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祭りが終わったあとのような脱力感に襲われる。別に誰を応援するということもないのだが、前回の衆議院選、今回の参議院選と組織票とあまり関係ない、その時の風でオセロのように勢力図が変わる戦いを見ていると興奮する。その半面、後が疲れるのである。民主党の小沢一郎が選挙後マスコミに姿を現さないのもマスコミを馬鹿にしているようで面白い。今まで気がつかなかったが、勝っても負けても別にインタビューに答える義務や説明責任はないのである。方や公明党の人は必ずインタビューの冒頭に投票してくれた有権者に御礼を言っていた。そんなことはどうでもいいのだが、民主党もそれなりの勢力を持ったのだから公約を守ってほしいものである。逆に公明党は投票率が高い選挙区で負けているので、これだけ無党派層がいるにもかかわらず組織票だけの政党、身内しか支持しない政党に成り下がってしまった。結束をアピールすればするほど関係ない人間は醒めてしまうんだろう。自民党は今回は何をかいわんやである。組織的なものも壊れかけ、無党派層にもアピールできないと政権政党でもこんなもんなのであろうか。もっとも昔の社会党とか共産党のような国益に反することでも平気でやる、つまり外国の工作員の援助を平気で受けるような暗いものを背負った党は今はないんだろう。また、政策として長期的に一番大事なのは、日本の国力なり信用力の回復なんだろう。よく円高、円安で一喜一憂するが、本当は自国でコントロールできないまでも(国際協調しないといけないので)人気のある通貨でないといけない。もし自由競争市場を標榜して、経済立国をめざすのであれば、他国に円準備高や日本国債を持ってもらわないとやっていけない水準であろう。財政がくるして、税金や年金を上げ、無駄使いをなくすことも大事なのだが、外国からの資本流入させればもっと暮らし向きもらくになるはずである。もしくは外国にお金を出さないように誘導することもひつようなんだろう。昔のように規制で資本や為替統制できないので、国内にお金をもってくる魅力ある国や国民性が今こそ問われている時期もないんだと思う。安倍くんの言わんとする「美しい国」も大きな狙いはそんなところなんだと思うが、具体的な法律の内容が時代をうまく読み込めてないお粗末なものばかりだった。いや、小泉くんの時からそういう傾向があったが、安部くんの周りは稚拙でもとりあえず骨組みをつくればいいという風潮が蔓延してたのかもしれない。もしそういう雰囲気を作ったとしたら、為政者(ステイトマン)としては失格である。任命責任や下調べを十分してないから脇が甘いというが、その前に本人が無能なのである。無能だから自分では辞めたいだろうに回りに辞めさせてもらえないのである。それとおごりから来る我を通すことより、せっかくパワーバランスがかわったのだから実利的建設的な法案を作ってもらいたいものである。
July 30, 2007
泣くのはストレス解消にいいというが、なるほど人間は喜怒哀楽を溜め込むのは精神衛生上よくない。そこでその時々で感情を外に出すわけだが、たとえば観劇をして泣く事をカタルシスと呼んでいる。生理的には涙を排泄するとすっきりするということなんだろう。泣きなれしている人はこのカタルシスフリークとでも言うのだろうか、喜怒哀楽の哀を意識的に表してバランスを取ろうとする。もしかしたら年取ると涙腺が緩むという人間も何かを外に出したくてカタルシスを味わおうとするのかもしれない。声を出すということももしかしたら同じかもしれない。まあ、普通にしゃべっている分には何も関係ないんだろう。ただ、歌となると喜怒哀楽の楽を意識的に表すことになる。いや、ラブソングだったら喜かもしれないし、ロックだったら怒かもしれないし、失恋だったら哀かもしれない。とにかく声を出すことですっきりする。普段相手がいる会話の中ではとてもクサクていえない言葉でも、カラオケの歌詞であると平気で口にできる。「歌なんだから当たり前」といえばそうなのだが、それは非現実だからというよりも、本当はむしろカタルシスを味わいたいからではないだろうか。とにかく入り込めることが喜びとなる。歌だって恥ずかしいものは恥ずかしいのである。そして恥ずかしさがあると苦痛となる。それが年を取ると、声を出すカタルシスを覚えむしろ気持ちよくなるのである。羞恥心よりカタルシスの経験が優先してしまうのだろうか、一般的には羞恥心がないと思われるかもしれない。礼儀が足りないといわれるかもしれない。年取ると涙腺が緩むのと同じようにそれが若いうちは解らず、私は20代の時カラオケは大嫌いであった。リズム感はまだあったろうに惜しいことである。またいろんな詩に対応できるだけの経験は、年を重ねないと解らないことも多い。経験や想像で入り込める世界も広がるのである。と、チマチマしたわけのわからないことを書いてしまう。
July 23, 2007
CSの特番でピープロダクション特集というのをやっていて見てしまう。「マグマ大使」「ハリスの旋風」などはストライクゾーン(リアルタイムで見ていた)である。実写版は今にして思えば際物が多い。ギリ大丈夫な人は大丈夫だが、夢見に出てきそうなゴアの映像を排出している。原作の漫画を灰汁が強くビルドアップしたキャラにしたて、当時の少年の目に焼きついたのではないだろうか。小学校低学年までで見なくなってしまったが、世の中の実写版の人気が仮面ライダーに行くにつれ、ピープロは怪傑ライオン丸等の際物のロン毛キャラ(マグマ大使、アース、宇宙猿人ゴリ以来の伝統)に固執して没落していったように思える。手話の歴史はよくわからないが、今振り返って見てみると宇宙猿人ゴリは必ず手話で視聴者とコンタクトを図っていた。勿論このキャラのもとは猿の惑星のパクリであったことは想像にかたくないし、低予算、B級、パクリの匂いがする当時のフジテレビの放映であった。日本の特撮はいつから衰退したかわからないが、ゴジラが出てきた1950年代は世界でも高水準だったが、時代はアニメの方に予算をかけ、このころはリアリティーのかけらもなくその安普請な雰囲気が見直されて今の放映に至っているのかもしれない。ピープロではないが、同じころにNETではレインボーマンをやっていた。こちらもインパクトが強く、平田昭彦が死ね死ね団(黄色人種、特に日本人を忌み嫌う秘密結社)のボスキャラを演じて、むしろスパイものに近いストーリーで、川内康範(森進一との確執で話題の)らしい作品である。小学校中学年になるとルパン3世や宇宙戦艦ヤマトが始まり、世の中漫画という呼び名を使わなくなりアニメーシションという呼び名に変わっていった。
July 22, 2007
アラックと言えば西アジアから東南アジアまでの蒸留酒の総称であるが、今日はセイロンアラックというものを初めて飲んだ。最初は甘い香りが漂うが、口に含むと甘さは微塵も感じられず飲み疲れしないなかなかいい酒である。(いい酒=量が飲める)なんでも砂糖椰子の花で作るということなので、日本の黒糖焼酎に近いのかもしれない。アルコール度数は34.5度でアメ色をしている。この色がどうやってつけたかが気になるとことである。通常蒸留酒は無色透明であるが、ウイスキーなどは樽の木の色素などが移りポリフェノールは赤ワインより多い。それにしても英国圏の影響があるからだろうか、強い酒をスリランカでは飲んでいるものである。当然回教国ではないんだろう。しかしイスラムの人も内緒で酒を飲む人が多いようである。ヒンズーも比較的酒にはうるさいらしく、スリランカは仏教国であると言う。もっとも宗教に関係なくパームシュガーのアラックは椰子が生息するところではポピュラーな酒らしく、東南アジア人なら普通知っていて当然らしい。接待なのであまり飲めず、行儀のいい酒を飲んでしまった。セイロンアラックがやけに上品に感じられた。帰りは代行であったが、店につけていいと言われ、代行代までご馳走になってしまった。
July 18, 2007
中国は本当にオリンピックを開けるのだろうかと考えてしまう話題が最近多い。中国製品や食品に対する信頼度がどんどん下がっている。ダンボール入り肉まんなんて、あいた口がふさがらない。いつからこんなに民度が低くなったんだと嘆きたくなるような事件である。もちろん日本人も偉そうなことを言えるわけではないのだが、同じ漢字の国としてアジアで手本となってもらいたい国である。もはや外貨準備高が日本を抜いて世界一であり、貿易黒字の勢いも相当なものであるが、中国人だけでほんとにいい製品がつくれるの心配になった。外国人の指導のもとであれば今まで通り、問題もないのだが、自国人だけで何とかしようとするとまともなことができないのではないかとさえ思えてきた。もっと心配なのは、安倍くんである。調整型の政治をやろうとして収集が付かなくなっている。スキャンダルも出る出る。自民党の内部からリークされているのではないかと思えるほどいろんな問題が出てくる。このままだと歴代最悪の首相とよばれそうな気がする。この冬にはアフガニスタンに自衛隊を派兵する約束をさせられるのではないだろうか。明らかに戦闘地域で武装しないといけない場所である。日本は貿易立国で輸出先の覗うのがクセになってしまっている。米国債を買い、米国の軍事負担の一部をし、ついには戦場に借り出されるところまで来てしまったのだろうか。ロシアも不気味である。石油が高騰して以来元気がいい。ちょっと前までは北方領土も直ぐ2島は返すようなことを言っていたのに最近は強気である。また東ヨーロッパを傘下に治めたいのだろうか。でも石油の栄華はそう長くは続かない気がするのである。中国は公害を出しても物を作ろうとする姿勢がまだ立派である。ロシアは不労の稼ぎと腕力で今後暗躍しそうな気がしてきた。
July 14, 2007
餃子をパスタと同じように小麦の食品と考えれば、餃子のタレのバリエーションはいくらでもあるような気がするのである。ただ焼き餃子が一般的であるので、餃子のタレというと醤油ラー油酢の併せたものとなる。どうも焼き餃子というと油っこいイメージがあり、私はとりあえずお皿に盛られた段階で上から酢をかけて食べてしまう。油が中和され食べやすくなるような気がするのである。さらに焼き目を下にしてひっくり返し、上から今度はラー油をたらして食べている。どう食べようと勝手だし興味もない話をつらつらと書いているが、何が言いたいかといえば、餃子は麺類だということである。もしかしたら水餃子のほうが好きなのではないかと最近気づき始めた。要は餡は何でもよく、皮が好きなのである。モチモチ感や小麦の味が楽しめればいいので、餡よりむしろタレとの相性を重視しているのかもしれない。中から肉汁が出てこようがこまいが関係ない。キャベツを使おうが白菜を使おうが関係ない。餃子はタレと小麦の相性であって、中身はあくまでタレの薬味に過ぎないと思っている。水餃子好きは遠からず同じような感覚があるのかもしれない。ゆで上がった餃子を平皿に乗せて出してくる店もあれば、どんぶりにゆで汁を一緒出してくるパターンもあり、それをかけタレで食べるパターンもあればつけタレで食べるパターンもあり饂飩とまったく一緒である。だからスープ餃子というかかけつゆのパターンももちろん有りなんだろう。もっともここまで来るとワンタンが存在する。ついでに言うとワンタン麺という食べ物も不思議である。あれはパスタにパスタが乗っているようなものである。雑炊の中に餅、ミートソーススパゲッティの中にラビオリが入っているようなものである。いつの間にか焼き餃子から遠ざかっているのだが、なぜか考えると最近巷に中華料理屋が多くなってきている気がするのである。以前までの焼き餃子を出すラーメン屋でなく、普通に向こうから来て中華料理食堂を開き、出身地の味を出す人が多くなっている気がするのである。前まで本格中華といわれちょっと高級か希少で特殊な地域しか食べられなかったが、今は普通に食堂で出すメニューになっている気がする。看板には北京、上海、四川、広東と街の小さな食堂にも書かれている。中華が日本の社会にも自然と深く入り込んでいる気がするのである。昔はチャイナタウンというと特別な飲食店街という気がしたが、今は多く居住している地域やコミュニティーの印象が強くなっている。共存共栄という考え方であればなるべく近くにいる中国人にはがんばって活躍してもらいたいし、いろんな文化に接することができるのは新鮮で面白い。チャイナタウンは港付近だけでなく、内陸へ内陸へ広がりつつある。日本に於ける焼き餃子の歴史なんてせいぜいここ50年ぐらいだろう。ただ着実に時代は水餃子にシフトしている気がしたのでした。
July 13, 2007
吉野家の鰻丼悪くはなかった。うなぎが特に好きではないので品質の良し悪しはいまいちわからないが、普通に旨かった。牛丼自体はあまり褒めたことがないが、メニューも最近ようやく豊富になりはじめる。松屋やすき屋は前からいろいろメニュー開発に忙しいのに吉野家はなぜか牛丼にこだわっていた。その間かなりシェアをくわれたのではないかと思う。最近はソースカツ丼を出す吉野屋もある。吉野家のいいところは衛生面のマニュアルがしっかりしているところである。コンビニのサンドイッチコンビニのおにぎりはあまり好きではない。家庭で作ってもらったほうがうまいと思うからである。新製品が出てくるたびに落胆する。あの手この手で素材を変え、調理法を変え出てくるが、2口食べるとあきが来る。1個食べると気持ち悪くなるものもある。どうも私の場合PH調整剤と米の組み合わせがダメらしい。ところがサンドイッチはコンビニが旨い。出てくる新製品それぞれが旨い。ビニール包装されたパンの状態が好きなのである。最近のシャキシャキレタスなどは感動すらしている。ほっかほっか亭の幕王今は夏の幕王と称して、日替わりでおかずが変わる幕の内弁当である。500円でレンジの暖め直しでない、作りたての弁当が食べられるのはコンビニの弁当より数段魅力がある。10分位待たされるが、待っている時間が結構楽しかったりする。田んぼの農道で車を止めると、白鷺のつがいが小首をかしげながら餌をついばんでいる。こちらも負けじと首を前に倒し幕王を食べ始める。サイゼリアのランプ肉ほかのどの店よりコストパフォーマンスに気を使っているチェーン店だと思っている。ここでよく食べるのが、200gの牛ランプ肉のステーキ720円である。フォッカチオ(パン)と赤ワイン(グラス)で1000円でおつりがくるのがうれしい。はっきり言って安いのでみなから軽んじられているが、下手なレストランにいくより余程旨い。ここでは鉄板で出てきたステーキを裏返してバターをぬって3分待つ。シャケの切り身でもステーキでも同じであるが分厚いから旨いのである。その際大事なのは余熱が通るのを待つことである。一番厚みがあるところで2.5センチはあるかもしれない。血が滴るようなミディアムレアは似合わない肉である。外はカリっと、中はピンク色にやわらかいのが肉食ったぞ~という感覚になる。720円の肉で一週間は戦える元気が出る。
July 9, 2007
マーケットでは価格で自然と需要と供給のバランスがとれるのであるが、エコなんたらかんたらというのが果たしてお金で解決できるものなのかよくわからない。そもそも公害とか食品衛生なんてものは法律で規制しながらなんとか、供給側の負担増でその外部効果を抑えてきた。ところが、オゾン層の破壊とか地球温暖化は世界的規模での解決策は未だ見当たらない状態にある。意思統一ができないまま、節約、省エネ、我慢、非消費等の行為で需要の側から外部不経済の負担を負う(CO2の排出量を減らす、ゴミの分別をする)ことが今の日本のマジョリティーになっている。効果は別として精神的な満足度もあり実践するひとはいるのだが、消費者に強い規制をするには理念的な強要が入ってくる。自分の置かれている生活水準だってそれぞれ違うのである。むしろ地球規模で意思統一できるほうが気味が悪い。じゃあどうすればいいんだと聞かれれば、なんとかして欲しいと言う他にない。できることはするが消費行動で外部不経済を解決できないんだということは容易に想像が付く。植物よりもっと簡単にCO2を酸素に変えられないかとか。オゾン層を人工的に修復できないかとか。もっとも深刻なのは気候の変化より食べ物がなくなることだろう。昔のアニメやSFを見ていると「地球を脱出し他の星に移住する」など、短絡的で随分安直な手段であると思ったことがあったが、だんだん非現実的が現実的なような気もしてきた。もし食べ物がなくなったら、買えないくらい所得水準が下がったら、そういう日が加速度的に近づいているとしたら、フラストレーションが溜まってくるもんである。今年の夏は家でクーラーはかけないと密かに誓ったのであった。
July 8, 2007
疲れていて、いつ寝たのか寝てないのか思い出せないが、気分転換ができず酒に走ってしまう。酔いたいわけでもないのでだが、それほど飲んでないのに泥酔状態になる。地に足が着いてない感覚で自分のいる場所を探している。店のカウンターの下で背中丸めてしゃがんでる。レンガを模したボードの冷たさが気持ちい。カラオケの音が遠のいていく。自分の鼓動が近づいてくる。前にもここにいた気がする。・・・・・・鍵が無くなり狼狽する。
July 6, 2007
とと丸という居酒屋風すし屋による。頼んだのはカンパチのかぶとの煮付けと海鮮サラダ、アナゴと胡瓜のなます、糠漬けとあっさり目で、車だったので連れが焼酎、ビール、ウィスキーと飲む間に私はウーロン茶だった。ととが付くから魚が売りのみせである。あとこの丸はなんの丸なんだろうか。恐らく舟である。そう考えると「とと」には「丸」がよく似合うのである。そういえば漁船にも丸がつく。あの舟に付く丸の意味はなんなんだろうと無知ながらいつも疑問に思っているのだが、未だ解決していないのである。いや漁船だけでない。船舶法の取り扱い手続きに「船舶の名称にはなるべくその末尾に丸の字を付せしむべし」とある。調べてみても決定的な説はなく、どうやら鎌倉時代以降の習慣だからつけているという。最初に丸をつけた人は何を考えたのだろうか。そういえばお城の天守閣も本丸という。むしろ城のほうが舟をもじったのかもしれない。あと子供の名前とか、忍者の名前にも丸がつく。なんか意味があるのだろうが、もやもやしていたものが「とと丸」で目覚めてしまった。
July 5, 2007
京浜東北線の線路沿いに食堂苑という焼肉屋の看板を見て、小さいころの家族の外食の思い出がよみがえった。40年以上も前のことである。いまでもこの店は昔のまま残っていた。そうなのである。昔は外食が楽しかったのだ。月に一度のイベントだったのである。ハレとケというのもがあるとすると月に一度の晴れ舞台であった。恐らく幼稚園に上がる前で、唯一娑婆の空気が吸える瞬間であったかもしれない。今の世の中、カレンダーをみると記念日だらけである。その分だけイベントが軽い存在になってしまったのだろうか。値段では価値は決められないのだが、お手軽に何でもできる時代になってしまった。話は変わるが、昔は珍しいものが、今は日常となる。値段も昔高かったものがいつの間にか安くなっている。消費者は安くなるまで行動しない癖がついてくる。そのサイクルがだんだん短くなる。昔燦然と輝いていて見えた焼肉屋が今は夜霧の中うらぶれて見えるものである。年をとったせいなのか、時代の波のせいなのか、大きいものが小さく見えたり、高級品が安っぽくみえたり、感動が無感動に変わっていく。これがケ枯れというものなのかどうか知らないが、地に足が着いてないようで不安になる。昼間、出先で左官屋の親方と話していたのだが、景気に関係なくいまだ労働単価が下がっているという。その割りに原材料の値段は上がっているという。100で仕事を請け負うと90が付加価値で材料が10だったものが、今は12となっている。そのくせ消費者というかエンドユーザーは102になることは許さない。従って付加価値は88となり職人の取り分は減るということらしい。誰が得しているかといえば、石油を持っているアラブ人なんだろう。この先、物価は上がるが、賃金が下がるという時代が来るのだろうか。ハレがハレであり続ける時代にしないと、物の価値や労働の価値は維持できないのかもしれない。
July 3, 2007
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