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すし屋等の飲食店にあるカウンターとは何かについて、喉に小骨が引っかかったような感覚で最近の日々を過している。発端はカウンターの語源である。なぜ、カウンターというのだろうかという論争が隣町の居酒屋で流行っていて、はからずもその渦に巻き込まれてしまったのである。私は対面、ある物体を挟んで向かい合い、対峙するのでその物をカウンターと思っていた。ところが勘定(カウント)する台だからカウンターである主張する人がいて、居酒屋内で一発触発の緊迫した空気をくつってしまった。辞書でcounterと引くと名詞では勘定台とでていて、副詞では反対の~と出ている。つまり副詞とすれば、counterの後にカウンターバー(棒)とかカウンターボード(板)という名詞が省略されているはずである。さらに英語の辞書でオックスフォードの大事典(英英辞典)までは未だ調べてないが、出典はラテン語のcom(共に)-putare(考える)=計算するcomputerからきており、方やラテン語のcontra(反対して)から来ている。(ちなみにラテン語とは古代ローマの言葉、ローマ字とは古代ローマの文字、ヨーロッパ各国の言葉や文字はここから発展し、東アジアの漢字(漢の国文字)のようなものである。)出典がまったく違う別な言葉なのに英語の綴りはcounterと同じである。では、仮に計算の仮説を立ててみよう。ではそこからどうして喰いもの屋の台に発展したのであろうか。アメリカに行くとキャッシュオンデリバリーである。飲み物、食い物と交換に勘定を払う。西欧の勘定の仕方というものは、加法的減算というか恒等式でバランスさせ確認してから財貨を分け合う。(中世以降の複式簿記はこの発展系である。)その確認の台がカウンターとなったのであろう。お金とお金の交換(両替)、お金と物、お金と食い物と発展し、食い物屋の台になったのかもしれない。次に、contraの方は如何だろうか。これは酒屋において昔は量り売りであったので、客が簡単に入ってこれないようにボード(板)なり、バー(棒)で区切って、対峙して販売する形式をとった。酒場のBarの語源は、棒のバーである。その向かい合う形式が食い物屋に発展してもおかしくない。つまり複数の客と横一列に対峙でき効率的なシステムとなる。最初は酒場だかどこだか知らないが、他の食い物商売においても利便性があるスタイルになる。単に勘定であれば一箇所にキャッシャーを設けた方が効率的で横長にする必要はないのである。とこんなことを考えながら悶々とした日々は続いていく。
March 29, 2007
数年前、よくいく魚中心の居酒屋で、海鮮焼きめしなるものを食べた。試験的に作りサービスで出してくれていてお金は取られなかったのであるが、あの味はあれ以来お目にかかったことがない。前日あたりにオーダーしても、それ以来手間がかかって材料代が高いからと作ってくれなくなった。具材は小柱、烏賊、剥き身の小エビで、茶めしの量と半々ぐらいで、醤油味ゴマ油風味で小ネギの刻みがのせてある。具材はどれも一応にやわらかく、小柱にあわせ同じ大きさに切りそろえてある。それを濃い目に味がついたご飯がもっちり包み込み、青みの小ネギのシャキシャキ感もたまらない。さて、今日、「梅安料理ごよみ」(池波正太郎)を読んでいると貝柱飯なるものが出て来たではないか。「貝柱を炊き立てのご飯と伴に山葵醤油でまぶしこみ、焼き海苔をふりかけて食う」「もう半分は胡麻油で分葱を炒め、次に小柱を入れ酒と醤油(薄口の方が見た目がきれいである)で味を整え、最後に七味をふる。手早くしないとせっかくの貝柱が硬くなるからご用心」との記述見つけた。その時、あの幻の海鮮焼きめしの味が蘇えったのである。あれはこの二つを合体させたものだという事が理解できた。具材は炒めてあるかもしれないが、焼き飯というネーミングに幻惑されていた。まぜご飯なのである。別に煮しめた刻んだドンコを入れてもいいかもしれない。喰いてぇ~!という衝動が頭を衝き、同時に今度またしつこくせがんでみようと思った。(←自分では作ろうとしない)
March 28, 2007
そば湯というものがなぜ世の中に存在するのか、若者にはなかなか理解できまいと思うのである。というかせっかちな人間にとってはあんな邪魔くさいものは無い。蕎麦なんて、つつっと手繰って、水でもお茶でもいいからがぶっと飲んで、ぱちんと勘定をテーブルの上に置き、ごっそさん!と店を出て行きたいものである。そば湯なんぞで間抜けに憩いや余韻を楽しむなんざ、ながっちりで粋でない。店を出た後、楊枝でシーハーすれば余韻は楽しめるもんである。と、思っていた。今日、時間があったので本屋で文庫本を買い、それを持ち込んで喫茶店でマンダリンというコーヒーを飲んでいた。コーヒー店のあの茶色い粗目砂糖というのは、なかなか溶けてくれないものである。飲み進んで残り少なくなってようやく溶けてきて、底の方が甘く糖度が濃くコーヒーの味もそのせいか濃厚となる。ここで冷タンの水を少し足して見る。(う~ん、いい塩梅である)この時人生四十ウン年で初めて、そば湯の気持を開眼する。昔は喫茶店で水を足しているオヤジもみると、貧乏たらしく汚らしいイメージがあった。ところがやってみるとアラ不思議、コーヒーの運ばれてきたきたて、もしくは淹れたてのアロマが蘇えってくるではあ~りませんか。以前、この日記では、酒(無味無臭の甲類)で割ると割り元の素材の味が拡大されると書いたことがあるが、あの感覚である。それがたまたまコーヒーでは砂糖水であることが理解できたのである。考えてみれば、缶コーヒーの糖度が高いのは、味を拡大しアロマを引き出すのが目的なのであろう。その時初めて、そば湯を飲む感覚がわかったのである。いつもそば湯を飲まずに楊枝でシーハーしていた余韻はあくまでそばつゆ、例えば天麩羅そばであれば揚げカスが溶け込んだそばつゆの残り香を楽しんでいたのであって、そばの香の余韻ではなかったのだと。そばのアロマはそばつゆでないとだめだと思いながらも、文庫本を読みふけり喫茶店でねばってしまったのであった。(不覚にもジジむさくねっばった言い訳をそば湯をも出すことで隠すのであった)
March 27, 2007
家で何も作らなく、安いめし処で外食ばかりしていると精神衛生上体に悪いので、レンジでチンでいいから、家でくつろいで暖かいものを食べなさいとお小言を頂戴する。それでも B級なものを求め外に出て行ってしまう。一時期テレビで黄金チャーハンというものがもてはやされていた。あれはB級グルマンからいうと出世しやがってというやっかみの目で見てしまう。チャーハンはラードが効いていてしっとりしているから旨いと思っていたからである。ラーメンのチャーシューより火にあぶったチャーハンのチャーシューのほうが脂身が米と絡み合って旨いと思っていた。しかし、世間では卵でコーティングされたパラパラ感とかレタスが入ったシャキシャキ感がもてはやされたのである。チャーハンで一杯800円とるとは何事ぞと怒ったのであるが、時代に乗り遅れたB級オジサンは最近ようやくパラパラの境地を開眼し始めた。以前から長崎ちゃんぽんにはあったが、最近は日高屋や幸楽園にもパラパラチャーハンがおいてある。しかもこれが職人技を要しないでバイトのおばちゃんでも周富徳よりパラパラに出来るときている。(ゴメンナサイ周富徳のチャーハン食べた事無いです)それは大きな厚めのずん胴鍋で作るチャーハンである。洗濯機で横に寝かしたドラムをやや斜めに傾けたものが主流であるが、チャーハンもドラム式が旨いということを誰かが発明したのであろう。斜め横に傾けたドラム式ミキサーが回転し、その下からバーナーの火であぶっていく。調理人は決められた材料をそこに放り込むだけ。あとは時間が来ると自然と火が落ち、ドラムの回転が止まりブザーが鳴る。遠火の強火とドラムの回転で水分が飛び、職人技を越えたパラパラ感が出る。あのドラム回転ミキサーが家庭システムキッチン埋め込まれる日が今世紀中にはくるかもしれない。と、家で何も作らない人間は考えてしまうのであった。
March 26, 2007
桑田圭祐の「夏の日の少年」という曲が好きでよく車の中で聞いている。人間が幾多の悲しみの涙や内面で燃やしてきた恐れを経て、自分を押し殺すことを覚え、愛無き大人になっていくという歌である。もしくは少年時代の自分が今の自分をみればそう感じるのだろうという歌である。無垢な自分と汚れた自分を比較すると、昔日の栄光というか自分が堕ちていく感覚に捕われるのは何も犯罪者だけではないような気がする。その感覚を忘れないためにボランティアとか善行というものがあるのかもしれない。仏教で言えば徳を積むというか、それが心の貯金や気持のアドバンテージになっていく。お金=汚れているという感覚は間違っている。そうなのかもしれない。でも心に余裕がないと使い方もぞんざいになる。次の導線というかフローや流れを作るために効用を考え使わなきゃいけないんだろう。オジサンは若者が嫌いである。女子も男子もティーンエイジャーと聞いただけで世間を知らないくせにと敬遠してしまう。でも実はその怖いもの知らずが羨ましいのである。無垢さに嫉妬さえする。そして一番イヤなのはズルイ大人と見られはしないだろうかという恐れである。その点で気疲れするので相手にしたくない。さらに肉体的にも疲れてないところを見せ付けられた日には頭の中がパニックになってしまう。それがデブ・ハゲ中年オヤジの悩みになる。
March 25, 2007
牛丼のすき家で、牛ねぎめし(?名前忘れました)を食べる。このメニューは、牛丼に青みのネギが沢山のっていてその上にコチュジャンみたいなタレがかかっている。その上にさらに生卵をのせて食べるのである。生卵のには白身と黄身を分けるための、黄身だけをすくい取る分離器(あれは通称なんと呼ばれているのだろうか?)がついてくる。分けたのはいい、黄身だけどんぶりに乗せると青みのネギとのコントラストが実にキレイである。多分メニュー開発者の意図はここで完了したのであろう。ふと見ると受け皿に堕ちた白身だけが残っている。ここで白身の待遇をみる。哀れに思えるのである。お前はいつもどうされているんだ。お前がいるから黄身も旨いのではないか。肉の味をマイルドに柔らかくするのはむしろお前の役目ではなかったのか。白身に問いかけても、何も答えずに受け皿に鎮座ましている。結局分けたはいいが、さらにどんぶりの上から白身をかけ回し、ぐちゃぐちゃ混ぜながら食べてしまった。卵掛けご飯には流儀があるのだろうか。たまに行くラーメン屋のメニューで「卵かけご飯」250円というサイドメニューがある。これに合わせる醤油のリストが8種類あり、それぞれの能書きが書かれている。客はこの中からマイ醤油を選んで卵かけご飯をやっつけにかかる。この店のラーメンスープ自体が濃い目で替え玉ありの店だから、卵かけごはんもスープとの相性を考えてメニューに載っているのだろう。しかし、八種類はやりすぎだろう。それだったらご飯の炊き具合にも気を使って欲しい。卵は自信を持っているのか、有性卵で離し飼いで、どうのこうのかかれている。悔しいけど旨い。でも、最近の卵のレベルは昔とは比較にならないほど上がっている。すき家でも吉野家でも黄身がしっかりしていて色が濃く、白身が盛り上がっている卵を使っている。ここにおいては能書きは書かれていないが、書いてあったらなるほどと唸るような新鮮なものを使っている。最近は、卵かけごはんを食べたい時、朝の吉野家の納豆定食と決めている。
March 23, 2007
ドンシモンのマンゴージュースが「酒のやまや」でリッター126円(ガソリンの値段みたいですが)で売っている。最近は気に入って飲んでいる飲料である。不二家のネクター好きの人にとっては、アレのマンゴー版と思えばわかりやすいかもしれない。果汁は35%でネクターのようにとろみがあり、南国果物特有のエグみも感じない。そういえば今日不二家のネクターが販売再開したそうで、そんなことがニュースになるくらいだから意外と中年ネクターファンは多いはずである。でもここ何十年も不二家のネクターがどこに売っているか気にも留めていないかった。不二家のネクターには果汁がどれだけ入っているかわからないが、あのとろみは糊というか、甘味料なのだろう。ガムシロップの原料のアラビアガムも糊である。ネクターとはもともと濃厚なジュースのことである。しかも絞ったままのジュース。ジューサーミキサーではあの味はなかなかでないものである。一番旨いのは手絞りじゃないかと密かに思っている。ジューサーミキサーはあくまで刃が回転しているので上から押しつぶして入れているようでも所詮カットしているのである。圧搾による濃厚さを楽しめない。器具としては、てこの原理を使った手でプレスするジューサーがある。アレの絞りたてが一番旨い。たまに行く居酒屋でも業務用の手動圧搾機があり(業務用といっても家庭用の五倍ぐらいの大きさで形は同じ)、そこの生グレープフルーツサワーは味が全然違う。よくレモンを搾る大きいおわんを被せたような器でグレープフルーツを客に絞らせる店があるが、あんなものはピンキリのキリである。ここのグレープフルーツジュースはまさにネクターの王道を行っている。したがってグレープフルーツサワーモ上等なカクテルを飲んでいる雰囲気となる。
March 19, 2007
大衆食堂半田屋では、一皿126円で提供されているがこれを作った人は天才じゃないかと思うほど、私の好物である。牛肉のショートプレート(ばら肉)と菜の花とモヤシの炒めもので、牛肉の甘味のある脂身と青菜のほろ苦さとをモヤシ特有の風味で整えている食べものである。素材の味をそれぞれが引きだしあい、肉のアクと野菜のアクがそれぞれ悪いところを打ち消しあって、組み合わせの相性、バランスも良い。だがけっして美しい食べ物ではない。牛ばら肉はその道の人にいわせると通称ボロ雑巾というそうである。この味を確認するたびに、吉野家の牛丼は素材に対して間違った味付けをしているのではないかと疑問が湧いてくる。吉野家もショートプレートを使っているが、牛丼は不味くはないが、ショートプレートの旨みを完膚なきまでに消し去っている。まず吉野家では、ショートプレートをボロ雑巾にしないように心がけているのかもしれない。ほんとはもっと薄い方が旨いのにと思う。次に隠し味の酒(ワイン)の匂いがやけに鼻につくときがある。ここにおいては牛肉の風味はほとんど無くなっている。よく酔っ払いが、煮出した鍋に酒を注ぎ足し、酒の味で雑炊が出来ないように味を台無しにする事があるが、あの感覚と若干似ている。牛肉の分厚い角肉とワインとドミグラスソースならいざ知らず、ショートプレートには甘辛い醤油味でしょうと思うのである。(そこに酒が勝つような味付けはいかんでしょう)旨みが全部煮汁に抜け出ているためか、つゆダクを好む人が多いのであろう。実は私もつゆダクは好きではないが店で食べる牛丼より、持ち帰りの弁当のつゆの味が沁みてふやけた感じのご飯は大好きである。なぜかこの時初めてショートプレートの旨みを感じるのである。つゆの味が濃いうちはわからないが、米に沁み込んでその味(牛肉の旨み)が浮かび上がってくる感じがする。
March 17, 2007
阿倍君がよくカタカナの言葉を使うが、日本人はえてしてそういうものに飛びつきやすい。そして独自の解釈や改良を加えてしまう。ミラネーゼという言葉にはシロガネーゼという言葉で対抗する。決して墨田区の鐘ヶ淵の夫人をカネガネーゼとか、滋賀県のご夫人をシガネーゼとか言ったりしない。むしろオマージュや憧れが入っている。したがって自分達より遅れていると勝手に思っている国の言葉に対してはカタカナ表記はしないのである。ただ、最初は憧れからの真似だったとしても、そこに何とか独自の解釈をいれ名声を得ようと競争するのも日本人の性である。もっとオリジナルなもので競争すればいいのに、改良競争に明け暮れて淘汰されやがて洗練されてくる。そこに至ると日本のものだか外国のものだかわからなくなってくる。そうなると逆輸出が出来る。文化面でもそうである、ファッション、食(カレー、ラーメン)等もともと外国から取り入れたものを国内の熱というかボルテージが高い競争で自然淘汰される。ところが最近、この取り入れて、独自の発酵をし、外に出すサイクルが壊れてきているのだろうか。情報はいろいろ入ってきても、フィーバーにはならない。競争心や闘争心もない。しかし、真似ようという気持より、オリジナルなものを追求しようとする気持は若い人には多いような気がする。逆に年寄りはこの点で根性がないとか日本の将来は危ないとか憂いているのである。でも年寄りは、老い先短いのだから、若い人がもっと憂えないといけないんですけど。若い人は老い先長いので何とかなると思ってるんでしょうねきっと。
March 16, 2007
待ち合わせの時間より30分早くついたので、デパ地下をウロウロしていた。買物すれば駐車場のチケットがもらえるので、何か買おうとおもっていた。普段であればワインを買うのだが、酒売り場にいっても食指動かされるワインがない。それと最近忙しく酒売り場でウロウロする時間が減っているので、前までは酒の方から私を買ってと話しかけてきたのであるが、今日はそれが無かった。結局、チーズの王国という売り場で、五・六種類試食をし、ウオッシュタイプのブリとメルボルンチーズと枝付きレーズンを購入する。ブリの方は待ち合わせした仕事関係の人にあげてしまった。メルボルンチーズはその後舟渡の客先の冷蔵庫に置かせてもらい。仕事を終え、その次のパーティー会場に持っていった。実はこのメルボルン(フルーツやナッツ入りクリームチーズ)表面にポピーシード(ケシの種)がまぶしてあり、見栄えがあまりよくない。私はレアチーズケーキなどよりこちらの方がよっぽど好きなのであるが、白い中味に黒いかわはデザートとしてはいただけないのだろう。和菓子で言えば、餅に黒ゴマと砂糖がまぶしてある感覚であるが、そういえばあれもきな粉やあんこのものが並んでいた場合に一番売れ行きが悪そうな気がする。ホームパーティーの会場を抜け出し、一件打合せを終えまた戻ってみると、いろんな食べ物がテーブルにあふれていて、メルボルンは既に過去へ忘れさられていたようである。いとしいメルボルン何処へ。
March 10, 2007
五は宜しくない。毎月は5日は支払日でお金の算段に四苦八苦している中小企業主は多いと思う。十が満額、安定感があるのに、半分は不安定である。だいたい五には愚直さというものが感じられない。なんとなくすかした感じが否めないのである。人間、上に立てば立つほど愚直であらねばならないと思っている。五には他人の上に立つ器の大きさが感じられない。二千円札を普及させるな!自分達の領域を侵すな!と保守的なピケを張っているのも五一族である。さらに5千円5百円は2千円が普及しないよう自販機業界に手を回してるという風説がある。ついでにいうと一万円程こよなく愛されていない。肖像画が誰であるか5千円札は直ぐに思い浮かばないのである。ミラ・ジョボビッチが出ている映画で、フィフス・エレメントというのがあったが、仏教で言うところの5大「地・水・火・風・空」である。でも案外、風と空は一個でもいいんじゃないと考えてる人は多いのではないかと思う。ここにも五一族の陰謀が見え隠れする。更に言うならオリンピックを「五輪」と称して通用する漢字文化圏の国は日本だけである。あれは和製英語みたいなもので和製漢語でインターナショナルじゃない。とてきとうな言いがかりをつけているが、実は5が好きである。ただ、性格がひねくれているので、みんなの人気者に近寄れないで遠巻きに文句をいっているだけなのである。
March 2, 2007
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