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またひとつ、ドジ伝説に追加。 わたしは、どうやら非常ベルを鳴らす名人らしい。 何年か前も姉のマンションで、開錠ボタンと非常ボタンを間違えたのに。 あの時は、『更に強く押す』という文字が、やけに印象的だった。 部屋の前の赤色灯はくるくる回るわ、サイレンは唸るわ…。 パニクリまくったのに。 学習能力がないらしい。 とほほ……。 今回は、深夜の二時半。 でも、誰も来なかった。 みんな一度は経験済みなのか? 寿命が十年は縮んだよ、ほんと。 入居一年目の出来事である。
2005年01月31日
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心ここにあらず、なのだろうか。 先日もその前の時も、「何かあった?」と訊かれた。 そういう顔をしているつもりは無いのに、幾人かの人に同じことを言われた。 先週の金曜日。 長女とその彼氏と三人で飲んだ時、 「おかあさん、調子悪いんですか?」って。 「ううん。普通だけど変?」 「ええ、いつものおかあさんらしくないから」 頭の中には、色んなことがあるけど。 いつも能天気に交わして来たから。 でも、「らしくない」? これって、かなり不本意だなー。 よーっし。 今週から、らしくなるよー!
2005年01月30日
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おりしもテレビでは、極寒の蜆漁(しじみりょう)を放映していた。 その獲れた大きな蜆を見たとき、わたしは祖母の笑顔を思い出した。 記憶の糸を辿れば、田んぼの中を割って流れる小川に、祖母は秘密の蜆の漁場を持っていた。 一人で出かけて行っては、ほんの一握りの蜆を嬉しそうに獲ってくるのだった。 離れた場所に住む祖母の家を訪ねる度に、彼女は蜆の味噌汁を作ってくれた。 もしかしたら、ほんの数度の出来事だったのかもしれないけれど、 わたしの記憶の襞には鮮やかな印象として、今も留まっている。 長患いの祖父に蜆が効くと聞いて、懸命に蜆を食べさせたのだと、母から聞いたことがあった。 祖父が亡くなった後も、祖母は誰にもその場所を明かさなかったのだ、とも……。 いつかわたしがその存在を訊いたとき、悪戯小僧のような目をして祖母はこう言った。 「誰かに教えると、乱獲されるから」と。 一度だけ、わたしはそんな祖母の後をつけたことがあった。 田んぼの畦を降りていく細い道は、祖母の足跡だけでできた頼りない道だった。 萱の茂みをかき分けて岸べに辿り着くと、祖母はモンペの裾を太腿まで引き揚げて、 竹笊を片手にそろりと川に入っていった。 両手を肩までぬらして足で川底を誘い入れ、何度もすくった。 水上で笊を軽く振ると、小石や砂利に混じった数個の蜆が残っていた。 「はい」と渡された蜆を受け取りながら、普段は苦虫を噛み潰したような祖母の顔に、会心の笑みを見た。 今では護岸工事を施されてよそ行きの顔に変身したその小川に、 当時の面影は全く無い。 そこはすでに、わたしの記憶の中にだけ残る、祖母の秘密の場所だった。 二つに折れてしまった腰を時折ひょいと伸ばし、川に向かう祖母の背が脳裏に浮かんだ。 わたしの大好きだった、頑固な祖母の数少ない記憶として……。
2005年01月29日
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夜中に目を覚ましたら、隣に長女が眠っていた。 驚いて理由を訊いたけれど、起きなかった。 また、彼氏と喧嘩をしたのだろう。 それでも心配になって携帯を覗いたら、彼女が送信したメールが見えた。 「あんたなんかいらない。どっかへ消えちゃって。サヨウナラ」 ああ、見るんじゃなかった。 おかげで眠れなくなった。 彼らは、こういう喧嘩を頻繁にする。 だから取り立てて問題はないのかもしれないけれど、 わたしは心配で仕方がない。 まだ眠っている長女の枕元には、白のインナーを、 次女の枕元には黒のを置いて出勤した。 昨日、わたしがバーゲンで買ったついでに、娘にも買っておいた品である。 昼休みに電話を入れたら、 「いつものヤツよ。もう仲直りしたから心配しないで。 それより、枕元にあったプレゼント嬉しかったよ。 クリスマスを思い出して、ちょっと良い気分。ありがとう」 だって。 全く、人騒がせな痴話喧嘩。 でも、ものすごくほっとした。 親というものは、とほほなものである。
2005年01月28日
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ここんとこ。 重すぎる。 だからここに置かせてね。 ほんの少しの間で良いから…。 お願いしましたよ。
2005年01月27日
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「もしもし?」 携帯電話の表示は、懐かしい友からだった。 「紫苑ちゃん、大丈夫?」 「大丈夫だよ」 わたしは答えながら、ブログを読んで心配してくれていることに気がついた。 「読んだのね?」 「読んだよ」 やはり、心配をかけたんだ。 「でも平気だよ。もう大丈夫だから」 取り留めの無い会話で終始して、ありがとうねと電話を切った。 でも精一杯、さりげなく振舞いながら、実はかなりマイっていた。 死と対峙している元夫のことを思うと、心は千千に乱れる。 愛だの恋だのという感情ではなく、二十数年人生を友に歩んできた同士というか戦友というか。 縋る彼の手を振り解いてしまう自分が、ものすごく非情で冷血人間のような気がして、自己嫌悪に陥ってしまうのだ。 このことは、誰かに示唆されるのではなく、わたし自身にしか解決できないことを承知しながら、苦しくてたまらなかった。 だから何度も反芻し、わたしは自分の内面と向き合っているのだけれど。 でも電話は嬉しかった。 友の声は懐かしかった。
2005年01月26日
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濁り酒を飲んでみた。 スーパーの棚に並んだものだから、大した品ではない。 ただなんとなく、口に含んでみたかったのだ。 姉の近所に住む、老夫婦の暮らしぶりは見事だった。 毎日判で押したように、同じ事を脈々と繰り返し、 歳時記を片手に、日々を丁寧に暮らしているのだから。 その証拠に、家の周囲には草一本、塵一つなかった。 お庭には四季の花を咲かせ、実のなるものはきちんと実を成らせていた。 そして、そろそろドブロクの季節だなーと思えば、 毎年同じ頃に、美味しいお裾分けが届くのだった。 数日前、そのドブロクが届いたと、姉から電話が入った。 近くに住んでいれば、一緒に飲めるのにね、と。 以前、わたしはその作業過程から立ち会って、盗み酒をさせてもらったことがある。 まだご飯粒のある状態の中にざるを浮かべて、溜まった液体をお玉ですくうのだ。 香り高くほの甘いその味は、驚きの旨さなのだった。 それには叶わない市販の濁り酒を、わたしは口に含んだ。 旨いと誉めればもっと旨いものを追求し、どうだ?という顔をする、 八十をいくつか過ぎた、その老夫婦の得意満面な笑顔が浮かんだ。 わたしの一番辛い時期に出会った、優しい人たちである。
2005年01月25日
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家族とか夫婦とか、そういう単位で出会ったとき、わたしはぼんやりと眺めている。 わたしの居たかもしれない場所を、離れたところからそっと覗いている。 それは、ごくごく当たり前の風景だったけど、遠目で見ると素敵だなーと思う。 不覚にも、目が潤んだ。 いけない。こんなことで泣いてたまるかと、目をこすった。 涙が止まらなくなった。 原因は、今朝のメールだ。 「あとどのくらい生きられるのかなー」 こんなメール、よこすなよ。 わたしの中に、思いを残さないでよ。 歯を食いしばって上を向いたら、オレンジ色の朝日が、妙に優しくて暖かだった。 わたしは、しばらくそのままで空を仰いでいた。 目を閉じたまま……。 これがわたし達の、壊れてしまった夫婦のかたち。 喉の奥が、ぐぐっと鳴った。
2005年01月24日
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寒さが苦手で、幼い頃はよく泣いていた。 しもやけが崩れて、包帯を交換する時の痛さも辛くて。 でも、冬の後は必ず春がやってくる。 寒いけど、その中でする春探し。 桜の花芽を見つけたり、梅が咲いているのも嬉しいし。 この頃、少し日がのびた。 そんな変化が嬉しくて、心がなぜだかうきうきするし。 だから、今の季節は割と好き。
2005年01月23日
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久しぶりにミシンを出した。 次女のコットンパンツの裾上げをするためだ。 誰も居ない部屋で、ミシンの音だけが響く。 何年も使ったこのミシン。 一番活躍したのは、娘達のバレエの衣裳作りだったろう。 チュチュも縫ったし、ソロで踊る時の衣裳も縫った。 ミシンを取り囲んで、出来上がりを待つ嬉しそうな顔がふたつ浮かんだ。 裁縫は大嫌いだったわたしが、こうしてミシンを踏めるのは、 娘を授かったおかげだろう。 わたしは、本当に平凡な母親。 つくづく思う。
2005年01月22日
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「母さん、良いニュースなの。今から出られる?」 「今から?うーん、出たくないわ。ご飯ならなにか作るわよ」 「ううん。あまり時間がないから外で済ませたいのよ」 というわけで、わたしは夜中に長女に呼び出されたのだ。 就職して半年も経たないのに転職を考えている、と打ち明けられたのはついこの間のことだった。 つなぎに派遣登録をしたいからと。 わたしは、大反対をした。 派遣社員が悪いわけではない。 パートスタイルの時給が気に入らない。 病気をして休むと、すべて自分に降り掛かる。 保障が薄いことが、しんどいと思えたから。 その時はしぶしぶだったけれど、一度嫌気がさした職場である。 どうも働く元気が出ないらしい。 わたしと長女の彼氏とで、転職の条件を出した。 安易の繋ぎではなく、これと思う方向が見えるまでは、今の職場に専念し平行して求職活動をすること。 それ以来、彼女は何がやりたいか模索を始めていたのだ。 「一体母さんを呼び出して、何の話?」 「まず、おめでとうの乾杯をして」 「だから、何?」 「今日ね、決まったの。仕事」 「まぁ、良かったじゃない。おめでとう」 彼女は満面の笑みを浮かべて 「ありがとう。おかげさまで」 と、大仰に頭を垂れた。 嬉しさがひしひしと伝わってきた。 親というものは、こうも子供の喜怒哀楽に、一喜一憂するものかと苦笑する。 でも、今日のは手放しに嬉しかった。 焼肉のコンロを挟んで、わたし達は頬を紅潮させていた。 カルビだの牛タンだのをせわしく口に運ぶ長女は、何度も嬉しいを連発し、心から楽しそうに笑うのだった。 その顔を眺めながら、高校、大学と登校拒否を重ねたことを、わたしは懐かしく思い出していた。 「母さんのやり方にはもううんざりだわ。 親が勝手に敷いたレールの上を走るのなんてたくさん。 いいかげんあたしを解放してよ。 あたしは良い子じゃないの。元々悪い子なのよ。 勝手にあたしを作らないでよ。 あたしは、あたしのやり方で生きたいの」 長女の反乱に、わたしは打ちのめされた。 品行方正で優等生。 貼られたレッテルのすべてがおぞましいと泣き叫び、そして家を飛び出して行った。 良かれと思ってしたことのすべてを、覆されたのだった。 あの時の歪んだ顔が浮かび、彼女の横に並んだ。 でも今は、微塵もない。 想像ができないくらい、穏やかな顔になった。 「母さん、大好きよ」 「なぁに。唐突ねぇ」 「唐突なのは母親譲りよ」 何の脈絡もなく出た言葉だったけれど、互いの脳裏には、同じものが浮かんでいたのだと直感した。 「乾杯!」 わたし達は、二杯目のジョッキをカチリと当てた。
2005年01月21日
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分かっていても確かめたくなる。 必要か、否か…。 「母さんって必要?」 「うん」 「なんで?」 「リアクションが面白いから」 「もっと違った意味でない?大切だからとか、かけがえのない人だとか」 「ない」 「ねぇ、ない?」 「あったかも。そうやって娘に、自分の占める位置を訊ねるところと幼稚なところ」 「もう、ぷん、ぷん(佐藤玉緒ふう)」 「だからぁ、そういうリアクション」 納得……。 「ところで、今日はデートだから」 「あ、そう。行ってらっしゃい」 「聞かないの?相手が誰とか」 「楽しきゃ良いじゃん」 更に、更に納得。 我が家の娘どもは大人だわ…ふぅ。
2005年01月20日
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世の中には、『まさか…』が山ほどある。「嘘でしょう?!まさか…。そんな話などあるわけがない」 わたしは少なくとも、三度以上はこれを経験した。 そうなると、その坂は本当にあるということなのである。 でも『まさか』という名の坂を上りきってしまうと、 その存在をどこかに忘れ去ってしまうらしい。 次の『まさか』がやって来た時、また同じように絶句してしまうのだから。 しかし坂なのだから上りきれるし、やがて下ることができる。 上りの苦しさは、継続しない。 いつしか下りがやってきて、苦しさは緩和されるのだ。 別に、それを喜んだり楽しんだりしている訳ではないけれど、 乗り切れると認識していれば、実は辛さが半減する。 こんな話をすると、どこかで意地悪な神様が聞いていて、「懲りないヤツだなー。もう一泡吹かせてやろうか」 になるかもしれないから、ここだけの話で忘れて欲しい。 とりあえず、まさかという名の坂にぶつかったら、登れば良い。 そう信じて、わたしは今日も生きている。
2005年01月19日
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ドライヤーの手を止めて振り返ると、 そこには、朝焼けに染まった富士山があった。 こんな日は、きっと良いことがあるに違いない。 起き抜けに感じた胸騒ぎは、気にしないことにしよう。 ここに越してきて、無宗教のわたしが富士山を信仰している。 なんだか笑ってしまうけど。 「富士山が見えるだけでも、幸せじゃない」 遊びに来ていた姉が、窓際に立ってぽつりと言った。 五十を回って遭遇した妹の、諸々の災難の中から拾った、 せめてもの慰めに聞こえた。 「そうよ。最高よ。富士山が見えた日は清々しい気持ちでいられるもの」 契約した日には見えなかった富士山が、 ある日突然見えた時、飛び上がるほど嬉しかった。 「きっと神様からのご褒美だわ」 素直にそう思えた。 人は少しでも楽になると、欲が出る。 ほんの少しの贅沢がしたくなる。 でも今朝の富士山は、それを戒めるように、 気高くて神々しかった。 心のあり様さ、と説いてくれた。 ほんのり頬を染めた富士山を、わたしはそのまま飽かず眺めた。 手を合わせようとした右手には、 まだしっかりとドライヤーが握られていた。 いつもの朝。 いつもの時間。 だけど今日は、こんなに気持よく始まった。
2005年01月18日
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風呂掃除を忘れていたので磨きまくってパソの前に座ったら、 もう明日になっていた。 明日は五時に起きて、お風呂に入る。 だから、もう寝なくちゃ。 なんだか損をした気分。 長女は明日、明後日と今年初めての連休で、彼とルンルン。 次女はバイト明けで、飲み会に行った。 だから、わたしは今夜も独り。 だから、一人寝。おやすみなさい。
2005年01月17日
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昨日の続きで、居間が決算前の会社みたいな状態。 もういやだ。 わたしには、どんぶり勘定が似合ってる。 元銀行員は、変なところで妥協できないから困る。 高が家計簿なのに。 通帳残高と現金とを今更合わせてみたってねぇ。 もう、やーめた。 美味しい珈琲を飲むために、掃除に取り掛かろうっと。 捨てるには忍びない大根の葉をテーブルのグリーンに photo by sion
2005年01月16日
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一年の計として、何度心に誓ったことだろうか? 今年こそは家計簿をつけるぞ!…と。 でも、ほとんど最後までつけた試しがない。 途中で飽きてしまうのだ。 何故飽きるかというと、「どうせ出るものは出るんだー」的発想に落ち着いてしまうからだ。 ところが現在は、その家計簿を余儀なくされている。 我が家は、子供達との共同生活なのだ。 必要経費を上げ予算を立てて、バイト代や給料を出し合って暮らしている。 だから、月に一度はきちんと会計を報告しなければならなかった。 余計な経費は極力省いているのに、延々と続く赤字にはうんざりしてしまう。 今日も部屋中にレシート類を広げては、眉間に皺をよせている。 それでも、こうして路頭に迷うことなく暮らせるのだから、 良しとしなければ……。
2005年01月15日
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独り身になったから見えてくるものがある。 先日、ある夫婦とほぼ一日行動を共にした。 車の後部座席から、前のやりとりをぼんやりと眺めた。 なにげない仕草、言葉のキャッチボール。 そのなんでもない光景が、そこはかとなく良いのである。 今更照れくさくて声にはしなかったけれど、 ああ良い夫婦やってるなーって、こちらまで嬉しくなった。
2005年01月14日
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こんな話をすると笑われるかも。 わたしが受験生だった頃。 もちろん携帯電話もメールもましてPCもない時代である。 受験勉強の合間にすることといえば、文通相手を探したり、 ラジオの深夜放送(主にオールナイトニッポン)を聴き、 リクエストカードが読み上げられるか否かが最大の関心事だった。 そして運良く、蛍雪時代の友達募集コーナーで見つけた男子と始まった文通は、 限りなく未知への誘いであった。 今の時代の高校生には、 じれったくて許しがたいくらい緩やかな時を過ごしたものである。 そうやって見つけたボーイフレンドは、沖縄の人だったり、北陸の人だったり。 結局、顔も知らないままに終わってしまったけれど、 今頃はどんな暮らしをしているのだろうか。 この季節になるとなぜか思い出して、ふと苦笑する。
2005年01月13日
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争い事が嫌いなのは、思春期のトラウマか。 とにかく自分の言い分を主張したり、弁解するのがとても苦手だ。 頭の中には反論できる材料が、理路整然と組み立てられるのに、それが口から出ることはなかった。 ああ言えばこう言う式で口論に発展することが、好きではないからだ。 結果、誤解され易かったし、現実問題、誤解されまくりの人生だった。 だからといって、少しも困りはしなかった。 それでも中学時代は、議論で負けたことがなかった。 通知表の通信欄には、「理路整然とした意見が述べられる」と記載されていたほど活発な少女だった。 この四字熟語では、よく父に冷やかされた。 学校でどんなだったか、一目瞭然だったからだろう。 負けず嫌いで、正義感の塊だったのだから。 高校生の頃。 両親の諍いが辛かった。 わたしにとっては、死活問題だった。 二人の妹を守ることが、自分を守ることだった。 言いたい事は仕舞い込むようになった。 言い返さなければ、起こらない夫婦喧嘩を哀しいくらいに見たからだ。 人が争う場面が嫌いだ。 怖くて逃げ出してしまう。 心臓がきゅーっとかじかんでしまう。 だから、今では反論も飲み込んでしまう。
2005年01月12日
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最近、将来をよく考える。 このままではいけない…と。 これからどういう生き方をすれば良いのだろうか、等と。 具体的なものは見えて来ないけれど、生きがいを感じながら、それを仕事として定着させるものはないだろうか。 それには、好きなことを列挙してみるに限る。 パソコン、いけばな、着物、料理…。 これって、普通に主婦をするってことだよなー。
2005年01月11日
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去年の成人式の次女の顔が浮かんだ。 あれからもう一年……。 長女には作ってやれた振袖を、次女には作れなかった。 生活をすることがやっとで、それどころではなかったから。 それでも彼女は健気に、不平は言わなかった。 急に失ったすべての事柄に対しても、 「生きていれば良い事があるはず」 と、ひたすら前向きだった。 「死んだ方がましだ」と泣き叫ぶ、わたしや長女を冷静に励ましてくれた。 恥ずかしいけど、当時わたしは現実を直視できなかった。 「なんで?どうして?」が心の中を渦巻いていた。 「ああ、あんなに頑張ってこれ?」 半狂乱だった。 そんな母親を見る娘の気持ち、どんなだっただろう。 きっと情けなくて、辛かっただろう。 「母さんの振袖が着たい」 次女が言った。 キモノ類は、お金にはならない。 着る機会は二度と来ないかもしれないのに、 わたしの母との思い出が詰まったキモノは、 どうしても処分できなかった。 取り出してみたら、羽二重の胴裏がシミだらけだった。 そんな振袖を、誰が晴れの日に着ているだろうか。 長女と次女の身長の差は、15センチある。 一度しか着ていない振袖だけど、次女には袖が長すぎた。 わたしの気持ちとは裏腹に、次女は薄汚れた振袖を着ると譲らなかった。 二枚の振袖を持って、予約したホテルへ向かった。 事情を説明したら、係の方がなんとかしましょうと請け負ってくれた。 結局、次女は長女の振袖を着てわたしと長女の前に現れた。 小柄な彼女の胴にバスタオルを巻き、どうにか着せてもらったのだ。 長女には中振りだった袖が、次女には本振り袖であった。 わたしは力がぬけた。 良かったと思った。 いくらなんでも晴れの日だ。 総絞りの長女の振袖は、それなりに見栄えがあった。 次女にもしっかりと似合っていた。 「ねぇ、三人で記念写真撮ろうよ。こうして無事成人式を迎えられたんだもの」 次女の提案で一枚余計に写真を撮った。 先日、わたしの大好きな加賀友禅の小紋を次女に着せた。 背格好が同じくらいの次女には、ものすごく似合っていた。 亡き母の気持ちが良く分かる。 こうして母はわたしを眺めていてくれたのだ、と思った。 「全部あげるから。母さんが大事にして来た着物、全部あげるから」 やっと、亡き母との思いを娘に渡せた。 お正月にわたしの振袖を着た次女@鶴岡八幡宮(上手に帯を結べないので二重太鼓で我慢してもらった)
2005年01月10日
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味覚には個人差がある。 「どこどこが美味しいよ」で、嵌ったためしがない。 でも、それはこういうことなのだと思う。 「美味しい」と言われると、ものすごい期待を持つ。 だから、採点もうんと辛くなり、想像以上の味でない限り感激しないのだ。 「テレビで見たんだけど、美味しいラーメンがあるから行こう」と誘われた。 あまりお腹はすいてないのだけれど、同行した。 店の前には、雑誌に載った切抜きがこれ見よがしに貼ってあった。 ところが出てきたラーメンは、わたしを感動させなかった。 どの辺りで箸を置こうか、とY氏の顔を伺いながら食べていた。 最高の調味料である空腹を持ち合わせていなかったからなのか。 彼は、美味かったと餃子まで平らげた。 単なる味覚の差異? Y氏は、大の麺食いである。 伸びたラーメンも平らげる。
2005年01月09日
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涙が出る。 とめどなく。 家族を捜し求める姿に、胸が熱くなった。 一瞬にして失った最愛の家族。 時間よ、戻れ。 たった数秒で良い。 そんな気持ちだったろう……。 インド洋大津波。
2005年01月08日
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昨日は、久しぶりに次女と二人で飲んだ。 近所の居酒屋で。 わたしはひれ酒を飲み、彼女は生ビール。 大きくなったものだ。 前髪と一緒に結わえたポニーテールが、大人と子供の間を揺れている。 きれいになったものだ、と思う。 今が一番、花なのだろう。 「ひれ酒飲んでみる?美味しいよ。寒いから中から暖まるよ」 勧めた湯呑を口に運んだ。 「あ、本当!美味しい」 「明日は七草粥なんだ。作ってくれる?」 「七草の材料ある?」 「冷蔵庫の中。お姉ちゃんの分もね」 夕べは睡魔に負けてしまって、わたしは帰宅するや風呂に入ってベッドイン。 今朝起きてみたら、ちゃんと七草粥が作ってあった。 暖めて食べてみると、中々美味しかった。 ただ、青菜を入れてしまっているので、色が悪かった。 来年は少しアドバイスをしよう。 今年は、初めて作ったのだから、誉めるだけ。 寝顔にそっとチュウをした。 「ありがとう」 一人ごちて、家を出た。 清々しい冬の朝の中に、わたしは入って行った。
2005年01月07日
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最初に文章を書き始めた頃。 わたしは心のストリッパーだった。 なにも隠さずに、書きなぐっていた。 「プライバシーが…」 「そこまでばらさなくても…」 「ストーカー対策は…?」 周囲の友人・知人は、はらはらと見ていた。 あれからどれくらい経ったのだろう。 世の中は、変化した。 こうして日記は公開され、前面露出組は日々増え続いている。 でも、誰に何を言われても、心のストリッパーは快感だった。 爽快感が満ち溢れていた。 あれって、一体何だったのだろうか。 今は、少し撰んでいる。 プライバシーを、重んじている。 今更だけど、自分は自分で守らなきゃあ。
2005年01月06日
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スカートをはかなくなった。 いつからだろうか? もはやスカートは、クローゼットの中に数えるほどしかない。 ここ数年の環境の激変による数度の引越しの際、多くの物を捨てた。 収納スペースがないというのが、最も大きな理由であるけれど、その中に必然的に入っていったのが、スカートの類だった。 パンツスタイルは、活動的である。 形振り構わず仕事をするには、無駄がなくわたしには格好のアイテムであった。 お気に入りのパンツともなると、全く同じものを何枚か購入し、代わる代わるもう二年くらいはいている。 でも、ふと気づいてみたら、それはわたしだけではなかった。 二人の娘達も、ほとんどパンツ一辺倒なのだった。 まさかわたしのが伝染したという訳でもあるまい。 そう思って辺りを見回すと、パンツが圧倒的に多いことに気がついた。 わたしがというより、時代の流れなのかもしれない。 その波に、知らない間に乗せられているということなのだろう。 何気なくテレビを見ていたら、韓国の俳優さんの理想の女性像のコメントが映っていた。「パンツスーツが似合う女性」がお好みなのだという。「スカートをはけば、誰でも女性的であるけれど、パンツスーツをはいても、女性的に見える人」ということなのだろうか。 果たして、わたしはどう映っているのかと、妙に気になった。 素朴な疑問を、長女に投げてみたら「あなたは中性的です」と返ってきた。 なるほど、なるほど。 でも、腐る前にフォローがあった。「時には男性的で、時には女性的」なのだそうな…。 ふーん。 まぁこんなところだろうな。
2005年01月05日
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新しい年が来た。 でも、わたしの日常が輝くほど変化したわけではない。 もちろん、当り前の話だけれど。 昨日、今日。 窓の外は物凄い強風で、干したばかりの洗濯物が激しく揺らいでいる。 先ほどから何度も洗濯物を確認するけど、取り込みやしない。 少しでもお日様に当てようとする、せこい自分に苦笑。 カーテン越しの柔らかな光が好き。 家の中が好き。 家事が好き。 少しでもきちんと暮らしたくて、片付けまくる。 埃のない空間で珈琲を飲み、ワインを嗜み、安堵する至福。 これがいつものわたしの休日なのだ。 きっと、ずっと、ずっと……。
2005年01月04日
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駅伝が終わった。 昨日は往路のゴール、箱根で待機した。 空は青く晴れ、ヘリコプターが数機、雲間に浮かんでいた。 時間と共に増える応援の群衆の中、やがて選手達が次々とゴールして来た。 各大学別に待機している仲間の中に、苦しげに雪崩れ込む者、少しだけ息を整えて、平然としている者。 悲喜交々なドラマを、わたしは初めて目の当たりにした。 それは、身体中が鳥肌立つくらいの感動と臨場感をくれたのである。 友人夫妻に誘われて、今回初めて便乗させてもらった。 毎年、追っかけをしている彼らの気持ちが、ようやく理解できた。 明けて今日は、テレビに釘付けになって見入った。 友人の出身校である神奈川大学の、シード権をかけての熾烈な戦いに、目が離せなかったのだ。 そして神奈川大学が十位でテープを切った瞬間、わたしは飛び上がっていた。 同時になんとも不思議な喜びが、身体中を広がっていった。 友人の出身校であるという以外、わたしには何のゆかりもないのに、一緒に追っかけたことで連帯しているのだった。 来年も、また行こうかな。 悪くない感動に、わたしはひとりでニヤついている。 車中からターンバイク沿いの風景 ホバリングする取材のヘリコプタ ゴール後の風景 photo by sion
2005年01月03日
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子供達の、お節はいらない、という言葉を真に受けて、本当に何も作らなかった。 結婚をして、こういう正月は初めてである。 それがどこかうら寂しくて、例えば筑前煮だけでもと思ったのだけれど、すべて「ノー」なのだった。 今までは、我が家のお節はこういうものだ式に、押し着せて居た嫌いがあった。 考えてみると、家族が崩壊し新しい形の生活が出来上がったのだから、何もわたしが古いものを押し付ける必要はないのかもしれない。 すでに伝統的なことは、営々やって来たのだから、それなりに頭の片隅にはインプットされていることだろう。 そう思うことで、永年の習慣であった「お節料理」を、今年は端折ってみたのである。 第一、目の前のスーパーは元日早々開店しているし、昔のように食料品を三ケ日分貯蔵しておく必要はない。 財布を片手に飛び込めば、新鮮なものが手に入る。 暮れには、雑煮の具材(餅すらいらないというのだが)や、おつまみ程度の買い物をしただけだった。 娘と三人で迎えた簡素で、怠惰な正月。 結局、二日から勤務が始まる二人の娘の為に、元日は寝正月で英気を養うことにした。 これも後になったら、懐かしい思い出になるのだろう。
2005年01月02日
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2005年元旦。 明けましておめでとうございます。 最近、一年が速い。 え?もう新年?…というのが、正直な感想である。 どんな年にしようかなってことより、すべてを受け入れて自然体に暮らせたらいいかなーっていうのが、今は自分流な気がしている。 友人の奨めで、去年の三月から始めたこのブログ。 最初は、ものすごい違和感を覚えた。 日記を公開する抵抗感というより、毎日何かしら『書かなければ』という脅迫観念のようなものに対して、である。 でもその反面、見方を変えて日記というジャンルを取っ払っちゃえば、面白いかもしれないという、好奇心もそそられた。 そこで、とにかく書きなぐってみたのである。 結果、事実を書き留めるというより、内面や心情の吐露に重きを置いてしまった感は否めない。 長い間(といっても十年足らずであるけれど)書いてきた、わたしの文章は、いわば日記文学だと、ある友人に言われたことがあった。 ということは、ブログはきっとわたしに合っているということなのだろう。 だから今後も試行錯誤しながら、わたしはこうして毎日キーボードを叩く。 読みたくないものは無視していただいて、また一年お付き合い願えたら……、と元日の冨士山を望みながら思うのである。
2005年01月01日
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