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TVの宣伝でよくみかけるが、実年齢を聞くと驚くような若々しい人が最近は増えてきました。実年齢×0.8が現代の高齢者の見た目や健康状態になるそうです。本人の自覚年齢は、歳をとってもそれほど上がらず、実年齢と自覚年齢の差はどんどん開いてくという。身も心も若々しいのはよいことだが、度を超すと歪みも出てきます。若さにこだわり過ぎて、しがみついていないだろうか?若づくりも程々に、年齢よりちょっと若めに見える程度が程良く、好印象も与えます。 老いは自然現象で避けられないのに、若さへのこだわりが強すぎると強いストレスにもなってしまいます。アンチエイジングが大ブームだが、このブームの陰に、アンチエイジング強迫症とでも名づけたいような精神的なトラブルが多発しているのをご存知だろうか。ちょっと高めの化粧品を買ったり、エステに通うぐらいならまだ可愛いが、どんなに高級な化粧品を使っても 、老化を完全に食い止めることは不可能です。すると、今度は整形美容に走り、シワを取ったり、タルミを縫い込んだり、脂肪吸引で贅肉をそぎ取ったり。それでも、しばらくすると老いは再び襲いかかってくる。するとまた整形する。こうしたイタチごっこを演じている様子を客観的に見れば、いささか精神のバランスが崩れていることに気づくはずです。常に「若く見られたい」という気持ちが強いのは,老いを否定的に捉えている証拠だと言えます。老いは、覆い隠くさなければならないような醜いものでしょうか?年齢を重ねなければ出せない味わいもあれば、蓄積された人生経験が無ければ伝わって来ない深く迫ってくる力もあるはずです。「歳は私の財産」と言い切って、堂々と生きていきたいものです。江戸時代には「死光」という言葉があったそうだが、老いて益々輝くような生き方=「老い光」とでもいう生き方をしたいものです。シワがあっても白髪でも、若々しい感性を持ち、生き生きとした表情や身のこなしをしているほうが、ずっと素敵に見えると思います。折角熟成してきた老いなのに、未熟な若さで覆ってしまうなんてもったいない。老いをもっと肯定的にとらえる姿勢を持ちたいものですね。
2015.03.31
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諦めてやったことには可能性の道は拓けない何かを実行するときの成果は、「対策×実行度×やる気」で決まります。最初から諦めていてはやる気が出るはずもないから、実行度も下がるし、途中で「なんの成果も出ない」などと言って投げ出すこともあるでしょう。例えば、対策が100点満点でも、実行度が60%、やる気が50%とすれば、成果は30点にしかなりません。これでは、可能性への道が拓けるはずもありません。禅宗の僧侶が「毎日やることを、きちんとやることが真実の道」と説くが、何かをやり遂げるには、毎日やることを決めて、それを一つひとつ諦めずに実行していくしかありません。間寛平さんが4.2万キロを駆け抜けたが、毎日50キロを休まずに走り続けた結果です。人間の能力は、ちょっと本気を出すと2倍、もうちょっと本気を出すと3倍の仕事ができます。どこまで本気を出して、一歩一歩執念深く続けることができるかです。
2015.03.31
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人は、誰でも年を取ります。時間の流れは誰でも同じだが、年の取り方には個人差があります。齢には、暦年齢、肉体年齢、精神年齢の3つがあるが、とりわけ重視したいのが精神年齢です。数字で表せる暦年齢や、若さや老いを視覚的に捉えられる肉体年齢と違って、精神年齢は目に見えにくいものだからです。人は、目に見えないものに対しては無頓着になりがちです。暦年齢が5歳上がる間に精神年齢が10歳分も老け込んでしまっても、自分ではなかなかそうと気づかないかもしれません。心が元気であれば、体は老化しても、いつまでも笑って過ごしていくことができます。心さえ若ければ、たとえ体が老化しても、いつまでも若々しくいられます。自分のやりたいことがあり、やる気や情熱があれば、年とは関係なく、活発になれるものです。若さとは、年齢で計るものではありません。心で計るものなのです。「青春の詩」ではないが、人間は心さえ若ければ、いつまでも青年でいることができるのです。青春とは人生のある期間を言うのではなく心の様相を言うのだ。優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦を却ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心,こう言う様相を青春と言うのだ・・・。人は信念と共に若く人は自信と共に若く希望ある限り若く 疑惑と共に老ゆる恐怖と共に老ゆる失望と共に老い朽ちる昨日、何気なく「心のアンチエイジング」という言葉が浮かび追求してみることにしました。しばらく、そのための方法を考えてみたいと思います。
2015.03.30
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そぎ落として物事を単純に見る すると本質が見えるある人が「アマは物事を複雑にする。プロこそがシンプルに明快にできる」と言ったが、私たちはとかく物事を単純化するよりも、複雑化するほうが偉く思われ、それをありがたがる傾向があります。その結果、本来は単純な真理をひねくり回して、複雑怪奇にしてしまいがちです。大切なことは、枝葉を切り落とした後の本質をしっかりと見極めることです。松下幸之助は「当たり前のこととは何かを見極めて、愚直なまでに執念深く着実に実践し続ければ必ず成功するはず」と言ったが、その実行となると難しいものです。例えば、経営の原則は「お客様にとって新鮮な価値を絶えず提供し続ける」ことです。そのためには、社員全員に「お客様第一」の心を植え付け、社員満足度を高めてやる気にさせる必要があるが、これを確実に実践し続けるとなると難しく、従って成功者は少ないといえます。
2015.03.30
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「年を取ると言うことが、すでに新しい仕事に就くことなのだ、老後はこれまでとは事情が変わっていく。何かすることを諦めてしまうか、それとも老後と言う新しい人生を自覚を持って生きていくか、そのどちらかを選ぶほかはない」とゲーテは言っているが、あなたはどちらですか?ところで、昨日あるきっかけで「道楽」「楽隠居」という言葉が気になることがありました。試みにネットで「道楽」検索してみたら、食い物屋のホームページばかりです。楽隠居は介護施設が多い。どうも、両方とも今では死語のようです。昔は男の三道楽と言えば、飲む、打つ、買うと相場が決まっていて、この三道楽で道楽息子が家をつぶしたり、会社をつぶして、夜逃げまでした話は昔はよくありました。(どこかの会社の御曹司がいたか)道楽とは、物を持たずに、金を使って飲んだり、博打をしたり、女遊びをするもので、趣味とは少し違う。趣味の幅は広く、物集め、旅行、車、書画骨董、ヨット、スキー、釣り、山登り、写真、パラグライダー、キャンプ、バイク、芸事、近頃ではPCも入るのか分からないがとにかく数え上げると切りが無い。とにかく、趣味にはその趣味の集まり団体などまであります。ここが道楽との違うところだと思う。世間の人はあの人は道楽が過ぎて・・・と言うが、趣味が過ぎて・・・とは言わないのが常である。楽隠居 江戸時代の人は、老後を楽しみに生きていたそうです。家業を譲り渡し、家業を守る責任から解放された後は、「楽隠居」と言う言葉があるように、好きに暮らせる人生の黄金期だったようです。夫が引退すれば、妻もしゃもじを嫁に渡す。つまり、家の中を取り仕切る権限も嫁に譲り、重荷から解放される。夫の引退は、妻にとっても黄金期だったのです。だが、唯遊び暮らすだけではつまらないと考える人も多かったようで、引退後は男も女も“ロクを磨く”ことに熱中したという。ロクとは5感を越えた感で、稽古事などで感性を磨くだけでなく、豊富な人生経験をさらに成熟させて、若い人の知恵袋と言った存在になることも含まれていました。こうしたし姿勢は、現代でも大いに参考に出来ます。「好きに暮らす」「ロクを磨く」の中には、今までできなかった自分の好きなことをすることも含まれていました。江戸時代は、家業を継ぐのが宿命のようなものだったし、女性は嫁ぎ先は親が決めるのが普通で、好きなように生きる人生を選ぶのは難しかった。そうした生き方から解放されるのが、「老入れ」(引退)後の人生だったようです。以前にも紹介したが、退職後から「好きな事」を始め、日本全図を完成した伊能忠敬などは典型です。私には、80才から大ベストセラー「翁草」(江戸時代の随筆)を書いた神沢杜口が見習うべき先輩です。40才で与力の仕事を退職した後(私は65歳で隠居を決意しました)、もの書きに転じて(これは45歳)います。彼のすごいところは、1巻450ページ、全6巻からなる「翁草」の原稿を78才の時火事で失ってしまうが、その後3年間で、再び書き上げてしまったことです。私の780ページの原稿なんて、まだまだ序の口です。彼らは、すさまじい気力と体力!「老いてますます盛んなり」を地で行ったわけです。老後という新たな人生で、本当にしたかった事や前々から興味があった事に取り組んでみようと思うのなら、今からスタートしても遅過ぎるわけではないことを、こうした先達は教えてくれています。体ではなく心のアンチエイジング。これこそが私たちシルバー世代の考えるべきことでは?皆さまへのエールを込めて。
2015.03.30
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人を思うことで強くなる人に思われることで強くなる人間には、2つの働きがあります。勝ちたい、負けたくない、儲けたいという思い。これは煩悩に基づいた人間の本性で、この本能を戦わせるのが「競争」です。だが、人間の心には、もう一つ他人を思いやる働きもあります。また、人間には他人に何かをしてあげたときに感じるほのぼのとした気持ちがあります。そして、チームプレーなどで盛り上がると、普段の能力を超えた思いもしない力を発揮することもあります。人は共に喜ぶ時、喜びは2倍にも3倍にも膨らみます。喜びが人の数だけ増幅され、力と感動を呼び起こします。人間一人の力など知れていて、大きな事を成し遂げることは不可能です。喜んでくれる人のために頑張る、自分を思ってくれる応援団がいる、この戦いは自分一人の孤独の戦いでは無いと思うとき、孤独や苦労は癒され、人間は強くなります。思い、思われる人を持つことです。
2015.03.30
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暇に任せて飛び石連想であれやこれやと思いつくままに書いてきましたが、私のつまらない駄文に長い間お付き合い賜り感謝します。一応、このテーマは今日で終了にしたいと思います。ロラン・バルトは「無知とは知識の欠如ではなく、知識に飽和されているせいで未知のものを受け入れらくなった状態をいう」といったが、いまだに好奇心の塊のような私は、未知のものを受け入れる知性があるようですね??東浩紀さんは「ネット検索さえできればどんな情報でも手に入るように見えるが、検索する言葉自体はリアルな旅だからこそ見つかる」とありましたが、全くその通りで言葉の旅そのものでした。私は興味あるテーマが頭に浮かぶと、まずは概要を知るためにネットで検索するが、一般の人と違うのは(恐らく、多くの方は検索で大体のことが分かればそれで終わりがちだと思う。)、興味のままに飛び石的にネットサーフィンを繰り返すことです。また、同じことを調べるのでも、どんな言葉で検索するかによって、違った情報が手に入ります。そこで興味ある言葉に出会うと、それをまた調べる、という事を繰り返します。すると、物事を点ではなく、面として捉えることができます。今回のテーマも、お母さんを介護されている方の「認知症で母が壊れていく。老いるとは残酷だ。食事や下の世話までしてもらって、何のために生きるのだろう」という言葉に触発され、自分自身も誕生日が来れば後期高齢者と呼ばれる歳になり、「高齢者の生きる目的って何だろう」と思い調べ始めただけのことです。時間はタップリあるので、楽しみながら毎日調べているうちに、A4で100枚を超える原稿になってしまいました。これは、コンサル時代の問題分析の癖でしょうね。会社の問題を分析するときも、「桃太郎と三匹のお供たち」ではないが、まずキジになって上空から全体を眺め(問題を広くとらえる)、次に焦点を絞ったら猿の目になって木や建物の上から詳しく分析します。そして最後は、犬の目で現状を詳しく調べます。オールアラウンド&コンプリートは、研究者やコンサルにとって最も大切なことです。FB友から「太田さんの話題は人とは一味違う」と言われたこともあるが、こんな話題を半ば真面目に、楽しみながら書き綴るのも私くらいのものだと自負しています。それが私の存在価値であり、そんな男が一人くらい居てもいいでしょう。だから、ブログだって、この10年間ずっと読者は2、300人程度だが(このテーマは私にしては結構人気がありました。感謝です。)、私自身は多くの人に読んでもらおうとは思っていないので満足しています。FB友も、原則として知っている人しか承認しません。我が74年間を振りかえると、13人兄弟の末弟だった私は随分と自分勝手に生きてきました。それを許してくれた母親などからは、「口先だけで良くいきてきたな」と言われたこともあるが、今でも「私は私。人は人」と自分らしさを一番大切にしています。例えば、真冬でも素足に雪駄で色町だろうが何処だろうが闊歩しているが(旅先でもそうで、松本で地元の人と間違われ道を聞かれたこともある)、この間の雪の日にも先輩に「今日でも素足か楽しみに来た」と出会った瞬間に言われました。そのとき、「貧乏な家に育ったので足袋も買ってもらえず、子供の頃から素足です。靴を履いていると溶けた雪でグショグショになって大変だが、素足だと濡れてもなんともありませんよ」とうそぶいていました。また、ある時から「人は無一物で生まれてきたのだから、無一物で逝くのが自然」と思うようになり、私が亡くなったときに人生の清算レジスターを押すと「0000」と並ぶのを理想として生きてきました。振り返ってみれば、京都に来てから25年余。夜は362日(年末年始の3日間だけ断食)飲み屋で過ごし(嵯峨野に来てからは花見小路も遠くなり家飲みが多くなったが)、稼いだお金(平均的なサラリーマンよりはかなり多いと思うが)の4割はお酒に(飲む)、後は打つ(競馬など)・遊ぶ(旅など)・家庭に2割位ずつ使い切ったような気がします。まあ、寅さんとは言わないが、随分と無責任で身勝手な人生だったが、家族は別として私には楽しい人生で、日々笑い飛ばしながら、自分らしさを貫き通して生きてきました。「何のために生きる」を少し真面目に考え直してみようと思ったが、これという答も出ずじまいでした。どんなに栄耀栄華を極めようとも、ホームレスで終わろうとも、夢のまた夢で、死ねねば無一物。まあいいじゃないですか、どんな状況にあろうとも、その状況を受け入れて、この歳になれば刹那主義と言われようが関係なし。その日まで、明日を思い煩うことなく、それぞれに「今日1日をいかに楽しく生きるか」だけを考えて生きていこうじゃないですか! ご同輩方高齢者の人生に大切なのは、遊び心だと思います。得にもならないことを、遊び心を発揮して楽しむことです。まあ、道楽心かな?若い人からみたら無惨な姿をさらすこともあるだろうが、そんな老いの姿をも自ら笑い飛ばし、遊び心を持って楽しんでいく心の余裕をもつことです。身体がいかに醜くなろうとも、心だけはタカラジャンヌのように清く、正しく、美しくありたいものです。私は「明日あると思うな今日の勤しみに 明日あれと思え人のゆく道」を心に刻んで生きてきたが、その日まで一日一生の気概を込めて、「いま ここ」を最大限に楽しんで生きていきたいと思います。そんな生き方にご興味がある方の所には、全国何処へでも交通費だけで話の出前をいたします。昨年は横浜まで出かけましたが、「市の決まりで2万円まで」と支払の時に言われ、新幹線代にも足が出たこともありました。でも、「遠回りして信州で遊び、学生時代に我が家に出入りしていた若者達が集まってくれて新橋で宴会し、横浜ハーバーランドの夜景を見ながら早割の超安値で泊まり、東京の娘と昼食もできたからいいや」と割り切り、(愚痴の出そうなのを押さえて)心の持ち方一つで大いに楽しむことができました。得にもならないことを楽しむとは、こういうことではないかと思っています。予算が少なければ、旅気分を味わって夜行バスで行きますので、お気軽に声を掛けて下さい。お待ちしています。なお、ご希望のテーマがございましたらコメントください。長い間 ご拝読ありがとうございました。メインテーマ「1日1話」はまだまだ続きますので宜しく。うまくいけば32冊目出版できるかも?
2015.03.29
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褒めて挑戦する力を生み出す9つ褒めて1つは上を挑戦させる叱られてばかりいては、人が本来持っている前向きな集中力は育ちません。人は、明るさ楽しさを求めます。褒めて乗せた方が、集中力も内発的向上心も増します。七つ褒めて三つ叱るのが基本で、まず褒めたり労りの言葉を掛けて相手の心を開かせ、心を開いたところで少し叱ります。そして、「ここを治したらもっと良くなる。ガンバレよ」「次は、このステップまでいこう。期待してるよ」などと肩をポンと叩いて激励するのがコツです。叱る場合に大切なことは、本来実力がなくてできないことを叱らないことです。能力がなくてできないことは、どうしたらできようになるかを提案、指導します。叱るべきは、本来できるはずのことを注意力不足などでやらない時です。それも、本人が「しまったなあ」と思っているときに直ぐ叱ることです。時間をおいて叱ると、「何をいまさら」と感情的なしこりを残すだけです。
2015.03.29
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親鸞聖人が9歳で出家得度して比叡山に入山したとき、桜が満開の季節に青蓮院で得度を受けることになり、遅く寺に着いたので、得度式は明日にしようとなったときに、親鸞は「明日有りと思う心の仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかわ」と詠んだといわれています。私たちは明日に希望を託しがちだが、明日を待っていると夜中に嵐が吹いて、桜が散ってしまうかもしれない、この世は無常だから、明日があるという保障はどこにもありません。(特に、私たちのような高齢者にとっては) 親鸞聖人は、1173年(承安3)に京都の日野で誕生されたといいます。平安貴族の時代から鎌倉武士の時代へと、権力が移り変わる動乱の時代で、世の中は源平の合戦、大飢饉、疫病蔓延、大地震、火災など勃発してすさまじい乱れようでした。京都市内だけでも、死者が4万人を超えたといわれます。鴨長明はその様子を「方丈記」に、「築地のつら 道のほとりに 飢え死ぬるもののたぐい 数も知らず。 取り捨つるわざも知らねば くさき香世界に満ち満ちて 変わりゆくかたちありさま 目も当てられぬ事多かり。いわんや 河原などには 馬・車の行き交う道だになし」と書いています。在原業平は「つひに行く 道とはかねて 聞きしかど きのふけふとは 思はざりしを」と詠んだが、そいうことになってしまってからでは遅い訳で、今を精一杯生きるしかありません。毎日、明るい気持ちで、今日しか人生は無い(一日一生)、明日は無い(死)かも知れないと常に思いながら、一瞬一瞬を大切にして生きることを心がけたいものです。今日1日の命で明日死ぬと思えば、「まあ、いいか」「仕方がない」と自然に思えてきて、細かい悩みや心配に捕まることはありません。本当に明日に死ぬと考えれば、すべてが許せる気持ちになるはずです。そして、何故か周りの人たちすべてに感謝をしたい気持ちが湧いてきます。人間は死を忘れると、執着が起きてきます。そうすると、争うことも平気でできてしまいます。明日が無いと思い、今日中に夢に向かって何かの一歩を出すことです。今日の中に、夢を見られると最高です。私の住む嵯峨野化野も葬送の地です。今も昔も、自分の命が5分後には尽きるかも知れないのがこの無情の世。明日あると思わずに、今日という1日を、思いっきり楽しんで、今際の際になって悔いの残らないように生きることを心掛けています。そして、美しく笑いつつ死んでいきたいものです。
2015.03.28
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大きな耳 小さな口 優しい目人付き合いや、人を指導する上での大切な心構えです。まずは、仏様のような優しい慈しみの目で相手を見つめ、耳を大きくしてじっくりと相手の考えや行動をよく見聞きして、何を望んでいるのか、何を求めているのかを聞き逃さないように、見逃がさないようにします。次に、何かと文句を言ったり、ガミガミ言ったり、批判や非難したり、すぐに答えを示すのではなく、相手が自ら悩んで考え、教えてほしい、助けて欲しいと言ってくるまでジッと待つことによって自主性を育てます。憤りや怒りを感じる場面に出会っても、「優しい目」で微笑む余裕を持つことです。自己主張や批判ばかりにエネルギーを費やすのではなく、「小さな口」を心がけ、「大きな耳」でこの世の中の動きをキャッチし、自分のとるべき行動、進むべき道を選ぶことです。過去と他人は変えられないが、未来と自分は変えられます。
2015.03.28
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私には長生き願望はないが、高齢化社会になって寝たきりの高齢者も多くなり、「ただ命ながらえるだけでいいのか」、「何のために生きるのか」という命題が頭から離れません。生まれたくて生まれてきた人もいなければ、何時までも生きたいと思っても叶うものではありません。私達にとって一番大切な生死さえもままならないということは、何かしら目にはみえない力が働いて、この世に送り出され、その役割が終われば一切皆苦のこの世からあの世に帰れるのかもしれません。だとしたら、誰も知る由のないその終わりまで、自分の命をどう使うか、その人の生き様こそ、命の意味なのかもしれません。そう考えると、生きる意味を自分自身の中に確かめることが、「命に意味を吹き込む」と言うことになります。そこで、このテーマについて私なりにみてきました。。最澄(天台宗)は、「径寸(けいすん)十枚これ国宝に非ず、一隅を照らすこれ則ち国宝なり」と説かれたが、「径寸」とは金銀財宝のことで、「一隅」とは今あなたのいるその場所のことです。 お金や財宝は国の宝ではなく、家庭や職場など、自分自身が置かれたその場所で、精一杯努力し、明るく光り輝くことのできる人こそ、何物にも変えがたい貴い国の宝である。一人ひとりがそれぞれの持ち場で全力を尽くすことによって、社会全体が明るく照らされていく。自分のためばかりではなく、人の幸せ、人類みんなの幸せ求めていこう。「人の心の痛みがわかる人」「人の喜びが素直に喜べる人」「人に対して優しさや思いやりがもてる心豊かな人」こそが国の宝であるという意味です。何か閉塞感の漂う世の中だが、そういう心豊かな人が集まれば、明るい社会が実現するはずです。天台宗座主山田恵諦師(確か?)は、「与えられた自分の仕事に本命をもって打ち込む人は、必ずその場に無くてはならない人になる。それが一隅を照らす人です。その道を究めようとする心を持って生活しようじゃないですか」と言われたが、惜しむに足る命とはそんな生き方だと思います。難しく考えずに、私は、毎日を「明るく、楽しく、自分らしく」心安らかに生きられれば良いと思っています。その為に道具であろうと、自分なりの生き甲斐に溢れた人生を、これからも歩いていくつもりです。生き甲斐は人様々だが、一般的には友達を沢山持って、外に出る機会を多くすることが生き甲斐を得る上で大切です。人間は、独りでは生きられない、群れる動物ということでしょうね。でも、他に頼った生き甲斐だけではなく、自律した精神的な生き甲斐を持つことも大切だと思います。独り遊びが好きな私は、時には1週間以上も人と話す機会が無いときもあり、時々気を許せる友達と交わるだけで十分で、一人でも十分に生き甲斐を得て人生を楽しんでいます。自分の生きる意味を改めて考えてみたが、自己満足と言われようとも、昔から「たった1羽の小鳥を癒しなば、我が人生に悔い無し」と歌ったディッキンスンの言葉が好きで、これからも「一人でも良いから私の文章で救われる人がいればよい」と著作やブログで駄文を発信し続けていくつもりです。また、若い人たちからの要請があれば、私のキャリアを通して学んだ問題解決力を中心とした「生き抜く力」の講座を開き続けていくつもりです。不遜だと言われることもあるが、ウカウカと馬齢を重ねる願望はなく、ぼけたりしてこれらができなくなったら、花の下で酒を飲みながら笑いつつ自らソッとフェードアウトできればと願っています。もう桜の花も咲き始め、今年は願望がかなえられそうにはありませんが?87歳で亡くなられた知人のご母堂は、食事が採れなくなった後はお酒だけで過ごされ、最後は薄めて差し上げていたとのことです。私も、そうやって花の下で逝けたら最高です。この正月には、家族が集まった席で笑いながらその旨を告げ、「尊厳死宣言書」も渡しておきました。一つの心が壊れるのをとめられるなら わたしの人生だって無駄ではないだろう一つのいのちの痛みを癒せるなら 一つの苦しみを静められるなら一羽の弱ったコマツグミを もう一度、巣に戻してやれるならわたしの人生だって無駄ではないだろう エミリ・ディキンスン
2015.03.27
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生きるとは過ちの連続その過ちをどう乗り越えていくかが人生である失敗するのが人間です。大切なことは、失敗したときにどう対処するかです。例えば、会社で何か失敗したとき、上役に知られると叱られるので、何とか失敗を隠したり自分の力で埋めようとしがちです。そうすると、上司の一言一言が気になってビクビクするようになり、「あの件はどうした」などと聞かれると、嘘をついて誤魔化しては、ドンドン自らを苦しい立場に追いこんでいきます。会社ぐるみの経済犯罪も同じことです。F1レーサーの佐藤琢磨さんは、「多くのレースを通して、これまで数え切れないほど失敗をしてきたが、その経験があるから初めて成功が生まれる。自分自身を冷静に見ることを心がけ、欠けている部分を発見できれば、さらに強く大きくなれる最大のチャンスがあると思うからです。その分析が詳細で具体的であるほど、成長できる切っ掛けが生まれる」と言っています。
2015.03.27
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家族介護の優先順位はここ10年で替わり、要介護者が自分の介護者として期待する順位は「配偶者>娘>息子>嫁」の順になりました。妻が夫を介護している場合、ともに高齢者である“老老介護”が多い。しかも夫のほうは妻以外の他人の介入を非常に嫌がるので、夫が重度の要介護になっても、妻は外部の介護資源を利用せず、自宅に抱え込むケースが多い。夫は妻への依存性が高く、24時間はべることを要求します。妻は外出もままならず、社会的に孤立しやすい。地域に介護資源があるのに、それを利用しにくい状況にあります。 また、夫が介護者の場合は管理志向になりやすいとか。息子が元々シングルであったか離婚したか。またはリストラされ経済的に苦しくなったことで同居率が高まり、息子が老親を介護するケースが徐々に増えています。ところが、この息子たちが親を虐待する加害者のトップを占めています。虐待には「経済的虐待」「身体的虐待」「心理的虐待」の3種類があり、一番多いのは経済的虐待です。これは親の年金に依存した「年金パラサイト」を指し、親が介護保険や医療保険を使うのを嫌がります。寝たきり状態になってケアマネージャーや民生委員が介入しようとしても、「うちは必要ない」と拒絶するケースが多い。ケアマネージャーや民生委員は、「もしおばあちゃんが独りでいたら、年金も介護保険もあるから、いくらでも介入できる。息子が同居しているばっかりに、手も足も出せない」と口を揃えて言う。 身体的虐待については、殴る蹴るの暴行よりも“ネグレクト”、つまり介護放棄が多い。床擦れがひどくなっても放置し、食べ物も与えないケースです。家族の意思決定権が一番大きいため、第三者が介入しにくい。高齢者にとって、パラサイトの息子の存在が人生最大のリスク要因とストレス源になる可能性が高まっています。しかも親が息子に対し、強い責任感を覚えているため、「親として子どもを守らなければ」とか「こんな息子に育てた自分が悪い」といった一心同体意識が親側に強く、被害者意識が希薄なのが特徴です。背景には息子の社会的孤立があり、息子が自分のぶんだけ弁当をコンビニエンスストアで買ってきて、親と襖一枚隔てた部屋で食べるなど、気持ちも身体も親に向かわない事例もあるそうです。 生活能力も介護能力も経済能力もない男性が社会的に孤立してしまう、これが現在の中高年の息子世代が抱えた最大の問題だと上野さんは言い、それなら一層一人暮らしの方が良いというわけです。(注)2014年度京都府 家庭内虐待の実態認定472件(表面化するのはごく一部と思われます) 内女性376人身体的虐待 317件 心理的虐待(大声でどなるなど)216件 ネグレクト(介護や世話の放棄)120件 経済的虐待(貯金や年金の使用)107件加害者 息子201人 夫113人 娘101人
2015.03.26
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大人はもう一つの環境問題子供にとって、総てのそれぞれの大人は、もう一つの環境問題だと考える。どんな大人が身近にいるかで、その子の子供時代は大きく変わる。さらに、その子が大人になっても、子供の頃の体験は、人生の節目にこぼれ種子のように芽吹いてくるはずだ、と落合恵子さんは言う。人間は「見て学ぶ」という側面が強く、周りの大人が与えるものは子供にとって最も身近なモデルになります。ところが、テレビや雑誌で伝えられるのはお金や人間関係のドロドロした部分ばかりだし、政治も汚い罵り知り合いばかりです。今の子供は「だから~しなさい」という躾も常識も教えれていないので、そういうのを見て物事の善悪も分からずに、たとえ悪い行動であっても、格好いいと思うキャラクターの行動をそのまま真似してしまうことが起こります。子供のことを言う前に、大人が子供に与える影響の大きさを自覚することが大切です。
2015.03.26
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高齢者の単身世帯率は年々増え、独り暮らしは決して少数派とはいえない。とくに、独り暮らしの女性高齢者の率は高く、65歳以上の高齢者で配偶者のいない女性の割合は55%、80歳以上になると83%に配偶者がいない。彼女たちはみな、家族から同居を避けられ、介護されない「かわいそうな」人たちなのだろうかと問い掛け、社会学者の上野千鶴子さんは明確に「ノー」と否定する。ベストセラーとなった『おひとりさまの老後』で、「高齢者のひとり暮らしを『お寂しいでしょうに』と言うのは、もうやめにしたほうがよい。とりわけ、本人がそのライフスタイルを選んでいる場合には、まったくよけいなお世話というものだ」と綴っている。 男性より女性の平均寿命のほうが長いため、パートナーが亡くなった場合、必然的に女性の独り暮らしが増えるのはわかります。だが、元々独身ならいざ知らず、子供のいる人は多いわけで、独り暮らしが増えているということは、子世帯との同居を避けているということを意味します。では、高齢者が単身生活を選ぶ理由はなんでしょうか? それは、「双方にとって楽ということは、それだけ家族との同居はストレスを生みやすいということでしょうか?」という問い掛けに、上野さんは「当然でしょう。ストレスの原因は、ほとんどが人間関係から生じたものですから。同居していれば、家族からストレスが生まれます。たしかに、高齢者施設で暮らす人には盆暮れも一時帰宅ができず、ふだんも訪問する人がいなくて寂しい思いをしている人もいますから、家族がいる人は幸せだと思いますよ。だけど、同居して家族介護が始まってしまったら、互いがストレス要因になります。親密だからいい関係が築けるわけではありません。介護に第三者が介入することは、家族が適切な距離をとる上でとても重要なのです。 いまの同居は、ほとんどが中途からのものです。というのは、長男であっても結婚と同時に親と別居し、世帯を分離するのが当たり前になったからです。高齢者の「幸福度調査」によると、中途同居では幸福度が低い傾向があります。ちなみに一番低いのは、“たらいまわし同居”です。しかも子世帯が仕事のある場所を離れられないので、親たちが呼び寄せられての同居です。幸福度が低いのは、それまで住んでいた土地で築いてきた人間関係をすべて失うのみならず、子世帯の「家風」に合わせなければならないことになるからです。」と答える。 家族介護の研究家笹谷春美さんが北海道で家族介護の実情を調査したところ、「娘から母」に対する介護が22.2%。「妻から夫」が19.7%、「嫁から義母」が17.8%。「夫から妻」が17.8%という結果が出ました。決して「嫁から義母(姑)」ばかりが多いわけではありません。それに同居親族ばかりが介護しているわけではありません。娘の介護の場合には、別居介護が少なくありません。驚くのは、男性介護者の増加です。データによると、06年で24%、08年には28%とほとんど3割に達しています。その圧倒的多数が夫です。「介護は女の仕事」という常識は、覆りつつあります。 一番ストレスが高いのは「嫁から義母」の介護で、「やって当たり前」で評価も感謝もされず、遺産の相続権もない。その結果、介護虐待も起き、介護する方にとっても、介護される方にとって最も不幸な選択肢と言えます。笹谷さんの調査によると、家族が介護者を引き受けた理由を上位3つ挙げてもらったところ、一番高いのは「自分しか介護者がいない」だったそうで、選択肢のない介護を業界では「強制労働」というそうです。
2015.03.25
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仕合せとは仕合せだということに気づかない状態だ・今日も一生懸命に打ち込める仕事がある・今日も何事もなく家族全員が元気にそろった・今日も三度の食事にありつけた・今日も楽しく語りあえる友がいる当たり前のように思っているけれども、まことに「有り難し」で、これらが当たり前でなくなったら大変です。例えば、現在は働く人にとっては厳しい時代で、大学を出ても就職先がないとか、サラリーマンでは早期退職などのリストラも盛んだし、商売をしていても倒産が多発しています。自分がそういう立場に立って初めて、仕事のない辛さを味わい、仕事が欲しいと切実に思うはずです。だが、いま仕事に就いている人は、そのことの幸せに気づかず不平ばかりいいがちです。このように、私たちは何でもない幸せに囲まれながら生活し、それを当たり前のこととして意識もせずに生活しています。
2015.03.25
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能力は、努力すれば向上させることができます。努力を続ければ、能力は少しずつ向上していきます。幸せになる能力が向上すれば、それだけ幸せに暮らせるようになります。どこへ行っても、環境が変わっても、自分が変わらない限り、その人の幸不幸はあまり変わらないのではないでしょうか。ですから、「自分を育てていけば、少しずつ幸せになっていける」と信じることです。そのためには、幾つになっても日頃の努力が大切です。自育を愉しむことができるようになれたら最高ですね。その努力は、幸せという成果となって日々感じられるようになるはずです。幸せになろうと思っても幸せになれない人は、今はまだ幸せになる能力が足りないだけです。能力は、努力をすれば向上させることができます。幸せになる能力も同じで、幸せになる能力を向上させるために「自分を育てる」ことを生涯心掛けることです。それには、自省する時間をもち、自分(の感情や考え方や習慣・クセなど)を知り、不幸になる考え方や行動を改め、幸せになれる考え方や行動に変えていくことです。何事も急になることは無理で、「少しずつ」自分を育てる心がけを続ければ、「1年前に比べたら、少しは幸せに暮らせるようになれた」と、きっと思えるようになるはずです。少し見方を変えてみると、こんな研究もあります。米ウィスコンシン大学の研究によれば、他人の幸せを祈り続けるチベット仏教僧侶の多幸感は世界一大きいそうです。他人に感謝し、相手の幸せを祈ることが、個人に精神的な満足感を与え、活力を引き出しているとのことで、利他の心の強い人が世界1幸せを感じる人ということです。昔から高齢者の性格の特徴として、がんこ、利己的、愚痴っぽい、疑い深い、心気的(いらいらしがち)であるなどがあげられています。(60歳以上の人で多く認められる性格としては、保守性、あきらめ、義理堅さ、依存的などで、従来多いとされていた嫉妬、不満、懐疑心などは多くなかったとの調査結果もあるが)私達凡夫は自利の心(自愛=自分ほど可愛い者はいない;我欲=まず自分が特をしたい)に凝り固まっているが、利他の心や他人に対する深い思いやりをもつ習慣を身に付けたいものです。利他の精神の実践となると難しいが、まず笑顔でのにこやかな挨拶と、感謝の言葉を頻繁に使う習慣を身に付けることです。これなら、その気になれば誰にでもできるはずです。例えば、介護してくれるお嫁さんなどににこやかに接し、感謝の言葉を掛けていますか? 私の経験から言えば、笑顔で接するだけで、随分と周りの反応が変わってきますよ。
2015.03.24
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意識が行動を作り行動が習慣を作り習慣が体質を作り体質が運命を作る「運命は心の中にある」とヘルマン・ヘッセは言ったが、自分の運命を変えようと思ったら、自分の心=意識を変えることです。それには、どうしたらいいかです。私たちが「あの人、この頃意識が変わったわね」と言うとき、人の心は見えないので、普段の言葉遣いなり行動の変化をみて判断します。つまり、言葉と行動がポイントです。例えば、「急ぐ」という行動を考えてみると、人間は言葉で考える動物だから、心の中で「急がなければ」という言葉が無言であれ発せられた結果として、歩幅が大きくなり、急ぐ行動を起こすわけです。ですから、行動を変えるには言葉を変えればいいわけです。最初は形だけでいいから、良い言葉、積極的な言葉、プラスの言葉を選んで使い、意識的に行動するようにしていると、そのうち習慣化して心が変わってきます。企業変革の場合も、言葉と評価を変えることです。
2015.03.24
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日本の高齢者の幸福感は低いというが、何故そうなるのだろうか?一般的に、高齢者の幸せ感は「経済・健康・社会関係」に左右されると言うが、高齢者の幸福感と旅行や趣味などを含めた消費支出との関連性は低く、受け取る年金額と幸福感との関連性も低い一方で、保有する金融資産額が多くなるほど幸福感も高まるという研究があります。一つの見方として、年金などの定期的な収入を得ることや、日常の生活費や日常の範囲で行われる旅行や趣味にお金を使うことは、それらが日常的であるがゆえに、お金を受け取る・使う楽しみに慣れてしまい、幸福感につながらないと考えられます。これに対して、金融資産を多額に保有していることは、将来、病気になった場合や介護が必要になった場合などの不測の事態に備えることができ、生活の安定性が増していることで幸福感(安心感)を高めていると言えます。別の考え方としては、お金を持っているということは、(実際に使うかは別として)何か非日常的なことにこれからお金を使うことが可能だということを意味しており、将来にお金を使える楽しみが幸福感の源泉になっている可能性があるといえます。(日本人の特性として、「良い会社に就職するために、良い伴侶を見つけるために、マイホームのために、子供のために、老後のために・・・と、楽しみを先に伸ばす傾向がある。)幸福感は消費支出と関係なかったが、「人生への満足感」では消費支出が多いほど満足感が高まる傾向があった。つまり、幸福感と人生への満足感は異なるものであり、幸福感はより高尚な概念であり、人生への満足感は現実的な概念ということになろうか。高齢者にとった大切なことは、資産や肉体的な健康といった今更変えることが難しい要因から脱皮することです。つまり、お金を使わずに「いま、ここ」の生活を楽しむことを重視した生き方(=精神的健康)に変えることができれば、若い頃よりも幸せになることも十分に可能です。そんな幸せになる能力を向上させていけば、それにつれて幸福度を高めていけるということです。(6,70代の幸せ感と、8,90代の幸せ感は違うとか、百寿者の幸せ感が高いというのは、私的には「自分育てができた結果かな」とも思っています。)だが、その人の心の持ち方が変わらなければ、むしろ老病死などの不安が増える分だけ、老いるにつれて不幸になっていくのではないでしょうか。だから、歳をとるにつれて人間として成長し、幸せになる能力を高めていけるか否かが問われているといえます。つまり、幸福度は「その人の幸せになる能力に比例する」と言ってもいいでしょう。何かをするためには、それを為すための能力が必要です。幸せになるためにも、「幸せになる能力」が必要ということです。「幸せになる能力」は、その人の人間力・人格と言ってもいいかもしれません。それが、その人の幸不幸を大きく左右します。自分を育てることを続けていけば、「生涯少しずつ幸せに暮らせるようになっていける」と信じて生きられるようになれるか否かです。結局、凡夫の四顛倒を脱するために、「自分を育てる=幸せになる能力を向上させる」ことが、着実に幸せになる唯一の方法だということです。生涯右肩上がりに少しずつ幸せになっていけるのが、一番幸せな生き方ではないかと思います。
2015.03.23
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諸法は心に支配され、心を主とし、心より成る。人もし汚れたる心をもって、あるいは語り、あるいは行なわば、苦の彼に従うこと、車輪が牛馬の足に従うごとし。 法句経法句経は、「諸法は心に支配され、心を主とし、心より成る。人もし浄き心を持って、あるいは語り、あるいは行なわば、楽の彼に従うこと、影の形に従いて、離れざるのごとし」と続きます。汚れた心とは「現在に満足していないだけでなく、その現在を憎んでいる」ということで、現在を憎めば、未来はその人に仕返しをして何倍もの苦痛となって返ってくる。浄き心とは「現在に感謝しているだけでなく、その現在に好意を持っている」ということで、現在に好意を持っていれば、未来も好意をもって報い、数倍した幸福となって戻ってくるという教えと無能唱元さんは言う。随煩悩にいう様々な思いは、現実に起こっている事実から起きるのではなく、煩悩から起きる自分の思い(欲望・理想・ありたい姿など)と現実とのギャップに対する反応として創り出される妄想に過ぎません。
2015.03.23
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誰もが避けることのできない老い。身体の機能が衰え、社会とのつながりも薄れていく中、85歳以上の超高齢者たちは、老いをありのままに受け入れ、心の内面を充実させることで、幸福感を高めていることが、100歳以上の百寿者を対象とした調査などからわかってきた。「老年的超越」と呼ばれ、注目を集めています。聖路加国際メディカルセンター理事長の日野原重明医学博士は103歳で現役、「100歳は当たり前。最低限度です」と言って胸を張る。1993年にはわずか153人だった100歳以上の百寿者は、98年には1万人を突破し、2014年敬老の日には5万8820人に達している。車イスの生活が多い百寿者は、老いや身体的衰え、死に対しどう向き合っているのか?最近の研究では、百寿者の多くが多幸感を感じる『老年的超越』と呼ばれる豊かな精神世界を生きていることが明らかになってきた。「100歳は当たり前」と日野原博士が語るように、この豊かな精神世界に入ってから迎えるのが人間本来の寿命なのかもしれない?大阪大学人間科学部の権藤恭之准教授が注目したのは、1年に3千~4千人のペースで増加を続ける百寿者の意識だ。どのような心理状況で生活し、老いや死に対する不安とどう向き合っているのか。15年前から70代~100歳以上の高齢者1500人以上から聞き取り調査を行い、「今の生活に不満はないか」など75項目の質問から老年期の幸福感の変化を探った。そこから分かってきたことは、80歳を境にして、身体機能の衰えが目立つ半面、今の生活を積極的に受け入れるポジティブの感情が芽生え強くなっていく傾向があったことだ。なかでも、多くの百寿者がありとあらゆることに幸せを感じる多幸感「老年的超越」を持っていることが分かった。・家族と離れ、東京都内の老人ホームで暮らす110歳の日高さんは、3年前から車イスの生活で週に1度しか外出できなくなった今も、ふさぎ込むこともなく「毎日幸せを感じている」という。「東京五輪を楽しみにしているのよね、行きたいし、出ます」という元気の良い答えが返ってくる。・3か月前まで散歩を日課にしていた105歳の足立さんは、足腰の痛みで一人での外出が難しくなり、ベッドで寝て過ごすことが多くなったが、多幸感を感じている一人だ。「戻るとしたら何歳ぐらいに戻りたいですか」という質問にも、「現在のままでいいです」という。「自分の生活に満足していますか」にも「ハイ、大満足。今が大変幸せです」と答える。 15年前に妻を亡くしてから近所付き合いもなくなったが、必ずしも孤立感を深めているわけではないという。「周りの方、事物の一切のもののおかげを受けていると思います。このように生きさせてもらって不思議ですなあ。感謝感激です」と語る。・昨年6月、確かな記録が残る男性としては、史上最高齢の116歳で亡くなった京都府京丹後市の木村次郎右衛門さんは、「自然のままに生きる。自然が一番。思い出したり、忘れたりの繰り返しで、今は忘れることが多くなりました。年はとりたくないが、それも自然のなすこと」と、生前、長寿の秘訣として「自然体」を強調していた。「ありがとう。みなさんのお陰で呼吸を続けています」と、ユーモアと周囲への感謝の言葉を忘れなかった。これが老年的超越と呼ばれるものなのだろう。聞き取り調査の結果、百寿者は住んでいる場所や家族関係に関わりなく、同じような感情を抱く傾向があるという。慶應大学百寿総合研究センターの広瀬信義医師は、「長生きをされている方は幸せな方が多いのは確かです。ただ、私がお会いした105歳の北海道の方は、施設の方が非常に良いケアをされていたんですが、『やることがなくて、一日中寝ていてとても不幸だ』と話されていた。そういう例もありますが、全体として見ると幸福だと言われる人が多いですね。その理由として、私なりに考えると、達成感があるのではないかと思います。主観的幸福感を考える前に、その方がちゃんとした環境で生活されているかが非常に大切だと思います。私がお会いしたなかで、独りぼっちで生活されている方がいましたが、『幸せですか』と聞いたら『まあまあです』と言われた。しかし、端からはあまり良いようには見えません。ある程度の環境が整ったところで幸せかどうかを調べる必要がありますね」と語る。東京都健康長寿医療センター研究所の増井幸恵さんは、日本人の老年的超越について調べ、・生と死を近く感じる・先祖とのつながりを感じる・自然体で生きる・周囲へ感謝の気持ちを持つ・内面への意識が高まる――などの特徴を明らかにした。27の質問で70~90歳代の2200人の老年的超越の度合いを調べたところ、70、80、90歳代と年齢を重ねた人ほど高くなることがわかった。本人の健康状態はあまり関係なく、女性の方が老年的超越の度合いが高かった。「一人でいることの良い面に注目できる」「見えを張らない」「無理をしない」という傾向のある人ほど、身体の機能が低下しても幸福感を高く保てる傾向があった。増井さんは「元々の性格もあるが、『老年的超越』は高齢になると誰もが経験する心の変化で、老いを受け止める準備なのではないか」と推測する。高齢者の幸福感については、「健康状態を保ち、社会貢献的な活動を維持することが幸せな老いにつながる」という考えが欧米を中心に主流だった。しかし、増井さんは「元気な60~70歳代と80~90歳代では、幸せが違うのではないか」と指摘。(第1次の老いを乗り越えればご褒美が?)「老老介護が増えているが、90歳代の親に『生涯現役』の価値観を押しつけて、頑張らせ過ぎないことが大切。一人で思索できる時間を作ってあげることも必要」と助言する。
2015.03.22
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自分の心中に幸福を求めなさい幸せの泉は外ではなく内にある トルストイカール・ブッセの「山のあなた」の詩ではないが、私たちは幸せ(=心の充足)は遠い山の彼方、つまり自分の外にあるものと思って求め続けてきました。でも、トルストイが書いているように、「心の欠乏感はものでは埋まらない」ということに早く気づくことが大切です。経済が発展すれば物が豊かになり、そのような物質的な繁栄がおのずと幸せをもたらすと私たちは長い間考えてきました。しかし、それは単なる錯覚にすぎません。恒常ドル価格で測ると、1950年以降に世界の人々が消費した財とサービスは、それ以前に消費したものの総計に匹敵するというが、シカゴ大学が1950年代から定期的に行っている調査によると、「大変幸福である」と回答する人の割合は、ずっと人口の3分の1前後で変化していません。結局、本当の幸せとは、何かを手に入れることではなく、いまに満足する心の中にあります。
2015.03.22
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高齢者にとっての幸せとは、上座仏教で述べた凡夫の四転倒に早く気づくことだと思っています。この世は「無情・無楽・無浄・無我」であるのに、私たち凡夫は無知なために、この世を「常・楽・浄・我」と生まれながらに真逆に錯覚し(凡夫の四転倒)、迷いと苦しみの世界に生きています。この凡夫の四転倒から脱することが、幸せへの道だと思います。ある意味では、老齢者は欲も少なくなり(健康・若返り・長生き願望は別にして)、それがし易い境遇にあると思います。「常」 この世に存在する一切のものは、「河の流れは絶えずして元の水にあらず」ではないが、常に移ろい変化して一瞬たりとも休むことが無いのに、その移ろい変わる流れを凡夫は「常に変わらない。常に変化しない」と思っています。我が身も、やがては病み、歳を取り、死んでいく身です。そんな移り変わる心身である自分の本質を忘れて(あるいは無視して)、いつまでも若々しくありたい、生きていたいと願ってとアンチエイジングや不老長寿に精を出しています。この世は無常であると悟って、若いときや良いときと比べずに、「いま、ここ」にある状況を受け入れ、それに満足することが、貴方の心を平安にし、幸せな気分にしてくれます。「楽」 私たちの生活しているこの迷いと苦しみの世界においては、一時の間は楽しいと思った事も、少しすると苦しみに変化してしまうのに、それが理解できずに、欲望の赴くまま「楽」を追い求めています。特別なことに歓びを見つけるのではなく、例えば春先になって道端でオオイヌノフグリの花を見つけたら「あら 春が来たのね」などと何気ないことの中に歓びを見つけ、「いま」目の前にあることを楽しくする工夫をすることです。食にしても、見栄としか思えないグルメを卒業して、昔からのありふれた我が家の家庭料理を楽しめばいいのです。私など味覚が衰えてきて、銘酒には無縁で、1升850円の純米酒で十分に楽しめます。アテも、同じものを2,3日食べても美味しくいただけます。老いのありがたさです。「浄」 本当の自分を知らないために、心身共に様々な汚れ(自分勝手な思考や肉体的な歪み)をもっているのに、そのことに気づかず外見上の美、清らかさに満足しようとする。それが「浄」です。この真実を知らない為に、自分自身の努力で頑張り、人間らしく立派に清らかな行為を行い生きていると思い込み、人を批判もしがちです。そんなことはやめて、自分は自分、人は人と、人を批判する心を捨ててありのままを受け入れるようにすれば、この世を気楽に生きていくことができます。「我」 私たちは、この迷いと苦しみの永遠の輪廻の世界において、「生きている仮の自分自身」を真実の自分自身だと思い、変なプライドを抱いて強情を張り、我がまま勝手に生きています。私たちの肉体を分解していけば、細胞→分子→原子→・・・?と、最後はわからないものになります。また、心も「これが心だ」と呼べる実体があるわけではありません。このように、私達が「我=私」と呼べるようなものはどこにも実在してはいないのです。にもかかわらず、この心身を「我」だと錯覚していること。これが最後の「我」です。人に対する変なプライドや、驕りや我が儘な心を捨てることです。そうすれば、幸せな気分になれます。凡夫の四転倒を悟り実践することは、言うは易く、行うとなると難しいことだが、あの世に逝く前に少しは近づきたいものと願っています。
2015.03.21
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人は自分の器以上のものには出会わない人は、その人の器以上の人には出会わない、また器以上の出来事には出会わないといわれます。言い換えれば、自分の器を大きくして出会いのレベルを上げない限り、今以上のことは我が身に起こり得ないということです。器を大きくするにはどうするかだが、エルセラーン化粧品の石橋勝さんは「肉親、隣人、同僚を愛することから出発し、さらに日本や世界の人がどうすれば平和に安全に暮らしていけるか、そのためには自分は何をなすべきか、ということを自分の仕事を通して実践していくのが、器を大きくすることにつながっていきます」と言う。日常の営みの中で、自らの煩悩を満たすために自愛の行動がでるのは避けられないが、誰でも心の片隅には「人の役に立ちたい」「人に喜んでもらいたい」という無垢な心があるはずです。まずは、ちょっと相手の側に軸足を置いて対応してみることから始めたいものです。
2015.03.21
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また、多くの老人と接してきて、老いを楽しく過ごす上で、その人がユーモアのセンスをもっているかどうかがかなり重要であると思うとも言う。ユーモア(Humor)の語源はラテン語のHumores(体液)だそうだが、人間が生きていくためにどうしても必要な血液やリンパ液など体液がユーモアの語源であることは興味深い。ユーモアや笑いがなければ、恐らく人間は人間らしく生きていけないであろう。デーケン上智大学名誉教授は、取り敢えず「にもかかわらず笑う」こと言う。「老いているにもかかわらず笑う」ことができれば、「老いもまた楽し」という境地になりやすいのではないでしょうか?有名な精神医学者V.フランクルは、『夜と霧』の中で「ユーモアが人を生かす」と書いています。強制収容所での耐え難い苦しみに耐えられず、人々が次々と死んでいく中で、「日々祈る人、音楽を愛する人、ユーモアのセンスを持っている人」が生きる力を得て生き残ったということです。フランクルは、ユーモアの効用として、「自己距離化」という概念を述べています。一見、絶望的で逃れる道がみえないような情況においても、ユーモアはその事態と自分との間に距離を置かせる働きをする。ユーモアによって、自分自身や自分の人生を異なった視点から観察できる柔軟性や客観性が生まれると彼は言う。祈り、音楽、ユーモアは、他の動物には存在しない人間特有のものです。日本には、ユーモアセンスを磨くのにピッタリの川柳があります。ある92歳と87歳の老夫婦に夕食に招待され、「長生きの秘訣は何ですか?」と尋ねると、「息をするのを忘れないことです」との答えに思わず大笑い。少し固めの肉を歯のない歯茎でかんでいるのを見て、「すごいですね」と言うと、「歯はないのですが長年歯茎でかんでいると歯茎が丈夫になって、肉は十分かめますよ」との答え。「入れ歯はどんな時にするのですか?」と尋ねると、「それは歯を磨くときですよ」にまた大笑い。ニコニコと聴いていた奥さまが、「この前、入れ歯を題材にしてつくった川柳が新聞に載りましてね」と言う。「どんな句ですか?」と聞くと、「合わぬはず ジイチャン それは私の歯」にまた大笑い。とても苦労して3人の子どもを育て、年老いて足腰が弱る中で夫は野菜作りに、妻は川柳づくりに挑戦しているお二人は、ユーモアで老いを横へ吹き飛ばしながら楽しく生きてみえます。お二人の姿をみて、こんな老いを迎えたいと思いました。老いをどのように生きていくかは、老いのとらえ方によって、大きく変わってきます。喪失期ととらえて元気なく過ごすか、挑戦期ととらえて元気に過ごすかは、一人ひとりの心の構えによって決まります。それは、幸せ感にも通じることです。幸せの善の循環を廻して人生を楽しむか、誤った幸せの悪循環に陥るかも、結局は心の持ち方一つです。
2015.03.20
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思うことが総ての始まり自分がなりたいこと、ありたいこと、そうあって欲しいこと、全ては心で思うことから現実となります。人間は想念の動物で、思うことなしには何事も実現しません。映画監督の龍村仁さんは撮影のために大草原で象にであったり、大海原でイルカに出会ったりした経験から、「心で強く思ったことは、種の違いをこえ、言葉を超え、時を超え、空間を超えて伝わっていく。いま私たちは、この心で思うということが、現実を創っていくうえでどれほど大切なことか、と言うことを真剣に考え直す時代にきている。自分自身の未来も、地球全体の未来も、それで決まっていくかもしれない」と言っています。お釈迦様も「人生は思った通りになる」と言ったが、何事もまず思わなければ行動は起きません。「できない」と思えば、行動も起きず何事も成就しません。人間は何事も、自分が自分の心に与えた暗示の通りになります。
2015.03.20
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老いを自覚したとき、それをどうとらえるかには個人差があるが、社会学者ライチャードの「老人の適応パタン」を参考に次の6つに類型してみた。1.円熟型 人生体験生かして、自分の果たすべき役割を発見し、それを遂行していくタイプ。2.自適型 周囲と一定の距離を置きつつ、生き甲斐を見つけ出して満足感を抱いて生活するタイプ。3.逃避型 老いた自分を守り、自分をおびやかすものから遠ざかるタイプ。4.憤慨型 生活上の不満や悩みが多く、そのはけ口を自分以外のものに向けるタイプ。5.自己嫌悪型 不満や悩みが多い自分に嫌悪をいだくタイプ。6.感謝型 自分のこれまでの人生と現在に感謝できる生き方のタイプ。いずれにしても、人は生きてきたように老いていきます。例えば、周りに不平をいいながら生きてきた人は、不平をいいながら老いていきます。個人的には、感謝型の老い方をしたいものです。(現実は、自適型に多少円熟型をプラスしたようなものかな?)老いを楽しむためには、老いをどうとらえるかという心の持ち方が重要です。老いとともに視力、聴力、脚力はじめ全体的な体力が衰えてくるのは致し方ないが、残っている機能よりも衰えた機能に目がいくのが常です。例えば、まだ目は大丈夫だが、耳が遠くなったと嘆き、何事にも消極的になりがちです。しかし、前向きに生きている高齢者は、残っている機能の方に目がいきます。耳は遠くなったが、目はよく見えるのでありがたいと感謝できる。目は良い、耳は悪いという情況は同じでも、それをどうとらえるかの態度によって生き方が変わってきます。物事のとらえ方は、病気の治り方にも影響を与えます。例えば、老人のうつ病には不眠と食欲不振はつきものです。投薬とカウンセリングで症状が改善し始めたとき、「眠れるようにはなりましたが、まだ食欲が出ません」と言う人と、「まだ食欲は出ないのですが、眠れるようになりました」と言う人に分かれる。情況は同じでも、否定的な言い方で終わる前者はなかなか良くならないが、肯定的な言い方で終わる後者はどんどん良くなるという。医学の領域では、心の持ち方(精神)が免疫系に関連することが分かってきたそうです。前向きで肯定的な生き方をしていると免疫機能が高まるが、種々の心労や悲哀、抑うつ状態では風邪を引きやすく、様々な感染症、アレルギー疾患、さらに癌がんの発生率が増加するとのことです。心の持ち方や考え方は、老い方にも影響するそうです。先日107歳で亡くなられた吉行あぐりさんは、あきれるほどの楽天家だったと長女の吉行和子さんは言ってみえました。年とともに身体の機能が衰えるのを避けることはできないが、その衰えをどう受けとめるかです。衰えた機能を嘆き悲しむのではなくて、残っている機能を最大限に活用して再調整するなら、老いを創造的に楽しく生きることができます。人生の楽しみ方は様々で、スポーツ、登山、園芸や農業、神社巡りやグルメの旅、音楽、絵画、読書、和歌、俳句、川柳、刺繍・・・枚挙にいとまがありません。ホスピスで約2500人のがん末期の患者さんを看取みとった柏木医師は、次のように語る。体力の衰えとともに楽しみにしていたことができなくなるが、回診の終わりに「今、何が一番したいですか?」と尋ねると、歩くことができなくなったある患者さんが「もう一度富士山に登りたい」と言った。元気な頃はかなりの回数、富士登山を楽しんだ人であった。老いの特徴の一つは体力の衰えで、体力が必要な楽しみ方しか身につけていない場合は、老いてからの人生を楽しむことが難しくなる。その点、体が弱ってもあまり影響を受けない趣味や楽しみをもっている老人は強い。読書、音楽鑑賞、俳句、川柳等は足腰が弱ってベッドで過ごす時間が長くなっても続けることができる・・・
2015.03.19
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人は関心があることには沢山の言葉を寄せる。例えば、「米」はさまざまに名を変える。田に植えられている状態では「稲」刈り取られると「籾」脱穀されると「米」食べるときには「飯」となる。聖書には「始めに言葉ありき」とあり、「私の言葉の限界が、私の世界の限界である」と哲学者ヴィット・ゲシュタインは言ったが、言葉は非常に大切なものです。人に合わせて分かり易く話すには、一つのことを何通りの言葉で話せるかが問われます。語彙が少なければ、相手に合わせて話すことは不可能です。また、知恵とは情報の分解と再組立だから、組み合わせ数は情報の量に左右されます。つまり、新鮮なアイデアは語彙を豊かにすることから生まれます。ほんの少しの違いでも表現できる語彙があれば、そこから思考が発展していきます。たった1%でも違った表現ができれば、それを100回繰り返せば全く新しいものになります。人間は関心のあることには、少しの違いをも表現するための語彙が自然と増えてくるので、何事にも好奇心を持つことです。読書も、語彙を増やすのに有効です。
2015.03.18
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第1仮説:生涯続けられる仕事は幸せな老い方を約束する平均寿命が40歳に満たない戦国~江戸時代(約39歳)に、驚異的な生命力を備えた集団が存在していた。それは、戦や決闘に命をかけ己の武術を磨くことのみに明け暮れていた武芸者、剣豪です。飯篠長威斎102 歳:伊藤一刀斎 94 歳:愛洲移香斎 87 歳:塚原卜伝 83 歳 柳生宗厳 80 歳 :柳生宗矩 76 歳 :宮本武蔵 60 歳 ・生涯現役であるためのパタン1:好奇心が旺盛であること 基本的に何でも引き受けることで天職に巡り会い、とことん突き詰めていくことで現役を続ける。・生涯現役であるためのパタン2:ひたむきな向上心があること 決して現状に満足せず、常に成長する努力をしているので、まったくヒマがない。・生涯現役であるためのパタン3:くじけない強い心をもっていること どんなに失敗し逆境にあっても、目の前のことを楽しんでいるのでくじけない。この3つのパタンにより一生続けられる仕事を見つけた先人たちは、例外なく幸せに生きていると言えます。つまり、誰もが思わず敬意を表したくなるような「老い方」に必要なものは仕事なのです。注)被災地の生き甲斐プロジェクトの内容を見てみると、就労支援・手仕事(手芸など)訓練と販売・伝統文化の継承など、「やるべきこと」があるということを作り出すことが眼目になっています。第2 仮説:第2の人生のための隠居もまた幸せな「老い方」に通じる江戸時代では、ほとんどの人がずっと仕事を続けていたわけではなく、40代半ばから50歳頃に現役から引退し、隠居してからもう一仕事をし、老後を楽しんでいたそうです。伊能忠敬は50歳で家業を息子に譲ると、それまで抑えていた好きな天文学の研究を始め、55才のとき日本地図制作のために日本全国を歩測する旅に出発しました。そして、精巧な日本地図を完成させたのは実に15年後の70歳の時でした。 神沢杜口は、40歳で与力職を娘婿に譲り、娘一家と暮らさず都会派老人として京都に住み念願の執筆活動に入っています。杜口は執筆中の原稿の大半を78歳のときに大火で消失させるが、再び筆をとり3年半後にライフワークとなる大著「翁草」を完成させた。年齢80歳を超えるころに、年間900ページずつ書き上げている計算になります。このように江戸時代の年寄りはかなり精力的で、隠居後は子供に依存せずに第2の人生で自己実現をはたしていたと言えるのです。マズローの法則によれば、現代の年寄りをはるかに凌駕した段階に達しているのではないでしょうか。隠居しても、第2の仕事というべきものを新たに持つことが大切。
2015.03.17
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人生という名の旅を続けるうちに人は道に迷ったり、道を誤ったりする。でも、帰りたくても帰れない過去。山本有三著『路傍の石』の一節に、「たった一人しかない自分を、たった一度しかない人生を、本当に生かされなかったら、人間に生まれてきた甲斐がないじゃないか」とあるように、人生はたった一回しかない旅です。しかも、テレビゲームのようにリセットもできない一回だけの本番だけの旅なのに、「いかに生き、いかに死すべきか」に心を傾けることもなくうかうかと老い、「自分の人生は何だったのだろう。生き甲斐を見つけることもできずに人生を終わるのか」と嘆く人は多いものです。「私は、よくこんなことを考えます。もし、生活をもう一度始めから、しかもちゃんと意識してやり直せたらね。すでに費やしてしまった生活はいわば下書きで、もう一つほかに清書があるとしたらとね」とチェーホフ著『三人姉妹』にあるように、やり直しのきかない『たった一回きりの旅』に、後悔だけは残したくないものです。
2015.03.17
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高齢者はどんなときに生き甲斐を感じているのでしょうか。簡単に整理してみました。1.好きなことをして楽しんでいるとき 2.人と交流しているとき 3.やるべき事があるとき 4.人に役立っていると感じるとき(ボランティアなど含む) これまで、高齢者に生き甲斐を与えるものは、趣味やスポーツ、学習などの体験価値や人との交流(家族・友人・知人)とされてきたが、ここにきて大きな変化として現れたのは「社会参加」です。これからの高齢者は、働く・学ぶ・遊ぶなど総ての分野に「社会性」を求めるようになると言われています。若い人たちの中にも、労働を単なる生活の手段としてはとらえず、社会的価値を求め、遊びも社会に向かって自己実現できるものを求める傾向が高まっています。実際、高齢者のボランティア活動への参加意欲は高く(内閣府H24調査)、60才以上の人で「この1年で地域活動やボランティア活動に参加した人」は47%(男性51.5% 女性43%)、ボランティア活動スタッフの中で60歳以上が最も多いという団体が56%を占めています。内容的には、自治会などの役員や美化、歴史などの伝道、交通安全や子供の見守り、環境保全、災害支援など身近なものが多いが、最近ではとくに高齢者による福祉関連のボランティア(例えば、高齢者等との話し相手、外出の手伝い、子育て支援など)への関心が高まっています。最澄も「一隅を照らすこれ則ち国宝なり」と言ったが、どんなことでもよいから、その場に必要とされる存在になることが、老若男女にかかわらず最大の生き甲斐になると思います。ボランティア自身の健康や生き甲斐づくりにも大いに役立ち、(米での調査)1年に200時間以上ボランティアなどの活動をしている高齢者は、高血圧症(脳卒中や心臓病などの主な原因)になるリスクが40%低いことが判明した。カーネギー・メロン大学のシェルドン・スニード教授は、その理由について、「年をとって仕事を退職したり、子どもが成長して家を出て行ったりしてしまうと、自然と社会とのつながりや交流が少なくなってしまう。他人との関わりが健康に好影響をもたらすことはこれまでの研究でも明らかになっており、ボランティア活動などに参加して社会との交流を復活させることが、健康的に年を重ねるのに役立っているのだろう」と語っている。現在生き甲斐になっていることを始めた時期は、退職してから(男39.5% 女24.4%)、子供が自立してから(男10.5% 女20.5%)、子育てが終わってから(男6.6% 女20.2%)が続き、学生時代や就職、結婚、出産などを機会に始めたことも(男31.9% 女22.7%)目立ちます。始めた切っ掛けは、「個人での意志」で始めた人は3割程度で、「友人や知人の薦め」や「自治会や町内会などの誘い」など他からの働きかけが7割近くを占めます。若いときから一生打ち込める趣味などを持つか、友人や知人からの誘いに積極的に乗ることが生き甲斐を得るには大切といえそうです。
2015.03.17
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人は死ぬことを運命づけられているだからこそ生きている間に何を成すべきかが大事生きる上において、誰にも3つの選択肢があります。1.食って寝て、子孫を作るだけの犬猫並の生き方。2.この世は何事も金次第と、金儲けに掛ける生き方。 3.この世は自己実現を図る場と考え、何かを成し遂げたいという目的を持って夢見ながら生きる生き方。何もせずに好き勝手に生きていくのも短い間は楽しいかもしれないが、一生となると辛いものです。それは、定年退職した人を見ればよく分かります。自分の命を輝かせるには、まず自らの役割とそのために与えられている才能の芽を知る(知命)必要があります。そして、与えられているのはあくまでも可能性の芽にすぎないから、それを修練を通して健全に育てる必要があります。そうやって努力していると、その場になくてはならない一隅を照らす人になり、生き甲斐や働き甲斐を感じることができます。その結果としてお金も稼げることになります。
2015.03.17
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一般的に見ると、年齢が進むにつれて生き甲斐を感じる人が少なくなってきます。高齢者の生き甲斐の有無は、健康状態の良し悪し(生き甲斐を十分に感じている人の割合 健康64.6%;健康状態良くない17.9%)、近所付合いの程度や親しい友人や仲間の有無(沢山あり66.3%;少ない25.7%;いない12.3%)、地域活動への参加経験の有無(参加経験者70.7%;不参加者29.3%)といったものと密接に関連し、近所付合いが深いほど、親しい友人や仲間が多いほど、地域活動への参加経験が多いほど生き甲斐(喜びや楽しみ)」を感じています。つまり、外部との繋がりの有無が生き甲斐を左右する要素として大きく、家に籠もらないようにすることが大切なことが分かります。従って、健康であることが大切とも言えます。「生きがい研究会」で厚生年金受給対象の勤労者3050人に、「生きがい」を表す語句を提示し、自分の捉え方に最も近いものを2つ選んでもらった結果を、年代別に見ると、・64歳までは「生きる喜びや満足感」「生活の活力やはりあい」が1,2位を占める。・65歳以上の男性高齢者になると「他人や社会の役に立つ」が第2位に、女性では「心の安らぎや気晴らし」が第1位となり、他の年齢層とは異なる結果になった。◆高齢者の生き甲斐と家族の関係・第一段階 健康で夫婦揃っている間は、仕事や趣味、友人との交流が生き甲斐で、この段階では家族は生き甲斐としてはあまり意識されない。・第二の段階 仕事を引退し、活動範囲も少し狭くなると、夫婦が生き甲斐の大切な要素となるが(特に男性は)、子どもは共通の関心事ではあるが生き甲斐としてはあまり意識されない。・第三段階 配偶者を失うと非常な衝撃を受け、ここで子どものサポートによってかろうじて生き甲斐の喪失を補うと思われます。生き甲斐には、一つを失うと他のことに生き甲斐を見出して補っていく補完性があるが、期待していたのに裏切られると生き甲斐喪失につながり易いといいます。様々な喪失を経験しやすい高齢期には、他に期待せずに生き甲斐を感じる「心の持ちよう」も大切になってきます。
2015.03.16
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無闇に激しい言葉を用いると言葉が相手の心の内部へ入り込む前に爆発してしまう言葉は相手の心の内部へ静かに入っていってから爆発を遂げた方がよい 清水幾太郎ミュニケーションにもエコーの法則が働き、激しい言葉を使えば相手も激しい言葉を返してきます。それでは、正当な主張でもまともに聞いてもらえません。1.真っ向から自分の意見だけが正しいと言い張らない自分は一点の疑いもなく正しいという意味の主張をしすぎると、相手は自分への挑戦と受け取りかねず、何が正しいかよりも感情論に陥りがちです。激しい論争の中では、情報は滅多に伝わらないことを知っておくと良い。2.自分にとって重要なこと、成りゆきで言ったどうでも良いことを区別して、全ての論点に派手な火花を散らすのは愚の骨頂で、重要なこと以外では引くことです。3.相手の気持ちを考えて、相手志向の前置きを工夫すると聞く気になります。4.ビジュアルに易しく話すだけでなく、お得情報や面白雑学を交えて「面白そうだ」と思わせ興味を持たせる。
2015.03.16
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何が生き甲斐になるかは、その人次第で明確な答えもないが、「もう年だから・・・」などと思わず、「人生はこれから!」と長期的な計画を立てて成すような大きな目的も良いと思います。例えば、「英語をマスターしてアメリカに行く!」、「最高齢富士山登頂を目指す!」などと、叶う、叶わないではなく、目的達成のために毎日トレーニングしたり、勉強したり、一生懸命になれるなにかを持っことが大切だと言えます。毎日を明るく充実した生活にすることで、認知症予防の一環になります。「素晴らしい人生だ」、そう感じて生きていくことが人間には必要なのです。 「健康・経済生活・心=生き甲斐」は高齢者の不安の3Kと言われるなかで、心の問題はとかく見落とされがちです。在宅高齢者の8割は自立した元気高齢者であるともいわれるが、高齢期における家庭内役割の喪失や退職に代表される社会的役割の喪失は、高齢者の存在感・生き甲斐感の喪失につながります。それが、ひいては「生きていても面白くないし、死んでしまいたい」となりがちです。健康と生き甲斐観を感じる人の割合でも分かるように、健康は生き甲斐の支え手です。逆に、何か目標を持って生き甲斐のある生活を送ることは、健康にとって非常に良いことともいえます。「健康だから何かが出来る」ということがよく言われるが、逆に「何かをしているから健康になる」ということも言えると思います。その意味で、生きがいと健康は車の両輪の関係にあるともいえます。少子高齢化や経済社会の変化により、社会の仕組みは急速に変化してきており、生活を取り巻く環境はますます厳しくなってきています。例えば、老人医療費の伸びは国民所得の伸びを大きく上わまっており、その結果各健保は財政的に困難となってきて、健保の自己負担額が2割から3割に増加したように、家計に占める医療費の割合は増えてきています。早期発見・早期治療にとどまらず、予防に重点を置いた時代に来ており、健康管理が重視されています。高齢になるにつれて、健康診断で血圧が高いとか、軽い糖尿であるとか、胃潰瘍が見つかったと言う具合に、どこにも異常がないという人のほうがむしろ少ないと思います。しかし、病気の一つや二つあっても普通の人と同じように、あるいはそれ以上に立派に活動している人は沢山います。無病息災から一病息災へ健康の考え方が変わってきたといわれるが、病気とうまく付き合うことが重要となってきます。シニアにおける健康度は、世界保健機構が提唱するように「家庭や社会における生活機能の自立度」だと考えます。すなわち、人の厄介にならない・介護を受けないで自立した生活を送れることが必要です。「ピンピンコロリ」でいきたいですね。平均寿命ではなく、健康寿命(平均寿命から寝たきりなどの日常生活を大きく損ねる病気・怪我などの期間を差し引いた年数を健康寿命という)を延ばすことが重要です。なお、健康とは身体が丈夫でも精神的に不健康では健康とは言えません。世界保健機構は「健康とはフィジカル(身体的)、メディカル(医学的)、メンタル(精神的)、スピリチュアル(生き甲斐、前向き姿勢)が良好な状態を意味し、単なる病気や障害でないことを意味するものでないとしています。
2015.03.15
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老いるのも悪くない長い人生という過去の蓄積が今のこの一時に光を放つ「私から年齢を奪わないで下さい。これは、私が年月をかけてつくった私の財産なのだから」と言った人がいるが、女性方には年齢を気にする人が多い。だが、今までがどんな生き方であったとしても、「年齢とは私の生きた証であり誇るべき財産である」と私は思います。折口信夫は、老人をその昔「聖」と呼んだのは、昔から伝わっていた耕作や祭りの日などを知っていて、それを伝える「日知り」だったからと言う。河合隼雄も、伝統の価値を認めなくなった今の時代では、その伝統を伝える老人の存在など無用になったと指摘しています。人間の価値を機能や効率ではかるようになった現代では、社会での機能を失った老人は何の価値もなくなってしまい邪魔者扱いです。だが、長年培ったものを活かして、若者たちが生きる力を育むための手助けをすれば、あなたの過去の蓄積が光を放つはずです。
2015.03.15
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生き甲斐は、老若男女にかかわらず、幸せ感を感じるための大きな要因の一つです。そればかりか、「生きがいを持っている人たち」と「自分の人生を暗く無為なものだと感じている人たち」を比較した場合、「自分の人生は無為である」と答えた人たちは、アルツハイマー病の発症確率が2.5倍も高かったそうです。そこで、生き甲斐について少し考えてみたいと思います。あなたは、次のA/Bどちらのタイプですか?Aのタイプ 「ネガティブ・マイナス思考」などといったものが特徴・すぐに機嫌を損ねる ・不安感が強い ・心配性である ・悲観的な考え方 Bのタイプ 「ポジティブ・プラス思考」など前向きな性格・のんびり屋 ・社交的 ・明るい ・楽観的な考え方この性格の違いで「アルツハイマー病」にかかる確率に差が出ます。性格がAタイプに近いと、アルツハイマー病にかかりやすくなるのです。高齢者の方の性格と認知症の関係を調べた調査の結果では、マイナス思考に陥りやすい人たちは、プラス思考の人たちと比較して、アルツハイマー病の発症確率が5割高くなってしまうという結果が出たそうです◆(参考)2010年報告 シカゴ周辺に住む高齢者で、ベースラインで認知症がなく,最低1回の追跡調査が可能であった951人(女性74.9%;平均年齢80.4±7.4歳)を、最大7年間(平均4年)追跡調査したところ,期間中に151人(16.3%)がAD(アルツハイマー症)を発症した。ADを発症した人は,発症しなかった人と比べ高齢で(84.7歳 対79.5歳),生き甲斐尺度得点が低かった(3.7点対3.4点)。年齢,性,教育歴を補正したモデルによる解析では,生き甲斐尺度得点が高い人は,ADのリスクが有意に減少した。性格傾向,社会ネットワーク,慢性身体疾患など他の因子を共変量としたモデルを用いた場合でも、生き甲斐尺度得点とAD発症との関係は続計学的に有意であった。生き甲斐尺度の高得点者(4.2点,90パーセンタイル)は,低得点者(3.0点,10パーセンタイル)よりもADを発症せずにすむ可能性がおよそ2.4倍高かった。高い生き甲斐を持っている高齢者,すなわち人生経験から意味を見出し,志向性や目標志向性がより高い高齢者は,ADのリスクが低下し,認知機能の低下速度がより緩徐になることが示された。生き甲斐は極めて個人的なものではあるが,生き甲斐を高めるために行動技法的な介入を加えることで,その人にとって意味のある活動を増やしたり,目標に向けた行動を増やすことができるかもしれない。 身体的な不自由さが増した場合でも,心理的な働きかけが効果を発揮する可能性もある。いろんな調査で共通しているのは、悩みやすい性格、そして現在の生活が虚しいと感じている人たちは、認知症にかかりやすいという結論です。特に「エピソード記憶」という言葉やイベント事の詳細を思い出す能力が、著しく低下していることが判明しました。悩み、苦しみを抱え、意味の無い生活だと感じている人はアルツハイマー病を発症する確率が高いようです。
2015.03.14
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公共事業には「ありがとう」がどこにもない役所は仕事を出してやっていると考え業者はそれを取り合い住民は造ってもらうのが当然だと思っている公共事業を飲食店に例えた人がいます。全国展開する豪華な内装の有名レストランで、食材も料理人も最高級揃いだが、選べるメニューは少なく、客は自分の好みや希望を聞いてもらえないどころか店側からの注文が多い。少人数では、入店さえ拒否される。仕上がりが遅くてイライラさせられるのが常だが、店側は全く意に介さない。店長や店員はすぐに別の店に移ってしまうので、誰も責任を取らず、客を客とも思わぬ体質が蔓延している。 客が諦めた頃に運ばれてくる料理は、食べきれないほどの豪華料理。当然のことながら値段は目の玉が飛び出るほど高いが、店側から補助金が出るため、食事した客の支払いは少なくてすむ。それで、繁盛している。だが、店の補助金を実際に負担しているのは利用者たちだ。食事をした客やその家族が事前に支払っていた金や、彼らが後日、支払わされる金を回しているにすぎない。
2015.03.14
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2.他者信頼感=他者やこの世界を信頼するという感覚です。他者信頼とは、この世界は信頼している他人によって作られているとても安全なところで、決して勝つか負けるか、食うか食われるかという戦場のような場所ではないと考えることです。つまり、みんなが協力して、ひとつの理想を実現していく場として、この世界をとらえることです。大切なのは、信頼に基づいて不必要な競争はしないということです。他人を蹴落とすことで自分の立場を良くするような競争は、心を不健康な状態にしてしまいます。競争は自分と他人とを比較します。「あの人に較べて私は劣っている/優れている」という比較は他人への不信感を生む傾向が強く、競争心は自分に対する自信のなさの裏返しという面もあります。別の言い方をすれば、「私は集団の一員であり、この世界の中にはちゃんと自分の居場所がある」と感じられるということです。「自分が必要とされている」という感覚は、生き甲斐につながります。みんなは私を傷つけようとしているのではなく、助けてくれようとしていると信じることです。これは「所属感」と言い換えることができます。家族や職場の中でもかまわないが、自分の居場所がある、私の役割がある、と感じる気持ちです。他人を信頼することで、他人も自分を信頼していると感覚が生まれ、所属感を持つという感覚につながるはずです。まず、笑顔で人に接するように心掛け、人を褒めたり感謝の言葉を伝えることです。他者信頼とは信用ではなく信頼するということだが、「信頼」と「信用」との違いは何でしょうか?何かしらの根拠が前提となっているのが信用です。たとえば、銀行がおカネを貸すのは、その人が土地を持っているとか、安定した仕事をしているとか、何かしらの信用がある場合だけです。まさに信用です。信用には取引という概念が入っています。何かしらの担保があるから信用するのです。一方、信頼というのは根拠がないのに信用するということです。人に対して白紙の小切手を切るということです。白紙の小切手を渡して「あなたは悪いようには使わないだろうから、自分が良いように使ってください」と言えることが、人を信頼するということです。よく「あれだけしてやったのに信頼を裏切られた」という言い方をしがちだが、これは信用です。裏切られたと思っているのは、「あなたがちゃんとやれば」という条件がついているからです。信頼からは裏切られるという感情は生まれません。3.貢献感(社会に貢献できる)他人に世話になるだけでなく、自分もまた他の人たちを助けたいと思うことが幸せには必要なことで、「自分は役に立つ」「他の人たちの役に立っている」と感じる貢献感を持つということです。例えば、老人ホームで、ヘルパーの人が必要なことは全部やってくれて楽だけど、生きている気がしないという話をしばしば耳にします。これは、不自由なことがなくても、何かの役に立っている気がしないと不幸に感じるということです。実際に役立っているかどうかは関係ありません。役立っていると感じられるかどうかが大切です。ある出来事が起きたとき、心が健康な人はまず、これはみんなにとって、いったいどういうことだろうかと考える。心が不健康な人は、これは自分にとってどういうことだろうかとまず考える。つまり、貢献感というのは、ある状況をみんなのものとしてとらえ、みんなにとって良いことか悪いことかを最初に考え、その中で自分のできる役割を考えるということです。
2015.03.13
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困らぬこと 困ったと思わぬこと。 困ったと思うことで胸がふさがれて思案も浮かばずにただ困ったと思うだけになる。困らぬこと 人がしでかした困ったことは人の知恵で解けぬはずがない。若いときから多病を抱えて修行に励み、84歳の長寿を全うされた白隠禅師は「病気が人間を殺すのではなく、妄想が人間を食い殺すのだ」と言ったが、不安というのはせん無い妄想から生まれます。それは、目の前の事実に集中せずに、自分の心が過去や未来、自分以外にむいていることの証です。私たちの悩みや苦しみ、困り事というものも、妄想する心が創り出した幻影だから、心の持ち方一つを変えることで心安らかに過ごせます。具体的に解消するには、まず「事実」と「思い」に分け、個々の原因を「なぜ、なぜ」を繰り返して真因に迫ってみてください。真因が分かれば対応は簡単です。1.解決策がわからないという不安 →先哲の知恵を参考に自分なりの解決策を考える2.解決策は分かっているが巧く対応できるかという不安 →事前に練習を積んで自信を持って一歩を踏み出す
2015.03.13
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参考までに、幸せ感について少し書いておきます。幸せ感とは、心の充足度です。だから、その人の心の持ち方が大きく左右します。何で心が充足するかは、図のように色んな要素があるが、大きくまとめると自己肯定感・他者信頼感・他者貢献度の三つがあげられます。1.自己肯定感が高い=自分が好きと言えることです。地位が高いとか、高収入だから、健康だからといって必ずしも自己肯定感が高いとは限りません。それで満足しているかどうかが問題で、「もっと、もっと」と貪欲に求め続けていては、いつまでも幸せ感を味わうことはできません。幸せ感は「充足/欲求」で表され、少欲知足の精神や「いま、ここ」に止まる(=満足する)心が大切です。自己肯定感が低い人の原因は、過度な自分と他者へのこだわりにあります。自分の短所や問題点(理想と現実の差)ばかりを気にする「自己へのこだわり」や、自分と他人の特徴や属性の比較ばかりを気にする「他者へのこだわり」は自己評価を低くしてしまいます。自分と他人のどちらが優れているか、自分が周りからどれくらい認められているのか、といった価値判断にこだわりすぎると幸せ感を低くします。短所といっても、「気が小さくて臆病だ」というのは「慎重で軽率な行動をしない」と言い換えることができるように、見方や使い方で長所になります。善い面に、光を当てる心の持ち方が大切です。自己肯定感は、どういう自己評価の判断基準を持っているのかに大きく関係しています。自己評価の判断基準には、「コントロール可能な基準」と「コントロール困難な基準」とがあります。他者の感情的評価や主観的意見、生まれながらの外見的特徴、並外れた身体能力、大富豪やセレブなど経済的・社会的な破格な成功などは変更困難な基準です。これらの変更困難な基準を適用してしまうと、自分は劣っているという評価になりがちです。自分の努力や行動では変えられない要素にこだわって落ち込んでしまい、他人にバカにされているに違いない、こんな自分が他人から認められるはずがないと、自分の評価を下げてしまいます。また、非現実的な高い目標を持っている場合も同じです。「誰にも好かれよう」「決して失敗しないようにしよう」「あらゆる点で優れた人間でいよう」というような、とても実現できない不合理な高い目標を持つと、それを達成できない自分を「私はダメな人間だ」と責めてしまうことになりがちです。幸せになる幾つかの心の持ち方を書いておきます。・自分に対する要求水準を下げる ・我慢する癖をやめる・短所を直そうとしない(見方を変え善い方に生かす)・好きなこと、やりたいことをやってみる・人から褒められたり認められることを期待しない(自分は自分)・他人も自分も責めない(許す)
2015.03.12
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事を企てるにはまず人 人選びほど難しく 人の心ほどはかりがたいものはない「次々に出現するチャンス全体に比べて、優れた才能は供給不足である。しかも、真のリーダーとなる優れた才能を持つ人材は極めて流動性が高く、その傾向は世界中でますます強くなっている。今後、こうした人材を引き付け、確保することはますます難しくなっていく。だから、企業は優れた人材を魅了する文化と雰囲気をつくっていく必要がある。経済は、もはや資産ベースではなく、知識ベースになっている」とマッキンゼーのラジャット・グプタ氏が言うように、世界的に優れた人材をいかに獲得できるかが問題となっています。背後に世界中の巨額な資金が控えており、良いアイデアがあり、良い人材がいれば、誰にでも資金を提供してくれるからです。だが、人の心ほど変わり易くあてにならないものはありません。人は、利と恐怖と情で動くが、自愛と我欲の煩悩につられて、利用価値が無くなれば離れていきます。
2015.03.12
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高齢化社会の問題は多様だが、いつまでも活き活きと元気に働き、社会に関わり、貢献する高齢者を増やすことが、それら諸問題の解決において大切なのは言うまでもない。また、「健康とは、身体的・精神的・社会的に完全に良好な状態である」というWHOの定義に従えば、健康寿命を伸ばすという目標は、体を鍛えたりケアしたりするだけでは達成できず、高齢になってから、精神的・社会的に良好な状態をいかに保つかも大切である。その点で、50歳代がどのような高齢者になっていくのかは重要だ。若い頃の価値観を変えられないままに不幸をかこちながら生きていく老人になるのか、それとも今の高齢者とは異なる幸福を見出していくのか。老後に備えたお金の話や、アンチエイジングにばかり注目している場合ではない・・・。また「老いの工学研究所」の「充実した老いの実現に関するアンケート」調査結果(男性平均72.8歳、女性平均69.4歳 234名対象)によれば、男女によってかなりの差が読み取れます。男性で幸福度が高かった男性の約8割が配偶者と同居。逆に一人暮らしはわずか4%だった。「今の配偶者と結婚して良かった」との割合も8割を超え、女性の約6割を大きく上回った。女性は、結婚状況や配偶者よりも、経済的な不安があるかないかが幸福度を大きく左右した。「自分に自信を持って前向きに生きる」といった精神的な自立度も女性の幸福度に影響していた。『青春時代は、人生の中で一番素晴らしい時代だった』と言い、『歳なんてとりたくない』という女性は少なくないが、最近の研究によると「人は成長するに連れて幸せになってゆく」という新しい定説が生まれ、幸せのピークは70代~80代にならないと訪れないというということです。今までは、40歳と言う節目を境に、人生の上り坂が終わり、下り坂の人生が始まるというのが定説のようになっていました。だが、近年の研究では、中年以降になると満足度や人生への楽観度が着実に増してゆき、そしてそのピークは80歳代になって訪れるという。中年になると、様々な責任が増えると同時に、人間的に成熟してきます。年をとる楽しさも分かり、人生を楽しむ能力が身につき、思っていたよりも年を重ねることが面白くなってきます。しかも、安定した収入や、健康状態、家族や友達との良好な関係によって、この幸福度はさらに増大します。ユニヴァーシティー・カレッジ・ロンドンの生物学教授であるルイス・ウォルパート氏によると、『10代から20代のころは「平均的に幸福を感じる」という人が多いが、その平均的な幸せは、仕事や家族を支える責任が出てくる壮年期までの間に減少する』と言い、「その後、40代半ばくらいから、人はより楽観的で元気になっていく傾向にあり、それが最大に達するのは70歳代後半~80歳代くらいではないだろうか」と付け加えています。同じ大学で心理学を教えているアンドリュー・ステプトー氏の見解によると、「今日の高齢者は、30年前の高齢者に比べて健康状態もいいし、様々な機会に恵まれて恩恵を受けているという。この健康と安全な環境というのは、高齢者にとってもっとも重要なものなのだ」という。また、高齢化は計算能力などを低下させる一方で、言語能力や意思決定能力など脳の働きを向上させる傾向にある。加えて、どうやったら楽しい時間を過ごせるか、どうしたら不幸な出来事を避けられるかを、経験から見極められるようになり、幸せな時間を自分で選択することができるようになる。つまり、年をとると物事の優先順位を付けるのがうまくなり、時間の使い方が上手になるようだ。大阪大学人間科学部権藤恭之准教授の研究でも、身体機能の低下にもかかわらず、80代を過ぎると今の暮らしを肯定的に捉える感情や人生への満足感が高まってきて、百寿者の多くが多幸感、つまり、ありとあらゆることに幸せを感じているということです。
2015.03.11
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人は平生の暮らし仲間うちのつきあいの中で本性をあらわすもの私的な約束を急に別の用が入ったからと平気で破ったり、いつも時間に遅れてきたり、金を借りても(特に少額の場合)忘れてしまったりしても何とも思わない人がいます。こういう人は、いくら会社での地位が高く、仕事ができると評判であっても心から信用しないようにしています。また、外部の人や上司には受けが良くても、自分より弱い立場の人にはぞんざいで横暴な人もいます。だから、その人の素顔を知りたかったら、利害関係のない友人や知人、女子社員の評判を聞くのが一番です。また、公式の場で随分と高尚な話しをしているのに、酒が入った場や親しい仲間うちでは「あの人が」というような言動をする人がいます。政治家がポロッと不用意な発言をして問題になるのも、そんなときですね。それと、ピンチに追い込まれたときには、その人の責任感に対する本性が出るものです。
2015.03.11
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介護をなさっている方からは「自立できない人の生きる意味」を問う声もあるが、自立できなくなったら価値がないということで、つまり以前述べた「価値を入れる」ことから起きる問題意識ですよね。価値ある人が、価値のない人を介護しているという悔しさ?親が60歳なり65歳になったら、逆さ時計のスイッチを入れてカウントダウンしてみるといいと思います。つまり、段々と赤ちゃんに戻っていくわけです。あなたが赤ちゃんの時には両親に完全介護されていましたよね。そして、大学を出るまでも親がかりの人が多かったはずです。ですから、例えば両親が65歳の時が、あなたが大学を出た22歳と思って下さい。平均年齢の87歳から22年さかのぼれば65歳ですね。65歳くらいの時は、両親も殆ど手がかかりません。80歳くらいになると、多少手がかかる人も出てきます。丁度小学校低学年の頃に当たります。85歳を超えれば2歳頃ですから、殆ど親がかりでした。そのころ、お母さんも、仕事ややりたいことを我慢して手を掛けてくれたはずです。そう考えれば、丁度自分が子供の頃に受けた世話の恩返しともいえます。いま介護をされている方も、何年かすれば、介護を受ける側にまわります。そうやって、人間は命のバトンを受け継いでいくのです。
2015.03.10
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心の中に現世極楽を創り出せ心の清らかなときは極楽 心の汚れたときは地獄地獄・極楽が真にあるか否かは問題ではなく、自分の心の中に地獄・極楽どちらの影を見るかが問題です。白隠禅師に侍が「極楽・地獄というものがよくわかりません。どうかお教え下さい」と尋ねたところ、「武士なら武士らしく地獄・極楽など考えんでもいい。そんなことを聞くようではどうせ腰抜け侍だろう」とあしらうと、侍は怒って斬りかかってきたので逃げ出して柱の陰に隠れると、侍は「そこに隠れているな」とパッと切りかかってきた。すると、白隠禅師は柱をクルリと回って、「地獄はこれじゃ」と叫んだ。侍は一喝されてハッと我に返って刀を鞘に収め、「仰せになったことよくわかりました。申し訳ございませんでした」と丁寧に頭を下げた。すると、白隠禅師は「極楽がこれじゃ」と叫んだ。誰でも自分の心の中に角の生えた鬼を飼っていることを自覚し、角を出さないように心したいものです。
2015.03.10
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一人ひとりが自立することが大切だと思います。一般的な自立というと、もっぱら「働いて経済的に自活すること」を考えがちだが、人間は身体、精神、社会の3つの要素から成り立っているので、身体的自立・精神的自立・社会的自立の3つに分ける必要があります。とくに、高齢者の自立を考える場合には、こうした観点から捉えることが大切だと思います。もし、身体的な自立や経済的な自立のみを強調し、他者に頼らず何でも一人で行えることを自立とするならば、歳を取るということは必然的に身体的な衰えを伴い、経済的にも年金だけに頼る人が多くなるのだから、高齢者が自立を追求し続けることは難しくなります。(例えば、歳とともに認知症に冒されていく人は周りからみれば無惨だが、本人にとっては神様が下さったご褒美だと私は言っています。何故なら、自らは何の苦も感じられなくなるのですから。)しかし、そうしたことを受容した上で、自らやれることは自らが行うことは、高齢者が活き活きと生きていくためには必要不可欠なことだと思います。歳を取るにつれて、心身的な自立や経済的自立を失っていくのは致し方ありません。でも、そうであっても、精神的自立を保つことはできます。他の年齢層と比較して、心身的自立や経済的自立が困難になってくる高齢期においては、この精神的な自立の占める比重は非常に大きいと思います。 精神的自立の中核にあるのは、自立生活運動の中でも強調されている自己決定です。「精神的自立性尺度」(図表 参照)として、自分自身が物事を決定し、その決定したことに対して責任がもてるという態度を表す「自己責任性」と、自分の生き方や目標が明確であることを示す「目的指向性」の下位尺度があります。高齢者が自立的、主体的な生き方を創造し(自己や社会の状況に主体的に関わっていく)、そして自己を実現していくためには、この自己決定は不可欠といえます。精神的自立性尺度を使用して沖縄県の高齢者を対象に調査した結果(2005年)、精神的に自立していると考えられる高得点群の高齢者は約半数でした。しかし、この精神的自立性は高齢者の主観的幸福感に最も大きな影響をあたえる要因であることがわかりました。すなわち、高齢者の主観的幸福感に直接大きな影響をあたえる要因は、健康感、暮らし向き、精神的自立性の三つでした。生活的自立を示す老研式活動能力指標は、精神的自立性と最も強い関連があるが、精神的自立性を介して間接的に主観的幸福感に影響を与えることが示されました。この結果から、幸福な高齢期を過ごすためには、健康感があり、ある程度ゆとりのある暮らし向きを維持し、精神的にも自立していることが重要であると考えられます。精神的自立などというと難しく聞こえるが、その切っ掛けは身嗜みからで、清潔な服装はもちろん、洗顔、歯磨き、整髪、髭剃り(この頃ルーズになったな)、爪切り、化粧、入浴などといった当たり前のことをしっかりとすることです。そして、毎日何かすることを持ち(私はブログを10年間毎日欠かさず書いている)、人と楽しく交わる機会を絶やさないこと(できれば自ら企画する)です。私が尊敬し目標とする先輩など、80歳を超えられたのに(ステントも入れてみえる)毎日テニスをされ、幾つかの交流会を企画され、後進の人たちの相談にものってみえます。自己決定力を維持するために、私のやっていることは麻雀(毎朝運勢判断代わりにPCでやっている)や競馬(娯楽費として毎月の限度を決めておき100円単位で)、独り旅(予約せずにフラット出掛ける)、遊びの企画(家に人を呼んで宴会をやる)、料理(食材を買いに行く)、SNSなども良いと思います。さあ、あなたも幾つになっても精神的に自立して、命輝いて生きて下さい。その先には、美しく笑いつつ逝ける日が待っていると信じて。
2015.03.09
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人の生きる楽しみは生きている間の煩悩にある人間は生きている限り、自我・執着・煩悩・怒り・愚痴といったものがゼロになる道理はありません。なぜなら、それは生命の重要な働きだからです。人間から煩悩をとったら、何の進歩もなくなり、(食欲や性欲をなくしたら)人間は死に絶えることになるかもしれません。「心にかなう適度こそ欲望の第一」とお釈迦様は仰って、欲望や煩悩と上手に付き合っていくことが大切だと説きます。適度な欲望は人の命を育て成長させるが、貪れば害毒を撒き散らします。欲望そのものには善悪はなく、それを善にするか悪にするかは、その人の心掛け次第です。適度な欲望で得た成果を、報いを願わず、功を誇らず、名利を求めずに施す心(慈悲の実践)が、私たちの心を無我清浄に磨きます。たとえ自分に施すものがなくても、他人が施すのを見て我がことのように喜ぶ心を持てばよいとのことです。
2015.03.09
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最後に、私なりの纏めを書いておきます。根本仏教(スリランカの上座仏教)を学んできて私なりに思ったことは、折角この世で稀な存在たる人間に生まれてきたのだから、一切皆苦の世界に終わらせずに、老若男女に関係なく、誰もが、それぞれの場で、命輝かせて、幸せに生きて欲しいということでした。命を輝かせる手段は人それぞれが、誰もが、それぞれの場で、人と比べるのではなく、自分は自分と自律し、真に命輝くことを目的に生きれば、素晴らしい世界になるように思うのですが?例えば、人々が自愛と我欲を貪るのも、人生を楽しみたいからだと思います。その目的は、自らの命を輝かせるためですね。だが「今に満足する」ということを知らないために、「もっと、もっと」と貪欲の心をつのらせて、永遠に苦の世界から逃れられずにいるように思われてなりません。命を輝かせるには、今まで学んできたように、もう一つの道があります。それは、三毒の熱を少しでも冷まして、心安らかに生きる道です。三毒の熱を冷まして、少欲知足で「いまに満足」して楽しみ、多少なりとも周りの人のことを慮って四無量心と四摂事を心掛ければ、人に好かれ、人に必要とされ、人に感謝されるようになります。そうなれば、人も寄ってきて楽しい輪ができ、自分も周りの人も命輝いてくるのではないでしょうか?今の世の中はそれと逆のことが多く、自分さえよければいいと、痛ましい事件や特殊詐欺などが横行し、力で人を屈服させようとする人ばかりが目立ちます。それは、2500年以上も前のお釈迦様の時代からなんら変わりません。文明が発達しただけ、その被害は広範に及び酷くなってきています。なかなか難しいことだが、私はその入口として(年金生活者で食費節約の目的もあるが)、3日断食を毎月2回行っています。(70歳までは年1回だけだった。以後月1回だったのを昨年から2回にしたら効果抜群)何も食べない2日目のなんと爽やかなことか、これは実際やり続けた人しかわからないことだと思います。その結果、粗衣粗食でも、2,3日同じモノを食べても何の不満もおきません。その上健康で、74歳なのに掌や顔まで艶々してきます。それと、自分のことを話すよりも(歳とともに人の話を聞かなくなりがち)、お酒を片手に笑顔で人の話を聴き、励ますことを大切にしています。これだけで、何の得もない老爺の「夢の間」に老若男女が寄ってきてくれます。年寄りにとって、人が集まり、賑やかなことほど嬉しく、若やぐことはありません。経営コンサルタントの頃、「情報を探し求めて自ら取りに行くのではなく、自然と情報が集まる場にしなさい」とよく言っていたが、これは高齢者にも当てはまることです。高齢者の生き甲斐維持のためには外の人と交わることが大切な要件の一つだが、我が家に人が集まるようにすれば、わざわざ出かけることもありません。京都は学生の街でもあり、「新しい意味での里親になりなさい」(ときどき学生達を呼んで、家庭料理でもてなし、話を聞いてやるだけ)と周りに言い、自分も実行してきたお陰で楽しい今があります。連休時には子供連れで来てくれたり、時には泊まっていったり、今年の正月明けには10年前の卒業生達が東西から10数名も集まってきて食事会を開いてくれました。嬉しいことです。
2015.03.08
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人と人が命をぶつけ合う。武器は刀と思うな。命そのものだ。命盛んなれば相手を凌ぐ。だが、その命、惜しめばかえって重荷となる。武器とするか、重荷とするか。それは覚悟次第だ。 大石内蔵助から主税へ昔の武士は刀に命を賭けたが、現代人の我々は仕事に託したスキルに命を賭けていると言えます。秀吉が信長の足軽の頃、「立身をしようと思えば余人の3倍は働かねばならぬ。それも、汗水垂らして働いただけでは、到底余人を追い抜いて先へ立つことはかなわぬ。躰のみか頭も余人の3倍は使わねばならぬ」と言って、日中は身を粉にして奉公したうえ、家へ戻って日が暮れれば、毎日、必ず机に向かって書物を読み、手習いをした。そうして、いつの間にか、空が白んで来ることも数えきれぬほどあったという意外な側面があります。成果主義の現代だが、1日の勉強時間が「殆どゼロ」という人が全体の4割、1ヶ月の読書量が「殆どゼロ冊」の人が3割もいます。誰にも平等な1日は24時間という唯一平等な時間を、武器にすべくスキルを寸暇を惜しんで磨くか否かは仕事や人生にかける覚悟次第です。
2015.03.08
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