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わたしが見かけほどおだやかな人間ではないともうご存知のかたも多いと思う。おだやかに見えるのはあまりたくさんのことに関心がないからだ。つまりたくさんのどうでもいいことに関しておだやかなのだ。しかし、そうはいっても人生にはどうでもいいやではすまされないこともやはりたくさんあってそれはこだわりやプライドがある分なかなかに一筋縄ではいかず業腹なことを抱えることとなる。このところ、それが嵩じて不眠だとかこわばりだとかが始まりどうにも頭が痛んでならなかった。そんな日曜日にわたしは憤然と家族の昼ごはんを山ほど作りなにしろ家を出た。電車に乗ってここではないところへわが身を置きに行くのだ。しかし無計画ではいかんな、とこれまでの経験で感じている。行くところが決まってないと心細くなってすぐに帰ってきてしまうからだ。今日はちがう。世田谷文学館に身を置きにいった。おりしも向田邦子展の最終日。京王線芦花公園駅下車。目的地に向う道筋はなかなかに背筋が伸びる。人気の作家さんだからその最終日だから、なのだろうが文学館にひとが満ちる光景はなかなかに心豊かになる。文学館のとなりにすごくでかいお屋敷があってその堀なのだろうか、鯉が泳ぐ。お屋敷とは全く異質な体育館のような建物がにょきっと。そのコントラスト。これはトイレ。すごく美しかった。手書き原稿やドラマの台本を見てこのひとはすごいひとだったんだと改めて思う。秘めた恋の話にも感じ入る。かつてカルチャーで習ったシナリオの先生が向田邦子の恋の本を書いていたのだここに並んだ本で知って驚いたりする。自分が小説を書き始めていよいよこの才能はすげえと思う。ちょっと意地悪な目線が捉える日常のささいな出来事がぐりんと裸の人間を抉り出す。言葉が怖いという講演のCDを聴くことができた。落ち着いた知的な声だった。ウィットの効いた会話がすきだといっていた。そうユーモアもこのひとの大切な要素なのだと感じ入る。なにしろこのドラマも書いた人なのだから。(このブースだけ撮影可だった。なんだか寅さん記念館のようだ)このひとは、51歳で亡くなったのだと知る。そしてわたしは52歳なのだと思う帰り道にぱらぱらと雨が落ちてきたのだった。あ、雨だと空を見上げてあ、頭が痛くならなかった!と気づく。やっぱりなあ、と頭痛の種に思い至る。とはいえ帰る家はそこしかない。「半日の自由」が終わる。
2007.05.27
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千鶴子さんに報告することがあって何度か電話したがそのたびに留守で、旅行にでもおでかけかなと勝手に思い込んでいた。ようやく連絡がついてみると、ひざ関節が痛んで歩きにくくなってご主人に車椅子を押してもらって整形外科に通っているのだという。5本打てば治るといわれた注射を10本打っても治らなくて「もう、いやになっちゃう」とため息をつく。それでも短歌の教室には通っているのだそうだ。駅やバス停から近いところなら杖をついてならなんとか歩けるからだ。元気な千鶴子さんと車椅子のイメージがわたしのなかでなかなか結びつかないのだが「車椅子もねえ、思ったより楽じゃないのよ」という。それはわたしも最近知ったことだ。姑を病院に連れて行くとき車椅子を押した。慣れていないので、車幅感覚が体得できるまではおそるおそるという感じだった。家の前の段差や坂道、歩道に付けられた盲人用のポツポツも厄介だ。舗装されている地面にもかなりの凸凹があるのだと直に伝わる振動で体感した。狭い待合での駐車(?)の幅寄せにも苦労したしエレベーターや通路を占拠している申し訳なさのようなものも感じた。押しているわたしがそうであったのだから押されている姑は居心地悪くもっと感じることが多かったかと思う。しかし自分の足ではあるけないのだから致し方ないと思い定めてみれば車椅子に乗ることで外の世界と繋がることができる。堀川通りに出てみたら眩しい陽射しのなかで銀杏並木の緑が鮮やかだった。「みどりがきれいやねえ」と声をかけると、姑は「ほんまやなあ、きもちがええなあ」と答えた。千鶴子さんは車椅子に乗りながらご主人とどんな会話を交わすのだろうと思っていると「もう、車椅子のことでいっぱいエッセイ書いちゃったわ」と弾んだ声が聞こえてきた。いつものことながら、千鶴子さんはどんなことになってもそれをねたに文章を書く。旅先で路に迷ったことや転んだことものわすれや入院生活でのことなど一歩ひいたところから自分や周りを見つめて淡々とした言葉を織り重ねていく。ずっとそうやって「老い」や「病」との距離を計ってきた。しみじみ、千鶴子さんも業のようにものかきさんなんだなあと感心する。ちょっとラッキーなわたしの報告をわがことのように喜んでもう少し足の状態がよくなったら駅の近くのお店でごちそうしてくれることになった。いえ、そんなの申し訳ないですというと実はあこがれのお医者さんと看護婦さんたちとの会食をそこでやるつもりだからその下見なのよ、と笑った。その先生は数日後のNHKの朝の番組にでるらしい。看護婦さんがこっそり教えてくれたのよ、と嬉しそうに告げた。もう80歳だから先生へのあこがれは今年いっぱいで消す、と去年は言っていたような記憶があるのだがまだまだ思いは消え失せてはいないようだ。まだまだ車椅子が見せてくれる世界は広そうだ。で、あの先生はどうだったの?と聞かれてそうか、あの先生もかつては医者だったと思い出す。斜め前で、ばくばくフレンチ食べてました、と答えると千鶴子さんは大笑いした。
2007.05.25
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姑の主治医は女医さんで、色白で目が大きくて、なかなかのべっぴんさんだ。年のころは中年から初老という感じなのだがスタイルもよくてけっしてそんなふうには見えない。髪は茶髪で、最近町でもよく見かけるムーミンに出てくるミーのような髪型である。この前は白衣の下のスカートが真っ赤に暖色系の色模様だった。そして今回は白衣ではなくブラウス姿だったのだがこれがまた春色の色見本のようにパステルカラーが飛び跳ねている模様だった。なにしろ派手好きにお見受けする。外見だけでなくこれまでにお会いして説明を受けた経験を重ね合わせて考察するにこのセンセイはどうも医師の「規格外」の雰囲気がする。おおざっぱというのではないが、どこか「かまわぬ」感じがする。それは大切なことの見極めの出来るひとの高度な判断でもあるだろうが細かいことにこだわらないおおらかさでもあるように思えた。まあ、そうでなくては「センセ、はよ死にたいから、死なしてもらうわけにはいきまへんか」なんて頼み込む患者と「それはできひんなあ。そうあわてんでもみんないずれ死ぬから」なんて渡り合えないような気もする。生き死にのことも、あっけらかんと言い放ってしまわれるとそれはなんだか爽やかに心地よくさえもあって姑も「あのセンセはすっぱりしたはるさかいに、すきや」という。人物評がそう甘くはない姑がそういうのだからそれはたいしたものだと気弱な嫁は思ったりもする。前日に挨拶にいった隣りの家のおじさんも最期はこのセンセイに看取られて逝かれたそうだ。おじさんは生前からこのセンセイの贔屓だったのだという。今回は姑の検査結果を聞くのがわたしの役目でまあ、それに関してはいろいろと問題はあるわけでそれはまた別な話としておいておくのだがその主治医に「ああ、お嫁さんきてくれたのね、よかったわ」といわれて、わたしはなんとなくうれしくなった。なにしろ前回、同じようにして待合で順番を待っている時偶然居合わせた親戚のひとが声をかけてきて(姑の声は特徴的なので、向こうが気づいたのだが)いっかなわたしのほうには注意を払わず姑とばかり話していた。こちらは法事などで会ったことのあるそのひとを見覚えていたのでこちらから挨拶をしたのだが「てっきり付き添いさんかとおもてました」とあっさり言われてしまったのだった。まったく図体は大きいのに存在感の薄い嫁である。まあ、しかしわたしは病気をしているので医学用語のようなものをひとよりはたくさん聞きかじってきたので話が早いということもあるのだろうがセンセイが言い渡す重大な結果はいつもわたしが聞くことになる。そういう意味ではこの嫁の存在意味はあるわけなのだが・・・。(なんて僻み根性はみっともないなあ~)検査結果を聞いて今後の方針も姑本人の意向に沿って決めてきた。最期はセンセイのお世話になることになる。そこでわたしはおもむろにこれを取り出した。文袋の登場である。「センセイ、こういうの作ったんですけど・・・」「あら、きれいな色ね」「お好みかと思いまして」「わたし、派手だからね。お弁当入れるのにいいわね。ありがとう」受け取ってもらえるものと思ってはいたのだが一抹の不安もあった。あっさり受け取ってもらえて、ほっとした。・・・センセイ、どうぞ、姑をよろしくお願いいたします。
2007.05.16
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百万遍の寺を出てから西日の当たる町を少し歩いた。京大の石垣の前の電話ボックスなにやら気になる洋風建物もある。古そうだ。ちょっと路地に入ってみる。こちらはやはりここちよく和風。道路を渡って反対側の路地に入ってみる。こちらはちょっと雰囲気がちがう。こんなお地蔵さんがあったりする。きっと近所のおばあさんが今日一日の無事と家族の健康を祈って毎日おまいりするにちがいない。きっとそれこそがいいおまいりなのだなと思う。と、ここまできて姑が気になってくる。あわててバスに乗る。ひとつ手前で降りて花屋に寄りピンクのカーネーションを一本だけ買う。姑の記憶は徐々にその空洞を広げていて母の日のことも憶えているかどうかわからないのだが姑のための一本だ。帰り着いて、そういえば、とこちらも薄れ始めた記憶を手繰って何年か前に姑自身が陶芸教室で作ったという小さな花瓶を引っ張り出して一本のカーネーションの伸びた茎をバランスよく5本に切り分け、投げ入れた。それを、めがねやハサミやメモや雑多なものに侵略されたように陣地が狭くなっているテーブルの真ん中に置いた。それに気づいた姑は「きれいないろやなあ。かいらし花やなあ。この花、すきや」と言った。何度もくりかえし言った。
2007.05.15
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91歳の姑の腸のCT検査があった。前夜から絶食を言い渡されているためそれの見張りと病院の付き添いのため13日に京都に行った。着くと、姑は眠っていた。「そうかてなんにもすることあらへんねんもん」そんな台詞が浮かぶ。とりあえずゴミだしや戸締りのお世話になっているお隣のおばさんにご挨拶に行く。今回はこの文袋にささやかな手土産を入れて、となりのおばさんに手渡した。「いやー、あんた、つくったん。器用やなー。おおきにー」70歳にしては若々しい甲高い声で何度もお礼を言ってもらう。こちらこそ感謝しているのです。お隣のおじさんは去年肺炎で3日入院してなくなった。ちょうど一周忌なのだという。小柄でおとなしそうなおじさんだった。「お寂しいことですねえいっつもいっしょにお出かけされてたのに」わたしがそういうとおばさんの目がうるむ。「はー、あまりにあっけのうてはじめの半年はボーっとしてたけどなあやっと慣れたわ。今はせいぜい外へでてボランティアしてるねん。デイケアの遠足の車椅子押しとかしてるねん」そんな話もいっしょに聞く。「動けるうちはひとの役に立ちたいねん」そんな言葉がこころに残る。お返しなのか、なんなのか町内のお祭りだったから炊いたという赤飯とおじさんの一周忌の法事のお供養をもらった。なんだか奇妙な取り合わせだった。それをまずは、とお仏壇に供えに行くと4月の末に法事をしたときの舅とおおじいさまの経木塔婆が仏壇の前に置いたままになっていた。それはお墓にあるべきもの、と思い百万遍にあるお墓まで持っていった。お寺の山門は5時きっかりに閉めますと注意書きがしてあるのに時刻は5時を少し回っていた。しかしせっかくきたのに、と思いお寺さんの前を通ってお墓まで走っていった。ハアハアと息を上げながらお墓の門をくぐると向こうから見回りをしているらしいお坊さんが自転車でやってきた。「すいませーん。すこしだけ……いいですかー?」と声をかけるとお坊さんはにっこりして「いいですよー」と答えた。墓石の間のほそい通路を突っ切り見慣れたお墓の前にたどり着く。経木塔婆を所定の位置に納め手を合わせる。この家の人間になってかれこれ30年なんどこの墓の前に立ったろう。何年先にここに入るのだろう。と、墓の前に雑草が生え始めているのに気づき我ながら手早く引っこ抜く。またお盆に、とつぶやきながら門を閉める。来た路を早足で戻っていくと出口近くでさっき会ったお坊さんが待っていた。ああ、申し訳ないとまた走った。「どうもお待たせしてすみませんでした」と言って門をくぐり振り返るとお坊さんは手を合わせて「いいおまいりでした」と言った。それは決まり文句なのかもしれないけれどまだ若い小柄がお坊さんの発した言葉はなんだか沁みた言葉だった。こんなにわすれものを届けるようなあわただしいおまいりがいいおまいりなのかしらと思ったりもしたけれど、わたしひとりだけでお墓にいってここのご先祖さまと話すことはこれまでなかったことだからいいおまいりなのかもしれない。気がつくとわたしも手を合わせて「ありがとうございました」と言っていた。
2007.05.14
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図書館の返却日だったので雨の中、でかけたその帰り道いつもの道いつも場所いつものものが濡れているみずたまりを行く。 消防署の脇を行く。坂の途中雨の中 寄り添うゼラニュウムと放置自転車。道ならぬ恋のよう公園に寄り道するだれもいないここにいないひとが案じられたりする。石の階段を下りて帰る。連休が終わる。
2007.05.06
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