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今日は信念を学んだ。今日は、明日の窓口出願の為の準備に一日追われた。入試の郵送の締めきりは今日。明日はそれに間に合わなかった受験生が沢山やってくるのだ。この準備のメンバーは・チーフ:元「代ゼミのNO.2職員」の男、I田さん。(代ゼミのNO.1と喧嘩して辞めて、うちに来たらしい)・オレ・いつもナイススマイルなバイト君窓口出願は毎年やってるし、出願の締めきり前にはいつもやっていることだ。でも今日は全面的に掲示やら、会場の設定、など細かいところをI田さんの指示で徹底的に見直しながらやりました。そして夕方、なぜだかオレとバイト君は課長に怒鳴られた。「こんな半日で終わるような準備にどれだけ時間かけてんだ」と。これはかなり理不尽で頭の悪い怒鳴りかたでした。1、まず、それなら責任者であるチーフがいるところで一緒に怒鳴ってくれ。ということ。2、そして、自分達は頭を使いながら、どうすれば受験生に対して、わかりやすく、親切なのかを考え、工夫しながら仕事していた。けして遊んでいて一日かかったわけではないということ。今日は課長はなぜだかずっとイライラしていました。受験生への電話対応はぶっきらぼうに聞こえたし、窓口出願を一日間違えてきた受験生の願書を受け付けずに「窓口出願は明日しか受け付けない」と追い返してしまうし。受験生は我々にとっては大切なお客様と変わらないはずなのに。。。管理職にあるのに酷い仕事振りだなとつくづく思いました。バイト君とやりきれない苛立ちを抱えながら仕事を終えました。帰り際、いつものようにI田さんに「コーヒーでも行こうや」とバイト君と一緒に誘われました。カフェで事情を話したら、やはりI田さんはそんなこと知らなかったと言う。「君らに怒鳴ってもどうしようもないのになあ。何も考えずにただ単に処理するだけならあんな仕事は半日もかからないよ」そして「私はかつて代ゼミ時代には、新人達にはこう言って教育していたんだよ」と、こうゆう話をしてくれた。「仕事とは、ただ単に受身で処理をすることとは違う。仕事とは、考えることだ。創造的なことなんだ。考えながら仕事ができるということは、どういうことか。それは、頭の中でこれからやる仕事を組み立てられるかどうかということだ。どこまで明確な「絵」が頭の中で描けるかということだ。これをやったら、次はこうなるという因果関係を把握することだ。いつまでも、「やってみないとどうなるかわからない」というような行き当たりばったりの仕事をしているようじゃ、仕事になっていかない。「絵」の描けない人間には柔軟な仕事はできない。その「絵」が描けるようになると、例え失敗が起きても、次の手を即座に打つことができる。つまり、柔軟な対応ができるようになる。そして、もう一つ大事なのは、どんな仕事にも必ず「目的」というものが与えられている、ということだ。そのポイントをしっかり抑えておくということは、仕事の「絵」を描くことができるようになるためにも大切なことなんだ。例えば私たち入試課の目的は、「受験生をがっちりとつかむこと」だ。それには、彼らがどんな意識をしているのか、彼らにはうちの大学はどう見られているのか、彼らにどのようにアピールすれば彼らをつかむことができるのか、ということを考えなくちゃいけない。それに対して初めて我々の仕事が成立するんだ。広告や、広報誌の制作も、高校訪問も、オープンキャンパスの実施も、その目的に対しての仕事なんだ。もちろん、今日の仕事もそうだ。いつも通りただやっつけ仕事するのなら、あんなのは2時間で終わっているよ。でも、本当に受験生のことを考えて仕事しているのなら、あんな掲示の作り方や、会場の作り方は考えられん。掲示の貼り方一つとっても、大学へのイメージは変わってくるんだということを考えなきゃいけない。少し曲がって貼られてしまった掲示や、文字の読みにくい不親切な掲示。些細なことかもしれないが、受験生はそこに必ず違和感を覚えるはずなんだ。そんなところの積み重ねが印象というものなんだよ。目的というところから考えれば、我々の仕事は受験生に対するアプローチが全てと言っても過言では無い。広告や、広報誌の制作も、高校訪問も、オープンキャンパスの実施etc.そして、その中で最も受験生に対して強い印象を与えるのは、広告や広報誌ではなく、受験生と職員との一対一のコミュニケーションなんだ。どんなに建物が綺麗だろうと、広報誌が良くできていようと、そこでの職員の対応が悪ければ、受験生はその大学全体に対してどのようなイメージを受けるだろうか?。それを考えれば、電話の応対一つにしても、入試相談にしても、良く「考え」て仕事しなきゃならなくなる。我々は、プロなんだ。どんなに忙しくても、イライラしてても、ぶっきらぼうな電話応対や、不親切な窓口対応なんて問題外だよ。だから、その仕事目的を知るということが、仕事の仕方がわかるということでもあるんだ。その仕事に対して、どのような「絵」を描けば良いのかがわかってくるんだ。受験生を大事にできないということは、結局この仕事ができていないと言うことと同じことだよ。受験生を大事にする、学生を大事にする、OBを大事にする、教員を大事にする、それが大学を守るということだし、我々職員自身を守るということでもあるんだ。それが大学職員の使命なんだ。」・・偉い教授がこんな話を授業でするのと、さっきまで一緒に仕事していた現場の人間に言われるのとは、その説得力が段違いだ。こうして日記には書いてみたが、このI田という人の本当の凄味がわかるのはこの入試課では、自分とバイト君だけだろう。でも、本当に伝わるものがあったんだ。その事実だけは報告しておきたい。仕事とは何か?とか、どうすれば良い仕事ができるのか?ということに対する概要的な、そこらの使い捨てのハウツー本に書いてあるような情報に心を動かされるのではない。情報以上に仕事そのものに対する信念がとても伝わってきたんだ。自分は今、本当に貴重な経験をしているのだと思う。それは、この入試課という場所にいるからではなく、この人と共に仕事をしているということがとても貴重な経験になっている。言葉で語り尽くせないものを沢山受け取っている。もう間もなく、この人と共に仕事ができなくなるということが残念でならない。でも、この人から受け取った信念は絶対次の職場で活かしてやろう。今日学んだ信念のおかげで次の新たな職場での仕事が楽しみになってきた。絶対にこの大学を良くしてやろうと思う。そう思い続けながら仕事をやってやろうと思う。また、そうすることは、目的が明確である仕事というものに対し、逆に目的の与えられてない、まったく不可解なこの人生について、何らかの理解が得られるような予感があるんだ。今日は、心からお礼が言えた。ありがとうございました。
2006.02.24
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入試でした。もうかなり慣れました。今日は雨も上がったし、特に大きなトラブルも無く、無事に終わることができました。入試シーズンももう後半を迎えます。ただ、入試シーズンを最後まで終える前に入試課を離れなければならないみたいな感じです。今日、入試が終わって、さあ帰ろうとしたらキャリア(就職課)のセンター長に呼び出されました。3月中旬から埼玉の校舎でのキャリアサポートセンター(就職課)での勤務が決まりました^^;というわけで挙げてみよ向こうの校舎でのメリット・弓道場がある^^・友達結構住んでる。・給料良い。・家賃安い・学生時代2年弱住んでたので慣れた街。まだあるんだけども今日は忙しいのでここまで。新しい生活、頑張ります。お、4000HIT☆
2006.02.21
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なるたけ日記を更新したかったので、ネタが無いけど書きます。専門的内容なので興味のある人だけ読んで下さいな。自覚についてが最近の主題。自覚とは「私は○○である」という自己反省的な意識のことだ。その自己反省はの意識は、直観的な場所の把握によって生じる。自覚は場所によってその内容(述語)が変わる。会社にいれば「私は部長である」とか、家庭に帰れば「私は父である」とか、そしてその述語の方面は徹底的に変化し得るものであると思う。何の偶然か、狼に育てられる子供と言うのがまれにいる。その子供の意識は狼そのものであるのだろう。狼と同じものを食べ、狼と同じように走り、狼のように遠吠えをし。狼であるのか、会社の部長であるのか、自分が何者であるのか、ということは意識においてはそれほど違いのあることではないのかもしれない。部長と狼の違いの場合、その意識内容が人格的か狼格的(?)かの違いであって、そこに意識活動があり、そこから世界を表象しているということには違いない。「私は狼である」というような反省的意識を狼はもたない。しかし自分が狼であることは知っている。間違って仲間を獲物として食べたりしないから。敵と見方とを判断することもできる。同様に人間の場合も、自分が人間であることは「私は人間である」と思惟する前から知っていることだ。意識があり、世界を表象しているという点に関しては、その内容が人間であろうと狼であろうと、大きな違いは見とめられない。だから人間である自分が狼であることを想像可能であるのだろう。だから、自分が狼であろうと、会社の部長であろうとも、別に何でも良かったわけだ。でも現実にはその無限の選択肢の内の一つが私に与えられている。では、場所を貫いて、述語の変化を貫いて同一性の認められるように思える主語(私は)のほうとは何だろうか?前期のウィトゲンシュタインはそれを世界に属さない形而上的主体と言った。永井均はそれを世界の開闢の主体として〈私〉と表記した。西田幾多郎は。。。まだ勉強中であったりするのでまた今度^^;しかし、自分が持つ問いとはそんなことだ。述語に限定されることでのみ主題化される主語とは何だろうか。反省的意識とは、ある一つの述語によって主語を主題化することでもあると思う。自覚というものが本来無限定なものであるとして、そこに限定‐無限定の程度の差を認めるのであれば、それ(反省的意識)は限定の極にある自覚である。無限定な自己を、「私は○○である」と定立することで、その述語「○○」になりきることができる。それによって生命はよりその限定された述語的限定的生命自身に徹することができるのであろうか。まだまだ要検討。今日はここまで。
2006.02.18
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教育とは何だろうか?それは単純な情報の伝達ということでは、けしてない。それは自覚の拡大を促すことである。意識に人格性を付与していくということである。ナイノア・トンプソン(1.14日記「地球交響曲第三番」参照)に従って考えると、「成功体験の普遍化」である。生命進化のプログラムである。以前から「意識」を扱う職に就きたいと思っていた。それを自分は哲学者という言葉で考えていた。でも哲学者でなくても哲学はできるし、意識を扱う職は沢山ある。例えば、大学。大学の教員のみが教育に携わっているのではない。職員も教育に関与している。教師と生徒という関係で、現実的な教育現場の展開を大学教員は担っている。職員はその教育の「場」自体をプロデュースしていかなければならない。その関与のしかたは、教員よりもむしろ哲学的であると同時に組織経営的であるかもしれない。それは、学問とは何か、教育とは何か、社会とは何か、大学という場所とは何かを常に問い続けることだからである。そして、時代にあわせてその答えは変化して行く、そしてそれに合わせて教育の場所をその都度創造していかなければならない。だから大学の場合(とりわけ私立大学は)教育理念と、経営理念が別のものではないと思う。社会は、時代によって人間に何を要請するかが変わってくる。石器時代なら食料を得るための教育を戦時下なら、人を殺すことの教育を社会や時代の要請が直に教育の理念になっている。現代は人間に何を要請しているのか。単純に、戦時下だから人を殺す教育をすれば良い、とか、時代の流れが早過ぎるから、ゆとり教育にすれば良い、とか、教育というのは、そんな単純な場当たり的なものではないと思う。時代や、社会を超えた人間像、それを考えるのが教育者であると思う。実は教育職というのは、かなり宗教性を帯びた職であるのだと思う。自分が弓道場を建てたい、というのも、自分独自の教育の現場を求めているからであるとも言える。哲学と弓道を通じて、自分は自覚を拡大していきたい。その自己成長の欲求を自己を超えて実現していきたいんだと思う。やはり、教育者になりたい。
2006.02.16
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今日は仕事中にキャリアサポートセンター(就職課)のセンター長に呼び出された。初めに断っておくと、バレンタインとは一切関係ない(笑)呼び出されたのは、今後の自分の進路についての話。自分には今3つの選択肢があるようだ。1、現在働いている入試課で「職務依託」という形での採用。これは、いずれ職員採用の道がある。ただ、自分を推薦をしてから、大学側が未だはっきりとした返事をしないので、どうなるのかわからないということ。2、これは、「1」を大学側に断られた時の場合を想定してセンター長が用意してくれた選択肢。埼玉にある校舎のキャリアサポートセンター(就職課)で一年契約でのアルバイト。この場合は、大学の新卒職員採用試験を受けることが条件。日給一万で扱ってくれるとのこと。3、これも、センター長が用意してくれた選択肢。大手出版社のM図書出版。教育関連の図書、主に教科書を扱っている。ここに一人欠員補充の募集があるので、大学での扱い(主に経済的な部分)が不満な場合はなんとかしてやるとのこと。そして今週金曜までに返事をくれといわれた。まず、なんでこの人(センター長)は自分の為にここまでしてくれているのだろう。出会ったのは昨年の11月。まだ半年も経っていない。何度かのカウンセリングや、大学の経営ついて話しもしたが、それでも自分の何を認めているのだろうか?初めに会った時からやたら気に入ってくれて、そして、ただの学生でもない大学のOBにここまでしてくれている。他に就職に困っている現役の学生は沢山いるだろうに。まだ社会人として何のスキルも無いというのに。大学には君のような人が必要だとも言ってくれる。正直、こんな風に、真摯に自分のことを助けてくれている人が、たった一人だけでもいれば、そこで働きたいと思うのに充分な理由なんじゃないだろうか。もちろんここ数ヶ月大学運営の現場で働き、ここがどのような場所で、どのような問題点があるのかが身に染みてわかったし、それをなんとかしたいとの想いもある。また、この大学に対してOBとしての愛着もある。勉強しながら働けるというメリットもある。でもやはり、ここにいて、自分のことを見てくれる人の善意に応えたいと強く思うし。また、彼らの想いを引きうけて、そして共に教育とは何かを考え、共に大学を創っていきたいとも思う。M図書出版のHPを見た。理念があり、やり甲斐もありそうなとても魅力的な会社だと思った。ただ、今の自分の居場所はこの大学にあるのだと思う。そこには使命感もあり、大切にしたい間柄もある。それを「居場所がある」と言うんだと思う。
2006.02.14
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意識が生成するのは何に由来するのかということを、ここしばらく考えることが多い。これだけだと抽象的なので、生活の現場においてそれを考えてみよう。たとえば、朝の目覚めをいかに気持ち良く迎えられるか、ということで生活における意識の「張り」ないし「充実」の度合いを測ることができると思う。仕事から帰り、疲れ果てて次の日の段取りもなく、バタンキューすると、大抵次の日の朝は布団から出たくないことが多い。それは、目覚めてから、意識の方向性が定まらないから。自分が何をするかがわかってないから。前日の夜に手帳を開いて、次の日の段取りを考えていたり、あるいは、次の日に何かしら楽しいことがあったり(小学生でいうなら遠足とか)そのように、その日具体的なイメージがあらかじめ用意されていると朝の目覚めはまったくもって障害でもなんでもない。朝、目覚めて我々は、瞬時にここがどこで私が誰であるのかを把握する。そしてその内容によって、起き上がるの辛くなったり、楽しくなったりする。朝の意識がどのように形成されるのか不思議でならない。赤ん坊は大抵皆泣きながら生まれてくる。心地よい母体という「静」の世界から、いずれ「個」としてその実存を背負うことを運命付けられた「動」の世界へ。「赤ん坊」を主題化して見てみると、赤ん坊にとっては、母体が世界の総体である。赤ん坊にとって母体の外は大気圏外の宇宙空間と同じようなものであろう。肉体的・物理的に一であった母と断絶し、個として世界へと投げ出された赤ん坊は、まず大泣きする。それを単に生理学的反応と見ることもできる。だがそんな抽象的な解釈で意識の説明にはならない。ここではそれ(赤ん坊が泣きながら生まれること)を、新たな世界に対する拒絶反応であるとともに、個としての生をこの世界に確立したことへの自己主張でもあると考えてよいかもしれない。。。世界を拒絶しながらも、そこに自己の確立を図らなければならない。赤ん坊の誕生はなんて実存的なんだろうか。子供の世界は狭い。だがそれは大人から見れば狭いだけで、子供にとってはその意識が世界の総体である。意識が世界の総体であるということは、何も子供に限らず我々大人にとっても同じことである。成長すということは、外から与えられた情報量の増加のみを意味するのではない。同時に内よりの自覚の拡大も意味するのであると思う。自覚の拡大とは、関係性の把握のことで、自己と他者、見る自己と見られる自己、自己と世界、自己と社会。。。。それらの関係性が意識において明確になっているということでもあるだろう。最近「教育」とは何かをよく考えるが、おそらく教育とはこうゆうことだ。関係性を明確にすることなんだ。自覚の拡大を促すことなんだ。少年時代は世界の外側への明確なイメージもなく、ただその時を世界の総体として把握している。きっとそれは自我意識が明確でないからだろう。ここ数日、よく子供の頃海岸で見た赤い夕日が、特別な感情を伴って思い出されることがある。いわゆるノスタルジックな気分で。ノスタルジーとは何だろうか?それは当時の世界の把握のしかたを当時のままに思い出してしまうことであるとだろうか?現在の大人としての豊富な関係性の意識において、当時の内もなく外もない、世界の総体としての意識を、当時の感情もそのままに想起されることなのだろうか?そうとも言えるが、こうも考えることができる。その当時の意識と、現在の意識と、その二つの意識の距離を把握する意識感情をノスタルジーと呼ぶ、と。少なくとも、ノスタルジーを感じているのは少年である当時の自分ではない。それを想起する側である。
2006.02.13
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今日が日曜日なんだなーってのは、いつもの通勤時間電車に乗ってみてわかった。普段なら無表情の会社員で押し合いへし合いしてる満員電車、今日は、家族連れやら、カップルやら、楽しそうな表情で電車に乗ってる。疲れた会社員達の不機嫌な雰囲気ではなく、ああ、皆これから遊びに行くんだって感じの上機嫌な表情してた。日曜の上機嫌な空気ってのはなかなか良いもんだね。まあ、オレは休日出勤なんですけど^^;先週の土日が入試で、今日はその合格書の発送。今日中に6000通位をさばかなきゃいけなかったり。。。残業のつもりで行ったけど、思いのほか早く終わることができた。仕事の後に6:00より、弓道部の歓送会(堅苦しい体育会のいわゆる卒業生の追いコン)監督・コーチを差し置いてなぜか自分が乾杯の挨拶をすることに。。しかも直前の5分前に。なんとかかんとかアドリブでかわしましたが。でも挨拶って馴れん。一年前は自分が送られる四年生だったのに、時間の流れは早いもんだ。思えばこの弓道部での経験は自分にとってかけがえのない財産になっている。そこで得たことは、単純に弓の技術だけではない。人との接し方、上下関係、友情もそうだし、恋愛も。そして組織論、上達論、クラブマネジメント。数々の失敗、挫折経験、そして成功体験。社会に出た今でも、そこで得た人脈で数え切れないくらい救われている。弓道部を卒業していく彼らも、ここでの経験がそれぞれの形で財産になっていくのであろう。その後二次会。結局終電で帰り。明日も仕事だ。
2006.02.12
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金・土・日の3日間の実施でした。寒すぎ。寒風吹きすさぶ中、受験生に笑顔で挨拶。そして一日外で受付。おかげさまで、入試の人間が数名が風邪でダウンしました。しかし部長まで入試当日休んでしまうというのはどうかと思った^^;忙しさにかまけて、しばらく更新をサボってました。ここ数日は毎日残業必至で、おかげさまで一日に手帳を開く回数も減ってきましたなあ。まあ、生活を手帳に依存させるわけではないんだけれども、明日のことや、一週間後のことや、一年後のことや、生活や将来のイメージ像をオレはここに託してるので。。。今日から9時⇒10時出勤に勤務時間が変更したのに気づかず、9時出勤してしまった^^;だって、だれも教えてくんなかったんだもん。今日は入試も終わり一段落着いて、仕事も時間通り上がれたので、キャリアサポートセンター(就職課)に寄ってセンター長と面談しました。大学に正式に採用されるのに、今後筆記試験(SPI+小論文)と面接が待っているということが判明しました(‐‐;)まあ、予想はしておりましたよ。がんばります。センター長とはなぜか今後の大学の経営についての話をしました。実際、今の私立大学は、少子化による大学全入時代に向けての生き残りで、いかに受験生を取るかに躍起になってます。まあ、他大学と受験生の取り合いですよね。そして、うちの大学は具体的に今何をやっているかといえば、学生獲得最前線の戦場である入試課が、現場で場当たり的になんとかしているという現状なわけで、組織として、今後何を強みにして受験生や社会に提示していくのがハッキリしてません。やっているのは、入試制度を変えてみたりとか、オープンキャンパスの工夫してみたり、現場での小手先改革ばかりで、どんな教育をしていくのか、どんな学生を受け入れ、どんな大学生を社会に送り出していくのかがまったく明確化されてません。それは社会に対しても、学内の学生や教職員に対しても明確化されていないということでもあります。外に対しては大学イメージ、内に対しては大学の自覚。そこが曖昧であるということです。センター長は、入試課に他の部署が、おんぶ抱っこしているのが現状で、組織としての統一がされていないと言ってましたなあ。これは、教育理念の問題であるから、上層部の人間達の意識の低さが直接に大学イメージの不明確化に繋がってるんですよ。ああ、これからの時代、大学経営のコンサルって儲かりそうだなあ。というか、「少子化の時代」にピントを合わせたコンサルてのがどんどん要求されることになるね。
2006.02.06
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目標をマニフェストし、自己の方向性を確認する時期が過ぎて、生活が淀みなく流れ動くのを感じる今日この頃。毎日の忙しさの中で、初心が意識から離れて行っております。ただ、忙しく、初心を改めて意識しなおす暇はないが、仕事と学問との両立はできている。先週末は、論文の発表もしたし。仕事に関しては、最近は会社という実体の概念について、そして教育というものについて考えさせられることが多いです。それについてはまた今度。。。今週末は入試です。我々にとっては試合本番と同じです。。。
2006.02.01
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