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本当に久しぶりに鎌倉を歩いた。 しかしながら、ものすごく駆け足だった。 何しろ、桜があんなに慌てて咲くものだから。 どこの桜にしようかと、電車の中で考えた。 いつも時すでに遅しとなる光則寺の山門前の枝垂れ桜が浮かんだ。 だから文句なしに、そこを目指した。 今日は本当に花見日和だったのだけれど、あいにく仕事だったので、終業の三時に脱兎の如く電車に飛び乗った。 今年の桜は堪え性がなくて、どこもかしこも満開だった。 そして人・人・人がごった返していた。
2008年03月29日
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腰痛が始まってすでに一月が過ぎた。 接骨院へ足しげく通ったおかげで、どうにか日常生活には支障がないように思われた。 でも、時折そんなことを忘れて重いものをひょいと持ってしまうと、たちまち元の木阿弥である。 昨日は会社で灯油が満タンのストーブのカートリッジを渡された。 あっと思いながらも受け取ってしまって、うっと言ってしまいそうなのを堪えたのだけれど、なんとなく背中から腰の辺りが鈍くいたんだ。 またあの激痛が走るのかなぁ、と頭の片隅をよぎったが、どうにか事なきを得た。 もう少し大事にしないといけないのに、ついつい喉もと過ぎれば……である。 最近心身ともにイマイチなので、今朝のように折角の好天気にも、出かける気力が起こらない。 鎌倉に出向いて、花の写真でも撮りたいなぁと思うのに、一方ではこれから月末にかけての仕事の多忙さを思うと、今日はしっかり養生しておかないと、とブレーキがかかってしまうのだ。 だからと言うわけでもないのjだけれど、心は鬱々としてしまう。 もしかしたら春と言う季節のせいなのかもしれない。 こんな時に限って、些細なことが気になってしまうのがわたしなのだ。 風呂場の片隅にこびりついた小さな汚れが気になった。 歯ブラシやめん棒、竹ひごや持って落としにかかった。 こうなったら止まらない。結局、隅から隅バスエプロンまではずして完全な大掃除となった。 でも、不思議なくらいにきれいに落ちた。 手はしわしわのおばあさん状態になったけれど、少々黴臭かった風呂場がピッカピカに生まれ変わった。 汚れがまるでわたしの心にこびりついたもののような気がして、気合が入った。 おかげですっきり。 こんなことが心の洗濯になるわたし。 なんて安上がりなんだろう。 すっかり癒されて風呂場から出てみると、感化されたのか長女が掃除機をかけていた。 埃のない部屋は、なんて気持ちがいいのだろう。 また明日から頑張れそう。 そんな気がした。
2008年03月23日
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久しぶりに箱根・ポーラ美術館を訪れた。 友人夫妻に日帰り温泉を誘われたついでに、寄ってもらったのだ。 やはり新緑や紅葉の頃とは違って、少し寂しかった。 でも、やがてこの建物が森の中に埋まっていくのかと思うと、少しこころがときめいた。 折りしも館内では、『モネと画家たちの旅』(~3月23日)が展示されていた。 ゆっくりと堪能し、その建物の空間を流れる柔らかな空気を胸いっぱいに吸い込んだ。 絵画や展示物から発散されるオーラなのだろうか。 わたしの内面はゆっくりと満たされた。 特に絵画が好きだというのでもないのに、胸の内が豊かになるのだ。 だから美術館が好きなのだけれど。 美術史の中では、やはり印象派がわたしにはしっくりと来る。 特に好きなのは、ピサロ、スーラ、シニャックの点描画だ。 今回は、ポール・シニャックの『オーセールの橋』の前で釘付けになった。 連れて来てもらって良かった、と心から友人夫妻に感謝した。 すこし低迷していたわたしの気分は、一気に洗われて急上昇。 もう少し緑が増えたら、また来よう。 ※美術館前のヤマボウシの花が咲く頃(H18年撮影)
2008年03月16日
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あまりに天気が良いと、鎌倉散策にでも行きたくなる。 夕方美容院を予約したので、それまでに出かけて来ようかと、家事の期限を切ってみた。 ところが、先日献血をして以来の、体の不調が戻らない。 腰痛が悪化の途を辿るばかりで、毎日整体に通っているのに、芳しくないのだ。 足を引きながら掃除機をやっとの思いでかけ終えた時には、出かける気力はすっかり失せていた。 鎌倉散策好きのわたしが、行きたい気持ちとは裏腹に諦めざるを得なかった。 そのくらい、今のわたしの体は絶不調なのだった。 それならば、と家事に勤しむのだけれど、全く体が言うことをきかない。 拭き掃除も端折ってしまう有様だ。 ちょっと情けない。
2008年03月09日
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最初にいただいたものは、失敗してしまったので、今度は心して料理しよう。 さっき茹でて、今は冷水に晒しているところ。 これを刻んで、油で炒めて味噌、味醂、砂糖、ごま油で味をつける予定である。
2008年03月08日
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毎朝、四時起床。 家を出る時間まで三時間半ある。 なんでそんなに早く起きるの? 周囲によく聞かれるけれど……。 仕事では一秒を何倍にもして動き回っている。 ちちちちちt……。 こんな感じで時を楽しむ暇がない。 だから、せめて自分の時間が欲しいから、睡眠時間を削るのだ。 睡眠時間は平均して4時間くらい。 今のわたしには少しも辛くない。 毎朝の三時間半が、誰にも邪魔されないわたしの時間だから。 昼間とは違って、ゆったりのんびり、時を楽しむ。 大好きな家事の後に、朝風呂に入って美味しい珈琲を淹れて飲む。 これはわたしにとって唯一贅沢な時間なのだ。 そして、こうしてパソコンに向かう。 昨日をゆっくり反芻しながら、今日を思う。 そすると、今日もまた、頑張れる気がする。
2008年03月08日
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職場の先輩と仕事帰りにちょっといっぱい。 いつもの居酒屋である。 お馴染みのお姉さんに、春はいかが?と勧められた。 メニューを見ると、真新しい短冊に春の食材が書かれている。 「それじゃあ、ふきのとうのてんぷら、独活(うど)の酢味噌、焼きたけのこ」 を並べてもらった。 お通しで出た鰤大根も絶妙で、わたしはつい美味しいを連発した。 「じゃあサービスだ」と、板さんから山盛りの鰤大根が出た。 どれをつついても、春の香りがいっぱい。 ふきのとうのてんぷらの脇には、独活の穂先のてんぷらも、タラの芽よろしく並んでいた。 「うまいよ、食べてみな」 どうやらこれも板さんの心意気のようだ。 そのほかにはからすみ大根や肉豆腐、ポテトサラダの定番メニューも加わった。 美味しい酒を飲みながら、口の中に広がるのは、春の香り。 ものすごく至福だ。 春を確かに頂きました。 満足である。
2008年03月07日
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ふきのとうをいただいた。 ふきのとう味噌を作ろうと、あのほろ苦い旨さを想像し、ごくりと生唾を呑んだ。 絶対に上手に作るという自信の元に、ネットで検索し調理するつもりで、茹でて灰汁を出す為に一晩水につけた。 ここまでは良かったのだけれど、ついつい目の前の煩雑なことにかまけてしまって、そのまま放置し腐らせてしまった。 一晩が二晩になったのだから、それは仕方がない。 でも、たまに冷蔵庫で放置して駄目にしてしまうレタスやきゅうりに比べると、ものすごい罪悪感を覚えた。 今しか採れない旬のものを腐らせてしまったという罪悪感は、捨てる時の掌になぜか痛みすら残した。 またこの季節まで一年の歳月を待たなければならないのだ。 来年は、ちゃんと作るから。 と、そっと心の中でつぶやいた。 姿を変えてしまった茹でたふきのとうを、わたしは厳かに捨てた。
2008年03月06日
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川沿いの、桜並木を見るとはなしに眺めていると、枯れ木色だと思っていたのに、その辺りがなんとなく桜色オーラで包まれているのを今日感じた。 これは昨日今日に感じたことではなく、もっと遠くの、故郷の桜並木でも同じような感じに遭遇したことがあった。 まだまだしっかりと閉じた固いつぼみは、実際に近づいてみると色はない。 それなのに、全体を包見込む霞のような桜色を、わたしはいつもこの時季に感じるのであった。 最初に出遭ったのは、悲しみのどん底にいた故郷の川沿いであった。 来る日も、来る日も、そのどんよりと重たい苦しさからの解放はなく、いっそ……と何度考えたことだろうか。 それでも一雨ごとに春が近づくことを知らせる雨上がりのある日、やはり見るとはなしに眺めた桜並木全体を、この桜色オーラが包んでいた。 目の錯覚なのだろうかと、車を土手に片寄せて、わたしはその桜並木に目を凝らしたのである。 厳しかった冬の寒さをまだ半分抱えている季節に、わたしの心は少し綻びた。 絶望しかないと、ふさぎこんだ日々に、一筋の光のような希望が芽生えた。 それから、どのくらいで桜は開花したのだろうか。 一月だったかもっと早かったか記憶にはないのだけれど、桜色オーラを感じると、毎年わたしは元気になった。 今日も、当時を思いながら、ほんの少しだけ元気をもらった。 わたしはそれを密かに、蕾色の季節と呼んでいる。
2008年03月04日
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幼い頃の楽しみの一つに、桃の節句がある。 本当は一月遅れの四月三日にお祝いをしてもらっていたので、桃というより桜であったのだけれど。 母にこさえてもらったお弁当を持って、近所の友達を誘い合った。 向かうところは、石段を百段ほど登った寺の境内の毘沙門堂。 常日頃は大人たちの集会場所だったが、節句だけは子供達に解放されていたのだ。 持ち寄ったそれぞれの、色とりどりのご馳走を披露し、皆でつつきあった。 中身は大体似通っていて、巻寿司やお稲荷さん、散し寿司、そしてデザートの赤や緑に染められた寒天だ。 味は各家庭で微妙に異なったが、わたしは密かに母の味が一番だと思っていた。 時には喧嘩をして仲間はずれにされた年もあったし、親の経済的理由で参加できない年もあった。 でも当時はそんなことが最大の喜びであり、楽しみだったのである。 今ではそんなことが妙に懐かしく、辛かった思い出はすっかり忘れてしまい、いつしか楽しいことだけが記憶の襞の中に埋め込まれている。 桃の節句。 だからわたしは、母がこさえてくれた散し寿司を作った。 今は亡き、母を思いながら。
2008年03月03日
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布団をベランダに並べるとき、なんだかとても幸せを感じる。 こんな些細な時間が、大切なのだと。 狭いベランダに家族中の布団は干せないから、順番だ。 今日は始発電車で出かけた次女の布団を並べた。 シーツを思い切り剥がして、洗濯機に放り込んだ。 洗いあがった大きなシーツは畳んで、パンパンと叩いた。 広げてそれを干すと、ベランダは幸せの満艦飾。 傍らでは、コーヒーメーカーがごぼごぼと音を立てて芳香を放っている。 こんな日曜日が、たまらなく好き。 まだ春と呼ぶには少し距離があるけれど、頬を撫でる風はもう春の匂いを含んでいた。
2008年03月02日
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気がついてみると、もう三月だ。 新しい年を迎えたばかりだと思っていたのに。 まだまだコートが脱げないのに。 大地はものすごい勢いで眠りから覚め始めた。 大きく伸びを始めた。 それを支えるように、お日様が暖かい。 昔、むかし。 厳しい冬を越せるかなーと弱気になった時、この裏切らない季節だけが頼りだった。 今は寒くて厳しいけれど、春の来ない冬はないのだから、と己に鞭を打った。 やがて、地面が割れ柔らかな新芽が顔を出すと、歓喜に満ちた。 待っていた甲斐があった、と安堵した。 だから。 すべての季節を愛せるのだけれど、とりわけ今のこの時季が好き。 心からほーっとするから。
2008年03月01日
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