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仁王門に向かって帰路を歩く。手水鉢には紅葉の落葉が。本堂右の裏手に鷺草園が。池には菖蒲や水草が植栽されているようであった。春にはサギソウ(鷺草)の花が。仁王門を背景に本堂側の紅葉。仁王門の彫刻は龍。開山堂の前にある手水鉢。鷺草がモチーフに。浄真寺は鷺草の寺と呼ばれ、シーズンには鷺草の鉢が本堂脇に並びのだと。開山堂。開山堂には浄真寺開山珂珂碩上人のお像を安置。このご尊像は上人自彫のもので、お姿は合掌する上人御年42歳の時のものであると。この像も文化財に指定されており、万治元年(1657年)上人が、如来のお告げ三度により、水鏡に御姿をうつし彫刻されたものであって、古来より安産・厄除・開運としてひろく信仰をあつめていると。屋根上の黄金の宝珠。宝珠とは方形屋根の頂点部分や塔の頂部等に置く玉のこと。放射状の物は何を表すのであろうか?開山堂のそばに立つ水子観音菩薩像。浄大供養地蔵。開山堂の脇には三十三観音。中央にあるのが観音堂、周りを三十三の石の観音像が取り囲んでいた。奥沢神社(世田谷区奥沢)の前々代の本殿で、天保年間(1831~45)から江戸時代末頃に建立され、明治時代に浄真寺に移築されたのだと。三十三観音堂前の低い石垣上に整然と鎮座する三十三体の舟後光型観音菩薩石仏。再び水子観音菩薩像。開山堂前の紅葉。開山堂周辺の紅葉を巡る。「九品佛浄真寺東門」。東横線・自由が丘駅から来るとこちらの門に辿り着くようだ。東門の扁額には『釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心』と。そして総門へと。「愛心講講元 鳥海はま先生 頌徳碑(しょうとくひ)」焔魔堂前から。総門前の猫。そして参道を歩き九品仏駅へ。ホームで電車を待っていると、旅友から『傘は?』と。浄真寺本堂に上がる際に、階段下に傘を置きそのまま忘れて来たのであった。旅友から待っているからとの言葉を頂き、急ぎ足で浄真寺に戻ると傘は置いた場所に。これぞ阿弥陀如来様の功徳のお陰!!。そして大井町線に乗り旗の台駅経由で池上線の大崎広小路駅で下車したが宴会の時間にはまだまだ早い為、渋谷駅のバスに乗り中目黒駅前へ。目的は目黒川のイルミネーション。黄金のイルミネーションが行われていたが、目黒川の一部の場所だけ。本格的にはライトアップ期間 2018年12月15日(金)~12月24日(日)ライトアップ時間 16:00~21:00とのこと。ゴールドのイルミネーション。そして再びバスに乗り、大埼郵便局前で下車しこの日の宴会場へ。参加された元同僚が石巻の生ガキを宴会場に事前に送ってくれていて、今年初めての生ガキを楽しんだのであった。お皿には、私が等々力渓谷で拾って店主のママにプレゼントしたモミジ葉が添えられていたのでした。そしてこの日は14時前ころから我がソフトバンクのIphoneが「圏外」と表示され全く繋がらなくなってしまったのであった。最初は理由がわからず、何故世田谷区のこの場所が『圏外』と。しかし移動しても変化がない為、これはシステム障害間違いなしと感じたのであった。この日は、大崎駅前にある銀行を16時に訪ねる予定であったが、全く電話が繋がらずしかも大崎広小路駅周辺で公衆電話を探すも、見つからず、公衆電話のない現実を目の当たりにし驚愕したのであった。向こうからもかかって来ず、今までに経験したことのない、無言でのドタキャンとなってしまったのであった。 【テレビのニュース画面より】 ・・・END・・・-----------------------------------------------------------------------------------------------そして今年、2018年(平成30年)も残すこと11時間足らずになってしまいました。今年も、旅友のSさんのお陰で、海外旅行そして車での国内観光、徒歩での旧東海道巡り等々、元気に忙しく動き回ったアクティブシニアの1年でした。そして昨日は正月のお飾りの準備を。我が家の門には。略式門松用の一組の松〈雄松と雌松〉を購入してきました。そして玄関。小さめのものを。神棚も清掃し、新たな牛蒡注連も取り付けました。「注連縄」は、神聖な場所と他を区別する縄で、新年に神棚や家の門口に張り、紙垂(しで)・御幣(ごへい)を垂らすのは、その家が歳神(としがみ)さまをお祀りする神聖な場所であることを示すものなのです。鏡餅とダイダイセットを神棚と床の間に。床の間。今年もスーパーで鏡餅のお飾りセット付きを購入して来ました。中には一体型の樹脂に包まれた鏡餅、三方・御幣付き四方紅・扇・鶴水引飾り・ミカンなどがセットで入っていて至れり尽くせり。鏡型のパッケージの中に個包装された小餅が入っているはず。箱に書いてあるの組み立てマニュアルを参考に組み立てました。そしてウラジロ(裏白)とユズリハ(譲り葉)との上にダイダイ(橙)を。ウラジロは常緑葉であることから長寿を、ユズリハは新しい葉が出てきて初めて古い葉が落ちることから、次世代に家系を譲って絶やさないとの願いが込められています。ダイダイは、家が「代々」栄えるとの語呂から縁起ものとして使われるようになったのです。そして2018年の『今年の漢字』は「災」に決定。「災」の選抜理由は、大阪府北部地震、西日本豪雨、記録的猛暑、台風第21号、北海道胆振東部地震といった天災、スポーツ界のパワハラ問題などの人災が相次いだことが挙げられたことから。2018年の日本はどんな年であっただろうか。1月には関東で大雪が降り、2月には平昌五輪が開幕。羽生選手の連覇とスピートスケートのメダルラッシュに沸いた。2020年の東京五輪のマスコットキャラクターが小学生の投票により決定したのも2月だった。3月には車いすの天才宇宙物理学者・ホーキング博士、4月にはアニメーション監督の高畑勲さん、5月には歌手の西城秀樹さんなど著名人の訃報が続いた。6月には大阪で震度6弱の地震、7月には西日本豪雨が発生し多くの犠牲者が出る結果となった。8月には医学部の不正入試やスポーツ界のパワハラなど教育に関わる問題が明るみに出た。平成を代表する漫画家のさくらももこさんの訃報も8月だった。9月には平成を象徴する歌手の安室奈美恵さんが引退、女優の樹木希林さんの訃報もあり、時代の移り変わりを感じるような出来事が続いた。10月はノーベル医学・生理学賞を京大特別教授の本庶佑氏が受賞し、12月10日(日本時間11日)の受賞式に羽織はかま姿で出席したのであった。そして11月19日には、1999年に筆頭株主の仏ルノーから派遣され経営難の日産を大胆なコストカットでV字回復させたカルロス・ゴーン会長が、報酬を50億円過少申告したとして金融商品取引法違反の疑いで東京地検特捜部に逮捕された。そして21日には自身や第三者の利益を図って日産に損害を与えていたとして、元会長を会社法違反(特別背任)容疑で再逮捕したのであった。12月13日には米大リーグ、エンゼルスの大谷翔平選手が投打の「二刀流」で活躍したことにより新人王に選出された。日本選手では1995年の野茂英雄投手(ドジャース)、00年の佐々木主浩投手(マリナーズ)、01年のイチロー外野手(同)に続く4人目の受賞であった。12月23日には平成最後の天皇誕生日にあたり、今上天皇が一般参賀で8万人から祝福を受けた。それに先立ち行なわれた最後の記者会見で天皇は、平成が戦禍なく終わることに安堵し、象徴として天皇を受け入れ支えてきた国民に感謝すると共に、60年にわたる皇后の献身的な支えを時おり涙声になりながら労ったのであった。そして政府は平成31年4月30日に、天皇陛下が退位されることを、閣議決定した。また、翌日5月1日に、皇太子さまが即位され、新元号に改元されることも、閣議決定したのだ。よって今日・大晦日が「平成最後の大晦日」になるのです。そしてネット情報によると元号を今も使っているのは2つの国(地域)で、それは台湾と北朝鮮です。(台湾も北朝鮮も日本と正式な国交がないので地域と表記しています)台湾は「民國」という元号を使用しています。これは新聞や雑誌、テレビなどでも見かけることができます。今年は、「民國106年」になります。今度台湾に旅行予定なので、ちょっと確認してみよう。また北朝鮮は「主体(チュチェ)」という元号を使っています。これはある日突然決まったようで、その日からさかのぼって過去の年も「主体」という元号で表記しているようです。今年は「主体106年」ということです。日本の元号で、これまで使われてきた漢字の種類はわずか72種類だと。1372年間の247の元号で最も使われているのは「永」で29回以下、27回の「天」と「元」、21回の「治」、20回の「応」と続くのだと。また「平成」「昭和」「大正」など、元号のほとんどは漢字2つの組み合わせで作られています。日本史には「大化」「応仁」「元禄」といった元号も登場しますが、やはりこれらも2文字。しかし、歴史をたどってみると、そうではなかった時期もあるのだと。奈良時代、729年から20年間続いた「天平」が終わると天平感宝(749年4月~同年7月)天平勝宝(749年7月~757年)天平宝字(757年~765年)天平神護(765年~767年)神護景雲(767年~770年)と、約20年のあいだに漢字4文字の元号が立て続けに登場したと。しかし元号選定のやり方について具体的に定めた「昭和54年10月23日閣議報告」(1979年)というものがあり、この中には「(元号は)漢字2字であること」と記されているのだと。よって3文字はないのだと。さて、4月1日に発表される新しい元号は??そしてこのブログも今年2018年も皆勤賞を達成できたのです。 アクセス数も240万回超えを示しています。毎日平均2500~3000回のアクセスを頂いているのです。 あくまでも備忘録・国内外の旅行等で訪れた場所の復習・学習の場として『徒然なるままに、日暮らしパソコンに向かいて、心に映りゆく由無し事を そこはかとなく書きつくれば、 怪しうこそ物狂おしけれ』の精神で自分の足跡をと。来年も、今年の学習や体験を活かしながら、更に活き活きと日々を過ごし、好奇心をいつまでも忘れずに、何か新しい事にも挑戦したいと大胆にも?思っているのです。毎年、同じ事を書いている記憶がありますが、慣れた日々の繰り返しではなく、新しい発想でいろんな『志』を『織』りなし更なる自分自身を『創』り『真』に、実り多き『樹』となるべく、老体にむち打ち更なる自分磨きの1年にもしたいと欲張って考えているのです。(孫たちの名前の漢字を使ってみました。)この1年間 いろいろとお世話になりありがとうございました。来年もどうぞよろしくお願いいたします。皆様、良き新年をお迎え下さい。
2018.12.31
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九品仏浄真寺 中央の三仏堂(阿弥陀堂)本堂の対面に3つの阿弥陀堂があり、それぞれに3体合計9体の阿弥陀如来像が安置されています。元禄11〜12年に建立された三仏堂は、安政・大正の地震で被害を受け、その都度修復をしたが、昭和58年に大修復工事が行われ、創建当時の姿を取り戻した。3つの御堂の9体はそれぞれ、上品上生(じょうぼんじょうしょう)、上品中生、上品下生、中品上生、中品中生、中品下生、下品上生、下品中生、下品下生を表し、これをあわせて九品(あるいは九品往生)といい、この九品の仏から通称「九品仏」と呼ばれている。このような九体阿弥陀は、他に京都の浄瑠璃寺にしかないそうです。まずは左から下品阿弥陀堂(げぼんあみだどう)。下品上生、下品中生、下品下生と書かれたそれぞれの扁額が。下品仏(げぼんぶつ)三体。下品仏は右手が胸の前、左手が膝の上の来迎印。来迎印は右手を上げて左手を下げてともに手の平を前に向け、それぞれの手の親指と人差し指(または中指、薬指)で輪を作る。信者の臨終に際して、阿弥陀如来が西方極楽浄土から迎えに来る時の印相であると。右手の人差し指を曲げた中央の「下品上生」仏。阿弥陀如来の九品来迎印。阿弥陀如来が西方極楽浄土から臨終の人を迎えに来るのに、人の段階によって印が異なるとされ、上品上生(じょうぼんじょうしょう)から下品下生(げぼんげしょう)までの九つの印がある。下記はネットから。 人差指 中指 薬指向かって左側には薬指を曲げた「下品下生」仏。向かって右側には中指を曲げた「下品中生」仏。下品阿弥陀堂から本堂方面を見る。本堂への道。本堂と三仏堂(阿弥陀堂)の間の庭の紅葉。真ん中の堂が上品阿弥陀堂。上品上生仏。両手の手のひらを上にして腹前(膝上)で上下に重ね合わせた形である。これは仏が思惟(瞑想)に入っていることを指す印相の定印。上品下生仏。阿弥陀如来の定印は密教では法界定印とされるが、浄土教などでの場合は同じように両手を重ねて親指と人差し指(または中指、薬指)で輪を作るものもある。阿弥陀如来の印相には沢山のバリエーションがあると。上品中生仏。阿育王塔(あしょかおうとう)。阿育王は、紀元前三世紀のインドの王で、仏教を国教とし、慈悲の教により国民を臨(のぞ)み、その恩徳国内に満ちたという。日本様式の塔。天保年間(1831~45)のもの右側の堂が中品阿弥陀堂。中品上生仏。中品は両手が胸の前にあります。(説法印)説法印は両手を胸の高さまで上げ、親指と人差し指(または中指、薬指)で輪を作る。日本での作例としては、京都・広隆寺講堂本尊像、法華寺像などがあるが、比較的珍しい印相。当麻曼荼羅の中尊像もこの印相であると。中品下生仏は修復工事中でいらっしゃらなかった。3ヶ年の修繕の旅に出ているのだ。入口の総門には2014年~2034年の20年間で「平成九品佛大修繕事業」大勧進が行われている旨の巨大な立札が置かれていたのであった。中品中生仏は友の中品下生仏がいないため、チョット淋しそう。左に「開山廟」の説明板と中央に「一者女人泰産供養塔」。『開山歴代上人御廟』。『開山歴代上人御廟』入口付近の見事な紅葉。本堂に向かって歩く。河口慧海師碑。慧海の13回忌に際して門弟・親戚等が建立したと。「和」と刻まれた球状の石碑。平和の塔(へいわのとう)であると。台座には「超世無倫(ちょうせむりん=世に並ぶ者がない)」と刻まれていた。昭和四十年(1965)建立と。紅葉に緑も交じりこれも絶景。本堂前の花供養塔。母の日が終わった5月第3日曜日に、ここ浄真寺で花供養が行われると。戦後から長く続く法要で、お花屋さんの有志が1年間お花にお世話になった、花の生命を使わせて商売をさせて頂いたことへのご供養であると。本堂手前の紅葉にも緑が。本堂横の紅葉。九品仏浄真寺 本堂本尊は釈迦如来坐像。浄真寺の地は、もともとは世田谷吉良氏系の奥沢城であった。小田原征伐後同城は廃城となったが、寛文5年(1675年)に当地の名主七左衛門が寺地として貰い受け、延宝6年(1678年)、珂碩(かせき)が同地に浄真寺を開山した。本堂には珂碩上人(かせきしょうにん)自作の本尊・釈迦牟尼如来坐像〔都有形文化財〕を安置。龍護殿(りゅうごでん)とも呼ばれる本堂は、元禄十一年(1698)に三仏堂とともに完成。本堂は、浄土(彼岸(ひがん))の世界を表す三仏堂に対し、西面して穢土(えど:現世、此岸(しがん))を表しているのだと。本堂から上品阿弥陀堂。本堂右手の枯山水庭園。本堂前の地蔵菩薩その先に下品阿弥陀堂が。銀杏の木の」葉はおちているが銀杏がまだ落ちずに。本堂前の地蔵菩薩。仏の足跡をかたどった仏足石。本堂を銀杏の樹の前から振り返る。天然記念物にもなっている境内の巨大なイチョウの樹の脇に一つの歌碑が『掃きよせて 落ち葉焚く間も 銀杏の樹 やまずしこぼす 黄なるその葉を』植松壽樹歌碑(うえまつひさきかひ)であると。大正昭和期の歌人。歌誌『沃野(よくや)』を創刊・主宰した。墓所はここ浄真寺。幹周:4. 4m、樹高:17. 9mであると。『東京都天然記念物 九品仏のイチョウ』。まだ頑張って銀杏(ぎんなん)を拾っているオバチャン二人。 ・・・つづく・・・
2018.12.30
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等々力不動尊から徒歩にて九品仏駅近くにある浄真寺参道入り口に到着。この寺を訪ねるのは9月4日(☚リンク)から約3ヶ月ぶり。浄真寺参道と刻まれた大きな石碑。浄真寺は東京都世田谷区奥沢七丁目にある、浄土宗の寺。山号は「九品山」。「九品仏」(くほんぶつ)とは、一義的には、同寺に安置されている9体の阿弥陀如来像のことであるが、一般には同寺の通称となっている。転じて、同寺の周辺の地区を指す場合にも用いられているのであった。紅葉の進んだ参道を進む。「禁銃猟 警視廳」の石碑「この辺りでは銃を使っての猟は禁ずる」という警視庁が出した明治時代の告知であると。九品仏参道界隈と書かれた案内図。正面に見えてきたのが総門。『総門』。九品山唯在念佛院浄真寺(くほんさんゆいざいねんぶついんじょうしんじ)は浄土宗寺院。越後国村上泰叟寺の珂碩(かせき)上人を請うて延宝6年(1678)に創建されたもの。総門柱の厚い板に書かれている「九品佛浄真寺總門」。書体は新篆書体か?扁額には「般舟場(はんじゅじょう)」と書かれていた。般舟場とは念仏修行をする道場という意味であると。当山二世珂憶上人の高弟珂慶上人の筆とのこと。総門を潜った境内は紅葉の世界が拡がっていた。総門からの参道右手には多くの仏像が紅葉の下に。そして奥には『六地蔵』が並んでいた。六道(地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、天)の入口に立ち、衆生の苦を救うと言う有り難い地蔵様。焔魔堂横の石仏地蔵と黄葉。左手には建築工事が進んでいる建物が。紅葉の下で地蔵様たちの赤い涎掛けが映えるのであった。右手に『閻魔堂』が。閻魔堂の中央には閻魔様が。『葬頭河婆(そうづかば)』三途川の渡し賃である六文銭を持たずにやってきた亡者の衣服を剥ぎ取る老婆の姿。奪衣婆(だつえば)、脱衣婆(だつえば)、正塚婆(しょうづかのばば)、姥神(うばがみ)優婆尊(うばそん)とも言うのだと。葬頭河婆が剥ぎ取った衣類は、懸衣翁(けんえおう)という老爺によって<衣領樹(えりようじゆ)にかけられる。衣領樹に掛けた亡者の衣の重さにはその者の生前の業が現れ、その重さによって枝の垂れ方が異なるので、亡者の生前の罪の重さを計る事により死後の処遇を決めるのだと。罪の重い亡者は三途の川を渡る際、川の流れが速くて波が高く、深瀬になった場所を渡るよう定められているため、衣はずぶ濡れになって重くなり、衣をかけた枝が大きく垂れることで罪の深さが示されるのであると。また亡者が服を着ていない際は、懸衣翁は衣の代わりに亡者の生皮を剥ぎ取るという恐ろしい話。奪衣婆は閻魔大王の妻であるという説もあるのだと。前回のブログにも書いたが、私の衣類は枝が大きく撓るのであろうか?参道の突き当りを左に折れる。右手に開山堂への中門が。仁王門前の見事な紅葉。仁王門に近づく。真っ赤なモミジの奥に十三重石塔。別の角度からの十三重石塔。「紫雲楼」と呼ばれている仁王門(楼門)。建立は1793(寛政5)年で屋根以外は大掛かりな修理の痕跡がないということから、当時そのままの構えのようだ。楼門ということで、二層に分かれ、下層は通路の両側に金剛力士像を据えている。上層は中央に須弥壇が設けられていて、お面かぶりで有名な阿弥陀如来像および二十五菩薩像が参拝者を迎えるように安置されているそうだ。当山の伝統相続行事である「二十五菩薩来迎会(らいごうえ)」(お面かぶり)は無形文化財に指定せられ、この楼上の二十五菩薩は、来迎の真髄を示現していることになると。仁王像(阿形)。仁王像(吽形)。仁王門前から東門方向を振り返る。「玻璃摩権現」と刻まれた石碑が。その横に青面金剛(しょうめんこんごう)の石仏たち。ここにいる青面金剛たちは江戸時代の奥沢村や等々力村の辻に祀られていたものだと。仁王門を潜ると左手にあるのが鐘楼。鐘は、宝永5年(1793)世田谷領の深沢、谷岡又左衛門の寄進で、作は、神田鍛冶町の河合兵部郷藤原周徳である。参道横のモミジの庭を楽しみながら進む。こちらは五重石塔。そして本堂とその横の枯山水の庭を見る。銀杏の葉が落ちて境内の庭一面が黄色に。赤と黄色の競演。赤が存在感を示して。銀杏を拾う叔母ちゃん二人をカメラ撮影する旅友。巨大な銀杏の老木の下部の葉は既に役目を終えて地面に。そして黄色の絨毯に変身。 ・・・つづく・・・
2018.12.29
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日本庭園を後にし、等々力不動尊へ向かう。途中、日本庭園への入口『かぶき門』の前を通過。等々力不動尊本堂への階段を登る途中、左への小さな石段を入ると役の行者の神変窟があった。洞窟の内部は石でしっかり構築されて線香の煙がただよっていた。奥に鎮座されているのは、役の行者(えんのぎょうじゃ)。岩場の斜面に祀られた小さなお堂。両手で抱えられるほどの大きさだが祀られているのはガマカエルのようであった。そして等々力不動尊境内に。剣のような石碑。境内の紅葉は今が盛りか?錦秋の世界が拡がっていた。手水場。見事な枝ぶり。等々力不動尊の立体地図。谷沢川の作った河岸段丘の上に建っているのがわかるのであった。 【https://haradr.com/keikoku/todoroki_16.html】より社務所。等々力不動尊の本殿正面。写真は拝殿で裏に本殿がある。等々力不動尊は満願寺(まんがんじ)の別院。関東三十六不動尊霊場の第17番で正式名称は滝轟山(りゅうごうさん)明王院。本尊は不動明王。寺に残る言い伝えによれば不動像は1300年前の作で、そして800年前に興教大師が夢を見て、武蔵国に不動明王像を安置する場所を探し続け、当時の豊富な水量を流す当地の滝を見て、霊地と悟り、この地に不動堂を創建したのが始まりであると。『滝轟山』と書かれた扁額。不動尊と書かれた大きな真っ赤な提灯。横にも美しい提灯が。ズームで。境内の山門前から本堂を見る。紅白の吹き流しが何本も立っていた。まっ黄色のイチョウの葉の絨毯。等々力不動尊山門。関東三十六不動尊霊場の第17番そして玉川八十八ヶ所霊場の第33番札所。『思』は心の因りどころ 無限の思に感謝しませう と。等々力渓谷と等々力不動の案内板。懸造りの寺院として必須な、崖にせり出した絶景が眺められる舞台。舞台から見事な紅葉を楽しむ。舞台の朱の灯篭も美しく。境内の銀杏の黄葉はエピローグに向かって。境内の小さな祠。本堂を別の角度から。反対側から。崖や斜面にへばりつくように建てられた寺院建築を、懸造り(かけづくり)もしくは懸崖造り(けんがいづくり)というのだと。モミジ葉と吹き流しが赤の輝きを競って。等々力不動尊の御朱印を頂きました。そして等々力不動尊を後にして、九品仏にある浄真寺に徒歩で向かう。環八通りを東に向かって歩く。途中、「東京都市大学」の表示板が。2009年に学校法人五島育英会の運営する東横学園女子短期大学を武蔵工業大学に統合して東京都市大学と改称したと。途中環八通りを右折して東急大井町線の尾山台駅横の踏切を渡り九品仏駅方面に歩を進めたのであった。
2018.12.28
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この日12月6日(木)は卒業会社の元同僚との飲み会で五反田に。宴は18:30からでしたので、旅友のSさんと、午後から世田谷区にある等々力渓谷、等々力神社そして九品仏にある浄真寺の紅葉を訪ねることとしました。13時に東急大井町線の等々力駅で待ち合わせて渓谷に向かう。道路には『等々力渓谷』のタイル板が。正面に『ゴルフ橋』が。大井町線の等々力駅近くの等々力渓谷の入口にある橋は、「ゴルフ橋」と呼ばれている。これは、昭和の初めに旧下野毛、等々力村に広大なゴルフ場があったことに由来していると。「ゴルフ橋」のたもとに「等々力渓谷公園入口」の看板と階段が。東京都世田谷区の閑静な住宅街の一角に、ひっそりたたずむ等々力渓谷。豊かな緑と清らかな水に恵まれ、東京であることを忘れそうな、まさに都会のオアシス。この日の気温は9.3℃との表示が。武蔵野台地の南端に位置する、東京都23区内で唯一の渓谷。多摩川の支流となる谷沢川の渓谷で、一帯は等々力渓谷公園として整備されている。武蔵野れき層などの地層や湧水池周辺に茂る湿生植物を観察したり、野鳥の声を楽しめるのだ。等々力渓谷入口の階段を降りると別世界。谷沢川に沿って遊歩道が約1Km続いていた。朱の『ゴルフ橋』の下をくぐって行きます。『等々力渓谷 案内図』。まさに都会の中の大自然。想像以上であった。谷沢川沿いの遊歩道を約1km散策できるのであった。春はお花見、秋はこの紅葉を楽しむ事が出来るのです。雨の後の為か流れも速く。階段をおりれば、たちまち木に囲まれた小さいくて幅も狭い谷沢川が。階段の上と下とでは別の世界。都心とは思えない空気感が。都会の中に居るとは思えない景色。近場の人達が羨ましい限り。遊歩道を更に散策。途中、飛び石橋を渡れる場所も。しかしこの日は、石の上には濡れた枯れ葉が積もっていた。木橋も濡れ、落ち葉が敷き詰められていたので慎重に渡る。広場の時計は13:20過ぎ。『等々力渓谷3号横穴』解説板。古墳時代後期(7世紀)の横穴墓群であると。等々力渓谷横穴(墓)群は、等々力渓谷6基以上からなる横穴墓群のひとつで、昭和48年に発掘された。横穴墓は全長が13メートルで、崖に横穴を掘った墓室=玄室(げんしつ)・羨道(せんどう)の部分とそこに至る通路である前庭部(ぜんていぶ)にわかれ、横穴部は羨門で区画されていた。墓室内には3体以上の人骨が埋葬され、静岡県湖西地方産の須恵器(すえき)や土師器(はじき)、耳環(じかん)=イヤリング、ガラス小玉などが副葬されていたと。第1号、第2号も発見されていますが現在、ほぼ完全な形で保存されているのはこの第3号のみ。また、2号横穴から出土した土師器は、当時都であった大和(奈良県)で使われていたもので、この横穴に葬られた人物が、都(みやこ)に遥役(ようえき)で働きに行ったことが推定される貴重な資料です。遊歩道を振り返る。稚児大師御影堂。石板には「弘法大師御誕生一千二百年記念慶讃大法要昭和五十年四月六日 奉修稚児大師尊像 制作芸術院会員 清水多嘉示堂宇 設計畠山博茂慶讃大法要大導師満願寺第二十六世 龍文」と刻まれていた。『稚児大師』解説版。文字が所々かすれていて読めませんでしたが抜粋すると「弘法大師の小さいときを稚児大師さまというそう。弘法大師の時代は大学としては高位の貴族の師弟が官僚になるための大学が唯一つでした。弘法大師はこれに対して庶民のだれでもが学べる庶民のための大学である綜芸種智院を創設しました・・・」と。学業成就のご利益をがあると言われているんだとか。稚児大師とは、幼い頃の「弘法大師 空海」のこと。真っ赤な「ぬれ落ち葉」。稚児大師堂の左手に進んでいく。雨に濡れた見事なモミジ。木橋の先に「不動の滝」が見えて来た。800年ほど前に満願寺別院(等々力不動尊)が開創されたときに湧出したと伝えられ、滝の水は「霊水」として信仰されているという。また、この滝では現在でも修行僧の姿を見かけることがあるとの情報もあり、800年の信仰の歴史の重みが感じられるのであった。滝は雄滝、雌滝の二条が流れていたが、どちらが雄滝か雌滝かは??不動の滝。龍の口から湧水が細ーく流れ出ていた。手水場。滝の左手にあるこちらの小さなお堂。屋根には落ち葉モミジが一面に。滝の右手には「弘法大師」と「観音様」の像が。滝の左手にあるこちらの小さなお堂には不動明王(右)と正一位稲荷大明神(左)が。不動明王石像。等々力渓谷『日本庭園』入口。石灯籠と築山。崖を巻き込むように、上へ上へと庭園が延びていた。渓谷の崖地や自然環境を巧みに活かした庭園。ピンクの山茶花も花びらを落として。『書院』。等々力渓谷谷沢川の下流部、等々力不動尊の対岸に、昭和36年に建築された書院建物とそれをとりまく日本庭園。池、流れ、石畳の階段園路などがある庭は、昭和48年に著名な造園家により作庭されたもので、当時のままの姿で保存されていた。園内には陽当たりのよい芝生広場があり、併せて、渓谷散歩の休憩に利用できりのであった。更に日本庭園の紅葉を楽しむ。石も巧みに配されて。真っ赤なドウダンツツジ。枝の雨粒。竹林の先には『かぶき門』が見えた。
2018.12.27
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久しぶりに仕事の支援で三重県の津に行って来ました。名松線沿いを走り雄大な君ケ野ダムを通り過ぎ、ひたすらカーブの多い県道29号線の山道を八手俣川(はてまたがわ)沿いに道なりに進む。途中の川沿いの橋の袂にある広場でかかし(案山子)達に再会。『篠ヶ広明日のかかし村』そして『夢ひろば』、『ようこそ下之川 交通安全』の文字が。カーブミラーの如き場所に女の子が花束を持って。そして看板の柱にも浴衣姿の女の子が。10月初旬に訪ねた時は、長雨の為かビニール袋に覆われていましたが、この日はそのビニール袋もなく、案山子たちの人数も大幅に増えて賑やかになっていました。ヘルメットを被り自転車に乗る男の子。様々な乗り物を楽しむ子供たちの姿。滑り台を楽しむ子。こちらは既に冬支度の厚着で。屋外で仲良くお酒を楽しむ老夫婦の姿でしょうか。こちらにも滑り台が。テニスのラケットを持つ子供は、「お疲れさんで一休み」でしょうか。その横には二人乗りブランコが。前回までいなかった牛が何頭も。駿馬を操る猿君の姿も。『八手俣川の恵み』と書かれた看板に上り「バンザーイ」。農作業をするオバアチャン 二人。干した穀類を集めているのでしょうか?雨水の溜まった一輪車を押すオバアチャン。腰の曲がり方が生々しかったのです。草刈り機を駆使して草刈りをするオジサン?。手摺に上る子供はやや不安全行動。『八手俣川(はてまたがわ)』と刻まれた石碑。清流・八手俣川が流れる津市美杉町の下之川は、静かで自然豊かな里山。『八手俣川(はてまたがわ)』に架かる橋の名は『篠ヶ広橋(しのがひろ橋)』そしてこれも以前はいなかった釣りを楽しむ親子の姿。長靴を履いて釣れそうな場所を探しているのでしょうか?広場一面の多くの案山子が迎えてくれた微笑ましい里山の姿なのであった。これぞ八手俣川の恵みとともに生きる里山の方々、そしてすくすくと元気に育つ子供たちの姿が生き生きと感じられる空間なのであった。「農作業中の人かと見まごうばかり、そして元気に遊ぶ子供たちの案山子」が随所に展示されており、その豊かな表情から「癒しと安らぎ、感動のひと時」を早朝から体感出来たのでした。そして近く・美杉町下之川のバイパス道路沿いにあった『アサギマダラの宿』『ふじばかまの里』。アサギマダラを有名にしたのはその渡りのすごさであると。春から夏にかけては本州等の標高1000mから2000mほどの涼しい高原地帯を繁殖地とし、秋、気温の低下と共に適温の生活地を求めて南方へ移動を開始し、遠く九州や沖縄、さらに八重山諸島や台湾にまで海を越えて飛んで行くのだと。海を渡って1000km以上の大移動と。台湾・陽明山まで飛んだのはこれまで5個体が確認されているそうで、これなど2100kmのGreat Journeyになるのだと。そして翌年春、その逆のコースを日本に渡って来るのだと。 アサギマダラの好きな花がフジバカマなのでしょう。フジバカマは「秋の七草」の一つで、万葉の時代から人々に親しまれてきた植物。夏の終わりから秋の初め、茎の先端に直径5mmほどの小さな花を、長さ10cm前後の房状に多数咲かせるのです。そして我が家の庭にも咲く花なのです。アサギマダラはこんな姿の蝶であるとネットから。フジバカマに訪花するアサギマダラの姿です。和名にある「アサギ(浅葱)」とは青緑色の古称で、この部分の色に由来すると。翅の外側は前翅は黒、後翅は褐色で、ここにも半透明水色の斑点が並ぶ。 【http://gensun.org/pid/434536】より。 【http://gensun.org/pid/434536】より来春には見事な姿のアサギマダラに会い、この目で見たいと思いながら・・・。
2018.12.26
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愛知県道19号土岐足助線を利用して川見四季桜の里へ向かう。途中、道路脇の桜とモミジの美しい場所で車を止める。シキザクラ(四季桜)はバラ目バラ科サクラ属の植物。桜の園芸品種。狂い咲きでない状態で、年に二度開花する。エドヒガンとマメザクラの交雑種と考えられている。ナンテンの実もまっかっかっか。そして毎年訪ねている豊田市 小原北部生活改善センターの前にある楠茶屋(くすのきちゃや)に向かって車を走らせる。樟茶屋。いつものように五平餅を楽しむ。地元のお母さんたちが作る焼きたてのひょうたん型五平餅が人気の店。味噌と醤油をベースにゴマ、くるみ、ピーナッツを加えた香ばしいタレがかかっていた。『小原四季桜まつり』の今年のポスター。11月1日(木)〜30日(金)開催。四季桜で有名な小原地区内には、いたるところに約8000本もの四季桜が植栽されているのであった.そして樟茶屋を出て川見(せんみ)四季桜の里の散策開始。国道419号線を歩きながら、右手の丘に広がる川見四季桜の里の絶景を楽しむ。小原の四季桜は、豊田市小原北町の藤本玄碩という医師が文政年間内の始めに名古屋方面から苗を求めて、植えたのが親木となって、広まったものと言われている。淡いピンク、そして紅葉、黄葉が丘一面に広がる。田代川の清流の近くには真っ赤な紅葉が四季桜に負けじと存在感を主張。川見四季桜の里の正面に向かって進む。ピンクの絨毯の斜面に濃赤のモミジとの美しい世界が広がる。春とこの秋に白や薄紅色のかれんな花を咲かせる四季桜。豊田市小原地区で最も多い約千二百本が山肌を覆う『川見(せんみ)四季桜の里』。真っ赤なモミジが背伸びをして花見をしているが如し。『川見四季桜』正面側全景。『川見四季桜の里』案内板。ズームで。野鳥も柿の実を突きながらの花見をしているのであろう。『川見四季桜の里』の麓を巻き込むように流れる田代川。ここにも柿の実が一つ自分の色をアピール中。緑、黄も交じって。今年は九月の台風や十月初めの寒暖差の影響で、例年より三週間ほど早いペースで開花が進んだのだと。紅葉のピークとなる12月上旬まで花が持つか懸念されていたが、開花の勢いも落ちず、きれいに咲いていると地元のオジサンが。そして今年も『川見四季桜の里』の絶景を堪能して駐車場へと。メタセコイアの黄葉もエピローグへ。ズームで。小原四季桜まつりでは会場間の周遊バスとしてボンネットバスを無料で利用できるようであった。小原北部生活改善センターでも特産物等の販売が行われていた。岡崎市に住む我が旅友は視察に来られた豊田市長と記念写真を。そしてお礼の最後に『私は岡崎市民です、すいません』とどこまでも正直な我が旅友の姿なのであった。『川見四季桜の里』を後にし、樟茶屋のオジサンに紹介してもらった紅葉の名所・西運寺を訪ねる。国道419号線の泥ぶち観音の場所で左折し紅葉と四季桜のトンネルを進む。ここは『四季の回廊』呼ばれているのだ舎利塔。西運寺本堂。市場城主鱸越中の奥方の菩提寺として1580年に創建。本尊は阿弥陀如来像、山門には市場城の城門を1693年に移築したものと。本尊は木造金箔押阿弥陀如来。本堂内も見事な彫刻。萬人講(まんにんこう)石碑。鐘楼。境内から参道の四季桜と紅葉のカオスの世界。ズームで。南天もズームで。帰路は車に乗らずに徒歩にて参道を下りながら紅葉を楽しむ。岡崎からの旅友も同様に。次に『市場城(大草城)』の駐車場に車を停める。市場城は戦国期に鱸(すずき)氏四代の居城として九十年続いた山城である。最後の城主重愛によって石垣が積まれ、改修されたと。市場奉行からの『掟』には厳しい言葉が書かれていたが、登城することなく次の寺へと『掟破り』。前方の細い坂道をしばし登っていくと市場城本丸に辿り着くのであったが・・・。この日は市場城見学者用の駐車場の紅葉のみで満足してしまったのであった。ズームで。そして次の寺の廣圓寺に向かう。そして廣圓寺駐車場に到着し散策開始。観光客の姿は殆どなく紅葉を3人占め。山門を見ながら。廣圓寺 本堂。廣圓寺の開山は1508年以前と。この本堂は1571年に市場城主鱸越中重愛により建立された。御本尊は阿弥陀如来像。市場三十三観音堂には、西国三十三観音菩薩石像が祭られていると。因みに、三十三という数字は、法華経によると、観音菩薩は三十三の化身をして衆生を救うことによるらしい。山門。山門横の石仏像。山門より。廣圓寺 沿革。「廣圓寺の始まりは何年であるか詳でない。後柏原天皇、永正5年(1508)足利義吐澄の時代、足助香積寺三世笑荎和尚の弟子、器山周與和尚当寺に住す。時の市場城主鱸藤五郎親信、器山和尚に帰依して外護の大檀越となる。爾来、肥後守長重、伊賀守直重、越中守長康の帰依を受け、地方の禅窟として隆盛を極めた。三世超雲祖越和尚、火災に遭い伽藍全焼す。元亀2年(1571)城主鱸越中守藤五郎長康、客殿一宇を寄進す。文禄元年(1592)太閤秀吉の改易に会い、落城後衰退の一路を辿る。八世古倫鉞錐和尚、宝永5年(1708)仏殿一宇を建立、諸堂を修復し、禅風の昂揚に努む。十六世大應義仙和尚、安政6年(1856)十方の檀信徒の浄財を募め現在の本堂を建立す。廃仏毀釈、農地解放、宗教改革等の法難にも負けず現在に至る」と。『山門禁葷酒』と刻まれた石碑が。山門を階段下から。真っ赤なドウダンツツジ(灯台躑躅、満天星)の紅葉。モミジも負けじと。そしてすべての旅程を終了し、帰路に。豊田市道を矢作川沿いにひたすら走る。伊勢湾自動車道の豊田アローズブリッジが見えた。そして岡崎城 大手門が前方に。そして岡崎市図書館前で旅友のKさんと来年の再会を約束して別れる。時間は16:15.国道1号線を進む。そして岡崎ICから東名高速道路に。東名高速道路をひたすら走る。浜松SA上りにてトイレ休憩。途中大規模な渋滞情報を入手したため長泉沼津ICから伊豆縦貫自動車道~国道1号線~箱根新道~西湘橘IC~国道1号線を利用して茅ケ崎の旅友のご自宅に無事到着したのであった。 ・・・その18・・・に戻る ・・・完・・・
2018.12.25
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一の谷駐車場から車で城跡公園足助城に向かう。急なクネクネとした坂道をひたすら上る。昔は2度ほどこの坂道を『徒歩』で上った記憶があるが。足助城入口。ここを左折し駐車場へ。駐車場前には國光稲荷大神の赤い幟が。香嵐渓もみじまつり、小原四季桜まつりにあわせて2つのまつり会場間で期間限定の臨時バスが運行されていた。しかし1日に2本のみ。この後訪ねた『小原四季咲き桜』会場までのバスも出ている模様。現在残された遺構は、15世紀以降に鈴木氏が築城した跡と考えられると。鈴木氏は三河の松平清康(家康の祖父)の侵攻を受け、一旦は松平氏に下るが、以後何度か離反帰服を繰り返した。最終的には家康の頃に松平氏の軍門に下り、家康が関東移封となるとそれに付き従ったため、足助城は廃城となったと。入場料300円を払い足助城に入場。戦国時代の三河の国と信州とを隔てる砦のような山城が山の頂に復元されていて、今までの城という概念と違い、戦略的な砦的な要所としての居城。城壁というよりは山の急傾斜を巧みに利用した見所満載の山城で、全国的にもあまり見られない珍城。正面には土砂崩れの復旧の跡も。西の丸に向かう。南の丸・腰曲輪に巨大な石が剥き出しに。香嵐渓・飯森山。西の丸にある西物見台。西の丸と南の丸を結ぶ通路にある小さな曲輪。建物の基礎がみつかったが、足助城で基礎を使った建物跡はこの曲輪だけと。ここでも紅葉のトンネルの下を。南の丸のくぐり戸。この曲輪は、角ばった扇形に造られている。台所の役割をもつ曲輪で、復元した建物跡の他に、カマドに使われた石や炭などがみつかっていると。南物見台。これは、物見櫓で敵の動きや近隣の城へ狼煙(のろし)をあげたりするのに使われていたと。残念ながら今年もこの櫓には上ることが出来なかった。そして足助城のシンボルの真っ赤な古木のモミジに今年も再会。今年も「まっかっかっ」な見事な姿で我々を迎えてくれた。南物見台から南の丸の復元建築物の厨(くりや)の屋根を見る。シンボルのモミジを様々な角度から今年もカメラに収める。青空と陽光に映えて真っ赤。しかし常に本丸の下で存在感を示しているのであった。毎年、その年の天候により色が微妙に変わるのである。そして本丸の復元された掘っ建て柱の高櫓と長屋の前の紅葉。本丸 案内板 は陶磁器製。本丸腰曲輪側からの展望。美濃(岐阜県)の東部の街道を、正面に望むことが出来た。この道を進むと長野県飯田市方面に。遠くホテル百年草の建物も見えた。ここも来年の宿泊候補地かと毎年・・・。本丸から臨む足助の街並み。そして本丸の高櫓。足助城の中心である本丸は、足助の町並みを眼下に見下ろすとともに、信州と美濃への街道、岡崎・名古屋への街道を望むことが出来る(標高301m)。発掘調査に基づき、掘っ建て柱の高櫓と長屋が復元された。高櫓は、江戸時代の天守閣にあたるもの。長屋の裏側から高櫓を長屋前からシンボルのモミジを。『戦国期の道と城』。かつての街道と現代の道がほぼ同じ場所が多く、足助城を中心に街道が交差しており、昔も今も交通の要所という事が理解できるのであった。再びシンボルのモミジをズームで。足助城の御朱印を頂きました。そして城跡公園足助城を後にし次の目的地の『小原四季咲き桜』会場に向かって車を進める。再び巴川に架かる巴橋からの紅葉を車窓から。この時間には香嵐渓全体が陽光に包まれていた。『足助トンネル』を通過し小原四季咲き桜方面に向かう。 ・・・その17・・・に戻る ・・・つづく・・・
2018.12.24
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そして香積寺(こうじゃくじ)への階段を上って行く。階段を覆う紅葉を振り返る。階段は上り用と下り用が手すりで仕切られていた。途中の階段踊り場から下を振り返る。ここが香嵐渓紅葉の人気スポット。この場所のモール化は今後の課題か。緑、黄、紅のカオスの世界。香積寺山門。山門をくぐり山門を額縁の如くに。しかし人がいなくなる瞬間は全くなかったのが残念。山門前から香積寺参道及び本堂を見る。本堂の大きな屋根が見えて来た。本堂前の階段を上り山門を振り返る。山門前の撮影スポットには多くの観光客がカメラを構えて。香積寺本堂前には参拝の方の長い列が。「山号は飯盛山(はんせいざん)、開基は関白二条良基、足助重範の娘・滝野と、孫である成瀬三吉丸基久・基直(成瀬氏の先祖)などで、滅亡した足助氏の菩提を弔うために飯盛山(いいもりやま)の足助氏の居館(飯盛山城)跡に建立された。応永34年(1427年)、白峰祥瑞禅師により開山。寺号は維摩経香積仏国品から名付けられた。本尊は聖観世音菩薩。境内には江戸時代後期に建てられた座禅堂が現存し、本道の脇には開山当時から寺の鎮守として豊栄稲荷が奉られている。飯盛山中には歴代住職の墓や十六羅漢の石仏のほか、足助城主だった鈴木氏五代の墓も現存し、二条良基の死を伝え聞いた滝野が良基の残した装束を埋めたと伝わる「装束塚」があるほか、山頂近くには平安時代の末法思想に基づき、仏教の経典や仏具などを土中に埋めた「経塚」がある。」櫓風の鐘楼。再び山門方向を。香積寺の御朱印は既に昨年入手済み。山門の人が絶えることはなかった。しばし待ったが・・・。絶景かな!絶景かな!絶景かな!絶景かな!絶景かな!絶景かな!絶景かな!絶景かな!絶景かな!屋根瓦も赤く染まって。カメラも縦に横にと忙しく。ズームを駆使して。巴川を覗き込むが如くに枝が伸びて。陽光が川面から反射して。吊り橋まで戻る。巴川近くの料理屋『一の谷』が見えた。白き綿の実が。真っ赤な紅葉をこれでもかと。楓の幹、そして影の黒も印象的。小さな木も黄色を。そして今年の香嵐渓の紅葉も見納め。 ・・・その16・・・に戻る ・・・つづく・・・
2018.12.23
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香嵐渓・待月橋の上からの巴川の上流方向の紅葉。下流方向。こちら側の巴川対岸の紅葉は朝の陽光を待ちわびていた。待月橋の近くの小さな滝へ歩を進める。小さな滝。名はあるのか?巴川のこちら側の川辺には既に陽光が射しこみ美しい虹が出ていた。小さな滝の前から「五色もみじ」を見る。再び巴川上流方向。巴川の河原にも多くの観光客が下り、紅葉を楽しんでいた。派手な衣装に身を包み、子供と記念撮影しているオジサン。大きな石と白き流れ。白き流れをズームで。巴川沿いの散策道には出店が所狭しと並んでいた。自然食品の店。足助八幡宮の鳥居。足助八幡宮の創建は天武天皇白鳳二年(673)と伝えられ、檜皮葺三間社流造の本殿は国の重要文化財に指定。また、県指定文化財で第18回東京オリンピック ライフル射撃競技の手帳表紙図案となった「鉄砲扇的打図」絵馬を始め、数多くの貴重な絵馬が奉納されているが一般公開はしていないと。古くから足、旅、交通の守護神として信仰されて来たと。国道420号線(飯田街道)沿いの紅葉を楽しむ。「巴橋」からの香嵐渓。赤い橋が「待月橋」。「香嵐渓 korankei」と書かれた標識。駐車場に入る車は大渋滞。「満車」の掲示板が。そして再び香嵐渓の巴川沿いを上流方面に。「香嵐渓」と赤く書かれた大きな石碑。『延命地蔵』(右)と『六地蔵』(左)飯盛山入口の六角堂と呼ばれる『太子堂』に聖徳太子像が祀られていた。巴川には静かな流れの場所も。散策道には東屋の如き休憩・展望場所が。巴川沿いの香嵐渓散策道を上流に向かいながら紅葉を楽しむ。青空に赤が生える。まっかっかっか!!その近くには緑と黄の場所も。どこまでも続く紅葉。 ・・・その15・・・に戻る ・・・つづく・・・
2018.12.22
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一の谷駐車場に戻り、トイレ休憩後は香嵐渓の散策開始。香嵐渓は、愛知県豊田市足助町にある矢作川支流巴川がつくる渓谷。愛知高原国定公園の一角に当たる。1634年(寛永11年)頃に香積寺第11世住職三栄和尚が巴川から香積寺に至る参道にスギやモミジを植えたのが始まりとされ、大正末期から昭和初期には住民のボランティアでモミジの大植樹が施された。イロハモミジ、オオモミジなど11種のカエデが約4000本あると言われており、赤や黄色に色づく景色は壮観。今年の11月1日(水)から30日(木)まで開催される香嵐渓もみじまつり期間中は21:00までライトアップされ、夜の幻想的な景色も楽しめるのだ。今年の第63回香嵐渓もみじまつり 案内図。今年の散策も下記地図の右から左へと巴川沿いを。一の谷入口から巴川の下流に向かう。早速、紅葉の嵐がお出迎え。時間は9:00.既に飯森山の巴川沿いも陽光が射しこみ既に絶景に変身。和風料亭・一の谷前から三州足助屋敷(さんしゅうあすけやしき)へと歩いて行く。最初は一の谷前の紅葉。小さな池の上の紅葉。三州足助屋敷の庭の紅葉を楽しむ。藁ぶき屋根の小屋も紅葉の下で存在感を主張。この時は逆さ紅葉(もみじ)はほとんど映らず。川見にあった巴川沿いの「紅葉庵」の建物の窓には紅葉が映り込んでいた。巴川の流れ。再び「紅葉庵」の建物の窓に映る紅葉を。赤と言うより深紅の紅葉。赤(←リンク)には赤、紅、朱、丹といろいろあるが。こちらは「深紅」か?絶景の紅葉の谷で、世界で唯一人「山頂音楽家」のイザナギさんのシンセサイザーの音色が白いテントの下から聴こえて来た。聴き入る多くの人たちが。イザナギさんの10年以上連続も間違いなし。藁ぶき屋根と紅葉も和の風景。朱の吊り橋・香嵐橋を既に多くの観光客が渡っていた。川見茶屋を巴川越しに。さらに巴川沿いを進む。何と表現すべきか?こちらは紅葉のプロローグ(prologue)。こちらもprologue。こちらは紅葉のClimax。紅葉のClimaxが続く。紅葉のClimax。こちらは紅葉・黄葉のカオス(chaos)。紅葉・黄葉のカオス(chaos)が続く。香積寺(こうじゃくじ)への階段横を通過。香積寺は帰路にと。三州足助屋敷は、昭和55年に開館した施設で、生きた民俗資料館といわれていると。かつての豪農屋敷を再現し、長屋門、母屋、竹屋などは茅葺の木造建築。足助屋敷の中では、かつてこの地域で行われていた「炭焼き」「木地」「紙漉き」「機織り」など、暮らしに必要なものは手づくりしていた10種の"手仕事"が行われている。手仕事の中には、体験できるものもあるとのこと。既に三州足助屋敷の名物のイチョウの木は完全に葉を落としわずかに下部に葉を残すLast stage。三州足助屋敷の土産物売り場には多くの観光客が。刀削麺コーナーには長蛇の列が。刀削麺は中国山西省名物の、こしの強いめん。小麦粉をこねたあと、専用の包丁で削りながら湯の中に落として茹でる事で知られている麺料理。鮎の焼きおにぎりも。足助屋敷内でzizi工房のフランクフルトと同じ建物で販売中。そして広場では猿君が一生懸命働いていた。日光さる軍団?の猿回しのショーを鑑賞 。 「そこら辺の紅葉より顔、真っ赤です」 と使い手の言葉が。 3m以上あろうか、足の長い竹馬に乗って。頂上で得意顔で。更に待月橋(たいげつきょう)に向かって進む。緑葉も新鮮に。待月橋(たいげつきょう)が下方に見えてきた。ここでも多くの観光客が記念撮影を。朱の欄干が川面に映り込む。待月橋(たいげつきょう)の下の河原にも。我々も待月橋(たいげつきょう)を渡り上流側を見る。待月橋に陽光が射しこむのはあと1時間後か?待月橋の麓の人気の『五色もみじ』もprologue。種類としてはオオモミジの木で、香嵐渓ではこの木を含む数本が一本で葉がオレンジ、黄色、赤、黄緑、緑などの五色の色が見られるため『五色もみじ』と呼ばれているのだと。 ・・・その14・・・に戻る ・・・つづく・・・
2018.12.21
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この日(11月25日)は『香嵐渓』の紅葉見物に3人で向かう。『香嵐渓』は、愛知県豊田市足助町にある矢作川支流巴川がつくる渓谷。ここ10年以上何故か?連続して訪ねている紅葉の名所。名鉄・東岡崎駅前のホテルを5:40前に出発し、旅友Kさんのご自宅に5:50前に到着。そして3人で香嵐渓の落部駐車場に1時間弱にて到着。時間は6:33。紅葉渋滞に巻き込まれない為には、駐車場に早朝7:00前に到着しなければならないことは長年の経験で学習済み。しかし食堂『のんびり』の時計は今年も壊れたまま3:50なのであった。今年の香嵐渓の『もみじまつり』のポスター。100年前の待月橋(たいげつきょう)に立つ女性達の和服姿の写真も。100年前は1918年(大正7年)なのである。1918年は第一次世界大戦終結、日本では米騒動で寺内内閣総辞職→原内閣成立(日本最初の政党内閣)そして政治家:田中角栄・中曽根康弘が生まれた年であると。7時前に車を離れ散策開始。足助地区の汚水マンホール「あすけ」と大きな文字が入っていて、中央に香嵐渓にかかる待月橋、紅葉があり、左端には五平餅、右上には和紙と竹籠で作られた行灯のたんころりんが描かれていた。足助の観光PR満載のマンホールなのであった。まずは足助の町並みを散策。足助町(あすけちょう)は、愛知県東加茂郡に属していた町。豊田市の東隣に位置し、香嵐渓の紅葉で知られている。古来から三州街道(塩の道)の足助宿として栄えた、奥三河の拠点のひとつである。2005年(平成17年)4月1日に近隣町村(藤岡町・小原村・旭町・稲武町・下山村)と共に豊田市へ編入された。現在、旧足助町役場の場所には豊田市役所足助支所が設置されている。『足助山 宗恩寺道』の<道標のところから奥に延びているのが『マリリン小路』。入口にはマンリン書店が。新町の東端、本町との境界付近にある書店。屋号が「萬屋」で、当主が代々「林右衛門」と名乗ったため「マンリン書店」と呼ばれるようになった。店内にはギャラリーやカフェも設けられており、足助観光の拠点にもなっている。足助川沿いに続く旧道を歩く。足助を貫く旧道は江戸時代まで伊那街道と呼ばれ、長野県の飯田へとつながる「塩の道」だった。別名は中馬街道。中馬とは荷物を背負う馬やその業者組織を意味すると。電柱も電線も一切なし…、毎回思うのですが空が広いのです。『地蔵堂』。この堂は本来、紙屋鈴木家所有の堂であったが、昭和18年香積寺に寄贈されたと。平成27年2月に伝統的建造物群の補助金で修復された。堂守はいませんが、町の有志でお守りしているのだと。ご本尊の地蔵菩薩はめずらしく座っていた。ここには、願いを叶えてくださる「抱き地蔵」と、痛いところと同じ部分をさすると治ると言われる「おびんずるさん」が安置。問屋の町「足助」。唯一残る塩問屋の店舗「莨屋(タバコヤ)」。江戸時代から明治38年専売制度が開始するまでの間、足助には13件の塩問屋が並ぶ、町を挙げての商いであった。莨屋はその中でも代表格であり、その作業場を塩座と呼んでいた。莨屋の建物は文化財にも指定されていると。足助の塩は、江戸時代より各地の海から運ばれてきた塩を、品質及び量を均一化するために混ぜ合わせた合わせ塩だと。この塩を合わせることを「塩直し」、「塩ふみ」と呼んでいた。そして足助の塩として、足助直しとして信州は塩尻まで運んだと。これが三河湾の塩も瀬戸内海の塩も信州に運んだ塩の道であったと。『平入り型の商家』田口家。平入(ひらいり)とは、日本の伝統建築において、建物屋根の「棟(むね)」に対して直角に切り下ろした側を「妻(つま)」、棟と並行する側を「平(ひら)」とした場合、平入とは建物の出入口がこの「平」にあるものをさす。『三嶋館』以前は旅籠を営んでおり、天保年間(1830-1844)に建てられた旧三嶋館(太田家住宅)。右手に『シシコロッケ』の幟が。『井筒亀』。足助の古い町並み沿いにある老舗和食処。店前の駐車場のフェンスに巨大なイノシシの毛皮!シシ鍋が人気料理。地面にも。『えびフライ』??のポスター。観光庁長官賞を受けた『レストラン旭へようこそ!!』出品者:愛知県豊田氏 旭観光協会 制作者:グラフトデザイン事務所。リスが松ぼっくりを食べると「えびフライ」になる!! そんな答えを探しに旭へお越しくださいと。『〆縄』。これは足助祭りの山車を警護する火縄銃に付ける〆縄だそうで、五穀豊穣と無病息災の意味が込められていると。この鳥居は「お釜稲荷神社」の朱色、透き通る秋の空に映えていたのであった。『稲荷大明神』の幟が並ぶ。四季咲き桜も満開。お釜稲荷神社のすぐ横に巨大なお釜が出現!なんとも見事な釜。『お釜稲荷神社』。釜稲荷は以下のような言い伝えがあるのだと。『昔、700年前ほど前じゃがのう。一升釜を一つ下げた白髪の老人があらわれたのじゃ。この老人、どういう力をもっていたのか、占いから予言まで、百発百中、あたらぬということはなかったそうな。村人たちは、老人のところへ教えを請うては集まってきたのじゃ。するとのう、老人はいつも一升釜でご飯を炊いて「サァサ、どんどん食べなされ」とふるまったが、どれだけ食べても、お釜の中のご飯はなくならないのじゃ。不思議に思って聞いてみると、「われは、これより三十里離れた山奥に住む平八稲荷であるぞよ」と言ったかと思うと、どこへともなく立ち去ってしまったということじゃ。それから数百年。足助の領主の本多淡路守様に、夢でこのことが告げられたので、淡路守様は、この釜をさがしだされ、陣屋の裏に祀られたということじゃ』既に終わった『足助祭り 2018』のポスター。「足助まつりは、足助八幡宮(白鳳2年創建)のお祭りです。 文正元年(1466年)再建の本殿は国の重要文化財に指定されています。遺されている文化財も多く、特に慶長17年(1611年)に奉納された「鉄砲的打図板額」(県文化財)は、東京オリンピックで射撃競技のプログラムの表紙に使用されました。1700年代中期以前より、現在に近いの形のお祭りが行われていた様です。西町、新町、本町、田町の4台の山車が有り、町内を引き回します。かつては、5日間かけて行われていましたが、現在は2日間に縮まり、土曜日を試楽祭、日曜日を本楽祭と呼んでいます。土曜の夜は御神輿渡行もあり、町内を御輿が巡行されます。」と。明治期に作られた田町新道を進み『観音山』の下に到着すると招き猫が迎えてくれた。この観音山の紅葉は第二の香嵐渓とも呼ばれる、足助の隠れたもみじの名所なのである。香嵐渓に陽光が射す前の7時過ぎから山頂付近から陽光が射しこむのである。そして山頂付近には観音寺がある。木造天部立像は豊田市指定文化財。『観音寺の由来』大観音城は、城山城とは谷ひとつ隔てた東側の山に築かれた山城。登城口から山の中腹にある観音寺まで遊歩道を登る。 途中、曲輪と切岸、土塁が何ヶ所か見られる。 この観音寺が建つ場所が、大観音城の城主居館があった曲輪で、城内で一番広いところ。観音山入口の階段を上る。少し登ったところにある、牛頭天王社(ごすてんのうしゃ)。牛頭天王は日本における神仏習合の神。釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされたと。落ち葉に覆われた、そして小枝が至る所に横たわった観音寺の参道を上りながら照紅葉(てりもみぢ/てりもみじ)を楽しむ。早朝の陽光と紅葉と黄葉のコラボ。大観音城の城主居館があった曲輪から足助の町並みが。これぞ『燃える秋』。この朝も我々3人以外に人の姿はなし。竹林にも陽光が射しこむ。観音寺。本堂は、かなり傷んでいて、「倒壊の恐れあり」の看板が。しかし、ここはこの城の武将の居館があったらしいと。本堂から山頂までの間に曲輪が続き、山頂の主曲輪から派生する東尾根と北尾根にも曲輪を確認することができるようであるが、整備された道は無く素人には?石仏も陽光を背に。本堂正面右には、堂の中に多くの石仏が納められていた。そして帰路も紅葉の輝きを見上げながら。紅葉が美しく抜けるような秋の青空に映える様子は目に眩しいのであった。紅葉のトンネルを下る。紅葉に陽光はMUST。見上げる顔が真っ赤に染まりそう。『御獄大神』。古い街並みを」再び歩く。大きな立派な看板がある『丸一志賀商店』(酒屋)。昨年は確か店頭に自販機が設置されていたので、「自販機が邪魔である」と我が儘にも書き込んだ記憶があるが、今年は自販機は無くなっていたのであった。『旅館 山城屋』。毎年この山城屋の前を通ると「来年はこの旅館を予約して香嵐渓のライトアップを」と旅友のSさんと語るのであるが・・・。『酒とギフトのしばた(梅村商店)』。『豊田市足助伝統的建築物保存地区』案内板。先ほど訪ねた観音山の紅葉を振り返る。今年も観音山の見事な紅葉に出会えたのであった。下を流れる川が足助川。『日月もなか總本舗 川村屋』に立ち寄る。創業大正5年。南北朝時代の足助の大忠臣、足助重範公の旗印「日月」にちなんで名付けられた「日月もなか」であると昨年?聞いたのであった。お茶をご馳走になりながら、名物「日月もなか」を楽しみました。『月ともみじ葉』、これぞ日本の秋の風景。子供たちの折り紙も。 ・・・その13・・・に戻る ・・・つづく・・・
2018.12.20
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国道365号線を米原方面に向かって走ると正面に伊吹山(いぶきやま)が姿を現した。高1,377mを誇る、滋賀県で一番高い山・伊吹山。岐阜県との県境に位置し、日本百名山のひとつとして県民に親しまれている。実はこの山、徒歩で最短20分で頂上へ登れるだけでなく、日本一大きな湖・琵琶湖の絶景を望めるとあって観光客にも人気。登山シーズンは春から夏。天候の良さはもちろん、頂上から見下ろす絶景の琵琶湖、そして山のあちこちで見られる高山植物の花畑を目当てに、登山客やハイカーが各地から訪れると。残念ながら頂上は雲に隠れていたが。滋賀県道・岐阜県道40号山東本巣線を進むと伊吹山の石灰岩の岩肌が。伊吹山の石灰岩は、古くは漆塗りの原材料に用いる消石灰として1661年ごろには開発されていたが、近代はコンクリート・セメント需要の急増により大量に採掘されてきた。1949年に近江鉱業が伊吹山に弥高採鉱場を開き[82]、1951年に住友大阪セメント伊吹工場が開発工事に着手するなど、大規模に採掘が進められ、南西の稜線は山容が変貌するまでに大きく削り取られた。1971年からは住友大阪セメント伊吹工場によって南西斜面の緑化活動が始められ、2003年に同社が滋賀鉱産株式会社に事業を引き継いだ現在も続けられている[。鉱山としては現在も近江鉱業および滋賀鉱産が稼行しているとのこと。そして姉川ダムに到着。ダムの型式は重力式コンクリートダムで、高さは80.5mと滋賀県内のダムとしては既設の中で最も堤高が高い。2002年(平成14年)に完成、ダムによってできた人造湖は「白龍湖」と名付けられたと。ダム銘。堤頂長は225 m、有効貯水容量は650万m³。洪水調整、感慨用のダムなので発電施設はないようであった。UFOが着水しているのを発見。いや、ダム湖水の水質維持用の曝気装置が浮かんでいたのです。ダム湖周辺案内図。『姉川ふれあいプラザ』管理事務所兼ビジターセンター「姉川ふれあいプラザ」。ダム管理所の看板、地域に開かれたダムには割と良くあるキツネ?のマスコットがここでも登場。ダム湖の名前は白龍湖。ダム湖の名前は美しい姉妹が龍になって村を救った姉川・妹川の民話に由来。天端から見た姉川ダム。中央から下を覗くと水の流れに吸い込まれて行きそうに。堰堤天端から白龍湖を見る。『姉川ふれあいプラザ』の中に入る。ダム湖断面説明図。姉川ダムに関する様々な資料、説明パネルが。パーキング横に立つモニュメント。紅葉もほぼ終わり、冬がそこまで。姉川ダムの後は多良峡森林公園の吊り橋を目指すが、紅葉見物の車で山道は大渋滞。一方通行とのことでUターンも出来ず。しばし大渋滞の中を遅々と進んでいると車窓から吊り橋の見える位置で運良く?暫し停車。たまたまこの場所は撮影ポイントなのであった。吊り橋を撮影。そして駐車場に入るのを諦め、渋滞の横をすり抜け何とか脱出したのであった。牧田川やまざくら街道の上石津第三トンネルをこの日2度目の通過。そして養老の滝を目指すが、こちらも大渋滞で今度は早めにUターンしてひょうたん屋に立ち寄る。創業60年の『安田ひょうたん店』。ひょうたんの町として知られる養老町。 自ら育てたひょうたんを酒の容器・お守り・ランプなどに加工して販売する専門店。店内には大小さまざまなひょうたんが、ところ狭しと並べられていた。中には高さ1m幅50cmほどもある大きなものや、棒状で3m以上ある細長いもの、表面を加工して中にランプを入れたものなど、種類の豊富なことに驚愕。二代目の店のご主人が熱く語ってくれたのであった。店の天井には、歴代の“今年の一文字”が瓢箪で描かれていた。ランプも風情十分。『全日本愛瓢箪会』のポスターも。黄金の『夢』。黒塗りの外壁には黄金のひょうたん。これも2代目主人が描いたのだと。『絆』。ダークダックスが歌った『絆』を想い出す。♫糸へんに半分と書いて 絆と読みます お互いに半分ずつの 糸を結び合うからです 糸の太さは 人それぞれ 顔の違いと 同じです 固いか 緩い(ゆるい)か 程々か その結び目が 大事です♫壁にはひょうたんの中に「親孝行」の文字が。途中、一刻魁堂 大垣南店遅い昼食を。辛味みそネギらーめんを楽しむ。昼食後は新幹線の岐阜羽島駅を目指す。揖斐川に架かる新幹線橋梁が右手前方に。遠く山の上に岐阜城が見えた。揖斐川に沿った堤防上の道を走る。揖斐川に架かる大垣大橋を渡る。パナソニック ソーラーアーク(株)前を通過。長良川に架かる羽島大橋を渡る。そして岐阜羽島駅に到着。時間は15:37。岐阜羽島駅(ぎふはしまえき)前の大野伴睦夫妻の像。ウィキペディアによると「一時は地元岐阜県に東海道新幹線岐阜羽島駅を誘致したとされ、政治駅と騒がれた岐阜羽島駅。産経新聞の『戦後史開封』によると、岐阜県は岐阜市または大垣市への新幹線駅設置を要望するが、その場合、新幹線路線を大幅に迂回させなくてはならないため、建設予算や名古屋駅以西の所要時間が増える関係上、日本国有鉄道(国鉄)は難色を示した。これに地元は激しく反発し、一時国鉄は岐阜県内での測量ができない状態になった。そこで国鉄が大野に斡旋を依頼し、結局、新幹線路線を迂回させることの無い岐阜羽島駅の設置となった。これは大野自身が地元の利権に絡んで国鉄に圧力をかけたわけではなく、むしろ地元の利益よりも新幹線の速達性を優先した結果であった。」と。この日に東京に帰るUさんと岐阜羽島駅でお別れ。そして名神高速で岡崎を目指す。東名高速道路の豊田JCTから岡崎ICで降りKさんをご自宅まで送りこの日のホテルのある名鉄・東岡崎駅前に到着したのであった。時間は17:50。 ・・・その12・・・に戻る ・・・つづく・・・
2018.12.19
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旧戸岩寺から山道を歩いて鶏足寺入口に到着。鶏足寺(旧飯福寺)は、735年僧行基によって開基された古寺。いったん荒廃するも799年最澄により再興。山岳仏教の聖地として威容を誇った己高山鶏足寺別院の一つ。中世には僧兵を擁するほどの大寺で、時の権力者の庇護を受け安定した寺運を続けたが、江戸幕府の終焉とともに衰微した。 現在は廃寺となっており、普段は地域住民の手によって管理がなされていると。『鶏足寺・石道寺 紅葉散策 案内図』。紅葉の真っ盛り。「紅葉の名所鶏足寺」として、毎年多くの方が紅葉散策に訪れることで知られている。ゆるやかな参道の石段、苔むした石垣に二百本のもみじの古木が幽玄な情景を醸し出して迎えてくれたのであった。立ち入り禁止の『落葉保存地域』の見事な紅葉。鶏足寺の紅葉は、毎年11月中旬頃から色づき始め、見頃を迎えるのは11月の下旬頃と。社へと続く参道は、天然の真紅の絨毯さながら。『宝寿院』跡。『護摩堂』。紅葉と石灯籠。黄色の葉が輝く。幽玄さを感じる紅葉の赤い絨毯の上を進み紅葉・紅葉を楽しむ。鶏足寺本堂の階段前に。鶏足寺(旧飯福寺)。 東大寺の建立にも功績のあった行基(ぎょうき 668~749年)と、泰澄(たいちょう 682?767年)というお坊さんが、 近江の国の鬼門にあたる己高山(こだかみやま)に十一面観音をまつり、常楽寺というお寺を草建したのが始まりとか。 その後時代をへて、延暦寺を開いた伝教大師最澄(767?812年)が、あるとき、行基菩薩の聖跡を慕って、 このあたりまで来られたおり、不思議な鳥の声とその足あとに導かれて進むうち、すっかり朽ち果てていたお寺の跡に、 十一面観音のお像を見つけたのだと。これが、鶏足寺の名の由来らしい。本尊(十一面観音立像)は、己高閣(ここうかく)に安置されていると。隣接する世代閣(よしろかく)とともに、重要文化財の薬師如来立像、十二神将立像のほか、滋賀県指定文化財をはじめ多くの文化財が保存されているのだと。しかし、残念ながら己高閣、世代閣を訪ねずに帰ってしまったのであった。鶏足寺 十一面観世音の御朱印を頂きました。『護摩堂』を下に見ながら坂道を下る。下方に石道寺が樹の間越しに見えて来た。石道寺も紅葉のカオスの中に。石道寺の横に辿り着く。己高山麓にある真言宗豊山派の寺。山号は己高山。 平安末期の作と伝えられる本尊の十一面観音像は国指定の重要文化財。欅の一木造の唇には紅をひとすじ残しており、当時は極彩色の仏様であったことが窺われると。ゆるやかな姿態に流れるような衣をまとい、柔和で穏やかな印象があるのだと。家井上靖が、小説「星と祭」の中で当寺の観音像の姿を村の若い娘に例えたことで知られると。『石道寺』726年、延法上人開基で、のちに行基が仏像を納めたが、焼失した。 後に、804年最澄が仏像を納めて己高山石道寺と名付け、比叡山の別山としたと。本堂前の斜面の紅葉も見事であった。池の水面には「逆さ紅葉」が。 大きな鯉の泳ぐ池に映る「逆さ紅葉」。様々な場所から。石道寺の御朱印を頂きました。そして駐車場に戻る途中のマンホール。マンホールには、町の花「コブシ」と、町内を流れる高時川・杉野川・余呉川が描かれているのだと。 ・・・その11・・・に続く ・・・つづく・・・
2018.12.18
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湖東三山の紅葉巡りを堪能した翌日、この紅葉巡りの2日目も元気に起床。ホテルの我が部屋も窓からの長浜の街並み。時間は6:55。山裾に雲が棚引いていたが天気は良好。そして朝食。長浜駅前のビジネスホテルを出発し、この日の紅葉巡りへ。時間は7:32。そしてホテルの近くにある琵琶湖湖岸に。まだまだ我が影の姿は長く。琵琶湖の南方向を遠望。北の方向の山の頂きには既に雪が。そして長浜城(ながはまじょう)の雄姿が。長浜城は、滋賀県長浜市公園町の豊公園内にある羽柴秀吉(豊臣秀吉)が築城した日本の城跡。1573年(天正元年)に羽柴秀吉(豊臣秀吉)が浅井長政攻めの功で織田信長から浅井氏の旧領を拝領した際に当時今浜(いまはま)と呼ばれていたこの地を信長の名から一字拝領し長浜に改名した。小谷城で使われていた資材や、あらかじめ、竹生島に密かに隠されていた材木などを見つけ出し、それらを使用し築城を開始した。同3・4年頃完成し入城。湖水に石垣を浸し、城内の水門から直に船の出入りができるようになっていた。城下町は小谷城下(滋賀県長浜市湖北町伊部)からそのまま移した。そのため、現在でも城下町には当時の面影や名残がある。秀吉が最初に築いた居城であり、秀吉の城下町経営の基礎を醸成した所でもあると。現在の天守は1983年に犬山城や伏見城をモデルにし模擬復元されたもので、市立長浜城歴史博物館として運営されているのだと。次に琵琶湖畔の道路を南下し『長浜びわこ大仏』に向かう。現在のは2代目であると。琵琶湖大仏、びわこ大仏ともいうのだと。長浜びわこ大仏は、滋賀県長浜市の『平安山良畴寺(へいあんざん りょうちゅうじ)』にある大仏。臨済宗妙心寺派。山号は平安山。本尊は阿弥陀如来。びわ湖百八霊場第4番札所。1262年に鎌倉幕府執権北条時頼の開創、佐々木道倫の開基、天山和尚の開山で始まる。その後、織田信長の兵火による灰塵、天災による琵琶湖中への陥没などもあったが、宝永年間(1704~1711年)彦根龍潭寺の僧粋岩(すいがん)が再興したと伝える。『長浜びわこ大仏』。青銅製の阿弥陀如来像で高さは何と28m。八角形の台座1階内部には中央に祭壇。壁面にはずらりとびわこ大仏のレプリカが並ぶとのことであったが、早朝の為か入れなかった。境内の大きな説明板に、びわこ大仏のことが詳細に記されていた。今のびわこ大仏は2代目で、初代のびわこ大仏こと護国阿弥陀如来は昭和12年に完成したコンクリート製(高さ27m)なのだと。初代の大仏は階段を上って胎内巡りが出来たと。そして、残念ながら既に平成4年に取り壊されてしまったと。お顔をズームで。螺髪(らほつ)の数は?。すべて右巻きになっているのだが。正面中央の螺髪の中にある赤いのはなんだったのしょうか?大仏と池に映る大仏を一緒にカメラに収めたかったが、大きすぎて。水面に映る『長浜びわこ大仏』を。納骨堂の前には初代大仏の前にあった香炉が。残ったいるのはこれだけと。上に立つのは初代大仏のミニチュア。そして本堂近くにあった石仏。これもコンクリート製?こちらの仏像は初代と同時期なのであろうか?細かい造形、このふくふくしいお顔。冬支度の済んだ?六地蔵。庭の紅葉も見事であった。そして次の探索寺の『鶏足寺』に車を進める。奥びわ湖の長閑な風景を車窓から楽しむ。奥びわ湖の田園の中をひたすら走る。そしてまほろばの館近くの駐車場に到着。時間は8:51。『奥びわこ 観音と薬師の里 古橋周辺案内図』「紅葉散策協力金」の200円を支払って散策開始。『旧戸岩寺・輿志漏神社(よしろじんじゃ)』。石鳥居には『輿志漏神社』と書かれた扁額が。参道の紅葉を楽しむ。與志漏神社境内のもみじも紅葉の見頃。この日は青空の下で紅葉・黄葉が輝く。二ノ鳥居。右手に鐘楼が。『薬師堂』。旧戸岩寺の本堂にあたると。戸岩寺は霊亀2(716)年の創建。本尊の薬師如来は、僧行基により伊香山(異光山)五ツ岩の麓からこの地に移され岩にちなんで戸岩寺と名付けられたもの。八世紀末頃から伝教、空海、慈覚等の高僧が相次いで来錫し、七間四面の薬師堂を始め大日堂、観音堂、鐘堂、経堂、念仏堂等を建立し、全盛期には岩本坊、阿弥陀坊、開寿坊、真乗坊、道禅坊、長円坊の六坊を構えて栄えた。現在は薬師堂及び大日堂を残すのみ。境内の輿志漏神社は世代大明神として古代から余領郷の氏神として崇敬された神社。祭神の波多八代宿禰は古事記、日本書紀では武内宿禰の子で淡海臣の祖と。『与志漏神社(よしろじんじゃ)』。「与志漏神社の創建は不詳ですが古くから余領郷の氏神として崇敬される大社だったと伝えられています。境内背後の山の斜面には製鉄炉跡もあり古代の精錬技術者の氏神や祭神である波多八代宿禰(武内宿禰の子で淡海臣の祖)の子孫である波多氏との関係も深いものと推定されています。又、伝承によると景行天皇(71~130年)の御代、勅命により当地を巡視した武内宿称が、大蛇の被害により荒廃した村々を目の当たりにした為、息子である波多八代之宿称に討伐を命じました、波多八代之宿称は素盞鳴尊縁の神剣を手にして大蛇を討ち取ると、村人達は波多八代之宿称と神剣(素盞鳴尊)に感謝し社を設けて祭ったと伝えられています。」そして鶏足寺に歩を進める。まほろばの里の小川の流れ。薄緑、黄色、オレンジ色のグラデーションが陽光に輝く。栃の実入り五平餅売り場が。茶畑も見えて来た。『亀山』の丘と呼ぶ場所。収穫後か?見事に刈り込まれていた。こちらで産出されたお茶は石田三成ゆかりの「三献茶」として市販されていると。「三献茶」は石田三成のエピソードからと。ある日、豊臣秀吉が鷹狩りの途中に訪れたお城で、秀吉にお茶を出したのが三成でした。このとき、三成は一杯目には、大きな茶碗にぬるめの茶を入れて出しました。二杯目の茶碗は前に比べると小さめで、湯はやや熱めで量は半分くらいで出しました。秀吉はそれを飲み干し、もう一服を命じました。三杯目の茶碗は高価な小茶碗で、湯は舌が焼けるほど熱く量はほんのわずかにして出しました。鷹狩りで喉が渇いていたことや、その休憩として立ち寄ったことを踏まえ、相手の気持ちに寄り添った三成の心配りに秀吉は感動したそうです。この心配りに感じいった秀吉は、その小姓を城に連れて帰り家来とした。この小姓が、その後昇進し、五奉行の一人、石田三成となったのである。紅葉を愛でる道すがらに思いがけずに気持のいい緑一色の景色が拡がっていたのであった。鶏足寺手前の紅葉も見事。陽光が射し込んで赤、黄葉が輝く。 ・・・その10・・・に戻る ・・・つづく・・・
2018.12.17
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更に永源寺の紅葉巡りを続ける。須弥山の如く庭が階段状になっていた。小さな岩は、鎮座する諸仏であり、天上界が再現されているようでもある。 黒御影石?に「永源寺」の文字が映り込んで。ここでも散り紅葉(もみじ)は美しく。須弥山の如き庭を別の角度から。庭の一つ一つがきちんと手入れされ、さりげなく美しいというのも、永源寺の魅力。法堂(はっとう)の裏。本堂(法堂)の裏の庭の奥に聖観音像が。開山堂前。山堂傍に佇む宝篋印塔(ほうきょういんとう)。正面に「寶篋印神咒塔(ほうきょういんしんじゅとう)」の刻。宝形造銅板葺の『経堂』。延宝四年(1676)、南嶺禅師による再建。創建は応永十一年(1404)で佐々木満高が建立。建具は中央間が桟唐戸(内側腰高格子戸)で脇間は花頭窓。法堂から開山堂にかけても、数々の小さな庭が展開されていた。入母屋造銅板葺り『開山堂』。享保十年(1725)、彦根城主井伊直惟より能舞台の寄進を受け再建され、本尊・寂室禅師が祀られている。納骨堂の入口に「普照」の額。奈良時代の法相宗の僧で鑑真に渡来を請うた普照の事か?法堂(はっとう)前庭。開山堂に繋がる回廊の横。門柱に「専門道場」の聯が掲げられている『含空院』。『含空院』庭園。境内の奥へと更に進む。茶筅塚(ちゃせんつか)と刻まれた石碑が。古い茶筅を供養することを目的に立てられたと。山の斜面にも散り紅葉(もみじ)の絨毯が敷き詰められていた。『永源寺風穴』。境内最奥、裏参道に差し掛かる辺りにある石垣のくぼみは、風穴の跡と言われている。穴は石垣で閉じられているので中に入ることはできなかったが、奥からはたいへん涼しい風が吹き出して来ると。温度は年間通じて約18度前後。天然のクーラー。昔は食料などを貯蔵していたと。再び境内を戻り開山堂前に。別の場所から。法堂(はっとう)正面。大雄宝殿と称し、佐々木氏頼によって創建。明応元年(1492)、永禄19年(1563)の兵火によって失われたが、寛永19年(1642)第79代空子禅師が再建された。しかし享保9年(1724)の火災により再び焼失。享保13年(1728)第104代朴宗禅師が再建されたの が現在の建物である。正面には後水尾天皇ご寄進の釈迦、迦葉、阿難の三尊像が安置されていた。再び本堂を。本堂前の鐘楼と紅葉の組み合わせも最高。入母屋造桟瓦葺の袴腰付鐘楼。安永元年(1772)の再建。楼上に擬宝珠勾欄付廻縁、四方に花頭窓が。本堂内部から前庭の紅葉も。山門を境内側から。新緑時期には青もみじも葉うつくしい事まちがいなし。普段非公開の山門&井伊家墓所を特別拝観できると。観光ボランティアガイドの案内で、県指定文化財の山門の特別拝観と国史跡井伊家墓所の公開に加え、今年は永源寺の土蔵で発見された井伊家甲冑を初公開していると。山門を潜る。寛政七年(1795年)井伊家の援助等により7年の歳月を費やし享和二年(1802年)完工したと。愛知川を眼下に見る。総門に向かって進む。紅葉を接写で。御朱印を頂きました。参道入口近くの覆屋に鎮座する3体の石仏。左は未開蓮を持つ観音菩薩、中は地蔵尊像、右の石碑には前垂の上にはみ出た「祖」と「和」が読めた。時間は15:30。そしてこの日の最後に近江八幡の教林坊の紅葉ライトアップを見に行く予定であったが再び小雨も降り出してきたので、見学を諦め長浜にあるこの日のホテルに向かう。途中、雲の合間に夕焼が。そして山に沈む夕陽。時間は16:26。琵琶湖岸沿いを走る。琵琶湖岸の歌碑。歌碑には「磯前(いそのさき)漕ぎたみ行けば、近江の海、八十(やそ)の港に鶴(たづ)さはに鳴く」これは、高市連黒人(あけちのむらじくろひと)の旅の歌の一つ。(万葉集)そして長浜駅前はライトアップされて。そしてこの日のホテルに到着。時間は17:15。ホテルにチェックイン後は夕食に向かう。ホテル周辺を散策し店を探し4人で夕食を楽しむ。そしてホテルへの帰路の長浜駅手前の一心寺。小規模ではあるが駅前のライトアップを楽しむ。階段も。そしてこの日のホテルに戻る。時間は21時過ぎ。 ・・・その9・・・に戻る ・・・つづく・・・
2018.12.16
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湖東三山を訪ねた後には、滋賀県東近江市にある臨済宗永源寺派の大本山そして紅葉の美しい永源寺(えいげんじ)を訪ねる。永源寺の山門への入口手前の見事な紅葉が我々を迎えてくれた。有料駐車場に車を駐めて散策開始。時間は14:20。『しゅうらくはいすい えいげんじ』と書かれた汚水マンホールにはモミジの葉が。『集落排水』とは農村(農業振興地域)のし尿や生活排水を処理する施設、またはその整備事業のこと。農村部では小さな集落が分散していることが多いため、下水道よりも小さい数集落単位の規模で汚水を集め、処理して農業用水路や河川に戻す方が効率的なための設備。長年の仕事から、汚水マンホールが気になる私なのである。愛知川(えちがわ)に架かる『旦度橋(たんどばし)』という朱色の橋。『永源寺周辺案内図』。近くには近江彦根藩の第4代および第7代藩主の井伊直興(いい なおおき)の墓所や国道421号線より数十mの山中に臨済庵址があり、歴代住職墓の一つが元禄忠臣蔵赤穂浪士四十七番目の志士、寺坂吉右衛門のものといわれている。討ち入り後、命によって隊を離れた寺坂は、出家して他の志士たちの菩提を弔ったと伝えられ、戒名には志士達に通じる「刃」の字を見ることができるのだと。『永源寺と奥永源寺の山村景観』案内板。平成27年度に日本遺産第一号として「琵琶湖とその水辺景観」が認定を受け、平成29年に「永源寺と奥永源寺の山村景観」が構成資産に選ばれたと。臨済宗永源寺派の大本山は禅の道場として美し景観とともにその水が信仰に深くかかわり、「奥永源寺の山村景観」では生活用水としても山水を利用するなど、日常生活の中でも利用されている。このような暮らしぶりと信仰は、深山幽谷の豊かな山域に育まれた水の文化であり構成資産に追加認定されたものであると。参道には各種の食べ物や土産物が販売されていた。美味しそうな焼栗の香りが参道に。様々な餅も。『旦度橋(たんどばし)』を振り返る。昔、永源寺の下は谷の両岸が、戸の様に切り立った崖になっており谷戸(たんど)と呼ばれていたと。ここに架かる橋、谷戸橋が最初の名称。そしてそれが何かの理由で『旦渡橋』となり、その後に橋の架け替え工事の際に業者が誤って『旦度』記載したため、そのままになってしまい現在に至ると。参道の紅葉を楽しみながら進む。永源寺の「開山」の由来の看板。康安元年(1361年)近江の領主 六角氏頼(ろっかくうじより)が寂室元光(じゃくしつげんこう)禅師を迎えて開山した臨済宗永源寺派の大本山。寂室元光禅師は、正応3年(1290)5月15日、岡山県真庭市に生まれた。生家は藤原実頼(小野宮)の流れをくむと。『和泥水』と書かれた扁額の掛った手水舎でお浄め。和泥水とは「泥まみれになって尽くすの意味」とのこと。『和泥水(地蔵尊)』「和泥水(和泥合水)と申しますは道元禅師のお言葉で「泥まみれになって尽くす」と言う意味であります。善悪の別け隔てなく、一切衆生を漏れなく救済せんとされる、仏様の尊い慈悲の御業(みわざ)を表すお言葉で御座居ます。此處(このところ)にお祀りいたします地蔵菩薩は、弥勒仏来迎(みろくぶつらいごう)までの長き濁世(じょくせ)を見守り、六道至るところに衆生済度に向かわれます。擦り切れた衣を纏(まと)うて、蓮華(れんげ)の台(うてな)にも休まれず、行脚(あんぎゃ)されるお姿は、正(まさ)しく和泥合水(わでいがっすい)の菩薩行であります。」と。つまり、和泥水(和泥合水)とは、「わが身を顧みずに、全力で他人を救うこと」。前方に小さな川が。橋の名は「大喝橋」(だいけつきょう)。永源寺の北山から流れる一水か愛知川(えちがわ)と合流する谷川を幡桃渓(ばんとうけい)と言い、この川にかかる橋を大歇橋というと。昔はこの辺りに大歇亭があり正燈国師の真筆の額が掲げられていたといわれるが、今は散失して橋の名前となっているのだと。現在の橋は第140代石蓮実全禅師住持の大正8年(1919)に完成したと。幡桃渓(ばんとうけい)の上流側。参道の120段の石段・羅漢坂(らかんざか)を上る。大歇橋を過ぎ、羅漢坂を登りつめると、 左の岩肌に釈迦・文殊・普賢像と十六羅漢の石仏が奉安されていた。制作年代や作者も不明だが、おそらく歴代の住持が祈念して彫られたものであろうと言われていると。仏像はそれぞれに違ったユニークな表情をしていたのであった。『永源寺の由来』。臨済(りんざい)宗永源寺派大本山。山号は瑞石山(ずいせきざん)。1361年(正平16・康安1)近江国(滋賀県)の守護佐々木氏頼(うじより)がこの地に伽藍(がらん)を建て、寂室元光(じゃくしつげんこう)を招じて開山としたのが始まりで、当時は飯高山永源寺、山上寺とよばれた。寂室の徳を慕って全国から集まった雲水は2000人を超えたという。しばしば兵火にかかって衰微したが、江戸時代に東福門院(徳川和子(かずこ))が願主となって、1643年(寛永20年)一糸文守(いっしぶんしゅ)(仏頂国師)を招いて再興してから昔日の盛観を取り戻したと。そして前方に総門が見えて来た。永源寺境内に入って最初にくぐる門。康安元年(1361)佐々木氏頼によって創建されたが、明徳元年(1390)兵火にかかり焼失。以後寛正5年(1464)に第16代虚白文玄禅師が再建。寺内の建造物では最も古い。四脚門の形式で、門の両側に土塀をつけた風格のある総門であると。『永源寺』と書かれた提灯が総門に対で。永源寺 境内案内図。風格ある総門を振り返る。永源寺のパンフレットをいただく。『洗耳水(せんじすい)』手水舎は手を洗うことで身を清めるものだが、こちらは「耳を洗う水」と書かれていた。確かに、耳の形をしていた。これは、境内に入る前に俗世で聞いてきた噂話などの俗な話などを聞いてたまったアカを洗い流すというものであると。ここで耳を洗わなければいけないのか、と思ったが、特別な使い方は説明されていなかったので、ここでは耳のお浄めはしなかった。ここから先は有料エリアの永源寺の境内。紅葉の参道を進む。そして文化財に指定されているという『山門』。総門の次にくぐる山門は、寛政7年(1795)123代丹崖禅師が彦根城主井伊家に図り建立に着手。7年の歳月をかけ享和2年(1802)霊隠禅師のとき完成したと。楼上には釈迦三尊と十六羅漢がまつられているのだと。「五間三戸二階二重門」とは正面からみて、柱により5つに間仕切りされていて(五間)、中央の3箇所にはそれぞれ板戸(三戸)があり、それが入り口になっていて、(二階)建てで上下層に屋根のある門(二重)とのこと。因みに下層に屋根をもたないものを「楼門」と呼ぶのだと。山門を潜ると紅葉が錦の織物のような姿で。これぞ「錦秋」。庫裏の前を進む。これぞ和の秋の姿。「濡れ落ち葉」が落ちまいと石の水鉢に必死に。私もこの光景を見て「濡れ落ち葉」にならぬようにと反省!!「濡れ落ち葉」とは「払っても払ってもなかなか離れない」様子から転じて、主に定年退職後の夫が、特に趣味もないために、妻が出かけようとすると必ず「ワシも(付いて行く)」と言って、どこにでも付いて来る様子を指すようになったと。いや、「君はぬれ落ち葉とは全く逆」との声も聞こえて来ますが・・・。宗務所。赤が輝く。『鐘楼』。文明2年(1470)虚白文玄禅師住山の時、祖宗道人より大鐘 が喜捨されたが、再三の兵火により焼失した。安永元年(1772)第116代実道禅師が造営されたが、大鐘は、第2次大戦に供出し、昭和25年(1950)第141代 鳳禅師によって再鋳された。袴腰付鐘楼なのであった。休憩所前の紅葉はこの秋の務めを終えて。本堂前の紅葉と散り紅葉(もみじ)。『本堂』。南北朝時代康安元年(1361)、近江国の領主・佐々木氏頼が、この地に伽藍を建て寂室元光禅師を迎えて開山され、瑞石山永源寺と号した。しかし、たび重なる兵火、火災によって焼失の難にあった。現在の建物は、明和2年(1765)第112代拙堂禅師の時、井伊家の援助により建立されたもので屋根は葭葺き(よしぶき)である。正面には本尊世継観世音菩薩、脇壇に一絲国師の尊像、歴代住持の位牌、井 伊家及び檀信徒の位牌が奉安されている。本堂隣の庫裡も兵火にあい、明和元年(1776)第117代怡山全育禅師の時に再建された 。庫裡は昭和54年(1979)雄峰禅師のとき改築された。現在は坐禅研修の道場として使われていると。国内屈指の葦葺大屋根に圧倒されたのであった。本堂を斜めから。五色幕(ごしきまく)の五色はお釈迦さまの御体や教えを表す色。緑、黄、赤、白、紫の五色が用いられていた。 緑=仏陀の頭髪の色。心乱れず穏やかな状態の禅定」(ぜんじょう)「定根」を表す。 黄=仏陀の身体の色。豊かな姿で確固とした揺るぎない「金剛」(こんごう)を表す。 赤=仏陀の血液の色。人々を救済しようとする慈悲心が止やむことのない「精進」を表す。 白=仏陀の歯の色。さまざまな悪業や煩悩を浄める清浄」(しょうじょう)を表す。 紫=仏陀の袈裟の色。侮辱や迫害に怒りを抑えて耐たえ忍ぶ「忍辱」(にんにく)を表す。こちらは赤と黄のもみじと散りもみじのBEST MIX。ズームで。書院近くの色合いの美しい紅葉のうねり。この廻りには禅堂、法堂、経堂、開山堂などがあった。法堂と紅葉と散り紅葉の絨毯。見事な枝分かれ。法堂にて竹灯篭『癒やしの灯り』が展示開催されていた。様々な姿の幻想的な竹灯篭を楽しんだのであった。石灯籠の庭園。七福神。阿修羅像。 ・・・その8・・・に戻る ・・・つづく・・・
2018.12.15
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湖東三山・百済寺の本堂に向かって更に進む。観音杉(かんのんすぎ)。樹齢430年と推定される境内最大の樹木。幹に耳を当て、音を聞く女性の姿が。手水舎。本堂を斜めから。国重要文化財・唐破風付入母屋造りの本堂。本堂は室町時代の明応7年(1498)に火災にあい、文亀3年(1503)に兵火をうけ、さらに織田信長によって天正元年(1573)全山焼失した。その後天正12年に堀秀政により仮本堂が建立。のち天海僧正の高弟亮算が入寺し、堂舎再興の勅許を得て諸国に勧進し、江戸時代の慶安3年(1650)現在の本堂が竣工したと。内部に外陣と内陣とに引違格子戸を用い、内陣の厨子には、秘仏本尊の2.6mもある巨像の十一面観音立像(奈良時代)を安置。本堂内部。室町時代明応7年に自火によって本堂付近を焼失し、古記録などの焼失によって寺歴を物語るものがなくなっているのだと。その後文亀3年の兵火、天正元年信長の焼き討ちにより更に衰徴し、現本堂は慶安3年の建立。しかし御本尊「十一面観世音菩薩」(別名:植木観音菩薩、全高3.2m)は背後の山を越えた8㎞先の奥の院に避難することができ焼失を免れていると。鐘楼。現在の梵鐘は3代目で1955年(昭和30年)の鋳造。初代は信長焼討ちの際に持ち帰られ、2代目(江戸時代に鋳造)は先の大戦で供出していると。市指定建築物。鐘を鳴らす順番を待つ観光客の列も。そして『千年菩提樹(せんねんぼだいじゅ)』。樹齢は推定約1000年。この菩提樹は山号にちなんで古来より「仏陀の聖樹」として崇められ、旧本堂の前庭であるこの地に植えられてありましたが、天正元年4月7日に惜しくも信長の焼き討ちにあい、幹まで焼損した。幸いにも熱が根まで及ばなかったために、幹の周囲から再び蘇って今日に至っていると。中央の空洞部(直径80cm)は焼き討ち当時の幹の直径に相当しているのだと。『千年菩提樹』越しに本堂を。黄葉から紅葉へと。赤の世界。帰路は脇道(なだら坂)を下る。姫沙羅(ひめしゃら)の冬芽であろうか、銀白色の絹毛におおわれていた。葉には雨の滴が。三椏(みつまた)植生群。冬になれば葉を落とす落葉性の低木であり、ジンチョウゲ科のミツマタ属に属する。樹皮には強い繊維があり、和紙の原料になる。しわになりにくく高級で、また虫害にもなりにくいので、1万円札などの紙幣や証紙など重要な書類に使われるのだ。3月から4月ごろにかけて、三つ叉(また)に分かれた枝の先に黄色い花を咲かせる。この路は人の数も少なく。姫沙羅の群生地の奥には黄葉が。再び境内に建つ「弥勒菩薩半跏思惟像」を。『百済寺生活環境保全林案内図』。散り紅葉の坂道を下る。これから黄葉するであろう木々も。黄色の世界を彷徨うが如くに。見上げれば一面の黄葉、下を見れば一面の散り黄葉(もみじ)。黄葉のトンネルがどこまでも。右手に表門が。表門も黄葉に包まれて。下に下ると駐車場方面であるが通行禁止。表門に下る石段を振り返る。再び石段の終点方向を。百済寺の紅葉と姫沙羅も見納め。桜の花も。御朱印を頂きました。「植木観音」の文字が。この地に、杉の大木の上半分が百済国・龍雲寺の御本尊となった巨木があり、その下半分に聖徳太子が十一面観音を刻まれたことから、御本尊:十一面観音菩薩は別名「植木観音」とも呼ばれているのです。 『百済寺』は真に様々な色合いの紅葉・黄葉に燃える『百彩寺』なのであった。 ・・・その7・・・に戻る ・・・つづく・・・
2018.12.14
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そして次には湖東三山の三つ目である百済寺(ひゃくさいじ)に向かう。百済寺は「くだらじ」と称すると思っていたが、ここの寺は「ひゃくさいじ」であることをこの時点で初めて知ったのであった。前方に名神高速道路が。そして百済寺(リンク)に到着。時間は12:45。百済寺は、滋賀県東近江市にある天台宗の寺院。山号を釈迦山と称する。本尊は十一面観音、開基(創立者)は聖徳太子とされる。金剛輪寺、西明寺とともに「湖東三山」の1つとして知られる。境内は国の史跡に指定されている。東近江市指定文化財として・三十六歌仙屏風 (さんじゅうろくかせんびょうぶ)・絹本著色日吉山王神像(けんぽんちゃくしょくひよしさんのうしんぞう)・木製絵馬があると。車を駐車場に駐め散策開始。こちらも真っ赤な紅葉が迎えてくれた。表門への坂道の紅葉。『百済寺 三百坊跡図』寺院は、急峻な山を背後に西へ向かって下る斜面に築かれていた。南北の尾根の間に、最盛期には三百もの坊・堂・院が立ち並び、1000人の僧侶が生活していたと。近年の調査により、山腹一帯に曲輪状の僧坊跡が実際に三百あったことが確認されていると。百済寺 境内案内図。表門を見ながら進む。残念ながら車であったので、赤門は見逃してしまった。一浩作のフクロウが設置されていた。2羽のフクロウが「天下遠望の名園」として有名な庭園の入口で、参拝する人々をお出迎え。「フクロウは首が360度回り周囲を見渡せると言う所が、ご本尊の十一面観音様と通じるものがある。」と。そして登録文化財である喜見院書院(ほんぼうきけんいん)の庭である庭園が目の前に。喜見院は阿弥陀如来をお祀りしていると。昭和15年に仁王門南側から現在の位置に移築され、それにともない庭園も旧本坊のものを拡張改造された。寺社庭園としては、県内最大級で巨石群の配置が見事なのであった。これらの巨石は旧本坊庭園とさらに百済寺山内の谷川から集められたものを組み合せて作庭されたと。また、庭内には中世の石造品の残欠も多く見られるのだと。水量たっぷりの池と、高く積み上げられた岩が特徴的な池泉廻遊式ならびに観賞式の庭園。池の周囲の岩の路を紅葉を楽しみながら散策。池には立派な姿の鯉も。池泉廻遊式庭園の見事な紅葉。巨石の間から逞しく。真っ赤な紅葉の先に静かな池の水面が。展望台へ向かいながら庭園を見下ろす。『垂水の瀧音』『オアシスの水音』。確かに水が流れ、『オアシスの水音』の雰囲気は判らなくもないが、「仏教伝来のシルクロードのほとり」は自画自賛しすぎ・・・??庭の最上段には近江平野を一望できる遠望台が。展望台からは、湖東平野と琵琶湖をかすめて比叡山が望めると。しかし、この日は残念ながらちょっと視界が悪かったであった。『天下遠望の名園』。展望台からの眺めの解説。散り紅葉(もみじ)とのコラボに感動。信長は、敵対した将軍義昭と講和した後に琵琶湖東の百済寺を本陣として近江六角氏の残党を鯰江城に攻撃し、佐久間・蒲生・丹羽・柴田の四将に命じて井元城・中戸城など付城を築かせて囲んだ。予てより信長は、近江観音寺城から追った六角氏と延暦寺派の寺院勢力が結びつくのを警戒し、多くの僧兵を擁している近江愛知郡の百済寺に安堵状を与え、寺を祈願所にするなどして懐柔していた。ところが、その百済寺が六角氏に協力しているとわかって信長はこれを焼き討ちにした。その後将軍義昭が再度敵対する姿勢を見せ始め、信長はそれに備えて琵琶湖で大船を建造させるのであった。人の姿が入らない瞬間を。弥勒半跏石像(みろくはんかせきぞう)。境内に建つ「弥勒菩薩半跏思惟像」。座高1.75m・全高3.3mの石像で、百済寺寺宝、金銅製弥勒像(像高27cm)は秘仏であり、平素のお参りとして拡大したもので、2000年のミレニアムを記念して建立したと。『姫沙羅』の群生地。ヒメシャラ(姫沙羅)はツバキ科ナツツバキ属の落葉高木。ナツツバキに似るが花も葉も小ぶり。「百済寺の山号である「釈迦山」に因んで植えられた仏教の三大聖樹の「千年菩提樹」とほぼ同時期に開花し、広大な緑の「石垣参道」と境内全域が「芳香のブレンド」で溢れ、お参りする方々の心を洗い静めて、癒やしてくれます」と。紅葉のプロセスが一目で解る空間。左右の大きな杉並木の参道を行くとやがて、寺を守る守護神「阿形」と「吽形」の「金剛力士」が立つ本堂の前門の「仁王門」が見えて来た。右前方の石垣は城塞化された「百済寺城」の一部であると。小石を積み上げた石垣であった為、織田信長も安土へ「石曳」せず、破壊されずに残ったと。「大草鞋(おおわらじ)」が掛かっていた。浅草・浅草寺仁王門の4mの大草鞋にはかなわないが、仁王門を通過する参拝者が健脚、長寿の“願”をかけるようになり、草鞋が大きいほど御利益が大きいからと、どんどん大きくなって3mにもなったと。仁王門で頑張る「金剛力士」の50cmほどの「鞋」も、1000年もの時が過ぎると、3mの「大草鞋」になるのであった。ここでは、地元の檀家の方々によって10年毎に新調されるのだと。そして今年の10月19日に10年に一度の百済寺仁王門「大草鞋」新調・取替が行われたと。この「大草鞋」 は「百時巡礼の五木寛之さんが願掛けの大草履」の張り紙も。三間二間で一対の金剛力士像(阿形)。迫力満点であったが、ピントが金網に・・・・。金剛力士像(吽形)。本堂に向かって急な坂道を更に。『百寺順礼の五木寛之さんの参拝時の讃辞』「仁王門をくぐって、この石段を登って行くと目の前に、石垣があって、その上に何とも云えない風情の本堂が、まるで、空中楼閣のようにグッーと空中に上がって見えてくる所も、この百済寺の魅力の一つかもしれませんね・・・(ご参拝:平成15年11月4日)」。仁王門を振り返る。『百済寺の美を絶賛した人々(文筆家)』仁王門は歴史に翻弄された遺構であり、『百済寺』を絶賛した古今の文筆家の通過点であったと。●鎌倉:藤原定家「明月記」 ●中世:飛鳥井雅親 ●安土・桃山:Louis Frois(宣教師)●江戸:春日局(本堂寄進・参拝者)●昭和:白洲正子、小林秀雄、岡部伊都子「古寺巡礼」●平成:五木寛之「百寺巡礼」(第35番)、白洲信哉「古都逍遙」(第48番)『開運 弁財天』。「慶安3年(1650年)に本堂とともに建立された弁天堂は、昭和の豪雪で倒壊し、平成8年に新築した御堂が平成24年の春の旋風で再び倒壊し、現在は平成25年に再建され、七転び八起きの弁天様が祀られています。 弁財天は、もともとインドの水を司る「河川の神」で、怒ると大洪水を、治まると台地に肥沃な恵みをもたらす「女神」として崇められ、仏教に取り入れられてからは七福神の一人として、貧困を救い財産を与える「弁財天」となりました。」 ・・・その6・・・に戻る ・・・つづく・・・
2018.12.13
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湖東三山・金剛輪寺・天寿院の庭園の紅葉を更に楽しむ。この池で使われている石は、みんな重厚で年季が入ったらしいものばかり。「桃山風」の名に恥じない貫禄を見せていた。苔むした岩や石垣を背景に、紅葉が水面に影を映すという、これぞ幽玄の美。 この寺の紅葉は色が鮮やかなので「血染めのもみじ」と呼ばれるのだと。 昔の織田信長による「焼き討ち」への恨みを反映しているのであろうか。縦向きの画像で。左手に千体地蔵。十三重石塔。参詣道の脇だけでなく、両サイドに更に風車をお供えした千体地蔵が並んでいた。『南無水子地蔵尊』。二天門への階段を上る。二天門前には多くのツアー観光客が。金剛輪寺と書かれた提灯が対で。そして金剛輪寺・本堂に到着。本堂前の紅葉。『国宝 金剛輪寺本堂』説明板。金剛輪寺の本堂は、元寇を退けたその戦勝を記念して、近江国の守護であった佐々木頼綱(ささきよりつな)の寄進により建てられたものであるとされる。築年は堂内の須弥壇に付けられた金具に弘安11年(1288年)という刻銘が打たれている事から、本堂もその年に建てられたものであると考えられているが、本堂内部に見られる木鼻の装飾や構造の様式から、室町時代前期の建造であるとする説もあり、本堂の建造年についてはいまだはっきりしていない。その建築は桁行七間で梁間七間、天井の高い規模の大きな和様建築であり、屋根は一重の入母屋造で、檜皮によって葺かれている。本堂横の紅葉を楽しむ。奥に鐘楼が。そして手前では、モミジ葉を拾う外国人青年の姿が。丁寧にティッシュに挟み込もうと。これぞ「錦秋染まる金剛輪寺」。三重塔が奥に。三重塔は重要文化財、鎌倉時代 寛元四年 1246年、桧皮葺、高さ 22.15m。「山見えぬ 日も山へ咲く 桐の花 都峰」の句碑が。豊田 都峰(とよた とほう 1931年1月13日 - 2015年7月25日)は、京都府出身の俳人。立命館大学文学部卒とのこと。待龍塔と呼ばれ、古文書によれば寛元4年(1246)4月9日の記があり国宝の本堂より40年余り先に建立されたと。初層の軒反りが美しく、二層部の組物は三手先、軒は二軒繁垂木とのこと。三重塔廻りの紅葉を楽しむ。地面を覆う「散り紅葉」の美も最高。三重塔奥より。二天門と線香鉢。本堂(国宝)脇の「血染めの紅葉」を堪能。大香炉。常に煙があがっているので「常香炉」と呼ばれているとも。丸い壺のような形の香炉には、宝形型の屋根がついており、この日の時折の雨の中でも線香の火は消えず、いつでも煙がでていたのであった。鐘楼。鐘楼の鐘をならす旅友。彼女のつく鐘の音の勢いで空気も振動して、画像にも影響が。何をお願いされたのであろうか?香炉の屋根越しに本堂屋根を。向かって左に阿形像・持国天(じこくてん)を祀る。お顔をアップで。向かって右に吽行像・増長天(ぞうちょうてん)。お顔をアップで。迫力にシャッターの指が震えてしまいました。『地蔵堂』と刻まれた石碑。『地蔵堂』地蔵堂内部。地蔵堂を横から。散り紅葉も刻一刻と色合いを変えて。「泰荘(はたしょう)のやまいも」と書かれた幟。300年以上受け継がれてきた伝統の味で、出荷までに足かけ3年の月日がかかると。長芋と全く違い、粘土質の土壌で育った「秦荘のやまいも」は箸で持ち上がるほどの強い粘りをもち、疲労回復・滋養強壮に良いとされる食材であると。地上の紅葉と散り紅葉を同時に楽しめる時期と空間。至る場所に。愛荘町立歴史文化博物館に立ち寄る。顔出しパネルで記念撮影する旅友二人。平成30年度秋季特別展 「至高の刺繍絵画」展が開かれていた。「仏教の伝来と共に興隆した刺繍文化。明治に入り、繊細な花鳥図や写実的な 風景図などの意匠が図案として採用されるようになった。独自の染色技術で 染め上げた光沢と質感をもつ絹糸で縫い表され、絵画と見紛うそれらの作品 は「刺繍絵画」などと呼ばれた。展覧会では、世界最初の公立博物館である英 国アシュモレアン美術・考古学博物館でも公開された、イセ文化財団が所有 する刺繍絵画の数々を展示している。」と。そして「血染めの紅葉」の文字も。この博物館の庭も見事な紅葉の世界。水場の自然の芸術美。『うらを見せ おもてを見せて 散る紅葉』。『散る紅葉 残る紅葉も 散る紅葉』。良寛和尚の辞世の句。あらゆる命には限りがある。限りがあるからこそ、充実した生を生きようとするのだ、と。そして金剛輪寺の御朱印をいただきました。そして旧秦荘町の汚水マンホール。秦荘と書かれた旧町章をバックに町の鳥:キジ、周りに町の花:ツツジ町の木:ウバメガシや稲と麦が描かれているのだと。秦荘町と愛知川町が平成18年に合併し愛荘町が誕生したのだと。 ・・・その5・・・に戻る。 ・・・つづく・・・
2018.12.12
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湖東三山・西明寺の紅葉を堪能し、その余韻を身体に感じながら次の金剛輪寺(こんごうりんじ)に到着。金剛輪寺の前に駐まる観光バスの黒の車体には真っ赤な紅葉の姿が映っていた。金剛輪寺の黒門。黒門の中央につるされていた大きな朱の提灯には「聖観音」と。そして裏の境内側には『松峯山 金剛輪寺』と。金剛輪寺は、滋賀県愛知郡愛荘町にある天台宗の寺院。山号は松峯山。地名から松尾寺ともいう。本尊は聖観音菩薩、開基は行基とされる。西明寺、百済寺とともに湖東三山の1つに数えられる。黒門の正面左側の紅葉。黒門の正面右側の紅葉。この寺の御詠歌『わけいりて 佛の恵み 松の峰 嵐も法の 聲かとぞきく』。「近江西国三十三箇所」第十五番、本尊聖観世音菩薩」と刻まれていた。黒門を潜ると右側に拝観受付所が。『境内案内図』。 【http://kongourinji.jp/precinct/】より『参拝順路』朱に染まった紅葉の混沌空間の下の参道を進む。 途中、大きな野猿が木に登っていく姿を発見。見上げるとこれも真っ赤な大きな尻が。緑の苔の上に赤、黄の濡れ落ち葉・散り紅葉が一面に。我もこの中の一枚にならぬようにと。モミジ葉が一枚クモの糸に繋がれて。参道脇の黄色の世界が迎えてくれた。そして歩を進めていくと、今度は赤の世界が待っていてくれた。そして再び黄色の世界が。またまた赤の世界が現れる。正面に『西谷堂』。ご本尊は阿弥陀如来と。赤い涎掛けの地蔵様が二体。右は『阪神大震災犠牲者追悼』と刻まれ、左側には『平和祈願』、『戦没者追悼』と刻まれた石柱の後ろに平和地蔵が。正面に『赤門』が。未だ紅葉していない緑葉のモミジが存在感を示していた。黄葉アーチの先に親地蔵尊が見える、そこが『白門』のあるところで名勝庭園への入り口になっていた。名勝庭園経由で千体地蔵参道へ出てそこを上り詰めて本堂へ至るコースを選んだ。白門前の『親地蔵尊』。『国宝 己を忘れて他を利する』と刻まれた石柱。庭園の入口の『白門』。白門を入ると目の前が本坊の明寿院。名寿院の紅葉。『名勝 金剛輪寺名寿院庭園』説明板。池泉回遊式庭園。桃山、江戸初期、中期の三庭からなり、作者不詳だが、老杉蒼松の自然を背景とし、灯籠泉石樹木の配置等、素晴らしく、晩秋の深紅に染まる色鮮やかな紅葉は「血染めのもみじ」と広く知られていると。観音様のやさしい心が満ち、湖東三山一の名園古庭であり、国の名勝にも指定されていると。庭園へは右の門から入る。庭園の入口の門の瓦屋根には落ち葉が積もり。本坊明寿院玄関。本坊・明寿院はかつては学頭所として使われた建物で、昭和52(1977)年に火災で書院、玄関、庫裏を焼失。現在の建物は翌年再建されたと。欄間に掲げられた「堪忍」の文字が印象的。明寿院境内に建つ護摩堂が紅葉の奥に。江戸中期の1711年(正徳元年)の建立。護摩堂に近寄って。明寿院本坊の南・東・北の三方を囲むように庭園があり、心の字池が3庭を結んでいる。3つの庭は、作庭された年代がそれぞれ異なる池泉回遊(ちせんかいゆう)鑑賞式(かんしょうしき)の庭園で、それぞれが名勝に指定されている。桃山時代に造られた庭は、「石楠花(しゃくなげ)の庭」と呼ばれ、庭の中央に架けられた優雅な石橋のそばに、鎌倉時代に作られた苔むした多くの石が配され、品格のある雰囲気。春になると、庭のそばにある護摩堂のカキツバタやシャクナゲが鮮やかに咲き、華やかになるのだと。池の底にはモミジ葉が沈み、これも美しい光景。本坊前から本坊庭園を部屋越しに見る。人の入らない瞬間にシャッターを。本坊庭園も紅葉の真っ盛り。明寿院中庭。江戸初期の庭園庭の中央には優雅な石橋が架けられ、鎌倉時代に作られたという宝篋印塔(ほうきょういんとう)が配された、品格のある古庭。再び池に沈むモミジ葉を。護摩堂を別の場所から。江戸中期の1711年(正徳元年)の建立。明寿院南庭。桃山時代の庭園。龍の襖絵。茶室『水雲閣』案内板。本坊の前から眺めた「東庭」の核心部は、こんな景観。この池は左右に長く伸びており、築山は左の峰と右の峰に分かれ、その鞍部に大きな三尊石。これと対面するように島に石の五輪塔。 築山の上部は背の高い楓の紅葉、築山の斜面と池の手前にサツキの玉刈り込みが。この庭は「桃山の庭」と称されているが、作られたのは江戸時代らしいとのこと。右手奥には茶室・水雲閣が。江戸中期の庭は、滝から池に水が流れ・・池の中に七福神の宝船を表わす岩でできた舟が配されていた。 ・・・つづく・・・
2018.12.11
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湖東三山・西明寺の紅葉の絶景を追い続ける。正面に二天門が見えて来た。建築年代は室町 応永14年(1407年)とのこと。正面両脇間に金剛柵を設けて増長天(ぞうじょうてん、ぞうちょうてん)・持国天(じこくてん)を祀るため二天門と呼ばれる。その胎内から正長2年(1429年)の銘札が発見され、仏師法印院尋の作であることがわかり、町の文化財に指定されていると。組物に応永14年(1407年)の墨書があり、室町時代中期の建築である。正面の柱間が三間で出入口が中央一間の入母屋造りの八脚門で、柱上には二手先の組物をのせて支輪をつけ、全体は和様であるが柱下の礎盤や頭貫先に繰形つきの木鼻をつけるなど僅かに禅宗様を加えているのだと。二天門へ登る道両側には、穴太積(あのうづみ)の初期のものともされる石垣も残っていると。二天門の巨大な草履と横の楓の黄葉も見事。増長天像(阿形)。増長天は、四天王の一体、南方を護る守護神として造像される場合が多い。仏堂では本尊の向かって左手前に安置するのが原則であると。足下に邪鬼を踏みつけ、左手に戟(げき)を持ち、右手を腰に当てた姿に表されている。持国天像(吽形)。持国天も四天王の一体、東方を護る守護神として造像される場合が多く、仏堂内部では本尊の向かって右手前に安置されるのが原則。右手を拳にして右腰に置き、左手に刀を持つ姿で描かれると。本堂境内の紅葉。西明寺 本堂。内部には、干支の守り神 十二神将像などがあると。西明寺 三重塔。内部見学可能(有料:別料金)。内部の壁と天井は、極彩色であると。黄葉越しに三重の塔を。1571年9月、比叡山延暦寺を焼き打ちした信長は同じ天台寺院の西明寺にも丹羽長秀らが率いる軍勢を差し向けた。僧と農民が協力して坊舎を燃やし、全山が炎上したかのように見せかけて、本堂や三重塔、二天門(室町時代、国重要文化財)を守ったとの伝承があるのだと。桧皮葺、3重3層でそれほど大きくないが、均整のとれた優美な塔。鎌倉時代に建てられた本堂と三重塔は国宝に指定され、中世天台建築の宝庫といわれる滋賀県の代表格に挙げられる。三重塔は内部は四天柱に菩薩像、天井と長押に宝想華など花鳥模様、四壁に法華経解説図、扉に八天像、柱に八大竜王が極彩色で描かれているのだと。 【https://www.nikkei.com/article/DGXLASHC30H21_Q4A031C1AA1P00/】より国宝の三重塔の周囲の紅葉・黄葉を様々な角度から。いつまでも佇んでいたい空間。雨後の紅葉観賞であったが、陽光が射し込めば別の世界が拡がるのであろう。そして帰路に。往路とは異なる脇道を下る。紅葉の混沌とはこのことか?多くの五輪塔が涎掛けも可愛らしく。絶景かな、絶景かな!!既にこれ以上の言葉が見つからない表現能力の貧困な私。十一面観音像。紅葉をバックに。雨に濡れ美し横顔をズームで。様々な角度から。二天門を再び振り返る。往路とは又違った光景を楽しめた復路の紅葉。『伝教大師尊像』を再びズームで。お顔を更にズームで。庭園の入口の中門を再び。石畳の階段を下る。杉と紅葉の共演のトンネルの下を下る。モミジ葉も務めを終えて?再び小雨も落ちて来たが。何と表現すべきか?御朱印を頂きました。いただいた御朱印には、薬師如来をお祀りしているお堂「醫王殿」と墨書きされていました。 ・・・その3・・・に戻る ・・・つづく・・・
2018.12.10
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旅友Kさんと彦根駅で合流し、4人で滋賀・湖東三山の一つの西明寺に向かう。この湖東三山は、琵琶湖の東の山すそで名神高速道路の東側に、北から西明寺、金剛輪寺、百済寺と並んでいるのです。西明寺(さいみょうじ)に到着。時間は9:27。龍応山西明寺は平安時代初期の834年に創建され、滋賀県犬上郡甲良町大字池寺にある日本100古寺に選ばれた天台宗の古刹。本堂は鎌倉時代を代表する建造物で国宝第一号。本尊は秘仏薬師如来で、釈迦如来、不動明王(いずれも重文)や十二神将などと共に本堂に安置されている。『西明寺略縁起』「当寺は平安時代の承和元年(834年)に三修上人が、仁明天皇の勅願により開創された寺院である。寺伝によると、本堂裏の閼伽池で三修上人が礼拝されると、池中より霊霞が立ち昇り、薬師如来が日光・月光両菩薩、十二神将を随えて現れたといわれている。上人はたいへん感激され、その薬師如来の尊像を立木に彫刻され西明寺の本尊とされた。平安、鎌倉、室町の各時代を通じて祈願道場、修業道場として栄え、山内には諸堂17、僧坊300を有する大寺院となり、源頼朝が来寺して戦勝祈願をされたと伝えられている。戦国時代には織田信長により焼き討ちされたが、幸いに国宝第一号指定の本堂、三重塔(国宝)、二天門(重文)が火難を免れ現存している。その焼き討ち後、荒廃した寺を江戸時代延宝年間に天海大僧正、公海大僧正の尽力により、望月越中守友閑が、祈願、修行道場として復興され、その後代々の住職が寺観の保持に尽力されて現在に至っている」と。『境内図』。ここには国宝の本堂と三重塔がある。西国薬師四十九霊場第三十二番札所でもある。山門手前の紅葉はその後の境内の紅葉の素晴らしさを暗示していたのであった。山門を潜る。600円を支払いチケットを購入する。チケットとパンフレットも頂く。山門をくぐると参道が続き、山坊跡の石垣が散在しており、平安、鎌倉、室町時代を通じて祈願・修行(しゅぎょう)道場として栄えたことがうかがわれたのであった。左手には天然記念物、樹齢250年と言われる『不断桜』が花を付けていた。『不断桜』は四季を問わず、秋から冬にかけて5弁の白い花をつけるサトザクラ。例年9月上旬に咲き始め、11月に満開を迎えるので紅葉と花見を両方楽しむ事もできるのだと。そして左手の庭園の紅葉。ズームで。雨後でもあり苔の緑も鮮やか、そして一片の真っ赤なモミジ葉が。参道を進む。参道の紅葉のグラデーションは見事。この写真の紅葉は五色の紅葉と呼ばれており、建立されてからずっとこの秋になると、美しい紅葉のグラデーションを来訪者に見せてくれるのだと。小さな石塔、石仏も緑の苔と落葉したモミジ葉の絨毯の上に。見事な苔とモミジ葉の絨毯。絶景意外に言葉がない光景が続く。参道の落葉を吹き飛ばしている作業員の姿が。参道の階段を登る。小さな石仏が並ぶ。紅葉と黄葉のBEST MIX。黄葉を主張する木々。黄色から赤に向かって。黄葉から紅葉へのプロローグ。紅葉は1日の最低気温が8℃以下になると紅葉が始り、5~6℃以下になると一気に進むと。鮮やかに紅葉するには日中の気温が20~25℃、夜間は5~10℃くらいで、昼夜の気温の差が大きいことが重要だと。温度差が15℃あると飛躍的に進むのだと。更に階段が続く。庭園手前の石垣と土壁。階段の頂上手前から見上げる絶景。庭園(表庭)出入口。 天台宗の開祖『伝教大師尊像』。最澄(さいちょう)は、平安時代の僧(766/767年 - 822年)。日本の天台宗の開祖であり、伝教大師として広く知られる。近江国(滋賀県)滋賀郡古市郷(現在の大津市)に生れ、俗名は三津首広野(みつのおびとひろの)。生年に関しては天平神護2年(766年)説も存在する。 中国に渡って仏教を学び、帰国後、比叡山延暦寺を建てて天台宗の開祖となった人物。前方に二天門が見えて来た。庭園に入る。ここにも不断桜が開花。名勝『蓬莱庭(ほうらいてい)』。蓬莱とは、不老不死の仙界の意味で、その島にあこがれる蓬莱思想が鎌倉時代に最も流行し、これが作庭技術にも採用されて来た。本庭は、その鎌倉期に代表される回遊式庭園を取り入れたもので、池全体が羽を広げた鶴を形どっており、池泉の周囲を巡り池に浮かぶ島々を眺めて、もしも自ら仙界に遊ぶ境地に到達されたなら、鑑賞者の心と作庭家の心とがその時こそ一致した時だと。江戸時代中期に、望月友閑(もちづきゆうかん)が小堀遠州の庭を手本にして作庭したといわれる池泉回遊式蓬莱庭園。 斜面に配された石組みは、薬師如来をあらわす立石、日光・月光の三尊仏、十二神将など仏を表現しているのだと。山の斜面を上手に利用し、枯滝を中心に刈り込みや心字池を配し、池の中には折り鶴の鶴島や亀島がみごとな調和を見せていた。 園内には石屋弥陀六の作と伝えられる燈篭などがあり、国指定の名勝庭園となっている。黄葉から紅葉に変化する道程が。ズームで。紅葉する樹木にはさまざまな種類がありますが、ひときわ華やかな「楓」こそ紅葉の王者ということで楓を紅葉(もみじ)と呼ぶこともある。ほかの木の紅葉は「漆紅葉」(うるしもみじ)、「桜紅葉」(さくらもみじ)などと、木の名をかぶせて区別していると。更にズームで。葉が黄色くなるのは、色素「カロテノイド」による。この色素は若葉の頃から葉に含まれているが、春から夏にかけては葉緑素の影響で視認できない。秋になって葉緑素が分解することにより、目につくようになるのです。葉が赤くなるのは、色素「アントシアン」による。アントシアンは春から夏にかけての葉には存在せずに、秋に葉に蓄積したブドウ糖や蔗糖と紫外線の影響で発生するのです。『龍神社』西明寺は龍応山、故にやはり龍が居るのであろうか?『稲荷大明神』。屋根のやや傾いた小さな拝殿。『夫婦杉(千年杉)』。樹齢約1000年の木は、良縁や子授けが叶うという不思議なパワーがあるのだと。幹や根にそっと手をあてている人の姿も。西明寺参道を振り返る。 ・・・その2・・・に戻る ・・・つづく・・・
2018.12.09
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彦根城と城下町の建設は、今からおよそ414年前の慶長(けいちょう)9年(1604)に始まり、20年近い歳月を経て完成。その中心をなしたのが、天守のある本丸。現在の本丸には天守の建物しか残っていないが、かつては藩主の御殿である「御広間(おんひろま)」や「宝蔵」、そして「着見櫓(つきみやぐら)」なども建っていたと。美しい紅葉と天守閣。安土桃山時代から江戸時代に建造された天守のうち、12ヵ所の天守が現存するが、彦根城の天守はその一つで、さらに国宝に指定されている天守を持つ5城のうちの一つでもある。因みに5城は姫路城、松本城、彦根城、犬山城、松江城である。そして私が2015年に制覇した日本城郭協会選定による「日本100名城」スタンプラリーの城でもあるのだ。天守は3階3重、つまり3階建て3重の屋根で構成。規模は比較的小ぶりだが、屋根は「切妻破風(きりづまはふ)」「入母屋破風(いり もやはふ)」「唐破風(からはふ)」を多様に配しており、2階と3階には「花頭窓(かとうまど) 」、3階には高欄付きの「廻縁(まわりえん)」を巡らせるなど外観に重きを置き、変化に富んだ美しい姿を見せてくれていた。城郭は、戦とともに発達してきたものだが、彦根城は対大阪城という意図で築城されたものの、一度も戦を経験することなく明治時代を迎えたと。江戸時代を通して藩主がこの天守を訪れることは余りなく、天守には歴代藩主の甲冑(かっちゅう)などが収納されていた。江戸時代のこの天守は、軍用建築というよりも、城下から見上げる彦根藩の象徴という役割を担っていたのだと。天守の横を通り西の丸方面に足を延ばす。正面に西の丸三重櫓が見えて来た。彦根城内には、天守のほかにも2棟の3階建物があったと。1棟が現存するこの西の丸三重櫓で、もう1棟が明治初年に取り壊された山崎曲輪(くるわ)の三重櫓。国の重要文化財に指定されている西の丸三重櫓は、本丸に隣接する西の丸の西北隅に位置しており、さらに西に張り出した出曲輪(でぐわ)との間に設けられた深い大堀切(おおほりきり)(尾根を切断して造られた空堀)に面して築かれている。大堀切の底から見上げる三重櫓は絶壁のようにそそり立っており、西の搦手(からめて)(裏手)方面からの敵に備えた守りの要(かなめ)であった。西の丸三重櫓近くから琵琶湖を見る。見える島は琵琶記最大の島・沖島。滋賀県近江八幡・琵琶湖の沖合1.5kmに浮かぶ島。日本では唯一淡水湖に浮かぶ有人島で、なんと離島地域にも指定されているのだと。そして荒神山から見た多景島(たけしま・たけいしま)の姿が再び。遠く焼却場の姿も。私も何回か通った懐かしき焼却場。西の丸方面から切り立った石垣が北東方面に。玄宮園が下方に見えた。城の北東にある大名庭園で、琵琶湖や中国の瀟湘(しょうしょう)八景にちなんで選ばれた近江八景を模してつくられた。4代藩主直興により延宝5年(1677年)に造営された。その先には滋賀県立彦根野球場が。天守閣を北側から見る。赤い紅葉が天守閣を背景に。西の丸から本丸方面への入口。天守閣を南東側から見る。天守台の北面西寄りに一段低い位置に『附櫓』が設けられ、さらにこの東面に多聞櫓が取付いて天守の北面を囲う一体的な構成になっている。天守にほかの櫓が密着している場合は、その櫓を「附櫓」というのだと。右側の天守入口の案内がある建物が多聞櫓。多聞櫓は、天守と附櫓(つけやぐら)で連結されている建物で、彦根城天守と同じく国宝に指定されている。その多聞櫓の、鉄砲や矢を放つ「狭間(さま)」を備えた北側の壁面の白い漆喰の白壁が、昨年の台風で甚大な被害を受けたのだ。平和な時代の現在では、多聞櫓が天守内部を見学するときの入り口として使用されている。南東側の着見台への階段下から天守を。佐和山にある佐和山城跡と彦根市街を彦根城・着見台から望む。表御殿の背後には、かって9.8m(5間)に10.6m(6間)の二重櫓があって着見台(月見櫓)があった。この辺りは城内で最も高処に近く、石垣に向って階段状に上る石段となっている。此処は、月見台ともいわれ、東の山から上る月を見るのに、此の上なき処であったとのこと。佐和山城は標高は232m、比高は134mの山城で、丹羽長秀や石田三成の居城であり、東山道(中山道)(現在の国道8号)の抑えであったと。尚、琵琶湖の水面の標高は約84mとのこと。1582年6月、明智光秀の本能寺の変のあと清洲会議にて、明智光秀の討伐に功があった堀秀政に佐和山城は与えられ、掘秀政は翌年1583年に入城。1585年、佐和山城主に堀尾吉晴が就任したあと、1590年?に豊臣秀吉の五奉行である石田三成が佐和山城主となったのだと。石田三成は、当時荒廃していた佐和山城の大改修を行い、山頂に五層天守(三層説もあり)を設けて立派な近世城郭にしたと。「三成に過ぎたるものが二つあり。それは島の左近と佐和山の城」と豊臣秀吉に言わせたと。帰路は大手門方面へ。大手門への坂から天秤櫓を振り返る。大手門側入口。金亀山地蔵尊。この御堂は、彦根山に彦根城を築城するにあたり、山の中にあったお地蔵様を邪魔にならないように集められたもの。安置されている地蔵様の正確な年代は分からないが、築城が開始された江戸時代初期の頃より前のものである事が分かる古い地蔵様であると。大手門橋を渡る。大手門橋からの内堀。滋賀県立彦根東高校の校門の先には甲子園出場記念の石碑が。近年では平成21年春、25年夏、29年春、30年夏に出場しているようであった。彦根東高校は、1798年に現在彦根西中学校の校庭がある西内曲輪に建てられた藩校(99年に稽古館と命名)を前身とするのだと。現在の場所に移ったのは1889年(明治22年)である(滋賀県尋常中学校)。ジャーナリスト田原総一朗氏の母校であると。彦根城の内堀と中堀に挟まれた旧彦根藩家老屋敷跡にある高等学校。駐車場に向かう途中に日本国旗を玄関に掲げている民家が。日本人はなぜ自宅に国旗を掲げなくなったのであろうか?恐らくは、幼い頃から街を走り回っていた街宣車などのイメージからか?彼らは「右翼」と呼ばれ、「愛国」はそのイメージに結び付けられていたのでは。近年のグローバル化の進行で少しずつ変わってきた気はするが、そもそも「愛国」以前に日本には「自国」という意識があまりないような気がしているのである。日本が島国で他国との国境線がない故に、「自国の領土」などを考える必要性を感じる機会が乏しいからなのであろうか?そう言う私も、自宅に日本国旗を持たないのではあるが・・・・。車に戻り、彦根駅に向かうべく京橋口から城内に車で再び入る。曲がる場所を間違え、玄宮園方面に。二期咲き桜が開花中。そしてUターンして『いろは松』の横を通過。彦根城天守の東、佐和口多聞櫓へと向かう通りの松並木は「いろは松」と呼ばれている。 いろは松は二代藩主直孝の頃に植えられた、中濠沿いの松並木。47本あったことからいろは47文字にちなみ「いろは松」と呼ばれるようになったと。そして彦根駅前に到着し9時に合流予定のKさんの到着を待つ。彦根駅前に立っている『井伊直政公之像』を車窓から。彦根駅改札口。彦根城、佐和山城跡を「ひこにゃん」が案内。国宝『彦根屏風』ジャンボ複製が改札を出た所に。彦根屏風(ひこねびょうぶ)は、江戸時代初期に描かれた風俗画。紙本金地著色、六曲一隻、縦94.0cm、横271.0cm(本紙のみ)の中屏風画である。1955年に国宝に指定。国宝指定名称は「紙本金地著色風俗図(彦根屏風)」。描かれた場面は近世初期、京都六条柳町(通称三筋町)の遊里であると。当時、六条柳町の太夫は同時に四条河原町で演じられる遊女歌舞伎の演者でもあった。こうした遊里や歌舞伎といった享楽的で華やかな題材にもかかわらず、絵にはどこか冷たく寂しげな雰囲気が漂うのだと。彦根屏風の名は、彦根藩井伊家に伝わったことによるのだと。山水画の屏風を背景に遊女が囲碁を打って楽しんでいる様子が描かれていた。そして彦根駅前に立っている『井伊直政公之像』を再び。「永禄四年(1561年)現在の静岡県井伊谷に生まれ、幼少の頃から文武両道に励み、慶長五年(1600年)に徳川四天王の一人として天下分け目の合戦で知られる関ケ原の戦で功をあげ、石田三成の居城であった佐和山城を与えられ、十八万石の大名となった。その後、城を現在地の彦根山へ移そうとしたが、同七年(1602年)四十一歳で病没し、子らが直政の遺志を受け継ぎ二十年の歳月を費やし元和八年(1622年)彦根城を完成させた。こうして、彦根三十五万石初代藩主井伊直政公は、今日の彦根市発展の礎を築いたのである。」と。『ようこそ ひこねへ』の時計塔、時間は8:35。時計台の横に「彦根縁起」が。彦根という名は、彦根山に祀られていた活津(いきつ)日子根(ひこね)命(みこと)に由来するという。奈良時代には、藤原不比等親子が、平城京にも劣らない都市をつくり、平安時代は、彦根山に金の亀に乗った観音さんがあり、彦根山の別名を金亀山とも呼び、参詣詣りで賑わい、のちに築城された彦根城を金亀城とも呼んでいたという。 ・・・その1・・・に戻る ・・・つづく・・・
2018.12.08
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今年も11月22日(木)に出発、そして翌日からの3連休を利用して、滋賀県の湖東三山、愛知県の香嵐渓の紅葉そして小原四季咲き桜を楽しんで来ました。今年も茅ヶ崎に住む旅友のSさん、そして同じく横浜に住むUさんの三人で琵琶湖に向かい彦根駅で愛知県岡崎市に住む同じく旅友のKさんと合流したのです。Sさん宅まで我が車で向かい、車を乗り換えSさんの愛車で23:30に茅ヶ崎駅でUさんと合流し、寒川南ICから圏央道を利用して東名高速道路に向かって走る。時間は23:56。圏央道から東名高速道路下りの大井松田IC~御殿場IC間の左ルートを走る。私が交代して運転し、助手席の旅友が撮影してくれた写真。旅友のカーナビは地図が最新版に更新されていないため、地図には無き高速道路を走っていたのであった。愛知県豊田市に敷設された、東名高速道路と伊勢湾岸自動車道が接続する豊田JCTを通過。時間は3:08。 岐阜県養老郡養老町にある名神高速道路の養老SA手前を通過。時間は4:03。名神高速道路彦根ICにて下り、曽根沼に向かう。そして曽根沼湖畔で日の出を待つ。東大寺正倉院所蔵の麻布の絵図のひとつには、現在の曽根沼がある所に荘園が描かれていると。つまり当時(751年)は低地ながらも陸地だったようだと。しかし荒神山の山陰にあたり、宇曽川や愛知川の堆積がもっともおよびにくい部分であるため、やがて沈水して内湖になったと考えられると。時間は5:15。。遠く彦根方面の沼畔の灯りが見えた。時間は5:15。曽根沼は琵琶湖の周囲には内湖と呼ばれる小さな湖沼が多くあり、その中でも比較的大きいものの1つ。途中見事な満月も見えたが、時々雨も降ってきていた。青空の中に雨雲が月を隠す。田園地帯の中にある沼であり、すぐ東側にそびえる荒神山(こうじんやま)が、存在感を示していたので車で荒神山を目指す。荒神山は、日本の滋賀県彦根市の中西部に所在する山。琵琶湖を西に望む、近江盆地の一角、湖東地方の一角に形成された標高284mの独立峰である。古くは平流山(へいるやま)と呼ばれていたが、奈良時代、行基が山頂に奥山寺を開山した際に三宝大荒神(さんぽうだいこうじん)の像を祀ったことから荒神山と呼ばれるようになったと。車で頂上に辿り着き、夜が明けるのを待つ。時間は6:17。頂上に建つ荒神山神社そして遥拝殿。使いの牛が雨に濡れて。荒神山神社の創建年代等については不詳であるが、この神社はもともと奈良時代の僧行基によって創建された奥山寺という天台宗寺院であった。明治初年の神仏分離に伴い、奥山寺は廃寺となり現在の神社に改められた。仏像はその時に他所に譲渡された。明治9年に村社に加えられたと。主祭神は主座 【三柱】 火・炊事(台所)の神 —三宝荒神—火の神:火産霊神(ほむすびのかみ) 奥津日子神(おきつひこのかみ)、炊事(台所)の神:奥津比売神(おきつひめのかみ) 神社の掲示版には、第7代孝霊天皇の時代にこの山が現れ27代継体天皇の時代に神事が執り行われたと。彦根八景『うみ風渡る荒神山』。市内を流れる宇曽川の左岸にある小高い山(標高284.1m)。ここからのびわ湖の眺めは、また格別。山裾には彦根梨の産地や曽根沼緑地公園も広がっていた。正面に琵琶湖が、そして手前に曽根沼の一部が。琵琶湖に浮かぶ「多景島(たけしま・たけいしま)」そしてその奥に「竹生島(ちくぶしま)」が時間と共に見えて来た。島を眺める方向によって多様な景色を見せることでこの島名をもつ多景島は、弥生時代から島そのものを御神体として、古くから人々に崇められて来たと。多景島は、彦根彦根市街地の沖合い約6.5kmに浮かぶ周囲約600mの小さな島で、島全体が日蓮宗見塔寺の境内となっていると。もともとこの島は、島全体が花崗岩でできていたが、江戸時代に彦根の荒神山から土を運んで木々を植えられた。それまでは、竹で覆われていたため竹島と呼ばれていたと。そして竹生島は琵琶湖の北端部にある、北湖に突き出した岬状の地形の名称葛籠尾崎(つづらおざき)の南約2kmに位置し、琵琶湖では沖島に次いで大きい島。島全体が花崗岩の一枚岩からなり、切り立った岩壁で囲まれているのが特徴。針葉樹で覆われた中に寺社が点在する風景の美しさで古来知られ、琵琶湖八景(1950)に「深緑 竹生島の沈影(ちんえい)」として撰ばれている。琵琶湖の北部に位置する島で、島周辺の湖底は深く、西側付近は琵琶湖最深部 (104.1m) であると。曽根沼を荒神山からズームで。山頂には彦根テレビ中継局・荒神山FM送信所が。県北部の広範囲に電波を発射しているテレビ塔で&FM送信塔あると。山頂の紅葉も明るくなるにつれて赤さを増して来た。そして荒神山を下り彦根城に向かう。時間は6:46。「彦根城西の丸 三重櫓」が正面に。京橋口駐車場に車を駐め、京橋口に向かう。「ひこにゃん」が迎えてくれた。江戸時代にこの地にあった彦根藩の2代目藩主・井伊直孝に縁(ゆかり)ある1匹の白猫をモデルとしているのだと。兜は井伊の赤備えとして有名な井伊家の伝来品をモデルとしている。その兜の様式(天衝脇立)は城主のものと同じであるとのこと。京橋入口。夢京橋キャッスルロードの土産物屋のシャッターは未だに、そして人の姿も殆ど無し。彦根城MAP。彦根城は内堀と中堀、そして外堀と三重の堀に囲まれ、惣構(そうがまえ)の城郭であった。現在でも内堀と中堀は見事に残されているが、外堀はそのほとんどが埋め立てられ、市内のあちこちに当時の面影をわずかに残している程度であると。ネットで調べて見ると外堀の位置が解る地図が。そして琵琶湖周辺には40数ヶ所もの内湖があったと。かつて彦根城の北側には琵琶湖とつながる大きな湖・松原内湖があったと。太平洋戦争中から戦後にかけて食糧難解消のためほとんどの内湖が干拓されて農地となったのだと。 【http://sichikawa.seesaa.net/article/314032499.html】より京橋下の中堀。県道518号線の京橋口。案内板によると「彦根城は、中堀に面して4つの城門が開いていました。その1つが京橋口門です。京橋口門は、第2郭の重臣屋敷と第3郭の本町筋の間にあり、内堀の大手門にも通じる要所に位置しています。門の内側に設けられた枡形には、かつて中堀に接して高麗門(絵図では「冠(木)御門」と表記)があり、その内側を鈎の手に曲げて櫓門が築かれていました。古写真を見ると、櫓門は門の上に2階2重の櫓が乗り、両側に多聞櫓が伸びています。門の形式としては最強の枡形で、重厚な構えとなっていました。この多聞櫓の内側には、長大な石の階段が造られています。これを雁木と称します。雁木は、多くの城兵が一度に多聞櫓を駆け上がれるように築いたもので、城を防衛するための工夫です。彦根城では門跡の内側でこのような雁木をたくさん見ることができます。」と。門内から枡形を見る。京橋口門を抜けると左手に西郷屋敷長屋門。老中・西郷伊豫(3500石)屋敷跡は、明治以来裁判所となっている。しかしこの長屋門はもともとは西郷家のものではなく、西隣の庵原家で1742年に建てられたものである。明治16年(1883)に裁判所が整備されることに伴い庵原家からここに移築されたものである。彦根市指定文化財になっているが、この指定は長屋門だけでなく北の高麗門などとセットになっているとのこと。正面に見事な石垣が現れる。内堀沿いに表門橋に向かって、表門脇の土塁・石垣と内堀を見ながら進む。土塁の上下を石垣で挟み込む。特に西日本では珍しい形式で、鉢巻石垣と腰巻き石垣の併用であり隠れた見どころであると。表門橋手前には『琵琶湖八景 月明 彦根の古城』と刻まれた石碑が。表門橋手前には『本日は閉門いたしました。開門は八時半から』とあったが・・・。以前も早朝に訪ねたところ、早朝散歩のオジサンから天守閣の下でラジオ体操が行われているので登城可能であると教えていただいていたのであった。表門橋を渡る。「佐和口二の丸から本丸へ内濠にかかる橋である。渡ったところには、石垣だけが残されているが、往時には冠木門があり、石垣の上には月見櫓があった。かっては登城の諸士がこの橋を渡って御用を果たしたのである。明治初期の写真や当時の文献を参考に、3年の歳月をかけ、平成16年2月、現代に蘇った。」と。彦根城 案内板。『登り石垣』説明板。表門を入って右に曲がり、券売所の手前の左手に登り石垣があった。この石垣により、敵兵が斜面を平行移動できないようになっていた。1603年から幕府普請により築城が開始された際、登り石垣が築かれており、現在まで良好な形で保存されている。ただし本来の山上と山麓の曲輪を繋ぐためではなく、山腹の移動を妨げる竪堀の発展形を意図して築かれたと。左手に城山公園事務所(入城券売場)と表坂と彦根城博物館への入口ゲート、正面&右手に表御殿跡(彦根城博物館)が。入口ゲート脇から城内に入り表坂を上る。階段を登ると、右手に高い石垣と、石垣の上に乗った櫓が見えて来た。この櫓を「天秤櫓」と呼ぶと。天秤櫓の白壁、屋根瓦は補修中で有あり下から工事用足場が組まれていた。そして正面には『廊下橋』が。天秤櫓下の通路を進むと見える廊下橋。 右側の天秤櫓中央に設けられた門に通じている。通路を通る敵を左右の石垣上から攻撃できる構造で、攻撃者はこの橋を渡り、天秤櫓の門を突破する必要があるのだ。天秤櫓の石垣は、廊下橋を境にして東側(向かって右手)と西側(左手)では石垣の積み方が異なっていた。東側の積み方は、自然石をそのまま用いる「野面積み」野面積みは、彦根城が天下普請で築城された際、越前衆が積んだという伝承があり、打ち込みハギは嘉永7年(1854)の修理の際に積み直しされたもの。西側は石と石の接合面(合端)を加工して積み上げる「打ち込みハギ」といわれる積み方がされていますと。『彦根城内案内図』『廊下橋』の下を潜り左手に折れグルッとループ状に回って坂道を登っていくと正面に『廊下橋』と『天秤櫓』が。『廊下橋』は、鐘の丸から天秤櫓の門へかけての橋で、幅員3.4m(二間)、長さ1.5m(八間)。元は、この橋に覆い屋根がついて、腰壁をつけていたので廊下橋と呼ばれていた。城の防備のために城兵の移動を相手方に知られないようにするために、屋根などを設けたものといわれていると。この廊下橋を渡り、正面の天秤櫓の中央に設けられた門を通り抜けると、天守へ行けるが、緊急時には廊下橋を破壊することで敵方の侵入を防ぐことができるのだと。また、天秤櫓中央の門も櫓門形式であり、櫓部分から鉄砲などで攻撃できるという、こちらも防御の高い仕組みになっているのだと。『天秤櫓』説明板。廊下橋を中央として左右対称に建てられているのが、天秤櫓でこの櫓は、豊臣秀吉が創築した長浜城大手門を移築したといわれている。城門は、正面約4.3mで、全部樟(くすのき)材を用いて建築されている。左右両端に二重の多聞櫓のあるコの字形で、奥に突き出た続き櫓の構えである。左右対称で、ちょうど天秤のような形をしているところから天秤櫓と呼ばれた。この形式は、わが国城郭のうち彦根城ただ一つといわれている。嘉永7年(1854)に中央部から西方の石垣を足元から積み替えるほどの大修理があり、東半分の石垣がごぼう積みであるのに比べ西半分は落とし積みになっていると。『廊下橋』から琵琶湖が見えた。『廊下橋』から登ってきた表坂方面を見る。『天秤櫓』を通過し振り返る。天秤櫓を通り抜け、さらに城中心部へ向かって石段を登ると、太鼓櫓門が見えて来た。『太鼓丸東石塁の調査と修復』説明板。太鼓丸の東石塁上という所の調査と修復が行われたと。調査の最大の成果が、佐和山城から持ってこられたとされる瓦破片が初めて一定量出土したこと、なかには豊臣秀吉が築城した伏見城でしか発見されていない瓦もあったのだと。『時報鐘』。彦根城に登城する途中、本丸下の太鼓丸から毎日決まった時間に鐘の音が聞こえたと。江戸時代から絶えることなく、朝から3時間おきに、6時、9時、12時、15時および18時の1日に5回、城下に鳴り響く鐘の音は、「お山の鐘」として市民に親しまれている彦根城の時報鐘であるとのこと。環境庁の「日本の音風景百選」にも選定されていると。『太鼓櫓門』。太鼓門は本丸表口を固める櫓門で、太鼓を置いて城中の合図に用いたのでこの名がある。太鼓門櫓は石垣の間に門扉があり、上部に櫓が載っている。東側の壁面が無く柱の間に高欄を付けて廊下にする造りは珍しく、太鼓の響きをよくするためとの説もある。『井伊年譜』に「諸門等は江州長浜坂田郡内藤豊前守信政城地掃候に付是より参候由」とあり、移築されたものであることが窺える。昭和31年解体修理工事の調査では、門構の部分は現在より大きな建物を縮めて建てたものであることがわかったと。太鼓門櫓の二階部を天守閣側から。そして天守閣。いつの間にか青空が。彦根城は、連郭式平山城(標高136m、比高46m)で1606年に完成した現存天守として、天守などが国宝に指定されている。そもそも彦根には、石田三成の居城であった佐和山城があったが、1600年の関ヶ原の戦いのあと彦根には徳川四天王の一人・井伊直政が18万石で入った。井伊直政は、賊将・石田三成の佐和山城を嫌ったとも、領民から大変慕われていた。石田三成の遺構を破却し新しい政治を行おうと、琵琶湖に近い磯山に彦根城の築城を計画。しかし、関ヶ原で受けた鉄砲傷が元で、破傷風となった井伊直政は1602年2月1日に死去。この時、石田三成の怨霊が井伊直政を死に至らしたと言う噂も広まったため、家老・木俣守勝が徳川家康に相談すると命も受けて、あとを継いだ井伊直勝(井伊直継)は1603年から彦根城の築城を開始し、1606年に天守が完成すると居城を彦根城に移したと。規模こそ小さいが、いくつもの屋根様式を巧みに組み合わせた美しい曲線の調和をみせ、外見粗雑に見えるが、頑丈な積み方で彦根城特有のものであるどっしりとした「牛蒡(ごぼう)積み」と呼ばれる石垣の上に三層三階の天守が聳えている。天守閣は、京極高次が築いた大津城から移築したものといわれ、慶長11年(1606)に完成した。天守の中に入れば、通し柱を避けた造りや隠し狭間など内部の細かな配慮が見学できる。昭和27年に国宝に指定され、姫路・松本・犬山城とともに国宝四城の一つである。また築城以来5回目の大改修が平成8年に完了。現代に美しく蘇ったと。 ・・・つづく・・・
2018.12.07
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二宮、善波邸のざる菊を後にし、平塚の神奈川大学入り口を目指す。前方に大山(おおやま)の姿が。ところで江戸時代から大山詣でが盛んであった理由をご存じでしょうか。浅間神社の総本山である富士山本宮浅間大社の社伝では、水の神として噴火を鎮めるために富士山に木花咲耶姫(このはなさくやひめ)を祀っているのだと。もちろん富士山の山頂の火口の凹形からしても女性の神様。また、木花咲耶姫は、妻の守護神、安産の神、子育ての神、酒の神として信仰を集めて来たと。そして富士山だけの参拝だけでは「片参り」になるので、地理的に近いそして男性の神様である大山祗大神(おおやまつみのおおかみ)を参拝したのだと。大山の頂上の形は下の写真の如くに先が尖っているので男神として信仰されたと。以上、テレビの放送からの「受け売り」ですが、先日お孫さん家族と大山に登頂された旅友はこの事をご存じなのでしょうか・・?? とふと。そして平塚の県道77号線「神奈川大学入口」交差点の一角にある『土屋ざる菊園』に到着。平塚市の市街地からおよそ10km西方に土屋地区がある。東西約3.6km、南北に約3.2kmの方形状の区域。平安時代末期には、土屋三郎宗遠がこの地を治め、治承4年(1180年)には、源頼朝に従い、石橋山の旗揚げに参戦。宗遠は源平合戦での活躍から、地頭職に任命され、頼朝・頼家・実朝と源氏三代の将軍に仕えた。1495年北条早雲が時の小田原城主大森頼春を攻め込み、頼春が真田に落ち入ったときに、土屋氏の領地の遠藤原・小熊原が戦場となったと。そのときの戦死者を葬ったものと思われる塚が遠藤原と小熊原に点在しているのだと。地域住民が今年7月に植栽、整備した「土屋ざる菊園」(市道吉沢土屋線の座禅川橋西)で、約800株が見ごろを迎えていた。この菊園は今年、座禅川橋の架橋工事で資材置き場だった約1000平方メートルの私有地を無償で借り受け、土屋ざる菊愛好会(石井正昭会長)と土屋小学校、土屋公民館が協力して整備したのだと。土屋小では総合学習の時間を活用し、地域愛好者が毎年、苗の挿し芽から花を咲かせるまで児童に菊づくりを指導。秋には公民館で菊花展を開き、育てた菊を披露するという歴史があると。同愛好会の石井会長は「菊は毎日、水遣りをしないと枯れてしまう。生き物を大切にする良い情操教育になっているのでは」と。整備した菊園に植えられている花も、愛好会と児童が育てたのだと。赤と白、黄、ピンクの4色が咲き、大きさは直径80~100cm前後。小学生が自らの文字で。「わたしたちは4月からざるぎくを市立てています。まだめが小さかったころはくきが弱くて育てるのがむずかしかったです。ざるぎくの形がまるくなるようにめをつんだり、ひりょうをきくのまわりにやったりして大事に育ててきました「TUTIYA😄」をきくの花で植えてみました。ぜひみなさん見てください土屋小学校 4年1組」と。土屋小学校4年生15人が丹精込めて育てたのだ。ざる菊園の周囲を散策し、カメラのシャッターを。黄色と赤のカップル。子供達がTUTIYAの『A』の文字をざる菊で。こちらはTUTIYAの『Y』。育てている子どもたちのドラマが想い起されて、何とも言えず満たされた気持ちに。見事なざる菊の波。1株に2、3センチほどの花が4~5000個付いていると。第59回 平塚市 菊花展のポスターも。そしてこの後、秦野にある『今泉名水桜公園』まで足を延ばす。この公園は、平成17年(2005年)1月1日に秦野市制施行50周年を迎えた記念として整備。市街地に残る貴重な水辺を保全し、地域の人々に憩いと潤いを与える、湧水と桜のある公園。水辺と桜が四季折々の姿を織りなし、一年を通して散策を楽しむことが出来るのだと。建築家・安藤忠雄の基本構想によって「桜と名水」をコンセプトに造られた公園。今泉遊水池の水面にはビルが鏡の如くに。湧水の流れ。実は旅友のSさんがコーヒー用に湧水をと。しかしこの公園内には湧水を汲める場所は残念ながら無かったのであった。遅い昼食はリンガーハットで。そしてこの日の〆のざる菊巡りの場所は茅ヶ崎の小出川沿いの場所へ。相模川にかかる道路橋で神奈川県高座郡寒川町と平塚市を結ぶ湘南銀河大橋(しょうなんぎんがおおはし)を渡る。コスモス畑の後ろは圏央道・茅ヶ崎~大栄線。そして小出川沿いのざる菊園の到着。小出川沿いの数も含めて500本のざる菊が植えられていると。川沿いの散策路となっており、畑や田んぼが広がるのどかな風景。また、ここから富士山や箱根、丹沢山系を望むことができるとのことであったが・・・・。第8回小出川 ざる菊まつり のポスター。奥にはコキアも植えられていたが赤ではなく茶色に。台風の潮風にやられてしまったのであろう。そして『灯台もと暗し』でしたが、家から車で10分程の場所、そして妻の実家の近くにもざる菊園があることをネット情報で知ったのです。別の日の朝に車で行って来ました。住宅街の角の農地にざる菊が。住宅街で、500株ほどのざる菊が満開を迎えていた。穏やかな朝の秋風が吹き、独特の香りが立ち込めていた。毎年手間をかけて育てている斎藤義治さん(65)は「ことしは少し小ぶりだけど、見栄えはいい」と話していると。斎藤さんは6年ほど前から毎年、自身の敷地約1200m2でざる菊を育てているとネット情報で。赤、黄色、白が順番に行儀良く整列していた。早朝のざる菊を一人占め。菊の波がここでも見事に。我が家の周辺の一般家庭でも栽培されるざる菊ですが、こんなにも綺麗に丸い本格的なざる菊園を巡り大いに楽しんだのは今年が初めてなのであった。『赤白黄 ざる菊追って 放浪す』・・・・・・詠み人知らず ・・・その2・・・に戻る ・・・END・・・
2018.12.06
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鈴木さん宅のざる菊の後は、『総世寺のざる菊』を訪ねた。鈴木さん宅のざる菊園から徒歩で向かう。総持寺は歴史深い曹洞宗の寺。境内のひな壇に飾られたざる菊が見事に。「ざる菊を育てる会」というのがあり、ざる菊園・鈴木三郎氏の指導のもとざる菊の苗木の育て方を学び、自宅に持ち帰ってもよし、そのまま寺に置き、都合のよい時間に苗の世話をしに来て開花を待つのもよしだとのこと。大きく育ったざる菊を開花時期に持ち寄ってひな壇に飾っているのだと。本堂前の階段にもざる菊が。阿育王山総世寺は、嘉吉元年(1441年)の開創で曹洞宗小田原三山(香林寺・海蔵寺・総世寺)の一つで、1590年の小田原征伐に際して、豊臣側の秀次が陣を張った寺であると。秀次が寄進した銅鐘が残っているとのこと。県の指定文化財で、鐘の音は成人式の日と5月の第2土曜日の年に2回聞くことができるのだと。屋外に鐘楼はなく、この本堂の中にあったのであろうか?この寺のざる菊も鉢植えで、階段状に。境内のカヤの大木。小田原市の天然記念物。 樹齢約300年、樹高が約25mと大きく威風堂々と。山門の境内側の前より。山門の外から山門越しに境内を。山門越しに本堂も。山門横の塀の雲の形の「のぞき」から寺の境内を「垣間見る」。再び境内のざる菊。六地蔵。多くの石仏も。美しいお姿をズームで。『お寺まいりのすすめ十箇条 積徳』一、辺りを過ぎて詣すべし、たいし寄り道を要せず。二、暇をつくりて参詣すべし、ただし無理を要せず。三、思いたてば参詣すべし、ただし家業を欠くを要せず。四、迷いあらば参詣すべし、ただし望外を望むべからず。五、憂いきわまったら参詣すべし、ただし総てを委すべし。六、志たたば詣すべし、ただし加護を信ぜらるべからず。七、喜びありて詣すべし、ただしこれ信心のおかげなり。八、忌日命日に詣すべし、ただし自発的な心をもってなり。九、招かれて詣すべし、これ願ってもなき好機なり。十、正法を求めんとして詣すべし、人たるのつとめと心得べし。寺院参詣の意義について学んだのであった。山門とカヤの老木を見る。そして総世寺を後にし小田原市街地に向かって進む。途中、県立おだわら諏訪の原公園のローラー滑り台が見えた。県立おだわら諏訪の原公園 案内板。小田原市の北西部に位置し「ふるさとふれあい公園」をテーマに、里山の自然や生活文化とのふれあいを通じて、遊びながら「学ぶ」「発見する」喜びを体験できる公園を目指していると。園内には、足柄平野が一望できる「展望広場」、開放感あふれる芝生の「多目的広場」、太陽光発電や屋上緑化を取り入れた環境共生型の「パークセンター」、県立都市公園最長の169mの「ローラー滑り台」などがあるとのこと。遠く小田原市街地が下方に。遠くに2月に訪ねた河津桜の咲く松田町・西平畑公園内の建物も確認出来た。小田原フラワー公園を訪ねようと車を駐め散策開始。この日は『はちみつフェア』が開催されていると。この植物園を訪ねるのは二人とも初めて。裏門から入ろうとすると、ゲートは閉まっていた。この日、月曜日は休園日との表示が。正門方面に戻り、フェンス越しにバラの姿を楽しみながらシャッターを。バラは満開中。正面はトロピカルドーム公園。黄色と赤のバラが鮮やかに。ズームで。中央の銀杏の大木も黄葉が始まっていた。オレンジ系のバラ。バラは12月中旬まで楽しめるようであった。大雄山線に向かって坂道を下る。小田原市内の国内最大の新物流センターamazonジャパン 小田原フルフィルメントセンター。西湘バイパスまで戻り酒匂川に架かる酒匂橋を渡る。そして 二宮町川匂(かわわ)の善波(ぜんば)保雄さん(77)宅で、約400株のざる菊が見ごろを迎えている事を知り向かう。国道1号線の押切坂を上り、左折したが場所が解らないので。、「茶屋薬師堂」近くで通りかかった女性に尋ねて場所を確認。そして善波邸のざる菊園に到着。丹精込めて育てた白い花が雪化粧のように園内を彩っていた。酪農で使ってきた放牧地約900平方メートルに毎年、ざる菊を植えているのだと。ことしは猛暑や台風の影響で手入れに苦労したが、ほぼ例年通り直径1メートルほどに成長したと。そしてこの白い花は徐々にピンク色に染まって行くのだと。善波さんは10年ほど前に、知人に分けてもらった株をもとにざる菊の栽培を始めたとのこと。毎年丹精込めて育てており、「多くの人に見て喜んでもらえたら嬉しい」と開花期間中は庭を公開していると。今年も約200坪の裏庭に約400株のざる菊が咲いていた。白の中に黄色や赤のざる菊も。各種の色のざる菊をここでもズームで。野菜の販売場所の壁には。そして善波邸の庭の花。青紫色のノアサガオ(野朝顔)。黄色のバラ。メダカ。ピンクと白のバラ。ズームで。赤のバラ。ズームで。様々な色の菊の花が密集して。 ・・・その1・・・に戻る ・・・つづく・・・
2018.12.05
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ややブログアップが遅くなりましたが、11月12日(月)にこれも旅友Sさんと、神奈川県西湘の『ざる菊巡り』に行って来ました。ざるを伏せたような形の株にたくさんの菊の小花が咲く「ざる菊」、そしてこの時期のテレビのニュース等で開花が放映されているのです。茅ヶ崎のSさん宅から車で国道134号線を利用し西湘バイパス方面へ向かう。馬入川にかかったトラスコ湘南大橋を渡る。左手に大磯港が左手前方に。左手前方に小田原の街並みが。県道717号線を進む。717号沼田国府津線は、神奈川県南足柄市と小田原市を結ぶ一般県道。正面に箱根・明神ケ岳の姿が。酒匂川を渡る。そして県道78号線(足柄街道)を西に進む。前方におにぎりを立てたような特徴的な山容『矢倉岳』が。そしてこの日の最初に矢倉沢のざる菊を。矢倉岳の麓を花の郷にしようと、遊休農地を利用したざる菊(小菊)の植栽が盛んに行われ昨年のざる菊祭では、市の内外から訪れた約13,000人の都市住民の人々に”里山さんぽ”を愉しんでもらったとのこと。。中河原菊園のざる菊。株を丸く育てるのには一部に初夏の頃、摘心繰り返して、育てると言うような噂があるようだが正解は何の特別な事はしないのだとも。畦道横には向日葵の花も。ミカンも撓わに。そして農道の坂を上り白山神社の奥にある上ノ山菊園を訪ねる。上ノ山菊園は主な菊園の中では最高地にある。木立の間からの眺望からも、その高さが分かる。山間の土地だけに長方形ではなくL字型の畑であるが菊の配色が工夫されていていた。ピンクを中心に黄色がアクセントに。そしてこの朝は園児の姿も。近くには美しく刈り込まれた『足柄茶』の畑も。そして次に訪れたのは大雄町にある『花咲く里山』。毎年10月下旬から11月下旬まで「ざる菊まつり」が開かれると。大雄山最乗寺の山裾、大雄町地区は懐かしい里山風景が広がる地区。1本の株に4000個ほどの小菊が、大きな丸い形を作る、重なり合い、大きな丸い形を作る「ざる菊」。残念ながら、この日は既にざる菊の花のピークは過ぎていたが・・・・。庭には盆栽風の小さな柿の実も撓わに。こちらは懐かしいアケビの実も。子供の頃は山などに自生している「あけび」を、とっておきのおやつとして楽しんだ記憶が。私が子供の頃にはどこの山にもある、珍しくない果実でしたが、時代の移り変わりとともに、アケビ(木通、通草)を見かけることも少なくなりました。売店では様々な果物、野菜も販売されていた。生椎茸も。ツワブキ(石蕗)の黄色い花。トランペットフラワー。茶色のヤギ(山羊)が飼われていた。車窓から南足柄市の街並みが。そして小田原市久野にある『ざる菊園(鈴木さん宅)を訪ねる。鈴木さん宅の庭では、丹精込めて育てた「ざる菊」が開花の真っ最中。1株に4,000個ほどの小菊が重なり合い、大きな丸い形を作りあげるその姿が、ざるを伏せたように見えることから「ざる菊」と呼ばれ、最盛時は赤、黄、白、ピンクなど色とりどりの花で華やかに賑わっていた。約1,400株ものざる菊でいっぱいの庭を、今年も見頃に合わせて無料で一般開放されていたのであった。前庭には所狭しとざる菊の様々な色の花が。この鈴木宅のざる菊は全て鉢植えなのであった。花にはミツバチがたくさん集まりブンブンと羽音が。庭の前には一面に棚を作り。個人の庭でこれだけ見事なざる菊を観賞することができるとは驚きそのものであった。膨大な時間と手間、費用がかかっている事間違いなしであるが。電照で開花時期を調節している株もあるよであった。様々な色のざる菊をズームで。ここにも日本ミツバチ?の姿が。背が比較的高い菊も。そして裏庭には富士山をイメージした花壇が。頂上には雪のように白い花が咲き、裾野に向かって黄や紫、赤の花々が咲くこの季節ならではの絶景。頂上付近をズームで。富士山をかたどった、丹精込め作られたざる菊が青空に映えるはずが、この時間には薄雲が。富士山の見える場所にはベンチも。旅友も菊の花に囲まれて??帽子の白の模様は富士山ではありません、私が土産にあげたアンコールワットの帽子。その内に観光バスで多くのオバチャン達が来園して賑やかに。『ご来園の皆様へのお願い』。今年で28年目と、ざる菊園維持管理のために200円/人の義援金をお願いしたいと。1000円以上の義援金の方には、自家製の羊羹をプレゼントと。お孫さんも手伝っていました。この日は月曜日でしたが、振替休日?ざる菊園のご主人夫妻、鈴木三郎さん、二三子さんの記事も。1500株の鉢植えざる菊を堪能し、来年もと。 ・・・つづく・・・
2018.12.04
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この日11/27(火)は高校時代の学友であり、呑み友達の海外勤務商社OBそして現役の大学教授と3人で肥後細川庭園 松聲閣「秋の紅葉ライトアップ~ひごあかり~」を見に行って来ました。肥後細川庭園は東京都文京区目白台にある文京区立の公園。改修工事に伴い新名称を公募し、2017年3月18日、「新江戸川公園」から改称されたのだと。肥後細川庭園では12月2日(日曜日)まで(よって昨夜で終了しています。)「秋の紅葉ライトアップ~ひごあかり~」を開催中で「ヤマモミジ」や「エノキ」など、日々紅葉は鮮やかになり、夜のライトアップでは、池の水面に幻想的な風景を映しだしていた。自宅から小田急線、田園都市線、半蔵門線、有楽町線を利用して江戸川橋駅まで1時間40分の長距離移動。江戸川橋駅から神田川沿いを徒歩で15分弱で待ち合わせ時間17:30前に到着。既に都内に在住の二人は私を待ってくれていた。そして17:30からのライトアップ開園(ライトアップは、17時30分から21時まで(入場は20時30分まで))に300円を支払い入場。このライトアップの為か?雪吊りの如き象形も所々に。白壁への青のライトアップも幻想的。ウィキペディアによると「ここ一帯は江戸時代中頃まで幕臣の邸宅があったところであった。その後、幾度かの所有者の変遷を経て、幕末に細川家の下屋敷になり、明治時代には細川家の本邸となった。1960年に東京都が当地を購入し、翌年には公園として開園。1975年、文京区に移管されて現在にいたる。当地付近は目白台からの湧水が豊富な地点で、その湧水を生かした回遊式泉水庭園を主体とした公園となっており、江戸時代の大名屋敷の回遊式泉水庭園の雰囲気を現在でも楽しむことが出来る」と。池の周囲の散策の小路を進む。小路の両側には小さなランタンが並べられていた。庭園内では、熊本県を拠点として活動を行っているCHIKAKEN〈ちかけん〉による、竹を素材とした美しい光の演出「竹あかり」が。幻想的な世界に、芸術的な竹灯篭の優しい光に包まれて、心に温もりを感じるのであった。これぞ「和のイルミネーション」。かぐや姫が出てきそうな幻想的な世界。モミジの老木の幹も負けじと輝いていた。この日は風が無く、池は鏡の如くにライトアップされた紅葉の姿を映し出してくれた。鏡の池の幻想的な姿を楽しみながら、池の周りをシャッターを押しながら進む。石灯籠も白く輝いていた。「逆さモミジ」と「逆さ雪吊り?」の共演。そして「紅葉」と「黄葉」の共演も楽しんだのであった。雪吊りの象形の縄の数も多く金沢の兼六園に負けまいと。晩秋の夜空に美しく映える紅葉と光の競演が楽しむ。カメラを横にそして縦にと忙しく。以前に池に映り込む紅葉を楽しんでいたら、石を投げ込む輩が。係員が大声で止めなさいと叫んだが、暗くて誰かは解らず。しかし、水面の波紋の余韻も美しかったのであったが・・・・。園内の松聲閣の部屋の灯りも水面に美しく。紅葉も輝いて。カエデの幻想的な紅葉ライトアップは圧巻。紅く色づきはじめた楓のトンネルの如くに。ここに月の姿も・・と欲張り・・・。青も水面に映り。更に散策の小路を進む。「雪吊り」と紅葉ライトアップのコラボを楽しむ。紅葉ライトアップも、照明が当たっている枝と照明が無い枝が微妙に光のアンジュレーションを創り出していた。それにしても無風そのもの。水面にはっきり映る姿は息を飲む美しさ。上の写真を180°回転してアップしてみました。モミジの朱や黄に松の緑が重なる美しい色の対比を楽しむ。雪吊りは北陸地方の冬の風物詩と思っていたが・・・。散策路の下に熊本地震復興支援のあかり「灯火カップ」が見えて来た。緑葉のライトアップも幻想的。朱や黄そして緑のカオスの世界。区立関口台町小学校の児童による熊本地震復興支援のあかり「灯火カップ」。趣向を凝らしたさまざまな灯りがやさしく庭園を照らしていたのであった。『KUMAMOTO』の文字が。クマモンの撮影スポット。人の数もそれほど多くなく。松の緑も輝いて。再び「竹あかり」を楽しむ。何個の穴が空いているのであろうか、そして直線と曲線の共演。もう1周巡りたかったが、二人の姿は既に見当たらなかったので諦める。園内の松聲閣にて、熊本復興ドラマ「ともにすすむ サロン屋台村」の特別上映や、熊本県玉名市所蔵の刀剣「同田貫正国(上野介)」の特別展示など、熊本地震復興&観光PRの特別展示も行っていた。肥後菊は一重咲き。様々な色に姿を変えた「カスミソウ」。『ONE PIECE(ワンピース)』と「くまもん」がコラボ。「ルフィ」の姿も。そして肥後細川庭園 松聲閣「秋の紅葉ライトアップ~ひごあかり~」を堪能したあとは近くのインド料理屋「プージャ(PUJA)」で料理とアルコールをこれも堪能。店を出て友二人と別れ私は江戸川橋に向かって目白通りを歩く。早稲田大学 大隈会館前を通る。早稲田大学キャンパス案内図。この辺りは私にとっては何故か初めての場所なのであった。リーガロイヤルホテル東京。そして帰路も往路と同じコースで22:30過ぎに帰宅したのであった。
2018.12.03
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横須賀・ヴェルニー公園のボードウォークから横須賀ドライドック方面を見る。岸壁横に浮かぶ黒い物体は潜水艦。ヴェルニー公園のバラを楽しむ。『ファニーフェイス』。こちらはピンクのバラ。『サンライズ サンセット』。そして戦艦陸奥の主砲が展示されていた。旧日本海軍の戦艦「陸奥」に搭載された40cm主砲、全長約19m、重さ約100トンの主砲。最後部に搭載されていた4番主砲塔の砲身。前方から4番主砲塔の砲身を見る。ヴェルニー記念館を訪ねる。ヴェルニー記念館は、日本近代化の起点ともいえる横須賀製鉄所をつくりあげたフランス人技師ヴェルニーの功績と、横須賀製鉄所の意義を永く後世に伝えるために建てられた施設。現在は米海軍横須賀基地となっている、横須賀製鉄所の跡地を対岸に望むヴェルニー公園の一角に位置していた。急傾斜の屋根と石の壁が美しい建物の外観は、ヴェルニーの出身国フランスのブルターニュ地方の住宅の特徴を取り入れているとのこと。 館内にはヴェルニーの指示で横須賀製鉄所へ設置された当時のスチームハンマー2基が展示されていた。これらは、国内現存最古のスチームハンマーとして、国の重要文化財に指定。スチームハンマーは、動力に蒸気(スチーム)を使用してハンマーを持ち上げ、落下する力で金属素材を打ち延ばす工作機械のこと。いずれのスチームハンマーも1865(慶応元)年に製造され、その翌年にオランダから横須賀製鉄所へ輸入された後130年も働き続け、船の部品などを造って来たと。0.5T&3Tのスチームハンマーの外形図。戦艦陸奥の超精密な1/100の模型。戦艦陸奥の説明ボード。大正9年 横須賀海軍工廠で進水 → 大正10年竣工(二本煙突) → 昭和3年改装(煙突の形状の改修) → 昭和11年大改装(一本煙突・本主砲搭載) 陸奥は、昭和18年(1943)に瀬戸内海の柱島の南西約2kmの地点に碇泊中、原因不明の爆発事故を起こし沈没。→ 昭和45年7月23日主砲の引上げ。『景色も展示物!横須賀製鉄所と海軍工廠の歴史遺産』館内には、横須賀製鉄所や近代の歴史遺産を紹介するボード、映像、体験学習装置が。ゴライアスクレーンには長い間見慣れた『#SUMITOMO よこすか』の文字が。ヴェルニー記念館を出て公園内を歩く。JR横須賀駅に向かう。横須賀線で大船駅まで行き途中下車し暫しの反省会を旅友と。この日はビールの後は、久しぶりにホッピーを。牡蠣フライ、そしてモツ煮も。アンコウ鍋を楽しんだのであった。 ・・・その2・・・に戻る ・・・END・・・
2018.12.02
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ドライドッグの後ろの敷地は山が大きく削られていた。横須賀海軍工廠沿革碑「明治幸未年建 ANNEE1871」の碑文が刻まれていた。 横須賀海軍工廠庁舎(CPOクラブ)(日本遺産認定)。下士官クラブ CPO CLUB (Chief Petty Officer's Club)。USN.とはアメリカ海軍 (United States Navy)の事。ローマ字表記になっているのは、米軍関係者の車両。自動車登録規則第13条に記述があり、”4 日本国籍を有しない者が所有する自家用自動車で、法令の規定により関税又は消費税が免除されているもの及び別に国土交通大臣が指定するもの”に対して、「E、H、K、M、T、Y、よ、A、B」といったアルファベット入りナンバーが付与されることと定められているのだと。つまり、こうしたナンバーに乗っているのは、米軍の関係者(退役軍人含む)、またその家族。・Y(日本国内で調達された個人所有車)・E(非課税車両)・T(本国から持ち込んだ個人所有車)・A(オートバイ・軽自動車)※H、K、M、Bは、使われていないようです。アメリカ海軍の車のナンバープレート。数字は7桁 良くみると「 OFFICIAL USE ONLY」と書いてあった。公務使用のみに使ってるということか。見学を終えヴェルニー公園前の横須賀港の海。YOKOSUKA軍港めぐりの船には、多くの観光客の姿が。船の先には地上31階て総戸数220戸のタワーマンション「ウェルシティー横須賀天空の街」の姿が。カナダの船が入港中なのであろうか、カナダ国旗が。そしてその下には潜水艦が停留中。「おやしお」型潜水艦が1隻。斜めから。YOKOSUKA軍港めぐり 記念撮影スポット。この日の日付表示が。横須賀港の海の先には米海軍横須賀基地の建物が。日本の潜水艦を再び。ヴェルニー公園に向かって歩く。横須賀港の海の水面には夕陽が映り込んで来た。水面をズームで。ヴェルニー公園を歩く。公園中心部に小栗上野介とヴェルニーの像がある。旧名臨海公園。フランス庭園様式を取り入れた公園として整備を行い、平成13年度末に完成。 広場を中心にフランス式花壇や噴水、洋風あずまやなどが設けられ、フランスの品種を中心とした約2,000本のバラが彩りを添えている。海沿いには横須賀本港を一望できるボードウォークがあり、潮風の中で散歩を楽しめたのであった。潜水艦の先にカナダの船が。公園の中央にはしゃれたドーム式の洋風東屋風の建物が。横須賀港の水面は静かに。建物は夕陽を浴びて。ボードウォークの途中にあった『近代日本のルーツ 横須賀製鉄所』の説明板。「世界遺産の富岡製糸場のモデルとなった横須賀製鉄所 ( のちの横須賀造船所 ) は、現在のヴェルニー公園の対岸あたりに、慶応元年 ( 1865年 ) の鍬入れ式から様々な施設が建設され、横須賀の街とともに発展しました。最新の加工機械などが導入され、日本の近代工業の礎を築くとともに、日曜休日制や労働時間、メートル法、健康診断などの新しい仕組みが横須賀製鉄所で始まりました。また、正面に見えるドライドッグは、当時は欧米先進国にも負けないものだったとされ、現在も現役で利用されています。」と。「この図は、明治14年 ( 1881年 ) 発行の「横須賀一覧図」で、当時の横須賀製鉄所の様子が描かれています。」と。『今も残る「横須賀製鉄所」のドライドック』説明板。明治時代初期のドライドック。現在の1~3号ドライドック。1号、2号ドックを上空から。多くの種類のバラが美しく開花中。護衛艦であろうか?横須賀港の先に紅白のゴライアスクレーンが見えた。ボードウォークを更に横須賀駅方面に進む。イオン横須賀店方面を振り返る。ヴェルニー公園の噴水。円形の水の壁になり流れ落ちる。風が無ければ透明な鏡の如くになるのであろう。日本の海上自衛隊の護衛艦か?護衛艦のナンバーは確認出来なかった。しだいに辺りは暗くなり始めてきた。再びイオン方面を振り返る。 ・・・その1・・・に戻る ・・・つづく・・・
2018.12.01
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