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引越しをはさんでかれこれ一年くらいキルトを作らない生活を送ってきた。下の息子が小学校に上る頃から始め、十数年多少のブランクはありながらも細々と続けてきていたのに、針を持つ気になれなかった。友人から受けた注文が気になりながらも、しまいこんだ布を出す気になれなかった。それがここへ来てようやくやる気がわいてきた。なんだかわからないが、そういう風向きだ。注文のバッグも出来上がり、途中で投げ出していた作品も出来上がった。題して「大島つなぎ」材料の布は全て大島つむぎ。そして裏は「はないろもめん」派手なのつけました。でもって、キルトをし始めると、作文の頭はお休みしてしまうのであります。
2004.05.30
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ほんとうにわたしはよくものをもらう。今日はクリーニング屋のおばさんに鉢植えのピンクのゼラニュームをもらった。それはピンクのつつじに似た花びらに、紫で山百合にあるような斑点が入った、あまり見かけない種類のゼラニュームで、この間まで、古い二階家の窓辺に届く勢いで丈高く伸び、店先を華やかに彩っていた。その店先の狭い空間には他にもたくさんの植木鉢が並べられていて、同じようにマンションの狭いベランダに鉢を並べているわたしは、前を通るたびに立ち止まり、それぞれの生長ぶりを楽しませてもらっている。今日もいつものように何気なく目をやると、そのゼラニュームが丈短く刈られて大きな鉢のなかで肩を寄せ合うようにこじんまりと咲いていた。気になって日当たりのよいところへ鉢を移動させているおばさんに「植え替えされたんですか?」と声をかけると、おばさんはにっこり笑いながら、「あんまり大きくなっちゃったもんで、ちょっとつめたのよ」と答えた。「お花にいろいろ声かけたりされるんですか?」と聞くと、ちょっときまり悪そうに笑う。「だってさ、花だって生き物だもん。頑張って咲いてくれれば褒めてあげたいじゃない」「でも、わたしは田舎育ちのせいか雑草が好きでね。石の間なんかから芽出してるの見ると、あんたよく頑張ったねえ、って声かけちゃうのよ。馬鹿みたいだね」と笑う。「わたしは引越しの時にたくさんの植木と別れてきました。二十年もののゴムノキはあんまり大きくなったもんで、かわいそうだけど、幹の丈をずいぶん詰めて運んできたんです。それでも、だんだん大きくなってきてくれて、えらいえらいなんて声かけてます」とわたしが言うとおばさんは泣きそうな顔になり、「根っこさえしっかりしてりゃ大丈夫なのよ」と呟いた。ピンクのゼラニュームの見事な咲きぶりをいつも感心して眺めてますよ、と告げるとおばさんは相好を崩し、あら、それなら持って行きなさいよ、と軽く言って、件の花をつけた小さな植木鉢を袋に入れて手渡してくれた。おばさんはひとりでクリーニング店を営んでいる。中継ぎ店ではなく、おばさんアイロンをかけている。ご主人は亡くなって、息子さんがすこし離れたところに所帯をもっている。なくなったご主人は元国鉄の職員だったという。昭和36年ごろ、新橋の近くに国鉄職員の寮があり、そこへ向かう道の脇にこのゼラニュームが見事に咲いていたそうだ。ほかで見かけたことのない珍しい花だった。「それがよう、きれいでよう」とご主人はその花がいたく気に入り、花の持ち主であるおばあさんが手入れをするそばでその花を褒めに褒めた。するとおばあさんは、そんなに気に入ってくれたのなら、と喜んで切って分けてくれたのだという。「おとうさんがせっかくもらってきたその花をわたしが枯らしちゃならないと思って大事に育てたのよ。そうねえ40年くらいになるかしらねえ」とおばさんは小首を傾げた。もらった鉢を提げておつかいに行き、帰りに田舎饅頭を買っておばさんを訪ねた。「おいしそうだったので」と差し出すとおばさんは「そんなことをしたら、花に申し訳がない」と答えた。胸に残る言葉だった。「ほんとうはいっしょに食べたいと思って買ったんです」と言うとおばさんは両の手で顔を覆って頷いた。
2004.05.27
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おおよそブランド品に縁のないわたしが、シャネルのバッグをひとつ持っている。黒い皮のキルティングされたもので、金色の重たい鎖と背中合わせのCが重なるトレードマークの飾りがついている。その価格は6桁に及ぶという。もちろんいただき物である。「わたしには派手になってしまったから、あなたに使っていただきたいの」という言葉とともに十数歳年上の女性から手渡されたお下がりのシャネルである。「おいや?」と問われて「いや」とは言えなかった。6桁のバッグがわたしに買える訳がない。が、たとえ、そのおかねがを持っていても買わないかもしれない。シャネルという商標が持つ高級なイメージが自分には似合わないということもあるが、バッグだけが6桁で、他は特売品というバランスの悪さがはずかしい。ベンツの路上駐車のような感じがする。その女性はそのころはルイ・ビィトンのバッグを数多く持っておられた。こだわるようだか、6桁のバッグだ。横浜元町にビィトンの専門店があり、そのひとが用があるというので、ついていったことがあった。そのお金があれば海外旅行にでもいけそうな価格がつけられたバッグが、博物館の一点ものの展示品のように独立したショーケースのなかでスポットライトを浴びていた。そのひとは慣れた感じで階段をのぼり、係りのひとにビィトンのメモ帳の差し替え用のものをいただきたい、と告げた。メモ帳の隅っこにビィトンのロゴがプリントされているものだ。ビィトンの茶色の濃淡四角デザインのカバーに装着するのだが、そのシートの値段が3000円だった。ものの値段はすぐに忘れてしまうのに、これだけは妙に鮮明に覚えている。ここまでいかないとバランスはとれないなと思っていた。いただくときにバッグの手入れ法も教わった。使用後は必ずクリームを刷り込んで専用の袋に入れてしまう。バッグも生きているから栄養を補給してやらねばならないそうだ。なるほどうなづき、おしいただいたのだが、ちょっと気が重かった。自分の顔のお手入れも面倒だなと思ったりするわたしだから、ついついしまいこんだままになっている。上等なものを丁寧に手入れして長く十年単位で使うから、6桁もそう高くないとそのひとは言われたが、わたしは特売品も長く使う。大学時代のはいていたバックスキンのショートブーツを去年も履いていた。物持ちのよいことだが、好きだから捨てられないのだ。そういえば、あれもこれも10年選手だあと気付く。さすがに赤のタータンのパンツをはくとちょっとはずかしいが・・・。そんなものをいただいたというのに、それだけでなくほかにいただいたものがたくさんあるというのに、わたしはそのひとと疎遠になった。原因を辿っていけば、きりきりと痛む思いもあるのだが、それにしても、自分の手元に6桁のシャネルバッグがあることに、気が引けている。だからといって目くじらたてて返すのも心苦しい。牙をむきあうことはないけれど、おとなとおとなの齟齬は時間がたつにつれてカチッと固まってしまうように思う。きちんと挨拶を交わしながら、しまいこんだバッグとともに、溶かしようのないわだかまりを抱えている。
2004.05.26
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打ち明け話になるのだけれど、この「こんなふうに日はすぎて」を、わたしは発想とか文章のトレーニング場所にしようと思ったりしている。ご存知かもしれないが、ここに書いたものを下敷きにして仕立てたエッセイもいくつかある。だから読んでくださる方には申し訳ないのだけれど、ちょっとメモのようになっているとこがあるし、うじゃうじゃしてて、言葉が多かったり少なかったりしている。しょっちゅう編集しなおしたりもしている。日に何度も文章が変わっていて、ご迷惑かけてたらごめんなさい。そういう前提で、ここへ来て「やややばなし」が100回続いて、以後のことをちょっとばかり考えたのである。やっぱり「ややや」とばかりは言ってはおられんな、と思ったのだ。「ややや」を思いつかなくなったわけではなくて、実際、いやになるくらい「こと」は起こるし、(東京駅忘れ物エレジーとか・・・)おおーとかうへえも多いのだが、それがなんだか、なんだかへらへらと薄っぺらいような気もして、腕組みをしているのだ。作文を書くアプローチの問題で、わたしはひとばかり見ている。でもって、そのまわりがあまりよく見えていない。人にも言われたし自覚もある。でも、まあ、誰かの人生にこころを添わせてみると、目に入る眺め、響いてくる心情は、なんとも魅力的だ。なまじの小説をぶっとばすくらいハードで吸引力のある人生がある。何気なく生きている人の背中にすげえ時間がのっかかってたりする。めぐり合わせのように気がつくとそういうひとがそばにいたりする。自分を含めてさしさわりのない形でそういうひとのこと書いていきたいという思いがわたしの作文の根っこにある。しかし、根っこだけではどうにもならない。芽を出して幹を育てて行こうとすれば、たくさんの葉っぱも必要になってくる。そう、葉っぱというもの、作文のなかには「形あるもの」が必要なのだとようやく思い至った次第なのだ。たとえば、マーマレードやチーズから裕子ねえさんが浮かんできたり、卵の白身から「母」が思い出されたように、「形あるもの」が呼び起こすものは、鮮やかなイメージであり、親近感であり、説得力であり、それはくだらない百万言を凌駕し、言葉にならない思いをくっきりと語ってくれるように思う。遅まきながら「ややや」の合間にちょっと「もの」のことを眺めてみようかな、と思い始めている。「もの」を通して見えるもの、「もの」がかたるもの、「もの」に託されたものがきっとあるはずだ。そこに「もの」があることで、真正面から見据えた時の力みや気取りをとっぱらわれて、反射したり屈折したりして違う角度から当たる光で、ひとも人生もより陰影をもって見えてくるんじゃないかなあと思うのだ。とまあ、そんな理屈は考え付くし、さてさて、と思いをめぐらすと、これがまたどうにも力んでしまって、なかなかうまく考えがまとまらない。うまくいかないけれど、やってみるべかなあ。やってみるべか、とは言ってみても・・・なあ。で、またまた、うーん、と唸って腕組みを組み替えてみたりしているのである。
2004.05.25
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田沢湖湖畔には樹齢300年の蓬莱の松が踏ん張り立ち、角館には400年を生き続ける枝垂桜が聳えるような高みから、その枝を降らせいた。生長という言葉が思い浮かばず、妄執のようなものを漂わせているのではないかと思った。今もそこに生きる木々は、人間が超えられない時間の壁を貫き、いくつもの時代を跨いで来たのだ、と思いながら木肌を撫でてみる。動くことのかなわない日々を生きながら、どれだけのひとの生き死にを見てきたのだろう、と思うと「すごい!」と感嘆しながらも、そこにあり続けることの空恐ろしさのようなものが身に沁みてくるのだった。田沢湖畔から駅へむかう田園の静かでのどかな風景のなかで、タクシーの運転手さんが「連休中はここいらも込みましてね。乳頭温泉の鶴の湯さんへ行く道が渋滞しましてね。動かんのですわ。ここいらの道で渋滞なんて、まあないことですよ」と苦笑して、言う。この道が?と思う。これから角館に行くのだと言うと「ああ、あっちも連休中は13万人の人出だったそうですよ。そりゃあもう銀座だわって言ってたんですよ」と返ってくる。秋田弁のイントネーションで聞く銀座はちょっと違う世界にあるように思えた。「やっぱり秋田は美人が多いんですか?」と聞いてみると「きれいなんもそうでないのもいて、他とかわらんですよ」という無難なお答えだった。それでも、中年の運転手さんが少々若やいだようにも見えた。角館の桧木内川のほとりの桜並木を歩いた。幸田文さんがこの川は若い川だと言っていた。文さんが満開の桜を眺めたという桜木にもはや花はない。みどりの葉っぱが茂るばかりである。長く長く続く新緑のトンネルをくぐりながら、こころのどこかが浮き立っていた。京都から来たお嫁さんのために植えられた桜の木の子孫たちだと聞くと、親近感がわいた。そのお殿さまのこころばえも、なにやらいじらしく思われる。桜の花が咲くたびに、その咲きぶりを喜んでくれてるか案じながら、殿さまは桜の花とお嫁さんの顔を交互に見ていたにちがいない。みやこからこの雪深い土地にやってきたお嫁さんは何を思っていただろう。やっぱり都大路が恋しかっただろうなあ。200年を超えて今も青々と茂る武家屋敷の立派な木々も、もともとは雪や風から家屋敷を守るために植えられてのだという。廊下と雨戸の間に空間があるのは雪から家を守るためだという。住むに厳しい土地なのだと改めて思う。庭の枯山水などが造られたのは明治になってからだと石黒家のひとに聞いた。そのおばさんはふくよかなひとで、短い髪の頭を傾け、眼鏡をかきあげながら、一生懸命説明してくれる。石黒家の座敷の欄間に亀が彫ってある。板のもようが波に見立ててある。よい仕事だと思う。その影が隣の部屋の壁に映る。家の外には雪が降り積もり、じっと屋敷のなかで息を潜めるような暮らしのなかで、亀は泳いでいた。風が吹き込むたびにろうそくがゆれ、亀もおおきく揺らいだにちがいない。それを見る子供たちは喜んだろうか。怖がっただろうか。同じ石黒家の蔵のなかの地図などの展示物をみているとふっといい香りがした。帰りに、出口近くでみやげ物を売っているさっきのおばさんに「あれは、お香ですか?」と尋ねた。おばさんの顔が思いがけずほころび「白檀系です」とにこやかに答えた。眼鏡のしたのふっくらとした輪郭の中に、秋田美人を見つけたと思った。
2004.05.21
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奥入瀬渓流の焼山というJRバス停前に特産品の観光センターがあり、みやげ物が売られている。そこのロビーには直径1メートル近い丸太で作られたテーブルがある。クリーム色の木肌にニスが塗られて艶やかに仕上げられていたが、その表面は大きくひびがはいっており、側面にはうねるように盛り上がったこぶもあった。かつては大木であっただろうその木は、いったい何年、地にあったのだろう。たくさんの葉っぱをそよがせ、花を咲かせたのか。木漏れ日に憩ったひとはいたのか。育ちづらい環境であったのだと、そのひびやこぶは告げているのか。なにがあって森に別れを告げ、ここにやってきたのか。年若い木の幹から、チェンソーで切り出されたまんまのような素朴な腰掛に座って、じっくりその物語を聞いてみたいと思った。バス停にオーストラリア人の若いカップルがいた。メルボルンから来たという。日本から中国、インド、ヨーロッパへ、一年半かけて世界を回るそうだ。英語のエクセサイズになるからと言われてアドレスを教えた。エキサイティング!と言いながら目を輝かせる彼女。優しげに見つめる彼。彼らの目の前に広がるものを思った。彼らの物語はこれから始まる。きらきらしてまぶしい。さっちゃんと夏の奥入瀬を歩いた時、光が葉の間から攻め込んでくるようだった。茂った樹木の下、右手にせせらぎを見て歩いた。暑かった。光の中を虫が飛びかっていた。さっちゃんと歩きながら、言葉を交わしながら、思いはそこになかった。ずっと、西へ飛んでいた。思うひとがいた。思われてもいた。旅は会えない時間の連続だった。子ノ口まで行くというカップルに別れを告げ、バスを降りて歩く。みどりのなかにたった。木の間から空を見上げると、瀬の音が耳に飛び込んでくる。勢いよく岩にぶつかる水音に流れの速さを思う。「われても末にあわんとぞ思う」とうたったのは誰だったろう。名も知らぬ木に迎えられる。名も知らぬことを申し訳なく思ったりする。木の辞典を抱えてきたが、遥か高みの葉っぱの形がみえない。仕方なく木肌の裂け目を撫でてみる。でこぼこした感触が指に残る。夏が来て秋が来て冬も来る。ここは厳しいよねと声をかける。倒木にコケが生え、新芽が伸びている。命の終わりにも意味がある。前を歩く息子の背を見ながらそんなことを思っていた。
2004.05.19
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東北新幹線は目慣れぬ面立ちであった。大学の3回生のとき、友人のさっちゃんと東北を回った時はどんな列車に乗ったのだろう。対面式の座席に座って、女子大生の旅は2週間ほど続いたのだったろうか。それはもはや30年をさかのぼる記憶であるから、なにもかもがすり硝子の向こう側の風景のようだ。抜群の記憶力を誇るさっちゃんに聞けばどんな細かいことも思い出してくれることだろう。新幹線に乗れば風景は飛ぶ。のんびりと地を行く列車の座席で向かい合ったさっちゃんとわたしは何を話していたのだろう。大学の4年間のほぼ毎日をいっしょに過ごしたというのに、わたしはさっちゃんが少々苦手だった。なぜ苦手だったのか、深く考えることもなく、うやむやのまま30年以上がたっている。小柄で色白でくりくりとした目でぽちゃぽちゃとした彼女は童謡に歌われるさっちゃんのイメージからか、保護の対象のように見られ、大柄の男性にモテた。実際可愛かったし、しかもなかなかに頭のよいひとで、音感もいいし、努力家でもあったが、彼女が口を開くと、世の中のひとはみな、彼女に意地悪をしているように聞こえるのだった。その憤りの口吻はいまでも思い出す。それは優秀な彼女に対するねたみだとか感情的な跳ね返りゆえのことだったかもれないし、146センチの身長の彼女にとっての日々の暮らしづらさゆえのことだったのかもしれない。が、あまりに頻繁にそのことばかり不機嫌そうに告げられると、なにもかもが悪意で回っているわけでもないだろうに、と思ってしまう。たまりかねて、それは受け取り方の問題じゃないのかと言えば、「わかっていない」という強い言葉が返ってくる。「わかっていない」という言葉はまさに、次姉の裕子ねえさんに幾度も言われた言葉だった。ああと今頃気づく。さっちゃんの言動はなんとなく次姉に似ているのだ。車窓から水田が見える。田植えされて間もない田んぼがみどりにそまっている。ああ、5月だと思う。そして、あれは夏休みの旅行だったなと思い出す。強い口調で話すひとが苦手だった。今でも決して得意ではないが。誰かを悪く言う言葉を聞くと心臓のあたりがちくん痛んだものだった。悪いことをしていなくても、自分が叱られているような気がしていた。気弱な子だった。特に裕子ねえさんといるといつも自分が悪い子のように思えた。小学校に入る前、9歳年上の姉の部屋に呼ばれ、生まれてはじめてチーズを食べた。硬くなった雪印プロセスチーズだった。姉が切って渡してくれた一切れは、まるで石鹸のようで、不味くて気持ち悪かった。それでも食べろと言われて仕方なく角を何度か齧った。舌に膜が張ったような妙な感触だった。「おいしいやろ」と姉が聞く。答えられずに黙っていると、「せっかくええもん、あげたのに。恩知らず」と言われた。そうして、わたしはどうしたのだろう。そんなころから、わたしは「ここにいてここにいない」自分をつくっていたような気がする。うんうんと答えながら、ちっともそうは思っていなくて、相手の風向きの代わるまでこころはどこかに逃げ出していた。なにも感じないことで救われることは多い。旅にしろ生活にしろ、わたしの記憶に不鮮明な部分が多いのは、そんなふうに自分自身の時間から逃げだしてしまっていたからかもしれない。東北のことを思い出せないことをひとのせいにしてはいけないが、さっちゃんと過ごした時間の記憶の欠落を思うとそうであってもおかしくないなと納得する。八戸から奥入瀬に向かうバスの窓から低い山が近く見えた。とんがった杉の濃いみどりのかたわらで若いやわらかなみどりが重なりあっていた。みどりのグラデーションではなく、一本一本違うみどりが微妙な配分で交じり合っていた。そのむこうに雪を残した八甲田山が聳えていた。稜線が凛々しい山だと感心する。高倉健の顔がふっと浮かぶ。ふいに思い出すことがあった。実家の前に生えるこの世のものとも思えないすっぱさの夏みかんの皮で姉がマーマレードを作ったことがあった。たいそう上出来だったようで、大事そうに戸棚にしまってあったが、気がつくと、その大事なマーマレードがずいぶん減っていたのだという。自分は食べていないのに、こんなに減るなんて、きっとお前が食べたんだろう、と問い詰められた。わたしはそれまでマーマレードなるものに出会ったこともなかったし、あの夏みかんを使ったと知っているのだから、それを欲しいと思うわけがない。だいたい姉の好むものはセロリだったり、スープのようでやたらと辛いカレーだったり、およそわたしの好むものではなかったのが、姉はそんなことを気付いてもいなかった。それでも怒声に近い大きな声で言われると、どきどきして涙が出た。すると姉は「やっぱりあんたがたべたんやろ」と決め付けた。いつもそんなふうに決めつける。そうではないかもしれない、となぜ思えないのだろう。自分が間違うことだってあるじゃないか。泣きながらそんなことを思っていた。決して口にすることのない言葉でもあった。わたしは庭に出て二股の楓に登った。みどりはにじんで記憶に残った。人生の振り子は幾度も振れる。30年を経て再訪した地のみどりのなかにそんな記憶が潜んでいた。
2004.05.18
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5月14,15,16日、青森から秋田へ行ってきました。柔らかな緑に染まってきました。奥入瀬の木振り向いているのは息子1これは雲井の滝。どどどどうどう。朽ちた木に新芽が。岡本太郎ゆかりの宿でした。田沢湖の湖岸はこんな風につづいて朝の田沢湖はこんな風。角館の樹齢400年の枝垂れ桜秋田新幹線角館駅のホームの横に止まったワンマンの在来線。これに乗って行ったら、どこに連れて行ってもらえるのだろう。
2004.05.17
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おりよく「やややばなし」も100回に達したところで、明日から、ちょいと北のほうへ旅してきます。少々天気が悪そうですが緑の葉っぱの樹木に会いに行ってきます。たのしみたのしみ。さても、BS11の勘九郎劇場に立川談志が出ててました。歌舞伎座の舞台でのことです。仮名手本だったかの芝居中、勘九郎が父親からきっちり教えてもらった「間」でピシッと膝を叩く場面で、間髪をいれず、客席から「うまい!」と声がかかりました。その「間」の意味がわかって、その瞬間にすかさず声をかけてくるすげえ奴がきてるんだな、気がぬけねえなと勘九郎は思いました。役者冥利に尽きるのはそういう時なのでした。芝居を続けるうち、ふっと客席に目をやるとバンダナが見えました。それが談志だったそうです。「んなのは、たまたまだよ」と談志は腕組しながら言うのでした。その裏番組になるのですがNHK総合で桃井かおりの「夢・音楽館」に小椋佳が出ていました。ザッピングしていて一瞬だけ見た場面で小椋佳が作詞について語っていました。例えば「愛燦々」という曲は彼の詞で、燦々なんて言葉はそれまで愛に使われることはなかったけれど、降り注ぐ感じが表れています。そんなふうに、特別な言葉でなく、普通に使っている言葉の意味を限界までふくらませて、そのふくらんだもののなかから自分の思いを表せるものを捕まえてくるのが作詞であり、その限界を超えてしまうと現代詩のように独りよがりになってしまうのだ、というような意味のことを言ってました。NHK教育の「トップランナー」では「エヴァンゲリオン」の監督・庵野秀明が出ていました。耳の大きなひとですね。エヴァは衒学だとか言ってました。うんうん、そうだなとうなずきました。だって、ドキドキはしますがよくはわからんのですもん、わたし。さても、彼は宮崎アニメの「風の谷のナウシカ」にアニメーターとして参加して、「きょしんへい」が崩れ落ちるところを担当したそうです。あれは失敗でした、と庵野秀明は言います。宮崎氏の指示だったけれど、5コマではなく7コマ必要なところだった、崩れ落ちるのが早すぎた、と。確かにそのあっけない崩れ方は記憶に残っていました。あんなに苦労したのに、と思ったのでした。それにしても、その道なるものがあって、ひたすらにそこを行くひとたちの後姿はなんとかっこいいんでしょうね。なんかすげえもんもらったような気分になったテレビ鑑賞でありました。なんてことを置き土産に、団十郎さんの快癒を願いつつ、ではでは、行って来ます。・・・すぐ帰ってくるんですけどね・・・。
2004.05.13
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おっと、気がついてみますれば、ここの「やややばなし」も100を数えることになりました。おかげさまでござりまする。つらつらと読み返してみると、よくもまあ、こんなに「ややや」があるもんだなあと我ながら呆れたり、苦笑したりしています。それと、ミスタッチが多くてすまんです。乱視の老眼はつらいっす。いやいやそれもこれも粗忽者ゆえのことかと反省しております。・・・どうぞ意訳してよんでくだされませ。さても今日も今日とて、新宿から帰る山手線でつり革につかまっていると、前のキャリアウーマンがこちらを向いてなにか言うのです。えっ、と耳を近づけると、「お座りになりますか」と聞かれたのでした。ええ、ええ、わたし、大人のひとに席を譲られたんですよ。初めてのことです。ああ、わたしゃそんな年に見えるのかあと思っていると、「大丈夫ですか?」と続けて聞かれたのです。うーん、顔のテーピングのせいかなと一瞬思ったのですが、いやまてよと自分の着てるストンとしたワンピースを見ているうちに、ああひょっとしたら、おめでたと間違われたのかもしれないなあと思えてきたのです。うーん、何年か前「予定日は?」と聞かれたことがあったしなあ・・・。私が席を譲られたのは、お年寄りとみられた故か、妊婦とみられた故か、とちらにしても、ありがたく座ればいいのかなあ。うーん、それにしても、他に、選択肢はないものかなあ。そんなことを考えていると、スーパーで、買い物した袋はしっかり持ってるのに、自分のバッグ忘れたりするんですねえ。ご親切なおばさまがたに、「ほらこのひとよ」とか指差されて、「しっかり持っててね」とか念押しされたりして、恐縮恐縮でありました。やっぱり年寄りなのかもしれないなあ・・・。なんてはなしが、記念すべき100回目だというのも、実になんとも「らしい」のかもしれませんな。
2004.05.12
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駅の切符売り場で、料金のボードを見上げていると同じようにボードを見上げている隣の男性がいきなり「100円貸してくれない?」と言った。えっと思い、そのひとの手元を見ると黒ずんだ手のひらに100円が乗っていた。ああ、小銭がたりないのね、と思い100円を手渡した。それからおもむろに全身に視線を走らせると、その風体は路上生活を送っているひとのように見えた。あっ、と思っていると、そのひとは黙って頭を下げた。「貸してくれない?」という言葉を噛み締めた。それはトラブルを防ぐための言葉かもしれないが、どこかで矜持でもあったのかもしれない。いつだったか横浜で市バスに乗って、細かいお金がなくて、運転手さんも両替ができないとき、いいからいいからといって立て替えてくれたひとがいた。どこの誰とも知らない、二度と会うこともないひとなのだが、その時は困っていたのでありがたく拝借した。以来ずっと、わたしはそのひとに返しようのない210円を借りたままだ。ペイフォワードという映画があったが、それはこんなふうなことではなかったかと思い出す。そんなこんなで電車に乗ろうとすると目の前で出発するし、乗り換えた電車は事情で遅れるし、おしあいへしあいして東銀座の細い階段を上って、ようやっと歌舞伎座に着くと、団十郎が急病で代役が立つのだという。うーん、今日はついてないなあ、とため息をつく。 海老蔵の襲名興行、「暫」を見る。初演だ。前に見た団十郎さんの「暫」はどこか重々しかったが、この若武者の口舌のなんとみずみずしいことか。声の質がいい。睨みもいい。実にここちよい。客席には御高齢のご婦人が多い。杖を頼りに階段を一歩一歩踏みしめて行かれる。先々代の海老様ファンだったというひともいるに違いない。海老蔵の見得が決まればひときわ大きな拍手が響く。花道に出れば身を乗り出す。白髪で老眼で足元がおぼつかなくなって、あれもこれも物忘れしてしまっても、自分がときめき輝いていた時代の記憶は鮮やかで、それをするすると手繰り寄せているんだろうなあ。きっとここにいるどのおばあさまもいい男が好きなんだろうなと思うと楽しくなるし、そうして自分もいつかそんなふうになればいいなと思う。
2004.05.10
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無性にパフェが食べたくなった。痩せねばならん身のうえで、パフェなど言語道断なのだけれど、なにゆえか、パフェがわたしを呼ぶ。幸いなのか不幸なのか、我が家の裏はデニーズなので、ツツツと行けばありつけてしまう。デニーズではただいまマンゴーのフェア中なので、ではではと、マンゴフルーツパフェを注文する。細い円錐が逆立ちしたようなガラス容器に、白いの赤いの何層にも甘いものが重ねられ、パイももアロエもキウイもなんとかベリーも入って、アイスもソルベも生クリームもプリンもテンコ盛りに乗っかっていて、サイドに賽の目に切り目の入ったマンゴーがへばりついている。ううーん、こいつは凄い。これぞ禁断のパフェだあ。しかあし、今日はわがまま言ってもいい日だぞ。くっちゃるぞ!!と柄の長いスプーンをぐいっと差し込み、ひと匙ふた匙といただく。うーん、これはこれは、久しぶりの味わい。このまえパフェを口にしたのはいつのことだったか。もう思い出せもしない。パフェはなにやら若さの気配がする。きらきらした時間の照り返しのようなものが届く。病気をして禁煙したのだが、年若いころから結構なスモーカーだった。大学時代は喫茶店でコーヒーをすすって、煙そうに眉根を寄せていた。かっこつけてこむずかしい本など読んでいた。パフェの記憶はもっと遡る。高校時代はじめてデートをした相手はラグビー部の人で、商店街のベビー服屋の若旦那だった。その日はダブルブッキングで、友人たちと「ある愛の詩」を」見に行くか、そのひととリバイバルの「荒野の七人」を見に行くかの選択だった。で、荒野の七人を見に行った。俳優のかっこよさにドキドキしていたのかデートにドキドキしていたのか、同じクラスで毎日顔を合わせているスポーツ刈りのそのひとにドキドキしていたのか、よくわからないが、なんだかドキドキしていた。そして帰りに不二家で食べたのがパフェだったか。ドキドキしすぎてよく覚えていない。ああ、そうだと思い出す。何年か前。みどりさんが最初の手術をしたあと、二人でフルーツパーラーで食べた。互いが生きていることの喜びあう甘さだった。パフェはパフェでしかないのだが、思い出がその甘さを特別なものにする。長いスプーンですくいあげて口に運ぶ、それといっしょに、ときめきややすらぎを胸におさめる。ああ、そうだったのかと思い至る。むかしむかしのものがたりが恋しかったのだ。暖めあった時間を思い出したかったのだ。そんな気分の雨の日だった。
2004.05.09
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人間ドッグでひっかかった件で近所の個人医院へ行った。受付で自分の名前を書いたのが10時30分。「ちょっと待ちますよ」と言われて、まあ、それも仕方ないなと思ってベンチに腰かけた「まあ、アトピーつながりだわ。これにメールアドレスだから、よかったら連絡頂戴、ランチでも」隣の席で、アトピー性の湿疹のできた赤ちゃんをもつお母さんが情報交換している。Gパンをはいた若いママだ。「乳児湿疹だと思っていたら、アトピーと言われてショックだったわ」「足は出ないけれど背中とおなかがひどいの」かゆくてむずがる赤ちゃんが小さな手で首筋を引っ掻くと柔らかい皮膚に赤い筋がつく。「ああ、かかないの」とお母さんがその手を押さえる。ああ、そんな時期があったなあと思い出す。長男は卵アレルギーで、次男は寒冷で蕁麻疹がでたなあ。体中にかゆみが広がってむずがったなあ。予防注射の済んだ3歳前くらいの女の子が出てきて、大粒の涙をぬぐう。「痛かったよう」としゃくりあげている。「ママ、抱っこして欲しい」と両手を伸ばす。ママは「お金払うのよ」と背を向ける。女の子は声を大きくして「抱っこして欲しいの」と前に回って告げる。ママは困ったような顔になって抱きあげる。ママの抱っこの威力はすごいもんだ。いろんなお薬と同じように抱っこやハグも必要なんだな。必要なのだけれど、いつのころからか、あの女の子の言った「抱っこして欲しいの」なんていうまっすぐな言葉を口にできなくなってしまう。年を重ねるのと同じように我慢も重ねてしまう。2時間がたってようやく名前が呼ばれ、中待合室に入る。そこは処置室にもなっており、目の前におかれたベッドでアトピーの赤ちゃんが採血をされていた。お母さんが馬乗りになって赤ちゃんが暴れないように体を押さえつける。そうして看護婦さんが採血する。ところがうまくいかない。血管が細いのか、長くかかっている。あの間じゅうあかちゃんの鳴き声が響く。言葉を持たない彼の精一杯の表現だ。「がんばれがんばれ」とこころのなかで応援する。「さあ、もう終わるよ。えらかったねえ」と看護婦さんが声をかけると、わたしもほっとする。知らないうちに力をいれていた。もう遠い遠いものになっていたシーンが帰ってきていた。息子2が目のふちを切ったときも頭を切ったときも、外科に言われてそんなふうに息子の体を押さえた。必死だったなあ。息子1が崖から落ちて自分の歯で唇の下を噛みきってしまい、歯型の通りに肉が切れているのを縫う時は気が遠くなりそうだったなあ。ほんといろいろあったなあ。二人の息子の病院通いが日課のような日々も思い出された。扁桃腺がはれて熱が出て、気管支がぜーぜーとなって吸入に通っていたのだが年子の二人を自転車の前後ろに乗っけて走ってて「おかあさん、それはあぶないよ」よおまわりさんに注意されたこともあった。経済もこころも余裕がなくて、いつだって毎日がたいへんだったけど、あれは自分のせいいっぱいの日々だったなあと思い出す。病気や怪我が多くていつも心配してそれが治って喜んで、ものごとはシンプルで、そして光っていた。自分の番が来たのは1時ごろだった。ここの先生はほんとうによくしゃべる。それはどこか独り言のようでもあって、一本調子なので、時々戸惑う。わたしのカルテをのぞいてみると「春はゆううつ」なんて書いてある。ああ、前回そんなふうに言ったのかもしれないがそんなこと書かんでもと苦笑してしまう。「やせないといけないとドッグで言われました」と言うと「ボクは女性はふっくらしたほうが好きだなあ」と独り言のように答える。そりゃあ関係ないっす。更年期は一週間を4勝3敗で過ごせれば上々だと思ってください。3日上手くなくても、4日元気で外出できればよしと気軽にやってください、と先生はいう。そして、安い投資で、恋人的な趣味を持ってください。そうね、ロト6とか、夢があっていいですよ、ともいう。苦笑しながら腰を上げかけると「あ、京都のかたでしたね。ぼくこの間学会で京都にいきましたよ。いいですね、京都は。ちょっと偏屈な人もおおいですね」なんて話し出す。でまた腰を下ろして話を聞く。待つわけだあ、と納得していた。
2004.05.07
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朝、友人みどりさんから電話があった。開口一番「生きてる?」と聞く。そして「連休中のあなたのこと考えたら、息がつまっちゃったのよ。だもんで、生きてるかどうか心配になっちゃったのよ」と続く。実はみどりさんは少々予知能力がある。で、ときどきこんなふうに案じては電話をくれる。しかし、その予知能力というのは実に気まぐれにやってきて、それがどういう意味なのかも、なかなか判読がむずかしいのだという。見当違いもあるらしいが、例えば、体がだるくてしょうがないときは、向かいのおばさんが亡くなっていた。後になって、ああ、この知らせだったのかと納得する。曲がり角で二人が並んで立っている時、みどりさんが「なんかあのタクシー、嫌な感じだから、後ろ下がってよ」と言うと、そのタクシーが曲がる時にポールにぶつかったりした。ああ、危なかったねえ、何でわかるの?と聞くと、それが本人もよくわからなくて、なんとなくちりちりとした感じがするらしい。自殺の予知夢を見たこともあり、その実際の背景が夢でみたものとそっくりおなじだと知ったときは鳥肌がたったという。わたしのことを考えたとたん息が詰まったもんだから、これは死んだか、と思ったらしい。「だって人生何がおこるかわからないじゃない」と声を高くして言う。彼女は江戸っ子3代目で、一事万事この調子のユーモアである。「うーん、2回家出した」「2回ですんだの?」「あとは死んでだ(笑)」「やっぱりね(笑)」20年来の親友はお互いの立場を知り抜いている。同じく大病をした身のうえである。連休明けは互いの無事を確認し会い、それぞれの訴えに耳を傾ける。うんうん、そうかあそうかあ。うんうん、わかるわかる。うんうん、おんなじおんなじ。うんうんうんうんうんうん。そんな一日が有難い。
2004.05.06
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ちょっと家出をしたりする。せいぜいが1,2時間のことなのだが。それでも連休なんて嫌いだ!とうそぶきながら、やさぐれた気分で街を歩く。めしめしめし、洗って洗って洗って、しまってしまってしまってそれでもって、まためしめしめしのくりかえし。なんだかなあ・・・。耳に残る言葉が神経に障っている。ちくせふちくせふちくせふとむかっ腹たてて強風に立ち向かいながら坂を上る。なんださかこんなさか、ひーひーふー。限られた空間を共有する宇宙飛行士たちのおのおのの人間関係もさぞかしたいへんだろうなあ、とか思ったりもする。地球が青くて幸いだったよね。きっと何度も窓の外を眺めたんだろうなあ。坂の途中に生える木の枝の揺れる音に引き止められる。マンションの前に大きな木が茂っている。ああ、クスノキだあ、ああ、スズカケノキだあ、アカメモチだあ、シラカシだあ、とうれしくなる。覚えたての名前を呼んでみる。きつい風に吹かれて枝は波のようにうねる。木はいつだってそこにあったのに、その名を知っていると思うとなんだか違う顔に見える。おなじ種類でも枝振りが異なる。愛想とか品のよさのようなものが違って見えるのは、多分にわたしの思い込みだな。なんにも言わずにそこに立つ木だって、きっとそのなかに傷を抱えてるんだろうな。ムロになっていたりこぶになっていたりするもんなあ。暑いの寒いの強風だの虫だの病気だの、いろいろあるよね。悲しいことがあると森に行って大きな木にしがみつくのだと書いていたのはウエールズ出身のニコルさんだったと思い出す。わたしもしがみついてみたいような気分でいるのだが、それでも、いろいろあってここまできたんだし、これからも抱えていくんだろうなあ。連休は5日で終わるんだ!うんうんうん。
2004.05.04
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小石川植物園へ行った。茗荷谷という駅で降りて歩くと、正門までがえらく遠い。塀越しに丈たかい立派な木を見ながら歩く。そばの消防署の庭にもいろんな種類の木が植わっているし、民家の前の植木鉢も多彩だ。意識の高さかな、と思う、見覚えのある木を見つけては名前を呼ぶ。木はどっしりとそこに生え、時おり吹く風に、挨拶代わりとばかりにふわりとその枝を揺らす。入場券は近くの煙草屋で購入する。半券もぎりのおじさんになぜ煙草屋で買うのかと聞いてみると、民営化のため委託しているのだそうだ。おじさん自身は公務員だったが定年して、今は準公務員だと言う。顎の張った実直だけどとっつきにくそうな顔つきのおじさんが、「国庫に入るお金を扱えるのは、ここではたったひとりなんですよ」と勢い込んで説明してくれた。園に入ると一本一本に名札がつけられており、自分が思い込んでいたものを正される。ずっとニセアカシアかと思っていたのがミズキだったり、さつきと呼んでいたのはオオムラサキというのだと知る。つつじとさつきときりしまなどつつじ科の区別はややこしい。スズカケとユリノキをまちがえたりする。そのほかの緑の葉っぱもまだまだ見分けがつかないが、ケヤキとクスノキはわかるようになった。やっと仲良しになれたような気分だ。サクラの並木の緑が濃い。小さなさくらんぼも見える。花の頃にはさぞかし見事に咲き乱れたことだろうと思う。まぼろしのように花吹雪を思い浮かべる。そういう楽しみ方もある。同じように鮮やかな緑のカエデの並木を見ながらその紅葉を思う。秋の日の木漏れ日がゆれるさまといっしょに。柴田記念館というのがあった。柴田博士のレリーフもあった。その風貌には植物を愛するひと特有のおだやかさのようなものが見て取れた。ムーミンに出ていたヘムレンさんを連想する。レンガの煙突が見える。ヨーロッパの片田舎にあるような、やはり植物を愛したヘムレンさんが住んでいそうなそんな佇まいだ。 記念館には猫がいて、えさを持って記念館からおばあさんが出てきた。白衣を着ていたので、研究者さんなのだろうけれど、女優の原なんとかいうおばあさんみたいな品のよさそうな感じがした。小柄で、小顔で、白髪が勝った髪をオールバックにして、いつも笑っているような目元で、おちょぼ口で、童話にでてくる誰かに似ているように思うのだが、ちょっと思い出せない。「ニャオン」と猫を呼ぶと、人懐っこく寄ってきてわたしのまわりをくるっとまわってむこう向きに腰をおろした。知らん顔をして、手を伸ばしてデジカメを向けてみた。 猫ばかりか、野うさぎもいた。思わず「ピーター」と口をついてでた。植物園なのに動物ばかりに目をむけているなあと苦笑する。ハンカチノキ、すずかけ、クスノキ、立派な巨木に見ほれる。目黒の自然教育園は人の手がはいらない自然のままの森だったが、ここは手入れが行き届いてるのだなあと、まっすぐ天をめざす木々を見ながら思う。分類標本園で、たくさんの種類の名前を知る。ああそうかあ、見慣れたこの花はそういう名前だったのか、とうなずく。そしていつものようにすぐ忘れる。それでも、なんだか楽しい。半分も見ないうちに閉演の時刻が迫る。植物に囲まれている間はなんともなかったのに門に向かいはじめると急に疲れが出てくる。重たくなった足を引きずりながら家にたどり着くと万歩計が一万歩を超えていた。また行こうと思っている。
2004.05.02
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