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世の中の情報をたくさん知ることはいいことなのかもしれないけれど知らなくてもいいこともあるのかもしれないという気もする。悪いニュースに眉をひそめることよりもしあわせな笑顔との距離を計ることのほうがつらいことなのかもしれないな、と時々思う。指の間からすり抜けていったものの大きさを肌身で感じているときに自分ではないひとの自分とはかけ離れたしあわせをこころから祝福することができるだろうか祝福できない自分もいやだし無理やり祝福してしまう自分もどこか胡散臭く思われたりもする。そういうもの思いは袋小路に入ってって抜け出すのがたいへんなのだと長く生きてくるうちには学んできた。祝福したければすればいいししたくなければしらんぷりすればいい。それだけのことだ。それができるのがおとなだ。しかしものすごく正直に言ってしまえばそれだけのことがなんでこんなにしんどいのかと思う。うらやましい、と思う気持ちのやじろべい傾きすぎるとねたみになる。傾かなければ血の通わぬ木偶のようだ。ひとはひとだ、とことさらに言うのはそこにこだわっていることの証でもあるように思う。ひとはひとだ、とさらりと言ってのけるひとは自分の得点を重ねてきたひとのようにも思う。失点ばかりを重ねてくるとどこかがねじれていく。おいてけぼりを喰らったときひとはひとと言ってしまうとなにかを誤魔化しているような負け惜しみのようにも聞こえてしまう。だれかと肩を並べることができないものは肩を並べることはとても安心なことのように思えてしまう。ひとなみであることがしあわせの条件であるかのように。だれがどこでなにをしようと自分の歩みは変えられないのだと知っていながらだれがどこでなにかをなしとげたとき自分の歩みのリズムが狂ってしまう傾くやじろべい。誤魔化すことは簡単でとびきりの笑顔も作れるのだけれどその反動が身体の中をぐるぐるして原因のわからぬ不調となる。真っ直ぐ歩けない家族といっしょに歩いていく覚悟はとうの昔にしたはずなのにしあわせのたよりにこころ乱されることもある。だれかのまんまるの笑顔に自分たちの欠けた部分を思い知らされたりもする。そんなふうに振り返り唇噛んだりしながらもそれでもやっぱり我らは欠けながら穏やかに歩いていこう。どこにたどり着けるかもわからないけれど穏やかに歩き続けよう。そんなことを思う12月25日メリークリスマス。
2007.12.25
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運河沿いの遊歩道を歩く。風のない穏やかな日曜日の午後。一人で歩くのはもったいないね。話し声も沈黙もどちらも心地よいひとと歩きたいものだね。なかなかそういうひとはいないんだけど。
2007.12.09
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