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法律制定当時に想定していなかった紛争が生じた時,立法趣旨から考えて法文の意味を広げたり縮めたりして新しい法規範を作り上げ,それに紛争事案をあてはめて紛争を解決する,というのが裁判所の重要な仕事のひとつである。新株予約権発行差し止めの仮処分事件において,裁判所が,「証券取引法27条の2の立法趣旨から考えてToSTNeTシステムによって株式を大量取得した行為は違法であり,そのような威嚇的企業買収に対する対抗措置として行う新株予約権の発行は許される。」という判断を下す可能性もないわけではなかったと思う。しかし東京地裁も東京高裁も,「ToSTNeTシステムによって株式を大量取得した行為は証券取引法に違反しない」という判断を下した。その判断の根底には,私の昨日の日記にコメントしてくれた方が書いていたように,「規制の対象はあらかじめ法文で明確になっていなければ,その行為をした者が思わぬ不利益を受けてしまうことになる」という考えがあったと思う。「罪刑法定主義」という言葉を聞いたことがあるだろうか。「犯罪とその刑罰があらかじめ法文で定められていない行為で刑罰を課されることがない」という原則である。基本的人権の尊重の観点から当然のことである,ということは皆さんもわかるであろう。証券取引法の規制は刑罰法規ではないが,規制に違反していると評価されれば行政指導等様々な不利益を受ける。会社にとっては時として,刑罰よりも致命的な処分が課されることがある。やはり,「規制の対象はあらかじめ法文で明確になっていなければならない。」と考えたのだと思う。ただし,東京地裁及び東京高裁のいずれの決定でも,「ToSTNeTシステムを通じた取引についても,今後,公開買付制度の趣旨を及ぼす立法を行うことには十分に合理性がある」旨述べられている。暗に,堀江社長の手法が強引すぎるとの批判をしているのである。私個人の見解であるが,堀江社長の行為は法の網の目をくぐった極めてダークな行為である,と思う。そのようなことを思いつくこと自体,やはり頭がよく偉大な人間(但し尊敬はできない),ということになるのだろうか。他にも様々な法律上の論点はあるが,この問題は和解で片づいたことでもあり,明日からは異なるテーマの日記を書きたいと思う。 ←最後にここをクリックして下さい。
April 20, 2005
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商法や証券取引法のように,時代の進展に伴って次々と立法当時の想定を超えたことが起こってくる法律については,「法律の規定がどうなっているか」ということを知っておくだけでなく,「そのように法律で規定された目的は何か」(これを「立法趣旨」という)ということを知っておかないとわけがわからなくなる。証券取引法27条の2は,会社の経営に口出し出来る程のたくさんの株を取得しようとする者に対して,証券取引所で株を買うか又は公開買い付けで株を買うかするよう義務づけている。証券取引所での買い付けとは,取引所の会員である証券会社を通じて株を購入することであり,株式投資をしている人達が一般にやっていることである。公開買い付け(TOB)とは,ひらたく言えば,買い付け期間や買い付け価格等を一般に公開して均等な条件で株を買い集めることである。どちらの買い付け方法も,株を買い集めていることが一般投資家にわかるような買い方である。証券取引法27条の2の立法趣旨は,思いっきりひらたく言えば,「大量の株を取得して会社を支配しようとする者がひそかに株を買い集めること禁止し,強引な敵対的企業買収を防止することにある」ということになる。つまり「株を公開している以上,会社をのっとられることがあることは覚悟しているはず」という指摘は,法律的には「そのとおり」とは言いにくい。堀江社長の使ったToSTNeTシステムとは,東京証券取引所が株式の売買を拡大させるために設けたシステムで,ハイテク技術を使って一般投資家が手軽に株を取得できるシステムらしい。少額投資家が簡易・迅速に株の売り買いをするために出来た制度だととのことである(詳細は知らない)。ToSTNeTシステムも証券取引所が設けたシステムである以上証券取引所での買い付けではあるが,それは少数の株の売買のために設けられたものなので競争売買の市場ではない。したがって,証券取引法27条の2の立法趣旨を考えると堀江社長のしたことは違法ではないか,ということになる。かなり高度な法律論ではあるが,何となくおわかりいただけたであろうか。法律を全く学んだことがない人には少し難しかったかもしれない。明日の日記では,この問題について私なりの意見を書いてまとめとしたい。←最後にここをクリックして下さい。
April 19, 2005
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昨日の日記の最後の方で,「ToSTNeTシステムによって会社の経営権を左右するような大量の株式を取得するということは証券取引法が予定していなかったことである。」ということを書いた。どういうことか,以下説明したい。もし知り合いの人が自分の欲しい株を持っていてその人がその株を売りたがっているとしたら,皆さんは,直接その人からその株を譲ってもらうことを考えるのではないだろうか。公開されている株式は当然のこと,譲渡制限がなく自由な流通を保証された株式はどんな株式でも,上記のような売買は許されている。ただこのような形で売買される株式の量はたかがしれている。株の取引の大半は,一般に公開された証券取引所において証券会社を通してなされている。そこでは買い注文と売り注文のバランスから株価が形成されるという,いわゆる競争売買の株式市場である。したがって,買い注文や売り注文が大量に入っている等の情報を得るのが非常に容易であり,株主が投資判断をするための情報を得やすい公開市場であると言ってよい。そこで証券取引法27条の2第1項の規定であるが,条文は非常に難解な形になっていてわかりにくいが,要するに「買い付け後に議決権の3分の1を超える株式を有することになる場合,証券取引所で買うか公開買い付けで買うかしなければならない。」という規定になっている。証券取引法27条の2でなぜそのような規定をしたのか(これを「立法趣旨」という)というと,会社の支配権の変動を伴うような株式の大量取得について,株主が十分に投資判断をなし得る情報を開示し,あまりに強引な敵対的企業買収から身を守る機会を従来の株主に与えたものだと言われている。本日は時間の都合でここまでとし,明日の日記にゆずりたい。←最後にここをクリックして下さい。
April 18, 2005
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私事で,かなり長い間日記の更新を怠ってしまい,私のブログを丹念に読んでいただいている方々には大いに迷惑をかけてしまいました。私事の方も大方の目処がちたので,今日から気持ちを新たにブログを更新していきたいと思います。今後とも私のブログをご愛顧下さい。さて,前回の日記でどこまで書いたか忘れてしまったが,皆さんには「株式会社や株式に関する法律は,時代の進展による社会の変化が大きくて,時代に追いついていない法律のひとつである。」ということを理解してもらいたい。商魂たくましい企業家は,何とか利益をあげよう・自分の会社を大きくしようとして次々と新しい発想を生み出してくる。それによって日本経済は発展してきたのだが,次々と新しい形態の法的紛争も生じてくる。法律制定の時点では想定できなかった新たな問題点や紛争が,2年・3年のスパンで次々と発生するのである。お手元の六法があれば,商法の165条から500条までの条文をざっと見て頂きたい。この部分が,株式会社に関して規定している部分である。166条の2,168条の2・3・4,173条の2,204条の2・3・3の2・4・5,206条の2等々枝番のついた条文がやたら多いのに気づくと思う。500条までは枝番だらけであるのに,501条以降は枝番が急に少なくなる。どんな法律でも,制定される時には枝番がついた条文などない。1条・2条・3条と順番に条文が並んでいる。しかし,時代の要請から部分的に法律を改正する必要が生じた時,ある条文を書き直したり,ある条文を削除したり,ある条文に関連する新たな条文をその条文の枝番をつけて新たに追加したりするのである。商法の中で株式会社について規定している部分は,ほとんど毎年のように少しずつ改正されている。そうしなければ時代に追いついていかないのである。それでもさらに次々と想定外の新たな問題が生じてくるのである。証券取引法も同様である。今回のライブドアによるニッポン放送株の大量取得は,ToSTNeT取引(一般に「時間外取引」と言われている)によってなされた。この取引自体かなり新しい証券取引の形態であって,これによって会社の経営権を左右するような大量の株式を合法的に取得するということは,証券取引法が想定していなかったことなのである。明日の日記では,この点をもう少し突っ込んで書いてみたい。←最後にここをクリックして下さい。
April 17, 2005
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昨日の日記で書いた,「過半数の株式」「3分の1以上の株式」という数字の意味はおわかりいただけたであろうか。これらは,1株につき1票の議決権があることが前提(商法241条1項)である。それでは,フジテレビがニッポン放送株の公開買い付け(この言葉の意味は明日の日記にゆずりたい)に際し,25パーセント以上を取得しようとした。この数字の意味は何か。それは,株式の議決権についてもうひとつ重要な規定があるからである。それは,自己株式及びそれに類似する株式については議決権がない(商法241条2項・3項),ということである。ある会社(「A会社」とする)が,資産として自分の会社(A会社)の株式を持っていたとする。その株式に議決権を認めた場合には,その議決権はA会社の取締役が行使することになる。会社の業務執行を決めるのは取締役会であり,実際に社員を使って業務を執行するのは各取締役だからである。本来,取締役は株主総会で選任される。つまり,株主の信任のもとにその業務を行っているのである。にもかかわらずA会社が持つA会社の株に議決権を与えると,取締役が,自分自身が個人として持っているわけではない株式で,自分を信任することになる。自分が持っている株で自分を信任するのならいざしらず,他の株主のものである会社が持っている株で自分を信任するというのは,取締役の横暴であることはおわかりいただけるであろう。そこで商法は,会社が自己株式を取得しても(普通は取得できない),それには議決権がないとしたのである。これと同じ趣旨で,A会社が支配している「別会社B」が持っているA会社の株についても,商法は議決権を否定している。具体的に言えば,B会社の25パーセント以上の株をA会社が押さえていた場合,B会社はほとんどA会社の言いなりであると考えてよい。そんなB会社が持つA会社の株は,A会社が持っているのと変わりないと法律は考えているのである。そこで,ニッポン放送とフジテレビの問題にあてはめてみる。ニッポン放送はフジテレビの大株主である(現在はソフトバンクに貸し出されたらしいが)。堀江社長は,ニッポン放送をのっとった上でニッポン放送の持つフジテレビ株を利用し,フジテレビの経営にも参加しようとしていた。ところが,フジテレビがニッポン放送の株式の25パーセント以上の株式を押さえたことで,ニッポン放送の持つフジテレビ株の議決権が,現段階ではなくなってしまったのである。本来フジテレビの取締役の横暴からフジテレビの株主を守ろうとしていた規定が,堀江社長の横暴からフジテレビをとりあえず守った,ということになる。このように,商法やそれに関連する法律においては,法が予定していない事態が次々と起こり,毎年のように改正されているのである。これまで書いてきたことは,株式についての基礎中の基礎であり,株式会社を設立しようと思っている人は絶対に知っておかなければならないことである。明日から,ニッポン放送がやろうとした新株予約権やライブドアの時間外取引の問題点について書いていきたい。←最後にここをクリックして下さい。
March 28, 2005
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株式を公開し,証券取引所に上場している株式会社についてのみ,会社の意思に反して買収されてしまうという敵対的企業買収(いわゆる「のっとり」)が可能であることは,おわかりいただけただろうか。ライブドア問題においてマスコミは,25パーセント以上・34パーセント・過半数といった数字をあげていたのを覚えていると思う。昨日の私の日記でも「過半数」というものを出した。それらは全て,商法に根拠がある。商法で規定されている株式会社の全体像について簡単に説明しておきたい。株式会社は株主のためのものであり,その機関としては,「株主総会」「取締役会」「監査役」がある。それらの役割を大まかにイメージするとしたら,株式会社が「国」で,株主は「国民」だと思えばいいと思う。「国民主権」という言葉を聞いたことがあると思うが,,株式会社の主権者は株主なのである。そして,内閣総理大臣を頂点とする行政機関の人物を選出する「国会」にあたるのが「株主総会」であり,行政機関である「内閣」にあたるのが「取締役会」だと思えばよい。内閣総理大臣にあたるのが「代表取締役」である。株主総会の決議は,原則として,出席株式数の過半数でなされる。ひらたく言えば多数決で決まるのだ(商法239条1項)。会社の経営を決める取締役会を構成する取締役は,過半数の株式を持っていれば自分の気に入った人物を自由に選任できるのである。ただし,株主総会で重要な事項を決議するについては,出席株式数の3分の2以上の賛成が必要である。これを「特別決議」という。特別決議事項の代表的なものとしては,「定款の変更」(商法343条)「任期途中の取締役の解任」(商法257条)「営業の全部又は一部の譲渡」(商法245条)等である。つまり,これらの事項については,3分の1以上の株式を持っている者が反対すれば決議できないのである。これらの数字を,ライブドアとフジテレビの関係にあてはめてみる。ライブドアはニッポン放送の株式の過半数をまもなく取得する。しかし,現在の取締役は任期途中であり,解任は特別決議事項なので,3分の1以上の株式を持つフジテレビに反対されると解任はできない。ところが,ニッポン放送の取締役は全員本年6月に任期が満了する。その際に新たに取締役を選任するには,過半数の株式があれば自由に選任できる。そして,ライブドアが送り込んだ取締役が選任された時,ライブドアのニッポン放送のっとりが完成するのである。ただし,フジテレビもニッポン放送の株式を3分の1以上取得した。したがって,重要な事項については,フジテレビ側の賛成がないと株主総会で決議できない。少し中途半端なのっとりであり,フジテレビと業務提携する方が賢明だということになるのだ。明日の日記では,マスコミで取り上げられた25パーセントという数字の商法における根拠,及び一連の問題における証券取引法上の問題点について書いてみたい。←最後にここをクリックして下さい。
March 27, 2005
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最近のマスコミをにぎわしている話題といえば,何といっても,ニッポン放送をめぐってのライブドアとフジテレビの争いであろう。ニッポン放送の新株予約権の発行については,東京地方裁判所及び東京高等裁判所の決定でライブドア側が勝利し,ライブドアのニッポン放送のっとりが決定的となった。東京地裁の仮処分決定の全文を見たければ,ここをクリックすれば見られますし,東京高裁の抗告棄却決定の全文を見たければ,ここをクリックすれば見られます。ライブドアの堀江社長というのは,あの若さであれだけの会社の社長になった成功者ということで,SOHO起業家にとってカリスマ的人物である。また,その着想や発想・考え方や話し方が20歳代から40歳代の多くの人の心を捉えて名物社長になっている。そのためかどうかはわからないが,フジテレビとニッポンとの争いについて,インターネット上のブログの中では,堀江社長を支持する声の方が多いようである。「株式を公開している以上は,会社がのっとられることは覚悟しているはずだ。」という意見も,あちことに見られる。この問題について,本日から何回かに分けて,法律的な問題点をあげながら私の意見を書いていきたい。この問題を理解するには,言葉の理解が前提となる。私は「のっとり」という言葉を使ったが,正式には「敵対的企業買収」と言われている。「企業買収」(MアンドA)というのは,ひらたく言えば,ある企業経営者から,その企業の資産や経営ノウハウ・顧客等,営業全体を買い取ることである。酒屋を経営しているAさんから,酒屋としての営業許可・その店舗や在庫・仕入れ先や顧客との人間関係等,一切を買い取ることである。いくら買い取ろうと思っても,売ってくれなければ買い取ることはできない。したがって,個人企業の企業買収については,相手企業の意思に反して買い取る(これを「敵対的企業買収=いわゆるのっとり」という)ことはできない。ところが株式会社の場合は,話がちがってくる。株式会社における「株式」というのは,ひらたく言えば,会社の所有権だと思えばよい。会社が10株発行していて,自分が1株持っていれば,会社の10分の1は自分の思い通りにできるのである。株式会社を設立する際に,200万円ずつ5人が出し合った時は5分の1ずつの権利がある。一方,Aが600万円,Bが200万円,C・Dが100万をだしあった時は,Aは会社の3/5を思い通りに出来る。Aが全額出したのなら,会社は全てAのものである。その権利を,「株式」というもので表現しているのである。株式会社であっても,株式を自分や共同出資者だけが持っている場合には,いわゆるのっとりの問題は生じない。自分たちの株式を売り払うことが,企業そのものを売り払うことと同じことであり,株式を売らなければのっとられることはない。しかし,会社経営の必要から多くの資金を調達するためには,株式を世間一般に公開して多くの人に投資してもらう必要がある。証券取引所に上場し,世間のたくさんの一般の人から投資を募って資金調達をし,会社を大きくしようとするのである。証券取引所に上場するためには,様々な制限がある。株式の譲渡を制限することができない,上位10人の株主の株の合計が一定の割合を超えてはならない,等々である。証券取引所では,自由に流通する株式,正当な自由競争のもとで価格形成される株式のみを扱い,一般投資家を保護しているのである。そこで,企業の過半数の株をひそかに買い集めて株主総会に乗り込んでいく,ということが生じる。これが,敵対的企業買収(いわゆる「のっとり」)である。明日の日記から,商法及び証券取引法の規定について書いていきたい。←最後にここをクリックして下さい。
March 26, 2005
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刑事裁判において審理が終了すれば,判決が宣告される。大人の犯罪のすべて,及び14歳以上の少年犯罪の一部(家庭裁判所から逆送されてきた事件)が,刑事裁判で審理される。刑事裁判においても,被告人が少年ならば刑が多少軽減されている(例・18歳未満の少年は何百人の人を殺そうと死刑にはならない)。家庭裁判所の少年事件において,刑事裁判の判決に該たるものが「処分」である。刑事事件では,有罪か無罪か,有罪ならば刑の重さはどれくらいか(執行猶予が付くか否か),という結論だ。ところが,少年事件はいささか複雑である。刑事事件の無罪に該たるものとして,「審判不開始」と「不処分」というものがある。これらの厳密な意味での違いは省略するが,いずれも何らの処分をされないという意味では同じである。少年に非行事実(犯罪を犯した場合に限らない)がない場合に,このどちらかの決定がなされることは当然である。刑事事件と異なる点は,仮に非行事実があったとしてもそれが軽微であって,少年の置かれている環境から,要保護性が認められない場合にもこれらの決定がなされるのである。児童福祉法の対象となる18歳未満少年について,少年の環境等からみて児童相談所等の児童福祉機関による保護が適当だと考えられたら,児童相談所等への送致決定がなされる。例外的処分である。また,刑事裁判が相当だと考えられたら検察官送致(逆送)の決定がなされる,ということは何度も書いてきた。少年事件において,刑事裁判の有罪に該当するものが保護処分である。これは,非行のある少年に対し,性格の矯正及び環境の調整を目的としてなされる処分である。保護観察と少年院送致に大別されるが,いずれも少年に刑罰を与えようとするものではなく,少年の改善・更正のために少年を適正な環境に置こうとするものである。保護観察が,少年を保護司の監督下においた上で,通常の社会生活をさせる処分であるのに対し,少年院は少年を教育しなおすための収容施設である。これらの保護処分は刑罰ではないので,前科はつかないのだ。以上,少年事件の手続きを大まかに書いてきた。現在,少年の凶悪犯罪がマスコミをにぎわせている。少年犯罪の被害家族の権利をどう守るか,ということも大いに議論されている。少年法の見直しの議論もさかんである。次世代を背負ってたつ少年達をりっぱな人間に育てることは,我々大人の責務である。家庭裁判所も,少年の教育の一翼を担っているのだ。←最後にここをクリックして下さい。
March 24, 2005
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家庭裁判所の少年事件では,原則として14歳以上20歳未満の少年について審理される。家庭裁判所の少年事件について,大人(「刑事処分相当」として逆送された少年を含む)の刑事裁判と対比しながら論じてみる。刑事裁判では,「構成要件該当性」「違法性」「有責性」がそれぞれあるかどうか審理される。法学部を卒業した人ならある程度わかるかもしれないが,普通の人はちんぷんかんぷんであろう。ひらたく言えば次の3点が審理される。第1に,刑罰法規に触れる行為をしたかどうか。第2に,その行為が正当防衛のような法律上許される行為ではないのかどうか。第3に,その行為を犯す際に普通の思慮分別があったかどうか。刑罰法規に触れる行為をしていなければ,いくら反社会的な人間でも刑事裁判にかけられることはない(これを「罪刑法定主義」という)。また,いくら刑罰法規に触れる行為であっても,正当防衛のような法律上許される行為ならば「違法性なし」として処罰されないし,精神的にわけがわからなくなって犯した犯罪も「責任能力なし」として処罰されない。家庭裁判所の少年事件では,少年に「非行事実があるかどうか」が審理される。非常に漠然としている。刑罰法規に触れる行為をしている少年はもちろん,犯罪を犯しそうな危ない少年(ぐ犯少年)も「非行事実あり」とされる。そこでは,違法性の有無や責任能力の有無は原則としてほとんど考えない。それがあるとして次に審理されるのが,「要保護性」があるかどうかである。その少年の現在の性格・環境からして、そのまま放置すれば将来再び非行にはしる危険性があるかどうか,といったものである。この「要保護性」があるかどうかが審理される点が,刑事事件と最も異なっている点である。少年の性格・環境を調査し,なぜその少年が非行にはしったかをつきとめ,良い環境のもとで少年をたたきなおそうとしているからである。ここで大活躍するのが,皆さんもドラマ等でよくご存じの,家庭裁判所調査官である。それこそ,少年の生まれ育った家庭環境から学校の環境等,非常に緻密に調査した上で,心理学・社会学的検討を加えた報告書が作成される。まことに頭の下がる仕事であると感服させられる。明日は,少年に対する処分(刑事裁判では刑罰に該たる)について書いた上で,少年犯罪についてまとめてみたい。←最後にここをクリックして下さい。
March 22, 2005
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少年の犯罪であっても,刑事処分相当ということになれば,大人と同じく刑事裁判で裁かれる。これを逆送という。14歳未満の少年は,刑罰を科されることはないので,逆送されることはない。14歳以上の少年は,一旦家庭裁判所に送致されて審理された結果「刑事処分相当」という判断を家庭裁判所が下した場合にのみ,例外的に逆送されて刑事裁判されることになる。16歳以上で少年で殺人等の重大犯罪を犯した少年は,家庭裁判所で審理すべきという判断を家庭裁判所が下さない限り,原則として逆送される。ここでは,原則と例外が入れ替わるのである。皆さんのほとんどの方は,家庭裁判所の審判より刑事裁判の方が厳しい裁きである,と感じていると思う。確かにそのような一面もある。公開法廷で審理されるし,有罪となれば原則として刑罰が課されて前科もつく。しかしその反対の性格もあるのだ。家庭裁判所の審判は,刑事裁判ほど,少年が犯罪を犯したかどうかを認定する手続きが厳格ではないのである。犯罪を否認している少年にとっては,家庭裁判所の審判の方が厳しい裁きなのである。家庭裁判所の審判手続きでは,少年が犯罪を犯したかどうか(非行事実)の認定と同じくらい,あるいはそれ以上に重要な仕事がある。少年を,現在より良い環境で教育しなおして立派な人間にたたきなおす必要があるのか否か(要保護性)の認定である。明日の日記では,要保護性について多少掘り下げて書いてみたい。←最後にここをクリックして下さい。
March 18, 2005
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昨日の日記の内容がごちゃごちゃしてしまったため,わかりにくかったかもしれない。20歳未満の少年を,さらに年齢で次のように分けるとわかりやすいかもしれない。1 14歳未満の少年 犯罪を犯した少年も危険な少年も,基本的には児童相談所で処分される。2 14歳以上16歳未満の少年 危険さが最もあいまいな「不良少年」は,児童相談所で処分される。 危険さが多少はっきりしている「ぐ犯少年」は,児童相談所と家庭裁判所のどちらで処分されることもある。 犯罪を犯した少年は,家庭裁判所で処分される。3 16歳以上18歳未満の少年 16歳未満の少年とほとんど同じだが,殺人などの重大犯罪を犯した少年は原則として刑事裁判で裁かれる(これを「逆送」という)。4 18歳以上の少年 児童福祉法が適用されないため,児童相談所で処分されることはない。すべての少年が家庭裁判所で処分され,殺人などの重大犯罪を犯した少年は原則として刑事裁判で裁かれる。刑事裁判→家庭裁判所→児童相談所の順で,保護者的な機能が強くなってくる。つまり,「悪いことをしたので罰を与えよう」という考えが小さくなり,「少年の周囲の環境を整備して,立派な人間にしてあげよう」という考えが強くなる。このことから,家庭裁判所においての少年審判というのは,悪いことをする少年に罰を与えながら少年のまわりの環境整備をして教育しなおす,という中間的なものだということがわかるだろう。ある意味では,中途半端で幅広い分野をカバーしなければならない制度である。ニュースで取り上げられる少年犯罪は,家庭裁判所で審判される少年事件の中のほんのひとにぎりにすぎない(数の上だけでなく,種類においてもである)。その上,少年犯罪により被害を受けた者やその家族の心情をも考慮する必要がある。裁判所でやっていることの中でも非常に難しい分野であり,法律家の知識だけではとてもまかないきれない。教育者や心理学者や社会学者の知識も必要なのである。明日の日記では,今日の内容をさらに深めて書いてみたい。
March 15, 2005
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個人的事情により,久々の日記更新となった。私のブログへのアクセス数は元々少なかったが,さらにアクセス数が減ってしまい,寂しいかぎりである。見捨てないで下さい。家庭裁判所で審判される少年として,「ぐ犯少年」というのがいることは前回の日記で書いたとおりである。もちろん,「ぐ犯少年」も「少年」というからには20歳未満の者であるが,それ以外に年齢による制限はない。少年法において,家庭裁判所において審判される少年として,罪を犯した少年(これを「犯罪少年」という)があげられている。罪を犯すおそれのある少年が審判されるわけだから,犯罪少年は当然である。犯罪少年も「少年」でって20歳未満であるが,これは14歳以上の者に限られるのだ。14歳未満の少年は,どんなことをしても処罰されない(刑法41条「14歳に満たない者の行為は罰しない」)ので,刑罰法規に触れる行為をしても「犯罪少年」とは呼ばれない。14歳未満の少年で刑罰法規に触れる行為をした少年は,「触法少年」という。この「触法少年」は,基本的には,児童相談所等の児童福祉機関の監督下におかれてその措置にゆだねられる。児童福祉法という法律が適用されるのである。少年法が適用されて,家庭裁判所で審判されるのは例外中の例外である。皆さんは,「不良少年」という言葉を聞いたことがあるだろう。一般に使われているこの言葉の意味はともかく,法律的には,この言葉は児童福祉法上の言葉である。18歳未満の少年で,「不良行為をなし,又はなすおそれのある者」ということになっている。「ぐ犯少年」よりも,さらに漠然としている。児童福祉法は,そのような不良少年を,児童福祉機関の監督のもとに保護し教育しようとしているのであり,決して罰を与えようとしているわけではない。だからこそ,このような曖昧な内容が法律で規定されるのである。結局,少年法が適用されて家庭裁判所で審判される少年は,「ぐ犯少年」と「犯罪少年」だということになる(触法少年は例外なので考えないことにする)。明日の日記では,ぐ犯少年と犯罪少年の審判手続きについて書いてみたい。
March 14, 2005
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少年が犯罪等を犯した場合,その少年は家庭裁判所の審判に付される。このことは皆さんだいたいご存じであろう。家庭裁判所での「少年に対する審判」は,地方裁判所での「被告人に対する刑事裁判」あたる。ところで家庭裁判所というものは,「少年の健全育成」と「家庭の平和」を目指して,「少年に愛を・家庭に光を」というキャッチフレーズのもとに,第2次世界大戦後に出来た裁判所だそうである。「このような設立趣旨からして,他の裁判所に対するイメージだいぶ違う」と感じる人が多いのではないだろうか。ところで,家庭裁判所で審判される少年の事件(これを「少年保護事件」という)は,犯罪を犯した少年についてだけではない。犯罪を犯すおそれのある少年(これを「ぐ犯少年」という)は,いまだ犯罪を犯していなくても,家庭裁判所で審判される。ここが,大人の場合と決定的に異なっている点である。「ぐ犯少年」について,少年法の規定をそのまま書いてみる。次に掲げる事由があって,その性格又は環境に照らして,将来,罪を犯し又は刑罰法規に触れる行為をするおそれのある少年。イ.保護者の正当な監督に服しない性癖のあること。ロ.正当の理由なく家庭に寄りつかないこと。ハ.犯罪性のある人もしくは不道徳な人と交際し,又はいかがわしい場所に出入りすること。ニ.自己又は他人の徳性を害する害する行為をする性癖のあること。なんとも,あいまいな内容の規定だと思うだろう。意味のとり方しだいでは,どんな少年も「ぐ犯少年」になってしまう。もし大人がこのようなあいまいな事由で刑事訴追されたら,人権侵害もいいところである。少年に対しては,なぜこのようなしくみになっているのか。それをひらたく言えば,「少年達をりっぱな大人に育てあげるのは,大人達が作る社会の責任だ。」と考えられているからである。大人が,このまま放っておいたら堕落してしまうような状況になっているとしても,世間や他人が介入したりはしない。自己責任ということで冷たく突き放している。その反面,大人たちは自由に行動できる。反対に,少年達に対しては,悪い人間にならないように守ってあげようとして,多少の自由を奪っているのである。親が,かわいくて仕方がない娘に「悪い虫」がつかないように厳しい門限を設ける,というのが世間ではあるだろう。その親は,ある意味では娘をかわいがっていると言えるが,ある意味では娘を信用していないのである。少年法の「少年の健全育成」という理念の裏には,「少年を守ってあげよう」という考えと「少年を完全には信用できない」という考えがあるのだ。明日も,家庭裁判所での少年保護事件の対象となる少年について書いてみたい。
March 9, 2005
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最近,少年・少女による犯罪が世間を騒がせている。少し前には,長崎での小学児童による児童殺傷事件が世間の耳目を集めたし,最近では,大阪での17歳少年による小学校教諭殺傷事件が世間の注目を浴びた。そのような事件を起こす少年達にはどのような事情が作用していたか,ということについては児童心理学者や社会学者がさかんに研究している。また,裁判所の中にも家庭裁判所調査官という心理学等の専門家がいて,事件を起こした少年の個別事情について調査している。家庭裁判所調査官という仕事は,「家裁の人」という番組で有名になり,裁判官を除いて,私たち裁判所職員の中で最もポピュラーな仕事なのであえてここで書く必要はないでしょう。家庭裁判所調査官の方のブログを見たければ,ここをクリックして下さい。児童心理学等について全くの素人である私には,少年犯罪が起きる背景事情やそれらを未然に防止する手段等についてはとても書けない。その点については,心理学者や家庭裁判所調査官の人の書物なりブログを読んでもらいたい。ただ,法律的な観点からひとつだけ言えることがある。すなわち,大人の犯罪については,通常,犯罪を犯した人の責任だけを考えていれば良い。しかし,少年犯罪については,その少年のまわりの大人の責任も考えなければならないのだ。このことは,誰しも感覚的にわかると思う。例えば,小学生が万引きをした場合,まずは親等の保護者に連絡するだろう。「あなたは子供にどんな教育をしているんだ」等と親に対して堂々と説教をする警察官もいると思う。万引きなどしないようにしつけなかった親を非難しているのだ。このような根本的な違いから,大人の犯罪と子供の犯罪には,裁判手続きにも様々な違いが生じてくるのである。明日から,少年犯罪の裁判手続きについて,大人の犯罪の裁判手続きと比較しながら,日記を書いていきたいと思う。ただ,実は私は少年事件を担当した経験が全くないので,誤解があればご指摘いただきたい。←最後にここをクリックして下さい。
March 7, 2005
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昨日までのこのタイトルの日記を読まれた方の中には,「こんな話が裁判所と何の関係があるのか」と感じた方が多いのではないかと思う。昨日までに書いた内容というのは,金融関係に勤めている方であれば,入社2年目の新人さんでも知っているようなごく初歩的なことだと思う。しかし,一般の人はあまり知らなかったことも多いのではないだろうか(私も最近まで知らなかったことが多くある)。銀行というのは,我々の日常生活には非常に身近なものである。しかしその実態は,一般の人にはそれほど身近ではないのである。そのような銀行と裁判所を絡めた日記となると,さらに一般の人からは読まれないブログとなってしまう。まずは銀行について,初歩的なことを書いてみた。さて,ペイオフが解禁され,銀行が破綻した場合に元本1000万円を超える預金について保護されないことがあるということになった場合,どんな争いが裁判所に持ち込まれることになるか。以下に書く内容は,私の推測にすぎない。元本1000万円というのは,預金者1人あたりについてである。しかし,現実の銀行預金というのは,預金名義人と実際の預金者が一致していなことが多いのではないだろうか。ごく普通の家庭でも,小学生にもなっていない子供名義で何百万円という預金をしていることは多い。実際には3600万円の預金はすべてAさんという人の預金であったが,預金名義人だけが,名前だけ借りた他人を含む4人に900万円ずつ分けられていた,という場合が考えられる。金融機関が破綻した場合,金融庁から金融整理管財人という者が派遣され,銀行の財務状況を調査する。調査の結果,4人の名義に分けられている3600万円の預金は実質的には1人の預金であると認定した場合には,2600万円については凍結して財務状況に応じて払い戻す旨通知する。その通知を受けたAは,これら4口の預金が保護を受ける預金であることの確認を求めて,金融整理管財人を相手取って提訴してくるのではないかと思う。また,今までは金融機関が破綻しても預金が全額保護されるため,一般の預金者は銀行の経営がどのようになされていたか等あまり気にしなかった。しかし,今後は銀行破綻によって損害を受けた預金者が,破綻した銀行の経営実態を調べ上げ,放漫経営をした旧経営陣を相手取って損害賠償を求めて提訴してくることも十分考えられる。今後一般預金者は,銀行がどんな経営をしているかについてもっとよく知った上で,銀行をよく監視しなければならないのである。←最後にここをクリックして下さい。
March 5, 2005
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一般に会社が破産した場合,破産管財人が(大抵の場合は弁護士から)選任され,会社の資産をお金に換えていき,そこから手続きのために必要な費用を差し引き,残ったお金を債権者に分けていく。このような一般の破産手続きは,裁判所の監督のもとに行われるのが通常である。このような手続きでは大抵の場合,債権の半分以上,場合によっては債権全額が戻ってこないのである。預金も銀行に対する債権であり,銀行の破綻で預けた預金が戻ってこないような事態が生じれば,世の中が混乱してしまうことはわかるであろう。それこそ,安心して銀行預金ができなくなってしまう。そこで,昭和46年から出来た制度が預金保険制度である。集めた預金には自動的に保険がかかり,預金の一部が保険料として預金保険機構に支払われているのである。銀行が破綻した場合,裁判所の監督のもとに行われる破産手続きは行われない。金融庁が金融整理管財人なる者を選任し,じっくりと時間をかけて金融機関を整理していく。そしてお金の足りない分については預金保険機構から保険金が支払われ,預金者の預金が保護される,というしくみである。本来「ペイオフ」というのは,銀行が破綻した際に預金保険機構から保険金が支払われることをさしていたのである。これまでは,銀行が破綻した場合には預金は全額保護されてきた。不足分をすべて預金保険機構からの保険金でまかなってきたのである。しかし,平成17年4月から,当座預金等の決済用預金を除いた一般預金について,元本1000万円までとその利息は全額保護するが,それを超える部分については破綻した銀行の財務状況に応じて払い戻す,ということになる。場合によっては預金が一部戻らなくなる場合が生じ得るのである。このように,銀行が破綻した場合に預金の内の1000万円を超える部分が一部カットされる事もあり得る,という意味で「ペイオフ」という言葉が現在一般に使われているのである。これまで裁判所とは何の関係もなさそうなことばかり書いてきた。どこで裁判所と結びつくのか,という疑問があるだろう。明日の日記では,ペイオフ解禁によってどんな訴訟提起がなされる可能性があるかについて書きたい。←最後にここをクリックして下さい。
March 4, 2005
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企業の公益性という言葉を聞いたことがあるだろう。非常に漠然とした曖昧な言葉である。公益性とは何か,と聞かれて明確に答えられる人は少ないのではないだろうか。公益性のある企業に対しては,お上からの厳しい監視・監督がある反面,お上からの保護が与えられている。いわゆる,規制というものである。企業だからといって好き勝手に経営することはできないが,他の企業が同じことをしようと思ってもなかなか出来ない。「公益性とは何か」という点はさておき,預金取り扱い金融機関である「銀行」が公益性をもっていることは誰も否定しないであろう。昨日の日記で書いた,「銀行発展の歴史」からみても,設立当初から公益性をもつ企業として銀行が扱われてきたのである。銀行の検査・監督を行うのは金融庁である,ということは以前の日記で述べた。平成10年6月以前は大蔵省が検査・監督をしていたのである。平成10年6月以前の大蔵省は,国の財政全体をにぎり,金融制度について企画立案し,さらに全国の金融機関や証券会社・保険会社の検査・監督を行っていた。このように大蔵省は強大な権限を持っていたのである。「東大出のエリート官僚と言えば大蔵官僚」と考えは,この権限の強大さからきている。そのような行政機構に対する批判のひとつとして,「財政と金融の分離」ということが言われるようになったのである。平成10年6月以降様々な省庁改編を経て,平成13年1月以降は,内閣府の外局として設置された金融庁が,財務省(旧大蔵省)から独立して,金融制度の企画・立案及び金融機関の検査・監督を行うようになったのである。金融庁が現在行っている金融行政の最大の眼目は,金融システムの安定と信用秩序の維持である。バブル崩壊後に急速に広まった金融不安を解消することが当面の最大の目標なのである。それが実現できなければ,今世間で言われているペイオフ解禁は絶対に実現しないからである。その金融行政の具体的なものとして代表的なものは,自己資本比率規制・資本増強制度(いわゆる公的資金注入)・破綻制度の構築という3つだそうである。前の2つはかなり専門的でよくわからない。明日の日記では,ペイオフとつながる「破綻制度の構築」について書いていきたい。←最後にここをクリックして下さい。
March 3, 2005
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明治以降の日本の金融がどのような歴史をたどったのか。ごくごく基本的なところは知っておいた方がいいと思う。金融機関がどんなものかを知る上で,ある程度の歴史的知識は必要なのだ。銀行の原型は江戸時代の両替商である。今でも銀行の看板にはその文字が見られる。その機能をおおまかに言えば,市中に出回る金銭の管理であったと言える。その両替商のやっていたことをした上で貨幣や紙幣を発行する機関として,国立銀行(ナショナルバンク)が,明治時代に次々と出来ていったのである。できた順に番号が付けられていったくらいである(114番目のナショナルバンクが,百十四銀行だったらしい)。その後,貨幣や紙幣の発行機能を日本銀行に集中させ,その他のナショナルバンクは民間に払い下げられて普通銀行になったのである。第二次世界大戦後日本を経済復興させるため,間接金融による重点配分という手段が採られた。金融機関への資金調達に予算を重点的に配分した上で,すべて銀行からの貸し付けという形で,民間企業の設備投資等の事業資金が調達された。つまり,昭和30年代及び昭和40年代の日本は,銀行を中心に経済発展していったのである。この時代に,銀行は絶対に倒産しない」という神話(銀行不倒神話)が生まれたのである。ところが昭和50年代になり,民間企業の設備投資も飽和状態に達する。市中経済が,それほどの設備投資資金を必要としなくなったのである。この時期は,銀行冬の時代と呼ばれている。そこで,昭和50年代後半になって銀行は,新たな融資先展開をはかる。そのために銀行は過剰に融資をし,それによって不動産及び株式等への投資のために資金が過剰に流動する時代(いわゆるバブル)が到来する。しかしその後バブルが崩壊し,地価や株価が下落して担保価値が下がり,不良債権が増加する。それに伴って,銀行による損失補填や総会屋への利益供与が明るみに出て,金融機関への世間の非難が集中するようになる。このような経緯を経て,平成9年頃から倒産する銀行が発生しはじめ,いわゆる金融不安が起きるようになったのである。現代のこの金融不安を解消し,金融システムの安定及び信用秩序維持が最大の課題となってきたのである。明日の日記では,金融システムの安定及び信用秩序の維持のための金融行政について書いてみたい。←最後にここをクリックして下さい。
March 2, 2005
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平成16年3月末日現在,日本全国で預金取扱金融機関として金融庁に登録されているのは,主要行(いわゆる都銀)が11・地方銀行が64・第2地銀が50・信用金庫が306・信用組合が181の計612行である。それ以外に,いわゆる貸金業者というものがある。貸金業者は,内閣総理大臣又は各都道府県知事の登録を受ける必要がある(貸金業の規制等に関する法律3条)。平成16年3月末現在,内閣総理大臣の登録を受けている貸金業者は全国で839,各都道府県知事の登録を受けている貸金業者は全国で2万2869である。ただしそれ以外に,実態の把握できない無登録貸金業者は山ほどあるらしい。こんなことは知っていても話の種くらいにしかならないだろう。ただ,これだけ正確な数字が瞬時にして出てくる(別に私が出したわけではないが)ということからして,金融機関が国からいかに厳しい監視・監督を受けているかがわかるであろう。銀行のような金融機関で働く人は,物の見方・考え方等において,私たち公務員とあまりかわらないと考えて差し支えないと思う。金融機関を監督する総元締めは,平成13年1月6日に内閣府の外局として設置された金融庁である。金融庁という機関がどんなものか興味のある人は,ここをクリックしてみて下さい。ただし各地方における民間金融機関等の検査・監督等については,金融庁長官の委任を受けてその指揮監督の下に,財務省(旧大蔵省)の地方支分局である財務局で行っている。財務局のホームページについてはここをクリックすれば見られます。私の住む近畿地方の金融機関を監督しているのは,近畿財務局である。近畿財務局が監督している近畿2府4県の金融機関は平成16年3月末現在で,主要行(いわゆる都銀)が1(りそな銀行),地銀が8,第二地銀が3,その他信用金庫・信用組合を併せて計73行である。これもただの話の種に過ぎない。ただ,平成12年3月末には96行あったし,平成7年3月末には142行あったのである。また今後,阪奈信金と八光信金が合併予定であるし,奈良銀行もりそな銀行に吸収合併される予定である。いかに金融機関の合併による金融再編が進んでいるかがわかるであろう。これは,本年4月のペイオフ解禁に向けて経営基盤を整えるためである。金融システムは他の何よりも安定している必要がある。「銀行のすることがだからまちがいがない」と誰しもが思うようにならなければ,誰も安心して預金できないし,世の中がうまくまわっていかないことはわかると思う。「国民からの信頼にその存在基盤を置いている」という点においても,銀行と役所は似ているのである。明日は,銀行業界の歴史について概観した上で,現状についての問題点を検討してみたい。←最後にここをクリックして下さい。
February 28, 2005
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今回から新たなテーマの日記を何回かに分けてかいていきたい。まずこのタイトルであるが,かなり大胆にタイトルをつけてしまったので,読者の皆さんに満足していただけるものが書けるかどうか不安である。「本年4月からペイオフが解禁になり,1000万円を超える預金については保護されない場合がある」ということくらいは,ニュースでよく知っていると思う。また,「様々な金融機関が合併したり業務提携したりして,いわゆる金融再編の波が起きている」ということも,ニュースでよく知っていると思う。ところで,民間人どおしの法律上の紛争(裁判)において,訴訟当事者として,あるいは訴訟の利害関係人として,金融機関が絡んでくる場合が非常に多い。簡単な例としては,通帳・印鑑を盗まれて勝手に預金をおろされたけれど,銀行側が預金権利者かどうかをきちんと確認せずに払い戻しに応じていた,という場合である。他の例としては,Aさんの長男Bが,名義だけA名義で1000万円の預金をしていたところAさんが死亡した。そこでAの次男Cと長女Dが,1000万円預金はAの遺産であって自分達に相続権があると,主張した。さらに他の例として,振り込め詐欺にひっかかってAという人物の銀行口座に800万円振り込んでしまった。その口座は,犯罪者とは全く別人の口座であり,詐欺のために一時的に利用された口座だった。同口座にはまだ300万円がおろされずに残っていたので凍結してもらった上で銀行に返還を求めたが,裁判で判決が必要だと言われた。例をあげだすときりがない。預金という債権が紛争の種になった場合には,必ず金融機関が紛争にからんでくる。さらに金融機関は,高度に公共性があるため国の厳しい監督下におかれている。したがって,紛争が生じる恐れがある預金については,必ずといっていいほど「裁判で決着がつくまで引き下ろしには応じられない」という態度をとる。「自分の預金なのになぜおろせないの」といった不満を耳にしたことがある人は多いと思う。やはり後々の法律上の紛争を避けるためにも,金融機関というのはどのような存在であって,どのような監督を国から受けているのか,金融行政については今後どのような方向性を模索しているのか,ということをある程度は知っておく必要があると思う。明日から,金融機関発展についての歴史的経緯を明らかにしていった上で,金融行政の現状と今後の展望を裁判実務をしている者の目から書いてみたい。なお,金融行政の歴史や金融行政の組織及び内容については,財務局で金融行政を担当している方の講演を私なりに解釈し,一般の人にわかりやすく書いていく。不正確な点があれば,どしどし指摘していただきたい。←最後にここをクリックして下さい。
February 27, 2005
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交通事故には「どちらにも悪いところがあるが,どちらかというとこちらの方が悪い」というような事故が多いのではないか。信号のない交差点での出会い頭の衝突事故を例にとってみる。優先道路を走っていた車は,当然非優先道路を走っていた車に対して賠償請求するだろう。しかし,優先道路を走っている車が全く悪くない,というわけではない。優先道路を走っていた車が交差点で注意して走行していれば事故は防げたとも言える。したがって,その車にも事故について多少の責任を負わせるべきということになる。それを過失相殺という。事故全体について,一方にどれだけの割合の責任があり,もう一方にどれだけの割合の責任があったか,という考え方をとるのだ。このように事故の責任を割合でとらえたものを,過失割合ということもある。裁判では,関係者の証言や警察の現場検証の調書をもとに事故当時の状況を細かく認定し,過失割合をはじきだしている。非常に精密な時間のかかる作業である。そこで,損害保険会社どおしで事故の状況に応じてあらかじめ過失割合を定型的に定めておいて,裁判になる前に示談を成立させてしまう例が多い。先の例で言えば,「非優先道路の車が7割・優先道路の車が3割」と決めておくのである。保険に入っていれば運転手が金を払うわけではなく保険会社が払うので,運転手は文句を言わず示談に応じるのだ。このような話以外に,「素因減額」という議論がある。これも過失相殺の一環として議論されているようである。普通ならかすり傷程度で終わる交通事故を起こした。ところが,被害者が外傷性ショックに対して過敏に反応する特異体質の人だったために,その事故がもとでショック死した。そのような場合,事故を起こした人の責任がどこまで減額されるか,という問題である。このことをテーマにした裁判官の研究発表を先日聞かせていただいたが,非常に難解でよくわからなかった。法律家になろうという人ならともかく,皆さんはこのような議論が専門家によってされているということだけ知っておけばよいのではないだろうか。←最後にここをクリックして下さい。
February 22, 2005
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交通事故を起こした者の弁償する額がいくらか(民事上の責任の大きさ)を決める際には,どんなことが問題になるか。まず第一が「因果関係」である。難しい言葉だが,聞いたことくらいはあるだろう。以下,実例をあげてみる。車が不注意でバイクと接触してバイクが転倒し,けがをした。手足をすりむいて出血していたが,意識ははっきりしていた。念のために救急車を呼んで病院に搬送しようとしたところ,救急車が国道上でダンプカーに追突された。そのために同救急車が走れなくなったので別の救急車を呼ぼうとしたところ,その患者は「病院に行くほどでもないから歩いて帰りたい」と言い出して国道上に出たところ,車にはねられて意識不明となった。そして別の救急車で病院に搬送されて手術をしたところ,医師が輸血する血液をまちがえたために,同患者は死亡した。このような事案で,「バイクと車の接触事故がなければバイクの運転手は死ななかった」ということは確かである。「あれなければこれなし」という条件関係はある。しかし,最初の車の運転手に対して,バイクの運転手が死んだことの責任まで負わせるべきだろうか。人によって考えは分かれるだろうが,「死んだことの責任まで負わせるべきではない」という結論になった場合には,「接触事故と死亡の間には因果関係がない」」ということになるのである。どこまで因果関係を認めるかは非常に難しい問題である。各事案ごとに,社会通念にしたがって(一般常識人の判断で)因果関係があるかないかを判断している。調べてみると,交通事故でけがをして病院に搬送され搬送先の病院の医師の医療過誤がもと死亡した場合,交通事故と死亡との因果関係を認めている裁判例は多いようである。明日は過失相殺という点について書き,交通事故関係の日記をひとまずおえたい。←最後にここをクリックして下さい。
February 21, 2005
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交通事故における民事上の責任とは,要するに「悪い方が相手に対して弁償する責任」だといった。弁償するのは,相手の損害額である。民事上の責任はすべて金に換算する。「誠意とは金だ」と言ったのはこのことである。相手を死なせてしまったのなら相手の命の代金及び慰謝料を弁償しなければならないし,相手にけがをさせたのなら治療費と慰謝料及び場合によっては休業補償分の金を弁償しなければならない。物損だけの場合は,通常は車両の修理代だけであろう。ただ,相手がタクシー等その車を使って仕事をしている場合には,修理期間中の休業補償分の金を弁償しなければならない場合もある。「人の命の値段なんてわかるはずがない」という人がいるかもしれない。しかし,人の命の値段は,年齢・職業・当時の年収や健康状態等によってだいたい定まっている。かなり複雑ではあるが,計算式があるらしい(それがどんな計算式かは私は知らないが,ライプニッツ方式といって,損害保険会社の人は良く知っている)。慰謝料の額についても,事案ごとにだいたいの相場は決まっているようである。裁判例の積み重ねで,出来上がった相場であろう。それなら「民事上の責任は計算して金額を出すだけ」と言いたいところだが,そうはいかない。問題点としてあがるキーワードは,「因果関係の範囲」及び「過失相殺」である。これらの点は明日の日記に譲りたい。←最後にここをクリックして下さい。
February 20, 2005
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最近よく日記がとんでしまっており,さらに前回の日記ではまちがいを書いてしまい(すでに訂正済み),私のブログを熱心に読んで頂いている方には,大変申し訳ないと思っています。気を取り直して,今日からがんばります。さて交通事故における「民事上の責任」についてだが,要するにこれは,悪い方が相手に対して弁償する,ということである。「誠意を見せろ」という言葉を聞いたことがあるだろう。反発があるかもしれないが,「誠意とは金である」と言ってもいいように思う。被害者又は被害者の遺族に「十分な誠意」に見せて納得させるだけの賠償金を支払って,被害者又は被害者の遺族と示談が成立,したら,民事上の責任がなくなるのは当然である。それだけではない。示談が成立したことで刑事責任が軽減されるのが普通である(いわゆる「情状酌量」されるのだ)。さらに,被害者側が加害者の刑事裁判に「減刑嘆願書」を出すことを条件に,示談する場合も多い。まずは加害者と被害者との話し合い(いわゆる「示談交渉」)が行われる。話し合いがつかなければ民事裁判となる。裁判の代理人は原則として弁護士しかなれない(例外はある)。示談交渉には弁護士以外の者を代理人にたてることができるが,報酬をもらう目的で示談交渉の代理人になること(非弁活動という)はできない。示談交渉は損害保険会社が代行しているのが通常であろう。物損事故だけの場合で,双方の車が保険に加入している場合には,保険会社同士の話し合いになってしまう例が多いのである。明日は,本日の日記に内容をさらに深めたい。←最後にここをクリックして下さい。
February 19, 2005
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3日ほど日記をお休みしてしまった。仕事が忙しくて毎日帰宅が遅くなっていたから。また,さぼりぐせがつくと書くのがおっくうになるものだ。今日からまたがんばって書いていこうと思う。人身事故を起こして業務上過失致死傷罪の罪に問われる際に他の交通違反事実がめくれあがった場合,それらの罪同士がどんな関係にあるか。おおまかに3種類あると考えてよい。包括一罪・観念的競合・併合罪である。包括一罪だとなると犯罪は一個しか成立しない。他の犯罪がひとつの犯罪に吸収されてしまう。観念的競合だとなると犯罪は複数成立する。ただ,刑罰はその中の最も重いものだけが科される。結果的には上と同じことだが,こちらの方が犯情が重いということになる。併合罪だとなると犯罪が複数成立し,刑罰もその中の最も重いものの1.5倍まで重くなる。最も重い犯罪ということである。どんな場合にどれになるか,ということを一般的に説明するのは非常に難しい。具体例でイメージをつかんでいればよい。包括一罪の代表例は,危険運転致死傷罪と飲酒運転の罪である。飲酒運転の罪は危険運転致死傷罪に吸収されてしまう。危険運転致死傷罪の条文を読めば,当然だとわかると思う。観念的競合と併合罪については,どうも私の理解が及んでいなかったようであり,しばらく時間をいただいた上で,後日に正確な具体例を書きたいと思う。いわゆる罪数論という議論であるが,2度にわたりまちがいを書いてしまったようであり,読者の皆様にお詫び申し上げると共にご指摘いただいた「とおりすがりさん」に深くお礼申し上げたい。明日からは,民事上の法律関係について書いていきたい。←最後にここをクリックして下さい。
February 16, 2005
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交通事故で刑事責任を問われるのは人身事故を起こした場合のみであり,罪名としては業務上過失致死傷罪(刑法211条)か危険運転致死傷罪(刑法208条)かのどちらかだ,と思っておいてもさしつかえない。しかし,事故を起こすことによって様々な他の犯罪がめくれあがる,ということはよくあることである。車を運転している人間も,「たたけばほこりの出る体」であることはよくあることなのだ。以前の日記でも書いたが,警察官が現認していない交通違反については刑事責任は問われない。信号無視やスピード違反をして人身事故を起こしたとしても,信号無視やスピード違反については警察官が現認していなければ刑事責任は問われない。もちろん「信号無視」や「スピード違反」のために人身事故の刑事責任(業務上過失致死傷罪等)が重くなる,というのは当然のことであり別問題である。しかし皆さんは,推理小説やサスペンスドラマで「交通事故を起こしたばかりに,完全犯罪であったはずの殺人がばれたり麻薬密売の事実がばれた」といった筋書きを見たことがあるだろう。それらの犯罪が処罰されないはずはない。そんな極端な例はともかくとして,人身事故が発生して警察官が駆けつけたところ,「運転手が酒の臭いをさせていた」とか「無免許運転だった」とか「免許不携帯だった」とか「車検切れの車だった」とか「自賠責保険に加入していなかった」といった場合である。このような場合は,事故発生後に現場に駆けつけた警察官でも現認できる。したがって,業務上過失致死傷罪又は危険運転致死傷罪以外に,さらに刑事責任を追求されることもある。その場合に,それぞれの刑事責任がどのような関係になるかについて,明日の日記で書いてみたい。キーワードは「包括一罪」「観念的競合」「併合罪」の3つである。←最後にここをクリックして下さい。
February 12, 2005
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交通事故を起こして刑事責任を追求される可能性があるのは,人身事故の場合だけであると考えても差し支えない。車の運転を誤って他人の家に突っ込んでいき,建物を損壊した場合にも刑事責任を問われる可能性はある(道路交通法116条)が,実際にそれで刑事責任が課されている例は極めて少ない。物損事故だけでも,一方の運転手に飲酒の形跡が見られて検査し,飲酒運転の罪(道路交通法117条の2)に問われるケースはいくらでもある。しかし,それは物損事故についての刑事責任を追求されているわけではなく,飲酒運転について責任を問われているのである。もちろん,故意に他人の車に自分の車をぶつけたりすれば刑事責任を追求されるが,それはもはや交通事故ではない。どちらか一方,あるいは両方の過失によって起こるのが交通事故なのである。交通事故を起こした際に適用される刑罰法規は,ほとんどが,業務上過失致死傷罪(刑法211条)か危険運転致死傷罪(刑法208条の2)かのどちらかである。業務上過失致死傷罪 業務上必要な注意を怠り,よって人を死傷させた者は,5年以下の懲役もしくは禁固又は50万円以下の罰金に処する。・・・危険運転致死傷罪 アルコール又は薬物の影響により正常な運転が困難な状態で4輪以上の自動車を走行させ,よって,人を負傷させた者は10年以下の懲役に処し,人を死亡させた者は1年以上(15年以下)の有期懲役に処する。その進行を制御することが困難な高速度で,又は・・・で4輪以上の自動車を走行させ,よって人を死傷させた者も同様とする。特に後の危険運転致死傷罪はかなり重い刑罰を科されていることがわかるだろう。これは,酒に酔う等して大事故を起こす運転者を厳しく罰するべきだとの世論を背景に,平成13年に新たにできた規定である。以下,危険運転致死傷罪で処罰された例をあげてみる。赤信号をことさらに無視して制限速度を大幅に上回る速度で交差点に進入して衝突事故を起こし,死亡させた事例。 (懲役3年執行猶予5年)運転開始前に飲んだ酒の影響により,正常な運転が困難な状態でありながら車を運転し,歩行者5名をはねて死亡させた事例 (懲役15年)飲酒酩酊し正常な運転が困難な状態で運転し,1人を死亡・1人を負傷させ,そのまま逃走した事例 (懲役8年)信号無視して時速70キロを超える速度で交差点に進入して衝突事故を起こし,1人を死亡させ2人にけがをさせた事例 (懲役4年)例を挙げ出すときりがない。明日は私事で日記を休ませていただき,あさっての日記で,さらに内容を深めていきたい。←最後にここをクリックして下さい。
February 10, 2005
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交通違反については,警察官が現認していない場合には刑事責任を問われることはほとんどない。現認していない違反事実を裁判で完全に証明するのは難しいからである。事故を起こして警察に届けて現場検証の際に目撃証言等から信号無視等の違反が判明しても,警察官はその違反を現認していない。そんな場合には刑事責任を追求することはまずないのである。ということは,そんな場合に「反則金を納付せよ」と言われることもない。反則金自体は行政処分だが,それを任意に納付しない場合には刑事責任追求ということになるからだ。ところが,事故の現場検証時に判明した違反事実をもって,過去の累積点数と併せて,免停という行政処分を科すことはいくらもある。現認していない違反事実で行政処分を科すことは普通のことだからである。但し,事故を届け出た際に一方の運転手に飲酒の形跡が見られて飲酒検知器で陽性反応が出た,というのは現認と同一である。この場合は,刑事責任も追求される。これまでの日記で,刑事責任と行政処分の関係についてかなりつっこんで書いてきたが,理解していただけただろうか。刑事責任に比べて行政処分は簡単に科されてしまうのだ。そしてそれを取り消してもらうためには,処分庁(運転免許に関しての行政処分は,各都道府県公安委員会)に不服申立をし,それでも認められない場合には行政訴訟を提起する必要がある。明日からは,交通事故の刑事責任について裁判例をあげながら日記を書いていきたい。←最後にここをクリックして下さい。
February 9, 2005
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交通違反で検挙された場合に,刑事責任は無罪になっても行政処分は取り消されないことが多い。交通事故を起こした場合にも,刑事責任と行政処分には大きな違いがある。事故を起こして警察に届け出ると,警察による現場検証が行われる。刑事事件として立件する必要があるかどうかを確認するため,及び事故態様を記録に残すためである。単なる物損事故で怪我人がいない場合,通常警察は,現場検証をして事故態様を記録に残した後に「警察は民事不介入なので,当事者同士で交渉しなさい。申請があれば,事故証明はいつでも出します。」と言う。「その事故でどちらの方が悪いのか,どちらがどれだけ弁償しなければならないのか。」というのは,民事責任の問題である。話し合いで解決すればそれで良いし,話がまとまらなければ裁判になる。民事裁判で警察の記録を取り寄せることはできるが,そのような民事上の法律紛争に警察が介入しないのは当たり前のことだ。上で警察官が言っていることは,「この事故については,どちらの運転手に対しても刑事責任を追求することはありませんよ。」ということなのだ。しかし行政処分は課されているのである。免許更新の際に,「過去~年間無事故無違反の者に対してのみゴールド免許が交付されている。」ということはご存じであろう。つまり,事故歴のある者に対しては,ゴールド免許を交付せずに青色免許を交付する,という行政処分を課しているのである。また,免許更新の際に長時間の講習の受講を義務づけるのも行政処分なのである。さらに事故の届け出があって現場検証した際に,目撃者の証言等で,一方の運転手に信号無視等の交通違反があったことが判明した場合に,警察はどのような処置をするだろうか。昨日の日記で少し書いたが,警察はその違反事実を現認していないので,その違反行為で刑事責任を追求してくる可能性はほとんどない。しかし,判明した違反事実をもってさらに重い行政処分を課してくる可能性は十分にある。最後に書いた内容は,かなりわかりにくいかもしれない。明日の日記では,その点をさらに詳しく書いてみたい。←最後にここをクリックして下さい。
February 8, 2005
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昨日の日記において,交通違反をして反則金を納付せず刑事事件となり,不起訴や起訴猶予,あるいは無罪となっても行政処分が当然にはなくならない,ということを書いた。さらに,「刑事責任がないのだから」ということで,免許停止処分等の行政処分の取り消しを求めて提訴しても,その訴訟(「抗告訴訟」という)に負けることはいくらででもある,ということも書いた。なぜそのようなことが起こるのか。抽象的な言い方をすると,刑事罰と行政処分との性質の違いのためである。刑罰や罰則を定めた法規に違反した場合には,刑事訴訟法という法律に定められた手続きに従って,裁判手続きという厳格な手続きを経て刑罰が課される。「疑わしきは罰せず」という言葉を聞いたことはあると思う。無実の者は絶対に処罰しないのだ,という理念が刑事訴訟法の根本的なところにある。一方,行政処分は制裁を与える公権力の行使ではあっても刑罰ではなく,行政上の目的を達成するために行政機関が行うこと,というに過ぎない。少し難しい言い方だがわかるだろうか。具体的には免許停止等の行政処分は,「道路上から交通違反を犯す危険性の高い者を排除する」という行政目的を達成するために,行政機関である公安委員会が行うものである,ということになる。行政機関の行う行政処分については,その処分が違法な処分であると認定されてはじめて裁判で取り消される。疑わしいというだけで行政処分が課されたとしても,その行政処分が違法とまでは言えないのである。もう少しひらたく言えば,疑わしいというだけでは刑事責任を課すことはできないが,疑わしいというだけで行政処分を課しても違法とまでは言えないのだ。なんとなく,両者の違いがわかっていただけたであろうか。さらに実際上も次のような違いがある。交通違反の刑事責任については,警察官が違反現場を実際に目撃(「違反の現認」という)しない限りは追求されないと思っておいてよい(オービス等による撮影も現認の一種である)。一方,交通違反による行政処分については,違反の現認がなくても課されることがあるのだ。明日の日記では「交通事故を起こした際の刑事責任と行政処分」について書くことになるが,その際に,本日の日記の最後に書いた点についてもう少し詳しく書きたいと思う。←最後にここをクリックして下さい。
February 7, 2005
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不幸にして交通事故を起こした場合,運転者に対しては刑事責任と民事責任が追求され,さらに行政処分が与えられる,ということを昨日書いた。ところで,刑事責任と行政処分の違いがはっきりわかっていない人が多いように思う。どちらも,お国から罰のようなものを与えられるからだ。今日の日記では,交通事故を起こした場合の話からは少し離れ,交通違反で検挙された場合の刑事責任と行政処分について書いてみる。交通違反(例えば信号無視)で検挙されたら,交通反則キップを切られて違反点数が加算されて反則金を支払うべき納付書を渡される。これらは全て行政処分である。道路交通法に違反する行為については罰則の規定があり,その罰則に規定された罰は本来は刑事責任。である。単に信号無視をしただけでも,理屈の上では刑事罰を与えられて前科者になるのである。しかし交通違反は他の犯罪に比べ,数も膨大で規範に反しているという国民の意識は低い(それは決して良いことではないと思います)。そこで交通違反に対してはまず行政処分を与え,それに従って反則金を期限内に納めた者については警察・検察が刑事訴追しないことにしているのである。もし,自分は信号無視なんかしていないと思ったのなら,反則金を期限内に納付しなければよい。そうすれば検察庁が裁判所に交通違反事件として起訴し,裁判所で有罪・無罪を争うことになる。なお交通違反事件では,刑事裁判になったとしても,よほど悪質な交通違反でない限り逮捕されたり勾留されたりすることはない。このような刑事裁判事件を在宅事件という。実際にこのような裁判で無罪になっているものはある。また反則金を納めない者について検察庁が裁判所に起訴しなかった例はいくらでもある。起訴猶予になったり不起訴処分になったりしているのである(この違いについては,またの機会に書くこともあろう)。ただ,刑事事件で無罪や不起訴や起訴猶予になっても,行政処分はなくならない。「信号無視について不起訴になったと思って喜んでいたのに,違反点数の加算はされていて免許更新の際にゴールド免許がもらえなかった。」ということはいくらでもあるのだ。そのような行政処分を取り消してもらうためには,処分庁(例えば大阪府警の警察に検挙されたのなら「大阪府公安委員会」)に対して処分の取り消しを求めなければならないのである。処分の取り消しをしてくれない場合には,処分の取り消しを求めて裁判所に訴えを起こす必要がある。このように行政処分の取り消しを求める訴訟を行政訴訟という。そして,刑事裁判では無罪になったり不起訴や起訴猶予になっていたとしても,処分の取り消しを求めた行政訴訟では負けるということ,これまたいくらでもあるのだ。何とも理解できない,という人も多いのではないだろうか。明日の日記では,この点についてさらに記載したい。←最後にここをクリックして下さい。
February 6, 2005
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「現代の世の中では,皆が交通事故の危険とは隣り合わせの生活をしている」ということは,運転免許更新の際の講習でいつも聞かされる。車やバイクを運転している者は当然のこと運転していない者も,いつ何時交通事故に巻き込まれるかもわからない。交通事故を起こせば,警察で取り調べを受けた上裁判所から呼び出されて大変面倒なことになる,ということくらいは誰でも知っているだろう。一般の人にとって,裁判所が最も身近に感じられる時かもしれない。不幸にして交通事故を起こしてしまった時には,加害者と被害者との関係に警察・検察庁や裁判所といった国家機関が絡み,さらにその中に損害保険会社が絡んで,非常に複雑な法律関係作っている。それをある程度正確に理解している人は少ないように思う。相手との示談交渉は保険会社や弁護士に任せきり,警察の言われるままに現場検証が行われて調書(「実況見分調書」という)が作られて,なんかわからないうちに罰金を払わされ,,運転免許停止や取消になって終わり,という人が多いのではないだろうか。もちろん交通事故を起こさなければ,こんなことを知っておく必要もない。しかし,どんなことで巻き込まれるかもわからない以上,ある程度は交通事故発生時の法律関係を事前に知っておくべきだと思う。私の日記では,今日からしばらくの間,交通事故が発生した際の「車両運転者の責任」という観点から法律関係を整理し,それに裁判所がどのように関わっていくかを書いていきたいと思う。車やバイクで道路を運転している最中に事故を起こした場合,運転手がまずしなければならないことは何かということは誰でも知っているだろう。まず第一に車やバイクの運転を停止し,負傷者がいればその負傷者を救護しなければならない。そして第2に道路における危険を防止するための措置(三角マークを道路に置く等)を講じた上で最寄りの警察に事故の届け出をしなければならない。道路交通法72条の規定だが,こんなことも知らなければ車を運転する資格はない。教習所で何回も聞かされているだろう。問題はその後である。おおまかに言って,運転者には民事責任と刑事責任の2種類の責任が課されると同時に,行政処分が課される。明日の日記から,これらの責任を順を追って書いていきたいと思う。
February 5, 2005
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今日は,いつもと少し趣の違った日記を書きたいと思う。誰にでも好きなアーティストやエンターテイナーがいると思う。私が好きなのは,音楽の世界では美空ひばり・小説の世界では吉行淳之介・俳優の世界では竹内力・スポーツの世界では高橋尚子である。何ともばらばらな好みだと言われると思う。アートとエンターテイメントの区別はさておき,それらは何を表現しているのか。私が思うに,抽象的な言い方になるが,社会の中の自分自身を,音楽・小説・演技やスポーツ等を手段として一般世間に表現しているのだと思う。つまり,アートやエンターテイメントは自己表現のための手段であり,その手段を通じて表現された当人の人間性に,我々ファンは引きつけられるのだと思う。ところで,大多数の裁判は,それほど傍聴人もおらず(いたとしても事件の関係者),両当事者および関係者および裁判所職員(裁判官を含む)だけで淡々と処理されていく。裁判官に対して熱く訴えかけることはあっても,一般世間に何かを訴えることはない。 ところが,世間から注目を浴びている裁判や国等の公共団体を相手にやっている裁判では,通常の裁判とは一種異なったパフォーマンスがなされることがある。 普通は,弁護士が「訴状のとおり陳述します」と言っておわりのところが,その中身を要約しさらに付け加えて口頭で説明したりする。また,原告自身が裁判所の面前で意見を陳述したりする。 それらはいずれも,形の上では裁判所に対して訴えているのだが,実質的には傍聴人(その中にはマスコミ関係者も含まれており,それらが一般国民に報道することも念頭にいれている)たる一般国民に向けてなされている。 法廷における争いを通じて一般国民に問題提起をし,国民世論を喚起して問題を政治的に解決しようとしているように思われる。どうみても,裁判を手段として一般世間に何かを訴えかけているとしか思えないのだ。 このような例を見ると,,裁判も自己表現の手段としてのエンターテイメントの側面を有しているような気がしてならない。←最後にここをクリックして下さい。
February 2, 2005
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「職場環境が悪い」と言って使用者に対して損害賠償を求めて訴えを提起するには,「使用者には快適な職場環境作りをする義務がある。だから,本来・・・をすべきだった。なのにそれをせずに放っておいた。」ということまで言わなければならないことは,わかってもらえただろうか。快適な職場環境作りのために,使用者がしなければならないことが法律に規定されている場合には,請求しやすい。使用者責任と安全配慮義務が,その代表だった。しかし,時代がすすんで法律でカバーしきれない部分が出てくる。言い換えると,時代の進歩に法律の制定や改正が追いつかない場合があるのだ。そのひとつが,女性の社会進出だ。現在,働く女性が急増していることは誰もが知っているだろう。女性の全くいない職場など,現在では見つけるのが難しい。となると,「男女が協働しやすい職場環境作り」ということが世の中の重要課題となり,使用者にとって重要な義務となる(「男女協働参画社会の実現」等と言われることがある)。ところが,実際にどんな職場が「男女が協働しやすい職場」なのか,はっきりと言える人はほとんどいない。あちこちの職場で,セクハラを受けて苦しんでいる人がいるのが実情であろう(これは女性に限らない)。たまりかねて裁判所に訴えを提起してくる。ところが,使用者責任や安全配慮義務といった,法律の規定ではカバーしきれない問題だ。そうなると,「快適な職場環境作りをする義務」という中身のはっきりしない義務だけを頼りに,「使用者は,本来は・・すべきだった」ということを自分で考えて裁判所で主張する以外ないのだ。具体的に自分の職場の環境を述べ,「使用者が・・していれば快適な職場であったしそれは簡単にできた。なのに放っていた。」と,自ら快適な職場環境作りのための方策を組み立てて損害賠償を求めるのだ。そのような請求が認められたケースは多々ある。具体的にどんなケースで認められたかは,別の機会に日記で書くこともあるだろう。そのような裁判例の積み重ねを経て,「事業主が職場における性的な言動に起因する問題に関して雇用管理上配慮すべき事項についての指針」という,厚生労働省の告示が平成10年3月13日に出され,平成11年4月1日に施行された。「男女が協働しやすい職場がどんな職場なのか」という今まで具体的でかったことがらが,少し具体的になったと言えるだろう。裁判所というところは,「救済を求める切実な当事者の駆け込み寺」のようなところがある(「人権保障の最後の砦」と言われることがある)。そのような切実な争いの中で,今まで具体的でなかったことがらが具体的になる,ということもあるのだ。←最後にここをクリックして下さい。
February 1, 2005
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使用者が本来すべきことをしなかったために損害を受けた,と言って裁判で損害賠償を請求する場合,使用者はどうすべきだったかを具体的に言わねばならない。それを言わずに「使用者には快適な職場環境作りをする義務があるのにこんな職場環境だ」と言っただけでは,労働組合の交渉に過ぎない。使用者の義務の中身がはっきりしないからだ。そのような訴状を書けば,裁判所から「具体的作為義務の内容とその根拠を明らかにせよ。」なんて難しいことを言われてしまう。それに答えなければ,訴えは蹴飛ばされてしまう。使用者が何をしなければならないかが法律に規定されていればわかりやすい。ひとつは民法715条の使用者責任だ。一昨日の日記でそのことは書いた。もうひとつある。労働災害を防止するための,労働者の安全・衛生における,使用者の安全配慮義務である。職場において仕事をしていることが原因で,あるいは職場環境が原因で,けがをしたり病気になったり死んだりすることを労働災害(略して「労災」)という。例えば,建設現場で仕事をしている者が事故にあってけがをすること,バスの運転手がバス運転中に交通事故遭うこと,サラリーマンが通勤途上に交通事故にあうこと,過密労働で過労死すること,これらが皆労働災害であることはわかるだろう。それだけではない。職場の人間関係がうまくいかず,そのことでストレスを感じ,それが原因で胃潰瘍になったり鬱病になったりするのも労働災害である。そのような労働災害を未然に防止するために,労働安全衛生法という法律が制定されており,使用者に対して,労働者の安全衛生に関する様々な具体的義務を定めている。ここでその義務の詳細を書くことはできないが,労働者に健康診断を受ける機会を与える義務等詳細に規定されている。また労働基準法においても,労働時間の上限や休憩時間や休暇日数について詳細な規定されている。これらの法律に規定された義務を使用者が果たしていない場合には,それを根拠に損害賠償請求できるのである。それでも損害賠償を請求できる範囲は限られる。職場の雰囲気が女性にとって不愉快なものであるとか,職場の事務室で皆が煙草を吸うの息苦しい ,と言った場合にはどうしようもない。「快適な職場環境作りをする義務」というような中身がはっきりしない義務を直接の根拠にして,損害賠償の請求は全くできないのか。その点については,明日の日記で書いてみたい。←最後にここをクリックして下さい。
January 30, 2005
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一昨日および昨日の日記の内容が理解できただろうか。かなり表現が漠然としてしまったので,理解しづらかったかもしれない。今日は,少し別の角度から書いてみる。相手に義務があるのにその義務を果たしてくれない時に,裁判所にどのような訴えを起こすか。「相手は,私に金を払う義務があるのに・・」とか「相手は,私に商品を引き渡す義務があるのに・・」というように,中身がはっきりした義務を果たしてくれない場合には,「その義務を果たせ(例えば,金・・円を払え)」という裁判を起こせばよい。しかし,「快適な職場環境作りをする義務」のように,中身がはっきりしない義務については,裁判で「その義務を果たせ」と求めても,裁判所から「具体的に何を求めるのですか」と聞かれることになる(裁判所は,「請求の趣旨を特定せよ」というような難しい言い方をしてくる)。それで例えば,「セクハラをしないように社員を教育しろ」というように求める内容を明らかにしても,中身がはっきりしないことにはかわりがないし,そんな判決が出てもあまり意味がない。組合交渉しているのと変わらないのだ。そこでもうひとつ方法がある。「使用者には快適な職場作りをする義務がある。なのに・・のような職場環境だ。そんな職場環境でずっと私は働いてきて損害を受けた。」と言って損害賠償を求める方法だ。そのような損害賠償には,「使用者は義務に違反して・・のようなことをした。だから損害賠償。」というのと,「使用者は義務に反して,・・の状況のままほったらかした。だから損害賠償。」というのがあるのがわかるだろうか。以下,例をあげてみる。「使用者は,採用や昇給にあたって,労働者を人種・信条・性別等で差別してはいけない義務がある(一応当然の前提としておきます)。それに反して使用者は,私が女性であるという理由だけで昇給で差別した。」というような損害賠償が一つ目である。これはそのままの形いい。もうひとつ。「使用者には快適な職場環境作りをする義務がある。なのに,私の上司Aは仕事中に私にセクハラをして私が不快な思いをした。」というような損害賠償だ。2つ目は,使用者が不快な職場環境をほったらかしたことについて損害賠償を請求している。こういう場合には,具体的に使用者はどのようにする義務があったのか,を明らかにする必要がある。つまり,「使用者には快適な職場環境作りをする義務があるから,本来は・・・すべきだった。なのにほったらかして私が損害を受けた。」というように請求する必要があるのだ。この「本来は・・すべきだった」という義務のひとつとして,昨日の日記で書いた「使用者責任」(社員を監督する義務)があるが,適用される範囲はかなり狭い。明日の日記では,さらに職場環境改善の方策について書いてみたい。←最後にここをクリックして下さい。
January 29, 2005
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職場の使用者に対して,「職場環境環境が悪くて損害を受けた」として損害賠償を請求しようと思った場合,どのような条件がそろっていることが必要か。一般に,使用者には労働者が快適に働けるような職場環境作りをする義務がある。そのことは,労働基準法や労働安全衛生法・男女雇用機会均等法等の法律に,使用者の義務として抽象的な表現で規定されている。ただ,使用者に対し損害賠償を求める訴えを裁判所に提起する限りは,ただ「実情がこんな職場環境だ。使用者には快適な職場環境を作る義務がある。その義務違反だ。」とだけ言ってもだめなのだ。それは組合と使用者との交渉にすぎない。「今のような職場環境では労働者が不快だ。使用者の責任と義務において何とか改善しろ。」と言っているにすぎないからだ。例えば,ある女性社員が職場で上司からセクハラを受けて不快な思いをしたとする。その場合に,女性が会社に損害賠償を請求する場合を考えてみる。まず,その上司がしたことがセクハラか,ということが難しい。同じことをされても,する人よってセクハラになったりならなかったりするからだ。一応その上司がしたことがセクハラにあたるとしよう。次に「使用者が,しなければならないことをしなかった(使用者の義務違反)」ということが,具体的に明らかにされる必要がある。つまり,使用者は具体的にどのような措置を講ずる義務があったのにその義務を果たさなかったのか(使用者の具体的義務違反),ということを言わなければならない(民事訴訟において「主張責任」という)。よく使われる規定が民法715条に規定されている「使用者責任」である。この規定をひらたく言えば,「使用者は,社員が会社の仕事をする中で他人に損害を与えないように,社員を監督する義務がある。」ということだ。会社の管理職にとって,部下の指導・育成は会社の仕事の一部といえるだろう。その管理職が,部下の指導・育成にかこつけて女性部下にセクハラをした場合,使用者にその上司を監督する義務があったのにその義務を果たさなかった,といえる場合もあるだろう。そして,「それにより精神的損害を受けた」といって自分が適当だと思う額を請求することになる。ただし,上記のような請求では,職場の同僚から休憩時間中にセクハラを受けた場合は,「会社の仕事をする中で」やったことではないので,認められなくなってしまう。また,職場の事務室内の雰囲気が女性にとって不快きわまりないような状況の時(例えば事務室内に卑猥な写真が掲示されている等),やはり女性の請求は認められない。また仮に上司によるセクハラであっても,使用者がその上司を十分に監督していたけれども避けられなかった,という場合も,女性の請求は認められない。明日の日記では,本日書いた内容をさらに掘り下げて書いてみたい。←最後にここをクリックして下さい。
January 28, 2005
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職場環境が悪く苦労している者がとるべき手段として,使用者に対して「ひどい職場環境のもとで損害を受けた」として損害賠償を求めて提訴する,というものがある。「何かと言えば金・金・金。こんな訴えを起こす人はきらいだ。職場環境が良なるように努力すればいいんだ。」と考える人もいるかもしれない。本当にそうか。一般に使用者には,労働者が快適な職場環境で働くことができるよう,可能な限り職場環境を整備する義務がある。この義務については,明日以降の日記で書いてみたい。根拠労働組合を通じて使用者と交渉したが,どうしても職場環境がかわらない。そんな場合に,先に書いた損害賠償請求が認められたらどういうことになるか。もちろん,金がもらえることによって多少豊かになり,今まで受けた苦痛がやわらぐという効果はある。しかし,効果はそれだけではない。裁判で損害賠償を認めるということは,現在の職場環境のまま今日まで放置してきた使用者側の責任を公的に認める,ということである。判決主文では「金を払え」としか言っていなくとも,その理由の中で「現在の職場環境のまま放置することは違法である」と言っている。つまり間接的に「職場環境を改善せよ」と使用者に命じているのだ。本日の新聞で,東京都職員である在日韓国人による,東京都の管理職試験の受験を拒否されたことについての国家賠償訴訟の最高裁判決のニュースがあった。記事を見るには,ここをクリックして下さい。この裁判も,管理職試験の受験を拒否されて損害を受けたとして,損害賠償を求めていたのである。結果は認められなかった。もしそれが認められていたなら,東京都に対し「日本国籍がなければ管理職試験が受けられないという現在の職場環境を変えなさい」と裁判所が命じたのと同じ結果になっていたのである。金を請求することによって,職場環境を変えることができる のである。明日の日記では,使用者は労働者にどんな義務を負っているかについて書いてみたい。←最後にここをクリックして下さい。
January 27, 2005
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世の中の職場環境は,職場内の人間関係も含めて様々であろう。自分の職場環境に満足している人もいれば,不満を持っている人もいる。私も自分の職場に対して不満はやまほどある。出来が悪いのに口うるさい上司が多い・自分より出来が悪いやつが先にどんどん昇給していく・自分の係内に常識のない同僚がいる等々である。別にこの日記で,愚痴をこぼしているわけではない。職場環境があまりにひどくそれに耐えられないという場合に,自分を雇っている者(使用者)に対して法律的に何が言えるか,という問題について考えてみたい。先日,私の日記を自分のブログにトラックバックして下さった方がいる。その方は私と同じ公務員の方で女性のようである。その方のブログは,これである。この方のブログを読ませていただいたところ,職場内でかなりひどい目にあっておられるようである。ちょっと私の職場では考えられない。私の職場では新採用職員や女性職員に対しては必要以上に気をつかっていると私は感じている。私など,へたなことを言ってセクハラと言われるのが怖いので,若い女性職員とは職場内で必要以上のことはしゃべらないようにしている(少し誇張はあるが)。ブログで嘘を書いても何の得もないので,その方は本当にあったことを書かれているのだと思う。日本の公務員の職場にこんな前近代的な職場があったのか,というのが感想である。このような人達がとるべき手段のひとつとして,労働組合を通じて「職場環境がひどいので改善してくれ」と交渉することが考えられる。職場環境を良くしよう,といういわば前向きな手段である。もうひとつの手段がある。今まで悪い職場環境のもとで働かされて損害を受けたということで,損害賠償を請求することである。ここでのキーワードは,使用者責任と安全配慮義務だと考えていただいてよい。明日の日記では,この損害賠償請求をすることの意味をもう少し掘り下げてみたい。 ←最後にここをクリックして下さい。
January 26, 2005
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様々な法律の中で,弱みにつけこむような無茶苦茶な契約について契約全体を無効とはせず,経済的に弱い立場の者に不利な部分だけを無効とするような規定を作っている。これによって,無茶苦茶な契約に従って払ってしまったものでも,払いすぎた分は裁判で取り戻せるのである。これらは,「無茶苦茶な契約は無効だけど払ってしまったら取り戻せない」とする民法の特別の定めである。そのような法律のひとつに「消費者契約法」がある。この法律は平成12年4月に成立した法律だが,事業者に比べて経済的に弱い立場の消費者を保護する法律である。「事業者」「消費者」を法律的に厳密に定義するのは難しいが,だいたいはわかるであろう。入学金や授業料を納める生徒やその家族と,それを納めさせる学校と,どちらが消費者かもわかるであろう。入学を辞退した学生やその家族は,消費者として,消費者契約法9条1項に基づいて,納付した授業料や入学金の返還を求めてくるのである。この規定によれば,その生徒が入学を辞退したために ,学校側が蒙る平均的損害額を超えて事前に納付させたものについては,その超えた部分についてのみ無効になり,それを取り戻せる。法律の規定という性格上,どうしても漠然とした表現になってしまう。具体的に,授業料と入学金に分けて考えてみたい。1 授業料について学校側があらかじめ定員より多くの生徒を合格させている場合や,時期的に再募集が可能な場合には,そもそも授業料収入という点で学校側には損害がなく,生徒は納付済みの授業料は取り戻せる。2 入学金について入学金の額が,入学手続きに要する実費の程度を越えてかなり高額な場合,それは授業料の一部前払いと考えられる。その部分については,1と同じように考えればよい。以上が私なりの分析結果である。 ←最後にここをクリックして下さい。
January 25, 2005
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昨日までの日記で,無茶苦茶な契約は無効だ,しかし無効な契約であってもその契約どおりに義務を果たしてしまえばそれをとりもどせない,ということを書いた。昨日の日記で例としてあげた,援助交際契約のような契約(難しい言い方をすると「社会的妥当性を欠く契約」)については上の考え方で問題ない。しかし,無茶苦茶な契約にはもう1種類ある。ひらたく言えば,「人の弱みにつけこんで締結した,片方に一方的に不利な契約」である。例えば,万田銀治郎という人物が金に困っている人に「10日で1割」の利息で金を貸す契約である。この契約がやはり無茶苦茶な契約で無効だということはわかるだろう。しかし,上のような考えをとれば,万田銀治郎の取り立てが怖くて法外な利息を払ってしまった人は取り戻せないことになってしう。そこで,経済的弱者保護という観点から利息制限法という法律を特別に作り,貸金契約全体を無効とはせずに,決められた利息の上限を超える利息の取り決めについて無効だとしている。つまり,契約全体は無効とはせず,契約条項の中で経済的弱者にとって不利な部分だけを無効としているのである。これは,経済的弱者を守るために,民法で定められた「無茶苦茶な契約が無効」という規定についての特別な定めなのである。そのような法律は他に,借地借家法・労働基準法・消費者契約法等様々ある。そして,「一旦納付した入学金や授業料は理由の如何にかかわらず一切返還しない」という契約については,消費者契約法という法律が問題となってくるのである。この点については明日の日記にゆずりたい。←最後にここをクリックして下さい。
January 24, 2005
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昨日の日記で,「無茶苦茶な契約」は無効であると書いた。では,無茶苦茶な契約だから無効な契約だ,ということになった契約はどうなるのか。仮に(あくまで「仮に」です),私のような中年(気持ちは青年)が可憐な女子高生と,「週1回1晩の約束で,月々のお小遣いは50万円」という援助交際契約を結んだとする。こんな契約は,「無茶苦茶な契約」だから無効である,ということは誰でもわかるであろう。お互いがこの内容で合意しているのだ,と言っても通らない。無効な契約であるということは,一方が契約上の義務を果たさなかったとしても法的手段を講じることができない,ということである。上の例で言うと,私が女子高生の体をもてあそぶだけもてあそんで金を払わなかったとしても,女子高生は私に対して金を払えと裁判で訴えても勝てない,ということである(私が児童福祉法違反等で逮捕されるということは,別問題である)。ただし反対に,契約が無効だと言っても,契約通りに義務が果たされてしまえば,それに対して法律はどうこうと問題にしていないのである。上の例で言えば,私が女子高生にお金を払ってしまった後で,あんな契約は無効だから,法律上の原因なく払った金(これを法律的には「不当利得」という)なので返せ,と言っても通らないのである。このような私の義務を,法律上は「自然債務」という,ということは以前の日記で書いたように思う。そうなると,「一旦納付された授業料や入学金は,理由のいかんにかかわらず返還しない」という契約が,仮に無茶苦茶な契約で無効である,ということになっても,その契約に従って一旦納めてしまったものは,返還請求できないことになってしまう。そこで,経済的弱者保護という理念が登場して新たな法律構成ができあがる。その点は明日の日記にゆずりたい。
January 23, 2005
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一旦納めた入学金や授業料は,仮に入学を辞退した場合にも絶対にもどってこないのか。原則として,どんな契約を結ぶのも自由である。これについては,どんな人も感覚的にわかるであろう。「契約する者どおしがこれでいいと言っているのだから,他からとやかく言われる筋合いはない。」ということである。これを「契約自由の原則」というが,実はこのことを規定した条文が民法や他の法律にない。法律書には,「これは民法の指導理念である」などと書かれている。何のことやらわからないと言う人も多いであろう。要するに,どんな契約を結ぶのも原則として自由であるという前提であらゆる法律は規定されているのだ。そして,民法や他の法律で,特に「こんな契約を結んでも無効です」という規定がない限り,この原則はくずせないのだ。と,こんなふうな法体系になっていると考えていただいて結構かと思う。そして,民法の規定の中で「こんな契約を結んでも無効だ」としている契約の1つとして,「信義誠実の原則に反する契約」や「公序良俗に反する契約」がある。なんとも漠然としているが,「無茶苦茶な契約を結んでも無効だ,という規定である」ぐらいに考えていただいてよい。わかりやすく言い換えても漠然としている(このような規定を「一般条項」という)。さて,「入学金や授業料を一旦納めれば,たとえ入学を辞退しても返してもらえない」という契約は無茶苦茶な契約だから無効だ,というのが受験生やその家族の主張となる。明日はさらに,今日の内容を詳しく書いていきたいと思う。
January 22, 2005
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今日の日記のタイトルを見た人は,司法試験や公務員試験の受験のことが書かれているのかな,と思うかもしれない。しかしながら,そんなことを書くわけではない 。現在は,小学校受験・中学受験・高校受験・大学受験のシーズン真っ最中である。私にとっては遠い昔の話だが,この時期は受験生本人だけでなく,家族も皆心労が絶えない時期であろうと思う。志望校はひとつだけであってそこ以外には受験しない,という人もいるだろうが,いわゆる「すべりどめ」の受験をする人も多いであろう。そのような人達による裁判について,今日から何回かに分けて書いてみたい。すべりどめの学校に合格して,その学校から「入学金や授業料を期限内に納めなかったら合格を取り消す」と通告される。その際に,「一旦納付された入学金や授業料は,理由のいかんを問わず一切返還しない」と書かれた「手引書」のようなものを渡される。第一志望の学校に合格できなかったら困るので,入学金と授業料として何十万円ものお金を納付する。その後,運良く又は実力で第一志望の学校に合格できた。すべりどめの学校は,お金を全く返してくれない。受験で苦労させられた後にお金で苦労させられるなんてけしからん,ということで受験生やその家族が学納金の返還を求めて訴えを提起してくる。このようなケースが,ここ1~2年増えていることは多くの方がご存じであろう。この問題点について考えるキーワードは,「契約自由の原則」「真義誠実の原則」「経済的弱者保護」だと思っておけばよい。問題となる法律は, 「民法」 と 「消費者契約法」 の2つ(特に後者が重要)だと思っておいてよいであろう。明日の日記では,上の3つのキーワードの関係を書いた上で,学納金返還を求めることについての問題点を探っていきたい。
January 19, 2005
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裁判といえば証人尋問,というくらい証人尋問はポピュラーである。目撃者の証言とか契約に立ち会ってもらった人の証言,といった証人の証言は裁判の重要な証拠になる。後々に裁判で争いになる場合に備えて,裁判所で証言してもらえる証人を作っておく,ということは現代の世の中では常日頃から考えておいた方がいいかもしれない。証人の証言は,訴訟の当事者や裁判所からの質問に答えてもらうという形で引き出すのが裁判のルールである。証人尋問という言葉が使われる理由がそこにある。その証言には信用性がないということを証明するために,様々な質問を浴びせて答えを引き出すのが反対尋問であり,裁判の中で最もドラマティックな部分かもしれない。「AがBを包丁で刺すのを見た」と証言する証人に対し,その時の状況を詳しく聞いてあいまいな証言を引き出し,その証人の証言が信用できないことを証明するのだ。それについて,実際の例をあげながら反対尋問の仕方を書いた書物があって,非常に興味深い。以下の本である「反対尋問」(フランシス・L・ウェルマン,梅田昌志郎訳) (旺文社,税込525円)その中で,偽証している証人に対し,その証人の証言が偽証であることを証明するために,弁護士リンカーンが行った尋問が記載されている部分は特に私にとっては興味深かった。 偽証している証人に対して「あなた嘘ついてるでしょう。」と聞いても「はい」と答えるはずはない。 どうするか。証人に対し「夜で近くに明かりのない林の中のこんな場所で,これだけ離れた場所からどうして被告人がピストルを撃つところが見えたのですか。」と問い,「月明かりがありましたから。」という答えを引き出す。それから,当日は月明かりのない闇夜だった,という証人の証言と矛盾する客観的証拠を突きつけるのである。詳細はこの日記では書けない。私は長年裁判所で証人尋問に立ち会っているが,上の本で書かれたようなドラマティックな尋問に出会ったことはない。それでもこの本がリアリズムを持って私の心を捉えるのは,やはり実際にあった事件をもとにしているからではないだろうか。
January 18, 2005
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以前読んだことがあり,最近読み直している書物に,以下の2冊の本がある。1 日本語の作文技術 (本多勝一著・朝日新聞社)(税込540円)2 実戦・日本語の作文技術 (本多勝一著 朝日新聞社) ↑ これをクリックして,楽天ブックス(新本)内で「実戦・日本語の作文技術」で検索をかければ現れる。 (本の画像は掲載できないが,1と似たような表紙で定価は税込の580円)いずれも日本語の文章作法に関する書物である。どのように書いたら日本語の文章がわかりやすくなるか,ということに関して非常に明快に書かれている。本多勝一という人は,朝日新聞社の新聞記者で多くの記事やルポルタージュを書いており,同人の文章は非常に明快でわかりやすい。日本語文法についての最新の研究成果(いわゆる「主語廃止論」)も随所に取り入れている。上記2冊の書物の記載の中でも,「2,実戦・日本語の作文技術」の140頁から163頁に記載されている内容については,思わず見入ってしまった。1977年に同人が,司法修習生を相手に講演した内容をまとめたものであるようだ。憲法の判例の中でも有名な,いわゆる「西山記者事件」の控訴審判決の判決文を徹底的にこきおろしている。私は仕事柄毎日のように裁判官の書く判決文を読んでいる。にもかかわらず,取り上げられた判決文は何度読み返しても理解できないほど難解である。「西山記者事件」自体は今から40年以上前の事件であり,最近の判決文は,取り上げられた判決文ほど難解ではないように思う。しかし,やはり一般の人にはかなり難しい文章には違いないようである。私には,裁判官の書く判決文をとやかく言う資格はない。しかし,一般の人に裁判所を身近に感じてもらうためにこのブログを書いている私は,もっと日本語の作文技術を勉強しなければならないと思う。
January 17, 2005
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一昨日発症した原因不明のはげしい下痢により,2日ほど日記が飛んでしまった。本日からまたがんばろうと思う。ホームページや広告で自分の商材を宣伝しようとする時,焦点がぼやけてしまってはならない。また宣伝用の言葉等も,できるだけ具体的なものにしなければならない。特に,ホームページのトップや広告の冒頭は,読者を中身に引き込めるかどうかが決まる最も重要な部分であり,最大限の工夫をする必要がある。私の高校時代からの友人T氏が,「中学受験に関する商材」と「情報企業家のためのマーケティングに関する商材」を,インターネット上で販売している。ところが,T氏の一方のホームページのサイトをいくらめくっても,もう一方のホームページにたどり着けない。リンクすら貼っていない。その理由について,T氏は以下のように言った。全く性質の異なる情報発信を同一のホームページでやってしまうと,ホームページの焦点がぼやけてしまう。また,検索にひっかかるためのキーワードの設定もそれぞれ異なる。だから完全に分離する必要がある。「Tのページ→1,中学受験のページ 2,マーケティングのページ」というような構成にするのは簡単だが,初めて訪れた人には何のことかわからない。言われてみれば当たり前のことである。SOHO起業を志している方は,絶対に作ってはいけないホームページの例として,いわば反面教師として裁判所のホームページを見てもらいたい。とにかく裁判所のホームページには,裁判所を一般の人にとって身近なものにする工夫がない。かく言う私も,力量不足でこの日記に訪問者が集まらないが,工夫だけはしたいと思っている。最後に,ある憲法学者の書いた本に載っていたものを以下に記載してみる。私の日記を,継続的に最初からずっと読んでいただいている方は,多少意味がわかるのではないでしょうか。「裁判とは,具体的権利義務の存否に関する争いにつき,法律を解釈適用して終局的解決をはかる国家作用である。」
January 16, 2005
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「裁判所のホームページが一般の人にとって非常にわかりづらい」のは,「法律に日頃縁のない人にとって法律がわかりづらい」のと原因が同じであると思う。「民法」を例にとってみる。民法の条文を開いてまず目に入るのは「権利」「私権」といった言葉である。民法の解説書を見ると,「権利とは,法によって保障された一定の生活上の利益を享受し得る地位である」とし,「公的政治的生活を規律する公法上の権利である公権と,私的生活を規律する私法上の権利である私権に分かれる」などと書かれている。上に書いたことを読んで,何人の人が「なるほど」と思っただろうか。何の実感もわかない人が多いと思う。金銭支払請求権や損害賠償請求権や土地所有権,抵当権,取消権や解除権,相続権といった様々な権利があることくらいはたいていの人はわかると思う。上に書いたような権利は,人と人とが契約したり結婚をしたり,誰かが遺言を書いたり物を作ったりする中で生まれてくるものである。それもわかるだろう。これら様々な権利をすべて含むものとして「私権」という用語用い,それに「公権」を加えたものとして「権利」という用語を用いている。多くの内容を含んだ言葉ほど,抽象的で漠然としており,その言葉の説明も概念的で中身が希薄になる。私権などと言っても,非常に抽象的で,一般の人はとても実感がもてない。民法はそれを先ず冒頭に規定している。つまり,「私権とは私法上の権利であって,大きくは物権と債権に分かれる。物権とは・・であって,それはさらに,所有権・占有権・地上権・・・に分かれる。一方債権とは・・・」というような構成になっているのが法律だと思えばよい。昨日の日記で書いた,裁判所のホームページの構成と似ているとは思いませんか。整然と美しい体系に整理されてはいるけれど,はじめて見る人には何のことかわからない。法律の構成が上で書いたような構成になるのは仕方ないのかもしれない。あらゆることがらに対応した規定にする必要があるのだから。しかし,開かれた国民のための裁判所を目指して作られた裁判所のホームページが,こんなに美しくてわかりにくいものであってよいはずがない。明日の日記では,裁判所のホームページのあるべき姿について,さらに論じたい。
January 13, 2005
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裁判所のホームページのわかりづらさは,法律のわかりづらさと相通ずるものがあると思っている。それを検証するために,全く関係のないような話から入ってみたい。歴史について全く知識のない小学4年生(歴史を習うのは5年生だったと思う)が,NHKの「新撰組」という番組を見て「近藤勇という人はどんな人だったの」と聞いてきたとする。大人はどう答えるだろうか。「1600年の関ヶ原の戦いで徳川家が天下をとって江戸幕府を開き,将軍は家康・秀忠・家光とかわっていった。15代将軍慶喜の時に倒幕運動がさかんになった。そこで幕府を守るために新撰組が結成され,・・」などと説明する人がいるだろうか。さらには,「鎌倉時代にはじめて武家政治が成立し,室町時代・安土桃山時代と進んでいき,・・」などと説明する人がいるだろうか。もしこんな説明はじめたとしても,肝心の近藤勇の説明に行きつくまでに子供は遊びに行っているだろう。説明の焦点がぼけてしまっているからである。ところが,法律の構成も裁判所のホームページの構成も,多かれ少なかれこのような形になっているのである。裁判所とはどんなところだろうと裁判所のホームページを訪れてみる。トップのページには,「最高裁のページ」「各地の裁判所のページ」という2つのリンクがあるだけである。ホームページのトップページというのは,訪問者の興味を引けるかどうかが決まる最も重要なぺーじである。しかしそのページに実質的な記載は何もないので,具体的イメージは何もわかない。次に,最高裁のページをクリックしてみる。「裁判所の案内」とか「裁判手続き」といった抽象的な言葉が並んでいるだけである。次に「裁判所の組織」をクリックしてみる。またまた「概要」とか「最高裁」だと書いてある。「ここは最高裁のページじゃなかったっけ」と言いたいところである。概要をクリックしてようやく文章のようなものが出てくる。しかし,そこでも審級制とかどこにどんな裁判所があるかといった,高校の政治経済の教科書に載っていそうなことを字間びっしりと書いてある。その他のところをクリックしても,まずは抽象的・概念的な言葉が記載され,そこをクリックするとそれについて説明があるという構成になっている(その説明もに使われる言葉も,抽象的な言葉が多い)。裁判所で働く我々ならともかく,一般の人がこのような構成のホームページを見ていても,裁判所の核心にたどり着けない。歴史を知らない小学生に近藤勇の人物像を教えるために,古代から現代までの年表を渡して説明していくようなものである。明日の日記では,今日の話をもう少し掘り下げて書いてみたい。
January 12, 2005
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私は公務員であり,ビジネス・起業については素人である。しかし,ネットビジネスをやっている方々やSOHO起業家の方々のホームページを見て,ホームページの出来の良さに感心させられる。 起業家にとって広報活動がいかに重要かということについては,論ずるまでもないであろう。いかに多くの人に自分のホームページを訪問してもらうか,その中の自分の商材にいかに注意を引くか,皆がしのぎを削っている。 何よりも,焦点がはっきりしている。自分のホームページにはどんな人が訪れて欲しいのか,自分の商材はどういう人にどのように役立つのか,非常にわかりやすい。 裁判所についても,司法制度改革が叫ばれ,「開かれた国民のための裁判所」というキャッチフレーズのもとに,裁判所を国民に身近なものにしようと様々な広報活動がなされている。 しかし,裁判所のホームページを見てわかりやすいと思う人がいるだろうか。一度,ここをクリックして,サイトをめくってみて欲しい。しばらくしていやになるように思う。 それは,書かれた中身が堅苦しいからだけではないと思う。広報活動を飯の種にしていない公務員の作った,ホームページの構成そのものに問題があるように思う。ホームページに客が集まらなくても自分の生活に影響するわけではない公務員が作っているからだ。 明日は,裁判所のホームページの構成の問題点につき,法律の構成のわかりにくさと対比しながら論じたい。
January 11, 2005
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