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野上弥生子というひとのポートレートを見ていると、なんだか大江健三郎さんがおばあさんになってそこにいるみたいな感じがする。秀でた額、柔らかな曲線を描く眉の下に細く切り開かれた透徹した双眸、なにか語ろうとしてふっと息を飲み込んだような口元。穏やかな知性体がそこにいる。野上さんは、1885年に生まれ百年生きた。「花」という「随筆」を読んだだけなのだけれど、なんだかうれしくなっている。きちんと居住まいを正してお話きかなくっちゃ、という思いもするのだけれど、野上さんの随筆は実にのびのびと思いを語り、ややこしいこともその手のひらでやさしく揉み解して差し出してくれる。野上さんはなにかを眺めていると、ふっと別な考え(本人は妄想とか言うのだが)が浮かんでくるという。この連想がなんともいえない味わいがあって、うれしくなる。人間ドックで入った病院で窓の外の夜景を眺めながら、前に見たお能の「西行桜」を思い出す。その能に出てくる三人のツレがラグビーの選手のような逞しい大男で、脇によけても、黒い塊のようだったが、これを世阿弥が見たらなんというだろう、と思いが広がっていく。観世流の宗家夫人が今は古い装束など使いたくても使えないと言う。今の若い人には丈も裄もあわないのだ。つるつるてんになってしまう。では能舞台はどうなのだ、と野上さんは思う。6メートル四方と決まったのは江戸時代のことで、世阿弥が生きていたなら、「して見て、よきにつくべし」と言う言葉通りに、照明も音響も創造的に新しい舞台を仕立て上げるにちがいないと思いがめぐる。そしてまた野上さんは思う。三人のシテが利休の茶室に向かったのだとしたら、どうだろう、と。利休はどんな新しい茶室をこしらえ上げるんだろう、と。そんなふうに思いは自由に飛ぶ。知性の重みなぞなにするものか、と軽々と垣根を越えていく。以下のページにもそんな思いの八双とび、発想とびが随所に見られて、わくわくしてしまう。漱石との交流の場面も、漱石の意外な一面を伝えていて、ふふ、ふふ、ふふ、とほほを緩ませながら最後のページを閉じた。いいなあ、野上弥生子。
2004.03.31
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今日ね、あの、ちょっと出掛けたんですけどね、まあ春休みなもんで、どこも込んでてね。いささか疲れました。でまあ、歩きながら、ふっと前を見ると家族連れがいてね、おじいちゃんおばあちゃんとお母さんと孫の三兄弟がいたんですね。一番上のお兄ちゃんは小学校高学年くらいでしょうか。末の弟君は一年生になるかならずか、という感じでした。どの子もすばしっこそうな元気な子たちに見えました。で、この兄弟の上の二人はおじいちゃんと肩組んで歩いてるんです。それはもう、片時も離れたくないように左右からぴったりくっついてるんです。末の弟君にお前はこっちだと言って次男君が手を出して、みんなでおじいちゃんに繋がって歩いていきます。そのままずんずん歩いていきます。それはおじいちゃんにおもねっているわけでも、気を遣っているわけでも特別なことでもなく、その子たちにとってはごくごく自然なふるまいであるかのように見えました。よほどにおじいちゃんがすきなんでしょうね。そばにいるおばあちゃんとおかあさんもまた、それを当たり前のように眺めてるんですね。世の中にはこんな幸せなおじいちゃんもいるんだなあと思ったのでありました。で、どんなおじいちゃんなんだろうと、確かめてみたのですがそのひとは、ことさらになにかをアピールしているふうでなく目立たず、癖もアクもなく、ただ普通に穏やかに年を重ねてきたという感じのおじいさんなのでした。それでも彼らにとっては、大事な大事なおじいちゃんなのでしょう。その存在が彼らにとっての幸せでこれから先、彼らがいくつになっても、ふっと魂が帰っていけるところなんだろうなとじさま好きの私は、去りがたく見つめていたことでした。
2004.03.29
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ウイーン市内の市電・地下鉄・バスはすべて同一の料金体系になっていて一ヶ月や一週間の定期券とか3日だけの利用券とか1回券とかがあればどの交通機関でも利用できるそうだ。一回券一枚あればウイーン市内は一方向ならどこまでもいける。しかし、ぐるぐる回ってはいけなくて、往復してもいけない。駅には一回券に対しての時間と場所が印刷される機械がある。各自自発的にそこへ挿入して記入する。しかし切符を検査する駅員、車掌、機械は存在しない。だからズルしようと思えばできないこともないのだが、突如私服の大きな男が二人連れで入ってきて、怖い顔で「検札!」と言って乗客の前に立ちはだかることがあるのだという。不正がみつかるとその場で5000シリング(約5000円)払わされる。この交通システムが複雑でわかりにくいために、乗客は不正を指摘されてもありとあらゆる弁解をして逃げようとする。そこで最近はウイーン交通機関のいたるところに、「次のような言い訳は成り立ちません」というビラが張ってあり、そこには101の言い訳が書いてあるのだという。こんなふうなのがね。・犬が券を食べてしまった。・さっき風で飛んでいった。・(印刷する機械の)音が怖くて機械に近寄れなかった。・機械が見つからなかった。・機械が呑み込んでしまった。・機械にいれたけれどインクが切れていた。・私が券を探している間に他人のを見てくださいよ。・今日すでに一回払った(からもう払わなくてもよいと思った)・今日は特別無料日だと思った。・日曜日は無料だと思った。・父が検察はどうせこないから(大丈夫だ)と言った。・昨日も不正乗車したが捕まらなかった。・まだ昨日だと思った。くくくくく。おかしいなあ。より高度な弁明もあるという。・10年乗れば無料になるのかと思った。・私はニューヨークに住んでいてたまたまウイーンに来ただけだ。・歩こうと思ったけど電車がきたのでしかたなく乗った。・私は券を持っていまいけど不正乗車ではないのだ。・あなたは私が券をもっていることをただ信じればいいのだ。以上は中島義道氏の「私の嫌いな10の言葉」の「弁解するな!」という章にあるおはなしだ。ウイーンでは「弁解の文化」がこれほどに浸透しているのかと新鮮な驚きを覚えたので新しいものを見つけるたびに細かくメモしていたのだという。それにしても愉快だなあ。交通局のひとが考えついたのもあるだろうけれど、きっと実際にそう言ったひとがいて、おお~!と思ったものを採用したんだろうなあ。この著書の中で、中島氏の厳密な言語感覚は、10の言葉から、日本人が曖昧模糊としておきたい部分の胡散臭さを嗅ぎ取って、きりきりきりとねじ込んでくる。それはそれでうなづかされる。弁解の持つドライな面、論理的武力の戦いであるということは確かにあるが、日本はこのようなユーモラスな弁解を認めようとはしないだろうと中島氏は言う。そもそも弁解ははじめから醜いものであるとして封じてしまうから、惚れ惚れするような嘘が出てくる余地がなく、言葉に磨きをかけるチャンスを根こそぎにする文化だ、と。なんとなく、しかしなあ、とも思う。日曜の夕方に円楽さんが、「私がこうこうこう言いますから、うまく弁解してください」なんて言ってるシーンを思い浮かべる。うまくいったら座布団がもらえるんだもんな。そんなふうな文化もあるんだけどなあ。とはいえ、それを人前で言えるかというと、そこらあたりがごにょごにょごにょと曖昧模糊なんだなあ。
2004.03.27
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ブックオフの105円コーナーへ時々迷い込む。最近は循環する本が決まってしまったので一昔前のベストセラー本ばかりが並んでいるがそれでも、この本がここでは105円かあ、と少々せつなくなる。それらの本が苦界に身を置く不幸な身の上の婦女子のようにも思えてくるのだ。友人は自分の好きな本がその値段になるとあまりにかわいそうでその棚にならんでいることが許せなくて、そこから助け出しに行っていたという。それを聞いて、時々私もそのコーナーでそんな正義の味方になったりする。これはないだろう!と憤慨したりする。この一冊にかけられた思いと時間と知識と運と・・・ああかなしや、くちおしや、という繰言恨み言が聞こえてきたりする。でまあ、本日も馬場あき子さんの「短歌への招待」なんてのを見受けしてきた。白洲正子さんと対談してたひとである。ご縁がないわけではない、と思って我が家に来てもらった。そういえば、そういうご縁で、これまでにもそんなふうにして我が家にやってきた本がある。窯変源氏物語、本所しぐれ物語、乳の海、余話として、空腹の王子、君を見上げて・・・うんうん、よしよしよし。あんなところから足が洗えてよかったよかったなあと思うのだが・・・うーん、ところがそれらがなかなか読みきれない。興味のベクトルがなかなかそちらへ向かわない。これは救出というのだろうか、はたまた幽閉というのだろうか・・・と本棚の前で腕組みをしている。
2004.03.26
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友人の趙さんから安原顕追悼文章が送ってきた。B6版95ページの文集の表紙はもじゃもじゃの頭と太いフレームの眼鏡をかけたおなじみの風貌の似顔絵が描かれている。ヤスケンと呼ばれた名物編集者と趙さんは朝日カルチャーの小説の講座でであった。私も、その講座の有志が企画した島尾ミホさんをソフーロフが撮ったビデオの鑑賞会というのに呼ばれて一度だけそのヤスケンにお目にかかったことがある。さっそうというかどかどかというかやあやあやあとお賑やかに現れた生ヤスケンはなんもいえず違和感だった。もじゃもじゃ頭に口ひげ、ぶっといフレームの度のきつそうな眼鏡は写真でも見たことがあったがサスペンダーとネクタイが圧倒的に派手で昔でいうサイケデリックというやつでとでかい腕時計といい、厚底のスニーカーといいうーん、たまらん!と唸ったのでありました。ビデオのあと、少しお話があったのだけれどつまらないもの、くだらないもの、とるにたらないものを「ばかやろう」と一刀両断に切りまくる自信満々の言葉の選び方とかなにかに反抗しているのだけれど、それが型にはまってしまっているような自由であろうとしながらかえって不自由になってしまうような感じとかに対する違和感もあった。ヤスケンさんは一年余り前に肺がんで亡くなった。彼を偲ぶ27の文章がならんでいる。なかには中条省平さんの文章もある。 「怒りにせよ、愛にせよ、これほどの強烈さで情熱をほとばしらせる人はいない。そうして、安原さんの情熱に圧倒されながら、その無償の純粋さに触れえたことに感謝したい気持ちになる」と書いている。どのひともその出会いを感謝し、いつも規格の外側にいた愛すべきヤスケンを偲んでいる。趙さんはこの追悼文集の発起人で編集も担当して、いろいろ苦労があったことだろう。27人もの思いをひとつにまとめるのはなかなかに難しかろうと思われる。ああ、ほんとうにたいへんでしたね。素敵な追悼文章ができてよかったです。おつかれさま。
2004.03.24
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楽天のHPには私書箱というのがあって、ときどきそこに感想メールをいただいたりするのだが、昨日は、学生時代の後輩からメールがあった。思いがけないことだった。うれしかった。どうやら検索で引っかかったらしい。なにしろわたしはここでは『文』さんなのでどの先輩だか特定できないけれどなにしろ同窓で文芸部に在籍していたことは間違いない、と書いてきた。時に、インターネットはこんなふうにひゅんと過ぎ去った日々を運んできてくれる。もう30年以上も昔の青臭かった日々を。彼女はきりっとしたべっぴんさんで私のほうは彼女の言った言葉まで鮮明に記憶しているのだけれど向こうがこの凡庸な先輩のことを思い出してくれるのかちと案じていたりもする。へなちょこでわけのわからん詩を書いていたのだったなあ。卒業後、それぞれの人生はねじり飴のようにくねくねといろんな局面を見せ、けっして一筋縄ではいかんのだけれど彼女はいろいろあったから、いいおとなになれてきたようなそんな気がしている、とも書いていた。さても私はどうだろう。いいおとな、かなあと首をかしげている。
2004.03.23
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ああ、はずかしいはずかしい。なんでこうも、ものを知らんかね、と赤面する。当麻という言葉がある。お能の演目である。地名でもあるのだけれどわたしはこれをてっきり「とうま」と読むものと思っていた。へーと、トーマの心臓みたいとか思ってにやりとしていたのである。ところがこれは「たえま」とか「たいま」とか読むのだと今日知ってしまった。えー、別にそれを発音する機会はなかったので誰かに対してどうこうということはないのだけれどでも、自分で自分がはずかしい・・・。そうなのだ。折口信夫の信夫が「しのぶ」だと知ったのが遠い昔ではないという恥ずかしさと同じである。ああ、こうなるとどれだけ勘違いしているのかと空恐ろしくなる。
2004.03.22
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なんでこう我が家はトラブルが多いのだろう。粗忽ものがそろっているせいか・・・。本日はご不浄のトラブルにてアクアレスキューなるかたにお出ましいただき、圧縮空気でスポン!で、ざっつ・おーる・らいと!だったのですがそのお値段が税別1万5千円!!うそーーーー!!うごごごごーと水に流れていきました。嗚呼。
2004.03.20
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生きてここにあるワタクシが、彼岸にいるひとのことを思う。もはや生きてはいないひとたちにその思いは届くのだろうか。強く強く願えば届くのだろうか。やがてワタクシがここから消えてなくなったら、誰かが思いを寄せてくれるだろうか。
2004.03.19
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本日の我が家の夕食の菜は金目鯛の煮付けだったのですが、お酒とみりんとお醤油と生姜を鍋に入れて煮立てたところで、なんとしたことか、ガス漏れ探知機が作動!いたしまして、まさに鍋に入れなんとしていた金目鯛の皿をもった私は、うわうわうわっと驚きうろたえ、右往左往したことでありました。警報はすぐに止んだのでした。しかし、換気扇は調理中ずっと回っていたし、他でガスは使ってないし、さっきのはいったいなんだったのだろう、わけわからんなあ、と思っていたところへピンポーン!がなり、ああ、だれかが文句言いにきたのかとどきどきしたのでありました。案の定、総合警備保障のおにいさんがいっぱい装備したものものしいいでたちで現れたのでありました。しかし、いくら鼻をくんくんさせても部屋にガス臭はなく、誤作動かと思ったのでありましたが、おにいさんは「調べてみます」といっていったん管理室へ引き上げたのでした。はあー、いやあ、綜合警備保障の本物だあ、とか妙なことに感動したりしているうちにおにいさんがまたやってきていいました。「お酒とみりんを長く煮立てると、ガスと同じ成分が出て、探知機が作動しますので、以後もお気をつけ下さい」はあー、こんなに長く生きてきたのに、こんなことも知らんかったなあ、と思ったことでした。いままでよく大丈夫だったもんだなとつらつらと思ったことでした。ああ、そういえば、お酒とみりんを煮切る間に、油揚げを開いていて、それがちょっと手間どったから、いつもより長く煮立ててしまったのでした。「これからはお酒で煮ます」とかおにいさんに誓ったことでした。「そうしてくださいね」と優しく諭されたのでありました。ああ、マンションライフはほんといろいろありますです。ふう。
2004.03.15
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自分が思い描く「いいひと」の範疇を自分が逸脱してきているなあ、と前々から気づいていた。そう気づいてはみても、そのことで誰かに大目玉食らうわけでなく、村八分にあってもいない。今のところは。(いや、実は私の知らないところで、ひそかにそうなっているのかもしれないが・・・・)ふと思えば、私の実家の人々というのが、兄にしろ姉にしろ父にしろ、(母も少しだけ)まあ、その、そろって、実に「わからんさん」だった。別の表現をするならば、ものの道理だとか人の思いだとか世間の付き合いだとか、そういうものに左右されないで、わが道を行くひとびとだったのだ。自己中心的な人格は遺伝するのだろうかと思ったりする。わたしはそういう家族の末っ子として育ったわけで、そういう価値観を持っているひとびとのなかで、ひとり、どうしたことか、えらい小心者で、自己中心的な考えの家族間摩擦に翻弄されし続けて、世間と我が家とのことごとくの落差にも悩まされ、実にこう、ちまちまと縮こまって生きてきたわけで、これは「いいこ」にならんとあまりに生きづらいみたいだなと、さとってしまったのだった。以来、そんなふうに自己中のひとに会うたびに、こんなふうになったらあかんと思ってきたりもしたのだが、ここへ来て、自分も自己中で、わがままで、ちっとも「いいひと」なんかじゃなくて、けっこう「わからんさん」ではないかと思うようになった。もうここまで生きてきたらやり直しはきかなくて、謙虚になればなるほど惨めな思いも湧いてきたりして、自分第一に考えないと人生の帳尻が合わないなあと感じてしまうのから、「いいひと」ではいられないのかもしれない。「自己中のいいひと」なんてのは形容矛盾かもしれないが、こころのままに生きておきてを破らないってとこに至れれば、それでいいじゃん!とか思ったりもする。ともすれば「いいひと」顔をしたくなる自分がいる。あるいは、いいひとと思われたい自分、と言えばいいだろうか。それがだんだんいやになってきたというのが、正直なところかもしれない。まあ、これも、「わからんさん」のDNAですから。
2004.03.14
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「石ころだって役に立つ」という関川夏央さんの本のなかに「わたしはなぜほんを読むのがやめられないのか」という一文がある。これはうんうんと頷くことが多い。「誰もが教養という言葉を軽い赤面なしには口にできなくなった現在では、無教養であることに不安も孤独感も持たないで済むかわりに、「知識人」が昔が少なからず味わい得たはずの少数者の矜持もまたもたないのである。読書はたんに癖である。ひとにはいいにくい癖である。・・・この世のありとあらゆる面倒から束の間逃避し、いわば我を忘れるために読書をやめられずにいるのは、・・・昔となんらかわらないのである」癖なのかあ、とちょっと安心したりして・・・。 私は最近、なかなか本を読み進めないでいる。一冊を読み上げるのに相当時間がかかってしまう。読み終わらないままの本も山ほどある。若いときは一日二日で一冊は読んでいたような記憶があったりもするのに、と情けなく思っている。乱視がひどいところに、老眼が入ってきて、花粉が飛べばかゆくてたまらず、目の環境がよろしくないために読めないという事情もある。根気もなくなってきている。活字を追い始めるととたんに眠くなってしまうのも原因のひとつだ。そして、ほんとうに頭が悪くなって、(もともとそんなによくはないが、輪をかけて)、複雑な文章を理解できなくなってしまったのかもしれないという不安もある。「私は本が好きだった。違う。好きではなかったのによく読んだ。おそらく、読書のなかに我を忘れたかったのだろうと思う」関川さんのこの言葉にわが身を振り返ってみれば、私もそうだったなと思えてくる。若い日の私の読書もまた、逃避だったのかもしれない、。教養だとか実利だとかには、全く縁なく、ものがたりのちからとか効用とかとも関係なく、ただ、自分の屈託から逃れたくて、ひととき別世界に隠れ潜んでいたかったのだ、と。入院したり、見学したり、ひとりの時間ばかりが多くなってみれば、そんなふうにならざるを得なかった。決して自分が送ることはないであろう誰かの人生に浸っていた。そのひとになって、そのひとの人生を生きていた。自分ではない自分を生きる、その時間の心地よかったこと。最近私はそんなふうな時間を持てずにいる。ちっとも我を忘れることができずにいるのはなぜだろう。どうして、本はあのころのように魅力的に映らないのだろう。それは私がもう人生をこんなに生きてきてしまったからかもしれない。私の現実は絵空事のようにうまくはいってくれず、逃げようなく屈託は追いついてきて、うへえと頭を抱えながら、うんとこどっこいと踏ん張ったりするわけで、そんなふうな時間の積み重ねのなかで獲得したもののほうが、ずいぶんと自分にはここちよかったりするのかもしれない。もうひとつは自分が文章の勉強をし始めて、書くひとの立場で眺めてしまうからかもしれない。構成や言葉の選び方につまずいてしまって、読み進めないのかもしれない。いやそれでも、ああ、くちおしや、その手がありましたか、などといういとまもなく、圧倒的な力でぐいっと持っていかれることもあるのだ。それは構成も言葉も関係なくて、群を抜いたえらい力技で、そのちから強さがまことに快く、ああ、ああ、ごむたいな!と口ではいいつつ、もうもう夢中で、我を忘れ、夜が更けるのも忘れてしまう、そんな本がないわけではないのだ。そう、たまにはそういうこともあるから、きっぱりとあきらめきれず、私の本棚には読み終わらない本の数ばかりが増えていく。嗚呼。
2004.03.13
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一日中臥せっていると、眠りと眠りのはざまで、たくさんの思いが湧いては消える。思い出すこともたくさんあるし、これからのことも考える。考えながら、それを文章にして、添削までしている自分に気づく。行きつ戻りつの思いの中で浮かんできた言葉を、ああでもないこうでもないと差し替えてみたりする。そして、ああ、これでいい、と安心してまた眠る。そうして、目が覚めたときにはその言葉をすっかり忘れてしまっている。いやあ、なんかすごくおもしろいおはなしを思いついていたんですよ。そんな気がするんですよ。このネタはいい!と自画自賛していたのですよ。これを物語に仕立てて、応募して当選したあかつきには、ああしてこうしてまで思い描いていたのにねえ。ああ、恥ずかしい・・・。そいつを夢物語というんでしょうねえ。
2004.03.12
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肩が凝って、頭が痛くて、歯が浮いて、目がかゆくて、鼻がムズムズして、喉が痛くて、ちょっと厭世的になって、あれもこれもいややが増えるというおなじみの症状がやってきて、へこたれる。で、おかゆなどを啜っていると、めずらしく息子2が声をかけてくる。「病院、行きな」「うーん、そうなんだけどね」と私。「再発したら、こわいで」息子2は時々あやしい関西弁を使う。20年ハマっ子だったのに、わざとそうする。「うん。こわいな」と私。私が入院したのは彼が15歳のときだった。「な、あの時、君は怖かったか?」と聞いてみる。「いや」と即答する。「なんで?」「このひとはこんなことで死ぬひととちがうて思うてた」なんてことをさらりと言ってくれる。「なんで、そう思ったの?」「わからんけど、そう信じてた」わからんけど、そう信じてた、こころのなかでその言葉を何度も何度も繰り返している。
2004.03.11
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日差しがあんまりあたたかだったので、そうだ、佃島へ行こうと思い立った。有楽町で有楽町線に乗り換える。その地下鉄の構内に古本屋さんが出ていたので、のぞいてみた。で、ふっと目にとまったのが朝日新聞東京本社社会部の手になる「下町」という本。奥付に昭和53年発行とある。それは息子1の生まれ年だ。古い本である。そいつを抱えて、月島駅に降り立った。平日の午前中、天気もよいので、お買い物に出た人々に出会う。マンションのなかにある店が、歩道にいっぱい商品を積み上げている。そんなところが庶民的ということなのかもしれない。 しかし、驚いた。もんじゃ通りというのかある。商店街を歩けば、5軒に1軒はもんじゃのお店という感じ。競争がたいへんだろう。開運観世音さまを探していたのだが、これがどうしても見つからない。ガイドブックによると、その商店街にあるはずなのに、見つかるのはもんじゃやさんばかり。一本裏道に入ってみると、軒を接して並ぶ小さな家の前で、おばあさんが植木の植え替えをしているのが見えたので、聞いてみた。なんでもその観音さまはビルのなかにあるんだそうで、そりゃあみつかるわけない。そのおうちから、おばあちゃん、どうしたのー、というかんじで、ちいさな女の子が不審そうな顔をして出てきた。で、そのときにおうちのなかがちらりとみえた。、うーん、玄関先の植木鉢も隙間なく並べられていたが。おうちのほうも、なんというか、テトリスみたいに、きっちり隙間なくいっぱい詰まってる。あれは技だな。建蔽率100%という感じのおうちに、きっちりおさまる荷物。うーん、たくましい。おかげさまで観音さまに手を合わせることができ、いろいろ開運いたしますよう願う。そこに至るまで、何度同じ道をいったやら・・・。もんじゃを敬遠しておそばをいただいて、いただきながら、「下町」を読んだ。そこには「佃祭り」という章があり、これが、いい。わたしは非常に祭りに弱い。どういうわけか泣いてしまう。ねぷたの山車を見ていると、うるうるする。テレビで見るだんじりや御柱も滂沱、「小さな江戸を歩く」の角館のお祭りのくだりは涙で文字が曇る。佃祭りもそれにかける男達の意気込みに震える。「祭りってえのはねえ。お神輿かつぐだけじゃねえんだよ。大切なのは、それまでの準備なんだ。日当もらって、弁当食って、神輿だけかっこよくかついで、はいさよなら。そんな外人部隊は、佃にゃひとりもいらねえよ」そばすすりながら、せりあがってくるなにかにまた涙で、今度はハナをすすって・・・そうかあ、そうかあ、と読み進む。「なぜなのかは、本人にもわからない。ただ、ひたすら、祭りがすきなのである。祭りが近づくと、尻がこそばゆくなる。祭りのひと月も前から、仕事を放り出した・・・」その住吉神社にも行った。こじんまりとして、ひとっこひとりいない。お神楽の舞台があってそれを眺めているうちに、祭りの熱気のようなものかふわあと立ち上ってくるような気がした。そこは男達のたいせつな場所なのだと思った。静かに祭りの日を待っているのだ。佃島にきたのだから佃煮を買う。私の前のおばさんが「たらこ1キロ送っとくれ」と言う。おねえさんが「たらこですね」と確認する。おばあさんは「いいや、たらこだよ」と答える。耳が遠いのだ。しかし、コントみたいなことってほんとにあるんだなあ。「あと、昆布を200。わたしはひとりだからね」ああ、そうか。ここでは自己申告するんだな。私の番になって詰め合わせを買って、私も「観光客ですから」と自己申告をした。おねえさんが笑った。そうして隅田川沿いを歩いた。ふっと磯のにおいがする。日はうららかで水面でちろちろと揺れる。浅草からの観光船が白い波を立てて、行く。「はーるのうらーらーの隅ーだーがーわー、のーぼりーくだーりーのふーなびーとーがー」とここまで歌って、櫂はないなあと思った。クロッカスの淡い紫が目に残った。
2004.03.09
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時々私は京都生まれです、と言うのをひかえようかしらんと思うことがあります。一応京都市内の伏見区という区で生まれたんですが、伏見ていうのは、いうたら、あの羅生門の外であって、世が世であれば魑魅魍魎が跋扈していたような辺鄙なとこなんですわ。しかも、学校卒業してすぐに京都を出たんですね。つまり、京都の内情なんぞ、自分のまわりと親戚関係付近のことを除いては、ちっともわからん京都生まれなんです。しきたりとか習慣とか名所とか名物とか、反対に関東のひとに教えてもらって、へーへーへーと感心しているばかりなんですね。かっこ悪いんですが・・・。さても、そんな私はこのところ、白洲正子さんの本を始終眺めているのですが、「遊鬼」という本のなかの「お公家さん」ってエッセイに、ずばっと射抜かれてしまい、唸っております。昔、正子さんが12,3歳のころ、お父さんとしっしょに京都今出川の冷泉家に行くんですね。で、冷泉家の書生さんが取り次いでくれるんですけど、ご主人にこう告げるんですね「地下人(じげびと)が参りました」うーん、地底人ではないのです。平安の時代5位以下の殿上人でないもののことを言うんです。卑しい身分の武士を意味しているとか。正子さんのお父さんは樺山伯爵さんなんですが、明治の官位なんぞは通用しないのですね。で、その冷泉家の主のかたは近眼だったもんで、京都の町衆は「ちかめさん」と呼ぶんですね。それもすごい。違うときに正子さんはおかあさんと冷泉家に古くから伝わる七夕祭り(きっこうでん、というらしいです)に招かれるんですね。廊下の戸が開くとよれよれの黄ばんだ装束に烏帽子をつけた異様なひとたち6,7人が楽器をもって現れるんですね。ちかめさんもそのなかにいるんです。「無言のうちに、威儀を正して、楽を奏しはじめると、彼らは申し合わせたように陶酔状態におといり、糸竹の声のなかに没入していく、もうその頃には夜は更けて、紙燭の火影に呆けた白い顔が明滅し、心は遠く平安の昔に還っていくようであった」と正子さんは書いています。そして「子供の目には、お化けが表れたとしか思えなかった」と続きます。「この世のものではない。公家という不思議な存在--地位を失い、権力をなくし、貧困のどん底にあってもなお祖先の誇りだけに執着して、雑草の如くいきている」そんなひとたちが京都におられるのですから、その奥深さ、恐るべしであります。あるお公家さんは毎年暮れになると、近所の家を回って歩いたそうです。「いよいよ食い詰めたので、家を焼いて、夜逃げしようと思う。風下のお前方は類焼するかもしれん。それは気の毒だから、挨拶にきた」って堂々と胸張って言うんでうすね。町衆は心得たもので「いかほどご入用か」とたずね、その額を集めてお届けするんですね。これを平然とやってのけるところが、貴族の貴族たる所以だそうで、「淀城の馬箒作り」の末裔にはとんとまねできんことであります。そして、正子さんはこう書くんですね。「京都の住人ほど人間の裏表に通暁している人たちはいない。千年の歴史がそういう智恵を生んだが、また彼らほど「銘柄」の好きな人種もいないと思う」ほらね、いよいよ私なんぞは京都人になれませんです。「たとえ空虚なぬけがらにすぎなくても、形式というものが大切であることを思わないわけにはいかなかった。考えてみれば、それば公家だけのことではなく、この世に生きていく以上、私たちはなんと多くの虚言を吐き、こころにもない行動を強いられていることか。夫婦の間、親子の間といえども、正直一辺倒では丸くおさまらない。いや。正直に生きようとすればする程、仮面が必要となるのではあるまいか」で、私は正子さんのこの言葉にこそ、ずばっと射抜かれてしまったのであります。
2004.03.08
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月が美しく見えるのは、月がもっとも美しく見える距離に私たちが立っているからなのかもしれません。ひととひとがその美点を認め合うためにも、そういう焦点距離のようなものが必要なのかもしれないな、と思ったりします。月に降り立ってみれば、美しかった月が見えなくなってしまうように、ひととひとの距離があまりに近くなりすぎると、その美点が見えなくなってしまうのではないかなあ、と。・・・時に、家族っちゃあ、ほんと、重たいもんです。
2004.03.06
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世の中のことを好きと嫌いに分けてみると、だんぜん嫌いの方が多い!と気づいてしまうと、なんだかつらい。自分のなかの振り子が大きく揺れているのがわかる。それはいつだって、いややとええなあの間をいったりきたりしているのだけれど、ここのところいややの方に大きく振れて、なかなか戻ってこない。学級委員とか生徒会役員とかPTA役員とか町内会役員とか、まあ、人生のなかでそんなふうな役回りがよく回ってきたわけで、それは自分の利益より全体の利益を考えるような立場にいやおうなく立たされてしまうわけで、自分が嫌だなと思うこともその立場でいやじゃないという顔をしなければ、事が進んでいかないわけで、事が進まないことは自分の評判を下げることであるという計算がないわけでもないのだけれど、まあ、時に応じ、自分を殺してしまうことになる。組織にいるということはおおむねそういうことなのかもしれないが、それをノーペイでやっていると、時に、救われない思いがするのである。で、ふっと、気づくとにこにこしながら、こころのなかでは「きらいきらいあんたなんかだいきらい!」とか「いややいややものすごういやや」とか節操なく唱えていたりする。それはもう、まったくききわけのない子どものように。で、また、おとなの私はこれではいかん!と思う。そういうききわけのない人間も嫌いだぞ、と。自分のことは好きでいたいから、いやいや、そうはいっても、それぞれに事情のあることだから、そこはそれ大人になって、好きにならんとね、とか無理して、律儀にそんなふうに思おうとする。若いときはそれでいけたのだけれど、更年期の悲しさで、非常にわがままになってきたせいか、どうもその律儀さが持続しない。いや、そういう撓めかたも、なんだか胡散臭くて嫌だな、と思い始めてきたのかもしれない。で、そういう目で世の中を眺めていると、やっぱりいやや!と思うことがそこここに溢れているのである。なんでそんなこと言うんや!なんでそう自慢ばっかりするんや!なんで相手の立場を考えへんのや!なんでいつも自分が正しいと思うんや!なんでいつもひとの反対ばっかりするんや!なんでじぶんだけは違うて思うんや!なんでひとの揚げ足ばっかり取るんや!・・・なんでや?いややなあ。自分をひとつの点だとして、その点には色がついていて、点はいっぱい集まって線や面になっていくのだけれど、みんなと同じ色の点だったら、自分がどこにいるのわからなくなってしまうから、わたしはここにいるのよ!と叫ぶようにみんなとは違う色に自分を染めるということ。最初から、まわりのどの点とも色が違う孤独な点にとって、それはいつもいつもなにかにさらされているということで、ほとほと疲れてもしまい、同じ色の点が集まって線になって面になっていくところで、その安心感に自分も浸りたいと願って、もともとの自分とは違う色に自分を染めるということ。あるいは、私の振り子はそういう両極を行ったり来たりしているのかもしれない。片方に振れたときは反対側のことが嫌になり、もう片方にいったら、同じように反対側のことが嫌になるのかもしれない。これもなんだか、救われない・・・。
2004.03.04
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MOA美術館の尾形光琳の「紅白梅図屏風」を見てきました。かなりの遠出でちょっとどきまきいたしました。はじめてのおつかい気分でありました。さても、屏風の中で紅梅が見得を切っておりました。白梅は御簾の陰から覗いているようでありました。中央の流れには度肝を抜かれます。これは勇気が必要だろうなあ、と。しかし、その2枚を離して見れば、なるほど納得どちらもじつに収まりのよい構図でありました。展示室の後ろの方に置かれた椅子に座って眺めているとその両方の梅の木は流れに隔てられ見つめあうおとことおんなの姿にも思えてくるのでした。すると、その幹から伸びる細い枝の全てが通わそうとする情けのようにも感じられるのでありました。そうして、だんだんどきどきしてきたりするのでした。そしてまた、他の展示室では先人たちの美意識を改めて実感したのでありました。仁清の壷やら、光悦の蒔絵硯箱やら、伊万里焼きいろいろ。職人の確かな技やセンスに感嘆しながらもお金持ちなんだなあ、ここのひと、とか思ってしまうのでした。だって、金の茶室ですもの・・・。そうそう、このたびは、長次郎の黒楽茶碗に惚れました。いやあ、渋い。枯れる、とはこういうことでありましょうか。手にとってみたいなあ、触ってみたいなあ一服いただきたいものだなあ、と思えども黒楽さんはガラスの向こう側にまつられているのでした。白洲正子さんが、骨董は使ってなんぼのもん、と言っていたことを思い出したりしたのでありました。何事もなく無事に帰宅できるのかと思っていたら、帰りのこだまのなかで「だたいま11号車に急病人がおられます。車内に医師のかたで協力していただける方がおられましたら、お申し出くださいませ」のアナウンス。ああ、ドラマじゃなくても、こういうことって、あるんですねえ。顛末はわからないのですが、どきどきいたしました。ご無事だといいのですが・・・。
2004.03.02
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