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いつだったか、明石家さんまが仕切る番組で「女の人はグループの誰かが褒められたら自分が貶されたように感じる傾向がある」と、専門家が言っていた。それを聞いていやあ、そうだったのかあとほっとしたりした。というのもまさにその通りのこころもちになってしまう自分をなんてひがみっぽいやつなんだあ、とずっと恥じていたからだ。わたしの周りの強くて素敵な女子たちはごくごく自然に「ひとはひと、自分は自分」と口にする。でも、わたしときたら誰かの成功話を聞くと「それにひきかえ、わたしは・・・」と落ち込んでしまうわけでそのたびにそうなってしまう自分への意識ともども二重に情けなくなったりしていた。しかし、データで言えば女の人はそういうものなのだと聞くとなあんだ、わたしだけじゃないんじゃん、みんな言わないだけじゃん、わたし、普通じゃん、とにわかに気が楽になったのだった。もうひとつ「わたしだけじゃないじゃん」と思ったのは28日付けの朝日新聞に落合恵子さんの文章だ。深夜の電話で落合さんの女ともだちが言ったのはある集まりで素敵な女性に会いそのひとをもっと知りたいと自分から距離を縮めていったのだがあまりに距離が無くなりつつあることに息苦しさを覚えるようなり自分の勝手さに腹を立てながらもう一人の自分を持て余している、ということだった。そこまで読んで、へー、その息苦しさ、おんなじだあ、そういう失敗するのわたしだけじゃないんだ、と思った。かつて知り合ったあのおばさんともあのおねえさんともあの子ともそんなふうになっていったんだんよなあ。そのたびにほんとになんて人付き合いがへたっぴぃでなんて片意地で、なんてわがままな奴なんだあと自己嫌悪しきりだった。でも落合さんの文章では、そのすぐ後に「同じような経験は誰にもあるだろう」と続く。へえ~~~、そ、そうだったのかあと驚いた。しかし、そういうこと、誰にもあるのかなあ。わたしのまわりの「ひとはひと」の強くて素敵な女子たちはやっぱりそういうことも言わないもんだからわたしだけが情けないのだと思っていたけどそういうもんでもないんだな。続く落合さんの文章には息苦しくなったら無意識に距離を取ってきたとあり、最後にスージー・オーバックさんの「ビタースイート」という本が引いてありその本の内容の印象を「同じところで同じように頷くことだけが友情ではない」と書いている。そうかあ、そうなんだなあ。「ひとはひと」の女子たちはそういうこともちゃんとわかっててこんなわたしと付き合ってくれているのかもしれない。同じところで同じように頷かない彼女たちにたくさんたくさん、感謝だ。
2010.08.30
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びぼう、と書いて変換すれば美貌がでてきたりしてそれもいいなとにやりとしてちがうやろ!と自分に突っ込む。実は、備忘、が正解。備忘というのは忘れたときのためにあらかじめ用意しておくことだ。もの忘れのスピードに我ながら呆れているのでこれは必要だな、としみじみ思う。この文の文の日記やサイドメニューに連なる作文を読み返してみてへー、そんなことがあったのか、こんなことを書いていたのか、と驚いてしまう。もうすっかり忘れていることが多くてああ、よくぞ書いておいたものだ、とその時の自分の頭をよしよし、と撫でてやりたくなったりする。たとえば・・・「機械はまったいらとまっすぐしかできない」テレビからそんな言葉が聞こえた。銅版を波型に凹凸を付けながら言われた言葉のようだった。ひとの手の為す微妙な狂いやねじれは機械には作れないってことだな。なんかざまあみろ、みたいな感じ。・・・なんてことが書いてあってへー、そうなんだあ、と感心したりする。自分が書いたものなのに。たぶんこころの動きの癖みたいなものは変わらないんだろうな。エッセイとして成立していなくてもだんだんに年を重ねて行く未来の自分のための作文ってのがあってもいいなと思う。びぼう欄みたいなの。と言い訳じみたことを書く自分がちょっといやなのだけれど・・・。*****今日、人気のない夜の公園の水銀灯の周りを大きく円を描いて飛んでいる生き物がいた。蛾ならもっと灯りに寄って行くしそれは蛾よりも大きかった。きっとあれは蝙蝠だな。街中の夜の公園に蝙蝠が飛ぶ。めいっぱい翼を広げて上下動しながら周り続ける。すこしでもこちらに近づきそうに感じるとすっと腰が引けてしまう。吸血鬼のイメージだな。それでもスーパーの荷物を手にしばらく眺めこれ、いつか思い出そう、と心でシャッターを切っていた。
2010.08.27
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昨日、朗読教室の教材はこんな詩だった。「世界は一冊の本」 長田弘本を読もう。もっと本を読もう。もっともっと本を読もう。書かれた文字だけが本ではない。日の光り、星の瞬き、鳥の声、川の音だって、本なのだ。ブナの林の静けさも、ハナミズキの白い花々も、おおきな孤独なケヤキの木も、本だ。本でないものはない。世界というのは開かれた本で、その本は見えない言葉で書かれている。ウルムチ、メッシナ、トンブクトゥ、地図のうえの一点でしかない遥かな国々の遥かな街々も、本だ。そこに住む人びとの本が、街だ。自由な雑踏が、本だ。夜の窓の明かりの一つ一つが、本だ。シカゴの先物市場の数字も、本だ。ネフド砂漠の砂あらしも、本だ。マヤの雨の神の閉じた二つの眼も、本だ。人生という本を、人は胸に抱いている。一個の人間は一冊の本なのだ。記憶をなくした老人の表情も、本だ。草原、雲、そして風。黙って死んでゆくガゼルもヌーも、本だ。権威をもたない尊厳が、すべてだ。200億光年のなかの小さな星。どんなことでもない。生きるとは、考えることができるということだ。本を読もう。もっと本を読もう。もっともっと本を読もう。**** 書を捨てて街に出よと言ったひとがいた。世界は開かれた本だと長田さんはいう。学ぶべきものは身近にたくさんある。どこで何を学ぶのか。自分の思いの持ち方次第のなのだと改めて感じ入る。 教室で、ご指名を受けて、この詩をひとりで全部読みとおした。読み終えると拍手をしてくれたひとがいた。おもいがけないことで、嬉しかった。この拍手は56回目のお誕生日プレゼントだと思った。
2010.08.26
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昨日、新宿の映画館へ行った。キャタピラー。「人間のさが」そんなことばがこころに浮かんだ。欠けている、ということにも心が乱された。決して後味がいい映画ではないのだがあの女優魂、あの思いきり、なりふりかまわぬあの演技音羽屋の血、さすが、と感じ入ったのだが不安というのはそういうことではなく・・・その映画館へ行く途中でなんとしたことか、尾てい骨の上辺りがひどく痛み左足が痺れて、棒のようになって、まことに歩きづらくなってしまったのだ。すらりとあしながの若人がスッスッと歩を進める歩道の端っこに寄っておばさんは顔をしかめてうつむいた。新宿駅からは10分ほどの距離なのにたったそれだけなのに左足が言うことをきかない。なんてことだ。このしびれを整形医に訴えたら腰痛から来ているとのことで血流を良くする薬は飲んでいる。リハビリにも通っている。それでもなかなか改善しない。足は前に進まず思いはマイナスへと進んでいく。行動範囲が狭まってどこにもいけなくなったわたしはこれからどうなるのだろう。だれにもお付き合いできなくてひとりの時間が長くなってかごのとりのようなさびしいおばあさんになるような気がしてくる。そしたらだんだんおつむがうごかなくなって今よりもっとへんなことし始めてううむ・・・まあ、誰しもおそかれはやかれそういうサダメではあるのだけどそれがこんな形でやってくるのか、といささか戸惑っている。不安というのは今だ来ない災厄を手探りで思い悩むことだ。ああなるのかこうなるのかと暗い未来予想図を書くことだ。考えてみれば、15年前の手術で私の体は左右のバランスが悪い。左のあごはないし、複直筋を取った。それが年を重ねてそれがこういう形で表れてくるのかもしれない。それならそれで仕方がない。たくさんのことを諦めてきたしこれからも諦め続けることだろう。つまりああ、こうきたか、と納得すればいいんだな。
2010.08.23
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昨夕、洗濯ものをたたみながらヘッドホーンをつけてパソコンに向かう息子2に訊いてみた。「小さいころ、かあさんに会いたいって思ったことある?」というのも・・・電車のなかで小さい子の泣き声がした。しゃくりあげながら、「ママに会いたい」と声をあげる。我が子にそう言ってもらえるうちが華、なんてばさまが言いそうなことを思ったりした。・・・(ツィッターより)てなことがあってうちの息子はどうだったかな、と思った。小学校の1年からキャンプなどでおよそでお泊りしてたことがあったからそんなこともあったんじゃないかな、とばさまのいう「華の時代」を確かめてみたかったのかもしれない。しかし息子はめんどくさそうにヘッドホーンをずらして愛想なくぼそっと答える。「別にホームシックになったことはない」「そうかあ」と言うこちらの声にいささかがっかり感が滲んでしまったのかとりなすように息子が言葉を足す。「いやあ、いつもその場その場の雰囲気を楽しむタイプなんだよ」そうだね、楽しいときにかあさんに会いたいとは思わないね。でもつらいときもあったんじゃないかな。キャンプ帰り、迎えに行ったら抱きついて来て泣き出したことだってあったよ。もうわすれちゃったか。その場その場の雰囲気を楽しむことでいろんなつらいことを払拭してきたんだね、きっと。「一人暮らしのときはどうだったの?」「だから、よく帰ってきてたじゃん」「あれはお金がないからじゃない?」「いや、みんなに会いたかったからだ」ふふふ、そうかね。
2010.08.21
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高校野球の勝ち残りチームがだんだん少なくなっていよいよ蝉が喧しいと感じるころになるとさすがの盛りの夏にもふっと陰りが見える。夕やけの頃に吹く風のなかで夏休みの残りを指折って勘定してどこか心もとなくなった幼い日。地球のどこかが狂っているにちがいないと思うほどに猛烈で容赦のない今年の夏にも一瞬そんな風が吹く。季節の巡りは当たり前で飽きもせずくり返すものだけれど自分がそのなかに立てるのは限りがある。それも当たり前のことなのだと当たり前に受け容れる夏の日。あと何日かでまたひとつ齢を重ねる。
2010.08.20
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どんな思いも誰かに伝えようと思えば言葉にするしかない。その思いの深い浅いはいろいろあるが言葉にその陰影、色合いをにじませるのはとてもむずかしい。原爆や戦争を経験した人たちがさまざまに語っておられるシーンを観てこころの深いところで感じていることを言葉に変えるとき、しみじみそう思う。思わず流れる涙の源泉体の奥で震えている想いをどう伝えるのか。言葉にしてみれば端々をどう変えてみても誰かがどこかで言っていたのとよく似たありふれたものになってしまう。いや、おんなじでもよく似ても、ありふれていてもいいのかもしれない。つらくて苦しい日々の記憶を持つ人に対してそれを持たないものは持たないことを心苦しくおもいながらうなだれて、その誰かの言葉とよく似た言葉を差し出すしかないような気もする。そのありふれた言葉を差し出し続けることに意味があるのかもしれない。
2010.08.16
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いかんね。どうにも頭が悪い。みそ汁の入った片手なべを持って電子レンジを開けていた。え~、なにするの!?と、我に返って、自分に驚く。暖めなきゃ、という気持ちとレンジは暖めるものということが一瞬結びついてしまう。つまり、考えなし。いつもとちがう駅にいると行き先の名前見てるのに反対方向へ向かう電車に乗ろうとしてしまう。家族の予定を忘れてしまう。自分のおけいこの日を忘れてしまう。メールの返事を忘れてしまう。お風呂にお湯張ったか、薬飲んだかも時々わすれてしまう。違う部屋に行くたびにやりっぱなしのことがあって驚く。会話のなかで、聞いたはずの血液型をまた聞いてしまう。お住まいも2度聞いてしまう。なんか言おうとしてたのにそれが、なんとしても思い出せない。ものすごく面白いことだったような気がするのに。なんでかなあ。加齢ゆえかなあ。この前、洗濯角ハンガーが右側頭葉めがけておっこってきた。えらく、痛かった。それゆえなのか。あるいはもともとそういうタチなのか。そいつに拍車がかかったか。頭が悪いわたしと、どうつきあったらいいものか・・・。
2010.08.11
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