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実家の隣家はいわたさんといった。おじさんは大工で、おばさんは土日、競馬場にパートに出ていた。女3人男2人の兄弟とよく顎の外れるおばあさんがいた。9丁目という我が町内会の子供たちは、何かあるとこのいわたさんちに集まった。その家の玄関横に畳一畳くらいの大きさの木のの台があった。おじさんのお手製だと思うが、折りたたみ式の床とでもいえばいいのだろうか。新幹線の座席についてるテーブルのでかいヤツを想像していただければよい。ある時期、そのスペースがわたしたちのパラダイスだった。わたしの同年代の子はほとんどが男の子だったが、小さいときからずっといっしょだから気にならない。長い休みなどになんとなくもてあまして、そこを訪ねるときっと誰かがいて、当たり前にいっしょに遊んだ。おまわりさんのむすこのたかゆきちゃん、牛舎の子のとしあきちゃんとゆきひろちゃん、一本木のひでちゃん、もりさきさんちの子、やまがたさんちのおにいさん、いわたさんのあつこちゃんとひでとしさんとしげひろちゃん。名前を書けば顔が浮かび、声が聞こえてくる。昭和30年代の後半のことだった。将棋もトランプもウノもそこで知った。桂馬の行き方とか金と銀の行き方の違いとか、ナポレオンだとかツーテンジャックだとかセブンブリッジだとか、たくさんのルールを知らないうちに覚えていた。勝ち方もだんだんに身に付いていった。ビー玉もしたし、メンコもしたが、あまりうまくなかったなと思い出す。なんとしてもメンコのパチリという音がでず、自分のメンコのカスのような音が情けなかった。コマ回しも下手くそだったし、縄跳びも二重跳びの秘訣を教わったはずなのだが、うまくできなかった。人数が揃えば、陣取りや肉弾や、カンケリやかくれんぼ、バトミントンやリレーをした。チーム分けなどは、いわたさんちのおにいさんのひでとしさんが仕切った。小さい子も大きい子も楽しめたのはひでとしさんの仕切りの腕前がよかったのだなと思う。誰かが文句を言えば、うんうんと聞きながら、まあこれでやってみよ、ととりなして、なんとなくうまくいったのは、人柄ゆえのことだったろうか。ひでとしさんはのちに日経の新聞記者になった。陽気のよいころの夕方、夕焼けが川を赤く染めるころに、そろって桂川沿いの堤防を歩いた。きまって誰かが小学校唱歌を歌い出した。あとをついてみなで歌った。途中、牛舎そばのお化け池に向かって飛び石を投げた。わたしはこれもうまくなかった。その堤防では、バッタを捕まえ、花を摘み、数珠玉を取った。あつこちゃんがその数珠玉を繋いで首飾りを作ってくれた。あつこちゃんが本当のおねえさんだったらいいのにと何度も思ったことだった。(つづく)
2004.08.30
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夏休みや新学期などとは無縁になってかなりなるのに、この時期になるとなにやら落ち着かない。遣り残したことばかりが頭に浮かぶ。なんにもしないうちにもう夏が終わる、そんな感じもあるし、明るい夏が逝ってしまうさびしさのようなものもわいてくる。8月の終わりにはいつもこころのどこかが波立ってしまう。今日は秋風のような風を感じた。それで、なんとなく気になって年上の友人に電話をしてみた。半月ぶりになるだろうか。電話にはご主人が出られ、本人は入院中なのだと教えられた。具合が悪くなったのがおりよく通院している病院だったので、そのまま入院して適切な処置が取られたそうだが、呼吸器系の病気なので、一時は家族を呼ばねばならないくらいに症状が重く、命も危うかったらしい。幸い医師の治療がうまくいき、命はとりとめ、昨日やっと集中治療室から出られたところで、今は面会謝絶だという。「その前にも長く入院していたものだから、不自由かけて申し訳なかったからこれからはずっと僕の面倒をみるっていったのに、約束が違うじゃないか、って文句いったんですよ」とめずらしくご主人が饒舌だった。ほっとされているのだろう。窓からの風をはらんで舞い上がりしぼんでいくカーテンの動きを目で追いながら、その話を聞いた。ひとのいのちのあやうさがだんだんに肌に迫ってくるような気がした。暑い暑いと嘆きながら、ボーっと家にこもっている間に、こんなことが起こっていたのだと愕然とする。今年の暑さは特別で、自分が一日をやりすごすのに精一杯だったから、とか、その日駆けつけても、どのみち自分にできることなどないのだ、とか弁解のように思ってみるが、それでも釈然としない思いが残る。ひとはひととはいつが最後になるのかわからないのだといつも覚悟せなばならないのだとまた思い知らされる。十年前、自分もまわりのひとにそういう思いをさせたのかもしれないなと思い返したりもする。秋になって涼しくなって体調が良くなったら会いましょうと約束していますよ、忘れないで、とはがきを書いた。
2004.08.26
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トルコききょうの小さなブーケを買ってテーブルに飾った。白い柔らかな花びらが幾重にも重なりあい、その真ん中に黄色い花芯が見える。10年前の8月25日、高校生の息子1があふれるほどのトルコききょうを抱えて病室に入ってきた。顎の手術して二十日ほどが経っていた。はなびらのふちが淡い赤や紫に染まった花が手に余るほどの花束になっていた。残暑の厳しい日、窓の外では白い日差しが踊っていた。見慣れた縞模様のシャツが汗で体に張り付いていた。当時住んでいた横浜から2時間近くかけて埼玉との県堺ちかくの病院にやってきた。何もするにもよく言えば慎重で、ありていにいうと優柔不断で、買い物もなかなか決められず時間ばかりかかる彼の選んだ花は、花瓶に活けるとこぼれんばかりにひろがり、大部屋の病室の中で、みなの目を引いた。「ありがとう」と言うと、困ったような顔をして「あのー、帰りの電車代無くなっちゃったんだけど」と言う。なんで?と聞くと「いっぱい買いたかったから」と答えた。「お誕生日おめでとう」息子がそう言ったかどうかは覚えていない。ただトルコききょうばかりが記憶の底で咲いている。
2004.08.25
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京都の長岡京市、昔の乙訓郡(おとぐにぐん)にある母の実家はいつも居心地がよかった。小学校の低学年の夏休みに長く逗留した。記憶は四十年を遡る。母の弟であるちょっと口うるさい公務員の叔父も、煙草屋を営むきさくな叔母も、いつも長火鉢の前にいた祖母も、年の離れた3人のイトコも、「ようきたな」と迎えてくれた。当たり前のようにそこにわたしの居場所があった。早朝、朝日にむかって叔父が拍手を打つ。天井の高い古い家に響くその音で目が覚める。蚊帳のなかで一緒に寝ていたのは7つ年上のおしゃべりなみッチャン。美人じゃばかったけど、面倒見のいいおもしろいおねえさんだった。テニス部だったから、真っ黒に日焼けしていたな。ヨットの合宿にいってるかっチャンをのぞくみんなでいっしょにご飯を食べた。家とは違う味付けが新鮮だった。叔母の漬物がおいしかった。中庭にならぶ朝鮮朝顔やアロエの植木鉢に水をやって、叔父は府庁に行き、みッチャンは部活に行って、わたしは煙草屋の店番をした。家の門の横に立てられた小さな店。ガラスケースの中に煙草が並ぶ。「しんせい」や「わかば」や「いこい」。今ではみかけることのない煙草。赤いパッケージの「チェリー」もあった。ピースの缶の深い紺色が好きだった。お客がいう銘柄を探して取り出したり、奥にあるカートンを取りにいったりして、そのあと「まいどおおきに」と言うのが晴れがましくも楽しかった。箱に小銭が貯まっていくサマを見ながら、煙草屋になってもいいなと思っていた。お昼前には、今のオムロン、昔の立石電気の工場の売店にパンや煙草を運ぶ手伝いをした。後年、オムロンの電子体温計できたころ、元立石電気とあって、なにやら懐かしい思いがしたものだった。売店に行くと顔なじみになったおじさんやおばさんが声をかけてきた。笑顔で答えると「愛想がええな」と言われた。叔母に「たすかるわ」と言われて得意になった。夜は和裁を教えていた叔母のそばですごした。大人の邪魔にならない静かな子だったのだと今になれば思う。仕立ての注文もこなしていた叔母が正絹の着物をスイスイを縫い進んでいくその手元を見ているのが好きだった。訪問着のいろんな色や模様がきれいだった。叔母といっしょに注文をこなす近所の奥さんや教わりに来る花嫁修業中の娘さんになにかと声をかけられ、おやつをもらったりした。大家族のなかの気の利かない不器用なみそっかすで、自己主張の強い兄妹のなかで、いつも忘れられたような影の薄い存在だと思い込んでいた自分のことを、そんなふうに誰かが認めてくれて、あたたかくこころに止めてくれることが嬉しかった。祖母の記憶が定かではない。その頃からだんだん弱ってきていたのかもしれない。長火鉢の引き出しから飴玉を出してわたしにくれたのはこの祖母だったろうか。それでも、煙草屋を営む店先で、「これはないしょやで、だれにもいうたらあかんで」と言ってお小遣いをくれたことはずっと忘れずにいる。小さな身体、くぼんだ目、皺のよった大きな四角い額は母に似ていた。「この」と言う名前のおばあさん。いつも黒っぽい着物を着て、かくかくと入れ歯の音をさせてしゃべった。「好きなもんこうたらええ」と言った。皺のよった小さな手から渡された半紙の包みのなかにいくら入っていたのかも忘れてしまったが、「ないしょやで」という言葉にこころが踊った。それはわたしだけの特別だった。ときどき遠い日の幸せな記憶がふっと呼び戻される。自分がたくさんのひとに支えられてきたのだとこの年になって自覚する。静かに胸が熱くなる。
2004.08.22
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なんとなく疎遠になるのではなく、絶交と意識して会わなくなった女友達がひとりいる。カルチャーで知り合ったそのひとは、東大の入試がなかった年にW大のセイケイに入った才媛である。故あってある学校の講師をしていた。資格もいろいろ持っていて、調理師の免状もそのうちのひとつだった。どういうわけかそのひとに気に入られた。万事に積極的で、とても好奇心の強い人だった。「おもしろそうじゃない」と大きな目を輝かせて、忙しいスケジュールのなかにどんどん予定を繰り込んでいくのだった。いっしょに、講演も何度か聴いたし、大磯や江ノ島にも行ったし、観覧車にも乗った。謡のワークショップにも参加した。あるとき、「なんでそんなにいろんなことやるの」と訊いてみた。優秀なひとにとってはなんでもないことなのかもしれないが、次から次へと新しいことに挑戦してマスターしていくさまは、凡庸なわたしにとっては目を見張ることだったからだ。彼女はいたずらっぽく笑ってこう答えた。「うーん、年取ってね、縁側で孫におばあちゃんの人生を語って聞かせるときに、いろいろやってたほうが面白い話が聞かせられるでしょう?。おばあちゃんてすごい!なんて言ってくれたら、うれしいじゃない」へーそうなのか、とわたしは素直に受け取ったのだが、彼女の頑張りは決してそのためだけではなかったかもしれない。万事に上昇志向の強いひとだから、のほほんのわたしとはうまくいかなかったのだろうと今にして思う。とはいえ、老いた自分が縁側で語るはなしはなんだか気になってずっと記憶に残っている。結局どの人生もいずれは昔語りになってしまう。あんなこともこんなことも過ぎ去ってしまえば、語り草になる。では、わたしにどんな語りができるだろう。おもしろおかしく語れるだろうか。ウケるだろうか。あるいは、お涙頂戴してしまうだろうか。彼女のようにすごい!なんていわれることはないだろうなあ。ああ、そうか。その日のためにわたしはこんなふうに作文を書いているのかもしれない。いろいろあったのよ、と伝えるために。
2004.08.20
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京浜東北線のつり革につかまって、座席を見ると、初老の男女がしきりと話し込んでいた。女性は手帳を手に男性の言うことを頷きながら次々に書き込んでいる。この暑いのに、男性はきちっとした背広姿だ。なんとなくこのひとの顔に見覚えがあるような気がする。が、うまく思い出せない。車窓が切り取る青空を眺めながら、このひとをいったいどこで見たのだろうと記憶を探った。駅に止まった時「なんとか医大のほうに手配たのむから」という男性の声が聞こえてきた。ああ、そうだと思い出す。まるで、モーゼの前の紅海のように混沌とした記憶が、行く道をあけた。このひとは、わたしが通う大学病院で、主治医のH先生のうえにおられる教授だった。わたしは、顎にMFHという悪性腫瘍ができるという口腔外科では特殊な患者だったので、教授の診察もうけたのだった。そうしてこの教授に手術をしましょうといわれたのだった。筋肉移植のはなしもこの人から聞いた。「成功率90パーセントも手術ですから、そんなに心配しないで」とわたしの手を握って励ましたのもこの教授だった。残念ながら、その手術では残りの10パーセントの側に立つ羽目になってしまったのだが、そんな大事なこと言われたひとなのに、もう顔を忘れかけている。白衣姿じゃなかったからかもしれないが、術後、このひとに会ったことがなかったせいもある。別に会いたいと思ってもいなかったし、たぶん覚えていたくもなかったのだろう。そういえば、あのMFH狂想曲の夏は、もう足掛け10年も前のことなのだ、とふいに思い出す。5年後生存率2割だったのだが、こちらは幸運にもその2割の方に立った。おかげさまで長生きしています、教授、とこころのなかでつぶやく。向かい側の席が空いたので座った。真正面から教授の顔を見た。間違いない。話し方も思い出した。穏やかで少々女っぽい語りなのだ。女性が足元に置いていた包みのなかからシュークリームを取り出して、一口大にちぎって教授の口に入れた。教授は当たり前の顔で食べた。不二家のシュークリームだった。こんな偶然もあるのだなと思いながら目を閉じた。
2004.08.18
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エッセイコラムの講座で山口先生にタクシーのネタが許されるのは一生に一回だけですよ、と言われたことがあった。その注意を受けたときはハマっ子タクシーの話を書いたのだった。「三日住んだらだれでもハマっ子」なのだとそのひとに聞いた。ものごとにこだわらず、だれでも受け容れるけど、ひとはひと自分は自分が徹底してるのがハマっ子堅気なのだ、と力説した。それ以前にも、花見に行く途中で、物静かな運転手が「桜の花は京都の女性ににていると思うんです。ひ弱そうに見えても、決してそうではなく、また翌年あでやかに咲く強い花だと思います」と言ったことを作文にした。その後もわたしに「お客さん、日本語じょうずね」と言った横浜のひと、菊五郎などたくさんの芸能人を乗せた京都のひとのはなし、焼き茄子をつくる東京のひとのことなど、思い出せば、卑怯な掟破りのように書いてしまっている。うーん、と唸りながら、また書いてしまおうと思っている。こまったことに、このことに関して、わたしは節操がない。言い訳のようだが、タクシーという狭い密室の限られた時間にふっとこころに残ることがあるのだ。たくさんの出会いと別れをくりかえすその場所の一期一会。ま、どの会話もサービスの一環だったのかもしれないけれど、ほんといいこと言うのですよ、運転手さんたちは。いつまでも忘れないような言葉をね。 「真夜中のタクシー」というサイトがあるが、このひとの書く文章がまたいい。沁みる。むろん、何事も決め付けるわけにはいかず、そうでないひともまたおられる。ベテランの運転手に行き先をいちいち説明して、そんなことは言わんでもわかっていると憤慨されたこともあったし、一言も話さない人も多い。さても、先だって帰省したおりに乗ったタクシーの運転手は、わたしが乗るなり「弥栄のツボイです。」と名乗った。ちょっとおどろいて、「まあまあご丁寧に」などと言ってしまう。ツボイさんがちょっと苦笑する。血色も体格も良い初老のツボイさんの声は大きくよく通る。はきはきしてはぎれよい。運転手歴四十年だというから、なにもかも手馴れたもんだ。しばらくたがいに無言だった。京都駅に向かう車が、なんだかわたしの知らない細い通りへ入っていく。その通りにはえらく高級そうな骨董店が立ち並んでいた。「高級そうな骨董屋さんばっかりですね」「1ドルが360円のころ、このあたりは、金持ちの外人さんが群がってましたで」とツボイさんは説明する。かつての伏見の住人にはとんと縁のない一角だった。その通りを抜けるあたりで、「あそこが井上八千代さんのうちですわ」と言う。振り返ってみるが、どれだかはっきりとはわからない。いずれにしても、風情のあるお家が並んでいた。「あのひとはうちの会社しか呼ばはらへんもんやから、よう迎えにいきましたわ。前の八千代さんはもうよぼよぼして足元もおぼつかへんで、タクシー乗んのにも付き添いのひとに助けてもろたはるのに、舞台に立たはったら、ピシッときめはるねんさかい、すごいもんですわ。人間国宝ってすごいもんですわ」そうかあ、と感心して頷く。晩年のルノアールが絵筆を持つと手の震えが止まるというはなしに似ている。一芸に秀でる凄さ。魂が身体を制御しているのだと感じ入る。ツボイさんは大阪生まれで京都に住んで四十年だという。それはタクシー運転歴でもある。何の話からか、ツボイさんがグルメだという話題になった。「沖縄のミミガーていうのを聞いて、わし、それが食べとうてね。ここいらになかったんですわ。しばらくして手に入って食べてみたけど、まあ、まずいもんですわ。そやけど、一回は食べてみんと承知できひんのですわ。豚足もゴーヤもそうでしたわ」「わし、自分で料理しますねん。外で食うより、女房が作るより、わしの作るもんのほうがうまいんですわ。友達呼んで、ふるもうたらたいがいのやつはおどろきよるんですわ。うまいて」「へー、そういうたら、いつやったか、焼き茄子つくる運転手さんもいましたわ。みなさん、やさしゅうてマメやねえ」「あのね、焼き茄子は女房に任すと、水につけよるんですわ。そんなことしたら、味が台無しですわ。よう焼いて竹串2本でスッスッとうまいこと剥けるんですわ」「はあ」「料理に凝ると次は食器ですわ。わし、マイ食器、マイ戸棚持ってますねん。女房に使わすと割ってしまいよるさかいに、わしが管理してますねん。食器て上等やさかいにありがたいていうもんとちごうて、自分がええなあと思たもんがええもんですわ。わし、九谷焼のキンキンしたやつ、大嫌いですねん。なにがかなして、高い金だして、あんな仏さんの茶碗みたいなもんで食わんならんねん!て思いますわ」もうもう言いたい放題、いい調子だ。きっとこのひとはなんでも器用に手際よく作ってしまうに違いない。焼き茄子だってすいすいすいてなもんだろう。それでも、わたしには、先に東京で乗った運転手さんが、たぶん、あちちなんて言いながら、時間かけて、つれのひとのために剥いてあげた焼き茄子のほうが、なんだか味が良いように思えてならない。京都の街を出てつれの人の住む東京でタクシーの乗るひとと大阪の会社が上手く行かなくなって京都に移り住んでタクシーに乗るひと、とうてい重ならないふたりの輪郭をなどるように思い出す。ふたりが運転する車が、京都のどこかですれ違ったこともあったのかもしれない、なんて思い描く。ひとのいくみちを思う。
2004.08.16
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買い忘れたものを調達にコンビニへ向かう。ああ、涼しい。昨日までの空気とは重さが違う。肌がさらりと心地よい。マンション前の敷石に雨の名残りのしめりが見える。おひさしぶりの雨だった。公園では、サッカーチームの少年たちがボールを追っていた。水銀灯が照らすゲームはなかなか白熱していた。息遣いが聞こえてくる。歓声も響く。公園前の駐車場の隅に三毛猫がいた。耳の間と尻尾の毛に色があるがあとは真っ白な美しい猫。きちんと前足をそろえてお行儀よくすわっている。三毛猫ってことはたぶんメスだな、とか思いながら見つめていると。その視線が気になるのか、困ったように「にゃー」と鳴く。おっと思いながらこちらも「ニャー」と挨拶する。それを聞いていよいよ困惑したようで、今度は顔をそむける。その首の動きがなんだか色っぽい。イイ猫だわ。で、どこを見ているのかと思えば、公園の賑わいが気になってしかたがないようだ。あら、と思いながら通り過ぎる。暫くして振り返るとちょっと力が抜けたような背中が見えた。2棟ある団地のそばを通るお茶碗を洗っているらしい音がする。涼しくて開け放った窓から、オリンピックの中継にかぶさって柱時計の音が聞こえてくる。小さめの振り子時計の音だろう。ボンでもゴンでもなくちょっと濁って聞こえるのは、年季が入っているせいだと確信したりする。夕方、公園から団地をみると、真ん中の階段の2階の窓が開いていて、そこからおばあさんがいつも外を見つめている。身じろぎもしないで、遊ぶ子供たちの動きを追っていた。ひょっとしたらあの部屋から聞こえてくるのだろうか。柱時計がある暮らしって昭和のにおいがする。実家には大きなぜんまいの振り子時計があった。しょちゅう止まったり狂ったりして、それでも成り立っていた暮らしだったんだなと思う。ウォーキングをしている人が追い抜いていく。首にタオルを巻いているが、昨日までに比べて今日はさぞかし歩き良いことだろう。小さな教会にさしかかる。町並みに溶け込んだ教会は、静まり返っている。だれでも気軽におたずねくださいとある。坂を下りるとコンビニの袋を提げて上ってくるおんなのひととすれ違う。袋の色が茶色だ。あっためたお弁当だろうか。コンビニの前にピンクのきらきらしたTシャツを着た若いおんなのひとがいた。これから公衆電話をかけるらしい。なんとはなし違和感があって見つめていた。ケータイを開いて電話番号を調べて公衆電話をかける。話し始めた言葉は日本語ではなかった。「もしもし」だけが日本語だったがあとはおそらく中国語だろう。まったく理解できないのだけれど、なんだか甘えているかんじだ。ひょっとしたら中国語で愛を語っているのかもしれない。コンビニには若い人も中年のひとも次から次に客が出入りするが、店員の挨拶ばかりが響き、ほかは、およそ言葉のない世界だ。だれもが無言で、箸がいるかいらないかを答えるだけだ。そこへ太ったおばさんが必死の顔つきで駆け込んできた。なにやら急を要すようでトイレを借りた。ふっと空気が和む。古い商店、八百屋や米屋や焼き鳥が並ぶ通りでは、どの店もはやばやと戸締りをしている。コンビニばかりが通りに灯りを落とす。それに吸い込まれるようにひとりまたひとりやってくる。外に出るとさっきのおんなのひとがまだ電話中だ。恋する電話なのか。なにを話しても楽しいにちがいない。帰り道の駐車場で猫を探す。車の陰にいた。目があうとかくれんぼで鬼に見つかったような表情をする。「にゃおん」と声をかけたが無視されてしまう。つまんないの。公園の少年たちは休憩中だった。小突きあいながらからかいあう笑い声が空にのぼって行くようだった。ああ、涼しい一夜。そぞろ歩きがまことに心地よかった。
2004.08.15
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いつだったか、カルチャーでの、リンボウ先生の「源氏物語」の講義で、「光源氏など平安貴族の仕事は恋することでした」と聞いたことがあった。それはそれは、と思ったことだった。職業欄に「恋」なんて、いいじゃない。恋に生きてます、なんて、ねえ。ちなみにそのころのハンサムの基準は女っぽいことだったという。だから、無骨なあずまえびすは見向きもされず、ぽっちゃりとして色白でぼうっと光るような光源氏がモテたのだ。そうかあ、なるほど、平安貴族が趣味に血道をあげたのも、恋ゆえの和歌であり、それゆえの香や着物であり、書や教養であるわけかあ。そういえば孔雀の羽やかんむり鳥のかんむりの美しさもそういうことなのだ。およそおしゃれなオスはメスの気を引くために、目立つことが身の危険に直結する自然界にあって、恋に命を懸けているわけだ。そう本能に組み込まれいるのだ。で、アリのことを考える。先だって、トリビアで言っていたが、巣の外で働いているのは年をとったメスばかりなのだそうだ。おばあさんがこんな炎天下にせっせせっせと餌あつめをしているわけで、アリに敬老精神などはなくて、こんなのあり?なんてなじってもせんないことなのだ。若いメスは巣の中で働くわけで、オスはといえば、えー、その、女王アリのお相手をするのが仕事なんですね。で、お勤めを果たすと死んでしまうのだそうで、それもまた壮絶といえば言えなくもなく、言いかえれば恋に命かけてるってことで、それは、光源氏と同じ地平に立っているといえなくもないなあと、暑さに負けたのか、そんなことが思い浮かんだりする、けだるい昼下がりだったりするのである。で、また思ったりもする。現代人には昼のお仕事と夜のお仕事があったりして・・・・・・zzzzzz。≪そのあとのこと≫銀行の前を通ると、露店で桃を売っていた。両手の指をつき合わせてハート作ったくらいの大きな桃が並んでいた。昨晩深夜番組でまっちゃんと島田紳介が「ばんとう」というへしゃげたような桃をつゆを滴らせて食べているのを見て、ああ、桃食べたいと思っていたところだった。一個350円のが4個千円だという。お買い得には目がないので買うことにした。炎天下汗だくで頭にタオルを巻いたお兄さんが桃を袋につめながらこちらを見る。テープが気になるらしい。前は信号待ちをしているとき工員ふうのひとに振り返って聞かれたこともあった。「ねえ、おねえさん、そこ、どうしたの? 怪我? 腫れてるの?」このあたりのひとはストレートにその具合を聞いてくる。事故や怪我に敏感に反応するひとが多いように思う。「ううん、ちょっとね」この暑いのにいちいち説明するのも気が進まないし、聞かされてもおにいさんも困るだろうし、あいまいに答えた。するとおにいさんはちょっと口ごもってから、「そうかあ、暑いのに可愛そうに。それじゃあ」と言ってその袋に同じくらい大きな桃を2個もおまけして入れてくれた。「まあそんなに」とわたしが言うとおにいさんは「早く治るといいね」と言う。これ以上治ることはないのだけれど、と思いながら頭を下げた。おにいさんの額の汗が目に残った。
2004.08.13
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ああ書きたい書きたい書きたいぞと思うことがある。実に強く思っている。もうもう指先からほとばしってしまうんではないかと思うくらいにぐるぐるしているのだけれど、それを書いたら迷惑するひとがいて、名誉を傷つけられると思う人がいて、面子が立たんと力む人がいるから、書いたらあかんなあと自主規制なのだ。ここも、ネットの匿名性のようなものがあってないよなページになってしまっているなあと思い至ったりもする。どこの誰ともわからなければ、告白文体であんなこともこんなことも書けるのになあ。実際そういうサイトもあるしなあ。身内のこととかだんだん書けなくなってきて、つまらんなあ。ああ、書きたいぞ書きたいぞ。ちょっとした(?)悪口になってしまうようなあんなことこんなこと。それがけっこうあるってことは、わたしはなかなかに意地悪な見方をするってことかもしれんなあ。それにしてもまだまだ筆の力がないからうまく持って回っては書けんしなあ。折に触れ、なにかに練りこむようにして発散できればいいんだけどなあ。ああ、いかんいかん。ぽろっと落っこちそうだ。・・・ばーちゃんたらね、なんてことが・・・。なむなむなむ・・・。
2004.08.12
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世界を旅した兄夫婦を留めた写真がランダムに差し込まれたアルバムのページをめくっていると、突然、モノクロの写真が現れる。ライカ版の古びた写真に兄夫婦が写っている。二人は水着姿でボートに乗っている。水着のデザインが時代がかっている。狂った果実なんて映画に出ていた女優さんのようなかんじだ。「これは婚約時代のんや」とうれしそうに兄嫁が言う。お見合い結婚なのだが、兄嫁は見合いの席でコートを脱いだ兄の青い背広姿に一目惚れした。「裕次郎みたいに長い足やった」新婚旅行の写真もある。すらりとした若い兄は額にはらりと前髪をおろし、黒縁の眼鏡をかけている。文学青年のようにも見える。兄嫁も今とは別人のように細く、小首を傾げた笑顔が初々しい。観光地と思われる景色のなかで、兄の腕が兄嫁の肩を抱いている。そしてよくよく見れば兄は蝶ネクタイをしている。「なんで?」と聞くと、「蝶ネクタイが好きやったんや。おかしいやろ。年取っても蝶ネクタイが好きでな、フリルのシャツまで着たはったで」と兄嫁が笑う。うん、想像がつく。ゴルフの時はニッカボッカにハンチングだったもんね。民謡の発表会も三波春夫みたいな着物やったしね。服にしろ、持ち物にしろ、付き合いにしろ、ひととおんなじでは納得しない血筋のようなものがあの家にはあったのかもしれないと苦笑まじりに思い出す。そういえば、次姉はサイズの問題もあったのだが洋服はオーダーメードで、見慣れない色やデザインの洋服を着ていた。いつだったか、教会で行われた身内の結婚式で思いがけず自分と同じレースのブラウスを着ているひとを見つけてしまった次姉は、披露宴に向かう途中にデパートに寄って、違うものに買い替えて現れた。そして、「あんなもっさりしたん着てられへんわ」と聞こえよがしに言ったりしてしまうのだった。しかし、早速手に入るレディメードではいささかサイズがきつかったらしく、その服のことを「なんやいやらしくらい、ぴちぴちの服、着たはったなあ」と後々まで、語られることになってしまったのだった。兄嫁が持ってきた写真だという一枚に、兄嫁らしい若い娘が振袖を着て緊張した面持ちで写っている。その日、来日したネール首相というひとに兄嫁がお茶を出したのだという。その界隈では兄嫁はお茶だしで知られたお嬢さんだったのだ。そんなところも兄のお気に入りだったのかもしれない。甥が生まれ、姪も生まれた。ランニング姿の兄がまだ赤ん坊の甥に頬ずりしている写真もある。「なにがあっても、こどもはかわいがらはったなあ」と兄嫁が言う。それに答えるように小さな甥も姪もうれしそうに笑っている。それにしても、手の中にすっぽりと入ってしまいそうなサイズはなんとも懐かしい。わたしのアルバムにも同じカメラで撮られたと思われる写真がある。わたしたち一家はことあるたびにこのカメラに納まったのだろう。スバル360が写っている。なんだか可愛いかたち。写真では色はわからないが、ベージュと焦げちゃだったろうか。トラックはあったが、初めての乗用車だった。冬の日に兄家族と出かけて車酔いして、寒いから開けるなときつく言う兄に気兼ねしながら、小さな三角窓からはあはあと空気を吸っていたなあと思い出す。板塀の家並みの前の物干しにするめのように干された洗濯物や、幼い甥と姪の上げた凧が灰色の空を舞っている。今はもう中年になってしまった二人にこの面影がある。にこやかな甥、しっかりものの姪。田舎っぽいでんち姿で、もこもこしている。頬がくろっぽいのは赤らんでいるのだろう。その遠景に腰の曲がった母が見える。色のない世界に閉じ込められた日々の端っこから地下水のように当時のあれこれが湧いて出る。血のつながりのない兄嫁といつまでも話していられるのは、そんな風景のなかでいっしょにご飯を食べ、テレビを見て、笑って、歌を歌って、悪口や不平を言う、そんな時間が長かったからであり、モノクロ写真の時代を一緒に暮らしたからだと確信したりする。だから、「それにしても、あの一家は変わりもんが多かったなあ」なんて意見があったりもする。
2004.08.09
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8月7日、兄嫁とホテルで待ち合わせ、実家に立ち寄った。ホテルのロビーの椅子にどこかで見たひとがいた。思い巡らせ、華道家の仮屋崎さんだとひらめく。いつもはまだらに茶色く長い髪をたらしているが、その時はくるくると一まとめにして後頭部でとめてあった。なんだかおばさんみたいだった。「あっ、仮屋崎さん」と言って頭を下げると、顎を左に動かして会釈された。そのしぐさも堂に入ってるというかんじ。兄嫁も気付いていたらしく、「あのおんながたのひとやろ」と言う。「うん、そのおんながた」と答える。手のひらを外に向けて、その手から遠いほうの唇の端に当てて言う「おんながた」と言う言葉がおもしろい。ホテルのバイキングで食事をする。九代続き旧家といわれた実家は没落して、なにもかもなくなってしまった。兄が残したのは多額の借金で、今では兄嫁は年金暮らしだ。バブル期に不動産業を営んでいたひとの金遣いは想像に難くない。兄嫁は財布に紐などかけたことがないような使いっぷりだった。その兄嫁が食費の算段をしている。その他の出費も同様で、2か月分まとめてもらう年金のやりくりをうれしそうに話す。「もらいもんがようけあって、たすかってんねん」皿いっぱいに料理を盛って、そう言った。「お金がなくても自由がある。それが一番幸せや。お金があったらええかっこして、付き合いも気いはってせんならんけど、もう、なんにもないねんもん。しとうてもできひんねんもん。ほんま気い楽になったわ」「近所のひとがな、畑でとれたていうて、野菜持ってきてくりゃはるねん。おつけもんやら塩こぶやら、どっさりくれはるなん。それで、お茶漬けたべたら、食べるもんにお金かからへん」「お金がのうなると、太陽が出たら、洗濯もんがよう乾くしありがたいこっちゃ、て思えるねん。雨がふったら植木に水やらんでもええしな」「うちのベランダのまえのイチョウは春にはかいらしはっぱつけて、夏には陰作ってくれるし、秋になったらそらものすごきれいな黄色に染まるねん。それ見てたら、ええでえ、別荘に来てるみたいやで」そんな言葉をはさみながら、皿を持って何度も席を立つ。ホテルのバイキングはバラエティに富む。「こんなときに栄養とっとかんとな」を兄嫁は笑う。たらふく食べて、しこたま話し込んで、実家に向かった。実家といっても、かつてあった実家の前に建てられた甥の家だ。そこはかつては「前の小屋」と呼んだ大きな納屋だった。ガレージでもあり、倉庫でもあり、溶接所でもあり、製材所でもあち、大工道具部屋でもあった。父の大きなおもちゃ箱のような場所だった。あの小屋のガソリンと機械油と埃の混じったようなにおいが好きだった。そこで立ち働く父や兄を見ているのが好きだった。兄嫁の生活している居間でお茶を飲みながらアルバムを見た。大きなアルバムでは保管が大変なので、昔の写真をはがしてコンパクトなアルバムに差し入れている最中なのだという。それが、あまりに量が多いので、脈絡なく手当たり次第に差しこんである。いきなりアフリカ象が出てくる。マサイ族と一緒に映っている。赤い衣装をまとったマサイ族がにこにこと写真に納まっている。かと思うとスフィンクスが現れる。駱駝をバックに映っている。タヒチだのハワイだのボルボラ島だのが続き、インドが出てきて、南米が出てくる。ブラジルのでかい滝へむかうヘリコプターに乗り込む写真もある。どの写真にもちょっと誇らしげな兄と嬉しくてたまらないという顔つきの兄嫁、若い日の二人や家族が華やいだ色合いの洋服を着て収まっている。「ナスカの地上絵、しらんかってん。えらい馬鹿にされたわ」と横で兄嫁が言う。「アメリカもヨーロッパもアラスカも言ったで」「ベトコンのたこつぼもみたで」「昔の中国はなんでも熱烈歓迎やったわ」「アフリカにはいっぱい水もっていったわ。シャワーが急に泥水になってしもたりしてな」「このごろ、世界遺産がテレビでうつるやろ。あ、ここもいった、あこもいったて思うねん。今は貧乏してお金がないけど、ほんまわたしはおとうさんにええめさしてもろたな、て思うわ」生きていくということは、転がる石のようなもので、とどまることなく局面はかわっていくけれど、その時その時に、ああ、しあわせやなあと実感する時間を持つことが、よく生きるということなのだ、と兄嫁を見ているといつも思う。正しいとか間違っているとかでなく、その生き方はいいなと思う。小売の酒屋をして、こつこつこつと真面目に働き蓄えた姑の預金通帳の金額を思い浮かべながら、キリギリスたちの鮮やかな思い出のページをめくっていた。
2004.08.08
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朝、着替える時、Tシャツではなくアロハを着てみる。中年の女がアロハかあと苦笑しながら袖を通す。いや、これがけっこう地味な色使いなのだと言い訳したりする。このアロハの柄は、大きな南国の葉っぱがグレイとモスグリーンと黒に染め分けられたうえに、極楽鳥のとさかのようにとんがった赤が散っている。まあ派手といえば派手かな。洗いざらして着心地はいいのだが、濃い色目の部分が色褪せ始めている。ああ、時が流れたのだなと、また思う。これは平成10年の9月に死んだ兄の形見のアロハだ。兄はちょっと男前で、かなり無鉄砲で、どうにも自己中で、いきがったええかっこしいで、こまったかんしゃく持ちだった。HNKの素人のどじまんの予選に出たというのが自慢で、歌の好きな人だった。幼稚園児の私に美空ひばりの歌を教えたのはこのひとだ。演歌をうたう幼稚園児だったのだ、わたしは。年が離れているので、兄が幼い頃の話はすべて周りのひとから聞いたもので真偽のほどはわからない。しかし、おおむね、えー!と驚く語り草だった。そのむかし、母が小学校から緊急だと呼び出されたのは、兄が桂川に飛び込んだからだった。できるかできないか、賭けたらしい。成り行きで後に引けなくなったのだろう。「もう生きた心地がせなんだわ」と母は振り返った。どんと焼きの日に別の町内のどんとに先回りにして火をつけてしまったこととか、まだ中学生だった妹、わたしには次姉だが、にオートバイの運転を教えて、遠くまでツーリンクして帰ってこなかったこととか、そんな話を冬の日の縁側で母が語った。縫い物の手を休めて「やんちゃな子でなあ」と笑った。自分は手を下さず、子分のような男の子たちにあれこれかっぱらって来いと命令していたのが発覚したおりも、肩身の狭いことだったそうだが、子分であるよりはいい、と母は思っていたようだった。わたしの兄弟たちが何の根拠もなく自分が一番だと思いこんでいるフシがあるのは、この母ありてのことなのかもしれないとふっと思う。わたしはといえば、兄にはお風呂にも入れてもらったし、オムツも替えてもらった、・・・らしい。名前を付けるときもいっしょに考えたそうで、いわば親代わりのようなひとだった。嫁に行くとき、わたしはこの兄に「いままでお世話になりました」と頭を下げた。長男が死に、次男である兄が家を継いだ。それまであれこれと描いていた人生の設計が変わって、兄は百姓になった。兄の運転するトラクターに乗せてもらって、あぜ道を行くとき、なんと誇らしかったことだろう。溶接の火花のなかの兄はなんとかっこよかただろう。若いときはサッカーをしていたという兄は180センチで一時は90キロあった。百姓の肉体労働に鍛えられた筋肉は、後年、仕事を変えて、自分が動かずひとを動かすようになって、贅肉へ変わって行った。不動産会社の社長に納まった兄は、不摂生やストレスがたたって、生活習慣病を患い、最後はガンで逝った。多額の借金が残った。病院で車椅子移動する兄の足は相変わらず長かったが、信じられないほど細かった。筋肉も贅肉もそぎ落ちていた。兄の49日が済んでしばらくして、兄嫁に遺品の整理をするから手伝ってといわれたことがあった。兄の洋服ダンスや整理ダンスを開けると、おびただしい数の服がしまわれてあった。おしゃれなひとでもあった。「いるもん持っていってや」と兄嫁が言った。いずれ借金のかたに家を取られるから、早いうちに処分しておかないといけないから、と兄嫁はあせって散らばる洋服を手当たりしだいゴミ袋にほおりこんでいた。しかたのないことだと思いながら、胸が痛んでいた。形見なのに、と思っていた。うまく頭がまわらなかった。気がついたら、このアロハをもらっていた。このアロハは、わたしには少々大きすぎて、肩は落ちているし、丈も長くだぶだぶしている。それでもそれが生きていた兄の大きさなのだと思う。今はその大きさが懐かしい。毎夏このアロハにくるまれると、盆に精霊が帰ってくるように、兄の姿が戻ってくる。おさないわたしのずりさがったズボンを文句言い言い引っ張り上げてくれたな、なんてことを久しぶりに思い出したりする。
2004.08.04
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あーあ、とうとう読み終わってしまった。「左は学士綿貫征四郎が著述せしもの」という一行で始まり、「もう一度目を閉じた」で終わる155ページ。なんと不可思議でなつかしくこころなごむものがたりであったろう。湖で行方不明になった親友高堂の家の守りをすることになった征四郎。その身の回りに起こる出来事は、実は少々面妖で頬をつねったり、眉につばをつけたりするようなおはなしなのだけれど、読み進んでいけば、そうであることに何の違和感もわかず、かえってわくわく胸が躍ったり、そうであってくれてよかったと思えることなのだ。高堂は床の間の掛け軸から現れて、「サルスベリのやつが、お前に懸想している」と言う。征四郎は「どうしたらいいのだ」と戸惑う。高堂はちょっと面白がっている。その後も続くふたりの関係は、京極堂の小説に出てくる榎木津と関口のそれにちょっと似ている。河童や白竜や小鬼や人魚という異界の生き物も現れる。そして、この家にまつわる動物も植物も実に人間っぽく意思を持ってうごめく。犬のゴローやサルスベリの存在感の大きいこと。現れる人物もひとあじ違う。長虫屋や和尚もさることながら、隣のおばさんが只者ではない。それはアニメの「おじゃる丸」の月光町の住人に似ているかもしれない。川上弘美さんの作品にも、いま自分に見えている世界の向こう側を心地よく感じさせてくれるものがたりがあった。今市子さんの「百物語抄」では向こう側の人間の切ない思いがにじんでいた。ページを開けば、静謐で穏やかな時間の流れに浸ることができる。そんなものがたりに出会うしあわせ。それでも、最終章「葡萄」にこんなシーンがある。夢のなかで征四郎は不思議な広場にたどりつく。葡萄があり、カイゼル髭の男に食すよう勧められる。これを食べると元の世界に帰れない気がする。カイゼル髭はこの場所の素晴らしさを告げ、「なにも俗世に戻って、卑しい性根の俗物たちと関わりあって自分の気分まで下司に染まってゆくような思いをすることはありません」とまで言う。これでも征四郎は動かなかった。暫くたってこう言った。「日がな一日、憂いなくいられる。それは理想の生活ではないかと。だが、結局、その優雅が私の性分に合わんのです。私は与えられる理想より、刻苦して自力で摑む理想を求めているのだ。こういう生活は・・・私の精神を養わない」ものがたりはものがたりなのだ。たしかにそこにひたるしあわせがある。そして、また別の場所にも違う形のしあわせがある。梨木香歩さんがそう言っているような気がして、ちょっと弾みをつけてページを閉じた。
2004.08.01
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