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息子の初めての入院は続いている。私も息子に付き添って、初めての小児科スティである。この病院の小児科の朝は、遅い。看護師さんが回ってくるのが8時ごろ、朝食は8時半過ぎである。入院2日目の朝―、結局、右手につけられた点滴は取ってもらえなかった。点滴には抗生物質が入っているため、入院中ずっと必要なのだそうで。ムゥは、看護婦さんから、「ここには、あなたを治すためのお薬が入っているから外せないの。 ここにいる間は、この子があなたのバディ(お友だち)だよ。 ちょっと扱いにくいかもしれないけど、 あなたを治してくれる大切なバディだからね、仲良くしてあげてね!」と言われて、妙に納得していた。以後、点滴を「バディ君」と呼び、「ここにいる間は、バディ君はムゥのお友だちなんだよ、 ムゥを治してくれるグッドフレンドなの」と、俄然ポジティヴに扱い始めた。時々、子どもの聞きわけの良さというか、フレキシブルな状況適応能力には、感心させられることが多いけど、今回この入院中は特にそうだった。息子は入院のことや治療のことを理解しているらしくて、文句も言わずに受け入れてくれていた。とはいえ、やはり、そこは五歳の子。ともすると、バディ君の存在をすっかり忘れてしまう。お目当ての物を見つけたり、トイレに急ぐとき、ムゥの幼い頭から、点滴バディの存在は、ぽっかりと抜け落ちてしまっている。目的に向かって突進すること、度々。「ムゥ、バディ君! 忘れちゃってるよっ!」点滴の針が抜け落ちてスプラッターな事態になっては大変!と、そのたび私は青くなって、声を荒げるのだった。でもって、暇を持て余したりすると、無意識に、バディ君の足によじ登り、公園の遊具で遊ぶかのように、ぶらぶら揺れてみたりしてしまうんだから。「ムゥ、何やってんの! バディ君ごと倒れちゃったら、どうすんの! 今度は外科、行きたいのっ!?」と、クラクラしながら叱ることに。ここでは9時ごろにまず第一弾の医師団が、どやどやっと回ってくる。夜中、子どもの付き添いで疲れ、だらりとした大人たちからは一線を画し、彼らはユニフォームやスーツでびしっと身を固め、テキパキッと動いてゆく。オーラの弱った病棟にあって、彼らのエネルギーの強さはほとんど軍隊的。息子は毎朝、その気配を察するや、「ママ、早く着替えないと! これ(朝食のトレー)、どかしちゃって!」と俄然、きちんとしなくちゃ!モードに切り替わり、背筋をしゃきっと伸ばして、良い子化する。どうやら医師団に好印象を与え、一刻も早く退院したい一心からであるらしい。 ムゥ、そういう問題じゃないんだよ、と思わず小さな肩を揉んであげたくなってしまう。ちなみに医師団の中では、息子の症状が、 汗疹からの炎症か? はたまた、アトピーからの炎症か?ということで、その意見が分かれていた。結局、アトピーの専門医に診断を仰ぐ、ということで合意。したものの、その病院に二人しかいない提携アトピーの専門医のうち、一人はホリデー中。残る一人は、シティにある別の病院で勤務中にて忙しく、こんな遠くまで足は延ばせない、とのこと。そこでやむを得ず、ここでの息子の担当医が患部写真を自分のスマートフォンで撮って、専門医にメールで送り、診断を仰ぐことになった。 おいおい、そんな素人写真でちゃんと診断ができるのか!?かなり不安ではある。さて、空いた時間は、ムゥ待望のプレイ・ルームへ。昨夜発見してから、今日はここで遊ぶのだと楽しみにしていたのだった。ただ、昨夜は予想もしなかった、常に点滴バディ君と手を繋いで一緒に行動しなくてはならない、という事態に陥ってしまったがために、遊びにもかなり制限が加わってしまったのではあるけれど。それでもムゥは、点滴バディ君と並んで小さなデスクに向かって、工作を始めた。右手をバディ君とつないでいるため、大したことはできないのだけど、夕方、面会に来てくれるお姉ちゃんに何か作ってあげるのだ、と楽しそうに日本の旗や紙人形をつくっていた。私も小児科スティは初めての経験なので、他の病院のことはわからないのだが、病院に、こういう空間が存在するというのは、素晴らしいことだと思う。子供用のテーブルと椅子が置かれ、絵本や工作、お絵描き道具にくわえ、ドールハウス、おままごとセット、ファーム(農場)やオーストラリアの動物なんて遊具が並んでいる。壁には子どもたちの絵が貼られ、「子どもを褒める100の言葉」とか、温かくポジティヴな情報が掲げられていて、ほとんど幼稚園のお教室って雰囲気。そのうえ、ここには常駐のプレイ・セラピストまでいるのだ。病気や事故で心が萎んでしまった子どもたちが、遊びを通して元気を取り戻せるように精神的ケアをしてくれる。親たちの相談にも乗ってくれるのだそうで。セラピストのお姉さんは、ベッドから起き上がれない子どもたちのために、出張サービスもしていた。午前中それぞれの病室を回って、子どもたちに声をかけては、おもちゃや本、工作の道具なんかを貸し出していた。息子もプレイ・ルームとセラピストのお姉さんには、お世話になった。お姉さんは、右手を点滴バディ君とつないでいるため、お絵描きや工作が難しくなってしまったムゥと一緒にカード遊びをしてくれたり、スペル遊びをしてくれたり。最初の夜に入院してきたマシュー君(仮名)とも、ここでお友だちになったのだった。お姉さんと一緒に三人で遊びながら、他愛無いおしゃべりや、互いの入院の話なんかをするうち自然、打ち解けることができたらしい。メェが面会に来たときには、ここのドールハウスやファームで一緒に遊んでいたし、病室にテレビがないので、ここにテレビを見に来たりもしたのだった。この小児科には、ホットドリンクの病室内への持ち込みは一切禁止、という掟があった。子どもが火傷をしないようにとの配慮らしいが、他の病院はどうなのだろうか?そこで私はカフェラッテ欲しさと暇つぶしに、ムゥを連れて病院のカフェテリアに行こうとしたのだが、点滴をつけた子どもの小児科病棟からの外出は禁止、という別の掟に触れてしまい断念した。代りに小児科病棟の中に休憩室「Sitting Room」があって、そこでホットドリンクが飲めるとのこと。行ってみると、その部屋にはテレビとカウチが置かれ、申し訳程度にインスタントコーヒーと紅茶にカップ、給油機なんかが置かれていた。ラッテは諦め、ここのインスタントコーヒーで、ムゥに絵本でも読み聞かせながら一息つこうかと思ったら、「子どもの入室厳禁」とガラスのドアに貼り紙がしてある。むむむ、第3の掟。子供を火傷のリスクにさらしてはならないのだった。それで午後、ムゥがプレイ・セラピストのお姉さんと楽しげに遊んでいる隙に、そそくさと休憩室に駆け込み、かなり遅れてモーニング(?)コーヒーを楽しんだ。いやぁ、インスタント・コーヒー一杯も、小児病棟にあっては贅沢品ですね。やはりホットドリンクを求め、駆け込んでいた同じ病室のお母さんとほっと一息。彼女の娘さんはムゥの向かいのベッドで、足をギプスで固定されていたから交通事故か何かに遭ったのだろうと思っていたが、なんと原因は、ヘビであった。なんでもホリデー中に旅先で、ブッシュウォーキングを楽しんでいたら、足をヘビに噛まれてしまったんだそう。毒蛇じゃあなかったものの、傷口から化膿して炎症を起こしてしまい、1週間入院が確定してしまったんだそうである。とんだホリデーだった、と苦笑してらした。入院も時が経つほど自然、他の方々と言葉を交わす機会も多くなる。ムゥの隣のベッドには、アジア系の男の子が母親に付き添われて入院していた。毎晩お父さんとお姉ちゃんにくわえ、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんまで家族総出で面会に来るから、ずいぶんと結束の固い大家族なんだナと思っていたら、祖父母の方は、なんとベトナム在住の方々であった。お気の毒にも、娘さんとお孫さんに会いに、わざわざベトナムからオーストラリアまでホリデーにいらしたのに、突然3歳のお孫さんが足の痛みから緊急入院になってしまって、病室で束の間、娘さんとお孫さんとの面会を果たしているんだそうな。まさにこちらも、とんだホリデーである。もう一人、父親に付き添われ、夜中に慌ただしく入院してきたマシュー君(仮名)は、一番後から入院したにもかかわらず、一番最初に、やはり慌ただしく退院していった。ムゥとはプレイルーム・メイトになっていたので、お別れの挨拶に来てくれた。別れを惜しんでいた二人の姿が微笑ましかった。余談だが、マシュー君のお父さんは生まれもオーストラリアのオージーだが、お母さんの方はインドからの移民である。以前、オーストラリアでは、本人が外国で生まれたか、もしくは両親の一人が外国生まれのオージーは、人口の4分の1に上るのだと聞き、そのエスニック・パワーに驚いたものだけど、この病室は、まさにその縮図みたいなものだった。4人中、両親ともオーストラリア生まれの子は、向かいのベッドに横たわる、ヘビに噛まれた女の子だけである。その数時間後、マシュー君に入れ替わりやってきた男の子は、インド系の移民だったし。さて、汗疹かアトピーか?で揉めていた、ムゥの診断。アトピーの専門医は、担当医がメールした患部写真を元に、アトピー性炎症と診断を下した。ムゥは重度のアトピーということで一件落着(?)を見たわけである。そのさい担当医が、「専門医は、アトピー性皮膚炎による炎症という診断に満足している」と伝えたのだが、「満足」に「happy」という表現を使ったので(英語ではよく使われる表現ながら)、ムゥの顔色が、瞬時にして変わってしまった。「ハッピー!? どうしてそのお医者さんは、ムゥがアトピーだとハッピーなの?」と、今にも泣き出しそうな顔で聞いてくる。私は思わず吹き出しそうになりながら説明したのだけれども、あの表情は未だに忘れられないな。結局息子は、2泊3日と言われていたが、3泊4日入院した。長かったような、あっという間だったような入院生活。良く言われることではあるけれど、病気になると、健康のありがたさが身にしみる。普段は、慌ただしい日常に追われ忘れてしまうけれど、家族そろって元気で暮らせるって、なんてありがたいことなんだろう。息子の治療は退院してからも続く。来月には病院で、アトピーの専門医からワークショップを受けることになっている。そこで私たちもアトピー性皮膚炎のことを学んで、今後は入院しなくちゃならないほど悪化させないよう対処してゆきたいと思う。健康って、ほんとありがたいですね。みなさんのご健康を、子どもたちの元気な未来をお祈りして。 OM MANI PADME HUM
2012.03.22
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息子が急遽、入院することになった。事の起こりは、今年1月。日本の冬から、珍しく暑い日が続いていたメルボルンに戻るや、ムゥの両腕は、ひどい汗疹にかかった。掻かないようにと言っても、5歳の子には、難しい。掻き防止で両腕に包帯を巻いていたのだが、左腕の方が炎症を起こしてしまった。それでもGP(オーストラリアで医療全般をあつかう、アメリカでいえばホームドクターのような存在)からステロイドクリームをもらって、いったんは落ち着いていたのだが、先週久しぶりにまた真夏日となるや、汗疹パワー再燃。左腕は、火傷でもしたかのように一見ケロイド状となって赤黒く、通常の2倍くらいにも腫れ上がってしまったのだった。GPから大病院の救急に回され、別の抗生物質を処方され、今朝はその経過見ということで、ダディンが病院に連れて行ったのだった。暫くしてダディンから電話がかかってきた。なんでも、息子は重度のアトピー性皮膚炎で、救急入院が決まった。2泊くらいになりそうだから、パジャマとか宿泊グッズをもってすぐに来てほしい、ということで。 え、、、重度のアトピー??? 救急入院!?アトピーの傾向があるかナとは思っていたが、重度だなんて…初耳である。寝耳に水!?のニュースに、頭をグルングルンさせながら、息子が大切にしているビクティニのぬいぐるみや、暇つぶし用お絵描き帳や本、とりあえずの子どもと自分用宿泊(?) グッズなんかをバッグに詰め込む。病院の受付で、息子の病室を訪ねるも、ベッドが開かないそうで、まだ救急にいるとのこと。救急のベッドで、ムゥはダディンの膝に坐って、テレビを見ていた。今や両腕とも、一見ギプスかと思うほど強固にぐるぐると包帯で巻かれていて、痛々しい。それでも、息子の方は案外おっとりと飄々としていた。喘息の発作で、既に何度かここに担ぎ込まれたことがあるからだろうか。ダディンに代わって付き添った私に、トイレやファミリールームの場所なんかを教えてくれたりして。救急のベッドは、カーテンで仕切ろうと思えばある程度のプライベート空間、つーか死角くらいなら確保できるものの、基本的にオープンスペースなので、落ち着かない。3時ごろ隣に運ばれてきた高校生くらいの女の子は、骨折でもしたのか、ずっと呻き続けていた。カーテン越しに時おり悲鳴まで上がって、痛ましいのだった。誰か、お願いだからあの子を早く助けて、何とかしてあげて!治療待ちなのはわかっていても、思わず看護師さんを呼び止めたくなってしまう。一方、息子の方は、両腕を強固に巻かれてはいても、酷い痛みや高熱があるわけじゃあないので、暇を持て余してしまっている。テレビの子供番組も終わってしまったし、私が持ってきた本も読み終わってしまったし。私は焦って、お絵描き帳なんぞをパッキングしてしまったのだが、包帯で両手の自由が効かない今、ペンなど握れるわけもなく。それにしても、いつになっても病室に移れる気配がないので、検温に来てくれた看護婦さんに尋ねたところ、小児科の空きベッドがいつになっても見つからないのだ、とのこと。それでも提携先の病院をいろいろと当たってもらって、夕方、ようやっとここからもっと郊外の、別の市の病院に空きベッドが見つかった。どうやら小児科の手が足りないのは、万国共通事情であるらしい。その際、医者から、必要ならば救急車を手配してあげる、と言われる。 救急車送迎、ですか?日常を逸した移動手段に、不謹慎にもちょっと胸が高鳴ってしまったものの、やはりダディンに連絡して送ってもらうことにした。というのも、私は昔、大学生のころに友達と深夜の長電話をしていて、耳かき棒で鼓膜をブチ破ってしまい、スプラッターな血しぶきにパニックを起こして、救急車を呼んでしまった、という過去があるから。そのとき女医さんから、鼓膜が破れたくらいで救急車を呼ぶとはけしからん!国民の血税を何と心得ておるのか!的お説教を受けたもので…。オージーの血税(むろん私も払っているのだが)を無駄にはできんかナ、と。だが、後で聞いた話じゃ、こちらでは後からしっかと請求書が来るらしい。ダディンと娘が駆け付けてくれて、目指す病院に辿り着いたのは7時過ぎ。この病院は全室パブリックなので小児科に個室はなく、4人部屋である。ちょうど面会時間なのか、病室は見舞客で賑わって(?)いた。窓際のベッドも一つ空いていたのだが、私たちは通路側のベッドに通された。メェは、弟の入院という事態に動揺しまくっていて、帰り際など「明日もきっと来るからねっ」と涙ぐみつつ、ひしっとハグ。たかが2泊とはいえ、別離を惜しむ姉弟の姿に思わず胸が熱くなる。やはり子どもたちにとってはダメージも大きいんだろうな。二人を見送り、慌ただしく荷を解き、寝る用意をするも、ここの小児科の夜は案外遅いらしく、9時近くなっても皆さん、バタバタされている。そこで寝る前にムゥと二人、小児科内を探検(?)をしたところ、プレイ・ルームを発見する。小さなテーブルが配置され、本や遊具が並んでいた。広めのバルコニーには人工芝が敷かれ、子ども用スクーターまでもが。「明日は、きっとここで遊ぼうねっ!」と、見る間に瞳を輝かせるムゥ。4人部屋の明りが消えたのは、9時過ぎ、半ごろであった。ソファベッドとしても使える付添い用のカウチもあったのだが、息子と一緒にベッドで眠ることにした。息子は、やはり不安なんだろう。ビクティニを両腕にしっかと抱き締めて、身を固くして眠ろうとしていた。でもムゥ、そんなにがんばっちゃったら眠れないよ…。病院では良く眠れない、とは聞くけれど、実際、眠るのは難しい。とりわけ小児科では、子どもの悲鳴や赤ちゃんの泣き声なんかが夜通し聞こえてくるから、あまりに不憫で、居たたまれなくて。もう祈りながら寝るしかないって感じ…。後で看護婦さんから聞いた話では、両親の都合で誰からも付き添ってもらえない子どもも案外いるそう。大人でも病院に一人はしんどいのに、幼い子どもが独りぼっちで夜を過ごさなければならないなんて、どれほど心細いことだろう。夜中、空いていた窓際のベッドに、父親に付き添われて、男の子が担ぎ込まれてきた。夜通し、看護婦さんは来てくれて、検温をしたり、湿布を変えてくれたり、点滴まで付けてくれた。息子はそのたび目が覚めてしまって、なかなか寝付けないようだったけれど。とりわけ点滴をつけられてからは、痛いのと、ビクティニを抱きしめて眠るのが難しくなってしまったことで、目を覚ますたび「朝になったら、これ取ってくれるよね、ね、ね」、と聞いてくる。とりあえず、「取ってくれるといいね」と宥め、ムゥがまた眠りに落ちてくれるのを待っていた。なかなか明けない夜だった。
2012.03.20
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この週末メルボルンでは、チベット仏教の遺品展、MAITREYA PROJECT Heart Shrine Relic Tourがビクトリア州立ナショナル・ギャラリーで開催されました。釈迦をはじめ様々な仏陀や悟りを開いた僧たちの41点もの遺品、レリックが一堂に公開された!チベット仏教では、仏陀や悟りを開いた僧たちの遺品―レリックは、彼らの美徳が物質的に具現化したものであり、見る者を益するエネルギーがある、といわれている。遺品には、3種あって、歯や骨や髪など肉体の一部。袈裟の一部などの所有品。火葬した後に骨や灰に混じって残る結晶体、The Crystal Substances。クリスタルは、悟りを開き、瞑想をしながら亡くなった僧を火葬した後の灰から発見されるのだそうである。様々な色や形、大きさがあって、見た目も、とっても綺麗。私は、前回この遺品展を見に行ったとき、それらを高僧たちが使っていた水晶の数珠の粒だと思っていたのだが、実際は、火葬後の遺骨(!)だったわけですね。レリックが、41点もまとめて公開されるのは、非常に稀なことなんだそうである。ふつう仏教国でも、レリックはお寺に一点しかなく、公開されると、何千人もの人々が列をなして見に来るのだと、チベット仏教の尼僧さんがThe Age紙で語っていらした。記事によると、この大規模なレリック・ツアーは、世界平和活動の一環。できるだけ多くの方々にレリックのポジティヴなエネルギーに触れてもらおうと、十年ほど、とりわけ紛争国を中心に、世界各地を回っているのだそう。日本でも開催され、オーストラリアでは、シドニー、ケアンズ、ブリズベン、アデレイド、アリス・スプリングス、ムランビーと回り、メルボルンに来るのは、今回が2度目である。(ちなみに前回のことは2010年6月6日のブログ日記に)。人にくわえて、動物たちもレリックの恩恵に預かってきたのだそうで、Alice Springsでは、ワンちゃん100匹に、カンガルーの赤ちゃんや、トカゲやヘビやカタツムリたちも参加。レリックで祝福してもらうやアフリカ・カタツムリは、殻からのそりと出てきたのだそうで、その光景を思い浮かべれば、なんだか愛らしくも、微笑ましいゾ。ビクトリア州立ギャラリーに、確か犬連れは無理だと思ったけれども、機会があったら、ウチのワンちゃんたちも連れて行ってあげたいものだ。さて、今回のレリック・ツアーは、当日いろいろと予定が立て込んでしまったために、朝一で足を運ぶことにしたのだけれども、これが大正解でした。前回は午後に行ったので、ものすご~~~い人だったのよ。長蛇の列に、待つこと1時間。当時4歳だった息子はグズリまくり、娘はブーたれ、ダディンと私は子どもたちを宥めすかしたり、いさめたり、ご機嫌とったりで、疲労困憊。ようやっとレリックに辿り着くも、あまりの人の多さに周囲を待たせちゃいかん!と気を遣い、子どもたちを急かし、宥め、そそくさと礼拝し、遺品を拝み―。そんな状況でも感動し、霊的インスピレーションを感じられたのは、思えば奇跡的かも。やはりレリックのパワーが強かったからでしょうか?それが今回は朝一、開館同時ということで、とにかく人がいなかった!ギャラリー天井のステンドグラスから七色の朝の光がレリックに注がれて、会場は穏やかな空気で満たされていた。レリックの周りには大輪の花が活けられ、蝋燭の炎がゆらめき、水をたたえたウォーター・ポールが飾られ、そこには、神聖で、平和なエネルギーが満ちあふれておりました。家族4人、やわらかな七色の光を浴び、ゆったりと礼拝する。今回は会場に置かれた作法の手順を読む余裕さえあったから、マイトレーヤ仏陀(未来の仏陀)に聖水をかけて、合掌し、指南書を見ながら、その真言も唱えることができたし。私を真似て、娘ばかりが、5歳の息子までもが真言を唱えておったし!?そうして、どこからともなく漂ってくる美しい芳香につつまれ(お花の香りかな)、ゆったりと遺品を見て回る。前回は写真も取れなかった記憶があるのだけれど、今回は写真撮影もOKとのことで、レリックをカメラに収めつつ、ゆっくりとそのエネルギーを楽しむ。尼僧さんから、レリックの祝福も受けることができました。その後は周囲に置かれた座布団に座って、家族で、瞑想。神聖にして、安らかで、心が洗われるような静寂のなかで、印を組み、瞼を閉じ、心を空にして、ゆったりと瞑想する。前回は子どもらの「もうやっと見たんだから、帰ろうよ~~~」の声に押され、手を引っ張られて、レリックの傍らで瞑想に耽る人々の静寂に満ちた空間を横目に、会場を後にしながら、どれほど自分もそこに座して瞑想したい~~~、と願ったことだろう。その願いのカルマが、今。パオ~ン息子はそのうち瞑想に飽きて(それでも10分くらいは坐っていたかな?)、ダディンを引っ張って外に消えてしまったのだけど、娘の方は私に付き合って、ずっと一緒に瞑想していた。彼女があんなに長いこと瞑想できるだなんて、驚き。「瞑想って、心が広がって、気持ち良いんだよね~。 これからも時々瞑想しようねっ!」と、娘。おおーっ! パオ~ン、再び。これもレリックのポジディヴ・エネルギーのおかげかな?満ち足りた心で、ナショナル・ギャラリーを後にしたのでした。最後に、The Age誌から尼僧、ポサさんの言葉を。「レリックは、鏡のようなもの。 あなたの心の、最も優しい部分に触れさせてくれる。 レリックを前に、心の平安や静寂を感じるとき、 それは、レリックからではなく、あなたの内なる心から現れたものなのです。 レリックはその力を与えてくれるのです」マイトレーヤ・レリック・ツアーは、これからも続く。レリックは世界を回ってゆきます。皆さんも機会がありましたら、ぜひ足を運んでみてください。
2012.03.18
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あの日から一年が経った。被災された方々、震災で大切な方や家を失った方々には、どれほど長い一年だったことだろう。あの日、次々と流れてくる恐ろしいニュースに驚愕し、打ちひしがれていた。こんな恐ろしい災害に遭ってしまったら、どうやって生きのび、再び歩き始めることができるのだろうか?言葉もなく、とにかく何か自分にもできることをと義援金を送ったり、祈っていた。一年後の今日、NHKワールド・プレミアの衛星放送で、「“同日同時刻”生中継 被災地の夜」という番組を見た。5つの被災地から生中継で、被災された方々が、同日同時刻に、被災された場所と同じ場所で、被災した経験を語ってくれる、という番組だった。ビルの屋上の煙突に登り、津波からは逃れたものの、そのまま一人孤立していたという、陸前高田市の男性。大火災に包囲されていた、気仙沼市の3家族。南三陸の病院に取り残されていた患者と医師。仙台市の列車の中で一夜を過ごした乗客たち。屋根に乗って、海の中を3日間漂流し続けた、南相馬市の男性。壮絶な体験から生きのびた方々だった。屋根の上でたった一人、海の上を漂流し続けた男性は、最後まで一緒にいらした奥さまのことをずっと考えていたのだそうだ。とにかく生きて、妻のことを知人や親せきに伝えなくては。そう考え、濡れてない毛布と布団が流されてきたときには、妻が与えてくれたのだ、と感謝して、夜中に青い光を見たときには、光に生きる勇気をもらい、淋しくて堪らないときには、歌を歌って自らを元気づけたのだという。ビルの屋上に、やはり一人で取り残されてしまった男性は、一月前にした娘のお宮参りのことを考えていたそうだ。妻と娘のために。そして市役所に避難し亡くなってしまっただろう両親と弟のぶんも生きのびなくては、と。気仙沼市のご家族は、津波の後に襲ってきた大火災に怯えながらも、家ごと流されてきた家族を助け出したのだという。その家のおばあさんは、ベランダの手摺りにつかまっていた男の子に気づき、「おばちゃんが、なんとかして助けてあげるからね!」と、ほんとうに、2家族を着物の帯を使って助け出したのである。その家のご主人が語っていらした。 助け上げた人たちから、自分たちも力をもらった。 3日間がんばれたのは、3家族がいたから。 小さな子たちの存在があったから。 救った人たちに、救われた、と。電車に取り残された、60人ほどの乗客たちは、水や食料を誰からともなく分かち合って、そこで一夜を過ごしたのだそうだ。キャップ一杯の水を回し飲みして、食べ物を一口ずつ齧り合う。いつ水や食料が供給されるかもわからない状況にあって、限られたそれらを分かち合える精神。なんて力強く、やさしいんだろう。乗客たちは外の、津波で生き残った人たちも救出し、老人の方は車両から外したベンチに寝かせ、若い人たちが1時間おきにマッサージをしたという。「うちの子はいませんかーっ!?」と水の中をかき分け息子を探しにきたという女性が、電車に一人で乗っていた男の子と再会を果たしたときには、車両から拍手が湧き上がり、乗客たちももらい泣きをしたそうだ。それまで、家族へ遺書を書き、心が半ば麻痺していたのが、そのとき力をもらった、次は自分も皆のために何かをしようと思ったと、一人の乗客の方が語っていらした。医療器具も津波で流され、患者に寄り添うしかなかったという、病院に取り残された医師のお話も心に迫った。一人なら絶望してしまったような極限の状況に置かれ、自分よりも弱っている患者さんたちが目の前にいることで、努めて平然と振舞おうとしていた、自らの崩れそうな心を保つことができたのだ、と話してらした。目の前に支えるべき人たちがいることで、自分の命も活かされている、と。極限のなかにあって、支え合い、生きのびた方々。彼らの伝える言葉は真摯で、思いやりや愛、英知に溢れていた。一年前、私は、こんなひどい災害に遭われた方々にどんな言葉をかけることができるのだろう、などと思ったけれども、一年が経った今、被災された方々の言葉に心を打たれ、励まされ、教えられていた。「伝えてゆきたい」とおっしゃった。私も、聞きたい。その一言一言に耳を傾けたいと思う。もっともっと、いつまでも語り継がれてゆくことを願う。その日、子どもたちが、震災で亡くなられた方々や今も苦しんでおられる方々を思い、黙想をしようと言ってきた。前日に、週一度通う日本人学校で先生からもお話を聞いたのだそうだ。学校では東日本大震災一周年追悼式を行い、また募金を募るという。その幼稚園に通う息子も、お小遣いから寄付をするのだと、お金を集めていた。被災されお亡くなりになられた方々のご冥福と、今も苦しんでおられる方々の平安と、復興を祈って、子どもたちと一緒に掌を合わせ、黙想した。震災の爪痕は深く、復興までの道のりは長いと言われる。たとえ細くとも長く、自らのできることをして応援し続けてゆこうと思う。復興を祈り、チベット仏教の古典、長い経典を唱え終えた朝、雨上がりの空に、虹がかかっていた。思わず写真に収めようとカメラを取りに行きレンズを構え、ハッと気づく。鮮やかだった虹のかけ橋の上にぼんやりともう1本、そこには2本の虹が。その虹に希望を託して、また祈った。
2012.03.11
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