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秀吉を巡る祭礼や庶民の崇敬の推移を考察することで、英雄という存在が如何に時代状況に左右されるものであるのかを如実に語らしめている。秀吉というのは不思議な人物で、どこか庶人の心に触れるものがあるのだろう、徳川期に『太閤記』のブームが幾度かあり、幕府はその沈静に躍起になっている。また、近代に入ってからは海外制覇の先駆者として祭り上げられ、敗戦後は一転、侵略者として批判されることになる。しかし、戦時の吉川英治の太閤記の影響があるだろうが、今でも大阪の庶民には「太閤さん」と呼ぶ人が多い。C
2010.05.31

経済学のエッセンスと現代経済との関わりを平易な記述で説明した良書。20年前の書であるから勿論情勢的記述は古いが、それでもアダムスミスの「見えざる手」という命題を「人間は命令では動かない」と超訳?する点、各国の経済活動の比較に際し「そもそも~国は…」という考察の仕方を取ることへの疑問、また言うは易しだが、経済の趨勢を見るのに「時の勢い」という考えを導入することで幅の広い視野が得られることに感心する。アメリカの消費者としての大衆の発見、日本の労働者としての大衆の洗練、等々、今日でも考察の価値ある指摘が多くあり、規制緩和論の虚妄をいち早く見抜いた著者の経済情勢への視座も大変参考になる。C
2010.05.30
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煙草と酒と博打と美女とコンタックスと戦場。こういう全身全霊で男であることを享受した人間は、矢張りどうしようもなく魅力的である。バグダットやモザンピークに言っては、カメラマンから脱皮し似非人権派の「戦場ジャーナリスト」になって帰ってくる連中のしょうもなさを思うべし。キャパの40年の生涯は、貧しさから這い上がり金と名誉、おまけにイングリッド・バーグマンを手に入れ、絶頂期を迎える。しかし、大女優との訣れがその転落の大一歩だった。焦りと放蕩と苛立ちと欲望と、そんなどうしようもないものを無茶苦茶に抱えたまま、地雷を踏んで、果てた。矢張り、堂々天晴れな男の生き様だったと言えよう。本書、沢木氏の訳もいい。Bキャパその青春キャパその死
2010.05.29
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漱石の英語教師、英語教育という点にのみ焦点を合わせたユニークな研究。教師生活に於ける漱石の忸怩、葛藤、苛立ち、何よりもその「いぶせさ」が十分伝わってくる。しかし、さすがは漱石先生、教師商売と割り切ることは決してない(勿論当時の教育というものに対する権威や期待は大きいのだが)。意外に、実直な講義をしており、また、さまざまな創意工夫を試みていることが分かった。真剣に取り組むほど「いぶせさ」が増す、今も昔も教育とはさにあらんや。C英語教師夏目漱石
2010.05.28

矢張りこの著者の描くものは「かなしい」。所謂ポストモダン的なおちょくるだけというのとも違う。私たちのいい加減さ、くだらなさを嘲笑するのではなく、その小ささへのペーソスがじんわりと滲んでいる。D
2010.05.27
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遠くて近しい国であるトルコを訪問した近代日本人の軌跡を辿る。当時の日本人が抱いたトルコ観の適切さに驚くが、何よりも日本とトルコの地政学的立場の類似性、国民精神の類似性にも気づかされる。ヨーロッパとの距離感、大国ロシアへの警戒感と親和、中東との愛憎、隣国ギリシアとの不和等々、日本の置かれている状況と対比してみればトルコという国の難儀な舵取りに同情するのである。C近代トルコ見聞録
2010.05.26

上方の文士や芸能についての書誌学者の文集。落語、狂言から『ぼんち』『鱧の皮』まで、読書人と呼ばれる人々を唸らせるような渋い文章が収められている。しかし、東京には今後も若者を含め、土地と風物への関心がきちんと洗練されていくのに対し、大阪はもうなにもかも無茶苦茶に何にも振り返られることなくぐだぐたに終っていくのだろう。それが大阪だと開き直られればそれまでだが、それでも、東京人が「東京人となる」為に、ある種の粋ある趣味を東京歩きという形で高めていくプロセスがあるのに対し、上方は暮らすということそのものが自然と土地文化と繋がっていたのである。上方のおっさんもおばはんも少し前までは、そこそこの風土に培われたそこそこの文化的な目を持っていた。ときには玄人裸足の者も多かった。だが、もうそれも終りである。大阪には、もう何もない。税金で食わせてもらうことを恥とさえ思わなくなった厚かましく目立ちたがり屋の坩堝。C
2010.05.25
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長く著者のゴーマニズム宣言の動向を見て来たが、「よくぞここまで」というのが率直な感想である。小林氏の「卑怯」をいち迅く嗅ぎつける感覚は、矢張り氏の「もののあはれ」と表裏を為すものである。そして、世の卑怯や賢しらと烈しく闘ってきた「直き心」は、大東亜戦争を真直ぐに仰ぐことで、遂に至尊へと辿りついた。この著者の言論活動は、どこか林房雄を髣髴とさせる。真直ぐであることは、実は、口で言うほど簡単ではない。必死懸命の努力は元より、何よりも勇気を必要とするのだろう。この著者の登場により、我が国の言論界は矢張り大きく変わったのだと思う。本著は、特に原武史氏の隠微な言論をきちんと暴露した点、或いは、東アジア情勢から聖徳太子の御徳業を精確に描いている点が素晴らしい。神話の記述となるとどうしても若干幼くなるが(神話を「描く」ということの難しさである)、そんなことは本著の瑕疵とはならない程に、我々が長く忘れている真直ぐど真ん中剛速球の心とは如何なるものであったかを見せ付けられるのである。B天皇論
2010.05.24

植田正治唯一の著作、「アマチュア諸君」という言葉が如何にもこの人らしい。写真は現在のハイパーリアルの状況から見れば矢張り古くなっている。その写真の「造形」への志向、或いは作品意識がもたらす必然的結末か? それにしてもアマチュアとプロ、田舎と都会とは、写真界のナロードニキと言ったところか。E
2010.05.23
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大漢和辞典の大修館が近年「あじあブックス」という渋い叢書を刊行しているが、本著はシリーズの中でも入門編と言える内容、近代黎明期の八人の漢学者の相貌を描くことによって、日本人にとって漢学とは如何なる学問であったのかということを懐かしく再現する良書である。冒頭、中国語論と訓読論の対立を描くが、奥野信太郎が訓読の徳用を述べた文章に肯んずること頻りである。露伴の水滸伝も紅楼夢にしても我が国の訓読の持つ蛮勇な無頓着な力に拠るものであった、と。つまり、自在な文学を保障する訓読の伝統であったことを述べるのである。さて、一人目の根本通明の写真にまずは感嘆せざるを得ない。明治29年帝大教授の就任式の訓示では、「東洋の漢学は、このわしと共に滅ぶ。汝等はわしの眼の球の黒いうちに十分に謹んで講義を聴いておくがよい」と言ったという。毎朝必ず1時に起き、和服に鉄扇という出で立ちで講義に望んだという。次は、中島敦の祖父中島撫山生涯一学究として地方の師弟の訓育に徹した。次は漢詩という器に恋の情緒を吹き込もうとした浪漫的漢文学者中野逍遥、洋学界の重鎮でありながらも生涯漢学の徳用を主張し続けた中村敬宇、和漢洋三学という日本にしか出来ない学問を模索した桂湖村、古儒者の風韻を持した最後の人小柳司気太、そしてかの宮島詠二、『字源』の簡野道明、錚々たる人物が並び、その生涯を追うだけでも大きな意気のようなものが読者の身に芽ぐみ始めるのではないか。儒者貧乏、儒者の糞意地、という懐かしい言葉があった。東洋の小さな島国に於いて、漢学は実践面に於いても徳義に於いても、一つの立派な姿に生長していたことに改めて感動する。B漢学者はいかに生きたか
2010.05.22
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ともかく、「グローバル」とか「英語公用語」などと騒いでいる世情にあって、これくらいのことはちゃんと知っておいた方がいいという内容がきちんと書かれてある(タイトルは品がないが)。英語を学べばバカに、ではなく、凡そ英語英語と言ってる輩に「バカ」でお調子者が多いのは確か(?)。アメリカに於ける言葉狩りがスタンフォード大学で生まれた(つまり、言葉の差別性を論うことによって出世する)という記述はなかなか興味深かった。我が国の「友愛」首相も学んだ大学であるから。ともかく、安易なアメリカ幻想への解毒剤として本著をぱらぱらと紐解けばいいと思う。C英語を学べばバカになる
2010.05.21

アメリカ現代批評家の煙草へのオード&エレジー。依拠しているのは、カントとの「崇高概念」、煙草という苦痛を伴った消極的快が照射する人間のばかばかしくも美しい崇高。煙草は、不健康だからこそ崇高なのである。主にフランス文学から煙草の引用がなされるが、これを日本近代文学でやるとどうだろうか、カントでは収まり切れない何かが浮き上がって来るのではないか、とも考えるのだが。しかし、それにしても、「判断力批判」でカントはバナナの皮にすべってスッテンコロリンしていると言い放った三島由紀夫の言葉は引っかかる。C
2010.05.20
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若い時分には、19世紀の文豪の巨大な精神に触れるべしという文言は、勿論今日には何の効力も持っていない。本著のような形で、我々はバルザックを弄り、ユーゴーに触れるしかないのだ。今日最も「フランス文学的」エッセンスを醸し出す著者の衒学とウィット。「サン・シモン主義バルザック」の章では、俗欲の機動装置としてのサン=シモン主義と大小説家の世界観との関わりを捉えて興味深い。この著者の真面目である。その他、印象派の貧乏譚も面白いエッセーである。C文学は別解で行こう
2010.05.19
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大江健三郎や柄谷行人の韓国語訳を手がける研究者が、韓国の反日感情の深淵を探っているというからおそらくという予想があったが、本著は自国の歴史観や感情表出の態度を冷静に反省しており、また、日韓の様々な問題についても極めてフェアーな見解を提出する。愛国心というものに対するきちんと距離を持った姿勢も好感が持てる。つまり、あくまでそれは押しつけたり押し付けられたりすべきものではない、ことさらに強調するより前に、自国の美点を大切にしていくことだと。C反日ナショナリズムを超えて
2010.05.18
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人を喰ったようなタイトルだが、それは1962年生れの著者の世代にありがちなこと。内容は、写真というものについて縦横に考える視点を示してくれるありがたいワークショプとなっている。第一章講義編では写真というメディア(アート)の変遷をポストモダンまで上手に纏めてあり、しつこいようだがこの世代ならではのオフザケと十分なフェアーさを感じる。エリオット・ポーターの「ありのまま」、ウィリアム・エグルストンの「世界の等価性」、ベッヒャーSCHOOLの加工による世界観の表現、ヴォルグガング・ティルマンスの断片群による世界平面化への挑戦、そして中平卓馬の表現への不信と写真の植物図鑑化、5つの世界観の講義はなかなか面白く示唆に富んでいるし、「4つの視点」として提示されるポストモダン的状況も本当に判り易い。後ろの実践編となると途端に「閉じた」記述が多いのも矢張り、十分ポストモダン的である。Dたのしい写真
2010.05.17
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ジャンクフードばかりの日々にあって時折、キチンとした、極めて真っ当な食べ物を姿勢を正して食べたい時がある、ゆっくりと。須賀敦子の書くものはそういう端正な料理のようだ。自身の生い立ちの道程で出会った様々な読書体験が、静かな回想と誠実な内省で語られる。冒頭「しげちゃんの昇天」は本当にいいエッセイだと思う。著者のエッセイは「終い方」がいい。きっぱりではなく、矢張り美しく終る文章である。余韻はいつまでも響く。冒頭一文のうまさでは向田邦子であるが、最終一文ではこの人ということになるだろう。C遠い朝の本たち
2010.05.16
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年表的な時代区分ではなく、より多角的に遷都の模様や意味を知りたかったのだが、市民講座の講演の寄せ集めの本著では何もわからない。最終章の「王権と神泉苑」だけが少し新しい。本著のタイトルから言えば、内容は詐欺に近いのではないか。F〈都〉の成立
2010.05.15

毛沢東を始め、長年中国要人の日本人通訳を務めてきた著者が初めての日本語で書いた本と言う。様々な観点から日本語と中国語の差異やその背後にある文化的相違や衝突を記している。が、冒頭の小泉純一郎が2001年抗日記念館を訪問した折に揮毫した「忠恕」なる言葉の不適切さを述べたくだりはまあ良いが、他にも所々依怙地なる自尊が見え隠れする。「武士道の『忠』は、是と非の区別のつかない、自我を失った絶対服従の『愚忠』であり、それは後に日本が近代化の中で『富国強兵』のスローガンを掲げて追求する軍国主義の土壌となっていく」等々。著者は、中華人民共和国文化部元副部長という偉いさん故に、当然であろうしこれを云々しても詮ないというところだ。大江健三郎が推薦、さもありなん。そのような箇所を飛ばせば読み物としてまずまず面白い。E
2010.05.14
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NHKドラマ「ゲゲゲの女房」で再び脚光を浴びつつある水木しげる。本著の数々の妖怪の画は、どれもおそろしくしかも何処か懐かしい。怖れではなく畏れを感じさせるからだろう。見事なオリジナルである。この一冊、掛け値なく面白い。B妖怪画談
2010.05.13

柳田国男は、エリート官僚としての発意と自ら打ち立てんとする民俗学の葛藤の中で、それでもユニークな発想を巡らせながら著述を重ねてきた。著者は、その文章の底に仄見える「新しい公民像」といったものを、ネーションステートの作り出す「伝統」でもなく、ノスタルジックな村的「伝統」にも回収されない新たな「可能性」として提示しようとする。「それぞれの『私』を出発点とし、互いの差異を自らのことばで語り合い、それらの交渉の果てに」あるという「公共性」。柳田のナショナリズムを忌避する側面と、一方にある母性的郷土への思いは、双方が左右陣営それぞれの拠り所となっていたという指摘は興味深い。だがそれは、福澤諭吉から漱石、鴎外まで、明治人には多かれ少なかれ付き纏わざるを得ないアンビヴァレンツだったとも言える。確かに「伝統」は創られるのであろう、だが、新しい公共性もまた「創られる」のである。では、想像する主体が国家ではなく「イマ・ココ」の「私」であるのなら良いのか、という所でおそらく思索は躓くのかもしれない。ここで一様、西部邁氏等の伝統観、つまり、ルールやマナーを引き継がせるものとしての「言葉(使い)」とその歴史性というものについてきちんと答えねばならない(ただし、西部氏の言葉遣いには歴史性が全くと言っていいほど感じられないのだが)。言葉は個人のものであるのかという問いである。「伝統は創られる」というのは、今や紋切り型の言説で、まさしく「伝統的」になりつつあるのだが、その物言いに隠微な形で潜んでいるのは何か。矢張り、しょうもない人間がしょうもない毎日をしょうもなく生きている、しかしそれでも何らかの確かな価値を時には示しながら生きている、そういう小さな日々を舐めてしまう「さかしら」と言っていい。「伝統は創られる」という言説は、充分注意しなければ単に「過去の人間がアホだった」という結論を導き出し、そのことで叶えられる「新たな可能性」という訳の分からない言葉に酔い痴れるだけに終ってしまうのではないか。共同幻想としゃらんと言ってしまう「さかしら」は、人々の暮らし(生活ではない)の質感を括弧に入れることによって可能となる。それが、科学であり、今日言われるところの学問(サイエンス)に他ならない。D
2010.05.12
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所謂「皇室記者」の書いた類書にどうしようもなく下品な臭いが漂うのに対し、本書は記述も丁寧で言葉遣いもきちんとしている。冒頭、昭和32年に著者が引退後のマッカーサーをNYのマンションに訪ねた折の話は、非常に興味深いものだった。著者らはマッカーサーにタバコを勧められたが、テーブルに置かれていたのは「菊の御紋」の灰皿であったという。恐る恐る菊の御紋の上に灰を落とす著者に対し、同席している園田直代議士は顔色一つ変えず掌でタバコを消していたという。特攻隊長として敗戦を迎えた人物の志の程が伺えると著者は述べている。そういう政治家も一昔前には存在したのである。それにしても著者の経歴を眺めていると矢鱈とユダヤの商売やらユダヤの知恵という言葉が出るのは何なのだろうか。C昭和天皇三十二の佳話
2010.05.11
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「子故の闇」とはよく言ったもので、こと育児となると根拠の薄い様々な「~すべき/~ざるべし」が横行している。本著を一言で言えば、そういう無根拠なる通説や思い込みから来る子育ての不安や焦燥からの解放ということになろう。極端な早期教育や親の過度の期待を退ける、つまり普通にしてたら大丈夫、赤ちゃんとは思い通りにならないものだということをきちんと認めよというようなことが述べられ、一々納得することも多い。が、脳科学なるものとの関連性から導き出されることかと言えば少々頼りない。大体、脳云々という言い回しにはまだまだ胡散臭いものがあるように思われる。これまでの「心」優勢時代への反動かも知れないが。ともかく、本著は過度は禁物という極めて常識的なことをきちんと述べている。D赤ちゃんと脳科学
2010.05.10

当りも触りもない経済学史の入門書。ただ、古い文献ばかりで学史を読んできた者にとって、現代に於ける評価や経済との関わりを著者の小さなコメントから理解することも出来る。後は、別段特記するようなものはない。D
2010.05.09

著者は、文学というもののエートスを上手に読者に伝え得る数少ない文筆家の一人。『にごりえ』『三四郎』から向田邦子、阿佐田哲也までの小説が、愛・個人・人生・戦争・家族・病気・貧乏・異文化接触というテーマにクラシファイされており、それぞれ付される文章も、紹介を兼ねたエッセイとして質は高い。時にどきりとする様な文章がある。文学が醸し出す「時代」の精神といったもの匂いが鮮やかにとらえられる、そういう一文がある。小著ながらなかなかどうして文学入門として推薦できる出来。C
2010.05.08
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この大層なボリュームのある評伝から何が伝わるだろうか。アレントの若書きのロマン的な詩の数々、ハイデガーと恋愛、パリでのフランクフルト学派知識人との関係、そしてアメリカ。資料も膨大でその記述は緻密を極めている。が、本著の極まりは矢張り1956年、『Vita Activa』、つまり『人間の条件』のドイツ語訳を旧師ハイデガーに送る場面ではないか。その時、アレントは何と訣別したのだろうか。どこまでも愚鈍なヤスパースには判るまい。確かに、アーレントは誠実に、真剣に生きた。だが、彼女の思考とその表現の「面倒臭さ」は何に由来するのだろうか、実はそのことが最も大切だったのではないか。山小屋に籠りつづけた思索者にはそのことはわかっていた筈だ。言わずもがなのことだろうが、本著の翻訳は決して出来のいいものとは言えない。思想内容や抽象議論の説明になる途端に、文章が支離滅裂になっている。Dハンナ・アーレント伝
2010.05.07
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桑田投手の再生に一役買ったことで有名になった身体操法。嘉納治五郎が「柔術を小乗、大乗の柔道へ」と言ってから流行する武「道」、それらに付きまとう精神論が本来の「術」を蔑ろにしてはいないかという指摘は肯けるものがある。「基本を大切にしろ」という名目で行われる反復練習にクエスチョンを付ける辺り、著者のやり方の面白さがある。曰く基本が大切ということが判るのはかなりの腕前になってからであり、それよりも「絶えず基本が何なのか」を探求しつづけることが肝要であると。すこし記述が簡易すぎるきらいがあるが、最後の学校教育への提言。つまり、国語(勿論、数学や理科も物語として読む)と歴史と体育(山を歩けというくらいの)で十分というのにも甚だ共感を覚えた。D古武術に学ぶ身体操法
2010.05.06
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1962年に刊行された古文参考書の名著が復刻された。復刻の意図は判らないが、ともかくユニークで或る意味画期的なことだとも思う。受験生用に書かれているとは言え、目立ちたがり屋の予備校教師の薄っぺらな参考書や、学者の書く古典研究書、中途半端な古典を巡るエッセイなどを読むよりも、遥かに面白いし、充分な知的刺激を与えられる。これを書いたのは、世の読書人がとにかく褒める(分厚いからだが)大著『日本文藝史』全5巻を記した小西甚一である。文藝史に於ける硬質な記述とは対照的に、この参考書は学生に語りかける調子で書かれているのだが、軽い口調で語られる古文のエッセンスは実は非常に高質。思索の深さ、幅の広さ、そして渋い読み。圧倒的な博学で知られた著者が遺した本著は、これからきちんと古典を学ぼうとするものにとっての適切な手引書となるに違いない。これくらいの講義が為せれば、「人にものを教えている」とはっきり言えるのだろう。C古文の読解
2010.05.05
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昔から狂言綺語の類は枚挙に暇がない、というよりも元より文芸の生成の一つの力として空言というものは存在してきた。だが、それが現実の我々を左右しているとってくるとそれは偏執狂に近づき、されに近代という極めて複雑な社会に於いてそれを唱えれば矢張り奇怪の様相を帯びてくる。それを巷では「トンデモ本」というが、なかながいいネーミングだと思う。明治期に木村鷹太郎という奇人があって、非常にユニークな存在として注目していたので本書を手にしたが、記述は非常に短いものだった。東京帝国大学歴史科から哲学科に移り西田幾多郎と同級。卒業後痛烈な仏教批判の書、及びキリスト教批判を書く。陸軍士官学校で英語を教えており、バイロンの翻訳し、また『プラトーン全集』個人訳を試みたことは有名である。本邦初の試みだった。鉄幹晶子の媒酌人をつとめた。彼は何と世界文明の起源が日本であると唱え、ギリシア語やラテン語と日本語の類似性にその根拠を求めるのだが、例証として挙げられているのが「そろり(slowly)」や「骨(bone)」という代物。誰が見ても無茶苦茶だがその本気さには、何か「現実」というものを破ってしまう力のようなものがあるとも言えるのではないか。現在では、タミール語と日本語が云々としたり面さげている国語学者がいるが、科学という根拠に安住するあちらの方はどうなのか。科学ではなく、人間という摩訶不思議な代物が持つ想像する力というものをもう少しまともに考えてもいい。Eトンデモ本の世界
2010.05.04
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武内宿禰の息子の葛城襲津彦、頼朝の息子頼家、足利義政の息子の義尚から鴎外の息子森類まで、没落、放埓、頽廃によって家名を汚した息子たちに焦点を当てた興味深い本。と思って読んでみれば、この著者の書くものはおおよそ文章の体を為していない。~た。~た。~た。の短文の連続でこのような味も素っ気もない文章は教科書でもなかなかお目にかからないだろう。この著者に接続詞の存在を教えなかった編集者の責任か。ただ、佐久間象山の息子啓之助のどうしようもなさにはある種の感動を覚えた。見事なまでにお粗末な生き方である。が、それもまた人の一つの生き方であり、だからこそ我々の心の奥底のどこかに響かうのも確かである。E日本史不肖の息子
2010.05.03
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トヨタの危機は日本企業の歴史の中でどのような位置づけをされるべきなのか。中国の時代への脅威に右往左往する前に、果たして日本の50年は活かされるものなのか否かを検討する必要があろう。我々の五〇年とは何だったのかという問いである。本著は新書としては記述も的確で日本経済史の適切良質な教科書と言える。「失われた十年」を検証する後者も良くまとまっている。C「失われた十年」は乗り越えられたか
2010.05.02
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江戸後期の捨て子の実体を解明しようとするということだが、史料分析や文献の幅の狭さもあり何とも頼りない著になっている。2007年、熊本の病院で設置された「赤ちゃんポスト」への言及も幾つかあるが、棄てるのが「母親」だという世間の通念への懐疑の他は何も語られていないに等しい。現代と近世の捨て子観を比較する為には共同体の変遷等々を視野に入れねばならないし、「近代」というものへの鋭い眼差しが要るだろう。研究としてはノートの段階を出ていない。しかし、まもとにものを考えれば、「赤ちゃんポスト」なるネーミングこそが人の命を軽視するものだ、というくらいの指摘はあってしかるべき。E江戸の捨て子たち
2010.05.01
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