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大学の帰りに、思いついて市民プー ルに寄って、少し泳いでみた。通勤と組み合わせて水泳を するというコースもいいので、来年度、といっても明日からだが、この メニューも取り入れたい。 毎週水曜日の朝日新聞の 「Beアート マリオン情報 美術」 のぺージの「美術館・博 物館」の開催情報を楽しみにしている。館名、催し、 会期、ワ ンポイント、料金、休み、駅・電話が、コンパク トに一覧表にまとまっているので便利だ。「ワ ンポイント」欄は、18字以内でポントを的確に表現してくれているのが嬉しい。 以下に興味のあるものを記しておいて、いくつかまわってみたい。 プ ライオリティの高い館 世 田谷美術館 川上澄生 木 版画の世界東 京国立近代美術館 生誕120年 小野竹喬展山種美術 館 生誕120年 奥村土牛た ばこと塩の博物館 岩合光昭写真展日本民芸館 朝鮮陶器 柳 宗悦没後五十年記念展川 崎市市民ミュージアム 安田靫彦展 歴史画誕生の 軌跡県立神 奈川近代文学館 二葉亭四 迷展江 戸東京博物館 チ ンギス・ハーンとモンゴルの至 宝展 プ ライオリティが次の段階の館 国 立西洋美術館 フランク。ブ ラングイン展東 京都写真美術館 森村泰昌 な にものかへのレクイエ ム三菱一号館美 術館 マネとモダン・パリ太 田記念美術館 広重「名所江戸百 景」の世 界武蔵野市立吉 祥寺美術館 カガヤクシゴト 棟方志功展青梅市立美 術館 大下藤治郎 みず絵の魅力埼 玉県立近代美術館 山本容子のワ ンダーランド 銅版画とちぎ蔵の街美術館 高橋由 一 国 立西洋美術館は、本日から、無料のアイフォ ンアプリを配付し、解説をアイフォ ンで聞けるようになった。これが広がると、毎回払っていた500円ほどのヘッ ドフォン代がかからなくなる。いいサービスだ。 このニュースをTwitterで つぶやいたら、多くの反応があった。TOKYO ART BEATというアプリを重宝しているが、 その会 社で全美術館。博 物館用のアプリをつくてくれないか なあと呟いたら、早速その会社から「やりたい」との反応が返って きた。凄い時代になっている。 また、「ぐ るっとパス」というサービスがあ り、都内70の美術館・博 物館の共通入場券・割引券が2000円で買えるようになっている。有効期間は二ヶ月。これも団塊世代を中 心とした退 職世代に受けるだろう。 今日の一首? 妻留守で 犬の目線に堪える日々 散歩食事と ? 最後の七文字が浮かばない。これは宿題に しておこう。
2010/03/31
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川田龍吉は、1856年生まれで没年は1951年とあるから、江戸、明治、大正、昭和、そして戦後まで生きた95年の人生だった。「生まれは南、最後は北、江戸--昭和」と本人がいっているように、凄い人生だった。土佐出身の父・小一郎(三菱創立、後に日銀総裁)にしたがって東京に出て慶応義塾に入学する。1878年(明治10年)に勃発した「西南の役」で新興の郵便汽船三菱会社は、政府軍の軍事輸送にあたり、急速な発展を遂げる基礎を築いた。そのため、造船工学や船舶機械に精通した技術者が必要となり、父・小一郎の「一職工から叩き上げてくれ」という願いを引き受けてくれたスコットランドの造船所長のもとに、龍吉は三菱の社船を製造していた英国グラスゴーに派遣されることになった。そして鋳造、造機、製図など多方面にわたる実地訓練に励み、その後グラスゴー大学の技芸科で最新知識を学んだ。造船所から与えられた技術証明書には、「彼は、第一級の技能者であると同時に、優れた設計者であると信ずる」と書かれてある。父は日銀総裁として日清戦争の戦費調達に尽力したことをもって、民間人としてはもっとも早く男爵の爵位が与えれた。ちなみに小一郎に日銀で鍛えられたのが39歳で日銀に入り頭角を現す高橋是清ある。高橋は後に1904年の日露戦争の外債募集を成功させている。川田小一郎の薫陶と指導のたまものだろう。龍吉は父の死後、男爵の爵位も継承した。そして41歳の男爵は横浜ドッ ク株式会社の初代社長となり、現在のランドマークタワーのそばの日本丸を係留しているドックをつくる。このころ、川田は蒸気自動車ロコモビルを手に入れ、牛込から横浜ドッ クまでの通勤に使っている。日本人初のオーナードライバーである。順調だった経営も、軍国主義の風潮の中、国内の主要産業を兵站部と見なした軍部による露骨な干渉もあり、社長を退いた。しかし経営危機に陥った函館ドッ クの再建のため、渋沢栄一らから期待され、川田龍吉と弟の川田豊吉は北海道に渡り、経営を立て直す。その後、1911年には55歳の働き盛りで専務取締役を辞し、弟の川田豊吉が後任となる。横浜ドッ クの社長退任と同様に見事な出処進退だった。川田龍吉は、50代半ばの55歳にして、いわば功なり名を遂げたことになる。あとは悠々自適の生活に入るところだが、そうはならなかった。それから亡くなるまでのほぼ40年間を、さまざまな事業の企画や農事研究に励んでいる。オランダの海外拠点であったインドネシアの首都ジャカルタに由来する「ジャガタライモ」を略してジャガイモというようになったが、このジャガイモは別名を馬鈴薯という。寒冷地での飢饉の救済に役だった。多くの品種があったが、ある品種は、品質・収穫ともにすぐれており、川田はその原名を知らずに輸入栽培した。1913年の大凶作では、近隣農家はこのイモで乗り切った。そしてこの種イモを男爵薯として出荷し、それがしだいに評判を呼んで、男爵薯の名前は不動のものになっていく。男爵とはもちろん川田龍吉の爵位である。55歳から本格的に農場経営に乗り出し、男爵いもを開発した。父が男爵の地位をもらいそれ相続したため、男爵いもと命名された。男爵薯に関する龍吉の年譜を並べてみよう。50歳。七飯に農業用地約9町歩を購入。52歳。輸入した種イモを七飯の清香園農場に播き付けする。この中に男爵薯の原種、アイリッシュ・コブラーが含まれていた。57歳。七飯に植えた早生イモが近隣に広まる。62歳。大野の徳川農場へ種イモとして男爵薯を分譲する。66歳。男爵薯の成果高まる。72歳。北海道農事試験場より道庁の奨励品種に指定される。76歳。全道移出農産物品評会で、第一位となる。北海道では相次ぐ凶作、不況などによる生活苦から救われたため、それを導入し、栽培し、普及させた川田男爵に対して感謝の念が強かった。恩義を感じた人々は、「男爵薯発祥の地」の記念碑を七飯町佳鳴川に建てている。55歳までの実業世界に於ける成功よりも、男爵薯という優れたブランド商品をつくりあげるきっかけを提供したことが、後々までの尊敬と感謝をもらうことになった。函館近郊の北斗市にある男爵資料館は、男爵いもを開発した川田龍吉の資料館である。男爵資料館は、牛舎を改造した建物である。本館は一階にトラクター、芝刈り機、ガーデントラクターなどを展示してある。2階から続く震撼は3階建てで、一階はロコモビル蒸気自動車、2階は実験用具・資料文献、3階は農・林・鉱業用具などの展示。全部で5000点の資料が展示されている。この資料館ではヒゲの男爵の服装をした案内人が説明してくれるとういう趣向である。川田龍吉が、長い長い人生を終えた翌年に金庫からスコットランド時代の恋愛の相手であるジェニー・イーディからの手紙が発見された。「サムライに恋した英国娘」(伊丹政太郎・アンドリューコビング)という本に詳しい。留学時代に地元の若い娘・ジェイニー・エディと恋愛する。ジュニーが龍吉宛に出した手紙が 89通残っている。龍吉の死後、金庫から発見された手紙からこの若き日の恋愛の事実がわかった。帰国前、龍吉がジェイニーに伝えておいた住所に着いたはずの彼女の手紙は、 父親が手をまわしていたこともあり、龍吉は読むことはできなかった。このロマンスは、1979年に「いもと男爵と蒸気自動車」というタイトルで愛川欣也が川田龍吉を演じたNHKドラマになった。「サムライに恋した英国娘」は89通のラブレターを読み解いたロマンあふれる労作である。著者は、このNHKドラマのディ レクターだった人物である。川田は、92歳になって近くのトラピスト修道院で洗礼を受けている。このトラピスト修道院は娘のテレジアが入り、病気で亡くなった修道院である。川田は最後はキリスト教としての人生を送る。幕末から戦後までという途方もなく大きな時間と空間を駆け抜けた川田龍吉は、前半の実業家人生よりも、後半の55歳からの農事家としての人生で歴史に名を残したということになる。
2010/03/30
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「日誌と日記は違う」という考え方がある。日誌は航海日誌などのように事実を淡々と時系列で記していくものである。日記は出来事など煮に関する感想や意見を述べるものである。日記を書こうとして挫折する人が多いのは、感想や意見という内面を書かなければならないという脅迫観念に襲われるからだ。それは内面の表白をする作家の日記を意識しているからだ。 まず日誌をつける。そして気が向いたらそれに感想や意見を付加していくというやり方でブログを始めれば、挫折することから免れることができる。今日は、そのやり方で一日を振り返ってみたい。 Twitterで今日は7回のつぶやきだった。それを日誌と見て、そのつぶやきの下に( )の中に感想やコメントをつけて日記とするという形で振り返ってみた。-------------------------- * 今日も生涯の一日なり。(毎朝、起きると座右の銘をつぶやくことにしています。本日は5時に起きました。) * 旧富澤家住宅。富澤政恕は近藤勇が調布から江戸試衛館道場主近藤周助との養子縁組した際の仲人役だった。後に新選組の近藤勇と土方歳三の「殉節両雄之碑」を高幡不動にに建立している。あの立派な碑を建てた人物だったのだ。http://d.hatena.ne.jp/k-hisatune/ 約24時間前 HootSuiteから(朝一番の仕事は、前日のことを記したブログを書くことです。多摩ニュータウンの開発の資料展と旧富澤家住宅のことを書きました)(午前中は、書類整理と締め切りの迫っている原稿書きでした。) * ある財団法人の理事会、評議員会に出席。事業計画、予算書の承認。一般財団法人への移行に伴う手続きの件。一般財団法人になると、株式会社とほぼ同じになる。 約14時間前 TwitBird iPhoneから(午後2時。評議員を仰せつかっている赤坂の財団法人日本総合研究所。寺島実郎理事長、野田一夫会長。欠席の理事には、星野進保、松岡正剛。評議員には岸田純之介、日野原重明という名前もみえる) * 赤坂から九段へ。今度は学内の会議。 約14時間前 TwitBird iPhoneから(15時半から九段サテライトでの全学の委員会に出席。終了後は車の中で事務局の二人といろいろと話をする。就職率は94%まできた。) * 新宿の京王プラザホテルで、大学全体の教職員懇親会。終了後、同僚たちとコーヒーを飲みながら歓談し、いま電車に乗った。うまく座れた。 約9時間前 TwitBird iPhoneから(18時半から京王プラザホテルで年に一回の懇親会。多摩キャンパスと湘南キャンパスの教員と職員が参加。終了後の21時前からは、ホテル内の樹林というレストランでコーヒーを飲みながら雑談) * 財団法人の会議で、久しぶりに天明茂先生と会いました。先日日経の広告で見かけた著書をいただいた。「管理会計実践塾」、TKC出版。ケーススタディで学ぶ管理会計の本だ。一時、体調を崩されていたが、お元気そうで安心した。仙台時代の同僚です。 約8時間前 TwitBird iPhoneから(22時新宿発の電車に座れたのでアイフォンを取り出して、日総研の評議員でもあり宮城大学で同僚だった天明先生からいただいた書籍を開いてみる。) * 天明先生には「挨拶」の著書があります。RT @mna3: 天明先生懐かしいです。あの元気な挨拶をまたしたいです。@hisatune 財団法人の会議で、久しぶりに天明茂先生と会いました。 約7時間前 HootSuiteから(天明先生のことをつぶやいたら反応があった。天明先生は大きな挨拶をするので有名だが、この人はそれを聞いたことがあるらしい。それでたしか「挨拶が会社を変える」というようなタイトルルの著書を書いていたことを思い出したので書いてみた。)
2010/03/29
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「開発の記録--資料に見る多摩ニュータウン」(パルテノン多摩歴史ミュージアム特別展)をみる。3000へクタール、居住人口33万人を目指す大いなる開発。開発主体の東京都と都市整備再生機構の事務所が閉鎖されることに伴う企画展。「記録映画にみる多摩ニュータウン開発」が興味深かった。1965年に都市計画が決定され、日本住宅公団、東京都、東京都住宅供給公社の三者が主体となった。日本住宅公団は2005年、東京都の事務所は2007年、都市整備再生機構は2009年にタマニュータウン事務所を閉鎖。小田急多摩線は1974年6月、京王相模原線は1974年10月に開業し、新住民の足となった。記録映画によると、1DKの家賃3万円、4DK91へーべの分譲受託は1590万円。低層テラスハウス87へーべ1500-1900万。タウンハウス82へーべは 2740万まで。メゾネット型賃貸82へーべは 8万5千円。宅地172-277へーべで1486万円ほど。昭和58年(1983年)頃には南大沢の公社4LDK118へーべ4700万円、都営住宅3LDK60 へーべの家賃は4万1千円。聖ヶ丘の一区画は7400万円。昭和60年代煮入ると、125へーべで4950万、ツインリビング96へーべは15万。161へーべ7890万まで。平成に入ると、156へーべの5LDK、ピラミッド型、車椅子住宅、シルバーピア住宅なども現れる。当初目標は8万5千戸だった。21の居住区がある。一居住区は2つの小学校と一つの中学校があり、1万3千人。第一次入居は、昭和46年(1971年)の2690戸っで、諏訪・永山から」開始された。40年前だ。2002年の統計が飾ってあったが、多摩ニュータウンの人口は多摩市10万、八王子市8 万、稲城市2万で20万人となっている。その後も、人口はずっと伸び続けている。奇しくも同日の日経新聞電子版の記事で、多摩ニュータウンの記事を見かけた。東京都の多摩ニュータウンで約40年前に入居が始まった「諏訪二丁目住宅」の管理組合は 28日、臨時総会を開き、老朽化した住宅の建て替え決議を賛成多数で可決した。 高層・集約化する。建て替え規模は「国内最大級」(マンション政策室)になるという。費用は戸数が増える分の売却収入で賄う。中央公園の中にある「旧富沢家住宅」(多摩市)を見学する。明治天皇や皇族が連光寺にあったこの住宅で休憩したという由緒ある住宅である。明治天皇始め皇族が、明治14年(1881年)以降、何度かこの地に兎狩りをした行幸・行啓の祭に「御小休所」として利用された。明治天皇は御殿峠で狩をして楽しかったため滞在を一日延ばして連光寺で兎狩りをした。とのとき、この家は何年頃のものか御下問があって、当主は慶長頃と答えたという。つまり同家の母屋は慶長十五年 (1610) 棟上以来、四百年近くもそのまま使われてきたことになる。一民家としては希なことである。また、この住宅は入母屋造りの式台付玄関のある珍しい家で、パンフレットには18世紀中頃から後半に建てられたらしいとの記述がらう。17世紀か、18世紀か、どちらだろう。そういう言われ以上に興味をそそられたのは、この家の当主は新選組に関係していたことだった。富沢誠政恕(1824年生まれ)は、天然理心流剣術を近藤周助から学び、佐藤一斎から儒学を学んだ。38歳で日野宿の大惣代なる。新選組の援助者だった。政恕は近藤勇が調布から江戸試衛館道場主近藤周助との養子縁組した際の仲人役だった。近藤勇が新選組局長として京都で活躍していたとき、訪問し大変な歓迎を受けている。後に新選組の近藤勇と土方歳三の「殉節両雄之碑」を高幡不動にに建立している。あの立派な碑を建てた人物だったのだ。
2010/03/28
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4月10日刊行の本が進行してい る。NPO法 人知的生産の技術研 究会が創立40周年を機に企画した出版の一つだ。「知の現場」(東 洋経済新報社)は21人の知的生産者の取材だったが、こ ちらの本は9人と少なく、その分それぞれの方の個人史も入っているなど内容が濃い。私自身、蟹瀬誠一さんを除いてインタービュアーとし て全員に取材を行っているが、どの方からも強い刺激を受けた。私は取材も受けているが、編著者であるNPO知研の代表者として 「まえがき」も書いているので、それを紹介する。もうアマゾンでは 予約ができるようになっているようだ。表紙のデザインもお しゃれで本ができあがるのが楽しみだ。以下は、「達人に学ぶ 知的生産の技術」(NTT 出版)ご登場いただいた方々。 * 関口和一(日 本経済新聞論説委員) * 茂木健一 郎(脳科学者) * 軽部征夫(東 京工科大学学長) * 久米信行(久米繊維工業代表取締 役) * 勝間和代(評 論家) * 佐々木俊 尚(ITジャーナリリスト) * 土井英司(エイリス・ブック・コ ンサルティング代表取締 役) * 蟹瀬誠一(国際ジャー ナリスト) * 久恒啓一(多摩大学経営情報 学部教授)------------------------「まえがき」梅棹忠夫先生 の歴史的名著「知的生産の技術」(岩波新書)が 世に出たのは40年以上前の1969年だった。この本の与えた衝撃はす さまじく、ロ ングセラーとなって、広く深く、そして長く、今もなお社会に大きな影響を与え続けている。梅棹忠夫先生 によれば、「知的生産とは、頭をはたらかせて、なにかあたらしいことがら――情報――をひとにわかるかたちで提出すること」であり、この本でも「工業の時 代に続く次の時代は情報産業の時代になり、その中でもとくに知的生産による部分」が大切になると予言している。まさに今日の 情報社 会の本質を見事に言い当てているのは驚きである。この本が与えた影響の一つが、今はNPO法 人となっている「知的生産の技術」研 究会(略称・知研)の誕生だった。1970年に八木哲郎氏が設立した知研は当 時の知のスター達のセミナーを毎 月行い、そのエキスを1978年に 初めて「わたしの知的生産の技術」(講 談社)という本として出版、好評を得て「続」「新」と続けて出版を重ね 数十万人の読者がこのシリーズを手 にしている。「わたしの知的生産の技術」には「八木さんのような人物の出 現だけでも、わたしの「知的生産の技術」という本は意味があったといえる のかもしれない」との梅棹先生の序文がある。現時点で振り返ってこの三冊の本の目次を眺めてみると、紀田順一 郎、加藤秀俊、羽仁五郎、外山滋比 古、小中陽太 郎、渡部昇一、竹 内均、小室直樹、岡 村昭彦、西堀栄三 郎、今西錦司、竹内宏、加藤栄一、大 岡信、堺屋太一、桑原武夫、渡辺京二、唐 津一、長 谷川慶太郎、飯田経夫などの錚々たる方々が並んでいるが、よくこれだけの知の巨人が毎回出講して下さったと驚きとともに改めて感謝の念が湧き起 こってくる。さて、今回ご登場願った方々は、まさに現代の知の最前線を疾走す る人達である。私自身ほとんどの方々のイ ンタビューに参加したが、時代や社会を鷲づかみにするキーワー ドの連続であり、目を開かされる経験を何度もすることになった。また、知的生産を巡る環境の大きな変化であるIT技術の爆発的な進展が、知的生産の方法 と技術を 一変させつつあることを改めて確認することになった。彼らはそれぞれ独自の個性で際だっているのは間違いないが、 やはり知的生産に取り組む姿勢や心構えなどを中心に共通する部分 も多い。それは次にあげるような点である。世の中がどう変わっていくかについての独自の見識を持っている。自らの環境を活用して人生を自らの手でつかみ取っていく姿勢が ある。自ら学び自ら育つ姿勢がある。自らの進むべき方向につい て明確な方向感覚を持っている。独特の見方、独自の思考など強烈なオ リジナリティを追求している。私自身は、人はそれぞれの「生い立ち」「出会い」「出来事」から、人生でもっとも大切にしたいものを「価値観」として形成して いくという仮説を持っている。今回のイ ンタビューでは生い立ちから現在までの個人の歴史を語ってもらえる ように質問を構成し、取り組んでいるラ イフワークを持つに至った経緯などを確認することにしたのだが、こういった仮説の裏付けを得た感じもある。多彩な知のプレー ヤーが生み出した多種多様な知 的生産と、それを導き出した独自のやり方、それを誰もが一定の訓練を施すことによって獲得できる「技術」に高めること、そういった継続的 な努力の積み重ねが情報社会の進化に向けて豊かな実りをもたら すと確認する良い機会になった。知研の特別顧問をお願いしている梅棹忠夫先生 がアドバイ ス下さったように「「わたし」に即しつつ、「わたし」をこえて多数が共有できる普遍的な技術体系の開発という目標」への道を歩 んでいかねばならないと改めて思った。知の最前線で活躍している登場 者たちの熱い想いが読者に届くなら編者として幸いに思う。 久恒啓一(NPO法 人知生産の技術研 究会理事長)
2010/03/27
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小金井市にあ る「江 戸東京たてもの園」を訪問。両国にある江 戸東京博物館の文館として1993 年に東 京都がつくったものである。現地補zんが不可能な文化的価値の 高い歴 史的建造物をこの地に移築し、復元・保存・展示し、文化遺産とし て次代に継 承することを目的としている。高橋是清邸。写真は晩年の高橋是清。赤坂にあった政 治家の高橋是清邸の 主屋部分。この家は2000坪の敷地に建っていた。1902年に完成してから1936年(昭和11 年)に2・26事件で暗殺されるまで30年あまりを高橋は この家で過ごした。総栂普請の和風邸 宅。2階の部屋で寝間姿で布団に座っていた高橋是清に青年将校達 は、銃弾を浴びせ、軍刀で切りつけた。即死だっ た。1854年に芝で生まれ、仙台藩士の高橋家 の養子。横浜でヘ ボン夫人から英語を学ぶ。14歳、藩からアメリカ留学。明治維新を知 り帰国。森有礼の書生、教員、翻訳業、 駅逓寮の役 人を経て、39歳で日銀に入り頭角を 現す。1904 年の日露戦争の外 債募集を成功させる。1927年の金融恐慌で は支払い猶予令(モ ラトリアム)を3週間敷き沈静会化。高梁財政と して評価が高い。「不忘無」(無であることを忘れるな)という書がかかっていた。高橋は日記を 毎日書いていた。「高橋是清自伝」(中公文庫)。前川国男邸。吹き抜けの今を中心に、それをはさむように寝室、書斎を置くという簡明な構成。概観の 全体像は和 風。建築面積は115.55へーべと小さい が、豊かな快適な空間を意識さ せる。1905-1986年。府立一中、一 高、東 京帝大工学部卒。ル・ コルビュジェの事務所に入所し、帰国後建築設計事 務所をひらく。紀 伊國屋書店、慶応大学付属病院、国 際文化会館などを設計。 70歳を過ぎてから各地の美 術館を設計する。東 京都美術館、弘前市美 術館、熊本市美 術館、山梨県美 術館、国 立西洋美術館、福 岡市美術館、宮 城県美術館、国 立国会図書館。日本の公共建築に 大きな足 跡を残している。「前川邦夫 現代との対話」(六曜社) をぱらぱらとめくっててみたが、建築家にとどまらず、思 想・文 化の巨人だったようだ。その他、三井八郎右衛門邸、八 王子千人同心組頭の家、田園調布の家 (大川邸) などをみた。うどんやでの昼食時に、前 に座った外国人とと知り合った。アメリカのサ ンフランシスコにあるピクサーとい う会社の 26歳のア ニメーターだった。6月に封切りのト イ・ストーリーという映画にも参加しているそうだ。そのプ ロジェクトが終わったので二週間を休みをもらって、スタジオ・ジ ブリ、京都、金沢、高山を 巡る。アメリカのア ニメではトップはピクサーと、 次がディズ ニーだそうだ。世界一は、宮 崎駿のスタジオ・ジ ブリ。気持ちの良い若者だった。名刺の 裏に絵を描いてくれた。
2010/03/26
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東山魁夷(1908年-1999年) の風景画 はいつ観ても心が洗われる気がする。以下、最近読んだ五冊の本からの大事なところ の「抜き書き」から。------------------------------「魁偉」の魁には先駆けという意味が ある。北斗七星の一 番最初に位置して星の名でおめでた い字であると、後で井 上靖から聞いている。何故絵を描くのか。それがわかって来たように思えたのです。私の場合は、どうにもならぬ困った人間「だからこそ絵を描くのだというこ とです。絵に打ち込んでいなかれば、どんなことになるかわからない始末の悪い人間であるから、一心に絵を描くことに なるので、、、、。絵を描くことは救われたいからだと、、、。(昭和8年の渡欧の途中の船上で)「自分の世界を 大切にすることだと、その時、私は思った。そうすれば画家としての私は、いかに微少な世界の あるじであろうとも、何らかの存在価値が 生 じるのではないか。」(美の遍歴)1946 年の第二回日展には「水辺放牧」が入選、1947年の 第三回日 展に出品した「残照」が特選、政府買い上げとなり、風景画家と しての歩みを確かなものとする。このとき、東山魁夷は 39歳になっていた。1948年から日展無 鑑査出品資 格を得る。1959年、第六回日展出 品作「道」によって、風景画家と しての画壇での地位は確固たるものになった。このとき42歳と遅い旅立ちだが、それ以後大活躍する。40歳までの前半は、自己の確立ぬ 向けての苦しい模索期であり、後半は次々と多彩な名作 を発表し、国民的画家と 言われるまでになった。「日 本列島は程 良い緯度に位置し、南北に長い地形を、背骨のように山脈が縦走し ています。そして複雑な海岸線で囲まれていま す。、、南は亜熱帯的 な景観か ら、北は亜寒帯的な性格を持つ風土に なっていて、四季の移り変わりが鮮やかでありま す。、、このように日本の風景は 多彩な面をもっているのです。」(美と遍歴)1962 年、54歳。夫妻でデンマー ク、スエーデ ン、ノル ウェー、フィ ンランドをめぐる三ヶ月の北欧の 旅に出る。「仕事は 充実し、健康に も恵まれているが、その日その日の仕事に 追われ、あわただしく毎日を過ご している。そんな生活の繰り返しのなかで、大切なものを見失ってはいないか、そうか。日常的な鎖をいったん断ち切り、大きな自然の なかに身を置く必要があるのではないか。」奥さんおの東山すみさん「東山は起きてから二時間く らい体 操をしていました。、、午前10時 くらいから夜中1時ころまで、ずっと絵を描いています。取材旅行以外はこんな生活が毎日です。」 「一歩アトリエに 入 ると別人になってきます」(東山魁夷を語 る)61歳。昭和44年。1969年。4月 30日から9 月にかけて、夫婦でド イツ、オー ストリアの古都をを巡 り、写生旅行を 続ける。63歳。唐招提寺の森本長老と 会い、かねて打診のあった御影堂の障壁画制作を 正式に受諾する。64歳。この一年を感情和 上と、唐招提寺の研究に あてる。奈良大和路の自然と歴史、文化の 探求につとめ、障屏画の構想を練り、山と海の主題に決定する。65歳。1月から各地を旅行し、 山と海を写生する。秋に構図が決定し、二十分の一小下絵図、五分の一中下図を作る。66歳。1月、中下図を実寸に拡大した大下図を作り、同時 に五分の一の試作も始める。3月、大下図 を仮に御影堂 に取り付けて、最終的に構図を検討し、本制 作に取り組む。71歳。3年続けた黄山、揚州、桂林のスケッチをもとに、 第二次期唐招 提寺御影堂 障壁画の襖絵42面の構想をまとめる。6月に 試作が完成し、本制作に とりかかる。第一期障壁画の主な取材地。竜飛岬、入道岬、温海、蔵王、白石、輪島、黒部、新 穂高、上高地、安 房峠、天生峠、越前岬、城崎、鞆 の浦、宮島、小浜、青海島、足 摺岬、室戸岬、吉野、犬吠埼。 海の図のために本州縦断の 旅、山の図のために日本の最も山深い地域を 踏破し、多数のスケッチを描いた。そして制 作依頼から5年後、第一期障壁画「山 雲」「濤声」が完成する。鑑真和上がついに見ることができなかった日本の美しい山と海を描いたのだ。(東山魁夷へ の 旅)80代に入ると、旅に出ることは少なくなった。そこで絵を描くための心の旅に出る。画家は現場で 描いたスケッチを持ち帰り、画室で構想をまとめ、仕上げるから、若い時に出来るだけ多くのスケッチをしておけば、旅に出なくっても困らない。90歳。老衰のため、 70年の画業を終えて、聖 路加国際病院で死去。
2010/03/25
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高村光太 郎については、「智恵子抄」で その詩を愛唱したことがある。彫刻家でもあったが、断然詩人と しての顔に親しみがある。高村光太 郎に関する書物は実に多いが、多くは智恵子と光太郎との純愛を 巡るものだ。光太郎の後半生に訪れた戦時の役割と、その反省の行動についてはあまり知らなかっ たが、思い詰めて岩手の厳しい山 小屋にこもり自らを断罪している。ここではその心の動きを記したい。 高村光太 郎は、「戦時下の芸術家」で美 術家がとるべき戦時の積極的な役割について具体的に提言しており、また戦後の 「暗愚小伝」において尊敬する人(岸田国士)か ら説得されて「協力会議」に入ることになったこと、会議の 実態、そして後悔の念を記している。戦後はそういった過去を 償う意 味で、自然条件の厳しい岩手の 山荘での孤 独な生活を送る。そして、8年間のブランクの後 で、青森県から依頼された智 恵子がモデルのモ ニュメントの彫刻を作る。ブランクは全 く感じることなくすらすらと指が動いた。マイナスであ るべきものがプラスになっていた。この ような長い時間を経て、高村光太 郎はようやく本来の彫刻家に戻ったのだ。 --------- 「戦時下の芸術家」より。 美術による国民士 気の昂揚というような事も、美の純粋性によてこそはじめて充分に果せる のであって、美の深慮に基かない作品は結局逆な効果を得るに過ぎない。戦時に於ける美術の効用の 方面を考えると、それは押しなべて人心荒廃の防?と、必死邁往の気の振起とにある。人心に美を浸透させる事に成功すれば、美の力は必ずそういう役目を果た す。戦時大いに美を用いるべし、戦時こそ殊に?漫せしむべきである。私はそういう意味から、一つの議題を今度の中央協力会議に 提出して置いた。 「全国の工場に美 術家を動員せよ」といいうのが其の議題である。情勢の進むに従って全国は殆ど一つの軍需工場化するであろう。労務に堪え得る者 は食糧生産者を除く外悉く皆その 労務員となるであろう。その時、重大な関心事は、人がただ機械の延長であってはならぬという事で ある。機 械の延長に過ぎないような感じを人に持たせてはならないのである。 日本全国の工場に 真の美を氾濫せしめよ。それは必ずどのような緊迫困苦の時にも人心を健康に保ち、人心を長期の緊張に充分堪 えしめるであろう。戦時美術家にはそういう奉公の 道もあるのである。 ---------- 「暗愚小伝」から 「協力会議」」 協力会議といふものができて 民意を上通するといふ。 かねて尊敬していた人が来て 或夜国情の非をつぶさに語り、 私に委員となれといふ。 だしぬけを驚いている世代でない。 民意が上通できるなら、 上通したいことは山ほどある。 結局私は委員になった。 一旦まはりはじめると 歯車全部はいやでも動く。 一人一人のもってきた 民意は果たして上通されるか。 一種異様な重圧が かへって上からのしかかる。 協力会議は一方的な 或る意志による機関となった。 会議場の五階から 霊廟のやうな議事堂が見えた。 霊廟のやうな議事堂と書いた詩は 赤く消されて新聞社からかへってきた。 会議の空気は 窒息的で、 私の中にいる猛獣は 官僚くささに中毒し、 夜毎に曠野を望んで吼えた。--------------本多秋五 「岩手の山中に自己流 てき?して、「それが社会の約束な らば、よし極刑とても甘受しよう」と書いた高村光太 郎ひとりが例外であった。」
2010/03/24
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作家の新田次郎(1912年-1980年) というペンネー ムは、生まれた長野県諏 訪市の新田の次男坊であるところからつけたも のだ。本 名は藤原寛人。 中央気象台(現在の気 象庁)に勤める役人であったが、1951年(39 歳)に「強力伝」で懸賞小説に当選す る。その作品が1956年の44歳のときに直 木賞を受賞する。その後、二足の草鞋を履き続けるが、1963年から65年にかけて富 士山気象レーダー建設責 任者(測器課長)となり成功させる。66年に54 歳で退 職し、その後14年間にわたり作品を発表し続ける。 「富士山頂」「芙蓉の人」「孤高の人」「八甲田山死の 彷徨」「栄 光の岸壁」「アラスカ物語」 「武田信玄」な どの作品がある。おじは藤原咲平、妻 は藤原てい、次 男は藤原正彦。 おおまかにいうと、役人として仕事を しながら、44歳で作家となり、その後10年間は役人作家と して二足の草鞋を履き、54歳から作家として一本立ちしている。作家と しては遅咲きの人である。この新田次郎が、小 説家として自分の誕生の 過程を64歳のときに誠実に書いた本「小説に書けなかった自伝」(新 潮社1976 年刊)を、共感を持って興味深く読んだ。 役所では言動に慎み、小説のことを?気(おくび)にも出さな いいうにするし、仕事の方も人一倍熱心に勤めていた。来十年間私は役人作家と しても座を守っていた。退庁時刻が午後五時。国電に乗って吉 祥寺の自宅へ帰るのが午後六時過ぎ、食事をして、七時のニュースを聞 くと、自 分の部屋に引きこんで十一時までみっちりと書いた。四時間以上書くことはできなかった。床に 入ると、すぐ寝入ってしまった。午後五時になって解放されたときは、ほっとした。ああこ れから明朝までは自分の時間だ と思うと嬉しくてたまらなかった。四十を過ぎて作家になったのだから、なにか特徴のあ る作家と しての存在を認められないかぎり、必ず脱落してしまうだろう。ではいったいなにを主軸に書いて行くべきかというのが、私に取って大きな課題だっ た。役所から帰って来て、食事して、七時にニュースを聞 いて、いざ二階への階段を登るとき、<戦いだ、戦いだ>と よくいったものだ。、、七時から十一時までは原稿用紙に向かったままで階下に降りて 来ることはなかった。課長の佐貫さ んには、いちいちことわって出て行った。隠すことはよくないと思ったから、なんでも話した。、、、私の小説が載った雑誌は 必ず何冊か買って課員に回覧することにした。課員に対して私の 夜の仕 事を認めて貰うためだった。当時私は短編長編に 限らずすべての小説を書くに当って次のような作業順序 によっていた。1.資料の蒐集 2.解読、整理 3.小説構成表 4.執筆。小説構 成表というのは、筋書きをグラフ化したもので、横軸 (時間軸) に相当するものが頁数になり、縦軸には、人物、場所、現象などに適当なディ メンションを与えて設定した。人物の相違は色で書き分けた。私は小説を書き始めて二十年以上になるが、 たったの一度も原稿を遅らせたことはなかった。これ は、約 束を履行するために安全率を掛けた仕事をやっていたことを示す以外の何も のでもない。私は、引受けたからには納期は絶対に守るべき だとういう信念を押し通した、、、このためには無理な仕事ははじめから引受け ないことにした。一ヶ月に最低一週間の余裕を常に保持するようにつとめていた。直木賞受賞以来の自分自 身の心の動きと、読者の評価を勘案すると、山を舞台とした小説(山 岳小説) を大事にしなければならないことがはっきりして来た。、、読者が私に求めるものがなんであるかが、おおよそ分かりかけたような気がした。小説は書き始めてから十年、気 象庁の仕事は三十年だった。この三十年間、自分の能力を 思う存分使ったということは一度もなかった。作家として一本立ちできるぞと青空に 向かって叫びたい気持ちになった。小説を書き出してから十六年経ってい た。
2010/03/23
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作家・野上弥生子は、1885年5月6日に大分県臼杵町で生まれ。1985年3月 30日に逝去している。あとひと月少しで百才になるところだった。夫・野上豊一郎を通じて夏目漱石の指導を受ける機会に恵まれる。22歳で「縁」を書いてから99歳で亡くなるまで70年近く小説を書き続ける。20年かかった「迷路」、生涯の傑作「秀吉と利休」などを書いたが、この傑作は77歳から連載を開始し翌々年に賞を受ける。昭和55年度の朝日賞の受賞理由は「70余年という世界にも類例のない長期の現役作家活動を続け、、」だった。野上弥生子の日記は、38才から死の十七日前まで、実に62年分が、ほとんど毎日あり、119冊のノートに記されている。---------------「人間・野上弥生子」(中村智子)「一日のことは、その日だけに生じ、感じ、出逢ふもので、一生にもう一度といふことのないものだけ、どんな無為で変化のない日でも、その人にとっては大切なものと知っていながらこの怠りを繰り返すのは残念である」「一日怠ればその日はただ水の泡として消え」ると言っている。後に編集者とその夫人が原稿用紙に浄書したところ、二百字詰めで3万8千枚に達した。これは、300枚の本としてみると、63冊分に相当する。「何を書いても眼高手低の悲しみをかんずる。」「一葉のみが明治大正を通じて唯一の女流作家といふわけではないとおもふ。私などでも、一葉よりは或る意味に於てずっとよい仕事をしているつもりなり。」一日に二百字原稿用紙2,3枚。多くて5,6枚。「この頃、ジイドの女の学校と未完の告白をよみつづけてよみ終る。やっぱり叶わないかんじ、、。とにかく、かうしたものを読むとどんな困難を犯しても第一義的な仕事から遠かってはならないといふ勇猛心がふるひ起こされる。」(51歳)「高い目標をおいて書かなければならぬ、といふことを今更に感じる」(61歳)「かうして見ると、頭脳的な仕事はなんと辛いものかとつくづくおもはれる。」(63歳)「現在もっている最上の力より以下の仕事をしてはならない、とするリルケの言葉は私たちも死ぬまで忘れてはならないものであろう。」「日本でも画家は七十八十でなほ本格的な仕事をすてないのに、文学者には一人もないなら、私がその一人になって見ようか。」(70歳)---------------------「野上弥生子日記」を読む 戦後編 「迷路」完成まで(稲垣信子)昭和21-30年の日記。「書くまでは思いもつかなかった事が、書くあいだに順々に出て来て、こんな片々たるものでもよい思ひつきであったと自分で考へられる考へや表現がある。それでこそ執筆は怠ってはならない。書かなければ、現はれるものも、現はれないで終るのだから。」「高い目標をおいて書かねばならぬ、といふことを今更ながらに感じる。私も63だ。、、、今の時間と独居の静寂を利用しなければならぬ」「まへの夜までは思ひつきもしなかった事が、アタマの中に浮きあがって来る不思議さ。このたのしみがなければ、書くことは苦痛のみにならう。」-------------------「野上弥生子随筆集」(竹西寛子編)から。野上弥生子の先生は、夏目漱石だった。「先生からこれでよいといわれることが最上の名誉であり、満足であった」「信条らしきものを無理にあげて見よ、といわれるなら、一つだけは答えることができる。「汝自らを知れ。」」「私は今日は昨日より、明日は今日よりより善く生き、より善く成長することに寿命の最後の瞬間まで務めよう。」
2010/03/22
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日野市にある新選組関係の三つの資料館は、第一・第三日曜日の午後のみの開館なので、なかなかタイミングを合わずに訪問することができなかった。スケジュール表の該当日に「土方歳三資料館」と書き続けてきたのだが、ようやくその日がきた。土方歳三、と井上源三郎は新選組、佐藤彦五郎はその支援者である。それぞれの子孫が自ら資料館にいて、解説をしてくれるという珍しい連携である。半日かけると新選組の全貌がみえるという企画になっているのが素晴らしい。4つ施設をまわって最後に、この3月にオープンした日野市立新選組のふるさと歴史館でこの新選組ツアーが終了する。1834 年生まれの近藤勇、1827年生まれの佐藤彦五郎、そして先日訪れたが閉館日だった小島資料館の小島鹿之助は、義兄弟のちぎりを結んでいた。また、新選組の多摩四人衆といわれたのは、近藤勇、土方歳三、沖田総司、井上源三郎である。この多摩地区には本来の武士集団はいない。徳川幕府の直轄地である天領であったため、徳川家に対する忠誠心が強く、また武道をたしなむ尚武の風がある土地柄である。月に2回のみの開館ということもあるのだろうが、どこもそれなりの訪問者がいる。家族連れや若い女性も多いので、どこも賑やかで和気あいあいの雰囲気だ。「新選組のふるさと・日野市」というメッセージには納得感がある。徳川幕府への忠誠、新政府批判、そして自由民権運動、国会開設への流れが、この多摩にはあきらかにある。4 月にリニュアルオープンする「自由民権資料館」や、小島鹿之助の小島資料館にも足を運びたい。 * 土方歳三資料館新選組副長として天下に名をとどろかせた一代の英雄・土方歳三(1827-1869年)。司馬遼太郎の名作「燃えよ!剣」やNHK大河ドラマでの颯爽とした姿、函館五稜郭の記念館などで土方の人生には触れる機会が多かったが、今回は育った実家にある資料館を興味深くみた。子孫の陽子さんから、その娘の愛さんが書いた「子孫が語る土方歳三」(新人物往来社)などの書籍を購入する。榎本武揚の書があった。「歳三という男は、軍議などの際、部屋に入ってくると清らかな風がなびくようなそんなさわやかな人物であった」という意味の書だった。遺品の鎖帷子(くさりかたびら)があった。これは戦闘時に着用した鎧のようなものだが、右後方に槍で突かれた穴があったのはなまなましい。土方家は、副業として石田散薬を開業していた。打ち身、くじき、骨接ぎの特効薬で、歳三はこれを各地に売りながら、諸国の情報に詳しくなったようだ。俳句もたしなみ「豊玉」(ほうぎょく)という俳号も持っている。土方歳三は、剣と教養の人だった。 * 佐藤彦五郎資料館佐藤家16代目子孫・佐藤福子さんとその夫が、自宅につくった資料館で解説してくれた。土方歳三のすぐ上の姉のノブが彦五郎の妻になっている歳三の7 つ上の義兄である。もともと従兄弟関係でもある。この人物は、名主の職にあり1863年の浪士組上洛には参加できなかったが、日野にいて新選組の物心両面での援助を続けた人物で、後に初代多摩郡長にもなっている。この家は記録を残すことを大事にした家で、彦五郎の子孫は代々日記などがある。源之助(俊宣)は「今昔備忘記。仁は「離蔭史話」だが、30年にわたって400字詰め原稿用紙で400枚以上になる。これを参考に子母沢寛が「新選組始末記」を書いた。ブログ「福子だより」」というのがあるそうだ。 * 日野宿本陣武州日野宿総名主屋敷。天然理心流佐藤道場跡。本陣とは殿様が指揮をとるところという意味で名主の家がそれになる。この立派な建物は佐藤彦五郎が建てた。ケヤキの大黒柱が45センチあり実に立派だ。ここの一室に土方歳三が京都から戻った時に泊まった。その部屋には「及武及文」という額が掲げてある。文武両道という意味だが、武が先に書いてあるのは多摩らしい。 * 井上源三郎資料館ここでも井上松五郎(1822年生まれ)、源三郎(1829 年生まれ)兄弟の子孫の館長の井上雅道さんが案内してくれた。この家は沖田総司と縁戚関係にある。八王子千人同心の流れの家である。八王子千人同心とは、甲州武田氏の旧臣を中心に徳川が江戸防衛のの一環としtれ甲州口の防衛と治安維持のために配置された郷士集団。後に帰農する。源三郎は新選組で六番隊隊長。 * 新選組のふるさと歴史館2010 年3月にオープンしたばかり。天然理心流は、木刀五本に始まり木刀五本に終わるといわれる実戦剣法。肉を切らせて骨を断つ。
2010/03/21
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このブログ「今日も生涯の一日なり」の連続記入が、本日で2000日を達成した。始まりは、楽天ブログで2004年9月 28日だったから、もう5年半になる。最初その日の出来事のみを記した日誌的な内容が多く、数行という量だったが、感慨、感想、意見、見たこと、聞いたこと、事件、世の中の動き、家族の動向、エッセイ、メディアに登場した記事、友人のこと、尊敬する人物の言葉、人物記念館の旅の記録、講演やセミナーの講師のときの受講生の感想、大学の講義のアンケート、とだんだん話題も広がり、書く量も増えてきた。毎年ブログの内容を冊子の形態にまとめているが、この蓄積も大きい。継続するためには、外部環境や自分自身の変化への対応に日常的に対応、対処していく必要がある。毎日が、途切れるかもしれない崖っぷちにに立っているという感覚だが、襲ってくる様々な事件、困難、気力の喪失などにその都度対処していくと、続くということになる。もし、一日でも怠ければ、いつの間にか書かなくなるのではないかとも感じている。記録というものはそういうものだろう。さて、2000という数字はどういう数字か。すぐに念頭に浮かぶのは、プロ野球の2000本安打だ。名球会という一流選手の親睦会があるが、この入会の条件は、ピッチャーなら200勝、バッターなら2000本安打である。高いレベルの実績を長い間続けるということができなければ、名球会には入れない。自己満足ではあるが、ブログ2000日は一応このレベルに達したと甘い判断をしておこう。3000安打は日本では張本のみ、そしてそれを超えたイチローは生涯記録4000本安打と世界記録に向けてプレーを続けている。これからも「今日も生涯の一日なり」と毎朝twitterでつぶやき、それからブログに向かうという習慣を続けていきたい。この日は奇しくも我が大学の卒業式だった。今年の卒業式での学長、来賓などの挨拶の特徴は、20周年を機に改めてつくった教育理念「現代の志塾」という言葉をほとんどの人が使ったことである。2008年度に決め、2009年度から使い始めたこの言葉を内外の人が折りに触れて使い始めており、完全に全学の方向感が決まってきたと思う。今年の卒業生は、「現代の志塾」多摩大学の第一期生である。寺島学長「アジアダイナミズムと付き合う時代。卒業生はアジアのGDP25%が20年で50%になっていく時代を生きる。中華系と韓国人を合わせて400万人が訪日しているが、あと5年以内に1000万人になる。アジアへの偏見がまったくない世代、解放された世代。就職率は92.8%(本日現在)。一人は小さな存在だが、教養や知性を磨き、世の中に自分の役割を見つけ、一歩前進することに貢献して欲しい。大学で身につけた「構え」で、社会で花開いて欲しい。鈴木大拙は「アーチスト・オブ・ライフ(人生の芸術家)になれ、自分の絵の具と筆を使って自分の絵を描けといった。諸君!グッドラック!」この学長の祝辞をユーストリームを使ってアイフォンで実況中継をしてみたのだが、すぐさま過去の卒業生から反応があった。自分の時はグレゴリー・クラーク学長だったというメッセージがTwitterにあった。終了後、教員ラウンジで昼食を摂りながら、同僚達と歓談。14時半からは、多摩センターの京王プラザホテルでの謝恩会に出席。私は多摩大に来て2年なのでこの年の卒業生にはゼミ生はいないが、何人かと話をする。就職先は、証券会社、不動産、大学院、介護関係の資格取得中、飲料関係業界を経て独立する予定者など、頼もしい。
2010/03/20
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九段でギリークラブ渡辺さんと相談、市ヶ谷で国際協力機構(JICA)で研修講師、日本橋で東洋経済新報社との新規プロジェクト打ち合わせ。緒方貞子さんが理事長をつとめるJICAは、日本の国際貢献の重要な柱である政府開発援助(ODA)を一元的に行う機関としてとして、開発途上国の経済、社会の開発、復興、安定に寄与し、「人間の安全保障」の実現を図ることを目指している独立行政法人だ。「日本のソフトパワーを発揮する」ことが、緒方理事長のメッセージだ。このJICAから研修講師の依頼があり、市ヶ谷のJICA研究所に出かけた。国際協力人材人材部の武田浩幸次長らのスタッフとの打ち合わせ、30人ほどの職員に向けての講義と演習を3時間ほど行ったが、志の高い集団であるとの印象を持った。こういう人達が国際協力の現場を支えているのだと頼もしく思った。今回は来年度の導入に向けてのデモンストレーション研修で「国際協力人材のための「図解コミュニケーション」のすすめ」というタイトルである。国際協力の現場を意識した講義を行ってみた。募集したところ、3倍以上の申込みがあり抽選だったとのことだ。こういう仕事には特にニーズは高いはずだ。講義では、JICAの4つの使命、国際協力人材の 6つの能力に関する箇条書き的記述を、私なりに図解をしてみたものも解説してみた。以下、受講者の所属をあげてみるが、途上国からの国際協力のニーズがみえるようだ。資金・管理部市場資金課・東南アジア第二部計画課・農村開発部・国際協力人材部・経済基盤開発部・人間開発部・経済基盤開発部・協力隊事務局・TIC経済基盤開発環境課・国際協力人材部計画課・アフリカ部中西部アフリカ第一課・地球環境部水資源第一課・公共政策部日本センター課・東南アジア第一太洋洲部東南アジア第一課・情報政策部システム第二部・東中央アジア部東アジア課・企画部業務企画第2課・青年海外協力隊事務局計画課・東南アジア3課・情報政策部システム第一課・地球環境部森林自然環境第二課・南アジア部南アジア第一課・産業開発部電力エネルギー課・総務部総合調整課・総合研修センター能力開発課・研修コーディネータ・研修管理室。 * 「広い視野」のイメージがつかめた * 自分自身の頭の整理と相手との認識の共有という点で重要なツールであると感じました * 関係者が多く複雑な話を何度打ち合わせをしても相互の理解が完全に出来ず業務が進んでいくことがあるのですが、図を利用して改善してみようと思います。非常に有益な研修でした。 * 目からウロコの講義でした。図解はコミュニケーションだけでなく思考にも友好だとわかりました。ぜひデモだけでなく全職員(特に若手)対象に研修してください。 * イントロダクション「文章と箇条書きが日本人をだめにした」で、おおっと参加者の興味がひきつけら、その後の3時間はあっという間に過ぎました。「日々の仕事」「自分の仕事」のみならず、色々な事を図でとらえるというのが新鮮でした。 * 「手を動かすと頭がうごく」というのは真実で、講義、演習の中で仕事を著す図をかくと、もっとこの業務に力を入れたい、こうしたいなど、頭を使って考えることが楽しかった。引き継ぎ書などは早速実行する予定です。 * 業務で図がかけないという悩みで参加しましたあg、結局は自分がきちんとわかっていないからだということに改めて気付かされました。また、図を使うと問題解決にも役立つとわかり大変興味を持ちました。 * 自分が描いていた図というのは図解ではないことがわかりました * 事前に関連著書を読んではいたが、実際に講義を受けて理解が進んだ * 図解することによる合意形成の重要性、リーダーの資質等を改めて理解できた。仕事だけでなく、自分の立ち位置、今後の人生目標等の設定にも大いに役立つ * テクニックではなく、図解思考の理念・哲学に触れ、今後の業務姿勢まで変化できそうです。 * 様々な場面で活用していきたい * 自分の課の仕事、自分のキャリアをしかkり図解します * かくも素晴らしい社会変革を巻き起こす勢いのある方にお会いでき光栄です。図解思考を業務に活かし、世界をより良くしていきたいと思います。 * 仕事に、今後のキャリアけいせいに、そして人生設計にフル活用していきたい * 仕事上、外部の人に説明する機会が多いので、図解の技術をもっと勉強しようと思います。 * 説明もわかりやすく、退屈せずに、面白い講義でした。 * 短時間だが充実した講義ありがとうございました。じっくりと時間をかけて考える必要性を再度認識させられました。関係者とのコミュニケーションの改善に今日の知研を活用していきたい。終了後スタッフと懇談。4月からの専門家の派遣前研修で定期的に講師を務めることとなった。
2010/03/19
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国際情報誌「フォーサイト」は1990年創刊だから20周年。その20年で紙雑誌としての寿命を終えるが、今日届いた最新号で「これからの20年」という特集を組んでいる。その中に「次の20年の20人」という記事がある。2010年から2030年にかけて活躍を期待される世界中の人物を挙げて、その人物像を語っている。最年長は、1950年の郭台銘(60才)、1952年のプーチン(58 才)あたり。最も若いのは、1976年生れのラマ・ヤド。日本人は40代と50代。二人の日本人を含むこれら20人を注目した。 * ナイジェリア「ンゴジ・オコンジョ=イウェアラ」(1954 年生れ)-世界銀行専務理事 * リビア「サイフ・アル・イズラム・アル・カダフィ」(1972年)-カダフィ国際事前基金総裁(カダフィ大佐の次男) * アラブ首長国連邦「シェイク・マンスー・ル・ビン・ザイード・アル・ナヒヤーン」(1970年)-副首相兼大統領官房相(アブダビの首長家「ナヒヤーン家」王子) * イラン「ハッサン・ホメイニ」(1972年)-イスラム法学者(イラン革命の指導者ホメイニ師の孫) * 英国「デイビッド・ミリバンド」(1965年)-外相 * フランス「ラマ・ヤド」(1976 年)-スポーツ相 * ノルウェー「トーマス・ホーグ」(1966 年)-アーツ・アランアンス・メディアCEO * リシア「ウラジミール・プーチン」(1952年)-首相 * 米国「ポール・ライアン」(1970年)-下院議員(共和党) * ベネズエラ「ウゴ・チャベス」(1954年)-大統領 * インド「ラフル・ガンジー」(1970年)-国民議会派幹事長(ラジブ・ガンジーの長男、インディラ・ガンジーの孫、ネルーの曾孫) * パキスタン「ハムザ・シャバーズ・シャリフ」(1975年)-下院議員(伯父はシャリフ元首相) * インドネシア「アニス・バウウェダン」(1969年)-パラマディナ大学学長 * タイ「ウィーラチャ・イ・ウィメラタクーン」(1967年)-首相大臣 * 中国「胡春華」(1963年)-内モンゴル自治区党委員会書記 * 中国「馬雲」(1964年)-アリババCEO * 台湾「郭台銘」(1950年)-鴻海精密工業董事長 * 韓国「李在よう」(1968年)-スムスン電子副社長(サムソン・グループ創業者の孫) * 日本「とち迫篤昌」(1953年)-マイクロファイナンス・インターナショナル・コーポレーション社長兼CEO 東京三菱銀行ワシントン事務所長を辞し、2003年に起業。金融の仕組みを使って貧困を解決する。中南米から米国に移住した移民に、送金・決済口座を提供。ネットワークに滞留する資金を移民への小口融資に使う。送金網は100ヶ国。「貧困層のための金融」。 * 日本「伊藤穣一」(1966年)-クリエイティブ・コモンズCEO 起業家にして投資家。ビジネスと非営利活動を並行。ドバイ、米国、日本が主な活動拠点。時代の先端をいくネット企業に投資。共有・公開を促す新しい著作権の形を普及させる米コリエイティブ・コモンズCEO。世界的な産官学政芸の人脈。http://joi.ito.com/jp/
2010/03/18
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NHKの「クローズアップ現代」で、ドラッカーを特集していた。飲食、介護、ゲームなど様々の業界の人がドラッカーの経営書を読んで刺激をうけているという内容だった。ゲストは、コピーライターの糸井重里さんとドラッカーの翻訳を一手に引き受けている上田敦夫先生(ドラッカー学会代表)だった。糸井さんの独特の解釈を嬉しそうに訊いている上田先生の表情が印象的だった。上田先生は、私が「図解・ドラッカー」のゲラを見てもらって出版していいかどうかを相談した方だ。ツイッターでも話題になっており、2004年に刊行した「図で読み解く!ドラッカー理論」(かんき出版)が話題になったので、つぶやきに登場したところ、この本を読んだ人達との交流ができた。以下の会話をしていたら、フォロワーもだいぶ増えていた。「hisatune」は私の発言。http://www.amazon.co.jp/gp/product/4761261935/ref=s9_simh_gw_p14_i1?pf_rd_m=AN1VRQENFRJN5&pf_rd_s=center-2&pf_rd_r=0XW9BJYMTBTNSN59S5NS&pf_rd_t=101&pf_rd_p=463376756&pf_rd_i=489986---------------nicorista8:27pm, Mar 17 from TweetDeck久恒啓一さんつぶやいてらっしゃいますよ~ @hisatune RT @HAL_J: 要約版でお勧めなのがこちら>図で読み解く!ドラッカー理論/久恒 啓一hisatuneNHKクローズアップ現代は、ドラッカーがテーマでした。上田先生と糸井さんがゲスト出演。ドラッカーを日本に最初に紹介したのは、多摩大初代学長の野田一夫先生です。私もドラッカーの本を数年前に出したので、興味深くみました。hisatune9:39pm, Mar 17 from HootSuiteありがとうございます!あの本は2004年に出したのでそろそろ文庫化かなあ。RT @nicorista: 久恒啓一さんつぶやいてらっしゃいますよ~ @hisatune RT @HAL_J: 要約版でお勧めなのがこちら>図で読み解く!ドラッカー理論/久恒 啓一HAL_J9:42pm, Mar 17 from TweetDeck.@hisatune まさか久恒さん本人にまで伝わるとは驚きです。6年前に読んだドラッカー図解本は素晴らしかったです!この本を紹介するblog記事を書きましたので良かったら読んでください。http://bit.ly/djrdGYtako829:44pm, Mar 17 from Tweenオレンジ色の帯の本ですか? QT @HAL_J: .@hisatune まさか久恒さん本人にまで伝わるとは驚きです。6年前に読んだドラッカー図解本は素晴らしかったです!この本を紹介するblog記事を書きましたので良かったら読んでください。http://bit.ly/djrdGhisatuneそうです。きっかけは大学院の授業でドラッカーを図解しながら議論したことです。つじつまが合わずに「ドラッカーは頭がおかしい」ということになり、材料として扱い、自分たちの経営理論を議論しました。もっとも自分達の理解の未熟さは棚上げ素しても良いという前提でしたが、、、。RT...hisatuneニーチェ、ドラッカー、、、。「本物の時代」が来つつあるという予感がしますね。nicorista10:01pm, Mar 17 from Webなるほど。20世紀の巨人2人ですね。それ以前まで遡ると更に面白いけどなあ。RT @hisatune ニーチェ、ドラッカー、、、。「本物の時代」が来つつあるという予感がしますね。hisatune10:04pm, Mar 17 from HootSuiteリンクが違いません?RT @tako82: オレンジ色の帯の本ですか? QT @HAL_J: .@hisatune...tako8210:13pm, Mar 17 from Tweenあれれ。。。申し訳ありません。 QT @hisatune: リンクが違いません?RT @tako82: オレンジ色の帯の本ですか? QT @HAL_J: .@hisatune...hisatune10:30pm, Mar 17 from HootSuite書評読みました。嬉しく思います。RT @tako82: あれれ。。。申し訳ありません。 QT @hisatune: リンクが違いません?RT @tako82: オレンジ色の帯の本ですか? QT @HAL_J: .@hisatune...hisatune「ドラッカーを超える会」という会があります。私も会員です。会則では業績においてドラッカーを超えるのは無理だから、せめてドラッカーの年齢(当時は90才か)を超える事を目標にしようという愉快な会です。それが発展してドラッカー学会(上田敦夫代表)になっています。NHkdふぇは代表...bucchanpinta10:30pm, Mar 17 from Tweetie@hisatune チャーミングですね。 高い目標が人間を成長させてくれますから、もしかしたらいつの日か業績も超える人がでるかも。 それにしてもドラッカーの教えは私のビジネス人生における原理原則です。HAL_J10:37pm, Mar 17 from TweetDeck.@hisatune 6年前に読んだ本でいまお礼を言うのも不思議な気持ちですが、Twitterでの今夜の出会いに感謝します。 Replyありがとうございました。sakafuji1:38am, Mar 18 from Webわたしはマクルーハンも混ぜて欲しい気がします。どれも原典にあたってみたい気持ちだけは忘れずにいます。 QT @hisatune: ニーチェ、ドラッカー、、、。「本物の時代」が来つつあるという予感がしますね。hisatune4:33am, Mar 18 from HootSuite「もしかしたら、、」が、本当に「なるかも」という「ニュアンスが面白いですよね。RT @bucchanpinta: @hisatune チャーミングですね。 高い目標が人間を成長させてくれますから、もしかしたらいつの日か業績も超える人がでるかも。...hisatune4:33am, Mar 18 from HootSuiteおかげさまで久しぶりに思い出しました。RT @HAL_J: .@hisatune 6年前に読んだ本でいまお礼を言うのも不思議な気持ちですが、Twitterでの今夜の出会いに感謝します。 Replyありがとうございました。------------------
2010/03/17
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遠藤周作は1923年(大正12 年)生まれだから、亡くなった私の父と同年生まれだ。この世代のことは見ているからなんとなく親しみを感じる。著作以外に覚えているのは、二つ年上の兄・正介が素晴らしい秀才で東大を出て専売公社のトップにまでのぼりつめており、よく兄弟の比較論が雑誌に出ていたことだ。弟の方は小学校時代から成績はほとんど乙であるのに兄は全て甲であった。遠藤自身も「子どもの頃、私(遠藤)は、すこし低能だった。二つ上の兄は秀才だったので、頭が上がらなかった。」とあるエッセイで書いている。確かに、旧制灘中学卒業後、周作の方は浪人生活3年を経て、慶応義塾大学文学部予科に入学している。父親は医学部に合格したと思っており激怒、勘当される。やむなく友人の利光松男の家に転がり込んでいる。「しかるに雑誌が遠藤兄弟を取り上げるのは「学校の成績などあてにならないという見本として晒す魂胆である」と兄自身が嘆いていたことがある。こういう比較ものは、1997年の「追悼保存版 遠藤周作の世界」にも「顔色なし 賢兄の座」というエッセイを兄が書かされていた。この兄も相当な人物であったようだ。 遠藤周作という作家は 2つの顔を持っている。「沈黙」に象徴される信仰を巡る深刻な悩みを描く小説を書き続ける作家という顔と、グータラで愉快なエピソードで笑わせる「孤狸庵山人」というキャラクターである。(町田の四半世紀住んだ自宅の話を補足する)学生時代にだったか、系統の違う2冊の本を続けて読んで違和感を感じたことを思い出した。その答えが本に書いてあった。「遠藤周作をもし人生に好奇心を抱く男の名とすれば、孤狸庵はさしずめ生活に好奇心をもつ男の名であり、この二つの名が矛盾せずに私の顔にペタリとはりつけられている」と「よく学び、よく遊び」という本でその秘密を語っていた。人生にかかわる部分と生活にかかわる部分を分けて書いていたのだった。また、あるところで遠藤はグウタラ的作品は、「自分が持っているテーマをいろんな日常生活の中で、それぞれ楽しくわかり易く読んでもらうような書き方」をして、純文学の方は「ほとんど読者を意識しません」と言っていた。本人の頭の中では自己分裂はしていないとのことである。ライフという言葉には、人生という意味と生活という意味がある。遠藤周作は、この二つのライフを意識して使い分けていたのだ。母親から「お前は、一つだけいいところがある。それは文章を書いたり話をするのが上手だから、小説家になったらいい」と子どもの頃に言われた遠藤は、小説とも童話ともつかぬ文章を書いて母に見せると、褒めてくれたので、それを真に受けて、小説家になろうと思い出したのである。「今は他の人たちがお前のことを馬鹿にしているけれど、やがては自分の好きなことで、人生に立ちむかえるだろう」という母親の言葉に励まされたのだ。中国・大連で生まれ、灘中学、10歳で洗礼を受けキリスト教徒になる。18歳上智大学予科入学、20歳慶應義塾予科入学、フランス文学科、 25歳フランス留学、 30歳帰国。32 歳「白い人」で芥川賞(安岡章太郎、吉行淳之介、広野潤三らと第三の新人と言われる)、36歳最初のユーモア小説「おバカさん」、43歳「沈黙」でセンセーションを起し谷崎潤一郎賞、50歳「ぐーたら」シリーズがベストセラーになり孤狸庵ブーム、52歳「遠藤周作全集」、 56歳「キリスト 」で読売文学賞、62歳日本ペンクラブ会長、70歳遠藤文学の集大成といわれる「深い河」で毎日芸術賞、72歳文化勲章、、、。経歴を眺めた限りでは、順風満帆の小説家人生と見えるが、母親からの励ましを胸に、遠藤自身はなんとか精神のバランスを保ちながら、たゆまず仕事をしていった。この作家は人生に関するエッセイがいい。これもファンが多い理由だろう。 * 人間はたくさんの情熱は持てない。たった一つのことで人生を送るより仕方がない * 今ふりかえってみると、まずしいながら私だけの作風をやっとつかむことができたのは50歳になってからである * 人間は青年時代は肉体で世界を捉え、壮年の時は心と知で世界を捉え、老 年になると魂で世界をつかまえようとする」(思想家シュタイナーの言葉) * 私の人生のすべてのことは、そう、「ひとつだって無駄なものはな かったと今になって思うことがある」人生最後に応諾した著書が「生きる勇気が湧いてくる」だったという遠藤周作らしいタイトルだったが、この中に共感する書きつけがあった。「私は地方の町に行くと、必ずその町の役場に山城の跡はありませんかと問いあわせることにしている。、、、。その山城をめぐる攻防戦や、そこに拠った一族の歴史をあとで調べることにしている。その結果、それらの場所が私だけの名所旧跡になる。」これが遠藤周作の知的生産の秘密だったのである。独自の情報、独自の現場、独自の資料、そういうものが集積する仕組みを持っていたということだと思う。 葬儀では「沈黙」と「深い河」の2冊を遺志にしたがって棺の中に入れたという。(「沈黙」と「深い河」を少し補足する)「深い河」はガンジス河、「海と毒薬」は九大医学部生体解剖事件、「侍」は支倉常長、「メナム河の日本人」は山田長政、「王の挽歌」は大友宗麟を描いた作品である。また、織田信長への関心も強い。遠藤は人物を中心に小説を描いていて、その題材はキリスト教に関係するものが多い。「メナム河の日本人」では、日本で最初にエルサレムを訪れローまで勉強した知識人である大分国東のペテロ岐部が登場する。岐部はアユタヤで山田長政と出会っている。「小説で書けるものは戯曲には書かない」という遠藤は戯曲を小説よりも高いものと考えていた。小説は、読者は作者の存在を感じることになり、一元的に理解を統一しようとする。戯曲をもとにした演劇は、劇作家、演出家、俳優、観客が同時に参加する表現形態である、としている。劇団「雲」の「黄金の国」は、演出は芥川比呂志、舞台装置は清家清、俳優は寺田農、真屋順子、作は遠藤周作だった。遠藤は小説一筋というタイプの知識人ではなかった。好奇心と茶目っ気のままに色々な企画を実現している。樹座(きざ)という素人演劇集団の旗揚げ、日本棋院・関西棋院に対抗するとうそぶいた宇宙棋院の創立(永世名人・名誉会長)、ダンスのサロン・ド・ロア・ポーブル、合唱のコール・パパス、樹座絵画クラブ、詩と音楽の夕べ、ファッションショー、遠藤ボランティアグループの結成、、、とまことに人生を謳歌している姿が見える。遠藤周作学会という学会も存在している。遠藤文学だけではなく、遠藤周作そのひとを対象とした学会だそうだ。このような学会が存在すること自体が面白い。そういう騒ぎを遠藤自身はあの世で楽しんでいるのではないか。「ある時期から私は自分のなかの色々なチャンネルを一つだけと限定せず、できるだけ多く廻してやろうと考えはじめた。音ひとつを鳴らして生きるのも立派な生きかただが、二つの音、三つの音を鳴らしたって生き方としては楽しいじゃないかと思うに至ったのである。」これがその多彩な動きの理由であった。「私は自分のなかのいろいろなチャンネルをまわし、人の二倍を生きた気持ちになっている。」「その生き方が、ほどよいバランスを保ち、気分を変えながら長く小説を書き続けることができた要因ではないかと思えてくる。」「いろいろな意味がつながって大きな意味に向かいつつあるのを今、感じる。」遠藤は、「60歳になる少し前ごろから私も自分の人生をふりかえって、やっと少しだけ「今のぼくにとって何ひとつ無駄なものは人生になかったような気がする」とそっと一人で呟くことができる気持ちになった。」と述べてもいる。「特にスランプのひどい日には、思い切って夕方まで遊ぶことにしている。それもダラダラと遊ぶのではなく、徹底的に遊ぶのである。そして夜になってから、思い切って原稿用紙をひろげる。ひろげて、とに角、何でもいい、書きはじめる。書きはじめている間はまだスランプの気分が残っているが、やがて没頭できるようになるものだ。」「プロの一生とは不断の勉強の連続だ。、、夜の夢の中でもそれを考えていることさえある。プロとはそういうものだ。」「年をとっても、第一線から退いても、若い者たちが次々とやってくるようになるためには、仕事関係だけでなく、人間関係でたくさんの若い友人を持っていなければならない。」友人関係の多彩さ、これも遠藤の創作の秘訣だろう。長崎郊外の外海(そとめ)の東シナ海を臨む断崖の突端に立つ瀟洒な遠藤周作文学館。ここから眺める海が素晴らしい。「神様が僕のためにとっておいてくれた土地」と作家・遠藤周作が言った場所である。外海は、250年という気の遠くなるような年月続いた隠れキリシタンの住んでいた町でもある。観音様にマリアを抱かせた像を拝むなど、様々な工夫があった。この地から見える五島列島はキリスト者が役人から追われて住み着いた島々だった。後に遠藤藤夫人は「執筆するところは女が産室へ入ってるときと同じだから絶対出入りするなと申しておりました。」とも語っているように、本業の場面では真剣勝負をしていた。本業では、小説とエッセイという二つの文体を使い分ける。人生では、興味に任せてさまざまなことに好奇心を燃やす。そういう上手な気分転換の上に遠藤周作のコンスタントでレベルの高い創作活動が営まれていた。前に引用しているように、50才でようやく自分なりの作風を確立できたという述懐は意外な気もするが、過去のあらゆる苦難、興味、活動、そういったものがゆるやかにつながって、一つの体系のような形を取り始めてきたということだろう。その後、73才で逝去するまでの時間を小説家もエッセイストも人生も一緒になった遠藤周作として生きたのではないだろうか。
2010/03/16
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雑誌の廃刊が続いている。生き残っている雑誌にしても広告が入らないのですっかり薄くなってしまった姿を書店で見かけるようになった。「文芸春秋」という年配向けの雑誌は、意外に健闘していて、40万部という線を維持していると聞いた。4月号を改めてめくってみた。冒頭のエッセイ欄はなかなか読ませるものが多い。私が好きなのは作家の阿川弘之の身辺を巡るエッセイだが、ここ数回は「水交座談会」シリーズで二次対戦の当事者の軍人達の回顧録を載せている。はやくもとの身辺エッセイに戻ってもらいたい。作家の林望の「近世文学としての源氏物語」は、「活き活きとした現代語訳を書きたいという大きな大きな宿志を抱くようになった」経緯を書いてあり、この3月の第一巻から始まる「きん訳 源氏物語」を 2年ですべてを書き切ってしまう計画だそうあ。だから目下、荒行のような生活中であるとのこと。ライフワークに敢然と立ち向かう姿がいさぎよい。駐日インド総領事のヴィカス・スワラップは、「日本に来て、もう一つ驚いたことは、日本の将来を悲観的に見ている人がいることだった。特に実際に会ったメディアに携わる人々に多い。、、共感できなかった。、、、日本人はもっと自分たちが築いてきた社会に自信を持っていいのではないだろうか。」この見方に私も大いに共感するところがある。ソフトバンクの孫正義の「「事業家」竜馬こそ私の手本」もよかった。 * 私のいう事業家とは、事を成す、新しい世の中の仕組みを作り上げる人のことです。、、、人々のライフスタイルや、社会のインフラなどに劇的なパラダイムシフトを成し遂げる。それが事業家であり、すでに出来上がったシステムを治め運営するのが経営者であり政治家の仕事になります。(セコムの飯田氏から同じ考えを聞いたことがある。政治家は事業家ではないと言い切っているのが面白い) * 人生を登山にたとえるならば、自分の登りたい山を決めることで、人生の半分は決まると思います。 * 事業は初期設定が非常に大切です。第一歩に、その事業の可能性が集約されているといっていい。 * 今の日本に最も欠けているのは、リーダーシップと立国のための戦略だと思います。 * 今の日本に必要なのは情報立国への戦略なのです。、、情報技術を生かした生産、流通システムが必要になる、ということです。 * 情報化社会という新しいパラダイムのもとで、どう日本の競争力を高め、人々が幸せに暮らしていけるようにするか、法律や国家予算の配分なども含め、真剣な議論が必要だと思います。磯田道史の連載「新代表的日本人」は中根東里だった。「四書五経は指にすぎない。大切なのはその彼方にある月だ」「書を読む人は、読むまえに、まず大所どころは、どこかを考え、そこをきちんと読むことを心掛けてください。、、みなさんは道を得るために、まっしぐらに、書物のなかの大切なところをみつけて読んでいかなくてはなりません、、、」(図解の考え方と同じだ)「聖人の学というのは、煎じつめれば、仁の一字につきます。仁とは万物一体の心のことです。義も礼も智も信も、みな、そのなかに含まれます。」「一、樵父は山に登り、漁夫は海に浮かぶ。人おのおの、その業をたのしむべし。二、水を飲で愉しむものあり。錦を着て憂えるものあり。三、出る月を待つべし。散る花を追うことなかれ。」(学塾にくる人の心得「壁書」)(大学のゼミにも壁書が必要だ!)文春ブッククラブには佐藤優の連載がある。4月号では冒頭の「ある問題について究明する場合に、避けて通ることができない本が私の考える古典だ」(これには納得。)
2010/03/15
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町田市立自由民権資料館を訪問するが、資料整理で3月末まで休館だった。資料のみもらってくる。明治10年代に盛り上がった自由民権運動は、憲法を立てて、国会を開設し、国民の政治参加の権利を保障し、後進国である日本の危機を打開しようとする全国的な政治運動・思想運動として展開する。その拠点となったのが多摩地域だ。この地域では裕福な農商民が運動のリーダーとなた。1893年まで神奈川県に属していた三多摩での民権運動は武蔵国と相模国に分かれていたが、町田地域の民権家たちは両地域を結びつけようと運動を展開した。石阪昌孝、村野常右衛門、青木正太郎、細野喜代四郎などの、民権家が町田から出ている。4月になったら再び訪れたい。町田市民文学館・ことばらんど。多摩に四半世紀にわったて住んで執筆活動を重ねた遠藤周作の遺族から蔵書・遺品の寄贈を受けたことがきっかけで、2006年にこの文学館がオープンした。町田の文学資源をつなぐネットワークの要としての機能がある。遠藤周作文庫、桜田常久文庫、下村照路文庫、八木義徳文庫、宮川哲夫文庫(作詞家、「街のサンドイッチマン」「ガード下の靴磨き」「美しい十代」、「霧氷」)、八幡城太郎文庫などがある。その他の人物では、北村透谷、白洲正子(2010年は誕生100 年)、田河水泡、野田宇太郎(詩人・評論家)、八木重吉、石川桂郎(俳人。小説家)、蕗谷虹児(画家・詩人、「花嫁人形」)、など。野田宇太郎(1909-1984年)は、「東京文学散歩」などのシリーズで、「文学散歩」という新しいジャンルを開拓した人である。「九州文学散歩」のあとがきに「これはあくまでも「足で書く」近代文学史であると同時に、、、、、、、私なりの文学を創ることが目的であった」とある。文学を実証的に研究するという分野である。「身をもって眠れる樹を揺すれば、枝枝は空をみがきて不在の神の窓のやうにひとときそこだけが明るくまたざわざわと閉された」という「短詩」の詩幅が掛けてあった。これは、「旅愁」に所収された言葉であるが、野田の文学散歩の精神を伺わせる。こういう感覚は私の「「人物記念館の旅」にもある。「改訂東京文学散歩」(野田宇太郎、山と渓谷社)を手にとってみたが、東京の地名とその文学の歴史がわかるいい本のようだ。早速手に入れたい。文学館から歩いていける町田市立国際版画美術館。英文ではcity ミュージアムだが、日本語には「国際」がついている。「浮世絵--美人画の19世紀」という企画をやっていた。渓斎英泉(1791-1848年)、宇田川国貞(三代目歌川豊国。1769-1825年)、歌川広重(1797-1858 年9、月岡芳年、豊原国周、橋本周延らの浮世絵を鑑賞する。面長の美人、切れ長の目、すらりとした長身がこの浮世絵美人の特徴だ。広重の「名所江戸百景」に刺激をうけて三代目歌川豊国が描いた「江戸名所百人美女」。この二人で風景を広重、美女を豊国が描いた「双筆五十三次」。広重の「小倉百人一首」シリーズ、豊国の「紀有常娘」(夫の浮気を知り水をはった銅器を胸に乗せ湯にし。夫は改心する)などの「古今名婦伝」シリーズ、明治の写楽とうたわれた豊原国周の「善悪三十六美人」シリーズや明治時代に評判だった「川辰」「花月楼」などの料亭を描いた「開花三十六会席」シリーズ、同じく国周の描いた近代的作品群では、キリスト教、指輪、時計、横文字などのパーツが描かれていた。月岡芳年の「風俗三十二相」は京都の料亭の仲居を描いた作品である。「あぶなさう」「はづかしさう」「ねむさう」「散歩したさう」、、。「大久保純一の「浮世絵」(岩波新書)を購入した。名作、名所などを題材にシリーズとして大きな作品を描くという手法をとった画家の作品が時代を超えて残っているようだ。帰りに以前から気になっていた小野路の「小島記念館」に寄る。あいにく休館だった。旧家の庭に小島詔右衛門翁(?)の銅像が建っていた。参議院議員という経歴が書いてある。誰だろう。ここも再度訪問したい。この小島家は、新撰組や三多摩の自由民権運動にも関係している。「小野路宿の南詰にある旧家・小島家が自宅を改造して公開している私立記念館。小島家は、江戸時代に質屋や油屋を商いとし、寄場名主を務めました。幕末に当主であった小島角左衛門は天然理心流三代目・近藤周平の門下生となり、さらに角左衛門の長男・鹿之助は近藤勇と義兄弟、土方歳三とも親戚の間柄で、新選組のスポンサーのひとりにもなりました。鹿之介は維新後も華厳院に小野郷学を開き郷土の文化交流に尽力する一方、三多摩自由民権運動にも参画しています。資料館では、約6000点の和漢籍や村方文書、記録、日記を公開しており、中でも新選組関連資料を含む「小島家文書」(都有形)は貴重な内容を含むものとして知られています。」(http://www.geocities.jp/nanapiko9/onoji.htmlから抜粋)夜は、ホワイトデーなので、私と息子で近所のレストランで妻を接待しながら、いろいろと話をする。帰って、NHK大河ドラマ「龍馬伝」を見る。
2010/03/14
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学部教授会、大学院学位授与式、大学院教授会、大学院修了生による謝恩会と続く一日だった。10時40分からは、学部教授会。昼食は教員ラウンジでみんなで話をしながら摂る。朝8時から関西でのテレビ出演をしていた寺島学長は 15時半過ぎに大学に入る。短い時間だったが、いくつか案件を報告。大学院学位授与式は、18名の社会人大学院生が終了となり修士(経営情報学)の学位を授与された。「法科大学院とMBAの乱立に対する反省期に入っている。多摩大大学院は、社会人大学院であること、仕事をしてきた人が教壇に立つ実学志向であることが特色だ。ヨコのつながり、タテのつながりを大切にして欲しい。自分の人生を自分でエンジニアリングしていく。アーチスト・オブ・ライフ(人生の芸術家)として生きる。人生というキャンバスに自分の絵の具を用いて自分の絵を描いていって欲しい」(寺島学長)「多面的なご活躍を!」(田村常務理事)「経営実学志塾。社会の問題の本質の追究という志、実際の問題解決に役立つという実学。」(橋本研究科長)「大学院には魅力ある講座が必要。新しい時代に対応したカリキュラムの充実。現場の経営ニーズからみるとMBA的人材への期待は大きくない。プロジェクトエンジアリングスペシャリストへの期待が高まっている。ロケーションについては意思決定のスピード、責任感が重要。原点回帰にならないようにフォローを。コンテンツが原点。」(寺島学長・大学院教授会)客員の長田先生と研究室で情報交換。現れた林川先生と 3人で謝恩会へ向かう。永山のJTBフォレストで謝恩会。今期の修了生の半分は私の講義の受講生。途中で挨拶もあったので、ここにいるメンバーを中心とした「多摩大図解アルチザン」で取り組んだ「図解・資本論」という書籍出版プロジェクトの話をして、今後もこういうプロジェクトを遂行する仲間としてやっていこうと話した。
2010/03/13
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メルマガの図解編を始めました。冒頭に短い「図解Web探訪」、そして毎回、「図解コミュニケーション」に関する理論や事例を紹介します。以下は、 2010/3/11発行の「久恒啓一の学びの軌跡 図解編 第5号」です。 ---------------------図解web探訪 第4回「大学教授としての社会貢献」(3)ビジネスマンとして本業の仕事以外の世界を持とうと考え、 30歳でNPO法人知的生産の技術研究会に入会して以来、 幸運なことに本の出版にずっと関わるという幸運に恵まれてきました。最初の単著が縁で47歳で大学教員に転身しましたが、 52歳の時に出した「図で考える人は仕事ができる」がベストセラーとなり、 それ以来様々な出版社の要望に応じて本を出してきました。http://www.hisatune.net/html/02-kenkyuu/tyosaku/index.htm分野別にみると、独自の領域である「図解コミュニケーションに関する分野が中心ですが、 ここ数年は若いビジネスマンを励ます企業の管理職経験者としての仕事論の本や、 ライフワークとなりつつある「人物記念館の旅」を題材とした本も出ています。http://www.hisatune.net/html/02-kenkyuu/tyosaku/ichiran.htm---------------------1 図解コミュニケーションの理論<「理解」「企画」「伝達」ための技術を学ぼう> 第1回1.「理解」のための図解表現法 1.理解のための図解表現法 図解をつくる上で心に留めておかなくてはならないのは「図解には絶対の正解はない」ということです。 もともと図解にはよい図解と悪い図解しかありません。そしてよい図解にはさらによい図解があり、悪い図解にもさらに悪い図解があるということです。 つまり図解のできばえは相対的なものにしかすぎません。 例えばコンピュータ、通信、流通、ファッション、コンサルタント、教育事業、文筆業、秘書、先生、メーカーなど、職業には様々な種類があります。職業が違えば着目するポイントが異なり、出来上がった図解も微妙に違ってきます。また、男性と女性でも出来上がった図の雰囲気が違ってきます。 聞き手によって関心のある部分が異なり、表現力が違うため、結果として様々なタイプの図解ができてきます。 図解には各人の人生で得た経験や過去に獲得した知識、現在の立場、性別、年齢、関心分野などが色濃く反映します。つまり、図解の中に自分の理解のレベルが現れるのです。 相手の発言を大きく誤解したり、歪曲したりして、原形をとどめないくらいに自分の意見を入れていくということは避けて、できるだけ原文や原形を生かしながら、なおかつそれを超える情報をつくりだそうとするのが図解コミュニケーションの精神です。 そこで「理解のための図解表現法」ということになりますが、これは図解の技術を活用して、複雑な内容を理解しようということです。(1) 図解で全体が見渡せる あるテレビ番組で「カラオケ」についての特集でコメントを求められたことがあります。その時につくった図解です。 カラオケ低迷の原因、卓球ブームの再来、カラオケの本質、景気との低迷との関係、カラオケ産業への提言などが盛り込んでいます。資料の読み込みや自身の体験、そして他の人々への質問などの様々の部分を一枚の紙に配置することになりました。部分同士をつなぐストーリーを考えながら全体図ができあがりました。 テレビのコメントなので、自己満足産業などの面白いキーワードを出したり、対策としてライフスタイルの提案をしたり若干の工夫も入れてあります。この図解を見ながらインタビューに答えていくのですが、カラオケに関する資料やデータ、考えや提案の全体がともかくも一枚にまとまっていることで、平静にしゃべることができました。全体が見渡せることが大切です。「久恒啓一の学びの軌跡 図解編」(毎週木曜日発行編集責任者:久恒啓一 発行元:久恒啓一 図解WebSite http://www.hisatune.net/組織変更などでメールアドレスが変わる方は新メールアドレスを下記メールアドレス宛にご連絡下さい。また、このメルマガを希望される方、解除される方も、下記メールアドレス宛ご連絡下さい。 mm@hisatune.netこのメールマガジンに対する感想などをお寄せください。・ホームページの「久恒サロン」にお願いします。・メール mm@hisatune.net
2010/03/12
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NPO法人知的生産の技術研究会の本日のセミナーは、寺島実郎さん(知研顧問)の「「2010年の世界潮流を予測する~世界全員参加時代来る~」である。この「世界潮流」セミナーは2001年から続いており、今年で10年目。130名ほどの人が集まった。私は司会で事前に15分ほど報告も含めた雑談。18時半から20時半まで、あっという間の2時間だった。寺島さんの話は毎回深化している。それは、持ち込まれたあらゆる役職を引き受け、毎月のように世界を旅して、その中で相関と相乗を考えるというスタイルから来ていると思う。今回もそういったことが伺える素晴らしい講演だった。 * 日本は今深い悲観論の中にある。 * なぜ消費が出ないか、どうしてモノが売れないのか? 年収200万円以下の層が労働人口の34%になった。200万は時給1000円の仕事のイメージ。グローバル化とIT革命のインパクトが原因。IT革命によって仕事の平準化が起こった。そしてグローバル化によって誰にもできるレベルの仕事は下に引っ張られた。 * 次世代バ^コード(MIT)開発ではバーコードも不不要となり、ICを埋め込むからレジも不要になるから、時給1000円のレジの仕事もなくなる。 * なぜ、政権交代が起こったか?200年対比で2009年1-7月の勤労者の可処分所得は年収ベースで73.2万円の減少。また企業のフリンジベネフィットも減り個人負担が増加している。いらだちがあり政治に期待して政権交代が起こった。直接給付(自民政権・民主政権)に拍手するようになった。 * 子ども手当は、緊急避難の景気対策か、社会政策か?高校まで国が面倒をみることになると家族関係も変わる。ポピュリズムに走ると必ずファシズムに至る。 * 分配のゆがみ。生活保護受給者の生活扶助基準額は194.6万円。全体観を持った公正な分配へのしっかりした政策論が必要。 * COP15の衝撃。25%削減にも白々しい空気。国境を前提したルールでは合意できない。ボーダレスな問題にはボーダレスな解決が必要。55カ国が参加している国際連帯税への視座。国境を超えた為替取引に0.05%の課税を行い、環境に関して途上国への技術移転と極地対策を行う。日本では議員連盟あり。グローバル化のカゲの部分を解消する。新しい政策科学、新しい合意形成のルールが必要だ。 * 09年の貿易。米国13.5%、中国20.5%、大中華圏30.7%、アジア49.6%、中東10.1%、EU11.6%、ロシア1.1%、ユーラシア74.6%、上海協力機構26.6%。中国は台湾問題、香港問題をかろうじてマネジメントしきった。 * シンガポールがわからなければ世界はわからない。シンガポールは大中華圏の南端にありアセアンとのつなぎの役割がある。またロンドン・ドバイ・バンガロール・シンガポール・シドニーと連なる「ユニオンジャックの矢」の中に位置する。大中華圏とユニオンジャックの矢の接点にある。見えない財(ソフト、システム、サービス、技術、、)を付加価値にしたバーチャルステイトの先行モデルだ。ITとバイオ(薬剤開発)研究などの研究センター。ネットワーク型発展のシンボル。 * アジア大移動時代。訪日は、米国70万人、中国101万、大中華圏263万人、韓国159万人、台湾102万人、香港45万人、シンガポール15万人。 * 外需か内需かではない。大事なのは内外需一体型解決だ。 * 新自由主義は、分配の問題(格差と貧困)と、ガバナンスの欠如(国内の競争の奨励)をもたらした。 * オバマのニューディールは成功するか?EV(電気自動車)とRE(再生可能エネルギー)とITの相関と相乗の可能性を考え柔らかく考えておくべきだ。20世紀は石油と自動車の相関と相乗の時代だった。それが石油科学、衣料文化まで支配した。21世紀は電気で動くクルマの時代になることは間違いない。ソニー、東芝、ベネッセ(インホイルモーター、慶応の清水教授、オープンソフト系)。車の電源供給は、小型分散。再生可能エネルギーをITでつなぐ。グーグルは送配電に死にもの狂いで立ち向かっている。ビジネスモデルの変更。動画配信の時代になるとものすごい電力(例えば原発3基)が必要。ニューディールの成果は1年以内に結果がわかる。IT革命に相当する途方もないパラダイム転換の可能性がある。そういった技術は日本に蓄積されている。 * 建設業の国際化に関して。国際プロジェクトを遂行できるプロジェクトアンジナリングスペシャリストが育っていない。法制度、言語、各種人種を使う。束ねる力が必要。法科大学院やMBAなどでは対処できない。資格制度が必要になっている。内外需一体型の広域戦略が重要だ。 * ファンケルは大中華圏を一体とみた事業展開をしブランドイメージはトップになっている(資生堂は5位)。銀座4丁目の店に10時に行くと中国人が半分並んでいる。戦略的視点を持って内外需一体型でことが重要だ。 * 原子力問題。原子力に関する意見と構想がなければ立ち向かえない。逃げずに外交とネネルギーに対する戦略的意思が必要。平和利用に徹した技術基盤のない国はむなしい。技術の蓄積の上に立った人材がいなければ支えきれない。全体、体系、見識、構想。政策科学。
2010/03/11
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Twitterのフォロワー数が1000を超えた。自分の毎日の「つぶやき」を読んでいる可能性のある人をフォロワーというが、そういう人がある水準に達したということになる。総計で1441回のツイートだから、毎日6-7回つぶやいているという計算だ。ネット世界においては、一日数回のTwitterでのツイート、毎日書き続けているブログ「今日も生涯の一日なり」、毎週出しているメルマガ「学びの軌跡」、そしてそれらのベース基地になっている「図解Web」というインフラ体系に現在のところ落ち着いている。コンテンツは自宅のパソコン、研究室のパソコン、移動中のアイフォンで書いている。さて、Twitterはこの夏あたりから始めたのだが、朝起きて「今日も生涯の一日なり」というつぶやきから私の一日は始まる。この言葉を書き込むと背筋が伸びる感じがある。この習慣を真似している人も出てきている。「meyou」というサービスによると、フォロワー数でカウントすると、私のレベルはTwitter日本ユーザーの中で2万人中6586位で「三段目クラス」という判定になっている。大相撲の世界では、序の口、序二段、三段目、幕下、十両、とあがっていく。その三段目であるから大したことはない。「序」というレベルをやっと脱したというところか。総合ランキングで6586位は、どのあたりか。「作家・漫画家」というジャンルや、「ジャーナリスト・ライター」というジャンルでは、いずれも100位前後に相当するようだ。「総合ランキング」のトップクラスをみると、個人では、ずっとトップをっているホリエモンが41万、最近始めた鳩山首相が38万、Twitterをひろめてきた勝間和代が31万、その相棒の広瀬香美が27万、といったあたりがベストテンに入っており、正真正銘の横綱だろう。1回ツイートすると数十万が読んでいるということは大変なことだ。アメリカだとこの数が一桁あがり数百万になり影響が途方もなく大きくなる。昨日のニュースで、ホリエモンへの財産の差し押さえんお強制執行があったことがテレビのニュースで流れていたが、このツイッターで当の本人が「いやがらせだ」との感想を漏らしていたし、同情や励ましのツイートもみることができた。記者会見という公式のインタビューよりも、本人の肉声だから親近感がでるのは間違いないから、広報効果は高くなる。有名人では、ソフトバンクの孫正義社長が16万、ハマコーが11万、楽天の三木谷社長が7万、原口総務相が6万、蓮ホー議員が6万弱、、、。ちなみに文化人「教授・学者・評論家」というジャンルを覗いてみた。東大のrekimotoが20万弱、慶応のmasuiが17万、古川亨が2万弱、宮台真司が1万、湯浅誠が8千、池尾和人が7千、松原聡が6千、大竹文雄が4千、芦田宏直が3千、公文俊平が3千、石倉洋子が2千5百、池谷祐二が2千。27位の村沢義久は869。私の名前は出ていないが、このジャンルでは26位に相当する。ネットの世界では、グーグルの検索ヒット数が、その人の「時価総額」であるという考え方がある。ブログの読者数、メルマガの配信数、そしてTwitterのフォロワー数などもそういった時価総額の重要な一部を構成しているということだ。地道に、ジワジワ、シコシコと自分なりの身の丈にあったやり方で、少しずつでも参加していくことが、ウェブ時代を生き抜いていくことになると思う。面白い世の中になってきたものだ。
2010/03/10
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桐野夏生の新刊「ナニカアル」(新潮社)を買った。「戦争に翻弄された作家・林芙美子の秘められた愛を、桐野夏生が懇親の筆で炙り出し、描き尽くした衝撃の長編小説」とオビにあるからには、読まざるをえない。林芙美子については、尾道や、新宿区落合の記念館にも行ったが、この言葉のようなことがあるとはわからなかった。そして、「代表作である「放浪記」を読み、次にこの作品の基底であろう「浮雲」を読んでいるところだ。戦時中の南方での逸話の意味が深くわかることになるのだろうか。もう終わるので、その上で「ナニカアル」を読みたい。さて、最近は書店回りよりも、新聞やブログ、Twitterの書評などで、すぐにアマゾンで注文するようになった。現在、読むつもりで机の上にある書物をあげてみる。「読み解き 般若心経」(伊藤比呂美・朝日新聞出版)「教育の職業的意義」(本田夕紀・ちくま新書)「マスコミは、もはや政治を語れない」(佐々木俊尚・講談社)「ダリ 私の50の秘伝」(サルヴァドール・ダリ・マール社)「柳宗悦を支えて 声楽と民芸の母・柳兼子の生涯」(小池静子・現代書館)柳宗悦を支えて―声楽と民藝の母・柳兼子の生涯「ヴァーグナー 西洋近代の黄昏」(樋口裕一・春秋社)---------Twitterのフォロワー数が、1000を超えた。毎日少しづつ増えて最初の一里塚を超えたところか。「me you」というサービスによると、三段目クラスになるそうだ。序の口、序二段、三段目、幕下、十両、、、、。幕内にはだいぶ遠いなあ。「Twitter日本ユーザーの中でhisatune(久恒啓一)さんは三段目クラス6534位(meyou.jp調べ)」
2010/03/09
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朝10時に品川駅のスターバックスに到着。多摩大総研の松本先生と会い、本日の会議資料の説明を受ける。11時、駅直結のインターシティ27階の多摩大品川サテライトで、研究開発機構評議員会に出席。大学関係の各研究所の代表者の会合で、本年度の事業計画推進状況と決算予想、そして来年度の事業計画の説明と承認。そして人事計画の承認。多摩大学総合研究所、統合リスクマネジメント研究所、情報社会学研究所、知識・リーダーシップ総合研究所がメンバー。12時15分、品川駅のアトレで研修会社の方々と多摩大総研の松本先生、中庭先生とともに会い、新しいプロジェクトのコラボレーションの第1回のミーティング。考え方、具体的な内容、時期等について大まかな合意が成立。担当者同士で具体的に詰めていくことになった。14時少し前に赤坂の野田一夫事務所に到着。話をしていると寺島実郎学長がみえる。さまざまな人達のことが話題にもなったが、主として大学、日本総研関係の話題で意見交換がすすむ。一時間弱の時間はあっという間だった。終わって、日本総研事務所で学長といくつかの案件を確認。15時半、新宿のサザンタワー20階で知研の八木哲郎会長と会う。11日の寺島セミナーの打ち合わせ、今後のことなどを語り合う。-------さて、今日は、八木さん、野田先生、寺島さんという3人に連続して会った。この3人の方々との出会いは私にとって「邂逅」とでも言うべき運命的な出会いだった。海外勤務から帰った30才のときに、八木哲郎さんが主宰するビジネスマン勉強会「知的生産の技術」研究会に入会し、以後この勉強会で学び、多くの知己を得た。知研は私の能力開発の大きな装置だった。毎月のセミナーで司会をし、先生方と会い、共著をものにするなど、八木さんにはさまざまなプロジェクトを遂行する機会を与えていただいた。そして10年後には初の単著を世に出すことができた。そして長い年月が経ち、気がついたらNPO法人となった知研を八木さんから引き継いで私は今は理事長をしている。知研では有名人の書斎を訪ねて「私の書斎活用術」という本を企画・編集するという素晴らしいプロジェクトに関与したが、その後、30代のはじめに「知的実務家」という概念を考え出し、活躍中の人達を訪ねてインタビューするという実に楽しいプロジェクトを実行した。このとき、当時三井物産の課長代理だった寺島実郎さんの世田谷の自宅を訪ねる機会があった。初対面だったが、話をしている内に、この人は中央公論に「我等戦後世代の坂の上の雲」という論文を書いた本人だとわかった。この論文はまだ30代初頭の寺島さんが書いもので、その内容の深さに驚いて一度会いたいと念じていた相手だった。それ以降、寺島さんが勤務していたニューヨーク、ワシントンへの訪問や、本業での仕事関係のつながりも含め、長くお付き合いいただいて今日に至っている。野田先生とは30代の後半のビジネスマン時代に広報の仕事をしているとき、広報誌の原稿を依頼したり、その御礼で赤坂プリンス旧館のレストランで食事をしたりしたことがある。豪快で楽しい先生だった。40才の時に出した初の単著「図解の技術」を読んでいただいたところ、すぐに呼び出しがあり、会社を辞めて大学に行くことを勧められた。最初は当時野田先生が学長だった多摩大という話だったが、3年後に宮城県にできる県立大学に行くことになった。この建学は一大プロジェクトであり、初代学長となった野田先生とともに疾風怒濤の日々を送った。それ以降、親しいお付き合いが続いている。そして、今は野田先生が創った多摩大学は寺島さんが第五代学長になり、私も多摩大の一員となっている。また、お二人とも知研の顧問をしていただいている。今から振り返ると、八木哲郎さんとの出会いが、その後の歩む道を決めたということになる。改めて感謝したいと思う。
2010/03/08
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伊勢神宮は、あらゆる神々のなかで最高位にある日本国民の総氏神である太陽を司る「天照大御神」(あまてらすおおみかみ)を祀っている。「この神風の伊勢の国は、常世の浪の重浪よせる国なり。傍国のうまし国なり」。伊勢神宮には、天照大御神を祀る「皇大神宮」(内宮)と、大御神に食事を差し上げる「豊受大御神」を祀る「豊受大神宮」」(外宮)があり、その他の別宮や攝社、末社、所管社をあわせると140ほどあり、全てをまわるには4日かかる。天照大御神は、皇室の先祖神である。日本最高の格式の神宮だ。正月には時の総理大臣が必ずお参りすることになっている。「伊勢に行きたや伊勢路が見たい せめて一生一度でも」と伊勢音頭にあるように、「お伊勢参り」は庶民のあこがれだった。平安時代には「参宮人十万」とあり、江戸時代には毎年五十万人の参宮者があった。その伊勢神宮に参拝した。本宮は、茅葺きの、あっけないくらい粗末な建物だった。不思議に思ったが、二十年に一度の遷宮という行事が1300年にわたって続けられている。すべてを新しくして大御神を新宮に移ってもらう。それは我が国最大の祭りである。持統天皇の690年から始まったこの行事は次は平成25年に62回目の遷宮が予定されている。その次の敷地が用意されていた。写真は撮れない。「古事記」や「日本書紀」の世界である。アイフォンで聞いている「世界一おもしろい 日本神話の物語」では、人間のようにふるまう神様は、時代を経ると次第に人間になっていく。高天原、因幡の白兎、やまたのおろち、などの物語を久しぶりに思い出すことができる。この神話の世界を本居宣長は、古事記伝で解き明かした。子供時代にこういった物語を読み、聞いた記憶があるが、日本人のルーツとしての物語を再び意識的に読まねばならないと改めて思った。「赤福」が、皆様のおかげといういことでつくった、内宮の近くにできた「おかげ横町」では、太鼓のパフォーマンスや芝居小屋、そして物品販売など楽しく過ごすことができる。江戸期から明治期にかけての伊勢路の代表的な建築物が移築・再現されている。2700坪の広さで、観光スポットとして賑わっている。お伊勢参りの賑わいを彷彿とさせる。「伊勢参り 大神宮にもちょっと寄り」という狂歌もうなずける賑わいだ。古市には、妓楼七十軒、遊女は千人いたというから、神聖な神宮と遊興とは一対だったようだ。この横町にある、「山口誓子俳句館」と「徳力富吉郎版画館」は残念ながら、休館だったのは残念。この伊勢神宮には、また訪れたい。
2010/03/07
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朝7時50分の近鉄特急で前日集合した妻と一緒に三重県松阪へ向かう。コンビナートの四日市、県庁のある津市を過ぎて松坂に到着。松阪は、戦国武将・蒲生氏郷が1588年に城を築いた町で、楽市楽座などの善政を行ったため、商人の町として発展する。松坂商人と呼ばれていた。三井家の発祥の地でもある。雨の中、「財団法人鈴屋遺蹟保存会 本居宣長記念館」に到着。今年1月3日のこのブログの記事を以下に記す。----本居宣長(1730-1801年)は、35歳の時に着手した「古事記伝」全44巻を、35年の歳月をかけて70歳で完遂し、翌年亡くなっている。日記は、自分の生まれた日まで遡って書き、亡くなる二週間前まで書き続けていて、「遺言書」を書いて葬式のやり方から墓所の位置まで一切を支持している。宣長は記録魔だった。宣長は学問において、最も重要なことは「継続」であると考えていた。そのためには生活の安定が大事だと考えていた。彼の生活スタイルは、昼は町医者としての医術、夜は門人への講釈、そして深夜におよぶ書斎での学問だった。多忙な中で学問をするために、宣長は「時間管理」に傾注する。近所や親戚との付き合いをそつなくこなし、支出を省く。そうやって時間を捻出し、金をつくり書物を買い、そして学問の道に励んだ。学問する環境をいかに整えていったか、そして日常生活をいかに効率的に過ごすかというマニュアルが膨大に残っている。「されば才のともしきや、学ぶことの晩(おそ)きや、暇(いとま)のなきやによりて、思ひくづれて、止(や)むことなかれ。とてもかくても、つとめだにすれば、出来るものと心得べし。すべて思ひくずるるは、学問に大にきらふ事ずかし」(自分には才能がない、学問を始めたのが遅い、勉強する時間がないからといって、学ぶことを怠ってはいけない。如何なる場合も諦めず努力しさえすれば、目的は達し得るものであることを知るべきである。道半ばで挫折をしてしまうことが、学問の神様の最も嫌うところである)本居宣長は五百人の門弟を抱えていたが、彼の偉い点は、「学ぶことの喜びを多くの人に教えた」ことにある。養子の太平が描いた図が残っている。「恩頼図」といって、自分の学問にあたって恩を受けた人々と、自分を通してその学問に連なる人々の名前が記録されている。中央に宣長自身と、宣長が著した古事記伝を中心とする著書も配置されている。三重県の松坂には本居宣長記念館(吉田悦之館長)があり、そこには1万6千点に及ぶ宣長に関する資料が保存されている。今年はこの記念館にも訪れたい。------「致知」という雑誌に、本居宣長記念館の吉田悦之館長のインタビュー記事が載っており、その内容に誘われて行くことになったので、館長さんを訪ねて少し話をを聞いた。「本居宣長は、感謝の念が根本にあった。父母、先生、孔子、、垂加神道などの敵方、、」「生きていることに感謝していた人だ」「手抜きしない人。学問、医者、町人、親戚付き合い、、、。」「「古事記伝」は実に面白い」「明るい人です」わからないが、私はここまで考えてみた、という言い方」「次の人、未来の人にあとは任せたい」」「500年後、1000年後の未来の人に向かってボールを投げた」「源氏物語は宣長の700年前、古事記は1000年前」「この記念館は先人の旧宅保存のさきがけ。1968年に重要文化財に指定された。歴史史料としれは初めて」「1970年にできた記念館はその後の記念館のモデルとなった」「「学問の道」というアイデアが松坂に出てきた」「旧宅に上がって宣長を偲んで下さい」本居宣長は、最初商人にさせようとした母から、江戸での丁稚奉公や商人としての経験を積んだり(16才)、商人の家に養子に入るがすぐに離縁されたりしている。、学問に気をとられてうまくいかない。母は学問に身を入れて医者になれと勧め、その合間に好きな和歌や文学をすることをすすめ、今日との堀恵山に弟子入りをする。迷いの多い青春時代だった。そして26才で医者になり春庵と称す。34才にときに伊勢参りに来た賀茂真淵(67才)と対面し、入門を許される。その後は、真淵が亡くなるまでの6年ほど手紙を通じて古代の人の心を知るために質問を出し、回答をもらうという時間を過ごす。これが有名な「松坂の一夜」である。「古事記伝」の基礎と成る万葉集の4500首の和歌の言葉の疑問点を真淵に送った、質問は1000項目に及んでいる。万葉集で「やまとこば」を学び、その後「古事記」に進むのがよいだろうといアドバイスされたのである。35才で「古事記伝」の準備に着手する。この頃冒頭の七百字の注に3年半をかけている。39才で「古事記伝」巻四の稿がなる。そして69才で「古事記伝」四十四巻を脱稿する。この間、実に35年。1801年に72才で没するのだが、「古事記伝」全巻が刊行したのは、21年後の1822年だった。恋が人の心の根本であり、それをうたった和歌の研究をしたいと宣長は思った。万葉集、古今和歌集、国文学の研究に没頭する。「恋なくば人は心のなかりけり もののあはれはこれよりぞ知る」(?)という藤原俊成の歌が、本質を示していると感じていた。「古事記をよめば、日本の本当の姿がわかる」「学問というものはただ年月長く飽きることなく怠ることなく努力することが大事で、方法というのはあまり問題ではない」「歌はもののあはれを知ることによって生じる」「もののあはれとは、人生のさまざまな事がらを見聞きし、体験するにつれて、それらの事柄の意味を心に深く感じることによって、人の心の中に起こる感動をいう」「もののあはれに耐え難いとき、自然にその思いを言葉に言い出してしまう。その言葉は、「必長く延て文あるもの」になり。そこに和歌が生じるのである」本居宣長は、儒学や仏教の影響を受ける前の日本人の考え方や信仰、宇宙観が古事記に書かれていると確信していた。余談だが、宣長はヘビースモーカーだった。煙がすごくて苦情が多かった。1904年に日露戦争の戦費をまかなうために政府は専売たばこを販売するが、銘柄は「敷島」「大和」「朝日」「山桜」と名付けられた。これは、「敷島の大和心を人問うはば朝日に匂ふ山桜花」という宣長の有名な歌からとったものである。そして第二次大戦の神風特攻隊敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊といいう部隊名も宣長の歌にちなんでつけられた。宣長日記には日常と周辺の動静が記録されている。 日々の天候、社寺参詣の事、身辺の冠婚葬祭、歌会、講義、会読、自己及び家族近親の往来、旅行、病気、書簡の往来、町内の些事、出産等の慶事の記録。幕府・藩侯からのお触れ、天変地異、火事、寺院の開帳、芝居の興行。皇室をはじめ、幕府・藩の高官の動向、大坂・江戸・京都の様子、参宮などの往来。毎年の記載の終わりには米価の相場も記録していた。宣長没後に、平田篤胤が入門し後継者として国学を研究していく。これが後の明治維新の尊皇攘夷運動の原動力となっていく。
2010/03/06
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朝、東海道新幹線で名古屋へ。名古屋からは、名鉄特急で20分ほどで、知立(ちりゅう)に着く。愛知教育大学の富山先生に迎えにきていただいた。ミスタードーナッツで打ち合わせをしながら情報交換。富山教授は6-7年前に福岡の広告代理店に勤めていたのだが、縁あって国立大学の助教授として迎えられた方だ。メールなどのやりとりでお付き合いは続いていたが、講義の依頼を受けていたのでやっと約束を果たした。愛知では、教員になるのは数倍の試験を突破すればいいということだった。地方では教員になるのはなかなか難しいが、東京ではかねや太鼓で志望者を募っている状態だが、愛知はその中間のようだ。大学のある刈谷市は、トヨタ車体や日本電装などのトヨタ関連企業の城下町であり、財政はいいようだ。先の選挙で落選したが敗者復活となった自民党の大村議員のポスターが多く貼ってあった。大学生達のマイカー保有率は高い。親は東京などに出すより、自宅から通うことを条件にクルマを買うという層が多いという。10人ほどの教育学部の3年生に講義を始める。ほとんどが小学校の教師になるのだが、二人ほど中学校の社会科の教師志望がいたし、高校3年生も一人混じっていた。実習もふくめて、13時20分から17時過ぎまでフル回転。正式な授業は富山教授の「デザイン論」だった。美術分野の科目だそうだ。国立大学なので、書類が細かい。18時過ぎの電車に飛び乗って、伏見ライフプラザという高層ビルの12階にある名古屋ボランティアNPOセンターへ向かう。19時に到着。知研東海の仲間達との会合である。最初は、知研の動きや、「知の現場」の編集の様子などを説明するという時間になった。加藤さん(NEC出身)、熊倉さん(卓球協会の偉いさん)、木本さん(弁護士)、岩清水さん(紀伊國屋書店出身)、伊藤さん(ティーファス勤務)。二次会は、居酒屋で楽しく飲む。市議会議員の選挙の話題などで盛り上がった。愉快な時間を過ごした。名古屋駅直結のマリオットホテルがインターネットで半額で泊まれるということだったので、二度目の宿泊をしてみたが、やはりいいホテルだった。外国人が多い。トヨタ関係の出張者だろう。前回は2006年にトヨタ自動車での講演の時だったと思う。あの時はトヨタは絶好調だったが、今はリコール問題で苦境に立っている。時代が変わる。
2010/03/05
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あるニーズがあって、「多摩」に関する鳥瞰図絵の作成に挑戦している。大学のある多摩キャンパスを中心において、多摩川、相模川、東京、横浜、鎌倉、八王子、東京湾、相模湾、木更津、JR東海道線、JR横浜線、JR中央線、京王線、小田急線、鎌倉街道、九段、湘南、品川、府中、調布、立川、多摩ニュータウン、相模原、町田、丹沢山渓、富士山、ユーラシア大陸、などを上空から鳥の目で眺めた風景である。なかなか難しい仕事だが、今日は関係者が集まって、最初の絵図案をもとにアイデアを出し合った。笑いの多い、わくわくするような時間だった。「広域多摩鳥瞰図絵」が初めて姿を現すことになるはずだ。少し時間がかかるが、完成が楽しみだ。日本の江戸時代に鳥瞰図絵師という職業があった。風景をまるで鳥になって上空から見下ろすように描くことができる絵描きである。この手法は屏風に描かれた絵巻物を源流としており、全国の名所をこの手法を使って描いた浮世絵は今も多くの人を魅了している。山や川、都市の建物などが並んでいる順序は正しいのだが、一枚におさめるためにゆがんでいることもこの手法の特徴のひとつだ。この図絵は全体を俯瞰しており、位置関係が一望できるので人気があった。大正時代にこの手法を発展させた吉田初三郎という鳥瞰図絵師がいて、全国の景勝地を描き、鉄道の建設で始まった観光ブームに火をつけた。「大正の広重」と称したこの人の展覧イベントを見てきたが、錦絵のような鮮やかな色彩と、富士山や見えるはずのないアメリカや樺太を描くなどの大胆なデフォルメという手法を駆使しているため、世界や日本の中での景勝地の位置がよく理解できた感じになった。この絵描きは見えるはずのない高みに視点を定め、風景を切り取る作業をしたわけだが、どうしてそういうことができたのだろうかと不思議な気持ちで感動に浸った。私達が風景を見るときは、山の三合目より五合目の方が風景の持つ意味がよく理解できる。七合目を経て、頂上に至ると眼下に素晴らしい全体景色がひろがって気持ちがいい。もっと高い視点はどこか、それが空を自由に飛んでいる鳥の視点だ。その上はヘリコプターから見下ろす視点、そして飛行機になるがこのあたりになると景色には現実感が乏しくなる。さらに上昇すると人工衛星、宇宙船となり最後は神の目に行き着くだろう。鳥瞰図絵という手法は、航空機の登場で廃れたとのことだ。しかし、航空写真で風景を切り取ったらわかるかという問題がある。写真や絵は写実をテーマとしているから、事実や実態を描くのが目的だ。だが、実態をそのまま、「科学的」に見せられても私達は理解できるだろうか。視点が高すぎても低すぎても私たちはよくわからない。人間の頭のレベルに近い適度な高度という視点が必要なのだ。鳥瞰という手法で絵を構成し、その中に「情報」をわかりやすい形で提供したから図絵というように「図」という言葉が入っているのではないか。図とは情報のことである。情報というものはそのままの形ではなく、料理やデフォルメをしないと私達人間の頭の中には入らないのだ。社会、経済、情報、そして仕事といった目に見えないソフトな分野は、複雑に絡みあって、なかなか全体像や部分同士の関係が理解できない。私達が日常取り組んでいる仕事とは、その複雑な関係を解きほぐして一枚の図にし、それを改善し、あらたな図をつくりだす作業だとも言える。虫の目をもって地上で這いつくばって動いている限り全体像は見えてこない。足は大地についていても鳥の目を持つことが仕事の成功に欠かせない。鳥の目は自分のいる位置を全体の中で相対化してくれる。全体の中で自分の位置をつかみ、問題を高い次元で解決することが重要である。
2010/03/04
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八王子市遣水に「絹の道資料館」がある。生糸貿易商人の代表格である、石垣大尽と呼ばれた八木下要衛右門(善兵衛)の旧宅跡に建てられた資料館だ。ここには2階建て洋館風の別館があり(1851年建立)、異人館と呼ばれていたそうだが、今は残っていない。「武州多摩郡遣水村」は、外国からも「江戸遣水」と呼ばれ生糸貿易に携わる多くの商人が出ている。江戸から十二里(48キロ)の宿場町・八王子は、養蚕(蚕を育てること)、製糸、織物を行う中心地であり、江戸中期には「桑都」とも呼ばれていた。ここでは、縞柄の絹織物を商う縞市があり、八王子縞市として名が高かった。多摩織がブランド名。ペリーの来航によって1859年に横浜が開港するが、1866年には幕府直轄の生糸蚕糸改所が八王子に設置される。甲州街道最大の宿場町であった八王子から、絹織物は、当初は神奈川、そして後に横浜に運ばれた。後にJR横浜線ができるがそれは絹織物を運ぶのが目的だった。また、横浜からは海外の文物が多量に絹の道を通って伝わってきた。新聞、雑誌、ランプ、マッチ、そして自由思想やキリスト教(1877年にはカトリック教会が八王子に建てられている)までも入ってきて、八王子辺りは先進地域として活気があった。1878年あたりに高潮期を迎えた自由民権運動には、絹の商人、生糸生産者、養蚕家を兼ねた豪農が参加している。絹の道が民権家同士を結びつけた。山口甚兵衛、石坂昌孝、村野常右衛門らの名前が残っている。絹の道の起点となる大塚山公園には、道了堂という建物があったのだが、今はない。多くの外国人がこの道を通って八王子や高尾山を訪ねたとあり、ドイツのシュリーマンやイギリスの外交官・アーネスト・サトウが訪ねたという記録も残っている。トロイの遺跡を発見したシュリーマンが幕末に日本を訪ねたということをどこかで読んだ記憶があるが、まさにこの絹の道を通ったのだ。遣水商人としては、八木下要右衛門、平本平兵衛、大塚徳左衛門、大塚五郎吉などの名前が残っている。彼ら遣水は、横浜街道、通称浜街道を往復しながら商いを行ったのだが、横浜での商売の相手は、原善三郎である。どこかで見た名前だと思ったら、生糸商として横浜を牛耳っていた亀屋の主人である。亀善と呼ばれ、横浜は亀善の腹一つで動くと言われた人物である。その婿養子が後の原三渓で、三渓園を残した文化人でもある。原善三郎は八木下要右衛門に、変動激しい生糸相場について「明日の変化も計りがたし」と書き送っている。明治の生糸貿易の舞台からは八王子商人は次第に退き、原たち手だれの横浜生糸商人たちが主役になっていく。その横浜の生糸商人たちは八王子から横浜への生糸の大量輸送手段として、鉄道建設に動き出す。その主導的な役割を果たしたのが原善三郎だった。その鉄道が横浜線だ。いつも東海道新幹線で新横浜に行くときに橋本から乗っているあの横浜線がそれだった。当初、日本の絹製品はばらつきが多く、品質が悪かった。フランス人技師ブリューナを招き、1873年に操業を開始したのが、国営富岡製糸工場である。八王子ではその五年後に萩原彦七が機械製糸工場をつくっている。これは後の片倉製糸になっていく。絹の道を歩いてみた。八王子市の史跡に指定されているのは1.5キロ。このうち特に昔の面影を残す未舗装部分約1.0キロは文化庁選定「歴史の道百選」に選ばれている。20分ほどの急勾配の山道を歩くと、遣水商人、神父、シュリーマン、アーネストサトウなどと一緒に歩いているような気持ちになってくる。開国近代化の道である。次は、富岡製糸工場や、自由民権の館などを訪問したい。
2010/03/03
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電子書籍戦争の行方はどうなるのか。「佐々木俊直のネット未来地図レポート」(有料メルマガ)の論考からポイントを抜き出してみました。 * kindleは、アメリカでは2年あまりで300万台を出荷。2009年のクリスマス商戦ではアマゾンの紙の本を上まわった。 * kindleの本命対抗馬は、iPadである。 * kindleは専用機。iPadは電子ブックリーダー、動画、音楽ゲームなどを楽しめる汎用機。 * iPadが優れている点。1.汎用機としての魅力。タブレットは生活プラットフォームとして活用される可能性がある。オンのパソコンとオフのケータイの間を埋めるのがタブレットで、大きな画面を近距離かリラックスした姿勢で見るというニーズにはまる。そうなると専用機であるkindleは不利。2.iPadはiPhoneをベースにしている。すでに3万点以上もiPhoneアプリが全部つかえる。09年夏時点で3000万台を突破している。すでに慣れているので使い勝手がよく感じる。 * iPadの欠点1.可搬性の悪さ。大きく重い(700g)。バッテリーは連続10時間と短い。kindkleは2週間。2.バックライト付きの液晶画面である。画面の輝度が高すぎて目がつかれやすい。3.kindle259ドル(約2万3千円)い対し、iPadは499ドル(約4万5千円) * 音楽では、アップルはiTunesというアプリでいつでもどこでもどんな場面でも、自分が音楽を聴きたい瞬間に手元のデバイスから魔法のように楽曲をひきだすことができるようになり(アンビエント化)、圧勝した。 * 電子書籍リーダー戦争のっゆくえをきめるのはプラットフォームだ。その条件は以下。1.多くの人気書籍をラインアップできている。2.読者が読みたいと思う本、本人は知らないが読めばきっと楽しめる本をきちんと送り届けられる。3.すぐに、簡単な方法で入手できて、その時々に最適なデバイスを使い、気持ちよい環境で本が楽しめる。つまり本をとりまく環境を、最もよい形で提供できるところが最終的に電子ブックリーダー戦争に勝つ。電子書籍は、今まであった流通の問題の多くを解決していく。アンビエント化(環境、背景)を実現するエコシステムを構築し、多様かつ膨大な数の書籍をそろえ、さらに使いやすいインターフェイスを持ったアプリとデバイスを提供できるところが、電子書籍プラットフォーム戦争の勝者となる。------------iPadは、今月に無線LANでネットに節読するタイプ、来月には3Gの携帯電話データ通信機能を内蔵したタイプが登場してくる。このタブレット型を購入したいと思っている。
2010/03/02
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私のホームページ(図解Web)は、私自身の活動に関するデータベースになってきた。http://www.hisatune.net/あらゆる情報を整理しながら投げ込んできたから、紙の時代だったらとうに無くなっていると思われる資料もあり、自分自身の歴史に関する資料庫になっている。ブログを書いているからこそ、日記が残っているし(それ以前の日記は残ってはいない)、授業のアンケートを整理していたからこそ、今でも参照できる。いわば自分史図書館・資料館になった。例えば、毎年出す年賀状などは、HP作成以前の時代のものは残ってはいない。しかし、平成9年(1997年)に、勤め先を退職し大学へ職場を移すときの年賀状から、今年まで、このホームぺージの中に年賀状はすべて保管されている。「蓄積」ということの大事さを身にしみて感じる今日この頃だが、私自身の蓄積はここ10年ほどの歴史を持つホームページという箱が大きな役割を果たしていることは間違いない。以下は、1997年から2010年までの私の「年賀状の歴史」である。現在から見ると、年賀状は人生の定点観測という意味合いがある。http://www.hisatune.net/html/05-career/private/nenga.htm
2010/03/01
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