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同人たちの話のつづきになるかな。ひとつ間違えば老人誌になってしまいそうに平均年齢が高いわが「停車場」に新たに入られた方はわたしより少々若い方で、やはり神奈川在住の女性である。であるが、しょっちゅう長崎に行っていられるのだという。このかたのご実家が神社で、諸般の事情で末娘であるこの女性が神主さんをやることになり、月の半分はそちらでお仕事をされているのだという。女性の神主さんというのがおられることを初めて知った。横浜にいたときは、町内会館の上棟式と七五三くらいにしかお会いしたことがなかったのだが、地方では地元のひとの相談に乗ったり、決定したりすることがたくさんなって忙しいのだそうだ。というわけで、書かれた短歌の作品だけ受け取って、まだそのひととはお会いしていないのだが、会うまえから、神主さんというイメージがなにやら厳かでかしこまってしまいそうな気がしている。昨年入会されたお二方に主宰が同人を紹介した折のことを思い出す。平均年齢が高いということはそれぞれに経歴をお持ちであるということだ。入られた方のひとりは元教師であり、小説を出されている。もうひとかたはガラス絵を描くアーティストだ。当時は千鶴子さんがいて、もと教師であり古典に造詣が深く短歌俳句エッセイを書かれる、と紹介された。もうひとかたは社交ダンスの先生であり、主宰は元朝日新聞記者である。さて、残ったわたしにはまったくもってなんにも肩書きがないので、主宰も困ったらしく、「京都出身のかたです」と言った。その苦肉の策がなにやらおかしくもあったのだけれど、ああ、そういうことなんだなあと感じいったことだった。形容詞はひねり出せばいろいろ思いつくけれど、万人にわかる言い方をすれば、わたしはただの専業主婦だ。ただのひとなのだ。ま、それだけのもんですがよろしくです。
2004.09.27
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今年もまた参加する文芸同人誌「停車場」の締め切りがやってきた。一年一冊、今年で4号目。いろいろ事情があって、これを作ろうと言い出した千鶴子さんが今年はいない。会計、発行所、印刷所との連絡、発送、そんな山ほどの雑事をひとりで引き受けてくれていたひとがいなくなったのだから、残されたものは、たいへんなのだ。いつだったか千鶴子さんに、なんでそんなに面倒なこと引き受けるの?と聞いたことがある。わたしにはそういう能力がないので、考えただけでげんなりするのだ。「わたしは交通整理してるだけだから」と千鶴子さんはいった。いろんなことの流れをよくするためにやってるだけだ、と。できるひとの台詞だなあと思ったことだった。千鶴子さんは師範学校を卒業し、先生の経験もある。その師範学校では、そこで習うどんなこともプロになれるくらいに修めねばならなかったのだそうだ。米1合は何粒あるのか数えよ、という宿題がでたこともあるという。そんな積み重ねでものの重さや量が手のひらでわかるのだという。だから、今もおはぎを誤差なく均等な大きさに作れる。あっ、千鶴子さんのおはぎ食べたいな。閑話休題。なんというか、これで同人誌もなかなか大変なのだ。同人誌を楽しみだとするひとと切磋琢磨の場とするひととは思惑が違うし、巧拙の差もなかなか埋められない。われこそは、と自ら恃むところ大のひとの聞く耳はあまりに小さくて、作品世界に介入されることを拒む。とはいえ、同人誌としてのレベルは保ちたい。そこにジレンマが生まれる。たとえば、巻頭の作品を誰のものにするのか。そういうことを決めるのがなかなか神経をつかうことなのだ。言葉も慎重に選ばねばならない。ルビはどうするのか。わかりやすさと作品の雰囲気のどちらを優先するのか。主宰を決めれば、その権限がものをいう。そこで不満が生まれる。ひとの為すことの摩擦熱はこんなふうに生まれるのだなと実感する。とはいえ、おとなの集団であるから、その場はなんとなくやりすごし、とりあえず割付をして、原稿のみみをそろえて印刷所へ、という運びになる。やれやれである。その帰り道に、「まあお茶でも」と交流をはかる。おとなの付き合いとはそういうもんだ。セルフサービスのコーヒーショップのやや高めの座りづらい椅子に腰かけ、しばし歓談となった。学童疎開のエッセイを書いたひとが口火をきって、戦争中に何をしていたのか、が話題になった。私以外はみな戦争体験者なので話は途切れない。学童疎開だとか、縁故疎開だとか、勤労奉仕だとか、年齢がひとつちがうだけで、その時期の過ごしかたがまるで違うのだという。「姉は白い正絹の生地で落下傘を縫ってました」と誰かが言えば、「うちの親戚は風船爆弾作ってました」と誰かが応じる。学童疎開にはいじめがあって、親が送った食べ物も先生があけてしまって、本人の口には入らなかったのだと、北朝鮮の食料援助のような話も聞く。昭和29年生まれのわたしは、はあ、はあ、そうなんですか、と相槌を打ち、拝聴するばかりだ。父は応召して、海岸べりで塹壕掘りばかりしていたと言っていた。母は軍需工場の工員として徴用された学生の面倒を見ていたと言っていた。それもあいまいな記憶だし、なにより話す番がわたしにまわってこない。「お若いひとにはわからないでしょうけど」と言われる。もうじゅうぶんに生きてきたつもりでも、ここでは、まだ若いといわれる。78歳の千鶴子さんといてもちっとも違和感を感じないのに、それより年下の人に囲まれながら、どうしようもなく疎外感を感じてしまう。とりあえずは聞くだけ聞いておきましょう、無駄になることもありますまい、と思いなおして、はあ、そうなんですかを幾度もくりかえしたことだった。
2004.09.25
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息子1と連れ立って新宿を歩いた。「おかあさんと二人だけで出かけるの、久しぶりだね」と息子が言う。吐き出す息と一緒に出てきたような言葉だった。年子の長男である彼は、ものごころついたときには弟がいて、どんなときもおにいちゃんであるという現実に追いかけられてきた。甘えたいと思ったときに、わたしの膝にはいつも弟がいたにちがいない。彼が独り占めできるものは少なかっただろう。4月生まれの彼が楽にこなすことを1月生まれの弟はいちいち躓いた。かあさんは弟ばかりを気にかけていたから、彼はいつも寂しかったのかもしれない。かあさんの言うことをちゃんと聞いて、聞き分けのよいおにいちゃんでいる時間が長くて、だんだんしんどくなっていたのかもしれない。期待されることと現実の距離が開いていくことに耐えられなかったのかもしれない。そんな長い時間を取り戻すように、今、彼は家にいる。わたしと過ごす日も随分と長くなった。そんななかで、この秋からカルチャーのシナリオの教室に行ってみようかな、と彼の心が動いた。未知のことだから、ちょっと興味がある、と言う。その申し込みに新宿まで彼と連れ立って歩いた。家にいれば伸び放題のひげがそられ、髪も整えた。ああ、男前だ、と親バカになって、連れ立って歩いた。何年も通っているのに未だに迷いそうな新宿駅からの道順をものしり顔で教える。息子はうんうんとうなづく。「平日の昼間なのに、人が多いね」と彼が言う。「新宿だから」とわかったようなことを答える。人波を縫いながら、連れ立って歩く。聳え立つビル群のなかに吸い込まれる。申し込みのカウンターで、カルチャーなどとは無縁に過ごしてきた彼の視線があちこちに飛ぶ。「取材だって思えばいいよ」と言った言葉を思い出したのかもしれない。「昼間のカルチャーはお年寄りの独壇場だね。みんな似たような顔をしてるように見えるね」と言う。「かあさんもそのひとりだよ」「あ、ごめん。ははは」「ははは」秋になったら、またこの道を連れ立って歩こう。
2004.09.22
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歌舞伎座へ行った。5世中村福助追善公演とあって、成駒屋中村屋の面々が舞台に揃った。中村橋之助の小さな息子たちも健気に努める。ロビーでは着物姿の三田寛子がご贔屓のかたに頭を下げている。追善の口上とともに、3歳になったばかりの三男宣生くんの初舞台のご挨拶もあった。父親橋之助の気が気でないという顔。芸達者で過不足なく役をこなすいつもの役者の顔からふっと父親の顔がのぞく。橋之助の義理の兄にあたる勘九郎がその口上で、七之助の初舞台がついこのあいだのことのように思っているのに、いや、自分自身の初舞台だってついこのあいだのことのように思えるのにと言った。客席が沸いた。わたしは都民劇場というのに加入しているのだが、その団体では、決められた日にちのなかで、自分の好きな日時を選ぶことができるシステムになっている。ところがずぼらなわたしはいつもその日にち希望の葉書を出さない。すると困りましたねえと言う感じで、むこうが日時を決めてくれる。はいはい、ありがたいありがたい、と言ってその日に歌舞伎座にむかう。実はそれはただずぼらというだけでなもないのだ。この日、と決めてしまうと、随分端っこの首が痛くなるような席が多かったのだが、向こうに決めてもらうと、なんだか見やすい、よいお席に当たるような気がするのだ。同じような思いでいるひともいて、そういう席で何度も出会うひとがいる。70歳代後半の上品そうなおばあさんである。「もうこの年になると人とお約束して行くなんてのが億劫になりましてね。一人で来るには、この日だよと言われる方が気が楽ですから」2ヶ月に一度はなんとなくお会いしてきた。ご挨拶だけのときもあったし、演目の短い感想を言い合ったときもあった。今日は並んで座ったのが久しぶりだったせいか「今年の夏はお暑うございました」とむこうから親しく話しかけてきた。「本当に、生きているだけで精一杯でしたね」とわたし。「あら、お若いのに。テレビでは100歳を越えたひとが矍鑠としてお元気なのに、わたしなんかぼーっとして情けないなと思ってるんです」「でも、長生きするのも、業の深いことですよね」「まあ、そういえばそうね。妻や子供たちが先に死んで自分だけがいつまでも元気っていうのも悲しいわね」「大ばあさんが100歳で亡くなったとき、もう知らせるひとがほとんど生きておられなかったです」「そうね、親しい人が棺を担ぐといいますけど、長生きしすぎて、生き残ってる人でも棺なんて担いだ日には腰痛めてしまいますものね」「そういう心配もありますね」「自分では毎日が精一杯で年のことなんか忘れてしまうけど、もう、このあいだまでやんちゃ坊主だったあの勘九郎の息子があんなに大きくなっているんですものね。改めて、おどろいてしまいますよ」「ほんと、よそのことは、はやいですね」高校野球のおにいさんもお相撲の関取さんもプロ野球の選手もみんな年下になってしまう。ある日気づくと太宰や漱石より長生きしている。と、どこかで書いたことを口にする。そんなことを言っていると、息子がサザエさんより年上になり、わたしはフネさんより年を取ってしまっているなんてことがふっと思い浮かぶ。これはなんとも衝撃的な事実だった。はー、ほんとにはやいもんです。100年生きる人の人生もこんなふうに「ついこのあいだのこと」とつぶやき、振り返り振り返りつつ、回っていく舞台であるに違いない。また、お会いできたらいいですね、そんなことを言い合って席を立った。そうだ、名前も知らないひとなのだと思いながら階段を降りた。
2004.09.20
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竹橋の近代美術館でRINPA展を見た。出かける前、息子2がリンパ腺の展示かあ、とからかう。いや、からかっているのではなく、ほんとにそう思っているのかもしれない。我が家はものを知らない家なのだ。(例外もいるという意見もある)いやいや、尾形光琳の・・・と説明し始めて、自分もあやふやで、言葉があやしくなる。適当にごまかしつつ、ま、帰ってからのお楽しみさ、と言い置いて出かけた。尾形光琳、さかのぼって俵屋宗達、下って酒井抱一と言う江戸時代の人たちの作品を近代美術館で見る違和感を、説明書きが払拭する。琳派というものは狩野派のように相伝されるものではない。それに私淑したものが時を経て、その技法を模倣し習得して、引きついでいった流れである。近代の作家たちも、小さなルネサンスのように時を経て、琳派の精神へと帰っていく。そういうものであるらしい。それは日本画のみならず、クリムトからウォーホールまで海外の作家にも、その装飾性や空間デザインが汲み取られている。現代に繋がる流れ、その影響を検証するのも近代美術館のつとめであるそうだ。納得。そんなふうにがちがちの枠を取り払ってひょいと時を跨いでみせる姿勢、心意気が説明書きから感じられた。北斎の浮世絵を見ているといつも感じることなのだけれど、おなじように、宗達、光琳の意匠、デザイン性のようなものがわたしには実に実に心地よい。時に思いもよらない発想だったりして、愉快にもなる。そして、こんな日本人がいたんだぜ、と誇らしくなる。鼻息荒くそう思い、オリンピックを見ているときのように、自分が日本人であることを妙に意識する。彼らの作品を見ていると、なんていざぎよくて、かっこいいんだろう思う。空間処理、その切り取り方、配置の見事さとでもいうのだろうか。疎なるところ、密なるところ、そのバランスが絶妙で、作品の前で目をつむって目の裏っかわにその配置を思い描いて、も一回作品を見ると、おおーと思う。画面に置かれたもののありようが、人間の生理に合っているんだろうなあ。だから、何度もそこへ戻っていくのだろうなあ。で、帰って息子2に告げる。「なにしろかっこいいの。粋なの。見てて気持ちイイの」われながら言葉がたりないのだが、息子2はにやりとして言う。「リンパ腺がか?」なんでやねん!と思いつつ、図録を開いてみせる。「おっ、風邪薬」という。そいつは風神。・・・かないまへんわ。
2004.09.18
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「わたし、ピアノ、習ってんの。今、バッハやってんの」いくつか年上の友人が電話でそんなことを言う。ああ、やりたいことが見つかってよかったなと思う。お寺の奥さんである彼女は4人の子供を育てあげた後、自分を探しあぐねていた。なにかをしたいのだけれど、それがなんだかわからなくて、お寺の生活を送っていてはそれを探しようもないからと昨年5月から一年猶予をもらって、軽井沢の別荘に一人住んだ。さすがに秋が深まると軽井沢は過ごしにくくて家に戻ることになるのだが、それまではずっとひとりの時間だった。軽井沢の街を歩き、シュタイナーをかじり、ドストエフスキーやゲーテや小林秀雄や本居宣長を読み、日蓮を読み、グレングールドを聴き、ジャニス・ジョップリンに涙し、ビデオを借りまくった。誰にも邪魔されない。それは念願の生活だった。知識を得たいと思い、世の中の仕組みやありようを知りたいと思って本を読んだ。次々に知識は知識を連れてきて、あれもこれも読みたい本ばかりが増えていった。しかし、読んでいる時はすごいなあと感心するし、大いに心は高揚するのだが、次の本を読んでいると、前の本のことを忘れてしまう。体系だてて読んでいないせいかもしれない。どんなに感動しても、本は自分に具体的な何かを促してはくれない。すごい世界を知れば知るほど、わたしのすることが像を結ばなくなっていく。軽井沢でひとりでいては、何も始まらない。ここでは旅人のようなものだ。もっと社会とつながらなくてはならないのではないか。自分の能力はひとのあいだで生かされるものではないのか。行きつ戻りつする考えの中で、ピアノが浮かんできた。誰も弾くことがないピアノがお寺にあった。棄てる前に状態を知りたくて調律師に来てもらったおりに、なにげなくその内部が目にはいった。そこは複雑で整然とした見事な世界だった。こんなふうに丁寧に作られてあるのだと感動した。これが誰にも弾かれずにあることがもったいなく思われ、ピアノの先生を探した。「今度発表会するから、来てね」と言う。「うん」「陶芸もやりたいの」「いいね」「なにかを作りだすってのがいいのよ。くるくるまわるの見てたら、なんかいい気持ちになりそうな気がするの」「そうかあ」彼女が動き始めてよかった、と思うが、電話は軽井沢からだった。今は自分ひとりだと言った。彼女の人生なのだから、彼女が納得して選び取るしかないのだろうと思うし、彼女の言い分に異議を挟むつもりもない。それでも素直に私自身の感想を言うなら・・・よくわからん、のである。
2004.09.17
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友人の右手の親指の付け根に結石ができたと聞いたときは、そんなところにできるものなのかと驚いた。長年ペンを握り締めて、筆圧高く、その大波小波の人生を文字にして原稿用紙をうめてきたひとなので、長時間の酷使のせいかとも思われた。その石は神経にさわっているらしく、動悸とともに体中に痛みが走ったという。横になることもできず、布団のうえに座ったまま、夜を明かした。病院に行くと強い薬を出され、二の腕までしっかり固定され、石が暴れるから、その手を使ってはならんと厳命された。そうなると痛みもさることながら、日常生活が円滑にいかない。ペンどころか、箸が持てない。風呂に入れない、掃除ができない、ご飯が作れない、化粧ができない、そして、なにより、書くことができない。自分が自分でいるために為すことがなにもできない。なにもできず、ただ漫然と朝から晩へ今日から明日へと、時のうつろいを見つめるいるしかなかった。もううんざりだ、もうたくさんだ、コレじゃあ生きてる甲斐がない、こんなことが続くんなら、死んでやる、自殺してやる。そんな思いまで心をよぎった。そして1週間たった。整形外科で長く待たされ、ようやく順番がきて診察される。と、先生は首を傾げている。「おかしいなあ。治ってる」もう、痛くもない。友人はざまあみろと思った。意思の力で石をなだめたのだと。それを聞いたまわりのものはまたへーと驚く。そんなに簡単に治るもんなの?と。このひとは不死身か?などと思ったりもする。体の方が慌てたのかもしれない。こんな結石ひとつで自殺なんぞされたら困る、と。文学の世界で、友人の慕わしい作家はみな自死している。友人にもそういう願望が若いときから身のうちにあるのだという。ふんばってふんばって人生の大波小波に立ち向かってきたひとが、たった一個の石で死ぬのはなんとももったいないとも思うが、執拗な痛みというものはそういうふうにひとを萎えさせるのだろう。姑を見ててもそう思ったのだが、もともと健康なひとほどそんなふうだ。で、そういうひとは治ってしまえば何事もなかったかのように、自分がいかに健康かと語り始めるのだ。自分にはできんことだなあ、としみじみ思ったりしている。
2004.09.15
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柴又の帝釈天へ行った。寅さんの記念館があった。お好きな人には申し訳ないが、わたしは「フーテンの寅さん」が苦手だ。映画館で見たことはないし、テレビで放映されても好んで見たことはない。渥美清というひとの目がつらい。喜劇に出ながら、このひとの眸はなんだか切ない。人間の突き当りを見てしまったような感じがする。虚無を見ている感じ。そのひとが演じる破天荒な人物は、誰よりも求めているのに、いつも世俗的な幸せからは遠いような筋書きを、そんなもんさ、と笑って見過ごせないわたしの側に問題があるのかもしれないが、渥美清でなくてもいいじゃないかと思ってしまう。まったくもって、柴又というところは「寅さん」の残像に満ちていて、ちょっとつらい。帝釈天は素晴らしい彫物と庭園で記憶に残るものなのに、そのうえに寅さんがかぶさってしまう。寅さんの扮装をしたひとが街を案内している。それが仕事なのだと思うと、まっすぐに見られない。観光地の定め、客集めの一助だとわかりながら目をそらしてしまう。なんで、寅さんが渥美清という人でなければならなかったのだろう。それも仕事だった、ということか。団子、せんべい、漬物、門前町の店屋に人が満ちる。その通りの端に、のしイカを作る露店が出ていた。古びたローラーの間に、炭火で暖めたスルメを通して作る。動力はモーターだが、手動で調節する。昭和初期に使われていたもので、今ではほとんど見られない、と露店の男性が言った。意外に若いひとだった。一枚のスルメがのされて長く長くなって出てくる。一枚のスルメが柔らかくなって、たくさんになる。一枚500円。昭和初期の知恵。どこか、柴又に似合っていた。
2004.09.13
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詩人のねじめ正一さんがテレビで自作の詩を朗読して、「子供たちは56歳の中年のおじさんが一生懸命発する言葉に反応する」と言った。それは「言葉の関節をはずす」とかいうテーマで、言葉の繰り返しから生まれる感覚が詩には大事だ、とかいう話だったのだが、それはそれで頷くとして、「56歳の中年」というフレーズが、どうもひっかかる。56歳は中年だろうか。わたしの感覚では初老なのだが。詩人は長生きするつもりだから、そういう感覚になるのだろうか。あくまで個人的なことなんだろうか。先だってカルチャーに「焼きなす」という作文―初老のタクシー運転手の話―を提出したとき、高井先生に初老とは何歳のつもりで書いたのかと問われた。「60歳前」と答えたのだが、先生は「昔の辞書には、初老とは不惑の別称と書かれています」と言った。40歳は中年ではなく初老だったのだ。人生が50年で終わった時代には、なるほど40歳は老いはじめる年齢なのかもしれない。老いを迎える心構えをここらへんから始めよ!ということなのかもしれない。では医学やら栄養やらの進歩で、人生がその倍近くに延びてしまったような時代にひとは、いつから老いを意識するのだろう。きっと、人生の設計図の縮尺割合がどんどんかわってきてるんだろうな。テレビを見ていると、時々、ひとびとは老いを迎えることを拒んでいるかのように思えたりする。カッコのなかの年齢をみて、えー!!と驚くことが多いのは、ものすごく若く見えたりするからだ。その水面下では涙ぐましい努力があるのかもしれないが、いつまでも生臭いひとがいっぱいで、ちょっと息苦しい。若く見えることが良いことだという価値観は年をとることへの嫌悪に繋がるようだ。メーキャップする大統領とか政治家を見ているといよいよそんなふうに思えてくる。わたしにはそれがなんだか違和感なのだ。それってうまく年を取ることではなく、自分だけは年を取りたくない、とだだをこねて何かにしがみついているだけような気がしてならないのだ。生長するということが目指すのは、死ぬことではなく、その過程で何を得たかってことで、気取っていうなら、その得たものの豊かさが年を取る意味なのではないのかなあ。団塊の世代の前後は断絶の世代でもあって、それまでの日本人の土台にあった価値観を受け継がず、良くも悪くも独自の価値観を作ってきたひとびとなのだと思っている。彼らにはよいお手本がないから、うまく老いを迎えられないのではないかと思ったりするのは、谷間の世代のひがみだろうか。年寄りは年寄りらしく引っ込んでろ!と言ってきたひとたちが年寄りになって、ずっと引っ込まないのはずるいよね。年寄りに寄り添ってこなかったから、年寄りの思いがわからないのだろうな。わからないからどこかおそろしくて否定してしまうんだろうな。自分が余計なもの、のけものになってしまうという予感がこわいんだろうな。彼らはいつも真ん中にいたから。なんてことをうだうだというのはまだまだ青いのかもしれなくて、もっと年齢を重ねたら、それもまたよし、といえる包容力が身につくのかなあ。・・わからんな・・。
2004.09.11
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あつこちゃんの病名を近所のおとなは声をひそめて言い合った。わからないけれど、よくない病気なのだと思った。思春期にさしかかったあつこちゃんはだんだん笑わないひとになり、表情がなくなり、うつむくひとになった。そして、時おり、あたりを、黒目がちの眸で、驚くほど強く射るように見るようになった。いわたさんちに遊びに行ってもあつこちゃんはいつも見えなかった。奥の部屋にひとりいるらしかった。所在なげにしていると、ひでとしさんがカルメ焼きを作ってくれた。専用の玉じゃくしにザラメを入れて一口コンロで暖め、太い棒でかき回し、沸騰してきたら重曹のようなものを入れて今度は手早くかき回した。するとぷーとかるくふくらんだカルメ焼きができた。台所の梁のうえの明り取りの小窓から落ちてくる陽のなかで、ひでとしさんの焼くカルメ焼きは黄金に見えた。誰が作るよりもひでとしさんの作るカルメ焼きがきれいでおいしかった。できたカルメ焼きを食べにあつこちゃんも来ることがあった。わたしを見て「ああ」とだけ言った。そして、ひでとしさんが小さく割ったカルメ焼きをゆっくりと口に運んだ。生気のない動きだった。いわたさんのおばさんは信心深いひとだった。お寺の檀家の役員で、ご詠歌の先導をしたりしていた。あつこちゃんのことは心痛であったようで、三人の子を亡くしたうちの母とともに、様々な新興宗教を訪れ、祈った。その当時のことはあまりよく覚えていないが、幼いわたしもいっしょに連れて行かれた。いわたさんのおばさんに連れられた、魂の抜けたようなあつこちゃんを見ると、どきどきした。あつこちゃんの三つ折の白いソックスをはいたふくらはぎの毛穴が、妙に記憶に残っているのは、そのときのわたしはそこばかりみていたからに違いない。あつこちゃんの白々としたうつろな表情をそばでみたくなかったのだ。その底で、もう、もとのあつこちゃんとはちがうひとだと思っていたのかもしれない。いつしかそれはしかたのないことと思うようになっていた。それからの行き来は全くなくなり、おとなになったあつこちゃんに会ったこともない。それでもあつこちゃんは元気になり、真面目な工員さんと結婚し、2児をもうけたと聞いていた。ひでとしさんも結婚し、家を建て替えた。みなが集まっていた場所には今では大きな松が植えられている。そしてあつこちゃんは、今はかつてのわたしの実家が建っていたあとに6軒建てられた、しゃれた洋風の2階建ての建売住宅に住んでいる。あつこちゃんの家があるのは、ちょうど、おさないわたしがいつもそこにいた、カエデの木が生えていたところである。
2004.09.06
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あつこちゃんはいくつ年上だったのか忘れてしまった。6つか7つ上だったろうか。いつも長い髪を三つ編みにしていたなあと思い出す。ひっそりとそこにいるという感じのするひとだった。いわたさんちと接するところは、こちら側ではお地蔵さんが祀ってあり、向こう側は小さな洗い場になっていた。あつこちゃんはその洗い場にたらいを持ってきて、洗濯板で靴下や下着を洗っていた。薄茶の四角い固形石鹸をごしごしと擦り付けると、その揺れで水面に日差しが踊った。わたしはシャボン玉を吹きながら、時々、あつこちゃんの白い柔らかな腕が何度もあがりさがりするさまを見ていた。指先に石鹸の付いた手の甲の部分で汗ばんだひろい形のよい額の掻きながら、あつこちゃんがゆっくりとした口調でいう。「あんな、うちのおねえちゃんな、水虫やねんで」「みずむしてなに?」「知らんのん?あんな、足の指がかゆかゆなるねん。ほんで皮がめくれるねん」「そのむしが噛むのん?」「ちゃうて、病気やねんて」幼いわたしとのそんな会話をいつまでも気長にしてくれた。ある日、あつこちゃんに呼ばれていくと、畳の上に夏物の洋服が並んでいた。見覚えのあるものもあった。「これ、よかったら、着てんか」とあつこちゃんが言った。ピンクと水色の矢車草の花模様のワンピースがあった。ノースリーブで、腰のところで切り替えが入っていた。あつこちゃんに似合っていたものだ。それがわたしのものになるのがうれしかった。夏になるといつもそれを着ていた。つるつるてんになるまで何年も着た。矢車草が好きなのも、花柄の布を見ると気持ちが動くもの、このワンピースがその思いの底にあるのだと今になって気づく。そののちあつこちゃんを見かけなくなった。呼ばれなくもなった。あつこちゃんは病気になったのだった。(もうちょっと続けるつもりです)
2004.09.02
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