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仕事柄染みついた理屈好きの私は、色々と理屈を述べてきました。でも、いくら理屈ばかり知っていても、実行しなければ何の意味もありません。大切なことは、他力ではなく自力での精進です。怠け者は、食べて、食べて楽をして、牛みたいに太るだけで(頭でっかちも同じですね)、智慧はまったく成長しません。お釈迦様は、怠ける人のことを牛のように見て、人間扱いしませんでした。お釈迦様は、高度な道徳である「精進・努力」を、ただ努力すればいいという程度の生易しいものではなく、「瞬間も怠けてはなりません」と厳しく教えています。正精進とは、分かりやすく言えば「頑張る」という意味だが、なんでもかんでも頑張るというのではなく、「道徳的で立派な人間になるために正しくコントロールして頑張る」という意味です。正精進には四つあります。1.今ある悪いところをなくす一つ目は、「自分の悪いところやダメなところ、いけないところを直すために努力する」ことです。「悪いところ」とは、不善=「巧みではない、上手ではない、下手」という意味です。不善には色々あるが、とくにお釈迦様が厳しくおっしゃったのは「怠けてはならない」ということです。例えば、朝早く起きられない人は、努力して、その怠けの性格を直さなくてはなりません。一般的に、私たちは夜寝て朝起きて活動します。朝早く起きれば、時間を有効に使うことができ、効率よく一日を過ごすことができます。(私は中学生の頃から、夜早く寝て深夜に起き出して勉強してきた。)浪費ぐせや贅沢ぐせがあれば、直さなければなりません。贅沢もお金の浪費も、不善行為で悪い生き方です。お金の管理が下手な人は、頑張ってそれを直すように努力しなくてはなりません。誰にでも弱点や欠点はあるものです。そこで、そうした自分の悪いところを見て、見て、見て、その悪いところを直す努力をすること、これが幸福への道です。私たちには、悪いところやだらしないところが一杯あります。ですから、日々努力精進しなければなりません。一つ悪いところを直すと、別のものが顔を出します。隠れていて、さっと顔を出すのです。それを直すと、また別のものが顔を出します。ですから、私たちは常に努力して、自分の悪いところを直していかなければならないのです。2.やったことのない悪いことをこれからもやらない二番目は、今までやったことがない悪い行為を、これからもやらないように努力することです。世の中には、悪い行為や破壊行為が一杯あります。例えば、麻薬に手を出したことのない人が、悪い友達に誘われてじゃあ一回だけやってみようと、興味本位で手を出すこともあるかもしれません。お釈迦様は、「あなたは今までやったことがないのだから、これからも頑張って、どんなに誘惑されても、やらないことを守り通してください」と諭します。その点では、徹底的に頑固になっていいのです。今までやったことのない悪い行為はこれからもやらないよう、自分を戒めなくてはなりません。世の中は、誘惑だらけです。何十年も真面目に生きてきた人が、突然悪いことをするということがあります。それで、今までこつこつ積み上げてきた成果も信頼も全部消えてなくなってしまうのです。ですから「今までやったことのない悪行為は、これからもやらないように努力すること」が大切なのです。お釈迦様は、「あなたはそれでいい。悪いことはやらないでください。あなたは今まで悪いことをやらなかったのだから、いくら誘惑されても頑張って、歯を食い縛って、自分のポリシーを貫いてください。勇気を持ってください。間違ってでも悪いことをしてはなりません」と諭しています。
2015.02.28
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桶狭間の戦いにおける信長は生死を賭け賤ヶ岳の戦いに命運を秀吉は賭け家康は関ヶ原の戦いに運命を賭けた彼らは不可知の運命に己を賭けた危険を避けて通ろうとする者の前にには永遠に運命の女神は微笑みを見せることはない人間は自分をきつい条件の中に追い込んだときに、初めて意志の強弱が出てきます。何も行動しないでいては、意志なんてものはありはしません。何かをやろうと決意することから、意志もエネルギーも噴き出してきます。「自信はない、でもとにかくやってみよう」と決意し、一瞬一瞬に全身全霊をかけてひたすらやってみるしかありません。すると、ときには女神も微笑んでくれます。「意志を強くする方法なんてありはしない。そんな余計なことを考えるより、本当に今やりたいことに、全身全霊をぶつけて集中することだ。ひたすら貫いてみる。はたから見れば、あの人はなんという意志の強い人なんだろうということになるんだ。あっちを見たり、こっちを見たりして、回りに気を遣いながら、格好良くイージーに生きようとすると、人生を貫く芯がなくなる」と岡本太郎さんは言いました。
2015.02.28
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何も見ないのではなくて、客観的に物事を見るとはどういうことか?例えば、自分が医学を勉強したいなら、客観的に「どんな大学がいいか」を調べて、それから自分の能力を見て、「自分はどんな大学に入りやすいか」と考えてみる。ちょっと自信がないというなら、「どのくらいの能力があれば、その大学の試験に合格するのか。そのくらいなら、自分もそのくらい努力しよう」と考える。それは、主観的に比べるということではなくて客観的なのです。経済のことなどでも、色々な国と比べることも客観的な勉強になる場合は問題ないのです。客観的に、自分の次のステップヘ進むためのバネとして使うというのならいいのです。主観的に見ることが「慢」であって、暗いエネルギーなのです。少し理解しにくいですか?例えば、子供には「みんなやっているでしょう」と言わなければならないことがあります。その場合、他人と比べて「みんなやっているんだから、あなたもやらなくてはいけませんよ」と言うと、主観的になる可能性が高い。そうではなくて、「みんなやっているんだから、あなたもできますよ。簡単ですよ。あなたもやってみなさい」と言う。すると、みんながやっていることを見て、「自分にもできること」という自信につなげることができます。ほんのわずかな差だが、違いますよね。ですから我々が成長するためには、知識と智慧を持って客観的に物事を判断する。物事をよく見、よく理解する。主観的には見ないという姿勢が大切なのです。主観的な見方を、客観的な見方に変えることです。例えば、自分の子供を叱る場合も、主観的に叱るから結果がでないのです。客観的に叱ってみてください。すぐ聞いてくれます。ただ自分が怒って、自分の好みで怒っていろいろと言ってもあまり聞いてくれません。そうではなくて「あなたはこういうことをしたら、こうなりますよ。そういうふうにしたら、こんなふうになります。だから自分で選びなさい」と言うなら、聞いている側も物事を客観的に見られるようになります。相手のことを考え、「こういう行動をするとこういう結果になる。だからそうすべきではない」と考えて話すのです。(注)「叱る」と「怒る」は違います。子供を叱る場合は、主観的に叱らず(怒る)客観的に叱る。会社の部下を叱るときでも、主観的に叱るのではなく客観的に叱る。むしろ叱るというよりは、「相手に善くなって欲しい」という気持ちを込めて、本人が自分で考えられるように、状況を理解する手助けをしてあげることです。するととてもうまく行きます。結局は、自愛の心を捨てて、まず他人を喜ばせることを考える。すると、相手も善いお返しをしてくれるので、自分も楽しく過ごせるということですね。決して、この逆ではないということです。
2015.02.27
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走った距離は裏切らない マラソンランナー何事も、志を高く持って努力することです。限度のない努力は、本人が驚くような偉大なことを達成させます。偉大なことも、地道な努力の一歩一歩の積み重ねからなるものです。一歩進めば、次の一歩が見えてきます。それを繰り返すことで、偉大なことが達成されます。努力と勇気さえあれば成功するとは限らないが、まず努力と勇気がなければ何事も成し遂げられないのも事実です。そして、それは年齢とは関係ありません。例えば、毛利元就は広島の小さな豪族にすぎなかったが、失敗をおそれずに59歳で厳島の合戦に向かい、それから10年間突っ走って中国地方の覇者となりました。それまでに地道な努力をかさねて下地を築き、ドカンと打って出たのが59歳の時でした。59歳といえば、その当時の感覚ではいまの80歳くらいだと思います。高齢化社会の今日、われわれも見習いたいものです。
2015.02.27
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もう一つ、我々がダメになる悪いエネルギーに「慢」(計るという意味がある)があります。これは、自分と他人を比べてしまうことです。(上座仏教で言う価値を入れるから比べるのですね)どうして比べることが、悪いエネルギーになるのでしょうか?まず、比べたくなるということは、「自分に自信がない」ということです。自分は自分と堂々として生きていられないために、「他の人はどうなのか」と気になるのです。例えば、子供時代を考えてみて下さい。テストで70点をとって、「70点だった」とそれで終わればいいのだが、隣の人の点数も気になって覗いてしまいます。隣が50点だったら、自分は気持ちがいいが、逆に相手が80点だったら気分が良くないはずです。気持ちが悪くなるか、良くなるか、どちらにせよ、「計った」がために生まれてしまった結果です。なぜ見たがるのかというと、自分に自信がないからです。世の中では、自分に自信がない人には、何も責任のあることを任せるわけにはいきません。そうすると、何もできなくなってきます。母親は「誰々に負けないよう頑張りなさい」、「誰々ちゃんはえらいね」と、小さいときから「計る」ことを教えます。知らないうちに、我々は比較してしまうのです。そうやって、知らないうちに子供の人間性をダメにしているのです。自分がいて、その自分に自信がない。そして他人がいて、他人と比べるたびに、自分はどうなるかというと、ドンドンと孤独になっていくんですね。他人と自分が精神的に分離してしまう。離れてしまう。そういう状態を作ってしまうのです。計り、比べるために、自分で自分の殻を作るのです。自分の穀を作って、その中に閉じこもってしまう病気。それは「慢」、つまり計ることから生まれてくるのです。お医者様も、その部分を理解していません。自分の穀を作って、もう手も足も出ない状態になっている人を、何とかしてやろうと色々な方法で治療しようとするが、原因を探ると小さいときから「相手と比べなさい」と言われ続け、そして他人と比べるようになって、徐々にそのような状態ができあがってきたのです。テレビでも、経済的な評論、政治的な評論、日本の社会状態、健康のこと、いろいろな番組をやっているが、ほとんど他人と比べるものばかりです。例えば、適当な給料をもらって幸せに暮らしているとします。それに対して、誰かが「ヨーロッパのこの国ではこれくらいだ」と数字を出してくる。比べてみたら、日本人の給料のほうが少ない。それで悩みを持つとすれば、それは余計な悩みでしょう。アメリカではこれ位で、日本ではこれ位というふうに比較することで、色々な新たな苦が生まれるだけで、ほかに良いことは何もありません。平均寿命もそうですね。そんなことはどうでもいいことで、自分のことを見ればいいだけなのです。簡単に言えば、「自分がいま幸せなら、それで十分ではないか」ということなのです。それでも私たちは、なんでも比べるのです。人間の心には、「比べなくては落ち着かない」というところがあるのです。だから、すべての世界は混乱ばかりなのです。「政府」というものが何かをやるわけではなく、「人間」が色々なことをやるのです。ですから「計らなければ、比べなければ落ち着かない」という人が政治をやるならば、みんな落ち着かなくなってしまうのです。会社が他社と比べるならば、みんな同じ病気になってしまうのです。個人の問題でいうと、自分と他人を比較して自分より偉い人が見つかると、自分がすごくみじめな存在になって、暗いエネルギーを作ってしまいます。すると別の新しいエネルギーである、怒り、嫉妬、後悔、物惜しみまで作ってしまって、怒るか、嫉妬するか、後悔するか、いずれにせよものすごい膨大な毒がついてきます。あるいは「自分の方が偉い、自分の方が成功している」と、余分な、過剰な自信をつけてしまったら、「怠け」という毒がまたついてくるのです。私たちの色々な問題は、このように比べることに端を発している場合が多いのです。自分の人生をよく見てみてください。観察してみてください。そうすると、自分が得た苦しみ、つまり比べることによって、どれほど暗いエネルギーが生まれてきたかが見出せるはずです。(注 もう一つ、「他人の目を気にする」のも同じようなことだと私は思います。)しかし、「全く他人と比べないでどうやって経済成長するのですか」、「どうやって社会を安定させますか」、「どうやって自分が成長するのですか」、「何も比べなければ、井の中の蛙で自分だけの自己満足の世界になるのではないか」という疑問も起きてきます。答は、何も見ないのではなくて、客観的に物事を見ればいいのです。(明日に続く)
2015.02.26
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いい顔が推薦状なら いい心は信用状リンカーンが大統領になって閣僚を決める時、多くの人がある有力な人物を推挙したが、「あの男の顔は昔も今も少しも変わっていない。ああいう進歩も改革もしない男は将来性がない」と彼は断固として断ったそうです。人間の顔は恐ろしいもので、その人の生き様がはっきりと出てきます。「顔というものは創るものだ」と言うように、親からもらった顔を、どれだけ魅力的なものに創り上げるかが、人生で最も大切な大仕事だと思います。男も女も外見の第一印象が大切な役割を果たすが(推薦状)、それは一時的なものにすぎません。長い人生を共に過ごすとなると、心のキレイな人に勝るものはありません。人間を見るときは、目には見えない心を見ることです。決して、顔が醜いとか、五体不満足だからといって嘲ってはなりません。優しい心の人間は、人を思いやることも、尊敬することも知っていて信用できます。
2015.02.26
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四つ目は「後悔」は猛毒だということです後悔も、怒りの一つです。例えば、自分が悪いことをしたとき「ああ、悪いことをしてしまった。失敗してしまった」と後悔し、良いことをできなかったとき「ああ、良いことをできなかった。若いときは勉強できなかった。すればよかった」と後悔する。「悪いことをした」と後悔する。「良いことをできなかった」と後悔する。どちらにしても過去のことを後悔する。その後悔するということは、ものすごく猛烈な猛毒なのです。何故なら、後悔をするときは、自分がアクティブではありません。後悔したときのことを、思い出してみてください。そのときは、何もしないでしょう。「失敗した」と思うと、やる気が消えてしまうんですね。例えば、何か仕事を頼まれたとします。その仕事にはちょっと勉強が必要になる。そこで「やっぱり勉強しておけばよかったなあ」と思うということは、その仕事をやりたくなくなっているということなのです。「やれない」と思っているということだから、アクティブではなくなってしまうのです。我々の持つ活発な生きるエネルギーが消え、活動が止まるのです。「活動したい」という心のエネルギーがいきなり止まる。ですから、後悔というのは猛毒なのです。そして、その毒が危ないのは、人間は後悔することで、死ぬほどの失敗をすることがあるのです。 我々がやってきたことを片っ端から思い出してみると、一つも「完璧に上手くいった」ということは出てこないと思います。上手くいったように見えても、ちょっとは何かがあるものです。例えば、会社を創業して、もの凄く頑張り、軌道に乗って、大きく成功したとします。それでも、「万々歳だ」とは思わないものです。きつかったこと、嫌なこと、つらい目にあったことなど、会社が成功するために自分がやった後ろめたいことも幾らでも出てくるものです。人間がやることに完壁などあり得ないから、「後悔しよう」と思えば幾らでもあります。後悔することによって、我々は活動しないための言い訳をするのです。後悔は、とても暗いエネルギーで猛毒なのです。後悔して、何かいいことがあるでしょうか。何もありません。ただ活動力がなくなるだけなのです。また、後悔すればするほど、この悪いエネルギーは膨張するのです。それはもっと危ない。そしてさらに後悔するようになります。大変に重い、精神的な病気になってしまいます。 では、失敗したらどうするか?例えば、人に「あなたは大変な失敗をしたのではありませんか」と言われたら、「そうなんです。これこれこういうことで馬鹿なことをやってしまいました」と、ものすごく正直な気持で、堂々とそれを認めればよいのです。「それであなたは恥ずかしくないのですか」と言われても「恥ずかしいですが、やってしまったことですから仕方がないでしょう」と、それだけのことです。「では、これからは気をつけてください」とか、「しっかりやりなさい」などと、人は余計な説教もしがちだが、本当はそんな必要はないのです。会社などで、「あなたは今、大失敗しましたから、これからはちゃんと気をつけなさい」と上司に言われることもあるかもしれません。しかし、本人が自分の失敗を認めているならば、その言葉は余計なのです。誰であっても、「きちんとやろう」という気持は常にあります。学校の先生や、会社の上司は、余計なことを言っているだけなのです。それでみんなストレスがたまって、うまくいかなくなるのです。余計な説教は、やめた方がいいのです。人は誰でも、「失敗したい」「まずいことをやりたい」とは思っていません。行動すると、そういう結果になるだけなのです。でもそれをちゃんと理解しないと、次から次へと失敗してしまう危険性が高まります。そこで、うまくいかなかった結果は、明るい心で正直に認めてしまうことです。人間は、後悔さえやめれば幸福になれるのです。後悔しないで、気楽に、明るくする。「そう簡単に気楽にはなれない」と思うのは、バカバカしいことです。何故なら、人間は完壁ではないから、いくら奥歯をかみしめて「きちんと完壁に何かをしよう」と思ってもできないのですから。でも、誰でも、そういう努力はします。それで十分なのです。結果として色々なことがあったとしても、それは後悔してはいけない。その代わりに、自分のミスを「そうなんです」と正直に認められる明るい心を作ると、それはまたとても明るい、ポジティブなエネルギーになってきます。
2015.02.25
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人にはいつかその身にあった風が吹く決して諦めるな人の一生には、良いときもあれば悪いときもあります。何をやってもうまくいかないときには、この世は無常、「ずっと悪いことばかりではない、いつかは必ずいい目がでる。本来、自分は運がいいんだ」と思って粘り強くやり続けるしかありません。ツキの悪いときに、「私は運が悪い」と嘆いてみても何のプラスにもなりません。ますます深みにはまって、本当にダメになってしまうだけです。そんな場合には、じっと我慢して目の前のことに打ち込むしかありません。そうしているうちに、不思議と運が開けてくるものです。いまひとつ運がないと思える人は、変な色目を使わず、目の前のことに一生懸命に取り組んでみることです。大地主だった家が傾いて大学を諦め、商業学校に進学したが学資が払えずに退学して養豚組合に就職したのが縁でハム会社を起こし、日本で有数の食品会社にした人だっています。
2015.02.25
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三つ目はもの惜しみする心です自分の幸福が他人に行き渡るのをものすごくいやがる性格で、単なる「ケチ」とも言いにくいのですが、いわゆる「ケチ」な考え方です。子供でも、自分の本を兄弟が触ると怒る。自分のベッドに兄弟が乗ると怒る。「これは、ぼくのベッドじゃないか」、「私の部屋に入らないで」などと、いちいち喧嘩したりする。このような場合、自分の持っている色々なものを、他の人々と共有するのが嫌なのです。いわゆるケチなのです。我々は、一体なんのために「人生を成功させて幸せになろう」と思うのでしょうか?成功して社会からバカにされるなら、例えば「あなたはすごく金持ちだからあっちへ行け、こっちには来るな」と追い払われるなら、誰がいったい金持ちになりたいと思うでしょうか?お金が沢山あると、みんなによく思われ、結婚式や色々なところで認められて、歓迎されて、ときには仲人なども頼まれて・・・、それで幸福を感じるのです。銀行口座にゼロがいっぱいあるからと、そのことで幸福を感じるわけではないのです。「認められたい」は子供から大人まで人間の願望で、社会に認めてもらうこと、社会に見放されないことも人間の幸福の一つなのです。ですから、皆と分かち合い、共有することです。自分の持っているものや才能というものは、皆と共有することです。例えば、英語がとてもしっかりできるというなら、英語の必要な人に役に立つようにしてあげるというようなことです。外国人が来て、自分の友達と大切な話をしなければならない。友人にとっては大きな仕事となるかもしれない商談だが、彼は全然英語が分からないとします。それで「ちょっと通訳してもらえませんか」と友達に頼まれたら、「えっ、私はとても苦労して、何年も寝ないで勉強して、大金をかけて勉強してきたのに、何のために、全然勉強してこなかったこの友人のために通訳しなければならないのか」と思ってしまう。そんなことはバカバカしい考えなのです。自分ひとりで頑張って、英語の知識は得たかも知れないが、友達に通訳してあげ、友達がうまくいって幸福になり、そこでやっと幸福を感じるのというのが当り前なのです。そのように、「自分のものは皆のもの。社会のためにあるものだ」という気持で生きることです。皆と幸福を分かち合って生活する、それが幸福の道になるのです。
2015.02.24
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生きるということは刺激的なことでありそれは楽しみである アインシュタイン両手両足を車椅子に縛りつけなければ真っ直ぐに座れない53才の女性が、死ぬまでに一度障害者によるコンサートに参加したいがために、車椅子に乗せた台の上にメロディアンをセットし、舌でキーを押す練習を1年間続けた。口から血を流しながら練習し、2曲演奏できるようになった。この人が1年間かかって作った詩に、全員で作曲した曲を持って次の回にも出席した。神様 一日でいいです 私に両方の手を下さい自分の手に茶わんと箸をもって ごはんを食べたいのです神様 一日でいいです 私に両方の足をください自分の足で土を踏みしめたいのですそして 土の上を歩いて 私のこの素晴らしい 輝かしい命を 与えてくれた母の墓に お参りしたいのです (以下略)
2015.02.24
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二つ目は嫉妬という怒りです嫉妬も、実は怒りなのです。嫉妬というのは、他人に対して生まれるものです。分かり易い例でいえば、他人が上手くいくとショックを受ける、というものです。自分の同級生、あるいは同期入社の友人などが、突然、特別な昇進をしたとなると、自分がいきなりみじめな人間のように感じてしまうものです。あるいは仲間が外国に派遣されて、「同じ学校を出て同じ教育を受けているのに」と思ってしまうような場合、それを嫉妬というのです。この自分をみじめに感じてしまったり、不幸に感じてしまったりする感情は、怒りの感情なのです。「あの人はいいなあ、上手くいって」などと色々な面で嫉妬をする。それが身についてしまったら、何もかも上手くいかなくなってきます。だから、この嫉妬というのは、ものすごく危険な性格といえます。嫉妬がある人は、なんのことはない、どんどん不幸になるのです。何故なら、世の中には頑張って、成功している人はいくらでもいるわけだから、自分の地獄を作るには、それだけで十分なのです。なんとバカバカしいことでしょう。それでも、嫉妬する人は嫉妬するでしょう。すると、それは怒りと同じだから、すごく体もこわしてしまいます。嫉妬する性格の人がそれを直すためには、やっぱり頑張って相手の幸福を喜ぶようにするしかありません。「ああ、よかったじゃないか」と心から感じるようにしてください。それで直るのです。自分に出来なかったからといって、別にどうということはありません。「彼が幸福になったのだからいいじゃないか」、「私の友達なのだから、それは私にとっても自慢になるのではないか」、「自分と一緒に勉強した仲間が、今アメリカで社長をやっているんだ」、などという風に威張ればいいのです。たまに電話でもして、「休みにそちらへ行くので、きちんと面倒を見てくれよ」と変わらずつき合えばいい。そのように相手の幸福を心から喜ぶと、自分をも幸福にしてしまうのです。例えば、仲の良い女友達が、とてもお金持ちのところへ嫁ぎ幸福な結婚をしたとします。そんなとき、「自分の旦那は安月給なのに」と嫉妬するのではなくて、「自分にはとてもいい友達がいるんだ。自分の旦那には贅沢をさせてもらうことは出来ないけれど、たまに友達のところへ行って贅沢させてもらえる」、「旦那はアクセサリーを買ってくれないけれど、友達に借りることができるようになった」などと考えればよいのです。友達にアクセサリーを借りてパーティに行ったからといって、誰も「そのネックレスは誰に借りたの」とは聞きません。「素適なネックレスね」と言うだけです。結局、他人の幸福を自分の幸福に回すことが幸福の道なのです。逆に、嫉妬することはあまりにもバカバカしい自己破壊の道になるのです。嫉妬の反対の言葉は喜びなのです。「人々の願い事がかなえられても、自分には何の得もないではないか」というような嫉妬の心、怒りの心を持ってはいけません。そうすると自分がダメになってしまいます。誰であろうが何か成功したら、私たちも喜べばいいのです。人々の幸福を見て、心からお祝いしてあげる。祝福し、楽しがってあげる。それで人生は幸福になるし、悪い嫉妬のエネルギーは消えてしまうのです。
2015.02.23
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人間にとって最も大切な努力は自分の行動の中に道徳を追求していくことです アインシュタイン山岡鉄舟は明治初めの世相を、「現今、無識無道の輩が輩出しているのは実に嘆かわしいことだ。私利私欲を逞しくし、邪道天地に満々としておる。学生、子供が父母や師長を侮り、上下ともに人倫を顧みない者が充満しておる。地位を貪り栄華を望む官僚、人を騙して儲けようとする商人がいかに多いことか。役人は国のために至誠奉公しようというのではなく、ただ名利情欲が目的で就職しておるのではないか。こういう奴らは月給を貪っておるのだ。人のことをまるで考えない理学の、工学の、医学の、法学のと便利なことを追いかけるあまり、すべてにおいて道徳の念が薄らいでいるのが原因の第一である。第二が権利の主張だ。法律が定められたから、その範囲内でならどんな主張をしてもいいというので、道義の非理曲直をまるで考えない・・・」と言っているが、そのまま現代にも当てはまると思いませんか?
2015.02.23
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コントロールすべき一つ目は怒りです我々は、家庭や会社や社会で、目で見るもの、耳で聞くもの、本で読むこと、テレビで見ること、ラジオで聞くことなど、様々なものに出会っています。頭で考える色々なことも、仏教の立場からいえば我々が外と出会うことです。自分という存在が何か外のものに出会うたびに、その出会ったもの(対象)に対して抱く「それは嫌だ、嫌いだ」と思う気持、それが怒りです。例えば、誰かに小言を言われたとします。「聞きたくもない」と思っているのに、相手は延々と話し続ける。そんな場合、「そんな話は聞きたくない」、「この人とは会いたくない」などという、自分が出会う対象に対して拒否する感情が生れます。普通の怒りというのは、そういうものなのです。それが大きくなると、いわゆる破壊的な感情が生れます。批判したくなる。文句を言いたくなる。説教したくなる。ときには手を出したくなる。「こうすべきでない、ああすべきでない」と、もっともらしく善悪の基準をつけて人に説教して、「自分は本当にいいことをしている」と思っているが、実はやっぱり心の怒りのエネルギーの発散でしかないのです。もし人の心に、この怒りというエネルギーが生まれてしまったら、その人は自分の出会う対象について拒否する反応を起こします。会った人を拒否し、出会った仕事も拒否する、仲間を拒否し、家族を拒否する。怒りというエネルギーが生まれてしまったら、そこには幸福や成功はありえません。不幸が待っているだけです。時々、怒りの性格、激しい性格を持っている人がいます。このような人々は、ものごとを批判したり、厳しく善悪を判断したりして、結局は何も得ることができません。会社でも、何事も厳密に「これは、こうすベきだ、ああすべきだ」と決めつける人がいます。自分では「こんなにキビキビと原則通りに仕事をしているのだから、必ず幸福になるだろう」と思っているかも知れないが、とんでもないことです。周りの人から「嫌な人だ」と思われて疎まれ、物事がうまく運びません。そこにあるのは、「怒り」だということを理解していないのです。本当は厳密主義でも完壁主義でもなく、ただ怒りの性格を持っていて、「反対したい、拒否したい」という気持で一杯になっているだけなのです。「世直しをしよう」と思っている人々の間にもよくある現象で、「社会を良くしよう」と言いながら、「あれが悪い、これが悪い」と批判ばかりするひとがいます。それだけでは、結局は何も変わりません。そのような人々の行動から社会が全く良くならないのは、それは元々愛ではなく「怒り」の気持に端を発しているせいなのです。私たちが見るもの、聴くもの、味わうもの、嗅ぐもの、考えるもの、触れるもの、何でもかんでも、そこに、ちょっとでも嫌という気持、拒否したい気持が生まれるならば、幸福にはなれないのです。例えば、音楽を聴きに行って、「音が強すぎる」「周りが騒がしくてよく聞こえない」「レコードで聴いたのと比べると、今度の生演奏はあまりよくない」「今日は歌手が疲れているみたいで、きれいな声が出ていない」等々、いくらでもケチを付けることはできます。でもそれでは、せっかく音楽を楽しもうと思っているのに、心から楽しむことはできません。例えば、椅子に座ったとき、「これはちょっと小さすぎるのではないか」と思ってしまったら、そこには怒りが働いている可能性があります。大きい椅子を持ってきたら、「今度は大きすぎでしょう」と言う。あるいはクッションのついた椅子を持ってくれば、「こんな椅子で話しはできない、寛ごうとしているのではないのだから」と言う。クッションのついていない椅子を持ってきたら、「こんな固い椅子で長い時間座って話すことはできませんよ」と言う。嫁をいじめる姑も同じですね。お嫁さんが、ご飯を炊けば「今日はご飯がかたい」、料理をすれば「塩の入れすぎではないか」などと、どんな場面でもなんだかんだとミスばかり指摘する姑もいます。それらは、単に欠陥を探そうとしているだけで、そこにあるのは怒りの性格だけなのです。そんなことでは、当然のごとく幸せにはなれません。ですから、もし怒りの性格があったら大変なことで、世の中の幸福な世界は見えず、悪いところばかりが見えるのです。そういう人々は、どう頑張っても幸福にはなれません。なぜならば、自分が会う人一人ひとりを、知らない間に敵にまわしているのですから。だから、もし自分の性格の中で、何か自分が偉くなったように感じたり、人の欠陥ばかり見るような部分があると気がついたら、これはもう今すぐに直さなければなりません。それが、すべての不幸の始まりなのですから。怒りの性格があれば、直すしかないのです。直す方法は簡単、肩の力を抜いて、反対の性格に変わればよいのです。その反対の性格は何かというと、良いところを見るという性格なのです。「怒り」の反対の言葉は俗語で言えば「愛」なのです。優しい心、慈しみの心です。「全ての人は不完全なものであって、自分も不完全である。完全なんてありえない」と、おおらかな優しい心で認めてあげることです。
2015.02.22
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明日のことを思い煩うことなかれ明日のことは 明日自ら思い悩むその日の苦労は その日だけで十分である キリストある男が王様の怒りをかい、死刑を宣告されました。そこで男は、「王様が大切にしている馬が空を飛べるようにするから命を助けてくれ」と嘆願します。王様は、「1年以内に馬が空を飛べたら、お前を許してやる」と1年間の猶予を与えました。男は喜んだが、囚人仲間は「馬が空を飛ぶことはない。1年後に死刑になるに決まっている。お前はバカだ」と言った。しかし男は、「ひょっとしたら、1年以内に王様が死ぬかもしれない。あるいは、1年以内にあの馬が死ぬかもしれない。それに、1年以内に俺が死ぬかもしれない。だから、俺は喜んでいるのだ」と言う。ユダヤの童話だが、私たちは、どうにもならない遠い明日のことまでを考えて、あれこれ悩みがちです。仏教では「人生は苦なり」と教えるように、この世はどうせ苦の連続、明日のことまで取り越し苦労をせぬことです。
2015.02.22
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心は、いつも「幸福になりたい、だから頑張ります」という方向と、「怠けてぬるく生きていれば、楽で、楽しいですよ」という方向、そういう全く逆の二つの方向に私達を引っ張っています。人間の心には、生まれつき『怠け』という毒がついています。その毒を消すためには、強引にでも励んで努力し、精進することが必要になります。私たちの望む幸福な家庭、ゆとりのある人生、健康な身体、また平和的な社会環境や幸福、そういったことで成功することは、本来意志でもってできます。できないとすれば、その理由は怠けという心の働きを鈍くするエネルギーが働いているからです。私たちは、「幸福になりたい」と願っているけれどもなかなかなれません。それは、邪魔するビールスのような様々なネガティブエネルギーが心にしがみついているからです。それに反対の抗体を育てながら、我々は生きていかなければなりません。生きている間は、その闘いをずっと続けなければなりません。止むことはないのです。この世に、「このお祈りをすれば万事解決します」とか、「この薬を飲めばすべての病気は治ります」とか、「これさえやれば巧くいきます」などという万能薬はありません。ですから、自分の心のビールスを退治するために、反対の明るいエネルギーを入れて努力しなくてはならないのです。常に励む。常に努力する。それに、終わりがありません。その努力は、自分でコントロールできる部分にだけしか届きません。だが、それがうまくいくようになると、自分でコントロールできない部分も治っていくのです。コントロールできない部分とは、例えば心臓は動くが、自分で「心臓を速く動かそう」とか「ちょっと遅くしよう」と思ってもコントロールはできません。「呼吸の回数を減らしてみよう」と思っても、それはできません。同様に、感情の世界でも、意識的にコントロールできない部分があります。例えば、すぐ怒る怒りっぽい人がいるとします。怒るのは悪いとわかってはいるけれども、やめられずに怒ってしまう。それは、コントロールできない性格の部分を表わしています。「舞い上がりすぎてはいけない」と思っても、いいことがあるとすぐ舞い上がってしまいます。コントロールできない人は、「楽しくなりたいなあ」と思えば、映画を観たりディスコに行ったり旅行に行ったり、色々なことをしなくてはなりません。それでも、その場で汚いものを見ると「気持ち悪い」と感じます。環境に左右されるのが人間です。自分の感情をコントロールできる人は、「今日は思う存分楽しくやります」と思えば、環境などに関係なくものすごく楽しくなれるのです。周りがみんな狂ったように楽しんでいるときも、「私は落ち着いています」と思ったら、誘惑されず落ち着いていることができます。(私は月2回断食を行っているが、この頃このことが納得できます。断食に入ると、自然と即断食モードになって難なくできるようになりました。)感情をコントロールしていると、「美味しくいただきます」と思えば、どんなものも美味しく食べられるのです。塩味の薄い食べものは「塩味もして美味しい」と、塩の全く入っていない食べものは「素材の味が感じられて美味しい」と、その人にとってはどちらにしても美味しいのです。そうなると、人間は完壁な幸福の状態を得られます。「すべては心次第」で、「清らかな心があればすべては幸福であって、汚れた心は一切の不幸のもとである」と法句経にもあります。
2015.02.21
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明日ありと 思う心の あだ桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは 親鸞親鸞上人が得度しようとしたとき、夜も遅かったために、周りの人に「明日になさいませ」と言われて詠んだ歌です。「桜は明日も咲いているから、今日は止めて明日見に行こう」と思っていると、夜半に春の嵐が吹いて散ってしまうかもしれません。自分も明日は当てにせず、今できることは今しておきたい、という意気込みです。誰にも怠け癖があり、つい生き方が甘くなりがちです。やろうと思えは直ぐにできることでも、何かと理由をつけて後に延ばそうとしがちです。そうすればするほど事態は悪くなり、何事も上手くいかなくなります。「いまというとき いまはなし まの字来たれば、いの字過ぎゆく」という古歌があります。「いま」の「ま」の字を発音をしたときには、「い」の字はもう過ぎてしまって帰ってはきません。それほど時は貴重なものであり、総ての機会はあっと言う間に通り過ぎて行きます。
2015.02.21
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人が幸せに生きていくための愛の心の有り様を、お釈迦さまは「慈・悲・喜・捨」の四つの心(四無量心)から育てることが必要であると説いています。人間の実態は、あくまでも自分中心的に生きる利己的な動物です。誰もが、自愛(自分ほど可愛い者はいない)と我欲(まず自分が得をしたい)の塊で、利己的な幸福を願う世の中です。大抵の人は、自分がひどく、つらい目に遭ってまでも、他人を救いたいとは思わないのが普通です。だが、なかには、自分を犠牲にしてでも人を救ってあげたいという心を持っている人が稀にいます。自分を犠牲にしても他人を救ってあげたいというのは、大変すぐれた心の持ち主だから、そういう素晴らしい心をもった人の行いを“菩薩行”とも言って褒め称えます。 自分を愛するがゆえの人を愛する行為であり、自分の健康を願うがためゆえの人の健康をも祈るというのが、人間本来の正直な心なのです。つまり、自愛と我欲のために、まず自分が幸せになるように祈り、自分の幸せのためには人の幸せを祈るのです。そこで、人に優しくなるには、最初に自分の幸せを祈り、自分に優しい心を作ることが大切なんですね。それが、人間の本性にあった慈悲の心の育て方の出発点とすればいいのです。いわゆる愛の心だが、仏教で「愛」という言葉を用いないのは、「愛」という言葉の持つ不確実性、多様性、複雑性からくる曖昧さがあるからでしよう。例えば、男女の愛と親子の愛では当然ちがうし、男女の愛のなかにもただ愛という一語では表現できない微妙な差があります。ですから、この「愛」という言葉の意味を仏教では整理して慈悲喜捨の四つの感情としているのです。「慈悲」と「喜捨」ではなく、「慈・悲・喜・捨」の四つの感情なのです。 一番目の慈は、慈しみの感情です。「慈」とは、日本語では「慈しみ」の感情を表します。慈しみというよりは、むしろ友情にちかい感情と思ったほうがいいでしょう。簡単に言えば、「みんな仲良くしましよう」という感情です。 一人で食べるご飯より、二人、三人で一緒に食事をしたほうが楽しいし美味しいでしょう。その感情なのです。大勢の人と仲良くしたい、みんなで楽しく暮らしたいと思う感情、それが慈の意味です。二番目の悲は、哀れみの感情です。日本流に言えば、憐憫の感情とでも言いましょうか。悲しんでいる人を助けてあげたい、苦しみの渦中にある人を救ってあげたいと思う感情です。 誰かが困っていれば、すぐ助けに行ってあげる。そのときの助けに行く自分は気持がいいはずです。 阪神や東北大震災のときも、日本中の人々が何とかしてあげたいと立ちあがりました。日本中が“悲”の感情で満たされましたが、それは素晴らしいことでした。これまで忘れすてにしてきた感情を取りもどしたのです。あの、被災者を助けてあげたいという感情をいつまでも忘れないでほしいものです。それは、人間であればいつも必要な感情なのです。この必要な感情を、心のなかに育てていってほしいものです。 三番目の喜は、ともに喜ぶ感情です。人が幸福になって喜んでいるとき、自分もそれを見てともに喜べる感情です。しかしながら、ふだん私たちは、自分の回りの誰かが仕事が上手くいったり、大金を手に入れたり、ライバルが美人の恋人を持ったりすると素直には喜べず、嫉妬という感情に苦しめられます。この嫉妬という感情は、恐ろしいものだから、持たないほうがいいのです。それだからこそ、人が成功したならば、「ああ、よかった、よかった」と万歳でもできるような喜ぶ感情を抱けるよう心を鍛えてほしいものです。四番目の捨は、平等で冷静な感情を表します。人間は、どんな物事に対しても色々な感情を抱くものだが、捨はその感情に流されないよう戒め、生命のすべてを見極める心のことです。人間は、しょっちゅう怒っていたり、悪いことばかりしていたりする人が多いが、そういう人たちに翻弄され自分も一緒になってともに怒ったり、苦しんでいたんではたまりません。例えば、この世界には様々な不平等があるが、それをいちいち怒っていても仕方がありません。悪人がはびこっていても、その悪人をやっつけるというのではなく、ただ冷静な心になって平等に見守っている、それが捨の心なのです。私は、人に対して良いことをして上げても、「してあげたのに」という気持ちを持たないことだと言っています。「のに」がでたら、それは見返りを要求している不純な行為に他ならないからです。人に対して良いことをして上げれば、自分の心もほのぼのとするはずです。それだけでいいのです。 仏教の実践は、これら四つの感情を別々に育てることが目的です。その感情は、私たちが生まれついて持っていたものではないので、ピアノを練習するように、この四つの感情を習得していく以外に方法はありません。そのとき、一度に考えると大変だから、どれか一ついま自分の持っている感情を優先して育てていけば、残りの感情も作り易くなっていきます。・友情を最も大事と考えている人は、慈の感情から最初に育てていきます。 ・苦しんでいる人を見てどうしても放っておけないとするならば、悲の感情を育てましょう。 ・とにかくみんな仲良くと考える人は、喜の感情育成から始めてください。 ・人生経験も豊富で知恵もあり、冷静でいられる人は捨の感情を保つことから始めましょう。 3歳の子供でも分かっていることでも、80歳になってもなおできないのが人間。大切なのは、実践することです。どんなに大変な道であろうとも、一歩、一歩足を踏み出すしか有りません。
2015.02.20
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明日こそ幸せになるぞ明日こそ幸せになるぞと死ぬまで幸せになる準備ばかりしている パンセ私たちは、今は満たされていないが、今頑張っておけばきっと明日はもう少しは良くなるだろうと期待して生きてきました。だが、明日が目的ということは、「今、ここ」は明日のための準備、手段でしかないことになります。そして、明日になれば「もっと」と期待します。それでは、永遠に満足することはできません。今が不足、今を不満と思っているから、明日がないと困るわけです。「明日こそ満たされるだろう」という未練があるから死にきれないのです。今、出会うべきものに出会っていないから死にきれない。明日こそ、それが実現できるだろうと思う。もしこの不足、不満の状況が50年続いたら満足に行き着くでしょうか。千年生きたとしても、千年間不足、不満、欠乏が続くだけだと思います。私たちは明日こそは満足の状態に行き着くだろうと考え違いをし、今日を楽しむことをしません。
2015.02.20
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愛という概念はなかなか難しいので、慈愛と渇愛について補足しておきます。すべての苦しみの源は、「生きていたい」「欲しい」という心の働きです。仏教では、「欲しい、欲しい」と思うのは真実がわかっていないから(無明)だといっています。無明から渇愛が生まれます。とにかく、渇愛を喜ぶ心が私たちの中にいつでもあります。渇愛には三つの側面があり、いわば三本の糸を寄り合わせて一本にしているような状態です。一つは、五官(眼耳鼻舌身)に刺激を与えたいという欲です。食べたり、運動したり、遊んだり、勉強したり、仕事をしたり、結婚したり、離婚したり、すべて五官に刺激を求めているのです。二つ目は生存欲です。「生きていたい」「死にたくない」という気持ちです。三つ目は、破壊欲=「嫌なものを排除したい」という欲です。生命は生きていきたい。そのためにずっと競争をしたり戦ったりしています。自分にとって好ましいものを欲しいと思い、プラスにならないものを憎んで破壊したいと欲します。人間は自分にとってマイナスだと思えば、平気で何人でも人を殺します。人を殺すと罰されるから我慢をしているだけです。どうしても戦う対象に勝てなくて怒りが大きくなると、自殺をします。この破壊欲は、あらゆる場面でいろんな形で現れてきます。真の愛とは、「相手に変わることを要求せず、相手をありのままに受け入れることだ」とイタリアの劇作家ディエゴ・ファブリは言っています。恋人同士の愛であれ、夫婦の愛であれ、親子の愛であれ、このリトマス試験紙でテストしてみて下さい。恋人や連れ合い、子供の「ここが嫌だ」と言って、相手を自分好みに変えようとするのが人間です。自分から見た、いわゆる良い子、良い人にさせようとしがちです。でも、それは相手を支配することであって、本当の愛ではありません。自分の都合で愛するのは、渇愛でしかありません。本当の愛、慈愛とは、相手の身になって考えてあげるものであり、相手の自由を尊重するものです。親が、自分の希望を子供に押し付けるのも渇愛です。我が子の自由を尊重しつつ、我が子の将来がうまくいくように見守ってあげるのが慈愛です。
2015.02.19
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子供にはどんどん興味をもったことをやらせてあげて止めさせたらダメです ノーベル賞学者下村脩能力は生まれたときは隠れているので、いろんなことに出会い、経験して自分にぴったりのものを見つける必要があります。いろんな分野で成功している人の話を聞いてみると、大部分の人は中学生から20歳前後の時に、何かに出会って感動や興味を持ち進路を決めています。ノーベル賞学者野依良治さんは、中学生の時にお父さんと一緒に行った学会でナイロンに出会って、石炭からこんな白い繊維ができるのかと感動して化学者になった。スノーボードの山奥総子さんは、妹さんの道具を借りて友達とスノーボードに行き、初日から面白くてはまってしまい、ついにW杯で優勝するような選手になった。20歳前後までというのは、とにかく目の前に限りない可能性が広がっています。いろいろな人や学問に出会ったり本を読んだりして、いろんな価値観や出来事に触れ、まず自分の視野を広げることが最も大切です。
2015.02.19
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物質的にも精神的にも人生を豊かに過ごしたいと思うなら、自分の人生を正しく勘定(入りと出を管理する)しなければなりません。お金や物だけでなく、人間関係、知識や情報、道徳や真理も勘定しなければならないのです。他人から得よう、貰おうとする前に、自分から与える。「与えて得る」のやり方を、お釈迦様は薦めています。最終到達点は、「与えるだけ」なのです。最澄は「己を忘れて他を利する。これ慈悲の極みなり」と言ったが、仏教では「与えることは善行為の始まりである」と説いています。善行為をすれば、因果法則によって必ず幸福になれるのです。だから、自分の心にある「欲しい、貰いたい」という暗くて重い自利の欲望を少しずつ減らしてゆき、少しでも「与える」という利他の心を実践してみてください。心は、次第に明るく軽やかになるでしょう。これが、幸福に生きるための正しい勘定の方法なのです。これは私たち誰もが到達すべき最終点であり、そこに行き着くまで努力しなければならないのです。では、何かを与えるとき、「価値」はどのようにして決まるのでしょうか? それは、受ける側の気持ちで決まります。例えば、母親が自分のネックレスを娘にあげるとします。「これは、結婚のときお父さんからプレゼントされた大事なネックレスで、大変高価なものなのよ」と、自分で価値を入れても意味がありません。貰う側の娘が、「このネックレスはクラシックで、お洒落だ。すごく気に入った」と喜ぶなら、それには価値があるということになります。逆に、「太くてダサいわ。いま時分、誰もこんなものは付けていないわよ」と喜ばないなら、それには価値がないということになります。絵画や陶芸などの芸術品を売買するときには、オークションを行うことがあります。そこでは、買う側が価値を入れて値段を決めるのであって、作品自体には何の決まった価値もありません。例えば、ある絵画を見てAさんは「百万円で買う」と言っても、逆にBさんは「千円でもいらない」と言うかもしれません。このように価値というものは買う側、受ける側で成り立つのです。いくら素晴らしいものでも高価なものでも、貰う人が必要としなかったり、興味を示さないなら、それには何の価値もないのです。(TVの「何でも鑑定団」を見ているとよく分かりますね)例えば、海で遭難して漂っている人にしたら、朽ちかけた丸太一本でも値千金の価値があります。あなたが普段は何ほどの価値もないと思っているものでも、その時に困っている人にとっては何ものにも代えがたい有り難いモノとなり、感謝されます。(ボランティアや寄付も同じですね)例えば、仕事をし、ご飯を食べ、家族を養って平和に生活し、そのうえ多少なりともお金に余裕ができたとします。そのとき、あなたならどうしますか?そのお金で、どこかへ出かけて遊ぶのも、三つ星レストランなどで豪華な飲食するのも自由です。使い道は自由なのに、そのお金を「世の中には困っている人が一杯いる、そんな人のために使おう」「自然を守るために使おう」「生命を守るために使おう」などと、「人のために使いましょう」と考える利他の心はなかなか持てるものではありません。だが、それをしようという人もいます。また、一人で住んでいる隣人が急に病気になって、核家族のうえに近所づき合いも少なく困っているとします。そんなとき、「人のことに口出しはしない。隣は隣、どうなってもウチとは関わりはない」と、自分勝手に生活するのが現代では普通です。逆に、「困っている人がいるなら助けてあげよう」という考えで接する。「いかがですか。お元気ですか」と声を掛け合う。時々行って面倒を見たり様子を聞いてあげる。そんな風に、人のために何かする人はまれです。人間は、実に自己中心的です。だが、ほんの少しで良いから他人のために使ってみると、自分の心も豊かな気持ちになって、ほのぼのとした幸せを味わうことができるはずです。それが利他の心です。
2015.02.18
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お前の一生はお前のものお前自身で切り開いていくほかない生まれてくる場所も、親兄弟も、境遇も、才能や性格も、自ら選ぶことはできません。そんな宿命を港とし、自らの命をそこに浮かぶ船とすれば、その後何処に出航するかは自分の意志次第です。つまり、自分の人生はいかようにも変えることはできます。自分が自分である証を見つけ、それを手放さなければ、人生は絶対に裏切らないはずです。そうやって、「自分は自分であればいい」と悟ったとき、心安らかに明るく生きていけるはずです。私たちは、あらゆる場面で意思決定を迫られます。両親や先生、上司や先輩、友人などの忠告を聞き入れたとしても、最後に「そうしよう」と決めたのは自分自身であり、それを実行したのも自分自身です。誰もあなたの人生を代わって生きることはできないのだから、いかに苦しくても自分自身で切り開いていくしかありません。
2015.02.18
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「あれも欲しい、これも欲しい、ああいうふうになりたい、こういうふうになりたい……」ということばかり考えている人の心のなかは、大きな穴がぽっかりとあいています。いわゆる、悪い意味での空っぽです。何もありません。つまり、精神的に満たされていないのです。さらに悪いことに、欲の穴は底なしなのです。だから、モノをいくら入れても穴は埋まりません。埋められないのです。欲望には、そのような特色があります。いくらあっても足りない、満足しない、「もっと もっと」と求める。それで、単純な詐欺にも引っかかる。これが、欲望の実態です。欲の深い人には、根っからの明るい人はいません。思考も暗いし、性格も暗い。日常生活のなかで出会う色んな人を、本当か否か、ご自分で周りをよく観察してみるといいでしょう。欲深い人の顔や生き方を、よく見てみてください。ものすごく暗い影のあることが、見えてくると思います。底なしの穴の暗さなんですね。四六時中、儲けたいとか、出世したいとか、誰かに勝ちたいとか、強くなりたいとか、美しくなりたいとか、ご馳走を食べたいとか、常に心が「~が欲しい」「~をしたい」という感情で一杯になっているから、心に落ち着きや明るさがありません。こういう欲深い人たちが、何をするかというと破壊行為です。例えば、お金に対して貪欲な人は、とにかくどんな方法を使ってでもお金を得ようとします。手段は選ばないし、相手の気持ちも考えません。社会の秩序や平和といったことは全く考えず、自分にお金が入ればいい、自分さえよければいい、としか考えないのです。そうするとどうなるでしょうか? 当然、社会の調和やバランスが崩れてしまいます。それから、その人はお金をいっぱい儲けたからといって、明るく行動するかというと、それもしようとしません。何故かというと、いつも「足りない、足りない」という気持ちでいるから、いくらあっても「足りない」と感じるのです。それでさらに貯め込もうとします。一向に他人や社会のために役立てよう、有効に生かそう、などとは考えません。ですから、貪欲な人が社会に一人でもいるということは、社会全体の調和を崩し、迷惑になります。そういうわけで、欲望は罪になるのです。もう少し収入があったら家族を楽にしてあげられるとか、もう少し環境の良い所に住めるとか、たまに美味しいものが食べられる、というぐらいの「普通の欲」、これは小さな欲だから、すべて崩壊するところまではいかないでしょう。でも、リミットを越えた瞬間、糸が切れた凧のように、どこまでも、あてもなく、飛んで行くのが欲です。ときには、お金のために人まで殺してしまいます。私たちの心には、ものすごい煩悩が溜まっています。心は、欲と怒りと無知で限りなく汚染されているのです。私たちは「歩く原子爆弾」のようなものです。日常生活のなかでは爆発しないよう、なんとか抑えて生活しているが、少しでもネジが緩むと、原子爆弾が爆発したように、欲・怒り・無知が爆発し、自分も周りも破壊して、恐ろしい目に遭うのです。欲・怒り・無知は、どこまででも成長します。原子爆弾のように、連鎖反応でどんどん、どんどん成長して手が付けられなくなるのです。この頃多い殺人事件も、爆弾が破裂したようなものです。身近な例でいえば、休日にどこかへ旅行するとします。旅行して、「ああ、よかった。楽しかった。もう充分だ」と満足するのではなく、「次はもっと良い所へ行きたい」と思うのが常です。それで次の年に良い所へ行ったら、またその次の年には「もっと良い所」へ行きたくなるようなものです。「美味しいものが食べたい」という欲が出たら、美味しいものを探して食べるし、それを食べても「また美味しいものを食べたい」と欲が出ます。食べても満足しないから、さらにもっと美味しいものを探します。このように、欲望は連鎖して際限なく膨らんでゆきます。ですから欲望は危険です。しっかりと手綱を握って、調教、管理することが大切なのです。少欲知足の心を養うことです。
2015.02.17
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出会いの挨拶は「仲良くやりましょう」という平和宣言別れの挨拶は「今後ともよろしく」と言う友好宣言この世の中、楽しいことも辛いことも、仕事が上手くいくのもいかないのも、総て人間関係からだが、その人と人とをつなぐ役割を果たすのが言葉です。たった一つの心ない言葉で憂鬱になったり喧嘩をしたり、時には自殺や殺人を犯すこともあれば、たった一つの言葉で一日中心がほのぼのとしたり、励まされたり、将来が開けたりすることもあります。相手が気持ちよく過ごせるように、たった一言にも思いやりの心を込めたいものです。「コミュニケーションが上手くできず孤独だ」という悩みを持っている人も多いが、人間関係とは相手に好意をもって言葉、挨拶、気遣い、優しい視線、時間を割くと言った目に見えないもののお返しをすることで成り立っています。まずは挨拶からです。挨拶をしないのは無視あるいは相手に対する敵対宣言ともいえます。
2015.02.17
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私たちは、一切皆苦のこの世を四苦八苦しながら生きていかなければなりません。そんな世界で、少しでも明るく、楽しく、幸せに生きていくにはどうしたらいいのでしょうか?「人は死んだらどうなるのか」「人間に来世はあるのか無いのか」は、宗教が常に取り上げてきたテーマだが、論ずる人自身死んだことがないのだから、答えは「わかり得ない」というのが真実です。だから、大切なことは、人間は「死んだらどうなるか」よりも、「死ぬまでどう生きたらいいのか」ということです。つまり、来世が有ろうが無かろうが、あなたの今世における生き方を問うことです。昔から、不老長寿は人類の願望だが、長生きが必ずしも幸せということではありません。幸福で楽しくてたまらないという人は死ぬのが惜しくて長生きをしたがるし、今までの人生に不満があって「人生はこれから」と思って長生きしたがる人もいるでしょう。前者には、この世に対する執着が強いから死ぬときにジタバタしがちです。後者の人も、もっと色々やりたいことがあったのにと、果たせなかった欲望を持ったまま悔しい気持を遺して死んでいきます。幾つまで生きても、未練は残ります。高齢者に大切なのは、何が何でも長生きしようという気持ではなくて、「いつ死んでも、それはその時だ」と今に満足して生きることではないでしょうか?小学校に行って、中学校に行って、高校に行って・・・、就職して、結婚して、子供を作って・・・、歳をとって、ゲートボールをして、寝たきりになって死んでしまう。それが、普通のパターンです。でも、それだけでは、例えは悪いが鮭と同じようなものです。鮭は、川に生まれ、川を下り、海で3年間くらいひたすら食べて身体を大きくします。やがて生まれた川に戻り、川を必死でさかのぼって卵を産み、そのあと死んでしまいます。子孫を遺す、たったそれだけのために生きているのです。決まったパターンでいきている人間も、同じようなものではないでしょうか?(ある宗派の説教には、人間の生きる目的は子孫を遺すためとあったが、子を創ったら用無しか?)そんな人生から脱却して、幸せに生きるにはどうしたらいいのでしょうか?欲を消すこと、愛の心を作ること、怒りや嫉妬心を無くすること、もの惜しみをしないこと、後悔しない生き方をすること、他人と自分を比較するのをやめること・・・、そんな心の汚れを断つことだとお釈迦様は説かれたが、その一端を根本仏教から学んでみたいと思います。
2015.02.16
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難しいことを易しく 易しいことを深く深いことを面白く 井上靖昔、寺の住職が檀家に訴えられ、住職は役人の教養のないのをいいことに、奉行所に漢文で弁明書を出してきた。役所では誰もその漢文が読めず、住職の非行がうやむやになりかけた時、藩主が住職を呼び出させた。目の前でスラスラと読み、「寺の住職というものは、難しい経の文句を易しく噛み砕いて衆生に説き教えるのが役割だ。つまり、難しいことを易しく告げるのが住職の役目だ。にもかかわらず、お前は易しいことわざわざ難しく書いてきた。書いてある内容は全く下らない。それをただ難しい言葉を使って人々の目をくらまそうとしている。とんでもない奴だ。重い刑に課す」と厳しく言った。いつの世にも、易しいことを難しく言うのが権威があるとか専門家だと勘違いしている人が多いが、小学生でも分かるように噛み砕いて話すことができるだけでなく、深遠で面白く話しのできる人が本当にできる人です。
2015.02.16
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心を成熟させて大人になるために、もう一つ方法があります。それは慈しみの実践です。人間は、元々は慈しみの気持ちを持っていないのです。他人のことは嫌いなのです。しかし、お釈迦さまが「泣きながらでも、善いことをしなさい。悪いことをやめなさい」と仰ったように、他人を嫌うと自分も嫌われて、自分の幸福が消えるから、涙を流しながらでも慈しみは育てるべきなのです。人間は、優しくするよりは相手を殺したいという気持ちの方が正直なのです。仕事をしてお金を儲けるよりは、どこかにあるものを奪う方が簡単です。それが本来の気持ちなのです。ですから、泣きながらでも、嫌でしようがなくても、善いことをして生きなさいと、お釈迦さまは戒めるのです。それが、勇気ある生き方です。例え嫌でも、悔しくても、貫かなければならないのです。例えば、誰かが私に「国のためだから敵を殺せ」と言ったとします。「いえ、敵にも幸せでいて欲しいですから、絶対やりません」という立場をとらなければなりません。平和な人が、平和な人を殺そうということは普通ありません。でも人間というのは、心が弱いのです。欲があり、恐怖感があって、誘惑されやすいんですね。欲、怒りに誘惑されて、人を殺すことがありえるのです。我が儘で、慈しみの心もなく、自分本位で生きているにもかかわらず、やっぱり自分が幸せでありますようにと願ったりする。幸せになりたければ、「嫌いな人も幸せでありますように」と願うように努力する必要があるのです。それが、正しい道です。そうすると、どんどん嫌な人が消えていってしまうのです。例えば、他人が自分のものを欲しがって何か言っても、「とんでもない人だ、私からものを奪おうと何か企んでいるのではないか」などという気持ちが生まれてこなくなるのです。怒りではなくて、「ああ、あなたはこれを欲しいのですね。しかし私にはこれしかないし、困ったねえ」という風になるのです。あげられない場合には、「相手にもそれがあればなあ」という優しい気持ちが生まれてくる。そうすると、相手は嫌な人ではなくなるのです。もっと心が育ったら、「私ではなく、あなたが使っても、私は楽しいです」と、それをあげてしまいます。とにかく、どんな生命を見たときにも、一緒に生活している命ではないかと感じられるようになれば、素直な生き方になるのです。そういう人々には、かすかな不幸も訪れません。それは極度に素晴らしく、絶対的な幸福に出会える道なのだが、これは今の世の中で行われている道ではないのです。
2015.02.15
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束縛があるからこそ 私は飛べるのだ悲しみがあるからこそ 高く舞い上がれるのだ逆境があるからこそ 私は走れるのだ涙があるからこそ 私は前に進めるのだ マハトマ・ガンジー「人の痛みの分かる人になれ」とよく言われるが、病んだことのない人には病人の痛みがわからない、使われたことのない人には使われることの苦痛が分からない、どん底に落ちたことのない人には人の悲しみや寂しさ、弱さ、浅ましさが分からない。人間は、悲しいかな、痛い目に合わないと気づかないことがあまりにも多いものです。だから、痛い目に会ったことのない人は、無意識のうちにどんなに人を傷つけているか想像もつきません。外科医がガンの手術を受け、「今まで何気なく手術をして、苦しむ患者に『頑張りなさい』なんて言ったけど、切られる方はまさに死ぬ思いだよ。今度、手術を受けて、患者の苦しみが本当に分かった」と述懐していました。他人の苦しみを自分のことに置き換えて、その2割でも考えられるようなら真の友人であり、5割も考えられたら聖人、8割を超すようならもはや神が仏であろう。
2015.02.15
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では、『大人』とはどのようなものなのでしょうか?例えば、経済状況が悪いからといって嘆いているばかりでは、何も変わりません。どこまで悪くなるのだろうと嘆きながら、上手くいくまで口を開けて、空を見上げて待っていても意味がないのです。自分たちの行為で経済状態が悪化したならば、自分たちの力でやり直さなくてはならないのです。ここまでは誰でもわかっているが、心が貪瞋痴で弱体化しているので行動力が出ないのです。チャレンジできないのです。怖くなったり、自信を失ったり、あるいは子供のように嫌だとか好きだとか、そんな基準で無茶をします。それは子供っぽい生き方です。精神的に大人になる必要があります。よく「正直に生きよ」と言うが、『心が育っていない人間の正直さ』は危ないのです。生まれつきあるのは貪瞋痴だから、生まれたままの気持ちに素直では危ないのです。だからといって、嫌なことを我慢してしまうと、ストレスが爆発する危険性もあります。どちらも極論です。そうではなく、これをやれば自分は幸せになれる、同時に他人も幸せになれる、そういう道を探して実行していく、そのように生きていけばよいのです。そのために、成長しなければなりません。『成長すること』に正直になるのだと、貪瞋痴に負けず、欲を克服するのだという気持ちを作って、それに正直に生きていかねばなりません。欲は征服すべきものであって、欲に征服されてはなりません。「悪いこと、自分が損すること、また他人が損すること」は、何があってもやりませんと、そういうところで頑固になればよいのです。つまり、真理に対して頑固になるのです。真理とは正しい生き方のことで、神様や他の誰かが作ったものではありません。真理とは、自然のありのままの法則です。「神のため、国のため、民族のために死んだら天国へ行くのだ」といった信念は、真理ではありません。真理とは、実証できるもので、誰にでも体験できるものをいいます。例えば、悪いことをしてはいけませんという真理。怒ってはいけませんという真理。来世があってもなくても、悪いことはしてはいけないのです。威張ったら、高慢になったら、自分も気分が良くないし、他人も嫌な気持ちになる、そういうことが真理なのです。だから、明快な真理に基づいて、その真理を守るために頑固になり、正直になる。そういう正直さが大切なんですね。それを続けていけば、どんどん素直になっていくのです。
2015.02.14
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私が目が見えないから汚いものを見ずに済んだ耳が聞こえないから嫌なことを聞かずに済んだ口がきけないから人を傷つける言葉を言わずに済んだだから、いつも心は穏やかで豊かであった。 ヘレン・ケラー五感のうちの三感を失ったヘレン・ケラーは、「その代わりに、私には残された嗅覚があった。誰が目の前にいるのか。その人がどんなも気持でいるのか。私には的確に感じることができた。こういう自分にしてくれた神に感謝する」と言っています。私たちは、目が見え耳が聞こえるゆえに、自分に都合の良いことだけを見たり聞いたりして、真実を見たり聞いたりしない傾向があります。また、カミソリの刃のように危険な言葉を、不用意かつ無意識に使って、自分や他人を傷つけることがあります。現在の私たちは、感触とか香りには鈍感になっています。花が咲くとき自らの内から香りが漂うように、人間もその人の開花するときには、内から燃えたぎる精神が香りを発散させるように思います。感触とか香りとかいう表現できないものを大切にし、命に満ち溢れた精神の香り高い人物になりたいものです。
2015.02.14
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もう一つの生き方というのは、貪瞋痴の代わりに、鋭さや智恵に基づいて生きることなのです。貪りや怒りの代わりに、もっと育てなければならない素晴らしい感情が、人間にはあるのです。例えば、生命は皆兄弟だと感じ取る気持ち。自分の子だけが可愛いのではなくて、人間皆、誰であろうと母の子供なのだと。動物を見ても、この子のお母さんが、一生懸命おっぱいをあげて、身体をなめて育てたのだろうと思うと、嫌悪する気持ちではなく、もっと清らかな感情が生まれてくるのです。そういう感情はいくら増やしてもいいのです。世の中にある歌は、泣く歌がほとんどですね。欲を持ってすると、泣く歌になってしまうのです。恋の歌や失恋の歌、別れの歌、なぜあなたはあの人のもとに行ってしまったのとか、そのような気持ちも怒りでしょう。せっかく歌を聴いて楽しもうと思っても、気持ちが暗くなるばかりです。「We are the world…」という歌がありましたよね。あの歌を聴くと、ああきれいな歌だなあと、気分良くなります。苦しんでいる人たちを助けるために、素晴らしい歌手たちが集まって、1行1行、歌っている歌。「We are the world,We are the children…」。歌詞もその通りだと感じられて、1行1行歌うのですが、心に響くのです。ですから、多くの人たちの心に残っているのです。文学でも、そうだと思います。貪瞋痴ではなくて、怒りの代わりに優しさを、欲でなくて共存を、互いに助け合うことを大切にするなら、もっと偉大な文学がたくさん生まれているはずです。そして、美しく生きていられるはずです。(TVドラマなんて貪瞋痴ばかりで、この頃観る気がしない。)もう一つの生き方を作らなくてはいけないが、それは個人個人が作らなければなりません。子供のまま死ぬのではなく、大人にならなくてはいけません。子供は可愛いし、若者も可愛いのだけれど、大人になってくると気持ち悪いのです。衰えた身体の中に幼児が入っていて、身体と心が一致しないのです。小さいときは心と身体が合っていて、バランスを保っています。身体も心も子供でOK、可愛いのです。身体が歳をとって行くのと同時に、心も成長していくのであれば可愛らしさは消えません。仏教の世界で悟った方々というのは、見ただけで誰もがびっくりするのは、立派な大人になっていて、頼りになって、その人がいるだけで周りが落ち着くからなのです。
2015.02.13
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現代にもしエリートと言われるものがいるとしたらそれは志とミッションを維持し続けることができる人のこと。怒りを持ち続け怒りの大本を断とうという活動を続ける人だと思う。 落合恵子いわゆるエリートと言われる中途半端な人物ほど、TVの刑事物で本庁刑事がみせるような自己中心の鼻持ちならない人間になりやすいものです。本物のエリートとは、高い志と使命感を持って坂本竜馬や西郷隆盛のように忘己利他の精神で尽くすことのできる人だと思います。人間たる一番大事な本質は「徳性」であると安岡正篤は説いたが、徳性とは「心の明るさ・清さ・人を助ける心・人を愛する気持ち・人に尽くす・恩に報いる・正直・勇気・忍耐」などです。この短い人生を有意義に生きるためには、たんに知識を詰め込むだけでなく、徳性を磨き善縁に触れる機会を増やすことが大切です。「徳とは行である。行とはただ行うことである」と道元は言ったが、普段から善い物・善い人・善い教え・善い書物・真理・優れているもの・尊いものなどとできるだけ積極的に縁を結び、実践することが大切です。
2015.02.13
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人に対して怒ったら、その怒りにまず苦しむのは誰でしょうか?怒りは自分への毒だ、殺教者だ、敵だとお釈迦さまは仰っています。敵は外部ではなく、自分の心の中にいるのです。なぜ、敵を抱きしめて、大切にお腹のなかに入れておくのでしょうか。そうなれば、敵はやりたい放題です。我々が30分でも何かに対して怒りの気持ちを持てば、その分、人生を損しているのです。幸福からはまた遠くなります。そしてまた、心にその癖がついて、次から次へと怒りが生まれてきます。慣れてしまうのですね。たとえば悪口一つとっても、最初は恥ずかしいのだけれど、1,2度言ってしまえば何の抵抗もなく言えるようになってしまうのです。人というのは、悪いことをするときは、1回目はものすごく怖いのです。会社のお金でも、例えば最初は千円でも横領するのは怖いものです。しかし1度やってしまえば、次から次へと続けるようになり、取り返しがつかないところまでやってしまうのです。そして最後には破綻して、人生を無茶苦茶にして終わりになってしまう。怒りも同じなんですよ。1度怒ってみたら、どうということもなく2度目も怒ることができる。3度目も同じ。どんどん慣れてくるんですね。そして一生、怒りの人間になってしまうわけです。そうすると、自分の大切な幸福は消えてしまうのです。このようなわけで、貪瞋痴の世界には幸福な道がないのです。商売繁盛の道もない。欲だけで、商売を繁盛させることはできません。平安な家庭を作ることも、自分自身が平安に生きることも、貪瞋痴では不可能なのです。子供は生まれつき、貪瞋痴を持っています。わがまま、怒り。それは叩き直して、新しい道を教えてあげなければなりません。調和はいいことだ、仲良くすることはもっといいことだと、楽な道より難しい道の方がいいのだと。怒りや欲による行動、欲しいから取るのだという生き方は、あまり大人っぽい生き方だとは言えません。しかし我々は、この子供のようなやり方であらゆる行動を行っていて、大きな銀行だろうが会社だろうが経営しているわけですから、3割4割が倒産するのは当然といえるでしょう。もうひとつの人生というのは、それとはまったく違う生き方です。共存することで、私が助け、あなたにも助けられる、お互いに助かるのだという生き方です。そうすると世の中は、ものすごくうまくいくのです。自分が怒ったら、相手の人も気分が悪いし、自分も気分が悪いのです。人が何か失敗しても「まあいいじゃないか」と許してあげれば、たまたま失敗した人も助かるし、「ああ心の広い人だ」と信頼してくれるようになり、この人の言うことを聞こうと思うようになるのではないでしょうか。そこで怒らなかったことで、自分に対して自信もつくし、後で思い出しても楽しいはずです。
2015.02.12
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太陽は勇気と智慧を与えてくれる星は感動を与えてくれる 坂本九どんなに落ちこんでいても、朝のご来光を拝んでいると一筋の光明が見えてくるような気がします。太陽のエネルギーは、はつらつとした積極性を育み、希望や勇気といった明るいエネルギーをもたらしてくれます。太陽の光を浴びなければ植物が育たないように、人間にとって夢や理想は心の太陽です。現在がどんなに惨めで悲惨なな状況にあろうと、未来に夢や希望がある限りイキイキと生きていけます。大きな夢の実現に向かって目の前の目標に挑戦し、成し遂げた感動体験を通して生きる喜びを実感したいものです。一方、夜空いっぱいの星空を見上げながら、しみじみと心を癒され、その神秘になんともいえない感動を味わうこともあります。古代人は、ただの星の集まりにすぎない空を見上げて空想を膨らませ、いくつかの星を強調してそれらを結び付け、星座を考え出しもしました。
2015.02.12
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人間というのは、幸福に生きていきたいと思っています。それは、別に悪いことではありません。冬に窓を開けて、寒さに震える必要はないのです。きちんと窓を閉めて、カーテンがあればカーテンも閉めて、暖房があるなら暖房もつけてよいのです。気に入った相手がいるなら結婚すればいいし、寂しいと思うなら子供を作ってもよいのです。もっと美味しいご飯を食べたいから、仕事をがんばってお金を稼ぐ、それもよいのです。そういうことではなく、「幸せになるためにはどうすればよいのか」ということです。もっと卑近な例で言うなら、例えば、商売を軌道に乗せるためにはどうすればよいのでしょうか?貪瞋痴(=三毒)の心で商売をやったとします。儲かるぞと思って店を開いても、お客さんは全然来ないのが普通です。自分が儲けることだけ考えていると、全然うまくいかないはずです。そこで、もう一つの道を考えてみましょう。商売は人間と人間の関わりだから、『相互に助かる』ということで商売は成り立つはずです。私が何か品物を持っている。そこに買う人がいる。買う人はそれを必要としている。互いに必要があるということで、商売は成り立つわけです。それを買ってあなたは助かる。それを売って私は助かる。このように、商売の場合は、どうやればお互いに助かるのか、互いに幸福になるのかと、相手の気持ちも考えなくてはいけないのです。外交でも同じです。日本と中国の間の外交では、どうすれば中国の方も幸せになれるかと、日本側も考えなければなりません。中国側も、どうすれば日本にもよくて自分の国にもよいかと、その接点を見つければよいのです。パレスチナ人も、どうすればイスラエル人が幸せに安心して生活できるかと考えればよいのです。イスラエル人はどうすれば自分の民族、土地を成長させられるかだけを考え、パレスチナ人はどうすれば自分の宗教を守り、育っていけるのかということばかりを考える。すると、永久に対立するばかりです。どうして色々な会社が倒産するかというと、バランスを崩しているのです。バランスが崩れると、問題が起きます。ですから、世の中は、貪瞋痴の代わりに、共存すること、互いに幸せになることを考えるべきなのです。人生は短いのだから、楽しく、仲良く、幸せに生きた方がよいということを、忘れないでいて欲しいのです貪瞋痴に流される生き方はよくない生き方であるけれども、人間が幸福に生きていきたいと思うことはごく普通のことであり、悪いことではありません。ただ、他人を不幸にして自分が幸福になるという考え方は、それ自体に論理の間違いがあることに気づいて、正しい幸福を探すべきなのです。人生は短いのだから、その短い時間を、楽しく幸せに、仲良く生きればよいのです。短い人生のなかの10年も20年も、お嫁さんやお姑さんと喧嘩して過ごすほど、馬鹿な生き方があるでしょうか。10年も20年も苦しみながら生きるのは、無知な生き方といえるのではないでしょうか。人間なんて、いつ死ぬかわからないのです。どんな瞬間にでも、死が訪れる可能性はあるのです。 とにかく、人間というのは短い時間しか生きていません。その短い時間を、1日でも損してはいけないのです。1日でも悩んだり、無駄にしてはいけません。
2015.02.11
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技術も理論も大切だが何よりも大事なのは心良い仕事をするには技術や理論はもちろん大切だが、それだけでは人を感動させるような仕事はできません。業績が落ち込んで下請けや関連会社の支払いが手形に切り替わったとき、清掃会社の役員が「社員に給料が払えなくなる」と仕事先の工場長のところにお願いに行った。すると後日、工場長が「来客があるので何時も花が飾ってあるのですか、御社の清掃社員の方は、取り替えた花をそのまま捨てずに、程度の良い花を選んで何時もトイレの一輪挿しに入れているのを思いだして、これはいかんわいと本社に掛け合ったのです」と裏話を披露し、従来通りにしてくれたそうです。心ある仕事というのは、そんな一寸の差なのだが、その一寸が抜けたら常識の仕事、金儲けだけの仕事になってしまいます。どんな仕事であっても、心を込めて仕事をすることによって美しい花を咲かせることができます。
2015.02.11
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では、貪欲にまみれた道ではない、我々のとるべき『もう一つの道』とは何でしょうか?それは、欲、貪りというものが生まれたら、その瞬間に自分の『目がなくなった』ということを、理解することです。智恵が消え、精神的な病気に陥ったのだということを理解しなければなりません。 例えわずかでも欲が生まれると、論理性、合理性がなくなって、物事が見えなくなると思ってください。ダイエットしたいと思っている人が目の前に好物を並べられたら、「食べたい」という欲が生まれてくる。食べたいと思って、欲に負け、欲に征服され、食べてしまう。そうすると、今までダイエットを続けてきた苦労は水の泡となって消えてしまいます。それと同じです。貪瞋痴に征服されると、とにかく大変危険なのです。我々が生きているこの世の中は、どのような感情で動いているのかと考えると、貪瞋痴そのものなのです。世の中を見渡しても、自分の感情のままに行動する『子供』ばかりで危険極まりない状態です。心の『大人』(悟った人)はいません。お釈迦さまが仰っているもう一つの道とは、「大人になりなさい」ということなのです。 国と国の諍いをみても、全く子供みたいです。社会になぜ平和がないかというと、「人間が成長していないから」ということに尽きます。怒りと欲、そのなかで高慢や見栄や、自分が偉いのだとか、誰にも負けませんとか、そういったくだらない子供の考え方ばかりいっぱい持っているのです。例えば、イスラム教では、彼らの聖書であるコーランに「我々は唯一の神を信頼している」と書いてあるだけなのに、そこから、「私たちだけが偉大なる神を信仰しているのだから、私たちだけが正しいのだ」というような、色々な妄想を創り出してしまう。その妄想をもとに、世界中でテロや戦争、殺戮を繰り返しています。それが、本当の幸せなのでしょうか?このように、欲も怒りもよくないのです。このくらい危険なのだと理解しておかなければなりません。欲と怒りが生まれたら、もう無知となってしまうのです。無知というのは、言葉を換えれば『病気』といってもよいくらいなのです。大人じゃないのです。 この世の中に、『大人』なんていないのです。未熟な生命が誕生して、肉体だけがどんどん大きくなって、衰えて死ぬ。中身はそのまま、未熟なまま輪廻転生して、また未熟な一生を繰り返す。「そこをなんとかしなさい。成長しなさい、大人になりなさい」というのが、お釈迦さまの言葉なのです。
2015.02.10
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人は誰でも 人生という大切なマウンドに立っている困難があっても諦めず競い合いの中で上を目指して欲しい 村田兆治前途に希望の光が明るく輝いているとき、現在がどんなに苦しいものであっても、「すべてはこれからだ」という期待と意気込みで心に張りを持って生きていくことができます。夢を抱いたといって必ずしも叶えられるものではないが、人は命ある限り、その可能性は無限。次の三点さえあれば、幾つであっても変わることができます。・希望を捨てず「いつか、きっと」と思い続ける・その気持ちを胸に少しずつでも動き始める・決して諦めずに夢を叶えるために努力し続ける結果はどうであろうと、大きな夢を抱いて努力し続けることです。大きな夢や理想をもてば、やるべきことが次々と出てきて、それらを一つひとつ知恵を絞って解決していくうちに、更に進歩し成長していきます。永遠に実現できそうもない大きな夢や理想、志を持てば持つほど、目の前の小さなことにクヨクヨしなくなります。
2015.02.10
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参考までに、仏教で言われる智慧とはどんなものでしょうか?「智慧」とは、現象をありのままに見る、理解する力です。仏教の修行では、「智慧」と「慈悲」(他の苦しみを取り除き幸福を与えること)とは獲得すべき二大徳目といわれ、この二つは不可分であると言われています。なぜ「智慧と慈悲」が不可分かというと、「智慧」がなければ無智が生じ、その結果として貪りが生じるからです。お金、名誉、地位や権力にしろ、また付き合う異性や食べ物にしろ、そういったもので大きな喜びを感じるのは、他よりも優ったときです。貪りには際限がないので、そこには必然的に奪い合いが生じます。また、すべての人が他より優ることはできず、競争の裏では、負けた相手に対しての嫉妬や恨み、怒りなどが生じます。こうして、貪りは、他との奪いをもたらし、他を苦しめるものとなります。だから、貪りを捨断しなければ、本質的に自分の苦しみを取り除くことができないどころか、他をも苦しめてしまうことになります。自分の喜びに執着していれば、それを他に分け与える実践=慈悲喜捨の実践をすることなどありえません。逆にいえば、貪りが慈悲の実践の妨げであるのだから、貪りを止めない限り、慈悲の実践の障害を取り除き、その実践を可能にすることは不可能です。つまり、貪りの根本原因が無明です。言い方を変えれば、貪りによっては真の幸福は手に入らないということを理解できていない心の状態、それが無明です。 逆に言えば、幸福・不幸の原因を含めて、現象をありのままに理解する「智慧」があるならば、貪りは生じないということです。貪りとその裏の怒りは、無明によって生じます。この三つを仏教では三毒といい、苦しみ・不幸の原因となる悪業であるとされています。 ◆なぜ貪りが悪行かと言えば、後でも述べるので簡単に説明しておきます。1.貪りは、麻薬のような中毒性があり、執着を招き、私たちを苦しませる。 いかなる快楽を貪っても、それで心が満ち足りるということはなく、「もっと、もっと」と際限なく求め続けます。また、貪りの結果、何かを得ると、それに執着する心が生じてきます。貪る前には、それなしでいられたものが、なしではいられなくなり、人を苦しみに陥れてしまいます。 2.貪りは時が満ちたとき、様々な苦しみをもたらす。 例えば、際限のない貪りの中で、必ず求めて得られないとき、得たものを失うとき、欲しいものを他と奪い合うとき、得たものを他から守らなければならないとき、逆に得たくないもの(嫌いなもの)までを得るときなどがあり、様々な状況で苦しみを味わわなければならなくなります。 3.貪りは怒りをもたらし、その悪業が苦しみをもたらす。 貪りが様々な苦しみをもたらすときに、その苦しみが自分の貪りによる自業自得であると理解できない無明があるために、他によって苦しんでいると錯覚し(他人のせいにする)、他に対して怒り、恨み、憎みなどの感情が生じます。それが嵩じると、言葉や行動で他を傷つける悪業を積むことも多くなります。その悪業の結果、さらに自分が苦しむことになります。
2015.02.09
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どれだけ多くのもので、ではなく、どれだけ少ないものでやっていけるか 「人生の午後」アン・モロウ・リンドバーグキリスト教では、天国に入るためには狭き門より入れと教えるが、身分や名声という持ち物も、財産という持ち物も、学問という持ち物も、天国には持って入れません。それらのものは、天国では何の役にも立たないばかりか、かえって邪魔にさえなります。人間は無一物で生まれてきて、無一物であの世に帰ります。少欲知足の教えを悟ったとき、あなたはストレスから解放され、気楽に楽しく生きていけるはずです。学歴や経験、地位、体裁などに縛られていると、折角のチャンスがやってきても気軽に転身することもできなくなってしまいます。何にも縛られない身軽さが人を強くし、チャンスをつかませます。落合恵子さんも、「モノはできるだけ少ない方がいい。持ってしまうと、それを維持するための余計なエネルギーをつかわなくてはならない」と言います。
2015.02.09
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そんな気分になかなかならないのは、私たちの「無明」のせいです。無明というのは、巨大な暗闇に生命が覆われているということです。私たちは、暗闇のなかにいると何も見えません。智恵という光があれば見えるのだが、人間にあるのは『知識』だけなのです。知識というのは、一つの物事について様々な意見が出てくるようなことです。例えば、昭和20年に第二次世界大戦は終わったが、人によりそれを「敗戦」と言ったり、「終戦」と言ったり、色々な意見が出てきますね。そのように、「これ」という絶対の答えの出ない状態は知識の世界なのです。昔は知識があまりなかった世界だったが、現代人は知識が豊富だから、何か質問すれば、知識が沢山ある人が色んなことを言ってくれます。だが、私たちが「どのように生きていけばいいか」ということにも、これまで色々と見てきたように「これだ」という答えは出てきません。知識だからです。昔の人も、なぜ人は病気になるのか、病気になればどうすればいいのか、日照り続きで、或いは雨が降りすぎて作物が採れなくなってしまった、どうすればいいのか、平和に生活していたのに隣の国に攻められて、殺される羽目に陥った・・・、「一体、何故」と一杯問題を抱えていました。知識が豊富になった現代の我々も、未だに同じような問題を抱えています。ガンや認知症にならないためには、あれを食べればよい、これを食べればよいと、色んな人が様々なことを言うが、どれも完全じゃない、答えは出ないのです。知識というのは、暗闇のなかでものを触ってみる状態で、それを無明というのです。もし、すべてのものに答えが見つかったら、そこには無明はないのです。「生きている間に生まれてくる問題に答えを持つ人はいない」、それが無明だと理解していただければよいと思います。無明というのは、我々が普通に生きている世界のことなのです。では、なぜ、智恵という光が生まれないのでしょうか?そもそも、私たちは「好き嫌い」で生きています。どんな生命も、好き嫌いで生きているんですね。「好き」と決めたのも、「嫌い」と決めたのも自分であって、それは正しい答えではありません。ある時期好きでたまらなかった人が、後には嫌いでたまらなくなる。顔も見たくない。そうではありませんか?逆の場合もありますよね。(思想でも同じだし、政治家を選ぶのだって同じですね。)我々が、「良い(悪い)」「好き(嫌い)」と決めたものも、実際は絶対ではありません。あるとき、180度真逆にひっくり返ることがよくあります。状況によっても変わります。「人を殺してはいけない」と言っているが、戦争になれば沢山殺した人が勲章を受けるように絶対ではありません一旦行動をやめて、自分とは何なのかを観てみない限り、ずーっと無明なんですね。でも、無明というのは決して非難する言葉ではなく、仏教の一番高度な考え方です。どんな宗教でも哲学でも答えを用意する部分、生命というものが、どんな衝動で誰に生かされているのか、という答えにつながる部分なのです。仏教では、生命は無明で生まれてきて、無明のなかでウロウロ、ウロウロしていると説きます。無明と渇愛が、すべての生命を作り出す原因であると教えています。ですから、生命であるなら、無明であることは普通のことなのです。でも、死ぬまでに少しは無明から脱却したいですね。
2015.02.08
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全力を尽くして それで負けたのならそれは次の一歩につながる立派な負けなのだ野村監督は「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」(元々は松浦静山の言葉らしい)と言っているが、負けるときには何の理由もなく負けるわけではなく、試合中に何か負ける要素が必ずあるので、その原因を探り、それをコントロールしていく必要があります。負け続きで立ち直る気配のないアメフトチームが、やはり負けそうになったとき、「俺達は負けているんじゃない。最も大事な状況にいるんだ」とのかけ声で、「また、負けるのか」と思っていた選手の意識を変え、これが試合の機運を変えて逆転勝利を収めたことがあります。失敗つづきの悪循環を変えるためには、リーダーは壁にぶつかっている原因についてあらゆる角度から話し合える場を持ち、それをコントロール可能な構成要素に分解し、対策を話し合ってメンバーの士気を良い方向に持っていくことが重要です。
2015.02.08
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私たちは、無明のままに欲と怒りの世界を彷徨って生きています。欲の世界の方程式というのは、幾らあっても足りないという不思議な方程式です。最初は1万円欲しいと思っただけなのに、それが手にはいると、それでは満足せずに、次は2万円ないとダメだということになってしまう。そして2万円が手にはいると次は4万円・・・、やがては何億円という風にきりがないのです。どこまでいっても満足することがなく、それで苦しんでいます。神戸大震災のとき、市の職員の方が夜遅くなってからおにぎりを届けてくれました。老夫婦が「おじいちゃん、一つしかないから半分個しましょう。ありがたいですね。有り難うございます」と言って喜んで食べていました。そんな人も、次はおにぎりではなくて親子丼が食べたい、親子丼をもらったら今度は寿司が食べたい、ということになってしまうのが人間なのです。このように「いくらあっても足りない」という状態では、欲しいものを追い求めても、追い求めても、きりがなく、体がボロボロになるまで働いた挙句、何もやる暇がなくなってしまいます。それでは楽しく幸福に生きることは難しいので、この「欲の世界の不思議な方程式」を変えなければなりません。ただ、それだけのことなのです。本来、人間として生きることは、それほど難しいことではないのですね。それを私たちが、勝手に難しいことにしているのです。欲を際限なく膨らませていき、私たち自身の手で、自分たちの世界を生きづらい世界にしているのです。ほんの少し少欲知足の精神を養うだけで、この世は生きやすくなるはずです。昔の庶民はあまり余計な欲がなかったから、幕末に日本に来た外国人が驚きの目で書き残しているように、質素ではあるが、善良で落ち着き、精神的に健康的な生活をしていました。暇も一杯あったので、村の人たちを集めて祭りをして楽しんだりして、穏やかに暮らしていました。今では、その祭りさえ、文化遺産のように扱って、それを人に見せて金儲けに使っています。とにかく、欲ばかり追うのではなく、お金にせよ健康にせよ、「まあ、これくらいでいいんじゃないの」というリミットを決めて、楽になることです。そうすれば、もっと客観的にものごとを観るための心の余裕が出てくると思います。(客観的に観るについては後述)日常生活のなかで客観性を持つことができるならば、きっと人生の無駄が消え、仕事もうまくいき、智恵がゆっくり発達してくると思います。
2015.02.07
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たとえ敗者となっても その記憶まで敗れ去りはしない記憶が糧となりいつかは実を結ぶこともある「技能の伝承は、失敗の伝承です。入社当時、ボイラー技術は完成しておらず、不安定な部分もあって何度も失敗を繰り返し、そのつど改良を重ねる中で今の技術が確立された」と石川播磨重工業で技能伝承を指導している金子郁夫さんは言います。まさに、ノウハウとは「No Haw」(いかにすると失敗するか)の蓄積だと思います。最近では、運転管理もほとんどコンピューター制御で、決められたマニュアルに従っていれば大きな問題は起きないが、これが技術の蓄積という面ではマイナスになります。マニュアルで育った人達は、マニュアルの背後にある数々の失敗を知らないから応用が効きません。そこで、ベテランが持っている失敗経験や技能をできる限りデータベース化し、シミュレーションで過去の技術蓄積を素早く身につけたうえで、新たな創造性を発揮させる仕組みがいるということです。
2015.02.07
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お釈迦様は、無知(無明)、欲、怒りは、人間を精神的病気に陥れる三大要因だといわれました。 人間の頭の中に『欲』が生まれたときには、他の物事が見えなくなってしまいます。何かが好きになってしまったら、好きで、好きでたまらない。常識も忘れてしまうんですね。その結果。色々な妙な行動に出るわけです。(ストーカーだってそうですね。ときには殺ししまうことさえあります。) ある女性が、自分の赤ちゃんを殺して逮捕された事件がありました。動機を聞かれて「育てるお金がなかった」と答えていたが、実際には家族にはかなりの収入があったのです。この女性はパチンコ遊びの楽しみに溺れて、お金をすべてそれに浪費してしまっていたのです。欲の感情に汚染されたら、我が子さえも邪魔に見えるくらい、頭がおかしくなるのです。親殺しだってありますね。神戸で、小学生が残酷に人を殺した事件がありました。普通に考えれば、子供にそんなことができるはずはありません。一体どういうことなのでしょうか?(本当は、子供は本能のままで残酷な存在)お母さんの前ではとても良い子だった小学生が、知らないうちに人を殺している。お母さんも学校の先生も、寝耳に水なんですね。あれほどよく言うことを聞く子供だったのに、と。子供はそのとき、自分の心の感情の世界の中に入り込んでしまっているんですね。マンガやゲームの世界、妄想の世界に入り込んで、そればかりを考えている。そこで、突然それを実行してみる。実行しているときには、本人には何も見えない、何もわからないのです。お釈迦さまは、「怒りに征服されたら、あるいは欲に征服されたら、もう目は見えない。あるのは暗闇のみである」と仰っています。 例えば、厳格な職業?である官僚や警官、先生方でも、ある日突然、決してやってはいけないことをやってしまっていることがありますね。人間の持つ感情というものは、大変危険なものなのです。お釈迦さまは、これは危険であり、毒であり、敵であり、殺戮者であると明言されています。我々の心のなかには毒がある、敵がいる、自分を破滅させる殺戮者がいると仰っているのです。それは、具体的には貪瞋痴(=欲と怒りと鈍感)という3つです。 欲、怒り、そして鈍感さ、つまり無知、この3つが一番大きな問題で、これらが我々を精神的病人にしてしまっているのです。とくに、真理に対する無明(無知)が欲や怒りを引き起こすので、相手やまわりの状況を正しく判断するために『智恵』を磨く必要があります。
2015.02.06
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状況が暗そうに見えてもあるいは実際に暗くても顔を上げて可能性に目を向けよう常に可能性を見ること!常に可能性はあるのだから・・・ ノーマン・ヴィンセント・ピール 何か心配事があると、それに気を取られて、つい物事の真実が見えなくなったり、人の言うことが素直に聞こえなくなることがよくあります。そして、何でも悪く考えたり、悲観的になってしまいがちです。後で思うと、なぜ、あの時は、あんなことが分からなかったのだろうかと不思議にも思えることがよくあります。でも、「出る穴があるのに障子のトンボかな」ではないが、ちょっと角度を変えてみると解決の糸口が見つかったり、ちょっと思いを変えてみると何でもないことになったり、ちょっと希望を持ってみると容易に乗り越えられたりするものです。お釈迦様も、「心が沈みそうなとき、心が沈んではいけない。明るく清らかに心を持って、暗い淀みにするな」と諭します。人生は諸行無常、惨めな自分を嫌うことなく、「いつかはよくなる」と信じて、自分と仲良く過ごしていれば、心を覆っていた雲も晴れて明るい日差しも見えてきます。
2015.02.06
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ところで、「正直に、素直に」という言葉もくせものです。正直に生きていられればいい、などといくら言葉で言ってみても、それは単なる『言葉』でしかないはずです。また逆に、本当に人間が正直に生きることほど、危険なこともありません。何故なら、人間は貪瞋痴の感情で生きているので、『正直』ということほど危険なことはありません。「人を殺してみたかった」と人を殺す、遊ぶ金が欲しかったというだけで人を殺す、そんな話で一杯です。「あなたのことが嫌いだから顔も見たくない」、「諫言など耳に痛いことは大嫌いだから別れる」、「あなたといると得することが多いから一緒にいましょう」・・・、そういう生き方になりかねません。結婚していても、妻とは別の女性を見て、「この女性は可愛い」と感じたからと家に連れてくる。奥さんが怒れば、「私は自分の気持ちに正直に生きているだけなのだ」と言いかねませんね。極端かもしれないが、物事を考えるときに、問題を極端にして考えてみるというのは方法論の一つです。問題を極端なほど大きくして考えると、真実が見えてくるものです。『正直』と言われただけで、それは素晴らしいと思ってしまいがちだが、本当はとんでもないことなのです。『正直』という言葉に惑わされてはいけません。世の中の様々な『正直』を見ていただければよくわかります。ですから、無責任に、ぼんやりと鈍いこころで「正直に生きることはいいことだ」などと言ってはいけません。それが仏教の基本です。何を言うにも、無条件にしゃべってはいけないのです。慎重に、気をつけて話さなければなりません。では、「正直にやることが大変危険である」というなら、「正直はやめて、自分の気持ちと反対の行動をとってみましょう」というのがよいのでしょうか?1日2日は、何とか頑張れるかもしれません。自分の素直な気持ちとまったく反対のことをやるというのは、ものすごいストレスがたまり、大変な苦しみです。自分の正直な気持ちと全く逆に、人に言われるとおりに行動するというのも、かえってまた大変なストレスであり、いずれ問題になるのです。いくらかは我慢できても、いつかは爆発してしまい、壊れてしまうのです。ですから、結局、どちらでも問題だということです。 注)そこで、仏教では中道(対立を越えた真理にかなう道)・中庸(その場、その時に、最も適切妥当なこと)の考えがでてくるのです。「過ぎたるは及ばざるが如し」ではないが、過ぎる=偏った執着は良くありません。テロや狂信なども、偏った考えへの執着の結果に過ぎません。
2015.02.05
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心でみなくちゃものごとはよく見えないってことさかんじんなことは目に見えないんだよ サン=テグジュペリ「星の王子さま」私たちが生きているということは、絶えずものを見たり、聞いたり、感じたりしているということです。そして、自分がこの目で見、この耳で聞いたのだから間違いないと言います。だが、本当にそうでしょうか?実際には、一度自分の心の鏡に映して(心を通して)、都合の良いように見たり、聞いたり、感じたりしています。その自分の心はというと、貪(貪欲)・瞋(怒りや妬み)・痴(愚痴)によって歪んでいます。だから、物事の真実は正確に照らし出されていないと仏教では教えます。法句経に「水瓶の水が風で波立っていたら、顔はまともに映らない。怒りで煮えたっていたら、綺麗な顔に映らない。愚痴で腐っていたら、いい顔には映らない」と書いてあるが、心の鏡が三毒で歪んでいては外の世界をちゃんと写すことはできません。物事の本質を、そのまま自分の心に写すことほど難しいものはありません。
2015.02.05
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じゃ、その楽しみを断てばいいのか? いくらご飯を食べても満足できないのなら、いっそ断食してしまえというようなものです。でも、そのいずれも本当の解決にはなりません。人間に不足しているのは『明晰さ』であり、その明晰さを妨げているのは『感情』です。人間は感情で生きています。仏教では、感情で生きることは無意味ですと教えています。感情には論理がなく、同じところをぐるぐる巡るだけで進歩がありません。例えば、好きか嫌いかということには論理性はなく、科学性や客観性はありません。感情で色々なものを発見したり発明したりすることはできず、そこには進歩も発展もありません。貪瞋痴の生き方、つまり貪りと怒りと無知の生き方、それは人間が感情に操られる生き方なのです。例えば、三角形の3つの角の角度を足せば180度になるということは、論理的、科学的にきちんと説明できます。しかし、バラの花が好きな人がいたとして、「あなたはなぜバラの花が好きなのか、論理的に説明しなさい」と訊かれても説明できないはずです。怒りも同じことで、「なぜ怒るのですか」と訊いても、答えられるだけの客観的論理的理由はないのです。このような貪瞋痴の感情自体、我々が考え直さなければならない大問題なのだが、人は全くといってよいほどそれを考えていません。これが、人類が苦しんでいるあらゆる問題の原因です。自信がない、落ち込みやすい、悲観的である、あるいは鬱である、ストレスがたまっている・・・、あれやこれやと色々なことを言うわけです。色々なことで心配ばかりして、悩みばかりで、問題が多いから、身体の健康もどんどん崩れていって、お医者さんに相談にいくことになります。「ストレスがたまっているから何とかしてくれませんか」と言われて、氷山の一角となって現れたストレスを消すことは簡単です。だが、それはあくまでも氷山の一角なのであって、根源となる問題は水面下に残っているわけだから、船は安全に進めません。ちょっとした小さな氷の固まりでも見つけたら、細心の注意を払って気をつけた方がいいのに、それだけを消そうとする人が多いですね。でも、その小さな氷の固まりを消しても、問題はそのままであって、船が通ることはできないのです。例えば、落ち込んでいる人は、「落ち込まないように、何とかならないものか」と相談に来ます。悲観的に考えがちだという人は、その悲観的な思考が何とか治る方法はないものかと言って、その氷山の頂上の部分だけ削って欲しがります。とにかく、感情の世界にとらわれない方がよいのです。『感情の世界』というのは、非合理的な根拠のない生き方を意味しています。例えば、「ただ何となく生きている」、「みんなやっているからそうするのだ」、「皆がブランド物を持っているから私も持つ」、「理由はともかく一緒に仕事したくないから会社を辞める」・・・、そのような曖昧な生き方です。
2015.02.04
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私は実験において失敗など一度たりともしていない電球は光らないという発見をいままでに2万回してきたのだ トーマス・エジソン野口英世は麻痺狂の脳について、200枚を1組にして50組、合計1万枚の顕微鏡標本を作った。それを、2人の助手と片っ端から検査していった。しかし、最後の1組になっても、目指す病原体は見つからなかった。2人の助手が昼間に検査したが無駄に終わったという最後の一組の標本を家に持ち帰り、夜を徹して顕微鏡で検査をした。明け方になって、ついに病原体を見いだした。普通の人なら5,6千枚も標本を見て探すものがなければ、「ここまでやってもダメだったのだから」などと適当な理由をつけて諦めがちです。だが、野口英世は文字通り最後の一枚もゆるがせにしないで検査した結果、大きな業績を上げることができたのです。大きなことでなくてもいいから、何かに一念を持ち、ただひたすら実行し続けてみよう。その持続が、あなたの人生に確かな花を咲かせてくれるはずです。私は、40歳の頃から文庫本1ページ分の形式で、本を読んだり、人の話を聞いたりして、これという言葉を蓄積してきました。それが今では1万点を超え、30冊を超える著作のネタ元となってきました。
2015.02.04
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