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文章を書くことが好きで、書くことで救われてきたのに。 この頃、うまく表現ができない。 痒いところに手が手が届かないというか。 書いても書いても、自分の真ん中に命中しない。 でも、わたしは書く。 書きたい。 ずっとずっとそうして来た様に、模索しながら書いていたい。 長い冬が終わり、氷が解けて小川を水が走るように。 水道の蛇口からほとばしる水のように。 そんな言葉に出会える日が、きっと来る。 だから、やっぱり書いていたい。 言葉を紡ぎだしたいと思う。
2008年02月20日
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携帯メールの着信音で目が覚めた。 今日は、いつもより遅く起きるつもりだったので、まだ寝床の中。 手を伸ばして枕元の携帯を覗いたら、友人からの「おめでとう」メールだった。 憶えていてくれたのだと思うと、何歳であろうがそれだけで嬉しいものである。 それを潮に、寝床を抜け出して四肢を伸ばした。 ベランダのカーテンを引いたら、優しくて暖かな陽射しが慌しく部屋の中に入ってきた。 昨日は積雪注意報が出ていたのだけれど、夕方みぞれが少し降っただけにとどまった。 そして今朝のこの陽射し、なんだか儲かった気がした。 長女は三連休がスノボードの予定だったのに、流れたらしい。 次女はデートだと思っていたら、それも特にはない様子。 「久しぶりに鎌倉散策しない?三人で」 「いいよ。疲れて足が痛いけど、今日は誕生日だから付き合うよ」 と、承諾してくれた。 でも、起きた時間から三人で仕度して出かけるには、時間が足りない。 出来ることなら午前中に、花の写真を撮りたいと思ったから、 「でも、いいや。折角の休日なのだからゆっくり休んで疲れをとりなさい」 わたしが辞退した。 次女の仕事は、ややタイトなホテルでの立ち仕事なのだ。 出かけるより、本当はのんびりと家で過ごす方がわたしは好き。 だから、朝食の仕度にかかった。 しかしながら、冷蔵庫の中はとても貧弱で、物がない。 わおーと慌てながら、あるものをテーブルに並べてみた。 ペンネ、ニンニク、キャベツ、アボカド、トマト、冷凍のミックスベジタブルにシーフード。 それらを思いつくままに調理してテーブルに運んだ。 ほどなく起きて来た娘達。 「美味しい!」とすっかり平らげてくれた。 「今日は鎌倉中止。その代わり母さんが買い物に付き合うよ」 「わぁ、嬉しい」 久しぶりに三人で出かけることにした。 気がつくと、柔らかな陽射しは部屋の真ん中の、テーブルの足元まで伸びていた。 ああ、暖かい。 こんな陽だまりが、わたしは大好き。 またひとつ年を重ねたのだ、と今朝はしみじみ幸せを噛み締めている。
2008年02月10日
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こう寒いと、毎朝の挨拶が「寒いねぇ」となる。 でも、わたしはあまり寒いと感じない。 確かに例年になく寒い。 寒いけど、冬は寒いものだ。 幼い頃はもっと、もっと寒かった。 だから、「そうねぇ」と答えながら、「当たり前じゃん。冬なんだから」を、ぐっと飲み込むのだ。 勤務先で、 「あなたは寒がらないねぇ」 と言われ、寒いを連発する同僚の足元には暖房器具が入った。 「あなたはどうする?」 「ああ、結構です」 となる。 もちろん、あれば嬉しいけど、我慢できる範疇なのである。 幼い頃。 わたしは冬が大嫌いだった。 手足にシモヤケができ、それが崩れて見るも無残な状態になった。 手足は包帯で巻かれ、それを外すときの痛さは悲鳴を上げるほどだった。 母が痛さを和らげる為に、ぬるま湯につけてゆっくりと包帯を剥がしてくれたものだ。 だから、冬は寒くて痛かった。 時には、寒いとびーびー泣いた。 父が、オトナになっても、そのことを思い出し笑いながら話すのだった。 「寒いと言って泣いたのは、お前だけだった」と。 その言葉には、ある種の慈しみや愛情があり、幼子のわたしが彷彿した。 でも、今は違う。 冬は寒いのだ。 寒くない冬は、地球環境的にも危険なのだ。 そう思うと、寒さに安心してしまう。 だから足元の暖房器具がなにさ、と思う。 けど、やせ我慢だろうか? 否、冬は寒くて良い。 それを満喫すれば良い。 そしてわたしは、暑い夏も好き。 自然をそのまま受け入れたい。
2008年02月08日
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今日は旧元旦である。 遠い昔に思いを馳せると、やはり今日のような厳しい寒さの中で迎えたものだ。 でも、行事として特に何をするというのではなく、祖母が用意した餅でお雑煮を食べたというくらいの思い出でしかない。 長く一人暮らしをしていた祖母の好物は、餅だった。 その餅を美味しそうに頬張る祖母の顔が、旧正月の思い出なのかもしれない。 そして、もうひとつの祖母の楽しみは、かき餅作りだった。 海苔、豆、砂糖などを入れた餅を薄く切り、干すのだ。 それを火鉢の上で焼いては、缶の中に貯めていた。 わたしはかき餅のおやつを祖母から貰うのだけれど、数枚しかくれなかった。 もっといっぱいくれないかなぁ、と不満に思ったものだけど、きっとそれくらいだったから、今でも美味しかったと懐かしいのだろう。 祖母は母の伯母にあたる人だった。 産後の肥立ちが悪く、母を産んで死んでしまった長女の後釜に、末妹が納まったというよくある話である。 だから全く実母を知らない母の、義理の母が祖母なのだ。 母は時に、「ばあさんは冷たい人だ。本当の母親じゃないからだ」と言ったことがあった。 でも、わたしは祖母が大好きだった。 実直で頑固だったけれど、わたしにはとても優しかった。 こんな寒い冬の日、わたしは祖母の布団にもぐりこんだものだ。 その祖母は畳の上で死にたいからと、子宮がんを発病して十年も経つのに、誰にも何も言わなかった。 そして、畳の上で旅立った。 旧正月が来ると、祖母を思い出す。
2008年02月07日
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電車を降りた瞬間、わたしの胸はさざ波を立て始める。 いつもだ。 いつも、いつも。 この地を離れてすでに六年が来ようとしているのに。 駅のプラットホームに降りた瞬間から、わたしの裡では当時の様々な情景が浮かんでは消えた。 穏やかではいられないのだ。 それなのに、長年通った歯科医のところへ年に何度か治療の為に訪れるのだった。 雑踏の中に身を入れた。 見知った人に出合うこともなく、わたしはその中に紛れ込んだ。 下の娘が大学に合格した年の初夏、わたし達はこの地を離れたのだった。 歯科医は、いつも通りマスクの上から無表情に治療した。 きっと身なりや年の取り具合、苗字が変わったことなどで、わたしの身の上の変化を知っただろうけれど、何事もなかったように。 その街の、いろんな場所に思い出が潜んでいた。 時に、涙ぐむ。 それほどの強い思い入れがあるわけでもないのに、些細なことでスイッチが入った。 例えば、紳士服売り場では、季節ごとに選んだスーツのサイズがなくて、探し回ったこととか、食料品売り場ではショッピングカートに、好物の品を放り込むときの彼の笑顔など。 そんなことがさざ波をたてるのだろうか。 四半世紀近く住んだ街は、わたしの裡に何かを刻み込んだに違いない。 だから、この街に足を踏み入れた瞬間に、わたしの体は震えるのだろう。
2008年02月05日
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