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鶴見大学歯学部附属病院にて、MRIの結果を聞く。「問題なしです」と主治医H先生はにこやかに告げた。わたしが患った腫瘍は問題があったら切るしかないし、ジタバタしてもなにも変わらないのだと腹を括ってはいても、「問題ない」と言われるとやはりほっとする。そこで、ああ、わたしはもうちょっと生きていたいのだなと自覚する。あとは骨の検査がある。タリウムなる放射性物質を注射してその動きで骨の異常を発見するというもの。シンチと呼ばれる検査だ。これが鶴見大学にはない検査設備で、わざわざ足立区の病院まで足を運ぶ。10年前、わたしが手術したのはその病院だった。鶴見大学が改築中だったので、H先生が客員医師をしていたその病院が選ばれた。その当時はH先生の奥さんがそこの医長をしており、ご夫婦で主治医をしてもらっていた。その後も、年に一度、その検査のためにその病院を訪れていたのだが、ここ二年ほどはH先生の海外出張などがあり、検査がなかった。その二年の間に奥さんはそこを辞められた。 その病院に予約を入れてもどったH先生が聞く。「はじめて、ここに来た時に問診した先生のこと覚えてますか」「はい、不思議と覚えてます。M先生でしたか。あの、おぼっちゃまってかんじの先生でした」「ははは、いまでもおぼっちゃまですよ。彼が今、あの病院の医長なんですよ」「へえー。そうなんですか。CT取る時ずいぶん待たされたことがあって、そばでいっしょに待ってもらっていろいろお話しました」「ええ、むこうも覚えてるっていってましたよ」M先生はわたしがはじめて鶴見大学の診察を受けた日に問診に当たったひとだった。生真面目でちょっと小心そうな、小柄でどこか少年のようなおどけなさの残るひとで、先生と呼ぶのがためらわれるような「おぼっちゃん」というかんじのひとだった。CTを待ちながら、その当時の生活の大変さを聞いた。診察と勉強、人間関係。将来のことも細く険しい道なのだと言っていた。10年が経ってみれば、彼も医長さんになっていた。やっぱり、人生の振り子は幾度も振れる。「彼はこの病院内で唯一学長になる資格を持ってるですよ」「へっ?」「ここは総持寺の病院ですからね。かれは曹洞宗の僧籍を持ってるんです。仮の名はサトルですがシュウネンってのが本名なんですよ」僧籍のあるおぼっちゃまの歯科医師。7月6日、シュウネンさんに会う。
2004.06.29
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わたしは天下御免の更年期!である。気力体力使い果たして、ある日パタッと倒れる。それは予想のつかぬほど唐突にやってくる。先週はパワフルな女性と続けて会って、そのあとMRIだったもので疲労困憊してしまった。それどほ動き回ったわけではないのだけれど、相手の言葉にかき回された、という感じがしている。それにしても、最近は元気なひとに会うと、なんでかとてもしんどくなってしまう。昔からそうだったのかもしれないが自覚的になったのはこのところのことだ。親しい友人なのに、疲れてしまうのは、こちらのわがままか、とも思うのだけれど、元気なひとのまっすぐな言葉がひどく応える。こちらの憂いも屈託もはっはーと吹き飛ばされてしまって、かならず、相手の我田引水となって、気がつくと、延々相手の話を聞かされている。それは形を変えた励ましなのかもしれないが、結局そちらの自己満足だろう、と思ってしまうのだ。なんでこのひとは自分のはなしばかりするのだろう、とか、なんで平気でひとの話をさえぎるんだろう、とか、なんで壁打ちのように考えるいとまもなく言葉を返してくるのだろう、とか、わたしの言葉はどこへ消えてしまったのだろう、とか、なんでわたしの思いをいっときでも、心にとどめてくれないのだろう、とかなんで一から十まで話しきらないと気がすまないんだろう、とか、二人の会話の持ち時間がものすごくちがうなあ、とか、これはわたしには関係ないなとか、これは自慢なんだろうなあ、とか、高いとこからの言葉だなあ、とか、そんなことを思いながら聞いている。これが疲れるのだ。こちらの根性が歪んでいて、僻んでいるのかもしれないが、どうもついていけない。ついていけないことに結構衝撃を受けていたりして、このひととのあいだに、いつのまにそんな隔たりができたのだろうと切なくなったり、所詮、そういうもんなのかもしれんな、とニヒルになったりする。わたしもおんなじようにぺらぺら喋って、なんもかんも自分の話にしてしまって、ゴーマンに自慢話をぶち上げられれば、問題はないのかなあ。カラオケのマイクの順番待ちしてるときのように、相手のことはほっぽって、自分の話したいことを頭のなかで繰っていればいいのかなあ。うへえ、それもいやだな。できんな、きっと。元気な人の前ではごにょごにょと口ごもってしまうだろうなあ。そうして、こころは遠くへ逃亡してしまうんだろうなあ。いやいや、それでも!なのだ。気がついてないといけないので言っておこう。あなたのことばにうんうんと頷き、あなたのことばを心にとめて、思いを巡らし、心を添わせ、そうして、言葉を選んでさりげなく伝えることは、つまり、よき聞き手であり続けることはなみたいていなことではなく、それはひどく忍耐のいることで、このほか疲れることなのだ!と、更年期の真ん中でわたしは叫びたいのだ!!なんて、力むと、ふらっとめまい。これぞ更年期・・・。
2004.06.28
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恒例の頭部MRI検査の日。これがなかなかにこたえる。頭を固定されてドームのなかに突っ込まれて、カチカチジージーという音を聞きながらの一時間。これは拷問に近い。いったい、わたしになにを吐けと言われるか?とでも愚痴りたくもなる。もう十回ちかくやってるはずなのに、どうも慣れない。ドームのなかでは、目の前に白いプラスティックの固定具が見えるだけ。仕方なしに目を閉じる。扉の向こう側の検査技師の声が唐突に「はい、はじめます」と響いてくる。ドキドキする。かちかちジージーと耳そばで聞こえているのに、眠ってしまう。いや眠ると言うより、しばし意識がなくなるという感じだ。「はい、頭を動かさないでリラックスしてください」というその声に心臓がビクンとして意識が戻る。戻るとすうと血が引いていく感じがする。えーい、もう、リラックスなんてできるもんか!!と唸りたくなる。いやいや、そんなぞんざいな言い方をして、検査技師さんを怒らせて、ここから出してもらえなくなったら、ものすごく怖いことになる。それは生きながら棺おけに入れられてしまう恐怖のごとく、想像するだけで気が遠くなる。しかし、じっとしているということはなんと辛いことだろう。鼻の頭だとか頬だとかかゆくなってもかけないし、つばも飲み込めないし、ホールドされてるところが痛み出してもいかんともしがたい。「次は7分続く検査です」と言われる。この7分の長いこと。チキンラーメンの3分も長いかもしれないがかちかちジージーの7分も永遠に近い7分のように思われたりする。同じくMRIをうけた人が、今なにか事故が起こって、検査技師がいなくなっちゃったら自分はどうなるのか不安でしょうがない、と言っていた。それを聞くまではそんなことは考えたこともなかったのに、今回はちょっとそんな事態を考えてもいた。若くてがっしりとした検査技師さんは、職場放棄することもなく「おつかれさまでした」と終了を告げた。ゆっくりと起き上がったつもりなのに、くらっときた。うつむいて、頭を低くして時を待つ。どこか遠いところへ行っていた自分の意識が、この世界に帰り着くために必要な時間だ。人間に戻る儀式かもしれない。ちらとのぞくと、検査機器には、輪切りにされたわたし自身の頭のありようが何枚も映し出されていた。欠けたところは欠けたまま映る。ああ、そうです。あれがほんとうのわたしです、と思う。鏡に映る自分の顔。この皮膚の下でどんなことが起こっているだろう。なにがあっても引き受けていくしかないのだけれど。
2004.06.24
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言葉はどこか地雷に似ていて、思いがけないところでボム!とくる。それは互いの思いの落差というもので起こるように思う。ある言葉が諍いの元とわかっても、往々にして、それを仕掛けたほうは、そんなつもりは微塵もなかった、と告げる。そんなの、あなたの考えすぎよ、と開き直ることもあるし、ひがんでると断定することもある。もうそこいらへんで無神経なのだ。想像力の欠如なのだ。他人の痛みがわからないのだ。自分が一番正しいということに疑いをはさみたくないのだ。しかし、そういいながらも、立場が変わると誰しもやってしまいそうなことなのだ。自戒を込めてそう思う。その言葉の付近に、地雷を踏みそうなひとは誰もいないと確認してから、そっと言葉を放たねばならない。たとえば、おば様方のヨン様熱をいかがなものかと言いたいときは、「冬のソナタ、どう思う?」とあらかじめ探りを入れておかなければならない。前置きなしに、「空港のお出迎えは見てるほうが気はずかしいわね」なんて言ってしまうと、思いがけずボム!と相成ってしまう。そして、結構自ら地雷を仕掛けるひとほど、他人が仕掛けた地雷に過敏に反応したりするようにも思う。そう、くわばらくわばらなのだ。
2004.06.23
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やっぱり低気圧は苦手だ。頭が回らないのはいつものことだが、今日は桂歌丸さんの独演会で寝てしまった。長屋にお化けが出ている噺の最中に意識がなくなってしまった。まわりはどっとわいて、コクっと首が折れて、おっといかんいかんとまぶたを上げて聞いてるつもりが、またうつつ。落語のライブで寝てしまうなんて・・・情けなし。落語は大ホールで聞くんじゃなくて、息遣いが届きそうな小さな寄席で聞くのがいいんじゃないかなと思う。緊張感がちがうんじゃないかな、と。休憩ののちの左甚五郎の噺はしっかり聞いた。初めて聞いた噺だった。その組み立て方、くすぐりどころ、場面転換するところ、キャラの立ち方、会話のテンポ、おとしどころ・・・それを文章で書くとしたら・・・なかなかに手ごわいものだと思った。そして、一字一句を記憶して再現できる落語家の能力。自分の記憶力の低下、物忘れのよさを考えるにつけ、歌丸さんのかなり寂しくなったおつむを眺め、「てえしたもんだ」と感心する次第である。
2004.06.20
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まだ日の暮れない帰り道に思い出すことは、今日一日のエッセンス。網膜と鼓膜と心に消えずに残っていること。出かけるときマンションの入り口で出会った女の子が、ママの漕ぐ自転車の後ろで振り返って手を振ってくれたこと。ピンクのTシャツの背でポニーテールが揺れていた。山手線の座席からちらちらと用心深くわたしを見上る男の子の腕の丸みと足の虫刺されのあとの赤み。「保育園で指されたのかい?」と聞く隣のおばあちゃんとそっくりの目をしていた。お茶を買ったコンビニの男子店員さんの名札の「きのくにや」という名前とお釣りに添えられた指の白さ。京浜東北線の前に座った女性がモデルのように足を絡めて座ったのでスカートが広がってどうしてもみえてしまうふともも。そしてそれが気になってしようがない、わたしの隣席の坊主頭の高校生。車内で携帯メールを打ち続ける小太りの男子に友人が「そんな生活続けてたら生活習慣病になっちまうぜ」といい、件の男子が、それに「大丈夫、ぼく階段足で上がってるから」と答えたこと。クリーニング屋のおばさんが表でマリーゴールドの植え替えをしていたので、その背に頭をさげたこと。よく行くシチューとオムライスのおいしい洋食屋のご主人が病気でしばらく店はお休みだと張り紙があったこと。おいしいうどんを食べたこと。ピクルスの酸味とゴールデンキウイの甘酸っぱさ。そんなふうにたくさんの他人と知り合いに会った今日と言う日の出来事、そのひとたちの言葉や視線や仕草やため息を思い出し、そしてその場面で感じた自分の思いをこころにしまう。
2004.06.18
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6月15日朝日夕刊に詩人の佐々木幹郎氏の言葉があった。「携帯電話でメールを受け取ると、すぐに返信する。インターネットのチャットや掲示板に書き込んで、匿名の誰かから反応があると、すぐに応答する。そういう人たちを見ていると、言葉を通して考える時間、言葉を受け止めて沈黙する時間があまりにも少ないことに驚く」「そんなに今という時間が惜しいのか。いや、そこには今などない。外界への反応だけがある。しかし情報機器の発達は、そのような懐疑を置き去りにする。わたしたちは気付かないうちに、言葉を通して考える時間、沈黙する時間を失いつつあるようだ」そういったあとで佐々木氏は「そのような時代に詩の言葉とは何であるのか」とつづけ、谷川俊太郎氏のCDによる詩集「家族の肖像」について考察する。二十代だった谷川氏が「言葉のコアには沈黙がある」といったそうだが、このCDでの朗読には息子さんの賢作氏の音楽が余白を形作るように快いのだという。その音楽は詩の言葉がうながす沈黙の容積に見合った大きさをたっぷりと持っているのだという。その言葉に頷きながら「沈黙する時間。余白」を考える。自分の作文がぺらぺらで、どこにも沁みていかなくて、言葉だけが表層雪崩れを起こしているように感じることがある。形を整えることはできても、浸透していきはしないのだと思う。沈黙する時間に、自分の思いと言葉がはないちもんめをする。この思いにフィットする言葉をくださいと頼むとこの思いだけじゃわからないよと答えが返ってくる。この思いを自分の中で深くしてまた言葉を求める。そんな作業はにわかにはできない。大きく息を吸って深く潜るように。言葉の深海にたどり着くには長い時間が必要だ。佐々木さんの記事のとなりに映画監督の是枝裕和氏がこんな言葉を書いていた。「映画は人を裁くためにあるものではないし、監督は神でも裁判官でもない。悪者を用意することで物語(世界)はわかりやすくなるかもしれないが、そうしないことで逆に見た人たちにこの映画を自分の問題として日常までひきずって帰ってもらえるのではないかと考えている」巧く言えないんだけど、なんだかこの言葉がひっかかっている。ゆっくり考えてみよう。
2004.06.17
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人生でこんないい日はあまりないなと思えるお日和がある。晴れ渡って湿度が低くて風のさわやかな日。干した布団や洗濯物にひなたの匂い。植木鉢のなかのみどりが濃い。難儀なことは相変わらず難儀で家の中には蹴りたい背中も並んでいる。朝からの一仕事終えてほっとすると窓からの風にカーテンがかろやかに揺れるのが目に入る。どこかで風鈴が鳴っている。机に向かって久しぶりに万年筆で原稿用紙を埋める。続きのキルトをちくちくと縫い続ける。知らないうちにまぶたが下りて、しばしまどろむ。なにかしら夢を見たような。電話が鳴って心許せる相手と会話が弾む。帽子を目深くかぶっておつかいに行く。また一仕事終えてPCの前に座る。今日という日を振り返る。一日は一日。パッチワークのハギレの一枚が繋がって、キルトのひと針ひと針が繋がって、そして大きな作品になるように、こんななんでもない一日が繋がっていくのがわたしの人生。こんな一日も悪くない。
2004.06.15
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みどりさんから電話があった。「さくらんぼ、どうする?」6月のおたのしみ、山形からサクランボのお取り寄せ、である。佐藤錦は直径2センチの法楽である。あの甘さはひとをとりこにする。「もちろん、頼む」みんなで頼めば送料が安くつく。と、同時にサクランボ泥棒のニュースを聞く。人が汗水たらして、丹精込めて実らせたものをかっさらうとは、万死に値する、と誰かが言っていた。ああ、そうだ、6月13日は太宰治が死んだ日で、19日が桜桃忌だと思い出す。太宰は昭和23年に山崎富栄と玉川上水に入水心中した。19日に死体があがり、その日は彼の誕生日でもあるので、三鷹市下連雀の禅林寺で偲ぶ会が催されるという。39年しか生きなかったひと。太宰より長く生きてしまった、とか思ってからもずいぶん時間がたつ。ほぼ半世紀生きてきて「太宰が好き」というのは少々気恥ずかしい気もするが、それにしても、このひとの文章はうまい。アフォリズムの宝庫でありながら、なんというか、こう、神経に擦り寄ってくる文体だなと思う。読み手は、抱きしめるか、突き放すか、そのどっちかしかない。そうして、ふっと思う。作家の奥さんは大変だなあ、と。桜桃忌の名の由来になった作品「桜桃」は夫婦ケンカの話だ。あせもが胸の間にできたおくさんがその箇所を「涙の谷」と言ったのかきっかけで、主人公の思いがゆれ始める。そうして耐え切れず、やけ酒を飲みに行った店で「桜桃」が出て、この男は「子供より親が大事」といいながら、さくらんぼをつまむのである。小説としての味わいなどは横において、思う。こんなに小心で身勝手なひとが夫だとしたら、そして「家庭の幸福は諸悪の根源」と書く男と毎日一緒に暮らすとしたら、それはたまらんわなあ。まあ、ひとは誰にも欠点はあり、それはそれと認めながら、それを補う長所があるからこそ付き合っていけるのだと思うが、天秤の片側にそれだけのマイナスがありながら、共に暮らしているのは、反対側にそれよりも重いプラスがあるということである。実際の大宰夫人は下連雀では太宰の小説の口述筆記をしていたし、太宰作品の最初の読者であり、その意味での幸福感はあったに違いないと思う。つまり小説家と暮らす妻にも恍惚の不安があったわけだなと思う。なにがあっても、珠玉の言葉を編む男だからこそ、一緒に暮らした。おんなは泥棒のように、大事なひとを横から奪って、命までも絡め取ってしまった。太宰治の遺体は、数時間後に立派な棺に移され運ばれたが、山崎富栄の 遺体は、午過ぎまでムシロをかぶせたまま堤の上におかれ、父晴弘が1人で、変わり果てた娘の前に忘れられた人 のように立っていたという。21日 本郷指ガ谷町山崎達夫宅にて密葬を行い、都内文京区関口二丁目の目白坂の途中にある永泉寺に埋葬された。この目白坂は谷崎潤一郎、円地文子、瀬戸内晴美 が住んでいた目白台アパートへの道だという。なんとなく業のふかいことだなあとか思ってしまう。癇癪持ちだったり奇行癖があったり浮気だったり貧乏だったりほら吹きだったり見栄っ張りだったり、人間味の極致のような欠点を抱えた作家と共に暮らすのと、皇太子妃であることとは、どっちが大変だろう、とか思う6月13日である。
2004.06.13
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息子たちの卒業した小学校の名が10日付け朝刊社会面に載っていた。「障害児に暴力的指導 はわせ1時間/箱に閉じ込め20分」という見出しだった。息子たちが卒業してもう十数年もたつから先生の顔ぶれも変わっているのだろうと思っていた。しかし、息子たちにその記事のことを教えると、「えー、あの先生校長になったの!?」とふたりともが驚きの声をあげた。なんでもその名前を持つ先生は、かつて、クラス担任は持っていなかったが、家庭科の先生で息子は二人とも習ったという。別人の可能性もあるのだが、一応そのひとがどんな先生だったのかと聞くと、ふたりは顔を見合わせる。すごく怒りっぽい先生だったな。うん。女の子ばっかりひいきしてたな。嫌いだった。家庭科の時間はクラス崩壊みたいにみんなうるさかったし、たち歩いたりしてたな。校長になるとは思わなかったな。そんなことを口々に言った。彼らの記憶にはそんなふうに残る先生らしい。この校長は事実の一部を把握しながら「男性教師はベテランだから」と市教委に報告しなかったと記事にある。男性教師は「厳しく指導することが、児童の自立のために最良だと思い込んでいた。反省している」と話しているそうだ。息子たちがその小学校にいた頃のことを思い出す。先生を頭から信用してはいけない、と密かに思っていた。むろん、よい先生もたくさんおられたが、想像を超えた価値観を持った先生が実際にいたからだ。突然怒り出して授業をやめてお説教に時間にしてしまう先生や、ヒステリー状態になる先生、えこひいきのひどい先生、よくうつ状態の先生もいた。PTAがうまく機能しなかったこともあり、親が見かねて学校を飛び越して市の教育委員会に駆け込み、先生が変わったこともあった。。「こんなことで自分の母校が新聞に載るのも、なんだな」「ああ、そうだな」卒業生たちはちと困惑しているようだ。母も久しぶりに「ややや」である。
2004.06.10
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カルチャーの帰りに、多摩川台公園の紫陽花を見に行きましょうと誘われた。わたしはどちらかといえば一本道の人間で、来た道を帰らないと迷子になってしまうようなところがある。それでも、道草をする、という感じは悪くない。糸の切れた凧になってどこかに飛んでいってしまいたいという思いもなくはない。誘ってくれたのは、ご主人を亡くし、一人暮らしをされているあのご婦人。東横沿線にお住まいと聞いている。お年は60歳代の後半、パーマ気のない短髪はグレー。薄化粧された顔の知的な二重まぶたの眸がよく動く。そのひとは、この公園はわたしの散歩コースなの、といいながらいかにも歩き慣れた風に、公園内の坂道を苦もなく登っていく。行く道の両側に紫や水色の紫陽花が競うように鮮やかに咲いている。土のPHによってその花の色は変わるという。従順さ、あるいは自分のなさか。翻弄される、ということか。持ち重りのしそうな花。豊かであでやかな女のイメージ。みずみずしくあってこそ美しく、水が足りなければ立ち枯れる。その姿の醜さ、悲しさ。その落差のせつなさ。回遊する歩道を行きながら花に重なる美しい女の人生を思う。損なわれる美。失われる想い。紫陽花の花壇を抜けるとタチアオイが咲いていた。数え切れないほどの蕾をつけてせいいっぱい背を伸ばす立ち姿。「主人が通っていた病院のそばの道端に、朱のタチアオイが咲いていてね、気に入ったみたいだったから、種を集めて植えたのよ。去年は咲かなかったけど、今年は咲くかしら」そんな何気ない言葉も、登場人物の不在を思うと、舞台が暗転する。生者と死者の境目に立っているような気がして、なにも答えられず、ただ、聞いて、頷くだけだ。この公園には古墳があったため、開発が免れたという。たくさんの季節の巡りを生きてきた樹木が、うっそうと枝を重ねている。雄雄しいクロマツが力強く天を目指して伸びていく。エノキ、コナラ、ソメイヨシノ、マユミ、ミズキ・・・馴染みの木を見つけて嬉しくなる。こぶを作ったり、ねじれたり、うねったりしたながら、どの木も立派に枝を張り、伸びていく。ここでは、はからずも死者の眠りに助けられて、生きているものの濃密な時間が流れているのだ。幸田文さんの「倒木更新」の話をした。そのひとの大きな眸が輝いた。倒木の上でしか育たない新しいエゾマツの芽。どんな命の終わりに意味がある、と思う。そしてそれは、生きて在るものがそれぞれに読み解くものだ、とも。この公園でみどりにそまり、この空気を胸に入れ、ふっと想いが和むことがあるのだろうか。東屋で思いにふけることもあるのだと聞くと、埋められない喪失感に触れてしまったような気がしてうつむく。溢れてくる思い出と向かい合うのは楽しいのだろうか。辛いのだろうか。帰りは田園調布のほうへ降りた。長嶋茂雄の家があるのよ、といわれて見学に行く。亡くなったご主人に一から野球のルールを教えてもらったのよ、と笑う。「ゲッツーだとか、ヒットエンドランだとか」倒れてリハビリ中だというこの家の主を思う。門の前で頑張ってくださいと声をかける。青々としたイチョウの並木を歩きながら、秋の姿を思い描く。はらはらと黄色く染まった葉が舞うことだろう。物悲しくもあでやかな舞であるに違いない。駅が近くなるにつれそのひとの言葉が少なくなるような気がしてきて、わたしのほうがおしゃべりになる。とりとめなく思いつくままに話す。道草の終わりが近いのだと思うとなにやら別れがたくなる。もう少し、遠回りしてもよかったね。「また来週お会いします」と言って別れて改札に入った。4,5歩歩いてふっと振り返るとそのひとが手を振っていた。
2004.06.09
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自由が丘に行った。友人の趙さんの教えてもらった「古桑庵(こそうあん)」という甘味処へ行った。ひさしぶりにきぬさんにあった。キルトのお渡しでもあった。横浜でいうと元町のようなハイカラなセンスのよい店舗が並ぶ町並みの坂を上って行くと、そこだけ時間が止まってしまったような、昭和の香りのする佇まいの民家があらわれる。古桑庵というのは、夏目漱石の娘婿の松岡氏の友人であったその家のおじいさんが、上京してくる松岡氏のために作った茶室なのだと説明してある。庭を通って玄関の引き戸を開ける。引き戸は磨きこまれて木目が美しい。からからからと乾いた音がする。その響きと共に時を跨ぐ。実家に帰っていくような気分だ。玄関で靴を脱ぎ、上る。左のほうに進む。開け放たれた座敷に座卓が並び、藍色の座布団が敷かれている。庭に面したガラス戸のそばは廊下たったのだろうが、そこにも座卓が三つ並んでいて、その真ん中に陣取り、抹茶白玉をいただく。ガラス戸からさっき通ってきた庭が見える。手前にカエデが見える。マキやアオキや松が見える。古い井戸や灯篭、大きな石も点在している。手水鉢もある。自分が生まれ育った家の庭もこんなふうだった。井戸はなかったが、かわりに池があった。何年か前までは当たり前に自分が帰る家だったが、今はもうない。競売され、跡形もなく壊され、新しいしゃれた建売が並んでいる。きぬさんと話し込むうちに、にわか雨が激しく降り始めた。瓦屋根を打つ雨音を聞いたのは久しぶりだ。大粒の雨が庭の土をぬらし、やがて水溜りを作り、その水面で跳ね返る。雨水は樋を勢いよく流れていく。かつては当たり前に自分のまわりにあったものが立てる音がひどく新鮮に耳に届く。マンションで暮らす自分には縁のない音になってしまった。キルトを気にいってもらえて嬉しかった。自分の作ったものが誰かしらの手に馴染んで用を為すことができれば、それはさいわいというものだ。注文をこなすことができてよかった。やっと肩の荷が下りた。過分な頂戴ものに恐縮している。床の間の飾りや骨董のような調度を視野の端に収めながら、里帰りをしたような空気を吸いながら、風になるガラス戸の音を聞きながら、しらずしらず互いの秘めた物語を語ってしまう。話しながら頷きながらおたがいの間にある距離が縮んでいく。それにしても、おんなの笑顔のしたにあるものはなんと奥深いのだろう。なんとたくさんのものを抱えながらおんなは晴れやかに笑って見せるのだろう。自分も含めてそんなおんなをいとおしく思う。ひとしきり言葉を尽くし席を立つころに雨がやんだ。敷石の色が濃くなり、松の葉に雨粒がとどまっていた。
2004.06.07
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本屋にいくとパッチーワークの本はたくさん並んでいる。隔月に発行されるものもあれば、季刊もある。手芸本として独立した本には、ビギナー向けの入門編からキルト作家のオリジナルデザインとか、高度なテクニックを披露した作品とかが載っているものまで実に多彩である。しかし古本屋に行くと、これがとんと見かけない。手芸の棚を眺めてみると、編み物本や洋裁本に比してパッチワークキルトの本は著しく少ない。そう、キルターはハギレを捨てないように、キルト本も持ち続けているのだ。わたしの本棚にはパッチワーク通信NO.12というのがある。これは隔月に発行される雑誌なのだが、それはわたしが持っているこのシリーズで、もっともナンバーの若いもので、昭和61年5月31日発行とある。えーっと、十八年前になるのだろうか。すごいな。その本の特集は「ダブルウエディングのすべて」とある。ダブルウエディングというのはパッチワークのパターンの呼び名で、オリンピックのマークのわっかのような形が繋がっているものだ。そのわっかのなかがいくつかに分割されていて、それをハギレで繋いでいく。昔は、嫁ぐ娘に母親が作るものとされていたらしい。アメリカ西部開拓史のなかで、ただありあわせのハギレを縫いあわせるだけのものが、くらしが落ち着いていくにつれ、布の色や模様が増え、縫い合わせ方にもさまざまなパターンが生み出され、より洗練されたものになっていく。それは折り紙のようでもあり、幾何学のようでもあり、身の回りのものからヒントを得て、数え切れないほどのパターンを作ったと言われている。「ベアーズ・ボウ」は熊の手のひら、「メイプル・リーフ」はカエデの葉っぱ。ログキャビンだのハウスだのフライングギースだの、アメリカのおばちゃんたちが嬉々としてパターンを発案してくさまが浮かんでくる。パッチワークキルトは地域のなかで育っていった。ご近所の女たちがみんなで大きなキルト台の周りに集まって、ああでもないこうでもないとおしゃべりしながら、キルトを刺していく。お茶も飲んだろうな、自慢の手作りおかしもつまんだだろうな。それっていいなあ。楽しかったろうなあ。そんな手の仕事が今も博物館に残っていたりするからうれしくなる。これはもうアメリカの文化なのだと思う。大事に大事に保存されているという。古いものはキルトではなく、タフリングといってところどころに糸を通してつまんであるのだが、それは日本座布団の真ん中のくぼみとおんなじやり方だと気付くと、またキルトは近しいものとなる。そんな時間も距離も遠く離れたところで生み出された伝統的なパターンが今もこの日本で、作り続けられているのだ。たとえばわたしのようなものに。むろんキルトにもはやりすたりがあり、コンテンポラリィーキルトと呼ばれる斬新なデザインのものもある。これはもはや芸術の域だと嘆息させられるものがある。絵画の絵の具や絵筆の代わりに布や糸か使われている。それでも斬新なもののなかに伝統的なものが垣間見えることもある。辻が花のように組み合わせの妙が光るデザインもある。それゆえにキルターは古い本が捨てられない。ひとつの作品をヒントにして、これをあの布に変えて、ここをああしてこうして、と自分なりの創意を加えていったりするヒントが一冊の本にぎっしり詰まっているからだ。本にある通りのものを作るのもいい。布の色合いを変えてみるのもいい。パターンを大きくしたり小さくしてみたり、違うパターンをくみいれたり、キルトラインを変えたり、もうもう自由自在に変えて、自分だけの作品にしてもいい。決められた形のなかの自由、それはどこか主婦のありようにも似ているのではないか。大きく枠から飛びぬけることはできないけれど、その枠のなかで、自分を表現できる喜び。布を選び、パターンを選び、色あわせをして、配置を考え、縫い始める。細切れの時間、かえって来ない誰かを待ちながら、細切れの布をちくちくと縫い合わせ続ける。遅々として進まないように見えて、積み重なる時間のなかで、それはやがて大きな一枚に仕上がっていく。この世にたった一枚しかないキルトに仕上がっていく。掃除も洗濯も炊事も、家事労働は形を残さない。感謝はされてもペイされない。手の中にはなにもない。しかしキルトは残る。自分自身が仕上げたのだという達成感の名残を留めてくれる。パッチワーク通信NO12のページには、誇らしげに自作を掲げる読者の写真が載っている。船橋や芦屋や鹿児島のキルターたちが少々懐かしいお洋服を着て微笑んでいる。どのひとも手の仕事の確かな手ごたえを感じているようにみえる。キャリアウーマンがバリバリと仕事をして世の中に進出していくそんな時代には、専業主婦の肩身の狭さというものがある。家事をし育児をしても金を稼いてはいないという頼りなさもある。そんな主婦の心にふっと希望のようにキルトが現れた。そうして、確実に野火のように広がっていった。その写真はそんなことを物語っているようにも思える。そんなわけで、わたしも引越しの際も50に近い冊数のキルト本をためらいなく持ってきたのだが、これに載っている作品を自分はあとどれだけ作れるのだろうと思うこともある。それでもページをめくるたびに、あれをこうしてこれをああしてと、できもしない作品を頭のなかに思い描いているのである。それもキルターの楽しみのひとつなのである。
2004.06.06
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体調が悪くて昨日は寝込み、本日はそろそろと動き出した。更年期は四勝三敗、完敗する日もある。懸案事項はいろいろあるのだけれど、ぼちぼちと行くしかないし、家族のことは、わたしひとりが踏ん張ってもどうしようもない。この際だからと部屋にこもって布の整理をすることにした。といっても、これが山ほどあって、種類もいろいろでおろおろしてしまうのだが、まずは「和布」を調べてみた。ああ、わたしはなんと欲どしいおんななんだろう、とまたいつものため息がでる。布好きは病気かもしれんと反省する。4箱に溢れんばかりに詰め込まれた布は、元は着物だったり、羽織だったりしたものだ。絹もの、木綿もの、藍染、紬。きんぴかの帯や鮮やかな帯揚げもある。購入したものもあるが、友人知人から頂いたものも多い。姑のものも母のものもある。それらは時を跨いでわたしの手元にやってきてくれた。シミがあるものもあるし、擦り切れて薄くなっているものもある。思いがけず鮮やかな裏地があわられて驚く。ふっと樟脳の匂いがしたりする。アイロンをかけて仕分けをしながら、こんな小さなハギレまで残してあるのかと苦笑する。パッチーワークとはそんな布を生かす手作業だ。アメリカ開拓時代に生まれたこの手芸は布を大切にする思いから生まれたのだから。赤毛のアンの昔の翻訳では、村岡花子さんはパッチワークを「つぎもの」と訳していた。つまりパッチワークキルトとは「つぎものの刺し子」なのだ。そう考えると、作り手の思いが伝わってくるような気がする。家族を寒さから身を守るものを作る。その思いが暖かさだ。使い古され、もはや用のないものになってしまっているものに、また仕事が与えらるなんて素敵だ。母の着物地と姑の着物地が縫い合わさって、新しい小物になっていく。残念ながらわたしには娘がいない。和ダンスいっぱいに詰められた着物はわたしの死後どう処分されるのだろう、と思うことがある。こんなふうにだれかがまたあたらしい命を吹き込んでくれるのだろうか。
2004.06.04
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二年ほど前に病でご主人をなくされた方がいる。夫婦二人きりの生活だった。もう、彼は逝ってしまって自分はひとり残されたのだと、頭ではじゅうぶんわかっているつもりなのに、野球中継をみながら、つい「このルーキーよく投げてるわね」とそこにはいないひとに語りかけてしまう。かえってこない返事を待ちながらああ、自分はひとりなのだと思い知る。「あのひとの好きだったものをまだ料理できないでいるの」山手線のホームで電車を待ちながら聞いたそんなことばが耳に残っている。
2004.06.02
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この本を読んでいるとふっとかつて見た映画やコミックや小説が浮かんでくる。交通事故以後は80分しか記憶をもてない主人公のひとりである数学の博士の向こう側に、ダスティン・ホフマンが演じた自閉症のレインマンやガラス窓に数式を書き続ける統合失調症の数学者を演じたラッセル・クロウが見えた。大島弓子さんの描いた「金髪の草原」の痴呆の老人と若いお手伝いさんの交流も浮かんでくるし、義姉を思い、交通事故にあうのは吉野朔実さんの作品にあったように思う。そして、初老で穏やかな教えるひとということでは川上弘美さんの「センセイの鞄」の主人公、背筋の伸びた先生をも連想させる。しかし、いずれも浮かんではすぐに消えてしまい、ひたすらにぐいぐいと博士の住む数字の世界に引き込まれてしまう。そして、数字にはこんな秘密があったのか。これほどに美しく詩的に表現しうるのかと唸り続ける。たとえば「24。ほお、実に潔い数字だ。4の階乗だ」「220の約数の和は284、284の約数の和は220、友愛数だ。滅多に存在しない組み合わせだよ。神の計らいを受けた絆で結ばれ合った数字なんだ」「君はルートだよ。どんな数字でも嫌がらずに自分のなかにかくまってやる実に寛大な記号、ルートだ」マイナス1の平方根にいたってはこんなふうだ。「そんな数は、ないんじゃないでしょうか」慎重にわたしは口を開いた。「いいや、ここにあるよ」彼は自分の胸を指差した。「とても遠慮深い数字だからね、目に付くところには姿を表さないけれど、ちゃんと我々の心の中にあって、その小さな両手で世界を支えているのだ」素数、完全数、双子素数。作者の想像力が数字に血を通わせる。主人公たちといっしょに、そのうつくしさ、健気さ、いじらしさに酔いながら、ページをめくり続ける。完全数28を背負って投げたタイガーズの江夏の思い出を共有しながら。「センセイの鞄」がそうであったように、初老の主人公がいれば、ページの残りが少なくなってくると不安でしかたがない。永遠のお別れが来る予感でページがめくれない。そうして読み終わってみて、博士の愛した数式をもう一度眺めてみる。≪Πとiを掛け合わせた数でeを階乗し1を足すと0になる≫小川洋子さんはこの式をこんな風に読み解いてくれた。「果ての果てまで循環する数と決して正体を見せない虚ろな数が簡潔な軌跡を描き一点に着地する。どこにも円は登場しないのに、予期せぬ宙からΠがeの元に舞い下り、恥ずかしがり屋やのiと握手する。彼らは身を寄せ合い、じっと息をひそめているのだが、ひとりの人間が1つだけ足し算をした途端、何の前触れもなく世界が転換する。全てが0に抱きとめられる」そんなものがたりであった。
2004.06.01
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