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高濱正伸氏のお話です。600人以上のお母さんからアンケートを取りました。興味深い分析結果が出ました。「夫が自分の話をうなずいて聞いていると嬉しい」と答えた人がなんと97%だった。「夫が新聞やテレビを見ながら自分の話を聞いているとイライラする」は62%。「夫が子どもと一緒に遊んでいると嬉しい」は99%。「夫が子どもに勉強を教えていると嬉しい」は89%。面白いのは、「夫が自分との記念日を覚えていないとイライラする」はたったの33%。「夫が子供の誕生日を覚えていないとイライラする」は70%。つまり、可愛い子どもへの思いを共有化できていることが、ママの大切な安心ポイントなのです。「夫に『ありがとう』と言われると嬉しい」が97%。面談でもお母さんたちは言っていました。「一言『ありがとう』って言ってくれると、全然違うんですけどね」気持が一番大切ですが、最も気を許せる家族だからこそ、敢えて言葉にする心がけというか習慣が大事なのでしょう。さて、あるお母さんから連絡帳にメッセージがありました。それは娘のピアノの発表会で、お父さんとの連弾が実現したというものでした。まったく弾けなかったお父さんは、この日のために練習をひたすら積んだそうです。「普段は帰りが遅く、娘と触れ合う時間も少なかったので、二人にとっては有意義な時間を持て、6年間で一番の思い出を作ることができました」こういう思い出を最愛の娘に残してあげたお父さんに乾杯です。(花まるな人生 高濱正伸 幻冬舎 128ページ)仕事や神経症と格闘していると、こんなことには気がつかないのではないでしょうか。朝「おはよう」のあいさつをする。相手が話をしている時はきちんと正対して聞く。家族のイベントはカレンダーに書き込んでおく。家族の誕生日会を開く。配偶者に「ありがとう」「助かるよ」という感謝の気持ちを言葉にして伝える。イライラすることは受け入れて、よいところは大いに評価する。土曜日、日曜日、祝日は家族サービスに徹する。子供の言動には絶えず関心を寄せて見守る。相談されたらきちんと向き合う。いずれも家族の人間関係の基本です。家庭の人間関係がうまくいっている人は、家族以外の人との人間関係も良好です。先日公民館活動で味噌の仕込みをしました。これは米麹です。これに塩を加えて、すりつぶした大豆と混ぜ合わせるのです。発酵させて3か月後から食べられるようになります。
2025.02.28
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森田先生のお話です。僕自身の体験でいうと、呉先生は、自分の恩師であるから、当然最も恐ろしい人であった。勿論取り入りたい事は、同様であるが、こちらから進んで、とやかくする事は、私の性質として、決してできなかった。ただ何かの機会を待って、これを逃さないように心がけている。丁度魚が釣れるのを待ち、蜘蛛の糸に、他の動物のひっかかるのをねらうようなものである。ある人は、私に私の著書を全部そろえてもらいたいといって、持って行った事があるが、私には決して、そんなことはできない、ただ先生が何かを、私にくれたくなるようにしむける手段は、いろいろと講ずることがあるのです。(森田全集 第5巻 525ページ)この話は、人間関係の不即不離について説明されているように見える。確かにそういうふうにとらえることもできるが、私は他人との付き合い方・交渉術について貴重な話をされているように見える。森田先生にとって呉先生はとても恐ろしい恩師であったと言われている。その恐れ多い呉先生にこちらから、気軽にお願い事ができるはずもない。呉先生のお伴とか、車の同乗などの場合である。呉先生の方から、「森田君、どうだ」と言われるような機会をじっと待っている。そして突如としてそういう機会が巡ってきたときは、そのチャンスを逃すようなことはしなかったと言われている。これは一般の人の人間関係にも通じる話である。たとえ相手が格下の人間であっても、こちらの気持ち、欲求をのべつまくなく、相手に突き付けるような様なことは百害あって一利なしだ。相手は私の部下だ、格下だから当然こちらの意向や考えを無条件に飲んでくれるはずだ。受け入れてくれなければ承知しないという態度ではうまくいかない。権力や立場を利用して、相手を自由自在にコントロールしようとすることは、人間として慎まなければならないことだ。こういう場合、優先順位というものがある。これを間違えてはいけない。第一優先順位は、こちらの意向や要求に対する、相手の気持ちや考えを真剣に聞くということだ。相手が格下の場合、うっかりしていると、これがついおろそかになりやすい。もし自分の考えや気持ちを主張するのならその後にすることです。つまりこちらの方が第二優先順位になります。その場合、相手と自分の意向や考え方に隔たりがある場合どうするか。どちらでもよい場合は、相手に花を持たせる方がよい。本来は時には譲ったり、時には譲られたりの関係がよいと思われます。溝を埋めていく必要がある場合は、しんどいことですが、交渉や説得に向けて行動を開始しなければならない。妥協点を見つけるために双方が歩み寄る必要があるのだ。これを放棄すると人間関係は破壊されてしまいます。
2025.02.27
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帚木蓬生氏の著書の中に「ネガティブ・ケイパビリティ」があります。ネガティブというのは、否定的、消極的という意味です。ケイパビリティは、能力や才能という意味です。この本の副題は、「答えの出ない事態に耐える力」です。オックスフォード英語辞典によると、「分からない状態や不確かさを受け入れる能力」とあります。帚木蓬生氏がこの言葉に出会ったのは、九州大学医学部を卒業し、精神科医になって6年目の頃、治療の難しさに自信を失い始めた時期に、ハーヴァード大学の論文の中からこの言葉を発見された。この言葉に出会った時の衝撃は今日でも鮮明に覚えていると言われている。帚木蓬生氏は次のような治療体験を語っておられます。患者Aの場合、血液系の癌を宣告されている。内科医から抗がん剤の投与を受けている。このところ著名に進行はない。しかし、せいぜい数年の命らしい。日常生活においても、死の恐怖について来院のたびに訴えられている。帚木蓬生氏は、「免疫力を高めるために、元気に満ちた明るい毎日を送りましょう」と、患者さんを慰めるくらいしかできない。このような身の上相談のような患者さんは多い。手のつけどころの内悩みが多く含まれている。主治医としての私は、この宙ぶらりんの状態をそのまま保持し、間に合わせの解決で帳尻を合わせず、じっと耐えていくしかありません。耐える時、これこそがネガティブ・ケイパビリティだと、自分に言い聞かせます。すると耐える力が増すのです。ネガティブ・ケイパビリティを知っていなければ、私とっくの昔に患者さんから逃げ出していたでしょう。答えが見つからない問題は身近にたくさん存在しています。原因や対策が見つからない精神的に不安定な状態に置かれるのは居心地のよいものではありません。帚木蓬生氏は、内面で模索や葛藤を続けることは、あきらめや思考停止、問題から目を背けることではなく、むしろ熟慮のプロセスに通じるものがあると言われている。分からない問題に対して、うわべだけを見て判断して、多くの労力や資金を投入して、すべてが裏目に出る事はよくあります。その時点で後悔してもあとの祭りです。上智大学の佐藤卓己教授は著書「あいまいさに耐える」の中で、真偽の定かでない情報に接したときに、すぐに反応せずやり過ごす忍耐力のことを「ネガティブ・リテラシー」と呼んでいる。(朝日新聞 2025年1月6日社説)森田先生は森田全集第5巻(764ページ)で次のように説明されている。我々は何かにつけて、疑問と不安は絶えず出没して、一つ一つこれを解決して、しかる後初めて安心する事のできるものではない。ただ我々は疑問は疑問として、これが解決の時節を待つよりほかにしかたがなく、日常の生活は周囲の刺激から、次から次へと目まぐるしく引きまわされて、不安も不安のままに、いつまでも執着していられるものでもなし。すぐに解決することが難しいものは、後ろ髪を引かれるような心理状態になるでしょうが、懸案事項として積み残し、次の不安や心配ごとに飛び乗っていかなければならないと言われています。これは「無所住心」の学習の中で出てきます。
2025.02.26
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相澤樹氏のお話です。新社会人なったけれど、体調を崩しがちであったり、疲労が溜まりやすくなかなか元気が出てこなかったりする人の様子を見ていると、およそ生活習慣の変化に伴い、身体が対応できていないことで起こっていることが多いことが分かります。具体的に言うと、朝早く起きるという習慣が身についていないことで苦労しているということです。学生時代に夜遅くまで遊んでしまい、起床時間も基本的には遅く、余裕のない朝を過ごしている生活を長年続けていては、当然、毎朝6時、7時という決まった時間に起きるということを習慣にするにはある程度の我慢が必要になるでしょう。これはもう強い気持ちを持って身体を慣らしていくしかないのですが、例えば休日だからと少し遅くまで寝ていようとすると、やはり習慣が崩れ、翌朝がとても辛くなるという経験をされた方も多いのではないでしょうか。(あと伸びする子はこんな家で育つ 高濱正伸 相澤樹 大和書房 109ページ)早起きのメリットはほとんどの人が認めていると思います。しかし毎日同じ時間に起床するというのは、簡単なようですが大変難しい。では早起きの習慣をどのようにして身に着けるのか。それは朝起きてすぐやることを習慣化すればよいと思います。私の場合は朝6時20分に目覚ましをセットしておきます。起きると布団を片づけて、パソコンのスイッチを入れます。概ね8時までの時間は、本日アップした原稿の手直しと新たな原稿を1本作ります。これは13年前から毎日同じことを繰り返しています。規則正しい生活習慣作りはここにかかっていると思っております。毎日のルーティンワークに沿って生活が流れていくと、内向きから外向きになって症状と格闘することは少なくなります。生活に緊張感が出てくると風邪を引くこともなくなります。
2025.02.25
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鎌田實医師のお話です。僕が看取った患者さんにスキルス胃がんに罹った余命3か月の42歳の女性がいました。その女性がせめて子どもの卒業式までは生きたいというのです。9月のことでした。当初は12月くらいまでしか生きられないと思っていました。ところが奇跡が起きたのです。春まで生きて卒業式に出席できた。さらに不思議なことが起きました。彼女には年子の二人の子どもさんがいました。彼女はその後1年8ヶ月も生きて、二人目の子どもの卒業式を見てあげることができました。その後1ヶ月ほどして旅立ちました。僕たち医師は、子どものために生きたいと言っている、彼女の気持ちを大事にしたいと思い、彼女の体調が少しよくなると外出許可を出していました。「母は家に帰ってくる度に、私たちに弁当を作ってくれました」と娘さんは言いました。彼女が最後の最後に家に帰ったとき、立ち上がることもできなかったのですが、ところがその日彼女は台所に立ちました。立ち上がることができない彼女が最後の力を振り絞ってお弁当を作るんですよ。「お母さんが最後に作ってくれたお弁当はおむすびでした。そのおむすびを持って、学校に行きました。久しぶりのお弁当が嬉しくて、嬉しくて、昼の時間になって、お弁当を広げて食べようと思ったら、切なくて、切なくてなかなか手に取ることができませんでした。お母さんの人生は40年ちょっと、とても短い命でした。でも、命は長さじゃないですね。お母さんはお母さんなりに精いっぱい、必死に生きて、大切なことを子どもたちにちゃんとバトンタッチした。人間は「誰かのために」と想った時に、希望が生まれてくるし、その希望を持つことによって免疫力が高まり、生きる力が湧いてくるのではないかと思います。(1日1話、読めば心が熱くなる365人の仕事の教科書 藤尾秀昭監修 致知出版社 109ページ)この話から目標を持って生きることはとても意味のあることだと思います。私は短期目標、中期目標、長期目標を持っています。短期目標は、毎日やる事と一週間の間でやることです。カレンダーが大活躍です。中期目標は、1年間の目標です。野菜作りや加工食品つくり。家族のイベント。生活の発見会活動など。長期目標は、生涯目標です。これは、このブログを続けることと、認知症にならずに、自分の足で歩いて100歳まで生きることです。
2025.02.24
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従順について、森田先生の言葉です。従順とは、自分では訳の分からぬまま、信ずる人のいう事を、試みに実行する事であります。自分に理由が納得され、なるほどそれに相違ないとわかって、後にする事は、従順とは申さないのであります。(森田全集 第5巻 77ページ)親や長上のいう事は、あるいは自分と意見が違い、あるいは疑わしく、あるいは癪にさわる事があっても、それはそれとして、まずさしあたり仮にその意見に従う、というのが僕のいわゆる従順であって、実行上、決して困難な事ではありません。しかし、これも親や長上のいう事は、常に必ずごもっともで有難いと感じなければ、従順といえないとかいうことになれば、それは我々には不可能の事であります。(同 556ページ)大西君は、自分で「できるはずはない」と独断し、「我」を張って私の診断を試してみようとしない。これを強情というのである。これに反して、水谷君は、万能の神のように、全く「我」捨てて、いたずらに「そうであるべし」と決めてしまうから、その実行には、「我」のかけひきがなくて、馬車馬のように突進する事になる。これを盲従という。従順のような適応性の働きは出てこないのである。(同 267ページ)従順な人は素直な人と言い換えることもできます。素直な人は先輩、上司、師匠、先生の教えに対して、自分と意見が違い、あるいは疑わしく、あるいは癪にさわる事があっても、それはそれとして、まずさしあたり仮に先輩たちの指導に従うことができる。本人は心の中で様々な葛藤を抱えていたにしても、直接反抗的な態度に出ないで、ためしに先輩、上司、師匠、先生がいう事を実行してみようと思っている。こうなると、先輩、上司、師匠、先生も弟子をかわいがり指導に熱が入る。三味線でも、シンクロナイズドスイミングでも素直な人が伸びてくるという。強情な人や盲従してしまう人は、残念ながらとり残されてしまう。武道や習い事には型というものがあります。先輩、上司、師匠、先生たちは、苦労の末にその型を身に着けている人と思った方がよい。その型を身につけるためには謙虚で従順であることが必須となります。これは森田でも一緒です。森田理論を深耕し、実際に生活に応用・活用している人に柔順・素直な態度で接し教えてもらうことができれば、神経質者としての人生観を確立することができます。
2025.02.23
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長崎県立国見高等学校サッカー部監督の小嶺忠敏氏のお話です。うちの地方では麦踏というのがあるんですよ。麦は少し背丈が伸びたら踏み倒す。1週間くらい経って、また伸びてきたら、また踏み倒す。それを3回くらい繰り返すんですよ。小さい頃、私はそれが不思議でならなかった。ある日、母に「どうして何度も麦を踏み倒すの」と聞いたら、「踏まれた麦は上を向いてスクスク育っていくが、踏まれていない麦は冬に霜や雨が降るとしおれてしまって、作物にならない」と。続けて「人間も同じだよ。小さい頃や若い頃に苦労して、踏まれて、踏まれて大きくなった人間が将来大物になるんだぞ」と教えられました。(1日1話、読めば心が熱くなる365人の仕事の教科書 藤尾秀昭監修 致知出版社 222ページ)過去に投稿した記事にこんなのがありました。小さい頃から運動神経抜群。大きな病気とも無縁。成績優秀で常にトップを走り続け、一度も挫折することなく、有名大学に入学し、卒業後は一流会社に就職した。ところが30代でがんが見つかり、もう手の施しようがないと言われた。それまでは順風満帆で誰もが羨むような生活を送ってきたのですが、人生はじめての挫折がまもなくこの世からいなくなってしまうという現実だったのです。頭が真っ白になって何も考えることができなくなりました。伊丹仁朗先生の生きがい療法の中に、ガンになったら自分が自分の主治医のつもりで取り組むというのがありますが、挫折体験不足の人はおろおろするばかりで意気消沈するばかりです。その結果益々寿命を縮めてしまいます。私は集談会で、人間は3000回のミスや失敗、挫折体験を積み重ねて大人に成長していくのだと聞きました。失敗して辛い思いをすることや気がすすまない場面から絶えず逃げ回っていると、挫折体験が抜け落ちてしまいます。相手とけんかになることを恐れて、友達と距離を置いて一人遊びをしていると、人間関係を良好に保つノウハウを身につけることはできません。異性を避けて、同性の人とばかり交流していると、恋愛もできなくなってしまいます。我慢する力、耐える力、挫折を突破して努力精進する力も身につけることができなくなります。ミスや失敗、挫折体験はその時は注射針を刺されるような痛みがありますが、人間が必ず通過しなければならない関所のようなものです。ミスや失敗、挫折体験を日記に書いて、今後の反省材料として活かしていくことが大事になります。私は遅ればせながら、30代後半から生活の発見会活動の中でいろんな体験をさせてもらいました。これがミスや失敗、挫折体験を増やすことに役立ちました。集談会の運営、一泊学習会の企画実施、瀬戸内支部行事の企画実施、心の健康セミナーの企画実施などです。ここで経験したことは会社の中での業務にも活かすことができました。今まで挫折体験がなかったという人は、積極的に生活の発見会活動の中で世話活動に取り組むことを強くお勧めいたします。それ以外にも、趣味の会や町内会などの世話活動をすることです。人の為にすることはなかなか長続きがしませんが、世話活動の中でいかにみんなに喜んでもらうか、いかに感動を与えるかを目標とするとやる気が出てきます。
2025.02.22
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山本康博氏の「発想力を鍛える」ためのお話です。1、周りが常識と考えていることが、果たして本当なのだろうかと、疑ってかかると発想力は鍛えられます。これは、心の中に気になることがあって、それを解決すべき課題と捉える人の特徴です。今までうまくいっているのだから特に問題視する必要はないとスル―してしまうような人は発想力が豊かであるとは言えません。神経質者は普通の人以上に細かいことが不安になるわけですから、これをプラスの特徴としてとらえ、問題点を潰していくようにすればよいのです。2、周囲の行動や変化に対して注意深く観察することです。これに関連して常に自分の目と耳を使うことが大切です。あらゆることに興味を持って体感することで発想力が磨かれていくのです。 ところが最近はあらゆる情報を、インターネットから手に入れることができるようになったため、情報に触れただけで満足してしまう人が増えてきました。しかし、人の手を介した情報をただ鵜呑みにしているようではいけません。これは森田でよく言われていることです。人の話やネットの話をそのまま鵜呑みにしてしまうのは問題です。先入観、思い込み、決めつけ、早合点も同様です。森田先生のように実際に現地に足を運び自分の目で確かめることが欠かせません。3、何事においても「できないと言わない、思わない」こと。壁は突破することに意義があるのです。もっとも、壁にぶち当たった時、すぐにそれを壊そうとする人もいますが、それだけが能ではありません。特に組織で働く人の場合、壁を全部壊そうとすると却って自分の首を絞めることにもなりかねません。時にはその壁をよじ登ったり、下から掘ってみたりと、要は壁の向こう側にたどり着けばよいのです。私は自分自身に「急がば回れ」と言い聞かせてきましたが、そうやって必死に「あきらめない力」を鍛えていたのかもしれません。森田理論は神経症的な不安は裏に生の欲望があるから発生するものだと言われています。対応策としては神経症と格闘することをやめて、生の欲望の発揮に邁進していけばよいのです。4、そして、発想力を語る上で何よりも大事なことが「人を喜ばせたい」という、シンプルな気持ちを忘れないことです。お客様が求めている最低限のサーピスを提供しようと考えている限り、お客様からの支持は得られません。もう一歩踏み込んだ目標を目指すことで、お客様に感動を与え、リピート客が増えてきます。森田では仕事をするとき、最低限のノルマを果たすだけでなく、プラスアルファを付け加えて、お客様に感動を届けたいという目標を持って取り組むとよいと聞きました。(1日1話、読めば心が熱くなる365人の仕事の教科書 藤尾秀昭監修 致知出版社 250ページ参照)
2025.02.21
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森田先生は「無所住心」について次のように説明されている。周囲の全てに気がついて、しかも何事にも心が固着しないで、水が流れるが如く心が自由自在に流転・適応していく有様です。(森田全集 第5巻 581ページ)注意や意識を一点に集中させるのは問題だと言われています。神経症に陥るのは、自分の気になる一つの不安だけを問題視して格闘してしまうからです。天気の良い日に新聞紙に虫眼鏡で太陽の光を一点に集めると、焦点が合えばすぐに新聞紙は燃えてしまいます。これと同じです。大変危険です。神経症が固着して精神的、実生活の悪循環が始まると、自力では乗り越えることは大変難しくなります。我々の心が最も働くときは「無所住心」といって、心が四方に働いて、昆虫の触角がピリピリしているときのように、ハラハラしているときである。(第5巻 328ページ)注意や意識を一点に集中させるよりも、「これも気になる、あれも気になる」というように、精神を絶えず四方八方に分散して、緊張状態にあるのが好ましいということになります。小さな不安や心配事をたくさん抱えている状態がよいということになります。この時の精神状態は「ハラハラドキドキ」だと言われています。「ハラハラドキドキ」の逆は、精神が弛緩状態に陥ることです。暇を持て余し、ゆったりして放心状態というのは問題です。注意や意識が内向化してきます。意欲が減退しうつ状態となります。「無所住心」実践するためには、もう一つ肝心なことがあると言われています。たくさんある不安や心配事の間を、水が流れるが如く心が自由自在に流転・適応することです。不安や心配事の間を絶えず移動させることです。森田先生が講話をするとき、精神が集中するとはどういうことか。①自分の挙手動作に注意する。つまずいたり、コップをひっくり返したりしないように注意するのである。②皆さんの状況、周囲の変化、すなわちある人が聞きたそうな顔をしているとか、後ろから出入りする人、戸外の自動車の響きなどにも、よくこれを感じ分ける。③自分の話の筋道を工夫する。(森田全集 第5巻 580ページ)森田先生は、いろんなことにいったんはとらわれるが、確認が終わると、すぐに次の気になることに注意や意志が移動しています。自動車を運転している時は、誰でも絶えず「ハラハラドキドキ」しています。事故を起こさないように注意を前後左右・四方八方に向けて、「無所住心」の心境にあります。たとえば大きな交差点で右折する時はウィンカーを出して一旦停止します。そして対向車が来ていないか確認します。それだけでは危険です。交差点を横断しようとしている自転車や歩行者がいないかどうかも確認します。確認しないで右折を開始すると事故につながります。危ないと思って車を停止させると、対向車と接触する事にもなります。普段の生活も車の運転時のような態度になればよいということです。普段の生活では、人前で話をする。仕事でトラブルが発生した。楽器演奏をする。勝敗をかけて相手と戦う。飛行機に乗る。人前で一人一芸を披露する。これらに取り組むと簡単に「ハラハラドキドキ」の体験ができます。森田先生は、絶えず自分の心身の状態ばかりを見つめていると「無所住心」にはなれないと言われています。神経質者は自己内省力が強いという特徴があります。これは心の内向化のことです。心の絶えず内向化させている人は、「無所住心」にはなれません。心を外向化させることが大事になります。物事本位の生活に切り替えことです。これは規則正しい生活を心がけることで可能になります。ルーティンワークを確立して考えなくても、自然に身体が動いてくる。すると誰でも物事本位の生活に変化してきます。態勢が整ったところで、「無所住心」の態度を身に着けていきましょう。
2025.02.20
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森田ではものを見るときものそのものになりきって見ることが肝心だと言われています。心ここにあらず、うわの空で見つめていても、注意や意識は不安や症状にあるわけですから見たことにはなりません。他のことを考えながら、施錠すると、締めたのかどうか分からなくなります。また、人のうわさ話をそのまま信じてしまったり、ネットのフェイクニュースを鵜呑みにしてしまうと情報操作に巻き込まれてしまいます。過去の経験に基づいて、こうであるに違いないと決めつけてしまうことも間違いが多くなります。先入観、思い込み、早合点も間違いが多く収拾がつかなくなります。これらが「見つめる」ときのチェックポイントです。この他、人間は自分の心の動きを見つめることができます。自分の心を見つめるときのチェックポイントはどんなものがあるでしょうか。①感情は自然現象で人間の意思の自由はないといいます。それなのに、不安や症状が出てくると、目の敵にして取り除こうとしたり、逃げ回ったりします。感情の取り扱い方に問題があるように思います。まず現実的な不安に対しては、きちんと対応して不安をなくする必要があります。神経症で苦しむのは、不安の裏に生の欲望があるからだと学びました。神経症的な不安に対しては、あるがままに受け入れて、生の欲望の発揮に注力することが理にかなっています。②面倒、しんどい、無駄になるのが目に見えている、能力的に無理だ、意欲が出てこないなどと言う気分に振り回されて実践や行動力が鈍る場合があります。これらは主観的事実で否定されるものではありませんが、主観的事実に対して客観的事実もあります。仕事をさぼりたくなっても、せっかく雇用してくれた会社に対して責任と義務を果たす必要があります。その他子どもができた人は、子どもを育て、自立させる責任があります。社会の一員として、法律を守り、納税の義務を果たす責任もあります。気分に振り回されないためには、主観的事実よりも客観的事実に基づいて行動することを忘れないようにしたいものです。③森田の中に「純な心」というのがあります。これは事件や出来事に接して、最初に湧きあがった素直な感情と言われています。別の言葉で言えば初一念のことです。ところが初一念は、すぐに言い訳や「かくあるべし」などの初二念、初三念に置き換わってしまいます。これが葛藤や苦悩を生み出しているのです。初二念、初三念に置き換わった時に、「これはまずいいぞ」と初一念に立ち戻ればよいのです。せっかく森田理論を学習したのですから、応用・活用しないと宝の持ち腐れになります。④「かくあるべし」という観念主導で、現実、現状、事実を否定してしまう場合があります。他人否定ばかりではなく、自己否定で苦しむことにもなります。この場合は、一旦自分を突き放して、客観的立場から分析することです。このことを森田では自覚を深めるといいます。その際是非善悪の価値判断をしないことが肝心です。自覚を深めるだけで時間の経過とともに葛藤や苦悩は流れていきます。湧きあがってきた感情を客観化する方法は、2月14に「アナウンサーになりきって実況中継すること」が有効であるという投稿をしました。
2025.02.19
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4人の子どもをすべて東大理Ⅲに合格させたお母さんのお話です。「3歳までに1万冊の絵本を読み聞かせると、言葉の能力と感性が育つ」と聞いて、即実行しました。「3年間で1万冊」というと驚く人がいますが、計算すると1日に10冊ですからたいした量ではありません。やはり1万という数字に意味があります。弁護士の夫に聞くと「司法試験も1万時間勉強すると合格する」ということですし、バイオリンのレッスンでは同じ曲を1万回繰り返すと響きが違ってくるとも聞きました。わが家ではリビングにテレビがないので、子どもたちがいる場所に、絵本を10冊積んでおいて毎日読みました。1万冊はのべの冊数で、繰り返し読んだ本も含めての冊数です。4人まとめて読み聞かせた本もあるので、私が読んだのは15000~16000回になるでしょうか。私が中学1年生のとき、バイオリンの英才教育で有名な「スズキ・メソッド」のことを知りました。鈴木先生は、誰でもバイオリンが上手に弾け、感情が豊かに育つ独自の教育メソッドを日本中に広められました。「才能は生まれつきではない」「どの子も育つ、育て方ひとつ」などの言葉に私は感動しました。長男が3歳になった時には教室に入り、4人の子どもたちも次々にバイオリンを習い始めました。ススキ・メソッドは母親も一緒に習うことを推奨していますので私もレッスンを始めました。発表会には私も出ました。発表会のドキドキ感、毎日レッスンする大変さなど、習い事をする子供の気持ちがわかりました。大人は子どもに「勉強しなさい」「練習しなさい」と言うばかりですが、言われて実際にする側はなかなかやる気が起きないときもあります。その気持ちが実感できたのが収穫でした。習い事も勉強も、慣れるまでは時間がかかります。すぐにできなくても焦らずに様子を見たらよいと思います。学習習慣をつける上での困難は子どもにあるのではなく、むしろ親の側にあります。家事や子育てで多忙な中、「子どもの勉強時間」という新しい項目をたとえ短時間でも自分の1日の生活の中に組み込むのが難しいのです。そのためには「充分にできない期間=「モラトリアム期間」をお母さんのために設けて焦らないことです。その間、できる範囲でプリントをやっていると、半年から1年くらいしたあたりからペースがつかめてきました。どんな勉強も習慣づけるのは次のようなステップが必要と分かりました。ステップ①・・・「やれなくてもいい」割り切って週に1日でもできたら合格と思う。ステップ②・・・親子とも疲れていない余裕のある時間を見つけて、その時間だけ学習する。ステップ③・・・母がペースをつかめるようになる。毎日決まった量をすることができるようになる。ペースがつかめると早く進むようになり、親子ともどもやる気が湧いてくる。私もそうだったのですが、ステップ①から③までは約1年かかると思って焦らずあきらめないで取り組んでみて下さい。(灘から東大理Ⅲ3兄弟の母が教える中学受験勉強法 佐藤亮子 KADOKAWA)この話は森田に通じるとても役に立ちます。その中でも、森田では規則正しい生活習慣を作り上げることが大きな目標になっています。そのためには3か月間かかると思っていましたが、佐藤さんの話を聞くとそんなに急がなくてもよいのだ思えてきました。
2025.02.18
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気がすすまないことから逃避するメリットは一瞬だけです。その後は暇を持て余し、後悔し自己嫌悪に陥ります。ではどんなデメリットがあるのでしょうか。・失敗することを怖れて回避していると、成功のための貴重な経験を積み重ねることができなくなります。失敗を積み重ねた人は、成功するためのコツをたくさん蓄積していきます。特に幼児期や子どもの頃にさまざまな失敗体験をしておくことが大事になります。我慢する。困難に耐えて目標に挑戦する力がついてきます。やりたくないことから逃げ回っていると、これらを身に着けることができなくなります。・逃げ回っていると、あとで後悔で苦しむことになります。「あの時やりたくないことにも挑戦しておけばよかった」と思ってもあとの祭りです。さらに「自分は何もできない」と自己嫌悪、自己否定で苦しむようになります。これが大きなストレスとなります。ストレスが蓄積すると心身に悪影響を及ぼすことになります。やりたくないことから逃げていると、問題を先送りすることになります。事態がよくなるどころか、取り返しがつかなくなるほど悪化することもあります。・人間関係に悪影響を及ぼす可能性があります。相手と良好な人間関係を築いていくためには、辛いことや腹立たしいことがあっても、笑顔で挨拶していくことが大切です。また、相手との信頼関係を築くためには、相手との約束を果たす必要があります。時には自分の気持ちを抑えたり、相手に合わせる必要があります。チームで目標を達成するためには、メンバーと協力し、それぞれの役割を果す必要があります。・会社や組織に属している人は、責任と義務を果たす必要があります。気がすすまないことはしないという態度では、責任をもって業務を遂行することができなくなってしまいます。さぼっていると、いずれ会社から放り出されてしまいます。次に親となった人は、子どもを育てて自立させる責任と義務があります。子育てを放棄してしまうと子どもは右往左往して自立できなくなります。大人になったとき、親を憎むことになります。社会人として、法律を守り、税金を支払い、社会貢献していくことは国民の義務です。気が向かないことを避けるという態度では、社会のお荷物人間になります。・気がすすまないことを回避していると、良い生活習慣を身につけることができなくなります。健康管理、お金の管理、財産管理、時間管理をしなくなると、後々大きな問題が出てきます。変化への対応が遅れて、とり残されてしまいます。変化に取り残されてしまうと、生命の危険にさらされてしまいます。このように気がすすまないことを回避するという態度ではさまざまな弊害が待ち構えています。気がすすまないことに手を出すというのは、最初は注射針を差し込まれるような痛みがあります。しかしその後の経過を考えると、最初の痛みをぐっと我慢して耐えると、次に明るい展開が待っていることに思いをはせることが大事になります。森田先生は富士山の強力の話をされています。普段は農作業をしている人たちが、登山の時期に入ると強力をしている。最初の2,3日は足が痛くて便所で膝を曲げることもできなくなります。ここをぐっと我慢して仕事を続けていると、やがて慣れてきて痛みが和らぎ、シーズを通して仕事を続けることができるようになります。(森田全集第5巻 566ページ)
2025.02.17
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森田先生はただ現実を見つめさえすればよいと言われています。しかし不安や症状にとらわれているときは、心ここにあらず状態で、見ているようで見ていないことが起きます。先日も某君に、ある花を枯らさぬように頼んだところが、その人は一生懸命に、従順のつもりで朝夕に水をやっている。花は咲き終わり、その茎は藁のようになっても、まだ気がつかないでいる。見つめるという言葉にとらわれて、その周囲のものが見えない。枯れるものと枯れないものとの草花の区別なども、少しも気がつかないのである。(森田全集5巻 231ページ)神経症で苦しんでいるときにありがちなことです。不安や症状、他のことを考えながら見つめていると、表面的には見ているのですが、実際には見ていないのと同じことです。心がものごとに向いていない。心はひたすら症状や不安を見つめているのです。この状態では、気づきや発見、興味や関心が生まれることはありません。気づきや発見、興味や関心が生まれると、積極的、生産的、建設的、創造的な行動へと向かいますが、心ここにあらず状態で不安や症状を見つめていると、ますます悪化の一途をたどります。見つめるときは、ものそのものになりきって対象物を見ることが大切になります。しかし神経症で苦しんでいる人に、自分の心を見つめないで、目の前の物を見つめなさいと言っても無理な相談です。ではどうすればよいのか。そのよい方法が生活の発見誌2025年2月号の体験談に紹介されていましたのでご紹介します。この方はお医者さんのアドバイスに従って、規則正しい生活に切り替えていったそうです。毎日決まった時間に起きて、規則正しいスケジュールで過ごすことにした。毎日のルーティンをつくって意識(心)よりも、体(行動)を主体とした生活に入っていった。本人曰く。症状があるから気分は最悪のままでした。好きでもなく興味もない家事や散歩をしたからって心が平穏になるわけじゃないし、この生活になんの価値があるのだろうと考えていた。いやいや仕方なしの取り組みでしたが、2ヶ月くらい経つと、木が芽吹くように少しずつですが、お医者様の言うとおり、ちゃんと症状は落ち着いてきました。私もここ10年以上毎日6時20分に起床する生活を続けています。起床後はルーティンに沿って淡々と行動しています。規則正しい生活習慣は3か月で身につくと言うのが私の実感です。すると不安や症状のとらわれが少しずつ軽減されました。やっと内向一辺倒の心が、少しだけ外向きになり、目の前のものごとを見つめられるようになったのです。そして次にルーティン作業をするときに、気づきや発見、興味や関心、改善点や改良点がないかという気持ちを持つようにしました。すると課題や目標が芋づる式のように出てきました。それをすぐにメモして宝物として行動に結びつけました。このようにして不安や症状はありながらも、何とか充実した生活を取り戻すことができたのです。規則正しい生活が症状克服とどんな因果関係があるのだと反発する人は多いのですが、論より証拠実際に取り組んでみることをお勧めしたいです。
2025.02.16
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柔道オリンピック日本代表の古賀稔彦氏のお話です。金メタルが期待された1988年ソウルオリンピックでは3回戦敗退でした。日本に帰国すると誹謗中傷の嵐でした。「古賀は世界で通用しない「あいつの柔道はもう終わった」などと言われました。なぜそんなことを言われなければいけないのかとただ憤慨するばかりでした。そして気づけば、私の周りからは潮が引くように誰もいなくなったのです。人間なんて誰も信用できない。この時、私は人間不信になってもおかしくないくらいに激しく気持ちが落ち込み、とにかく人目につくのが怖くて自分の部屋に閉じこもりました。そんなある日のこと、テレビでオリンピックの総集編を見ていました。私の3回戦敗退の試合も映し出されました。敗退後観客席で応援していた両親が、おもむろに立ち上がり試合会場を背にすると、日本から応援に駆けつけてくれていた人たちに向かって、私の代わりに深々と頭を下げていました。両親の姿に私は大きなショックを受けました。そして、今の自分が無性に恥ずかしく思えてきたのです。それまでは、「おれが練習して、おれが強くなって、おれがオリンピックに行って、おれが負けて、おれが一番悔しいんだ」と思っていました。両親の姿を見ているうちに、闘っていたのは自分一人ではなかったことに気づかせてもらったのです。すると驚いたことに次々と私をサポート、応援してくれた人たちの顔が浮かんできました。例えばオリンピックに向けて練習相手になってくれた仲間がいました。彼らは試合に出られないのに、私のために何度も受け身を取ってくれました。しかし、当時の自分はそれが当たり前のこととしか受けとめられませんでした。また、たくさんの方からの声援や心のこもったお手紙を何通も頂戴しましたが、応援されることが当たり前と思える自分がいました。ところがこうして少しずつ周りが見えてきたことで、自分の後にはこんなにたくさんの人たちが一緒に闘ってくれている、だから安心して闘っていいのだと思えるようになったのです。次のバルセロナ五輪では自分をサポート、応援してくれた人たちにも絶対喜んでもらいたいと気持ちを切り替えることができたのです。(1日1話、読めば心が熱くなる365人の生き方の教科書 藤尾秀昭監修 致知出版社 191ページ)感謝の反対語は、当たり前だと聞きました。今の恵まれた境遇は当たり前だと思っている人は感謝の気持ちは持てません。感謝の気持ちを忘れてしまうと、驕りが生まれてきます。驕りの気持ちを持っている人は、自己否定、他人否定をするようになります。人からなんでもしてもらうことが当たり前、支払った税金以上のサービスを国や社会から受け取るのは当たり前と思ってしまうようになると危険です。当たり前が当たり前なくなったときにパニックになるのは、普段から感謝の気持ちを持てなかった人です。そしてしばしば再起不能に陥ります。当たり前は多くの人の支援があって成り立っているという認識を持っておく必要があります。また、当たり前に胡坐をかいて、感謝の気持ちが薄れてくると、すぐに当たり前は当たり前ではなくなってしまいます。当たり前でなくなった時に感謝してもあとの祭りです。「ありがとうございます」「おかげさま」「助かりました」という言葉は魔法の言葉です。普段から感謝する習慣を作り上げることが大切になります。このことを森田理論では「外相ととのえば内相自ずから熟す」といいます。
2025.02.15
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諸富祥彦氏は「人生を半分あきらめて生きる」(幻冬舎新書)という本の中で、「脱同一化」について説明されている。これは一言でいえば、自分を否定する気持ちをただそのまま、認めて、眺めるということだそうだ。この方法は、元々、仏教の瞑想法、特にベトナム禅のマインドフルネス瞑想から生まれたものだといわれている。自分の中から生まれてくるすべての想念に対して、それがどんなものであれ、すべて「ただ、そのまま、認めて、眺める」姿勢を持ち続けることで、どんなにつらく激しい気持ちであれ、それは自分とイコールではなく、自分の一部でしかないことを自覚的に体得していく方法です。たとえば、「こんな私じゃ、だめ」「こんな私は、嫌い」という思いが湧いてきたら、「そうなんだね。わかったよ」とただそのまま、認めて、眺める。そう言われて、「こんな嫌な自分のことを認めるなんて、できない」という気持ちが湧いてきたら、その気持ちも、「そうなんだね。わかったよ」と、ただそのまま認めて眺める。こうやって、どんな自分が出てきても、「ただそのまま、認めて、眺める」のをたびたびひたすら繰返していると、このような落ち込む気持ちと、それを眺めている自分とは別であること(脱同一化)、それを眺めている自分こそ自分であり、落ち込んだ気持ちはどれほど強烈であれ、それは自分のごく一部にすぎないことがジワーッと自覚されてきます。すると、自分の気持ちと自分自身の間に自ずと「距離」(空間・スペース)が生まれてくるのです。中学生の頃、教室の中で財布がなくなったと言って大騒ぎした同級生がいた。みんなその生徒の近くに集り、どこに置いていたのか、いつなくなったのか、いくらぐらい入っていたのかなどと騒ぎ立てていた。私はその時、みんなから離れひとりでいた。その時考えていた事は、自分は盗んではいないけれども、自分が疑われるようなことがあってはいけないと思った。それでおどおどして、いたたまれずトイレに行ったことがあった。挙動不審な私を見て、教室の中では、 「ひょっとしたらあいつが盗んだのかもしれない」と噂話をしていたということであった。ひょっとしたら自分が疑われているかもしれないと言う不安は誰でも感じることではないかと思う。その不安に一旦とらわれると精神交互作用でどんどんと深みにはまってしまう。自分を守ろうとすればするほど、態度がぎこちなくなり、周りの人からは他にそれらしい人がいないとなると、消去法でどうもあいつが怪しいと思われてしまう。損な性格である。自分に嫌疑がかからないようにしているにもかかわらず、自分の思いと反対の結果になるのである。そんな時によい方法があります。今の自分の感情をアナウンサーのように実況中継するのです。「今私は盗んだのではないかと疑われているかもしれないと、いたたまれない感情に覆われています。今しばらく嵐が通り過ぎるのを待っております。以上現場から中継しました。」この利点は、一つには自分に沸き起こってきた感情を意識的に客観的に見れるようになるのです。アナウンサーは事実を分かりやすく説明するだけで、是非善悪の価値判断はしていません。良い悪いなどという価値判断をすると、他人や自分を目の敵にして結局自分が苦しむことになります。「脱同一化」「客観化」で大事なところはここにあります。この部分は森田理論でいえば「自覚を深める」ということです。感情の取り扱いを間違わなければ、時間の経過とともに感情はどんどん流れていくようになっています。
2025.02.14
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元CA(キャビンアテンダント)の里岡美津奈さんのお話です。入社9年目、皇室の方々や国賓クラスのお客様だけを接遇するCAに選抜されました。他のCAと較べて美しいわけでもなく、出身校がいいわけでもないのにどうして私が選抜されたのか自分ではよく分かりませんでした。確信が持てなかったので、選抜理由を上司に聞きに行きました。上司ははっきりしたことは言ってくれませんでしたが、私は上司の話の中ですごいことに気づきました。上司の言葉の中に同じ単語がついていたんですね、「いつも」っていう。いつも笑顔で、いつも身だしなみが整っている。これは点数が読める人なんだろうなと思ったんです。調子がいいときは120点のパフォーマンスが出せるけど、調子が悪いときは50点しか出せないというムラッ気のある人と、調子の波がなくどんな時でも80点を出せる人。自分が経営者だったら、どっちを天皇陛下の担当につけますかと。やっぱり点数の読める人、安定感のある人ですよね。私は上司の言葉をきっかけに、そこが自分の強みなんだと気づくことができ、以来、「いつも」ということを意識して継続するようになったんです。特に心掛けてきたことは3つあって、「いつも笑顔でいる」「いつも身嗜みを整えておく」、そしてもう一つは、「いつも相手の期待のもう少し上を目指す」この3つをモットーに、周囲から里岡さんに頼んでよかったと思われる仕事を目指していきました。(1日1話、読めば心が熱くなる365人の生き方の教科書 藤尾秀昭監修 致知出版社 95ページ)この3つは良好な人間関係を築くコツではないでしょうか。1、いつも笑顔で挨拶を心がける。2、いつも服装や身嗜みを整えておく。3、いつも相手の期待値プラスアルファを心がける。森田理論の「行動の原則」に感情と行動は別物として取り扱うというのがあります。気分と行動も別物として取り扱うという話も聞きました。マイナスの感情やネガティブな気分に振り回されてしまうと、相手に対して「いつも」安心・快適な好印象を与えることは難しくなります。
2025.02.13
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最近ある町内会から依頼があり新年互例会の余興に行ってきました。時間は40分間ほど。来場者は約50人ほどでした。まず「笑点のテーマ曲」でにぎやかに登場した。チンドン太鼓、アルトサックス2本、アコーディオン、ゴロスの面々だ。そのあと私がマジックと皿回しの芸を披露した。続いて本格的な「金色夜叉」の紙芝居。最後にチンドンのメンバーによる「竹と雀、千鳥、美しき天然、北国の春、上を向いて歩こう」の楽器演奏でした。いずれも大盛況でした。マジックでは2本の長い紐を1本にする。白い紐を赤いハンカチに変身させる。何もない袋の中からカラフルな短冊を次々に取り出す。赤と青のハンカチを一瞬のうちに黄色と緑のハンカチに変える。コップに一杯の牛乳を新聞紙で作った筒の中に注いでいく。新聞を広げて注いだ牛乳が消えてなくなっているというマジック。最後にプラスチックの色とりどりの皿4枚を1mほどの棒の上で回してみせる。仕掛け作りで苦労したのは、牛乳のマジックでした。これはyou tubeのユジックさんのマジックを真似たものだが、実際にやってみるとなかなかうまくいかなかった。何回も仕掛けを作って実験した。試行錯誤の末本番前日になってやっと上手にできるようになった。皿回しは1ヶ月間毎日40回の練習をノルマにして取り組んだ。最終的に皿回しは3つのコツがあることが分かった。95%くらいは成功するという確信が持てるようになった。アルトサックスの演奏では、練習回数をカウントしながら100回の練習を繰り返した。そのなかで多少不安が残る「笑点のテーマ」と「北国の春」は追加でさらに30回の練習をした。おかげで100%とはいかなかったが90%くらいの演奏ができた。これは2025年1月30日に投稿したスビートスケートの小平奈緒さんの話を参考にした。小平さんは徹底的に練習して100%に仕上げて、本番では80%の出来の自分にOKを出すというものでした。これを検証してみた結果、大きな効果があることが分かった。なにしろ金縛りにあったような緊張感がなくなるのです。これは大きな発見でした。今後の演奏活動に活かそうと思っています。ちなみにチンドン屋というのはこういう衣装でやっています。見ていた人から商売でやっているのかと聞かれましたが素人集団です。コロナ前は多いときで年間約20回くらいの依頼がありました。最近は年に10回あればよい方です。後列の真ん中が私です。
2025.02.12
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不定期にエッセイを送ってくださる方から、「笑い文字」の紹介がありました。初級コースは、筆ペンで「ありがとう」と書いて、「あ」と「う」に笑顔の絵を入れる。絵を描くためにその二文字は大きく書く。出来た作品を周りの人にプレゼントする。「笑い文字」は、「書いて半分、渡して完成」という考え方で取り組むそうです。初級コースが終わると中級講座があるそうです。ひらがなの仕上げは「ごちそうさま」で、その中の「ちうさま」に笑顔の絵を描く。そしてカタカナ、アルファベット、数字、ハングル語、漢字に進む。漢字は、四角形、三角形、コの字型の文字を見つけて、その部分に書く。興味が湧いてきてネットで調べてみた。一般社団法人笑い文字普及協会があることが分かった。その他、笑いに関しては、「日本笑い学会」がある。ここのホームページは笑いに関する情報が満載である。過去に笑いに関する書物は余すところなく紹介されている。また日本全国に笑いをふりまいている人達もすぐに検索できる。「日本笑いヨガ協会」もある。「笑み筋体操」もある。「日本笑おう癒し会」などという団体もある。面白いところでは「日本光頭学会」なるものもある。ハゲ頭に吸盤をつけて相手と引っ張り合いをする競技があるという。私は川柳やおもしろ小話の創作と収集に力を入れている。今日は受けの良かった川柳とおもしろ小話を紹介しよう。自己開示 懇親会で 全開放手術後に メスはあるかと 聞く患者渋滞で 前の車の 子をあやす朝寝して 宵寝するまで 昼寝する職人さんの娘でよく気がつく子がいる。タバコといえば、タバコと一緒に灰皿とライターを持ってくる。ある日、「週刊ポスト」と言うと、雑誌とハサミを持ってきた。「ハサミは何に使うんだ」と聞くと、「おとうさん、いつも袋とじをハサミで切っているでしょ」という。スケぺーなお父さんで穴があったら隠れたい。チャンチャン。
2025.02.11
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米作りは50回くらいは繰り返し経験できます。野菜作りは数限りなく経験することができます。ですからたとえ今回失敗してもその経験を反省して次に改善できます。しかし悲しいいかな人生は1回限りです。劣悪な環境に翻弄されてきた人生を恨んでもどうにもなりません。神経質性格を持って生まれ、神経症に陥ったとしてもどうすることもできません。外向的な人のように、良好な対人関係を築きたいと思ってもうまくいきません。子育てに失敗したからといってやり直しは効きません。自分の生まれてきた時代や国、親や境遇や運命を選ぶこともできません。人生は道がないジャングルをかき分けて生きていくようなものだと思います。どちらに行ったら生きのびることができるか、選択に迷うことばかりです。途中で命を落とすような危険な目に遭うことは常に付きまといます。人間は誰でも確信のもてない困難な目標に挑戦している生き物だと思います。ですから後悔することは日常茶飯事。罪悪感を感じることも多々発生します。たとえミスや失敗をしても自分を責める必要はありません。むしろ許容していたわる必要があります。そして歳を取ったら今までの人生を振り返ってみる作業が必要になると思います。こういう選択をすればよかった。こんな考え方をしていたのが間違っていた。こんな行動はとるべきではなかったというものが見つかったら、それを整理して若い人たちに伝えていく活動に取り組む必要があるのではないでしょうか。生活の発見会で森田理論の学習をしている人は、自分の体験を反面教師として他の人に提供することができます。これは大きな社会貢献をしていることになります。特に今現在様々な問題を抱えて苦しんでいる人にとってはとてもありがたいことです。私はこのブログで過去を振り返り、こうすればよかったのではないかということを記事にして発信しています。これが私の社会貢献であり、生きがいになっています。これは生涯に渡って続いていくものと思っています。おかげで人生を感謝の気持ちで締めくくることができそうです。
2025.02.10
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松下幸之助氏のお話です。人生は、昔からよく航海にたとえられます。果てしなく広く、刻々に変化する大海原を、目的地をめざしてひたすらに進む。その過程には、平穏で波静か、快適な日々もあれば、嵐で荒れ狂う大波に木の葉の如く翻弄される日々もある。ときには方向を見失い、さらには難破して漂流する場合も生じます。そうした姿は、確かにお互いの人生にも相通じているようです。大洋での航海には、大きな自然の力が常に働いています。風が吹けば波が立ち、波が立てば船は揺れます。それが自然の理法というもので、航海においては、この自然の理法にそむかずに従うということがきわめて大切です。もし、波があるにもかかわらず全く揺れないように保とうとするならば、そこには非常な無理が生じて、大変危険です。というより、そうした自然の理に反するようなことは、できることではありません。このことは、お互いの人生行路においても、同様に大切なのではないかと思います。それでは、人生の中で自然の理に従うとはどのようなことでしょうか。それは、とりたててむずかしいことではなく、雨が降れば傘をさす、そうすればぬれないですむ、というようないわば万人の常識、ごく平凡なことだと思います。(人生心得帖 松下幸之助 PHP研究所 6ページ)松下幸之助氏は自然に逆らってはならないと言われています。そのことを雨が降れば傘をさせばよいと言われています。そうすればびしょぬれになることはありません。航海をしているときに、レーダーで大きな雲の塊を見つければ、その中に敢えて突っ込まないで迂回すれば安全に航行することができます。これは我々が問題にしている不安な感情についても同様のことが言えます。森田ではこのことを「自然に服従して、境遇に柔順」といいます。森田先生曰く。ともかくも、もっとも大切な心がけは、素直な心、「自然に服従し境遇に柔順なる心」で、自分の自然の感情を、強いて反抗せず抑圧せずに、そのまま我慢忍受して、周囲の境遇・自分の分相応のことに柔順ということを忘れてはならないのであります。(森田全集第5巻 571ページ)
2025.02.09
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2023年WBC侍ジャパンのヘッドコーチ白井一幸氏のお話です。日本はこの大会で世界一を達成しました。白井コーチは目標と目的は違いがあると言われている。侍ジャパンの選手たちは、世界一という目標は明確だったものの、目的は曖昧だった。そもそも何のために野球をやっているのか、野球を通して何を成し遂げたいのかという目的を持っている選手は少ないですね。野球が好きでやっているくらいにしか思っていないので、目標ばかり追いかけているんです。そうするとホームラン王を取ったら終わり。次の目標がないからなかなかエネルギーが湧いてこない。ただ、例えば大谷翔平選手は違います。世界で最も愛され応援される選手になりたい。世界で最も影響力を与えられる選手になりたい。そういう目的が明確です。だから、彼はホームラン王になって目標を達成しても燃え尽きないんです。目的を追いかけている選手は終わりのないゴールを進んでいるので、伸び続けていくんですよ。(人間学を学ぶ月刊誌 致知 2025年3月号 10ページ)白井コーチは、野球選手の最終目的は、野球を通じて見ている人にいかに多くの感動を与えられるかどうかだと言われています。たとえば、平凡な内野ゴロでも全力疾走をする。守備では面倒でもこまめにバックアップに入る。それが感動を呼ぶのです。侍ジャパンに選出される選手は、チームに戻ればスター選手ですよ。その選手たちの当面の目標は、全世界の人が注目している大会で大活躍をして注目を浴びたいわけです。しかし、個々の選手たちがそういう個人プレーを優先すれば、チームはバラバラになり、世界一になるという目標は達成できません。ですから、私はキャンプの最初に「世界一になるかどうかは分からないけど、全力を尽くすこと、見ている人に感動を与えること、みんなのお手本になることは誰でもできるから、まずそこを一生懸命にやっていこう」とメッセージしました。目標だけではなく、それ以上に目的を意識して欲しいと伝えたのです。スポーツの場合、当面の目標は勝負に勝つということです。ところが相手が自分よりも強い場合は負けてしまいます。目先の目標ばかりにとらわれていると、押しつぶされそうなプレッシャーとも戦わなくてはなりません。大谷翔平選手のように、野球に取り組むことによって自分は何を目指しているのか、どんな感動を与えることができるのか、どんな貢献をすることができるのかを明確にしておく。大谷選手は高校生のときに作ったマンダラチートを今でも実践しているという。これが曖昧なままだと、目標を追いかけているときに迷いが出てくる。想定通りに進行しないと意欲が減退してしまう。途中で挫折してしまう。また仮に目標を達成しても、燃え尽き症候群に陥ってしまいます。白井氏は、しっかりした最終目的を持つことが何よりも大切だと言われている。その上で当面の目標に全力で取り組むことが肝心だと述べておられます。私たちは神経症を克服したいと思っています。これは目標だと思います。では森田理論学習の目的にあたるものは何か。森田理論を活用・応用して神経質性格者としてより良い人生観を確立することだと思います。森田療法で神経症が克服できれば、普通森田から離れていきますが、神経質者としてのより良い人生観の確立を視野に入れると、生涯に渡って森田と関わり続けるということになります。
2025.02.08
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やましたひでこさんのお話です。断捨離イコール捨てることみたいに思われがちなんですが、本来は自分とモノとの関係を見つめ直して選び抜くこと、モノの片づけを通して自己を深く探究し、心の混沌を整理して人生を快適にするツールなんです。断捨離は実は、モノを通した思考の片付けなんです。そしてそれをするためには、モノの片づけ以前の価値観の問い直しが必要なんです。とっておこうという気持ちがあるのは、そのモノに価値を感じているからですよね。ではその価値について、本当にきちんと思考しているだろうか。どういう価値を感じてそれをとっておこうとしているのか。(1日1話、読めば心が熱くなる365人の仕事の教科書 藤尾秀昭監修 致知出版社 370ページ)断捨離できないのは、「いつか役に立つときがあるかもしれない」「せっかく買ったものだから、処分するのは忍びない」などという気持ちがあるからだと思います。では新しいものに買い替えるときの気持ちはどんな時でしょうか。型が古くなり流行遅れになった。性能や機能面で最新のものと較べると見劣りがする。古いものを下取りしてくれるので、この際思い切ってリニューアルしよう。以前森田の「物の性を尽くす」を実生活に大いに応用されている方がいました。・家電量販店では大画面のテレビを売っているが、我が家は昔からある小さなテレビを見ている。・スマホは持っていない。パソコンはあるが、ワードやエクセルで使っている。メールはできない。・音楽は昔からあるラジカセにカセットテープを入れて聴いている。・我が家の貯えはそんなにない。うちは子どもがいないのでそんなにお金を必要としていない。年金だけでささやかな生活している。・本は図書館で借りる。映画は市の映像ライブラリーで見る。・自家用野菜や加工食品はいろいろと作っている。料理は魚の粗などを買ってきて、絶品の味に仕上げることが楽しい。・田舎に住んでいるので車は必需品である。現在の車は10年以上乗っている。定期的にメンテナンスを心がけて動かなくなるまで乗り続けたい。この方の考え方は、現在所有しているものを、壊れて使えなくなるまで、修理しながら使うという考え方なのです。すぐに性能や機能がよいものに買い替えるという発想ではない。森田先生は風呂の残り湯も雑巾がけや、打ち水、植物の水やりに利用されていた。朝の洗面も洗面器一杯の水で済ますように心がけておられた。野菜市場に落ちている野菜のクズを集めてきてウサギなどのエサにしていた。捨てられていた古下駄は風呂の焚きつけに利用する。原稿は新聞広告の裏を利用する。森田先生はその物が持っている価値を見つけ出して、最後の最後まで活用されていた。生活必需品については、便利なものを手あたり次第買い替えるというやり方ではない。古くなっても修理して使えるものは、最後まで大切にして使い切るという考え方である。物にとっては命が尽きるまで大事にされ、活躍の場が与えられるので本望である。これは物だけではなく、人間においても存在価値を認めて、その能力をとことん活用していくということになる。
2025.02.07
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湯島山緑泉寺の青江覚峰住職のお話です。料理僧と言われている。2006年から、アイマスクをつけた状態で食事を取る体験会「暗闇ごはん」を始めた。現代人の食事はご飯を食べながらスマホを操作したり、テレビや新聞を見たりしている。現代人は、目の前の食事に集中することがおろそかになっている。「いま、ここに」意識や注意が向いていないのです。目の前のことに集中することが自分自身を見つめ直すきっかけになる。何より、食事を大切にすることは自分を大切にすることになります。「暗闇ごはん」では、食感や香り、味覚を頼りにいま何を食べているのか必死で考える。この過程を通じて、自分と食事が一対一で向き合うことができ、食材に対する感謝の気持ちや新たな発見に繋がるのです。毎回出す料理にトマトの透明スープがあります。私の統計上、目隠しの状態でトマトと言い当てる人は99%に上ります。しかし、明るい状態で出すと正解率は66%にまで下がるのです。これは、トマトは赤いというバイアスに囚われ、誤った見方をしてしまう。日常生活に置き換えても、固定観念が判断に悪影響を及ぼすケースは数え切れません。だから仏教にいう「正見」、溢れる情報を鵜呑みにするのではなく、あるべきものを正しく見ることが大事になるのです。(人間学を学ぶ月刊誌 致知2月号 84ページ)この話は、目の前の事象の観察を怠り、先入観、決めつけ、思い込み、早合点で判断し、拙速に行動することの危険性を説明されているのだと思います。最近ネガティビィティバイアスという言葉を耳にすることも多くなりました。これは人間の脳にはポジティブな情報よりも、ネガティブな情報がより多く記憶されている。つまり記憶に偏りがある。バイアスがかかっているということです。これは太古の昔、他の肉食獣に比べて非力な人間が生き延びていくために、必要不可欠な脳の仕組みだったのです。その名残として、ネガティブ情報には鋭く反応して、身体や精神的な安全を確保しようとしているのです。・テストで平均点以上なのに、間違ったところが気になって落ち込む。・職場での考課表でプラスの面があるのに、マイナスの評価ばかりに目が向いて落ち込む。・人間関係は馬が合う人20%、馬が合わない人20%、どちらでもない人60%の法則があると言われますが、馬が合わない人の言動ばかりを気にして目の前のことが手につかない。・あなたが大学でとても素晴らしい講義をしていたとしよう。しかし一人の学生が居眠りをしているのを見つけました。そのことにとらわれて、全員が僕の講義に興味も関心ないのだと決めつける。これらはネガティビィティバイアスの影響を強く受けているのです。人間が思考するとき、ネガティビィティバイアスの他、先入観、決めつけ、思い込み、早合点で事実を歪曲する特徴があることをしっかりと学習する必要があります。興味のある方は、このブログの「認識の誤り」のカテゴリーをご参照ください。さて、これは何に見えますか。白い部分に注目して見れば、壺に見えると思います。でも黒い部分に注目して見れば人の顔に見えます。不思議です。壺だと決めつけてしまうと、人の顔には見えなくなるのです。片寄った見方はとても危険だということがよく分かります。
2025.02.06
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ドジャースの大谷翔平選手は、ファン、監督、コーチ、自軍・他軍の選手、審判などみんなに愛されています。相手の方から大谷翔平選手に近づいて話しかけている光景は何度もテレビカメラに捉えられている。特に対戦相手の選手が試合中にヒットで出塁した大谷選手に近づいて親しく話しかけている光景は驚きだ。それも一人ではない。何人もの選手が集まってくる。また球審がニコニコしながら大谷選手と話をしているシーンは今までの大リーグではありえなかったという。神経質者の人間関係を考える上でとても参考になります。その秘訣を考えてみました。大リーグの審判は、ミスジャジがあろうが、周りから批判されようが自分の判定がすべてなんだという自負心があるという。弱腰ではやっていられない仕事です。プレーの判定に対しては、自分たちの判定が選手よりも正確だというプライドを持っている。その意識を選手たちに植えつけるために、新人選手に対しては「かわいがり」という風習があるという。一種のいじめである。その根底には、新人の時に大リーグの現実や厳格さを徹底的に思い知らせておかないと、スター選手になったときに審判を見下すようになるからだという。そうなると公平な判定ができなくなる。鉄は熱いうちに打てということだろう。だからたとえ間違った判定に対して、選手や監督がクレームをつけることはご法度なのである。審判に絶対服従という態度で試合に臨まないと、後々厄介な問題が起きる。その後、微妙な判定に対して、常に自分に不利になるような判定をされることになる。こうした情報は審判の間で共有されるという。これに選手個人で対抗することは実質不可能だ。そうなるとMLBの世界で活躍する道は閉ざされてしまう。大谷選手はエンゼルスでマウンドに立ったとき苦い経験がある。ある審判からボークをとられた。大谷選手は「納得できない」という憤懣やるかたない気持ちを態度に出した。すると立て続けに再度ボークをとられたのだ。審判に対して反抗的な態度を出したので報復措置が待っていたのだ。それが人間が絡んだときの自然の成り行きといえよう。解説者が「どちらともとれる」というような曖昧な動作をボークと判定されるのだから当の選手はたまらない。しかしそれが現実なのだ。そこから精神的に崩れていく選手は数多い。ピッチャーから見て当然ストライクだと思う球をボールと判定されたとき、不平不満の態度を審判に向けると後々厄介なことになる。審判が「ボールというのだからボールなのだろう」という対応が望ましいと言える。ポーカーフェイスで何食わぬ態度で次のプレーに向かうことが自分を守ることになる。現在の大谷選手は審判を最大限にリスペクトしている。塁上の大谷選手はつとめて笑顔で審判と会話するようになった。というよりも審判の方が大谷選手に近寄っているときの方が多い。スーパースターと親しく会話したというのがステータスとなるのだろう。大リーグの審判は今日3塁の塁審を務めたものは次の日は2塁の塁審を務める。2塁塁審は1塁塁審を務める。1塁塁審は次の試合の主審となる。ピッチャーにとっては、主審との相性の良し悪しがピッチングに大きく影響する。ある時、大谷選手がヒットで出塁した時、1塁塁審は厳格な判定で有名なC.Bバックナー氏だった。大谷選手はバックナー審判に笑顔で挨拶をしていた。解説者によると、「明日は僕が先発なのでよろしくお願いします」と言っていたのではないかということでした。このなにげないコミュニケーションがとても大事なのです。大谷選手から学ぶことは何か。相手の言動に腹が立つことは多い。相手に対して不平不満を抱き、苦情を言いたくなることもある。それらを態度に出すことはぐっと我慢することが大事になる。心で泣いて、笑顔で会話するということだ。森田でいえば、形を整えるということです。どんなに不快感情で一杯でも、相手には見えないのだから。そのうえで相手が喜ぶことは、できる限り何でもするという気持ちを持つことが有効だ。ちなみに大谷選手はロサンゼルスの山火事では50万ドル(7800万円)の寄付をした。その他、能登地震のときは、100万ドル(1億4500万円)の寄付をしている。それ以外に、日本全国の学校に60000個のグローブを贈呈している。大谷選手は、直接消防署に出向いて消防士を慰問している。突然の訪問に、消防士たちは勇気百倍になったという。記念写真は一生の宝物だという。これがきっかけとなり、ロサンゼルスの12のプロスポーツチームが総額800万ドル(12億6000万円)の寄付をしたそうだ。大谷選手は、自分一人の力で今があるわけではない。みんなのおかげで今の自分がいる。感謝以外の何物でもない。好きなことに頑張れる自分の今の境遇に感謝して、これから多くの人により多くの感動を与えていきたいと発言している。
2025.02.05
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認知症にならず、不自由ながらもある程度身の回りのことが事がこなせる100歳以上の人の生活ぶりや考え方はとても参考になります。現在上映中の「104歳、哲代さんのひとり暮らし」という映画にはとても感動しました。広島県尾道市でひとり暮らししている石井哲代さんのドキュメンタリー映画です。101歳から現在までの日常生活を余すことなく公開されています。石井哲代さんは、小学校の先生として働き、退職後は民生委員として地域のために尽くしてきました。83歳で夫を見送ってから一人暮らしですが孤独ではありません。姪や近所の人がひっきりなしに訪ねてくるからです。買い物やディサービスや病院への送迎はみんなが手伝ってくれます。笑顔が素敵なので、自然に人が集まるのでしょう。ボケないで元気で長生きするためには、話し相手が周りに何人もいることが欠かせないと思いました。一人で好きなことをやっていけば十分だと思っている人はいずれ孤独になります。話し相手を作りたいと思ったら、趣味の会に入る。世話活動をする。習い事などに手を出すことです。できればユーモアのセンスを磨くことが大事だと思いました。ダジャレ、川柳、面白小話などを手掛けるとよいですね。哲代さんは、人が好きというのですから、子どもと接する教師の仕事は天職だったようです。小学校の同窓会に呼ばれたことがありました。哲代さんは103歳ですから、子どもたちは80代です。生徒の中に入っても元気一杯で、子どもたちは同級生のように見えました。当時の教え子の点呼をとり、「仰げば尊し」の歌唱の指揮をされていたのが印象的でした。哲代さんはいつも仏壇に手を合わせて感謝の気持ちを言葉にしています。自宅も仏壇もものすごく立派なものでした。料理は自分のところで獲れた野菜を使う。煮干しでだしをとった味噌汁をおいしそうに飲んでいました。自宅の風呂は転倒が怖いので、週2回のデイサービスを利用している。送り迎えは姪や近所の人が手伝ってくれます。自宅への入り口は坂になっているが、転倒防止のために後ろ向きに下りている。いつも家の周りの雑草を抜いて回るのが日課になっている。心残りは子供ができなかったこと。本家として子孫を残すことができなかったことだそうです。自分で作曲した曲を大正琴で上手に演奏されていた。玄人なみの腕前で驚きました。本は2冊出されており累計21万部超のベストセラーになっている。「102歳、一人暮らし、哲代おばあちゃんの心も体もさびない生き方」「103歳、名言だらけ。なーんちゃって」いずれも文藝春秋刊。この笑顔を見ているととても癒されます。怒る、腹を立てる、不平不満やグチを言うことはほとんどないことがよく分かります。
2025.02.04
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生活の発見誌2月号に、水谷啓二先生から指導を受けた人の話がありました。その時「これから先も苦しむことがあると思いますが、その時の心構えを教えてください」と質問されたそうです。すると水谷先生は鬼のような厳しい形相で、「まだわかないのか、そんなに苦しいなら苦しめばいいじゃないか!」と激しく叱責されたそうです。今現在神経症で苦しんでいる人にそんなことを言うと、すぐに森田から離れてしまいそうな話です。今現在神経症で苦しんでいる人は、何とかこの苦しみを取り除いて楽になりたいと思っているのに、相談に乗ってもらえるどころか叱責されてしまうのですからやりきれない話です。現在は神経症治療として、薬物療法、認知行動療法がありますので、森田よりはそちらの方に走ってしまうでしょう。水谷先生は、神経症的な不安は取り除こうとしてはいけない。不安から逃げ回ってはいけないということを伝えたかったのだと思います。不安と格闘すると、サバンナで草食動物がチーターやライオンのような肉食獣に追い掛け回されるようなことになってしまう。森田では、神経症的な不安を敵に回すと、強迫観念で身動きが取れないようになってしまうといいます。しかし、その理屈を今現在神経症でのたうち回っている人に伝えたところで、そっぽを向かれてしまうのが落ちです。森田理論は神経症に対して正面突破の考え方ではありません。少々遠回りになりますが、迂回作戦をとっているのです。正面突破を試みて、跳ね返された人が第2の選択肢として取り組んでいるものといえばわかりやすいのではないでしょうか。怪我をして止血が必要な人に、とりあえず止血をして、その後で怪我の原因を考えてみませんかと提案しているのです。そのためにどんな対策をとっているのか。神経症で苦しんでいる人は、症状のことで頭がいっぱいになっています。考えることが内向きになっています。一つの不安に意識や注意を集中しています。これでは精神交互作用でそのうちアリ地獄の底に落ちてしまいます。神経症として固着してしまうと自力では抜け出すことは困難になります。森田では精神交互作用に風穴をあけていくという戦法をとっています。症状以外のことにも目を向けていくという戦法です。たいていの人は仕事をしています。毎日の日常茶飯事もこなしていかなければなりません。子育てや介護に取り組んでいる人もいます。町内会や集談会での世話活動も抱えています。これらに取り組んでいけば、考えることが内向き一辺倒から少しだけ外向きになります。その割合を少しずつ増やしていくという戦法です。私が一番効果があったと思うことは、規則正しい生活習慣をつくるということです。神経症で苦しんでいるときは、そんなことは眼中にありませんでした。その時々で思いついたことを仕方なしにこなしていました。このブログを始めるにあたって、起床時間を6時20分に決めました。その後はあらかじめ決めたルーティンワークに淡々と取り組むようにしました。すると頭の中でこの次は何をしようかと考えなくても、自然に体が動いてくれるようになりました。いつも内向きになって症状と格闘していた自分が、意識や注意を外向きに変えて行動できるようになったのです。この生活習慣が身についてくるとともに、神経症は随分楽になりました。論より証拠、自分の体験で確かめてみて下さい。
2025.02.03
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2月号の生活の発見誌で水谷啓二先生が次のような話をされている。対人恐怖の者は、そねむことが非常に多いと思います。この間、私の会社に若手の課長がいまして、こちらから挨拶してもろくに挨拶をしてくれなかったから、こちらも不快に思って、話をしなかったのであります。しかるに私の同僚には、交際上手な奴がいて、朝も早くから、その課長と親しく話をしているのです。そんなことで、実は私もその同僚をそねみ始めたのです。「そねむ」という言葉は普段あまり使いませんので調べてみました。自分より優れている人や、恵まれた境遇にいる人に対して、うらやましくねたむ気持ちを抱くことです。「嫉妬する」という言葉とほぼ同じ意味ですが、「そねむ」の方がよりねたみの感情が強いようです。「そねむ」のは、相手の優れた点を認めつつ、うらやましいという気持ちが根底にあるようです。水谷先生の発言に対して、森田先生次のように述べられています。今のような話は、非常によい話です。こんなことがよくわかれば、神経症は治り、精神修養が進み、「修道」とかいうことになります。それで、自分の心の事実をありのままに、虚偽なしに正しく認識することのできるのを自覚といいます。自覚ができない人は、課長が失敬だと思って癪にさわるそのときに、あの課長は、まだ若いくせに、高ぶって、我々を軽蔑していると考えて、自分が憤慨するのは当然のことだと思っている。このそねみ根性のある人は、上に対して、悪意に解釈すると同様に、目下の者に対しても、あいつは俺に対して、横柄で敬意がないというふうに、どちらを向いても、決して平和の気持ちにはなれないのであります。(森田全集第5巻 618ページ~619ページ)森田先生の話によると、自分の心の中に他人に対する「ねたみ」「ひがみ」「恨み」「ひねくれ」「やっかみ」などの感情が湧き上がってきたら、やり場のない心の事実を認めるようにする。不快感を取り除いたり、逃げ回ることをしなければ、自然の法則・感情の法則によりしだいに気にならなくなってくるものなのです。修養によりこのからくりが分かるようになることを自覚が深まるといいます。これは体験によって習得するしかありません。ここで肝心なことは、決してそれ以上のことをしないことです。相手を見るとイライラするので、相手を無視する態度に出る。たとえば、あいさつをしなくなる。見るからにふてくされた態度に出る。直接相手が嫌がるような言動を浴びせかける。あるいは、うまく立ち回れない自分を卑下したりする。自己嫌悪、自己否定で自分を痛めつける。
2025.02.02
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精神科医の志村祥瑚先生は、「認識の誤り」を分かってもらうためにマジックの実演をされている。それは患者さんが悩むのもマジックで騙されるのも原理は同じで、どちらも「思い込み」によるものだからです。今右手にハンカチがありますね、これを左手の握りこぶしの中に押し込んでいきます。ギュギュっと中まで押し込んで、おまじないをかけると、ハンカチが消えるんです。では種明かしをしましょう。いま必死にハンカチをご覧になっていますが、実は仕掛けはハンカチではなく、手にあります。親指をよく見てください、親指にサックをはめているのに気づきませんか。先ほどはこのサックの中にハンカチを押し込み、再び親指にはめていたのです。これがまさに「思い込み」です。僕が「ハンカチが消えます」と言ったので、皆さんはハンカチを注目して見ていた。意識はカメラのレンズのようなもので、ピントが合ったところは見えますが、そうでないところは意識外に押し出され、視界に入っていたとしても見えなくなってしまう。これはマジックだけではなく人生についての考え方も同様です。外来にいらっしゃる方の中には、「コロナ禍で行き詰り、死ぬしかない」「試合のレギュラーになれなかったからもう終わりだ」と「思い込み」や「とらわれ」によって視野が非常に狭まってしまった方が多くいらっしゃいます。そういう人に言葉で説明してもなかなか分かってもらえないので、マジックをお見せしているのです。意識はテレビのチャンネルによく似ています。人生にはいろんなチャンネルがあるはずです。にもかかわらず、悩んでいる人は「なんでガンになってしまったのだろうチャンネル」ばかりを見ているのです。僕は以前「何で留年してしまったのだろうチャンネル」を好んで見ていました。僕が訴えたいことは「見たものがすべてではない。どんなにリアルだと思っても、イリュージョン(錯覚)かもしれない」ということです。悩み苦しんでいる渦中は、「死にたい」「行き詰った」と思うかもしれません。しかしそれは自分の思い込みにとらわれているからであって、本当の現実ではありません。どんなに暗闇だと思っても、どこかに必ず光があります。(致知 2021年7月号より要旨引用)私は対人恐怖症でした。他人は絶えず自分の言動を批判的に見ているに違いないと思っていました。潜在意識の中で他人は怖いものだと思っていました。危険や危害を避けるためには専守防衛に徹することだと思っていました。対抗意識丸出し、防衛本能丸出しの付き合いしかできませんでした。自分の居場所を見つけ、自己顕示欲を満たすためには、みんながしり込みするようなものに挑戦して成果を上げることだと思っていました。トライアスロンに取り組んだり、難しい資格試験に挑戦したのはそのためです。しかし目的を達成しても、周りの目は冷ややかなものでした。自分の居場所を失いますます孤立感を強めるばかりでした。今考えると、私の「思い込み」は全く方向違いだったと思います。人間関係の在り方は森田理論で学びました。今考えていることは、自分の居場所や活躍の場を見つけるためには、人の役に立つことを数多く見つけて実行に移すことです。人が不快な気持ちになるように言動はぐっと我慢する。不快な感情のままに行動しない。感情と行動はきちんと区別する。気分本位の行動を控えて、社会人として責任ある行動をとっていく。人間関係には馬が合う人20%、馬が合わない人20%、どちらでもない人60%の法則がある。馬の合う人は大切にする。どちらでもない人を敢えて敵に回さないように心がける。人間関係を良好に保つためには、身近なことで手を抜かないことだと思っております。
2025.02.01
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