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「チンパンジーの世界」を書いた西田利貞さんの話である。狭い日本に1億2千万人もの人が暮らしています。その日本人は発展途上国から見るととても贅沢な暮しをしています。でもそれは地産地消で成り立っているわけではありません。財力にものを言わせて食料や原材料のほとんどを他国から輸入しているのです。本来その国の人たちの生活の糧となるものを財力によって強制移転して成り立っているのです。例えば日本は、紙を無尽蔵に使っていますが、その原料のパルプはほとんど輸入に頼っています。そのためチンパンジーの生活圏の樹木がどんどん伐採されています。アフリカ、アマゾン、インドネシア、ボルネオ、シベリアの森林はどんどん減少しています。つまりチンパンジーなどの生活圏を破壊して、自分たちの贅沢な生活は成り立っているのです。反面今や日本の食料の自給率は風前の灯です。食料を輸入に頼って、飽食三昧の生活をして、不安を感じない感覚はおかしくないでしょうか。途上国から見れば、自分たちの食料を略奪されているのと変わりないのです。そういういびつな生活はいつまでも続くでしょうか。「持続可能な社会」「持続性のある開発」「持続性のある経済成長」という言葉を耳にします。裏を返せば、今までのやり方では人類が生き伸びることができない時代に突入しているということを示しているのではないでしょうか。現在贅沢な暮しをしているのは日本、欧米、オーストラリア、アラブ首長国連合等です。今後はブラジル、ロシア、中国、インドなどが贅沢組に加わってくることが予想されます。世界的規模で食料や水の争奪戦が始まり、食料の高騰が予想されます。世界的な食料の不足は紛争や戦争の原因となります。自分たちがいくら優れた技術を持ち、物作りで生活を成り立たせるといっても、食料を手に入れることができなければ生きていくことはできません。その変化は、ある日突然にやってくるのです。日本では食糧不足が発生して、飢餓に苦しむようになるかもしれません。その時になって真摯に反省してもすでに時遅しでなすすべはありません。そういう意味では、永遠の経済発展を追求していくよりも、今は生きていく哲学が必要な時代ではないでしょうか。最近世界各地でテロが問題になっています。テロは許されるものではありません。でも自分の命を投げ捨てて自爆テロを引き起こす人たちのやむにやまれぬ気持にも耳を傾けてみる必要があるのではないでしょうか。彼らは私たちのように贅沢三昧の生活をしているのでしょうか。その日の食料がない、住む家がない、仕事がない、家族が殺された、生活基盤が破壊された、困った時の支援がない人たちが多いのではないでしょうか。その人たちが先進国の裕福な人たちを見た時に、なんともいえない深い憤り、怒りを感じるのは、当然のことではないでしょうか。中東の過激化組織を叩き潰しても、次にまた別の勢力が同じようなテロ組織を作ってくると指摘する人もいます。まずは私たちが欲望の暴走に対して真摯に反省して、バランスのとれた森田的な生活に戻ることが大切なのではないでしょうか。
2017.09.30
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横浜高校の渡辺前監督は守備練習の時、守備の上手な選手にはやさしいゴロを打ってやるという。それは基本を忘れないようにさせるためだ。うまい選手は何をやらせてもうまい。でもうまい選手は基本を忘れて、手を抜いたりすると元に戻すことが難しい。簡単なゴロをなめてかかる。すると大事な試合でまさかということが起きる。足の運びやグラブのさばきを一つ一つ確認できる平凡なゴロをさばかせて基本動作の徹底に努めさせる。球際に強い選手は、基本がしっかりしている。ちなみにこの言葉は、努力によって大成した広島カープの新井貴浩選手の座右の銘だという。これは森田理論学習を続けている私たちにも参考になります。集談会では森田理論に詳しくて、理路整然とみんなに説明できる人がおられます。でもよく聞いてみると、例えばパチンコなどのギャンブルにはまった生活をしておられるという。あるいはネットゲームにはまって深夜遅くまでゲームを楽しんでいるという。そうなりますと、森田理論でいう「物の性を尽くす」という実践はどうなっているのでしょうか。また規則正しい生活を送るという日常実践はどうなっているのでしょうか。森田的生活からはかなり乖離があるように思えてなりません。森田理論の基本は、そのものの持っている価値をできるだけ工夫して活かしきっていくということです。また、規則正しい生活。衣食住にまつわる日常茶飯事を丁寧に物そのものになりきって行うということです。これらがすっぽり抜け落ちていることは、自分が思想の矛盾に陥ることになります。森田理論を知らなかった、以前のほうがまだ良かったといえるかもしれません。これはマラソンに例えて考えると分かりやすいと思います。マラソン選手は短距離の選手と違って瞬発力はありません。その代り持久力はあります。スピードはゆっくりなので、42.195キロは誰でも完走できそうです。しかし実際には誰でもができることではありません。誰でもできることを、継続し続けるということは、簡単なようでとても難しい。それができる人は、100メートルを10秒台で走れる能力を持っている人と同様の別な能力を持っているということです。野球でいえば、普段は三振ばかりしているが、たまに試合をひっくり返すようなホームランを打つ選手がいます。そういう選手は目立ちますし、みんながあこがれます。普段の失敗を一挙に取り戻すことができるからです。普段はのらりくらり遊んでいて、肝心なところで一発試合を決めるような仕事をするだけで済むのならば、そちらのほうがよほど魅力的に感じます。しかし、私たち神経質者はどうもそんなタイプではないように思います。細かいことによく気が付くわけですから、その特徴を活かして、コツコツと地道に日々努力していくのが性に合っているのではないでしょうか。水谷啓二先生は、我々神経質者は風雲に乗じて大きな成果を上げるタイプではありませんといわれています。平凡な雑事を10年ぐらい続けるといったタイプです。そのような実践を積み重ねていけば、平凡な人から非凡な人へと変わってゆきますといわれています。そのような方法で、評価してもらえるように努力していくことが理に適っている。我々は普段そんな小さなことは意味がない。価値がない。もっと意味のあること。クリエイティブな創作活動。人から注目を浴びるようなことをしたいと思いがちです。するとザルで水を掬い上げるのと一緒で、求めるものがすべてこぼれ落ちてしまうのです。これを一言で表現すれば「凡事徹底」ということです。その方向で努力する以外に、我を活かす道なし。私はそう思いながら日々生活しているところです。
2017.09.29
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今月号の生活の発見誌に、次のような文章があった。実は、 「症状」が良くなるよりも、 「行動」が変わった人の方が治っていくんですね。「症状だけ良くなった」という人は、後々の治りがよくない。こういう人はまた戻って(再入院)来たりするんですね。そのことが分かったんですね。(生活の発見誌 9月号 51頁より引用)神経症の症状だけ良くなるというケースはどんな場合が考えられるか。強迫神経症で言えば、強迫行為がなくなる、人の思惑があまり気にならなくなるということか。あるいは、不安発作が起こらなくなる。などなど。神経症だと言って精神科にかかれば、抗不安薬などの薬を処方される。あるいは様々な精神療法を行う。代表的なところでは認知行動療法であろう。薬物療法や認知行動療法の暴露療法は、対症療法的に不安を軽減することを目的としている。まったく仕事や家事に手がつけられなかった人が、不安が和らぐことによって、手をつけられるようになる。それが、ここで言われている症状だけが良くなったということではあるまいか。これは表面に現れた症状だけを見て、応急処置をしているようなものだ。だから容易に再発をする。また、神経質な人によく見られる抑うつ感情はそのまま継続するので、生きていくことが苦しいのは全く変わらない。だから神経症の治療を対症療法だけに限ってしまうということは大いに問題があるのだ。それらは足の骨を骨折した時の松葉杖の役割は果たしてくれる。全部否定するものではないが不十分だといいたい。根本的には森田療法の学習と実践によって完全に神経症から回復することができる。それは森田療法が神経症になぜ陥ったのか、そしてそこから回復するための理論的な裏付けを提供してくれているからである。そこには多くの認識の誤りについて、気が付くことができる。それは神経症が治るだけではなく、神経質性格の持ち主としてのこれから先の生き方が示されている。そこらあたりの学習をしていかないと神経症を克服することは、どだい不可能であると言わざるを得ない。次に行動が変わった人が治っていくということ考えてみたい。不安、恐怖、不快感、違和感などで押しつぶされそうになりながらも、なんとか仕事や日常生活を維持していく。つまり、不安を抱えながら、目の前の仕事や日常茶飯事に取り組んでいく。それができれば、まず第一段階の症状の克服となる。初めて森田理論に取り組む人は、そこに焦点を当てて実践して行けばよいのである。しかし、これは、言うは易く行うは難しである。今までの生活態度から、一変するのであるから、なかなか容易ではない。集談会では、実践課題を立てて実行し、それを来月の集談会でみんなの前で発表する。そして集まった人から感想やアドバイスをもらう。自分1人の力で乗り越えようとするのではなく、同じような症状を持った人たちが協力し合いながら、取り組んでいくのである。それが、自分が変わっていくきっかけとなるのである。集談会にはいろんな役割分担がある。それらを引き受けて取り組むと、自分の症状ばかりに向いていた注意や意識が次第に外向きに変わっていく。次第に弾みがついて行動の幅が広がってくると、神経症のつらい気持ちは和らいでくるはずだ。ただ、そこで治ったと思って集談会から離れていく人が多いが、これは治るという事を10段階で考えると3から4のところだ。この段階でも会社などでは打って変わって、顕著な活躍をすることはできる。しかし、心の中ではいつも症状のことが気になり、症状に押しつぶされそうになり、生きた心地がしないのである。生きることが苦しいのは以前と変わらない。この原因として、森田理論では、認識の誤りが解消されていないからだという。特に、 「かくあるべし」という理想主義、完全主義から現実、自分、他人を見ると不十分なことばかりである。現実と理想のギャップに苦しんで、自ら葛藤や悩みを作り出しているのである。森田理論で言うところの思想の矛盾を解決しないと神経症は完全には治らない。この部分が残りの6から7の部分だ。簡単に言ってしまえば、普通の人間は、現実でのたうちまわっている自分と、それを雲の上から見おろして非難、否定している自分がいる。つまり1人の人間の中に2人の人間が住みついているようなものだ。雲の上の人間が、地上に降りてきて現実でのたうちまわっている自分によりそう状態になれば葛藤や悩みがなくなる。森田理論によって行動力ができるようになった人は、ぜひその段階にまで進んでもらいたいものである。すると、ほぼ完全に神経症を克服できる。克服できた暁には、不安を活用しながら、思う存分生の欲望の発揮に邁進すれば、素晴らしい人生が約束されているのである。
2017.09.28
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心的外傷後ストレス障害(PTSD)とは何か。精神疾患の診断・統計マニュアルによると次の通りである。 1 、自らが凄まじい外傷や死に直面するような体験をした。または、他者が同様の状況に直面したことを目のあたりにした。2 、その人の反応は、無気力であったり、無力感があったり、ひどくおびえて震えている。PTSDの原因としては、 死と隣り合わせの壮絶な体験をした。地震や竜巻、落雷など自然災害に見舞われた。交通事故やがんなどの重大な病気にかかった。その結果、心的外傷と関連するような思考、感覚、会話を避けるようになる。心的外傷を思い出させるような行動や人物を避けようとする。心的外傷の重要な部分の記憶喪失。興味や関心の減退。孤独感、孤立感がある。未来に対して希望がなくなる。大河原美以さんは、その原因を次のように説明されている。我々が経験する出来事は、通常、認知・その出来事に伴う感情・身体感覚・イメージ・音などの情報がセットとして記憶され、脳の神経回路の中で情報処理されていると考えられています。ところが、耐えがたくつらい出来事に出会うと、脳の「海馬」の働きが抑えられることにより、認知・その出来事に伴う感情・身体感覚・イメージ・音というまとまりが、切り放されることによって、つらさを感じないようになります。これは「解離」といわれる防衛のメカニズムであり、人がつらい経験の中を生き延びようとする適用のプロセスでもあります。しかしながら、そのような外傷記憶は、それを思い出させるような、引き金の存在により、突然予測不能な形で、フラッシュバックしてきます。フラッシュバックとは、つらい体験をした時に適用するために切り離されていた身体感覚や情緒(激しい怒りや悲しみなど)が一挙によみがえり、 1種のパニックに陥る状態をいいます。 (怒りをコントロールできない子の理解と援助 大河原美以 金子書房 34ページより引用)幼い頃から、自分の中にふつふつと沸き起こる不安、恐怖、不快感、違和感などの感情を、あってはならない感情だと思っていると、無意識のうちに、それらの感情を抑圧してしまいます。外傷後ストレス障害に見られるような「解離」という現象が見られるようになります。外傷後ストレス障害は、ベトナム戦争の帰還兵に現れた心的障害が始まりと言われています。しかし、この解離現象は我々の普通の生活の中で頻繁に現れる現象ではないでしょうか。特に神経症の場合、不安や恐怖などを目の敵にしてなくそうとしているわけですから、容易に解離現象が現れます。そうなると、容易にフラッシュバックが引き起こされるようになるのです。以前と同じような状況に遭遇した時、突然パニック状態に陥るのです。乖離現象は心の危機の防衛反応であり、人間の意思の力ではどうしようもないものと考えられます。しかし私たちは乖離現象から学ぶべきことがあります。それはパニックに陥ったときに、目の前の理不尽で恐ろしい現実からすぐに目をそらせてはならないということです。目を離すと認知・その出来事に伴う感情・身体感覚・イメージ・音などの情報が十分に味わえないことになります。すると頭の中の世界で様々に憶測が憶測を呼んで現実とは遊離してくるようになるのです。これを防ぐには、森田先生がよく言われているように、対象物から離さないで、よく観察するという態度が欠かせないと思われます。対象物から目を離すと、観念の世界で様々にやりくりをして、ネガティブな感情が膨れ上がってきます。神経症の場合は、日常生活の中で、いつもつらい体験があると、解離現象のようなものを起こして危機を乗り越えようとしているのですが、その結果、ますます危機を深めているといえます。つらくてもある程度は事実から目をそむけないで向き合うという姿勢が欠かせません。
2017.09.27
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アドラー心理学の研究をされている野田俊作さんは次のように述べている。我々の悩みというか、問題は、人間関係の悩み、対人関係の悩みだと思うわけです。実際にアドラーは、 「人間関係の問題とは全て対人関係の問題である」と言っております。良い人間関係を持つという事は、健康な生活、幸福な生活の絶対的に必要な条件なのです。では、よい人間関係はどのような人間関係なのか。それを一言で言うと、タテの関係をやめて、ヨコの関係に入ることだというふうにアドラー心理学では言っております。ところが、このヨコの人間関係を作ることが、なかなか容易ではない。すぐに、怒りや不安といった感情が出てきて邪魔をするからです。例えば、子供は朝なかなか起きてこなくて、お母さんがイライラして、つい感情的になって叱ってしまう。野田さんは、この怒りの原因をタテの人間関係、ヨコの人間関係から説明されている。この場合、お母さんは子供が自分の言うことを聞いてくれないから怒っているのです。本当は、怒りという感情を使って、子供を自分の思う通りに動かしたいのです。もっと言うと、子供を自分の意のままに「支配」したいという強い気持ちがあるわけです。子供にそのように接するということは、夫や姑などの人間関係も同様な関係になっている可能性が高い。また、学校や職場などでも同様な行動をとっていて、人間関係が悪化している可能性が高い。こうゆう支配、被支配という人間関係は、アドラー心理学ではタテの人間関係と呼んでいます。怒りという感情を使うと、子供を威圧できるし、また自分自身に「今は感情的になっているから、何をしても許されるんだ」という言い訳が出来るのです。だから、感情というのは、ある目的のために作り出される手段に過ぎない。怒りという感情を作り出して、子供を自分の意のままにコントロールしたいという目的を達成するために利用しているというふうに考えられます。こういう人間関係を作り出しているから、対人関係がぎこちなくなり、最後には孤立するようになるのです。問題はタテの人間関係をヨコの人間関係に変えるにはどうしたらよいのかということです。まず子供がどんなに自分の頭で考えていいることと違う行動をとっても、その現実をそのままに受け入れるということです。いったんは時間になって子供を起こしにいきます。でも、子供はなかなか起きてきません。お母さんは、いてもたってもいられないほどイライラします。もう一度、 「これ以上遅れると、学校に遅れるわよ」と声をかけます。でも起きてきません。普通はここでお母さんが切れてしまって、子供に怒りをぶつけてしまいます。ここで腹が立つというのは、子供が自分の思い通りに行動しないということがあります。もう一つ重要な事は、子供が間違ったことをしているという認識があるのです。子供の行動を見て、いつも正しいか間違っているかという善悪の判定をしているのです。子供の行動は間違っていると決めつけてしまうと、とたんにタテの人間関係に陥ってしまうのです。お母さんが支配者で子供が被支配者になってしまうのです。アドラー心理学で言うヨコの人間関係は次のようなものです。人間関係の在り方を考えるうえでとても参考になります。・無条件に相手を尊重し、接することをいいます。子供も自分と同じ意思を持った人間として接します。・基本的に子供を信じて、子供がどんな行動をしようと、どこまでも相手を信頼することです。そして子供には基本的に問題を解決する能力があるのだというふうに信じることです。・子供が困って助けを求めてきた時のみ協力する。それ以外は子供の側にいて見守るという態度を貫く。・子供と感情で付き合うのではなく、より理性的に話し合いでもって付き合うことを重視します。調整の必要があればたえず話し合おうと、そして合意に達しようとする態度を重視します。・是非善悪という自分勝手な価値判断を相手に押し付けない。・子供の存在価値を尊重して、相互に自分の気持ちや意思を口に出して伝え合うという態度を持ち続ける。安易に批判、叱責、脅迫、否定という手段を使わない。
2017.09.26
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今日は怒りの感情について考えてみたいと思います。夫が夜遅く酔っ払って帰ってきたとします。妻は夫の姿を見て、 「あなたは今まで何をしてたのよ。子供が受験勉強で大変な時だということはわかっているでしょ」と、怒りを爆発させます。妻は自分の憤懣やるかたない感情を発散させようとしているのです。また、怒りを爆発させることによって、夫の行動を改めさせようとしているのです。しかし、このような形で感情を爆発させると、夫との人間関係は悪くなります。こんなことが繰り返されると、意思の疎通が全く図れなくなります。夫の行動を改めさせる事は難しくなり、ますます夜遅くまで飲むという行動に拍車がかかります。かりに、妻の事を恐ろしく思っている夫はしぶしぶ従うかもしれません。しかし、それは妻は恐ろしいからであり、自分の本心から反省した上のことではありません。感情というものは、相手を動かすために使われているのがほとんどです。この場合、妻が激高して怒ると夫は言うことを聞くだろう。優しく言うと全然効き目はないだろうが、頭から湯気が上がるような怒り方をすると、夫は反省して行動を改めてくれるに違いないということを知らず知らずのうちに確信しているのです。優しく言うと聞かないだろうと思うと、心はちゃんと自動的に怒りを作り出してくれるものなのです。怒りという感情は、相手を支配することと深く関係があります。他人を自分の思い通り動かそうと思う人は怒るのです。森田理論でいう、相手を自分の思い通りにコントロールしたいという気持ちの強い人は、相手が自分の意に反する行動をとるとすぐに怒るのです。普段の人間関係を見ていると、短気でちょっとしたことですぐに怒る人がいます。こういう人は、自分の頭で考えた理想や完璧の状態とは程遠い自分や相手が許せないのです。すぐに自分や相手を理想や完璧の状態に引き上げようとするのです。つまり現実を否定してかかっているのです。ですから、怒りというのは「かくあるべし」をなくすると、その数は激減します。思想の矛盾を解消することが精神衛生上とても役に立ちます。では、相手が自分の意に沿わない行動をとった場合、どのようにすればよいのでしょうか。「純な心」や「私メッセージ」を活用するといいと思います。夜遅く酔っ払って帰ってきた夫に、 「私は早く帰ってきてほしいの。 1人で待っているのはとても寂しいから。あなたは早く帰ってきてくれると本当に嬉しいの。連絡もなしに遅くなると何かあったのではないかととても心配なのよ」夫が夜遅くになって帰ってくるという事実に対して、最初に沸き起こってきた感情をそのまま言葉にして表現するのです。これには夫に対して批判や否定の言葉は全く入っていません。自分の希望や気持ちを伝えて、なんとかそうしてもらえないだろうかと提案をしているのです。それに対して、夫がその先どのように行動するのかは分かりません。気持ちを切り替えて早く帰ってくるようになるのか、あるいは連絡を欠かせないようになるのか。あるいは今までと変わらないか全く読めません。しかし、この対応の良いところは、夫と妻の関係が対立関係にないということです。縦の人間関係ではなく、横の人間関係であるということです。つまり、どちらか一方が相手を自分の意のままに操つろうとする人間関係ではありません。お互いに相手を尊重し、信頼し、協力関係の人間関係を構築したいという気持ちが双方にあります。そのような関係にあるとき、 2人の間にちょっとした問題が起きたとき、まず双方が自分の気持ちや考え方を穏やかに述べ合います。次に双方で2人の気持ちや考え方のギャップを確認し合います。この確認作業が大切です。ギャップがわかれば、 2人で話し合って、その食い違いを埋めようとします。調整や妥協などです。こうなれば「雨降って地固まる」と言われるような、愛と信頼に満ちた人間関係がますます強固になってくるものと思われます。森田理論を発展していけば、「かくあるべし」を少なくして、このような人間関係を作り上げていくことができます。
2017.09.25
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人間は、矛盾した本性を持ち合わせて動いている。素晴らしく、燃えて生きていきたい。創造的に仕事に挑戦していきたい。意味のあることをして、社会に貢献したい。みんなの期待に応えて、業績もあげたい。そう思う一方で、楽をしたい。他人よりもうまい思いをしたい。考えるのは億劫だし、動くのは面倒だ。なんとかやらないで済まされないものかと頭をひねる。多かれ少なかれ、誰でもがこの両面を持って日々生きているのだと思う。(状況が人を動かす 藤田英夫 、毎日新聞社 175頁より引用)自分に照らし合わせて考えても、まったくその通りであると思う。これを森田理論で考えてみたい。森田理論の中心概念は、 「生の欲望の発揮」である。生の欲望の範囲は幅広いものがあると言われている。その中に、問題や課題、夢や目標に向かって努力していくというのがある。ところが、すぐに解決できない問題や課題、自分の力や能力では太刀打ちできない問題や課題に対しては、容易に挫折してしまう。オリンピック選手になりたいという夢やプロ野球選手になって活躍したいという目標は、能力のある人が、さらに時間をかけて努力精進しないと叶えられない。目の前の障壁を乗り越え続けるという事は大変しんどいことである。そのしんどさに耐えることができなくなって、夢や目標を放棄してしまうケースが後を絶たない。人間はよりよくいきたいという気持ちと、楽をしたい、うまい思いをしたい、という相反する気持ちが常に綱引きをしているようなものである。よりよくいきたいという気持ちがより強ければ、努力即幸福の状態になり、やりがいや生きがいを持つことができる。ところが、楽をしたいうまい思いをしたいという気持ちが勝てば、その瞬間は苦しみから解放されて楽になるが、結局は生きる屍となってしまう。やるべきことができなくなってしまい、暇を持て余すようになる。そうなると自然に考えることが自己内省に向かうようになる。自分の身体や心に注意や意識が向くようになる。エネルギーの使い方が外向きから内向きに変わってくるのである。また一方には、そんな自分を見て、批判したり、否定するもう1人の自分が、自分という1人の人間の中に新たに生まれてくる。そして、そうした人間がどんどん力をつけて、現実の自分を思うがままに支配するようになる。森田理論では、現実と理想のギャップが神経症を発症の原因になると考えている。そこに生まれる葛藤や苦しみや悩みは大変大きく根深いものである。なかなか解消することが困難である。森田理論では、この状態を「思想の矛盾」に陥っていると説明している。森田理論では、この思想の矛盾はなんとしてでも解消しなければならない。それはとりもなおさず、事実本位・物事本位の生活態度を体得していくことである。その方法は「純な心」「私メッセージ」を始めとして、様々に提案されている。私は「森田理論全体像」の中で、 「生の欲望の発揮」から、「かくあるべし」思考に陥って葛藤や苦悩を抱えてしまう原因をこのカラクリによって引き起こされているものと考えている。
2017.09.24
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森田先生は心臓神経症の患者に対して次のように治療された。今夜寝るときに、発作が最も起こりやすいという横臤位をとり、自ら進んで、その発作を起こし、しかもその位置のままに苦痛を忍耐し、かつその発作の起こり方から、全経過を熱心に詳細に観察するようにしてください。そうすれば私は、あなたの体験によって、将来決して発作の起こらない方法をお教えする。もし今夜このために、どんなに激しい苦痛があって、徹夜するようなことがあったとしても、長い年数の苦痛と不安と取り去ることができれば、 十分忍耐する価値があることである。患者さんは、 「その夜教えられたように実行したけれども、自分で発作を起こすことができないで、 5分間ほどもたたないうちに眠りに入り、翌朝まで知らなかった」ということである。森田先生は、あなたはそのとき、一晩中発作の苦痛を覚悟したのである。恐怖そのものの内に突入したのである。この時は、発作が、あるいは起こりはしないかという疑念もなければ、また発作から逃れようとする卑怯な心があるのでもない。これこそ発作が起こって来なかった理由である。今までは知らず知らずの間に、発作の襲来を予期してこれを迎え、一方にはこれから逃れようとして心に迷いが生じ、いたずらに苦痛不安を増大させたのである。 (神経質の本態と療法 森田正馬 白揚社 129ページより引用)同書のあとがきで、河合博医師がわかりやすく解説をしておられる。この治験例は、できるだけ発作を起こすように努力してみよということである。症状は神経質患者の意識の中心にあり、これを忘れよう、意識すまいと努力する。すなわち意識の中心より周囲に押しやろうと押し込めようとする。そうすればするほど、それは意識の中心を占領する。意識しまいとすればするほど、ますます、 1点に凝集強化される。これが神経質の症状である。しかし、意識は、絶えざる流動・変化である。神経質症状も、環境の中で力動的に変化消長する。そして症状が意識の中心より、やや遠ざかった時に、意識的に無理にこれを中心に持ってくるように完全に努力させる。発作を起こすようにさせる。これは平素の患者の努力とは反対の心の働きをさせるのである。すると、ここに意外なことには、中心に持っていこうとする努力とは逆に、周囲に退くのである。(同書 267ページより引用)心臓神経症の患者さんは、発作が起きると、いつ突然死するかもわからないので、いつもそのことに恐怖している。つまり、頭の中は全神経を1日中心臓発作のことで占められている。森田先生は器質的な疾患がないという事を確認した上で、森田療法が有効であると判断されたのである。認知行動療法では、不安を10段階ぐらいな階層に分けて、簡単なことから恐怖突入をさせる。次第に慣れさせて、段階を上げて、更に恐怖突入をさせる。次第に不安が遠のいて、日常生活はなんとかできるようになる。これに対して森田療法では、患者さんは死にたくないという強い欲望を持っている。強い欲望の裏には強い不安が沸き起こってくるのが当たり前のことである。だから、決して不安を排除しようとしてはならないという。そうは言っても、この方の場合は、不安を取り去ることにばかり神経が集中している。不安を取り去るという意識をなくするためには、逆説的に不安を受け入れて、その不安の行き着く先を確認させようとされたのである。症状にとらわれてなすすべがない思考パターンから抜け出すための究極の選択である。そうすることによって、心臓発作が起きなかったということを体験させることが治療につながるのである。これは、不眠で悩む患者さんに対しても有効な治療法であったという。
2017.09.23
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会社や学校でみんなから明るい人、いつも前向き志向の人、ムードメーカー、盛りたて役の人と見られている人がいます。飲み会なども自分からネットや雑誌などでお店を選定してみんなに提案している。そういう人は同僚や後輩たちからもいろいろと相談されることも多い。悩みを聞いてあげて明るく励ましてあげたりしている。元々外向的、楽天的な性格で、そういうふうに世話をすることを楽しんでいるかのような人です。ところが神経質性格の人で自分を鼓舞して無理にそのようにふるまっていると大変です。自分の本音を隠して演技をしているようなものですから、精神的にはかなりの疲労がたまります。ある女性の人で、そんな人がいました。「会社から帰って自分の部屋にいるとぐったりと疲れて、落ち込んでしまうのです」「無理してみんなを盛り上げているのが自分でも分かっているししんどいのです」「みんなは私が盛り上げ役だと思っているので、みんなの期待をうらぎりたくないのです」「だから会社では私の悩んでいる事や苦しい胸のうちなんて話すわけにはいかないのです」「顔で笑って心で泣いているのです」この人は「かくあるべし」がとても強い人なのかもしれません。同僚や後輩たちに常に注目されていたい。あの人はすごい人だと思われたい。いつも一目置かれる存在でありたい。いつも明るく、前向きで頼りがいのある女性だと見られたい。反対に、みんなから無視されたり、仲間外れにされたり、軽蔑されるような人間だけにはならないようにしよう。こういう「かくあるべし」を持って、自分を叱咤激励しながら人付き合いをしているのです。欠点や弱点と思われる点は隠してしまう。現実のありのままの自分を否定して、理想の自分を演じることに血眼になって生活されているのだと思います。そのやり方である程度は、目的は達成されているのです。ところが砂上に立派な自分にとっては不釣り合いな家を建てて住んでいるようなものですから、いつ自分の家が崩れてしまわないかと不安でいっぱいなのです。人のことを親身になって世話しているように見えながら、実は人の目に写る自分の姿にばかり注意や意識を向けておられるのです。私は、その人が盛り上げ役になっている事は、その人にそれだけの能力があるからできることだと思います。というのは、こんなことを提案してあげれば喜ばれるのではなかろうか。こんなことをしてあげれば相手が喜んでくれるのではないのかということを敏感に察知する能力があるのです。その能力はさらに磨きをかけて伸ばしていってほしいものだと思います。普通は細かいことに敏感に気づく人は少ないのですら神経質性格を持ったあなたは貴重な存在だと思います。この特徴をさらに生かしていくためには、気づいたことを逃さないようにメモするなどして、忘れないように心がけることが大切だと思います。その上で、あなたの悩みを考えてみたいと思います。あなたは人に尊敬されるような立派な人間として見られたいという強い欲望があることは分かりました。その方法として、みんながしり込みするようなことを見つけて、あえてそれを自分が引き受けて、みんなをあっと驚かせて、大きな賞賛を浴びたいという気持ちが強すぎるということはありませんか。実は私自身がそうだったのです。私はみんなでできないようなトライアスロンに挑戦しました。炎天下で完走すればみんながきっと注目してくれるはずだと思っていたのです。ところが完走してもみんなからたいして賞賛されることはありませんでした。それどころか、夜遅くまで残業している人がいるのに、そんなにエネルギーが余っているのならもう少し仕事のほうに振り向けてくれないかといわれたのです。私は一発逆転ホームランを打って意気揚々と会社に出勤したのにもかかわらず、がっかりしました。その話を集談会ですると、私たちはヒットやバント、フォアボールでとにかく出塁するほうが性に合っているのではないでかといわれました。実際には、人が困っているときに手伝ってあげる。挨拶はきちんとする。電話の取次ぎは忘れないようにする。昼ごはんはみんなに声をかけて誘ってあげる。朝少し早く来て机の上を拭いてあげる。掃除機をかけておく。トイレの掃除をする。ごみを出しておく。書類の棚を整理しておく。そのほかいくらでもやることはあるはずです。ホームランを打って賞賛を浴びることは、お金もかかるし、時間をかけて努力もしなければなりません。それよりは神経質性格の細かいことによく気が付くという性格を活かして、小さな人の役に立つことをたくさん見つけてストックをためて実践することが神経質性格にあっているのではありませんか。それを実践してみて思ったのですが、人に役に立つ平凡なことを積み重ねて、それを仮に3年間ぐらい継続できればその人は類まれな非凡な人になれると思いました。私の座右の銘は「凡事徹底」ですが、平凡を徹底して生活すれば、類まれなる非凡な人になることができるという意味です。それこそが私が目指していたことだったのです。継続は力なりという言葉もあります。私たちの努力目標はそんなところに置いたほうが無理もなく効果が高いようです。
2017.09.22
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1983年に高良興生院で森田療法の研修をされた精神科医の市川光洋医師のお話です。ある心臓神経症の患者さんが入院森田療法を受けにやってきた。臥褥中に、夜1人で寝ていると 「心臓が止まるのではないか」と不安で耐えきれず、夜中に当直の看護師さんに、 「今にも心臓が止まりそうだ」と内線電話で訴えた。看護師さんは最初は黙って聞いていたが、同じことを繰り返し言うので、最後は、 「死ぬのは運命です」と言われた。本人はびっくりして、 「もう相手にしてくれない。これはしょうがない」と思って、その不安のまま、ずっと布団の中で横になっていたら、気がつかないうちに眠ってしまい、朝スッキリした気持ちで目覚めて、不安がなくなっていた。この方がある日庭で作業をしていると、高良先生がやってきて、 「君、あの坂を駆け上ってこい」と言われた。病院から目白通りに向かってずっと坂になっているのです。この方はびっくりして、 「いやいや、まだ自信がありません」 「不安でダメです」とか言って躊躇したり抵抗していた。高良先生は、 「倒れたら僕が救ってやる」と言われた。これで「いよいよやるしかない」と諦めて言われたとおりにやったら出来たんですね。その時高良先生から、 「君心臓止まったかい」と訊かれたので、 「いや、大丈夫です」と答えたら、 「それが神経症のとらわれだよ」 「君は今まで病気じゃないのに、心臓が止まると思い込んで、ちょっと心配していたけれども、それが神経症のカラクリなんだよ」と言われたという。その時に「ああそうだ」と本当にわかったというのです。それ以降、外出したり、普通に行動ができるようになった。この方は退院後、会社に戻って仕事について、そこで昇進して、会社が大きくなって、やがて役員になったという。市川先生は、高良興生院には「場の力」があったという。森田療法に精通した医師が4名、その他看護師さんが3名、作業主任の方、この病院で神経症は治った人などを、集団で協力し合いながら患者さんを見守っていた。昔神経症だった看護師さんなどもいた。市川さんは神経症は治った人たちにどうして治ったのか尋ねてみた。すると、治るきっかけは、人それぞれで、精神科医だったり、作業主任者、看護師さんなどに言われた一言が影響していたという。 「作業主任者に言われた一言で治った」 「看護師さんにあの時に言われたのがきっかけだった」と言われるんですね。高良先生がすごいのは、どこからでも森田療法が出てくるように入院環境を作っておられたのです。1人で治ったのではなく、集団医療体制の中で神経症を克服していった。現代で言うコ・メディカルの実践である。(生活の発見誌 2017年9月号52頁より要旨引用)私の場合は、集談会に参加して、先輩のアドバイスや先輩の普段の生活ぶりを見ていて、それが神経症の克服に大いに役に立った。自分1人では、たどり着くことができないところまで連れていってくれたのは、集談会の仲間たちである。私たち人間は弱い面がある。希望に向かって力強く生きていきたいにもかかわらず、ちょっとした壁にぶち当たるとすぐに挫折してしまう。また、人間には楽を求める気持ちが強く、人が見ていないとすぐに怠惰な生活に陥りやすい。それに歯止めをかけてくれるのは、集談会に集まる同じ神経症を持った仲間たちである。仲間たちの交流で叱咤激励を受けることがアクセントとなり、途中で挫折せずになんとかイバラの道を乗り切ってきたように思う。集談会に出席していても、自分の求めることが得られず、がっかりして帰ることは確かにあると思う。しかし、そんな時にでも、少しずつ参加者同士の絆は深まっている。知らず知らずのうちに大きな影響を受けているのだ。それが神経症克服の後ろ盾になってくるのだ。そういうバックボーンを持とうとしない人はどうも治りが悪いようだ。学習効果があまりないと感じられるときは、温かい人間関係の中に身をおいていることこそ森田療法だと思って継続して集談会に参加してほしいものだ。
2017.09.21
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森田先生は後年、リズムについての研究をされていた。我々の生活機能は、心臓の拍動・呼吸・消化器の活動・筋肉の運動など、みなリズム運動であるように、われわれの精神機能も、リズムであり、注意の機能にも、知らず知らずの間に、緊張と弛緩とが交代してリズム運動になっている。時計の振り子の音は、初めに聴く音が高く、次の音が低く、高低交互に聴こえる。実は振り子の一音に、高低があるのではなく、これを聴く耳の注意に、緊張と弛緩との変化があって起こるのである。すなわち振り子は、はじめに右から聴けば、その方が高く、また左から聴きはじめれば、左が高く聴こえる。これはちょうど、ハッと驚いて、手を握りしめ、次に安心して、これを弛めるということに相当し、すなわち筋肉の緊張と、弛緩に相当しているのである。これが我々の周囲のリズムである。我々の心身の機能は、変化がなく無刺激であるときには、 いつとはなく、弛緩して、倦怠を生ずる。またたとえ、刺激は相当に強くとも、同様のことが長くつづくときは、いつしかこれに慣れて、変化を感じないようになる。すなわちわれわれは、適度な刺激によって、その心身の機能が、弛んでいるときには、これを鼓舞し、あまりに過敏であるときには、これを緩和して、その生活機能を調整していく時に、私たちはこれをリズムとして感じるようになる。(森田全集第7巻 379ページより引用)リズムについては、音楽を聴いているときに容易に理解できる。音楽は強弱の繰り返しである。強い音の後には、弱い音が来る。複雑なリズムでもそのバリエーションの応用である。森田先生は、われわれの精神活動も緊張と弛緩というリズムの中でおこなわれていると言われる。ハラハラドキドキという緊張感が1日中続くという事はあまりない。不安や恐怖による緊張感が持続すると、気力が減退し、胃潰瘍などの身体変調として表面化する。1日中テレビを見たり、パジャマのまま寝転がっていたりすると、 1日中弛緩状態が継続するということはあり得る。その場合には、外に向かう精神活動が停滞して、自己内省的になったり、外出したりすることが億劫になる。ここで、私たちが学ぶべき事は、精神活動は緊張と弛緩という波が繰り返されており、その波に逆らわないで波に乗って生活をするということが大切であるということです。そのためには、普段の生活を規則正しく行うことが大切だと思われます。特に、起床時間と就寝時間は、毎日一定にすることが大事です。そして昼間は頭を使ったり、体を使って緊張状態の中で生活をする。夜は十分な睡眠時間を確保して、心身を弛緩状態に持っていく。これで日々の生活の中で緊張と弛緩状態のリズムが生まれる。簡単なことのようですが、これが夜更かしなどによって、崩れてしまっている人が多いのは残念なことです。昼間は、基本的に緊張状態にあるとはいっても、例えば同じ仕事を長時間続けたりすると、緊張状態が薄れて弛緩状態に移行する。また昼ご飯を食べたりすると、血液の循環が胃腸のほうに回り、頭の中は弛緩状態に陥る。昼間も少なからず緊張と弛緩状態の波が発生している。まずはその波に乗って過ごすことが大切である。ただし、基本的には昼間は緊張状態の持続期間であるので、弛緩状態をそのまま放置しておくのはもったいない。森田理論の中には、 「休息は仕事の中止ではなく、仕事の転換にある」という言葉がある。いったん弛緩状態に陥った時は、まったく別の行動をとることによって、頭と体がリフレッシュされて新たな緊張状態が生まれてくることになる。受験勉強などをしている時、頭が疲れてくると、勉強に身が入らなくなったり、眠くなったりする。そんな時、食器を洗ったり、洗濯をしたり、あるいは体操をしたり、散歩をする。すると先ほどまで眠くて仕方がなかったにもかかわらず、心身ともにやる気がみなぎってくることもある。リズム感を養うといえばカラオケがよいと思う。私はかなり音痴だったが、それなりに仲間とカラオケを楽しんでいる。アルコールが入った後は比較的声が出る。今は、「娘よ」「博多時雨」「還暦祝い唄」「祝い船」「宗衛門町ブルース」「南部蝉しぐれ」「平成音頭」「札幌ふたりずれ」をメインに歌っている。一番よく歌うのは「祝い船」だ。歌手の歌唱に合わせて練習を繰り返していると、強弱の付け方はある程度できるようになった。カラオケは思い切り声を出すことができて、ストレスの発散になり、仲間との交流が深まるなどの利点がある。私はいろんな人に「カラオケはどうですか」と声をかけているが、乗ってくる人は10人に2人か3人程度しかいない。なかにはカラオケの「カ」の字を聞いただけでしり込みする人が多いのに驚いている。実に残念だ。
2017.09.20
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9月号の生活の発見誌に、神経質性格の持ち主は「罪悪感」が強いという記事があった。私もその通りだと思う。集談会などで財布などの落とし物はあると大騒ぎになる。財布の落とし物の場合は、カードや免許証などが入っているので、持ち主がすぐにわかる。落とし物はすぐに持ち主の所に返る。誰も盗もうなどという気持ちはさらさら持っていない。持ち主の所に無事に返るとみんなで喜び合う。幸せな光景が繰り広げられる。アメリカなどでハリケーンがやってきて、スーパーマーケットなどが水浸しになると、付近の住民は急に泥棒に早変わりすることがある。なかには盗んだ物を戦利品を得たかのように、カメラの前に堂々と差し出している。「赤信号みんなで渡れば怖くない」といった状態で、盗まなければ損だというような風潮である。ほとんどの日本人はその姿を見て大変に驚く。外国人はほとんどの人が宗教を信頼してお祈りを捧げたりしている。宗教を心のよりどころとしている人が、どうして人のものを盗んで罪悪感が沸き起こってこないのだろうか。大変不思議である。この心理状態が分かる人がおられれば教えてほしいものだ。私が考えるには、確かに落ちていたお金を盗んで自分のものにすれば、一時的には嬉しいような気がする。しかし、すぐに別の考えが浮かんでくる。そんなことをすればいつか自分に罰が当たるのではないかという考えである。森田理論でいう精神拮抗作用がでてくるのです。別に熱心な仏教徒ではないが、知らず知らずのうちにそういう風に考えるようになったのである。 悪いことををすれば、交通事故にあったり病気になったりするかもしれない。それは自分だけではなく、家族や親兄弟にも及ぶかもしれない。そんなはした金を盗んで、それ以上の罰が当たるとすれば割が合わない話だ。欲しい気持ちはあるが、警察に届けておこうということになる。この罪悪感というのは、神経質者の場合は特に強いようである。先日の集談会で、国道の側溝には空き缶などのゴミがたくさん落ちているが、自動車に乗っているときに空き缶を道路に投げ捨てる人がいるか聞いてみた。集談会でそんなことをしたことがある人は1人もいなかった。その他のケースもいろいろ話し合ってみた。国道の側溝には、弁当を食べ終わった空箱も捨てられている。そんなのは常識外だという意見が多かった。しかし行楽地のごみを家に持ち帰らないで放置する人がたくさんいる。富士山やヒマラヤは遠くから見ると美しいが、登山者の残していったごみが散乱しているという。集談会ではタバコのポイ捨てをする人も1人もいなかった。世間では、まだ火のついたタバコでも平気で道路に捨てる人がいる。またチューインガムや痰や唾などを平気で道路に吐き捨てる人も後を絶たない。プロ野球の試合を見ていると、多くの選手がグランドに唾を吐いている。それを見るととても不愉快になる。犬を飼っている人で、散歩中の犬のフンを片付けるのが飼い主の常識である。ところが人が見ていないときは、片付けないでそのまま放置している人がいる。こうしてみると、日本人の中でも罪悪感の希薄な人が多いということがよくわかる。この記事を書いた方は、罪悪感の強い神経質者は政治家にはなれないと書いておられた。なぜなら政治家は、すべてと言うわけではないが、嘘つきでなくてはならないし、人を落とし入れなくては出来ない仕事だからと言われていた。まあ、うなづけるところもある。森田先生も、神経質な人は長にはなれないといわれている。例えば、校長とか市長とか、何かそういう長のつく人間には不向きであると言っておられます。それはやはり、神経質性格の人は非常に正直でお人好しで嘘をつけない人間であるからです。私の感想としては、神経質者は偉大なリーダーや指導者の下で、ナンバー2の位置にいると、大きな力を発揮するように思います。それは何事にも細かい事まで気になるという神経質性格が十分に発揮できるからです。神経質性格の人は、偉大な指導者にとってはなくてはならない存在感を示すことができます。ところが仕事ができるので、長にしてもらったとたんに、統率力がなくて、途端に調子が悪くなってしまう人を数多く見てきました。実は恥ずかしながら、私もその一人でした。神経質者はつよい罪悪感という感情が自然に湧き上がるようになっている。つまり強い欲望と同時に、強い不安が同時に湧き上がるようになっている。それに対して、私たちは強い欲望に力を入れつつも、欲望が暴走しないように不安を活用してバランスをとりながら生活を進めていくということだ。どちらか一方に片寄ってはいけない。神経症に陥るということはそのバランスがとれていないということだ。サーカスの綱渡りでいえば、バランスが崩れて地上に落下してしまうということだ。
2017.09.19
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森田先生は恐怖と欲望の調和について次のような話をされている。今、戦争で敵と相対してその矢面に立っているとする。小銃弾が頭をかすめて、自分の前方、後方で破裂して土石を散らす。恐ろしい、身の毛もよだつ、心臓は高鳴る。身を隠しながら、一生懸命に敵に向かって射撃していくしか方法がない。精神は敵のほうに集中して一心不乱になっている。今や敵弾の飛来も、自分の心臓の高鳴りも少しも感じない。自分の疲労、苦痛はもとより、生死も何も念頭にはない。ここにいわゆる心頭滅却がある。思慮も判断も思想の矛盾もない。ただ一念の生の努力があるのみである。これが、我々の心理の状態における欲望と恐怖との調和である。これがもし思想の矛盾にとらわれる時は、恐れるために、自分の死地を切り開くことを忘れて、逃げ場所と隠れるところばかりを考え、敵弾の音と自分の身震いのみが身にこたえて、前後不覚となり、自ら立ち惑う間に、かえって敵弾に身を落とすのである。また、一方には、いたずらに自ら恐れないようにとし、卑怯と人に笑われないようにと焦る時には、そのすることがすべて軽弾みとなり、虚偽の勇気となり、無謀にも命を捨てるようになり、ただ100人に1人が偶然に成功して、賞を授けられるようなことがある。真の勇気は、素人には勇気とは見えない。真の勇気は自然であり、思想の矛盾に煩わされず、毀誉褒貶にかかわらず、自分自身の努力そのままになりきったものである。(神経衰弱と強迫観念の根治法 森田正馬 白揚社 160ページより要旨引用)森田先生はこのような話をしながら、神経症の克服の仕方について説明されている。内容はともかく、とても分かりやすい話である。これによると、目の前の仕事や日常茶飯事、目の前に突きつけられた問題点や課題、夢や目標に向かって努力することが最も大切である。不安や恐怖、不快な感情、違和感にとらわれて、目の前のなすべきことを放り投げて、それらをやりくりしていると、精神状態がどんどん内向化してくる。ちょっとした体の違和感や不安な気分にばかり注意や意識が向いてくる。これが神経症の始まりである。神経症に陥らないためには、不安や恐怖などに過度に関わりを持たないことである。そして、不安を抱えながらも、目の前の仕事や家事に淡々と取り組んでいくことである。これは症状を克服のためだけではなく、これから先の人生に対しても、同様の態度で臨むことが大変重要になる。もともと神経質者は、細かいことによく気がつく。好奇心が強い。物事をよく分析する力がある。責任感が強く粘り強い。などという素晴らしい性格が備わっている。それらを仕事や生活の面に活かしていけば、大いに人に役立ち、自分自身も「人間に生まれてきて良かった。また機会があれば再び人間として生まれてきたい」と思えるようになるのではなかろうか。
2017.09.18
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森田先生は、不潔恐怖の患者は、ますます不潔になり、赤面恐怖の患者は、いよいよ恥を知らないようになると言われている。疾病恐怖の患者はますます不摂生となり、縁起恐怖の患者は自分の幸運も幸福もこれを犠牲に供して少しもかえりみない。みんな思想の矛盾によって、自分の思うことと、実際とがあべこべになってしまうのである。不潔恐怖の人は、物に触るとばい菌が自分の体に移っては困るので、人が触った吊革などは持つことができない。家に帰ると、その手をいつまでも綺麗に洗わなければ気が済まない。中には身につけていたものを脱いで洗濯したり、あるいはシャワーなどを浴びて身体を清めないと気が済まない人もいる。不潔恐怖の人は、これを馬鹿げた事と知ってはいるが、汚いと思う嫌な気持ち、不浄が少しでも残っているのではないかという不安な気分が苦しい。この気分本位に従って、理知ではそんなことはないということを知りながらも、事実に従順になることができない。そして不浄らしきものには一切手を触れようとしなくなる。次には何が不浄かと言う事を苦心して研究するようになる。森田先生の患者は、ものを触るとき常に紙を用いて、多いときには1日に100枚も使う。さらに、いつも木綿で作った手袋をはめている。トイレは汚いので、なるべく我慢している。そのためしばしば途中で尿を漏らすことがある。これを始末することができないので、できるだけもれたままで我慢している。大便に行く時は大変である。紙を何枚も重ねて使うので、大量の落とし紙を必要とする。手に不浄が染み出しは出ないかという心配からである。これでは大便が綺麗に払われるはずがない。これは常人ならば、想像するだけでも嫌なことである。患者はこの明らかな事実さえも心に考える余地がない。一心不乱に手に不浄が染み付きはしないかということのみを恐れているのである。患者は、ものに触れることが恐ろしいために、衣類を着替えることも、入浴することもできない。不潔恐怖のあまり、患者の身体はますます不潔になるのである。 (神経衰弱と強迫観念の根治法 133ページより引用)赤面恐怖の人は、自分の顔が赤くなると、人から自分のことを気の弱い変な奴だとみられることを恐れている。昔、飛行機で海外へ行くということが珍しかった頃、会社からの依頼で海外に単身赴任することになった人がいた。空港には会社の関係の人をはじめ、多くの人が見送りにきていた。ところが、その家の奥さんの姿が送迎デッキ見えなかった。奥さんは赤面恐怖症の為、人前に顔を晒す事を恐れたのである。空港までは来ていたが、会社の人たちが大勢集まっている場所には行くことができなかった。会社の人たちは姿を見せない奥さんに対して、なんと薄情な奥さんだろう、と思ったという。奥さんにしてみれば、赤面恐怖のため、みんなの前に顔を見せたくても見せられない自分の症状のことをわかってもらいたいという気持ちがあった。しかし、その気持ちは会社の人たちには伝わる事はなく、奥さんの行動の事実を見て、奥さんの人間性を疑ったのである。奥さんは、赤面した顔を人前にさらすことを控えて、会社の人たちが自分と主人のことを悪く思われないための精一杯の行動をとっていたのだ。それが唯一正しい方法だと信じていた。でも実際には、他人から変わった人、変人として非難ばかりされるような人間に成り下がっている。それがあらゆる対人関係の伴う場所で、同じような行動をとるものだから、とても苦しくて、もう死んだほうがましだというような状態に追い込まれているのである。これらは自分の強い願いとは反対のことばかりが起こっている。それは不安や恐怖などの気分ばかりを相手にしているからである。強迫観念というのは、やりくりしたり逃げたりすれば、すればするほど追いかけてくる。それは詐欺師にあやふやな対応をしていると、どこまでも付きまとわれて、骨の髄まで巻き上げられるようなものだ。森田理論では欲望があるからこそ、不安があるという。本来の方向性としては、どこまでも生の欲望の発揮を追及していく。ただし、無制限に追及していると欲望の暴走が起きる。その制御機能として不安が発生するようになっているのだから、適宜不安を活用して調和をとりながら、生の欲望を追及していく態度になればよいのである。このような不快感や違和感に左右される生活態度を気分本位という。森田理論は、気分本位、理知本位の生活態度を、事実本位・物事本位の態度に変えていくための学習である。
2017.09.17
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生活の発見誌では新年号に載せる川柳の募集を始めた。今年も今まで書き溜めた川柳を応募しようと思っている。おばあちゃん 試合のある日は カープ女子集談会 途中経過で 気もそぞろ (プロ野球ファン)集談会 懇親会は 皆勤賞発見誌 毎月読んで 30年来年は 森田誕生 100年目神経質 裏目に出ると 無神経新年会 一人一芸 花盛りなごやかでほほえましい作品、勘違いのネタ、意外性のある作品、つい笑ってしまう作品を日ごろから作り溜めていることが肝心です。川柳は注意や意識を常に外に向けて周囲を観察するようになります。それをメモしておくことが、肝心です。また、日々小さな目標を持てますので、生きる張り合いが出てきます。これになぞなぞ問答、ユーモア小話つくりなどを付け加えたりしていれば、神経症はかなりよくなっていると考えられます。これの利点は、頭の体操になること。お金が一銭もかからないこと。時と場所を選ばないでいつでも楽しめることです。私の参加する集談会では、「生活森田・応用森田」(約15分)というコーナーで持ち寄った川柳を発表しあったことがあります。このような潤いのある集談会を作り上げていくことが、森田理論学習を継続するためのアクセントになると思います。
2017.09.16
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森田先生は神経症の症状が治るには、 「背水の陣」ということが最も必要なことですと言われている。「背水の陣」と言うのは、兵法で敵前に、川を後にして陣をしいて、逃げることのできないようにすることです。退却することができないと確定すると、突進して血路を開くより他に方法が尽きてしまう。鼠1匹でも、正面からパッと飛びかかってくると、大抵の人が身をかわすものです。必死の勢いで突進していけば、必ず血路は開ける。これを必死必勝といいます。 「窮すれば通ず」といって、神経質の症状は、みなこの心境になりさえすれば、必ず全治することができます。 (森田全集第5巻 687頁より引用) 兵法では、相手を責める時にすべての退路を閉ざしてしまうと、相手は死ぬ気になって、やぶれかぶれで1点突破を狙ってくるので、攻める側にとってはとても危険である。そのために、少なくとも1つだけは退路を開けておくのが定石であるという。1つでも退路があると、相手はもしかすると、その退路に活路を見出して生き延びることができるかもしれないと思ってしまう。そのことによって、死ぬ気になって、ハチャメチャな乱暴な攻撃をしなくなる。これは攻める方からしてみると、相手の予測不能な突発的な危険極まる行動がなくなるので、とても戦いやすくなるのである。これは神経症が治るという事考えた場合、大いに参考になる考え方である。薬物療法で神経症が治るかもしれない。あるいは認知行動療法のような精神療法で神経症が治るかもしれないというような退路があると、森田先生は真の意味で神経症は完治しないと言われているのです。治すことができないということを悟るということは、絶望の極みのように受け取られがちですが、死地に生を得るという面もあるわけです。むしろその道しか真の意味で神経症を治すことはできないのかもしれません。絶体絶命というか、もう自分の神経症は治すことができないという状況に追い込まれて、神経症を治そうとする努力をやめればたちまち神経症は治ってしまうと言われているのだ。逆説的な説明で、全く理解不能と思われるかもしれない。しかしこの中に真実が隠れているということがとてももどかしい。故玉野井幹雄氏は、このことを次のように説明されている。神経症は「治そうとする病気」だと言われているように、治そうとしている間は治らないが、治そうとするのをやめれば治る。症状で苦しんでいる人は私のように、 「この症状は絶対に治らない、このまま、できるだけのことをして、命のある限り生きるしかない」という覚悟を固める必要がある。言葉を変えると、 「自分の救いを断念する」ということです。一般的には、絶体絶命の境地になることによって、初めてそういう心境になるのではないかと思います。「自分の救いを断念する」と言う事は、とりもなおさず、 「地獄に家を建てて住む」ことに他ならないのです。不安や恐怖と共存する世界で、それらと折り合いをつけながらなんとか生活をしていくことなのです。しかし、この救いを断念するというのは大変に難しいことです。救いを断念することができれば、どんな方法でも構わないのですが、経験的に言えば、森田理論を勉強して間もない人は断念の度合いが小さく、長くなるに従って経験を積んだ人ほどその度合いが高くなっているように思われます。(いかにして神経症を克服するか 自費出版 53ページより引用)これらを一言で言えば、症状が気になるのはどうにもならないことです。気になるものは気にするしかない。気にしてもよいが、その症状を取り去るためにやりくりを始めるのは神経症固着への道をまっしぐらに進んでいくようなものです。気になるものは気にしながら、目の前の仕事や生活を前に進めていく態度が習慣化されればよいわけです。その態度を堅持していくことができるようになれば、精神交互作用によって、神経症に陥る事はないのです。頭の中で考えているとすっきりと腑に落ちないかもしれませんが、葛藤や苦悩でのたうち回り、情けない人生を回避する一番の近道がそこに存在しているのです。そのことを森田先生で言えば、「背水の陣」とか「絶体絶命」という言葉で説明されている。玉野井幹雄氏でいえば、「地獄に家を建てて住む」という決意を固めることであるといわれている。玉野井氏によると森田理論学習とその実践によって、その態度を養成することができるといわれている。私の経験からしても、その指摘されていることは間違いのないことだと思う。
2017.09.15
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森田先生は日常生活において「練習」という態度はダメだと言われている。つまり、練習と実際とが1つになる。仕事と道楽・勉強と興味が一如になる。これが理想的である。修養の積んだ人、すなわち達人の生活は、こんなふうになるのである。およそ練習という事は、型であり、模擬であり、畳の上の水練である。これが実際生活から遠ざかるほど、ますます虚偽になってしまう。兼好法師の徒然草に、弓を射るのに、矢を2つ持つのはよくない。稽古に試みるという気分になって、真剣にならないから、必ず打ち損ずるということがある。練習という意識があるときは、必ず心の中に惰気があっていけない。物事に取り組む時は真剣にならなければならない。(森田全集第5巻 437頁より引用)これと同じようなことは、入院した患者さんによく話されていた。森田先生は、洗濯、食事の準備、掃除、整理整頓、動物の世話などの日常生活を体験させる中で神経症を治療していった。現在主流になっている薬物療法や精神療法による治療とはかなり異なっている。今まで自分の症状のみに向いていた意識や注意を、目の前の日常生活に向けることによって、外向きに変えようとされていた。入院生とその家族は、高い入院料を払いながら、雑用をさせていると言って憤慨していた人もいたようである。森田先生の特別な理学的療法により、神経症が治ると思っていた人にとっては、どうにも納得ができないことだったのだろう。しかし、その方法によって入院療法を終えた人は、不思議と神経症が治っていった。それどころか、その後ますます森田理論を活用して、人生を大きく花開かせた人が多数出てきた。それは「形外先生言行録」という出筆者を見れば一目瞭然だ。それほどまでの治療効果をもたらせたポイントはなんであったのか。入院中、日常茶飯事に取り組む態度について、 1番重要視されていたのは、「ものそのものになりきる」ということだったように思う。森田先生は、飯炊きが参考になった、薪割りで得るところがあったなどと日記に書いていた患者さんはその誤りをすぐに指摘されていた。ここでは、日常茶飯事の合理的な進め方やり方のコツを学んでいくところではないといわれる。日常茶飯事に無我夢中で取り組むことによって、感情が発生し、感情が動き出してくる。そして高まっていく。日常茶飯事に取り組むことによって、何らかの気づきや発見がある。疑問もわいてくる。工夫も思いつくようになる。すると、しだいにやる気や意欲が湧いてきてウズウズするようになっていく。それをもとに実践・行動をすれば、自分の症状を目の敵にして、閉塞状態にあった自分を解放することができるのだ。そのためには、入院期間中、指示されたことを機械的にこなしているだけでは駄目なのである。今一歩踏み込んで真剣に取り組んでみる。物そのものになってみる。この態度がどうしても必要なのだ。その状態は、常日頃から常に本番を想定して練習しているようなものである。練習のための練習では、緊張感が少なく、練習していても、心ここにあらず、という状態になる。私たちも、この考え方から学んで日常生活の取り組み方を見直してみる必要がある。普段の日常生活の中で、今一歩踏み込んで真剣に取り組んでみるということが大切なのだ。その結果、自分の感情がどのように変わり、どんな実践・行動ができたのかを振り返ってみるとよい。
2017.09.14
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森田先生は「修養」という言葉をよく使っておられる。一般には聞き慣れない言葉だが、この言葉の意味するところを考えてみた。国語辞典によると「修める」の意味は、人間としてよい具合に落ち着いている。 「身」とか「行ない」についていう言葉だという。「養う」とは、少しずつ作り上げていく。実力を養う。体力を養う。英気を養うなどというふうに使う。よくわからないが、何となくイメージは分かる。一般的な精神修養では、観念的に自分の生きていく道を模索していくという意味に受け取られている。私は森田理論を学習し、生活の中での応用力を磨いていくというふうに考えている。だから森田理論を勉強して、人に解説ができるように知識が増えただけでは、「修養」ができているとはいえないと考えている。森田理論を体得し、日常生活の中で活用できていかどうかが欠かせない。この2つが相まって、 「修養」の進んだ人と言えるのではないかと考えている。森田先生のところへ入院しているような人は、どちらかと言うと、観念的な人が多く、森田理論を頭の中で理解しようとする傾向が強かった。要するに、森田理論を理解することばかりに力が入り、森田理論を生活の中に活用するという姿勢が希薄であった。 この2つのバランスが崩れていたのである。そこで森田先生は、 「修養」という言葉を説明するにあたって、実際に生活の中で「実行」するという言葉を多用されているのではないかと思う。バランスを取り戻すためには、森田理論をこねまわすのではなく、ともかく実行に力を入れられたのである。実行が先で理論は後であるという考え方だ。理論は実行の後でいくらでも後付できる。森田先生は「修養」について、次のように説明されている。修養は、ともかくも実行である。私に接近し、私の気合いに触れねばならぬ。この感覚を受けることを薫陶といいます。この気合いで神経症が治るのであります。つまり思想を排し、直覚と実行とから出発するということを強調しておられる。修養は実際を離れてはいけない。実際と修養とが、不即不離でなくてはならない。禅では、 「事上の禅」と言って実際でなくてはならない。いたずらに坐禅のための坐禅では仕方がないのである。入院修養の目的は、 「事実唯真」を会得し、 「自然に服従し、境遇に従順なれ」ということを実行することである。つまり「かくあるべし」を少なくして、事実に基づいてすっと行動できるようになることを目指していたのだ。実行にあたっての注意点についても述べられている。便所の汚れたのを見かねて、これを清潔にするのは修養であるが、修養のために、便所掃除をするのは邪道である。実行すれば神経症が治ると言われて、その目的のために行動するのは、神経症が治るどころか、ますます増悪していく。自分の気になる症状に注意や意識が集中するからである。修養というのは、その人、その境遇、その場合、その時に応じ、必要に応じて、その目的に対して、ベストの努力をする。そこに修養があり、創造があり、進歩があるのである。結局は目の前の仕事や家事に「ものそのもの」になりきって実行していくことである。(森田全集第5巻 31頁、 191頁他引用)
2017.09.13
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森田先生のお話です。入院中の人で、熱海形外会の時に、十国峠へドライブした時に、自動車の中で本を読んでいる人がいた。景色を眺め、道中を楽しむということとは無関係である。少し注意して、世の中の人を見ると、学者とか修道者とか言う人は、凡人と違った偏人であって、時と場合における周囲の状況に適用しないで、ただ自分自身の鋳型にはまっているのが多いのである。「そうゆうふうでなくては、偉い人になれない」と言う風に考えている人が、世の中には多いようだけれども、僕は決してそうとは思わないのである。周囲に適用するような人がよく独創的で適切な問題を発見して、新機軸を立てるのではないかと考える。 (森田全集第5巻 680ページより引用)ここでは森田先生は、周囲の状況に適用していく生活態度が大切であると言われている。この反対の生活態度は、周囲の状況は無視して、自分の気分に合わせてやりたいことをやると言う考え方である。このような状態になると、端から事実を確かめるという考えがないので、目の前で起きている出来事が正確につかめなくなってくる。その代わりに、頭の中で事実を様々に類推したり解釈するようになる。その方向はほとんどの場合、真実からはどんどん離れていってしまう。それを元にして対策を立てたりすると、事実を誤認しているため、的外れな行動になりやすい。周囲の状況に合わせて行かないと、人間関係はうまく行かなくなる。西郷隆盛は、自分の意見とは違っていても、みんなでいったん決めた事は、我を通さずにみんなの意見に従ったという。周囲の状況に合わせない人は、自分の主張と合わない考え方の人には、徹底的に攻撃を加える。双方の考え方の違いをはっきりさせて、歩み寄るという姿勢は全くない。人間関係は平行線をたどるばかりで、交わるということがない。周囲の状況に合わせないと言う事は、自分が孤立化していくということである。人間が2人いれば、考え方も行動も全く違う。主張すべき点は主張し、もう一面では相手の話をよく聞いて、もしずれていれば、そのズレを修正していくという態度が、人間関係では欠かせない。周囲の状況に合わせない人は、変化に対応できない人でもある。例えば、川で泳ぐときに泳ぎやすいのは川の流れに沿って泳いでいくことである。周囲の状況に合わせない人は、水の流れに沿って泳ぐのではなく、水に逆らって川下から川上に向かって泳ぐようなものである。これはエネルギーを消耗し、成果が上がりにくい。川の状況をよく見て、川上から川下に向かって泳げば、難なく泳ぐことができる。飛行機でも、例えばハワイへ行く時に、日本からハワイへ行く時は偏西風に乗って行くので、 6時間ぐらいで着く。ところが、ハワイから日本に帰ってくるときは、その風に逆らって飛ぶので10時間くらいかかるという。周囲の状況に合わせるといえば、サーフィンがある。サーフィンは常に波の様子を読まなくてはなりません。波はその日の天候によって変化し、動き、下手をするとサーファーを飲み込みます。サーファーにとっては一瞬一瞬が緊張です。波を読み、波の上でバランスをとり、波に乗れれば、素晴らしいスピード感が体験できます。自分の力ではなく、勢いよく打ち寄せる波の力を自分のものにして、岸まで疾走することができるのです。私たちの生活もそうです。周りが動かず、時間も流れなければ、私たちはいつまでも居心地のよい場所にじっとしていることもできるでしょう。けれど時間は波のように変化し、動いています。私たちはそれに乗らないことには生きて入れないのです。人生の波に乗るとは、毎瞬毎秒、緊張感を持ち、周囲をよく観察し、そのときそのときで適切な判断ができるように努め、自分の生を前に進めていくことです。流れに乗るということです。流れに乗るとき、人は注意を一点に集中したままではいられません。四方八方に目を向け、状況を考え、自分の姿勢を判断し、バランスをとっていくのです。(流れと動きの森田療法 岩田真理 白揚社 65頁引用)
2017.09.12
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森田理論を学習するために役立つ本を紹介してみたい。入門書・ 「実践森田療法」 北西憲二 講談社この本は初心者が森田理論を学習するにあたって最適だと思う。この本の最後には神経症の自己診断チェック表が付いている。・ 「神経症を治す」 中村敬 保険同人社薬物療法、神経症周辺の精神病、神経症者に対する家族や職場の対応などの記載がある。・「森田式精神健康法」 長谷川洋三 三笠書房この本に出会って森田療法に関心を持ったという人が多い。長谷川洋三氏は森田療法を全国に普及させた人です。・ 「森田正馬が語る森田療法」 「流れと動きの森田療法」 岩田真理 白揚社2冊とも、森田療法の真髄についてとても分かりやすく書いてある。エピソードが満載である。特に「純な心」について的確な説明がある。最初の本には、森田先生の詳しい年表が載っている。本格的に森田理論を学ぶには、森田正馬先生の原著をお勧めする。・ 「森田正馬全集 第5巻」 白揚社 形外会という森田理論勉強会の記録である。大変読みやすい。・ 「神経衰弱と強迫観念の根治法」 「神経質の本態と療法」少し難しいが森田理論を深めるために必須である。その他の本で、特に私がおすすめするのは次のようなものである。・「生の欲望」 森田正馬 水谷啓二編 白揚社この本には、森田先生のエピソードが満載である。・ 「強迫神経症の世界に生きて」 明念倫子 白揚社強迫行為を伴う強迫神経症の成り立ちと克服の仕方が明快に説明されている。・ 「神経症の時代」 渡辺利夫 TBSブルタニカ渡辺氏はこの本で開高健賞をとられた。森田理論について的確で奥深いところを説明されている。・ 「森田正馬癒しの人生」 岸見勇美 春萌社森田先生の写真が多く載っている。森田療法成立の過程がよくわかる。・ 「愛着障害」 「愛着障害の克服」 岡田尊司 光文社新書岡田氏は森田療法家ではないが、私たちが神経症に陥った親と子の関係について鋭く指摘されている。また、そこからの脱出についてくわしく述べられている。岡田氏は数多くの本を上梓されている。すべての本が、神経症克服にとって役に立つ本である。・ 「怖くて動けないがなくなる本」他多数 石原加受子 すばる舎対人恐怖症の人には役立つ本である。石原さんの本は、70冊以上が販売されている。石原さんは「他人中心」の生き方から、「自分中心」の生き方にチェンジすることが必要であると言われている。それはどの本にも一貫している。人間関係における不安と欲望の折り合いの付け方だと思う。そういう意味では実践的である。・「状況」が人を動かす 藤田英夫 毎日新聞社経営の本ですが、人を動かしていくのは状況、現実、事実だと指摘されている。事実の特徴、付き合い方について大変参考になる本である。以上独断と偏見で紹介しました。関心のある本を何度も繰り返してお読みください。
2017.09.11
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私はかってトライアスロンに打ち込んでいた時、水泳がとても苦手だった。トライアスロンというスポーツは、水泳(スイム)と自転車(バイク)、ランニング(ラン)を組み合わせたものだ。オリンピックなどではスイムが1.5キロ、バイクが40キロ、ランが10キロで争われる。これはショートトライアスロンと呼ばれていて、ふつうはもっと長い。スイム3から4キロ、バイク100キロ、その後42.195キロのランというようなのものがある。これを夏の時期に一人の人間が朝早くから、夜になるまで行うのだ。だから鉄人レースと呼ばれている。バイクは平たんな道というのはめったにない。わざわざ起伏のある道を選んでコース設定されている。完走すると、とても感動するが、それこそ寝食を忘れるくらい過酷な練習をこなしていないと、途中棄権ということになる。それどころか、体を壊す。私も練習不足で臨んだ大会で、ランになって足がつりだし走れなくなったことがある。私の場合、会社に行く前にバイク15キロ。それも山越えのコースで毎日早朝練習していた。会社への行き帰りはラン、その帰りの途中でスイムを1.5キロという生活を1年以上続けてやっと小さな大会にエントリーできた。バイクとランは練習でなんとかこなせるようになったが、水泳のクロールだけは最後までダメだった。本番の大会では平泳ぎで泳いでいた。平泳ぎは常に顔が水面に出ていて、恐怖心はなかった。その点は問題ないが、なにしろスピードが出ない。1.5キロ泳ぐと他の選手に大差をつけられてしまう。完走が目的とはいえ、スイムの段階で最後尾に近かった。クロールで泳ぐと海の中はものすごく濁っていて、透明なプールとは全然違う。闇の中を泳いでいるようなものだ。スイムの下手な選手にはとても恐怖心がある。誤って海水を肺に入れてしまうとパニックになる。それで命を落とした仲間もいた。そのうえ海はうねりがある。潮の流れがある。たくさんの人が一緒に泳いでいるので体がぶっつかり合う。平泳ぎの問題点は足のキックを続けることである。その後バイクやランでは主に足を使うので、スイムの段階で足を酷使してしまうのは問題がある。バイクやランでボディブローのようにきいてくるのだ。足の酷使はできるだけ避けるのが定石だ。クロールの上手な人はスイムでは、足はバタバタと動かさない。手で前進して、足の力はバランスをとる程度に動かすだけで温存しているのだ。私はトライアスロンを始めたときほとんど泳げなかった。人のやるのを見て興味本位で始めたのだ。ある程度コーチについて学んだが、私の泳ぎをみてクロールはあきらめたほうがよいといわれた。クロールは中年の男性が初めて挑戦して身につけるのは難しいといわれた。どうしても大会に出たいのなら平泳ぎしかないといわれた。それでも何とか物にしたくてかなり練習をした。クロールの習得に当たっては、最初に手の動かし方、息つぎのやり方、足の動かし方など分解して覚えていく。最初は両手の前に浮き板を持って足の筋力をつけることから始める。足で推進力を作りプールを行ったり来たりする。次に足をついたまま、手の動きを何度も練習する。体をひねって片手をできるだけ前に伸ばす。水を捕まえるようにして、胸の前まで引き寄せる。さらに腰のあたりまでひいて、最後に力強く押す。ここで一番推進力が得られる。次に手の肘をトップにした状態で最初に戻る。その時に、もう片方の手が同じ動作を繰り返す。文字にしてしまえばこういうところだが、実際に体験して自然な動作としてできるようにならなければならない。それができるようになると、足に浮き板を挟んで足が沈み込まないようにした状態で、手の動きを体に覚えこませる。同時に息継ぎを覚える。息継ぎで大事なことは、決して水を飲みこまないということだ。そこまでできるようになったら、股に挟み込んだ浮き板を外して、本格的にクロールの練習をするのだ。ところが、分解して練習していた時は難なくできたことが、3つの動作を組み合わせたとたんにずっこけるのだ。特に手の動きと足の動きが連動しない。100メートルまではなんとか泳げるようになったのが、全力で泳ぐとエネルギーが枯渇して後が続かない。これでは海で1.5キロを泳ぐことはできない。下手をするとおぼれて死んでしまう。上手な人はゆっくりと泳いでも体が沈み込まない。リラックスした状態でいくらでもプールを往復することができるのだ。うらやましかった。疲労物質が体に蓄積するということがないのだろかと不思議に思った。歳をとってからの水泳はとても体によいといわれている。膝に負担がかからないスポーツだからだ。興味のあるかたは、この際クロールに挑戦して見られたらどうでしょうか。できた暁には、そのコツを是非伝授してもらいたいものである。
2017.09.10
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以前の森田理論学習のノートを見ていたら、神経質者は幼弱性が強いとあった。幼弱性は3つある。観念的である、依存的である、自己中心的であるということである。観念的になると、「かくあるべし」が強く、事実に基づいた柔軟な考え方ができない。融通性がなく意固地である。また考えているばかりで実行力が伴わない。次に、依存性の強い人は、自分でやるべきことに自分で手をつけないで人に依存してしまう。楽に生きているように思えるかもしれないが、やることがなくなって暇を持て余すようになる。その結果、生きていくことが苦痛になる。人生に対して投げやりな気持ちになってしまう。次に、自己中心的な人は、気分本位になりやすく、他人を思いやる気持ちがなく、独りよがりな言動が目立つ。また注意や意識が内向化してくる。例えば、自分だけが身体や心が特別に弱いとか、他人と違って自分には放っておくことができない弱点があるとか、自分だけが外界の刺激に対して、特別に抵抗力が弱いなどと思いこんでしまう。これらを放置すれば、生きていくことが味気なくなり、人間関係がいつもギクシャクしてくる。その結果、本来は温かい人間関係の中で暮らしたいにもかかわらず、人と関わりあうこと避けるようになる。また、自分自身も砂を噛みながら生きているようなもので、生きていくこと自体に意義を見いだせなくなる。ですから、この3つの幼弱性は出来るだけ修正していかないと、閉塞状態に陥っていく。まず「かくあるべし」を少なくするということですが、これは事実や現状を出発点にして物事を考えられる態度を養成していくことです。これは森田理論の核心的な考え方であり、このブログで何度も取り上げているとおりである。今日は2番目の依存的態度の修正について考えてみたい。例えば、お金に不自由してないからといって、 3度3度の食事をすべて外食に頼っているとどうなるか。その時々で見れば、煩わしい料理から解放されて、しかもプロの職人が作る美味しい料理を堪能できる。それは対人恐怖症の人が、人と接触するといつも不愉快な気分にさせられるので、人を避けているようなものである。逃避した瞬間は、不愉快な気分にならなくてよかったと思える。そんなことを続けていると、他人も自分を避けるようになる。最終的には人間関係がどんどん狭まり、孤立して、南海の無人島に1人で暮らしているような状態になる。もともと人間は1人で生きていけるようにはできていない。そのような生き方は、本来の人間性に反する生き方であると思う。共依存という言葉があるが、これは例えば、酒飲みでいつも様々な問題を起こす夫に、 「どうしようもない主人だ」と愚痴をこぼしながらも、いつも寄り添ってかいがいしく世話をやくようなような関係の夫婦のことである。夫は自分で何をしなくても、すべて妻が解決してくれるので、ぐうたらな生活に甘んじていつまでも自立するということができない。妻は夫の世話をするということが、唯一最大の生がいになっており、そんな生き方はどこかおかしいという疑問が湧かなくなっている。つまり共依存は、夫婦のどちらにとってもメリットはないのだ。それどころか、 2人してアリ地獄の底に落ちていくようなものである。森田理論では基本的には、自分の出来る事は自分で手をつける。特に、日常茶飯事については肝に銘じておく必要がある。人に依存することなく、自分で丁寧に日常茶飯事に取り組んでいれば、少なくとも神経症に陥ってのたうちまわるという事は避けられる。森田理論は、安易に人に依存するのではなく、自立して生きていく方向を目指しているのである。そして自分のできないことだけは、人に甘えて依存してもよいという態度を堅持していく必要がある。依存させてもらかわりに、自分も何か人に役に立つことをしてお返しをしていかないとバランスが崩れてくる。森田理論はバランスとか調和というを大事にしている。バランスが崩れてくると、自己の存在自体が揺らいでくるということを忘れてはならない。
2017.09.09
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集談会では上司や同僚から理不尽なことを言われて腹が立って仕方がない。どうしたらよいのでしょうかとい話題がよく出る。その腹立たしさを何日も抱えてイライラしている。なんとかいいかえしてやりたいがあとのことを考えると我慢するしかないのか。幼児のように泣きわめくことができればさぞかし楽になることができるだろうに。等々。森田ではどう考えているのか。森田先生は腹が立つときは殴ってやろうか、それとも嫌味の一つでも言ってやろうかとか、その感情をそのままにしておけばよいと言っています。腹立たしさは自然現象であって人間の意思の自由はない。そんなものをやりくりしてスッキリしようと思うこと自体が間違いである。不快な感情はそのまま味わうしか方法がない。そしたらパニックに陥ってしまうという方がおられるかもしれない。心配はいらない。感情の法則1では、どんなに腹立たしい感情でも、放っておけばひと山越えておさまってくるという。この法則を知っておけば、何もしないでじっとしておくことです。さらに早くしようと思えば、その腹立たしさは横に置いておいて、その時のなすべきことに手をつけることです。本来はこれでだいたい方がつく。その時にいくら腹が立っても、後で考えるとたいしたことではなかったという体験は誰でもしていると思います。これは実際に生活の中で実験してみることが大切です。次に精神拮抗作用の考え方も大切です。爆発したり、殴りかかったりしたい気持ちはやまやまだが、そのようなことをすればその後の人間関係が一挙に破壊されてしまうという気持ちも自然に湧き起こってくるようになっています。大人の人間の心の仕組みはそのようにできている。そのバランスをとる必要がある。どちらかに態度を決めてしまうと、融通はきかなくなります。臨機応変に動くことができなくなるのです。それともう一つは、3日たってもまだ怒りが収まらないようだと、それは腹が立つだけの理由がある。そういう時はたまには準備周到にして闘いを挑むことも必要だと森田先生は言っている。そうしないとストレスを抱えたままになる。また相手は自分を見限って、以後軽くあしらうようになるといっておられます。だいたい腹立ちは口に出して愚痴として発散すると割合小さくなる。その場合、「あなたメッセージ」ではなく、「私メッセージ」が有効だと思う。私メッセージとは、「私はこう思う」「私はあなたが○○してくれたらうれしい」などと「私」を主語にして自分の気持ちを伝えるようにするのだ。さらに「純な心」も生活の中に取り入れたい。注意点として、腹が立った時に、「ちょっと待て」その腹立ちは初一念だろうかと考えてみることである。よく考えてみると、腹立ちは初二念であり、その前に初一念が隠れていたという場合が多い。初一念から出発すればけんかになることはめったにないのである。
2017.09.08
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森田先生は、 「初一念」について次のように説明されている。我々がものに驚き、あるいは喜ぶ時、その刹那には、我そのままであるが、ハッと我に返る時、それが初一念である。同じく花もしくは恋人に対して、自分がそのうちに同化した時、我そのままであって、現在にハッと振り返る時、初一念である。この自分そのまま、すなわち純主観が、本来の真であるというのではないか。自分の頭の重さを知らず、今の自分は夢ではないかという思いのない時に、それが本来の自分であって、生の力のベストに活動するところではないか。 (森田全集第7巻 274ページより引用)「純な心」の学習をする時、 「初一念」という言葉が出てくる。私はほぼ同じ内容であると思っている。しかし両方とも普段の生活には聞き慣れない言葉である。森田先生が言われている「初一念」とは、物事に接したとき、最初に湧き上がってくる感情のことである。直感、第一に感じる気持ちのことである。普通は、それらが湧き上がってきた途端に、様々な理屈などの夾雑物などが入り込んでくる。それらは「初二念」「初三念」などと言われている。森田理論では、「初一念」は、観念や理想が入り込まない人間本来の素直な感情であると言われている。ここに重点を置いて、日々の暮らしを紡いでいけるとすれば、葛藤や苦悩が少なくなり、とても楽に生きることができる。もちろん神経症とは無縁な生活となる。理論で説明すると、こういうことだが、とてもわかりにくいかと思う。具体的なたとえ話で説明するとわかりやすい。例えば中学生ぐらいな自分の娘が、何も連絡もしないで夜10時ぐらいになってもまだ家に帰ってこないとする。すると、親は何か事件にでも巻き込まれたのではないかと、とても心配する。友達の家に電話をしたり、交番に駆け込んだりする。その後、娘が何食わぬ顔で帰宅した。すると、親は烈火のごとく娘を叱りつける。それを聞いた途端、娘はごはんも食べずに、自分の部屋にこもってしまう。このときの親の「初一念」は、娘のことが心配で、いてもたってもいられないという気持ちである。しかしその気持ちは、娘が帰ってきた途端にどこかに吹き飛んでしまう。自分勝手で親をイライラさせた娘に対して、むらむらと湧き上がってきた怒りの感情を直接娘にぶつけるという行動に出ることがある。自分のイライラした感情を払拭するために、とっさにとった行動である。これには、子供は親を困らせるようなことをしてはならないという「かくあるべし」が含まれている。これは「初二念」に基づいた行動である。森田理論では、こんな時は「初一念」を思い出すことが大切であるという。「お父さんとお母さんは、あなたがいつまでも帰ってこないのでとても心配していたのよ。でも、何事もなく無事に帰ってきてくれてとても嬉しい」 「これからは遅くなるときはせめて連絡だけは忘れないようにしてほしい」これは森田理論学習の中でもよく出てくる「純な心」「私メッセージ」の対応である。私たちはいつも「かくあるべし」的言動が多いので、何かあった時は今の「初一念」はなんだろうと振り返ってみる癖をつけていくことが大切になる。それが日常生活の中で実践できるようになると、あなたは「森田の達人」にかなり近づいていると言える。
2017.09.07
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私の知り合いにかって胃腸神経症で苦しんだ人がいる。その方は、車で会社に通っているが、会社が近づいてくると急にお腹が痛くなるという。会社着くやいなや、毎日トイレに駆け込むのが習慣になっていた。いわゆる神経性下痢である。同僚たちは、事情が分からないので、用便は家で済ませてくるようにといつも嫌味を言っていた。もともと人間は毒物を体内に入れると、吐き気をもよおしたり、下痢症状を起こして毒物を早急に体外に排出しようとする。その方は朝食で賞味期限を過ぎたものなどは決して食べないように気を付けていた。また病院で、定期的に大腸のポリープの検査もおこなっている。そのたびに何ら問題はないと言われていた。それなのに毎朝下痢症状が現れるのはどういうことなのか。納得できないので大学病院でも調べてもらった。その結果精神的なストレスが、自律神経に影響を与えているのではないかということだった。その方は土木建設の会社に勤めておられる。主な仕事は安全管理の仕事である。労災事故などが起きると、担当部長としての自分が対応することになっていた。労働基準局との折衝や工事現場における近隣からのクレームに対しても、その方が対応しておられる。会社での安全管理教育もその方の担当である。精神的にはきつい仕事だといわれる。近隣からのクレームではヤクザなどが絡んで、とても一筋縄ではいかないことが多い。無理難題に対して相手を怒らせないように、穏便に解決しなければならない。そんな時は勤務時間はあってないようなものだ。夜中に出かけていかなければならないこともある。時間もかかるし、費用もかかる。集談会に来られるくらいだから、神経質性格の人だ。その性格のため取り越し苦労が多く、目の前の解決しなければならない問題に対して、どうしても精神的に自己内省的になって自分を責めてしまう。胃腸神経症といえば、元メンタルヘルス岡本記念財団の理事長さんもそうだった。岡本さんという理事長さんは、終戦後、しばらくシベリアに抑留されていた。その時の食事は量も少なく、本当に劣悪なものであったという。その食べ物をめぐって、捕虜の人同士の争いもあったようだ。岡本さんはその食事をとるたびに胃がキリキリと痛んでたという。次第に食べることが恐ろしくなった。それが胃腸神経症に陥った原因だった。その後、日本でスーパーニチイの副社長になられた。取締役営業本部長の時、大変な胃腸神経症を経験されている。その時は、いつも抑留中の経験がよみがえってきたそうだ。その恐怖のために全く食事は取れなくなったのである。体が食べ物を受け付けないのだ。そのため、体重が激減し、 30キロ台にまで落ちたという。もちろん著名な胃腸の専門医に数多く見てもらったが、改善には至らなかった。そんな折、仕事上の知り合いから、胃腸神経症の原因は精神的なものだから、森田療法が合うのではないかと紹介された。岡本さんはすぐさま森田療法に取り組まれた。その成果は3ヶ月後にすぐ現れたという。次第にに体重が回復してきた。岡本さんは、それまで食事をとると必ず胃腸がおかしくなるという観念で頭の中ががんじがらめになっていた。その先入観や決めつけが自分を窮地に追い込んでいったのだ。森田療法によって、少しずつ食べ物の中に流し込むことを実践してすることで、短期間のうちに胃腸神経症を克服された。神経症を克服されたとき、こんな優れた森田療法が、どうして日本で埋もれたままになっているのか。一念発起して森田療法普及のための財団を造られたのである。今森田療法が中国で盛んに取り入れられている。その端緒を切り開らかれたのは、まさに岡本さんの力である。さて、私の知り合いの人であるが、この方も森田療法によって胃腸神経症を克服された。集談会における集団森田理論学習の成果が出たのである。特に森田理論の学習の中で、 「ものそのものになりきる」と「物の性を尽くす」を座右の銘として、生活の中に活用するという方法によって、緊張した場面で胃腸の調子が途端に悪くなるという症状が出なくなったのである。注目すべき点は、胃腸神経症を正面から向き合って治癒されたという事ではない。それではかえって胃腸神経症を乗り越えることは不可能だったと思う。症状はどうすることもできないと観念して、仕事や日常茶飯事に丁寧に取り組むようにされたのだ。今やそのつらい経験を基にして、神経症に陥って苦しんでおられる人たちを支援しておられる。神経質性格を自覚し、森田理論によって自分の進むべき道を発見されたことが大きく寄与していると思うのである。
2017.09.06
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森田先生の言葉です。ここで修養の第一の出発点は、物事に対する「感じ」を高めていくことである。われわれは、見るもの・聞くもの何かにつけて、ちょっと心をとめていれば、必ず何かの「感じ」が起こる。かりそめにも、これにちょっと手を出しさえすれば、そこに感じが高まり、疑問や工夫が起こって、興味がわく。これを押し進めていけば、そこにいくらでも、進歩がある。これと反対のものは「感じ」に対する理屈である。注意せねばならぬ・誠実であれ・努力し忍受すべしとかいう抽象的な文句をもって、自分の心の働きを制御しようとすることである。このときは、いたずらに心の不可能の努力のために、物に対して起こる自然な感じは、一切閉塞して、心の発展進歩はなくなってしまうのである。僕は、熱海に行けば原稿を書き、囲碁将棋より他にあんまり仕事はないが、それでもイタドリを採りに行くとか、山の植物を採集し、谷川に盆石を探して回るとか、その時と場合に応じて、なんとか必ず希望に満ちた一日を送ることができるのである。煩悶は煩悶のままで、何かと手を出していさえすれば、自然に心が、その方に引きつけられていく。ここで3 、 40日間、入院規定のとおりに、実行していさえすれば、 いつとはなしに、自然に感じと欲望が高まってくる。(森田全集第五巻 425頁より引用)ここでは我々の普段の生活態度について述べられている。神経質者は、不安や恐怖のために、取り越し苦労ばかりしてなかなか行動することができない。そうなると、意識や注意が自分の身体や心に向かいやすくなる。それをなんとかしようともがけばもがくほど逃れられなくなってくる。その悪循環にはまらないためには、目の前の仕事ややらなければならない事などに、いやいや、仕方なしにでも手をつけていくことである。意欲ややる気が沸き上がってこないのに行動すると出鱈目になるので、手をつけないというのは気分本位である。気分本位になると目的や目標を失い、その時々の感情に左右されて消極的な行動になる。気分本位な行動は後で後悔するようになる。自己否定するようになるので、とても苦しい。いやいや、仕方なしにいても手をつけていると、そのうちに行動に弾みがついてくる。ここが肝心なところだ。すると次第に気づきや発見、疑問などが出てくる。つまり、新しい感情が養成されたのである。新しい感情が養成されると、古い感情は相対的に薄まってくる。新しい感情に基づいて新たな行動をとると、次から次へと新たな感情が湧いてきて、今まで悩んでいた不安や恐怖はいつの間にか忘れてしまうようにもなる。私たちは、不安や恐怖で苦しい時に、それらを解消することでで将来に展望が開けてくるものかを見極める必要がある。あるいは人の役に立つことなのかを考えてみる必要がある。それから外れる不安や恐怖については、目の前の仕事や家事などに積極的に取り組むようにして、新しい感情をどんどん作り出して、不安や恐怖を乗り越える技を身につけることが大切であると思う。
2017.09.05
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石原加受子さんの「自分中心の生き方」は森田理論学習と重なるところがある。ではどこが違うのか。対人恐怖症、対人緊張を例にとって説明してみたい。森田療法でいう対人恐怖、対人緊張の人は、苦しみや葛藤のために実生活で支障が起きている人が多い。例えば仕事を辞めてしまう。出社拒否、登校拒否、ひきこもりになっている人もいる。また会社や学校などに顔を出していても孤立している。いじめに遭っている。予期不安を感じるとすぐに仕事を放り投げる。あるいは人間関係でトラブルが起きるとすぐに感情を爆発させてけんかをしてしまう。人間関係ですぐに破滅的な方向に向かいやすい人が多い。心の中はいつも土砂降り状態である。森田療法ではそういう人をも対象としている。症状の程度がどちらかというと重い。これに対して、石原さんの自分中心の生き方は、そこまで重症の人を念頭に置いているわけではなさそうである。人にこびる、他人の気持ちや意向を優先しながら、まがりなりに職場や学校に行けている。だがいつも自分の感情、気持ち、意向を押さえつけて、我慢している。耐えている。そんな対人関係の持ち方は苦しい。なんとかしてその重苦しい精神状態から抜け出したい。そういう人が主な対象者であると思う。神経症でも曲がりなりにも日常生活が何とか送れているのならば、石原加受子さんのたくさんの著書は参考になると思う。さて、対象者がこのように違うと対応方法が違ってくる。森田療法では当面の治癒の目標は何か。当面対人恐怖症の蟻地獄に落ちている人を地上に引き揚げることが目標になる。意識を対人関係のことばかりに向けていると精神交互作用で益々悪化してしまう。治すためには苦しいことだが、視線を対人関係一本に絞らないで、自分の普段の生活に向けてゆきましょうということになる。自己内省している意識を、生活を立て直す方向に転換させることを勧める。この考え方に素直に従う人は比較的早く治る。そのためには日常茶飯事、規則正しい生活習慣作りから始める。そして物そのものになって意識が外向きに転換することを目指している。この方向を推し進めていくと神経質者が本来持っている「生の欲望の発揮」に向かうことができる。同時に「不安と欲望」という単元を学習して、理論的にも間違いのないことを理解する。そして二度と負のスパイラルに巻き込まれないようにすることが大切だ。注意したいのは、このブログでもたびたび取り上げているように、この治り方は第一段階の治り方のことである。これに対して石原さんの「自分中心の生き方」では、対人関係の考え方を変えていくことを目標としている。まず自分の感情、気持ち、意向、希望を最大限に尊重しましょう。あなたが対人関係の中で苦しんでいるのは、他人中心の考え方、行動にあるのですよと言われている。自分の存在や意思をできる限り大切にして、それを前面に出すという生活態度を身につけることで、対人関係はとても楽になりますと言われています。それを具体的な事例を出しながら実践的に指導されています。森田理論で学習している、認識の誤り、「かくあるべし」の弊害、「純な心」の応用、「私メッセージ」応用、WINWINの交渉術などを紹介されています。森田理論学習では対人恐怖が改善できて社会に適応できるようになっても、思想の矛盾を抱えたままでは気が晴れることはないといいます。思想の矛盾を打破することで本当の意味で対人恐怖症は治すことができると言っています。石原さんの自分中心の生き方と言うのは、まさにそこでつまずいている人にとっては福音となる考え方です。森田理論学習は具体例が少なく理論学習で終わってしまうことが多い。むしろ石原さんの説明の方が具体的で事例が多く細かいのでこちらの方で学習することをお勧めする次第です。思想の矛盾の打破の理解は、具体的個別事例の研究のほうが分かりやすい。なお石原加受子さんの本は書店に行けば70冊ぐらいは出ているようですので、試しに1冊ぐらい読まれることをお勧めする。
2017.09.04
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私の症状は対人恐怖症でした。人の思惑が気になって、仕事が手につかなくなったり、ミスや失敗を人目に付かないように隠していました。いつも逃げまくっていたのです。森田理論学習のおかげで、そういう事はなくなりました。嫌だと思いながらも、仕事から逃げるようなことはしないし、ミスや失敗も正直に告白できるようになりました。人の思惑が気になるという自分の性格は変える事はできませんでしたが、そのためにやるべき事から逃げることはほとんどなくなりました。これをもって私は対人恐怖症は克服できたのではないかと思っております。他の人にもそう宣言しています。しかし、振り返ってみると、ここまで来るのに20年の歳月を要しました。どうしてそんなに時間がかかったのか。それは森田理論の学習の方法が、手当たり次第でつまみ食いのようなものであったと反省をしております。森田の特殊用語についての理解は深まりましたが、心の中はいつも重苦しかったのです。よく遊園地などに、巨大迷路というのがありますが、その迷路の中に入り込んで、右往左往していつまでも出口を見つけられないようなものでした。もしここで、巨大迷路を空の上から写真撮影して、迷路の構造内容がわかる設計図のようなものがあったら、比較的楽に迷路から抜け出すことができたのではないと思いつきました。そのように思いついてから、森田理論全体の内容を一目で見渡すことができる鳥瞰図を作ることに挑戦することにしました。そして何年もの試行錯誤の末に作り上げることができたのです。これは今や私の貴重な宝物となりました。森田理論学習の折にはいつも傍らにおいて、それと照らし合わせながら学習しております。私はこれを、「森田理論全体像」と名付けております。私が考えるには、森田理論は大きな4つの柱から成り立っているように思います。・生の欲望の発揮・不安、恐怖、不快感、違和感などの感情との関わり方、欲望と不安の関係・理想主義や完璧主義などに固執する考え方・生き方の誤り、いわゆる「かくあるべし」的思考・事実本位・物事本位の生活態度の養成この4本の柱を図式化したものが「森田理論全体像」の内容です。内容は過去の投稿をご覧ください。この4本の柱は相互にとても強い関連性を持っています。従って「森田理論全体像」の学習にあたっては、それぞれの項目についてより深耕していくと同時に、相互の関連性についても、力を入れて学習していくことが重要になります。さて、森田理論の学習にあたっては、基礎的な学習はもちろん大切です。神経症の成り立ち、神経質の性格特徴、感情の法則、行動の原則、治るとはどういうことかなどについては、「森田理論全体像」を学習する前にあらかじめよく学習しておく必要があります。「森田理論全体像」の学習は、基礎的学習の次のステップの「応用編」という位置づけです。基礎的な学習を終えた後、早速この「森田理論全体像」の学習に取り掛かることが肝心だと思います。そして、「森田理論全体像」の学習が終わった後は、森田特殊用語の学習で補強するとよいでしょう。それは、骨組みができた家に壁を塗るようなものです。より理解が深まります。先にも言いましたように、「森田理論全体像」は、このブログでも何回も取り上げています。多少修正は加えていますが、その基本的な考え方は全く同じです。「森田理論全体像」を理解していると、どういうメリットがあるのか。・神経症が治るという過程がよくわかります。ちなみに神経症が治る過程は2種類あります。一つだけで満足することなく、2つに手を付けることで、神経症とは縁が切れます。それどころか、これから先の確固たる人生観を確立することができます。・自分が今学習している場所がよくわかります。森田理論には難しい言葉がよく出てきます。純な心、精神交互作用、無所住心、事実唯真、精神拮抗作用、不即不離、唯我独尊、努力即幸福、物の性を尽くすなどです。これらの学習をする時、森田理論全体のどの部分に当たるのかをあらかじめ分かって学習するので、学習効果が飛躍的に高まります。・これから先の自分の努力目標を明確に意識することができるようになります。この学習を私の参加している集談会で何度か行ってきました。反省点があります。今現在症状の真っ只中にあり、苦しんでいる人にとっては理解が難しいようです。それよりは手っ取り早く自分の症状を治したいという気持ちが強いのです。もっとも効果があるのは、何年も森田理論学習を続けてきたにもかかわらず、もうひとつすっきりしない。何か問題が起きると、すぐにとらわれて落ち込んでしまう。断片的な森田特殊用語は理解しており、人に説明できるが、森田を生活の中に活かしきれていない人。そんな人にこの「森田理論全体像」の学習は、とても大きな効果をもたらしています。これはちょうど、東京ディズニーランドに行く時に、施設のご案内を持っているようなものです。あらかじめ自分の行きたいアトラクションが分かっているので、すぐに直行することができます。基礎的な学習を終了された後は、このブログで紹介している「森田理論全体像」を理解していただきたいと思います。私は20年かけて、やっと、森田理論をものにしましたが、皆さんにはそんな無駄なことはしてほしくないのです。少なくとも3年という期間でものにしていただきたいと思っております。生涯にわたって役立つ森田理論を、中途半端な学習で済ませていることは実にもったいないと思います。神経質性格の方は、確実に自分のものにしてもらいたいのです。そのためには、学習の中に、「森田理論全体像」を組み入れることが必須であると考えています。
2017.09.03
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森田先生は、何か行動を起こす時、自分が好きか嫌いかを出発点にすることが大切だと言われている。たとえば、下戸の人がお酌をするときに、 「こんな辛いものをどうして飲めるかしらん」という心持ちで酒をつぐと、無理は行かないで、上戸も酒がうまく飲めるが、 「あの人は酒好きだから」というふうに、全く自分を離れて考えると、加減なしに、やたらに追いかけ追いかけ酒をつぐので、いくら上戸でもやりきれなくなるのである。自分の好き嫌いから割り出して考えるということは、相手の立場に自分を置き換えて考えることができて、思いやりと言うことができるけれども、女の人などがご馳走するときに、全くこの思いやりができないで、人と自分とが全く別々の立場になることが多い。神経質の苦痛も、自分に比べて人を推し量るとよいけれども、特に神経質は、自分と人との間に隔てをおいて、自分は勉強すると苦しいけれども、人は朗らかに愉快に勉強しているとか、人前で恥ずかしいのは自分ばかりで、人は皆気楽で羨ましいとか言う風に、人に対して全く同情と言うものがない。会の世話のようなことでも、人には無理な苦しい事をさせても、自分ばかりは楽にしようとするような人情になるのである。この話は面白いが少し難しいようである。私の感じるところを書いてみた。好きか嫌いかというのは人間に自然に湧き上がってくる感情である。森田理論では、瞬間的に湧き上がってくる感情は「純な心」であると言われている。たとえば田舎に行って農作業していると、よく蛇が出てくる。私は蛇を見ると、瞬間的に恐怖を感じる。これはTVを見ていて、毒蛇などが映し出される時にも感じることである。思わず目をそらしてしまう。森田先生はこの時に感じる蛇は嫌いだという感じから出発しなさいといわれているのだと思う。私の場合は、反射的に蛇を見るとすぐにその場から離れてしまう傾向がある。近所の人が蛇を見つけたとき、すぐには目をそらしたりはしない。とにかく蛇の頭を見ている。頭が三角になっている蛇は蝮という毒蛇なので、いくら嫌だと思っても駆除しないと人間に害を及ぼす可能性がある。毒蛇を放置していると、その周囲に毒蛇が増えてきて危険極まりない場所となる。田舎の人は蛇は平気なのか聞いてみた。実際には田舎に住んでいる人も蛇が嫌いだという人はとても多い。そのために、田んぼや畑に行くときは長靴を履いている人が多い。しかし蛇が嫌いだといって田んぼや畑に入るのを全く止めてしまう人はいない。蛇は嫌だという気持ちは、どうすることもできない。その気持ちを持ちながら農作業をしているのだ。これを森田理論で考えるとどういうことになるのだろうか。蛇が嫌いという感情は自然現象である。感情自体はやりくりすることはできない。仮にその感情をなくしてしまおうと考えると、どういうことになるか。蛇から目をそむけて蛇を見ないようにしていると、意識や注意が自分の恐ろしいと思った感情や体のこわばりや震えなどに向かってくる。意識の内向化が起きるのである。これが曲者なのだ。これは気分である。気分は事実とは無関係に、いつまでも自分に内在しているから、日夜その恐怖に悩まされるようになる。夜寝ていても夢にまで出てくるようになる。これは自分の心の中に住み着いた蛇だから、時に触れてたえず悩まされるようになるのだ。終いには緑豊かな田舎で暮らしたいという夢はあるが、蛇がいるために田舎では暮らすことができないという話に発展してしまう。心の中に住み着いた蛇は容易に退治することができないのだ。この場合、よくその蛇を見て、毒蛇の蝮なら手慣れた人を呼んで一緒に駆除する。そうでない場合は、蛇が通り過ぎのを待って、農作業を再開すればよいのだ。神経質者のように、嫌いなものに対して、全く目をそらして関わりを持とうとしない態度が、楽になるどころかどんどん自分を窮地に追い込んでいくのである。嫌いなものは嫌いだったという感情をそのままに認めて、その対象物から目を離さないで観察する態度を持ち続けることが大切なのだと思う。森田先生によると、そうしていると、嫌いという感情自体が変化してくるといわれる。中には、嫌いだと思っていた人の良い面も発見できたりして、仲良くなったりする。
2017.09.02
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精神科医の阿部亨先生のDVDの中から、これはと思ったこと2つほど紹介したい。1つ目は、神経質者に、 「今抱えている不安を100だとすると、どの程度まで下げたいのか」と質問すると、限りなくゼロに近づくまでなくしたいという。不安が全て片付かないと承知しないのである。普通一般の人に同じような質問をすると、 70とか、 60位に下がってくれば十分だという。精神的な苦痛が多少なりとも少なくなれば、その分目の前の仕事や日常茶飯事が何とかこなせるようになると考えている。これなら精神科医で十分対応できる。しかし不安を100%なくしてくれと言われても、対応できない。普通一般の人は、不安を抱えたまま、仕事や日常茶飯事をこなしているといえよう。目の前に異なる2つの問題や課題を持ちながら、どうにか普通にこなしているのである。普通の人はそういうことができる能力を持っているといえるかもしれない。神経質者の場合は、今抱えている不安や恐怖が全てなくならないと落ち着かない。また不安を抱えたまま、同時平行的に目の前の仕事や家事、育児をうまくこなせないと考えている。仮に手をつけたとしても、十分に満足できる成果が上がらないと考えている。やることなすことがデタラメになると考えている。100%の成果が上がらないようなことが最初から予想される場合は、手を付けない方がましであると考えているのだ。その結果、会社を休んでしまったり、食事の準備を放棄して、出来合いの惣菜で済ませたりする。本来、自分ができる仕事や家事なども、 他人に肩代わりしてもらって、自分は今抱えている不安をなんとかしようとしているのだ。 1つのことに集中しているのだ。しかしなんとかしようとすればするほど深みにはまってどんどん増悪して、抜け出すことが困難になるのである。そういう意味では、普通一般の人に学び、不安を抱えながらも、目の前の仕事や家事がこなせるような能力を身につけることが大事になってくる。そのためには、森田理論学習が欠かせないと思う。次に阿部先生は、神経症が治るということについて、次のように指摘されている。神経症が治るということについて、どうも誤解があるようだ。小さなことが気になり、いつもビクビクしながら生活している性格を変えて、心の中に小さいことを気にしないようなおおらかな別の性格を持った人間に変身することを目指している節がある。このような考え方は間違いなんですね。心の内面が変わってきたとか、よくなってきたとかと言う事ではないのです。そういう人は、気分を測定しているのです。今までは嫌なことがあるとすぐに憂鬱になっていた。神経症を克服すると、嫌なことがあっても、あっけらかんと受け止めることができるようになり、落ち込む事はなくなるはずだと考えているのですね。神経質者がこのようなことを求めて、いくら森田理論を学習したとしても無駄な努力に終わってしまいます。そもそも治るという事は、内面が良くなったとかというのではなく、生活態度の改善が図られたということをいうのです。それはその人を第三者から客観的に見ているとよくわかります。神経症で悩んでいた頃に比べて、仕事に一生懸命取り組むようになった。勉強もそうだ。家事や育児もそうだ。好奇心を生かしていろんなことに挑戦するようになった。課題や目標を持って少々の困難を乗り越えて頑張れるようになった。心の中では様々なことに悩み、不安や恐怖に押しつぶされるようなことが度々起こってくるが、それらを持ちながらも生活面では、以前と比べて少しずつだがかなり改善できてきた。そういう変化が見られるようになったとき、その人は神経症を克服したといえるのである。決して精神的な苦悩や葛藤がなくなったということではありません。神経症を克服した姿というのを間違えないでいただきたいのです。もう一度言いますと、内面が良くなったと言うのは、間違いであり、それをもって神経症を克服したということは考えられないことなのです。あくまでも普段の生活態度の改善が中心になるのです。(森田療法ビデオ全集 第4巻 悩める人の生きるヒント 阿部亨 参照)
2017.09.01
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