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梅酒用のブランデーを買っておいたのだが、今日ようやく日の目を見ることになる。晴れて梅酒として旅立ちを迎えたのである。一応日記に書いておかないと、梅酒はいつ浸けたかわからなくなる。したがって単なる記録として残しておく。分量はチョーヤブランデーVO1.8l(アルコール度数37度)、青梅(種類わからず)中粒1kg、氷砂糖500gブランデーは香りが弱く、アルコール度数も低い。原材料を見ると何も書いてない。恐らく梅酒用にアル添し、ブレンドされているものなんだろう。青梅は近くのスーパー西友で購入。水洗いし、一個一個キッチンペーパーで拭き、なり口のホシを竹串でほじりだす。2個ほど凹みがある粒を見つけたが青くしっかりしているのでそのまま使う。本当はアク抜きに6時間ぐらい水に浸けておくというが、水分を抜き乾燥させるのが面倒くさいので省略する。4Lの広口瓶をアルコール消毒し、梅を一個一個入れていき、日新製糖の氷砂糖クリスタルを500グラム梅の上に置く。梅と砂糖を交互に置くというレシピがあるが、砂糖の分量が少ないので上から置いてもいいではないかと勝手に解釈する。仕上がりのアルコール度数を16度~18度ぐらいを想定する。最後にブランデー(ほんとにブランデーなのかよくわからないけど、いっちょ前にvoの表示があるのでvoのブレンドなんだろう。)を静かに注ぐ。梅酒のレシピは砂糖メーカーの袋の裏、焼酎の箱の裏、広口瓶メーカーの栞に書かれているが、砂糖の分量がぜんぜん違っている。焼酎:梅:砂糖を同じ比重だとすると1.8:1:1が砂糖メーカーで、焼酎メーカーは1.8:1:0.4~0.8であり、瓶メーカーは1.8:1:0.5~0.8である。ものの本では1.8:1:0.2~0.5というものもある。この砂糖の扱いが私は気になるのである。梅の取り扱いは丁寧に書いてあるのだが、砂糖の扱いは書いてない。なぜ梅と交互に入れるのか、なぜ分量にこんなバラつきがあるのか。梅酒は浸けて翌日には梅が浮いてくる。この時砂糖はまだ溶けておらず、下に沈んでいる。したがって瓶の下のほうは砂糖濃度が濃い比重の重たいもの上は梅の実で比重が軽いものに分離される。この砂糖濃度の浸透圧で実がしぼんだり、膨らんだりしながら梅の実は徐々に瓶のそこに沈んでいくのである。沈みきるのに砂糖濃度が低ければ早いし濃ければ時間がかかる。長時間のほうが梅のエキス分は多く抽出されることになるので、砂糖が少なすぎると梅の収縮がなくなるので0.4以下は危険じゃないかと思うのである。砂糖とアルコールはアロマを強く感じさせる効果を持っているというのが私の持論で、もし砂糖濃度を弱く浅く浸けるのであれば40度のホワイトリカーを使ってもいいのではないかと思うのである。仕上がりの梅酒20度ぐらいにしたい。との推論をもとに来年は40度のウォッカでも挑戦したいと考えているのである。ウォッカ1.8:梅1:砂糖0.4で挑戦したいと。
May 27, 2007
東武東上線の大山駅周辺にはラーメン屋が多い。熊野町から山手通りを区役所に向かい、区営の地下駐車場に車を止め大山商店街へ。先日飲んでいて、大山に旨いつけめんがあるという話が頭に残っていた。このウル覚えがなんとも悲劇の始まりだった。どうやら、大山はつけ麺の聖地で、つけ麺ファンは大山詣でをするらしい。あとで調べたところでは、たなか屋、龍神、秀虎、あきんど等つけ麺を売りにしている店が結構多い。先ず、調査隊(隊長ひとりの調査隊である)は大山駅から来る商店街と山手通りが交差する角の店に入った。名前を忘れた。あまり店構えはよくないが、そこそこ汚い店が旨い店なんだろうということと酔っ払いの記憶では商店街の出口で大通りに面してるとの記憶があった。ところがメニューを見て焦った。つけめんが無いのである。一瞬目の前が暗くなり、すぐに出ようか迷ったが、お腹に溜まりそうも無い冷やし中華を頼み食べて店を出る。帰るという迷いはなく商店街を入っていくと直ぐの所につけ麺「秀虎」の看板を見つける。ここの券売機でつけめん醤油を購入。店は私以外は客が一人。中麺の固めの麺で旨かった。食い終わるころにスープを出してくれる。白濁のとんこつスープで汁に割って飲んでくれとのことだった。ただ、替え玉するほどの味の濃さはなく、つゆに酸味もないので割ると非常に美味く憩えた。(この時はなるほど名店だと思ったもんである。)ここで店を出て、大山のつけ麺屋に行ったぞ!との電話を飲み仲間に入れると「そこではないどこかへ」との返答が返って来る。そこからまた探索が始まる。実はキーワードの大通りは山手通りではなく、川越街道だという。ということは駅の反対側である。商店街にはまだまだラーメン屋がある。ラーメン屋だけでない。居酒屋、定食屋、ホルモンなんでもあり誘惑が多い素敵な街であることを発見した。結局、商店街を駅の反対側に出て、川越街道沿いの「らーめん岡崎」にはいる。ここは汁が赤い。ここでもうひとつのキーワード「辛い」を思い出す。ここはもう中丸。夕方まで仕事をしていた熊野町は直ぐ近くである。三角形に移動して元に戻ってきた感じがする。ここが目的の店だったかって?怖くて電話できませんでした。大山恐るべし!
May 26, 2007
野球の特待生制度で高野連に非難が集まっているが、私は高野連は正しいように思える。純粋な奨学金の基金で運営されているなら、知育でも体育でもかまわないが、お金の源泉はどう考えても寄付である。行政の補助金とか奨学金というものは普通ヒモ付きであり、使途がはっきりしている。ところがどうもあの寄付金というのが自由というか胡散臭さを感じるのである。スポーツで有名になり、生徒が集まり、寄付を募り、設備を拡大し、生徒が集まり寄付を募り、設備を拡大しスポーツを強化するという図式がある。たとえば、同じ経営者が学校法人と宗教法人を営んでたとする。今、野球部のグランドが狭いということで寄付金を募って調整区域に農地を買って、グランドに転用したとする。ところが転用されてまもなく宗教法人にこの土地を売却し宗教法人は墓地として分譲してしまう。宗教法人は売却代金にかなりの色をつけるだろうし、そのお金でまた土地を買い今度は設備投資までしてしまう。最終的には寄付金以上の立派な設備が出来上がる。端的に言えば寄付金を使った土地転がしで利得を得ている。高校生の分際でナイター設備のあるグランド持っているのが、うちの近所の甲子園常連校である。ところが寄付をするほうはもっと崇高な理念を思い描いている。子供たちに才能を伸ばすチャンスを与えてあげようということで、寄付をする。高校の甲子園出場で色々お金が動くのは、大人はメシのタネが増えていいかもしれないが、子供は子供の意思で動かしてやるべきなんだろう。特に野球の場合は回りで動いている大人たちが多すぎるような気がする。
May 26, 2007
という言葉を最近耳にするが、誰とともに生きるのかよくわからないところがある。例えば、地球温暖化にならないようにバイオ燃料、穀物等から燃料を作れば、CO2の総量は変わらないので地球に優しいというが。一方で食料が買えなくなって困る人も相当数いるんだろう。ゴミの分別はやっている人にとっては、自分がリサイクルに貢献していると思っているが、果たしてそのリサイクル率(集めたうちどれくらいを再生しているのか)がどうなの?と疑問に思うことがある。むしろ資源ごみの需要がなく、そのまま焼却廃棄の方が多いのではないだろうか。つまり分別しないで廃棄処分したものより、リサイクル業者の手に渡るのでかえってその分コストがかかるのではないかと思ってしまう。最初から無駄なエネルギーは使わない。無駄なゴミは出さないというのが本筋なんだろう。と言われ続け早幾年、家庭のエネルギー消費量の伸びが一番大きい。生活様式の変化のうえでは、便利だと消費を黙認してしまうのだろうか。今日ラジオで北山修(フォーク歌手で精神科医)が出ていて、社会から影とか闇とかいかがわしい物が表から駆逐され、一見明るく健全で綺麗なものが表面を覆ってしまい人間が安住できなくなってきていると言っていた。彼曰く、人間は人間でいようと努力するという。ところが本来は他の動物のように何も考えず生きて行きたいのが本能だという。多分バランスを取る構造が変わってきているんだろう。日本人も食うことだけを目標にしているうちはわかりやすかったが、それが満たされてくると人間たらんとすることで悩んでしまう。ゴミの分別などはもしかしたら現代人の人間でいようとする行為なのかもしれない。でも、分別を考えない土人や未開人との共生は難しいんだろう。
May 25, 2007
今の場所に住んで3年になるが近所に旨い蕎麦屋がないので、がっかりすることがある。もともと地場のそば屋の汁になじめないのかもしれない。わが住処の近くは越谷市が隣接しているが、この越谷に入ったあたりの蕎麦屋にいくとそばのつけ汁にうずらの生卵が付いてくる。近隣にこの手の蕎麦屋が3件あるから地場のスタイルなのだろう。そのつゆは甘くて濃い。それにまったりとした生卵が入っているのでずいぶん間抜けなくいものになる。でも鶉の卵を薬味つけるのはどこの蕎麦屋の習慣なのだろう。ネットで「そば、鶉の卵、薬味」で検索すると全国各地にある。一応大阪人にいわせるとあれは関西、うちらの習慣ということらしいが、群馬にも新潟にも岩手にもあった。なかでも出雲の割り子そばのとろろ芋に鶉の卵薬味は旨そうである。じゃあ、お前の求めてるそばはどんな蕎麦なんだとの疑問が沸き起こってくる。一番イメージに近いのは藪蕎麦系列の蕎麦屋で比較的辛くて濃いつゆに精製度の粗い白くないそばをつけて食べるのが好きである。最初は薬味などつけない。ネギと山葵の薬味は後半から登場する。(二枚もり場合は2枚目から)さて、話は最初に戻る。「関東の濃い、しかも甘いつけつゆに鶉はないだろう」というのが近所の蕎麦屋の感想である。蕎麦屋のつゆのつくり方はそもそも3種類あって、濃い元汁をつけにはそのまま使いかけには延ばして使う関東風、薄い元汁しか作らない関西風、中間の元汁を濃くしたり薄くしたりして使う名古屋風がある。いや、関西風の薄いつゆで薬味(鶉の卵、山芋。みじおろし等)を蕎麦の上に直接乗せ、その上からつゆをかけるのならいいかもしれないが、手繰って猪口につけて食べるのに、ましてや濃い甘い汁に鶉はちょっと我慢ができなかった。ところが地元(越谷)で生まれ育った人はうまそうにもり蕎麦をたっぷりつゆに絡ませて食べているのである。
May 22, 2007
見るために、国税庁の統計を見ていた。(←ヒマな人間だ!)基本的には酒税関係の資料なのだが、月次の出荷量(19年2月までの統計)や酒の種類分類でトレンドというか、世の中の人間の嗜好が読み取れるから面白い。焼酎の甲類とか乙類という分類は平成18年3月に無くなっていた。今は「連続式蒸留しょうちゅう」と「単式蒸留しょうちゅう」という言葉に変わっている。ウィスキー好きの人間ならピンとくる言葉だが、焼酎愛好家はよくわかってないかもしれない。思わず国税庁の人間に「欧米かっ!」といいたくなる分類に変えてしまった。清酒のレポートは勉強になるところが大きい。吟醸酒というのは香料が使われているが、バナナ香の酢酸イソアミルは最近抑制傾向にあり、りんご香のカプロン酸エチルがだんだん増えてきている。前から気になっていたんだけど、吟醸酒は香料を何使っているのか表示すべきのような気がするのである。「わぁーこのお酒、ワインみたいでとってもフルーティー!」とか言っているOLを見ると「じゃぁーお前はワイン飲めよ」と言いたくなってしまう。確かに精米割合が高くなればアルコール度や日本酒度は高くなるが、酸度もしくはアミノ酸度は純米酒が高いはずである。果物の香りを楽しみたいんだったら果物のエキス分が残っている果実酒飲めばいいじゃねぇかと思ってしまう。いや、私も味がよくわからないから香料表示をして欲しいのである。香りが人工的なものなのか、テクスチャーからくるアロマなのかよくわからないからである。日本のワインは原料の半分は葡萄ジュース(輸入品でワインに適した品種のジュースなんだろう)なのもちょっと悲しい現実である。さらに残りの六分一は輸入ワインそのものであり、葡萄を搾ったものを使っているのは三分の一だけである。清酒メーカーの都道府県別統計資料がこれまた面白い。ブランド力のある兵庫、京都、新潟の付加価値率は高いが、平成17年の製造者一人当たりの付加価値が一番高かったのは北海道であった。一瞬、北海道はロボットで酒でも作っているのかと思ったが、よくよく考えてみる業者数も少ないし、どこかのメーカーが土地売却でもして益が出たんだろうと思い直した。二時間ぐらい国税庁のホームページをうろうろする。
May 21, 2007
百均で藍色のハンドタオルを買って何気なく使っていたら、「それ知ってる」といわれて初めて柄を見たのは一月ぐらい前のことだった。表には「豊天ちりめんじゃこ」と印刷されており、裏にはブーデンとタグがついていた。ネットで試しに調べてみると「豊天商店」(ブーテンあきんど)ブランドとして関西を中心にTシャツやデニムパンツが販売されていた。堀北真希が広告に使われているのでティーンのブランドなのかもしれない。大阪に遊びに来た子がアメリカ村でお土産に買っていく風景が浮かんでしまった。私みたいなオデブッ子倶楽部の人間にはハンドタオルは欠かせないのであるが、今日はブーデのタオル片手にスーラータン麺(黒胡椒と唐辛子と酢の餡かけスープ)を食いにいく。病み上がりでシャキッとしないので酸辣湯(スーラータン)でも食べて一汗かこうという算段なのだが、この時ブーデが欠かせない。ブーデは強い見方である。このブーデに出会う前と後では心持がまったく違っていた。ブーデ前は人前で汗をかいて食べるのに恐怖があった。辛いものは避けよう。満員電車は避けよう。ところがブーデ後は、ズラをかぶるがごとく人生が積極的なった。四川料理にも行けた。終電の混雑もいとわなくなった。かくして行動半径が広がったのである。イケてるOLは「デーブにブーデなんて粋じゃん」と認めてくれるかもしれない(なわけねぇだろ!)焼き鳥屋、中華料理屋、居酒屋とどこでも「豊天ちりめんじゃこ」のタオルを傍らに置き飲んでいると安心感がある。ただのタオルは似合わない、藍色の漢字入りだからなぜか心強いのである。汗というのはたぶんに心理面も大きく、汗がでそうになると緊急出動してくれるブーデがいてくれるだけで汗が出ても直ぐ止まるのである。今度お土産に豊天の前掛けを持たせてあげようと考えながら、スーラータンを食べていた。
May 19, 2007
はたしてどんな街なのかわからないが、オーストラリアのサウスオーストラリア州のリバーランド地区の田舎町グロソップという場所を調べていた。きれいじゃない写真が堂々とアップされている街の案内を見ながら考える。紫外線が強いのではないだろうかと。そういえば最近のオーストラリアは雨が降らず、カンガルーが皮膚癌にかかっていると聞く(友達の住職談)。南極はたくさんオゾン層が破壊されているんだろうかなんてことを考えてしまう。グーグルアースで上空から衛星写真で接近してみたが、田舎はピンボケのことが多い。目的の建物は見れなかった。ワイン用の葡萄畑が広がっていて、なにもない場所である。ウキペディアで調べると人口500人で、小さすぎてリバーランドの観光案内には街の名前すら記載されていない。但し地元の高校の生徒数(日本の中2から高3)が人口より多い720人だという。この高校のニューズレターを見るとリバーランド地区には4つ高校があり、スポーツでは4校の内1,2位を争うポイントを獲得している(地区の学校対抗運動会みたいなもんなんだろう)だいたい、校長の挨拶(5/8)が変である。「先日の雨はわれわれを勇気付けてくれた。まだ川の水位は最低レベルだけど、局面はエルニーニョからラニーナに入っており、平年並みの雨を信じてがんばって働いてこう」と言っている。どう考えても農家人に向けたメッセージなのか、皮膚癌を心配しているのか、やばそうな冒頭の挨拶である。上の娘が今行っている学校の紹介で夏休みにホームスティしたいという。で、いろいろ調べてたのだが、土埃が凄い群馬県みたいなところと想像できる。(群馬の人ごめんなさい)UVカットだけは気をつけないといけないんだろう。
May 16, 2007
ネットに接続しないパソコンは動作が速く、ウィルスの危険性も少ない。不便かというとそんなことも無くて、むしろ接続のイライラから開放されるので即応性が自分の手足のように感じられ、いとおしくなってくる。子供に言わせると携帯電話は体の一部だという。われわれオジサンは電話は電話だろうと思うのである。いろんな機能があっても使い方を覚えたくもないし、めんどくさい。ここ数年でようやくメールの打ち方を覚えたくらいである。ところが彼女たちは違う。手に携帯電話の重みを感じてないと落ち着かないのである。本が携帯やパソコンに変わるということはオジサン思っていないのである。なぜなら携帯やパソコンはあくまで複合的ではあるがプレーヤー(CDプレーヤー等)で、電源がないと動かない。ところが本はどこへでも持ち歩け、プレーヤー機能が必要なく独立した存在だからである。それでも軽量で、ソーラー電池で、いろんなコンテンツがそろっていれば、スタンドアローンなのかもしれない。だが、オジサンたちは否定する。大体、画面とは見るもので読むものではないとか、情報は読めるが行間が読めないとか、ペーパー上でないと誤謬は発見しずらく、同じものを紙に出してくれないとコピーしてくれないと内容の監査ができないなどという。(若者からすると画面でわからないものはコピーして配布しても紙の無駄だなんだよ!ということになる)でも、だんだんこういうわがままが聞かなくなってくる時代に入っているのだろう。メーカーは機能を減らしたりして年寄りに対応しようとしているが、バカにしているというかチャンチャラ可笑しい。機能を享受したいからツールを使うのであり、しかも本を読むようにいつでも手軽にスタンドアローンな接し方をしたいのである。
May 14, 2007
倉庫業が忙しいらしい。(はなから憶測の文章ですみません)ネット社会が発達して、ワンクリックで、本が酒が食い物が動く時代である。最近はお土産という感覚が薄れてきている。世界中のものがワンクリックで買えるからである。昔は輸送手段の関係で鮮度からその土地でしか食べられないものが、直に持って帰れるのでお土産に適していたのかもしれない。やがてそれを大量に持ち込む業者が現れ、今は個々人が直接生産者から買う時代となっている。その際重要になるのは、効率的に物を運ぶシステムである。小口のパッキングは生産者が手におえない分、運送業や倉庫業者が担うことになる。もしかしたら今に物流設計士という職業ができるかもしれない。なにも生鮮食料品に限ったわけでなく、工場のラインの話はすべて同じ類の話である。日本人がいや日本の製品がなぜクォリティーが高いかというと、必要に応じてラインを組む能力があるからである。それがいつ培われたものかわからないが、中国人は必要に応じて分業することができない。中国人は誰かが高圧的にまとめないとラインが出来上がらないのである。したがって臨機応変な対応ができない。今の物流のシステムは恐らく米の卸売り業あたりから発達したものなんだろう。規格を統一し、倉庫を自動化し、最短の流通ルートを選択することで、生産者と消費者を結びつける情報をコントロールしてきた。ただ、時代は規格外や小ロットなものを要求し始めるので、流通業においてはこれから日本が海外でも活躍する場が多くなるかもしれない。ということで(どういうこと?)、土曜日にパーティーをするので北海道の知床からホタテを取り寄せる。木曜にファックスで発注し(ワンクリックじゃないのか!)土曜の午前中には物が届いている。便利な世の中である。
May 11, 2007
日本産牛肉って、輸入禁止にしている国が多いのに、われわれは食べて大丈夫なの?と思ってしまう。全頭検査ってネーミングはいいけど中身は信用できるのか?と考えてしまう。輸出できる国がアメリカ、カナダ、香港だけみたいである。ほとんどニュースにならないけど日本の鶏肉は、鳥インフルエンザは大丈夫なのか?いろいろ考えてしまう。あまりニュースで騒ぎ立てると食べるものがなくなってしまうからだろうか。サルコジという人がフランス大統領に就任した。フランス人は誰をみても偏屈であまのじゃくに見えてしまうが、この人は典型的である。上の人間と違うことを言って、のし上がってきたようなところがある。そういう人がトップに立つと攻撃の対象は海外に向かうのだろうか。シラクが親日なら自分は親中。相撲はインテリジェンスが感じられない、面白くないスポーツだという。(確かにそうかもしれない)物事多面性があり、その一部を捉えるのはうまい人なのかもしれないが、ジェネラルな能力は未知数である。日本は冷静に真摯に対応する必要があるんだろう。新しいエクセル2007を使い始めたが、OSが変わったから新しいバージョンを出すのはわかるが、機能があまり変わってないのなら画面のレイアウトを変えないで欲しいと思う。ファンクションをアイコン化し整理したつもりのようであるがオジサンはなれるのに時間がかかり、年々物覚えも悪くなっているのである。それと今のパソコンはおかしい。外部接続などしなくていいから、ウィルスチェックなどいらないから、もっと動作環境がいい反応が早いパソコンを出して欲しいものである。いまだにウィンドウズ98というパソコンを計算専用に使っているがこれが一番早い。恐らくこの十年の歴史は通信のブロードウェイ化と安全性に費やされてきたのであろう。外部接続してない鎖国をしてきたパソコンと計算機能はなんら変わらない。
May 7, 2007
夕方7時過ぎ、一杯やろうということになって、居酒屋に入り、おしぼりで顔を拭き首を拭き手を拭き(オヤジの典型ですが)カウンターでくつろいでいた。「おい、これなんだ?」と隣のつれがメニューを指差している。焼きもののなかにトマトとかかれている。にんにく、ネギ、椎茸の次にトマトがきている。そういえば、前にも焼き鳥屋でトマトの串焼きを頼んだことがあった。ウル覚えであるが、その時はプチトマトの回りに薄切り肉が巻いてあり、それが四個串に刺してあった記憶がある。旨かったどうかは覚えていない。ところが、今日は違った。トマト直球勝負である。串にプチトマトが四個刺してある。それを単純に焼く。他の野菜は塩ですかタレですかと聞かれるが、焼きトマトは聞かれない。塩物の串焼き皿とタレものの皿に加え、トマト様は別の皿で来る。味付けはバジル漬オリーブオイルがかかっている。(味は想像にお任せします)これを食べながら思った。「焼いたトマトは味がいい、でもプチトマトじゃつまらん、セコイ、ガツガツ食べられたら、どんなに旨いことか」と。ところが、あの水気で、焼きものには適さないのであろう。だからプチトマトが串焼きの限界である。そこで考えた。生食に適さない水気のないトマトはできないだろうか。焼いたり、煮崩れないトマトである。ナスあたりとトマトを掛け合わせたらできるのではないだろうか。それかもっと粒を細かくして、とうもろこしの一粒一粒がトマトというのはどうだろう。昔ポマトというのがあると聞いたことがあるが今どうしているのだろう。と適当なことを言い合いながら飲んでいたのであるが、あとで家に帰って調べると焼きトマト料理はたくさんあった。でかくても天板に乗せればオーブンでそのまま焼けるのである。アルミホイルに包めば、炭火だろうが焚き火だろうが丸焼きはできるのである。ただ、焼き野菜や温野菜の重要なところは旨みや味付けをどうするかである。と作りもしないのに適当な御託を並べていた。
May 5, 2007
家のトイレに東海林さだおの文庫本が20冊以上ならんでいる。その第57巻「タヌキ丸かじり」の中で「ヌタ好き」というエッセイがあり、それによるとヌタ好きは暗いらしい。ヌタとは言わずと知れた酢味噌和えのことであるが、もともとは沼田(ヌマタ)のどろどろした状態のことを言うらしい。かれが言うには、ヌタは必ず深い小鉢ででて来る。居酒屋で大勢の場合ヌタだけは分け合って食べることがない。ヌタ好きはみんなで割り勘の時は頼まず、一人でクラい居酒屋のクラい片隅で小鉢から箸で中身をクラく引きずり出して食べているという。ほかにもこごみのゴマ和え、トンブリ納豆、もずく酢、ウド酢味噌等の小鉢ものが好きだという。そんなヌタ好きは「クラめで地味で控え目で、鼻が低くて、エ?頭ですか、ええ薄いです、性格ですか?ちょっと意固地で偏屈で決断力がなくて、女房にはいつもグズだっていわれて、趣味?趣味は居酒屋でヌタで一杯やることです、というようなおじさん」という記述があり、私はトイレの中で笑いころげていた。かく言う私もヌタ好きである。一人で居酒屋に入る。とくに「葱ヌタ」(ワケギのぬた)があると必ず頼んでしまう。この小鉢が独占できる喜びは何にも代えがたい。自分だけの世界に入れるのである。そもそも居酒屋でみんなで分け合えないものを頼んじゃいけない法は無いはずである。でも、世間はあのヌメヌメしたものに他人の箸が入るのを嫌うのである。だったら居酒屋は醤油皿のほかにもヌタ皿を用意すべきである。ヌタ好きじゃなくてもみんなでマグロヌタも食いたいし、アオヤギ、ワカメ、ネギを食いたいひともあろう。酢味噌に合う刺身の盛り合わせを作ってくれと先日居酒屋の兄ちゃんにお願いしたら巧くごまかされてしまった。なにもこちとら酢味噌和えだけを食らう変人じゃない。ヌタを焼き鳥クラスの酒の肴のメインにしようとは思っちゃいない。ちょっとした憩いが欲しいのである。ガツガツ食ってみなと豪快に歓談できない人間の気持ちを考えて欲しいのである。だいたい、ヌタを嫌うやつはデリカシーがない。マイノリティーを平然と無視するというか、気がつきもしない人間である。いやヌタを口では肯定するが、絶対口にしないやつはもっと信用できない。居酒屋でたまにヌタを一人で食べている人と目線があうと、「あなたもですか」「お互がんばりましょう」という暗黙の会話が交わされることとなる。
May 3, 2007
という小説が1980年代にあったが、20年経って、あの通りの電脳的なサイバースペースにはならなかった。でもPCを通じての仮想社会は着実に広がっており、先日も現実社会の議員が仮想社会で選挙違反で捕まったというニュースが欧州ほうであったらしい。仮想社会でも議員をやりたがるのは現実社会への売名のような気もするが、いろんな人生のシミレーションが体験できるのは事実なんだろう。ロールプレイングというより、筋書きが無い分仮想現実になる。PCは所詮視覚と聴覚だけの世界である。触覚、味覚、嗅覚が味わえるサイバースペースでないとニューロマンサーの世界とはならないのであろう。だから、仮想社会では新しい食い物屋は流行らないと思う。いや、中華料理のように派手な調理と視覚に訴える盛り付けであればいいかもしれない。今、中華料理屋に入ったとして、メニューから牛ハチノスの辛子和え、酸辣湯(スーラータン) 、海鮮おこげ、空心菜の炒め 、搾菜肉絲飯、背骨肉の醤油煮に青島ビールをオーダーし、並んでいる映像があるとする。一度食べたことがあれば、脳内が活性化されよだれがでるのである。うまいかどうかわからない未知のものに対しては、厨房まで入って行き、レシピが映像で見られればいいかもしれない。さらにグルメな人には、材料の飼育や漁、栽培状況の現場まで行き、素材を吟味できればいいのかもしれない。ふと我に帰るとテーブル上に料理が並んでいる。いろんな場所に行った(多くの場所の情報が脳内を通過した)ので、お腹が空き喉が渇いている。先ずは、よく冷えた青島ビールの小瓶をラッパ飲みする。ボコッと空気が入ってしまい、むせて炭酸ガス鼻から抜けて痛い。前菜のハチノスが辛く、舌に痛みが走るのであるが同時に半干して凝縮した牛肉のホルモンの旨みが口の中の唾液腺を刺激し「イタッ!ウマッ!イタッ!ウマッ!」の連続である。海鮮おこげからはジューと音がし餡から湯気がもうもうと立っている。口に入れると舌が火傷しそうになるのでハフハフ空気を入れながら食らう。それでも耐え切れず、ビールを軽く流し込む。酸味も欲しくなり、蓮華でスーラータンをすくう。すくった中には春雨、筍、椎茸、まこもだけ、肉絲が入っている。「アツッ!スッパ!アツッ!スッパ!」の連続である。はて、ここにきて問題が生じるのである。空心菜が脳内を刺激しないのである。となりのテーブルの客が美味そうに食べていたので頼んだ経緯があるが、テーブルの上にあるにはあるが過去に口の中に入れた覚えが無いので味わえない。悔しい思いが募りアバターは店を後にした。と、ここまで考えて、寝ている間の夢と同じ方向で私のニューロマンサーが展開していることに気がつきました。
May 2, 2007
というか、落ちつかせる。寝かせる。いろいろ表現があるが、ビーフステーキはこれがうまい。変に脂身が無いほうがいい。サシも入ってないほうがいい。今日は赤みを焼いて適度に寝かせたものを頂く、美味かった。肉汁があまりでないように周りをこんがり焼いて、暖かいところで休ませると、中がピンク色になりやわらかく、もはや肉汁は出てこない。若干ぼそぼそするが、肉本来のこくが一番楽しめる気がする。(ぼそぼそ感を解消するためにソースがある。この日はシャリアピンソースで頂く)いつも焼肉屋でがっかりするのは、肉が薄いことである。あれはタレを食っているようなものである。タレに負けない味を感じるために脂身が混ざった値段が高い肉を食って、「口の中で溶ける無くなる」と言っている輩を見ると、お前は牛脂(スーパーでタダで生肉コーナーで配っているもの)でも食ってろといいたくなる。いや、言い方が極端でいろいろな人を敵に回しそうであるが、今の人は脂=旨みという回路が出来上がってしまっている。多分自分でも30年前の味覚とはぜんぜん違うんだろう。一番わかり易いのはラーメンである。30年前のラーメンは恐らくまずいと思う。出汁のとり方から油の使い方、すべてにおいて薄く感じるんじゃないだろうか。このより強い旨み(油や出汁)を欲する感覚はよくわかんないけど、日本だけの傾向なんだろうか。少なくてもここ30年で味の素は東南アジアを席巻したはずである。中華料理はもともと油と味が濃い料理である。イタリアンや地中海も油ばっかり食べてるような気がする。むしろイギリス・アメリカが特殊なのかもしれない。量をたくさん食うので薄味というか、味がぼけていて美味いものが無い。(ごめんなさい)ただ、肉を煮込むとか焼くという行為はキャリアが違うというか、文化的差を感じる。
May 1, 2007
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