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★ダニエラ (vf) Daniela 本名ダニエラ・メルラ(Daniela Merla) 1955年10月18日ミラノの北東40kmにある都市ベルガモ生、歌手。 活動期間: ? 所属レコード会社:OSI サンレモ音楽祭出場1回:1975年参加 地方ののど自慢大会から出てきた新人で、1975年サンレモ音楽祭に出場が決まっていたマリーサ・フリジェリオ(Marisa Frigerio)が出場取止めとなり、急きょ代役として選ばれる幸運をつかみました。 しかし参加費用は彼女の母親が支払う羽目となり、ダニエラの唯一のキャリアはサンレモ音楽祭参加歌手でした。その後の消息はつかめませんでした。 OSI-0005 (1975年2月 OSI – CBS Sugar) Dolce Abitudine (甘い習慣)/ Piccolo Bambino Caro OSI-0005 ダニエラの国内盤はありません、以上です。 ★クリス&サラトガ (compl) Kriss and Saratoga 1971年にトスカーナで結成されたヴォーカル&インスツルメンタル・バンド。 活動期間:1971 – 1975 レコード会社:Fonola、OSI サンレモ音楽祭出場1回:1975年参加 サンレモ音楽祭出場時のメンバー構成 ・クリス (Kriss)、本名フェルッチョ・フラノスキーニ (Ferruccio Franceschini) ヴォーカル ・ベッペ・カッシーニ(Beppe Cascini)、本名ジュゼッペ・カッシーニ(Giuseppe Cascini) ドラムス ・ナンド・ベニーニ(Nando Benigni) キー・ボード ・ブルーノ・グッビーニ (Bruno Gubbiani) ・ジャンニ・ランキーニ (Gianni Ranchini) 1971年フィレンツェの南東50kmの山中にある小都市トスカーナ州アレッツォ(Arezzo)で5人の若者がクリス&スメラルディ(Kriss E Gli Smeraldi)というバンドを結成しました。スメラルドはエメラルドの事です。 結成時クリス&スメラルディのメンバー構成 ・フェルッチョ・フラノスキーニ (Ferruccio Franceschini) ヴォーカル ・ナンド・ベニーニ(Nando Benigni) キー・ボード ・ジュゼッペ・カッシーニ(Giuseppe Cascini) ドラムス ・ジャンニ・ランキーニ (Gianni Ranchini) ・ブルーノ・グッビーニ (Bruno Gubbiani) リーダーのフェルッチョ・フラノスキーニは痩せてキリストの様なのでクリスト。仇名は骸骨。メンバーはスメラルディからサラトガまでメンバー交代はありませんでしたが、バンド名だけは変わっていきました。 彼らはミラノ北西40kmにある山中の小都市アローナ(Arona)に1929年設立され、現在も活動を続けているイタリア屈指の老舗レコード会社フォノテクニカ・フォノーラ(Fonotecnica- Fonola)のフォノーラからデビューしました。 この会社はダンス音楽、民謡、地元の歌手のレコードを作るために設立されましたが、60年代にはサンレモ音楽祭出場曲やヒット曲のカヴァーを出して業績を上げました。クリス&スメラルディもそのひとつでした。 71年クリス&スメラルディで最初のシングルはジョージ・ハリスン(George Harrison)の“マイ・スウィート・ロード”と、後にミドル・オブ・ザ・ロード (Middle Of The Road)が“チピ・チピ天国”として大ヒットさせるラリー・ストット (Lally Stott)の“僕はチャーピ・チープ”をカヴァーしました。 SP-8014 (1971年 Fonola – Fonotecnica) My sweet Lord (マイ・スウィート・ロード)/Chirpy Chirpy Cheep Cheep (僕はチャーピ・チープ (チピ・チピ天国)) [come Kriss e gli Smeraldi] SP-8014 NP-2142 NP-2142 (1973年 Fonola – Fonotecnica) Sylvia's Mother (シルビアズ・マザー) [/L'Amore Mi Aiuterà (Starman) (スターマン) [come Kriss e il Gruppo 2000] 73年2枚目でバンド名をクリス&グルッポ2000と変えて、ロック・バンドらしくアメリカのドクター・フック&メディスン・ショー(Dr.Hook & Medicine Show)の“シルビアズ・マザー”とデヴィッド・ボウイ(David Bowie)の“スターマン”をカヴァーしています。 グルッポ2000名義でもう1枚、イ・リベルリ (I Ribelli)が67年カンタジーロのジローネCで歌った“望みなき思い”とブリティッシュ・ロック・バンド、ユーライア・ヒープ(Uriah Heep)の“サンライズ”をカヴァーしています。 NP-2143 (1973年 Fonola – Fonotecnica) Pugni chiusi (望みなき思い)/Sunrise in you (サンライズ) [come Kriss e il Gruppo 2000] NP-2143 OSI-0003 OSI-0003 (1975年2月 OSI – CBS Sugar) Piccolo Bambino Caro (小さな可愛い子)/Evadere 1年間のブランクの後、三度バンド名をクリス&サラトガに変えて75年サンレモ音楽祭に出場します。出場決定の経過は分かりませんが、彼らもレコード会社が決まっていなかったのでOSIからレコードが出ます。 これを最後に彼らの名前は出なくなりました。 クリス & サラトガの国内盤はありません、以上です。 ★アントネラ・ベラン (vf) Antonella Bellan 1959年4月3日トリノ生。歌手、女優、テレビ司会者、著述家、脚本家、映画プロデューサー 活動期間: 1970年 – 現在 所属レコード会社:Excelsius (Fonit Cetra)、 Las Vegas (Sidet)、 Cetra、 PBG Italiana、 F1 Team サンレモ音楽祭出場1回:1975年参加 1971年本格的に歌とピアノのレッスンを始めて、同年トリノで開催されたのど自慢「黄金の仮面」でフランコ・トッツィ(Franco Tozzi)やウンベルト・トッツィ((Umberto Tozzi)を見出したピエル・ベニート・グレコ(Pier Benito Greco)が作った“Fiori D'Arancio”を歌い優勝し、フィアット500の賞品を貰いましたが、僅か12月才アントネラは運転することが出来ませんでした。 72年ジリオラ・チンクェッティ(Gigliola Cinquetti)の“涙の小道(Qui Comando Io)”を採譜・構成した元アコーディオン奏者で作曲家・音楽プロデューサーのマリオ・ピオヴァーノ(Mario Piovano)に師事し、ピオヴァーノは彼女の優秀さを認めます。 73年トリノのフォニット・チェトラでピエロール・ベニート・グレコが作った曲を吹込み、“Grande Torino”はサッカーの応援歌となりました。(ユヴェントスのサポーターソングか?) EXS-0467 (1973年 Excelsius – Fonit Cetra) Grande Torino/Fiori D'Arancio [Antonella Bellan/Pietro Benito Greco] EXS-0467 500-1072 500-1072 (1975年2月 Las Vegas (Sidet) – PHONOGRAM) Lettera (手紙)/Il Regno D'Amore 74年カストロカーロ新人コンテストに出場し、優勝はリリアナ・サヴォカ(Liliana Savoca)とデニセ&グロリア・カローレ(Denise e Gloria Calore)でしたが、何故か優勝歌手が75年サンレモ音楽祭に出ず、ラスベガス(シデット)からアントネラ・ベランが出場しました。歌ったのは“手紙”で事前検閲をされて一部歌詞の変更もあり、ベラン自身も意に添わぬ曲でした。おまけに予選敗退で彼女にとってサンレモ音楽祭には良い印象を残していませんでした。 サンレモ音楽祭後フォニット・チェトラと5年契約を結びます。16才になりピエロ・パセロ(Piero Pasero)に師事し、本格的に古典と現代歌唱にピアノを習得し、演技の勉強もしています。 フランコ・チェッリ(Franco Cerri)のTVヴァラエティ番組「Chitarra E Fagotto」のテーマソング“Chitarra E Blue Jean”を歌い、チェトラからシングル盤を出しました。B面は多分フランスのP.フランソワーズ(P. François)が作った曲のカヴァーのようですが元曲は分かっていません。 若いアントネラがレコード会社と長期契約を結ぶことに関して周囲は反対のようでした。結果はチェトラからシングル盤を1枚出しただけで終わったようです。 SP-1604 (1975年 Cetra – Fonit Cetra) Chitarra E Blue Jeans/Libero Di Andare SP-1604 NP-003 NP-003 (1979年 PBG Italiana – P.B.G.) Il Sole Nuovo/Il Sole Nuovo (Base In Si Bemolle) 78年からバレエ、ジャズ・ダンス、モダン・ダンス、アフロ・キューバ・ダンスのレッスンを始め90年まで続けました。79年正体不明のシングル盤が出ています。如何にも私製盤のようです。P.B.G.はピエル・ベニート・グレコ(Pier Benito Greco)でないでしょうか? 80年代から90年代にかけてベランは舞台女優をしていました。フランスのジャン・ジュネ(Jean Genet)の原作をアルベルト・ネグリ(Alberto Negro)が演出した「Aspetto Sul Muro La Rivelazione Di Qualche Segreto Terribile」に出演したり、劇中で彼女のために書かれた曲を歌っていました。また「Invidia」ではジャニス・ジョプリン(Janis Joplin)の“ベンツが欲しい(Mercedes Benz)”を劇中で歌っています。 83年RAIでアルベルト・キャンタレット(Alberto Chiantaretto)とダニエレ・ピァンチョーラ・ラヴォーラ (Daniele Pianciola.Lavora)が製作・監督した16mm映画「VENERDÌ SERA, LUNEDÌ MATTINA」に出演しました。同年アメリカのロバート・シェクリイ(Robert Sheckley)の小説「Seventh Victim」に触発されアルベルト・ネグリが作った演劇ミュージカル「Fotogrammetria Criminale」でベランはコオリナ(Koorina)役を演じ、その後コオリナを芸名に使うことがありました。 Fotogrammetria Criminale 85年80年代のベランの代表作となる「Incantesimo Di Donna – Progetto Mata Hari」に出演します。 また芸名クリスティーネ(Christine)でフィノッティ(Franco Finotti)が作った曲”Free’N’Easy”のレコードを出しています。 P-7359 (1985年F1 Team – Panarecord) Free 'N Easy (Vocal Version)/Free 'N Easy (Instrumental Version) [come Christine] P-7359 DM-9323 DM-9323 (1985年F1 Team – Panarecord) 12”Maxi Free 'N Easy (Vocal Version)/Free 'N Easy (Instrumental Version) [come Christine] 87年「Violette Noziere」、89~90年「Estreme Conseguenze」等に出演し、ベランは演出家ネグリとの仕事で女優のキャリアを積みレコードを出さない歌手となりました。 アントネラ・ベランの国内盤はありません、以上です。
2018.08.30
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★エミー・チェサローニ (vf) Emy Cesaroni 本名エミ・チェサローニ(Emi Cesaroni) 1952年4月15日ローマの北50kmにある山中の小都市テルニ(Tern) 生、歌手、女優。 活動期間:1968 – 1979 レコード会社:Style, Kansas, OSI Records サンレモ音楽祭出場1回:1975年参加 1968年サンレモの北東20kmにあるリビエラ海岸の小さな町アラッシオ(Alassio)で開かれた新人コンテストに出場し、好成績(優勝はアダ・モーリ(Ada Mori))を収めました。これがエミ・チェサローニのデビューでした。 この新人コンテストの結果、チェログラフのスタイル・レーベルと契約ができ、69年“Fumo Nero”でレコード・デビューします。 STMS-691 (1969年 Style - Cellograf) Fumo Nero/10 Luglio, Lunedi STMS-691 STMS-705 STMS-705 (1969年 Style - Cellograf) Scendo Giù/Uragano 69年ヴェネツィア国際音楽祭銀のゴンドラ(新人部門)に“Uragano”で出場し、サンレモ音楽祭の司会者もするピッポ・バウド(Pippo Baudo)が司会するTVショー番組「セッテ・ヴォーチ(Sette Voci)」の番組テーマを歌う幸運もつかみました。 STMS-709 (1969年 Style - Cellograf) Sette Giorni [TV"Sette Voci"]/Ragazzo Di Pietra STMS-709 STMS-719STMS-719 (1970年 Style - Cellograf) Gira,Gira Bambolina/Dolce 70年“Gira,Gira Bambolina”を出し好調に見えましたが、71年の“Amore Mio Dove Sei?”はジャケット画像が見つかりません。何があったのでしょう?スタイルでこれが最後になり、消息が途絶えます。 STMS- 744 (1971年 Style - Cellograf) Amore Mio Dove Sei?/Buonumore STMS- 744 DM- 1168 DM- 1168 (1974年 Kansas – Dischi Ricordi) Che Cosa Siamo Noi/Adesso Tocca A Me 久々に74年カンサスから“Che Cosa Siamo Noi”が出ました。75年サンレモ音楽祭に“1975 アモ-レ・ミオ”で出場が決まりますが、レコードは救済措置のOSIからレコードが出ます。 OSI-0002 (1975年2月 OSI – CBS Sugar) 1975... Amore Mio (1975 アモ-レ・ミオ)/Momenti OSI-0002 AG-20 AG-20 (19?年 Army –) Dondolando Fra Le Stelle/Un Ragazzo Un Po' Svogliato アーミーから不明のシングルを出しています。これが彼女の最後の盤と思われます。 エミー・チェサローニの国内盤はありません、以上です。 ★エヴァ 2000 (comp) Eva 2000 1973年にミラノとパルマの間にある中都市パルマ(Parma)で結成された男女混成5人のバンド。マルコ・ランカーティは解散後ソロ歌手として85年サンレモ音楽祭新人の部に出場しました。 活動期間:1973年– 75年、2011年(復活祭結成) レコード会社:Cetra サンレモ音楽祭出場1回:1975年参加、85年新人の部5位 (ソロ歌手マルコ・ランカーティとして) サンレモ音楽祭出場時のメンバー構成 ・テレサ・ゴルラ(Teresa Gorla) ヴォーカル ・ラウラ・マンフレディ (Laura Manfredi) ギター ・マルコ・ランカーティ(Marco Rancati) ヴォーカル 1957年3月16日ミラノの南東20kmにある中都市ピアチェンツァ(Piacenza)生 ・フランカ・ベナッティ (Franca Benatti) ベース ・ジョルジョ・バッサネッティ (Giorgio Bassanetti) ドラムス 1937年生、2001年7月7日クレモナ没 1973年パルマで結成された時は女性バンドでしたが、メイン・ヴォーカルとドラムスの男性を加えた混成5人のバンドになりました。56年サンレモ音楽祭で総指揮者にもなったジャンニ・ステッラーリ(Gian Stellari)がプロデューサーに就きました。 彼らのデビューはチェトラから発売された74年夏のディスク・フェスティヴァル出場曲“Hotel Miramare”のシングル盤でした。54曲が参加し、半分に絞り込まれる予選敗退でした。 SP-1549 (1974年 Cetra – Fonit Cetra) Hotel Miramare/Un Giorno D'Amore Vale Una Vita SP-1549 SP-1562 SP-1562 (1974年 Cetra – Fonit Cetra) Io Sono Lei/I Ricordi Sono Blu 2枚目のシングル盤は“Io Sono Lei”が発売されます。ヒット曲が出ていませんが、ファースト・アルバムがステッラーリのプロデュースで作られます。4,5,9、10曲目がカルディフの作、それ以外はステッラーリとジェローザ(Gerosa)、ロブスキ(Robuschi)3人の共作でした。 LPP- 237 (1974年 Cetra – Fonit Cetra) Eva 2000 – Noi... Per Esistere 1.Eri Bambino 2.Casa Popolare 3.Un Giorno D'Amore Vale Una Vita 4.Una Sera 5.Whisky And Love 6.Fiori Per Un'Amica 7.Come Una Statua 8.Io Sono Lei 9.Fiori Di Pietra 10.Un'Altra Età LPP- 237 SP-1577 SP-1577 (1975年 Cetra – Fonit Cetra) In Amore Non Si Può Mentire (愛のためでも)/Casa Popolare 75年サンレモ音楽祭に“愛のためでも”で出場しましたが入賞出来ませんでした。イタリアのあるブログ「VERSO LA STRATOSFERA」では82年に解散したとなっていますが、マルコ・ランカーティのソロ歌手活動を見ていると、サンレモ音楽祭後の75年にエヴァ2000は解散したと考える方が妥当のようです。 2011年復活祭結成しているようですが、何の情報も得られませんでした。エヴァ2000解散以降で消息が分かっているのは男性2人だけです。 ひとりはドラムスのジョルジョ・バッサネッティ (Giorgio Bassanetti)、元々ジャズ・ドラマーだったようで、元に戻りジャズの道を歩き3年間白血病と戦い2001年7月7日クレモナで亡くなりました。 もうひとりが男性ヴォーカルのマルコ・ランカーティ(Marco Rancati)で、ソロ歌手となり色々芸名に替えながら、85年サンレモ音楽祭新人の部に出場し5位になりました。ここからはマルコ・ランカーティのことを書き進めましょう。 ★マルコ・ランカーティ (vm) Marco Rancati 1957年3月16日ミラノの南東20kmにある中都市ピアチェンツァ(Piacenza)生、歌手。 マルコ・ランカーティはエヴァ2000の解散後、ソロ歌手として芸名を替えながら85年サンレモ音楽祭新人の部に出場しました。本名の他にダニエル・ダニエリ(Daniel Danieli)、ランカーティ(Rankati)、マーク・ランカーティ(Mark Rancati)などを使いました。 活動期間:1973年 – 75年(エヴァ2000)、79年 – 現在(ソロ歌手) レコード会社:Cetra (エヴァ2000)、Atlas、CGD、CBS、Many、Memory、Out、Pomodoro Studio サンレモ音楽祭出場2回:1975年参加 (エヴァ2000のメンバーとして)、85年新人の部5位 (ソロ歌手マルコ・ランカーティとして) 1975年にエヴァ2000が解散し、マルコ・ランカーティの消息は約3年間途絶えます。彼の名前は78年アトラス(Atlas)からダニエル・ダニエリ・アンサンブル(Daniel Danieli Ensemble)名でシングル盤“Honey For Bears” が出るまでありませんでした。 A面はアルバム・タイトル曲でジェノヴァ派カンタウトゥーリの後ろ盾、作曲家のG.F. レヴェルベリ、ジェノヴァ生まれのサキソフォン奏者のジャンニ・オデイ(Gianni Oddi)にイギリスのマイケル・フレイザー(Michael Fraser)が作った曲です。B面はアメリカのビーチボーイズ(The Beach Boys)のヒット曲“グッド・バイブレーション”でした。 5910・AT-088 (1978年 Atlas - PolyGram) Honey For Bears / Good Vibrations (グッド・バイブレーション) (come Daniel Danieli Ensemble) 5910・AT-088 5920-778 5920-778 (1978年 Atlas - PolyGram) Daniel Danieli – Honey For Bears 1.Good Vibrations (グッド・バイブレーション) 2.Be Bop A Lula (ビー・バップ・ア・ルーラ) 3.Jail House Rock (Jailhouse Rock) (監獄ロック) 4.Monday Monday (マンデー・マンデー) 5.Satisfaction (サティスファクション) 6.Locomotion (The Loco-Motion) (ロコモーション) 7.Hard Day's Night (A Hard Day's Night) (ア・ハード・デイズ・ナイト) 8.Honey For Bears 78年ジャン・フランコ・レヴェルベリ(Gian Franco Reverberi)のプロデュースで英米のロック・ン・ロールとロックの名曲をカヴァーしたアルバムをアトラスから出し、シングル・カットもしました。 79年のカストロカーロ新人コンテスト(Il Concorso per Voci Nuove o Festival di Castrocaro)に出場し優勝しました(この年は4人の名前が挙がっていました)。 2枚目のシングル両面ともG.F.レヴェルベリ、ジェノヴァ生まれでヌオーヴァ・イデア(Nuova Idea)のギタリスト、マルコ・ゾッケッドゥ(Marco Zoccheddu)に“Honey For Bears”を書いたイギリスのマイケル・フレイザーがクレジットされています。 5910・AT-107 (1979年11月 Atlas - PolyGram) It's Never Too Late/Heart Of Stone (come Daniel Danieli) 5910・AT-107 5910・AT-107 (1980年 Atlas - PolyGram) Ciao, Come Stai?/Lei, Lei (come Daniel Danieli) 80年同じレコード番号を使って別のシングル盤が発売されています。イタリアでは時々こういうことが起こっているので要注意です。 “Freddo Diamante”はプログレ・バンド、カヤック(Kayak)のドラマー、オランダ人のピム・クープマン(Pim Koopman)とカルロ・ザヴァリア(Carlo Zavaglia)の作、レベルべりのお陰かもしれませんが多彩なライターの曲を歌っています。 5910・AT-114 (1980年12月 Atlas - PolyGram) Freddo Diamante/Tu Violenza (come Daniel Danieli) 5910・AT-114 5910・AT-119 5910・AT-119 (1983年 Atlas - WEA Italiana S.p.A.) Ok ok/Sei Tutto Quello Che Vorrei (come Daniel Danieli) 83年のシングルは両面ロック・ン・ロール調の曲、B面の“Sei Tutto Quello Che Vorrei”はダニエル・ダニエリ名の自作曲です。アトラスのディストリビューションはポリクラムからWAEイタリアーナに変わっています。この盤がアトラスで最後のシングルとなり、84年にCGDに移籍しています。 エヴァ 2000の国内盤はありません、 マルコ・ランカーティ 2は1985年サンレモ音楽祭の後に続きます
2018.08.27
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★G.メン (compl) G. Men イタリア半島のアドリア海側の付け根辺りにある海岸リビエラの中心の小都市リミニ(Rimini)で結成された4人編成バンド、ブリティッシュ・ビートからメロディック・ポップ・バンドに変わっていきました。 活動期間:1968 – 1978 所属レコード会社: Boston, Edig サンレモ音楽祭出場1回:1975年参加 サンレモ音楽祭出場メンバー ・ジルベルト・カザーリ(Gilberto Casali) ピアノ、アコーディオン ・ティノ・カヴァッリ(Tino Cavalli) ヴォーカル、ギター、フルート(1971年~)、イジェーア・マリーナ(Igea Marina)生。: ・ジルベルト・グァルディーニ(Gilberto Guardini) ・ガブリエレ・グァルディーリ(Gabriele Guardigli) バンドは1967年イタリア半島付け根アドリア海側のエミリア・ロマーニャ(dell'Emilia-Romagna)州のダンスホールから活動を開始しました。 実は結成メンバーを含め交代したメンバーも不明な点が多く、サンレモ音楽祭出場メンバーは2009年パニーニ(Panini)社刊エディー・アンセルミ(Eddy Anselmi)著「Festival di Sanremo - Almanacco illustrato della Canzone Italiana」を、その他はウィキペディア・イタリア版などを参照していますが、正確なメンバー交代の資料はありません。 G.メンの結成時構成メンバー • ジョルジョ・ベルサーニ(Giorgio Bersani)ヴォーカル、ハモンドオルガン、サヴィニャーノ・スル・ルビコーネ(Savignano sul Rubicone)生。 • ジョルジョ・トニャッチ(Giorgio Tognacci) (nato a Bellaria: ヴォーカル、ギター(1967年~70年) • レンツォ・ペサネージ(Renzo Pesaresi) (nato a Bellaria): ドラムス、コーラス ・ドリアーノ・ビオンディ(Doriano Biondi)ベース、サヴィオ(Savio):生。 彼らの地元エミリア・ロマーニャ州のファエンツァ(Faenza)に本社を置く音楽出版社とレコード会社を持つガレッティ・グループの関係者に見出され、ボストン・レーベルと契約することが出来ました。 彼らの故郷はカサデイ(Casadei)一族の出身地、根拠地でダンスホール音楽のリショ(Liscio)の聖地でした。ガレッティ・グループのオーナーで作曲家、楽団主アンジェロ・ガレッティ(Angelo Galletti)も自分の楽団はリショ楽団でした。 G.メンのデビュー・シングルA面はペルゴーリ(Pergoli)、アンジェロ・ガレッティ、アルベルト・アッロドリ(Alberto Allodoli)の作、B面もガレッティとアッロドリ作でした。ペルゴーリは・ガレッティのペンネーム、アッロドリはG.メンと同時期のバンド、ニュー・ブラックメン(New Blackmen)のメンバーでした。両面とも出来が良くローカル・ヒットして彼らの初期の代表作になります。 BEM-0004 (1969年 Boston - Galletti) Il Canto Dei Ragazzi/Se Mi Lasci BEM-0004 BEM-0010 BEM-0010 (1970年 Boston - Galletti) Santa Maria/Nei Sogni Miei 2枚目A面“Santa Maria”はガラっと変わり、マイナーで泣きが入る曲、さぞかし日本のGSが歌えば受けるような曲、B面はビートニックなデビュー曲と同傾向の曲でした。 71年にヴォーカル、ギターのジョルジョ・トニャッチが脱退し、ヴォーカル、ギター、フルートのティノ・カヴァッリ(Tino Cavalli)に交代しました。シングル盤“Tu Sola”が発売されます。B面の“Il Ragazzo Di Heidelberg”はアルバム未収録曲と思います。 BEM-0014 (1971年 Boston - Galletti) Tu Sola/Il Ragazzo Di Heidelberg BEM-0014 BEM-0019 BEM-0019 (1972年 Boston - Galletti) Sensazione Di Un Mattino/Quando Sono Con Te 72年に出たシングル“Sensazione Di Un Mattino”のB面“Quando Sono Con Te”もアルバム未収録曲だと思います。この頃は年に1枚しかシングルが出ていません。73年は“La Storia Di Me E Di Te”が出ましたが、いずれも何の情報も見付けられませんでした。 BEM-0024 (1973年 Boston - Galletti) La Storia Di Me E Di Te / Guarda Te Stesso BEM-0024 ZSKE-55373 ZSKE-55373 (1973年Edig – RCA Italiana): In Fondo Agli Occhi Tuoi - Complesso G. Men 1.La Storia Di Me e Di Te [BEM-0024] 2.In Fondo Agli Occhi Tuoi 3.Tu Sola [BEM-0014] 4.Guarda Te Stesso [BEM-0024] 5.Amarezze e Delusioni 6.Legato Ai Ricordi 7.Se Mi Lasci [BEM-0004] 8.Mia Cara Amica 9.La Nostra Libertà 10.La Colpa 11.Ma Se In Fondo Al Cuore 12.Sensazioni Di Un Mattino [BEM-0019] 73年の途中からボストンを含むガレッティ・グループはRCAイタリアーナに販売権を委託しあ、世界進出を目指しエディグ(Edig)・レーベルを前面に出し新たな展開を始めます。G.メンもエディグからファースト・アルバムを発売しました。You-Tubeでアルバム全曲が聞けます。 ZSKE-55377 (1974年 Edig – RCA Italiana) G.Men 1.Riflessioni 2.La Mia Ragione 3.Pazzo Mondo 4.Ricordi Scoloriti 5.Cuore Di Pietra 6.Preghira 7.Notte Amara 8.Storia Di Uomini 9.Errori Tuoi 10.Quei Momenti ZSKE-55377 RCAイタリアーナの傘下に入ったおかげでG.メンは75年サンレモ音楽祭に“今日”で出場しましたが、入賞することは出来ませんでした。 ZE-50286 (1975年2月 (BOSTON (EDIG) – RCA Italiana) Oggi (今日)/Riflessioni ZE-50286 ZSKE-55380 ZSKE-55380 (1975年Edig – RCA Italiana) Oggi 1.Notte Amara 2.Storia Di Uomini 3.Amarezze e Delusioni 4.Errori Tuoi 5.Oggi (今日) [ZE-50286] 6.La Nostra Libertà 7.Riflessioni [ZE-50286] 8.La Storia di Me E Te 9.La Colpa 10.In Fondo Agli Occhi Tuoi 11.Preghira 12.Se Mi Lasci [BEM-0004] 同年サンレモ音楽祭出場曲“今日”の入ったセカンド・アルバム「Oggi」を出します。 76年シングル盤“Qualcosa È Rimasto”を出します。これ以降のレコード発売が確認できません。これがG.メン最後の盤になったようで、78年解散しました。 ZE-50288 (1976年 Edig – RCA Italiana) Qualcosa È Rimasto/Tramonto ZE-50288 SAF-006 SAF-006 (1997年 Giallo – Giallo Records) CD The Best Of Edig 1.Se Mi Lasci [BEM-0004] 2.Il Canto Dei Ragazzi [BEM-0004] 3.Sensazione Di Un Attimo 4.Quando Son Con Te 5.La Storia di Me E Te 6.Guarda Te Stesso 7.Santa Maria [BEM-0010] 8.Nei Sogni Miei [BEM-0010] 9.Qualcosa È Rimasto 1~9:I G.Men、10~15:The Blackmen、16~17:Under 21、18:Hellza Poppin、19:I King's Stars、20:Sergio (109)、21:The Blackmen 97年エディグで活動したバンドを集めたアンソロジーが「The Best Of Edig」がCDで発売され、G.メンは9曲収録されました。 G.メンの国内盤はありません、以上です。 ★ナンナレラ (vf) Nannarella 本名アニタ・ナンヌンツィAnita Nannunzi) 1946年4 月 22日にローマ生。 活動期間: 所属レコード会社:Cetra サンレモ音楽祭出場1回:1975年参加 1971年に伝統的様式にのっとったレパートリーを独学で学び、ギターの弾き語りで伝統的なローマ地方の民謡、俗謡を現代に体現する民謡歌手としてデビューしました。 後に伝統的なローマの民謡、俗謡を再構築して新しいカンツォーネを目指したアルバムを製作しました。 LPP- 218 (1973年 Cetra - Fonit Cetr) Nannarella – Chi Offenne Roma Offenne Mamma Mia 1.Passione Romana 2.La Popolana 3.Notte Serena 4.Pupetta 5.Pupo Bionno 6.Er Braccialetto 7.Er Canto Der Carcerato 8.Lima Sorda 9.Povera Giulia 10.Madonna Dell'Urione 11.Stornelli Sulle Donne LPP- 218 75年サンレモ音楽祭に“星の下で”で出場しました。この出場曲も入ったセカンド・アルバム「Nannarella – So' Stato A Vede' Romolo Balzani」で、このアルバムタイトルとなったロモロ・バルザーニ(Romolo Balzani)は戦前、戦後通じてローマの歌を作り歌ったひとです。 サンレモ音楽祭出場曲“星の下で”もバルザーニの作詞・作曲になっています。彼は62年4月24日に亡くなっているので、出場曲がサンレモの規定である未発表の新曲なのか心配になるところです。 “星の下で”はナンナネラの現代的ローマ民謡と解釈すべきでしょうか?入賞することはできませんでした。 SP-1574 (1975年 Cetra - Fonit Cetr) Sotto Le Stelle (星の下で)/Stornellata Alle Donne SP-1574 LPP- 279 LPP- 279 (1975年 Cetra - Fonit Cetr) Nannarella – So' Stato A Vede' Romolo Balzani 1.Sotto Le Stelle (星の下で) 2.Cunnola Senza Amore 3.Giuramento 4.Madonna Senza Core 5.L'Eco Der Core 6.Notte De Dorcezza 7.Luce Nera 8.Core De Mamma 9.Notte Stellata 10.Barcarolo Romano (ローマの舟唄) サンレモ以降もローマの歌を歌い続けたと思いますが、芸能界、レコード界でナンナネラの名前を見かけることがなくなりました。 (ご参考)ロモロ・バルザーニ (Romolo Balzani) https://it.wikipedia.org/wiki/Romolo_Balzani 1892年4月4日-1962年4月24日ローマ生・没、自作自演歌手、俳優。 代表作は“ローマの舟唄(Barcarolo Romano)”。戦前・戦後を通じ、ローマを題材にした曲を作り歌い、20世紀に作られた曲でありながらローマ民謡として愛され続けています。 セルジョ・チェンティ (Sergio Centi)やナンナネラの先輩格でサンレモ音楽祭出場歌手ガブリエラ・フェッリ (Gabriella Ferri)などにより幅広く歌われています。 CD-109 ナンナレラの国内盤はありません、以上です。 ★ガブリエラ・サンナ (vf) Gabriella Sanna 1958年8月31日にフィレンツェの西40kmピサに近い都市ルッカ (Lucca)生、歌手。 活動期間: 1975年 所属レコード会社:Cetra サンレモ音楽祭出場1回:1975年参加 ピアノを勉強している学生で、17才以下(未成年)の歌手としてジャンニ・メッチア(Gianni Meccia)の後援の元に活動を始めました。メッチアはブルーノ・ザンブリーニ(Bruno Zambrini)と彼女の唯一輝かしい経歴であるサンレモ音楽祭に出場するための曲“今君に満足(Adesso Basti Tu)”を書き、プロデュースしました。 SP-1576 (1975年2月 Cetra – Fonit Cetra) Adesso Basti Tu (今君に満足)/Così, Non Sogno Mai SP-1576 SP-1586 SP-1586 (1975年 Cetra – Fonit Cetra) Adesso Che C'è Un'Altra/ Così Non Sogno Mai 2枚目のシングル“Adesso Che C'è Un'Altra”もメッチアとサンブリーニが作り、メッチアがプロデュースしました。しかし彼女の情報はこの2枚のシングル盤のみで、ぷっつりと途絶えてしまいました。 ガブリエラ・サンナの国内盤はありません、以上です。
2018.08.24
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★ステファニア (vf) Stefania 本名ステファニア・トッツィ(Stefania Tozzi) ) 1949年11月17日(ウィキペディア・イタリア版では1958年8月4日なっていますが66年のデビュー・シングルの内容から8才の子供が歌うとは考えられず、間違いとしました)フィレンツェの南東100kmの山中にある小都市マテーリカ(Matelica)生、歌手。 後にステファノ・シルヴェーニ(Stefano Silvegni)と結婚し、デュエット・チームのステファノ&ステファニア(Stefano & Stefania)やミュージック・グループを結成しました。82年サンレモ音楽祭に出場したマリナ・ライ(Marina Lai)は妹。 活動期間:1966 - 90年年代 所属レコード会社: CGD, Signal (SAAR), Odeon (EMI Italiana), OSI、 Maga Records サンレモ音楽祭出場1回:1975年参加 ステファニアは幼い頃から歌を始め、ペーザロ(Pesaro)のロッシーニ音楽院(Conservatorio Gioachino Rossini)でクラシックを学びました。 1966年CGDから出た“La Notte È Chiara”がデビュー・シングルだと思われます。マルチェロ・マストルヤンニ(Marcello Mastroianni:)主演で3話オムニバスの喜劇映画「女と男と金(Oggi, Domani, Dopodomani)」のサントラ盤です。60年代半ばの典型的なビート・ポップでした。 N-9609 (1966年 CGD - CGD) La Notte È Chiara/Per Lui N-9609 S-5194x45 S-5194x45 (1969年 Signal – SAAR) Il Vento Va/In Verità Ti Dico Che 69年サールのサブレーベル、シグナルから“Il Vento Va”が発売されます。歌手としての契約が出来たようです。 翌70年夏のディスク・フェスティヴァルに“Come Le Fragole”で出場しましたが、本選までの進むことが出来ませんでした。オリエッタ・ベルティ (Orietta Berti)を少しハスキーにした声質で、いかにもベルティが歌いそうな曲でした。ステファニアの中では成功したシングル盤でした。 S-5482 (1970年 Signal – SAAR) Come Le Fragole/Alla Stazione S-5482 3C・006-17786 3C・006-17786 (1971年 Odeon - EMI Italiana) Quando Non Ci Sei/Bon Bon Bon 翌71年EMIイタリアーナのオデオンから“Quando Non Ci Sei”を出していますが、リッキとポーヴェリ(Ricchi e Poveri)の“ケ・サラ(Che Sarà)”かと思わせる出だしで、その後はジミー・フォンタナ(Jimmy Fontana)の“限りなき世界(Il Mondo)”のような曲でした。クレジットが書いてないので分かりませんが、本当にジミー・フォンタナが作ったような曲でした。 ステファニアは一旦表舞台から姿を消します。彼女が74年のカストロカーロ新人コンテストに出場し、翌年のサンレモ音楽祭の出場権を得たことになっています。ウィキペディ・イタリア版では彼女の名前が見当たりません。一度は夏のディスクにも出た歌手がカストロカーロからやり直すことは珍しいことです。 75年サンレモ音楽祭に“人生の疑問”で出場が決まったものの、レコード会社の契約がなく、救済措置のOSIからレコードを出しました。第1夜の予選でステファニアは歌い、結果はアンジェラ・ルーチェが31票で断トツ1位でしたが、2位14票3歌手、5位12票フランコ&ピッコロ・ドンネ、ステファニアとヴォルピ・ブルー3歌手の接戦となり、ヴォルピ・ブルーが脱落、ステファニアは決勝戦に進み、入賞となります。 OSI-0004 (1975年2月 OSI – CBS Sugar) L'Incertezza Di Una Vita (人生の疑問)/Gioca Fantasia OSI-0004 サンレモ音楽祭入賞でステファニアのソロ歌手としての活動は終わりました。 時期は不明ですが、ステファニアはステファノ・シルヴェーニと結婚し、ステファノ&ステファニアとして音楽活動を続けました。 ステファノは音楽院でチェロを習得し、ピアノを弾き歌も歌います。またオーケストラを指揮し、コンピューター・プログラミングで電子音楽を手掛ける音楽家でした。 Stefano & Stefania 彼らの音楽形態はデュオ、小編成のバンド、楽団と形態を変えダンスホールや個人パーティーにも出演する音楽活動を行っています。 82年ステファノ&ステファニアはジョヴァニ・アリ・ドラーテ(Le Giovani Ali Dorate) という7名のミュージシャとコラボしたアルバム「Le Giovani Ali Dorate – Dedicato A Una Donna」を出しました。 MR・GW- 1 (1982年 Maga Records - ) Le Giovani Ali Dorate – Dedicato A Una Donna 1.Dedicato A Una Donna 2.Piccola Lisa 3.Ti Dico Vai 4.Dolce ... Cara ... 5..Fantasia 6.Scatenati Con Me 7..Gloria 8.Volare Volare 9.Panorami Di Città MR・GW- 1 ステファニアの国内盤はありません、以上です。 ★ゴフレド・カナリーニ (vm) Goffredo Canarini 1939年10月8日ピサの西近郊の小さな町ミグリアーノ・ピサーノ(Migliarino Pisano)生、2002年9月19日ピサの北近郊の小都市ヴェッキアーノ(Vecchiano)没、自作自演歌手、作曲家、作詞家。 活動期間:1967 – 1999 所属レコード会社:Joker, Giallo Records サンレモ音楽祭出場1回:1975年参加 音楽好きなゴフレドはミラノに出てきて、同郷で後にドン・バッキー(Don Backy)と呼ばれる同い年のアルド・カポーニを頼り、アルドのバック・バンドのアパッチで初めてギタリストになりました。 1963年にはイヴァ・ザニッキ(Iva Zanicchi)のバック・バンドのギタリストもしています。 67年当時ビートニックな曲が流行しており、ゴフレドもマイナー・レーベルのFP4から2曲のプロテスト・ソング“Il Figlio Della Lira”と“Datemi Un Sonnifero”をレコードにしましたが、誰も関心も引きませんでした。 P-271 (1967年 FP4 - Effepiquattro) Il Figlio Della Lira/Datemi Un Sonnifero [Canarini con Orchestra Mario Rapallo] P-271 FNP・NP-10105 FNP・NP-10105 (1968年 Variety – Ri Fi) Elenore/Per Un Anno Che Se Ne Va [come The Play-Co = Alberto Favata, Goffredo Canarini] 68年、前年に自作自演歌手のアルベルト・オーロ(Alberto Oro)としてデビューしたアルベルト・シモンルーカ・ファヴァータ(Alberto Simonluca Favata)とザ・プレイ・コ(The Play-Co)というデュエット・チームを組み、タートルズ(Turtles,{The})の“エレノア(Elenore)”のカヴァーとカナリーニ自作のカップリングでシングル盤を出しました。 B面の“Per Un Anno Che Se Ne Va”はドリ・ゲッツィ(Dori Ghezzi)の初ヒット曲“カザチョック(Casatshock)”のB面に収められた曲です。 TOP-1322 (1969年11月1日 LONDON - キング) エレノア (ELENORE)/サーファー・ダン (FURFER DAN) TOP-1322 SS-1904 SS-1904 (1969年9月5日 RCA - 日本ビクター) 雨が降ってきた (エレノア) (SCENDE LA PIOGGIA (ELENORE))/白鳥 (IL CIGNO BIANCO) “エレノア”はジャンニ・モランディ(Gianni Morandi)が“雨が降ってきた”のタイトルでカヴァーし、69年年間ヒット・ランク18位の大ヒットにしています。 カナリーニは68年から69年にかけて大きな仕事をしました。ジガンティ(Giganti,{I})のリフィ最後のアルバム「Mille Idee Dei Giganti」の11曲中8曲を手掛けました。彼が関わっていない3曲でトレメローズ(The Tremeloes)の“福と禍(Even The Bad Times Are Good)”のカヴァー曲“Il Lavoro”、65年サンレモ音楽祭で伊東ゆかり(Yukari Ito)が歌った“恋する瞳(L'Amore Ha I Tuoi Occhi)”のカヴァーと作曲家ミケーレ・フランチェショ(Michele Francesio)だけで作った“La Ballata Delle Streghe”でした。 その後71年アドリアーノ・チェレンターノ(Adriano Celentano)の第7回ヴェネチア音楽祭 (Ⅶ VENEZIA MOSTRA INTERNAZIONALE FESTIVAL)出場曲“夜霧に泣く男(Una Storia Come Questa)”をミキ・デル・プレーテ(Miki Del Prete)と作っています。 72年サール(SAAR)のサブレーベル、ジョーカー(Joker)に移籍しました。“La Ragazza Sola”のジャケット画像を探しましたが、見つかりませんでした。 M-7112 (1972年 Joker - SAAR) La Ragazza Sola/Bandito M-7112 M-7120 M-7120 (1972年 Joker - SAAR) ...E Mi Piaceva/Oh, Come Vorrei ! ジョーカーの2枚目は72年第9回夏のディスク・フェスティヴァルに出場した“...E Mi Piaceva”ですが、予選敗退で終わりますます。 73年サールのサブレーベルで、トニー・ダララ(Tony Dallara)の全盛期に所属していたミュージック・レーベルからアルバム「I Cantautori - Goffredo Canarini Ruggito d'Amore」を出しました。収録曲など詳細に関することは不明です。きっとジョーカーで出したシングル曲が入っているのだと思います。 LPM-2013 (1973年Music – SAAR) I Cantautori - Goffredo Canarini Ruggito d'Amore LPM-2013 CI-20392 CI-20392 (1975年2月 Carosello - Dischi Ricordi): Scarafaggi (ごきぶり)/Ruggito D' Amore 75年サンレモ音楽祭にカロセッロから“ごきぶり”で出場します。サンレモ音楽祭にこのタイトルは有り得ないでしょう!参加曲に終わります。歌は最初にバック・バンドで付いたドン・バッキーに声質も歌い方もよく似ています。 同年カロセッロから2枚目のシングル“Era Brutta”を、彼にとってのセカンド・アルバム「Canarini – Era Brutta」もカナリーニ名で出しました。 CI-20399 (1975年 Carosello - Dischi Ricordi): Era Brutta/Delusioni CI-20399 CLN-25058 CLN-25058 (1975年 Carosello - Dischi Ricordi) Canarini – Era Brutta [come Canarini] 1.Sogno 1゚ 2.Delusioni 3.Cara...Vorrei...Ti Vorrei 4.Sogno 2゚ 5.Era Brutta 6.Sogno 1゚ 7.Ruggito D'Amore 8.La Ragazza Sola 9.Quella Sera 10.A Luisa これを最後にゴフレド・カナリーニの消息は途絶えます。2003年にカルト・レーベルのジャッロ・レコーズ (Giallo Records)から出たビートニック・サウンド曲のコンピレーションCDに彼のデビュー曲が収録されました。これが契機となり02年にカナリーニが亡くなった事が知らされます。 ゴフレド・カナリーニの国内盤はありません、以上です。
2018.08.21
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★ロザンナ・フラテルロ (vf) Rosanna Fratello 本名エルダ・ロザンナ・フラテッロ(Elda Rosanna Fratello)1951年3月26日、長靴の足首の上、少し飛び出した半島の付け根にある小都市サン・セヴェーロ(San Severo)生、歌手、女優。 1985年から88年の間ロザンナ・フラテルロはボビー・ソロ(Bobby Solo)とリトル・トニー(Little Tony)の3人で期間限定のユニット、ロボット(Ro.Bo.T)という名前で活動をしました。 AR-00678 所属レコード会社:Arlecchino, Ariston Records, Dischi Ricordi, Baby Records, Five Record, Durium, Panarecord サンレモ音楽祭出場7回:1969年参加、70年参加、71年参加、74年15位、75年第2位、76年参加、94年(スクァドラ・イタリア(Squadra Italia)の一員として)19位。 サンレモ音楽祭の初出場となる1969年は自殺未遂事件を起こしたアンナ・イデンティチ(Anna Identici)の代役として出場、それ以来彼女はサンレモ音楽祭を苦手としたようです。ようやく前年74年に入賞しますが、これとて優勝以外は順位を付けなかったのですが、実質15番目でした。2連続出場で5回目の75年は“行けよ希望”を歌い、有名スター歌手は彼女一人という中で同票第2位となったものの、レコード・セールスは全く振るいませんでした。 SRL-10・752 (1975年 Ricordi - Ricordi) Va' speranza va' (行けよ希望)/Qualcosa di Te SRL-10・752 SMRL-6143 SMRL-6143 (1975年 Ricordi - Ricordi) Tanghi e valzer di casa mia 1.Lettera A Pinocchio (ピノキオへの手紙) 2.Gigolò (妾のジゴロ) 3.Ciribiribin (チリビリビン) 4.Violino Tzigano (夜のヴァイオリン) 5.La Spagnola (ラ・スパニョラ) 6.Chitarra Romana (ローマのギター) 7.Tango Della Gelosia (嫉妬のタンゴ) 8.La Romantica 9.Tango Delle Capinere (しじゅうからのタンゴ) 10.Stornello A Pungolo 11.Tango Del Mare (海のタンゴ) 12.Ninna Nanna Del Cavallino (小馬の子守歌) 第二次世界大戦前後の愛唱歌ともいえる懐メロ・ヒット・ソングを集めたアルバムを出しました。白のレリーフのような唇に紅バラで非常にセンスの良いジャケットです。 AR-00678 (1975年5月 Ariston - Ariston) Il Bimbo (El Bimbo) (嘆きのビンボー)/Amore come pane (tv "Il gran simpatico" ) ※ジャケット画像は顔写真画像をご参照 EOR-10691 (1975年2月 ODEON - 東芝EMI) 嘆きのビンボー (EL BIMBO <VORCAL VERSIONI>/EL BIMBO <INSTLMENTAL VERSINI>) ビンボー・ジェット (Bimbo Jet) EOR-10691 SFL- 2001 SFL- 2001 (1975年2月5日 PHILIPS - 日本フォノグラム) オリ-ブの首飾り (EL BIMBO)/ 愛の歌が続く限り (UNTIL THE END OF MY SONG) ポ-ル・モ-リア楽団 (Paul Mauriat) 5月にロザンナにしては珍しい曲をシングルにしました。ビンボー・ジェット(Bimbo Jet)の“嘆きのビンボー”をカヴァーしました。日本ではポール・モーリア()の演奏で“オリーヴの首飾り”として知られる曲です。 続いてアリストンに戻り75年夏のディスク・フェスティヴァルの出場曲“すれちがい”を出します。 AR-00683 (1975年 Ariston - Ariston) Povera Cocca (すれちがい)/Amore Bianco AR-00683 SMRL-6161 SMRL-6161 (1975年 Ricordi - Ricordi) Musiche Di Casa Nostra 1.Va Speranza Va (行けよ希望) 2.Voce 'E Notte (夜の声) 3. 'E Spigole Frangese (こいきなフランス・ピン) 4.Anema E Core (アネマ・エ・コーレ) 5.Tic Ti Tic Ta (ティック・ティ、ティック・タ) 6.Piano Piano Piano 7.Un Po' di Coraggio (星の中の幻想) 8.Gondoli' Gondola' (ゴンドリ・ゴンドラ) 9.Munasterio 'E Santa Chiara (サンタ・キアーラ寺院) 10.Romagna Mia (ロマーニャ・ミア) 11.Firenze Sogna (夢のフローレンス) 12.Qualcosa Di Te 75年最後は「Musiche Di Casa Nostra」というアルバムを出します。直訳なら「我が家の愛唱歌」でしょうか。お馴染みのナポリターナと大ヒットしたご当地ソングに74年サンレモ音楽祭出場曲“星の中の幻想”と75年の出場曲「行けよ希望」が収録されています。 ロザンナ・フラテッロは75年9月30日に現在はフリーランスのアート・ディレクターとなったピノ・カッペッラーノ(Pino Cappellano)と結婚しました。 ロザンナ・フラテルロの国内盤 [キング=原盤ARISTON;ポリドール=原盤RICORDI] LAX- 115 (1975年1月SEVEN SEAS – キング) 30cmLP 女心/ロザンナ・フラテルロ (SONO UNA DONNA NON SONO UNA SANTA/ROSANNA FRATELLO) 1.女心 (SONO UNA DONNA, NON SONO UNA SANTA)R 2.聖女のなげき (NON SONO MADDALENA) 3.バラとキャンドル (UNA ROSA, UNA CANDELA) 4.さらば青春 (CIAO, ANNI VERDI) 5.アムステルダム (AMSTERDAM) 6.しゃれこうべの歌 (VITTI 'NA CROZZA) 7.汽車 (IL TRENO) 8.待ちましょう (TORNERAI) 9.魅惑のワルツ (FASCINATION) 10.恋のために歌う (IO CANTO PER AMORE) LAX- 115 DY-5004-3~4 DY-5004-3~4 (1975年4月SEVEN SEAS – キング) 30cm 2LP カンツォーネ・ベスト・スター・ベスト・アルバム LAXシリ-ス・ダイジェスト (CANZONE LAX SERIES DIGEST) 2-9.しゃれこうべの歌 (VITTI 'NA CROZZA) 2-10.女心 (SONO UNA DONNA, NON SONO UNA SANTA) GP- 382 (1975年9月SEVEN SEAS – キング) 30cmLP サン・ヴァンサン音楽祭/夏のディスク・フェスティヴァル1975 (ST. VINCENT FESTIVAL) 2.すれちがい (POVERA COCCA) GP- 382 MW-8629~30 MW-8629~30 (1975年11月RICORDI –ポリドール) 30cm 2LP パ-フェクト/カンツォ-ネのすべて (PERFECT-AMOR, AMOR) 1-6.死ぬほど愛して (SINNO' ME MORO) ロザンナ・フラテルロ 5は1976年サンレモ音楽祭の後に続きます ★アンナグロリア (vf) Annagloria 本名アンナ・グロリア・ネーリAnna Gloria Nieri) 1955年7月25日(1954年1月23日説もある)、ボローニャ南東100kmにあるアドリア海沿岸の小都市セニガリア((Senigallia)生、歌手。 活動期間:1971年 – 現在 所属レコード会社: Eldorado, Bentler サンレモ音楽祭出場1回:1975年参加 アンナ・グロリアは郷里で1971年から歌手活動を始めます。翌年ヴェネチアで行われたメストレ新人コンテスト(Il Concorso Voci Nuove Di Mestre)に出場しますが優勝出来ませんでした。 しかしピアニストでベントラー(Bentler)のオーナーであるグァルティエロ・ゲリーニ (Gualtiero Guerrini)はアンナ・グロリアの才能を認め、彼のレコード会社と契約を結びました。 若い彼女は69年にロック・バンドのラミゲッティ( I Raminghetti)等のロック系歌手の為に作ったサブ・レーベル、エルドラド(Eldorado)の所属にします。 芸名をアンナグロリア(Annagloria)としてレコードを出しますが、記録にあるのは“Sentimenti Sconosciuti”のプロモ盤で、これがデビュー曲なのか確証はありません。B面は61年サンレモ音楽祭でミルバ(Milva)とジーノ・ラティルラ(Gino Latilla)が創唱し第3位になった“ひきだしの中の”で、新人コンテストで彼女が歌ったと想像しています。 EL・NPC-05019 (1972年 Eldorado – Bentler Guerrini) Sentimenti Sconosciuti/Il Mare Nel Cassetto (ひきだしの中の海) EL・NPC-05019 EL・NPC-0521 EL・NPC-0521 (1972年 Eldorado – Bentler Guerrini) Un Giorno Come Un Anno/Ritornerò... Da Te デビューした72年に後3枚シングル盤を出していますが、その内2枚のジャケット画像は見つかりませんでした。よほど売れなかったのでしょう。 EL・NPC-05022 (1972年 Eldorado – Bentler Guerrini) L'Uomo Del Fiume/Se Tu Improvvisamente EL・NPC-05022 EL・NPC-05026 EL・NPC-05026 (1972年 Eldorado – Bentler Guerrini) Jolli Ceramica Sport/La Serenissima イタリアのシモーネ・フラッカーノ(Simone Fraccaro)が作ったプロ・サイクル・スポーツ・チーム、ジョリ・セラミカ(Jolly Seramica)のサポーターソングを歌いました。 フラッカーノは84年にサイクル・スポーツ・ウェア・メーカーのGSG(=Global Sports Gear)社を設立し、ジョリ・セラミカは同社のブランドとして使用されています。 彼女はやっと歌手として仕事らしい仕事をします。73年夏のディスク・フェスティヴァルに“Non è Finito Mai”で出場しました。 EL・NPC-05023 (1973年 Eldorado – Bentler Guerrini) Non è Finito Mai /Non Ridere Nel Vento EL・NPC-05023 EL・NPC-5097 EL・NPC-5097 (1974年 Eldorado – Bentler Guerrini) Strangers In The Night (夜のストレンジャー)/Chiaro 74年に“夜のストレンジャー”のカヴァーと1st.アルバムを出します。 BE・LP-1035 (1974年 Bentler – Bentler Guerrini) Annagloria – Revival 1.Il Valzer Dell'Allegria 2.Napoli E Maria 3.Come Il Sole 4.Rumba Rumba Tabù 5.Venezia Bella 6.Baciar Baciar Baciare 7.No, Non Mi Lasciar 8.Solo Noi... 9.L'Ultima Parola 10.Non Abbandonarmi BE・LP-1035 EL・NPC-0529 EL・NPC-0529 (1975年 Eldorado – Bentler Guerrini) La Paura Di Morire (死のおそれ)/L'Amore 75年サンレモ音楽祭に“死のおそれ”で出場し参加に終わります。続いてシングル盤“Solo Noi”を出しますが、ここで彼女消息が途絶えます。ベントラーが業績不振で閉鎖しました。 EL・NPC-5031 (1975年 Eldorado – Bentler Guerrini) Solo Noi.../Ti Scrivo E Piango EL・NPC-5031 BE・LP- 87・02 BE・LP- 87・02 (1987年 Bentler – Bentler Guerrini) Annagloria in... 1.Strangers In The Night (夜のストレンジャー) 2.La Frase Più Banale (Del Mondo) 3.Chiaro 4.Honkystop 5.Italia Italia 6.Mettiamo Che 7.Concerto Tango 8.Come Cambiano Le Cose 一旦閉鎖したベントラーですが、80年頃から活動を再開し、彼女の2nd.アルバム「Annagloria in...」を出します。途切れた時間を繕うように“夜のストレンジャー”も収録されます。 89年に3rd.アルバム「Spazi & Tempi」を発売。 BE・LP- 89・01 (1989年 Bentler – Bentler Guerrini) Annagloria – Spazi & Tempi 1.Concerto Tango 2.Vivere Per Amore 3.L'Antifurto 4.L'Uomo Del Fiume 5.Baciar Baciar Baciare 6.Ti Scrivo E Piango 7.Napoli E Maria 8.Rumba Rumba Tabù 9.Venezia Bella 10.Il Valzer Dell'Allegria 11.Come Il Sole 12.Stardust (スターダスト) BE・LP- 89・01 SN-01・00 SN-01・00 (2001年 Bentler – Gruppo Guerrini) CD Annagloria – Stelle Napoletane 1.Rusella 'E Maggio 2.Chella Ca Voglio Bene 3.Ammore Arreto 'E Lla'Stre 4.Stelle Napoletane 5.Purtatele 'Sti Rose (Purtatele 'Sti Rrose) 6.Bellavista 7.Guardame E Ride 8.Facimmo Pace 9.Troppo 'Nnammurato (とても愛してる) 10.Matalena 11.Piccirella Mia 12.A Pusilleco Cu'Tte 13.Luna Malinconica (Blue Moon) (ブルー・ムーン) 14.L'Acquaiola 'E Margellina 2001年ナポリターナを中心としたアルバム「Stelle Napoletane」を出し、地道な歌手活動を続けています。 アンナグロリアの国内盤はありません、以上です。
2018.08.18
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★クィンタ・ファッチャ、 {ラ・} (compl) Quinta Faccia,{La} ミラノとトリノの中間にある山中の小都市ビエッラ(Biella.)出身の4人が結成したグループ。 活動期間:1969 - 79年 所属レコード会社: Fonit, Euro International, UIM(Universal International Music) サンレモ音楽祭出場1回:1975年参加 サンレモ音楽祭出場メンバー ・ロベルト・マレルバRoberto Malerba: (1971年~) ソロ・ヴォーカル、ベース ・クラウディオ・カレッジョClaudio Careggio:(1969年~) ドラムス、コーラス ・ナンド・カタラーノNando Catalano: (1973年~) ギター、コーラス ・ルチアーノ・ドラートLuciano Donato: (1969年~1976年) キーボード 1969年クラウディオ・カレッジョ、ロミー・レグルート、ルチアーノ・ドラート、ロビー・ヴァッレ4人全員ビエッラ出身のメンバーが近郊の小都市イヴレーア(Ivrea)で結成しました。ロミーはレコードも出しているロジャーズ(I Rogers)の元ギタリストでした。 結成時メンバー ・クラウディオ・カレッジョClaudio Careggio:(1969年~) ・ロミー・レグルートRomy Regruto (1969年~1973年) ギター ・ルチアーノ・ドラートLuciano Donato: (1969年~1976年) ・ロビー・ヴァッレRoby Valle: (1969年~1971年) ベース 以上4名全員ビエッラ(Biella.)出身 途中交代メンバー ・ロベルト・マレルバRoberto Malerba: (1971年~) ・ナンド・カタラーノNando Catalano: (1973年~) ・ロベルト・パリーシャRoberto Palisca (1977年~) キーボード、コーラス グループは作曲家デット・マリアーノ(Detto Mariano)に見いだされ、71年ロビー・ヴァッレが作った“Nel Giardino Di Tamara”でデビューします。 そしてデビューし立てのバンドを集めたLP「Nuovi Complessi D'Avanguardia Da Radio Montecarlo」に収録されますが、後に名前が残るのはデリリウム(Delirium)だけでした。 LPQ-09060 (1971年 Fonit – Fonit Cetra) 30cmLP Nuovi Complessi D'Avanguardia Da Radio Montecarlo [Various] 2.Nel Giardino Di Tamara LPQ-09060 NRE-2014 NRE-2014 (198?年 Nuovo Repertorio Editoriale – Nuova Fonit Cetra) 30cmLP Canzoni: Genere Soft-Rock [Various] 2.Nel Giardino Di Tamara この頃ベースのロビー・ヴァッレが脱退し、ロベルト・マレルバに交代します。その後グループの消息は途絶えます。レコードを出すほどの力のあるバンドでなかったのでしょう。 73年ギターのロミー・レグルートが辞め、ナンド・カタラーノが加入しました。運が向いてきます。米ユナイテッド・アーチスツのイタリア法人エウロ・インターナショナルと契約し、イギリスのルベッツ(Rubetts,{The})の全英ナンバー・ワン・ヒット(イタリアの74年年間ヒット・ランク12位)、“シュガー・ベイビー・ラヴ”をカヴァーしました。彼らのカヴァーも同55位の大ヒットになっています。 EUR-004 (1974年 Euro International - Dischi Ricordi) Sugar Baby Love (シュガー・ベイビー・ラヴ)/Daydreamer EUR-004 EUR-005 EUR-005 (1974年 Euro International - Dischi Ricordi) Tonight (トゥナイト)/Strano Uomo 2枚目のA面はルベッツの“トゥナイト”とB面は在伊イギリスのバンド、モータウンズ(The Motowns}のマイク・ローガン(Mike Logan)とカペッリ(E.Capelli)が作った曲でしたが二匹のドジョウはおらず失敗します。 75年サンレモ音楽祭に“四季”で出場しましたが入賞出来ませんでした。 EUR-006 (1975年 Euro International - Dischi Ricordi) Quattro Stagioni (四季)/Una Donna EUR-006 EUR-1938 EUR-1938 (1975年 Euro International - Dischi Ricordi) Tornerò (トレビの泉)/Anna Anna 次がクィンタ・ファッチャとよく似た後輩グループ、サント・カリフォルニア(I Santo California)の“トレビの泉”のカヴァーでした。サント・カリフォルニアは75年年間ヒット・ランク6位のメガ・ヒットでした。 シングル曲にカヴァー曲とオリジナル曲が加えられたファースト・アルバムを製作します。 EURLP-10001 (1975年 Euro International - Dischi Ricordi) La Quinta Faccia 1.Sugar Baby Love (シュガー・ベイビー・ラヴ) [Rubetts,{The}] 2.Daydreamer 3.Una Donna 4.Dancin'On A Saturday Night (土曜はダンスで) [Lynsey De Paul] 5.Strano Uomo 6..Crying For Love 7.El Bimbo (嘆きのビンボー (オリーブの首飾り)) [Bimbo Jet, Paul Mauriat] 8.Tonight (トゥナイト) 9.School Love [Barry Blue] 10.Pronto Amore 11.Drive My Car (ドライヴ・マイ・カー) [Beatles] 12.Tornerò (トレビの泉) EURLP-10001 EUR-1940 EUR-1940 (1975年 Euro International - Dischi Ricordi) Annich (アニック)/Pronto 3枚目のシングル“アニック”は日本のシングル盤のB面に収められた曲です。 76年“Dolce Amore Mio”を最後にUIM(Universal International Music)に移籍しました。そしてキーボードがルチアーノ・ドラートからロベルト・パリーシャに交代しました。 EUR-1947 (1976年 Euro International - Dischi Ricordi) Dolce Amore Mio/Vai, Vai EUR-1947 5090-146 5090-146 (1977:年 UIM – Phonogram) Let Em In (幸せのノック)/ I Can't Ask For Anymore Than You Babe (理想の恋人) UIMでの1枚目はポール・マッカートニー&ウィングス(Poul McCartney & Wing)の“幸せのノック”のカヴァーでした。この曲をタイトル曲で外国曲をカヴァーした2ndアルバムが発売されます。 5094-010 (1977:年 UIM – Phonogram) Let 'em In 1.Let Em In (幸せのノック) [Poul McCartney & Wings] 2.It's Ok (イッツ・オーケイ) [Beach Boys,{ The}] 3.Get Back (ゲット・バック) [Beatles,{The}] 4.Lean On Me (私を頼りに) [Bill Withers] 5.Summer Of My Life 6.The Killing Of George 7.If You Leave Me Up 8.Play That Funky Music (プレイ・ザット・ファンキー・ミュージック) [Wild Cherry] 9.Under The Moon Of Love (月影の恋) [Showaddywaddy] 10.Hay Baby 11.Howzat 12.Livin' Thing (オーロラの救世主) [ELO=Electric Light Orchestra] 13.Bohemian Rhapsody (ボヘミアン・ラプソディ) [Queen] 5094-010 5094-016 5094-016 (1977:年 UIM – Phonogram) Piccola Luisa 1.Piccola Luisa 2.Abbracciati E Mi Salvi 3.Dolce Amore Mio 4.Dolcemente 5.Ti Avessi Incontrata Io 6.Quattro Stagioni (四季) 9.Sabbia E Mare 10.Sei Tornata, Di Chi Sei? 11.Mia Dolcissima 12.Annik (アニック) 続いてサンレモ出場曲の入った3rdアルバム「Piccola Luisa」とシングル盤“Piccola Luisa”が出ています。 5090-154 (1977:年 UIM – Phonogram) Piccola Luisa/Abbracciati E Mi Salvi 5090-154 5090-160 5090-160 (1978:年 UIM – Phonogram) Dolcemente/Sei Tornata, Di Chi Sei? 78年シングル盤“Dolcemente”とカヴァー曲を集めた4thアルバム「Greatest Hits Vol. 1」を残して79年に解散しました。 5094-023 (1978:年 UIM – Phonogram) Greatest Hits Vol. 1 1.Kintyre (Mull Of Kintyre) (夢の旅人) [Poul McCartney & Wings] 2.Daddy Cool (ダディ・クール) [Boney M] 3.Put Your Love In Me [Hot Chocolate] 4.Dancin' Party (ダンシング・パーティー) [Showaddywaddy]) 5.How Deep Is Your Love (愛はきらめきの中に) [Bee Gees,{The}] 6.Slip Slidin' Away (スリップ・スライディン・アウェイ) [Paul Simon] 7.Night Fever (恋のナイト・フィーヴァー) [Bee Gees,{The}] 8.Let's Have A Quiet Night In [David Soul] 9.Jamming [Bob Marley & The Wailers] 10.Stayin' Alive (ステイン・アライヴ) [Bee Gees,{The}] 11.Every 1'S A Winner (勝利者たち) [Hot Chocolate] 12.Baker Street (霧のベーカー街) [Gerry Rafferty] 5094-023 ラ・クィンタ・ファッチャの国内盤 CM- 2 (UNITED ARTISTS -キング) トレビの泉 (TORNERO')/アニック (ANNICK) CM- 2 ラ・クィンタ・ファッチャは以上です。 ★フランコ (vm) と レ・ピッコレ・ドンネ (coro) Franco e Le Piccole Donne フランコは本名フランコ・ラエーレ(Franco Raele)1953年5月2日ミラノ生。 活動期間:1960年代後半 – 70年代前半 所属レコード会社: Cipiti サンレモ音楽祭出場1回:1975年参加 公式サイト: フランコとレ・ピッコレ・ドンネは、フランコ・ラエーレが考え出した彼を中心としたミラノのスカラブリーニ広場にある郵便局で事務員達が結成した架空のボーカル・グループです。 ピッコロ・ドンネは、自称ミラノ生まれのダニエラ(Daniela)に双子姉妹のラウラ(Launa)とデボラ(Deborah)の3人構成で、ダンサーとバック・コーラスとして音楽祭に出場しました。 フランコ・ラエーレの事も全くわからず、彼が本名で出した数枚のシングル盤が確認できただけです。 一版最初のシングル盤と思われるのが1969年にフォニットから出た“I Mattoni”です。 SPF-31248 (1969年 Fonit – Fonit Cetra) I Mattoni/Ora Ridi [come Franco Raele] SPF-31248 CRJ・NP-1084 CRJ・NP-1084 (1972年 Car Juke Box – Dischi Ricordi) Fichi D'India/ Dolce Casa Di Campagna [come Franco Raele] 72年CARジューク・ボックスから“Fichi D'India”を出します。彼にとって一番の成功したシングル盤だったようです。CARジューク・ボックスにはサンレモ音楽祭に出場まで3年在籍し安定した時期だったようです。第2弾は“Che Pazzi Noi”でした。 CRJ・NP-1094 (1974年 Car Juke Box – Dischi Ricordi) Che Pazzi Noi/Fantasia D'Amore [come Franco Raele] CRJ・NP-1094 CRJ・NP-1096 CRJ・NP-1096 (1975年2月 Car Juke Box – Dischi Ricordi) Come Humphrey Bogart (ハンフリ-・ボガ-トのように)/ FANTASIA D'AMORE [come Franco e Le Piccole Donne] 75年サンレモ音楽祭には、当時戦前のカフェ・シャンタンで流行った曲などが懐メロとしてリバイバルしていましたので、懐メロ仕立ての曲を音楽祭向けに結成したフランコとレ・ピッコレ・ドンネとして歌いました。 ただ前年には58年に当時売れっ子作曲だったカルロ・アルベルト・ロッシ(Carlo Alberto Rossi)が設立したCARジューク・ボックスも時代の流れに勝てず経営不振となり、75年活動を停止し閉鎖されます。カタログ自体はディストリビューターであったイタリア・フォノグラムが引き継ぎますが、実績のある歌手達以外はフォノグラムに移籍できませんでした。 発売時期不明なシングル盤が1枚あります。レーベルも聞いたことのないアメリカ・レコーズで、新たに出来たマイナー・レーベルと思われます。これを最後にフランコ・ラエーレの名前も表舞台から消え去ります。 AR- 0547 (?年 America Records – G.D.M.) Postino Innamorato/Clelia [Franco Raele] AR- 0547 フランコ と レ・ピッコレ・ドンネの国内盤はありません、以上です。
2018.08.15
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★ヴォルピ・ブルー、{レ・} (compl) Volpi Blu, {Le} ジェノヴァの西南西40kmリヴィエラ海岸沿いにある小都市サヴォーナ(Savona)で1966年にフランコ・デルフィーノ(Franco Delfino)がリーダーとなり結成され、次第に音楽的な変遷をとげたビートニック・バンド。バンド名の意味は青い狐たち。 リーダーのフランコ・デルフィーノとその他のメンバーが関わったバンド、グループは以下の通り。 フランコ・デルフィーノが関わったのはヴォルピ・ブルー、{レ・} (Volpi Blu, {Le}); アルティクス (Articus=?); ピノ&フランコ(Pino e Franco= Franco Delfino, Giuseppe Damele); ヴァラゴ(Varago = Giampiero Levratto, Manuel Guastavino); シニョーリ・デラ・ガラシャ (Signori Della Galassia,{ I}= Franco Delfino, Bruno Govone, Manuel Guastavino +3); オーケストラ・フランコフェルフィーノ(Orchestra Franco Delfino) メンバーのブルーノ・ゴヴォーネが関わったバンド、ヴォルピ・ブルー、{レ・} (Volpi Blu, {Le}); チェルキオ・ドーロ(Cerchio D'Oro,{Il});シニョーリ・デラ・ガラシャ (Signori Della Galassia,{ I} 活動期間:1966 – 1981 所属レコード会社:Kansas, Equipe, Condor, Golden Record, Top Records サンレモ音楽祭出場1回:1975年参加 サンレモ音楽祭出場メンバー ・フランコ (Franco) 本名フランチェスコ・デルフィーノ(Francesco Delfino):キーボード (dal 1966 al 1979)→ Pino e Franco →Caw (Franco Delfino) ・ブルーノ・ゴヴォーネ(Bruno Govone):ギター ・マヌエル (Manuel) 本名エマヌエレ・グスタヴィーノ(Emanuele Gustavino):ヴォーカル、ギター:(dal 1966 al 1979) 1948年-2015年サヴォーナ生・没 Varago→ I Signori Della Galassia→Manuel (Manuel Guastavino) ・リッカルド・ダーニャ (Riccardo Dagna): ベース(dal 1970 al 1979) ・エンリコ・カッツァンテ(Enrico Cazzante):ヴォーカル、リズム楽器 (dal 1971 al 1979) メンバーがばらばらの活動を始め、解散寸前のヴォルピ・ブル-ですが、77年に2年ぶりのシングルを出します。A面“You're Trying”はジャズ・ロック的、B面“Più Nessuna”はマヌエルのヴォーカルを中心とした従来型の曲ですが、プログレッシブ色を強めています。同年キーボードのルイジ・モゼッロが脱退し、ギターのロベルト・フィウマラ(Roberto Fiumara)が加入しました。 FC-1045 (1977年 Golden Record - SAAR) You're Trying/Più Nessuna FC-1045 FC-1051 FC-1051 (1978年 Golden Record - SAAR) Casanova 2000/Dolce Tempo 78年シングル“Casanova 2000”を発売します。従来型のマヌエルのヴォーカル曲ですが、ポップス色を残すか、プログレ色を高めるかのせめぎあいのような状況です。さらに解散せざるを得ない方向に突き進んでいきます。 ブルーノのチェルキオ・ドーロがゴールデン・レコードからシングル盤“Funky Dream”を出します。 FC-1052 (1978年 Golden Record – SAAR) Funky Dream/L'Amore Mio [Cerchio D'Oro,{Il}] FC-1052 Ld・AI- 8021 Ld ・AI- 8021 (1978年 Durium –) Mamma (マンマ)/Ed Ora Vai Via [Signori Della Galassia,{ I}] 78年遂にヴォルピ・ブル-は実質上の解散をします。リーダーだったフランコ・デルフィーノ、リード・ヴォーカルのエマヌエル・グスタヴィーノ、77年に脱退したキーボードのルイジ・モゼッロとサンレモ出場メンバーだったブルーノ・ゴヴォーネに、同郷サヴォーナのロック・バンド、シジッロ・ディ・オルス(il Sigillo di Horus)の元リーダー、ベッペ・アレオ(Beppe Aleo)が加わり、新たなバンドのシニョーリ・デラ・ガラッシア(Signori della Galassia,{I})を結成しました。 そしてドゥリウムからシングル盤を出しました。その曲があっと驚く第二次世界大戦、テノールのベニアミーノ・ジーリ(Beniamino Gigli)が歌って大ヒットし日本でも良く知られる“マンマ”のプログレ版でした。 シニョーリ・デラ・ガラッシアのデビュー曲“マンマ”はマイナー・レーベルのマジック・レコードからB面を“Peggio Che Bambina”に差替えて再発売されます。これらの曲の入ったアルバム「I Signori Della Galassia – Qualcosa Si Crea Nulla Si Distrugge」を出します。古いヒット曲のプログレ版とオリジナルで構成されています。 NPA-36 (1978年Magic Record – Fonia Italiana) Mamma (マンマ)/Peggio Che Bambina [Signori Della Galassia,{ I}] NPA-36 MR・LP-1004 MR・LP-1004 (1978年Magic Record – Fonia Italiana) I Signori Della Galassia – Qualcosa Si Crea Nulla Si Distrugge [Signori Della Galassia,{ I}] 1.Non Passa Piú (もう行かない) 2.Creazione 3.Come Sinfonia (コメ・シンフォニア) 4.Vulcano 5.Se Non Ci Sei 6.Terza Fila 7.Mamma (マンマ) 8.Fermate La Reazione 9.Tu Solamente Tu (君だけを) 10.Peggio Che Bambina 11.Il Mio Sangue 12.Odyssey ヴォルピ・ブル-は79年にフランコとマヌエルが脱退しますが、77年に加入したロベルト・フィウマラが80年まで在籍、マヌエルが歌手として残るという不思議な状況を残しました。しかも別名義と思われるアルティクスで78年、79年1枚づつゴールデン・ウィークシングル盤が発売されています。 FC-1055 (1978年 Golden Record - SAAR) W L'Estate/Il Mondo Cammina {come Articus} (Lagazzi, Delfino, Trentini) FC-1055 FC-1061 FC-1061 (1979年 Golden Record - SAAR) Che Forte Sei/Cara Amica Mia {come Articus} マジック・レコードから発売時期不明で、多分プロモート盤だと思われる2枚が見つかりました。 MR・NP-1005 (197?年Magic Record – Fonia Italiana) Domenica Con Volpe/Illustrazione Antica [Signori Della Galassia,{ I}] MR・NP-1005 MR・NP-1007 MR・NP-1007 (197?年Magic Record – Fonia Italiana) Come Sinfonia (コメ・シンフォニア)/Tu Solamente Tu (君だけを) [Signori Della Galassia,{ I}] ひょっとするとフランコの音楽出版社ではないかと思われるバン・バン出版(Edizioni Bang Bang)からシングル盤“Creazione”が出ています。 Bg-042 (1978年 Bang!! Bang!! – Edizioni Bang Bang) Creazione/Terza Fila [Signori Della Galassia,{ I}] Bg-042 B&B・NP-001 B&B・NP-001 (1979年 B&B – Ri Fi) Archeopterix/Vulcano [Promo] [Signori Della Galassia,{ I}] シニョーリ・デラ・ガラッシアの時代は完全にプログレ・バンドに変わっています。さらにバン・バンが製作した原盤をリフィで発売する形態になります。最初はシングル盤“Archeopterix”で、この曲が収録されたアルバム「I Signori Della Galassia – Iceman」を出し、彼らの代表作になりました。 RFN・NP-16773 (1979年1月 Ri Fi – Ri Fi) Archeopterix/Vulcano [Signori Della Galassia,{ I}] RFN・NP-16773 RDZ・ST-14311 RDZ・ST-14311 (1979年1月 Ri Fi – Ri Fi) I Signori Della Galassia – Iceman [Signori Della Galassia,{ I}] 1.Proxima Centauri 2.Puoi Sentirmi? 3.Fermate La Reazione 4.Oltre Il Cristallo 5.Iceman 6.Sub 7.Archeopterix 8.Tutankhamon 9.Vulcano もう一つの代表作“Iceman”はマキシ・シングル化されました。 OUT・MIX-23504 (1979年7月 OUT – Ri Fi) 12”Maxi Iceman/Proxima Centauri [Signori Della Galassia,{ I}] OUT・MIX-23504 FC-1058 FC-1058 (1979年9月 Golden Record - SAAR) Io Ancora Stupido/Segreto 79年解散のケジメかゴールデン・レコードからヴォルピ・ブル-のシングル盤“Io Ancora Stupido”とチェルキオ・ドーロのシングル盤“Too many nights”が相次いで発売されています。 FC-1060 (1979年 Golden Record – SAAR) Too many nights/Dolce Strega [Il Cerchio D'Oro] FC-1060 RFN・NP-16822 RFN・NP-16822 (1980年 Ri Fi – Ri Fi) Luce/Eliana [Signori Della Galassia,{ I}] 80年シニョーリ・デラ・ガラッシアのシングル“Luce”をリフィから出しました。これがどうも最後の盤のようです。 81年トップ・レコードからヴォルピ・ブル-名義で“Ti Prego Torna”が出て、ディグ・イットからマヌエル名でエマヌエル・グスタヴィーノが“No,Non Lasciarmi”を発売しました。ヴォルピ・ブル-の残影が一瞬光を放ったのでしょう。そして彼らの名前は表舞台から消えます。 TP-1015 (1981年 Top Records – Panarecord) Ti Prego Torna/Com'eri Bella TP-1015 DG-1206 DG-1206 (1981年 Dig-It – EMI Italiana) No,Non Lasciarmi/Dimenticarti Un Po' [Manuel (Manuel Guastavino)] 80年代初期に多分フランチェスコ・デルフィーノの会社と思われるバン・バン出版からオーケストラ・フランコ・デルフィーノまたはフランコ・デルフィーノ名で数枚のサンプラー(あるいはライブラリー)曲のLPが発行されました。 サンプラー(あるいはライブラリー)・ミュージック盤と言うのは、一般音楽市場向けでなく、ラジオやTV,映画製作者業界向けの音源レコードです。特にフィラーやニュース、ドキメンタリー番組のバック・グラウンド・ミュージックで使われる、ある意味効果音源です。映画音楽を主力としたカム(CAM)もこの類のレコードを有名映画音楽作曲家の音源で制作し、マニアのレア・アイテムともなりました。 BB・LP-86100 (?年 Edizioni Bang Bang –) Orchestra Franco Delfino – Nel Vento Mediterraneo 1.Azzurre Emozioni 2.Scusami 3.Naxos 4.n Cabriolet 5.Attraverso Il Vento 6.Autostrade Per Il Sud 7.Francesca 8.Nel Vento Meditteranea 9.Amore D' Autunno 10.La Collina E L' Aquilone BB・LP-86100 LP- 2018 LP- 2018 (?年 B&B –) Mario Robbiani / Franco Delfino – Doppio Incontro 1.Invito A Corte 2.Salotto 3.Ieri 4.Rubrica 5..Eco 6.Cortile 7.Single 8.Complex 9.Inspection 10.0.Detector 11.Raining BG・LP- 2016 (?年 Bang!! Bang!! – ) Franco Delfino – Astrattismo 1.Circe 2.Giunco 3.Plano 4.Spino 5.Delta 6.Corinzia 7.Gommea 8.Pintu 9.Dragone 10.Duca 11.Lacusta 12.Edipo BG・LP- 2016 BB・LP- 8111 BB・LP- 8111 (?年 Edizioni Bang Bang –) Franco Delfino – Araldica 1.Araldica 1 2..Araldica 2 3.Araldica 3 4.Araldica 4 5.Araldica 5 6.Araldica 6 7.Araldica 7 8.Araldica 8 9.Araldica 9 10.Araldica 10 11.Araldica 11 12.Araldica 12 13.Araldica 13 BB・LP- 8112 (1981年 Edizioni Bang Bang –) Franco Delfino – Araldica 2 1.Monogramma 2.Onusto 3.Situazione 4.Fomite 5.Materia 6.Deflativo 7.Flap 8.Blando 9.Placido 10.Lemma BB・LP- 8112 BB・LP- 8230 BB・LP- 8230 (?年 Edizioni Bang Bang –) Franco Delfino – Araldica 3 1.Geastro 2.Geracio 3.Gàmaso 4.Gizio 5.Giunia 6.Gerlo 7.Gel 8.Gadara BB・LP- 8588 (?年 Edizioni Bang Bang –) Caw – New Group 1.Arcobaleno 2.Venus 3.Tornerai 4.Paradise 5.Pattinatori 6.Sunday Never 7.Zazueira 8.Roberta 9.Dolce Vita 10.Disco Tropical BB・LP- 8588 CDDV-6211 CDDV-6211 (1998 年DV More - DV More) CD Le Volpi Blu - Il Meglio [8014406621167] 1.Un Amore Per Noia 2.Tu, Piccola Bimba Mia 3.Senza Impegno (約束なしで) 4.Ti Ricordi Padre Mio 5.Più Nessuna 6.Biancastella 7.Così Passa Il Giorno 8.Bimba Mia 9.L'Incoscienza 10.Dolce Tempo 11.Storia 12.Il Buono E Il Cattivo 13.Uomo Felice 14.Ora c'è Anna 15.Suona l'Avemaria 16.Casanova 2000 98年に再生ベスト盤CD会社のD.V.モア (DV More)から再録音したセルフ・カヴァー盤が発売されています。大スターではありませんが、D.V.モアが再生べスト盤を作るのはある程度売れると考えたからだと思います。 ヴォルピ・ブルーの国内盤はありません、以上です。
2018.08.12
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★ヴォルピ・ブルー、{レ・} (compl) Volpi Blu, {Le} ジェノヴァの西南西40kmリヴィエラ海岸沿いにある小都市サヴォーナ(Savona)で1966年にフランコ・デルフィーノ(Franco Delfino)がリーダーとなり結成され、次第に音楽的な変遷をとげたビートニック・バンド。バンド名の意味は青い狐たち。 リーダーのフランコ・デルフィーノとその他のメンバーが関わったバンド、グループは以下の通り。 フランコ・デルフィーノが関わったのはヴォルピ・ブルー、{レ・} (Volpi Blu, {Le}); アルティクス (Articus=?); ピノ&フランコ(Pino e Franco= Franco Delfino, Giuseppe Damele); ヴァラゴ(Varago = Giampiero Levratto, Manuel Guastavino); シニョーリ・デラ・ガラシャ (Signori Della Galassia,{ I}= Franco Delfino, Bruno Govone, Manuel Guastavino +3); オーケストラ・フランコフェルフィーノ(Orchestra Franco Delfino) メンバーのブルーノ・ゴヴォーネが関わったバンド、ヴォルピ・ブルー、{レ・} (Volpi Blu, {Le}); チェルキオ・ドーロ(Cerchio D'Oro,{Il});シニョーリ・デラ・ガラシャ (Signori Della Galassia,{ I} 活動期間:1966 – 1981 所属レコード会社:Kansas, Equipe, Condor, Golden Record, Top Records サンレモ音楽祭出場1回:1975年参加 サンレモ音楽祭出場メンバー ・フランコ (Franco) 本名フランチェスコ・デルフィーノ(Francesco Delfino):キーボード (dal 1966 al 1979)→ Pino e Franco →Caw (Franco Delfino) ・ブルーノ・ゴヴォーネ(Bruno Govone):ギター ・マヌエル (Manuel) 本名エマヌエレ・グスタヴィーノ(Emanuele Gustavino):ヴォーカル、ギター:(dal 1966 al 1979) 1948年-2015年サヴォーナ生・没 Varago→ I Signori Della Galassia→Manuel (Manuel Guastavino) ・リッカルド・ダーニャ (Riccardo Dagna): ベース(dal 1970 al 1979) ・エンリコ・カッツァンテ(Enrico Cazzante):ヴォーカル、リズム楽器 (dal 1971 al 1979) 1960年代初頭フランコ・デルフィーノがリーダーとなりバンドを結成しました。メンバーが定着していたのか分かりませんが、ウィキペディア・イタリア版(以降Wikiと略)には活動期間が66年から80年までとされ、結成メンバー紹介も66年からなのでそれに従いします。 結成メンバー ・フランコ (Franco) 本名フランチェスコ・デルフィーノ(Francesco Delfino):キーボード 1966-79) ・マヌエル (Manuel) 本名エマヌエレ・グスタヴィーノ(Emanuele Gustavino):ヴォーカル、ギター(1966-1979) ・ミンモ・レンティーニ(Mimmo Lentini):ヴォーカル、ベース (1966 -70) ・ジャンニ・グランディ(Gianni Grandi):ドラムス (所属期間不明 72年以降RCAイタリアーナのプロデューサー) 公式に活動を始めた当時のメンバーは4又は5人と思われます。Wikiには67年にレコード会社フォノチネ(Fonocine)と契約し、“Ti Ricordi Padre Mio”でデビューした旨の表記がありますが、フォノチネはレコード会社ではなく音楽出版社です。また68年にレコード会社のカンサスから“Troverai La Strada”からデビュー盤と思われるシングルを出しています。 “Ti Ricordi Padre Mio”は2枚目のシングルとして71年にエキペから、同内容で72年コンドルから出ています。既に4つの会社名が出ていますが、各々関係があるので説明していきます。 67年末カマレオンティ(I Camaleonti)がCBSに移籍した後釜としてカンサス・レコードは5人組のヴォルピ・ブル-を68年デビューさせました。ここにはビートニック・バンドで既に売れていたウー(Gli Uh!)も楽曲管理をフォノチネに任せており、音楽出版社としてヴォルピ・ブル-を他社に移籍させたと思われます。 移籍先がエキペ(Equipe)でした。その頃契約していた往年のサンレモの女王ニラ・ピッツィ(Nilla Pizzi)がここでレコードを出していましたが、会社は不振になっていたようです。 結成メンバーだったベースのミンモ・レンティーニ(Mimmo Lentini)脱退、リッカルド・ダーニャ(Riccardo Dagna)に交代するなどで4人編となったバンドの移籍はエキペ復興のためだったかは不明ですが、2枚目のシングルを71年に出します。救済策も力及ばずエキペは74年に破産しました。 DM-1088 (1968年 Kansas – Clan Celentano,) Troverai La Strada/Complimenti Graziella DM-1088 EQ-0132 EQ-0132 (1971年6月 Equipe – Decca Italiana) Ti Ricordi Padre Mio/Nella Mente Solo Te [ジャケット画像は3色グラビア刷り雑誌広告で、実際の色と相違があり] 2枚目シングルは移籍先コンドルからそのまま(ジャケットの社名とレコード番号の差替えのみ)で再発売されました。この曲はプー(I Pooh)系のポップ・ロックで彼らの初期の代表作になります。 TV-17 (1972年 CONDOR (POLARIS) - CBS Sugar) Ti Ricordi Padre Mio/Nella Mente Solo Te TV-17 TV-21 TV-21 (1972年 CONDOR (POLARIS) - CBS Sugar) Bimba Mia/Mà Mammà 71年ヴォーカルとリズム楽器のエンリコ・カッツァンテ(Enrico Cazzante)が加わります。ギターとヴォーカルのマヌエルの声はプーのロビー・ファッキネッティ(Roby Facchinetti)のような高い声でしたがエンリコは力強い声でした。彼の加入でヴォーカルの幅が広がります。しかし“Bimba Mia”のジャケットはまだ4人で、エンリコ加入前のようです。 TV-23 (1973年 CONDOR (POLARIS) - CBS Sugar) Biancastella / Uomo Felice TV-23 TV-25 TV-25 (1974年 CONDOR (POLARIS) - CBS Sugar) Un Amore Per Noia /I Will Beg これの5人態勢で安定したようで、“I Will Beg”ようなアメリカン・ロック的な曲にも挑みます。 “Mà Mammà”でコラボしたピアニストで作曲家のジュゼッペ・ダメレ(Giuseppe Damele)はデルフィーノとインスト曲“Storia”を作り、アルティクス (Articus)名でシングルを出します。この曲はヴォルピ・ブル-のアルバムに収録されているので、彼らと全面コラボ(又は名義だけアルティクスを使用)したようです。楽譜写真もあったので載せています。作者名とフォノチネのロゴマークもあるので、フォノチネの関与が大きいのが判ります。 TV-26 (1974年 CONDOR (POLARIS) - CBS Sugar) Storia (F.Delfino – G.Damele)/Stazione Nord {come Articus} TV-26 75年サンレモ音楽祭に出場しました。モッタとバルドーニの詞にダメル、デルフィーノの作でした。予選で同票12票の3歌手が5位となり、どういう裁定をしたのか不明ですがヴォルピ・ブル-だけが最終日の決勝戦に進めませんでした。 彼らの方向性が商業的成功よりプログレッシブな方に向かいつつあった時期で、サンレモでの結果が良かったのか悪かったのか判断できません。メンバーも目指す音楽に違いが出てきて、それぞれが違った行動をとり始め、79年の解散に向かって進んでいきます。 TV-29 (1975年2月 CONDOR (POLARIS) - CBS Sugar) Senza Impegno (約束なしで)/Così Passa Il Giorno TV-29 FC-1034 FC-1034 (1975年 Golden Record - SAAR) Casa Senza Amore/Vivo E Vero [Varago = Giampiero Levratto, Manuel Guastavino] 所属のレコード会社にも変化があります。75年サンレモ音楽祭の芸術監督をしたブルーノ・パレージ(Bruno Pallesi)が作ったレコード会社ポラリス(Polaris)の系列に入っていたコンドルでしたが、休眠状態に近かったゴールデン・レコード(GoldenRecord)というメインに変更し、経営状態が悪化したポラリスから分離独立しました。 メイン・ヴォーカル兼ギタリストのエマヌエル・グスタヴィーノはジャンピエロ・レヴラット(Giampiero Levratto)達とヴァラゴ(Varago)というグループを作り、シングル“Casa Senza Amore”をゴールデン・レコードから出しました。 ヴォルピ・ブル-の初アルバムがコンドルから出て、これにはサンレモ音楽祭出場曲“約束なしで”やアルティクス名義でシングル盤が出た“Storia”も収録され、一報“Tu, Piccola Bimba Mia”、“L'Incoscienza”がシングルカットされています。サンレモ出場以降にキーボードのルイジ・モゼッロ (Luigi Mosello)が加入しました。 TVLP-050 (1975年 Condor – CBS Sugar) Le Volpi Blu – Tu, Piccola Bimba Mia 1.Tu Piccola Bimba Mia 2.Un Amore Per Noia 3.Senza Impegno (約束なしで) 4.Uomo Felice 5.Ti Ricordi Padre Mio 6.Storia 7.L'Incoscienza 8.Così Passa Il Giorno 9.Biancastella 10.Bimba Mia 11.Il Buono E Il Cattivo 12.I Will Beg TVLP-050 TV-32 TV-32 (1975年 CONDOR (POLARIS) - CBS Sugar) Tu, Piccola Bimba Mia/L'Incoscienza 75年6月ジュゼッペ・ダメレとフランコ・デルフィーノがまたレコードを出しますが、今度の名義はピエロ&フランコ(Pino e Franco)で2枚EPを出しています。 FC-1036 (1975年6月 Golden Record - SAAR) EP Electronic System [Pino e Franco= Franco Delfino, Giuseppe Damele] 1.La Ranocchia 2.Polenta E Baccalà 3.Valzer And Soda 4.Semola FC-1036 FC-1037 FC-1037 (1975年9月 Golden Record - SAAR) EP Electronic System [Pino e Franco= Franco Delfino, Giuseppe Damele] 1.Nora 2.Beinette 3.Tano 4.Briscola メンバーはそれぞれ活動し、どういう状態になったかようく分からないヴォルピ・ブル-です。マヌエルが作ったヴァラゴがオートストップという会社からシングルを出しました。こういう状態でヴォルピ・ブル-のレコード製作は76年中行われていません。 AUT- 0004 (1975年 Autostop Music –) La Piovra/Fino A Domani [Varago = Giampiero Levratto, Manuel Guastavino] AUT- 0004 ABN- 22 ABN- 22 (1977年 Playphone – Dischi Ricordi) Quattro Mura/Futuro Prossimo [Il Cerchio D'Oro] サンレモ音楽祭出場メンバーのブルーノ・ゴヴォーネ(Bruno Govone)が74年に結成したバンド、チェルキオ・ドーロ(Il Cerchio D'Oro)がプレイフォン(Playphone)からシングル“Quattro Mura”を出しています。ブルーノは79年ヴォルピ・ブル-解散直前に一部メンバーが作ったバンド、シニョーリ・デラ・ガラシャ (Signori Della Galassia,{ I}に結成メンバーの一人として参加しています。 ヴォルピ・ブルー 2は次回に続きます
2018.08.09
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トリオ・デル・クラン (ロレンツォ・ピラート1)、 ピラーデ (ロレンツォ・ピラート2) の続きです。★ピラーデ (vm) Pilade (Lorenzo Pilat)本名ロレンツォ・ピラート(Lorenzo Pilat)1938年6月24日トリエステ生、歌手、作曲家。芸名ピラーデはデビューの1965年から70年まで、71年以降は本名ロレンツォ・ピラートで活動しています。 CD- 0302活動期間:1964 – 現在所属レコード会社:Ciao!Ragazzi, Clan Celentano, Mercury Records, CBS, CGD, Antenna Nord, Poor Cowサンレモ音楽祭出場3回:1966年参加トリオ・デルクラン (Trio del Clan)のメンバーとして)、68年参加(ピラーデとして)、75年参加(ロレンツォ・ピラートとして)サンレモ音楽祭出品8曲:1969年参加曲;70年6位、8位;71年9位;74年入賞(第3位)、入賞(8番目);75年参加;76年参加 1978年頃にはトリエステ方言の歌に賛否がでたようで、メディアへの露出を避け、コンサート活動に専念します。これ以降プール・カウからレコードを出していますが、状況からみて彼のレコード会社だと思います。最初のアルバムはライヴ盤かもしれません。シングルカットもされています。LTS-040 (1978年 Poor Cow –) Lorenzo Pilat – Io, Trieste1.Finanziere2.Canta San Giusto3.l Tartaion4.L' Omo Vespa5.Dove Sei Andata?6.Le Rose De Trieste7.La Sagra De La Sardela8.Adriana9.Trieste Un Poco Americana10.Giovedì11.Magnando El Pess12.Xe Un CaligherLTS-040 LTS-041LTS-041 (1978年 Poor Cow –) Dove Sei Andata?/L'Omo Vespa(1981年 CGD - CGD): Trieste mia 81年CGDからアルバム「Trieste mia」が出ました。全く内容不明です。翌82年アリストンからシングル盤も出ています。子供向け?と思いますが、これも内容不明です。AR-00926 (1982年Ariston – Dischi Ricordi) Pinocchio Rock/Credi Mama 98年ベテラン歌手再生ベスト盤CD業者D.V.モアから「PILADE - That's Amore」が出ています。70年代オーストラリア・ツアーで歌った時のライヴ音源のようです。CDDV-6228 (1998年 D.V. More - D.V. More) CD PILADE - That's Amore [Pilade 8014406622867]1.That's Amore (ザッツ・アモーレ)2.My Rifle, My Pony And Me (ライフルと愛馬)3.Be Bop A Lula (ビー・バッパ・ルーラ)4.Unchained Melody (Tema Dal Film Ghost) (アンチェインド・メロディ)5.Mule Skinner Blues (Il Blues Del Mandriano) (ラバ追いのブルース)6.Nessuno Mi Può Giudicare (青春に生きる) 7.Vino Amaro (涙の日々) 8.La Rosa Nera (ローザ・ネーラ (愛の黒ばら)) 9.Alle Porte Del Sole (太陽のとびら) 10. Alla Fine Della Strada (Leve Me Tonight) (恋の終り(ラヴ・ミー・トゥナイト)) 11.Uno Tranquillo (ザイ・ザイ・ザイ (野ばらのひと)) 12.Un Pò Di Vino13.Fin Che La Barca Và (愛の鐘が鳴るとき)14.Quanto è Bella Lei (なんて美しい君) CDDV-6228 2000年に3枚発売されましたが、詳細不明。(2000年 Poor Cow –) CD Ghost (come Lorenzo Pilat)(2000年 D.V. More - D.V. More) CD Pilade (come Pilade)(2000年 Ed. Digital sound) CD Riccio Di Mare (come Lorenzo Pilat) 02年からトリエステ方言の歌シリーズがプアー・カウからCDで発売されました。CD- 0301 (2002年 Poor Cow –) CD La Cavala Zelante" Canzoni Triestine N゚1 [80 33064 59001 1] 1.La Cavala Zelante2.Ai Bai Tu Me La Darai3.Ambiente Birreria 3a.Iupi Iupi Ala 3b.Zingo Piombo 3c.Bertolin4.El Tran De Opcina In American5.Mandeghe La Lista Al Diavolo6.Un Bicer De Dalmato7.Le Galine8.L'Omo Vespa9.Giovedi10.Dove Sei Andata?11.I Gobi12.Casa Mia CD- 0301CD- 0302 (2002年 Poor Cow –) CD Torno A Trieste " Canzoni Triestine N゚2 [80 33064 59002 8] ※ジャケット画像は顔写真画像をご参照1.Torno A Trieste2.Da Trieste Fino A Zara3a.Ciribiribin Paghe 'Na Bira3b.Andemo A Servola4.Vinassa Vinassa5.Ancora Un Litro Del Quel Bon6a.Magari Col Monopatino6b.I Bechi7.Canta S.Giusto8.Madonna D'Amore (愛のマドンナ)9.Union (Inno Triestina Calcio)10.Lassime Star Cussì11.Le Rose De Trieste12.Viva Là E Po BonCD- 0303 (2002年 Poor Cow –) CD Trieste Piena De Mar " Canzoni Triestine N゚3 [80 33064 59003 5]1.Trieste Piena De Mar2.La Sagra De La Sardela3.Magnando El Pes4.Co La Facia De Sardon5.Marinaresca - Una Fresca Bavisela6.La Mula De Parenzo7.Trieste Un Poco Americana8.Barcola9a.La Mia Mama Me Ga Dito9b.Le Mule De San Giacomo10.L'Ino Dei Mati11.Le Done D'Inverno E D'Estate12.Xe Un CaligherCD- 0303 CD- 0304CD- 0304 (2002年 Poor Cow –) CD Viva La Bora " Canzoni Triestine N゚4 [80 33064 59004 2]1.Viva La Bora2.El Tran De Opcina3.Sto Mona De Mio Cuor4.El Finanzier5.A Volte Basta Un Moto6.Chi Sarà La Mia Stela7.El Consa Lastre8.Molighe El Fil9.Un Artista In Cartolina10.Caro Bebè Te Ga Ragion11.Adriana12.El Pie Taià 03年か04年だと思われますが、久々にポピュラーな曲のCDが出ます。彼がっサンレモ良く課として他の歌手に提供しヒットした曲のセルフ・カヴァー・アルバムです。CD・TS- 65 (200?年 Poor Cow –) CD Lorenzo Pilat – Canto Le Mie Canzoni..! Successi Intramontabili In Italia E All'Estero [80 33064 59005 9]1.Vino Amaro (涙の日々)2.Alle Porte Del Sole (太陽のとびら)3.Quanto è Bella Lei (なんて美しい君)4.Valzer Di Notte5.Uno Tranquillo (ザイ・ザイ・ザイ (野ばらのひと))6.La Rosa Nera (ローザ・ネーラ (愛の黒ばら))7.Mi Sento Milanese8.Fin Che La Barca Va (愛の鐘が鳴るとき)9.Fiumi Di Rose Rosse10.Dove Scende Il Sole11.Romantico Blues (ロマンティコ・ブルース)12.Un Pò Di Vino13.Credi Mama14.Leve Me Tonight (Alla Fine Della Strada) (ラヴ・ミー・トゥナイト (恋の終り))15.Nessuno Mi Può Giudicare (青春に生きる) CD・TS- 65 05年アルバム「Cuore Da Bambino」、タイトルからすると子供向けかもしれません、詳細不明。(2005年 Poor Cow –) CD Cuore Da Bambino トリエステ方言の歌シリーズの後半が06年以降に発売されました。CD- 0305 (2006年 Poor Cow –) CD Come Te Pol Dimenticarte De Trieste " Canzoni Triestine N゚5 [80 33064 59009. 7]1.Come Te Pol Dimenticarte De Trieste2.Trieste Mia (わがトリエステ)3.Le Scarpete 4.Viou Che Ti Compri5.Vita Bela Vita Snela6.L'Omo Nero7.L'Anello Che Ti Ho Dato8.Ciolla Pepi9.Buongiorno Triestini10.Piran Che Guarda El Mar11.El Responsabile12.Le Mule 12a.Le Mule De Rena 12b.Me Capita El Morbin 12c.Mule De Jute 12.d.Ragazze Bele 12.e.Macchinista Daghe Oio 12.f.Fioi Come Noi 12.g Non Ti Scordar Di Me 12.h Si Si TriesteCD- 0305 CD- 0306CD- 0306 (200?年 Poor Cow –) CD Voio Far El Sindaco " Canzoni Triestine N゚6 [80 33064 59011 0]1.Voio Far El Sindaco2.Toio3.Valzeron Triestin 3a.E Col Tra La La 3b.E Che La Vadi Ben 3c.Chi Xe Colpa Del Mio Mal 3d.In Un Canton del'Armeron 3e.Va Al'Ombra Nineta 3f.In Mezo Al Mar 3g.Voga Voga Citadela4.El Cioghi L'Oio5.La Venderigola6.Piovi 7.La Festa Dele Done8.El Cucù9.Le Galine Tute Mate10.Vado A Dormir11.Lavorar, Lavorar12 Alegra Osteria 12.a.Beviam Beviamo 12.b Bevendo E Cantando 12.c.Go Dado Una Piada Ala Tavola 12.d.Inveze De Andar Ala Benedizion 12.e.Va La La Gnampolo 12.f.Eins Zwei Drei 12.g.Ara Che Cana 12.h.Se Le Babe No Vol Che Cantemo 12.i.La Mula Rossa 12j.La Svizzera 12.k.Sul Paion 12l.Ala Salute 12m.Finchè Siam Giovani 12n. Amici Beviam 06年タイトル「Sussurrando Melodie D'Amore」からしてポピュラーな曲を歌ったアルバムと思われます。詳細不明。(2006年 Poor Cow –) CD Sussurrando Melodie D'Amore 06年ベテラン歌手再生ベスト盤CD業者ダックのグリーン・レコード・レーベルから親分アドリアーノ・チェレンターノ(Adriano Celentano)のヒット曲をカヴァーしたCDが出ました。多分新録音だと思われます。GRCD-6393 (2006年 Green Records – Duck Record) CD C'Era Una Volta Il Clan (Pilade Canta Celentano) [8012958853937]1.Un Pò Di Vino2.Si E Spento Il Sole (消えた太陽)3.Il Ragazzo Della Via Gluck (グルック通りの若者)4.Sei Rimasta Sola (孤独の涙)5.Il Problema Piu' Importante (二人の大問題)6.Preghero' (Stand By Me) (俺の祈り(スタンド・バイ・ミー))7.L'Attore (役者)8.La Coppia Piu' Bella Del Mondo (世界最高のカップル)9.Ti Ho Tradito Col Pensiero 10.Storia D'Amore (恋物語) 11.Una Carezza In Un Pugno (涙の愛撫)12.Ventiquattromilabaci (24000のキッス)13.Il Mestiere Di Uomo 14.Ciao Ti Diro' (チャオと云うよ)15.C'Era Una Volta Il Clan GRCD-6393 07年フアー・カウから2枚のCDが出ましたが、タイトルから自作ヒット曲のセルフ・カヴァー盤と、もう1枚はクラン・チェレンターノ時代のヒット曲をセルフ・カヴァーした盤と想像できますが、いずれも内容不明です。(2007年 Poor Cow –) CD Canto Le Mie Canzoni...!(2007年 Poor Cow –) CD I Famosi Del Clanロレンツォ・ピラートは以上です。★ラウラ (vf) Laura本名ジュゼッピーナ・ピピトーネ(Giuseppina Pipitone) 1958年1月21日シチリア州の州都パレルモ(Palermo)生、歌手。 活動期間:1973 – 1979 所属レコード会社:Picci, North, Cityサンレモ音楽祭出場1回:1975年5位 サンレモ音楽祭の登竜門でもある1973年のカストロカーロ新人コンテスト(Il Concorso per Voci Nuove o Festival di Castrocaro)に出場しました。ニコ・フィデンコ(Nico Fidenco)の“太陽の誘惑(Su Nel Cielo)”、”トラスト・ミー(Trust Me)”、カトリーヌ・スパーク(Catherine Spaak)の“恋のなぎさ(Non È Niente)”など数々のヒット曲の作詞をしたジュゼッペ・カッシア(Giuseppe Cassia)の目にとまり、彼のレコード会社ピッチ(Picci)からデビューします。LG-3021 (1973年 Picci – CBS Sugar) Una Farfalla Non Strappa Il Fiore/Non Ci Sarà PoetaLG-3027 (1973年 Picci – CBS Sugar) Dimmi Che Ci Sei/Non Ci Sarà Poeta ここまでは順調だったのですが、カッシアが71年に作った会社はヒット曲が出せず、74年に閉鎖してしまいます。同年ラウラはリフィ傘下のマイナー・レーベル、ノース(North)に所属しました。 73年のカストロカーロ新人コンクールの優勝歌手はエマヌエラ・コルテージ(Emanuela Cortesi)で74年にサンレモ音楽祭に出場、入賞した彼女とパオラ・フォルツィーニ(Paola Folzini)の二人は75年サンレモ音楽祭に出場し、ラウラは5位入賞することが出来ました。FPD・NP-21002 (1975年2月North – Ri Fi) E Poi E Poi/Ma Va Un Po' All'InfernoFPD・NP-21002 C-6352C-6352 (1976年 City - Ariston) Bambino/Rimani さすがにマイナーは懲りたのか、ノースは1作だけで中堅の会社シティー・レコードに移籍しました。ここで3枚のシングルと1枚のアルバムを作りました。“Mare Verde Mare Blu”はマイナー・ヒットしたようです。 C-6372 (1977年 City - Ariston) Un Giorno/Mare Verde Mare BluC-6372 C-6401C-6401 (1978年 City - Ariston) Trip/Arroganza アルバムは2008年「Laura – Ricordi」としてネット配信され、アマゾンでも購入可能です。C-1038 (1981年 City - Ariston): Laura1.Mixing (Besame Mucho (ベサメ・ムーチョ) -Fumo Negli Occhi)2.Vestito Blù3.Uomo Per Me4.Un Giorno5.Trip6.Arroganza7.Che Confusione Nel Cuore8.Per Dispetto9.Mare Verde Mare Blu C-1038ラウラの国内盤はありません、以上です。
2018.08.06
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トリオ・デル・クラン (ロレンツォ・ピラート1)、 ピラーデ (ロレンツォ・ピラート2) の続きです。 ★ピラーデ (vm) Pilade (Lorenzo Pilat) 本名ロレンツォ・ピラート(Lorenzo Pilat)1938年6月24日トリエステ生、歌手、作曲家。 芸名ピラーデはデビューの1965年から70年まで、71年以降は本名ロレンツォ・ピラートで活動しています。 5182(CBS) 活動期間:1964 – 現在 所属レコード会社:Ciao!Ragazzi, Clan Celentano, Mercury Records, CBS, CGD, Antenna Nord, Poor Cow サンレモ音楽祭出場3回:1966年参加(トリオ・デルクラン (Trio del Clan)のメンバーとして)、68年参加(ピラーデとして)、75年参加(ロレンツォ・ピラートとして) サンレモ音楽祭出品8曲:1969年参加曲;70年6位、8位;71年9位;74年入賞(第3位)、入賞(8番目);75年参加;76年参加 1970年敬愛したアドリアーノ・チェレンターノ(Adriano Celentano)の会社クラン・チェレンターノでの歌手に限界を感じたのか、フォノグラムのマーキュリー・レーベルに移籍し、1枚だけシングル盤を出しますが芸名ピラーデはこれまでです。 強烈な個性の親分アドリアーノ・チェレンターノは周りと喧嘩が絶えず、代表的な子分ドン・バッキー(Don Backy)との大喧嘩、デット・マリアーノ(Detto Mariano)や売れる前のアル・バーノ(Al Bano)もチェレンターノの下から去りました。 66年から作曲を始め、ダニエレ・パーチェ(Daniele Pace)、マリオ・パンゼリ(Mario Panzeri)と組みカテリーナ・カセルリ(Caterina Caselli)に“Come Mai”を提供したのが始まりで、最初の成功はジリオラ・チンクェッティ(Gigliola Cinquetti)に提供した67年夏のディスク・フェスティヴァル出場曲“ローザ・ネーラ(La Rosa Nera)”が第2位となり大ヒットなりました。 60年代後半にパーチェ、パンゼリ、ピラートのヒット・メーカー・チームで多くの成功をもたらしました。最大の成功は69年サンレモ音楽祭出場曲“恋の終わり (Alla Fine Della Strada)”で参加曲に止まりました。しかし英国のトム・ジョーンズが“ラヴ・ミー・トゥナイト”としてカヴァー、世界的大ヒットとなります。 HIT-1648 (1969年7月10日 SEVEN SEAS - キング) 恋の終り (ALLA FINE DELLA STRADA)/ 二人の青春 (NOI DUE) ジュニア・マッリ (Junior Magli (vm)) HIT-1648 TOP-1401 TOP-1401 (1969年6月20日 LONDON - キング) ラヴ・ミ-・トゥナイト (LOVE ME TONIGHT)/ ハイド・アンド・シーク (HIDE AND SEEK) トム・ジョ-ンズ (Tom Jones (vm=e)) ピラーデ(ロレンツォ・ピラート)の場合はチェレンターノとモメたのではなく、作曲家としての地位を確立し、チェレンターノの庇護は必要なくなり独立していったようです。 こうしてチェレンターノの子分の歌手ピラーデより、作曲家名ロレンツォ・ピラートの方が有名となり、71年にマイナーのレオ・フィルムから出したシングル盤から本名ロレンツォ・ピラートを使うようになりました。これが前回までのお話でした。 60年代末から70年代初頭までジリオラ・チンクェッティにサンレモ音楽祭出場曲を提供していたピラートですが、72年の夏のディスク・フェスティヴァルに出場するジャンニ・ナザーロ (Gianni Nazzaro)に“なんて美しい君 (Quanto è Bella Lei)”を書きました。この曲が優勝し、72年年間16位になる特大のヒットになります。さらにこの年ナザーロのカンツォニッシマ出場曲“涙の日々(Vino Amaro)”も提供しました。 作曲家としての仕事が忙しくしばらくレコード製作から遠ざかっていましたが、73年CBSと契約し新たなアルバム「Lorenzo Pilat – Trieste Matta」を出しました。彼の生まれ故郷トリエステ方言の歌を集めたものでした。この後彼のライフワークとなってきます。 S-65477 (1973年 CBS - CBS Sugar) Lorenzo Pilat – Trieste Matta RB- 66 (1975年Record Bazaar – CBS SUGAR,) Lorenzo Pilat – Trieste Matta 1.Trieste Mia (わがトリエステ) 2.Da Trieste Fino A Zara 3.Ciribiribin Paghè Una Bira 4.Andemo A Sérvola 5.Vinassa, Vinassa 6.Ancora Un Litro De Quel Bon 7.Lassime Star Cussì 8.El Tram De Òpcina 9.No La Me Vol Più Ben 10.La Famiglia Dei Gobi 11.La Mia Mama Me Ga Dito 12.Le Mule De S. Giacomo 13.Mandeghe La Lista Al Diavolo 14.Se Meio Un Bicer De Dalmato 15.L'Inno Dei Mati 16.La Mula De Parenzo 17.L'Amor Che Go Perso S-65477 RB- 66 作曲家としてまた大きな事をしています。ジリオラ・チンクェッティと組んでサンレモのヒット曲を出しましたが、74年サンレモに早々と欠場を決めた彼女に、73年末のカンツォニッシマ用に新曲を提供しました。“太陽のとびら”でした。カンツォニッシマ決勝戦で歌い優勝します。チンクェッティは“夢みる想い(Non Ho L’eta' (Per Amarti))”以来ナンバー・ワン・ヒットが出ていなかったのですが10年ぶり2度目のNo.1になり、74年ユーロヴィジョン・ソング・コンテスト出場((“夢はめぐり来て(Si’)”で第2位)にイタリア代表となり、74年年間ヒット・ランク20位に輝く栄誉をプレゼントしました。 HIT-2124 (1974年2月25日 SEVEN SEAS - キング) 太陽のとびら (ALLE PORTE DEL SOLE)/ しじゅうからのタンゴ (TANGO DELLA CAPINERE) HIT-2124 ECR-10733 ECR-10733 (1975年5月 CAPITOL -東芝EMI) 太陽のとびら (THE DOOR OF THE SUN (ALLE PORTE DEL SOLE))/ メリー・ゴー・ライトリー (MARY GO LIGHTLY (COMO UN NINO)) アル・マルティーノ (Al Martino (vm=a)) この“太陽のとびら”を伊系米男性歌手アル・マルティーノがカヴァーし、75年ビルボード全米ホット100の17位(アダルト・コンテンポラリー部門7位)の大ヒットにしています。 “黒猫のタンゴ(Volevo Un Gatto Nero)”で知られる子供音楽祭ゼッキノ・ドーロ(ZECCHINO D'ORO)へ74年第16回に“釘にはこれ全部(Tutto Questo Per Un Chiodo)”、76年18回に“もしパンがなかったらワインはどうする?(Se manca pane e vino cosa fai?)”を提供しました。 更にピ彼はもう一つの顔も見せます。CGDのサブレーベルのダービーからMr.バンチ名でジャズ・ロックのシングル盤を出しました。何も資料がないのでジャケットを見る限り3人構成のバンドなのか、ワンマン・プロジェクトなのか分かりません。 DBR-1970 (1974年Derby - CBS Sugar) Lucille/You Can't Help Loving This World [come Mr. Bunch] DBR-1970 3114(CBS) 3114(CBS) (1975年2月 CBS - CBS Sugar) Madonna D'Amore (愛のマドンナ)/Chi Sarà La Mia Stella [come Lorenzo Pilat] 75年サンレモ音楽祭に“愛のマドンナ”で3度目の出場をしました。ピラーデではなく、世界的ヒットを出している歌も歌うソング・ライターのロレンツォ・ピラートとして。しかし歌手としては作曲家ほど力がなかったのか入賞出来ませんでした。 彼はサンレモ出場曲“愛のマドンナ”の入ったアルバムを出します。他はトリエステ方言の曲のようです。CBSで2枚目のアルバムとなります。 S-69112 (1975年 CBS - CBS Sugar) Lorenzo Pilat – La Mula RB-175 (1978年Record Bazaar – Messaggerie Musicali) Lorenzo Pilat – La Mula 1.Sto Mona De Mio Cuor 2.La "Flon Flon" 3.Molighe El Fil 4.Madonna D'Amore (愛のマドンナ) 5.Co La Facia De Sardon 6.El Consa Lastre 7.Le Galine 8.Chi Sarà La Mia Stela 9.Trieste Dormi 10.Viva Là E Po Bon 11.Iuppi Iuppi Ala 12.Zingo Piombo 13.Bertolin 14.Casa Mia 15.El Tram De Opcina In American 16.A Volte Basta Un Moto 17.In America Voio Andar 17.a.La Dona Xe Come Una Vipera 17b.Bechi De Qua, Bechi De La 18.Le Done De Inverno E D'Estate S-69112 RB-175 ピラートはMr.バンチ名でアルバムとシングル盤を出しています。しかしその後のMr.バンチの消息は分かりません。 DBR-69101 (1975年Derby - CBS Sugar) Mr. Bunch's Contaminating Rock [come Mr. Bunch] 1.The Famous Brest 2.Bird Dog 3.Let Us Pray And Trust In Him 4.Twenty Flight Rock 5.Mule Skinner Blues (Il Blues Del Mandriano) (ラバ追いのブルース) 6.Rolling And Rocking 7.The Joy Of Dreaming And Thinking 8.Cryin' In The Rain 9.Rock And Roll Doll 10.You Can't Help Loving This World 12. Good Golly Miss Molly DBR-69101 DBR-3048 DBR-3048 (1975年Derby - CBS Sugar) Let Us Pray And Trust In Him/The Joy Of Dreaming And Thinking [come Mr. Bunch] Mr.バンチは姿を消しますが、新たにラ・クァルテット・ストラーダ(La Quinta Strada)という英語で歌うバンドのリーダーとなり、シングル盤“シー(She)”を出します。ダニエレ・パーチェ作詞、ピラート作曲でした。 3882(CGD) (1975年 CGD - CBS Sugar) She/Horror [come La Quinta Strada] 3882(CGD) ラ・クァルテット・ストラーダとして77年に2枚目の枚シングル“Mamma Boogie”が出ました。この年はCBSがCGDから分離独立して、別法人CBSディスキを設立したためCBS名義とCGD名義の2種類のシングル盤が存在します。 5180(CGD) (1977年CBS - CBS Sugar) Mamma Boogie/I Believe Her [con il gruppo "La Quinta Strada"] 5180(CBS) (1977年CBS - CBS Sugar) Mamma Boogie/I Believe Her [con il gruppo "La Quinta Strada"] 5180(CGD) 5180(CBS) ロレンツォ・ピラートとしてCBSでの最後のシングル盤も出しています。 5182(CBS) (1977年CBS - CBS Sugar) Matrimonio Sbagliato/Fin Da Bambino ※ジャケット画像は顔写真画像をご参照 AN-49001 (1978年 Antenna Nord – Messaggerie Musicali) Acqua, acqua fuoco, fuoco /Buonanotte, Buon Natale AN-49001 AN-49002 AN-49002 (1978年 Antenna Nord – Messaggerie Musicali) Finanziere/Giovedì CBSとCGDの分離騒動を嫌ったのか、77年に出来たばかりの民放アンテナ・ノルドの同名のレコード子会社に移籍します。ただ販売権はCGDが持っているので、実質的な変化はなかったようです。ここで3枚シングル盤を出し、78年にプアー・カウ(Poor Cow)に移籍します。 AN-49003 (1978年 Antenna Nord – Messaggerie Musicali) Rocky Lopi Boogie/Baby I Don't Care [ジャケット画像はありません] ロレンツォ・ピラート4は次回に続きます
2018.08.03
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