命してきた貧しい一家ですが、チャールズが非ユダヤ系の女性ラグンヒルと結婚するという喜びもつかの間、父、母、兄、弟の4人がノルウェーの秘密警察の手によって、オスロからドナウ号というドイツ船に乗せられ、ポーランドに強制送還されアウシュビッツ収容所で殺さるという結末でした。 いち早くスウェーデンに脱出した姉のヘレーナと、「アーリア人女性と結婚していた幸運」を理由にチャールズは生き残ります。 この作品は、実話仕立てだということですが、おそらく、生き残ったこの姉弟の証言によって原作が書かれたのではないでしょうか。 ナチスのホロコーストを扱った作品は、毎年のように制作されているようです。ぼく自身65歳を機に映画館徘徊を始めてからの2年余りの期間でも、かなりの数の作品を見ていますが、それぞれの製作者の、半世紀を超える過去の事件に対する「こだわり」は、歴史の風化に抗う「知性」の在り方、多様な個性を感じさせる気がします。 この作品でも、最も印象に残ったのは、ナチスに占領されて入るのですが、ノルウェーの秘密警察の副長官クヌート・ロッドと、その部下の女性事務職員や財産没収に出向いてくる管理人の描き方でした。 彼らは血も涙もない、直接的な「暴力性」としてではなく、マニュアルに従いながら、表情のない声で応答し、今はやりの言葉で言えば「空気」に便乗した狡猾な「小役人・官僚」として描かれていて、実にリアルでした。 占領軍や上役に対しては小心で実直な官吏でありまがら、目の前の「弱者」であるユダヤ人に対しては、根っこにあるのでしょうか、差別意識を解放されて、信じられないほどの、傲慢な「強者」としてふるまう姿を、丁寧に描いているところに、監督エイリーク・スベンソンの、ノルウェーという国の歴史的事実以上に、現代にも通じる人間社会そのものに対する批判的意図を強く感じました。 もう一つ印象に残ったのは、アウシュビッツ収容所に到着した、老人と女性子供たちが「シャワーのため」という、有名な口実で履物や衣服を脱がされ、裸になってガス室に送り込まれるシーンが丁寧に描かれていることです。 「他人事」として「歴史的事実」を忘れつつある、非ユダヤ系ノルウェー人のみならず、映画見る世界中の人間に対して「何があったのか」を突き付けてくるシーンで、気丈だったサラ・ブラウデ(妻)と実直だったベンゼル・ブラウデ(夫)の老夫婦が裸で手を取り合って立っている姿の痛ましさは、群衆シーンであったにもかかわらず記憶に残りそうです。 ここまで、書いてきましたが、この映画の主人公は息子たち、とくに、偶然生き残った次男チャールズというべきなのですが、彼と「アーリア人」の妻の関係は「戦後、元に戻ることはなかった」と、暗転した画面にスーパーが出てくるだけでした。彼らの、それぞれが負った傷については想像するほかありませんが、ないがしろにはできないことだと思いました。 しかし、それにしても、驚くべきはクヌート・ロッド秘密警察副長官は無実のまま戦後も公職にとどまり続けたと、続けてスーパーが流れたことでした。 「なるほどそういうことか」と妙に納得しましたが、ノルウェーでは、この作品が描いた「国家の罪」について、なんと、2015年になって首相が謝罪したそうです。確かに、遅すぎる感はありますが、歴史を作り変えることに奔走するどこかの国の責任者とは違うようですね。 この作品に対するノルウェーでの社会的評価は、そのあたりと連動したもののようで、実にまっとうな社会だと思いました。監督 エイリーク・スベンソン原作 マルテ・ミシュレ脚本 ハラール・ローセンローブ=エーグ ラーシュ・ギュドゥメスタッド撮影 カール・エリク・ブロンドボ編集 クリスチアン・シーベンヘルツ エリセ・ソルベルグ音楽 ヨハン・セーデルクビストキャストヤーコブ・オフテブロ(チャールズ・ブラウデ:次男)ピーヤ・ハルボルセン(サラ・ブラウデ:母)ミカリス・コウトソグイアナキス(ベンゼル・ブラウデ:父)クリスティン・クヤトゥ・ソープ(ラグンヒル:チャールズの妻)シルエ・ストルスティン(ヘレーン・ブラウデ:姉)ニコライ・クレーベ・ブロック(ベルグ収容所所長)アンデルシュ・ダニエルセン・リー(クヌート・ロッド秘密警察)2020年・126分・PG12・ノルウェー原題:Den storste forbrytelsen2021・09・21‐no86 シネ・リーブル神戸no119追記2021・09・23 本文中に「アーリア人」という記述をしていますが、「アーリア人」などという「人種」は、ナチスが作り上げた妄想だということは、現在では常識(?)だと思います。「日本人」という国民はいますが、人種はいないことと似ています。トニ・モリスンの「他者化の起源」(集英社新書)を読んでいて気がかりになりました。お読みになった方が誤解されないように追記します。
2021.09.22
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トマス・ビンターベア「アナザーラウンド」シネ・リーブル神戸 デンマークの高校の先生が「お酒で元気になる」という、なんというか、訳の分からないモチベーション活性法を試すという映画でした。デンマーク映画で原題の「Druk」も英題の「アナザーラウンド」という題も「もう一杯いかが」とかいう意味だそうですが、「まあ、やめておいた方がいいんじゃないですか」という気分で見終えました。 40代に差し掛かって、仕事の(いや、プライベートも?)元気を失った、まあ、生徒に(家族にも?)さじを投げられた高校の先生という設定が、何ともリアルで、身につまされる作品でした。 が、活性法として出てくるのが「お酒」というところに、ちょっとついていけないものを感じましたが、飲酒に対する文化ギャップなのでしょうかね。 そういうわけで、主人公で歴史の先生であるマーティン(マッツ・ミケルセン)をはじめとする、さえない中年男4人が血中アルコール濃度を測りながら、どう考えても危ない実験に挑むわけで、見ている、元教員の老人はハラハラすること限りなしでした。 もっとも、映画はコメディ仕立てとはいうものの、いわゆる「危機」に遭遇する「人生の時」を、結構、シリアスに描いていて、まあ、今となっては過去のことなのですが「40代ってそうだったかなあ。」などと、さほどの自覚もなく振り返りながらも、笑うに笑えない映画でした。 誰でもがそうなのか、そこはわかりませんが、この映画に登場するさえない中年教員の時代を、それはいってしまえば年齢とともに失われていく何かに気づく時代だったと思うのですが、それをどうやってやり過ごしたのか、そこから20数年の日々を、どんなモチベーションで過ごしてきたのか、そんなことを考えさせられる作品でした。 最後に、去っていった妻アニカ(マリア・ボネビー)からの復活メールで救われたマーティンの美しいダンス姿で幕を閉じたのですが、酔ったまま海に出て帰ってこなかった、体育の先生だったトミー(トマス・ボー・ラーセン)の方にこそリアルを感じたのは、見ているぼくの年齢のせいでしょうか。 この作品で面白かったのは、デンマークの高校の教室や教員室の様子、テストのやり方でした。どう見ても、日本の学校よりもまともでしたね。とても羨ましく思いました。 さて、映画トータルについてです。どこかにコメディとあったのですが、案外、生真面目に作られている印象の映画でまじめに見ました(笑)。ただ、ギョッとするというか、ハテナ?というか、なんでもいいのですが、ドキッ!というインパクトがもう少しあればなあという作品でした。ちょっと残念でしたね。監督 トマス・ビンターベア脚本 トマス・ビンターベア トビアス・リンホルム撮影 シュトゥルラ・ブラント・グロブレン美術 サビーネ・ビズ衣装 エレン・レンス マノン・ラスムッセンキャストマッツ・ミケルセン(マーティン)トマス・ボー・ラーセン(トミー)マグナス・ミラン(ニコライ)ラース・ランゼ(ピーター)マリア・ボネビー(アニカ)ヘリーヌ・ラインゴー・ノイマンスーセ・ウォルド2020年・115分・PG12・デンマーク原題「Druk」2021・09・13‐no85シネ・リーブル神戸no116
2021.09.16
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ペテル・べブヤク「アウシュヴィッツ・レポート」シネ・リーブル神戸 ヨーロッパ映画を観ていると、アウシュビッツ、ナチス・ドイツにかかわる作品が毎年一定数制作されていることに気づきます。つい先日見た「復習者たち」もそうですし、「キーパー」、「名もなき人生」、「ヒトラーに盗られたうさぎ」etcと、いくらでも数え上げられます。べつに意識して選んでの鑑賞ではありません。しかし、ヨーロッパには「アウシュビッツ映画」が、単なる「思い出物語」としてではなく作られ続ける理由があるのでしょうね。 今回見たのはペテル・べブヤクPeter Bebjakというスロバキアの監督の「アウシュヴィッツ・レポート」という作品でした。スロバキア、チェコ、ドイツの合作だそうです。 1942年にアウシュヴィッツに強制収容された二人の若いスロバキア系ユダヤ人が、2年後の1944年4月に収容所を脱走し、アウシュヴィッツの内情を描いたレポートを赤十字に提出します。そのレポートが「ヴルバ=ヴェツラー・レポート(通称アウシュヴィッツ・レポート)」と呼ばれて、連合軍に報告され、12万人以上のハンガリー系ユダヤ人がアウシュヴィッツに強制移送されるのを免れたというお話でした。 映画は脱走する二人とそれを命がけで支える仲間たちのサスペンスフルな展開で始まります。すでに死体の山があり、収容されている人たちが平気で殺されたり殴られたりするシーンが繰り広げられます。見ている側は二人が脱出に成功することを知っていますから耐えられますが、「もし、これが現実であれば」と想像するとどうでしょうね。 ぼくは、こういうドキドキや残酷シーンは、もう苦手だなと感じる年齢を意識しました。 で、印象に残ったことが二つありました。 ひとつは収容所のドイツ人将校の描き方でした。ラウスマンというナチスの伍長ですが、彼が最前線に出征していた自分の息子が戦死したことを嘆き、それを訴えながら収容者を拷問するというシーンです。異様でした。 哲学者ハンナ・アーレントに「エルサレムのアイヒマン」(みすず書房)という本がありますが、そこで論及されていた「無思想性」ということを思い出しました。 実は、この将校のふるまいは、平和で民主的だと思い込んでいる社会でも、様々な場所で繰り返されていることではないのか、そんな疑いですね。 もう一つは、脱走に成功した二人を救助し報告を受け取った赤十字の職員の反応でした。「人道的に救助することはできるが、ドイツを批判することは‥‥」というシーンですが、リアルだと思いました。 二人は「今すぐ収容所を爆撃してくれ。」と迫るのですが、実行されたのは半年以上後でした。赤十字の職員の反応のリアリティも、ある意味、現代的だと思いました。 ドイツ、ポーランドのみならず、この作品のように東ヨーロッパや北欧諸国でもナチス映画は撮られ続けています。だからといって繰り返しというわけではありませんね。たとえば、この映画にも感じましたが、監督の感覚の現代性というか、現代の社会に対する「危機感」が歴史を見直そうとしていて、そういう作品を作ろうとしているヨーロッパの表現者たちの熱意に好感を持ちました。 疲れましたが、後味は悪くない作品でした。拍手!監督 ペテル・べブヤク製作 ラスト・シェスターク ペテル・べブヤク脚本 ジョゼフ・パシュテーカ トマーシュ・ボムビク ペテル・べブヤク撮影 マルティン・ジアラン美術 ペテル・シュネク衣装 カタリナ・シュトルボバ・ビエリコバー編集 マレク・クラーリョブスキー音楽 マリオ・シュナイダーキャストノエル・ツツォル(アルフレート・逃亡者)ペテル・オンドレイチカ(ヴァルター・逃亡者)ジョン・ハナー(ウォレン・赤十字職員)ヤン・ネドバル(パヴェル・ユダヤ人)ミハル・レジュニー(マルセル・ユダヤ人)フロリアン・パンツナー(ラウスマン・ナチス伍長)ボイチェフ・メツファルドフスキ(コズロフスキ・ユダヤ人点呼係)ジュスティナ・ワシレウスカ(森の女)ルカサス・ガルリッキ(道案内・義弟)2020年・94分・PG12・スロバキア・チェコ・ドイツ合作原題「The Auschwitz Report」2021・08・20‐no78シネ・リーブル神戸no114
2021.09.03
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