2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
全4件 (4件中 1-4件目)
1
納涼歌舞伎は、はじめてだった。19日の6時開演の第3部を見た。本当は第2部の「舌切り雀」を見たかったのだがチケットが取れなかった。「今昔桃太郎」につぐ渡辺えり子の新作歌舞伎。さぞかしおもしろかろうなあ。残念残念。第3部の演目は「通し狂言 裏表先代萩」だった。あまりかからない芝居らしく、上演記録によると、昭和20年以降4回しか上演されていないらしい。筋書きはというと表は、伊達仙台藩のお家騒動を描いた「伽羅先代萩」裏は、その先代萩で毒薬を調合する町医師を小物の小助が殺害する話でその表裏が、入れ子になって芝居は進む。この芝居で中村勘三郎は、政岡、仁木弾正、小助の三役を演じる。政岡は初役だというが、いやあ、うまいひとだなあと改めて思う。主君を救うために犠牲になったわが子を「でかしゃった!でかしゃった!」と言いながらも嘆き悲しむ母親の姿に、泣かされてしまった。玉三郎が演じた政岡を見たことがあるが確かに気品と威厳はあったのだがこんなふうには感じなかったなと思い出す。そのちがいが何なのか明確にはわからないが勘三郎の芝居はかたちのなかにありながらそのかたちを超えて、こちらの情に侵食してくるものがある。勘三郎の息子勘太郎が荒獅子男之助を演じている。女形も演じる、そう線の太くはない勘太郎が赤面役に挑戦でこれも実に印象的だった。なにしろちからの入った芝居なのだが、最後の見得のときの顔の筋肉の引き上げ方、胸の張り出し方が素晴らしいと思った。この役を演じられることを体が喜んでいるという感じだった。若いひとが成長していくさまをこんなふうに見せてもらうのもたのしいことだ。今回は2列32番という席だった。つまり舞台に向って右端のほうの前から二番目の席ってこと。この席は、浄瑠璃がたりのおっちゃんを堪能できる。その力み、そのうなり、そのもだえ、その顔の赤らむさまをつぶさに見て取れる。今回はおっちゃんは、竹本鳴門太夫。あまりつぶれていない、やわらかで耳の優しい声だった。それでも迫真の語りでわが子を八汐に殺されてしまった政岡の悲哀を情感豊かに浮き彫りにした。うまい!と思った。実をいうと浄瑠璃かたりのおっちゃんをうまいと思ったのはこれがはじめてだ。わたしの観賞のツボに難ありかもしれないのだけれどこれまでは、何度聞いても、息苦しくなってしまったり耳障りに感じることが多かったのだ。ただ、このおっちゃんはひとくさり語り終わると、今までつぶっていた目を開けてかならず座席のほうに視線を流す。それが決まったところに目が動いていくのでなんでかな、とそっちのほうを見てみると、きれいなおねえさんがいたりする。2列32番の席はそんなことも見逃さない。なかなかに楽しめる。また、2列32番の席は端役のひとの動きがよく見える。並んで控えているひとの緊張と弛緩が手に取るようにわかる。科白を言い出す前の侍役の若いひとの胸が大きく上がり下がりしていた。その初々しさのようなものがうれしかったりする。 いつもより上演時間が短くて居眠りすることもなく、芝居は終わり歌舞伎座からJR有楽町駅まで歩いた。色鮮やかな鳥が並ぶ和光のショールームの前でお母さんが娘さんの写真を撮っていた。女の子は三歳くらいだったろうか。お母さんは日本人だったが娘さんの顔立ちが外人っぽかった。お母さんがデジカメの具合を調べているあいだに女の子は両手を広げて踊り始めた。なにかしら言葉を発しながら自分の体のなかにあるリズムでふわふわと飛ぶように踊った。おかあさんが顔を上げた時にはそのダンスは終わっていた。観客はわたしひとりだった。
2007.08.21
コメント(0)
臓器移植の話をしているとき、友人が「臓器にも記憶があると思う」と言った。唐突な話に驚きながらも、そうかもしれない、と思い始めてもいたというのも、彼女は、不思議なちからを持っている。体調にもよるのだが、たとえば座布団に触れると前に座っていたひとを感じることができる。ぼうーと像を結んだ人間の特徴を言うとまさにその通りだったりして、ひとを驚かすことがある。そんな彼女は骨董屋に行くと気分が悪くなるのだと話を続けた。骨董などの古い「物」にはいろんな記憶や思いが残っていて、それが交じりあって渦巻いているからだという。わたしはそのちからに感心しつつも、ひとの触れたものに対して過敏に反応することは疲れることだろうな、と思っていた。そして、あっと気がついた。以前、古い帯揚げと着物地で作った手提げをプレゼントしようとして断られたことがあった。そのときわたしは、好みじゃないんだな、とくらいにしか思っていなかった。まったくもって能天気である。しかし、今度という今度は、臓器移植から発した話題は、どうやら自分に古いものをくれるな、ということなんだな、と思い至ることになった。ああ、そういうことだったのか、と面目ない思いが湧く。そういえば、自らも倒産の経験のあるひとは、骨董屋の店先には、家庭や経済的な事情でそのものを大事にしきれず、やむをえず、身を切る思いで手放したひとの恨みつらみが宿っていることもあるのだと言っていた。自分自身にそういう感覚がないものだから、深く考えずに、古い着物地や帯などをリサイクルしてきた。それは、着物として着られないものを別な形で生かすことが「物」への供養になるのだと思っているからだ。その昔、末っ子のわたしはお下がりをもらう機会が多かった。それは時代的にも当たり前のことだった。ダイスキな隣りのおねえさん、あつこちゃんがピンクの矢車草のワンピースをくれたときはとてもうれしかった。「物」の思い出はそんなふうに善意とともにやってくるものだと思っていた。だから古いもの、ひとの手に触れてきたものに対して何の抵抗もなかったし、逆にたくさんの時を経たことに敬意を持っていたし、それでかえって安心できたりもした。アンティークのお人形を愛する人は「深く愛され可愛がられ、大事にされてきて今に残っているお人形が悪い思いを抱くわけがない」と明るく断言する。その延長線上にいるわたしと不思議なちからを持つ彼女の考え、そのどちらかが正しいというのではなく、それぞれに感じ方が違うのだからその事実を受け入れるしかない。そこまでわかったのだから、これまでのことを反省し、これからは、ひとに迷惑をかけるような余計なことをしないほうがいいのだ。と、そこまで考えて、これまで作ってきた文袋に考えが至った。彼女と同じように感じる人に、古い材料を使ったものをさしあげてきたのではないか。悪気はないが、知らずに嫌な思いをさせたのではないか。もしそうだったら・・・と申し訳なさがこみ上げてくる。今秋、所属する同人誌「停車場」が出来たら文袋に入れて送ろうと思っていた。だからコツコツ作り続けているだが、そんな思いがシュルシュルとしぼんでいきかける。なんだかなあ、とため息がでる。しかし、そこで踏ん張って考えた。そうだ、2タイプ作ればいい。「文袋 あたらし組」と 「文袋 ふるい組」を作る。未使用の生地チームと古布チーム。ご希望があればどちらかにできる。ふるい組とはいささか難有りのネーミングだなあとも思うが、負け惜しみのようだが、古布のよさを知る人と知らぬひとをふるいわける、と考えれば、悪くない気もする。誰かのために何かを作ることはよろこびであり、文袋は自分のなかで灯ったあかりのようなものだ。ひとに嫌な思いをさせたり、迷惑かけてはいかんと思うが、それでも、このあかり、消さないで大事にしたいと思っている。☆もし文袋付き同人誌「停車場」をご希望の方がありましたら、メッセージにて、お申し出くださいませ。(どちらの組がお好みかも)
2007.08.18
コメント(0)
コンビニ脇の坂の途中に小さなアパートがある。出入り口には石細工の門柱が立っている。夕刻その門柱の前を通るといつも人影がある。そこにいるのは小柄な老女だ。そのひとは門柱からすこしだけ顔を出してこちらをうかがっている。介護用のフェルトの靴を履いていて足元がおぼつかないのか、支えるように門柱に手を伸ばす。その手の指先は赤くマニキュアされ両の手の薬指にはめられた指輪が金色に光っている。手首にはパールのような2連のブレスレットをし首元にも何連かのネックレスが見える。そんなふうに精一杯のおめかしした老女は、門の影から坂の下をうかがう。その表情は、なんともうかがいしれない。たて皺の目立つ口元はちいさくすぼめられ、顔の筋肉は固まったように動かない。しじみのような目はだたくりぬかれた空洞のようで雲のかたちがそこに映っているような気さえしてくる。ひとの気配がすると、一瞬、老女の顔の輪郭が引き締まりかすかな不安をまとったように見えたりするが次の瞬間、その目はこの世のどこにもピントがあっていないような感じもしてくる。わたしは一度、この老女と目があったことがある。どうにも目が離せなくて、言葉もなくながく見つめてしまった。不躾な視線だったかと反省する。その視線に気づいた老女もずっとわたしから目を外さなかった。にらめっこのような時間が過ぎて老女は口ごもりながら「お・は・よう・ご・ざい・ます」と言った。それは不明瞭な発音で脳の機能が良好とは思えないしゃべり方だった。しかも時刻は夕方5時を回っていた。見当識がないのだと思った。わたしはなにも言えず、ただ頭を下げた。すると老女もおなじように頭を下げ張り付いたような浅い笑顔を見せた。その笑顔がなんだか胸に刺さるようなきがしてわたしはそそくさと老女のそばを離れた。坂を上りながら思った。老女は過ぎてしまった時間のどこかで彷徨っている。体はここにありながら、思いは遠い日にあってその裂け目をのぞきこむようにああ、やって門柱の影に立って坂の下をうかがっている。あれはきっと誰かを待っているのにちがいない。そういう記憶が今のあのひとを包んでいる。その誰かは坂の下からやってくる。帰ってくるひとかもしれないしたずねてくるひとかもしれない。そのひとの目に自分がどう映るのか、そんなことが気になってこんなにおめかしをしているのだからきっと待ち人はいとしいひとであるに違いない。あとさきのことはなにもわからない。たくさんのことを忘れてしまった。それでも、ただなにか不思議なちからに突き動かされるように、毎日、門のところまで迎えにいってしまう。見つかったらはずかしい。だからこっそりのぞいている。ずっとあのひとを待っている。時空を超えたあこがれがこころのほころびからふたたび顔を出す。坂の途中で振り返ってみると老女はやはり坂の下を見つめていた。配達のトラックが通り過ぎていった。
2007.08.08
コメント(0)
「くもりときどき思案」にコメントをもらった。>人に対しても、未来にも、とにかく希望を持てたことを思い出すと、切なくなります。その言葉から希望について考えてレスを書いた。そのレスにあるようにわたしは、わけありの末っ子で一族郎党の浮き沈みする人生を間近で見てきた。それは何も始まらない前からたくさんの生き方をシュミレーションしているようなものでどの人生ゲームも一筋縄ではいかないってことを頭に叩き込まれたような気がする。加えて京都のひとのあまり身びいきのない容赦のないシニカルなものの見方を植えつけられたりしたものだからあらゆることが「どうせ、そんなもん」っていう感じでひととか未来とかに希望なんか持ってなかった。いや、その頃のことはそこにいればそれが当たり前でずっとそこにいたなら気づきもしなかったのだろうけれども時間と空間、距離を置いて振り返ってみればひとびとのやわらかでくちあたりのいい言葉の裏側を年若いうちから忖度するようになってそんな暮らしの中で一生懸命なものに対してどこか覚めた目を持つようになっていたと思う。舞い上がったものはいずれ落ちてくる。燃え上がった炎もいずれ消える。恋愛さえもが日常の繰り返しに侵食され目減りしていくものだと感じていたのだった。三つのお願いのお話のように強く願ったことはいつも捻じ曲がったかたちで叶えられる。願わなかったほうが幸せだったかもしれないと思い知らされたりしたことが山ほどあってひとにも未来にも、願うことはなくなっていった。わたしは愛想笑いの得意なニヒルな女生徒だったような気がする。いつだって自分がいた場所ではないところどこか遠いところに思いを置いていた。それがひととの摩擦係数を少なくする方法だった。そんなころから十年ほどたって境遇はずいぶん変わって母親になったわたしは横浜でみどりさんに会った。みどりさんにあってはじめてそういうのってつまらんな、と思うようになった。みどりさんはものごとにシニカルな覆いをかぶせることなくひととのつながりを愚直なまでにきちんと結んでいって時に傷つきながらもその往還がらせん状に上向きになっていくことは可能なのだと身をもって教えてくれた。自分だけが我慢すればいいのだと思うのはそのひとのわがままでしかなくてそれはどこかで氷付けされた優越感を溶かして自己憐憫にまぜこんで酔っているのであって相手も自分も我慢しなくていい道筋を考えることが大事なのだ、とも。みどりさんといっしょにいるとひとの思いのあったかさはくりかえされる暮らしの中でほかのだれでもない自分自身の手で掬い取るものでありひとはそうやって希望をつなげていけるんだって教えてもらったような気がする。その後、病気をしてから、人生はもっとシンプルになった。もう少し生きていたい。たいせつなひとともう少し、いっしょにいたい。それが希望だった。それは毎日叶えられている希望でもある。
2007.08.04
コメント(0)
全4件 (4件中 1-4件目)
1
![]()

