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森田理論学習をしていると、 「まるごとの相手を受け入れる」という話を聞く。この点に関して、高垣忠一郎氏が次のように説明されている。まるごとの相手の存在を肯定するということは、 「相手のここがイヤだから」 「あそこが気に入らないから」という理由で、相手の丸ごとの存在や人格そのものを拒否しないことです。他者は自分とは異質な存在で、時に違和感を感じ、 「虫の好かない」ところがあるのが普通です。だからといって、それを拡大して相手の人格攻撃や存在否定をしないということなのです。考え方や性格の違いがあっても、そうだからといって相手のすべてを否定してはいけません。相手を丸ごと受け入れるということは、相手のすべてを好きになるということでもありません。それは凡人にはとても無理なことです。嫌いな部分がたくさんあっても全然構わない。相手に何か違和感や不満を感じるところがあっても、相手が今ここに生きて存在していることを受け入れる態度を維持していればよい。親子関係で言うならば、自分の期待通りに我が子が反応してくれるとは限りません。それは、我が子は自分とは異質な心や感受性を持って生きている「他者」だからです。高垣氏は、我が子に対して異質性や違和感を感じることはたくさんあるといわれます。でも私は、いつも丸ごとの我が子の存在そのものを肯定し、愛しているのです。それは私が「他者」である我が子の中にある異質性を受け入れる努力をしてきたからです。そういう努力なしに相手の丸ごとを受け入れるということは出来ません。子供を丸ごと受け入れるという事は、子供のすべてを好きになるということではありません。また、子供を丸ごと「よし」と評価することでもありません。いろいろと気に入らないところがあっても、子供の存在を拒否しないで「ゆるす」ということなのです。(生きづらい時代と自己肯定感 高垣忠一郎 新日本出版社 参照)子供の存在を拒否しないということは、基本的には生命体としての子供の存在を尊重していることです。子供の存在を尊重していると、イライラしたり不満なことがあるからといって、すぐに子供の人格否定するような言動はしなくなります。あるいは、子供を見放して放任してしまうこともありません。健やかな成長を願って、たとえいがみ合うことがあっても、基本的には温かく見守っているといってよいと思います。根本的なところで、親の大きな包容力を感じることのできる子供は信頼感と安心感があります。でも、時として危険な行動や他人様に迷惑になるような行動をとった場合は、親は毅然とした態度で注意する必要があります。子供の何でもなんでも許すということではないのだ。そうでないとただの過保護になってしまう。むしろ、子供を愛しているからこそ、止むに已まれぬ行動をとる必要がある場合がある。親が自分の意思を貫き通したからといって、子供の根本的な人格や存在を否定したことにはならない。これは「かくあるべし」の押し付けではない。子供の将来のことを考えての「しつけ」である。「しつけ」は親の不快な気分を子供にぶっつけるものであってはならない。でも立派な大人になるために必要不可欠なものである。そういう「しつけ」をされた子供は、大人になって親に感謝するようになると思う。親子の関係は、大きな波風が立っても、子供の人格や存在の肯定があれば大丈夫なのではなかろうか。これは森田でいうと子供の現実、現状をありのままに認めて許すということだと思う。
2017.10.31
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10月の森田理論学習は臨床心理士の先生の話を聞いた。この先生はスクールカウンセラーをされている。また森田療法とマインドフルネスを融合してあちこちで講演をされている。参考に残った話を紹介してみよう。神経症を治すという考え方は間違っている。森田先生も神経症は実際の病気ではない。普通の健康者として取り扱えば容易に治ると言われている神経症を病気とみなして治療しては決して治らない。症状を治す事は不問にすべきである。直接神経症を治すのではなく、生活の仕方を見直したり、誤ったものの見方を修正することによって治るのです。そういう意味では「治る」ことを目指すのではなく、「直す」という言葉遣いが正しい。スクールカウンセラーをされていて、最近よく感じるのは、リストカットする高校生が増えている。高校生は受験や就職、あるいは人間関係などで不安を感じやすい。大きな不安を抱えている高校生の多くは、自分のメンタル面が弱いと考えているようだ。不安を抱えていることと自分のメンタル面が弱いという事は全く関係がないという話をしている。不安は欲望と正比例している。欲望があるから不安がある。不安が不快だからといって、それだけをなくすることはできない。次に不安やストレスの役割について話している。不安は安心のための用心である。危機が近づいていることを教えてくれる。これはちょうど、火災警報機のベルの音のようなものだ。火災警報機のベルが鳴れば、火災の点検をしたり、最悪逃げだせばよい。間違った対応は、ベルの音がうるさいので、火災は放り投げて、火災警報機のけたたましい音を止めようとすることである。不安は安心と安全のために大いに役に立っている。不安でビクビクハラハラは最高の精神的境地である。適度なストレスは生きがいのために必要である。ストレスが全くないとそのことがストレスになる。ただし過度のストレスがたまらないように注意する必要がある。不安に襲われた場合、不安になったかならなかったかは問題にはならない。例えば受験勉強で不安を感じた場合、その不安に学んで勉強を続けていけば、大学などに合格する。反対に、不安に圧倒されて勉強が手につかなかった。受験勉強を放り投げて、不安と格闘していれば、大学に合格したいという夢は達成できなくなる。不愉快なことが悪いことであるとは限らない。不安があるからこそ対策を考え、実行することによって、結果は自ずからついてくる。「正受不受」という言葉がある。これは困難や災難も正しく受けとめれば、受けないのと同じことであるという意味である。自分にとって嫌な事、困難なことが起きた時に、そこから逃げたり手抜きをしたり、適当にごまかしたりするのではなく、正々堂々と受け止め、全力で立ち向かうことが大切なのです。この講話を聞いて私の感想です。私は、不安、恐怖、不快感、違和感などはやりくりしないでそのまま受け入れるということが頭の中にこびりついていました。しかし、不安にはその内容をよく見て、その不安を解消するために積極的な働きかけが大事な場合があるのだと思いました。なんでもかんでも不安を受け入れると言うのではなく、不安に学んで将来の結果が現在より良くなることや、人のために役立つ事は積極的に行動することが大切なのだと思います。このことに関して、ラインハート・ニーバンは次のように述べています。・変えることのできないものについては、それを「受け入れる平静さ」を持とう。・変えるべきものについて、それを「変える勇気」を持とう。・そして、変えることのできないものと変えることのできるものを「区別する知恵」を持とう。
2017.10.30
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今月号の生活の発見誌の体験談に次のような記事があった。私は集談会で恐怖突入の大切さを学び、症状の苦痛にうめき声をあげながら部屋の掃除、トイレの掃除、風呂の掃除、台所の掃除、シャワーなどを浴びたりしました。森田療法の形から入る、健康な生活をするというのは、苦痛にうめき声をあげながらやるものなんだなあと実感しました。そうまでしなければ神経質症というものは治らないものなのかと不満を抱きながらも、集談会に出席し、発見誌で学んだ超低空飛行を続けました。私が今までの自分を振り返ってみて、神経症まっただ中に1番役に立った事は、 「試してみる」ということだったと思います。形から入る、健康人らしくすれば健康人になれる。何でも試しにやってみるということが、素直ということであり、いつの間にか恐怖突入もできてしまって、精神交互作用も破壊され、 ヒポコンドリー性基調も陶冶されていくのだと思います。「試した時点で大成功」これなら気楽に行動できますと言われている。この話は第一段階目の神経症が治るということをわかりやすく説明されている。私も神経症で苦しかった頃、実践課題を作って取り組むことから始めました。まさにこの方と同じです。それを筆ペンで書いて机の前に貼り付けて実行に移しました。集談会の前になると、その進行状況がどうだったのかを整理していました。集談会では、実践課題の発表コーナーというのがありました。今まで布団をあげなどはすべて妻に任せていましたが、その後は現在に至るまで自分が行っています。集談会では、 「靴がそろえば心がそろう」というスローガンを教えてもらいました。それまでは注意や意識が対人恐怖の症状のことばかりに向いていました。この体験により、目の前の日常茶飯事に取り組むことによって、多少なりとも症状のことを忘れることができました。この経験は、森田理論でいう恐怖突入でしょうが、私にとってはそういう意識はありませんでした。先輩方のアドバイスに従って、やろうと思えばすぐにできることばかりだったのです。そのうち実行する力がついてきて、実践課題だけでは物足りなくなってきました。その頃ちょうど生活の発見誌に、「紙きれ法」が紹介されました。思いついた事や、やるべき事を、すぐに紙の切れ端にメモしておくというものです。それを時々取り出して片っ端から処理していくというものです。この頃になりますと、いろんな気づきやアイディアなどがたくさん頭の中に浮かんでくるようになりました。最初のうちは、できるかできないかは度外視して、とにかくストックを増やすことに重点を置きました。急にやることなすことがキメ細やかになりました。メモしたことの全てができたわけではありません。70%くらいできれば十分だと考えていました。この実践は仕事の上でも役に立ちました。仕事ではやりやすい仕事、すぐにやらなければいけない仕事を重点にして数をこなすようにしました。次に、納期や仕事の重要度に応じて臨機応変に仕事の組み合わせを考えるようになりました。難しい仕事のように思えても、単純な仕事が組み合わさっているだけのように思います。その時その場でやるべき仕事をきちんと丁寧にこなしていると無駄な余計な仕事は発生しないように思います。その体験をもとにして、「仕事に追われる人と仕事を追っていく人」の違いについてまとめてみました。これは、このブログですでに投稿しましたのでご覧ください。神経質性格の小さなことか気になるという特徴を活用して、細かい雑事をいい加減に扱わないで、宝物のように扱うということに尽きると思います。例えば1枚の納品伝票でもお金のように扱うようになると、仕事の出来栄えが格段に向上しています。この実践によって、自分も仕事に対して自信が出てきて、人にも喜ばれ、一石二鳥であったと思います。今現在、神経症で苦しんでおられる方は、尻軽く動けるようになるということが、神経症治癒の鍵を握っていると思います。
2017.10.29
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あなたには次のような傾向はないだろうか。「暗がりで後ろから足音が聞こえてくると、自分に危害が加えられるのではないかと命の危険を感じる。そのような心理状態が私の日常である」「私は人に合わせる事しか出来ない。合わせることをやめることができない。人に合わせなくても受け入れてもらえることがあると言うのは、私にとっては推測で、私の体験している世界は、合わせないと拒否されて、自分がなくなるという恐怖の世界。合わせなくても受け入れられることがあるということが信じられない」「追い詰められるような調子で言われると、すぐに攻撃されているようで不安になってしまう。批判的に何か言われたとしても、自分の人格が指定されているのではなくて、ある1部について、もう少しこうであったらいいと言う意味で言われていると受け止められたら、自分がダメだと全否定されていると感じなくてすむのに、そういう感じ方ができない。何か批判されると自分が全部否定されているように感じてしまう」こういう人たちが感じるのは、 自分自身に対する「存在レベル」の安心感の欠如です。世界は脅威に満ちていて、常に怯えています。周囲に対して「自分のありのまま」を出しても受け入れてもらえるという信頼を持てません。自分の存在に何か「負い目」や「罪悪感」を感じ、他人の期待に応え、他人に合わせることによって、なんとか自分の居場所を確保し、存在を許されるかのように感じています。自分の気持ちを尊重し、ノーと言うことができません。ちょっとしたことで自分が攻撃され否定されているように感じています。(生きづらい時代と自己肯定感 高垣忠一郎 新日本出版社 42ページより引用)これはかっての私の状況をうまく説明されていると思います。いつも自分の気持ちや自分の言いたいことを我慢していていました。他人から理不尽なことを言われても最初のうちは耐えて我慢しています。耐えきれなくなると、活火山の噴火のように突然爆発してしまいます。将棋で言えば、攻めることを忘れて、最初から最後まで防御のことばかり考えているのです。本来攻めることと防御することがバランスがとれていないので勝負にはなりません。また完璧に防御したかのように見えても、どこかほころびがあり、攻めることをしないので、最後は負けるのを待つばかりです。この状態は、森田理論で言えば、 「生の欲望の発揮」に邁進することがとても重要なのですが、それに全く手付かずの状態です。他人から承認されないと、この世の荒波は乗り越えていけないといって、人に合わせることばかり考えているのです。不安にばかり注意や意識を集中させているのです。守り一辺倒の人生を歩んでいます。それでは、どうすればよいのか。人の思惑が気になるという特性は変えることはできないと思います。だから、これには手をつけない。生の欲望の方に手を付けるようにするのです。そして不安と生の欲望のバランスを取ることを意識するようにするのです。 実際には「生の欲望の発揮」に100%のエネルギーを注いでいくことだと思います。決して実現不可能なことではありません。規則正しい生活をする。生活のための日常茶飯事に丁寧に取り組んでいくこと。イヤイヤ、仕方なしにでも仕事や勉強に手をつけていくこと解決しなければならない問題や課題があれば、しぶしぶながらも向き合っていく。やってみたいことや夢や目標に向かってチャレンジしてみること。人の思惑が気になるという不安と「生の欲望の発揮」のバランスをいかに取っていくか。このことを絶えず意識する。曲がりなりにもバランスがとれてくると、なんとか形になると思う。これだと不十分だと思う人がいるかもしれないが、これ以上に苦しみや葛藤が大きくなるということは防げる。また、この体験によって対人関係の苦しみの大きさが縮小してくると思う。そのうち、森田理論で学習した、「純な心」や「私メッセージ」を応用して、多少なりとも自分の気持ちを相手に伝えることができるようになればしめたものだ。この状態にまで行けば、不安と欲望のバランスがとれてくる。重苦しい気持ちが少なくなる。次に相手から追いつめるような言い方をされると、すぐに自分の全人格を否定されたような憂鬱な気持ちになることについてどう考えるか。これも私がいつも感じていたことです。小さなことで批判や叱責をされると、それがすぐに自分の一生を左右するかのような大きな問題に発展させてしまう。小さなミスや失敗をすると、周りの人たちは自分のこと軽蔑して、もう相手にしてはくれないはずだ。もうこの会社での居場所がなくなった。このまま退職してしまおう。こんなミスをしてしまう自分は何をやってもダメだ。もう生きていく資格がない。死んだ方がマシだ。などなど。目の前の処理すべきミスや失敗を放り投げて、意識や注意がネガティブに内省化してしまうのである。極めて気分本位な考えである。森田ではこういうのを自己中心的だという。そういう場合は、よく事実を見ることである。そしてその事実をごまかしたり隠さないですぐに認める。たとえばミスや失敗を、上司や同僚に報告して、事後処理を相談する。その時は批判されたり叱責を受けて、注射針を刺されるような痛みは感じるが、すぐに事後処理のほうにエネルギーを注ぐので、その痛みはすぐに沈静化してくる。そのような態度で仕事をしていれば、小さなミスや失敗が自分の一生を左右するような大きな問題には発展しない。大きな問題に発展させてしまう人は、嫌な事実を隠したり、捻じ曲げて、一時しのぎの心の安らぎを得ようとする人である。そういう習慣のある人は、このブログで取り上げている「事実本位・物事本位の生活態度の養成」の学習をして、認識を改める必要がある。想像上の不安や恐怖を掻き立ててはならないと思う。
2017.10.28
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私たちは森田理論学習によって、不安、恐怖、不快感、違和感などは「あるがまま」に受け入れるのが一番よいと学びました。「あるがまま」とは、それらを取り除くためにやりくりをするのではない。すぐに逃げ出すのでもない。基本的にはその存在の認めて受け入れるということだ。そして不安などには手をつけないで、目の前の仕事や日常生活のほうに目を向けていく。そうすれば、時間の経過とともに不安などはどんどん変化して小さくなり、最後には消失してしまう。このことを、不安常住、不安共存の生活態度といいます。これは耳がたこができるほど学習されていることと思う。それではこれから取り上げることについてはどうだろうか。自分の容姿、性格、特徴、才能や能力、成績や実績、家柄や資産、自分の境遇、親や兄弟、子供、自分の周囲にいる人たちなどについては、あるがままに認めて受け入れているだろうか。例えば、容姿について言えば顔にほくろがある。シミやシワがある。白髪がある。円形脱毛症になっている。だんご鼻である。唇がタラコ唇である。背が低い。太っている。イケメンでない。不美人である。などにとらわれて、整形美容にかかる、整形手術をする、白髪染めをする、カツラをあつらえる、シークレットブーツを履く、無理なダイエットに励むような事はないだろうか。もし大なり小なり、そういうことがあるとすると、自分の存在自体をあるがままに受け入れるということができていないということではなかろうか。自分がコンプレックスに感じている部分を手術によって修正する。あるいは他人様の目に触れないように隠してしまう。これらは自分の不安などの感情を自由自在にやりくりしようとするのと、なんら変わりがないのではなかろうか。神経症の原因となっている不安だけをことさら取り上げて、それだけを、あるがままに受け入れるなどとという器用な事はどだい出来ないと思うのです。これらは同時進行であるがままの態度を身につける必要があるように思われます。自分自身の現状や存在が認められない原因は何なんでしょうか。最大の原因は、この世に生まれてからずっと「かくあるべし」的教育を受けていることにあります。「かくあるべし」的教育を受け続けていると、自分の生活態度も「かくあるべし」 に支配されてしまいます。例えば、コンクリートの割れ目に野草が生えています。「わあ、あの花きれいだね」というと、親が「バカだね、あれは雑草じゃないの。あなたは見る目がないね。あんな花を採ってはダメよ」「この服が気にいった。この服にする」 すると親が「お前はセンスがないね。それよりはこっちの方がよっぽどいいよ。こっちのほうにしなさいよ」と親の考えを子供に押し付ける。「お父さんあの犬が恐ろしいよ」 「どうしてあんな小さな犬が恐ろしいのだ。お前は臆病者か。思い切って犬の側に行って頭を撫でてみなさい」などと子供の感情を否定する。このような調子で育てられていると、自分が自由に、好きとか嫌いとか感じて、ストレートに表現する事はよくないと思うようになります。そのうち、自分の感情とは無関係に、お母さんが喜びそうな花を見て、 「お母さん、あの花は綺麗だね」と言いだします。母親が、 「そうだね」と同意してくれような発言を選ぶようになるのです。こうしていつの間にか自分の感情を横において、親が喜びそうな感情を先読みするようになります。自分の感情が親の感情とすり変わってきます。目の前にいる小さな犬であっても、子供にとっては恐ろしいのです。それなのにそんな素直な感情を無視して、「僕あんな犬なんか全然怖くなんかないよ。全然平気だよ」と心にもないことを言いだしたら末恐ろしいことです。子供たちはこうして次第に自分の感情を見失っていくのです。親の感じ方、価値観を子供に押し付けつけていく親は、こうして子供が感じる本来の感情を奪っていくのです。それが成長した子どもたちに、生きづらさを抱えさせることになるのです。自分自身の感情を奪われた子供は、自分自身を見失い、自分が不確かになり、自分を信頼できなくなります。自分の自然な感情よりも、その感情が親や他人に受け入れられるものであるとどうかばかりを気にするようになるのです。自分の言動が相手に承認されるかどうかばかり気にするような人間に成長していくのです。自分の気持ちを素直に表現できないということは、自分の人生を自由に生きていないということになります。自分を否定して抑圧して生きていくことは、人間本来の生き方ではありません。無理やりそうした生き方をすることはとても苦しいことです。何のために自分は生まれてきたのか。苦しむために生きているのか。とてもむなしい気持ちになります。人生を楽しむなどということは夢のまた夢になります。こうして親の価値観、さらには世の中の価値観に翻弄されて、自分自身の存在価値を見失って、自分自身の人格を否定していくようになるのです。とても残念なことです。「かくあるべし」的思考を小さくしていく方法は、森田理論が得意とするところです。森田理論学習を深めるとともに、実践によって自分のものにしていただきたいと考えています。森田理論はきちんと理論化されていますので、学習と実践によってものにすることができます。
2017.10.27
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私は森田理論で最も大切な考え方として、 「生の欲望の発揮」をあげたい。森田理論を学習すればするほど、その気持ちが強くなってくる。神経症からの回復は、突き詰めてみれば、 「生の欲望」から出発して、回り回って、最後に「生の欲望」に戻ってくる理論だと思う。しかし、この「生の欲望の発揮」は、頭の中で理解しただけでは絵に描いた餅と同じである。実際に生活の中で実践・行動することが重要なのである。今日はこの「生の欲望」の実践について投稿してみたい。人間は基本的には、活力に満ち溢れ、思う存分自分の持てる力を発揮して、有意義な人生を送りたいと思っている。しかし、そのような自分の想い描いた人生をまっとうして一生を終える人が果たしてどれぐらいおられるだろうか。中学生や高校生、大学生の頃は、燃えるようなキラキラした情熱を持って、明るい将来を夢見ている。ところが、いつの間にか夢や希望、大きな野望や目標などがなくなり、その場かぎりの刹那的な快楽を目指すようになる。その原因として考えられるのは、人間は2つの相反する考え方を持っているからだと考えるようになった。まず誰でも燃えるような情熱的な人生を送りたいという考え方を持っている。しかし、その半面、何もしないで楽をして、人よりよい思いをしたい。トラブルや問題には関わりたくない。自分の意に沿わない事はやりたくない。しんどそうな事はできるだけ避けたい。苦しいことはできるだけ避けたい。新しいことに挑戦しても、乗り越えることが困難な壁が立ちはだかってくると、すぐにあきらめる。自分の頭を使って考えること、体を動かして対象物に働きかけることなどはできるだけ控えたい。できればそんな事は、お金を払ってでも他人に依存したい。自分は空調の効いた快適な部屋で、寝転がって大型テレビを見て、美味しいものを満腹するまで食べて、苦もなく煩わしいことから解放されて自由気ままに生きていたい。そのためにできれば不労所得をいかにしてたくさん得ることができるかを考えている。こういう相反する気持ちの中で、揺れ動きながら、生活をしているのが我々人間の実際の姿だ。簡単に「生の欲望の発揮」と一言で片付けるが、実は一直線でその方向に向かっているのではなく、その2つのせめぎ合いの中で揺れ動きながら生を紡いでいるのが実態である。「生の欲望」の発揮中は、いつも緊張感を強いられる。いつも緊張感を強いられるとストレスが溜まっていくことがある。反対に、 「生の欲望の発揮」の活動が全くないと、生活全般が弛緩し、生きる屍と化してしまう。そこで、この相反する気持ちのバランスを整えることに注意を払うことが大切になる。このバランスをとるためには、 「生の欲望の発揮」の方面に7割から8割の力を入れることが必要となる。あるいはそれ以上のエネルギーの投入が必要となるかもしれない。そのような努力をしてやっと2つのバランスが取れていくものと考える。というのは、人間は放っておくと楽な方向に流されやすい。楽な方向にどっぷりと使ってしまうと、その後の修正はとても難しくなる。だから「生の欲望の発揮」は、意識的に絶えず努力して弾みをつけていくことが大切だ。「生の欲望の発揮」は、基本的には日常生活を人に依存しないで自らの力で丁寧に取り組む。規則正しい生活を心がける。この2つが基本である。やろうと思えばすぐにできることである。次に、仕事や勉強などに最初は嫌々仕方なしにても取り組む。自分に与えられた問題や課題に対して逃げないで取り組んでいく。さらに夢や目標に向かって挑戦していく。これらを常に意識して取り組んでいく事は、めんどくさくてしんどい事でもある。だからつい楽な方向を目指してしまうのだ。生きるということはいつもそういう誘惑が待ち構えている。そういう時は、日常茶飯事などの雑事を軽視している人がどんな生活をしているのか、観察してみることをお勧めする。退職金や企業年金などをふんだんに貰い、消費一辺倒の生活をしている人がどんな生活をしているか。あるいは、高額な宝くじが当たった人、多額の死亡保険金がおりた人、不動産売買により多額の譲渡収入があった人、多額の親の遺産を引き継いだ人で、毎日刹那的な快楽ばかりを追い求めているような人をよく観察してみることをお勧めする。観察することで、自らの戒めとすることができるのではなかろうか。さらに注意したいのは、怠惰な生活を続けていると、注意や意識が自己内省的に働くようになる。 「かくあるべし」的思考回路に陥り、自己嫌悪、自己否定、他人否定の負のスパイラルに入りやすいのである。これらが神経症の原因になることは、これまでに度々述べてきたとおりである。自分の人生が味わい深いものになるかどうかは、この2つのせめぎ合いのどちらが勝利するかにかかっていると思う。いつもいつも緊張感に満ちている必要はないと思うが、基本的には自分のの持てる力を存分に活用して、緊張感を持って対象物に働きかける努力を継続することに尽きると思う。
2017.10.26
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神経症のために会社に出社できなくなっている人がいる。そういう方が、藁にもすがるような気持ちで集談会に参加される。そして出社できない状況と葛藤や苦悩について話される。・出かけようとすると頭やお腹が痛くなる。・威圧的な上司がいて、職場に行けない。・自分の得意先や他部署の人との折り合いが悪い。・同僚との人間関係がうまくいかない。・ある特定の女性社員あるいは男性社員とギクシャクしている。・自分の能力以上の仕事を与えられてパニックになっている。・仕事量が多くて、サービス残業が続き、体がきつい。などなど。現在はイライラして精神的に落ち込んでいる。仕事を辞めたい、楽になりたい、休職したい、転職したいなどと話しされる。そんな人に対してどんな対応をされているだろうか。「それは大変な状況ですね。同情します」などと、共感されると思います。問題はその次にあると思います。「そんなに苦しいのならリタイヤした方がいいかもしれませんね。過労死でもすればもともこうもありませんからね」などと、もうこれ以上苦しまなくてもいいと助言する人もいます。あるいは反対によくありがちなのは、 「でも、現在の会社を辞めて、どこの会社に転職しても同じようなものですよ。会社に出社していれば給料や賞与がもらえる。社会保険も完備しているじゃないですか。絶対に辞めてはダメだと思う。第一生活ができなくなるじゃないですか。この先家族はどうやって養うつもりなの」などとアドバイスします。これらは極端な例かもしれませんが、相手が自分の気持ちを十分に吐き出す前に、すぐに森田的なアドバイスをするというケースはよくあります。でも、そのようなアドバイスが相手にとってどのような意味があるのか考えてみることが大切だと思います。会社に出社できなくなった人は、精神科にかかり、産業医に診てもらい、カウンセリングなども受けている人もいます。その一環として、集談会にも参加されているのである。その人は、まず自分の苦しい胸の内を聞いてもらいたい、吐き出したいという気持ちだと思う。共感してくれる人を求めているのである。その先に適切なアドバイスでもいただけたら望外の喜びである。第1次的には、アドバイスよりも自分の話を聞いてもらいたいのである。そんなときに、相手の話を少しだけ聞いただけで、様々なアドバイスをされると相手はどんな気持ちになるのか。多分、この人たちは私の気持ちなどはわかろうとしてくれていない。話した事は無意味だった。来なければよかった。表立って反発はしないかもしれないが、心の中ではさらに大きな傷を負わされたような気分になる。それは自分の苦しみを十分に吐き出すことができないストレスからきていると思う。では、相手を受容するとはどういうことか。この人は、 「今の状況がとても過酷なので会社に出ることが困難だ」 「でも、会社を辞めると食べていくことができなくなる」この2つの相反する気持ちの中で大きく揺れ動いているのだと思う。どちらかにすっぱりと割り切ることができない。森田理論でいう精神拮抗作用のはざまで葛藤しているのだ。この2つの気持ちを分かって察してあげることが大事だと思う。両方の気持ちが分かると、 安易に「会社を辞めないで頑張りなさい」とも「もうこれ以上頑張らなくてもいいのではないか」とも言えなくなってしまう。その状態はどっちつかずで実に居心地が悪いのは確かだ。特に集談会に参加する先輩方は、森田理論を後ろ盾にして適切なアドバイスをしたいという気持ちが強いので、つい一言アドバイスしてしまう。特に先輩会員に多い傾向がある。それが森田理論の魅力がわからず、 1回参加しただけでもう二度と集談会に寄りつかない原因になっているとしたらとても残念なことだ。相手は揺れ動く2つの気持ちをわかってもらうと、自分の葛藤しあう両方の気持ちが丸ごと受け入れられたという気持ちになって安心します。精神的にとても楽になると思う。本当の受容とは、相手の相反する2つの気持ちをくみとってあげて、両方の気持ちを受け入れてあげることだ。そういう気持ちがあれば、実際には相手のことをじっと見守ってあげるだけということになってしまうかもしれない。実はそういう態度が受容の一般的な姿なのだ。結局はそういう人がしっかりと心の後ろ盾になって、相手が自分の問題を自分で解決して、乗り越えていく道を自ら見つけ出す方向につながるものだと思う。アドバイスしたくなったときには、「相手に十分に話してもらっただろうか。相手の相反する2つの気持ちを理解しているだろうか」と自分に問いかけてみる必要がある。それがまわりまわって、自分が自分自身に対して、拙速に「かくあるべし」を自分自身に押し付けなくなるのだ。
2017.10.25
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神経症が治るということは、自分の悩みから脱するだけではなく、同じ悩みに悩む人に共感でき、その人たちが悩みから脱するために「手を差し伸べられる」ようになることである。森田先生も、神経症は治った後は、神経症で苦しんでいる人たちのために、 「犠牲心を発揮しなければならない」と言われている。集談会では適切に運営するために様々な役割分担がある。自分でできる範囲内の役割を引き受け、みんなのために役に立つ行動をとる事は神経症の克服に役立つ。また、集談会に出席して神経症で苦しんでいる人たちの話をよく聞いてあげることもとても大切なことである。さらに自分の神経症の症状や神経症を克服した体験を話してあげることも大切なことである。相手の話に共感し、受容してあげることも大切である。また自分のつかんだ森田理論や森田理論学習の環境について話してあげることも大切である。これらはすべて、人の役に立つ行動である。こういう活動を続けていると、自分にばかり向けられていた意識や注意が少しずつ外向きに変化してくる。小さなことにとらわれやすいという性格は変わらないが、いつまでもひとつのことにとらわれるということが少なくなっていく。人の役に立つ行動を継続することによって、新しい感情が生まれ、自分の症状だけに関わっていくことがなくなる。症状が気になりながらも、目の前の仕事や日常茶飯事に目が向くようになり、当たり前の生活ができるようになる。これは別の言葉で言えば、神経症が治ったという状態である。精神交互作用が断ち切られて、生の欲望の発揮に目覚めた状態である。神経症が治るという事は、まず精神交互作用を断ち切り、生の欲望の発揮に邁進する状態に持っていくことが肝心である。しかし、現実問題として、日常生活がきちんとできるようになり、仕事でも顕著な実績をあげられるようになっても、心の中は依然として重いし苦しい。これは森田理論に取り組み、苦しみを抱えながらも、目の前の仕事や日常茶飯事に取り組むことができるようになった人の多くが経験していることである。特に対人恐怖症を含む強迫神経症の人の場合は、身にしみて感じていることである。私もその1人であった。その原因は、 「思想の矛盾」の打破が手付かずの状態であるということである。このことを忘れてはならないと思う。「思想の矛盾」とは、自分の理想だと頭で考えている事と現実が乖離している状態のことを言う。そしていつも観念的な理想や完全な状態にこだわり、現実を批判的な目で見ていると、心の中の葛藤はいつまでも続くようになる。これが神経症の発症の大きな原因となっている。不安にとりつかれて神経症に陥る場合よりもより深刻である。どんよりと重い雨雲が垂れ込めた地上で生活しているようなものであり、重苦しい状態はずっと続く。これでは生きていくこと自体が楽しめない。精神交互作用を断ち切り、自分の生活がある程度軌道に乗った人は、次には「思想の矛盾」の打破に向かって取り組む必要がある。これは「かくあるべし」を少なくして、事実本位、物事本位の生活態度を身につけていくことである。「かくあるべし」の比重を下げて、現実、現状、事実の比重を上げていくことである。そうすることで、頭の中で考えている事と現実や事実のバランスがとれて、最終的には事実本位に統合されてくる。すると、自己否定や自己嫌悪がなくなり、自己受容ができるようになる。自己受容できるようになると、無駄な葛藤や苦しみがなくなるので、とても楽になる。濃い霧の中をビクビクしながら車を運転していた状態が、霧が晴れて、目の前の視界が広がってきた状態になる。あとは人生を思い切り楽しみ、目標に向かって疾走していけばよいのである。
2017.10.24
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神経症で苦しんでいる人はとても自己嫌悪、自己否定感が強い。こんな自分は人間として生まれてこなければよかった。生きていてもいいことなんか何にもない。死んだ方がマシだと自分の存在自体を否定している。そして自分が神経質性格をもって生まれたことも否定している。細かいことを気にしない気の大きな人間に憧れている。そんな自分を産んだ親を否定している。自分が生まれ育った国や環境、境遇を否定している。身体的なハンディキャップや経済的に貧困な我が身を嘆いている。自分を他人と比較して少しでも劣っていると、それを目の敵にする。容姿が悪いと、それを隠したり取り繕うとする。弱点や欠点は決して見逃すようなことはしない。強い実行力やとりたてた能力がない自分を情けないと思う。ミスや失敗をする自分は絶対に許すことができない。自分が自分を否定するということは、自分の中に相反する2人の人間が住んでいるということである。1人は現実の自分である。もう1人の人間は現実の自分をいつも批判している自分である。これは人間だけに備わっているもので、動物にはない。ここで問題なのは、 2人の人間の力関係である。現実の自分にしっかりと根を下ろし、視線を自分の外に置いている人は問題ない。目線を少し上に上げて、自分の立てた目標に向かって努力精進している人も何ら問題は生じない。ところが、天高く、理想の世界に我が身を置いて、様々な問題や葛藤を抱えている自分を見下ろして、軽蔑して批判や否定ばかりを繰り返している場合は問題だらけとなる。この事を森田理論学習では、 「かくあるべし」の弊害、完璧主義、完全主義の弊害、すべてのものを自分の意のままにコントロールしようとする弊害と見ている。私もかつては自己嫌悪、自己否定の塊であった。頭は禿げており、背は低い。腹は出ている。顔には皺やシミが増えてきた。でもそんな自分でも以前と比べて自己嫌悪や自己否定は格段に少なくなってきた。それよりも今は、自分の身体は神様からの預かりものであると考えるようになった。いわばこの身体はリース物件である。リース物件は自分の所有物ではない。納得して貸してもらっているのに、いろいろ不平不満をぶっつけているのはおかしなものだ。いずれ神様に「ありがとうございました。大切に使わさせていただきました。どうぞ問題がないかどうか点検してください」といってお返しするべきものなのだ。言葉を変えれば、市民菜園を借りているようなものである。自分が借りている間は、土づくりに励み、きちんと輪作体系を守り、自分が借りたときよりも、より良い畑にすればよい。そんな状態でお返しすれば貸してくれた人は望外の喜びである。余談だが、私は一生を終わるときに、借りていた身体から自分の魂はぬけ出るのではないかと思っている。これは仮説だが外れていてもなんら問題はない。しかしもし仮説通りだった場合は、その後の展開に大きく影響すると思う。その時、借りていた身体の方から、 「私は今まであなたと一緒に過ごしてきました。いつも私の味方になってくれてありがとう。またいつか機会があったら、ペアを組んでみたいですね」と言われるのが夢である。その夢を実現するためには、どんなに現実の自分が未熟で、もの足りないと頭の中で考えても、正面切って拒否、無視、抑圧、否定してはならない。それよりも、備わっているもの、持っている力や能力を少しでも伸ばすほうがよい。事実をあるがままに認めて受け入れ、自分にどこまでも暖かく寄り添っていくことだ。そのためには、 「かくあるべし」 、完全主義、思い通りに自分の周りのものをコントロールしたいという態度改める必要がある。森田理論で言えば思想の矛盾に陥っている状態から、事実を重視し、物事本位の生活態度に転換することである。そのための方法は森田理論の中で様々に提案されている。このブログでもたびたび取り上げている。森田理論を学習して実践していくうちに、二人の自分が折り合いをつけられるようになれば、自己嫌悪や自己否定は急速にその勢力を弱めてくるはずだ。集談会では多くの人が、自己嫌悪や自己否定で苦しんでおられる。ぜひとも森田理論の学習と実践で、事実、現実、現状にしっかりと根を下ろした生活態度を身につけようではありませんか。この能力を身につけると、人生は霧が晴れてとても視界がよくなると思う。
2017.10.23
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朝日生命保険会社で名社長とうたわれた行方孝吉氏という方がおられた。この方は30代の半ばに書痙という神経症にかかり、苦しみぬいた体験の持ち主であった。その方の手記が残っている。 書痙に苦しむようになったきっかけは、会社で報告書を書こうとすると、なんだか手首の筋がひきつるような感じで、ペン先は自分の意志に反した方向に動き、思うようにしか書けないのである。底冷えのする日のことだったので、 「たぶん、手がかじかんだせいだろう」くらいに思い、その時はそれほど気にも止めなかった。ところが、手が震えて字が書けないことが何日も続いて消えないので、 「どうもこれはおかしい」と少し心配になってきた。こんな時、融通のきく人ならば、あっさりそのことを同僚にも話し、しばらく字を書くことを休んだであろう。ところが私は、何分にも負けず嫌いな性分で、仕事の上では同僚に絶対負けたくないという競争心があるので、自分の恥になるような事を同僚に打ち明けるなど思いもよらなかった。そこで、肘から先の前腕の部分を、机の表面にぴったりとくっつけ、手首が震えないように固定しながら書いていた。腕を硬直させて、不自然な姿勢で書くのだから、今までの字体とはまるで違った妙な字体になってしまう。しかし、こんな不自然なことしていると、右腕全体が痛んでくるし、字を書く速度ものろくなり、それに手の方ばかり注意を取られるので、書こうと思う事柄も順序立てて考えることができない。ついに、いても立っても居られないような焦燥感に襲われるようになった。しまいには、私の注意力のすべてが、手の事だけにとらわれてしまい、肝心の書こうとする内容については、ほほとんど頭が働かないようになった。会社での仕事が終わると、真っ直ぐに家に帰って痛む腕にサロメチールを塗ったり、家内に揉ませたりして、なんとかしのいでいた。そんな状態で数ヶ月間経過した。ある時、会社の新築落成記念式典が行われることになった。私はその時準備委員を命ぜられた。仕事というのは、生命保険に関する展覧会の準備をすることだった。毎日、各種の図表や統計表、ポスター、写真を適当に揃えて、勝手にピンでとめていた。3日ばかり続けてそれをやったところ、右の親指の先はすっかり痺れてしまった。記念式典が終わり、通常の業務に戻った。すると右手がめちゃめちゃに震えてどうすることもできない。ただの1字も書けない。 「大変なことになった」と思い、私の心は恐怖で凍ってしまった。毎日机に向かって恥をかくことを職務としているものが、字が書けなくなったらおしまいである。上司や同僚には隠して、ある有名な医者の診察を受けた。その医者は、 「これは書痙という病気だが、なかなか治りにくい。しかし、生命に関わるものではないから、気を楽に持って、少し静養するとよい」と言われた。「なかなか治りにくい病気だ」と聞いて、私は地の底に引きずりこまれるような絶望感に襲われた。ドクターショッピングを繰り返すうちに、森田療法に巡り会った。森田先生は、 「手のことなんかほったらかしにして、そのまま会社で一生懸命働け」ということであった。私は、当時としてはかなり高い診察料を払っていたので、特別の理学的療法か何かで治して下さるとばかり思っていたので、すっかりアテが外れた。それからもあちこちでドクターショッピングを繰り返したが、少しも良くならないので、万作つき果てて入院森田療法に頼ることにした。しかし、掃除や飯炊きをさせられるばかりで症状が治る見込みが立たないので、2か月で森田先生に許可も得ずに治らないままに退院した。しかし、家に帰ってみると書痙はどんどん悪化した。そこで、また森田療法に頼ることにした。今度は宇佐先生の京都の三聖病院に入院した。そこで入院治療を続けるうちに森田療法の言わんとしていることがよく分かるようになった。そこで入院しているうちに、私も往生したとゆうか、諦めたというか、ついに会社の仕事に精進することが1番の治療法であるということを悟った。そして、あらゆる不快感を耐え忍び、勇気を出して会社に出勤した。その時の決意はこうである。字を書けば、支離滅裂で、小学生にも劣るかもしれないが、字を書くばかりが、仕事ではない。字を書く以外の仕事で、人並み以上に働いてみようと思った。その後は、字を書く分以外の仕事で弱点を補うことにした。今日でも字を書けば、格好良く書こうという意に反して、ひどく金釘流の悪筆となる。それも仕方がないと思っている。結局書痙そのものは治すことはできなかった。しかし書痙にとらわれて他のことが何もできなくなるという神経症は治すことができた。退院した直後は、出世コースから外れ、健康増進課に配属された。それでもめげることがなく、一生懸命に業務に励んで成果を上げて、ついに社長にまで昇りつめることができたと言われている。もしやあの時、私がいつまでも主観的な気分に支配されて、会社に出ることをしり込みしていたら、今日の自分はどうなっていたであろうか。おそらく、生ける屍となって、 一族の持て余し者になっていたであろうと思う。(慎重で大胆な生き方 水谷啓二 白揚社 132ページより引用)
2017.10.22
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大工さんの棟梁を育てている高校があるという。その高校では鋸で木を切ることを次のように指導しているという。木を鋸で切るといっても奥が深いところがある。まず鉛筆などで線を引く。鉛筆で引いた線には幅がある。その幅を拡大して考えたときに、鉛筆の線の外側で切るのか、内側できるのか、あるいは真ん中できるのか。細かいことを言うようだが、そういうことを意識しながら鋸を使ってほしい。また鋸の幅も考えなければならない。鋸の刃は薄いものもあれば、厚いものもある。どういう鋸で、鉛筆のどこを切るのかを頭に入れておかないといけない。ほんのわずかな差であっても、たくさんの部材を積み上げていけば大きな誤差となってしまう。また、鋸で切る時の目線も重要だ。これは挽くときの正しい姿勢による道具の使い方を習得して経験を積まないといけない。右足をどこに置き左足をどうするのか。そして自分はどう構え、どこへどういうふうに力を入れるのか。定石や基礎をきちんと身につけるためには、まず先生や師匠等に謙虚になって教えを請うことだ必須である。口うるさくて、腹が立つことがあっても素直になることだ。普通は叱責されたりすると、すぐに腹をたてて、逃げだしたりしてしまう人が多い。でもそのような態度では、いつまでたっても極意を習得することができない。理不尽で腹の立つことがあっても、先生や師匠についていくと、いつの間にか高度な技を自然に身に着けてしまう。自分が一人でできるようになると自信がつく。それを基にして自分独自のやり方を工夫し創作するようになれば、益々仕事が面白くなる。その時になって、厳しく指導してくださった先生や師匠のありがたさが身に染みて分かるようになる。これはノミの使い方、カンナの使い方、釘の打ち方についても言えることだ。ただ言われた事だけをやっている人と、反発しながらも先輩や師匠の持っている優れた技術を早く身につけたいと思っている人との違いである。その後の仕事に対する姿勢や面白みが全く違ってくる。それはものそのものになることによって感情が動き出してくるからだ。感情が動き出して、高まってくると気づきや発見が自然に出てくる。アイデアや工夫も思いつくようになってくる。すると仕事に対して積極的になり、意欲が高まってくる。このことを森田では「物そのものになりきる」と言います。だから行動するに当たっては、最初はイヤイヤ仕方なくとりかかっても一向にかまわない。意に沿わないことを強制的にやらされていても一向にかまわない。最初は注意や意識が内向きから自然に外向きに変わってきたということに意味がある。でも最後までそのような気持ちでは苦痛でストレスが強くなってくる。そこで少しだけ目の前の仕事に我を忘れるくらいにのめりこんでみる。後から振り返ってみたら無我夢中になって、悩みことはすっかり忘れていたという状態だ。そんな回数を数多く経験するようになることが肝心だ。神経症が治るということは、実はそのような繰り返しが身についてくるということなのだ。(棟梁を育てる高校 笠井一子 草思社 48ページを参照)
2017.10.21
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私は森田理論は、生活の中でいかにバランスや調和を取り戻していけばよいのかという問題を突き詰めている理論のように思えてならない。そのことを免疫学の立場からわかりやすく説明してくださっている医師がいる。これは再録ですが改めて見直してみたい。 免疫学の権威である安保徹医師は、免疫をつかさどる白血球のバランスが崩れることによって、ガンをはじめとするほとんどの病気は発生するのだといわれています。ガン細胞は健康な人でも毎日数千単位で作られているそうです。実際、現在は2人に一人はガンになる時代になっている。がん細胞を処理しているのは白血球です。その中でも特にマクロファージやTキラー細胞が大きな役割を果たしています。 白血球の95パーセントは、顆粒球とリンパ球と呼ばれる細胞からできているそうです。 顆粒球54%から60%、リンパ球35%から41%の比率になっているときバランス的に安定しており、病気にならず健康に暮らしてゆけるそうです。その割合が崩れてしまうことが病気の原因を作り出しているといわれています。なおこの割合がどうなっているか血液検査で簡単に調べることができます。 つぎにこの微妙なバランスを支えているのは自律神経だといわれています。そのメカニズムを安保医師たちが解明されたそうです。自律神経にはご存知のように、交感神経と副交感神経があります。自律神経がどのように白血球の調整をしているのか。 簡単に言うと、交感神経が優位になると、顆粒球が増えて働きが活発になります。 逆に副交感神経が優位になると、リンパ球が増えて働きが活発になります。普段は昼間は顆粒球優位、夜はリンパ球優位に調整されているそうです。いつもピリピリと緊張状態が持続していると、顆粒球優位の体質になります。逆に、毎日テレビを朝から晩まで見ているような生活は、リンパ球優位の体質に変化してきます。つまり顆粒球54%から60%、リンパ球35%から41%という正常な比率が崩れて病気になりやすい体質になっているのです。 自律神経は私たちの意志とは無関係にコントロールされているのですが、実はストレスの影響を受けやすいという特徴があります。我々のようにいつも不安を抱えて、その不安を取り除こうと悪戦苦闘していると、心身の病気を抱えてしまうということです。 さらに人間関係や争い、気候変動、自然災害などのストレスなどにさらされると、顆粒球の割合が増えて、リンパ球の割合が減ってきます。 ガンで外科的手術を受けると、途端にリンパ球が減少してきます。がんが再発した後亡くなる人が多いというのは、ガンを攻撃するリンパ球が少なくなっているということが原因の一つです。 だから病気にならないために過度のストレスをため込まないということが大変重要になります。「ストレスを減らせと医者が無茶をいう」という川柳があります。仕事、人間関係、薬害、有害食品などストレスの原因はいろいろあります。森田理論では不安への対応方法を見直す。さらに「かくあるべし」という思考パターンを見直して、自然に服従する生き方を身に着けていくことを目指しています。そうすることで精神的なストレスを軽減することを目指しています。それらが身についてくると、顆粒球とリンパ球のバランスがとれて、精神面も身体面も健康体になるものと考えます。
2017.10.20
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対人恐怖症の人は、他人の思惑が気になって仕方がない。相手の反発を恐れて、自分の本当の気持ちを抑圧したり、主張したいこと我慢している。そうしないと仲間はずれにされるかもしれない。いじめにあうかもしれない。集団から見放されると、生きていくことができないと考えている。つまり自分が自由に発言したり振る舞ったりすることは、自分が自分自身に対して規制をかけているのである。こうなると、自分の本心と行動にギャップが生じ、葛藤や苦しみを生み出します。これは岡田尊司によれば、生まれてから3才までの特に母親との人間関係に原因があるといわれる。根本的には無条件に他人を信頼することはできない。甘えることもできない。岡田氏の言われる「愛着障害」を引きずっている状態である。愛着障害の克服については、岡田尊司氏の「愛着障害の克服」 (光文社新書)を参考にしてほしい。愛着障害のためにいつも自分を押し殺していると、相手にとってはいいカモに見える自分のやることなすことについて、批判したり自己主張をしないので、ストレスなどを発散する格好の相手に見えてしまうのだ。そしてすぐに上下のある人間関係を作り上げてしまう。人の思惑が気になる人は、いつも被支配者となる。他人から常に指示命令され、強制や脅迫をされるので、とても生きていくことが苦しくなる。対人恐怖症の人は、常に軽いうつ状態に陥っている。いわゆる気分変調性障害である。うつ病と違い、軽い抑うつ感情が長期にわたって持続している。こういう方は、容易に神経症を発症する。不眠・ 不安・イライラなどの不定愁訴症候群に陥る。気分変調性障害に対しては、薬物療法や様々な心理療法がある。しかしこれは根本的な解決策にはならない場合が多い。私は、森田療法を学んで、極度に他人の思惑を気にするということを「バランスのズレ」と言う面から考えるようにしている。バランスが崩れているから、現在苦しんでいるのだと考えている。極度に他人の思惑を気にするということの反対は、きちんと自己主張をするということである。自己主張とは自分はこう思う。自分はこう考える。自分としてはこうしたい。等々を相手に公表することである。天秤で言えば、その2つがきちんとバランスが取れて釣り合っていることが大切である。ところが、極度に他人の思惑が気になる人は、そちらのほうにばかり重い分銅をつけている状態である。その苦しみを軽減しようと思えば、きちんと自己主張をするようにならなければ、バランスが崩れたままであるからどうしようもない。それでは対人恐怖症のような人にとって、自己主張はどのようにしたらよいのか。まずは、自分はこう考える。自分はこう思う。自分はこのようにしたい。という気持ちをしっかりとさせることである。次に、自分の正直な気持ちを相手に向かって話してみる。しかし対人恐怖の人にしてみればこれができないから対人恐怖になったのである。でも、直接面と向かって言えなくても、集談会の仲間に向かっては話すことができる。とりあえず、誰でもよいので、信頼できる人に自分の思いを口に出すということが大切なのである。次に、レポート用紙にまとめてみる。あるいは、自分の気持ちを日記に書くことも有効である。とにかく頭の中でああでもない、こうでもないと循環論理に陥るのではなく、自分の心や身体から一旦吐き出すということ実践するのだ。まず手始めにすることはこれだ。次に目の前に自分のやりたいこと持っているということが重要になる。趣味、問題点や課題、夢や目標である。これらは自己主張とは関係ないと思われてる人がいるかもしれない。しかし、これらを持って少なからず取り組んでいるということは、自分の頭や手足を使って、精一杯自己主張をしていることと同じことなのである。自己主張の基本は、衣食住などの日常茶飯事に対して、ものそのものになりきって、丁寧に取り組んでいるかどうかに行き着く。バランスをとる一助となるのである。このように考えると、人の思惑が気になるという人は、これらの自己主張が全く行われていないか、あるいはあまりにも中途半端である。つまりバランスが崩れて、天秤の用を果たしていないのだ。直接対人恐怖症や人の思惑を改善するために操作するよりも、バランスを意識して、自分にとってはどのような自己主張をしていったらよいのか考える方がよい。その2つのバランスがとれ、天秤がつり合ったときには、他人の思惑が極度に気になるという不安が、問題にならないほど小さくなっていることに気が付くであろう。
2017.10.19
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自分が相手にこうしてほしいという思いと、相手が自分はこうしたいというズレはいつも発生しています。例えば、夫が「自分は働いて経済的な面で家族を支えている。だから家事や育児は妻が責任を果たしてほしい」と思っているとする。それに対して、妻が、 「夫は父親であるのだから、育児については半分は責任を持つべきだ」と思っている場合がある。これらをお互いに話し合う事をしないで、放置していると、そのズレはどんどん広がっていく。そして何かにつけて衝突するようになる。最初のうちは対立したり平行線をたどっている。しかし、そのうちあの人には何を言ってもダメだ。なにしろ、聞く耳を持たないのだからという気持ちになる。そして側にいるだけでうっとうしい。お互いに沈黙するようになる。相手のことは関知しない。関心も持たなくなる。そのうち顔も見たくない。食事も別々 。寝室も別々ということになる。こうなると1つの屋根に住んではいるが、家族はバラバラということになる。その心の不安を打ち消すために、趣味や家族以外の人間関係を求めるようになる。それを見て育つ子供には、当然悪影響が出ることが予想される。だから相手の気持ちと自分の気持ちの間にズレがあると感じた場合は、初期のうちに対応することが必要である。まず、相手の言い分をよく聞く。他のことをしながらついでに聞くという態度ではなく、真剣に相手の話に耳を傾ける。そして自分の思いと相手の思いのズレをはっきりさせる。お互いにしっかりと確認しあうことが大事である。そして、自分の気持ちを相手にしっかりと伝える。その際、役に立つのは「純な心」と「私メッセージ」である。これは森田理論学習の中で何度も学習したことである。「私はこう思う。あなたが○○してくれたら嬉しい」などの発言である。ここで肝心な事は、自分の意向を相手に押し付けてはならないということだ。つい、相手を脅迫したり、指示命令して、自分の「かくあるべし」を押し付けたりする。つまり、相手を自分の思い通りにコントロールしたいという気持ちばかりが前面に出てくるようになる。相手と言い合って勝ちたい。相手を意のままに支配したい。自分が上で、相手が下という序列を確固たるものにしたい。これが夫婦の人間関係をますます悪化させる原因となる。夫婦の人間関係で悩んでいる人は、同時に会社での人間関係にも問題を抱えている人である。夫婦の人間関係に限らず、学校や職場での人間関係でも同様のからくりが働いているのだ。前提としては、人間が2人以上集まると、絶えずこうしたズレがつきものであるという認識が不可欠である。対人恐怖症で人の思惑が気になるという人は、こうしたズレを話し合いによって解決しようという気持ちがない。そんな面倒なことは最初からやろうとしない。そんなことにかかわりあう事はまっぴらごめんだと考えている節がある。弱い相手には喧嘩を売って自分に服従させようとし、強い相手と見ると渋々相手に従うという態度である。自分の思いどうりにいかなくて、精神的にはとても苦しい。相手と自分の間にあるズレを明確化する努力は全くしない。自分の態度を見ていれば、自分が何を考えているか、相手はわかるはずだと思っている。そんなことがわからない相手には、自分の方から無視して引導を渡してやろうという思い上がった態度である。これでは対人恐怖症がますます悪化してくる。人間関係はうまくいかないのが普通の状態である。そういう認識を普段から持つことが必要である。そういう認識がしっかり持てていれば、後は話し合いによって妥協・調整するするようになる。人間関係がうまくいく人を見ていると、双方にズレが生じた場合、相手の意向をよく聞いている。十分に聞いた後は、自分の意思も分かりやすく相手に伝えている。そして、そのズレを明確に意識している。その次にそのズレをいかにしたら埋められるかを2人して話し合っている。必ずしも自分の意思に相手を従わせるという気持ちはない。また、自分を殺して相手に一方的に合わせてしまうという気持ちもない。妥協や調整を繰り返し、譲ったり譲られたりしながら中間どころで折り合いをつけているのである。自分の意思からすると、不満足ではあるが、 相手があることだからこの程度でよいのだと思っている。対人恐怖症が治るという事は、森田理論の学習と実践により、この能力を身につけるということに他ならない。
2017.10.18
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水谷啓二先生は、人間には誰でも作業欲、あるいは仕事欲とも言うべき極めて強い欲望があるといわれる。この作業欲は、単なる運動欲ではなく、手足を動かして仕事をしたいという欲望であり、人間の最も人間的な欲望である。経済的に豊かな生活をしていても、何らかの意味で、やりがいのある仕事をしていなければ、なんとなく生きがいが失われ、社会からも閉め出されたように思われて、人間として生きる張り合いがなくなるのである。これらのことによっても仕事をすることは人間本来の欲望であって、決してお金を得るため、あるいは経済生活を維持するための、単なる手段ではないことがわかるのである。森田先生も、作業欲が人間の根本的な欲望であると言われている。もし、人から運動もしくは作業を取り除いたならば、そこに生命はない。食べ物を食べなければ、生存できないようなものである。食欲、運動欲、作業欲は人の本能である。子どもたちは、身体的にも精神的にも、目が覚めている間は、寸時もじっとしていることはできない。もしこの子供に対して、運動と作業を全く抑制したときには、その苦痛はいかばかりであろう。大人でも、ひとたびこれを隔離し得る。何もさせなかったときには、はじめてはなはだしい退屈の苦痛を感じ、盛んな運動作業欲に駆られるようになる。これが人の自然である。労働を苦痛と考え、盛んな運動作業欲に駆られるようになる。労働を苦痛と考え、何もすることのない苦痛を知らないのは、社会的境遇が、私どもに色々不自然な抑制を与え、そういうことが、あたかも習い性となっているからである。私どもの心身が、絶えず活動を営んでいることは、あたかも私どもの心臓や消火器などの内臓が、寸時も休息することのないのと同様である。作業に当たっては、常に身体的および精神的の機能がよく調和的に働いているのであるが、もし身体的の作業が抑制され、あるいはその機会が奪われたときには、自然に考察、思想などの精神的な方だけが働くようになり、些細な自己の内部感覚にも気づくようになり、これを異常と思い、病的と判断するときには、ますますこれに対する考察や取り越し苦労をたくましくするようになり、次第に病的観念を養成するに至るのである。私の母は、今年83歳になる。その働きぶりは、若者よりも盛んである。人々は母に対して、 「楽隠居した方がよい」と勧める。しかし、家事を見るにつけ、あれやこれやと世話を焼き、干渉もし、孫の世話まで引き受けて自ら働き、ついつい自ら楽になる時間を延期している。これが、母の老いざる事実であり、老いるに至らざる境遇である。 「楽になりたい」というのは、思想である。その働かずにはおれないのは、衝動であり、活気である。思想は多く、実際と矛盾するものである。私どもは自分のしたい事、知りたいこと、成功したいことがあり、自己本来の衝動に駆られて働くことの喜びは、自動車や高い地位などに変えがたいものがあるのである。ここに、私どもの人生のありがたいところがある。もし、思うがままに直ちに楽隠居になり、自動車を買うことができたならば、世の中は極めてあっけないもので、それはあたかも珍味を丸のみするようなものである。働かざるを得ず、努力せざるを得ない自然の衝動の中に、大いなる力があり、若やぎがあり、侵すべからざる自信があり、誘惑されない強健があり、我本来の面目があるのである。(慎重で大胆な生き方 水谷啓二 白揚社 169ページより引用)ここでは生の欲望の発揮について説明されていると思う。まずは日常茶飯事に対して丁寧に取り組むこと。目の前に突きつけられた問題や課題に対して取り組んでいくこと。夢や目標に向かって挑戦していくこと。そういうことを放棄していると、人生はつまらなくなってくる。本来手をつけなければならないことに対して、逃げずに取り組んでいくように、人間は宿命づけられているのである。口で言ってしまえば簡単なことであるが、実践実行できている人は非常に少ない。それが神経症に陥る原因となったり、生きる意味を見いだせない原因となっているのである。森田療法では、人間には作業欲があるという点に注目して、その欲望を推し進める療法であると言える。
2017.10.17
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私が管理人をしているマンションで騒音問題が起きた。騒音でノイローゼになりそうだと言って奥さんが相談に来られた。その方が言われるには、上の階の子供が飛んだり跳ねたりしている。それは土曜日、日曜日、祝日に限られている。何とかしてくれないかと言われた。早速、管理会社の営業マンに伝えた。するとその営業マンは、騒音問題は当事者同士が話し合って解決すべき問題であるという。管理会社が直接仲介の労をとることはしないという。ただし注意勧告の文章を作るので掲示してくれという。それから20日ぐらい経ってまたその奥さんがやってきた。掲示文章だけでは全く効き目がないという。直接先方に出向いて、面と向かって注意をしてほしいという。自分からは先方に出向く事は恐ろしいのでできないという。その労を私にとってもらいたいという気持ちがありありであった。私は、管理会社からも見放され、被害居住者からも丸投げされ、板挟みになった。でも、このまま放置しておくことはできない。そこで騒音を発生させている居住者にポスティングする文章を作り、担当営業マンにfaxした。すると営業マンはポスティングすることを渋々認めて後は管理人に任せるという。その文章は、「お知らせ」という形にした。被害居住者の訴えられたことそのまま文章にした。最後に、事実関係を確認もしていないので、事実誤認の恐れがある事をお詫びた。すると次の日に上の階の方から丁重なお詫びの挨拶があった。それによると、土曜日、日曜日は娘が孫を連れて遊びに来る。4歳と2歳の男の子で、 1日中部屋の中を飛んだり跳ねたりしているという。その方は最上階に住んでおり、階下の人にそんなに迷惑をかけているとは思いもしなかったという。以後、気をつけて、注意をしますということだった。ただし、階下の人とは面識がないので出向いていって謝る事は勘弁してくれという。そこのところは管理人がうまくやってくれという。私は早速被害居住者のところに行ってその旨伝えた。多分これで騒音問題は解決するのではないか、と思っている。今振り返ってみると、管理会社の営業マンにしろ、被害居住者にしろ、トラブルに首を突っ込むことを最初から嫌がって逃げている。でもいずれ何らかの方法で解決しないと、問題はいつまでも先送りされる。その間、ずっと騒音問題に悩まされることになる。解決したい問題があるにもかかわらず、その後の展開を恐れて行動しないからノイローゼ気味になっているのである。私たちの場合も、予期不安があると行動することに二の足を踏んでしまう。熟慮に熟慮を重ねた上、これはと思った解決策に向かって手足を動かしてみることが大切である。頭の中で様々な試行錯誤を繰り返すことは、 一害あって一利なしである。その間イライラ感と相手を憎む気持ちはどんどん増大していく。この場合は、自分たちが階下の人に迷惑をかけていたことを改めて教えてもらって目が覚めたようなことを言われていた。指摘をされて、ありがとうございましたと反対に感謝された。案ずるより産むがやすしとはこのことである。このような問題は思い切って対応していかないとダメだと思う。森田では「不安は安心のための用心である」ともいう。不安はすべて「あるがまま」に受け入れのではなく、積極的に動くことも必要なのだと思う。それは将来の状況が好転する場合と真の意味で相手のためになる場合であると思っている。それ以外は基本的には森田理論の言うように、不安はあるがままに受け入れることが肝心である。
2017.10.16
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最近テレビなどで大きく取り上げられている事件がある。新聞によると、神奈川県内の東名高速道路で大型トラックがワゴン車に追突して、静岡市の夫婦が死亡した事件である。この事件は、 1.4キロ手前のパーキングエリアで駐車位置をめぐり、注意されたのを逆恨みした容疑者が関わっていることがわかった。容疑者は死亡した夫婦のワゴン車を追いかけて、なんども進路をふさぎ、追い越し車線に無理やり停止した。その後この容疑者は車から降りてきて、高速道路上でこの男性の胸元などをつかみ、車外に引きずりおろそうとしていた。そこに後続車のトラックが突っ込み、夫婦のワゴン車は、容疑者の車の13メートルも前に吹き飛ばされたという。その結果、夫婦が死亡した。 2人の娘は負傷した。不思議なことに、近くにいた容疑者と同乗者は助かっている。それが厳罰を求める世論の高まりにつながっている。高速道路の追い越し車線で乗用車を止めれば、死亡事故につながる事は、大人なら容易に想像がつく。この容疑者は、たぶん冷静なときならすぐに想像ができたであろう。少なくとも高速道路で車を停車させることはしない。ところが、怒りがどんどん大きくなった時点で、そういうことがわからなくなっていた。自分を見失っていた。これだから怒りの感情は恐ろしい。暴れ馬のようなものだ。制御不能で始末に負えない。わかっていても自分の怒りをできるだけ相手にぶつけたかったのである。怒りを振り払いたかったのだ。関係者全てを死亡事故に巻き込んでしまうということがわからないくらいに怒りの感情が高ぶっていたということである。いったん発生した怒りの感情は、普通は山を一挙に駆けあがっていくという特徴がある。精神交互作用で増悪の一途をたどるのである。これはちょっとしたタバコの火が大きな山火事に発展するようなものである。山火事になると自分の力だけではもはやどうすることもできない。多くの人の目に留まるところとなり、山火事を起こした本人は批判の的となる。新聞やテレビで報道される頃には、その人は犯罪者として取り扱われるようになる。この事件の場合も、小さな怒りが坂道を転げおちる雪だるまのように瞬間的に極限状態にまで膨らんでいる。こういう事は、この人だけにかわらず私たちの日常生活の中でも度々経験することである。自分自身もこれまでに数々の失敗を経験してきた。森田理論の感情の法則では、 「感情はそのままに放任し、又はその自然発動のままに従えば、その経過は山形の曲線をなし、 ひと昇りひと降りして、ついに消失するものである」という。この容疑者は、いったん発生した怒りの感情は、それを吐き出さないと沈静化することはないと思っているようだ。感情の法則を知っていれば何とかならなかったのであろうか。この容疑者がその怒りの感情を別の感情によって分断できたとすれば、自分自身が制御できない暴れ馬のような状態にはならなかったであろうと想像できる。たとえば、その場を離れてトイレに行く。顔を洗う。コーヒーなどを飲みに行く。新聞や雑誌などを買いに行く。何かを食べに行く。好きな音楽をかけてみる。新しい行動をとれば新しい感情が湧き上がってくると森田理論でも言っている。すると怒りの感情はたちまち変化したり薄まっていくようになっているのだ。森田理論の感情の法則4では次のように説明している。「感情は、その刺激が継続して起こるとき、注意をこれに集中するときに、ますます強くなるものである」この容疑者の行動はまさにこの法則通りである。高速道路ですぐに夫婦のワゴン車を追いかけまわした行動は、怒りの感情にガソリンを撒くようなものである。怒りという不快感を瞬間的に払拭するためには、それを相手に向かって喧嘩を売ったりして吐き出してしまえば、確かにその場ではなんとか少しは楽になる。しかし、その弊害はとてつもなく大きくなる。その後の人間関係に大きな影響を及ぼしたり、重大事故を引き起こすことになる。会社ではそれがもとで退職に追い込まれたりする。後で煮ても焼いても食えない社員がいたと後々まで笑いの種にされてしまう。ところが実際には、本人は暴言を吐いたり喧嘩を売ったりする行動を抑えることができないのだ。それが普通の人間の性であるともいえるのだ。私たちは「感情の法則」の表面的な学習にとどまらず、応用事例を学習する必要がある。そうすると「感情の法則」は実用的になる。感情の法則は、このように実際に生活の中で応用できるようになると、人間関係が円滑になり大変に役に立つ理論なのである。
2017.10.15
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先日大変落ち込んでしまいました。その夜は一睡もできませんでした。その理由を書いてみます。その日老人ホームの慰問活動に行きました。5人のグループで昔懐かしい歌謡曲を演奏しました。私はアルトサックスで参加しました。全部で5曲ぐらいありました。その中の1曲で、私がソロで吹く前奏部分で間違えてしまいました。この部分は特に指遣いが難しい部分です。演奏前には何日にもわたってこの部分を何回も練習しました。練習ではほぼ100%のできでした。感触としては、よもや間違いはしないだろうという気持ちでした。ところがいざ本番に臨むと一抹の不安がよぎったのです。そのまま突入しましたが、案の定間違えてしまいました。その後はなんとか持ち直し、最後まで無難に演奏できました。でもイントロ部分で間違えたので、全部が失敗したような気持ちになったのです。次の曲にも影響を与えるような憂鬱な気分になったのです。それに追い打ちをかけるように、リーダーがお客様の前でそのことを取り上げていやみを言うのです。私たちの出番が終わった言われるのならまだマシです。リーダーとしての「自分に恥をかかせた」という態度で叱責されました。この人はもともと完璧・ 完全主義者です。森田でいう「かくあるべし」がとても強い人です。ですから、趣味の世界だけとは言え、付き合いをするととても疲れます。ミスや失敗をする他人を1%でも許すことができないのですから、良好な人間関係が保てないのは当然のことです。他人が落ち込んで意気消沈しているのに、傷口に塩を塗りこむようなものです。あるいは私たちが前線部隊で、ミスや失敗をしながらも、四苦八苦しながら必死に頑張っているのです。それなのに指揮官が後ろから味方であるはずの我々に向かって鉄砲を打ち放しているようなものです。すると敵と戦う気持ちは一挙に失せてしまいます。まさか味方が思いもかけないことをするのですからパニックになってしまいます。ミスや失敗をホローして、落ち込んでいる仲間をかばうという気持ちはさらさら持ちあわせていない人なのです。この方は学校の先生ですが、こういう態度はきっと生徒との関係においても、そうした傾向があることが容易に想像できます。私は以前の会社で上司が私が提案したことを応援してくれて、思い切って挑戦させてくれ、失敗したときは上司が全責任をとってくれたことがあります。このときは上司が神様のように思えました。この上司の期待に応えたいと思って必死に頑張りました。上に立つ人は、あなたの事はいつも信頼している。いつもあなたの味方で暖かく見守っている。力になることがあったら何でも言ってください。 ミスや失敗があっても上司である私が全て責任を取る。だから、これはと思った事はミスや失敗を恐れずに思い切って挑戦してほしい。そういう上司の下では、安心感があり、上司の叱責を恐れることなく、自分の能力以上の業績を叩き出すことができるのではなかろうか。反対に「かくあるべし」の強い人は他人の上にたってはならないと思う。自分が葛藤や苦悩を抱えて苦しむだけならまだよい。それ以上に困ったことは、他人を傷つけて、奈落の底につき落としてしまうのである。そういう人と付き合うことは、自分自身の寿命を縮じめてしまうと思う。その後私は引退を申し入れました。ところが、今になってあの手この手で引き止めに躍起になっておられる。そこで今までのことを文章として整理して読み上げてメンバー全員で話し合いました。他のメンバーも私と同じようなことを考えていたことが分かりました。最終的にはリーダーがこれまでのことを反省し謝罪されました。今までのように演奏中にメンバーのことを叱りつけたりしないと約束しました。私も今までのことは水に流して、グループに残ることにしました。今回は意思疎通のいいきっかけになりました。雨降って地固まるような体験でした。
2017.10.14
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今日は私の趣味のひとつである「ユーモア小話」のネタを投稿してみます。これは生きがい療法の伊丹先生から教わりましたが、たくさん溜まりました。イヤなことがあったときの気分転換になっています。・トイレに行くと、電気がつけっぱなしになっている。私は妻に、 「これからは、こまめに電気を消してくれ」と言った。妻は、 「何言ってるのよ。さっきトイレに入ったのはあなたのほうじゃないの」と言う。動揺した私は、 「そうか、理由がわかっていればそれでいい」自分でも訳の分からないことを口走ってしまった。・私は毎日の夕食のおかずを日記に書いている。ところが、食後2時間も経って日記を書こうとするころにはすっかり忘れている。(ただしビールを飲んだことはよく覚えている。毎日の習慣だからだ)そんな時、いつも妻に確認をしている。するとある日の夕食事、料理より先にメモ帳とボールペンが出てきた。「なんだこれは、オレに対する当てつけか。食事の楽しみが台無しだ。」「そうじゃないけど、 1度だけの質問ならまだ許せるのよ。質問したことを忘れて、二度も聞いてくるので、イライラするのよ」「最初の質問は独り言だ。答えなくてもよろしい。次の質問が最初で最後だ」「だいたい夕食の献立を日記に書いて何の意味があるのよ。どうせ味付けがイマイチだとか、 サンマが小さかったとか書いているのじゃないの」「お前はそういう態度で料理を作っていたのか。許せない」「まぁあなたという人は。今日は罰として野球を見せないわよ。私の大好きなサスペンスを見るのだから」気まずくなった夕食が終わったのち、私はすごすごと自分の部屋に退散した。・ 70歳を過ぎて、免許の更新に行くと認知症のテストがあるそうだ。「今日は何月何日ですか」「はあ、そんなこと突然言われても分かりません」「では、あなたの誕生日はいつですか」前の質問に動揺した人がとんでもないことを言う。「平成29年5月5日です」「不正解です。じゃ、最後の質問です。今日は何曜日ですか」「はい、その質問は自信があります。エブリデーサンデーです」「お見事、座布団10枚です。住所と名前の書いてある名札をプレゼントしますから首にぶら下げて気をつけてお帰りください」 チャンチャン
2017.10.13
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私の読んでいる新聞に次のような記事があった。これは小学校3年生の女の子が書いた文章である。題は「メダカの子生まれた」である。わたしの家には、メダカが8びきいました。何びきかに名前をつけていました。オレンジ色の子はマンゴー、黒い子はクロミです。その子たちが春にたまごを生みました。エサをあげているときに、たまごをおなかにつけているのに気づきました。たくさんメダカがふえるから、うれしいなとおもいました。何日かたってみたら、水草にたくさんたまごがついていました。大人のメダカにたべられないように、つまんでプリンカップに入れました。たまごは少しかたくて黄色っぽくて、ホクロぐらい小さいです。また何日かたつと、たまごの中に黒い目が見えてきました。わたしは、メダカが生まれたところを1どだけ見ました。「お母さん、生まれたよ」と言うと、お母さんとおねえちゃんが、すぐに来ました。それからもたまごをとりました。今では、赤ちゃんメダカが30ぴきぐらいになりました。多すぎて名前が付けられません。なんともほほえましい記事です。それ以上に感心したのが、事実を観察する態度です。毎日観察していると、大人には同じように見えるメダカでもいろんな違いがあることに気づきました。その違いをもとに、メダカに名前を付けています。また、卵からメダカが生まれてくる過程もよく観察してしています。この事実を観察する態度は、私たち神経質者がこの子から学ぶ必要があります。私たちは、事実を観察するという態度をあまりにも軽視しています。ひと目見ただけで、今までの経験から、すぐに「もう分かった」と思ってしまいます。それを基にして、自分勝手に解釈したり、先入観で決めつけたりします。以前経験したことであっても、目の前の状況は以前と全く同じということはあまりありません。だから、もっと謙虚になって事実を正確につかむという態度になる必要があります。その態度の習得が森田理論のとっかかりとなります。また事実は自分がつかんだ事実と他人がつかんだ事実は違っていることが往々にしてあります。そういう前提のもとに、相互につかんだ事実を出し合って、さらに本当の事実に近づこうとする態度が大切です。集談会などで話し合ってみると事実はとても奥が深いということがよくわかります。そういう方面に力を入れていると、 「かくあるべし」 に翻弄されて、「思想の矛盾」で葛藤や苦悩を抱えるという事は格段に少なくなると思われます。
2017.10.12
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プロ野球はどこの球団も8名程度のスコアラーがいる。ピッチャーの投げる球種やバッターのバッティングをスコア―ブックに記入しているイメージが強い。実際にはそれ以上の仕事をこなしている。スコアラーはだいたい、3つに分かれて仕事をしている。まずチーム付きのスコアラー。試合当日相手チームはもちろん、自チームの選手も観察してデータを採集している。次に先乗りスコアラーは、次のカードで対戦するチームの情報収集に当たる。さらに、次の次のカードに対応する先々乗りスコアラーがいる。 先乗りが見る試合で投げる先発投手は、次のカードではまず登板しないので、野手や中継ぎや抑え投手のチェックが主な仕事になる。先々乗りが、先発投手の分析に当たることが多い。 ネット裏に陣取り、調査するチームの各選手の動きを追って、ノートに逐一記録。ビデオ撮影をすることもある。チェックする点は30項目にも及び、そのデータが本拠地球場のスコアラー室に備えられたコンピュータに集められ、解析を加えて調査レポートが作成される。これが監督やコーチ首脳陣のミーティングに提供されて、具体的攻略法の指示やアドバイスになる。投手の場合は牽制や投げ方など、クセを見破るのが大事だ。これでチーム打率が5分上がるといわれます。野手では打球方向や変化球の対応を見る。さらにメンタル面を調べるために、家族や性格、交友関係まで調べることもあるという。広島カープの井生スコアラーはチーム付きのスコアラーだ。本拠地試合では日付が変わるまで球場にいることが多い。遠征先でも外出することはなく、ナイター後は監督と部屋で話し込む。自分が気が付いたちょっとした投手の癖などを話すと、監督は身を乗り出して聞くという。「このピッチャーはバント守備にスキがあります」と監督に話したことがあった。その後の試合では、選手が連続してバント安打を成功させた。こんな時がスコアラー冥利に尽きるという。スコアラーは、選手時代の経験だけでできるような仕事ではないという。野球関係の著書を読み、人間の心理を研究するなどが欠かせない。私はこの話を聞いて、スコアラーの仕事は神経質性格者向きではないかと思った。神経質者はちょっとした細かいことに引っかかる。それをほおってはおけない。原因が分かるまで、分析したり、どこまでも追及する。事実を基にして、その人の癖、特徴、傾向を隅から隅までまで調べあげる。最終的には相手チームのサインを研究して、サインの解読も行っているのである。事実が正確でその量が多ければ、次の行動が立てやすい。そして成功する確率が高くなる。現在、天気予報は9割以上当たっていると言われているが、それは気象衛星などを使って、気圧や偏西風、海水温の動向を正確につかめているからである。事実の裏付けがない予測は、闇夜に鉄砲を打つようなものであるということを忘れてはならない。神経質者はこのことを肝に銘じておく必要がある。事実を基に行動できるようになれば、思想の矛盾に陥ることはなくなる。つまり簡単に神経症に陥るということは防ぐことができる。
2017.10.11
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集談会に参加すると、プログラムの中に必ず森田理論学習がある。初めて集談会に参加する人が、例えば、 「純な心」の学習するのは問題はないだろうか。初めて参加する人は、いろんなタイプの人がいる。精神科の医師に集談会を勧められたから来てみたという人。自分でインターネットや森田関係の図書を見て、参加してみたという人。共通しているのは、今現在神経症に陥って、何とか治したいという気持ちが強い。中には、森田理論について、よく学習している人もいるが、こういっては失礼だが、ほとんどの人は浅学である。そういう人が、いきなり森田の特殊用語である「純な心」などの学習する場合がある。どの程度理解されているのか気になる。普通の学習には順序というものがある。私は「純な心」の学習をする前に、森田の基礎的な学習が欠かせないと考えている。神経症の成り立ち、神経質性格の特徴、感情の法則、行動の原則、認識の誤りなどである。これらの学習を、 1年ぐらいかけてじっくりと学習した方がよいと考える。これらの学習が終わったら、自分の場合にあてはめて、振り返ってまとめてみることである。そして集談会の場で、体験発表してみることも大切なことである。2年目に入ると、基礎編の学習を土台にして、いよいよ応用編の学習に入る。応用編の学習は、まず森田理論のスキーム(枠組み)を理解することから始める。これを私は、 「森田理論の全体像」と名付けている。このブログで何度も説明している。これは図示されている。「森田理論全体像」は、ディズニーランドに行ったときの施設のご案内図のようなものである。これを見ると、どこにどんなアトラクションがあるのか一目瞭然である。私の長い学習経験から、森田理論の鳥瞰図は絶対に不可欠であるという結論に達している。このことが頭に入っていないと、森田の知識は増えるが、混乱を招くばかりであると思っている。「森田理論の全体像」を、あらかじめしっかりと頭に入れた上で、その骨子となっている4つの大きな柱の学習に移っていく。4つの大きな柱は次のようなものである。・生の欲望の発揮とは!・不安の肥大化と神経症の発症について・ 「かくあるべし」に固執する考え方・生き方の誤りについて・事実本位・物事本位の生活態度の養成について一口に言ってしまえばこうゆうことだ。簡単なことだ。これを見つけるまでに試行錯誤しながら、約20年もかかってしまった。簡単だが中身は深い内容を含んでいる。枠組みが理解できたら、それぞれの柱を掘り下げて学習する。さらにこの4つの大きな柱は、相互に密接な関係を持っているので、その関連性もよく学習していく必要がある。そして最後に、森田理論独特の特殊用語の学習で補強していく。これは家の骨組みができた後に壁を塗るようなものである。全体像が分かっていると、神経症が治るということはどういうことかがよく分かる。次に自分が今どこの場所の学習をしているのかよくわかる。さらに、自分がどのあたりの学習が不足しているのか、あるいはどのあたりの森田実践をする必要があるのかよく分かるようになる。つまり森田理論学習がとても的確で効率的になる。ちなみに「純な心」の学習は、「事実本位・物事本位の生活態度の養成」の学習の中に出てくる。このように、順序だてて学習を積み重ねていけば、戸惑う事はないと思うのである。「純な心」という学習は、森田理論の中では大きな意味を持っている。このテーマの学習なくして事実本位の生活態度を身に着けることは難しいと考えている。ところが、初心者に対して、唐突に「純な心」というテーマを持ち出されては、混乱するばかりで、中には森田理論学習を早々にあきらめてしまう人も出てくる。しかし現実問題として集談会では、縦横無尽に学習テーマが変わる。学習経験の長い人も短い人も同じテーマの学習をするので、どだい順序立てて学習することは難しい。そこで私は、順次だてて学習するためのテキストの必要性を感じた。既存の本でテキストになりそうなものを探したが、帯に短したすきに長しで適当なものがなかった。そこで1年かけて森田理論の基礎篇と応用編を合体したテキストを作った。「新版 これで納得! 実践的森田理論学習」である。ちなみにこのテキストは13章まである。A4版で約100ページのテキストである。製本はしていない。ワードで作成しているだけである。でも現物やメールですでに100人以上の人に届けた。このテキストで、初心者の人は、まずは基礎編の学習をして欲しい。それが終わった人は、随時応用編の学習に進むようにするとよいと思う。さらにこのテキストに沿ってさらに自分なりに膨らませて学習してほしい。急造テキストなので、完全なものではないのでいくらでも改訂してもらって結構である。自分独自のテキストを作るぐらいな気持ちで学習してほしい。このテキストには各単元の最後に課題を設けているのでまとめてみてほしい。できれば集談会などで相互学習するとより理解が深まるだろう。実際にこのテキストを使って連続学習している集談会もあった。そして効率よく森田理論を学習し、森田理論の概略を理解し、神経症を克服するとともに、これから先の人生に役立ててもらいたいと考えている。私は闇夜に鉄砲を放つような学習ではいつまでも獲物をしとめることはできないと考えている。きちんと順序立てた学習によって約3年間で森田理論をものにしてもらいたい。そして早く日常生活の中で森田理論を応用した生活に移ってほしいのである。
2017.10.10
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水谷啓二先生のお話です。現代人の大多数は、 「ただ働く」ということができなくなっている。毎日働くことが、 「給料を得るため」 「金儲けのため」 「人から褒められるため」 「自分を立派に見せるため」 「名声や地位を得るため」 「神経症を治すため」 「孤独感を紛らわせるため」といったような、 「ある目的を達成するための手段」に成り下がってしまっている。本来、働くと言う事は、人間にとっては、単なる「目的のための手段」ではない。働きたく、働かずにはおれないのは、人間の本来性であり、 「生の欲望」なのである。その証拠には、働くことのできないように、長く一室に閉じ込めて置かれるほど、人間にとって苦痛な事はない。私たち人間にとっては、 「やりたいからやる」 「働きたいから働く」のが自然であり、そこに生命力発揮の喜びがあるのである。私は時々若い人に、 「あなたはなぜ、ご飯を食べるのですか」と質問することがある。そうすると、たいてい「生きるためです」とか、 「健康保持の為です」とか答える。それは思想であり、観念的な目的論であって、事実そのものではない。事実は、 「食べたいから食べる」のである。しかも、そういう言葉も忘れて食べているのである。人間には、 「食べたい」 「働きたい」 「眠りたい」という基本的な欲望に始まって、 「良い配偶者を得たい」 「子供を心身共に健康に育てたい」 「親や兄弟を喜ばせたい」 「いろんなことを知りたい」 「自分の仕事を立派にやり遂げたい」 「苦しんでいる人々を救いたい」と言うような、人間らしいいろいろな欲望が本来あるのである。それらをひっくるめて、森田先生は、 「生の欲望」と名付けられたのである。 (慎重で大胆な生き方 水谷啓二 白揚社 166ページより引用)これに対して私の感想を述べてみたい。水谷先生は、観念的に考えた目的のために働くということは問題があるといわれている。理屈ではなくただ働きたいという欲望に基づいて行動することが大切だといわれている。「生活のために仕事をする」というのは、邪道であるということになる。森田理論を厳密に解釈すれば、「生の欲望」に基づかない行動は弊害があるということなのだろう。しかし私はあえて最初の行動のとっかかりはそれでもよいと思っている。理屈があってもよいと思う。イヤイヤ仕方なしの行動であっても全く問題はない。むしろ自己内省に向かっていた注意や意識が、外に向かうようになるのでよい傾向だと思う。しかし、水谷先生が言われるように、その行動が、いつまでも目的達成の域から離れられないと、むしろ弊害のほうが大きくなってくる。例えば、神経症を治すという目的を持ち、その達成のために日常茶飯事に取り組んでいると、神経症は治らない。それどころか、ますます悪化してくる。それは、行動するたびに神経症がどう変化しているか、絶えず比較検討をしているからである。それはあたかも野菜の苗を植えて、しばらくたって根付いたかどうか、引っこ抜いて調べているようなものだ。これではいつまでたっても野菜は根を張ることができない。終いには枯れてしまう。神経症を治すために働くというか、動き回ることはハツカネズミが糸車を回し続けているようなものだ。傍から見ているとせわしなく見えるし、神経症が治らないので本人も最後には根を上げてしまう。行動はいつかの時点で、今手掛けている事柄そのものに注意や意識が向いていく必要がある。やっていることに意識が向いていないと、気づきや発見、アイデアが湧いてくるはずもなく、いつまでも意欲ややる気が高まってくることはない。それはただお使い根性の仕事になってしまう。つまり行動によって感情が生まれ、高まり、どんどん流れていくということがないのが問題なのだ。目の前の日常茶飯事に「ものそのものになりきる」ことで、症状のことは一時的に忘れていたという状態に持っていくことが大切になる。ここが森田理論のポイントである。こういうからくりを学習して、最初はイヤイヤ仕方なしにでも手を出していく。気分が苦しいながらも、我慢して行動してある程度時間が経つと、行動には弾みがついてくるはずだ。月曜日の朝、足を引きずるようにしてでも会社に行って、仕方なしにボツボツ仕事をしていると、昼過ぎにはいつの間にか仕事モードに転換していたという経験をお持ちの方は多いと思う。そうなれば、水谷先生の言われるように、症状のことはすっかり忘れていたという瞬間が訪れるはずだ。そんな体験が数多く増えてくることによって、次第に神経症は完治していくのだ。
2017.10.09
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過去に栄えた世界の四代文明はすべて衰退した。この事実から私たちは真摯に学ぶ必要がある。その原因の一つに砂漠化があげられている。人口が増えて水不足になったのである。また牧畜を始めて、肉を多量に食べるようになった。羊や牛が周りの草を食べつくしてしまい、砂漠化に拍車をかけたといわれている。自分たちの目の前の欲望の充足ばかりに目がいっていなかったのではなかろうか。もっと自分たちの文明の永続性に目を向けて、欲望と不安のバランスをとる必要があったのではなかろうか。森田では、もともと人間は欲望が湧き起れば、同時に不安も湧き起るように作られているといわれている。バランスや調和を無視することは、自分たちの首を絞めるような行為である。アメリカでは小麦やトウモロコシの大凶作が続いているという。単一作物の生産による連作障害と水不足が原因である。その対策として、作物の遺伝子操作を行って連作障害や病害虫に強い品種を作り出した。しかし地下水位が下がっている水不足は解決できないでいる。また小麦の世界一の産地であったロシアは生産量が減って日本に輸出できない状態である。今後中国、インド、ロシア、ブラジル、その他後進国が力をつけてくると、世界的な食糧の奪い合いは必ず発生してくる。最近の自然災害は異常である。巨大台風、巨大地震、猛吹雪、大洪水が世界各地で猛威をふるっている。それだけではない。オゾン層の破壊、酸性雨、資源の枯渇、ジャングルでの森林破壊、CO2の上昇、北極の氷の溶解、伝染病の脅威など人類の生存を脅かすような不気味な自然現象が忍び寄っている。これらもその多くは、自分たちの便利で快適な生活を無制限に追求してきたなれの果てである。子孫に明るい社会や自然を残してやろうという気持ちはないのである。自分たちが豊かで飽食三昧の生活ができれば、あとは野となれ山となれという考えである。その最たるものが原子力発電である。今の自分たちが無制限に電力を消費するために、処分することのできない核廃棄物を大量に作り出して、将来に先送りしているのである。日本はその先頭に立って原発を世界各国に売り込んでいる。その原因を考えてみた。最も大きいのは、欲望が暴走して制御不能に陥っていることだ。現代人は本来自分がなすべきことまで他人に依存するようになっている。その結果、武力や経済力で弱い人や力のない国を我が物顔で支配し収奪するようになった。そのような関係を続けることは、共存共栄を目指すものではなく、お互いに憎しみを生む。裕福な人や国は、益々マネーゲームに突き進み、自分たち自身の心と体の健康を害している。反対に自国の生産品を強制移転させられる国の人たちは、飢餓と貧困で苦しんでいる。欲望の暴走は人間の宿命なのだろうか。私はそうは思わない。森田理論では人間にはもともと、欲望が発生すれば、その暴走を制御する考えが自然に湧き起るように作られているという。精神拮抗作用という考え方だ。そして欲望の暴走に歯止めをかけて、欲望と不安のバランスがとれた生き方を目指していくのが大切なのである。それが本来の人間の姿であると思う。人間は原点に戻って生き方を変えていく必要がある。他人や後進国の人たちを飢餓や貧困に追いやるような欲望の暴走は断じて容認できない。そのためにすぐにできることがある。自分たちが食べる食料は自分たちが作ることだ。地産地消という生存の基本である、自立の方向性を目指すことである。次にあれがほしい、これがほしいという欲望が起きたら、今あるもので代用できないか、今あるものを改良して再利用できないかと考えることである。自分たちは欲望の暴走の社会で生活しているという認識を持っておくことが大切である。そういう方向で欲望の暴走に歯止めをかけていかないと、過去の四大文明が跡形もなく衰退したように、私たちの高度に発達した文明もいづれ衰退してくるだろう。それよりも全人類の滅亡という最悪のシナリオも現実味を帯びているような状況である。そういう意味では、森田的な考え方をもっと世の中に紹介し普及していく必要があると思う。
2017.10.08
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私は現在、マンションの管理人の仕事をしている。先日、田舎で近所の人の葬儀があり、有給休暇をとって休みました。その場合は、代行といって、私の代わりの人が業務をしてくれることになっている。それは別に問題はなかったのですが、その代行の人を見たある居住者の人が、私が退職して新しい管理人に交代になったと思って、「前の管理人は辞めて、新しい管理人に変わった」と他の居住者に触れ回っていたのである。代行の人が入る事は掲示板に掲示していたにもかかわらず、見ていなかったのである。次の日、5 、 6人の居住者の人が、本当に管理人が代わったのか、確かめるために受付にやってきた。「やっぱりそうか。またあの人の早合点か」といわれた。私もまたかと思って苦笑してしまった。というのは以前に、こんなことがあった。小学生の低学年の男の子が、 学校から帰ってきた。ところが、お母さんは外出していて、インターホンを鳴らしても応答がない。お母さんと連絡がとりたいという。私は早速居住者名簿を見て、お母さんに携帯で連絡をとった。すると、お母さんはあと30分ぐらいして帰るので、それまで管理人室で子供を預かってほしいと言われた。私は快く了承して、子供に宿題をやらせていた。断っておくが、これは男の子だからそうしたのである。女の子の場合は、決して管理人室の中で預かってはいけないことになっている。万が一、トイレ等を貸してくれと言われた場合は、丁重に断るか、断り切れない場合は、管理人が外に出て待っていて、女の子が管理人室から出てきて、初めて管理人室に入る規則になっている。その時、たまたま、先ほどの居住者の人が、男の子が管理人室に入っているのを見たのだ。そしたら次の日、「管理人が自分の孫を連れてきて、管理人室で遊ばせていた」という噂が立っていたのである。ご丁寧にも、管理会社に、「あの管理人はけしからん」と言ってクレームの電話をしていた。管理会社からは、すぐに確認の電話がきた。悪いことは重なるもので、80代のおばあさんが受付にやってきて、ベランダの網戸が外れて困っている。息子に見つかると、叱られるので、今のうちに直しておきたい。管理人さんお願いできないかといわれる。私はいいですよといって見てあげた。するとサッシのストッパがきちんとセットされていないことが分かり、すぐに直してはめ直してあげた。すると、解放廊下を歩いていた例の居住者に見られたのだ。また、「管理人が○○室から出てきた。泥棒をしているのでは」と触れ回っていたのだ。この居住者の人は、 「おやっ」と思ったことを自分の思い込みで、勝手に決めつけてしまう傾向が強いようだ。誰よりも早く、問題点を見つけだして、他の居住者の人にふれ回ることで自分の存在価値を高めようとしているように見える。この人が、最初に「おやっ」と思った事は、なんら問題はないと思う。そして、次に上記のような仮説を立てることも問題はない。しかし、その次に「そうであるに違いない」と自分勝手な先入観や思い込みで決め付けることが問題であると思う。「そうではあるに違いない」という先入観は、実際に事実であるかどうか確認や裏付けをとる必要がある。1番目の場合は、代行の人に、 「前の管理人さんは退職されたのですか」と確認をとれば、すぐに事実が判明する。男の子を管理人室で預かっていた場合は、私に「管理人室にいる子供さんはあなたのお孫さんですか」と聞けばすぐに事実が判明する。最後の場合は、 「○○室に何か用事でもあったのですか」と確認をすれば、すぐに謎が解ける。そうしないのは、相手に対して悪意を持って事実をねじ曲げようとしているようにも見える。事実誤認を繰り返して、それを基にして行動していると、自分が誤解されて、人が寄り付かなくなる原因を作ってしまうことをどう考えておられるのだろうか。これらはすべて、一言、相手に確認をとれば、大きな問題に発展することはない。事実を無視して、自分のネガティブな先入観で、相手の行動を悪いほうに決め付けることは、 2人の人間関係を悪化させる以外の何物でもない。私は、事実を無視する人は、次のような特徴があると思う。・事実を無視するために、考えることや行動することが実態から大きく遊離してしまう。そこから出発して、行動をとるために、どんどん問題が大きくなる。・第三者から見ると、考えることが無茶で大げさで、論理的に飛躍しているように見える。まるで幼児の言動と同じように見えてしまう。事実を無視する人は、信頼されなくなる。・事実を無視する人は、プラス思考、ポジティブ思考よりも、マイナス思考、ネガティブ思考に偏りがちである。・事実を無視する人は、完全主義、完璧主義、 「かくあるべし」思考に陥りがちである。私も、森田理論学習を深める前は、事実を無視して、先入観でネガティブな決めつけを行い、自分と他人に多大な迷惑をかけていたように思う。その時は、どうして対人関係は苦しいことばかりあるのだろうかと思っていた。今は事実に重点を置いた生活をしているためか、人間関係のトラブルは激減してきた。人との交流は楽しみの一つになってきたように思う。
2017.10.07
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ある時、森田先生が座談会で、郷里の高知県知事と話しされた。その知事が言うには、近頃の子供は学校でも贅沢で困る。昔、自分などの時代には、草紙というものがあって、毎日同じところに手習いをして、草紙は真っ黒になっていた。近頃の子供は、習字にも、みんな白い紙を使う。また、子供が万年筆などを使う事をみるが、どうも生意気でいけないと言われた。(森田全集第5巻 631ページより引用)この知事が言われるには、贅沢をするのは、経済的な損失が多い。また、使い捨ての考え方が子供の頃から身に付いてしまい、子供の教育上よくない。質素、倹約の生活態度を子供の頃から養っていく方がよいなどと考えておられるようだ。このことに関連して言えば、森田先生も質素、倹約を入院生活に徹底的に指導されているようにも思える。たとえば、風呂の水は、すぐ捨てるのではなく、ぞうきんがけに使ったり、観葉植物にかけたり、庭のうち水として利用する。新聞の広告紙は手習いに使ったり、焚き付けとして使う。森田先生の家の近くには、青果市場があり、そこに落ちている野菜の切れ端などを、リヤカー持参で集めて回られている。兎の餌にするためである。徹底した質素、倹約の生活ぶりである。森田先生の行動と郷里の知事との話はほとんど同じ内容のように思える。森田先生は、性格上、物を贅沢ざんまいで使うことが我慢できなかったのであろうか。そうした自分の主義主張を入院生に指導されていたのであろうか。そうではない。これは森田理論学習をするとすぐに分かることである。森田先生はもったいないから、物を粗末にしてはならないなどと考えられていた訳ではない。どんなものにも、存在価値がある。その価値を自分のため、あるいは人のため、世の中のために存分に発揮してみたいのである。それなのに、世の中にはそのものやその人の存在価値を貶めるようなことばかり行っている。使用価値、利用価値、貨幣価値、経済的価値がないとすぐに無視される。自分自身も自分の存在価値を高めるという方向ではなく、自分に不足していて、他人が持っているものを欲しがる傾向が強い。自分が持っている価値や能力については見向きもしなくなるのである。ない物ねだりをしているのだ。この考え方は、神経症の克服にとってどんな意味があるのだろうか。森田理論の土台となる考え方は、 「生の欲望の発揮」である。生の欲望の範囲は広い。目の前の日常茶飯事、目の前の仕事、家事や育児、目の前の問題や課題、自分の挑戦してみたいこと、目標や夢などである。生の欲望を発揮するためには、自分の状態、性格、能力、境遇などをありのままに受け入れることが大切である。それはそのまま自分の存在をありのままに認めて、自分の存在に全幅の信頼を寄せることである。すると、自分を無視する。拒否する。否定する。抑圧することがなくなる。人間はこの世に存在している状態にこそ価値がある。その存在価値にクレームをつけるのではなく、存在価値をよりどころにして、自分や世の中のために努力していくことこそ人間の本来の生き方である。そこには「かくあるべし」がないので、自分自身の中に理想と現実の葛藤が起こらなくなる。自分の存在価値を認めて、高めようとするという態度は、思想の矛盾の打破につながることである。物を大事にして最後まで活用し尽くすというのは、ただ単にそのものがもったいないからと言うのではなく、森田理論の核心部分に関わる重要な考え方なのである。現代の世の中は、存在価値を無視しているように思えてならない。そういう考え方では「かくあるべし」を助長して、苦しみや葛藤をどんどん作り出してていくと思う。
2017.10.06
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政治家はよく国民の生活をよくするために、政治活動を続けているという。会社の社長は、社員の生活を守るために会社の経営をしているという。ここで「 ・ ・ ・のために」という目的志向について、森田先生がどのように考えていたのか見てみよう。私のやった仕事が社会の役に立ったという事は事実だと思うのが、同時にそれは自分の為でもあったわけだ。「 ・ ・ ・のために」という目的意識を考えている間は、おそらく、まだ解脱した人間とは言えないだろう。例えば、 「 ・ ・ ・のために」と、考えてやった仕事がうまく行かなかった場合、当然、そこには失望、落胆、憤慨、怨恨等々 、諸々の情念が群がり起こってくるだろう。「 ・ ・ ・のために」という目的意識がなければ、心はいつも静かな水の流れのごとく、平静であるに違いない。波打ち際の砂浜で、やがては波に洗い去られることも考えずに、子どもたちは無心に砂の池を掘り、砂の山を作るが、彼らにはなんらの目的意識もなく、ただ作ることの楽しみと喜びがあるだけである。私は思う。たとえどんなな小さなことでもいい。その大小は問うところではない。善事をなすことの満足、この楽しさ、この嬉しさ、これで何もかもつぐなわれているのではないか。なまじっか娑婆っけを抱いて、 「 ・ ・ ・のために」と動き回っては、かえってよろしくない。しいて言えば、楽しさのために、やれるだけのことをやればいいのではないか。「 ・ ・ ・のために」という目的意識がなくて、 純な心のままにやるときには、そこには何の無理もないから、仕事そのものになりきることになる。それが人間にとって、 1番幸せな心境であるだろう。森田先生は、神経症の治療をする時も、原稿を書くときも、風呂焚きやサボテンの世話でも真剣に取り込まれた。修行の積んだ人の日常生活は、仕事をしていても遊びと同様の気分である。これを遊戯三昧(ゆげざんまい)という。三昧とはものそのものになりきることである。 一心不乱の状態である。森田先生の場合は、診察をすればツイつり込まれて時間を忘れるようになり、風呂焚きをしていれば、いつの間にか四方八方に心が働いて、全力をあげると言うふうになってくる。このような関係から、遊びことと仕事が一如になって、当然精神が集中するようになり、決してお使い根性や、気まぐれの申し訳の仕事にはならない。神経症を治すための行動は、神経症が治るのではなく、益々神経症が悪化する。最初は神経症を治すという目的を持っていても構わないが、行動に弾みがついてくるとどこかの時点で、「ものそのものになりきる」という態度が欠かせないのである。森田先生は、努力即幸福ということを盛んに言われたが、ものそのものになりきって、目の前の仕事や日常茶飯事に取り組むことこそが、生きるということそのものだということを言いたいのだと思う。
2017.10.05
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水谷啓二先生の啓心寮に対人恐怖症のMさんという娘さんがいた。この方は、 「人前でオナラが出て嫌われたら困る」などと思って、人を訪問することもできず、昼間は電車や汽車に乗ることもできなかった。東北生まれの娘で、顔立ちは悪くないが、ひどく青白くて、まるで生気というものがなく、それに目がガラス玉のように冷たく、態度も固くてぎこちなかった。水谷先生のところで、この人の対人恐怖症が治ったのである。どのような事をされたのか興味がある。水谷先生の所では様々な小鳥を飼っていた。水谷先生はその世話をMさんに頼んだ。Mさんははじめ、仕方なしにやっていたが、やがてジュウシマツの卵がかえって、小さなヒナが二羽産まれた。ところが、餌が悪いのか、ヒナは育ちそうにない。彼女は、まだ羽毛の生えていない、生まれたばかりの小さなヒナをそっと手に握り、自分でこしらえた柔らかいすり餌を箸の先に付けて、用心深く、しかも丹念に食べさせていた。こうして毎日、まるで赤ん坊にお乳を含ませるようにして育てていった。やがて羽毛も生えそろい、若い元気なジュウシマツどうなったが、とても彼女になついていて、手のひらに乗ったり、肩に止まったりしていた。この頃から今まで凍っていた彼女の心に、生きるものを育てる喜びや、みんなのために働く喜びが芽生えてきたらしく、料理作りや掃除、ミシンがけなども、とても熱心にやるようになった。そしていつの間にか彼女の顔には、健康そうな自然の赤味がさし、目も人間らしい暖かみのある潤いを帯びてきた。また固い感じがなくなって、柔らかく生き生きとしてきて、態度にも親しみやすい中にも若い女性らしい慎みがあって、まことに人間味豊かな美しい娘が誕生したのである。その後水谷先生にあてた手紙には、 「今まで自分のことばかりに明け暮れていた私も、少しは相手は今どんなことを求めているかを考えるようになりました」とあった。水谷先生は、神経症の全治とは、とらわれの古い殻を破って、自分の本来性、そのままの本物の人間、つまり当たり前の人間が誕生することだ、と思っているが、これはその実例だと思うと言われている。(慎重で大胆な生き方 水谷啓二 白揚社 88ページより引用)確かに、神経症が治るということは、自分の症状のことは横に置いて、目の前の仕事や日常茶飯事に注意や意識を振り向けることである。こうすることで、いったんは神経症のアリ地獄から地上に入れることができる。今症状でアリ地獄に陥っている人は、苦しいだろうがこの道にかけてみるとよい。欲を言えば、神経症に陥る人は、 「かくあるべし」という考え方が強く、思想の矛盾に陥って葛藤や苦悩を抱えている場合が多い。 「かくあるべし」という考え方を弱めて、事実本位・物事本位という生活態度に転換できれば、神経症とは完全に縁が切れる。その後は不安を活用しながら、生の欲望の発揮に向かって、自分の持てる力を存分に活かしていけば、味わいのある人生を全うすることができると考えている。
2017.10.04
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アドラーは、 「共同体感覚」を持つということが、精神的な健康を保つために必要不可欠であるという。共同体と言うのは、さしあたって自分が所属する集団、すなわち家族、学校、職場等のことを言う。自分はその共同体の中にいる。そして共同体の一員である。共同体から養われている。そして共同体に貢献している。そういう感じを「共同体感覚」という。そのために、次の4つの態度を身につけることが精神衛生上大切だという。・自分で自分を受け入れているということ。自己否定をしないということ。・他人との関係では、基本的に無条件に他人を信頼しているということ。他人を否定しないということ。・共同体の中で自分の居場所があり、周囲の人に役に立っているということ。・自分に対しても他人に対しても正直であるということ。・いつも目の前にある問題に、冷静に誠実に取り組もうとする姿勢を持っていること。これらはすべて、森田理論で学習していることと同じことである。問題は、どのようにして、そのような態度を身につけていくかということである。自己否定、他人否定をする人は、バランスの取れた考え方はできない人である。森田理論の「神経質の性格特徴」を学習すると、性格には必ずプラスとマイナスの二面性があるという。自分たちは小さいことにすぐに動揺して何事も手につかなくなり、神経質性格はダメな性格だと思いがちである。しかし、裏を返せば、感性が鋭いということでもある。高精度のレーダーを標準装備しているようなものである。その感性をプラスに生かしていけば、性格が問題になるどころか、有効に機能させることができる。また、自己や他人を否定する人は、強力な「かくあるべし」を持っている人である。森田理論学習でいつも学習しているところである。 「かくあるべし」 に現実の自分や他人を引き上げようとしている。そういう態度でいると、なかなか自分の思い通りにならなくて、葛藤や苦悩が生じる。その考え方を改めて、まず心もとない現実の自分や他人をどこまでも信頼して認めていく。そこから目線を今一歩上に向けて、努力精進する態度を堅持するようにするとよい。次に森田先生は、人からよく思われたいと言う前に、人に役に立つ人間になりなさいと言われている。普段の生活の中で、積極的に他人をよく観察し、人に役に立つことを見つけて実行に移していくことである。そういう態度でいると、注意や意識は内向化することがなく、他人や物事に向かっていく。他人の役に立つことばかりに気を配っていると、自分が損をしているという気分になる人がいるが、実際は回り回って自分が得をしているのである。最後に、自分の容姿、性格、境遇、弱点、欠点、ミスや失敗などを隠したりしないで、むしろ人前にさらけだす方がよい。そうすると、周囲の人が自分を馬鹿にして、軽々しくみられるようになるのではないかと心配になる。実際には、欠点や弱点を取り繕ろったり、隠したりしない人のほうに人が集まってくる。取り繕ったり、隠したりしていると他人は距離を置いて離れていく。自分の頭の中で考えたことと、実際が反対になるのである。アドラーは、 「何をもって生まれたかはたいして重要なことではなく、自分に与えられたものどう使いこなすかがより重要である」と言っている。森田理論と全く同じである。集談会でもアドラー心理学に詳しい人がおられます。それは構わないのですが、一般の人にはアドラー心理学は難しい。とっつきにくい面があります。森田療法との考え方の共通点や違いを自分の立場でよく検討して具体的に説明するようにすると、森田理論がより深まっていくのではないかと考える。アドラー心理学は、森田理論をより深めるために有効な学習であると思う。(続アドラー心理学トーキングセミナー 野田俊作 星雲社 参照)
2017.10.03
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先日の集談会で面白い話があった。その方は長らく町内会の役員をされている方である。町内会では毎年町内会祭があり、いろんな出店がでる。その方は毎回おでんの出店を切り盛りされている。最近はおでんの中にジャガイモを取り入れることに挑戦されているという。80個ぐらいジャガイモを用意されているという。おでんの中でもジャガイモ大変難しいそうだ。それはすぐに煮崩れするからである。 40分ぐらい鍋の中にいれていると煮崩れしてくるといわれる。インターネットで調べたり、おでん専門店に行ったりして、どうしたら煮崩れしないジャガイモのおでんができるか研究をされたという。まず品種としては、メイクイーンが比較的煮崩れしないが、絶対的ではない。今までは大きな鍋でおでんを作っていたが、町内会に頼んでコンビニにあるような電気鍋を買ってもらった。これでいったん出来上がったおでんは温めるだけに温度調整ができるようになった。おでん専門店で聞いたところ、ジャガイモは一旦茹であがると、別の空の鍋に移しておくそうだ。必要に応じてそこからおでん鍋に移していく。それが売れればまた追加していくやり方をとるとよいと言われた。その時の温度は、急激にあげたりしないで温める程度にする。そのやり方でいかに味を染み込ませるかがコツであるという。そのやり方でやったところ、ほとんど煮崩れをしないジャガイモのおでんができるようになったという。最近では評判になりすべてのジャガイモが完売できるようになったといわれた。本人も自信が出てきて、ますます町内会活動に積極的に参加するようになったという。集談会の参加者は、「これは素晴らしい森田実践である」と最大限の賛辞を贈った。これは実に森田的な体験であると思う。最初は嫌々町内会活動を引き受けたにもかかわらず、自分の与えられた役割を全うするべく熱心に取り込まれたのである。すると次から次にアイディアが浮かび、創意工夫が出てきた。そうしているうちにおでん作りがとても楽しみになってきた。目の前の仕事や役割に今1歩踏み込んでいくと、その先に大きな宝の山に出会ったようなものである。これは森田先生が、入院森田療法の中で入院生に適宜指導されていた内容と同じことである。これは私たちもとても参考になる。最初は嫌々仕方なしに手をつけることであっても、 「ものそのものになりきる」態度によって、新しい感じが生まれてくる。次第にその感じは高まっていく。すると、気づき、工夫や発見、アイディアなどが生まれてくる。次第に意欲が高まってやる気に火がついてくる。その段階ではもうすでに自分の症状のみに格闘する段階から離れているのである。神経症のアリ地獄からぬけ出る道は、まさにここにあると思うのである。この方は忙しくてあまり集談会に参加できなくなっているが、この話を聞いただけで森田を生活の中に活かして充実した人生を過ごされていることがよく分かった。
2017.10.02
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アドラーは人間が行動を起こす時、必ず「目的」があるという。例えば、子供が朝学校に行く時間になって、腹が痛い、頭が痛いという。とても学校には行けないような苦しみようである。親は慌てて、学校に休む旨の連絡して病院に連れて行ったりする。この場合、子供には何らかの理由で学校に行きたくないという気持ちがある。学校へ行きたくないと言うのが、この子どもの本音である。それが目的なのである。腹が痛い、頭が痛いというのは、ほとんどの場合、その目的を達成するための手段として持ち出しているのである。森田理論で言うところの、手段の自己目的化が起きているのである。この場合、大変な苦しみ様であっても、学校へ行かないという目的が達成されれば、すみやかに腹痛や頭痛は治ってしまうのだ。翌朝になって、またその目的を達成するために、身体症状を作り出してしまう。普通の親は、子供が腹痛や頭痛で苦しむとその原因を取り除こうとする。その原因を取り除けば、問題がなくなり学校に行けるはずだと考える。しかし、子供は、勉強が面白くないのか、やる気が起きないのか、学校の先生が嫌なのか、いじめにあっているのか、いずれにしろ、なんだかの問題を抱えていて学校には行きたくないと思っているのである。行きたくないという強い気持ちが取り除かれない限り、学校に行くようにはならない。私の場合を振り返ってみても、訪問販売の仕事をしていたときに、仕事をすることができなくなった。仕事をサボって喫茶店などに入り浸っていた。その時私は、私には強い対人恐怖症があり、そのために仕事に行けないのだと自分を納得させていた。アドラーの考え方をもとにして考えてみると、本当は心の奥に仕事をしたくないという気持ちがあった。仕事は生活費を稼ぐためにやむなく行っているに過ぎない。他人から指示命令されてするような行動は大変に苦痛である。だからのらりくらりと仕事を続け、自分と家族を養うために最低限の仕事をすればよいという無意識の気持ちがとても強かった。自分には楽をしたい。めんどくさいこと努力をすることなどはまっぴらごめん。他人よりもうまい思いをしたい。考えるのが億劫だし、動くのは面倒だ。何とか仕事をしないで済ませる方法はないものか。こんなことばかり考えていたのだ。その目的を達成するために、 「自分には対人恐怖症という病気があるために仕事ができないのだ」 と自分を納得させていたのだ。このように考えるとつじつまが合う。対人恐怖症を治すために努力しているのは、手段の自己目的化に陥っていたのだ。その目的について、本当に自分が望んでいる真の目的なのかどうかを考えてみる必要があったと思う。私には、 「楽をしたい、他人が見ていなければサボって休みたい」という安易な気持ちも確かにあった。そしてその気持ちはとても強かった。しかしその一方で、他人から一目置かれるような人間になりたい。意味のあることをして、社会に貢献したい。みんなの期待に応えて成果を上げたい。燃えるような情熱に溢れて、いろんなことに挑戦して、素晴らしい人生をまっとうしたいという強い気持ちも少なからずあった。怠惰で投げやりな自分と、その反対に、素晴らしい人生を歩んでみたいという相反する自分がいたのである。しかし、安易な気分本位の態度に陥り、素晴らしい人生にするための努力や精進を簡単に放棄してしまった。何もしないで楽でぐうたらな生活に甘んじてしまったのである。今となっては後悔ばかりである。楽をして、安楽に暮らしたいという気持ちは誰でも持っているものであると思う。宝くじが当たったら、生命保険金が下りたら、親の遺産が手に入ればすぐにでもリタイヤしたい気持は誰にでもある。その目的の達成の方面に注意と意識を向けていたのではないだろうか。その反面で、他人から一目置かれるような立派な人間になりたいという気持ちも強かったのだから、その方面にも目を向けて両方のバランスを取りながら生活する必要があったのではないのか。森田では不安を取り除いたり、不安から逃避するばかりではなく、その半面にある「生の欲望の発揮」という一面を決してないがしろにしてはならないという。そういう目的を持っていれば、一方的に楽でぐうたらな生活に甘んじるということはなかったのではないか。森田理論でいうように、「生の欲望の発揮」に重点を置いて生活を前進させる。そして欲望が逃走しないように、不安を活用しながらバランスをとって生活して行くことが何よりも大切であったと思う。バランスをとるためには、「生の欲望の発揮」から決して目をそらしていてはならない。その中でも基本中の基本は、日常茶飯事に対して真摯な気持ちで、ものそのものになりきって取り組んでいくことだと考えている。
2017.10.01
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