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河津桜を後にし東伊豆道路を更に南下する。河津浜海水浴場。東伊豆道路・小湊第1隧道を通過。須崎半島の景勝地「爪木崎」が遠くに見えた。岬には爪木崎灯台が置かれ、周辺には爪木崎自然公園が整備されている。スイセンの群生地がある。下田手前の「白浜桜(しらはまざくら)の里」に立ち寄る。高台までの道のりは急な階段や小径が続いていた。 「白浜桜の里」は、白浜神社近くの高台に2012年にオープンした私設公園。この公園には、地元の方が数年にわたり品種改良を重ねた桜等を植栽してあるのだと。品種は、主に1月下旬から咲き始める「白浜伊古奈(しらはま いこな)」(河津桜を品種改良した桜)と、2月下旬から咲き始める「白浜桜」(白浜固有の桜)で構成され、その他数本のいろいろな桜を含め合計約100本が植栽されているのだと。真っ白な「白浜桜」(白浜固有の桜)。真っ黄色なキブサスイセン(黄房水仙)も輝いていた。「朋華(ともはな)」という淡いピンクの桜。 「白浜伊古奈」。「白浜伊古奈」は葉が出始めていて、少し見た目色あせて来ていた。こちらの水仙も可愛らしい。ホワイトライオンか?薄いピンクの桜も。これも「朋華」?白浜寒桜。満開。河津桜。淡いピンクが青空に映えて。オオイヌノフグリは可愛らしい花なのだが、名前の意味はあまりにも可哀想。純白の白房水仙の花( 別名:ネコスイセン) 。南伊豆町に向かいながら東伊豆道路からの左手に拡がる青い海を楽しむ。波も静かに。下田の稲生沢川(いなおさがわ)に架かる通称人魚橋(新下田橋)を渡る。この人魚橋には、両端に合計4つの人魚の彫刻がなされており、それぞれの人魚には春・夏・秋・冬とテーマがあるのだと。こちらの像のテーマは「冬」 。この彫刻は、西伊豆町の彫刻家・堤 達男(つつみ たつお)氏の作品。こちらの像のテーマは「秋」 。そして南伊豆町・日野(ひんの)の「菜の花畑」に到着。日野地区の青野川河川敷には1月下旬頃から4月上旬頃まで黄色い菜の花が約27,000m2の辺り一面に咲き乱れるのです。この開花時期は早咲きの桜である河津桜の開花時期とも重なり今年も「みなみの桜と菜の花まつり(2/10~3/10)」が開催され、多く観光客で賑わうのだと。 全体的に黄色が強くなって来ていましたが見頃まではあと少し。やはりこの冬の寒さの厳しさで、開花が2週間ほど遅れている模様。 畑の中の木道を4人で散策。天候や寒暖差等により花の開花状況は変わるのだと再認識。ミツバチの姿は見つけられなかった。そして南伊豆町・青野川沿い両岸4.2kmには、早咲きのみなみの桜(種類は河津桜)800本の桜並木を訪ねる。駐車場横の裸婦像。「ガイドマップ」。青野川沿いに咲く河津桜、場所によりほぼ見頃の樹も出てきた。が、場所により違いがあり、大局的には、下流側のほうがより開花している状況。そして河津桜よりは開花が進んでいた。 まずは青野川沿いを下流に向かって散策。河津桜は寒波の影響を受けると葉が早く出ると言われるが、雪国では葉が先に出るようである。カヤックが河原に。河津桜に比べて観光客が少ない穴場。「道の駅 下賀茂温泉 湯の花」で産地直産の野菜やミカン、お土産を見た後は100円で甘酒を楽しむ。可愛い「仲良し地蔵」。そして駐車場の戻る。伊豆西海岸目指すが、この日のカーナビは山越えで松崎に向かう道を指示。カーナビに従い狭い山道をひたすら走り伊豆西海岸に辿り着く。松崎・長八美術館。コテと漆喰の名人・入江長八の業績や、伝統の左官技術のすばらしさを伝えることを目的とした美術館である。安全運転誓いの塔。目の前の西伊豆の海の先に賀茂郡西伊豆町仁科の安城岬が。西伊豆は風が強く大浜海水浴場の海には白波が。 ・・・つづく・・・
2018.02.28
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今年も、2/24~25日に伊豆半島周辺を車で巡って来ました。都内に住むNさんが愛車で茅ヶ崎の旅友Sさん宅に早朝6時に。私も自分の車でSさん宅に。6時に茅ヶ崎を出発し西湘バイパスで二宮に住むOさん宅へそして4人で、この日の最初の訪問地・河津桜に向かう。再び西湘バイパスで真鶴方面へ。目の前に箱根・二子山の姿が。 富士山の姿も。雲の合間から朝の太陽が顔を出した。小田原漁港に架かる小田原ブルーウェイブリッジを通過。真鶴半島。真鶴道路からの湯河原海水浴場。太陽が雲の上に。そして水面には黄金の帯が。熱海海岸を通過。山の上に熱海城が。 伊東温泉・ホテルサンハトヤ前を通過。駐車場にいる巨大ゴリラ。真っ先に股間に目が行き、レディだと推測。東伊豆町大川のライオン岩。稲取温泉。稲取岬は以前訪ねたクロアチア・ドブロブニクを彷彿とされるものが。屋根が赤ければ更に。 河津町に近づくにつれて、道路脇に河津桜の花が。そして東伊豆道路の河津桜入口の交差点を右折。WELCOMEボードには「河津さくらまつり 開催中」の文字が。8:30過ぎにスムーズに駐車場に車を駐め、河津川沿いの河津桜を楽しむ。今年は厳しい寒さが続いたため、この日は全体的に5~6分咲きか?河津川の堤の道沿いの菜の花はほぼ満開に。河津桜とは静岡県賀茂郡河津町で毎年3月上旬に満開になるピンク色の桜。この桜は染井吉野のようにパーっと咲いてパーっと散るって感じの桜ではないのです。伊豆の温暖な気候と早咲きの特色を生かし毎年2月上旬から開花しはじめ約1ヶ月を経て満開になる桜。この桜は本州でも早咲きの種類に分類され開花の過程を楽しめ更に満開を長く維持するのが特徴。河津桜まつりの今年のポスター。2/10~3/10までの1ヶ月間行われると。夜間のライトアップも足湯のコーナー「さくらの足湯処」も。河津川。ミカン、河津産「はるか」も試食・販売中。寒さに耐えて頑張って咲いてくれました。海鮮焼き、大判焼きの出店。さんま丸干し。観光客も増えてきました。クロガネモチ?時間と共に開花が刻々と進んでいるような。可憐なピンク。メジロも花見に参加。河津川沿い約4kmに咲く850本の河津桜が。河津桜が川面を覗き込むように。巨大なマツボックリ。豊泉橋から、この辺はまだ1~2分咲きか?蝋梅も満開。河津桜の原木を訪ねる。こちらは開花が進み8分咲き程度か。 河津桜の原木は、伊豆急河津駅から天城山へ向かって1.2kmの地点、河津町田中の飯田氏宅の庭にあった。河津桜の原木を、河津町田中の飯田勝美氏(故人)が1955年(昭和30年)頃、偶然発見したさくらの苗を、現在地に植えたもの。1966年(昭和41年)から開花が見られ、1月下旬頃から淡紅色の花が約1ヶ月にわたって咲き続けたと。飯田氏宅の庭に。「町指定天然記念物 河津桜原木」。昭和30年頃の二月のある日、この家の主人であった飯田勝美氏が、河津川沿い(豊泉橋上流の田中地区側)の冬枯れの雑草の中で芽吹いていた約1メートル位に育った桜の若木を偶然見つけて庭先に植えた事が始まりであると。2017年(平成29年)現在、樹齢約63年、樹高約10m、樹巾約10m、幹周約115cm。河津桜原木保護育成基金ご協力依頼の看板。地元ケーブルテレビも河津桜原木の開花状況を撮影・紹介中。河津桜はオオシマザクラとカンヒザクラの自然交配種と推定されていると。既に葉の出ている枝も。菜の花も美しい。ミカンが撓わに。桜餅を購入。涅槃堂のポスター。多くの釈迦如来像は座っている姿を思い浮かべますが、静岡県河津町にある 「涅槃堂(ねはんどう)」には、珍しいことに横たわる仏像が安置されている。仏教の開祖、お釈迦様が入滅した時の様子を表した「寝釈迦像」で、全国に34例しかなく、日本三大寝釈迦とされる貴重な仏様。菜の花が陽光に照らされ輝いていた。「2018 ミス伊豆の踊子」。ズームで。吊し雛。「雛のつるし飾りまつりも2018年1/20から3/31開催五段飾りも。 ・・・つづく・・・
2018.02.27
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次泉岳寺での赤穂義士の墓への参拝を終え、第1京浜の泉岳寺交差点に向けて歩を進める。この交差点を右に曲がると、直ぐ右に「稲荷神社」と刻まれた石碑が。ここが神社入り口なのであった。境内はこの真上。石碑の右の階段をぐるぐるっと回って上がっていくと境内となるようです。建物の左の壁には石灯籠や石碑が並んでいた。ここも境内の一部。離れた場所からはこの様に稲荷神社が屋上にあることが解るのでした。 【https://4travel.jp/travelogue/11244434】より。更に品川方面に進むと、同じく右手に「高輪神社」が。高輪一帯の総鎮守。創建時は稲荷信仰の神社であり「稲荷社」と称された。境内社には聖徳太子を祀る「太子堂」が鎮座。大永四年(1524)、北条氏綱と上杉朝興の両軍が当地で衝突した結果、氏綱が江戸城を勝ち取り城主となる。これが「高縄原の戦い」として当時の軍記物語に伝わる戦い。この高縄原が転じて高輪原となり、現在の「高輪(たかなわ)」の由来となる。高縄原とは高縄手道(高台のまっすぐな道の意)の略とされる。 御朱印を頂きました。 高輪海岸の石垣石。「ここに展示されている石は、江戸時代に、高輪海岸に沿って造られた石垣に用いられたものです。平成7年(1995)、高輪2丁目20番地の区有施設建設用地内の遺跡の発掘調査で出土しました。石垣には、主に相模湾岸から伊豆半島周辺で採石された安山岩が用いられました。発掘調査では3段の石積みを確認しましたが、最上段は江戸時代の終わり頃に積みなおされたものと考えられます。正面の小ぶりの石が積み直されたものです。3段目から下の石垣は現地でそのまま保存されています。」と。桂坂(かつらざか)。桂坂は、東京都港区高輪二丁目12番と三丁目19番の境界に存在する坂。由来は、かつて蔦葛(つたかずら)がはびこっていたから、また、鬘(かずら)をかぶった僧侶が品川からの帰途、急死したことによるともいわれると。AP品川アネックスの角を右折し坂道を上ったところにあるのが「旧竹田宮邸洋館」 1911年(明治44年)完成。 旧竹田宮邸。 煉瓦造2階建て。近代日本の黎明期に宮廷建築家として活躍した、片山東熊により設計された。室内は17〜18世紀初頭の様式で装飾され、 細部にわたって優雅な意匠が散りばめられた格式のある建築。現在は「貴賓館」という名称でグランドプリンスホテル高輪の結婚式場などに利用されていると。品川駅に向かって歩くと右手に美しい夕日&夕焼けが。「カトリック東京大司教区高輪教会」が右手に。一般的な教会のイメージと異なる明るい感じの建物。教会入口前に江戸の「大殉教顕彰碑」が立っていた。三代将軍徳川家光によるキリシタン迫害政策で処刑された人々は江戸全体で2000人であった。三田の刑場跡地に1956年立てられた顕彰碑はその後現地に移されたと。キリスト像。「柘榴坂(ざくろざか)」を下る。TKPガーデンシティ品川の庭の植栽のイルミネーションも始まっていた。大きな白い雪の結晶が輝き始めていた。そして品川駅前から、品川駅を見る。品川駅港南口の高層ビル群も。第1京浜横浜方面。この日の仕事を終えた多くの帰宅者が横断歩道を渡っていた。第1京浜東京方面。車の数も増えてきた。最後に品川神社まで行きたかったが、時間切れ。次回のスタート地点とすることに。そして18時から現役時代お世話になった方々、旅友と品川駅前で宴を楽しむ。そして20:30過ぎにJR東海道線で帰途についたのであった。帰宅してこの日の散策ルートを地図に。歩いた歩数を我がIPHONESのソフト表示は約23000歩⇒約17km程になるのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2018.02.26
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次義士墓入口の門。この門は浅野家の鉄砲州上屋敷(現・聖路加病院)の裏門で、明治時代に移築したもの。赤穂義士墓地へのお参りのために100円を奉納し、お線香を頂きました。赤穂義士は元禄16年(1703年)2月4日に切腹した後、直ちにこの地に埋葬されたとのこと。 浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)の墓。浅野内匠頭夫人(阿久里(落飾後瑤泉院))の墓。大石内蔵助の墓大石主税の墓。左が主税の墓で右の大きいのは十三回忌碑。 浅野長友・大学の墓。浅野内匠頭と瑤泉院のお墓の間に、内匠頭の父の浅野長友のお墓と弟浅野大学長広のお墓が。浅野長友は初代藩主・浅野長直の長男として生まれ、寛文11年(1671)、父の隠居により跡を継ぎましたが、延宝3年(1675)、33歳で亡くなりました。(左が浅野長友の墓)浅野大学は、刃傷事件のため、3000石の所領も召し上げられ、広島浅野宗家にお預けとなった。 そして、宝永6年(1709)将軍綱吉死去に伴う大赦で許され、宝永7年(1710)安房国に知行500石を持つ旗本に戻り御家再興を果たした。 享保19年(1734)に65歳で死去し、泉岳寺に埋葬された。戒名は亮監院殿月清涼山大居士。(右が浅野大学の墓)なお、泉岳寺には、浅野大学家の泉岳寺には、浅野大学家の昭和まで累代の当主の墓もあるが、浅野大学家は昭和61年に断絶したのだと。墓地配置図。【水野家お預け浪士の墓】 水野家お預け浪士は9名。右から次の通り。 神崎与五郎 則休 三村次郎左衛門包常 横川勘平宗利 茅野和助 常成 間瀬孫九郎正辰 村松三太夫高直 矢頭右衛門七教兼 奥田貞右衛門行高 間十次郎光興 そして左奥が寺坂吉右衛門大石良雄以下、46名には法名の最上部に「刃」の一字が入っているのは切腹を表していると。 ただ一人、寺坂吉右衛門は、討入の後、大石の命を受け瑶泉院(長矩公夫人)及び一党の遺族等復讐の顛末を報告して廻り、後江戸に帰って自首したが、時効を以って赦され、83才の天寿を全うしたので、「刃」の文字が入っていないのだと。墓石の色も赤く他の義士のものとは違っていた。 そして「寺坂吉右衛門」 の名の位置も左に。 【毛利家お預け浪士の墓(1)】 毛利家お預け浪士は10名。そのうち5名の墓。左から次の通り。 間新六光風 倉橋伝助武幸 武林唯七隆重 吉田沢右衛門兼貞 岡島八十右衛門 その後ろの列に【毛利家お預け浪士の墓(2)】 毛利家お預け浪士10名のうちの5名の墓。左から次の通り。 小野寺幸右衛門秀富 前原伊助宗房 勝田新左衛門武堯 杉野十平次次房 村松喜兵衛 秀直【細川家お預け浪士の墓(1)】 細川家お預けの浪士は17名。そのうち9名の墓。右から次の通り。 吉田忠左衛門兼亮 原惣右衛門元辰 片岡源五右衛門高房 間瀬久太夫 正明 小野寺十内秀和 間喜兵衛光延 磯貝十郎左衛門正久 堀部弥兵衛金丸 【細川家お預け浪士の墓(2)】 細川家お預けの浪士は17名。そのうち6名の墓。右から次の通り。 大石瀬左衛門 信清 矢田五郎右衛門 助武 奥田孫太夫 重盛 赤埴源蔵 重賢 早水藤左衛門 満堯 潮田又之丞 高教3回忌地蔵尊。【松平家お預け浪士の墓】 松平家お預け浪士は10名。そのうちの大石主税を除いた9名の墓。右から次の通り。 堀部安兵衛武傭 中村勘助正辰 菅谷半之丞 政利 不破数右衛門正種 木村岡右衛門貞行 千馬三郎兵衛光忠 岡野金右衛門包秀 貝賀弥左衛門友信 大高源五忠雄 そして左奥が萱野三平の墓 墓所の近くに、赤穂浪士のほかに、赤穂浪士関係者のお墓もあった。「妙海尼の墓」赤穂浪士の墓所に手前にあるのは、堀部安兵衛の妻を自称した妙海尼のお墓。妙海尼は、堀部安兵衛の妻を自称し、1774年(安永3)、高輪泉岳寺に清浄庵を結んで赤穂浪士の菩提を弔うと共に浪士の昔語りを始めたと。泉岳寺内で94歳の高齢で死去したと。赤穂分家(若狭野領主)浅野長恒・赤穂分家(家原領主)浅野左兵衛長武(旗本)生母永壽院の墓か?「永壽院殿月岑貞松大姉」と刻まれていた。浅野家一族の墓。右に浅野長年・夫人の墓。隣に浅野長邦の墓・・・・・。墓半分を?再び。表忠碑。戊辰戦争で泉岳寺に来た広島藩士らが、朽ちた赤穂義士の墓碑を見て、可哀そうだからと言い、この表忠碑を建てたと。赤穂義士墓所入口の建物に線香の受け皿を返却。泉岳寺に関する写真等が販売されていた。「講堂」。講堂(2階は義士木像館)は赤穂義士記念館ができるまでは、義士館として使用。関東大震災後の大正14年(1925年)に建てられたものを平成16年に改装。現在一階は講堂として使用しており、毎週土曜日に学寮講座開講中。2階は義士木像館として赤穂義士記念館と併せて公開されている。講堂の左前にある主税梅の枝が写真に。大石主税が切腹した松平隠岐守三田屋敷に植えられていた梅。「赤穂義士記念館」。討ち入り300年に当たり次の時代引き継ぐべく、新たに建てられた義士に関する資料館。中には義士の貴重な遺品などが、忠臣蔵についてのビデオも上映している。内容は松之廊下3分、泉岳寺と赤穂義士5分、いざ討ち入り7分、義士祭6分計21分間。 「澤木興道老師像」。仏法の究極である坐禅をもって生涯を貫いた20世紀にもっとも活躍した禅僧の一人。三重県津市に生まれ、1897年に永平寺に入り、1899年に出家するも、兵役に取られ、日露戦争で負傷する。退役後、旧制第五高等学校の生徒に坐禅を指導する。各地の道場を転々とし、「移動僧堂」、「宿無し興道」と称された。1935年に總持寺後堂職となり、駒澤大学特任教授も兼任して、それまで選択科目であった坐禅を必修科目とさせ、徹底した坐禅教育を行った。 「何にもならんもののためにただ坐る」という只管打坐を貫き、その一生を通じて実践して見せた。その思想指導方法はアメリカのスタンフォード大学にある曹洞禅センターにも受け継がれていると。鐘楼堂大正2年・41世普天霊明和尚代に作られた鐘で、朝の坐禅の時と夕方の閉門の時に撞かれている。江戸から明治まで使われていた梵鐘は、現在ウィーンの国立民族博物館が所蔵。何故ウィーンに?寺務所。御朱印受所。墓所お参り後受処にてお願いしていた御朱印を頂きました。 御朱印受所から山門を見る。再び本堂を。門前の土産物屋の屋根には陣太鼓が。土産物屋には赤穂義士や忠臣蔵にちなんだグッズや和菓子など様々な土産が置かれていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2018.02.25
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次札の辻交差点を右折し、三田3丁目交差点まで行き、ここを左折。「聖坂」を上る。「聖坂」の名は古代中世の通行路で、商人を兼ねた高野山の僧(高野聖)が開き、その宿所もあったためと。竹芝の坂と呼んだとする説もあると。「亀塚稲荷神社」。聖坂の途中西側にある小さな神社。祭神は宇迦御魂命(うかのみたまのかみ)。名前の「ウカ」は穀物・食物の意味で、穀物の神であると。 亀の形をした石を神体としている。伝承によると、太田道灌が当地に物見台を造った際に建立したと。亀塚公園のベンチで一休み。江戸時代は、上野沼田藩土岐家の下屋敷で、明治維新後は皇族華頂宮邸となったというところだけあって、閑静な高台にある公園。公園では多くの子供達が遊んでいた。「亀山碑」。亀塚公園内、都指定史跡「亀塚」の頂部にある幅2.2m、高さ1.4mの石碑で、上野国沼田城主土岐頼熈によって寛延3年(1750)に建てられたもの。土岐家は明暦3年(1657)にこの地を下屋敷として拝領した。詩文に秀でた大名といわれた頼熈は、この地が『更級日記』の竹芝寺伝説の地であることや塚の頂部に酒壷があり、ここに出入りする亀を神と崇めていたが一夜の風雨で酒壷の亀が石になったという伝説に興味を持ち、そうした由来を伝えるためにこの碑を建立したと。大名屋敷に建立された石碑としても貴重なものと。荘厳寺の鐘楼。真宗大谷派寺院の荘厳寺は、由良山と号す。本堂。荘厳寺は、由良播磨守が開基となり、由良播磨守の弟祐傳を開山として寛永14年(1637)創建。鯉の滝登り。見事な作品。三田の「幽霊坂(ゆうれいざか)」。幽霊坂の由来は坂の周辺地域には、寛永12年(1635年)の江戸城拡張に伴って、八丁堀より移転されてきた寺院群が、道の両脇に建ち並び、昼でも幽霊が出そうなほど暗い場所であったことから、あるいは、それほどに寂しい場所であったからと。幽霊坂は都内に7ヶ所もあると。幽霊坂を下る。坂の中腹にある黒沢邸(玉鳳寺の坂上側) のところに初代文部大臣の森有礼の居宅があったことから「有礼坂」が名の由来との説もあると。 玉鳳寺(ぎょくほうじ)三門。山門寄進は、檀信徒総代 高橋是清 翁とのこと。 明治39年7月10日建立と。こちらは向かいの仙翁寺 山門。そして、地元の女性に聞きながら漸く正覚院境内に「福島正則の墓」を発見。柵に囲まれていて中に入ることは出来なかった。墓には特に案内はなく、お線香を立てる石にうっすら福島と彫られていた。 福島正利の墓(左)と福島正則の墓(供養塔)(右)。左右のの五輪塔は「宝珠・半月型・三角・丸・四角」の5つのパーツから構成されており「空風火水地(くうふうかすいち)」と刻まれていた。福島正則は豊臣秀吉子飼いの武将で賤ヶ岳の七本槍の一人として活躍。秀吉最晩年には清洲24万石の大名となった。文治派の石田三成とは反りが合わず、関ケ原の戦いではいち早く徳川家康に味方し、戦後、広島藩49万石の大大名となったのだ。 それにしても、チョット寂しい歴史上有名な武将の墓(供養塔)なのであった。 三田台公園に立ち寄る。三田の地名の由来は、朝廷に献上する米を作る屯田(みた)があったからという説があり、また伊勢神宮や御田八幡神社の神田(みた)があったからという説もあるとのこと。白の垂れ梅。紅梅も青空に映えて。「旧華頂宮邸跡 井戸」。現在は非常用水源になっている模様。「高輪皇族邸」正門。高松宮邸は始め、東京市麹町区三年町(現在の東京都千代田区永田町、内閣府庁舎付近)にあった有栖川宮邸を引き継いだが、昭和に入って同建物が外務大臣官邸に転用されることに伴い、港区高輪一丁目にあった高輪御殿に移転。同地は江戸時代、大石良雄らの切腹地として知られる肥後細川家の下屋敷跡であり、大正時代には皇太子であった昭和天皇が一時期東宮御所としていたこともあると。 高松宮宣仁親王の妃・喜久子様が薨去するまで使用されたと。 そして「大石良雄外十六人忠烈の跡(おおいし よしお ほか じゅうろくにん ちゅうれつの あと)」に到着。港区高輪にある旧跡で、かつては肥後熊本藩細川家江戸下屋敷がここにあった。元禄16年2月4日(1703年3月20日)、熊本藩細川家の下屋敷において赤穂浪士の大石良雄(大石内蔵助)ほか16人が切腹した。三田の伊予松山藩屋敷跡(現:イタリア大使館)には大石主税良金ら十士切腹の地がある。大石父子の切腹は、ほぼ同時刻であったといわれている。浪士たちは、江戸高輪の泉岳寺(曹洞宗)に葬られている。内部にはいくつかの大石?が枯山水の庭園の如くに。ここで自刃した十七名の義士名が、石に刻まれ残されていた。17歳から69歳の義士達。 高輪の高層アパートの奥まった一画にあったが、こちらが正式な入口の様であった。「大石良雄等自決ノ跡」と刻まれていた。廣岳院の正面。常陸国(現・茨城県)の永厳寺の末寺。信濃国飯山藩主となった佐久間氏ゆかりの寺で。寺号は飯山藩佐久間氏初代藩主安政の嫡男・勝宗の法名・広岳院殿より名付けられたと。 正面向側横にあった丸山神社。「興意親王墓(こういしんのうのはか)」。織豊-江戸時代前期,誠仁(さねひと)親王の第5王子(1576-1620)。安土桃山時代の皇族。正親町天皇の嫡男でありながら皇位につくことなく早世したが、遺児である和仁親王(後陽成天皇)が皇位につくと、天皇の実父として太上天皇の尊号を追贈された。上皇としての諡(追号)は陽光院。慶長15年近江(おうみ)(滋賀県)園城寺(おんじょうじ)長吏となる。19年豊臣氏が建てた方広寺大仏殿の棟札に前例にない銘文をかき,また徳川氏調伏の嫌疑で蟄居(ちっきょ)する。のち疑いがとけ,幕府の寄進で照高院を白川に再建した。元和(げんな)6年10月7日死去。45歳。名は邦慶。寛永寺宮以外の皇族墓は江戸では珍しい例とのこと。そして道を間違えやや遠回りしたが、「泉岳寺」の「中門」に漸く到着。泉岳寺は慶長17年(1612年)に徳川家康が外桜田に門庵宗関を招いて創建。寛永18年(1641年)寛永の大火で焼失したが、徳川家光の命で、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の5大名により、現在の高輪の地で再建された。赤穂事件で有名な浅野長矩と赤穂浪士が葬られていることで知られ、現在も多くの参拝客が訪れる。 元来、泉岳寺には三門と言って三つの門(総門・中門・山門)があったが、現在は中門と山門のみが残っているのだと。現在の中門は天保7年(1836年)に35世大龐梅庭(だいほうばいてい)和尚代に再建されたもので、昭和7年に大修理を施されていると。山号の「萬松山」の額は、中国明時代の禅僧・為霖動霈(いりんどうはい)による書と。「山門」。この門は天保3年(1832年)に34世大道貞鈞(だいどうていきん)和尚代に再建されたもの。二階部分には十六羅漢が安置され、一階部分の天井には「江戸三龍」のひとつ、銅彫大蟠龍がはめこまれていると。「泉岳寺」の額は、晋唐の墨跡研究者であった大野約庵による書と。「大石内蔵助吉雄銅像」この銅像は、浪曲の宗家・桃中軒雲右衛門の発願により鋳造されたもので、所有が転々としていましたが、泉岳寺に寄進され、大正10年12月14日に除幕したもの。内蔵助が当時の風俗である元禄羽織を身につけ、連番状を手にして東の空(江戸方向)をじっとにらんでいる姿を表したもの。泉岳寺の境内。「本堂」。旧本堂は第二次世界大戦で空襲にあい消失。現本堂は昭和28年12月14日に落成した鎌倉様式の建築。ご本尊は釈迦如来、他に曹洞宗の宗祖である道元禅師・瑩山禅師、また大石内蔵助の守り本尊である摩利支天(秘仏)などが納められていると。「史跡 赤穂義士墓所」と刻まれた石碑。石碑の脇には「水琴窟」が。水琴窟の上には小さな赤穂浪士の像が建っていた。柄杓で水を汲んで注ぐと、綺麗な音色が聞こえて来たのであった。「瑤池梅」と刻まれた石碑。義士の墓守をした堀部妙海法尼が瑤泉院から賜った鉢植えの梅を移植したものと。「血染の石・血染の松」。血染の石・血染の松は、浅野内匠頭が自刃した田村右京太夫建顕(1656~1708)の屋敷にあったものとのこと。 「首洗い井戸」。赤穂義士が本懐成就後、吉良上野介の首級をこの井戸水で洗い、主君の墓前に供え告したところから「首洗い井戸」と呼ばれている。本所松坂町の吉良邸跡にもやはり首洗い井戸があるのだが、首を2回洗ったということか??「川上音二郎建立」と刻まれた石碑が井戸の前(写真右)に。川上音二郎の墓はもともと泉岳寺にあった(現在は谷中霊園)とのことでで、泉岳寺と関係が深いらしい。赤穂義士記念館入口には「巨人軍 長嶋茂雄」と刻まれた石柱が。「義商 天野屋利兵衛浮図」碑。天野屋利兵衛(1661~1733)は大阪の商人で、赤穂浪士に武器を用立てしたとされる。講談では、幕府側の追求に対して「天野屋利兵衛は男でござる」と口を割らなかった人物だが実際には、赤穂浪士とは関係がなかった人物とのこと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2018.02.24
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次芝公園内の記念碑見学の後は、芝増上寺に向かう。「三門」 。三つの煩【貪、むさぼり 瞋、いかり 痴、おろか】を解脱する門。禅宗様式の和洋折衷の美しさを持ち、慶長16年(1611)、徳川家康公の助成により、幕府の大工頭・中井大和守の配下によって建立された。都下最大の木造建築物で、組み物は唐様を中心として、勾欄などに和様、天竺様が加味され、桃山時代の雄大な気宇を伝えている。増上寺は浄土宗の大本山で、江戸時代は徳川家の菩提寺となったために幕府の庇護を受け、寺運は隆盛を極めた。おしくも、空襲により多くの文化財を失い、三解脱門、黒門、経蔵以外は焼失したと。高さ21m、間口19.5m、奥行き9m東日本最大の門です。三門にぶら下がる対の燭台?ぶら下げるタイプの火袋?「水盤舎」。手水舎は様々な名称で呼ばれますが、増上寺では「水盤舎」と呼ばれているようです。 「大殿」。間口約48m、奥行き45m、高さ焼約23m 。首都圏では最大級の御堂。三門をくぐり、目の前に立つ大殿は壮大そのもの。石段を登りつめた二階に本堂、三階に道場、一階に檀信徒控室、地下に増上寺宝物展示室。増上寺は度重なる火事に見舞われ、第二次世界大戦でも伽藍、御霊屋のほとんどを消失。現在の大殿は1974年に再建されたもの。三門を入ると、すぐ左側に「聖観世音菩薩」。「鐘楼堂」。東日本では最大級であり、江戸三大名鐘の一つ。鐘楼堂建立は1633年だが、第二次世界大戦の東京空襲で焼失し、今の鐘楼堂は戦後再建。高さ3.3m、直径1.8mで、重さ約15tもある大きな鐘で見ごたえ十分。鐘音は朝夕2回聞けるとのこと。鐘楼堂前の白梅も満開。再び青空の下、大殿と東京タワーを。「旧方丈門(黒門)」。一間一戸の切妻造本瓦葺、高さ8mの四脚門。もと増上寺方丈の表門であったが、昭和55年(1980)、善導大師1300年遠忌を期に、表側の飛檐垂木〈ひえんだるき〉の大部分と、東側の破風板〈はふいた〉、瓦の一部を補修し、三解脱門南隣りの現位置に移築。よく旧規を保ち、木割りが雄大で重厚な姿を持つ。門扉は破損が著しいため取り除かれた。全体が黒漆塗であったため「黒門」とも呼ばれている。以前訪ねた熱田神宮の「信長塀」に良く似た土塀。土と石灰を油で練り固め、瓦を厚く積み重ね、上部を桟瓦で葺いた築地塀。「慈雲閣(じうんかく)」。浄土宗大本山「増上寺」の敷地内にある式場の一つ。「旧台徳院霊廟惣門(きゅうだいとくいんれいびょうそうもん)」。江戸幕府二代将軍徳川秀忠の霊廟建築で、増上寺に造営された。壮大な規模を持ち、江戸時代初期を代表する建造物群。霊廟は1930年5月23日、当時の国宝保存法に基づき国宝(現行法の「重要文化財」に相当)に指定された。太平洋戦争末期の1945年5月、東京大空襲で大部分の建物を焼失。秀忠の墓所は1958年に発掘調査が行われた後改葬されており、現在は増上寺安国殿裏の徳川家墓所に墓塔が建てられている。惣門に安置された仁王像の阿形像。仁王は、正式には金剛力士、仏法の守護神。 吽行像。屋根は入母屋で、前後の唐破風に美しい装飾が。芝公園芝生広場内からの東京タワー。菜の花と河津桜も開花を始めていた。「芝東照宮」。芝公園の一角にあり、元来は増上寺内の社殿であった。徳川家康が慶長6年(1601年)に還暦を迎えた記念に自らの像を刻ませた「寿像」を、自身が駿府城に於いて祭祀していた。元和2年(1616年)家康は死去に際して「寿像」を祭祀する社殿を増上寺に建造するよう遺言した。同年10月に着工し翌元和3年(1617年)2月に竣工した。この社殿は家康の法名「安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士」より「安国殿」と呼ばれた。これが芝東照宮の起源であると。境内の参道。境内では紅梅、白梅の共演。本殿 祭神は徳川家康。神体は徳川家康寿像。旧社格は郷社。日光東照宮、久能山東照宮、上野東照宮と並ぶ四大東照宮の一つ。歌碑。★人にまだ触れざる風や朝桜 ★長編の虚子の一書を読始 ★法師蝉鳴いてゐる木とすぐわかる星野高士(1952-) の句。境内には 大イチョウがスックと立っていた。周り7.6m、目通り幹周り6.45m、樹高25.5mで、1639年の東照宮再建に際して3代将軍家光が植えたと伝えられるので、樹齢は380年近くとなる。幹周りもさることながら、枝の太さが印象的である。ずっと高いところに 巨大な3本の枝が伸びている様は見事である。都の天然記念物。 芝公園内の「梅屋敷銀世界」。芝東照宮の横に約70本の紅梅・白梅の梅林があり、「銀世界の梅」と呼ばれている。東京タワーを望みながら梅の観賞ができる場所で、今年も翌日の16,17日に「芝公園梅まつり」が行われるとのこと。 見事な紅梅。 「芝丸山古墳(しばまるやまこふん)」を訪ねる。「大野伴睦句碑」。下高輪町に在住し、自由民主党副総裁も勤めた政治家。丸山西頂部にある句碑は昭和38年6月調理師法施工5周年にあたって、伴睦が長年調理師会の名誉会長として尽力した労に謝するため贈呈されたものである。 碑には「鐘がなる春のあけぼのヽ増上寺」と刻まれている。「伊能忠敬測地遺功表」。伊能忠敬の測量の起点となったのが、この芝公園近くの高輪の大木戸であった関係で、東京地学協会がその功績を顕彰して遺功表を建てた。明治22年(1889)に高さ8.58mの青銅製の角柱型のものが設置されたが、戦災で失われたため、昭和40年に現在のものが再建されたと。『伊能忠敬先生は1745年(延享2年)上総國に生れて下総國佐原の伊能家を嗣ぎ村を治めて 後50歳のとき江戸に出て高橋至時のもとで天文暦教の学を究めた。先生の卓見と創意とによる 測地測量は1800年の蝦夷地奥州街道の實測を始めとして全國津々浦々にまで及び1818年 (文政元年)江戸八丁堀で74歳をもって歿するまで不屈の精神と不断の努力とによって 続けられわが國の全輪郭と骨格とが茲に初めて明らかにされるに至った。 その偉業は引きつがれて1821年大中小の大日本沿海輿地全圖が完成せられその精度の 高きことは世界を驚嘆せしめた程であり参謀本部測両局の輯成二十万分一地圖は實に この伊能圖を骨子としたものである。東京地学協會はその航跡を顕彰して1889年この地に 贈正四位伊能忠敬先生測地遺功表を建設したが不幸にして第二次大戦中に失われるに至った。 扔つて今回各方面の協賛を得、この碑を再建した次第である。』と記載されていた。古墳の丘の上から増上寺と187mの高さの愛宕グリーンヒルズ。「東京都指定史跡 芝丸山古墳」。前方後円墳で、東京都指定史跡。全長110m、後円部径約64m、くびれ部分の幅22mという都内では最大級の規模。芝公園自体が標高16mの台地上にあり、古墳はさらに高く土が盛られているので、頂上からの眺望は一段と広くなっているのであった。「丸山随身稲荷大明神」。円山稲荷は、増上寺の裏鬼門に位置し、山内鎮守の重要な地を占め、史跡として指定されている丸山古墳上にあった。随身稲荷の由来は、増上寺がこの地に移建当時桑名より迎えた御本尊を守護する為に江戸までお供されたいわれにより、以来永く鎮守まします大明神 と。芝公園を後にし更に品川に向かって進む。首都高速下の「芝園橋(しばぞのばし)」を渡る。昭和59年3月架け替え、長さ19m、幅26m。大正15年1月に古川にかけられ、芝公園の橋というと。 古川の上に高速道路が続く。日本電気本社ビル。1990年に完成し高さ180メートルの高層ビル。愛称「ウインドアベニュー」と呼ばれる巨大な開口部があるのが特徴。現役時代に何度か訪ねた事があるこのビル。今は売却し、日本電気は建物全体を賃借しているのだと聞いたことがあるが・・・。三菱自動車工業(株) 本社前に「江戸開城 西郷南州・勝海舟会見之地」碑が。新政府軍の江戸城総攻撃は、1868(慶応4)年3月15日に予定されていた。その前日3月14日、東征大総督府下参謀・西郷隆盛と、旧幕府徳川家陸軍総裁・勝海舟の会談が、田町の薩摩藩邸(蔵屋敷)が行なわれた。薩摩藩蔵屋敷跡は、三菱自動車工業(第一田町ビル)となっていたが碑が立てられていた。 そして、田町駅前の蕎麦屋で遅い昼食を。 ・・・もどる・・・ ・・・ つづく・・・
2018.02.23
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次銀座和光のディスプレイウインドウ。『TOKYO 2018』の文字が。「ただの数字じゃない。 THIS IS WHAT I AM.」と書いてあるが、その意味するものは・・・?東京マラソンのオフィシャルタイマーであるセイコーのタイマーが、和光本館のショーウインドウにディスプレイされていた。タイマーが表示するランダムなタイムは、東京マラソン2018のランナー一人ひとりの走っている時間を表現するのだと。2月25日(日)の大会当日はスタートまでのカウントダウンを、また、9時10分のスタート後は実際のレースタイムを表示し、大会コースのハーフポイントに近い銀座4丁目のショーウインドウで「東京マラソン2018」を盛り上げると。 銀座和光ビル。入口のタイマーには「WR 2:02:57」の表示が。2014年に、ベルリンマラソンで世界記録を更新したデニス・キプルト・キメット(ケニア)の2時間2分57秒の記録。銀座4丁目交差点の一角に立つ和光のこの建物は、昭和初頭から今日に至るまで、銀座のシンボルとして、銀座通りのイメージを象徴して来た。現在では高級百貨店となっているが、もともと服部時計店の社屋として建てられたもの。長らく服部の時計塔として親しまれ、銀座を舞台とした映画には必ず背景として映されていたと。戦後の荒廃した銀座通りにあっても、この建物はけなげに立ち続け、人々に勇気を与えたのだと。服部時計店が銀座に進出したのは明治28年、初代の建物も時計塔を乗せていた。現在の時計塔は東西南北の4面すべてに文字盤は配されているのだ。時計台の頂上には国旗掲揚塔も確認出来た。 「銀座プレイス 」。銀座四丁目交差点にある、展示場、物販店舗、飲食店舗、駐車場からなる再開発の複合商業施設。日本の伝統工芸の「FRETWORK(透かし彫り)」の技法をイメージしているのだと。 私には、「フルーツキャップ(緩衝材)」に大切に包まれたビルではないか、と知識がない自分が。そして「銀座 5丁目」。「銀座 6丁目」「銀座 7丁目」。「日本橋まで2km」。ヤマハ 銀座店。日本の伝統美と現代の先端的なデザインを大胆に組み合わせた外観デザインであると。ビルの表層は、ランダムな濃淡をつけた金箔を合わせガラスに挟み込んであるのだと。「SWAROVSKI」銀座店。1895年にオーストリアのチロル州で創業したクリスタル・ガラス製造会社。ファサードを構成するのは数にして幾千本と言う六角のステンレス製異形パイプの束。圧倒的量感。無数の鏡面が銀座通りの風景をモザイク状に映し出していた。「銀座 8丁目」。「銀座八丁目交差点」。上部に首都高速が。「新橋の親柱」。銀座中央通り沿いの銀座ナイン2の向かい、首都高速下にポツンと親柱が。かつては汐留川がありそこに架けられた橋で当時の史跡として、この親柱が残されていると。「芝口御門跡」。宝永7年(1710年)、朝鮮の聘使(へいし)の来朝に備えて、新井白石の建策にもとづきわが国の威光を顕示(けんじ)するため、この新橋の北詰に、現に外桜田門に見られるような城門が建設されて、芝口御門と呼ばれ、新橋は芝口橋と改称された。城門は橋の北詰を石垣で囲って枡形(ますがた)とし、橋のたもとの冠木門(かぶきもん)から枡形(ますがた)に入って右に曲ると、渡櫓(わたりやぐら)があって堅固な門扉が設けられていた。しかしこの芝口御門は建築後15年目の享保9年(1724年)正月に焼失して以来、再建されず、石垣も撤去され、芝口橋は新橋の旧称に復したと。木の陰で解りにくいので調べていると、こんな画像が。下の写真の芝口御門入り口の汐留川に架かる橋が「新橋」そして現在の銀座中央通りであると。 【https://wako226.exblog.jp/page/5/】 より 芝口御門 説明パネル。「銀座柳の碑」が二代目の柳の木の下に。 西条八十作詞、中山晋平作曲「銀座の柳」⇐リンク の歌碑。「♪♪ 植えてうれしい 銀座の柳 江戸の名残りの うすみどり 吹けよ春風 紅傘日傘 今日もくるくる 人通り ♪♪」明治二十年頃街路樹として銀座の街に植えられた柳は街の発展と共に銀座の名物となった。その柳を歌ったこの歌は全国を風靡した。これを記念して昭和29年4月1日、銀座通聯合会がこの碑を建立したと。東新橋1丁目交差点角にある「日比谷神社」 。豊受大神(稲荷神)・祓戸四柱大神(瀬織津比売大神・速開都比売大神・気吹戸主大神・速佐須良比売大神)を祀る。旧称 日比谷稲荷明神。更に品川方面に向かって進む。石球回転噴水。⇐リンク水圧によって石の球が回る仕掛け。浜松町1丁目を右に折れ、御成門交差点に向かう。芝公園入口。「お台場の石垣石」お台場(内海苔台場)は、嘉永6年(1853)黒船来航により、幕府が急きょ築造した海上砲台。未完を含め7基の台場のうち、国の史跡指定を受けた、第3と第6の2基を残して、その他は解体、埋め立てられた。この石は、その時、第5台場(現・港南5丁目)から移されたと。伊豆周辺から運ばれた安山岩で側面には、約100年の間、波に洗われた跡をとどめていると。「御成門」。芝増上寺(しば・ぞうじょうじ)の北方馬場にあった裏門の別称。増上寺は徳川家の菩提寺(ぼだいじ)の一つで、将軍が参詣(さんけい)する際にこの裏門がもっぱら用いられたので、御成門と呼ばれるようになった。もともと御成門交差点にあったが、1892(明治25)東京市区改正計画で道路(日比谷(ひびや)通り)が新設された際に、現在の東京プリンスホテルの駐車場脇に移転して現存しているのだと。御成門の柱の下部の保護板は酷く腐食され、早急の補修が必要。「有章院霊廟 (ゆうしょういんれいびょう)二天門」は工事中。江戸幕府七代将軍徳川家継(いえつぐ)(1709~1716)の霊廟建築。芝増上寺に造営された。豪華な彫刻で飾られていたが、戦災で焼失した。有章院は江戸幕府の第7代将軍、徳川家継の院号。工事着工前の写真が2枚掲載されていた。右が北方を守る多聞天(たもんてん)、左が西方を守る広目天(こうもくてん)。有章院霊廟は第7代将軍、徳川吉宗(よしむね)が1717(享保 2)建立したもので、日光の東照宮(とうしょうぐう)に劣らぬといわれるほどの豪華なものであった。しかし、1945. 5.(昭和20)空襲によりこの二天門(にてんもん)を残して焼失した。土葬されていた遺体は1958(昭和33)発掘し荼毘(だび)にふして徳川将軍墓所に改葬されたと。東京プリンスホテルの後ろに東京タワーが見えた。「御成門」を内側から。芝公園のうち、増上寺三門前に位置するあたりは古くから松原 と呼ばれていた。 それは、寛永17年(1640年)増上寺二十世大僧正南誉上人のとき、幕命によって三門の左右に松を植えつけたことに始まるとも、青山家藩士の植樹で百年松原と称したことによるとも伝えられている。 松はその後の災変によって焼失、あるいは枯死し主たる景観はくすのきに変った。 都は園地改修にあたり原形を残すとともにペルリ提督像と遣米使節団記念碑を配置し直し、新たにモニュメントを設置したと。 芝公園 百本松原の復元のモニュメント。 現在の港区役所。港区役所入口には「平和の女神」が、1968年 北村西望作。「浅岡飯たきの井」。江戸時代、ここに良源院(増上寺子院)があり、仙台藩伊達家の支度所として、藩主等の増上寺参詣の折などに使われていた。万治3年(1660)の伊達騒動の際に嗣子亀千代(後の綱村)を毒殺の危険から守ろうとして、母の浅岡の局がこの井戸の水を汲んで調理したといい伝えられると。昭和62年(1978年)新庁舎開庁にあたり、旧庁舎中庭にあったものを、ここに移設して保存したのだと。 港区役所前のモニュメント。「落語 首提灯」⇐リンク の江戸風の立て札。『酩酊(めいてい)した町人が武士に道を聞かれるが、酔っぱらいは相手を田舎(いなか)侍とみてさんざん侮辱する。侍は刀の柄(つか)に手をかけると居合腰で酔っぱらいの首を切った。その切り方があまりにもみごとであったので、酔っぱらいは首を切られたことに気がつかない。歩いて行くと首が自然に左へ回ってしまう。元へ戻してもすぐ左へ回る。そのうちにつまずいて首が前に落ちそうになり、初めて切られたことに気づく。そのとき半鐘が鳴りだして火事騒ぎとなる。人ごみのなかで首が落ちそうになるので自分の首を提灯に見立て両手で差し上げながら、「はいごめんよ、はいごめんよ」』 このあたりが落語「首提灯」の舞台になったと記されていた。 「ペルリ提督の像」。嘉永6年(1853年)と嘉永7年(1854年)の2回、米国使節として艦隊を率いて日本へ来航し、開国を迫った東インド艦隊司令長官ペリー(ペルリはオランダ語読み)の像。昭和28年(1953年)、東京都が日本開国百年記念祭を開催した際、ペリー提督の出身地であるロードアイランド州ニューポート市に石灯籠を贈り、その返礼として贈られたと。「万延元年 遣米使節記念碑」。1960年6月、日本の外交使節団が初めて太平洋を渡って以来100年になるのを記念して、日米修好通商百年記念行事運営会によって立てられたのだと。「常夜灯」。大門を抜けて、三門へいく通常の道路沿いにあった。増上寺への参道として昔から常夜灯があったのだと。 ・・・ つづく・・・
2018.02.22
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次日本橋をスタートし旧東海道歩きを始める。最初に訪ねたのは「名水白木屋の井戸」。東海道、日本橋の傍、COREDO日本橋の裏手に「名水白木屋の井戸」の碑が移築再現されていた。 日本橋の南側にあった白木屋は近江商人大村彦太郎の創業で、日本橋北側の越後屋と並ぶ呉服の大店であった。2代目彦太郎は正徳元年(1711)、日本橋周辺の水の悩みを解消するため店内に井戸を掘る。難工事の中、1体の観音像が出たのを機に、こんこんと清水が湧き出したと。以来、周辺住民のみならず広く「白木名水」とうたわれた。越前松平家では、この水で当主の病が治ったとして、明治維新まで毎朝汲み取りに行ったのだと。そして隣の植え込みの中に自然石風な石碑・「漱石名作の舞台」が。漱石の多くの作品に、日本橋が登場し、「吾輩は猫である」の先生が白木屋のご贔屓(ひいき)だったとか、小説「三四郎」や「こころ」にはこの路地の寄席や料理屋が描かれているのだと。高島屋 日本橋店の前を通る。10:30の開店を待つ多くの人々が入口付近に。「日本橋 3丁目」。日本橋3丁目の交差点の角には巨大な高さ6.25mキリンの銅像が。冠をかぶっていて、優雅な雰囲気の麒麟。作者は多摩美の客員教授で、彫刻家の安藤泉氏。2006年までは漢方薬のツムラの本社で、ビル名は「中将湯ビル」だったと。ツムラと巨大なこの麒麟像の関係は?「平和の鐘」。中央区は昭和63年(1988年)に世界の恒久平和と人類の永遠の繁栄を祈念し『平和都市宣言』をした。交差点の中央分離帯にある段上の三角形のアーチは この宣言を記念するモニュメントとして設置したものと。『中央区平和都市宣言』 いまいちどたちどまり 平和の尊さをみつめよう ささやかな幸せも こよなき繁栄も 平和の光が消えたなら すべてが失われる 私たちの手にある この輝きを 明日の世代に 伝えよう 一九八八年 三月一五日 この日 私たちは 永遠の平和を願いを 中央区が平和都市で あることを宣言する 』 この「平和の鐘」⇐リンク は、オランダ製で26個のベルによって四季おりおりのメロディを奏でると。交差点の中央分離帯の平和の鐘の横にはヤン・ヨーステンの碑が。ヤン・ヨーステンは1600年(慶長5年)、帆船リーフデ号で日本に漂着。日本に留まって徳川家康の通訳となり、屋敷を与えられた。彼の「耶楊子(やようす)」という日本名から、屋敷周辺は「八代洲(やよす)河岸」という地名になり、やがて「八重洲」と呼ばれるように。住所として登場するのは1872年(明治5年)のことで、1954年(昭和29年)には東京駅の東側一帯が「中央区八重洲」となったのだと。写真左手の凛々しい人が、ヤン・ヨーステン。右手の船は彼を乗せてきたリーフデ号。この記念碑は、1989年に日蘭修好380周年記念として建てられ、日本とオランダの架け橋となった彼の功績を称えていると。横断歩道の真ん中の中央分離帯まで急いで行き、立ち止まり慌ててシャッターを。そして青信号を確認し引き返す。 「歌川広重住居跡」を訪ねるがその付近は工事中の白きフェンスに囲まれていた。 工事用フェンスにパネルが貼り付けられていた。「浮世絵師安藤(歌川)広重(1797~1858)が、嘉永2年(1849)から死去までのおよそ10年間を過ごした住居跡とのこと。八重洲河岸(千代田区丸の内2丁目)に生まれ、家職のかたわらで歌川豊広の門人となった。「東海道五拾三次」以来、風景画家として著名になり、江戸についても、「東都名所」、「江戸近郊八景之図」、「名所江戸百景」等を遺す。特に、「名所江戸百景」はこの地での代表作であると。住居は、幕府の奥絵師(御用絵師)狩野四家のうち、中橋狩野屋敷の裏門外にあり、2階建ての独立家屋であった」と説明板に。「京橋 1丁目」。 「京橋 2丁目」「日本橋から1km」の道標。 「京橋 3丁目」 。昔、アサヒビール(株)の本社がこの交差点の角にあったのだ。「江戸歌舞伎発祥之地」の碑「寛永元年(1624)、猿若中村勘三郎が中橋(現在の日本橋と京橋の中間)に、猿若中村座の櫓をあげたのが江戸歌舞伎の始まりです。写真は、これを記念して昭和32年(1957)に建立された碑で、銀座と京橋を分かつ高速道路のすぐ脇に。当時、この中村座の後に、市村座、森田座、山村座と続き、この四座が官許の芝居小屋でした。役者の氏神といわれた市川団十郎をはじめ、尾上菊五郎などの役者が絶大な人気を得、江戸歌舞伎は大衆文化の頂点に立ったのです。」と。すぐ傍らには「京橋大根河岸青物市場跡」の碑も。1664年(寛文4年)に京橋川の水運を利用して、京橋の北詰西側に野菜の売り場が設けられた。この青物市場には大根の入荷が多かったため、「京橋大根河岸市場」と呼ばれ、明治になってからは「京橋青物食物河岸」と呼ばれた。明治の終わりには現在の京橋3丁目と八重洲2丁目の南部、対岸の銀座1丁目の西部にまで規模が広がり、青物・菓物のほか、魚類・乾物も扱うようになったと。 「京橋の親柱」⇐リンク。「きゃうはし」と刻まれていた。四角く大きなこの石柱は、大正時代に道路の拡幅工事で橋を立て替えた時のものと。丸い親柱と共に中央区の区民文化財。 「煉瓦銀座の碑」。明治時代実際に使われていた煉瓦を当時と同じ「フランス積み」に敷き詰め、煉瓦の町を照らしたガス灯の灯火も復元していると。 この「京橋 親柱」も明治時代のもの。擬宝珠(ぎぼし)の意匠に江戸の伝統を継承していると。そして、「警察博物館」に立ち寄る。警視庁の歴史と活動に関する資料を展示している博物館。警視庁内での正式名称は「警視庁広報センター」。 2017年4月29日:1年間の改装工事を経てリニューアルオープン。入場料は無料。警察官の制服や記章の実物が展示されており、複製されるのを防ぐため1,2F以外の写真撮影は禁止されていた。 入口にはRX-8パトカーが展示されていた。 ヘリコプター「はるかぜ1号」。赤バイ。1918年の大正7年に警視庁が導入したのが「バイク」だが、今のような白色の白バイではなく、赤色の「赤バイ」であったと。ヘリコプターから降下する警察隊員。 そして「銀座 1丁目」 。花屋には不思議な色のバラが。海外のどこかでも撮影した記憶が。「銀座発祥の地」 。碑には「銀座発祥の地 銀座役所跡」と刻まれており、江戸時代にこの地に銀座があったことを記念して、昭和30年(1955年)に建てられたとある。銀座役所がこの地にあったのだそうだ。銀座という地名も江戸時代に貨幣の鋳造所としてこの地に建てられたことから。役所は1800年に日本橋の蛎殻町(かきがらちょう)に移転したが、銀座は地名として残ることになったと。 「銀座 2丁目」 。ティファニー(Tiffany & Co.)銀座本店のショッピングウインドウ。ティファニーは、世界的に有名な宝飾品および銀製品のブランド。 「銀座の柳の碑 」。「銀座の柳由来 銀座の柳は明治20年ごろ銀座通りに植えられて以来大正九年撤去昭和6年復活の変転を 経ながら数多くの詩歌にうたわれ人々に親しまれてきた銀座のシンボルとなった柳も樹勢の 衰えもあって昭和43年歩道の大改修に当たり移植の止むなきに至った いまふたたびこの通り一帯に柳を迎えて「銀座柳通り」と名づけるに際し永く 銀座の柳の由来を伝えるため碑を建立する」 と。カルティエ(Cartier SA) 銀座 ブティックの入口の柱のレリーフ。カルティエは、フランスのジュエリー・高級時計ブランド。 このレリーフは、御用達のお墨付きをいただいている各国王室の紋章らしい。10数カ国の王室御用達らしいが、さすがに「王の宝石商」だけのことはある。「東京銀座通電気燈建設之図」 。この街灯は、それまで行燈(あんどん)や提灯(ちょうちん)しか夜の照明がなかった日本で、はじめて灯された電気灯。明るさは、ローソク4000本分と。おかげで銀座の町は、連日、見物客で大にぎわいになったと。この電気街灯は、翌年には京都の祇園に、翌々年には大阪の道頓堀にも設置された。もっともこの電気灯は、送電線で電力が供給されるタイプではなくて、その場に据え付けたバッテリーから電力を供給していた。バッテリーではなく、電力会社から電力の供給が始まったのは、明治19(1886)年とのこと。銀座・マロニエ通り。「銀座 3丁目」 。「銀座 4丁目」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2018.02.21
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道を歩きたくなり、先週の2/15(木)に旅友のSさんを誘い、日本橋をスタートし品川駅まで歩いてきました。旧東海道は以前から歩きたいと思っており、藤沢遊行寺周辺、品川宿周辺 、箱根旧街道石畳等を訪ねてきましたが、飛び飛びの散策でしたので今回、取り敢えず起点の日本橋から小田原宿までを9~10回に分けて歩くことを決断したのです。 ダイヤの乱れた上野東京ラインで30分遅れで東京駅に到着し八重洲口に出る。JR東京駅の八重洲地下中央口から徒歩1分の「GRANROOF グランルーフ」。ノースタワーとサウスタワーを結ぶ「光の帆」をデザインモチーフとした長さ約230mの大屋根と、賑わい空間と歩行者ネットワークを形成するペデストリアンデッキは、「先進性」「先端性」を象徴する八重洲口の新たなランドマーク。巨大な白い屋根・・というより帆船の帆(ほ)の如し。八重洲側には以前、百貨店・大丸東京店などが入る駅ビル「鉄道会館」(高さ約50m、幅138m)がある。1954年に建設され、68年に12階建てに増築されていたと。これが、東京湾からの涼しい海風は隅田川を北上して都道を西に進むが、“屏風”のような鉄道会館にぶつかって上昇。駅東の丸の内側には風が流れにくく、気温が高くなるというヒートアイランド現象が発生。このヒートアイランド現象対策として 高さ205mの超高層ツインタワー「グラントウキョウノースタワー」・「グラントウキョウサウスタワー」が誕生し、その後、鉄道会館が撤去されたのです。両タワー間(約246m)は高さ約27mの位置の歩行者用通路でつながるが、その上部で海風が吹き抜けのような状態になり「風の道」が出来、ヒートアイランド現象が緩和されたのです。正面に大丸東京店の入る「グラントウキョウノースタワー」。線路沿いに呉服橋方面に歩く。下を流れる川は日本橋川。東京都千代田区と文京区の境界にある小石川橋で神田川から分流し南東へ流れ、中央区の永代橋付近で隅田川に合流する1級河川。ほぼ全流路に渡って首都高速道路の高架下を流れているのだと。 南口周辺は未だ新ビルの建設ラッシュ中。常盤橋街区再開発プロジェクト。東京駅近くにに日本一の高さとなる390mの超高層ビルなど4棟を建設中なのです。 旧日本相互銀行本店ビルの鉄骨柱梁接合部(実物)。『時をつなぐ 日本相互銀行(三井住友銀行の前身行の一つ)は、1952年にこの地に本店ビルを建設しました。 設計者は、日本の近代建築の歴史に大きな足跡を残した建築家、前川國男 。 旧日本相互銀行本店ビルは、中高層ビルとしてわが国初めての鉄骨造全溶接工法や押出型材 アルミサッシュを採用し、外壁PCパネルによる建物の軽量化、工業化を図るなど、現代へと つながる事務所建築の先駆的な役割を果たしました。この建築史・建築技術史のうえで重要な 建築がこの地にあったことを伝えるため、解体に際して部材の一部を保存採取し、ここに モニュメントとして設置しました。 史料展示室には当時のアルミサッシュやPCパネルの一部を展示しています。 三井住友銀行』 とパネルに。常盤橋を右折し進んでいくと中央通りに出た。ここを右折すると左手には黄金に輝く「奈良まほろば館」が。 特産品や観光情報を集めた奈良県のアンテナショップ。正面に日本橋が見えて来た。そして日本橋に到着。「ここ日本橋を起点とする東海道は、徳川家康が関ヶ原合戦に勝利した翌年の慶長6年(1601)に、徳川幕府を開くよりも早く、江戸-京都間、江戸-大坂間の人馬と情報の往来幹線として整備され、伝馬制の制度が敷かれた。東海道には名画やエピソードも多く、江戸後期の歌川広重に描かれた「東海道五十三次」や、十返舎一九が書いた「東海道中膝栗毛」は、あまりにも有名」。元標の広場。 「日本国 道路元標」。大正時代に設置された道路元標の大きさは、縦横25cm、高さ約63cmの直方体。ここ日本橋にあるのは、徳川幕府が定めた五街道(東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道)の起点を明治政府が踏襲したもの。これはレプリカ。 明治6年12月、明治政府は太政官達第413号で、各府県ごと「里程元標」(りていげんぴょう)を設けることを定めます。明治44年、現在の日本橋の架橋時に当時の道路法施行令第八条によって橋の中央に「東京市道路元標」が設置されました。第八条一 東京市ニ於ケル道路元標ノ位置ハ日本橋ノ中央トス 二 市町村ニ於ケル道路元標ノ位置ハ前項ニ規定スルモノヲ除クノ外府県知事之ヲ定ム大正9年4月に道路法にもとづいて認定された国道の一覧(大正9年内務省告示第二十八号)でも国道の起点は日本橋とされています。日本橋の中央にあった「東京市道路元標」は、東京都電の架線柱として使用されていたが、昭和47年の道路改修で日本橋の北西詰にあるここ「元標の広場」に移設されたと。 里程標1 東日本方面。里程標2 西日本方面。日本橋の4隅にある獅子像の横で旅友を撮影。マスクがありますのでモザイク無しです。獅子像は当時の東京市の紋章を持っています(この紋章は東京都の紋章として現在も使用)。太陽を中心にして6方に光が放たれている形で、日本の中心としての東京を象徴するデザインになっているとのこと。 高架橋の銘板その下が日本橋。橋の上を覆っている首都高の道路を繋ぐように本当の元標の位置を示すレプリカが上部に。この印の真下の道路上に本当の元標が埋め込まれていたのですが交通量が多くて危険。 歩道からズームで。 これは本物?橋の中央には、翼のある麒麟の像が左右に二体ずつ、計四体鎮座。麒麟は吉兆や繁栄を現す神獣とのことで、日本橋の麒麟は「東京都の繁栄」を意味していると。 橋の上には高架橋が。そして日本橋川にはその柱が無数に突き刺さっていました。2006(平成18)年には当時の小泉総理の指示により、著名財界人や文化人によって「日本橋川に空を取り戻す会」が結成され、その後2017年、国土交通省と東京都が「日本橋上空に架かる首都高の地下化を検討する」と発表。かつて、何度も頓挫した日本橋周辺の首都高地下化の現状は?本当に実現に向かうのか? 「日本橋魚河岸跡」。『日本橋から江戸橋にかけての日本橋川沿いには、幕府や江戸市中で消費される鮮魚や塩干魚を荷揚げする「魚河岸」がありました。ここで開かれた魚市は、江戸時代初期に佃島の漁師たちが将軍や諸大名へ調達した御膳御肴の残りを売り出したことに始まります。この魚市は、日本橋川沿いの魚河岸を中心として、本舟丁・小田原町・安針町(現在の室町一丁目・本町一丁目一帯)の広い範囲で開かれ、大変な賑わいをみせていました。・・・』と。日本橋魚河岸跡の全景と(右)日本橋魚市場発祥の地碑中央の像は竜宮の乙姫。観光案内所の横には、道の起点としての「日本橋 道 日本の道百選」 の石碑が。「日本橋は徳川家康が江戸幕府を開いた年(1603年)に掛けられたといわれている。日本橋は中山道、東海道等の五街道の起点であった。江戸経済のの中心地でもあった。」と説明板に。 街路灯とここにも獅子像が。 「日本橋観光案内所」に立ち寄る。「日本橋観光案内所」は観光案内だけでなく、商品の販売やカフェ、ワークショップなどの機能がひとつに集まっている様子。2名の女性の和服姿の「CONCIERGE(コンシェルジュ)」が迎えてくれた。 「東京 中央区 観光ガイドマップ」と「中央区 初めて物語りマップ」を頂きました。 観光案内所の横にあったのが「日本橋記念碑」と説明板。上に日本橋の姿がそして下には「日本橋由来記」・日本橋の歴史が色々と文字で刻まれていた。橋の右上に富士山が描かれていた。 日本国重要文化財『日本橋』。建設省の重要文化財プレート。日本橋を南側から。 これが、歌川広重(初代) 作 「東海道五拾三次之内 日本橋」 。明六ツに日本橋を渡る大名行列と、その手前には魚河岸で仕入れた魚を売りに行く行商の魚屋の姿などが描かれている。現在の築地市場の前身である魚河岸は、かつて日本橋のたもとにあったのです。 【http://chisoku.jp/collection/au-0014/i00280/】 より。そしてこれから歩く旧東海道。 ・・・つづく・・・
2018.02.20
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しばらく、旅行・散策のブログが続いていますが、気分転換?に今日は我が養蜂場のある菜園で栽培している「ロマネスコ」を収穫しましたのでブログアップいたします。 今年は寒さが厳しく、成長が進まずなかなか収穫までの大きさになりませんでしたが漸く収穫できる大きさになったものを見つけました。 霜等でカリフラワーの如く蕾が黒変しているものもありますが、これは何とか緑を保っていました。日本でのロマネスコという名前は、イタリア語での呼び名である Broccolo Romanesco(ブロッコロ・ロマネスコ、ローマのブロッコリーの意)に由来するとのこと。未成熟のつぼみと花梗を食用にするのです。アブラナ科の野菜の中では比較的穏やかで微かに甘い芳香を持つ。つぼみの集合体がグルグルとらせん状の渦になっていて、神秘的な野菜!!花蕾群の配列が不思議なフラクタル形状を示す特徴を持つ野菜なのです。ロマネスコの花蕾は幾何学的な配置となっており、個々のつぼみが規則正しい螺旋を描いて円錐を成しているのです。円錐はさらにそれ自体が螺旋を描いて配列し、これが数段階繰り返されて自己相似の様相を呈する。また、配列したつぼみや円錐の数はフィボナッチ数に一致することも知られている。その形状からサンゴに見立て「黄緑サンゴ」とも称されるのです。色は黄緑色(クリーム色から緑色の中間色)で、姿はブロッコリーに近く背が高めで葉は大きく開いています。一方、頂花蕾のみでブロッコリーの如く脇芽は出ずにカリフラワーの如く一度収穫するとおしまいなのです。それにしても不思議な神秘的な形状。自然は巧みなマジシャンのの如し。この日は、シンプルに茹でてマヨネーズで楽しみました。味はブロッコリーに近く、食感はカリフラワーに近いでしょうか。厳しい寒さで、硬くなっているかと思いましたが、硬さも幸い食べ頃。茹でる、煮る、炒めるなど加熱調理をして楽しめるのです。サラダやピクルスなどにも調理されるとのこと。 「フラクタル形状、「フィボナッチ数」と難しい用語がありますが、興味のある方はその部分の文字にリンクを貼っていますのでアクセスしてみて下さい。
2018.02.19
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復路はひたすら国道134号線を走る。途中、往路で立ち寄った長者ヶ崎にて無料駐車場に車を駐め日没を待つ。ネットで調べてみると、長者ヶ崎のいわれは、伊豆に流されていた源頼朝が三浦半島を訪れて、ここの景色を賞したが、案内していた土豪の芦名(あしな)三郎が、あたり一帯の植林に精を出して成功した長者の物語をしたのがこの地名のおこりと。そしてこの日の日没時間は17:15。日没までまだ30分弱。何故か駐車場は17時にCLOSEとのことで、旅友は愛車を駐車場をの入口付近に移動。富士山上空も僅かに茜色に染まり始めていた。三浦半島八景のひとつに「長者ヶ崎の夕照」があると。富士山の方向に沈む夕日が絶景であると。16:47、夕日の陽光を反射する赤き帯が相模湾の水面に。江の島の姿をズームで。この日の日没は伊豆半島の真ん中辺りか?上空の雲に隠れる夕日。太陽が完全に隠れると、雲の周囲が黄金に輝いた。水面の赤き帯もやわらかに。波打ち際は波の筋が光り、輝きが激しく移動・変化するのであった。手前の上空には大きな雲の塊が。しかし富士山の廻りには雲の姿はほとんど無し。水面の輝きのカオスをしばし見つめる。波が引いた直後の砂浜に横に拡がる光の帯が輝く。旅友と二人でいつものツーショット。茜色に染まり始めた富士山。そしてこの日の太陽が、伊豆半島の山の端に沈み始める。時間は17:09。この日の太陽との別れも間近。そして日没の刹那(せつな)。時間はカメラの時計で17:12:30。富士山の静岡側の山の端上空が赤く染まる。そして日没の瞬間。「日没」とは太陽の上端が地平線下に沈むこと。また、その時刻。時間は17:14:42。上空の雲の塊も次第に赤く染まり始める。日没場所の上空の雲は更に朱に染まり輝きを増してきた。雲の塊の中から、赤い龍が姿を現す。伊豆半島の山の端が鮮やかに。黒と赤の共演。 穏やかな相模湾・長者ヶ崎の夕照のエピローグ。駐車場入口の料金徴収小屋の窓にはこんな案内が。4月12日(土)17:56頃に夕日が富士山山頂に沈む「ダイヤモンド富士」がこの場所から見られると。旅友と是非来ようと。そして長者ヶ崎と別れを告げ、更に134号線を鎌倉方面に向かって走る。途中の富士山と江の島。シルエットの如き姿の中で江の島シーキャンドル(展望灯台)も白く光り始めていた。 そして国道134号線・長柄トンネル(隧道)を通過。トンネルの先の由比ヶ浜の水面が濃紺に染まっている姿が目の前に。そしてこの日の相模湾沿いの三浦半島巡りを終え、旅友に自宅まで送ってもらい 18時過ぎに帰宅したのであった。 そしてこの日の探索ルートをパソコンで振り返ったのです。 さて、次の城ヶ島から三浦半島の東京湾沿い巡りは何時に ・・・END・・・
2018.02.18
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次に国道134号線沿い横須賀市芦名にある浄楽寺を訪ねる。寺伝によると、文治5年(1189)に源頼朝が父・源義朝の菩提を弔う為に創建された(鎌倉にあった)勝長寿院が、建永元年(1206)の台風による堂宇破損を機に現在地に移したとされると。鎌倉にあったときは大御堂などとも呼ばれ、現在でも地名として残っている。また、和田義盛の七阿弥陀堂の内の一つとして建てられたという説もあるが、運慶仏から発見された名さつの記載によると後者が有力であるとされると。金剛山勝長寿院浄楽寺 本堂。浄楽寺(浄土宗)は、1189年(文治5年)、鎌倉幕府初代侍所別当和田義盛が建立したと伝えられている寺。浄楽寺の阿弥陀三尊像・不動明王像・毘沙門天像は、運慶の真作であると。浄楽寺永代供養墓。「倶会一処(くえいっしょ)」 の文字が。「倶会一処」とは、『仏説阿弥陀経』に出てくる「倶(とも)に一つの処(ところ)で会(あ)う」という御文で、同じ阿弥陀様の浄土でまた共に会わせていただくという意味と。浄楽寺収蔵庫。運慶作 国指定重要文化財 仏像5体(阿弥陀三尊、毘沙門天、不動明王)が納められていると。本堂裏の参道を進んだ境内墓地の正面には、日本近代郵便制度を整えた前島密の墓があった。前島密(天保6年(1835年)〜大正8年(1919年))は日本の近代郵便制度の創設者の一人であり、現在でも流通している最小額面の1円切手にその肖像画が残っているのである。「郵便」や「切手」、「葉書」という名称を定めた人物と。その功績から「郵便制度の父」と呼ばれていると。晩年は浄楽寺の境内にあった別荘「如々山荘」で過ごし、ここで没したと。それ故この地に前島密翁の墓所があるのだと。常楽寺境内にある白山妙理大権現。見事な石仏群の大仏塔。年輪を刻んだ石仏群に思わず合掌。次に訪れたのは「荒崎」。荒崎は切り立った荒々しいリアス式海岸が続く景勝地。60年近く前の小学校の遠足で訪ねて以来の訪問。 荒崎の岩場の奥に富士山が。 少しずつ山頂近くの雲の量が増えて来ていた。このあたりの海岸の岩石は、数千万年前、まだ三浦半島が海底であったころに堆積した黒くて硬い凝灰岩と、白くて軟らかい砂岩・泥岩の層により形成されていると。またこの2種類の岩石の層は洗濯岩のような凸凹をした特殊な地形に。これは、岩石の硬軟の差により起こる水や風などの外的な力による差別侵食ばかりでなく、水分を吸収して膨張収縮しやすい砂岩・泥岩層が、水分を吸いにくい凝灰岩層との間で長い年月をかけて変化してきたためなのだと。荒崎公園の「どんどんびき」。切り立った岩壁に囲まれた入江の奥に、こじんまりとした砂浜があり、引潮の際に「ドンド~ン」と音が鳴ることから「どんどんびき」と名付けられたと。「潮風の丘」には「かながわの景勝50選 荒崎」と刻まれた石が。海中に突き出した小高いこの岩山は城山と呼ばれ、頂上にわずかの平地を残し周囲は絶壁となっていた。かつてここは、鎌倉幕府創設に貢献のあった三浦一党の荒次郎義澄の居城跡と。また幕末のころには幕府の命により彦根藩が台場を築いた所でもあると。この日は波が比較的穏やかであったが、荒れた日の迫力は凄そう。それが「荒崎」 。自然が創造した美しい岩場が続く荒崎海岸。三浦半島屈指の景観といわれる海岸美が存分に楽しめたのであった。長井にあるこの荒崎公園は、長井城・長井館・荒崎城などと呼称される云わば城跡を公園として整備された場所。三浦大介義明の五男となる長井五郎義季の館が長井にあったことは確かなようだが、ここ荒崎にある城跡は、義李の城山とは伝えておらず三浦荒次郎義澄の城と伝えられていると。また、宝治合戦で三浦宗家が滅んだ後は、佐原光盛の居館跡となったと。そして次に道に迷いながら何とか「和田義盛の碑」に到着。源頼朝と共に「鎌倉」をつくった勇者、和田義盛本拠地跡。和田義盛旧里碑。大正10年10月3日、三浦氏の末裔、三浦英太郎男爵が、和田義盛を偲んで建てた碑であると。和田義盛の碑 説明板。和田義盛旧里碑の横にあるのが「天王社」。祭神は素盛鳴尊(すさのおのみこと)。この日の往路の〆の探索場所は京急油壺マリンパーク。活魚レストラン 潮彩 で遅い昼食。天丼を注文。茎ワカメも付いていた。 魚より野菜中心の天ぷら。レストラン内の水槽には鯵が泳いでいた。タラバガニ??昼食後は三浦義同の墓を訪ねる。この日は月曜日であったが、油壺マリンパークの駐車場はガラガラ。京急油壺マリンパークの正面。ここも遠足以来、約60年ぶり。京急油壺マリンパークの正面を右に進み山道を進むと三浦義同(三浦道寸)の墓に到着。三浦義同(三浦道寸)は三浦氏の最後の当主。北条早雲に岡崎城、住吉城と攻め落とされ、最後に新井城に籠城したが1516年7月11日に落城。 その時に、辞世の句を残したと。「討つ者も 討たるる者も 土器(かわらけ)よ くだけて後は もとの塊(つちくれ)」約450年間三浦半島に勢力を振るった三浦氏はここに滅亡したのであったと。三浦義同(三浦道寸)の墓を後にし、山道を下り岩場を散策。胴網海水浴場の岩場からは富士山の姿が見えないので、起伏の激しい岩場を足下に気をつけながら富士山の見える場所まで移動する。 漸く富士山の見える場所に辿り着く。富士山の姿を懸命に撮影する旅友Sさん。腰の入れ方に歴史を感じさせるのであった。岩場の波しぶきと富士山のコラボがターゲット? シーボニアマリーナ、シーボニアマンションが右手に見えた。小網代(こあじろ)湾にある三浦半島で最大のヨットハーバー。断崖は波の浸食で不思議な形に。胴網海水浴場岩場で天然「岩ワカメ」を手で摘む。漁業券が必要だったのでしょうか?すいません!!自宅に戻り水洗いと根元の小石取り。鮮やかな緑色に変身。軽く湯通しし、山葵醤油で。少し硬かったですが・・・。これぞ「岩ワカメ」、岩場の荒波を常に浴びて筋肉質になっていました。 味噌汁でも楽しませていただきました。 ・・・つづく・・・
2018.02.17
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森戸神社の次は葉山一色海岸(いっしきかいがん)に立ち寄る。三ヶ岡山と葉山御用邸に囲まれ、プライベートビーチの雰囲気ただよう海岸。砂浜の両側にある磯で、磯遊びも楽しめるので、昔、我が子ども達を連れて来た海岸。平成25年には「世界の厳選ビーチ100」に選ばれたとのこと。一色海岸から柴崎海岸方面と富士山。 この一色海岸からの富士山をズームで。そして次に長者ヶ崎(ちょうじゃがさき)で車を駐める。長者ヶ崎は、神奈川県横須賀市と葉山町の境に位置する岬。現在は落石の危険があり、岬の奥には立ち入り禁止だが、遠くからでもその全貌を見ることができる岬。関東周辺のサイクリストにとって神奈川・三浦半島1周は定番コースのひとつだが、現在、三浦半島観光連絡協議会主催で「三浦半島サイクルスタンプラリー」というイベントが行われているようだ。三浦半島内8カ所の景勝地に設置したマイルストーンを自転車で巡りながら、スマートフォンを利用してスタンプを集めるもので、スタンプの達成度に合わせ三浦半島ならではの景品などがゲットできるのだと。長者ヶ崎のあるここ葉山町は、「日本のヨット発祥の地」であり、長者ヶ崎のマイルストーンはこの「ヨット」。マイルストーンのヨットからの富士山。富士山の山頂上には白き雲が。そして次に立ち寄ったのが「秋谷の立石」。三浦半島の西海岸にある秋谷の立石は、かながわの景勝50選には「海中に突き出た凝灰岩の巨岩の後に、ぼんてんケ鼻の岩場に松が自生し、相模湾をへだててその後方に丹沢、箱根、伊豆の連山さらに遠く富士を含めた景観は絵画的なすばらしさである」と記されていると。秋谷海岸に立っている巨岩は高さ約12メートル、この日は快晴で富士山が見え、絵に描いたような見事な景観。秋谷の立石とその奥に伊豆大島の姿が。泉鏡花文学碑 『草迷宮』。「大崩壊(おおくずれ)の巌(いわお)の膚(はだ)は、春は紫に、夏は緑、秋紅(くれない)に、冬は黄に、藤を編み、蔦(つた)を絡(まと)い、鼓子花(ひるがお)も咲き、竜胆(りんどう)も咲き、尾花(おばな)が靡(なび)けば月も射(さ)す。」再び伊豆大島をズームで。手前には「光る海」 が。1月28日~3月25日にわたって伊豆大島椿まつりが行われているのだ。「立石」の先に張り出ている梵天の鼻と富士山。そこに自生する松、さらには海をはさんで、丹沢・箱根・伊豆の連山や、その上に浮き出た富士の借景によりこれぞ絵画そのもの。梵天の鼻の先端まで脚を伸ばす。青い相模湾と岩に打ち付ける白波。 何故か?高いところ、先端が好きな私。ここでも江の島をズームで。この場所からは江の島の後方に大山阿夫利神社のある大山の姿が。秋谷漁港とその奥にクリオ南葉山壱番館の白き建物が。この海岸を庭としている会社の先輩の家があるのだが連絡つかず。 この日は『富士山の雄姿』が最大の被写体。「秋谷の立石」を再び。立石公園内の「カナリーヤシ」。日本では一般的にフェニックスと呼ばれている椰子の木。樹高は最大で12mにもなり幹周りは3m程度まで生育する。葉は羽状複葉、基部の小葉は非常に鋭い棘となるので注意を要するのだと。「秋谷の立石」をズームで。波打ち際に突き出した高さ12m、周囲約30mの巨岩を再認識。絶景かな!!アロエの花が咲く秋谷海岸と富士山。「秋谷の立石」と富士山のコラボ。安藤広重も「相州三浦秋屋の里」と題して浮世絵を描いていると。穏やかな海、遠くに富士山、近くに立石を見るこの海岸は、江戸っ子達の憧れだったと。広重は「秋屋」と書いているが現代は「秋谷」の文字が用いられているのだと。 【https://pds.exblog.jp/pds/1/201405/22/74/f0278974_22215055.jpg】よりそして秋谷神明社にも立ち寄る。歩いて行くと右手に白き漆喰の壁となまこ壁の建物が。若命家長屋門(わかめいけ ながやもん)。若命家は、江戸時代に秋谷村の名主役を務め、本陣としての役目を果たしていた。そしてこの門前は年貢米の徴収など、村の行政に欠かせない広場だったと。屋根はもともとは茅葺だったが関東大震災後の修理で瓦葺となったのだと。2006年(平成18年)に修復工事が完了。入口正面に向かって左手には納屋、米蔵があり、右手には畳部屋が付属するという長屋門の造り。そして今でも若命家の表門として現役で使われているというから驚き!!若命家長屋門の奥にあるのが「秋谷神社」。踊り場のない急な99段の階段。 ・・・つづく・・・
2018.02.16
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葉山マリーナから県道207号・森戸海岸線を進み右に曲がると森戸神社に到着。駐車場に車を駐め散策開始。右手に「総霊社」。英霊、祖霊をはじめ水子の霊など、この社には多くの霊がまつられていると。 こちらは「畜霊社」。かつて、多くの家畜が疫病にかかった時、この社にお参りしお願いすると病から免れることができたと云われ、以来家畜(ペット)の守護神として篤い信仰があると。左手に手水舎。「水天宮」。「まいられよ 子宝の福 さづかりに」と俳句に詠まれるほど古来より安産・子宝の篤い信仰があると。現在でも安産や子宝を願い、日本全国から多くの参拝者が訪れ、御神徳を仰いでいると。「おせき稲荷社」。古来より「せきが止まらない人」、「喉を使う職業の人」たちの、篤い信仰があるのだと。森戸神社(森戸大明神) 本殿森戸大明神は、源頼朝が源氏再興の祈願をした三嶋大社の分霊を勧請して創建。『吾妻鏡』には、頼朝が別邸を建て、流鏑馬、笠懸などの武事を行ったことが記されていると。三代将軍源実朝や四代将軍藤原(九条)頼経の来遊の記録も遺されていると。三浦氏、北条氏、足利氏などからも崇敬され、1591年(天正19年)には、徳川家康より社領7石が寄進されたとのこと。この社殿は葉山町の指定重要文化財。祭神は大山祗命(おおやまずみのみこと)と 事代主命(ことしろぬしのみこと)。朱塗りの橋が見えた。神奈川の名橋百選の「みそぎ橋」。 吾妻鏡によると、この森戸の海浜は鎌倉時代に七瀬祓の霊所と定められ、事あるごとに、お祓いやみそぎが行われた事が記されているのだと。こうした故事により、この海辺で「みぞぎ」がさかんに行われ、神社から海辺に通ずる橋を「みぞぎ橋」と言い伝えられていると。「みぞぎ」とは、重大な祭事の前に海水を浴び、罪懺を祓いのけ、身を洗い清めること。 神社裏の森戸海岸からの絶景。相模湾、富士山、丹沢表尾根そして江の島の共演。江の島をズームで。ヨットの姿も。富士山をズームで。山頂に淡き雲が姿を現していた。富士山をバックに立つ石原裕次郎記念碑。神社裏手の海岸入り口には、湘南で青春を過ごし、この地をこよなく愛した俳優、故石原裕次郎のブロンズ像と兄の石原慎太郎自筆の詩が刻まれていた。『夢はとおく 白い帆に のって 消えていく 消えていく 水のかなたに 太陽の季節に実る 狂った果実たちの 先達 石原裕次郎を 偲んで』 平成元年7月17日 石原慎太郎 と。森戸神社裏からの逗子、葉山方面。カワセミの雄を発見。雌(♀)は下のクチバシが黄色い、しかし雄(♂)は上下とも黒いのだと鳥撮りの名人の旅友から。こちらにも。海面に突っ込み小魚を捕る姿も。しかし私にはその瞬間の姿の撮影は・・・・無理。 マルチーノ公使ベルツ博士記念碑。ドイツ帝国の医師で、明治時代に日本に招かれたお雇い外国人のひとり。27年にわたって医学を教え、医学界の発展に尽くした。滞日は29年に及ぶ人物と。 彼は葉山が黒潮の影響で冬は暖かく夏は涼しい温暖の地で、風光明媚であるということに注目し「葉山」が保養の地として最適であると皇室に進言し、明治27年に葉山御用邸が造営されたのだと。その功績を称えてこの場所にこの記念碑が建てられたと。 昭和天皇御即位五十年記念碑。詩人 堀口大学 詩碑。 「花はいろ 人はこころ」昭和25年6月、葉山の温暖な土地柄を愛して移り、多くの業績を残して昭和56年3月15日、89歳で死去。葉山町名誉町民(昭50)。町制50周年を記念して建てられたと。明治天皇御製・照憲皇太后御歌碑。明治天皇 海辺雪 「波のうへに 富士のね見えて くれ竹の 葉山の浦の 雪はれにけり」照憲皇太后 里神楽 「くれ竹の 葉山の宮に きこゆるや 森戸あたりの かぐらなるらむ」高橋是清歌碑。「堪忍の 股よりのぞけ 富士の山」2・26事件で暗殺された高橋是清の別邸跡が「葉山交流館」になっていると。大正天皇即位の御大典記念碑。源頼朝公別墅(べっしょ)跡 。源頼朝公がこの地に別邸を建て、笠懸を催したり、三代将軍 源実朝や四代将軍 藤原頼経なども来遊した記録が「吾妻鏡」に残されているのだと。 ??????裕次郎灯台と朱の鳥居。葉山を愛してやまなかった 裕次郎の3回忌を記念して、平成元年 「葉山灯台」=通称「裕次郎灯台」 が建てられたと。灯台のプレートには「海の男 裕次郎に捧ぐ 葉山灯台」と刻まれていると。朱の鳥居がある島の名は名島(菜島)。森戸神社裏手の磯辺より沖合い700mに浮かぶ小さな島。この鳥居には龍神が祀られていると言われているのだと。 岩場には海鳥が羽を休めていた。鳥居をくぐって小さな丘に向かって石段を上る。森戸神社裏の岩の上に立つ千貫松。源頼朝が衣笠城に向かう途中、森戸の浜で休憩した際、岩上の松を見て「如何にも珍しき松」と褒めたところ、出迎えの和田義盛は「我等はこれを千貫の値ありとて千貫松と呼びて候」と答えたと言い伝えられていると。森戸大明神のビャクシン(柏槙)。和名:イブキ(ヒノキ科)。源頼朝がこの地に伊豆の三島神社を勧請した際、そこの若木が飛来し岸壁に根付いたものといわれていると。古木が海上にのり出した姿は珍しいと。樹高:15m、胸高周囲、4m。樹齢:約800年(推定)とのこと。かながわの名木100選。葉山町指定重要文化財天然記念物。昭和43年2月29日指定。一般に飛柏槇とかかれ間違いないが、神社としては槇ではなく杉を使って下の写真の如く「飛柏杉(びびゃくしん)」と表現して欲しいと。 「飛柏杉(びびゃくしん)」の近くには日吉社が祀られていた。 社務所。御朱印を頂きました。車に戻り、朱の鳥居を潜り森戸海岸線に再び出て、次の訪問場所に向かう。 ・・・つづく・・・
2018.02.15
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昨年末に計画しましたが延び延びになっていた三浦半島巡りの旅を、天気が良く富士山が見える可能性が高いこの日・2/7(水)に決行したのです。7時前に外に出ると外には下弦の月が。いつもの旅友のSさんが早朝7時に迎えに来てくれるはずが7:15になっても未到着。何かあったかと電話すると9時ではなかったの?・・・・・と。 よって8時半過ぎに我が家で私をひろってもらい出発し、まずは逗子マリーナに向かう。カーナビの指示に従いJR鎌倉駅前を通過し進むと、鎌倉八幡宮一の鳥居が見えて来た。御影石で作られた大きな鳥居、道路の真ん中にドーンと立っています。明治時代の中頃までは、この「一の鳥居」のところまで段葛(だんかずら)が続いていたのだと。江戸時代やそれ以前の古地図や絵図をみると、すぐ近くに海岸が迫っていたようです。 この一の鳥居横を通り左に折れ光明寺総門前を通過。小坪海岸トンネルを出ると目の前に逗子マリーナのマンション群が現れる。ここは現在の名は『RIVIERA ZUSHI MARINA』。逗子マリーナの開発は、地中海のリゾート地をイメージしたマリーナとして西武流通グループ(後のセゾングループ)によって行われた。敷地は逗子市小坪の岩礁を、鎌倉霊園造成工事の残土を用いて埋め立てることで造成され、1971年(昭和46年)6月に開業したのだ。大学生の頃、小坪海岸トンネルの手前鎌倉側に友人の家があり、この場所は何度か訪ねた場所なのだ。 駐車場に車を駐め散策開始。逗子マリーナらしくヤシ並木が立ち並ぶ。まるで地中海、ハワイの雰囲気。 そして富士山の絶景。手前に江の島の姿が。ズームで。箱根の山々も所々の残雪が白く輝いて見えた。稲村ケ崎の白き崖、切通しもはっきりと。 逗子マリーナとマンション群。「SEASIDE RIVIERA」のプールの水面には薄氷が。再び逗子マリーナからの富士山。結婚式場の「SEASIDE RIVIERA」。『RIVIERA ZUSHI MARINA』を後にし、再び小坪海岸トンネルを通り大回りして海岸線・国道134号線に出る。そして逗子海岸手前の駐車場に車を駐め134号線沿いを散策。「蘆花之故地」と書かれた木製の記念碑。文学博士藤原楚水の書とある。裏に徳冨蘆花の簡単な経歴が書いてあった。断崖の中腹に位置する白滝山高養寺。高養寺は元々は浪切不動と呼ばれ漁師達の厚い信仰を得ていた。それが明治の文豪「徳冨蘆花」がこの高養寺を舞台とする小説「不如帰」を発表し、そのヒロインの名が浪子であったために、いつの頃からか高養寺も浪子不動と呼ばれるようになったと。「高養寺」前の園地にあったさくら貝の歌の碑 。「♪♪うるわしき さくら貝ひとつ 去りゆけるきみに捧げん♪♪」。土屋花情の詩。 作曲家八洲秀章が創作した短歌に逗子町役場に勤めていた友人の土屋花情が自身の思いを重ねて作ったと。昭和24年「さくら貝の歌」はラジオ歌謡として放送され、今も愛唱されている。碑は赤の御影石で作られ花情の文字が刻まれていた。不如帰(ほととぎす)と刻まれた石柱が逗子海岸の海の上に立っていた。逗子を舞台にした小説「不如帰」を書いた明治の文豪「徳冨蘆花(とくとみろか)」の功績を讃える文学碑。ココは岩礁地帯であり、干潮時には不如帰の碑も完全に陸続きになるので歩いてこの文学碑まで行く事が出来るのだがこの日は・・・。徳富蘆花が逗子で保養中に聞いた話をもとに書いた明治のベストセラー小説「不如帰」を称え、昭和8年「高養寺」(浪子不動)前の海中の岩場に建てられたと。 使われている石は江戸城の石垣用のもので、佐賀鍋島藩が伊豆の石を船で運ぶ途中事故に遭い、海に落ちたものだと。 石碑の文字は蘆花の兄蘇峰の筆で、碑の下には蘆花愛用の筆と硯が収められているのだと。石碑の上に海鳥が羽を休めていた。 そして駐車場の奥の階段を登り披露山公園(ひろやまこうえん)を目指す。マンションの壁際をずぅーっと登って行くと途中で分岐があり、左へ曲がり蛇行しながら登って行くと披露山公園の駐車場に到着。披露山の山頂(標高92m)に位置する公園。眺望がよいことで知られ、三浦半島や相模湾の景色を一望できた。また園内では、ニホンザルや水鳥などの動物を飼育していた。戦時中は海軍の小坪高角砲台として2連装12.7センチ高角砲2基と高射装置(Director)を備えた指揮所が存在したと。指揮所跡にレストハウスを設け、砲台のすり鉢型の砲座跡を猿舎と展望台、花壇に利用しているのだと。「関東の富士見百景」、「かながわの景勝50選」及び「かながわの公園50選」に選定されている。山頂にあった円形の展望台とその脇に富士山。ここからも富士山と江の島の絶景が。眼下に先程訪ねた『RIVIERA ZUSHI MARINA』の白きマンション群が。自動車用の道路橋・江の島大橋もはっきりと。 葉山マリーナ方面。 そして大島の姿がはっきりと。三原山の頂上付近には白き雪が。 公園内の猿舎の中には多くの猿が寒そうに。すり鉢状の砲座跡を再利用した物であると。しかし何故、この場所で猿を飼育しているのであろうか?どの様な経緯でココに猿を置く事になったのか非常に気になったのです。尾崎行雄記念碑。終生逗子で過ごした「憲政の神様」と言われた政治家、尾崎行雄の記念碑であり、「人生の本舞台は常に将来に在り」と刻まれていた。往路と同じ山道を駐車場に向かって下る。途中山道を頑張って登る園児の集団にも出会う。 そして披露山にある高級住宅地・東急ドエル逗子披露山シーサイドコートには国道134号線からゲート付き居住者専用トンネルがあり、マンションの敷地まで続いていたのであった。そして次に葉山マリーナへ。葉山港は「日本ヨット発祥の地」であると。葉山ヨットハーバーからの富士山。葉山ヨットハーバーから披露山の頂上近くに大きなコンクリート製の建物が。逗子を舞台にした小説「太陽の季節」などで知られる作家で元衆院議員・都知事の石原慎太郎氏の実家であったと。今は売却されていると地元の散歩中のオジサンから。 ・・・つづく・・・
2018.02.14
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『鎌倉散策 目次』👈リンク報国寺を後にし、次の寺は浄妙寺(じょうみょうじ)。浄妙寺は、鎌倉市にある臨済宗建長寺派の仏教寺院。山号は稲荷山(とうかさん)。詳名は稲荷山浄妙広利禅寺(とうかさんじょうみょうこうりぜんじ)。本尊は釈迦如来。開基(創立者)は足利義兼、開山(初代住持)は退耕行勇。鎌倉五山の第五位、鎌倉三十三観音第9番の寺、札所本尊は聖観世音。浄妙寺 山門をくぐる。 当初は密教系の寺院で”極楽寺”と称し、東の極楽寺と呼ばれたと。月峯了然が住職となったとき”浄妙寺”と名を改め禅寺になった。 鎌倉五山の第五位となり、最盛期には七堂伽藍を有し、塔頭23を数える大寺であった。しかし度かさなる火災や震災で失われたと。 「浄妙寺(じょうみょうじ)源頼朝の伊豆挙兵以来の重臣・足利義兼が、退耕行勇を開山として建立しました。行勇は源頼朝や政子が帰依した高僧です。鎌倉五山第五位の由緒ある禅宗の寺で、室町時代は境内に二十三の塔頭を持つ大寺院でした。現在は総門、本堂、客殿、庫裡が残っています。茶室・喜泉庵と枯山水の庭は平成三年に復元されました。本堂の奥にある鎌足稲荷神社は鎌倉の地名の由来になったとされています。 ● 宗 派:臨済宗建長寺派 ● 山号寺号:稲荷山浄妙寺(とうかざん) ● 建 立:文治4年 (1188) ● 開 山:退耕行勇 (たいこうぎょうゆう) ● 開 基:足利義兼写真は、茶室と枯山水庭園」浄妙寺の境内&参道。本堂前の庭園は梅の花と枯山水の庭で知られている。よく手入れがされていて、境内は国史跡に指定受け。本堂は、宝暦6年(1756)再建で、寄棟造り、銅板葺きで、起りと呼ばれる膨らむような形状の屋根が特徴。堂内に、南北朝時代作の釈迦如来坐像を安置。「本堂内陣」の扁額「方丈」。本堂の左にある茶室・喜泉庵枯山水の庭を眺めながら抹茶と落雁を味わえると。この枯山水の庭にも雪が残っていた。 寺の奥にある石窯ガーデンテラスに向けて本堂脇の坂道を進む。石窯ガーデンテラス。洋館を改装して創られたカフェ&レストラン。四季折々の庭を眺めながら、焼きたての石窯パンやおいしいお茶・食事が楽しめると。この日は定休日であった。本堂裏の足利貞氏の墓。延福寺跡のやぐらと足利直義(あしかが ただよし)の墓。 延福寺は、足利尊氏の異母兄高義が母契忍禅尼の供養のために建てた寺で、開山は足庵和尚と伝えられている。一説には、高義の菩提を弔うために建てられたとも(高義の法号は「延福寺殿」)。浄妙寺境内の西北が延福寺のあったという場所。足利 直義は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけての武将。河内源氏義国流、足利氏の嫡流・足利貞氏の三男。室町幕府初代将軍、足利尊氏の同母弟。足利将軍家の一門。世に副将軍と称される。兄・尊氏の覇業を補佐して室町幕府創設に貢献し、兄弟による二頭政治によって政権の基礎を固めた。しかし観応の擾乱で失脚し、復権を企んで政敵の高師直一族を討ち果たした。しかし尊氏とも対立し、 1352年(文和元年・正平7年)足利尊氏によって幽閉されていた足利直義(高義・尊氏の弟)は延福寺で病死したと伝えられていると。尊氏に毒殺されたとの説もある(観応の擾乱)。延福寺跡のやぐらを反対側から。鎌足稲荷社。『御由緒大織冠藤原鎌足公は乳児の時、稲荷大神さまから鎌を授けられ、以来、常にお護りとして身につけ、大神さまのご加護を得られました。大化元年(645)中大兄皇子(後の天智天皇)らとの協力のもと蘇我入鹿を討って大願を成就された鎌足公は翌大化2年(646)東国に向かわれ、相模国由井の里に宿泊されました。その夜、「あなたに鎌を授けて守護してきたが、今や入鹿討伐という宿願もなし遂げたから、授けた鎌を我が地に奉納しなさい」との神告があり、お告げのままに鎌を埋納したことによるとされています。「お稲荷さま」というとキツネをイメージする人もいますが、キツネは稲荷大神のお使いであって、稲荷大神そのものではありません。』と境内案内板より 。この鎌を、大蔵の松ヶ岡に埋納したことから「鎌倉」になったといわれているのだと。 正面に先程登った衣張山の頂が見えた。そしてこの日の散策の〆に杉本寺を訪ねる。鎌倉市二階堂にある天台宗の寺院。山号は大蔵山( だいぞうざん)。本尊は十一面観音で、坂東三十三箇所・鎌倉三十三箇所の第1番札所。鎌倉最古の寺とされていると。寺伝によれば、天平6年(734年)行基が十一面観音を安置して創建。文治5年(1189年)堂宇が焼失しているが、このとき観音像は自ら本堂から出て、境内に避難したと。『吾妻鏡』によれば、中世には大倉観音堂と呼ばれ、文治5年(1189年)の火災時には別当浄台房が炎の中から本尊を持ち出し無事であったと。同書には建久2年(1191年)源頼朝が当寺を参拝し、修理料を寄進したとあると。背後にはかつて杉本城があり、足利方の武将で鎌倉府執事を務めた斯波家長(?-1337年)が拠ったが、南朝方の北畠顕家に攻められ、この寺で自害しているのだと。山門への階段を登る。山門前の階段の両脇には「十一面杉本観音」と書かれた幟が。山門(仁王門)は切妻造、茅葺の八脚門。左右に金剛力士(仁王)像を安置する。金剛力士像は運慶作との説もあるようだが。江戸時代、18世紀半ば頃の建立。運慶作ではと言われている阿行像。運慶作ではと言われている吽行像。仁王門をくぐった右手にある大蔵弁財天。お参りすると、大きな蔵が建つとか。十分お参りしましたが、時既に遅し!大蔵弁財天の中には小さな湧水の池があり、置石もあって、静かな雰囲気。 夏になると、階段の苔も緑一色に変わり美しい姿を楽しめる場所。 この階段は苔の保護?の為に常に立入禁止。 脇の階段の横にあった石像。この人物は誰?日本武尊(やまとたけるのみこと)?茅葺きの屋根が特徴的で雰囲気のある観音堂。嬉しいことに堂内に上がって秘仏三体の十一面観音、前立十一面観音などさまざまな仏像を拝観出来るのであった。秘仏の三体の十一面観音様。 【http://blog.livedoor.jp/takenoji/archives/17277670.html】より鐘楼。見応えのある鐘楼脇の五輪塔群も苔むして。南北朝時代の戦いの軌跡と。七地蔵尊。一番風化の激しい地蔵は、杉本義宗の守り本尊といわれているのだと。観音堂横の奥の神社。扁額は「熊野大権現、白山大権現」。観音堂の前には、十一面杉本観音と書かれた白幟が取り囲む。そしてやや脚の痛みも感じられたので、帰路は杉本観音前からバスに乗り鎌倉駅まで。朝8:30から15:30までJR鎌倉駅を起点にして多いに歩き回ったのであった。そして17時前には、心地よい脚の疲れと共に帰宅したのであった。 そしてこの日の散策・移動経路が下の図。我がSONYデジカメのGPSロガー機能により、移動した経路を帰宅後に地図に示してくれるのである。この地図をズームすればもっと詳しく移動の経路が地図上に示され、更にそれぞれの写真の撮影場所もかなり正確な位置として示されるので、ユーザーには有り難い機能なのである。「この写真、何処で?何を?写したのか」と言う事が無いのである。 地図はGoogle Earthとリンクしているので、日本国内だけでなく海外とも連動しているので海外旅行時には更に有り難い機能なのである。 そして、鎌倉は、まだまだ見るところがありそうなのであった。いつもの様にこうやって歩けることに感謝して次の機会にと。 ・・・END・・・
2018.02.13
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『鎌倉散策 目次』👈リンク平成巡礼道を下りきり、報国寺の前を通り「旧華頂宮邸(きゅうかちょうのみやてい)」前まで歩く。しかしこの日は生憎、休園日のようであった。次回の建物内部の公開日は4月7、8日と書かれていた。旧華頂宮邸は、1929年(昭和4年)に華頂宮博信侯爵邸として建てられたもので、国の登録有形文化財。西洋民家にみられる柱や梁などをそのまま外部に現し、その間の壁を石材、土壁などで充填したハーフティンバースタイル。鎌倉市の景観重要建築物にも指定されている。戦前の洋風住宅建築物としては鎌倉文学館に次ぐ規模。華頂宮家は、伏見宮家の分家にあたるのだと。造:木造3階建て、洋小屋組 敷地面積:約4500平方メートル建物述べ床面積:577.79平方メートル 屋根:銅板葺き外壁:木骨モルタル塗り門の照明灯も歴史を感じさせてくれた。報国寺(ほうこくじ)まで戻り入山する。報国寺は、鎌倉市にある臨済宗建長寺派の寺院。山号は功臣山。本尊は釈迦三尊。境内に竹林があり、「竹の寺」とも称される。鎌倉三十三観音霊場の第10番、鎌倉十三仏霊場の第8番(観音菩薩)、東国花の寺百ヶ寺の鎌倉5番札所。この寺は、1334年(建武元年)天岸慧広(てんがいえこう)の開山により創建されたと伝えられ、開基については足利尊氏の祖父足利家時とも上杉重兼ともいわれている。臨済宗における寺格は諸山(しょざん)に列せられていた。諸山とは、五山制度に基づく寺格の一つである。五山・十刹の下の寺格の寺。1438年(永享10年)におきた永享の乱で敗れた鎌倉公方足利持氏の子義久がこの寺で自刃していると。山門を潜ると参道脇には美しい苔と白砂の庭園が拡がっていた。白砂の先の石仏。日本の石仏というより、なんとなくインド風?の外観。こちらは純日本風の石仏。竹とツツジの植栽の横を進む。こちらもなんとなくシルクロードを渡ってきたような石仏。小さな五輪塔群。迦葉堂(かようどう)。本堂の右手には、仏陀の弟子、迦葉から名をとった迦葉堂と呼ばれる2階建ての建物が。ここには、仏乗禅師坐像、迦葉尊者立像などが祀られていて、日曜日には日曜座禅会が開かれていると。ただし、普段は公開されていないようであった。報国寺 本堂。1334年(建武元年)天岸慧広の開山により創建されたと伝えられている。宅間法眼作と伝わる本尊「釈迦如来坐像」が安置されている。南北朝時代のもので市指定の文化財。本堂内部。拝観券:200円 を購入し有名な竹林を散策に。報国寺は足利氏ゆかりの寺で、通称「竹の寺」と呼ばれている。本堂裏手にある孟宗竹林の「竹の庭」が報国寺が「竹の寺」と呼ばれる由縁。竹林の中に石仏などが配置された幽玄の世界。自然下での竹類の分布は、気候が温暖で、湿潤な地域、あるいは熱帯に限られており、アジア東部と南部、それにアフリカと南アメリカに多く、日本が北限とされているのだ。(小型の笹類の北限は、サハリン)。冬季が寒冷だったり、降水量の少ないヨーロッパや北米では、大型に育つ竹類の自然分布は、殆ど知られていない為、欧米人にはこの報国寺は人気の寺。茶席・休耕庵。竹の庭を見ながら抹茶を楽しめる場所。五重石塔も境内の苔むした庭園内に。竹林を抜けると崖にやぐらが見えた。開基足利家時と「永享の乱」の折に自刃した足利義久らの墓と伝えられている。 やぐらの中には五輪塔や宝篋印塔が並んでいるのが見えた。こちらのやぐらにも多くの五輪塔が。竹林と本堂裏の間の庭園。木下利玄の歌碑。木下利玄は、明治から大正にかけて活躍した歌人。この寺に墓があると。「あるき来て ものゝふ果てし 岩穴の ひやけきからに いにしへおもほゆ」見事な庭園の先にやぐらが。サンシュユ(山茱萸)の木。温めた牛乳にサンシュユの枝を入れ、保温して一晩置くとヨーグルトができるのだと。ブルガリアにはヨーグルトの木と呼ばれる木があり、サンシュユはヨーグルトの木の親戚にあたるため、実際に同じようにヨーグルトを作れるのだと。山茱萸の音読みが、和名の由来である。早春、葉がつく前に木一面に黄色の花をつけることから、「ハルコガネバナ」とも呼ばれる。秋のグミのような赤い実を珊瑚に例えて、「アキサンゴ」とも呼ばれると。私も養蜂場に植えているが、残念ながら蜜は出ない花のようである。残雪が庭園の白砂の如し。珍しい茅葺き屋根の鐘楼。境内の白梅も花を開き始めていた。露座の石仏を横から再び。 ・・・つづく・・・
2018.02.12
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『鎌倉散策 目次』👈リンク法性寺山門を後にし、横須賀線に沿って歩くと直ぐ左手にあったのが馬頭観世音と轢死者供養塔。「久木ハイランド入口」の交差点を左手に折れ暫く道なりに進む。鎌倉逗子ハイランドという新興住宅地の高台に向かって歩く。ここは西武不動産(株)が開発した住宅地。”新興住宅地”という名の先駆けで、早40数年が経過しているようであった。途中鎌倉逗子ハイランド手前を左に折れ自治会館方面に進む。更に左手に折れ浄妙寺緑地に向かう。浄妙寺こなら公園を左手に折れ更に進むと「鎌倉市子ども自然ふれあいの森」に到着。まだ雪がかなり残っていた。更に坂道を上っていくと水道山展望台に到着。前方下に逗子海岸、そしてその先に葉山マリーナが確認出来た。そして反対側には稲村ヶ崎そしてその奥に江の島が見えた。水道施設はフェンスで囲まれていた。ここでカラスに見守られながら軽く腹ごしらえ。南方向に小高い丘が見えたので、坂を下りその丘に向かう。途中、道の傍らには地蔵尊が置かれているほか、 その少し先に、稲荷神社にある狛狐 ? が2体置かれていたが 、周囲に祠などなく、・・・・。そしてパノラマ台という展望台に到着。由比ヶ浜・稲村ヶ崎・江の島と富士山が望める絶景スポットとのことで訪ねたが富士山の姿は・・。 ここからの江の島の姿。稲村ヶ崎もはっきりと。パノラマ台を後にし、坂道を下りかまくら幼稚園の手前左に「関東の富士見百景」の案内板が。ここからは富士山だけでなく、鎌倉の町と、七里ヶ浜、稲村ケ崎、江の島と美しいポイントを見渡せるのであったが、残念ながらこの時間はここからも富士山は完全に雲に隠れていた。天気が良ければ・・・下の写真の如くに。 【http://livedoor.blogimg.jp/nori_suke55/imgs/e/9/e9588d5a.jpg】より。浄明寺緑地のお地蔵さま。「巡礼古道」に入り衣張山(きぬばりやま)山頂を目指す。「巡礼古道」は杉本寺から逗子・岩殿寺に至る山越えの巡礼道。落ち葉に埋もれた山道を、小鳥の声を聞きながら進むと、やぐらや庚申塔、磨崖仏などに出会いながら巡礼古道を一人占め。かつての巡礼道は、鎌倉ハイランド住宅地により寸断されてしまったが、そこを抜けると名越切通に向かう山道にも再び入れるのであった。尾根道を進むと、衣張山の手前の山の頂にも石仏が。相模湾の姿も。そして衣張山(きぬばりやま)標高121mに到着。山頂には五輪塔と地蔵様が。この場所からの相模湾と江の島。江の島をズームで。私と同じハイキングの方が上着を脱ぎ、一休みされているのかと思いきや周囲に人の姿はなし。忘れ物らしい赤いジャケットが淋しそうに玉縄桜の若木に吊されていた。そして巡礼古道を下る。山道にも未だ残雪が凍結して。衣張山山頂下の石切場趾。この衣張山の石切場跡は、崖の入口から10mは奥に掘り進まれていた。中世に掘られたやぐらとは比較にならないほど深く、高く大きいもの。天井も高い。落石も殆ど見られないから東日本大震災でも剥落もしなかったのであろう。しかしここで切り出した石を、どの様に山の下まで運び出したのであろうか?途中、昨年の台風時に?倒木したのであろうか太い樹木が巡礼古道に横たわっていた。多くの五輪塔が巡礼古道の脇に。途中、風にさらされてはいたが、穏やかなお顔の野仏・夫婦地蔵?も見送ってくれた。 小さな沢に架かる丸木橋も頼りなげに。「平成巡礼道」と書かれた札が。この山道はかなり急な山道であった。ここを反対に登っていくのはかなりの難行か?これぞ「平成巡礼道」 。いや「ぜいぜい巡礼道」。下っていく私の膝も笑いはじめたのであった。 高校時代、クラブ活動で長時間兎跳びをやった後の感覚。久しぶりの懐かしい?感覚なのであった。そして「田楽辻子(でんがくずし)のみち」と書かれた標識が。『鎌倉時代に呼ばれていた小路で、路名の由来は、路ぞいの釈迦堂前に田楽師が住んでいたためと伝える。辻子は通り抜けのできる小路のことで、十字路を辻という。「吾妻鏡」などの田楽にまつわる記事に基づいて現在の道筋をたどると、筋替橋(すじかえばし)を起点として宝戒寺裏から滑川を渡り、大御堂ヶ谷・釈迦堂ヶ谷の入口をへて宅間ヶ谷に出て六浦と合流する小路と考えられる。』 と説明板に。「田楽辻子のみち」沿いには、文覚上人屋敷跡、勝長寿院跡、釈迦堂切通、上杉禅秀邸跡、衣張山があると。「上杉朝宗及氏憲邸址(うえすぎともむね・および・うじのり・ていあと) 」の石碑。『朝宗は足利氏満 満兼に歴任し 入道して禅助と号す 人称して犬懸(いぬかけ)の 管領といふ 其子氏憲 嗣て持氏の執事となり 入道して禅秀と号す 然るに後 持氏と隙あり 応永廿三年氏憲は 持氏の叔父満隆と謀り 満仲を奉じて兵を起せしも遂に敗れ 翌年正月 一味 と共に 雪ノ下の鶴岡別当坊に自尽す 此処は即ち其の邸なり』 「上杉朝宗は、足利氏満(うじみつ)、満兼(みつかね)に仕え、出家してからは禅助(ぜんすけ)と言いました。当時の人は、犬懸(いぬかけ)の管領(かんれい:将軍代理職)と言いました。その子の氏憲(うじのり)が跡を継いで持氏(もちうじ)の許で事務を取り仕切り、 出家してからは名前を禅秀(ぜんしゅう)と言いました。しかし、持氏と仲たがいになり、1416年に、氏憲は持氏の叔父(おじ)の満隆(みつたか)と共に計画して、満仲に勧めて戦いを起そうとしましたが失敗しました。 そして1417年1月に、一味と共に雪ノ下の鶴岡別当坊にて自殺しました。ここはその屋敷があった場所です。」 と。 ・・・つづく・・・
2018.02.11
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『鎌倉散策 目次』👈リンク長勝寺を後にし、311号線を逗子方面に向かって歩く。左手の美容室の家の前にある「大町五丁目自治会掲示板」の足元に「十井之一 銚子の井」と刻まれた古い石柱が。その横の狭い小道の奥に、石の蓋を被せた井戸があった。この井戸は「銚子の井」(ちょうしのい)またの名を「石井の井」(いしいのい)とも呼ばれている、 鎌倉十井(かまくらじゅうせい)の一つ。この銚子の井戸は、上に六枚の花弁の形をした蓋が乗せられていた。蓋の直径は110cm、高さ60cmの大変に重そうな形。井戸枠も蓋と同じように外形は六角形をしており、 内側は円筒状の形状をした石製のもの。いつ彫られた井戸なのかは不明ですが、新編鎌倉志(1685年に刊行)に記載されているため、江戸時代初期には既にあったものと思われます。井戸の名の由来は、井戸の形がお酒を注ぐ銚子に似ているからと言われています。井戸の内側は円ですが、外側は六角形でその一辺はつぎ口のように突き出しています。「石ノ井(いしのい)」ともいわれていますが、これは近くの長勝寺の開基である石井長勝にちなむとも、六枚の花びらのような形をした蓋や側面が石造りになっているからとも言われます。なお日蓮乞水と同じものだったという説もあります。311号線に戻り進み、ナビに従い直ぐに再び狭い脇道に入る。こんな狭い道をナビは案内する優れものなのです。 裏通りに出て右に進むと、右手にあったのが鎌倉五名水の一つ「日蓮乞水」が。手前の狭い空地には何があったのでしょうか? 1254年(建長6年)、日蓮は名越切通を越えて鎌倉に入ったと。その折、水を求めた日蓮が、持っていた杖で地面を突き刺したところ水が湧き出したと。『新編鎌倉志』には、「日蓮乞水は名越切通に達する路傍の小さな井戸を云う 昔日蓮が房総より鎌倉に来る時 此処にて清水を求めしに俄かに湧出せしとなり 大旱(たいかん)にも涸れる事なしとぞ、鎌倉五名水の一なりと云う」と記されていると。石碑には、「南無妙法蓮華経日蓮水」と刻まれていた。大旱とは、ひどいひでりの事。現在は、井戸の形をしているが、元は湧き水であって、穴があいているだけであったと。竹で蓋をされた「日蓮乞水」の上には蓮の花が飾られていた。更に311号線に向かって進むと正面に鎌倉市名越クリーンセンターの煙突が現れた。前方に鎌倉・逗子を結ぶ小坪トンネル。左の下り線のトンネルは歴史を感じさせてくれた。停駐車禁止の取締中のお巡りさんにこのトンネル内を通行可能かと問い合わせると右側の上り線にトンネル内を歩ける歩道が付いていると教えてもらう。お巡りさんの指示に従いトンエル内の歩道を歩く。そして再び次のトンネルが。ここで結果的には遠回りをしてしまう。トンネルを出たら次のトンネルには入らず、右手に折れ進むと名越切通・小坪階段口が左手にあったのである。 私は更に次のトンネルを通過し、 亀ヶ岡 団地の中を遠回りして、長い急な坂道をひたすら上り名越切通の入口に漸く到着。約30分のロスか? 更に進むと切通の雰囲気の場所が前方に。ここが亀が丘団地から名越切通への入口。治承4年(1180)に源頼朝が居を構えた鎌倉は、南方を海に、それ以外の3方を丘陵に囲まれた要害の地であった。そのため、陸路を鎌倉に入ろうとすると、その多くは細くて急な尾根超えの山道か、危険な波打ち際の崖下の道であったと。13世紀前半、執権北条氏の権勢が確立する頃になると、鎌倉も政治経済の拠点として発展したが頻繁となる物資や人びとの往来にとって、それまでの交通路は大きな妨げとなったと。その難渋を除くため、都市の基盤整備の一環として、後に「鎌倉七口」などと呼ばれるこの様な切り通し路が開削されたと考えられていると。「国指定史跡 名越切通」の文字が。 名越切通は、鎌倉と三浦半島を結ぶ要路のひとつであり、戸塚宿から鎌倉を経て浦賀へ続く浦賀道の一部でもあった。切通を含む名越路(名越坂とも)は、より南側にある小坪路とともに、かつては鎌倉から三浦半島へ連絡する数少ない陸路であった。地域名ともなっている「名越」の名は、この道が峻険で「難越」(なこし)と呼ばれたことに由来すると言われると。「第一切通」と呼ばれるこの切通しは、名越切通の道筋にある複数の切通しのなかでも最も大きく深い。これが『新編鎌倉志』に記された「大空峒(おおほうとう)」ではないかと言われているが確証はないと。また『新編鎌倉志』には「左右ヨリ覆ヒタル岸二所」とあるが、実際には小規模な切通しは数箇所あり、どれが「小空峒(こほうとう)」にあたるかは定かではないとのこと。名越切通は直接近代の道路として整備されず、狭隘な山道として残されてきたうえ、切通し道に隣接した平場や切岸が目立つため、鎌倉七口のなかでも特に中世の旧鎌倉の防衛遺構の一部としての切通しの姿をよく保っているとのこと。名越切通・第1切通の最も狭まった部分。戦の時には、この狭い場所は突入防止の重要なポイントであったと。 しかし、実際にはこの巨岩は関東大震災で動いたのだと。下方の名越切通を突入せんとする敵を、この上部平場から矢で射る事が出来る構造。第2切通。第3切通。更に進んでいくと「まんだら堂やぐら」と書かれた案内柱が。「やぐら」とは、鎌倉を中心として点在する墳墓。丘陵山腹を穿って造られている。漢字では、「窟」・「矢倉」などとも書く。「やぐら」は、方形に削られた「玄室」と玄室への入口である「羨道」とからなっていて、「玄室」には、納骨穴を造り、その上に五輪塔や宝篋印塔などの供養塔が置かれているのだ。なかには壁面に五輪塔や仏像などが彫刻されているものもあるとのこと。階段を上っていくと正面には「立入禁止」のフェンスが。現在は公開終了中で2月24日から期間・曜日限定で開放されると。因みに、この名越切通は鎌倉の世界遺産登録申請物件21ヵ所の一つであると。フェンスの金網の隙間から写真撮影。「まんだら堂やぐら群」には、約150穴の中世の「やぐら」が残されていると。鎌倉市内でもこれだけの「やぐら群」の存在は珍しいのだと。かつて、この場所には、死者を供養するための「曼荼羅堂」があったというが、その「曼荼羅堂」がどのような建物で、いつの時代まで存在していたのかは不明と。やぐら内に置かれている五輪塔は、後に動かされたものが多いらしい。分かれ道を、上り坂の法性寺方面に向かう。分岐にはきちんと方向表示があり、迷わずに進めるので安心なのであった。「帝釈天王 猿畠山 法性寺道 南無妙法蓮華経」と刻まれた石碑も歴史を感じさせてくれた。左手に石廟(せきびょう)が二基。崖下は法性寺口への道。 先へ進むと、新たに整備された展望広場。 法性寺道の展望広場から小坪方面の眺望。法性寺の墓地最奥にもやぐら(洞穴?)が。以前は五輪塔等が納められていたのであろうか?墓誌由来と刻まれた石碑。法性寺の歴史・由来が刻まれていた。風化が進んだ大きな断崖そしてやぐらの下にある法性寺墓地。奥の院には、日蓮の弟子日朗の廟所があった。「日朗菩薩墳墓霊場」の扁額が掛かる。日朗は、「日蓮六老僧」の一人。1271年(文永8年)9月12日、日蓮が捕らえられて佐渡流罪となったときには、一緒に捕らえられ、光則寺にある土牢に幽閉された(龍ノ口法難)。幽閉から解放された後は、佐渡に流されている日蓮のもとに8度も訪れたという。1274年(文永11年)、赦免された日蓮を迎えに出向いたのも日朗だったと。1320年(元応2年)に亡くなった日朗は、その遺言から安国論寺で荼毘に付され、ここに葬られたと伝えられているのだと。奥之院。 奥之院本堂屋根には左に蕾付き牡丹の花の飾り瓦が、右には唐獅子の飾り瓦が上がっていたが、左右で違うのは珍しいのだと。奥の院 扁額。 両山とは、ここ鎌倉の長興山妙本寺と池上の長栄山本門寺。奥の院 内部。日蓮の岩窟。松葉ヶ谷法難の折、日蓮が白猿に導かれて避難したという岩窟。1260年(文応元年)7月16日、日蓮は、法華経を信じるよう著した『立正安国論』を北条時頼に提出した。しかし、それから40日後の8月27日、松葉ヶ谷の草庵が念仏信者によって焼き討ちされてしまう。3匹の白猿に「お猿畠」に導かれた日蓮は、この岩窟に避難し、白猿から、滋養のある自生する生姜を捧げられたと。毎年、日蓮が龍口法難に逢った9月12日は龍口法難及び松葉谷法難しょうが供養が行われると。 奥の院前の鳥居を潜り階段を上る。 山王大権現。(さんのうだいごんげん)山王大権現とは、日吉(ひえ)神社・日枝(ひえ)神社の祭神で、その使いはこれも猿であると。小坪そして逗子湾が見えた。奥の院をあとにし更に坂道を下っていくと法性寺・本堂が右側に。私のこの日の散策路は法性寺の奥の院から本堂、山門へと逆方向に歩いたのであった。本堂の境内の紅梅は既に満開。更に坂道の参道を下ると、山門がありここを潜り山門を振り返る。法性寺の山門には、山号「猿畠山(えんばくさん)」の扁額が架けるられていた。そこには日蓮を案内してきたとされる山王権現の白猿があしらわれていた。なお、この扁額の「猿畠山」は日蓮終焉の地である池上本門寺の第79世伊藤日定の揮毫であるとも記載されていた。「日蓮大聖人焼討御避難之霊趾」と刻まれた石柱。日蓮上人が文久元年に鎌倉松葉ヶ谷の草庵を他宗の僧に焼き討ちされてここまで逃げ延びたとき、3匹の白い猿が出て食物を与えるなどして日蓮の世話をした。恩に感じた日蓮は、ここに寺を建てるように弟子に頼んだのであった。 ・・・つづく・・・
2018.02.10
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再び糸川沿いを渚橋から上流に向かい御成橋まで「あたみ桜」楽しむ。17時前であり、まだ暗くなっていないが、既にライトアップ が行われていた。暗くなるのを待ちつつ、近くの本屋に立ち寄り時間を過ごす。 ライトアップであたみ桜の花の中央が黄色く輝く。カニのオブジェ。こちらはマンボー。新柳橋近くの村越魚店の前のベンチに陣取る。そして、暗くなるまで寒さ防止も兼ねて、ワンカップ+コンビニつまみ の小宴を開催。魚店主のおじさんが大きな「エイ(鱏)」を2匹、表と裏面を見せてくれた。店の前のベンチで本格的な夜桜見物の宴を決断。先輩のOさんが再びLサイズのワンカップをコンビニから購入。今回は何故か燗入りワンカップ。 そしてこの店で魚の天ぷらセットを買い込む。太切りのイカソーメンも追加購入。キュウリの漬物も2本分。魚屋のおじさんが魚の頭の煮付けをプレゼントしてくれました。そして体も温まり、会話も賑やかに夜桜を3人で散策の再開。これぞ「夜桜オジン」。冬?の日差しの中で楽しむ日中のお花見とは一味違い、幻想的な雰囲気を楽しめる夜桜。ライトアップに輝く夜の姿は驚くほどに美しく神秘的。本物のガス燈にも灯が。いろいろなカメラ撮影モードでTRYして見ました。紅葉のライトアップはこれまで何回か見たが、桜のライトアップは久しぶり。昼間とは全く異なる表情で、幻想世界へと誘う「あたみ桜」のライトアップ。糸川橋まで千鳥足?で進む。糸川橋の欄干もカラフルに輝いていた。ライトアップ時の「花吹雪」も美しいのであろう。 ライトアップされた「あたみ桜」の川面に映る姿も美しいのであろうが、ここの「あたみ桜」は水面近くまで枝が伸びていないのであった。これ以上、美しさを表現する更なる言葉を持ち合わせていません。表現力の欠如!!残念!!そして糸川橋からバスにて熱海駅まで戻る。JR東海道線のBOXシートを確保し帰宅の途についたのであった。
2018.02.09
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昼間の満開・「あたみ桜」を楽しんだ後は、3人で熱海サンビーチの散策に。青い海と白い砂浜、立ち並ぶホテル郡、ヤシの並木通り・・・外国の高級リゾートに似た雰囲気のビーチ。夏は海水浴場として、また、砂浜を歩いたり波と戯れたりできる場所として、ファミリーやカップルにも人気の場所。熱海サンビーチ案内図。 サンビーチのヨットハーバーに浮かぶヨットとその奥の山の上には熱海城が。 熱海市の錦ヶ浦山頂にある観光施設。城郭は歴史的に実在したものではない。1959年に海抜100mの位置に建てられた。外観5重、内部9階の日本の城郭に見られる天守を模して造られた鉄筋コンクリート造建築であり、天守閣風建築物。浅野祥雲作による金鯱を戴く天守からは、熱海市街・初島・大島・相模灘を一望できると。東洋のモナコをイメージした熱海のヨットハーバー。カモメものんびり日向ぼっこ。停泊する豪華なヨットを見ながら、渚デッキを歩けば、リゾート気分にどっぷりと。おどけたようなカモメの鳴き声は心地良いが、風はやはり冷たく。 夏は海水浴場として、また、砂浜を歩いたり波と戯れたりできる場所として、ファミリーやカップルにも人気の場所。早朝には水平線からのぼる朝日がビーチや街を染める美しい景色を見ることができる場所。 立ち並ぶホテル・マンション群。毎年見る度に白き高層ビルが増えていくのである。 白き高層ビルの先にダイヤモンドヘッドの如き山が見えれば、これぞハワイ・ホノルル・ワイキキビーチ。「あたみ桜」と釜鳴屋平七夫婦像。上半身ハダカでマゲがゆってある男性と彼に寄り添う女性の銅像。この像は、文化勲章を受章した熱海市名誉市民である澤田政廣先生の作「釜鳴屋平七夫妻像」。安政時代の義人、平七と妻の像。不況で網元が漁民に賃金を払わなくなり、平七たちは一揆を起こし、代官所へ命がけの直訴。平七は首謀者として八丈島流しとなるが、虐待により途中の大島で死去。35歳だったと。平七夫婦は現代の海を見ながら何を思っているであろうか。ムーンテラス。テラス尖端の噴水は恋人達が愛を誓い合う事の出来るモニュメント。初島を結ぶ白い船と赤い遊覧船サンレモ。遠く真鶴半島が見えた。その先端にある島は三ツ石。真鶴半島の先端・真鶴岬は、浜辺から約200mに渡って続く岩礁になっており、その先っちょに3つの巨大な岩が顔を出している。山の上には「MOA美術館」の建物が。椰子並木の椰子の影。初島の姿。人口243人で、熱海市本土から南東に約10キロメートルの位置にある島。古くから人が住む有人島であるが、1960年頃からリゾート開発が進み、現在ではプールやスパ、食事はもちろん、様々なレジャーを楽しむ事ができると。初島へは観光クルーズ船『イルド・バカンスプレミア』を利用。イルドバカンス プレミアは、全長43.0m、幅8.6m、総トン数271tのクルーズ船。 「貫一・お宮の像」。明治時代から多くの文豪たちが居を構え、名作を執筆した熱海。その中でもひときわ有名なのが、 明治30年より6年間「読売新聞」「新小説」に断続的に掲載された 尾崎紅葉の小説「金色夜叉」(こんじきやしゃ)。この小説にちなむ「お宮の松」と、「熱海の海岸散歩する・・・」で始まる歌謡が一体となり、爆発的に流布し、主人公「貫一・お宮」はあたかも実在の人物のように 国民の心をとらえて離さない存在となったと。『金色夜叉』の主人公・間貫一は貧乏学生だった。許嫁だった鴫沢宮(お宮)はある時、大富豪に見初められ貫一と別れることに。お宮の旅先である熱海まで追いかけ、問い詰める貫一。貫一は、「来年の今月今夜、この月を僕の涙で曇らせてみせる」「月が曇ったなら、何処かでお前を恨んで、今夜のように泣いていると思ってくれ」と言い、許しを請うお宮を足蹴にして去る。物語の山場であるその場面を再現したのが「貫一お宮の像」。同じ格好で戯れる若いカップルの姿も。 2代目・「お宮の松」。初代・「お宮の松」の切り株。自動車の普及により、排ガスや舗装の影響で衰えたため、1966年末に地元のホテルの寄贈により2代目の松が植えられたのだと。ジャカランダの木。熱海の海岸通りで見られる。ジャカランダの花は平成2年にポルトガルのカスカイス市から2本頂いたのが始まり。熱海とカスカイス市の姉妹都市記念で贈呈されたもの。今では大きな木が29本、苗木が約100本植えられているのだと。夏になれば、青紫の花がこのようにと。一生に一度は見てみたいと言う「南アフリカの紫ジャカランダ」があるが、ここ熱海で我慢しよう。椰子。この様に真っ直ぐにありたいもの。パンジーの植栽も見事。そして再び糸川沿いの「あたみ桜」のライトアップ鑑賞に向かう。 ・・・つづく・・・
2018.02.08
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一昨日(2/5)は旅友のSさん、先輩のOさんの3人で熱海の「あたみ桜」のお花見に行って来ました。NHKのニュースで満開中である事を知り急遽決断したのです。合流乗車する東海道線の時間を連絡し15時に熱海駅への到着を目指したのです。 「あたみ桜」は、開花期が1月と沖縄の寒緋桜と並んで日本列島で最も早咲きで、早咲きの桜として注目を集める河津桜より約1カ月早く咲くのです。また、一般的に桜の開花期間は1~2週間ですが、「あたみ桜」の開花期間は1カ月以上と長いのが特徴。開花期間が長い理由としては、花のつき方が、ひとつの枝に早期に開花する花芽と後期に開花する花芽の二段構えに形成されているためとのこと。熱海駅から徒歩で15分弱の場所を流れる糸川沿い両岸で「あたみ桜」が楽しめるのです。糸川は「いとかわ」ではなく「いとがわ」のようである。 熱海駅から仲見世名店街に入る。熱海の観光客の数も昔に比べてかなり回復していることが実感出来たのであった。途中左手にあったのが「長寿の湯」。ナトリウム・カルシウム「塩化物温泉」と書かれた説明板があった。そして右手のアロエの花の前にあったのが「風呂の湯」。昭和の湯治場風情を残す温泉宿として知られる「福島屋旅館」前にある「風呂の湯」。古くは、湯気が盛んに吹き出ていたため、ここで酒を温めたり饅頭を蒸して販売していたと。湯には傷を癒す効果があったと。「風呂の湯」のすぐ近くには、もう1つ温泉が湧いていると。他の源泉よりも温度が低く、塩分が含まれていないため「淡白無味常水を温めるもの」という意味から「水の湯」と名付けられたと。泉質がまったく違う源泉が、すぐ隣から湧くというのも熱海の源泉の豊かさを感じるスポットであると。「熱海 本家ときわぎ」。大正7年(1918年)、初代が熱海銀座に「熱海 本家ときわぎ」を開店して以来、和菓子作りひとすじの老舗であると。シンプルな昔ながらの羊羹や餅菓子で、この道50年の店主が、毎日こつこつ作り続けている店と。「常盤木羊羹店 總本店」。こちらの店は、「総本店」を名乗っている。「本家」と「総本店」は別の店のようで、こちらには伊豆山神社御用菓子の看板も。本家に比べると、新しい商品を積極的に出しているのだと。そして「あたみ桜 糸川さくらまつり」会場に到着。熱海市内中心部を流れる糸川は、川沿い300m程の糸川遊歩道に早咲きの「あたみ桜」が約60本植えられていて、例年、開花のこの時期に糸川桜まつりが開催されるのです。今年は第8回目を迎え、1月20日から2月11日まで開催され、期間中の17時から23時までライトアップされるとのこと。 満開の「あたみ桜」が青空の下、迎えてくれた。黒い御影石には「徳川家康 熱海入湯句碑」が。「春の夜の夢さへ波の枕哉 慶長9年3月3日」と刻まれていた。徳川家康が熱海の温泉に入湯した慶長9年3月3日に詠んだ句だと。私に赤ジャンの姿も御影石に。 御成(おなり)橋から糸川沿いの300m程の遊歩道を下って行き、最終的に海沿いの国道135号線(下り)へ向かうことにする。その間、御成橋 → 新柳橋 → ドラゴン橋 → 桜橋 → 糸川橋 → 柳橋 → 渚橋 と糸川に架かる橋を経ていくことに。橋のデザインはそれぞれ違い、個性的で見ていて楽しい橋が続いているのであった。「あたみ桜」はもともとは日本の桜ではなくて、沖縄原産のカンヒザクラと関西以西の暖地帯に自然分布するヤマザクラとの自然雑種と推定されていると。明治4年頃イタリア人によって熱海にもたらされ、 その後増殖が行われたのだと。この日もメジロが花から花へ飛び回っていた。 “海のアートがある歩道”、タコ。デレーンと垂れ下がって花見の真っ最中か? 対岸には目が頭の左側にあるからヒラメ?濃いピンクの「あたみ桜」と青空は似合うのであった。「あたみ桜」の下には糸川の流れが。実はこの周辺ははかつての赤線跡。糸川花街と呼ばれたエリアとのこと。 動き回るメジロを何枚かピントが合って撮影出来ていました。花の蜜を吸っているようです。残念ながらミツバチの姿は見かけませんでした。暫し蜜吸いも休憩。 仲良く。「あたみ桜」の基準木。平成20年に選定されたようです。基準木を川の反対側から。桜橋の手前には「坪内逍遥 歌碑」が。明治の文豪、坪内逍遥(つぼうち しょうよう 1895-1935)は、水口町の双柿舎に移るまでの約9年間、この糸川べりの荒宿(現在の中央町)に別荘を新築して住んでいたのだと。碑文には、「ちかき山に ゆきはふれヽと 常春日 あたみのさとに ゆけたちわたる せいえう」 と。桜橋から。桜橋からの熱海桜、これぞ熱海桜!! 花弁が濃いピンク色で花が大きいのが特長。様々な模様の橋の欄干の糸川橋。鳥はカモメ?。緑の木、青い水、白い鳥のデザインが美しい。対岸の濃いピンクのサザンカの花も負けじと。川には鴨?のつがいが 。鳥撮りだけには??、妥協を許さない姿の旅友Sさん。 Sさんを意識してか、優しくポーズを。 ドラゴン橋。大きく口を開け、熱海桜を飲み込むが如し。昔、富士フイルムのCMで採り上げられた場所であると。このあたり懐かしい建物など昔の熱海の雰囲気が残っていた。ドラゴン橋たもとに4基のガス燈が。実はこれ、本物のガス燈なのだと。いまどきは照明というと、蛍光灯やLEDですが、こちらは正真正銘、天然ガスで照らしていると。いつまでも見上げていても飽きない光景。亀も顔を持ち上げて花見に。川の擁壁の緑はブーゲンビリアの花であるが、開花はまだまだ先か。既に散っている花びらも。 ミニサイズの 花筏(はないかだ)。 こちらのブーゲンビリアは開花を始めていた。柳橋。1991年完成。長さ 12.89mの橋 。ザバーン!波をモチーフにしたダイナミックなデザイン波頭の上にカモメが一羽サーフィン中。その先には渚橋。糸川遊歩道終点の、国道135号線に架かっていた。こちらも波をイメージした橋で最も海に近い橋。 渚橋の手前には渚橋歩道橋が。 そして17時のライトアップまでには時間があるので、熱海のビーチ散策に。 ・・・つづく・・・
2018.02.07
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『鎌倉散策 目次』👈リンク大町釈迦堂口遺跡を後にし、妙法寺に向かう。途中民家の白壁には蔦が美しい模様を描いていた。 そして妙法寺前に到着。妙法寺は鎌倉市大町(名越)にある日蓮宗の寺院。山号は楞厳山(りょうごんざん)。建長5年(1253年)に日蓮が安房より移り住んだ松葉ヶ谷草庵跡に開かれたとされ、現在も境内奥の山腹に「御小庵趾」の碑がある。ただし、ごく近隣の安国論寺、長勝寺も、それぞれ松葉ヶ谷草庵跡を称しており、すべて開山は日蓮、創建は草庵が置かれた建長5年としている。後醍醐天皇の子・護良親王と藤原保藤の娘・南方(みなみのかた)の間に生まれた日叡は日蓮を偲び、かつ父・護良親王の菩提を弔うためにこの地に堂等伽藍を建て、自身の幼名である楞厳丸(りょうごんまる)にちなみ楞厳山法妙寺と名付けたと。境内奥右手山頂には護良親王の墓が、左手山頂には母・南方と、日叡自身の墓がある。「妙法寺(みょうほうじ)ここは、布教のため安房(千葉県南部)から鎌倉に入った日蓮聖人が、最初に草庵、いわゆる松葉ヶ谷御小庵を結んだと伝えられている地です。辻説法などで他宗を批難したため草庵が焼き打ちされた「松葉ヶ谷の法難」の場所もこのあたりであるとの伝承があります。のちに護良親王の皇子である楞厳丸(りょうごんまる)(日叡)が、悲壮な最期を遂げた父母の供養と日蓮聖人の遺跡を守るためにこの寺を建て、山号を楞厳山としました。本堂は、細川家の寄進による見事な欅造りです。護良親王の墓がある山頂からは、市街地と海を見渡せます。 ● 宗 派:日蓮宗 ● 山号寺号:楞厳山妙法寺 ● 建 立:延文2年 (1357) ● 開 山:日蓮聖人(中興開山 日叡上人)」寺院の伽藍配置は、正面苔石段上に釈迦堂があり、総門・仁王門・釈迦堂を結ぶ線を中心として法華堂・鐘楼・奥の院・本堂・宝蔵・庫裡が展開する様式で、仏教の教主釈尊を信仰の中心と仰ぐ日蓮宗の教義を具現したものだと。「松葉谷御小菴霊跡」と刻まれて石柱とその奥に総門。本堂の右奥には、仁王門があり、法華堂や釈迦堂跡へ上る石段は美しい苔に覆われていると。右手に見えるのが本堂。 本 堂妙法寺の本堂は文政年間に、肥後細川家により建立されたもので見事な欅造りである。本堂の扁額「楞厳山」この日は奥の院の参拝観光はCLOSEDと。ここが妙法寺入口。そして道路の反対側にあるのが安国論寺。「日蓮上人草庵趾」碑。『建長五年(1253)日蓮上人 房州小湊より来たり 此地に小庵を営み始めて法華経の首題を唱へ 正嘉元年(1257)より文応元年(1260)に及び 岩窟内に篭(こも)り 立正安国論一巻を 撰述せしは即ち此所なりと言う』 「1253年に日蓮上人(にちれんしょうにん)が房州(千葉県南部)の小湊(こみなと)からやって来て、ここに住み、法華経(ほっけきょう)という首題(しゅだい:南無妙法蓮華経)を唱えはじめました。そして1257年より3年間の間、洞窟にこもって、立正安国論(りっしょうあんこっくろん)一巻を書き上げたといわれているのがこの場所です。」 「松葉谷根本霊場」と刻まれた石碑。長勝寺・妙法寺と並び、日蓮が鎌倉で布教するに際して拠点とした松葉ヶ谷草庵の跡とされ、松葉ヶ谷霊跡安国論寺とも言う。開山は日蓮とするが、弟子の日朗が文応元年(1260年)に、日蓮が前執権北条時頼に建白した「立正安国論」を執筆した岩穴(法窟)の側に安国論窟寺を建てたのが始まりである。 立正安国論の冒頭には「天変、地妖、飢饉、疫病あまねく天下に満ち、広く地上にはびこる。牛馬巷にたおれ、骸骨路に充てり、死を招くの輩既に大半をこえ、これを悲しまざるの族敢えて一人もなし」 と書かれ、このような事が起こるのは法華経を信じないからだとし、人々を惑わす法然の念仏宗などを禁じなければ、外国からの侵略や内乱が起こると予言した。しかし、これが原因となって、8月27日夜、草庵が念仏信者らによって焼き討ちされ、下総国へ避難したと。これが松葉ヶ谷法難といわれていると。「安国論寺(あんこくろんじ)当山は日蓮聖人松葉ヶ谷小庵の霊跡です。御小庵の元となった岩窟(「御法窟」または「日蓮岩屋」という)が本堂の向かいにあります。この御法窟で日本国の安泰と人々の幸せを願って文応元年(1260)7月16日、前執権北条時頼に建白した『立正安国論』が執筆されました。翌8月27日に立正安国論に反感を持つ人々に庵が襲われました。これは「松葉ヶ谷の法難」といわれています。本堂の裏山に一時避難した「南面窟」があります。境内は四季折々の花や紅葉で彩られています。なかでも御小庵の傍の山桜は、日蓮聖人の桜の杖が根づいたといわれ、「妙法桜」と呼ばれています。サザンカやカイドウと共に鎌倉市の天然記念物に指定されています。 ● 宗 派:日蓮宗 ● 山号寺号:妙法華経山安国論寺 (みょうほけきょうざん) ● 建 立:建長5年 (1253) ● 開 山:日蓮聖人」安国論寺 山門。境内霊場案内図。しかし、この安国論寺もこの日はCLOSED。山門横からカメラを頭の上に翳して塀越しにシャッターを。反対側からも。この後別の日に訪ねて来ました。山門山門の扁額「安国法窟」山門を入り拝観料 100円を納め境内へ。左側に、平成23年(2011)12月に建てられた正岡子規の歌碑が建つ。右手には手水舎が。正岡子規の歌碑当歌碑は自筆から製作したもので、レリーフは門下の香取秀眞の子息正彦の作である。 ” 鎌倉の松葉が谷の道の辺に法を説きたる日蓮大菩薩 ” 子規正面に本堂が。安国論寺本堂。本堂には御本尊、南無久遠実成本師釈迦牟尼仏が安置されている。本堂の扁額「立正安国」本堂前から御小庵、境内を臨む。ここは東芝社長や経団連会長を務めた熱心な法華信者であった土光敏夫の菩提寺でもあると本堂右側枝垂れ桜があるがまだ蕾は硬い。立正安国論の石碑御小庵御弘通発軫の道場で、現在の建物は尾張徳川家の寄進、総欅造りで元禄時代に建立されたと。御小庵の見事な彫刻。御小庵の扁額「御小庵」熊王殿日蓮に使えた従者、熊王丸がつくったとされる熊王稲荷が祀られている。熊王殿の扁額「熊王殿」鎌倉市指定天然記念物 ヤマザクラ(市原虎の尾)日蓮上人の杖が根付いたとされる妙法桜(市原虎の尾と言う品種のヤマザクラ)。311号線に出て横須賀線の踏切を渡ると直ぐ右手にあったのが長勝寺。長勝寺は、1253年(建長5年)日蓮に帰依した石井長勝が自邸に法華堂を立て日蓮に寄進したのに始まると伝えられる。この堂は、現在京都市山科区にある本圀寺の前身とされ、1345年(貞和元年)洛中に移ってその後が荒廃していたのを、日際が再興し、石井山長勝寺と号したという。江戸時代には江戸幕府から朱印状を与えられていた。長勝寺山門。山門を潜ると左手に水子地蔵尊が。本堂に向かって参道を進む。真っ赤な毛糸で着飾った六地蔵。こちらも水子地蔵尊。長勝寺水行場。小さなプールのようなものは、水行の行場。毎年2月12日に国会の安泰と世界平和を祈る国祷会(こくとうえ)が行われる際、修行僧たちが冷水を浴びる荒行の場となるのだと。 六角堂。六角堂の中には日蓮の遺歯が納められていると。そして本堂の前の中央に四天王像に囲まれた「日蓮聖人像」が。上野公園の西郷隆盛像で有名な高村光雲作の、高さ4mの台の上に巨大な4mの「日蓮聖人像」。日蓮上人の後ろに巨大な「四天王像」。 持国天王(じこくてんおう)。持国天は四天王の一体、東方を護る守護神として造像される場合が多く、仏堂内部では本尊の向かって右手前に安置されるのが原則である。その姿には様々な表現があるが、日本では一般に革製の甲冑を身に着けた唐代の武将風の姿で表される。足下に邪鬼を踏みつけ、刀を持つ右手を振り上げて仏敵を威嚇し、左手を腰に当てる姿。 大毘沙門天王(びしゃもんてんおう)。日本では四天王の一尊として造像安置する場合は「多聞天」、独尊像として造像安置する場合は「毘沙門天」と呼ぶのが通例であると。一般に革製の甲冑を身に着けた唐代の武将風の姿で表される。また、邪鬼と呼ばれる鬼形の者の上に乗ることが多いと。甲冑に身を固めて右手は宝棒、左手は宝塔を捧げ持つ姿。大増長天王(だいぞうちょうてんおう)。増長天は、四天王の一体、南方を護る守護神として造像される場合が多い。仏堂では本尊の向かって左手前に安置するのが原則である。その姿には様々な表現があるが、日本では一般に革製の甲冑を身に着けた唐代の武将風の姿で表される。持物は戟(げき、ほこ)の場合が多いと。 大廣目天王(だいこうもくてんおう)。廣目天は四天王の一体、西方を護る守護神として造像されることが多い。仏堂内では本尊の向かって左後方に安置するのが原則である。その姿には様々な表現があるが、日本では一般に革製の甲冑を身に着けた唐代の武将風の姿で表される。持物は、古くは筆を持ち巻物に何かを書き留めている姿で表現された。しかしこれは主に天平時代のもので、平安時代以後は徐々に別の持物を持つようになった。 この像は右手に羂索(両端に金具を付けた捕縛縄)、左手に三鈷戟を持つ。 日蓮上人像の背後に立つ帝釈堂が本堂。帝釈天出現の霊場とされていると。 境内の南側の石段を上がると法華堂が。現在の建物は、室町時代の中期から末期ごろに建立されたと考えられていると。鎌倉時代特有の五間堂という建築様式で、この様式の建築物では関東最古といわれている。神奈川県の指定重要文化財。 法華堂の帝釈堂寄りにある八角形の建物は、本師堂。タイのワケサ寺から贈られた金色の釈尊像がまつられているのだと。 金色釈尊像 。鐘楼。穏やかなお顔の石仏が並ぶ。反対側から。墓地に向かう山の斜面に赤木圭一郎の像が。長勝寺に赤木圭一郎の墓があるとのこと。 赤木圭一郎は神奈川県立鎌倉高等学校卒。成城大学在学中に他界。日活のアクション俳優として小林旭、石原裕次郎に続く「第三の男」と呼ばれていたのだ。昭和36年(1961年)2月14日、日活撮影所内でゴーカートを運転中に鉄扉に激突、入院。2月21日、21歳の若さで他界したのであった。 ・・・つづく・・・
2018.02.06
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早くも2018年も既に1月が終わり2月に入りました。そして昨日2月4日は立春。更に一昨日は節分。その字のごとく季節を分ける日。本来は春夏秋冬それぞれに4回ありますが、春は1年の始まりということで特に大切にされ今に続いています。新春、迎春と「春」の字は新年の挨拶によく使われます。それは気持ち新たに立ち向かおうとする希望が込められているからでしょう。昨日の「立春」は心に春への期待が大きく膨らむ日なのです。日本気象協会発表の「予想される向こう1か月の天候(2018.02.03~)によると東日本太平洋側では、平年に比べ晴れの日が多いと。気温も平年よりやや低い日が続く見込みと。 そして実家の竹藪に春の訪れを告げる、フキノトウ(蕗の薹)を探しに行って来ました。まだ凍った?竹藪の土の中から僅かな春の息吹とともに顔をのぞかせるフキノトウ。まだ気温も低く、冬の寒さが厳しく感じられる気候の中、竹の枯葉の間から顔を出しているフキノトウの芽を見つけると、宝物を発見したかのような気持ちに。春の訪れを真っ先に感じて顔を出したふきのとうは、可愛らしい姿なのです。それだけでなく、食材としても楽しめるのも魅力的なのです。 つぼみが固く、葉が開いていないものを選ぶのがコツ。若芽に蓄えられたエネルギーが独特の香りや苦味となり、寒い冬の間に強ばっていた老いたる私の体を目覚めさせてくれそうなのでした。生命力の強さを感じながら、これを食べれば元気になりそうな気がします。竹の枯葉を避けながら20個ほど収穫したでしょうか? 2~2.5cm径の丸いもの、中の花芽が見えにくいものを見つけ収穫して来ました。「春の料理には苦味を盛れ」という言葉があるのです。春の山菜には苦いものが多く、その苦味を積極的に取り入れて、味のアクセントとして、料理の味を引き立てるというわけです。この苦味の代表的なものがフキノトウ、いろいろな食べ方がありますが、最も簡単で定番なのが天ぷら。この日は、妻が我が菜園のブロッコリーの脇芽を収穫し、共に天ぷらを準備してくれました。あく抜きの必要がなく、薄めの衣で、高温でカラッと揚げます。天つゆよりは醤油や山椒塩等で食べた方が苦味にマッチします。フキノトウを口にほおばると、まさしく、春を実感!寒さ厳しい毎日が続いていますが、確実に春が近づきつつあるのです。先日、鎌倉の寺を散策した折には、既に紅梅、白梅も花を開き始めていました。そしてその花にはメジロも遊びに来ていました。 我が菜園では、菜の花が既に花を付けている株も。しかしまだミツバチの訪花する姿は見えませんが気温が13℃を超えてくれば活動を開始するでしょう。次回は生のままちぎり、味噌と練り合わせた蕗味噌で、と考えているのです。苦みと香りが味噌になじみ、酒、ビールのつまみにピッタリの一品なのです。 そしてテレビでは、熱海の「あたみ桜 」が満開に近いと。あたみ桜は、開花期が1月と沖縄の寒緋桜と並んで日本列島で最も早咲きで、早咲きの桜として注目を集める河津桜より約1カ月早く咲くのです。また、一般的に桜の開花期間は1~2週間ですが、あたみ桜の開花期間は1カ月以上と長いのが特徴なのです。近々、このあたみ桜も訪ねたいと思っているのです。
2018.02.05
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『鎌倉散策 目次』👈リンク八雲神社右横の狭い通路が「祇園山ハイキングコース」入口。 「祇園山ハイキングコース」は東勝寺址の裏の「北条高時腹切りやぐら」までの1.5kmのコース。「こんな場所に入っていいのか?」という雰囲気であったが、案内表示を信じて銅鳥居のある諏訪神社の階段の横の狭い石段を登って行った。「祇園山ハイキングコース」案内図。狭い急な山道を5分ほど上っていくと祇園山見晴台に到着。見晴台の平場には首が取れてしまっている2体?の石仏と方位盤が置かれていた。 鎌倉市街と由比ヶ浜が一望できるここは、最高に眺めがいい場所。由比ヶ浜とその先に稲村ヶ崎。この時間には富士山の白き雄姿も青空に映えて。この日は「祇園山ハイキングコース」はTRYせずに再び八雲神社まで戻り、更に歩を進める。左手には民家風のお寺・別願寺が。別願寺は、鎌倉公方代々の菩提寺であり、鎌倉での時宗の中心として栄えた寺。元は真言宗の寺で能成寺と言ったが、1282年(弘安5年)、住職だった公忍が一遍に帰依し、名を覚阿と改め時宗に改宗した。同時に寺の名を別願寺としたと。室町幕府の出先機関で関八州と伊豆・甲斐を支配する鎌倉府の長である鎌倉公方第四代足利持氏(あしかがもちうじ、1398〜1439)の供養塔。 多くの石塔が。倶会一処(くえいっしょ)とは、浄土教の往生の利益の一つと。 阿弥陀仏の極楽浄土に往生したものは、浄土の仏・菩薩たちと一処で出会うことができる、という意味であると。別願寺の前にあったのが、上行寺。日蓮宗寺院で、山号は法久山、院号を大前院。創建は正和2年(1313年)で、開山は日範上人。本尊は三宝祖師。癌封じの寺として知られる。左甚五郎作の龍が山門の上部に。 瘡守稲荷(かさもりいなり)と身がわり鬼子母神が祀られ、癌封じ(がん封じ)はもとよりあらゆるの病を封じてくれるというご利益があることで知られていて、全国からお参りする方が多いのだと。堂入口には様々な御利益(ごりやく)が書かれていた。ちょっとゴチャゴチャしてて、整理整頓が必要??・・・と身勝手にも。十三重石塔。水子地蔵。本堂。色彩豊かな七福神。そして次に訪ねた寺は安養院(あんよういん)。春になると正面にピンクのツツジが咲き、多くの観光客が訪れる寺。正面山門。鎌倉市大町にある浄土宗の寺院。山号は祇園山。寺号は長楽寺。本尊は阿弥陀如来。千手観音(田代観音)を安置し、坂東三十三箇所・鎌倉三十三箇所第3番札所。この寺の歴史には、長楽寺・善導寺・田代寺という3つの前身寺院が関係していると。長楽寺は、1225年(嘉禄元年)北条政子が夫である源頼朝の菩提を弔うため長谷笹目ヶ谷(はせささめがやつ、鎌倉文学館付近)に願行を開山として創建した寺と伝えられると。長楽寺は1333年(元弘元年)兵火により焼失し、大町にあった善導寺に統合され安養院長楽寺と号した。なお、安養院は政子の法号から取られたものであると。日限地蔵(ひぎりじぞう)。日限地蔵は日本各地に存在する、「日を限って祈願すると願いが叶えられる」といわれる地蔵菩薩であると。 本堂。本堂には正面に本尊の阿弥陀如来像が祀られている。その後ろに高さ1.85mの千手観音が。この千手観音は比企ヶ谷にあった田代寺が火事で焼失したため、こちらに移されたものと。他にも、毘沙門天、北条政子像、法然上人像、善導大師像、願行上人像、尊観上人像、釈迦如来の誕生像、釈迦如来の涅槃図、「安養院如実妙観大禅定尼」と書かれた北条政子の位牌があると。鎌倉市指定天然記念物の槙(まき)の大木。樹齢は約700年。前身寺院の善導寺の開山の尊観上人がお手植えの槇と伝えられていると。地蔵尊。一番右は夫婦地蔵、中央は御助地蔵、左側が親子地蔵。本堂の裏に進む。石塔の説明板であるが、何故かいろいろな場所が消されて?いた。歴史検証により、変わって行く事実が目の前に。 ひときわ大きな宝篋印塔(ほうきょういんとう)。鎌倉時代の作として、国指定の重要文化財。ドッシリとした作りが印象的な宝篋印塔。宝篋印経にある陀羅尼を書いて納めた塔。日本ではふつう石塔婆の形式の名称とし、方形の石を、下から基壇・基礎・塔身・笠・相輪と積み上げ、笠の四隅に飾りの突起があるものをいうと。後には供養塔・墓碑塔として建てられたと。 徳治三年(1308年)の銘が刻まれており、名越の善導寺を開山した尊観上人のお墓と伝えられていると。現在、鎌倉に存在する宝篋印塔の中で、年号が推定できる最古のもの。北条政子の供養塔。これは北条政子のお墓だと伝えられている、これも宝篋印塔。「安養院殿如実妙観大禅定尼、嘉禄元年七月十三日」と刻まれているのだと。嘉禄元年は1225年にあたると。しかし実際には、宝篋印塔は室町時代のもので、文字はあとから彫られたものではないかと考えられているのだと。 311号線を渡り本興寺を訪ねる。朱色の山門のある本興寺は鎌倉市大町にある日蓮宗寺院。山号は法華山。旧本山は比企谷妙本寺。この日の散策で最初に訪ねた大巧寺と同じ「南無妙法蓮華経 日蓮大菩薩」と刻まれた石碑。本堂。見事な「百日紅」(右)と「しだれ桜」(左)、イチョウの古木が迎えてくれた。百日紅の花の名所の寺であるようだ。境内の赤い社と隆々とした古木。本興寺は、「辻の本興寺」とも呼ばれ、門前には日蓮の「日蓮聖人辻説法之舊地」碑が建てられていた。「此辺ハ往昔ニ於ケル屋敷町ト商家町トノ境ヲナス地点ニ位シ 幕府ニ近キコトトテ 殷賑(隆盛)ヲ極メシ所ナリ 建長五年(1253)五月 日蓮聖人房州ヨリ鎌倉ニ来リ松葉ガ谷(やつ)ニ草庵ヲ結ビ 日ニ日ニ此辺リノ路傍ニ立チ 弘通(ぐつう:布教)ノ為メ民衆ニ対シ獅子吼(ししく:強声)ヲ続ケシ址ナリトテ 世ニ辻説法ノ旧蹟ト伝ヘラル」【この辺りは、屋敷町と商家町との間にあって、幕府に近いことから大変にぎわっていた場所です。1253年5月、日蓮聖人(にちれんしょうにん)が房州(千葉県南部)から鎌倉に来て松葉が谷(まつばがやつ)に住み、民衆への布教のため、 毎日のようにこの辺りの道端に立って、大声を張り上げていた場所であるといわれています。一般に辻説法の跡といわれています。】本興寺近く、JR横須賀線三浦道踏切の手前右にある「辻薬師堂」。この薬師堂は、建久元年(1190年)に、源頼朝が二階堂(現在の鎌倉宮あたり)に建立した医王山東光寺(一説に、二階堂行光が承元3年・1209年に永福寺の傍らに建立)の境内にあったものといわれる。その後宝永元年(1704年)、薬師堂は、大町名越御嶽(名越切通しの近く)にあった古義真言宗長善寺に移された。長善寺は、奈良時代の神亀年間に由比の長者染谷太郎時忠の建立といわれる古刹。その後、大町辻に移り、延宝2年(1674年)5月には、水戸光圀も訪れていると。江戸末期に焼失したが、薬師堂だけは残ったという。明治期の横須賀線敷設工事に伴い、現在地に移設されたのだと。「辻薬師堂」内部。小さな堂の中に安置されているのは薬師三尊像、十二神将像であると。踏切傍に立つ石碑には「南無妙法蓮華経 轢死精霊」踏切事故で亡くなった方の慰霊碑であろう。踏切手前の横須賀線沿いの小路を逗子方面に向かって歩き、再び311号線を渡り更に我がIphonesのナビに従い住宅街を進む。釈迦堂切通しに向かうが、やはり「通行止め」の表示板が。更に山の下の住宅街を進むと「釈迦堂切通し」が目の前に現れたが、その手間にバリケードが。「この先 落石のため通行止め」 と。2010年の大雨で崖崩れをおこして以来、通行止めになったままの釈迦堂切通し。しかしバリケードの横には住宅街が迫っていたのであった。 「釈迦堂切通し」は、鎌倉時代の面影を良く伝えてくれる切通しであると。切通しと言うより洞門の如し。谷戸の名は鎌倉幕府三代執権・北条泰時が父・二代執権北条義時の霊を慰め様と釈迦堂を建立した事による。この切通しは大町方面に通じているのだ。この切通しは鎌倉の外の地域とを結ぶ切通しではないため鎌倉七切通し(七口)には数えられてはいないと。釈迦堂は洞門の北側入り口の西方にあったといわれ、字名が釈迦堂として残っている。一帯は北条時政の屋敷跡であったと。上部に3基?のやぐら跡が?。巨大な崖をくり抜いて、トンネルの状態になった切通しの様は圧巻。この切通しは、800年ほど前に掘られたトンネル。このまま更なる崩壊が進まぬ事を祈るが、保存工事も早急に必要ではと。そして一端途中まで往路を戻り、奥の住宅街の坂道を再び上っていくと開けた場所(平場)が。大町釈迦堂口遺跡正面は発掘中か入場禁止となっていた。大町釈迦堂口遺跡は、釈迦堂切通の東側、衣張山西側中腹にある遺跡で、2008年(平成20年)の発掘調査まで、鎌倉幕府初代執権の北条時政邸とされて来たのだと。しかし、最も古い遺構でも13世紀後半頃のもの推定され、時政が没した時期からすると「北条時政邸ではない」という判断が下されたのだと。また、「建物跡」や「やぐら」などが新たに発見され、寺院跡の可能性が高いとのこと。そのため、史跡名も「北条時政邸跡」から「大町釈迦堂口遺跡」と変更されているのだと。北条泰時が義時を弔うために建てた「釈迦堂」かもしれないという説も・・・浮上と。綺麗に積まれた石垣は発掘されたものか? ・・・つづく・・・
2018.02.04
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『鎌倉散策 目次』👈リンクこの日(1/29)は寒さが和らいだので冬の鎌倉散策に出かけて来ました。7:45に自宅を出て、小田急線、東海道線、横須賀線を乗り継ぎ、8:30過ぎにJR鎌倉駅に到着。若宮大路(わかみやおおじ)の鎌倉駅入口の交差点を渡る。最初に訪ねたのが大巧寺(だいぎょうじ)。大巧寺は別名「おんめさま」とも呼ばれ、安産祈願の寺として知られている。「おんめさま」とは「お産女様」(おうめさま)が訛った言葉。山門を潜り境内へ。 大巧寺はもともと大行寺と称する真言宗の寺院で、当初は十二所の梶原景時の屋敷内にあった。創建年や開山などは不明だが、源頼朝の祈願所とされた事から、鎌倉時代初期頃までには創建されていたと推測される。この寺で頼朝が軍議を行った結果、大勝利を収めたため、頼朝の命により「大巧寺」という名称に改名した。文永11年(1274年)、日澄により日蓮宗に改宗する。これに基づき現在では開山を日澄としている。2年(1320年)現在地へ移転したとのこと。本堂。毎月、戌の日 及び 大安の休日には、安産腹帯守授与所は混雑すると。境内を縦断し裏側入口から出る。裏側にも「南無妙法蓮華経 南無日蓮大菩薩 大巧寺」と刻まれた石塔が。そして数分歩くと、夷堂橋に到着。正面に本覚寺山門と日蓮ゆかりの恵比寿堂が。 夷堂橋(えびすどうばし)の石碑。『鎌倉十橋の一にして 此辺は 往昔夷堂ありしといふ 此川 は上流にて胡桃(くるみ)川と いひ 浄明寺門前に至り滑 (なめり)川の名あり 文覚(も んがく)屋敷と伝へらるる辺 は 坐禅(ざぜん)川と唱へ 此 辺は夷堂川と呼び 延命寺の 傍よりスミウリ川と名つけ 魔(えんま)堂址の辺にては 閻魔堂川といふ』「この橋は鎌倉十橋のひとつです。ここには昔夷堂があった と言います。この川は現在は滑(なめり)川といいますが、 昔は場所によって多くの呼び 名がありました。上流では胡 桃(くるみ)川といい、浄明寺 門前では滑川といい、文覚 (もんがく)屋敷跡の辺りでは坐禅(ざぜん)川といい、この辺りでは夷堂川と呼び、延命 寺の辺りはスミウリ川といい、閻魔(えんま)堂跡の辺は閻魔堂川といいました。」と。夷堂橋から滑川を見る。妙本寺(みょうほんじ)山門に向かって歩く。妙本寺は、神奈川県鎌倉市大町にある、日蓮宗の本山(霊跡寺院)。山号は長興山。妙本寺のある谷戸は、現在は比企谷(ひきがやつ)と呼ばれ、鎌倉時代には比企能員一族の屋敷があったと。ここ妙本寺は昨年の晩秋に紅葉の穴場👈リンク として訪ねた寺であるため今回はパスして次の寺へ。 比企能員邸址(ひきよしかず・ていあと) 石碑。『能員は頼朝の乳母(うば)比企禅尼の養子なるが 禅尼と共に此の地に住せり 此の地比企が谷(やつ)の名あるも之に基づく 能員の女(むすめ) 頼家の寵(ちょう)を受け 若狭局(わかさのつぼね)と称し 子一幡(いちまん)を生む 建仁三年(1203)頼 家疾(病)むや 母政子関西の地頭(じとう:庄官)職を分ちて 頼家の弟千幡(せんまん)に授けんとす 能員之を憤り蜜(ひそか) に北条氏を除かんと謀(はか)る 謀泄(漏)れて 郤(反)つて 北条氏の為一族此の地に於て滅さる』 「比企能員(よしかず)は、源頼朝の乳母(うば)であった比企禅尼(ひきのぜんに)の養子であり、禅尼と共にこの場所に住んでいました。この土地の名前が、比企ヶ谷(ひきがやつ)というのもこのためです。 能員の娘は頼家の妻になり、 若狭局(わかさのつぼね)とよばれて、一幡(いちまん)という子供を生みました。1203年頼家が病で倒れると、母親でもあり、頼朝の妻でもある政子が頼家の権力を2分して、頼家の弟千幡(せんまん)に渡そうとしました。このことに能員が怒り、ひそかに北条氏を滅ぼそうと計画しましたが、逆に北条方に覚られ、比企一族はこの地で滅ぼされてしまいました。」 と。「体曲がれば 影ななめなり」と。日蓮大聖人は『仏法は体のごとし世間はかげのごとし体曲がれば影ななめなり』と。体である信心が確立されてこそ、その影である仕事をはじめ、世間のことも順調に進んでいく。また、たとえ仕事で困難に直面することがあったとしても、見事に乗り越えていく力がでると。「体」⇒「自己の内面」と読み替える自分がいたのであった。そして妙本寺山門の右側に、「ぼたもち寺」は右に行くとの案内が。そして2分もかからずに「ぼたもち寺」に到着。「幕府に捕らわれた日蓮が鎌倉の町を引き回され、龍ノ口の刑場(藤沢市・龍口寺)へ送られる途中、ここに住む老婆がぼたもちを差し上げたことが、ぼたもち寺の由来です。日蓮は処刑を奇跡によってまぬがれますが、この法難のあった9月12日には老婆がつくったものと同じ胡麻をまぶしたぼたもちが振る舞われます。厄除けの「首つなぎぼたもち」といわれ、終日にぎわいます。こじんまりとした境内にはあふれるように草花が植えられています。」 ● 宗 派:日蓮宗 ● 山号寺号:慧雲山常栄寺 (えうんざん) ● 建 立:慶長11年 (1606) ● 開 山:日詔 (にっしょう) ● 開 基:日祐法尼 (にちゆうほうに)写真は、ぼたもち供養、「日蓮聖人龍の口法難ご絵伝」より」鎌倉時代、この地に住んでいた「桟敷の尼」が龍ノ口刑場(藤沢市片瀬)へと護送されていく日蓮に「胡麻入りのぼた餅」を捧げたのだ。刑がまさに執行される時、江ノ島方面の空に光る物体が出現したために、周囲がが恐れをなして刑は中止になった。その後、老婆が渡したぼたもちは「首つなぎぼたもち」として語られて、この伝説から「ぼたもち寺」と呼ばれていると。常永寺の寺号は「桟敷の尼」の法号「妙常日栄」にちなんだもの。ぼたもち寺 山門。「たつのくち くびれおんざを ふしおがむ 婆のまごころ ぼたもち 常栄寺」と。「ぼたもち寺」と。立派な門扉には、家紋の「橘」(日蓮宗の寺紋)と「笹竜胆」(源氏の家紋)が飾られていた。「橘」(日蓮宗の寺紋) 「笹竜胆(ささりんどう)」(源氏の家紋)こぢんまりとした境内の先には本堂が。更に近くによって。 本堂の扁額「現無量神力(無量の神力を現じたもう)」。法華経の一節であると。境内社。 境内社の稲荷神社。本堂向かって左側境内庭に建っているのが、開基である「日祐法尼」の墓。桟敷の尼夫妻の墓。「これやこの 法難の祖師に はぎのもち ささげしあまが すみにしところ 塚本柳斉詠 梅香書」と刻まれている石碑。ぼたもちと日蓮の逸話が本堂前の壁に掲載されていた。 裸馬に乗せられて引き回されている日蓮に、ゴマ餅を捧げる桟敷尼の絵。 田中優子女史画 『ぼたもちでら常栄寺縁起』と。「首つぎの おはぎを祖師に 供養せし 信と勇とを 仰がんいざや」 「これやこの 法難の祖師に はぎのもち ささげし尼が すみにしところ」 境内の紅梅が咲き出していた。そして次に八雲神社を訪ねる。石の鳥居には立派な注連縄が。昔は鎌倉祇園社や祇園天王社などと称したが、明治維新に際して現社名に改称したと。厄除け開運の神社としても知られており、地元では「八雲さん」や「お天王さん」などと呼ばれ親しまれている神社と。左手に寛文10(1670庚戌)年の銘のある庚申塔が。昭和40年に鎌倉市有形民俗文化財に指定されたと。永保年間(1081年~1084年)の創建で牛頭天王を祀る祇園信仰の神社として鎌倉幕府の誕生以前から続く長い歴史を持っていると。祭神は須佐之男命(すさのおのみこと)、稲田比売命(いなだひめのみこと)、八王子命(はちほうじのみこと)。新羅三郎「手玉石」。近江の国で元服したことから、新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)の名で呼ばれていると。平安時代後期の武将で、河内源氏の二代目棟梁源頼義の3男なので、源義光とも呼ばれると。八幡太郎義家や加茂二郎義綱の弟にあたると。新羅三郎義光の子孫は、武田氏、佐竹氏、小笠原氏、南部氏と発展。応永年間(1394年~1427年)、新羅三郎義光の子孫、佐竹氏の霊祠を合祀したと。右から諏訪神社:祭神は健御名方神稲荷神社:祭神は宇迦之御魂神於岩稲荷社:祭神は田宮於岩命。宝物庫内の神輿。社宝として江戸時代のもとのいわれている、神輿が4基展示されていた。他にも、剣、銅鏡、猿田彦神の面、瓦、陶器、薬研など、多数の宝物が陳列中。ガラス張りになっているので、ガラス越しに自由に見学することができた。 天水盤。武州鋳物師の鈴木文吾が惣型法によって鋳造された天水盤。鈴木文吾は大正10年に生まれ、「伝説の鋳物師」、「現代の名工」などと呼ばれる鋳物師。2007年には川口市文化賞を受賞。父の死を乗り越えて造り上げた東京国立競技場の聖火台の物語は、半世紀を過ぎた現在も多くの人に語り継がれ、「伝説の鋳物師」と称される原点となったと。社務所。未だ巫女の姿はなし。 いずれの神社、寺院も以前訪ねた折御朱印をいただいているので今回は無し。 ・・・つづく・・・
2018.02.03
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一昨日(1/31)、佐賀県伊万里市にお住まいのMさん(長年お世話になったお客様そして現在では大切な親友)が猪(イノシシ)の肉を送って下さいました。「獅子に牡丹」という成句から、獅子を猪に置き換えて牡丹肉(ぼたんにく)とも呼ばれるのです。また、獣肉食を避けた名残で山鯨(やまくじら)という別称も。ご自宅の近くの田畑の被害防止用にトラップを仕掛け、その罠に掛かったイノシシの肉と。 ご自分で血抜きを行い、様々な前処理を行って下さった肉で、臭み等は一切なし。ここ数年、毎年送って下さる珍品。 肉色は赤く、子猪ではピンク色になり、肉質は豚肉に近いのでは。冷凍便で送って下さいました。 様々な部位?をそれぞれパックに入れて下さっていました。そして早速、半解凍したものを妻がスライス。途中から私にも動員がかかり手助け。この日は、すき焼き用に薄切りにTRY。そして妻が春菊、シラタキ、椎茸、白ネギ、エノキタケ等を添えて。赤身の肉、解凍後の肉の色も綺麗。疲労回復に効果があるビタミンB群を多く含み、江戸時代から「山鯨」とも呼ばれ、冬季の栄養補給や薬食として食されて来たのです。また、血液をサラサラにして若さを保つ効果もあると。頂いた肉は食べきれませんので、旅友のSさん、そして義兄宅にお裾分け。旅友のSさんからは物々交換?で、伊勢原で有名な卵「寿雀卵(じゅじゃくらん)」を頂きました。ニワトリの餌を魚介類 海藻 貝化石を用い独自改良を行い、現在までのエサに至るまで30年の時間がかかったと。日本では殻の色が白い白玉が主流ですが、ヨーロッパなどでは殻の色が茶色い赤玉がほとんどである事は旅行時に訪ねた市場等で知ったのです。 割ってみると、驚くのは黄身の色。「黄身」ではなく「オレンジ身」といった感じでしょうか。黄身を箸でつまんで、持ち上げても割れないのです。掻き混ぜても黄身と白身がなかなか混じらないのです。そしてすき焼きの開始。 市販のすき焼き用わりしたを入れて。そして食べ頃に。頂いた「寿雀卵」にタップリ漬けて。あの鮮やかな朱色が、煮込むと食べ応えあるすき焼き肉に様変わり。イノシシ肉の濃い目の味でビールそしてご飯が進んだのです。そして我が菜園からのブロッコリー、カリフラワーも。山の幸&畑の幸の共演。ほうれん草もお浸しで。芽キャベツも。野菜の値段を気にせずにいろいろと。Mさん、今年もご馳走様でした。そして昨夜はぼたん鍋と牡蠣鍋のコラボで。日本ミツバチの養蜂についても、今後もご指導お願いいたします。
2018.02.02
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満月が地球の影に覆われて赤黒く輝く皆既月食を、昨日31日夜、我が家から楽しむ事が出来ました。日本で皆既月食が見られるのはおよそ3年ぶりとのこと。我が部屋の前から皆既月食の様子を楽しみながらデジカメでの撮影にTRYしました。19:15の月、空には雲が無く見事な満月の姿が確認出来、皆既月食を楽しめそうでした。皆既月食は、太陽と地球、それに月が一直線に並び、満月がすべて地球の影に覆われる現象。幼い頃は「かいきにっしょく」は「怪奇日食」だと思っていた私。もちろん「怪奇月食」も同じ。 「怪奇」ではなく「皆既」であると友人?から 。皆既の「既」 は「尽きる」の意味があると。即ち全部(皆)尽きるから「皆既」と。幼い子供には難しすぎる表現なのであった。 英語では皆既月食は「Total lunar eclipse」 、もっと難しい?いや「皆既」 は「Total」と易しい表現。国立天文台によると、31日のこの日は、全国で同じ時刻の午後8時48分ごろから月が欠け始め、午後9時51分ごろ、月全体が地球の影に入り皆既月食の状態になると。皆既月食は午後11時8分ごろまでおよそ1時間17分にわたって続き、暗くなった月には地球の大気の層で屈折したわずかな赤い光が当たって、赤銅色と呼ばれる独特の赤黒い色に輝いて見えると。 部分食の始まる20:48より前の20:37の月。気持ち左斜め下が暗くなり始めて来た。 そして部分食が20:48過ぎに始まる。左斜め下から欠け始めた月。20:55。20:56。影にかかっていない月面のクレーターが確認出来た。中央上に「危機の海」。中央に「晴れの海」、「静かの海」のクレーター。晴れの海に影が射しかかる。21:14。21:16。21:21。 21:34。21:42。21:46。21:48。21:50。そして皆既月食の開始。 そして赤銅色の月に変身。ズームで・・・と言いたいがいろいろtryしたが我がデジカメでは光量不足で・・・・・。 下の写真はニュース画面の写真である。 今回の皆既月食は「スーパー・ブルー・ブラッドムーン」と呼ばれると。『月が地球に接近した際に見える月は「スーパームーン」。1カ月に2回、満月になる現象は「ブルームーン」。さらに皆既月食で、月の表面が赤っぽく見えることから、この現象が「ブラッドムーン」と呼ばれる。 NASAによると、今回は3つが同時に起きるので「スーパー・ブルー・ブラッドムーン」になるということだ。スーパームーンは通常の月と比べると14%大きく、30%明るく見える。ナショナルジオグラフィックによると、地球上でこの3つが重なるのを観測できるのは35年ぶり。アメリカでは、実に150年ぶり、日本では約36年ぶりだという。』皆既月食中も太陽光の一部が地球の大気を通って月面を照らすため、月は赤黒い「赤銅(しゃくどう)色」に見えるのだと。月が赤く見えるのは、地球の縁をかすめて屈折した太陽光のうち、波長の長い赤い光だけが大気で僅かに屈折し月面に届きこれが反射して来るためだと。そして赤銅色の月は1時間以上続いたのであった。 そして23:08過ぎに皆既月食が終了し左下が明るくなり始める。 23:12。23:31過ぎ。薄い雲が出て来た 23:58。23:59。そして0:12に部分月食の終了。そして1:15、既に月食は完全に終了。雲の量が次第に増えて来ていたがまるで月面のクレーターが写っているが如し。 今回の皆既月食は、およそ1時間17分続いたが、前回日本で観測できた3年前には、わずか12分であったと。皆既月食の継続時間は毎回変わるのだと。継続時間が長くなるには、★月が地球の影の中心近くを通ること★地球から離れているときに月食が起こることが必要で、平成12年7月16日(我の50歳誕生日)には継続時間が1時間47分という史上最長クラスの皆既月食が観測されたとのことであるが、私には全く記憶無し。 では、皆既月食はどこまで長くなりうるのか?国立天文台の研究者によると、計算上、皆既月食の継続時間は1時間47分17秒が最長だと。そして、次に1時間47分以上の皆既月食が見られるのは、なんと、西暦3787年。今から1769年後だと。 この時の月の姿は如何に。月そして火星に人類は居住している?そして地球の姿は?そして我が子孫は?そして次回日本で見ることができる皆既月食は2018年7月28日に起こると。 おおよそ東北地方以西で皆既食を見ることができ、月は皆既食のまま沈むと。それ以外の地域では、月は皆既月食になる前に沈む。皆既月食のうち、今回の様に次に日本全国で部分月食の始めから終わりまでを見ることができるものは、2022年(○○4年)11月8日に起こるのだと。 今回もいろいろと勉強しました。私の脳に知恵いや知識がまた一つ「つき」ました 。『月々に月見る月は多けれど月見る月はこの月の月』 ・・・・詠み人知らず・小倉百人一首
2018.02.01
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