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最近若年層に広がる新型うつ病とは何か。こうしたタイプの人々は、気分の落ち込みよりも、疲れやすい、だるい、集中力や気力が湧かないという訴えが主であり、従来のうつ病のような自責感が目立たず、職場の帰属意識や仕事の役割意識が希薄であることが特徴に挙げられています。また一度休職に入るとなかなか職場に戻ろうとしない、休んでいても趣味の領域などには案外意欲的に取り組むといった点から、しばしばわがまま、自己中心的、他罰的な性格に起因するとみられがちです。中村敬先生は、確かに自己中心的といいうる側面もあるのですが、その原因を本人の性格に求めるべきではない、と言われています。こうした現代的なうつ病が増加した背景には、 1990年のバブル崩壊以降、若年層を取り巻く雇用・労働環境の悪化が存在するからです。このように社会的、経済的な要因が絡んでいるだけに、現代的なうつ病に対しては、休息と薬物だけではなかなか効果が上がりません。彼らは無力感から脱し、環境に対して能動的に働きかけていかれるような心理的援助が必要とされています。具体的には、次のようなことです。1 、これまでのような気ままな休養生活から脱して、徐々に行動を増やしていくこと。2 、起床、食事、活動、就床の時間を一定にして、生活リズムを整えること。3 、グループによる治療環境を利用していく事。4 、薬物は補助手段として位置づけ、薬だけで問題の解決を計ろうとしないこと(メンタルヘルス岡本記念財団 メンタルニュースno. 34より引用)私も現代的なうつ病は確かに個人の性格だけに、その原因を求めることはできないと思う。誰でも会社に入ると、ライバル会社との熾烈な競争を強いられて勝つことを求められる。それが今や日本国内にとどまらず、グローバル世界での熾烈な生き残りをかけた競争となっている。そこで求められるのは能率、効率、実績、成果、結果である。能力主義、利益優先、株主優先、実績優先、目標管理である。休む間もなく、夜遅くまで緊張を強いられる。土曜日、日曜日もあってもないようなものである。仕事を通じて豊かな人間関係を築き、自分の能力を磨き、自己実現を目指すなどという目標は切り捨てられている。そういう働き方が普通になってくると、いつの間にか健康を害して、うつ病、適応障害などの心の病に陥る。現代的なうつ病になる人は、意識するとしないにかかわらず、そういう働き方はどこかおかしいのではないか、と気づいている人であるのではないだろうかと思う。そうかといって、生活の基盤を崩すわけにもいかない。そこでやむなく、緊急避難的に有給休暇の取得、休職という道を選ぶことになっているのかもしれない。それで持ちこたえられれば良いのだが、なかなかそのようにはならない。新型うつ病に対して中村先生は入院森田療法の中で上記の4つの視点を提案されている。これらはいずれも新型うつ病から解放されるためには、大事なことばかりである。老婆心ながら、私はこれにさらに2点ほど付け加えたい。まず、今まで仕事一辺倒だった人は、生活のバランスを整えることである。仕事、家族関係、地域社会、スポーツや趣味、子育てや生き方の学習などである。これらは生きていく上において必要なものばかりであり、それらに意識や注意を向けていく必要がある。そういう気持ちを持っていると、仕事中心に偏った考え方や行動は少なくなってくると思われる。競争社会、能力主義の仕事にのめり込んでいくと、一旦躓いたとき、取り返しのつかないことになる。仕事は自分や家族の生活を守るために、ある程度止むを得ずに行っているという認識があれば、のらりくらりしながら、あるいは転職をしながらでも、なんとか仕事を続けることができるように思う。今の仕事ぶりは問題が大きいので、客観的な立場に立って批判的に見るほうがよいと思う。なおこのバランス、調和という考え方は森田理論の核となる考え方の一つである。次に、会社の株主利益第一主義という資本主義社会のあり方そのものは、人類の将来を考えたとき、破滅の方向に向かっているとしか思えない。人間を粗末に扱い自然を破壊している。人を窮地に追い込んでも特定の人たちが儲かればそれでよいというような考えはいずれ淘汰されてくるだろう。森田理論で言えば、欲望の制御機能が効かなくなり、多くの人が馬車馬のように全速力で意味もなく走り続けているような状態だ。その結果、多くの人が幸せとはほど遠く、生きることそのものがもはや苦痛になっている。本来は人間に生まれたことを喜び、日々の生活をしみじみと味わいながら、周りの人たちとの共存共栄を目指して、人生を全うできるのが当たり前のことではないのか。株主資本主義といわれるような一部の人が、どんどんと富を積み重ねていって、その他大多数の人を踏みにじっていくような社会は、おかしいしもし可能であれば修正していく必要がある。このまま欲望の暴走を放置していけば、貧富の差が拡大し、地球環境が破壊され、いづれは現存する核爆弾が使用されて、人類が最後を迎えることになるかもしれない。そういう悲惨な状況を子孫に押し付ける事は何としても避けたい。そういう問題のある資本主義社会の学習は、今後人類が生き残っていくために人類に課せられた大きな課題であると思う。 ポスト資本主義の社会が到来するとすれば、どのような社会になるのであるのか。森田理論はその点について明確な答えを差し示していると思う。私は全人類が無制限で無限大の欲望の追求を、できるかぎり制御していく方向に舵を切りなおしていくことが必須であると考えている。そのように考えて、あるものを最大限に活かしていくような生活に切り替えることができれば、馬車馬のような仕事だけに片寄った生活は見直すことができるかもしれない。
2017.04.30
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情熱大陸という番組を見た。走りの伝道師杉本龍勇さんの話だった。杉本さんは1時間も指導すれば誰でも早く走れるようになるという。杉本さんは1992年のバルセロナオリンピックの400メーターリレーのアンカーだった。その時は6位入賞している。 30歳で現役を引退し、指導者となった。そして今や指導者として引っ張りだことなっている。現在は法政大学で教鞭をとっている。これが本職である。それとは別に、ヨーロッパでプレーするサッカーの岡崎慎司、吉田麻也、宮市亮などの指導にあたっているという。杉本さんは、彼らに15メートルのダッシュをさせると走りの問題点はすぐわかるようだ。それは杉本さんが次の4つの視点から彼らの走りを分析できるからである。・股関節の開き具合。股関節の開き具合が小さいと速く走れない・腕の振りが高いか低いか。これは肩の関節が柔らかいかどうかに関係する。腕の振りが低い人には、高く振り上げ、高い位置で後ろで手を合わせる動作を繰り返えさせる。・手を上下に振る。これは走るときに体全体を使う癖をつける。・中臀筋を鍛える。このトレーニングは日本人には欠かせないという。これはお尻の両側に付いている。これを鍛えるにはまず片足にさせる。次に膝を曲げずに、軸足の中臀筋を持ち上げさせるトレーニングを行う。これを鍛えると、軸足が曲がらずエネルギーが地面に伝わり、地面からの反動で高く上がり、スピードが上がるという。杉本さんは自分のアスリートとしての経験と研究の中から、理想的な走り方のコツをつかみ、他の人に伝授しているのである。ただし、どん底のスランプに落ち込み、解決策を求めてきた人のみに対応されていた。技術のみならず、スランプで陥った岡崎慎司にはメンタル面でも強力にサポートしていた。岡崎選手は30メーターのダッシュで勝負しているのではない。動き出しのタイミングと最初の5歩のキレさえ戻れば大丈夫と励ましていた。その後の試合では、その助言が効いて大活躍していた。この話を聞いての私の感想である。神経症で苦しんでいる人たちに、的確な助言をして神経症から回復してもらう方法があるのではないか。その人をみて、症状を的確に判断し、打開策を求められれば、的確なアドバイスができる方法。その場合に、ポイントとなる点は何か。私なりに考えてみた。まず問題となるのは、その人は愛着障害を引きずっていないかどうかという点である。愛着障害を抱えている人にとっては、その修復にまず最初に取り組むことが欠かせない。愛着障害を抱えているかどうかについては、岡田尊司氏の「愛着障害」という本の中に、愛着スタイル診断テストがある。この本をみて、これを判断することである。愛着障害には、不安型、回避型、恐れ・回避型、未解決型などのタイプがある。私は不安型タイプだった。愛着障害のない方は、すぐに森田理論学習に取り組んでもよいが、愛着障害のある方はその修復が先にこないといけない。生活の発見会の集談会では、傾聴、受容と共感が重要視されている。これは、森田理論学習をするにあたって、愛着障害がある人に対して、 「心の安全基地」づくりに役立っていると思う。そういう役割を担える人を作ることが先決である。森田理論学習の前提として安定的な愛着スタイルの獲得は欠かせない。その次に本格的に森田理論の学習をして、症状のとらわれから解放されていく道を習得していく。ここで重要なことは、言うまでもなく、精神交互作用の打破、思想の矛盾の打破、生の欲望の発揮などである。そういう視点から、先輩会員は神経症に陥っている人を的確に分析し、その人たちが救いを求めて来たとき、的確なアドバイスが出来るような能力を獲得しておくことが必要である。そういうことがないと、仲良しグループや傷をなめ合うだけの烏合の衆になってしまうかもしれない。最終的には、傾聴、共感と受容という段階から、的確な指導やアドバイスへとステップアップしていくことが欠かせない。これには口で指導するだけではなく、日常生活の中での行動実践も含む。相手が強く指導やアドバイスを求めているにもかかわらず、その対応ができないということであれば、森田理論学習という会合に参加することを中止してしまう人が多発すると思う。
2017.04.29
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森田療法を積極的に支援している団体がある。公益財団法人メンタルヘルス岡本記念財団である。元ニチイの副社長、岡本常男氏が、森田療法で胃腸神経症を克服した経験から設立された財団である。財団では、一般市民向けに全国各地で「心の健康セミナー」を開催されている。すばるクリニック主催の岡山での開催はすでに9回目を迎え、今回の講師は青木薫久先生だった。今までも、伊丹仁朗先生、宇佐晋一先生、比嘉千賀先生、北西憲二先生などの講話を拝聴することができた。その他財団では、メンタルヘルス図書室で図書の貸し出しなどをされている。電話・面接相談。臨床心理士による無料カウンセリングも行われている。無料の会員制掲示板も運営されている。これは「インターネット相談室・体験フォーラム」と言われている。2016年3月末では2,773人の会員がおられる。ここに登録できる方は、神経症に悩む人、または森田療法で神経症克服した人のみを対象としている。相互扶助によるアドバイスが日々活発に行われている。男女の比率では若干女性の方が多い。年齢は30代から40代は多い。約65%を占めている。職業別では会社員は33%と最も多い。このフォーラムの特徴は参加資格を厳格にしていることである。心の問題に対して真摯に話し合い、相談し、アドバイスしあえる環境を提供している。遊び半分や批判、中傷を目的として入会するような人を極力排除するために、今現在心の問題で悩んでいる人、もしくは克服した人のみが入会できるよう細心の注意を払っている。体験フォーラムの会員は、悩みの内容から4つのグループに分かれている。普通神経症、不安神経症、強迫神経症、その他(うつ病など)です。対人恐怖症や強迫行為で悩んでいる人たちは、強迫神経症のグループに入ります。その他のグループは、うつ病、躁うつ病、抑うつ神経症、離人症、燃え尽き症候群などが入ります。体験フォーラムは、個人会員への単なる批判や中傷、あるいは個人の営業行為にあたるような投稿を防ぐために、発言内容の事前チェック制度(モニターシステム)を採用している。これは会員が発言した内容を掲示板に直接反映させずに、管理者がその内容を事前に確認する仕組みです。その内容に問題がなければ掲示板に反映させている。発言内容が掲示板に反映されるまでに、若干のタイムラグがあるのですが、不真面目な書き込みや個人的な勧誘、アピールなどを事前に排除でき、場合によってはそのような行為を続ける会員は利用停止にすることもできるので、安心して掲示板を活用することができます。その他、体験フォーラムは、森田療法の中心拠点である東京慈恵会医科大学の精神神経科のご協力のもと、月一回、会員向けにアドバイスを掲載しています。その他、年に数回を目安に、会員同士が直接集まって勉強会をしたり、意見交換、親睦を図るオフ会も実施しています。自分の住んでいる県に生活の発見会の集談会がない。あるいは交通の便が悪く、年に数回しか集談会に参加できないなど、さまざまな理由で森田の理論学習や体験交流ができない方は役に立つかもしれない。(メンタルヘルス岡本記念財団 メンタルニュースno. 34より転載)
2017.04.28
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人間の体にウイルスや細菌などの異物が侵入した場合、免疫細胞はこれらを攻撃して処理しています。免疫細胞の主力を担うのは白血球です。白血球にはマクロファージ、リンパ球、顆粒球があります。マクロファージは体内に侵入してきた細菌や異物などをキャッチすると、それを体内に取り込んで処理しています。さらに発見した異物の情報をTリンパ球やBリンパ球へ伝えます。Bリンパ球はその情報を元にして抗体を作ります。この抗体がウィルスを撃退するのです。がん細胞などはナチュラルキラー細胞が攻撃しています。このように、私たちの体内では、日々刻々白血球がウィルスや細菌と戦っているのです。私たちは意識はしていませんが、けなげにも白血球たちは命をかけて私たちを守ってくれています。もし白血球が闘いを止めて、免疫機能を発揮しなくなると、ウィルスや細菌に負けて死んでしまいます。白血球の働きから分かることは、自分の生命を危機に追いやる相手に対して、何もしないでやられっぱなしではダメだということです。生命は闘いづけることで、生き続けることが可能となるように宿命づけられているのです。これは基本的には人間と人間の関係でも同じことだと思います。力の強い人間は、力の弱い人間を力で征服して服従させようとします。いったん支配されるようになると、自分たちの築いた富や財産は収奪されてしまいます。また行動の自由はきかなくなります。支配する人の欲望の充足に奉仕させられるようになります。いつも支配者の顔色を見ながら、びくびくしながら生活するしかなくなります。そういうことにならないように、普段から対等な力を身につけておく努力が欠かせません。力関係のバランスがとれていれば、緊張感はありますが、対等の立場で話し合いをすることができます。国と国の関係もそうだと思います。ある国が武力でもって、自分たちの国を攻撃した場合、対抗手段を持たないで無抵抗だとすると、すぐに制圧されてしまいます。戦争で負けた国は悲劇です。殺されたり飲むや食わずの生活を余儀なくさせられます。被支配国になってしまうと、すべての物を失うことになることを忘れてはなりません。ですから、基本的には相手国と同じだけの力関係を保つための努力が必要です。同盟関係といっても、力の差がある場合は対等ではありません。支配-被支配の関係です。また、自分たちの生命の源となる食料を他国に依存するということは、容易に被支配国に陥いるということを肝に銘じておかなければなりません。他のものはともかく食料の国内自給の向上は安全保障上生命線となります。そうしないと自分たちの国の主権と独立を維持することができません。こういう視点で日本を見てみると、外交、軍事、食料などででアメリカに支配されています。日本とアメリカの関係は、力の弱い国同士が助け合っているということではありません。アメリカが親分で日本は子分の関係です。つまり支配国がアメリカで日本は被支配国です。外交交渉では常にアメリカが主導権を発揮していて、基本的には日本はアメリカの言いなりです。アメリカは日本を守ってやっているのだから、アメリカの命令に素直に従うべきだという考えです。今から本格的に始まる貿易の二国間交渉は、アメリカの要求に屈することになるでしょう。食料の自給率では、日本は先進国中最下位です。食料は今後、世界の人口の増加による争奪戦が始まります。安定的に今後も食料が確保される保障はありません。またいつ何時気象変動による不作に見舞われないとも限りません。それが現実となって目の前に突き付けられた時ではもう遅いのです。日本国民はその時点ですぐに生命の危険にさらされます。さらに簡単に外国に支配されるようになります。対等な立場で外交交渉する力を持ち、自分たちの国を守るということができなくなります。国の方針が間違っているとしか思えません。私たちの体内で日々行われている免疫機能に学び、人間関係や国と国との付き合い方を、今一度再検討してみる必要があるのではないでしょうか。贅沢三昧の生活に浮かれている時間はないのです。
2017.04.27
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アスペルガー症候群と診断される子供たちがいる。この子供たちは、身の回りのことをするのを覚えるのに時間がかかる。いつまでもぐずぐずして取り掛かることができない。ちょっとの間もじっとしておられず、絶えず落ち着きがなく動き回り、手当たり次第に物を掴み取っては、引き裂いたり、壊したりする。他の子供に関心を持ったり、遊びに加わったりすることがないそれどころか、周囲の子供をイラつかせる。自己中心的で、一方的に自分の主張を繰り返し、それが受け入れられないと暴力を振ったりする。相手を喜ばせようとか気に入られようとかは思わず、周囲から親しいふれあいを求められても、拒否してしまうこともある。こだわりや情緒不安定、常同行動から、奇声、逃避、自傷、パニックや暴発に至ることもある。こういう子供がクラスの中に1人でもいると先生は対応に苦慮する。親はつい「やらないといけないのに、どうしてできないの」と叱責してしまう。アスペルガー症候群の子どもたちに、親や先生が普通の子供のようになってもらいたいと考えて、接触を図るとうまく行かないようです。それよりも、その子供たちの現実を受け入れて、その子供たちの特徴を生かした教育やしつけをした場合、思わぬ能力を発揮するようなことになる。アスペルガー症候群を抱えていた人は、普通の人には無い特殊な能力を持っている場合がある。有名な人では、アインシュタイン、ビルゲイツ、エジソン、ジョージ・ルーカス、ヒッチコックなどがいる。エジソンは小学校に入学するが、学校での評価は散々なものだった。校長先生は、エジソンが「注意散漫で、空想にふけってあり、奇異な行動ばかりしている」ことを問題視していた。ついでに業を煮やし、クラスメートの前で平手打ちを食らわせて罵倒した。すっかり打ちのめされた。エジソンは泣きながら家に帰り、その後学校に行かなくなった。話を聞いた母親は、息子を連れて校長先生に会いに行くと、 「自分の方がこの子のことわかっているので、自分で教えます」と言い切って退学させた。家庭で行った教育は、 「形式的な教授法でエジソンをしばるのではなく、何でもやりたいようにやらせて、子供の想像力が存分に発揮させるようにやらせた」という。母親は時間を決めて、読み書きや算数のレッスンをしたが、それ以外は本人の興味をうまく刺激しながら、本人の自主性を引き出していった。エジソンは読書が好きで、母親が買い与えた「自然・実験哲学概論」という本は、エジソンを虜にした。挿絵が満載のこの本には、電池の作り方や簡単な実験の仕方が絵入りで紹介してあった。エジソンは、台所から実験材料をこっそり持ち出して、実験にふけるようになった。すると、母親は地下室を実験室としてエジソンに提供した。エジソンはそこで自ら学んでいたのである。これを見るとアスペルガー症候群を抱えた子供の教育は、親や先生の「かくあるべし」を押し付けるような教育ではうまくいかない。アスペルガー症候群を抱えた子供たちの特徴をよく観察し、そして何よりもその子供たちの置かれた状況を受け入れていくという基本姿勢は欠かせない。そしてその子供たちの中に眠っている隠れた能力を見つけ出して、伸ばしていくという教育に切り替えなければならない。その子供たちの問題行動にばかり目を向けて、子供を叱り付けたり排除するやり方では、その子自体も苦しいし、親や先生にもストレスが溜まるばかりである。森田理論では「かくあるべし」を少なくして、事実本位に生きていくことを学んでいくが、アスペルガー症候群を抱えた子供たちに応用できる考え方である。(アスペルガー症候群 岡田尊司 幻冬舎新書参照)
2017.04.26
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江戸時代尾張藩の武士が27年間にわたって日記を残していた。名前は朝日定衛門重章という。100石どりの武士だった。現代で言えば、主任から係長クラスである。100石どりの武士は、夫婦2人、子供1人、作人4人の家計が十分に成り立っていたという。家屋敷は250坪前後で、門があり、屋敷の周囲には生け垣をめぐらし、カヤぶき平屋建ての母屋には両親が住んでいた。別棟には本人たちは住み、野菜などは畑で自給自足であった。関ヶ原の戦いから100年も経過しており、時代は元禄時代を迎え、平和で町人文化が花開き、優雅な生活を楽しんでいた。当時の人がどんな生活をしていたのか、早速紹介してみよう。重章氏が隠居した父親の後継いで初出仕したのは22歳の時だった。最初の仕事は名古屋城の警備の仕事だった。今で言うと警備係長といった仕事だった。仕事とはいっても、勤務するのは1ヶ月にたった3日だけだった。 3人1組で9日目ごとに1昼夜の勤務だった。まずこんな勤務実態に驚いた。現代ではとてもあり得ないことである。その勤めものんびりしたものであった。ご馳走を用意して、勤務中に酒を飲んでいたようだ。ほとんど仕事らしいことはしていないのである。それでも解雇される人はいなかったという。藩庁は、藩士たちの酒を禁じることもなく黙認していたという。非番の日は、表向きは武芸、学問の自宅研修ということになっていた。実際には誰もそんなことはしない。それよりも、直属の上司や同僚たちとの交際の方を重視していた。この交際さえ真面目にしていれば、月に3度だけの勤務で給料をもらえ、後は全て自由時間だった。重章氏は有り余る時間をどのように過ごしていたのか。魚釣りをしたり、人目を忍んで御禁制の芝居小屋をのぞいたり、植木や菜園の手入れをしていた。その他、酒、女、博打、音曲、様々な暇つぶしの芸、慰楽に首を突っ込んでいた。当地の藩士たちの死因で最も多かったのは、アルコール中毒による肝臓や腎臓などの病気だった。重章氏は好奇心旺盛でこれらすべてにのめり込んでいた。そのため、アルコール中毒で体調を悪くして45歳で病死している。重章氏は27歳の時、御畳奉行に栄転している。御役料40俵が加増となった。翌年藩命により京都や大阪へ公用出張している。1回の出張期間は2ヶ月である。出張期間は、身の回りの世話をする人が付き、宿泊場所も立派なところが用意されていた。出張といっても仕事はほとんどない。京都や大阪の御用商人たちから毎日接待を受けていたのだ。それが仕事のようなものだった。相撲や芝居見物、観光や料亭での接待が中心の出張であった。日記の中に仕事の話はほとんど出てこない。45歳で亡くなるまで合計4回、この出張は続いた。行く先々に御用商人たちがてぐすね引いて待ち受けており、重章氏にとっては全くの役得旅行であった。私が注目したいのは、江戸時代の武士の仕事ぶりである。ほとんど仕事らしい仕事はしていない。でも一家が困らない程度の収入はあった。現代の人たちの仕事ぶりと比べてなんという違いであろう。今から300年前の武士の仕事ぶりはみんな似たり寄ったりだったようだ。この人は有り余る時間を好奇心のままに、いろんなことに手を出して楽しんでいたのである。誤算はアルコール中毒で健康を害して早死にをしたことと、放蕩三昧で結婚や離婚を繰り返して家庭には安らぎがなかったことだ。もし、酒をほどほどに楽しみ、家庭を大事にして、家族仲睦まじく生活していたとしたら、現代人が見ると中身の濃いい、とてもうらやましい人生を送っていた人に思える。現代の日本人は便利で食べ物やほしいものは何でも手に入る生活であるが、そのためには多額なお金がかかり、お金に振り回されている。そういう生活は本来の人間の生き方ではありませんよと教えてくれているようであった。今の仕事人間のような生き方をしていると、望むべきもないことであるが、本来の人間の生き方というのは、実はこんな生活を送ることかもしれない。自分たちの働き方を見直してみることが必要なのかもしれない。(元禄御畳奉行の日記 高坂次郎 中公新書参照)
2017.04.25
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アメリカのトランプ政権の通商代表部の代表にロバート・ライトハイザー氏が指名された。この人は、レーガン政権時代に通商代表部次席代表を務めており、その時日本に鉄鋼輸出の自主規制を認めさせた。先日、アメリカ上院の指名公聴会に臨み、日本の農業は第一の標的になると発言した。日本との二国間交渉では、日本側にTPP以上の譲歩を引き出す自信があるという。日本はTPP交渉では米、牛肉、豚肉など重要五品目について、関税を段階的に引き下げるとしていた。しかしそれでは生ぬるいというのだ。米国第一のトランプ大統領の姿勢に沿って自由で公正な貿易を目指すという。日本は農産物の貿易に関して多くの障壁を残したままでいるのは理解できない。通商紛争には厳格な態度で臨むという。日本の農業部門のすべての品目での自由化が達成されるまで頑張るようだ。アメリカの穀物生産量は、 2006年において、約3億4,656万トンで、そのうち約8,300万トンを輸出しています。その最大の輸出先は日本で、輸出量は約2,090万トンである。これに対して日本政府はどう対応していくのか。安全保障面でアメリカに依存している以上、日本の立場を主張して交渉できるとは思えない。アメリカの意向に沿って農業の完全自由化を目指すことになるだろう。そのようなことになると、日本という国は独立国家としての基盤を失ってしまう。安い農産物が輸入されると、まずは競合する国内農産物が淘汰され、国内雇用が失われます。例えば国産米や国産牛が安価なアメリカ産米やアメリカ産牛との競合で駆逐され、コメ農家や畜産農家の多くが失業します。さらに、たとえば牛丼がより安価になれば、牛丼と競合する他の外食産業は人件費のカットで対抗するため、雇用を削減せざるをえなくなります。農家や食品関連産業で失業者が増えれば、労働市場全体が供給過剰になりますから、実質賃金が一段と下がってしまいます。国民の生活はどんどん苦しくなるでしょう。(TPP亡国論 中野剛志 集英社新書参照)食料の輸出国アメリカは、輸入するばかりの国に対して、大きな支配力を有することになります。軍事力でなくても、食料が相手国を支配する大きな道具となるのです。飢饉のときには生産国は輸入国の消費者がどんなに困る事になろうとも、まずは自国民のための供給を優先します。このようなことはもうすでに起こっています。1972年家畜の飼料原料の大豆カスが高騰しました。1973年6月ニクソン大統領は突然大豆の輸出を禁止しました。また食料不足で困っている国に輸出するとしても、法外な売値をふっかけることでしょう。アメリカの多国籍企業であるモンサント社、カーギル、エイティエムといった穀物メジャーが世界の食料を支配するようになるでしょう。日本でも野菜類の自給率は約8割と言われていますが、その種子は実はアメリカからの輸入に依存しております。アメリカのモンサント社は、 F1品種(2年目以降収量が激減する種子)の独占販売と日本農業の構造を戦略的に活用して、日本を支配する恐るべきパワーを手に入れようとしているのです。農業生産をめぐっては、多くの農産品輸出国は水資源の枯渇に直面しています。また穀物市場は、国際化されているがゆえに、一国の不作が世界全体の食料の価格高騰を招きます。さらに、アメリカはとうもろこしをバイオ燃料の原料として使うようになったために、とうもろこしの価格は、国際原油市場の価格にまで影響を及ぼすようになっているのです。不作になっても最大限の利益を出すのが目的ですから、価格を上げるだけのことです。農業の自由化、規制緩和は、日本での深刻な食糧不足を引き起こし、専業農家を廃業に追い込み、国民を不幸にする政策だと思います。政府がアメリカに譲歩するので打つ手がありません。我々の子孫の惨禍を招くことが分かっているのに、打つ手がないというのは残念なことです。
2017.04.24
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小学校5年生の男の子が、髪の毛を抜いてしまうと言うことで、精神科医岡田尊司先生のところにやってきました。最近は、それだけでなく、こっそり親のお金を持ち出したり、嘘をついたりするようになった。もともと落ち着きがなく、考えもなくパッと行動してしまうところがあり、忘れ物が多かったり、先生が言ったことを聞き逃して困ることが多かったのだが、近頃では母親が注意しても、素直に耳を貸すどころか反抗的になるときもあり、手に負えなくなっている。家庭だけでなく、学校でも、先生や友達とトラブルになることが増えている。生活は投げやりで、言わないと宿題もやらない。注意されれば渋々やるか、やりたくないという態度が露骨である。この男の子の場合、症状から診断して、一般的には 「抜毛癖」 「素行障害」 「虚言癖」 「注意欠陥・多動性障害」 「反抗挑戦性障害」などの診断が下されることが一般的である。岡田医師は母親との面談の結果、一連の症状は親子関係に問題があったと判断した。この男の子は、両親は専門的な仕事をしていたため、小さい頃から保育園に預けられて育った。ただ、保育園に預けっぱなしにしていたというより、両親ともにとても教育熱心で息子にかける期待は人一倍大きかった。小さい頃から習いごとをたくさんさせてきた。保育園に迎えに行くと、その足で習い事に直行するという生活が1週間のうち、多くを占めていたのである。愛情がないわけではないが、世話や関わりは人任せになる一方で、習い事をさせたり指導や注意をしたりすることには熱心だったのである。干渉ばかりが多く、時には厳しく叱ることもあった。その結果、この男の子にとって、親は心からの関心や親しみを覚える対象と言うよりも、口を開くと命令するか、否定するかの、うるさくてめんどくさい存在となっていた。自然な情愛的な結びつきは弱く、親に甘えたり、困っている事を相談したりすることもない。愛着という点から見ると、共感的な結びつきが希薄であるだけでなく、いつも強制され支配され無理やり服従させられていた。親の一方的な押し付けと、評価に縛られた子供は、主体性をを奪われるばかりか、逃げ場所を失ってしまう。家庭は、安全基地とは反対の、危険基地や強制収容所のようなものになってしまう。これは直接暴力を加えているわけではないが、指導という名の虐待に他ならない。行動上の問題を直そうとして厳しく指導したばかりに、問題行動がさらにエスカレートし、反抗や思考が激しくなることも多いし、行動上の問題は改善したかに見えても、もっと厄介な問題を生じてしまう。例えば、無気力や自己肯定感の欠如などである。ここで気になるのは、医学モデルによる診断と治療もひとつ間違えば虐待と同じ構造になってしまう危険がある。医学までもが、その子供を異常と診断することは虐待に加担することにならないだろうか。医学モデルによる診断は、生育環境や親子関係などの細かい事情を覆い隠し、病名があたかも実体で、それが症状を引き起こしているような錯覚を生む。(愛着障害の克服 岡田尊司 光文社新書より引用)私はこの話を聞いて、神経症で悩む人も、その原因が親子関係などの人間関係にあるのではないかと考えるようになった。私たちは、神経症から回復するために、森田理論学習をしているわけですが、その前に親との関係で愛着障害を抱えているのではないかと考えるようになった。そこで愛着障害という本で愛着障害の診断テストをしてみた。すると不安型愛着障害に該当していた。不安型いうのは、親との信頼関係が築かれていないために、大人になって見捨てられ不安が付きまとい、常に他人の思惑に振り回されて生きていくことがつらい状態である。そういう人の場合、いきなり森田理論学習をするのではなく、愛着障害からの回復をまず第一に考える必要があるのではないか。幸いなことに愛着の再形成は大人になってもある程度可能である。心の安全基地を作ることが優先されるべきことではないのかと考えるに至りました。
2017.04.23
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日本森田療法学会では「外来森田療法のガイドライン」を策定している。外来森田療法の対象者は、森田神経質と呼ばれるような神経症のみならず、うつ病や気分変調症、適応障害や外傷後ストレス障害、過敏性腸症候群、慢性疼痛、摂食障害、アトピー性皮膚炎、歯科口腔領域の神経症なども対象にしている。治療の適用に当たっては、比較的健康な自我機能と、ある程度の知的理解力が必要であり、また完全主義、 「かくあるべし」が明瞭で、克己の姿勢、生の欲望が強いなど神経質傾向を有しているかどうかが適否を判断する目安になる。ガイドラインでは、 「感情の自覚と受容を促す」 「生の欲望の発見と賦活」 「悪循環の明確化」 「行動指導」 「生活の見直し」の5つを外来森田療法の基本的構成要素と位置付けている。・感情の自覚と受容を促す。神経症症状の根底には、不安や恐れの感情が存在する。そこで治療者は、 「その時どのように感じていたのですか」 「どんな気持ちだったのですか」といった質問を繰り返すことによって、感情の自覚を促すのである。さらに患者には、自分の感情の流れをしっかりと見つめるように助言していく。「感情はこれをそのままに放任すれば、時を経るに従って自然に消失する」という「感情の法則」を指導する・生の欲望を発見し賦活する。患者の不安、恐怖や症状の裏にある健康な欲望を照らしだし、発見させ、発展させるように導いていく。症状に関連した欲望ばかりではなく、患者の日々の生活に内在する健康な欲望を幅広く見いだしていくことがカギになる。治療者は、 「どうなりたいのですか」 「治ったらどのような生活を求めているのですか」といった質問を患者に投げかける。・悪循環を明確にする。患者のとらわれと悪循環を明らかにしていく。ここでは「精神交互作用」と「思想の矛盾」がある。精神交互作用とは注意と感覚が悪循環的に作用して症状が発展することである。思想の矛盾は、不安や恐怖などの感情を、 「かくあるべし」という姿勢でもって解決しようとすることである。治療者は、 「そのとき注意はどこに向かっていました。 「どんなことを考えていましたか」といった質問を向けることによって、自己や自己身体の部分に注意がとらわれ、また、 「かくあるべし」の考えに駆られていたことに自覚を促すのである。またはからいととらわれが悪循環をなすといった説明もよくなされる。例えば恐怖症の人が一般に恐れている状況を回避するといった行動がそれである。これらのはからいは、症状を固定し、事態をますます複雑にする結果となる。・建設的な行動を指導する。治療者は、患者の生の欲望を建設的な行動に結びつけていくように促していく。治療者は、不安や症状を抱えたまま、今できることから実行していくように指導していくのである。森田療法においては、治療者が一方的に行動を指示するのではなく、患者自らが、あるいは患者と治療者は相談して、具体的な行動課題を見出すことが原則である。また大きな目標よりも、今日実行可能な小さな目標立てることも指導のポイントである。患者が実行した事柄には共感を持って肯定することが重要である。・行動や生活のパターンを見直す。患者が行動を広げようとするとき、元来の「かくあるべし」の姿勢もまた明るみに上ってくることが多い。このようなパターンを具体的に指摘し、 「かくあるべし」から脱して、 「かくある事実に従って臨機応変に対処する」よう助言していく。こうした助言は、患者の生活の様々な側面において、キメ細やかになされなくてはならない。その他、治療を進めていくための面接技法や日記指導についても記載がある。現在、入院森田療法の施設は少なくなっており、外来森田療法が主力となっている。外来森田療法を受けたい方は、生活の発見会に森田療法の協力医という方がおられる。その中から、集談会などでその地域の協力医がどの程度森田療法に関わっておられるのかを調査して、電話予約されるのがよろしいと思われる。その他、森田療法を中心としたカウンセリングを行っている臨床心理士の方も何人かおられるので、集談会で確認をしてもらいたい。(森田療法のいま 青木薫久 批評社 83ページから99ページ参照)
2017.04.22
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先日親戚の叔父さんが亡くなったので、葬儀に参列した。葬儀では生前の写真がスクリーンいっぱいに映し出された。また、孫たちが感謝の思いをそれぞれに発表して見送った。故人は家族や他人への思いやりが深く、多くの人から愛されて生活していたことがよく分かった。故人を偲んでゆかりの人が大勢集まり、こういうお別れの仕方もいいものだと思った。私の場合は、兄妹が少なく、子供も少なく家族葬が精一杯だなと感じた。その葬儀は、自宅ではなく葬儀社で行われた。今はどこでもそうなっている。申し分のない葬儀ではあったが、あまりにも豪華すぎる葬儀のように感じた。祭壇は大きくて立派なもので、花輪や生花、果物籠が所狭しと並んでいた。今や葬式は結婚式と同じようなショーとして執り行われているようだ。後で聞くと、葬儀費用として100万円から200万円はかかるといわれていた。初七日が終わった後、仕上げの膳というのがあったが、その豪華な内容に驚いた。和食のフルコースだったのだ。普段はあまり食べることのないような料理であった。生物であるので持ち帰り不可能と言われたが、量が多すぎて半分以上は残ってしまった。昔は精進料理といって質素なもので、肉や魚は出なかった。まして葬儀当日はアルコールなどは飲まなかった。ところが、今日ではアルコール付きで豪華料理が当たり前である。そのため、現在では親戚の人の葬儀の場合は、 5万円以上の香典を包むことになる。その上、花輪や生花代が2万円ほどかかる。そして4 9日の法要には、さらにお供えとして参列者一人あたり3万円ほど包む。というのは、法事でも近くの料理店に出かけて、豪華な食事が用意されるからだ。また茶の子として商品券や高価な商品が用意されるので、精一杯の誠意を示す必要があるのだ。これは私の暮らしている地域に限られているのだろうか。私の場合は、両親の兄弟姉妹がそれぞれ5人ずついる。さらに、妻の両親の兄弟姉妹はそれ以上にいる。両親は既に他界しているので、子どもである私が親戚付き合いのしないとならないのだ。最近は我々の親たちが亡くなる場合が多くなってきた。 年に2 ~3件はある。また、親戚関係が多いという事は、甥や姪の結婚式の案内が来ることも多くなってきた。結婚式の場合は夫婦で行く場合は、最低10万円は包むことになる。だから年間費用として、冠婚葬祭費を十分に見ておく必要があるのだ。場所が大阪や東京の時は、交通費の負担も大きい。現在、年金とマンション管理人の収入で生活しているが、それは毎月の生活費で精一杯だ。冠婚葬祭費、家電製品の買い替え、家屋の修理費、固定資産税などの税金、自動車関係の費用、田舎の維持費は貯蓄を取り崩すしかない。将来蓄えが底をつくようになった時が一番の心配事である。豪華な葬儀や結婚式は、基本的には業者を儲けさせるだけだと思う。自分では最低限の付き合いにしたいと思っても、社会的には至れり尽くせりが当たり前になっているので、いかんともしがたいのだ。
2017.04.21
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青木薫久先生は、森田理論を発展させてグリーン森田(緑森田)という考えを提唱されている。森田理論を神経症克服のためにだけ活用するのではなく、人類が将来にわたって繁栄するために活用すべきであるという提案である。持続可能な社会を作っていくことを第一の目標にする。日常生活管理を良くすると森田療法では言っていますが、それを発展させて、「環境」を視野に入れて浪費を抑えて簡素な生活をしようということです。森田理論では奉仕と言っていますが、人のために尽くすだけではなく、生きとし生きる者との共存共生を図る、それがグリーン森田理論です。今、生物多様性がだんだんなくなっていています。今日の環境破壊による生物種の絶滅速度は猛スピードで進行しています。多くの生物がいなくなれば、人類の生存も不可能となります。もう一つ、限界を超えているのは、窒素化合物の増加だと言われています。これも限界を超え、地球の空気・大地・水を汚染している。地球の温暖化、砂漠化、酸性雨、オゾン層の破壊、森林破壊、資源の枯渇は猛スピードで進行している。人間が欲望のままに自然をコントロールするやり方は、近い将来必ず行き詰まってくる。森田先生は自然服従と言われていますが、グリーン森田理論になりますと、無為自然になってきます。余計な事はなるべくしない、行動しないことが大事である。暇とお金があれば外国旅行しようとか、そういうエネルギーの浪費は控えるようにするということです。尾瀬の自然を満喫しようと多くの人が訪れると尾瀬の自然も壊れる。できるだけ余計なことをしない方がよいのだ、ということになります。自然に従ってなるべく動かないようにした方がいいということです。グリーン森田では、人間という存在も、結局は大自然の一部でしかないわけですから、大自然の深い流れの中に身をゆだねて、欲望の暴走を抑制しながら生きてゆくことを目指していく。物質生活は簡素になればなるほど、心に余裕が出てくる。「あれも欲しい、これも欲しい」となると忙しくなる。テレビを見ていれば刺激を受けて、「あれ便利だな、俺も欲しい」となると忙しくなるし、地球はますます壊れていく。だから、価値観の変革が必須になります。グリーン森田の原則とは、目先の欲にとらわれて、欲望のままに生活する態度を改める。絶えず人と比較し、競争して勝つことを目的とした生活を改める。自然に闘いを挑み、自然を人間の都合のよいように作り替えていく態度を改める。物事を是非善悪で価値判断する態度を改める。物質的に豊かな生活を無制限に目指していく生活から、心豊かな生活を目指していく方向に切り替える。森田でいう、人の性を尽くし、物の性を尽くし、自然との共存共栄を図るようにする。森田理論は症状克服だけでなく、人間の生き方にかかわる内容を含んでいると思われます。(森田療法のいま 進化する森田療法の理論と臨床 青木薫久 批評社参照)
2017.04.20
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作家の三島由紀夫は強い完全主義者であったと言われている。彼は約束事を重んじることで有名だった。自分自身、遅刻したこともなかったし、誰かが遅れてきたときには15分以上待つこともなかった。作曲家の黛敏郎とオペラの仕事をしたとき、黛敏郎の作曲が締め切りに間に合わなかった。黛敏郎は詫びを入れ、上演時期の延期を申し出たそうだ。ところが三島由紀夫は、そのその提案を無視して作品の上演自体を取りやめた。以降、三島由紀夫は、黛敏郎と絶縁した。最初、予定された通りでなければ、妥協してまで行おうとはせず、むしろ白紙に戻してしまうのである。約束を破る人を大目に見るということはできなかったのである。彼の完全主義は他人に向けられるだけではなく、自分にも向けられていた。彼は大蔵省に勤めていたとき、家では午前2時ごろまで執筆して、朝早く仕事に出るという生活だった。睡眠時間は3時間から4時間だったという。さらに、原稿の締め切りを1度も破ったことはない。どんなに酒席で盛り上がっていても、 10時になるとさっと切り上げた。極めて厳格的、禁欲的で、自己コントロールの利いた生活ぶりだったのである。三島由紀夫の小説家としての絶頂期は、 29歳の時に刊行した「潮騒」、31歳の時の「金閣寺」、 「永すぎた春」である。残念ながら、その後刊行した小説の売れ行きはよくなかった。三島由紀夫の不振とは裏腹に、大江健三郎など、次世代の作家の作品が世間の話題をさらい、売れ行きでも三島をはるかに超えるようになった。さらに追い打ちをかけたのが、川端康成がノーベル賞を受賞したのである。三島由紀夫自身も毎年ノーベル賞候補に挙がっていたが受賞することはなかった。40歳を過ぎた三島由紀夫の関心は、自分の人生をいかに劇的に締めくくるかに向けられていたようだ。自衛隊での自決当日に最後の作品が編集者に渡るように段取りしていたという。最後まで原稿の締め切りを守り、予定していたシナリオ通りに人生の幕もおろしたのである。完全主義といえば、ノーベル賞作家のヘミングウェイや川端康成もそうだった。不完全な人生に耐えられなくなって最後は二人とも自殺している。あまりにも完璧を目指す生き方は、順風満帆で成功している間は問題はない。でも人生山あり谷ありが普通である。完全主義者は谷の時につまずく。一度歯車が狂い、自分が思っているように事が運ばなくなると、不完全な自分を許せなくなるのである。長所も欠点の数だけあるという見方ができないのである。また人生には波があるという認識がないのた。歯車が狂うと全部が悪いような気がしてくる。考えてみれば、私たち神経質者も完璧を求める傾向がとても強い。完全主義者である。普通神経症の人はちょっとした体の不調を見逃すことができない。何度も病院で検査を受ける。対人恐怖症の人は、必要以上に他人の評価が気になり、人前に出ることが億劫になる。不完全恐怖の人は、取越し苦労だと分かっていても、戸締まりやガスの元栓にとらわれる。完璧を求めるあまり、日常生活が停滞し、自分を否定し、対人関係がぎくしゃくしてくる。岡田尊司氏は、完全主義に陥る原因は、一つには親の育て方に問題があると言われる。完全主義にこだわる人は小さい時から、優れた結果を残したときしか評価されなかった人である。優れていなければ、価値がないという親の価値観に縛られて育っていることが多い。つまり、それは本当の意味でその子の価値を肯定され、愛されたと言うよりも、優れているという条件付きで、愛情や承認が与えられたということなのである。親の要求水準に達しない期待はずれの子どもは、否定され叱られることが多かった。親から無条件の肯定という形で、承認を与えられてこなかったのである。それが、大人になっても完全・完璧な人間でなければ、自分は社会に受け入れてもらえない。他者から愛されることがなく、認めてもらえないと生き延びていくことはできないというトラウマになっているのである。岡田氏は、不完全な存在こそが安定したものであり 、それを受け入れ、さらけ出せることが、人から受け入れられ、愛されることにもつながるのだといわれる。うまくいかないことや、思い通りにならないことがあっても、それはそれで人生の醍醐味だと受け止める。うまくいかないことにも何か意味があるはずだと、そこから何か宝物を見つけ出す心がけが、その人を幸福にしていくことだろう。苦労や失敗もまた楽しめばよいのである。もちろんうまくいっているときには幸せを満喫すればよいが、うまく行かない局面では、またそれだけの味わいがあるものだ。後から考えれば、うまくいかないことばかりで苦しんでいたときは、 一番必死に生きていた時だという感慨を覚えるものである。成功する時の輝きもよいが、苦悩し悶々と過ごす日々は、もっと深い人生の味わいを教えてくれる。なんともいえない切なさや悲しみ、悔い、無念さ。そうしたネガティブな感情こそ人生を人生たらしめているものなのである。幸福なだけの人生など、甘いケーキばかり食べさせられるようなもので辟易してしまうだけである。幸か不幸か、誰の人生も良いことと悪いことがほどよく織り交ぜられているものだその人がどれだけ幸福かは、よい事が人より多く起きるということではなく、悪いことにもどれだけよい点を見つけられるかなのであるといわれている。この考え方は森田理論に通じている。(あなたの中の異常心理 岡田尊司 幻冬舎新書参照)
2017.04.19
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30代半ばの女性が、気分の落ち込みや対人ストレス、不安や不眠を訴えて岡田尊司先生のところへ相談に来に来られました。12年前から心療内科にかかり、抗うつ剤や抗不安薬、その後は、躁鬱も疑われて気分安定薬などを服用してきたが、はかばかしい変化は見られなかったという。体はいつも緊張している感じで、力が上手く抜けない。昔の嫌な記憶ばかりが蘇ってくるという。職場では、最初はとてもうまくいくのだが、やがて人間関係に行き詰まっていやになり、何回も転職を繰り返してきた。最近では、親しくしていた人ともギクシャクすることが多く、皆が自分から離れていくような感じがするという。今回うつが強まったきっかけは、親しかった友人が彼氏のほうに夢中になって、彼女が見捨てられたと思ったことにあるようだ。彼女の行動の特徴は、相手に気に入られようとして一生懸命尽くすことだ。そこまで献身的な努力をしてもいつも評価される訳では無い。顧客や上司が少しでも不機嫌な態度を見せると、彼女はオロオロしてしまう。自分に自信がないため、いつ解雇されるかもしれないという不安がある。彼女には安心感や人に対する信頼というものがなく、物事を絶えず悪いほうに考えてしまう。岡田医師によると、症状だけを見て診断すれば「気分変調性障害」ということになるだろう。さらには、パニック障害や双極性障害ではないかと考える医者もいるだろう。また、自己否定が強く、見捨てられることに対して過敏な点に注目すると、軽度ながら「境界性人格障害」と診断されるかもしれない。どの診断も、彼女の抱えている症状の1部を説明することができ、間違いだとは言えない。ただ、そのように診断して治療するということになると、結局、色々な症状に効く薬を何種類も飲まなければならないことになる。それで症状が良くなれば良いのだが、はかばかしい改善が見られないというケースが多いのである。岡田尊司氏の診断は次のようなものである。彼女は相手が友人であれ、同僚や上司であれ、顧客であれ、その人に気に入られようと涙ぐましいまでに努力をする。相手の顔色に敏感で、「自分が相手から良く思われていない」と思うと不安で仕方がなくなる。こうした特徴は、愛着不安(愛着する相手に自分が受け入れてもらっているのか不安になること)が強い状態であり、 「不安型」と呼ばれる不安定な愛着に特徴的なものである。彼女のもう一つの特徴は、傷つきやすいだけでなく傷つけられたことにとらわれ、そのことを引きずり続けていることである。ずっと昔のことなのに、昨日のことのように、その不快な記憶がよみがえってきて、もう一度心をえぐられるような気持ちになる。傷つけた人の怒りの気持ちにとらわれ、肥大したり、やるせない悲しい気持ちになって落ち込んだりする。こうした傷つきやすい傾向を抱えた人は、過去に実際に傷つけられた体験をしていることが多く、それが自分をいちばんに守ってくれるはずの親であったということも多い。親やその人にとって大切な存在から受けた心の傷を引きずり、傷つけられることに過敏になっているのである。こういう人は、普段は穏やかで明るく落ち着いているように見えても、自分を傷つけた人のことを考えただけで冷静ではいられなくなり、顔つきまで変わってしまう。さらにその影響は親や傷を与えた人との関係だけにとどまるのならいいのだが、こうした傷の影響は、他の対人関係にも及んでしまう。人を心から信じられなくなってしまったり、傷つけられることに過敏になりすぎて、悪意がない相手や物事にまで悪意を感じてしまい、過剰に反応し、良好だった関係まで自分から壊してしまうということが起きやすい。結局、彼女は過去の亡霊を、目の前にいる別の存在に対して見てしまうのである。親やその人を傷つけた存在に対する不信感や怒りを、別の人にぶつけ、幻を相手に一人相撲を取ってしまい、結果的に無関係な人間関係まで壊してしまう。彼女は幼い頃から父は再三暴力をふるわれて育ってきた。父親のことが恐ろしくていつもビクビクしていた。大きくなってからも、どんなことであれ、父親に知られるのが不安だった。父親が知ったらまた怒り出すのではないかという警戒心が働いてしまうのだ。一方、母親も父親を恐れて、彼女のことをかばってくれず、父親を怒らせた彼女の方が悪いと言うような言い方をされてきた。彼女は理不尽に攻められ、否定されるだけではなく、そうした攻撃から誰も自分を守ってくれないという絶望感の中で育ったことになる。それが彼女の安心感の乏しさや根深い不信感となって心だけでなく体にしみついていたのである。彼女は、見捨てられることに敏感で、人の顔色を過度に気にする不安型愛着障害とともに、過去の傷に触れられると不安になりやすい未解決型愛着を抱えているのである。ですから、表面的な症状だけで安易な診断を下し、薬を処方するだけでは彼女の問題は解決しないのである。彼女の問題は愛着障害として捉えることができれば、対応方法は全く異なってくる。愛着の形成は0歳から1歳6ヶ月の間と言われている。ところが、幸いなことに、遺伝子とは違って、愛着障害はある程度可塑性を持つ。成人した後でも安定した愛着の再形成は可能なのである。愛着障害からの回復は岡田尊司氏の「愛着障害の克服」 (光文社新書)という本に紹介されている。また「愛着障害」という本では、簡単な診断テストも記載されているので参考にしてほしい。
2017.04.18
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困難にぶつかって、それがなかなか解決しない時、私たちの感情は乱されます。困難であればあるほど、その感情は高まって、冷静に考えることができなくなります。そんな時頭に勝手に思い浮かんでくるのが、悲観的な考えです。 「自分のせいでプロジェクトが止まってしまったらどうしよう」「出世コースから外れたらどうしよう」 「解雇されたらどうしよう」などの「どうしよう思考」です。「どうしよう思考」は、直面した問題の解決法が見つからず、これからどうなるかわからないという不安や恐怖感そのものです。つまり、先が見えないことに対する恐怖です。人間は「正体がわからない」「見えない」ということにとても恐怖を感じます。一方、「不安や恐怖の正体が分かった」 「見えた」ということで人間は安心します。だから、困難にぶつかって、どうしていいかわからなくなった時は、落ち着いて先が見えるようにすれば不安や恐怖は減ります。そのためには、「どうしよう思考」を「こうしよう思考」に変えるとよいのです。「どうしよう」で思考停止してしまえば、不安や抑うつはどんどん増幅していきます。そこで、 「どうしよう」ではなく、 「もし、止まってしまったらどういう状況に陥るだろう」と起こりえる最悪の状態をできる限り具体的に心に描きます。それは、 1つだけでは足りません。複数個、少なくとも3つはあるべきです。次に、そのひとつひとつについて、そうなった場合にはどういう展開が予想され、どのような行動に出ればいいのか想像していきます。つまり、 「こうしよう思考」です。こうやって、いくつかの可能性の道筋が頭の中に具体的に並べられるようになると、それがすなわち「見えている」状態ということです。次に思い描いた選択肢のどれかを選択して、手順を整えて具体的に手を出していくことも大切です。「どうしよう思考」は感情的な思考です。感情的な思考からは、解決の道筋は導き出せません。一方、 「こうしよう思考」は客観的な思考です。客観的な思考こそが、困難を冷静に分析し、解決策を見つけ出すツールです。(「軽症うつ」を治す 森下克也 角川SSC新書 173ページより引用)これを森田理論で考えてみましょう。まず、事実をよく観察して真実をつかむということが出発点です。憶測や先入観による決めつけは間違いの元です。 「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という言葉があります。これは夜道を1人で歩いている時、ススキの穂が風に揺れてざわざわと音を立てたとき、それを幽霊が出てきたと勘違いして前後不覚になって、慌てふためき、急に全速力で駆け出してしまうというものです。すると、心の中では恐怖心がさらなる恐怖心を生み出して、増悪し収拾がつかなくなるという話です。ここでは慌てないで立ち止まり、ススキをよく観察すれば、幽霊が出てきたのではないという事はすぐにわかります。森田先生は、熊本の五高時代に、幽霊が出てくるという幽霊屋敷に夜1人で観察に行かれたこともあります。自分でわからない事は、現地に行って自分で調べることをされていたのです。また、納得できない事は自分で実際に試して確かめるという姿勢をずっと持ち続けておられました。次に、 「どうしよう思考」ですが、これは森田理論でいうと、不安や恐怖に振り回され、精神交互作用で不安がどんどん増悪していく過程とよく似ています。森田理論ではどうすることもできない不安には手をつけないほうがよい言われています。それよりも、生の欲望の発揮に注意や意識をもっていくということが重要であると言われています。これが、ここで言われている「こうしよう思考」だと思います。不安を抱えたままで、目の前のなすべきことに目を向けていくことです。 「こうしよう思考」で大事な事は、まず日常茶飯事に対して丁寧に取り組んでいくことです。また、規則正しい生活を続けることも大事です。これらは生活の土台となる部分だと思われます。ここから出発して次第に行動・実践の幅が広がってくるということが大切になります。
2017.04.17
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1962年9月20日の朝日新聞に粉ミルク事件があったそうだ。お母さんが赤ちゃんに粉ミルクを飲ませたところ、嫌がって飲まない。不審に思ったお父さんが飲んでみたところ、具合が悪くなり死んでしまったというのです。新聞の見出しには「粉乳に間違えて混ぜた洗剤飲んで急死 赤ちゃん嫌がり父親ゴクリ」と書かれてあったという。赤ちゃんは腹が減っていてもどうしても飲まなかったのに、お父さんは口に含んだとき、それが危険なものという味覚が感じられなかったのです。お父さんよりも赤ちゃんの感覚のほうが確かであったということです。お父さんはきっと自分の味覚に頼るよりも、これは「粉ミルクである」という知的情報を優先させたのだと思われます。その子供も小学生ぐらいになると、苦みや酸味はだんだんと鈍ってくるそうです。苦みが鈍る子供は情緒不安定になると指摘している学者もいるようです。さらに大人になるにしたがって五感がだんだんと衰えてしまう。それに代わって知的情報が多くなり理屈、「かくあるべし」で行動を制御するようになってくる。茶道をされている人は五感を味わうという意味があるそうだ。「無駄をそぎ落とした空間の中に際立つ茶花の色彩、お茶とお菓子の彩り、味わい、香り。口に含んだ感触や温度。お茶碗の重さや手触り。湯の沸く音。袱紗や茶杓、そして茶筅の音。炉にくべられた香の薫り。お手前に集中していく中に生まれる静寂。時には陽の光がちろちろと射し、風のそよぎ、鳥の声が聞こえるかもしれません。五感が研ぎ澄まされて、日常と異なる「今」という時間と唯一無二の「ここ」という空間が立ち現れるように思います。」(五感の力より) 見る、聞く、味わう、触れる、匂う、直感などがおろそかにされると、感じる力が弱くなり次第に感性が衰えてくるのではなかろうか。感性のない人間はロボットのようなものだ。言われたことはするが、自分から気づきに基づいて創意工夫することはなくなる。すると生きがいは持てなくなると思う。無気力、無関心、無感動な人間になってしまう。五感を鍛えて感じる力を高めてゆきたいものです。森田理論では感じを高めることで、気づきや発見が出てくる。それがやる気や意欲に結びついて生産的、創造的、建設的な行動へと結びついていくという。
2017.04.16
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エリクソンは子供を育てるとき、やさしさ一辺倒でも厳しさ一辺倒でも子供は順調に育たないということを述べている。1歳6か月までは母子密着で「基本的信頼感」を身に着けさせることが極めて重要ですが、それだけではだけでは不十分であるといっている。ときどきは母子密着とは反対の、つらい体験もさせることが大切であるといっている。「基本的信頼感」の獲得をペーストしつつも、逆の体験をさせることで、子供は「生きる活力」を獲得するという。ときどき厳しさも体験する中で、やさしさがより引き立てられ、子供は順調に育っていくという。子育てにおいても臨機応変、硬軟のバランスが必要なのである。特に1歳6か月を過ぎたころから、そのことを意識する必要がある。子どもを受け入れることが基本であるが、していけない事はいけないとあえて叱ることも必要だ。強く叱っても親子の信頼関係がしっかりしていれば、子供はなぜ叱られたかを理解し、受け入れられる。私は乳幼児期は愛情のみを注ぐことが重要であると考えていたが、エリクソンによるとそれはちょっと違うといっているのである。幼児期の子供はやりたい放題で、親を困らせることは日常茶飯事である。つい叱りつけたり、叩いたりすることは誰でも経験がある。子育てにおいてはそれが普通であり、そんな自分を悔いて否定する必要はない。それよりも、親が困るようなことをしても、注意しないでそのまま見逃してしまっていると、子供のいたずらはどんどんとエスカレートしていく。大きくなって、善悪の判断ができなくなって、人様に迷惑をかけるようなことを平気でする。また、耐えたり我慢する力がなくて、欲望が暴走して人間関係や生活が破綻しやすくなる。もし完璧志向で自分自身を苦しめていることがあったら、そちらのほうが問題である。「基本的信頼感」を身に着けて、過度の欲望が暴走しないような子供に育てるために必要なことは何か。母親と父親が強力なタッグを組んで子育てにあたることだと思う。片親だけでは心もとない。子どもが思春期になり問題行動を起こしたとき、父親が母親に向かって、「子育てはお前に任せていたのにどういう教育をしていたのだ」と叱責することがある。その父親は子育ては自分には無関係だといっているようなものだ。それはおかしいと思う。もし母親が父親が果たす役割も引き受けて、子育てを行っているとどうなるか。母親は元々「基本的信頼感」の形成にかかわる役割がある。その母親が同時に本来父親が果たすべき厳しさを身に着けさせる役割も果たしているとどうなるか。母親が一方では優しくして、もう一方では厳しくすると子供は混乱してくる。母親が正反対のかかわり方をしていると、子供が大人になったとき問題になるのである。一方、子育てにタッチしない父親には距離を置いてくるようになる。無関心になってくる。それは子どもにとっても母親と父親にとってもとても不幸なことである。
2017.04.15
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原田正文氏は、最近父親が妻と一緒になって、子育てをしていないと言われる。子供は子育て時代をどう生きるかで、その人の人生全体が決まるといわれているのに残念なことだ。子育て時代そのものは、長さとしては、人生のほんの一部分に過ぎない。だが、人生全体にとって子育て時代を夫婦で、また親子でどう生きるかは、そのあとに残された長い人生が実り多いものになるかどうかを決めるといっても過言ではない。子育て時代を夫婦で一生懸命に過ごす事は子育て後の人生を決めるのである。父親のほうにそのような認識があまりないのが問題である。原田正文氏が大阪と兵庫で行った調査によると、夫が育児に協力的でない母親は地域で孤立しているという。父親が育児に非協力的で、母親だけがその役割を引き受けている場合には、母親に近所の話し相手がいない傾向は極めてはっきりしているという。つまりそのような母親には子育て仲間がいない傾向が強い。そして子供にも一緒に遊ぶ同世代の子どもがいない傾向が強いということが分かっている。また夫が育児に非協力的な母親の場合、子供だけを生き甲斐にしている母親が多いともいわれている。さらに、夫が育児に非協力的な母親の場合、この子を産んでよかったという思いは少なく、子供と離れたいという欲求もかなり強くなる。子供と一緒にいると楽しいとか、子供が可愛いという感情も弱いことが分かっている。そして、矛盾した子どもへの拘りや、子供のしていることを黙って見ておられなく、干渉する傾向も強かった。父親が協力的な家庭では、子育ての役割分担がなされており、母親の精神的ストレスは少ない。父親と母親の会話があり、母親が子供に愛情を注ぎ、父親は子供を外に連れ出していろんな経験を積ませている。父親が主になってしつけの役割も果たしている。よく育児に参加している父親には、子供は喜んで近寄っていく。育児に非協力的な父親は、子供を叱りつけるばかりで、子供は父親を恐れて近づかなくなる。特に子供が思春期になると、父親の出番は大きい。ところが乳幼児期から子供と接触のない父親に「さあ、お父さん」と言われても、その役割を果たすことは難しい。父親が父親の役割を果たすためには、父親が子供が乳幼児期から日常的に接して、父親を「好ましいもの」として子供が認識できていることが必要なのである。母親は子供の日々の成長を夫にも知ってほしいし、一緒に喜んでほしい。子育てで私がこんなに努力していることも知ってほしいし、認めてほしい。ところがいろんな出来事を仕事から帰ってきた夫に話したところ、不機嫌になって「それで、結論はなに」と言われているというのだ。これでは一緒に子育てを頑張りたいという気にもならなくなるし、そのあたりのすれ違いが積み重なってくると、夫婦の亀裂が深まってくる。日本の男性は家庭で無能なのは、家庭を休息の場としか考えていないためではないか。そういえば自分にも身に覚えがある。耳の痛い言葉である。今子育て真っ最中の人はぜひ参考にしてほしい。(完璧志向が子どもをつぶす 原田正文 ちくま新書参照)
2017.04.14
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小説家の遠藤周作さんは好奇心が旺盛な人だった。そしてユーモアの持ち主であった。そのせいか、遠藤さんにはとても友人が多い。文壇では安岡章太郎、吉行淳之介、阿川弘之、三浦朱門という人たちがおられた。今日は遠藤周作さんのユーモアのエピソードを紹介したい。その1、国際線の飛行機に乗って初めてアメリカに海外旅行をするという人がいた。その人は、遠藤さんに酒を飲ませて外遊の心得を尋ねた。酔っ払った遠藤さんは次のようにアドバイスした。飛行機に乗ったらまずスチュワーデスにチップを渡すことカナダに近くなった頃、機内放送があって日付変更線を通過するという。その時、真下を見下ろすと、海に1直線に赤い線が走っている。それが日付変更線です。それを真に受けた友人はスチュワーデスにチップを渡した。もちろん丁重に拒否された。日付変更線を通過したときは、窓に顔を当てて赤い線を見ようとしたが、何も見えなかったという。その2、大阪で仕事して新幹線に乗ったときのこと。駅で見送りをしてくれるはずのNHKの人を探したがいない自分の指定席に白い布で包んだ弁当が置いてあった。NHKの人がわざわざ用意しておいてくれたのであろうと早合点した。豪華な弁当だった。さすがはNHKだなと感心しながら食べていた。3分の1ほど食べた頃、ある男が向こうからやってきた。彼は不思議そうに私の周りを見て、隣の座席に座り、こういった。「その弁当、ワシのと違いまっか」「いや、これは、私の席に置いてあったのです」「そんならワシの弁当やで。大阪の料亭で作ってくれたもんや。それを君は食べているのか」「申し訳ありません」「ひどいやないか。大阪の料亭の女将が、ワシの為にわざわざ持ってきてくれはったんやで」「君はエビも食べたのか。卵焼きも半分食べてるじゃないか。そこの卵焼きはうまいのだ。いったい君は何と言うことをする人や」その3、遠藤さんは生前自分の葬式の演出を考えていた。予め自分で吹き込んでおいたテープを流す。「本日は私の為、皆様、お集まりくださいまして誠にありがとうございます。ただいまから遠藤周作の葬儀を行います。どうぞご起立ください」「それでは葬儀委員長にかわりまして、私が私の悼辞を述べます。ああ、悲しいかな、遠藤周作は今や霊界にあり、そちらからただいま、お集まりくださいました皆様にお礼を申しております。皆様から多分の香典も頂戴しました。金田老人、キョロキョロするでない。黙って私の悼辞を聞きなさい。それから、泉君、君の香典が500円とはちょっと少ないんじゃないかね。もう2枚ぐらい追加しなさい。生前随分、奢ってやったんだから」こういうテープを30分続け、 「それでは皆様にお礼の意味で、今晩、次の方々の枕元を訪問したいと存じます。今晩、次の時刻に、必ず次の方の枕元に立つでしょう。どうぞお待ちください。午前1時、田中貴美子さん。午前2時、岡本花子さん、午前2時半、山口ヨシエさんと女の人の名前を言う。きっと、場内で名指しされた女性が、きゃーとかうわーとか言って面白がろう。よい思いつきだと思い、晩飯の時、老妻に話すと、軽蔑したような目でじっと私を見た。この話は、 「老いてこそ遊べ」河出書房新社にある話です。この本には笑い転げるほどいろんなエピソードが紹介されていた。興味のある方はご覧ください。私たち神経質者は好奇心旺盛な人がとても多いが、ユーモアという面では縁遠いという人が多い。どちらかというとまじめで、苦虫を潰したような人が多い。ましてや、誰かがダジャレを言うと、軽蔑したような目で見下すこともある。私はすばるクリニック伊丹仁朗先生から、ユーモア小話の作り方を学んだ。自分でもたくさん作り、ユーモア小話や川柳などの収集もしている。ストレスが溜まってつらいときは時々読んでは気分転換している。これらは、人生においてはあく抜きのような働きをしているような気がしてならない。周囲の人にも披露して笑いを振りまく事を心がけている。これらを心がけていると神経症の悩みから一時的に離れることができるようです。
2017.04.13
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アメリカは大企業優先、金融への過剰な傾斜、短期的な利潤追求、徹底した民営化と市場原理による競争といった一連の政策によって、営々と築き上げてきたもの作りの伝統、勤労の精神、労使間の信頼といった資産を大きく毀損した。それらは、国民国家と言うものが、安定的に継続していくために欠くことのできない資産でもあったはずだ。この変化を後押ししたのはフォーチュン500に名を連ねる多国籍企業であり、世界の富を収奪する超国家的なシステム実現の野望であった。別の言い方をするならば、新自由主義者たちは、国家社会が経済をコントロールするのではなく、経済が国家社会を牛耳るシステムの選択を世界に迫ったのだ。今日、多国籍企業の欲望が、金の力を背景として、IMFなどの国際機関から政府機関までをコントロールするようになった。強欲資本主義もここまで来たかという状況である。これに追随して、安倍総理は次のように述べている。今安倍政権で進めているのは、金融政策、財政政策、成長戦略の「三本の矢」の政策である。極めて重要な民間企業の投資を喚起する成長戦略でありますが、成長戦略の重点は新しい時代を作り変えていく産業であります。そして、その新しい産業に今まで成熟していると言われている産業から人材がスムーズに移ってこられるようにするのも我々の使命だと考えています。同時に、そういう人材をしっかり育って、それをサポートしていくことも我々の使命だろうと思います。なぜグローバルな人材を育てていかなければならないかといえば、それは世界経済自体がグローバルになっているからです。日本はその流れに乗っていかないと取り残されてしまいます。グローバルな経済の中においては、グローバルな人材でなければつながっていくことができないし、今後、成長させていくことができないということであります。日本政府の目標は、世界をリードする多国籍企業が最も活動しやすい日本国に変革していくこと。今日集まっていただいたような(諸外国の)皆さんが最も活動しやすい国にしていく事。日本が今後成長していくためには、まさにその一点にかかっているのです。そうしていくことで、日本は未来を勝ち取ってことができると思いますし、まさに、私たちはそれができるかどうか試されていると思っております。(グローバリズムという病 平川克美 東洋経済新報社 123ページ、 137ページより引用)これによると、安倍総理はアメリカの投資家や多国籍企業やアメリカ政府と同じことを考えている。この政策を強力に推進して行くと、日本では規制を撤廃して、いままで政府が社会保障として行ってきたすべての事業を民営化していき、関税をなくして自由な経済活動を推進していくことになる。トランプ大統領さえアメリカの不利になる輸入品には、今まで以上の関税を課して自国の産業を守るといっているにもかかわらずである。外資の投資会社や多国籍企業に、思う存分やりたい放題に儲け口を開放していくことになる。年金制度改革、健康保険制度の改革、医療や介護の改革、農協の改革、教育の改革など徐々に政府は手を引いて、外資をはじめとした民間の企業の参入を積極的に導入する。本来、国民の命に関わるものは、自治体や政府が社会保障制度の一環として取り組むべき課題である。TPPなどの政策の推進はこれらの使命を放棄するものである。ここには24の分野が明記されている。ハゲタカと言われている外国の投資家やグローバルに事業展開をしている多国籍企業に、日本でのビジネスチャンスを大きく広げるということになる。これらの業種に外国企業が利潤をあげることを目的として入ってきた場合、日本の国民は大変な不利益を被る。雇用を奪われたり、最低賃金で働かせられる。自己責任がまかり通り、健康保険などの社会保障制度は形がい化してくる。それは今のアメリカや韓国を見れば一目瞭然である。1%の富裕層と99%の生活困難者の二極分解の時代がすぐそこまで来ている。憂慮すべき時代だ。生活困難者に陥ると人間らしい考え方や行動はできなくなる。毎日食いつないでいくことが精一杯になり、森田的な考え方や生活は考えもしなくなるだろう。国民の生活という観点から見れば、実に残念なことだが、今のところ打つ手が見つからない。最も恐ろしいことは、その方面に無関心で無知であることだ。無知であると、私たちの子孫の未来にとんでもない重荷を背負わせることになるのは目に見えている。私は、森田理論の深耕はもちろんのこと、子育てや強欲資本主義の学習は欠かせないものになってきていると感じている。
2017.04.12
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子供が3歳から5歳ぐらいになると、好奇心を発揮して自発的になり積極性が出てくる。幼児期後期の心の発達課題は、この積極性・自発性を育てることである。同時にきちんとしつけをすることも大切になる。しつけとは、 「していいこと、いけないことをわきまえる」ということである。なぜこの時期にしつけをするということが課題になるかと言うと、自分の意思をはっきりと表現し、積極的に行動ができるようになる時期であるからである。そのような時期であるからこそ、 「していいこと、いけないこと」を親や周囲の人は教えないといけないのである。言い換えれば欲望としつけのバランスをとりながら育てることが大切なのである。しつけとは、 「 ・ ・ ・すべきだ」という社会的要請を子供に受入れさせることである。この段階では子育ての中で父親の果たす役割は大きくなる。これについてこれまでに投稿してきた。しつけは厳しすぎても問題がある。しつけの適度さは、なんで測ればいいのだろうか。しつけの適度さは、 「 ・ ・ ・すべきだ」という社会的要請の強さと、 「 ・ ・ ・したい」という「子供自身の生の欲求」とのバランスを目安にするとよいのである。そのバランスの取り方は非常に難しい。それは子供が小さい時ほど親の力が圧倒的に強い。親が力ずくで子供の意思を押し込むということが重なると、子供は「自分の意志を出す事は悪いことだ」と思ってしまったり、恐ろしくて、自分の気持ちが表現できない子に育ってしまう。そして見かけ上「聞き分けの良い子、素直な子」を演じてしまう。それが思春期になって他人との人間関係でつまずくもとになる。子供の中には持って生まれた性格として「親や先生の期待に応えたい」 「親や先生に褒められたい」という気持ちが強い子がいる。このタイプの子を「いい子タイプ」とでも呼ぶことにする。このタイプの子供は、生まれ持った性格として「社会的要請へ」を受け入れることへの関心が高い。結果として、自分の個人的な「・・・したい」という要求にはあまり関心を向けないことが身についてしまい、自分の個人的な「生の欲求」を出すのは不得意である。というか、自分の個人的な「生の欲求」を自覚することさえなくなってしまうという子が多い。親と子は当然よく似ているので、 「いい子タイプ」の子供の親は真面目できっちりしていて、子供をちゃんとしつける傾向がある。そこで悪循環が起こってしまう。親や先生の意向にばかりに忠実で、自分が本当にしたいことや、自分の嫌いだと言う感情には無頓着な子供が出来上がってしまうのである。でも親や先生の意向に従って生きていけるのはせいぜい小学生までである。思春期に入ったとき、そのような良い子たちは、子供の集団の中で浮いてしまう。自分の意志を積極的に表現できる子に一方的に支配されるようになる。そして、神経症、不登校や家庭内暴力、思春期やせ症、心身症等、色々な不適応症状を出すことになる。(完璧志向が子供をつぶす 原田正文 ちくま新書参照)子供の発達過程では生まれてから1年6か月までの期間は、特に母親による愛着の形成が大切である。その間1歳から2歳までは、同時に歩けるようになったり、言葉で自分の意志を伝えられるようになったり、簡単な服は脱ぎ着できるようになる。これは身辺自立の時期であり、「自立心」という心が芽生えてくる。そういう土台の上に立って、3歳から5歳の好奇心を発揮して挑戦や冒険の時期を迎える。親はハラハラしながら子供の動きを見守る。それと同時に適切にしつけも教え込んでいかなければいけないのだと思う。ここでは特に父親の親としての役割の発揮が重要になる。そこには原田氏が言われるように、厳しすぎても優しすぎても将来弊害が起きてくるのだと思う。森田でいうバランス、調和が大切なのだと思う。難しいが肝に銘じておく必要がある。バランスのとり方としては、まず子供の自主性、積極性、好奇心の発揮を全面的に応援する。次に行き過ぎた行動に対しては、最低限の制御を加える。つまりしつけをしていく。そのようなな経験を積んでいくと、大人になって困難に対して立ち向かっていく力を獲得していくと同時に、場合によっては自ら暴走を抑えて我慢したり耐えたりできるようになる。つまり行動が臨機応変になり、傍から見るとバランスがとれており違和感がない状態となる。
2017.04.11
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現在、国会では「テロ等準備罪」が審議されている。これはテロ組織、暴力団、薬物密売組織、一般の団体などがテロ行為などを計画し、準備行為を行ったとき、摘発できる様にするという法律である。今まではテロ行為を起こした段階で初めて摘発が可能であった。この法律が施行されると、準備行為をした段階で、直ちに関係した人すべてを拘束できる。確かにオウム真理教のように宗教法人として認可されながら、途中で目的を変更し、サリン事件などのテロ行為を起こす団体については未然に防ぐという事は法治国家として当然のことである。しかしこの法律は拡大解釈するととても危険な面を持っている。たとえば、原発反対運動、沖縄での駐留アメリカ軍の移転問題、農産物の完全自由化、労働争議、国会での強行採決に対する反対デモなどである。反対デモが過激となり、時には実力行使に及ぶこともある。この法律を盾にして逮捕される人も出てくる。またこの法律が施行されると、怪しいと思われる団体行為に対して警察によって事前調査がされる。電話、ブログ、ホームページ、ツイッター、フエイスブックなどの検閲が強化される。幅広く市民運動を監視することが常態化する。反対運動の状況、首謀者、協力者などが調べあげられる。現在、政府は277の犯罪に限って実施すると明言している。ただし、法律は解釈の違いによっていろいろと都合のよいように運用されると言う面がある。この問題を考えるにあたっては、今の世界を牛耳っているのは誰かと言う視点から見ていく必要がある。今の世の中を牛耳っているのは、アメリカを中心とした投資会社とフォーチュン500にランクインしている多国籍企業である。これらの会社は、今や自分たちの自由な経済活動を阻止する場合は、たとえ国家であろうとも容赦しない。国家を相手に訴訟を起こして勝利するだけの力をもはや獲得している。つまり、国はそれらの企業群に支配されている存在である。政府はそれらの会社の傀儡政権となっている。ですから、 「テロ等準備罪」はそれらの企業群にとって、どんなメリットがあるのかという視点から検討してみる必要があるのだ。それらの企業群は世界中のあらゆるところから収奪を繰り返し、多くの人を貧困に追い込んでいる。人間は生きるか死ぬかという状況に追い込まれた場合、切羽詰まって自分の命をかけて最後の抵抗をする。それが現在、世界の各地で起きているテロ行為である。人間は誰でも自分の命は欲しいものだ。その最低限の生活と自由と尊厳をふみにじられたとき、自分の命をかけて最後の抵抗を見せる。これらに対して、これらの企業は国際組織犯罪防止条約(TOC)を批准し、犯罪人の引き渡し、国際的捜査協力体制を敷いている。原因の根本的な解決ではなく、対症療法で対応しているのだ。日本は、まだ加盟していない。この条約に加盟するためには、 「テロ等準備罪」の成立が欠かせないのだ。日本はこの条約に加盟することが日本の果たすべき役割と言っている。この法律は、昔は「共謀罪」として、国会審議され、否決されてきた経緯がある。これは戦時中の「治安維持法」を連想させるもので、言論の自由を奪うものという先入観があった。一般の人に受け入れられりやすいように、その名前を「テロ等準備罪」に変えて審議されているものである。多国籍企業群は今後、日本において食料の完全自由化、医療保険や生命保険の自由化、国民皆保険の制度の形骸化、年金制度の形骸化、病院や学校の株式会社による運用等を迫ってくるのは必至である。これらの進行を妨げようとして、一般の市民運動が沸き起こってくることは当然考えられる。その時にその市民運動を最初からあきらめさせる法律がこれである。さらに過激になった市民運動を制圧し、沈静化するために役に立つ法律が「テロ等準備罪」という法律であるということ、忘れてはならないと思う。
2017.04.10
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2017年4月号の生活の発見誌にこんな記事があった。千歳病院院長の芦澤健先生の話である。芦澤先生は、 「歩く森田」 「歌う森田」を勧めておられる。リタイア後の高齢者の目的喪失によるうつや不安のとらわれには、ウォーキングを勧めておられる。四六時中具合が悪いと言って横になることは、余計に症状を見つめ、具合が悪くなると言われている。最近は高齢者でもジムに行って、水泳をしたり、運動をしている人もいる。私は現在、マンションの管理人をしているので、仕事の中で無理なく運動するようにしている。仕事を始める前には必ず準備体操をする。特にスクワットは欠かせたことはない。それと、特によいのは、階段の上り下りである。 10階建てのマンションであるが、エレベーターは極力使わずに階段を上るようにしている。それも一段ずつではなく、二段ずつ上ることを心がけている。これは老人ホームで行っている「どじょう掬い」や「獅子舞」の身体の動きを円滑にするのに役に立っていると思う。次に芦澤先生は、不安の中枢の扁桃体の活動は、呼吸や脈拍が早くなることとリンクしている。脈拍は意識的には調整できませんが、呼吸をゆっくりすることはできます。ゆっくりした呼吸は、扁桃体に作用して不安を軽減します。吸気は早くして良いのですが、呼気をゆっくりとすることが良いのです。こうしたゆっくり吐く呼吸は、太極拳、ヨガ、 禅、瞑想などにすべてに共通しています。しかし、これらを習得するには訓練が必要です。訓練がいらないリラックスができる呼吸は歌をうたうことです。呼吸そのものを意識せず、歌を楽しむ事が、結果として不安のない状態を作ります。生活の発見会の集談会の懇親会でも時々カラオケに行くことがある。ところが、全体的に見るとカラオケという言葉自体を敬遠している人も多いように感じる。実は私もそうでした。元々音痴でカラオケは合わないと思っていたのです。それは高音部分の声が出ない。また、音程やリズムが取れない。これは先天的なものだと思っていました。しかしそれは間違っていました。カラオケの上手な人に聞くと、高音部分の声を出すのは、日頃の生活の中で思いっきり大きな声を出す習慣をつける。例えば、車やバイクの運転中などは人に迷惑がかからないときに行うのです。音程やリズムについては、歌手の歌をPCM録音機などに録音して、細切れに再生して何回も聴いて練習してみることです。ある程度歌えるようになると、それを毎日練習することです。私はバイクの移動時間のなどにつねに練習しています。毎日の練習を怠ると勘が鈍るように思います。現在、毎日練習している曲は、 「娘よ」 「博多時雨」 「還暦祝唄」 「祝い船」 「宗衛門町ブルース」 「柔」 「南部蝉しぐれ」 「男はつらいよ」 「紅の船唄」 「安芸灘の風」の10曲です。4月15日には親しい友人たちとカラオケ大会があります。今から楽しみにしています。実際にはこの中から3曲程度に絞り込む予定です。カラオケは自分には不向きだと思って、誘われても逃げまわっていたのが、今では人を誘うようになってきました。カラオケは一旦身につけてしまえば、友人も増え、人生の潤滑油のようなものになります。
2017.04.09
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官民連携の「プレミアムフライデー」が、平成29年2月24日(金)から実施された。プレミアムフライデーに登録した企業は今後、強制的に月末の金曜日は15時で仕事を終わる。これは、幸せや楽しさを感じられる体験(買い物や家族との外食、観光など)ができる時間を作ることで、次のような効果が期待されている。1 .充実感・満足感を実感できる生活スタイルの変革の機会になる。2 .地域などのコミュニティー機能強化や一体感の醸成につながる。3 . (単なる安売りではなく)デフレ的傾向を変えていくきっかけとなる。よくわからない理屈だが、官民で連携し、全国的・継続的な取り組みとなることを狙っている。ロゴマークも作り、ロゴマーク申請企業は3,930社である。プレミアムフライデーの第一の目的は、ゆとりある生活ではなく、消費の拡大にあるといわれている。消費を拡大することで、デフレ基調の日本経済を変革しようとしている。働いている人はお金はあるが、それを使う時間がないのでそのきっかけ作りをしているのだという。私はこの試みは大企業と政府から提案されたということに注目している。ねらいは別のところにあるとみている。大企業の正社員の給料は高い。ボーナスの支給も重荷だ。そして毎年昇給がある。さらに厚生年金、健康保険も企業が半分は持っている。こんな国は世界を見渡してもそんなにはない。これは裏を返せば、これらは海外展開している日本の企業が外国企業と世界で戦っていく上において不利になる。人件費の負担が多すぎるのである。この問題を解消して人件費の負担を軽くしようとしても、労働組合の力が強くて進展しない。そこでこれまでにグローバル企業は人件費の安い海外に工場移転を進めてしのいできた。でも国内の高い人件費を削減することを決してあきらめたわけではない。今まで日本では、1986年施行の労働者派遣法とその後3回の法改正で、正社員を非正規労働者に切り替えてきた。2016年度は正規社員3298万人に対して、非正規社員1983万人となっている。37.5%の人が非正規社員である。大企業でも派遣労働者が多い。非正規社員は正社員に比べるとボーナスもなく、退職金制度もなく、年俸も格段に低水準だ。そのうえ雇用も不安定で、企業の福利厚生の対象外である。その結果企業の負担は軽くなった。半面多くの国民の生活は、短期間のうちに随分窮地に追いやられているのである。国民の多くが総中流家庭といわれていたのは遠い昔の話だ。企業と政府はこの路線をさらに強力に推進しようとしているのである。現在、サービス残業はどこの会社でも暗黙の了解となっている。それをバックアップするかのように、国会では「残業代ゼロ法案」が議論されている。今は管理職になる一歩手前の「高度専門職」のみの適用といっているが、これは派遣法の時のようになし崩し的に拡大されていくだろうとみている。これは働く労働者にとってみれば、当然労働条件の悪化につながる。うつや過労死などは増えることはあっても減ることはないだろう。労働時間の削減といえば、アメリカのオバマケアという国民皆保険を導入した際に問題となった。社員50人以上の企業がオバマケアとしての健康保険を提供した場合、人件費が今までよりも上がることになった。物価の高いニューヨーク州やニュージャージー州なら一人当たり時給3.79ドルも上がることになった。人件費の高騰を抑えたい企業は色々と対策を立てた。最終的に政府に罰金を支払わなくてもよい方法を思いついたのだ。それは今いる正社員の勤務時間を減らし、大半をパートタイムに降格するパターンだった。そうすれば短時間労働者として、企業保険への加入は免除されるのだ。今まで雇用主を通じて医療保険に加入する場合は、個人で入るよりずっと安く条件が良かった。企業がこのような対策をとったことで、フルタイム労働者がパートタイム労働者に降格されて給料が減らされた上に、条件の良い企業保険からも締め出される結果となったのである。その結果、中流以下の労働者の生活はますます苦しく、無保険者が増えていったのだ。これは国民の安定的な雇用を確保して、国民の福祉に寄与するという責任を放棄した形となった。アメリカで考え付いたようなことはいずれ日本でも起こるといわれている。プレミアムフライディは、これから先中小企業にまでどんどん拡大されていくだろう。すると、正社員から契約社員、アルバイト、パートへと労働条件の悪化、給料や福利厚生がカットされて、国民の大多数の人は生活がますます苦しくなる方向に向かうと思う。それは日本のグローバル企業が世界の舞台で勝ち残っていくためには、今のかかっている人件費をどんどん抑制していかないと不利になるからである。あるいは淘汰されてしまうからである。こんなことは考えすぎだと思われる人もいるだろう。だが政府や大企業はそんな風には考えない。ちょっとした突破口さえつかめば、それが自分たちの目指す方向に大きく前進することをよくわかっているのだ。そして国民が気づいたときはもう手遅れだったという事態に追い込みたいのだ。そういう視点でプレミアムフライディを分析する視点も必要であると考える。
2017.04.08
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和歌山県白浜にアドベンチャーワールドがある。ここで絶滅危惧種のパンダが飼育されている。アドベンチャーワールドでは15頭のパンダの繁殖に成功している。パンダは世界各地で飼育されているか、途中で死んでしまうのが2割もあるという。パンダの飼育に最も成功しているのがこのアドベンチャーワールドなのだ。パンダは200グラムという小さな体で生まれてくる。母親が踏みつけてしまうことがあるので、一般的には生まれるとすぐに親から隔離して人間の手で育てられる。母親に授乳をさせないで、人間が哺乳瓶でミルクを与える。これは、一見してパンダの生育には理にかなっているように見える。ところが、そのようにして育てられたパンダは大人になって好奇心がなく積極的にならないという。また、子育てをしなくなるという決定的な問題が発生する。クローズアップ現代+では、アドベンチャーワールドでのパンダの出産から子育てを紹介していた。母良浜(ラウヒン)が、子供結浜(ユイヒン)を生んだ。最初、母親は出産で疲れたのか、まったく授乳をしなかった。それでもアドベンチャーワールドの飼育員は、注意深く見守るだけで子供パンダを母親から引き離すことはしなかった。すると、しばらく経ってから、母親は子供を抱きしめるようになり授乳を始めた。これは産毛のような状態で生まれてきた子供の体温の低下を防いでいるのだという。その後、しきりにお尻を舐め始めた。これは排泄を促しているのだという。そのせいで肛門が赤くただれていた。その時だけは治療のため一時的に母親から引き離した。その時母親は気が狂ったように飼育室の中で暴れていた。母性が強いというのがよくわかった。治療が終わった子どものパンダは母親の元へと返され、その後は順調に成長していった。パンダの成長は早い。3ヶ月ほど経った時点で歩き回るようになり、好奇心旺盛で盛んに動き回るようになった。ここまでくると、一安心である。順調に大人のパンダに成長していくことであろう。この話は人間の子育てにとっても大変参考になる話である。人間の場合は生まれてから1年6ヶ月の間は母子密着が欠かせないという。この間、何らかの理由で母子密着が阻害されると、その後愛着障害が発生する。基本的な人間関係である他者への信頼感が得られなくなるのである。いつも他人の目を意識しておどおどしたり、好奇心を発揮して様々なことに挑戦することができなくなる。対人恐怖症の人は、自分では判断できないかもしれないが、この愛着障害がその原因となっている可能性がある。現代社会では、生活のために出産が終わると、子供を保育園に預けてすぐに職場復帰をする場合が多い。これは子供の人生において、大きな重荷を背負わせることになるという認識は持っておいた方が良い。その認識がないと子供とのかかわり方が暗中模索になる。不幸にして愛着障害を抱えた人はどうすればよいのか。愛着障害という生きづらさは大人になってからも修復可能であると精神科医岡田尊司氏は言われている。「心の安全基地」となるような人間関係を自分の生活の中で築いていくことである。集談会に参加する意義の一つはまさにこの点にある。
2017.04.07
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昨年まで広島カープに在籍した黒田博樹さんは、野球解説者などをされている。森田理論に通じるような、なるほどなと思うような解説をされる。黒田さんが先発投手として心掛けていた事は6イニングを3点以内に抑えることだった。それができれば先発投手としての責任は果たせる。完璧に相手をねじ伏せる必要はないといわれる。むしろそのことに固執すると、ピッチングは反対の結果を招くといわれる。先発投手は、それを目標にして、シーズン中はずっと継続してほしいと言われる。「完璧を求めるな」と広島の若手ピッチャーによくアドバイスされている。そのためには、できれば、球数は100球程度を目安にしてほしいそうだ。ツーシームなど動く球をストライクゾーンに投げ込み、早めに打たせて取る投球を心がけて欲しい。黒田投手は、フルカウントから粘られて四球を出すなら、初球を安打された方がいいと思っていた。それで球数が抑えられるならそのほうがよい。 1人のバッターにファールで10球も粘られるようだと6イニングまでもたない。二死無走者で打者筒香(DeNA)ならば、本塁打以外は許されると考えていた。左前打はokという配球で勝負した。特に晩年はすべての打者を抑えにいかなかった。長いイニングを投げる先発ピッチャーは、すべての打者を抑え込もうと意気込むと失敗する確率が高くなる。ヒットは打たれても、点を与えなければokだ。たとえ、点を取られても最少失点で切れ抜ければよい。ゆとりのある気持ちで常に打者に真っ向勝負する気持ちが大切だ。広島カープの開幕3試合を見て感じたことがある。この3試合で内野の失策は5つあった。その時ピッチャーがマウンドで落胆しているケースがあった。こればまずい。野手はピッチャーの姿を見ている。そういうネガティブな感情は野手にも伝染していく。心の中では穏やかでなくてもそういう姿を見せてはならない。平静を装って、気持ちを切り替えて、次の打者に向かっていく闘争心が必要だ。黒田博樹さんは現役時代、データを重視しておられた。対戦相手の1つ前の試合は必ずチェックしていた。好不調の波、得意、苦手なコースだけではない。性格や各打者が置かれた立場も可能な限り知ろうとした。例えば、 一軍や二軍を行き来する打者は、四球より安打が欲しいと力む傾向がある。調子がいいベテラン打者は、じっくり球を待つことができ、好球必打することも多い。それらの情報を活用すれば、ボール球で誘ったり、あっさりとストライクが取れたりする。マウンドに立つ前から、ビデオやスコアラーから上がってくる情報をよく見て、自分なりに分析しておくことが欠かせない。そうしないと精神的に優位な立場で勝負することができない。(中国新聞 2017年4月3日朝刊参照)
2017.04.06
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イラク戦争が終わった後、イラクが民主化され、国民が幸せになったのか。その答えは否である。今日はどうしてそうなったのかを考えてみたい。戦争後、連合国暫定政府としてポール・ブレーマー指揮官がイラクにやってきた。そしてイラクの民主化と称して100本の法律を作り即施行させた。これは100の命令といわれている。内容は、それまでイラクの国内法で強固に守られていた経済と産業を解体するものだった。国営企業200社はあっさりと民営化され、外資系企業に100%の株式所有と40年の営業権が与えられた。地場産業はことごとく解体させられ、すぐに外資系企業が入り込んできた。オーナーが外国法人に変わると、従業員の賃金や労働条件は「グローバル市場における価格競争力強化」に合わせ、大幅に切り下げられた。イラク人失業者の急増とコスト削減で急速に拡大した収益は、 1ドルたりともイラク国内に残らなかった。外国企業が国内で得た売り上げの一部分を政府に還元するという通常規定が撤廃され、利益は全て国外に送金されたのだ。さらに、外資系企業が参入しやすくするために、連合国暫定当局は、それまで40%だった法人税を一挙に15%に削減、イラクを出入りする物質に係る関税、輸入税、ライセンス料などもすべて廃止した。これらの政策により、イラク国内に大量の外国製品が流れ込み、イラクの国内産業を次々に破たんに追い込んだ。銀行とマスコミの株式は最大50%まで解放され、金融と情報は外資系企業にしっかりと抑えられていた。81番目に作られた法律は、農業政策に関するものだった。その名を「植物品種法」という。イラクの農業は、アメリカの多国籍企業であるモンサント社などが主導していくという。今までイラクの農家が使い続けてきた種子は廃止した。そもそもアメリカはイラクの種子センターに保存されていた種子施設はすべて爆撃して破壊していた。どうしてそんなことをする必要があったのか。それはその後のイラクへのアグリビジネスの行方を見ればすぐにわかる。新たにアメリカで作られている遺伝子組み換え種子を導入した。この遺伝子組み換え種子は「ターミネーター種子」と言われ、翌年においても発芽しない。つまり自分の家で種子を用意することはできない。遺伝子組み換え食物がガンなどを引き起こす可能性があるといわれているが、検証はされていない。モンサント社の遺伝子組み換え種子を使用する農家に次のようなライセンス契約を結ばされた。・自分の農家でとれた種子を翌年に使用することは禁止する。・毎年種子はモンサント社から購入する。・農薬は必ずモンサント社から買う・毎年、ライセンス料をモンサント社に支払う。・何かトラブルが起きた際は、その内容を決して他者に漏洩しない。・契約後3年間は、モンサント社の私設警察による農場立ち入りを許可する。なんという傲慢なライセンス契約を押し付けていることか。この結果、イラクの農地をアメリカのアグリビジネスの国外生産地にして、イラク農民を現地の雇われ、労働者にしてしまったのだ。そこで、大量生産される農産物は、イラク国民の口には入りません。全て、日本などのグローバル市場に輸出して利潤を生みだしているのです。こうしてみると、イラク戦争はイラク国民を解放し、民主化を推し進めるものであったのか。そうではなく、アメリカの巨大な軍事産業と多国籍企業群を支えるものであったのではないか。その証拠にアメリカは建国以来戦争をしていなかった期間は少ししかない。さらに徹底的にイラク国内を破壊して、国際投資会社とグローバルに事業を展開する多国籍企業が自由に利益を獲得できるようにする地ならしをしていたのではないか。そのイラクはもはや独立国家として自立することができなくなった。イラクの持っていた土地や財産、人間として生きる尊厳まで収奪されてしまったからだ。イラク国民はそのために犠牲となり、生きる希望をなくして、生活困難者として細々と生きている。もう以前のような人間らしい生活を取り戻すことすらできなくなっている。人類ははたして、こんなにも愚かでむごいことを平気でする生き物であったのであろうか。「(株)貧困大国アメリカ 堤未果 岩波新書 参照」
2017.04.05
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今日は社会からの「かくあるべし」の押し付けについて考えてみたい。個人の「かくあるべし」については、森田理論学習でよく学習してきた。でもなかなか「かくあるべし」的思考から抜け出ることはできない。どうして「かくあるべし」を少なくすることが難しいのか。それは森田先生によると、教育の弊害であるといわれている。小さい時から社会の中や家庭の中で「かくあるべし」教育で洗脳されてがんじがらめになっているというのである。社会から洗脳された「かくあるべし」の押し付けはどんなものがあるのだろうか。・まず、この世は競争社会であり、他との競争に巻き込まれている。そして競争にはいつも勝たなければならない。競争に負けた人は社会から見捨てられ、落ちぶれた生活を余儀なくされる。・すべての人は、国や会社に役に立つ、能力のある有能な人間にならなければならない。・国益を守るために他国と交渉を有利に進めて勝ち残らなければならない。場合によっては戦争などの暴力に訴えてでも勝ち抜かなければならない。負けるとその国に支配される。・経済は常にプラス成長を続けなければならない。マイナス成長になると貧しくなり、自滅していく。そのためには、緩やかなインフレ基調を維持することが必要である。・消費は美徳である。物を大事にして、修理しながら末長く大事に使うというようなことはしてはならない。まだ使えるものでも、新しく便利なものができれば、すぐに買い替えるのがよい。大量消費の社会の実現こそが人間を豊かにする。社会がこのような「かくあるべし」をもち、それに沿って競争社会を作りだし、能力の有無によって人間の優劣を判定している。1990年ごろまでは、終身雇用、年功序列、護送船団方式のもとで、今よりは競争が緩やかであった。1億総中流家庭と言われていたころのことである。ところがバブルがはじけたころから、急に風向きが変わってきた。生活必需品が各家庭にほぼ行き渡り、日本では容易にものが売れなくなってきた。縮小された市場を巡って企業間競争が繰り広げられた。会社と個人は否応なしにその戦いの場に組み込まれて、勝ち組、負け組に二分された。負け組企業は拓銀、山一証券など大企業でも倒産に追い込まれた。生き残りのために企業ではM&Aが繰り返された。社名が幾度も変わる人もでてきた。個人もその激流に飲み込まれていった。個人には厳しい売上ノルマが課せられた。それを達成するために会社は戦場のようであった。にもかかわらず、ノルマを達成する会社、営業マンはごくわずかであり、それ以外の大多数の会社や社員は倒産、リストラ、出向の逆風にさらされた。過労死、自殺が問題になった。個人は他人との競争、ライバル会社との競争に勝つことだけが至上命題であった。生きるか死ぬかをかけた能力主義が大手を振るってまかり通っていった。負け犬となった人たちは転職を余儀なくされて、非正規社員として社会保険、給与も最低ランクに抑えられていった。中流家庭はどんどん少なくなり、富める者と貧しいものの二極分化が起きてきた。現在さらに輪をかけて悪化している。先進国はグローバル化、国際化の社会に突入したのである。日本では、人口減少、高齢化に見切りをつけて、大きな企業はほとんど海外展開している。自動車業界はその典型である。今や国内に胡坐をかいていては、その企業がもはや存続できなくなってきたのである。それでも外国のライバル会社との競争に負けると市場から淘汰されるので必死である。そのため情報化、IT化は世界を駆け巡るようになった。会社内の公用語は英語に切り替えている企業もでてきた。会社は、国際的に通用する能力の高い人間を求めだした。このような社会では、まず個人の存在価値を認めようなどということはどうでもよいということになる。競争に勝ち、会社に利益をもたらす人間だけが価値があるということになる。それが人間評価の最も大切な基準となる。これが学校教育、家庭教育に至るまで貫徹されているのである。森田でいうような「今のあなたのままでいい」なんて悠長なことを言っていると、真っ先に社会から見捨てられてしまう。私たちはこのような社会に飲み込まれているのである。社会による「かくあるべし」が生まれたときから骨の髄まで貫徹されているのである。その「かくあるべし」がどんなに人間の尊厳を軽んじていることか。これは神経症に苦しんできたものにとっては身につまされる話である。過労死や自殺者年間3万人という数字はそのことの表れのような気がする。人間にどんどん競争をあおるような社会の出現は、人類の将来を暗澹たるものに変えていくだろう。私は、森田理論学習をして、人間の生き方を見つめてゆくことがなかったとしたら、その誤りに気がつくことはできなかっただろうと思う。社会による「かくあるべし」の押し付けは、人間をどんどん不幸にしていくということを、これからも訴え続けてゆきたい。
2017.04.04
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森田先生は人の気質を7種類に分けている。(森田正馬全集第五巻364ページ)それによると、我々神経質のほかに、ヒステリー性、意志薄弱性、発揚性気質、抑鬱性気質、偏執性気質、解離性気質などがある。世の中は、いろいろな気質の人が入り交じって、助けたり助けられたりしながら生活している。さまざまな対立はあるが、異種混合の方が全体としてはうまくいっている。同じ種類ばかりの烏合の衆は種の絶滅を招くことがある。神経質性格者同士の結婚よりは、他の気質の人と結婚する方がバランスがよい。同じ神経質同士は、磁石でいえば、プラスとプラス、マイナスとマイナスを無理矢理ひっつけようとするようなもので反発することが多い。会社などでも積極的で営業力のある人ばかりでは、ザルで水をすくうようなもので決して健全な会社経営はできない。また反対に事務処理能力に長けている人ばかり採用しても、売上が上がらない。つまりバランス・調和を意識しない取り組みはいずれ先細りとなって破綻する。ところで野菜はたくさんの科に分かれている。アブラナ科、アカザ科、セリ科、ユリ科、キク科、ナス科、ウリ科、マメ科、シソ科、イネ科、バラ科、アオイ科、タデ科、ウコギ科などである。それぞれに人間以上に個性豊かな野菜たちが揃っている。野菜たちは個性が強いので同じ野菜を作り続けると連作障害を招く。収穫量が減収して、土壌の微生物のバランスが悪くなる。しかし、個性の強い野菜たちをうまく組み合わせて作付すれば、病気も少なくなり、収量も軽減することはない。むしろバランスが良くなって、土壌環境がよくなり、かえって収穫量は増えてくる。自然の摂理を利用すれば万事うまくいくようになっているのです。しかし現状の日本の野菜作りのやり方は全く違う。日本には嬬恋のキャベツ、信州の白菜、岡山県の蒜山や三浦半島の大根、千葉の落花生、十勝のジャガイモ、高知のナス、宮崎のトマト、鳥取や熊本のスイカ、静岡や夕張のメロンというように産地化されている。規格も厳重に管理されている。これは政府が進めている産地化という政策である。私はこの政策は大いに疑問であると思っている。産地化されると、それ以外の作物は作らない。単一作物の連作となる。すると連作障害が起きてくる。さらに困ったことに次第に収量が低減してくる。その結果、化学肥料を目一杯使い、病害虫防除のために多農薬栽培となっている。なかには土壌消毒をしていったん無菌状態にしているところもある。そのやり方は自然を人間の意のままにコントロールしようとする態度である。自然を人間の都合に合わせてコントロールしようとすると、いつか自然から大きなしっぺ返しを食らうということが分からないのであろうか。そうした野菜作りは野菜にとっても、それを食べている人間にとっても不幸な状態ではないだろうか。そういう意味では、土地を持っている人は、少量多品種で輪作を基本にした自給野菜作りをした方がよいのではないか。そして、食べ切れない野菜を集めて、農地を持たない都会の人に安く分けてあげる仕組みを作った方がよいと思う。これが本当の意味の地産地消の考え方である。有機物の堆肥を使った新鮮な野菜作りは、少農薬ですみ、しかも安全でもある。そうすれば自然循環を基本に据えて、自然と人間の共存できる社会になるのではなかろうか。森田でいう「自然に服従する」ということは、そういう方向に向かうべきであると考える。
2017.04.03
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キュウリには巻きひげがあります。これは自動車のサスペンションのように巧妙にできています。露地栽培でキュウリを育てる時は支柱を立てます。そこに巻きひげが巻きつきます。何のために巻きひげというスプリングのようなものがあるのでしょう。それはこの巻きひげを切り取ってしばらくするとすぐに分かります。まっすぐなキュウリができなくなりヘボ果が多くなるのです。巻きひげは良果生産の役目を果たしているのです。つまり巻きひげはキュウリの大きな葉を風の揺れから防いでいるのです。キュウリは葉が動くと良果はとれないし、果の太りも遅くなるのです。それを人間の都合で、作業の邪魔になるからと言って、巻きひげというスプリングをとってしまうと、形のよいキュウリはできないのです。農業にはこれはと疑問に思うことが多々ある。例えば、豚を狭いところに押し込んで飼育していると豚にはストレスがたまる。そのストレスを発散するために他の豚の尻尾をかじり始める。すると血が出て汚くなるし衛生上よくないので、あらかじめ人間が豚の尻尾を切り取ってしまう。このような劣悪な環境の中で、豚は塀で囲まれた工場の中で飼育されているのだ。人間は豚に対して二重の苦しみを与えていることになるのではなかろうか。ブロイラーにしてもそうだ。暗い空間に押し込めて、餌を食べ放題にして、早く太らせて出荷を急ぐ。そのために大量の成長促進剤を与えている。無理に生育されているので出荷前に病気で亡くなる鶏が1割程度いるという。病気予防の抗生物質を大量にえさに混ぜているのにそんな状況だ。ブロイラーは一回も太陽の光を浴びることなく処理されてしまう。そんなブロイラーをスパイスで味付けしてフライドチキンとして販売しているのだ。ニワトリは身動きできないケージに入れられて一生を過ごす。まさに生き物を工場の流れ作業のような施設で飼育されている。エサはすべて輸入品。抗生物質や成長促進剤が含まれている。ニワトリは卵を生む機械として扱われる。記録をとられて、成績が悪くなると即廃鶏として処分される。肉牛はどうか。肉牛も広い牧草地で育てられているわけではない。コンクリートで囲まれた狭い空間に押し込められて、運動をさせないで飼育されている。サシを入れるためもう食べられないと言っているにもかかわらず、どんどん食べさせる。筋肉の間にあんなに脂肪が入りこむというのは自然界の牛にはあり得ないことである。そのエサの中に他の牛の骨が混ぜられていた。これが狂牛病の原因だったのだ。こんなものが安全で安心な食べ物といえるのだろうか。食料が利潤を生む道具として取り扱われているのだ。現代の農業というのはあまりにも自然を人間のコントロール下に置こうとしているのではないか。人間の都合で問題を作りだして、その対症療法でさらに問題を作りだすという悪循環に陥っていないだろうか。森田先生が現存されていたら、そういう農業生産の在り方に対して、手厳しい批判を展開されているだろうと思う。自然を無視して人間の都合ばかりを優先していると、そのうち自然から手痛いしっぺ返しを受けることになるだろう。自然との共存共栄を無視して、自然を人間の意のままに取り扱っていると人類の将来はない。
2017.04.02
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神経症で苦しんでいるときはマイナス思考、ネガティブ思考に陥っている人が多いと思います。今日はこのことについて、脳との関係で考えてみたいと思います。悲観的な言葉を心の中で何度も繰り返していると、不安や恐怖の対応を司っている「扁桃体」が機能不全に陥ります。さらに客観的な見方に影響力を及ぼしている「前帯状回」が機能しなくなります。その結果、思考が停止して、もはや自分はダメな人間としか思えなくなってくる。それらを打ち消すような客観的で多面的な思考ができなくなるのです。例えば、自分は何をやってもダメだ。何をやっても失敗をする。頑張っても無駄だ。いつも人に馬鹿にされている。いつも人に嫌われている。自分は醜い。自分は何の取り柄もない。自分には能力がない。どうせ自分が必要とされていない。自分には明るい未来はやってこない。消えてしまったほうがいい。などというような考え方を常日頃しているとそうなります。いつでも、きっと、どうせ、などという言葉を日常的に使っている人は注意する必要があります。ネガティブ思考、マイナス思考、自己否定が脳の中で固着してしまっている状態だと思われます。そのようなことを繰り返していると、自己評価が自己嫌悪、自己否定のほうに片寄ってきます。事実を無視し、先入観や決め付けで自分を否定して、それがやがて確信に変わり、信念となってきます。この状態は、自分が自分自身をマインドコントロールしているようなものです。つまり、マイナス思考やネガティブ思考ばかりしていると、脳の中で扁桃体や前帯状回が正常に機能しなくなり、脳が萎縮してくる。その結果、ますますマイナス思考やネガティブ思考は増悪してくる。もはや誤った認識、つまり主観的な自分が優位に立ち、客観的な立場から自分を見ることができなくなっている。悪循環のスパイラルに陥り、容易に脱出できなくなります。このように「俺はダメな人間だ」と思ったときに、客観的な自分が優位に立ち、 「どうダメなのか」 「ダメだと言う確たる証拠はあるのか」と、そのネガティブ思考を否定することができれば、それ以上自分を否定することはなくなります。そのためにどうしたらよいのか。森田理論学習では「精神拮抗作用」のところでこの学習をします。この精神作用は、もともとすべての人間に備わっている機能である。つまり、ある1つの考えが起きると、それを打ち消すような考えが同時に沸き起こってくる。この機能があるおかげで、バランスが取れた行動ができる。また欲望の暴走を防ぐことができる。欲望と不安の調和がとれて生活が破綻することを防いでいる。神経症に陥ると、考えることが無茶で大げさになる。マイナス思考ネガティブ思考一辺倒になる。自己嫌悪や自己否定に陥っている。事実を無視して、ネガティブな先入観や決め付けをしている。森田理論学習の中では、これらの誤った思考パターンは「両面観や多面的な見方」に修正していく必要があるといいます。そのための手法として、認知療法や論理療法があります。これらは、一面的な見方を別な見方を意識してすることで調和のとれた客観的な見方に変えていくことである。実際にはコラム法などを用いて行う。認知の修正はもちろん1人でもできるが、カウンセラーの人等の力を借りて行うことが効果的である。また集談会では、具体的な出来事に対して、自分にどのような考えが沸き起こってきたのかを発表する。そして他の参加者からそれ以外の別の見方・考え方はできないのかどうかを聞いてみる。このようにして、絶えずネガティブに片寄った考え方を「両面観や多面的な見方」に切り替えていく癖をつけるようにするとよいと思われます。
2017.04.01
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