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久しぶりの趣味の養蜂作業に関するブログアップです。少し前の事ですが、4月16日に湘南家畜保健衛生所による我が趣味の西洋ミツバチの検査が行われました。年始にみつばち飼育届けを提出しておくと、管轄の湘南家畜保健衛生所長から、平成30年度の蜜蜂の腐そ病検査の実施について通知が届いたのです。通知書には1. 実施の目的 :蜜蜂の腐そ病の発生予防の為2. 実施の対象 :飼育されている蜜蜂の蜂群3. 検査の日程: 平成30年4月9日4. 検査の方法:臨床検査及び必要に応じて行う細菌検査による5. 検査手数料 :1蜂群につき60円と書かれていました。趣味として蜜蜂を飼育し、自家消費できず余った蜂蜜等は売っている等の場合も従来から養蜂業者に該当すると扱われるのです。当初は4月9日の予定でしたが、急な雨のため、1週間遅れでこの日となったのです。 検査員は2名、若い女性と年配の男性。女性検査員は昨年と同じ方で慣れた手付きで検査作業を行っていました。 蓋を開け燻煙器(くんえんき)で煙を吹きかけると、ミツバチは巣箱の内部に避難。 巣箱の入口には多くの働き蜂が。 そして無事異常なしとのことで、検査費を支払い領収書を頂きました。 そして昨日は内検作業を実施しました。蓋を開けると多くのミツバチが巣箱の上部に。巣を持ち上げると、一面にミツバチの姿が。4月半ばから気温も上昇し、順調に群勢を高めています。巣の上の一箇所にミツバチの山が。燻煙器で煙を。すると無駄巣を造っていましたのでこれを除去しました。無駄巣とは、巣枠外の場所に作られた巣の事を言います。ミツバチの造巣が盛んな時期(春と秋)によく見られるのです。巣枠外にある巣は管理できず百害あって一利なしですので早めに除去しなくてはなりません。 無駄巣を放置すると、どんどん大きくなり除去が面倒になって来るのです。女王蜂を発見。順調に産卵が継続しているようです。巣蓋が全面に覆われた巣枠も。巣門にも多くの蜜蜂が。既に継箱を設置し、2階建てとしています。巣門をズームで。そしてもう1群も活発です。こちらも巣枠上部に隙間無く。こちらの群にも無駄巣が。巣蓋も確認出来、こちらの群も順調の様です。女王蜂の姿も確認出来ました。未だ新しい巣蓋に覆われた巣枠。巣蓋で覆う作業分担の働き蜂の姿でしょうか。巣箱の上部には、無駄巣を作らせないように麻布で覆っています。こうしないと、無駄巣を巣枠上部と箱の蓋に渡って作り、巣箱の蓋が開きにくくなってしまうのです。こちらも2階建て。2階の換気窓も全開としました。蓋の横にも換気窓が付いています。養蜂開始当時の巣箱にはこの換気窓が無かったのです。養蜂場のある畑のニセアカシアも開花中です。「アカシア蜜」はこのニセアカシアの花の蜜なのです。ズームで。 垂れ下がった枝に、藤のように白い小花をたくさん咲かせるています。葉の新緑も清々しいのです。右手に我がミツバチの姿をズームで。既に風で地面に落ちた花片も。そしてこちらも、養蜂箱の近くのルピナス。しかしルピナスは余り蜜が出ないようです。そしてこちらはブルーサルビアの花。この花は西洋ミツバチは好きなようです。クリムソンクローバ。我が蜜蜂が訪花中。ズームで。
2018.04.30
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旧岩崎邸に向かい歩いて行くと左手に不忍池そして弁天堂が。私はユリカモメ?弁天堂の先に東京スカイツリーの姿も。そして旧岩崎邸庭園入口に到着。坂を登っていくとチケット売り場に。この日は旧岩崎邸洋館は外装工事中であった。中央外面は足場パイプと養生シートに覆われていた。工事前の外観が解る写真も掲示されていた。明治29 (1896) 年に造られた三菱財閥第3代社長の岩崎久彌氏の旧本邸。 かつては今の3倍位の約1万5千坪の敷地に、20棟もの建物が並んでいたとのこと。現在、洋館と和館大広間、撞球場、庭園が残っており、国の重要文化財に指定されている。洋館の1&2Fの間取り図そして和室、撞球室の位置図。正面玄関から洋館1Fに入る。大食堂はビデオシアターになっていた。大食堂の暖炉。この様な暖炉がいろいろな部屋に。ホール。立派な細工の入った柱と階段。ちなみに、この建物には『直線』は存在しないとか。ミリ単位の曲がりやむくりをいれて立体感をより出すように工夫する技法。階段ホールの飾り柱。客室。1階テラスのミントンのタイル。19世紀に品質の良さや種類の豊富さから建築用の材料として重宝されたらしいロンドンのウエストミンスター大寺院やイギリスの国会議事堂アメリカはワシントンの国会議事堂でもミントンのタイルが使用されていると。ちなみにミントンのタイルは公共建築に使われることがほとんどで私邸に使われた例は現在のところ二代目ミントン社長邸とこの旧岩崎邸だけらしい。旧岩崎邸の煉瓦塀修復の際に偶然このタイルと同じものが土の中から見つかりその裏側にミントンの印があったことからミントン社製と判明したそうだ。婦人客室。婦人客室の天井と照明。サンルーム。サンルームには「岩崎久彌と岩崎家の人々」と題して岩崎家家系図が示されていた。サンルームから撞球(ビリヤード)室を見る。1F書斎。書斎の天井と照明。地下への階段入口。この階段を下りると撞球室に繋がる地下連絡通路があるのであろう。2Fへの階段。2Fホールの天井。1Fに較べてシンプル。2F客室。2階客室の金唐革紙の壁。金唐革紙とは、和紙に金属箔(金箔・銀箔・錫箔等)をはり、版木に当てて凹凸文様を打ち出し、彩色をほどこし、全てを手作りで製作する高級壁紙。金属箔の光沢と、華麗な色彩が建物の室内を豪華絢爛に彩っていた。2F客室から撞球室を見る。2階客室テーブルと椅子この部屋は、婦人が好むようイスラム風に造られていると。版木ロール。金唐革紙の製造に使うと。これに湿した和紙をのせ、刷毛で叩きつけることで、紙に凹凸の模様がつけるのだと。円筒型になっていることで、連続模様がつけられると。庭園側の客室。広大な芝庭園。洋館南側のベランダには列柱が立ち並んでいた。イオニア式であると。2Fホール。2Fホールから婦人客室側を見る。洋館のトイレは2階。階段を上がり、廊下を西に進んだ小階段の先に。小用トイレ。小便器の陶器には、英国の陶器メーカー「ドルトン(現:ロイヤル・ドルトン)」社のロゴが、今も消えずに残っているのだと。洗浄はタンクから吊るされた長いクサリを引っ張るタイプ。洗面台。階段を下り1F和室に向かう。玄関入った所にある暖炉。建築様式は、全体的にはイギリスのルネサンス様式が基調となっていますが、装飾はジャコビアン様式の装飾が施されている。このジャコビアン装飾は、‘装飾の末端がツルを巻く様に施されているのが特徴で、暖炉や窓の上部・天井・階段などに見られると。洋から一転して和の住空間へ。洋館と結合された和館は、書院造りを基調にしている。完成当時は建坪550坪に及び、洋館を遥かにしのぐ規模を誇っていた。現在は、洋館同様冠婚葬祭などに使われた大広間の1棟だけが残っている。施行は大工棟粱として、政財界の大立者たちの屋敷を数多く手がけた大河喜十郎と伝えられている。庭の石灯籠。和館の玄関のステンドグラス。近代日本画の育ての親・橋本雅邦の板絵とのこと。和館と洋館をつなぐ廊下は畳敷きで、天井は船底を逆さまにしたような特徴的な形。正面の壁には薄っすらと絵が描かれていた。橋本雅邦作「富士と波」。書院造りの床の間には違い棚が。 庭に降りて和室を見る。出口は和館の大広間の濡れ縁から。広い障子&ガラス扉が上下2段。内部も長い1枚板の天井、桟も全て面取りしてあり芸術作品の如し。庭にも巨石が散りばめられていました。洋館南面を芝庭から。1Fと2Fの列柱の柱をよく見ると同じでは無いことが判るのであった。1階列柱はトスカナ式、2階列柱はイオニア式であるとのこと。撞球室。撞球場(ビリヤード場)は洋館と地下通路で繋がっていると。私的な迎賓館の役割を果たした洋館とこの撞球室(ビリヤード場)は、鹿鳴館などで知られる建築家のジョサイア・コンドルが設計。撞球=ビリヤードであることを初めて知る。ビリヤードの家の外観、日本では珍しいスイスの山小屋風。撞球室内部。校倉造り風の壁、刻みの入った柱、軒を深く差し出した大屋根など、アメリカの木造ゴシックの流れを組むデザイン。内部には貴重な金唐革紙の壁紙がここにも貼られていた。撞球室正面のベンチにしばし座り、芝庭園そして洋館を見る。撞球室裏の牡丹の花。そして旧岩崎邸の出口付近の右手の袖塀(門や建物の脇に設けられた低い塀)には、高知県の生家にもあった岩崎家家紋の「重ね三階菱」が。旧岩崎邸庭園園地整備工事が行われていた。園地拡張部・旧池之端文化センター跡地の整備工事を実施中。重要文化財である旧岩崎邸庭園の保存管理と活用効果を高めるため、芝庭の復元(拡張)を図っていると。財閥と呼ばれた名門一族の暮らしぶりを体感できただけでなく、ジョサイア・コンドルがこだわった建築デザインや細かな職人技など、当時の建築技術の粋にも触れられた今でも『生きている』邸宅なのであった。もう一度宝探しのように隅々の装飾までゆっくり楽しんでみたいと感じたのであった。この後、アメ横を散策し、上野駅からこの日の宴が開かれる五反田駅近くに向かったのであった。
2018.04.29
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六義園を後にし、更に本郷通りを徒歩で南下していく。途中、路の横に藤の花の如き黄色い花を発見。「キングサリ(金鎖・キバナフジ)」であろうか?途中道路左手にある吉祥寺(きっしょうじ)に立ち寄る。文京区本駒込三丁目にある曹洞宗の寺院。山号は諏訪山。山門は1802年の建立。戦災を免れたと。門額には「旃檀林」と。江戸期には境内に後の駒澤大学となる学寮「旃檀林」(せんだんりん)が作られ、卍山道白(まんざんどうはく)が規則を制定して大いに繁栄し、幕府の学問所「昌平坂学問所」と並んで漢学の一大研究地となったと。長い参道・新緑のトンネル(垂れ桜と銀杏の名所)の横にあったのが「八百屋お七と吉三郎の比翼塚」。江戸も前期、1682(天和2)年十二月大火のために本郷の八百屋市左衛門の一家は檀那寺(だんなでら)であるここ駒込の吉祥寺に避難した。そこで市左衛門の娘お七は寺小姓(てらこしょう)の吉三郎(きちさぶろう)と恋に落ちた。やがて一家は無事に本郷へ戻る。しかし、お七は吉三郎に逢いたくてたまらない。翌1683(天和 3)年一月もう一度火事になったら吉三郎様に逢えるとばかり、娘十六、お七は新築された我が家に放火してしまう。不憫に思った奉行が十五かと訊ねても、お七は正直に十六と答えた。同年三月、伝馬町から江戸引き回しの上、品川のここが見おさめ涙橋、哀れ鈴ヶ森で火炙(ひあぶ)りとなったと。これが【八百屋お七】の物語。諏訪山吉祥寺大仏(釈迦如来坐像)。1722年に建造と。二宮尊徳の墓碑。二宮尊徳といえば、二宮金次郎といった方がピンと来るかもしれません。私と同世代の方であれば、校庭の片隅で、薪を背負いながら本を読んでいた少年時代の彼を思い出すのでは。さて、二宮尊徳は小田原出身で、没したのは下野国今市(現在の栃木県日光市)です。すると、なぜ文京区のこの寺にお墓が?調べてみたところ昭和14年の新聞には、東京に住んでいた子孫が尊徳の遺骨を一時的に預けるも病死したため、そのままになっていたとの記事があると。これに対して、小田原にある報徳二宮神社の神職(当時)はそれを否定していたようです。遺骨は尊徳ゆかりの、いくつかの地に分けられて埋葬されているのだから、それは何かの間違いではなかと。鐘楼。本堂。小出浩平先生顕彰歌碑。楽譜の右肩に作詞・作曲 小出浩平」と記されていました。♪♪屋根よりたーかーい こいのーぼーりー♪♪でお馴染み「こいのぼり」の歌碑。1804年に建造の経蔵。文京区指定有形文化財。山門と同じく戦災を免れたと。次に浄心寺に立ち寄る。山門にはドデーン!と大きなカラフルな布袋尊がそびえ立っていた。浄心寺本堂。元和二年(1612)開山の浄土宗の寺。湯嶋山常光院と号す。江戸三十三観音霊場10番。朱の本堂には大きな提灯が。大きな木魚があるとのことで探したが見つけることが出来なかった。これもネットで調べてみると、本堂内に奉納されているとのこと。【http://j.people.com.cn/94475/6576656.html】より転載させていただきました。そして根津裏門坂から根津神社の裏入口に到着。根津神社西口?鳥居。根津神社 境内案内。西門と透かし塀。「つつじまつり」のポスター。今年は4月7日~5月6日まで開催されると。境内にある約2000坪のつつじ苑には、約100種3000株のツツジが咲き競い、甘酒茶屋、植木市、露店等もたくさん並んでいた。見頃は4月中旬から下旬(その年の気候により、かなり異なる。)、種類が非常に多く、開花時期が違うため、早咲きから遅咲きへと花が移り変わり、長い期間様々なツツジを楽しむことが出来るのだと。花の色も赤やピンク、白、紫、・・ととにかくカラフル。色のカオスの世界が拡がっていた。パノラマ撮影に挑戦。楼門。江戸中期1706の建立。三間一戸楼門、入母屋造、桟瓦葺。右側の随神は水戸黄門がモデルであると。重要文化財。黄金の扁額。神橋の上にも多くのカメラマンが。200円を払うとツツジ苑の中に入れると。神楽殿。手水舎。唐門。江戸中期の1706年の建立。一間一戸平唐門、銅瓦葺。重要文化財。社殿。根津神社は壮麗な権現造が有名。権現造とは、本殿と拝殿を石の間によってつなぐ構造をとった建築様式のこと。江戸時代に建てられた本殿、幣殿、拝殿、唐門、西門、透塀、楼門の全てが東京で唯一、現存しており、国の重要文化財に指定されている。多くの参拝客が列を作っていた。社務所で御朱印を頂く人々も列を。御朱印を頂きました。再びつつじ苑を見上げる。青い空、新緑、白・ピンク・赤と鮮やかなつつじのコントラストが美しく、まさに満開、これぞ見頃。日本らしい和の景観の千本鳥居千本をくぐる。「つつじ苑の記」と刻まれた碑。境内には多くの出店が。大盛り焼きそばを購入。お焼きも購入しましたが・・・・。こちらが根津神社 表参道口。朱の鳥居と「根津神社」と書かれた扁額。そしてその奥につつじ苑。そして先程、NHKのテレビのニュースで「ツツジは 街路樹としても人気があり この時期 歩道と車道の間を彩る風景を目にした方も多いことだろう。樹木には 総じて空気を浄化する作用があるが、ツツジは空気をきれいにする能力に優れている。中でも街路樹としてよく見かけるオオムラサキは特にその能力に優れる。また、ツツジは背の低い樹木であるため街路樹として植えると排気ガスなどから歩道をゆく子供を守ってもくれるのだ。ツツジは彩りの美しさと大気の浄化によって環境をより良くする優れた樹木なのだ」と。
2018.04.28
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旧古河邸をにし日光御成道(本郷通り)を駒込駅方面に歩く。妙義坂の途中左手に小さな堂が。「駒込妙義坂子育地蔵尊」。説明板には「この地蔵尊の由来は古文書に次のように記されています。「寛文八戌申年十月、旧邸ノ南丘陵ノ地ヘ間口二間、奥行三間ノ堂宇ヲ建設シ、地蔵尊像(石像丈二尺三寸)一体ヲ造立、同堂ニ安置シ子孫繁栄ヲ誓願ス 爾来有志ノ老若男女、毎月此堂ニ集シ念仏供養ヲ営ム 此地ハ今井家始祖ノ墳墓ノ旧跡地ト云傳 又堂宇ノ西拾間余地小丘アリテ三ッ塚ト称スル塚アリ是ハ南北朝ノ官兵戦死者及び新田、今井ノ両家ノ諸士戦死ヲ合祀セシ地ト云傳」これによれば、寛文8年(1668)に駒込の今井家が子孫繁栄を祈願して地蔵尊とお堂を建立し、以来地元有志によって毎月念仏供養が営まれたことがわかります。」と。「染井吉野櫻発祥之里 駒込」。刻まれた石碑。櫻と言えばソメイヨシノと言われるほど、この品種は日本中に広まっているが、江戸時代にこの地・駒込で“エドヒガンザクラ”と“オオシマザクラ”が自然交配してできた品種であると。そして徒歩で20分ほどで、六義園正門に到着。六義園は昭和28(1953)年に国の特別名勝に指定された江戸時代を代表する大名庭園であり、貴重な文化財庭園。 明治の初め頃三菱財閥の岩崎弥太郎が購入した際も赤煉瓦の塀に囲まれ、近年その赤煉瓦塀は数年かけ全面改修されたと。セット券を渡し、入園。六義園は、徳川五代将軍・徳川綱吉の側用人・柳沢吉保が、自らの下屋敷として造営した大名庭園である。1695年(元禄8年)に加賀藩の旧下屋敷跡地を綱吉から拝領した柳沢は、約千坪の平坦な土地に土を盛って丘を築き、千川上水を引いて池を掘り、年の歳月をかけて起伏のある景観をもつ回遊式築山泉水庭園を現出させた。「六義園」の名称は、紀貫之が『古今和歌集』の序文に書いた「六義」(むくさ)という和歌の六つの基調を表す語に由来すると。六義園は自らも和歌に造詣が深かった柳沢が、この「六義」を『古今和歌集』にある和歌が詠うままに庭園として再現しようとしたもので、紀州の和歌浦を中心とした美しい歌枕の風景を写して、庭園を造ろうと思い立った。その設計は柳沢本人によるものと伝えられている。正門入ってすぐ、六義園の石柱と野点傘の隣に「紅霧島ツツジ」が咲き初め、写真スポットでもあるこの場所がより華やかに。旅友をこの場で記念撮影。サングラスがモザイクの代わり。園内案内。六義園はツツジの花が特に有名で、地元では「駒込と言えばツツジの花の咲く街」と謳われるような象徴的な存在となっている。また庭園入口近くにある枝垂桜も、月末に枝いっぱいの薄紅色の花を咲かせる名木として有名で、この枝垂桜の最盛期と紅葉の最盛期にはライトアップもされる。芝生の整備も行き届いており、都内を代表する日本庭園として名高く、海外からの観光客も多いと。枝垂桜の手前にある内庭大門(ないていだいもん)。内庭大門を潜ると、これが名木として有名な枝垂桜のこの日の姿。枝垂桜の最盛期の写真も展示されていた。高さ約15m、幅は約20mの流れ落ちる滝のような見事な大木の桜は、うららかな光に映える昼の姿も、夜空に浮かび上がる幻想的な姿も、どちらも見応え充分であると。ライトアップされると幻想的な姿が浮かび上がると。「六義館跡(むくさのたちあと)」。柳沢吉保の下屋敷跡。将軍徳川綱吉より1695年(元禄8)当時の染井村駒込に4万7000坪の地を与えられた吉保が7ヵ年余をかけて完成し,彼みずから園名を六義園(むくさのその),屋形を六義館(むくさのたち)と名付けたと。内庭大門の西側の奥にあるのが「心泉亭」。心泉亭は、宣春亭とともに有名な茶室であり、一般の入園者も利用でき純日本風の建物で、平屋建。手前にあるのは、直径 1m 弱の大トウカエデ。回遊式築山泉水庭園の最も大切な場所になるのが、大泉水の池に浮かぶこの中の島。名前を「妹山(いもやま)・背山(せやま)」、または「妹背山(いもせやま)」と呼ぶ。古くは女性のことを妹(いも)、男性のことを背(せ)と呼び、この中の島は男女の間柄を表現しています。イザナギ、イザナミの故事にちなむ「せきれい石」もあります。「蓬莱島」アーチ状の岩で中に空洞がある独特の形状で、完全に岸から離れているが、松が一本生えていて、不老不死の仙人が住むと言われる蓬莱島の名の由縁にピッタリ。蓬莱島の横の小さな石には亀がノンビリと甲羅干し中。野鳥ものんびりと。「滝見の茶屋」。東屋の横を渓流が走り、岩の間から落ちて水しぶきをあげていた。 ここは、夏の人気スポット。マイナスイオンを思い切り浴びることが出来ると。この滝の音は耳に心地よく、その音に耳を傾けるだけでも「涼」を感じることが可能と。茶屋から枕流洞(まくらながしのどう)・水分石(みずわけいし)を見て、飛び石を渡ることも出来る。滝見の茶屋手前にかかる千鳥橋。千鳥橋からのんびりと泳ぐ大きな鯉を。吹上浜と吹上の松が見えて来た。吹上茶屋方面に歩を進めるとツツジの花が見えて来た。そして吹上茶屋が見えて来た。手前に深い赤色の無数の花をつける八重霧島の古木も開花が始まっていた。多くの観光客が一休み中。我々はグッと我慢。吹上浜の吹上松をズームで。モミジの種。竹とんぼのような羽の付いたのもみじの種は、風に乗り、遠くへ飛んで行けるようにうまく出来ているのだ。そしてツツジの山・「藤代峠」近くに到着。都心とは思えない風景、鳥のさえずりを聞きながらのツツジ観賞・散策。藤代峠の頂付近の開花はこれから。「藤代峠」の標高は35mであると。六義園内で最もつつじの多い場所。藤代峠に登る。ここは江戸時代、江戸の百名山の一つに数えられていたのだと。藤代峠頂上からの眺望。正面奥に見えるのが「中の島」にかかる田鶴橋。藤代峠を下り、再び田鶴橋をズームで。渡月橋を渡り振り返る。この前に広がる水辺は、水面に月を映してその姿を愛でたといわれることから「月宿湾(つきやどるわだ)」と呼ばれているとても風情のある場所。「渡月橋」というと、京都の嵐山を思い出しますが、六義園の「渡月橋」は京都の嵐山の渡月橋を模したものではなく次の和歌から付けられたものであると。「和歌のうら 芦辺の田鶴の鳴声に 夜わたる月の 影そさひしき」昔は土でできた橋だったようだが、現在では2枚の大岩による橋となっていた。立ち入り禁止となっている妹山 背山にかかる田鶴橋の近くに立派な石灯籠が立っていた。田鶴橋近くからの藤代峠。松の芽摘みの手入れの職人さんの姿も。六義園の秋の黄葉ライトアップ時のポスター。そして次に訪れた根津神社のつつじまつりのポスターも。
2018.04.27
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この日、4月20日(金)は10年前のスペイン旅行以来お付き合いしている旅友の一人の女性の60歳還暦の宴が夜、五反田で行われ、これに参加しました。旅友のSさんと、昼間は都内の庭園を散策し、ツツジの花を楽しもうと。そしてJR上中里駅で10時に待ち合わせ。この駅を利用するのは初めて。そして歩いて10分もかからず最初の訪問場所・旧古河庭園(きゅうふるかわていえん)へ到着。「祝 100年 旧古河庭園」と書かれた表示板が。チケット売り場でその後に予定してた六義園とのセット券を購入。旧古河邸は100年前の1919年(大正8年)に古河虎之助男爵の邸宅として現在の形(洋館、西洋庭園、日本庭園)に整えられた。現在は国有財産であり、東京都が借り受けて一般公開しているとのこと。国の名勝に指定されている。東京のバラの名所として親しまれている人気スポット。ウィキペディアによると「1917年(大正6年)5月、西洋館と洋風庭園が竣工。洋館と洋式庭園は、イギリス出身の建築家、ジョサイア・コンドル(他に旧岩崎邸洋館、鹿鳴館、ニコライ堂など)により設計監理された。さらに虎之助により、大正8年(1919年)、日本庭園も竣工し、現在の形となった。日本庭園は近代日本庭園の先駆者・京都の庭匠「植治」こと七代目小川治兵衛(他に京都無鄰菴、平安神宮神苑、円山公園など)により作庭された。」と。英国貴族の邸宅にならった古典様式で、躯体は煉瓦造、外壁は真鶴産の新小松石(安山岩)の野面積で覆われ、屋根は天然スレート葺き、地上2階・地下1階の造り。大正12年9月1日に発生した関東大震災では約2千人の避難者を収容し、虎之助夫妻が引き払った大正15年7月以降は貴賓の為の別邸となった。昭和14年頃には後 に南京政府を樹立する国民党の汪兆銘が滞在し、戦争末期には九州九師団の将校宿舎として接収され、また戦後は英国大使館付き武官の宿舎として利用されたと。北側の洋館(大谷美術館)入口。上部に古河家の家紋が。洋館の1&2階 間取り図。館内は撮影禁止と。旧古河邸 配置図。庭園のツツジはかなり開花していたが、バラはこれから。メイズ(迷路)のように入り組んでおり、様々な種類のバラが植えられている。左右対称性は「フランス整形式庭園」から、そして石の欄干や石段などは「イタリア露壇式庭園」から着想を得ているのだと。展望台(四阿・あずまや)から旧古河邸を。バラ園まで下り、旧古河邸を南側から。左右対称の美しい造り。 館は地上2階・地下1階からなるジョサイア・コンドル最晩年の作。赤と白そして緑のアンジュレーション(うねり)。西側。南側正面からもう一度。ツツジ園は満開に近かった。キアゲハが。ツツジ園の下の「黒ボク石積」。黒ボク石とは富士山の溶岩で、多孔質で軽く、加工もしやすい。山の雰囲気が出るため、主に関東で石組みとして用いられる事が多いが、石垣は珍しいと。苔の緑も光を浴びて輝いていた。モミジの新緑も陽光を浴びて。兜門。茶室のある庭によくある門であると。日本庭園の心字池と一枚岩の石橋。こちらの一枚岩は2枚互い違いに。松の手入れ中。我が家の五葉松も・・・と。日本庭園には多くの形の石灯籠が説明板付きで置かれていた。濡鷺型灯籠(ぬれさぎがたとうろう)。「他の形式に比べて笠が厚く、むくり(反り)が無い。図柄は「濡れ」を文字で「鷺」を絵で表現するか、「濡鷺」を文字で表現する2種類がある。」と。泰平型灯籠(たいへいがたとうろう)。「笠の縁が蕨(わらび)のように渦巻状に沿った部分を「蕨手」(わらびて)という。竿が太くて節も3つあり、名が示す通りどっしりとした「泰平感」を漂わせている。」と十五層塔。「その語源はスツーパ(積み重ね)からきていて、現地では仏塔の一種として信仰を集めていますが、日本でも石塔は塔婆と同じ考え方で用いられ共通性がある。奇数積みが原則」と。最上部は地震で落下したのであろうか?横の地面上に設置されていた。雪灯籠と心字池。心字池は「心」の字に似せて、鞍馬平石や伊予青石などで造られた池。池を眺める要となる「船着石」があり、正面には「荒磯」、雪見灯籠、枯滝、石組み、そして背後には築山が見られた。雪見型灯籠。「この灯籠は水辺によく据えられ、その姿が水面に浮いて見える「浮見」と点灯時にその灯が浮いて見える「浮灯」が「雪見」に変化したとする見方がある」と。奥の院型灯籠。「灯袋に牡丹・唐獅子・雲・七宝透かしを、中台に十二支を、基礎に波に千鳥又は波に兎を刻んでいる。奈良の春日大社の奥の院にあるものを本家として発展した。」と。別の角度から。中台の十二支が良く理解出来た。「崩石積(くずれいしづみ)」。京都で発達した伝統的な工法。ぎりぎりのバランスを保ちながら石を組み上げ、造形美へと昇華する。当庭園のものは小川治兵衛の力作とされる。茶室。大滝。「この滝は、本郷台地と低地の斜面を巧みに利用した、小川治兵衛の最も力を入れた場所の一つであり、滝壺まで20m落ちる景観は氏の作風の中でも珍しく丘陵幽玄の境地を如何なく発揮している。」と。「10数mの高所から落ちる滝。園内のもっとも勾配の急な所をさらに削って断崖とし、濃い樹林でおおって深山渓谷の趣があります。曲折した流れから始まり、数段の小滝となり最後は深い淵に落ちるという凝った造りです。」と。井戸水をくみ上げているようであった。階段を上り再び展望台へ。バラのシーズンを思い描きながら。そして東側の芝生広場より旧岩崎邸を。植木職人が花壇に花を定植中であった。
2018.04.26
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4月19日(木)の午後に、「妻のリクエスト」に応えて?何故か一人で大船フラワーセンターに車で行って来ました。昨年7月から改修工事されていた県立大船フラワーセンターが、2018年4月1日にリニューアルオープンしたのです。ちなみに、「神奈川県立フラワーセンター大船植物園」は、名称を「神奈川県立大船フラワーセンター」に改め、また、指定管理者制に管理を移行し、ネーミングライツ(命名権)も導入し「日比谷花壇大船フラワーセンター」の愛称でリニューアルオープンしたのです。指定管理者制度とは、植物園の管理において民間企業のアイディアや企画などを導入して、利用者の多様なニーズに応え、質の高いサービスを提供、効果的・効率的な管理運用を目指していくためのもの。入園料は20歳以上を360円から400円に値上げする一方で学生と20歳未満(高校生を除く)は250円から200円に値下げ、そして65歳以上は150円と嬉しい金額。敷地は、総面積63,900m2。入り口を入ると、すぐに園芸種の花壇があり、その向こうの噴水の池に睡蓮の葉が浮かんでいた。入場してすぐの広場にある石のアーチは以前のまま。「かたぐるま」というモニュメント。レストハウスにはウッドデッキが新設されていた。大船フラワーセンター案内図。4月からはセンターの売りであるシャクヤクやボタンのエリアを広げたほか、エレベーターの新設やスロープの拡張などのバリアフリー対策を施したとのこと。池の噴水とその奥に様々な色のヤグルマギクが。花時計もそのまま健在。ビオラが色ごとに分けて植えられていた。時間は14時前。ハナミズキの赤も青空に映えて。白も負けじと。池の横の藤棚には満開の藤の花が撓わに。この日がピークか?フラワーセンターを時計廻りで歩くこととする。シャガ。白っぽい紫のアヤメに似た花。花弁に濃い紫と黄色の模様が。椿園の花はほぼ終わっていた。紀州司が最後の花を。そして道路脇の草むらにあったのがユキモチソウ(雪餅草)。まんなかの白くふくれた部分が 雪のように白く、餅がふくらんだみたいなので この名になったのだと。初めて見る植物。こちらはムサシアブミ(武蔵鐙)。和名は、昔、武蔵国で作った鎧の形に似ているのでこの名がついたと。ホタルカズラ。花には5本の白い隆起が。和名はこの青色を蛍にたとえたのだと。大胡蝶(おおこちょう)。白孔雀というツツジ。コオズエビネ。エビネは日本に自生する蘭の仲間。質素な色合いの花が特徴で、他の種類と交配しやすいことから、品種改良が盛んに行われていてこのコオズエビネはニオイエビネの一種。第一展示場ではおしば会主催の「おしば美術展」が開催されていた。玉縄桜広場。フラワーセンター名物の玉縄桜は、早咲きなので、とっくに、葉桜となっていた。ここは以前は確か池であったが・・・新設された広場であろう。ピクニックランドには様々な色の藤の花が。こちらも満開中。藤の花にもいろいろな色が。曙藤(アケボノフジ)か?こちらはピンクの藤。ズームで。今年は、藤の花も咲くのが早いと大きなカメラを持ったオジサンから。例年ならばゴールデンウィークがちょうど見頃とのこと。ホンベニフジ(本紅藤)か?白い藤も。別の紫のフジ。青空に映えて。青と紫の共演。隣にあるバラ園に向かう。バラ園の見頃はこれからで未だ蕾だけ。わずかに数輪の「プリンセス ミチコ」が迎えてくれた。しかし「もっこうばら」は満開。やや淡い黄色の早咲きの蔓バラ。大量に花をつけており、この大きなモッコウバラの開花は圧巻。新たにリニューアルした芍薬園。未だ1~2cm程の蕾が。昨年はこの花菖蒲を見に来たのであった。別の場所のシャクヤク(芍薬)は開花中であったシャクヤク(芍薬)「ゴールデングロー」。シャクヤク(芍薬)「アテナ」。牡丹園も5割以上が開花中。ボタン(牡丹)「花王」。ボタン(牡丹)「白神」。絵画を楽しむ人の姿も。このエリアのツツジは三つ葉ツツジ系のオンツツジとサクラツツジの種間雑種。このフラワーセンターで交配選抜したものであると。ズームで。こちらも。白のアイリス。様々な種類、色合いのシャクナゲが最後の輝きを。池に戻り周りのヤグルマギクをズームで。アイスランドポピーが一面に。少し離れてズームで。旨く撮れました。ネモフィラも一面に今や盛りに。青一色に広がる景色を楽しむ。私に似たオジサンも写っていた。澄んだ青が春の空の色と重なると、なんとも言えない美しい青のグラデーション。ルピナス(昇藤(のぼりふじ))はこれから。5種類の花の大きな花壇。右手にも別の花が。グリーンハウス(温室)に向かう。温室入り口前のチュウキンレン(地湧金蓮)。実は寒さに強い中国雲南省の高地生まれの花であると。「地面から湧き出た金色のハス(蓮)の花」という意味の名。花弁に見える黄色いものは 苞(ほう)=花の蕾を包んでいた葉で花は苞片の付け根に顔を出していた。ハイビスカス。ブーゲンビリア。ストレリチア・レギナエ。燈黄色の羽を羽ばたかせている青い嘴を持った鳥のようにも見える花。「さくらそう展」が行われていた。様々な色、種類のサクラソウが展示されていた。睡蓮 「ドーベン」。花弁の先にほんのりとブルーの入る白花種。睡蓮 「ティナ」。水面から飛び出すように花が咲き、葉には大きな切れ込みががあるのが特徴。睡蓮 「グリーン スモーク」。花弁のクラデーションが特徴で淡いブルー紫~黄緑への微妙な変化は他では見られないような色彩。パパイヤが撓わに。黄色く熟しつつあるパパイヤ(レッドレディー)外に出て和風庭園に向かう。芝生広場も緑を増して。小鳥を追いかける幼い子供の姿も。手入れされたばかりの松。シダレエンジュ(枝垂槐)。エンジュ(槐)の変種でマメ科に属する落葉高木。シダレエンジュは樹形が珍しく,剪定の仕方によって、竜の爪のように見えるので中国では,『竜爪木』と呼ばれているのだと。 花期は7~8月で,蝶形の小さい白花をつける。原産地はもちろん中国。 中国では古来より出世の樹木として中庭や玄関の両脇等に植える風習があるようで,縁起の良い木(縁起木)として知られているとネットから。この庭は、池を中心とした小さな回遊式庭園で、本館に近い東半分は平安朝の要素を、また西半分は江戸風の要素を組み合わせて作られており「吹合(ふきあい)の庭」と名づけられていると。よってこの写真は平安朝の庭か?再び入口の先の池を。最後に「花の築山」に登る。チュウゴクセイシカ。厚い革質の葉と白い小花が美しいシャクナゲの一種。ハンカチの木。枝に白いハンカチのような姿の花を咲かせていた。まだまだ写真を撮った花はあるが、切りが無いのでこの辺で。そして駐車料金400円/2時間を支払い帰路に。次回は今回のリニューアル工事で改修拡張そして新しい品種も植え込んだシャクヤクとボタンを楽しみに行こうかと。
2018.04.25
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萩から車を走らせ、島根県津和野の町に1時間10分ほどで到着。周囲の山々の頂上周辺は雪で白くなっていた。「鷺舞(さぎまい)の像」が津和野大橋の近くに。鷺舞(さぎまい)とは主として八坂信仰の神社にて奉納される伝統舞踊。島根県津和野町及び京都市の八坂神社で奉納されるものが著名である。ここ津和野町のものは「津和野弥栄神社の鷺舞」として国の重要無形民俗文化財に指定されている(1994年〈平成6年〉)。毎年祇園祭りの7月20日(ご神幸の日)は町内11ヶ所、27日(ご還幸の日)は町内9ヶ所の昔から定められた場所で舞うのだと。津和野をロマンの街と呼ばせるほどの美しい通り、殿町通りと大橋が交差する県道13号線交差点にある鳥居。かつての武家屋敷のあった処で見事な白壁と掘り割りに泳ぐ鯉が。小京都と呼ばれた津和野の代表的景観の一つ。津和野殿町通りにある大岡家老門。山陰道は五機七道のひとつで、京都の丹波口を起点とし、兵庫・鳥取・島根を横切って、小郡で山陽道に合流する。益田から「山陰の小京都」津和野に入ると、旧街道が町の中をまっすぐ突き抜けており、城下町の面影を残す町並みが続く。特に、なまこ塀と掘割りに泳ぐ鯉が風情ある殿町通りは津和野を象徴するエリアで、津和野藩の家老だった大岡家の門である「大岡家老門」をくぐると、町役場が現れる。藩校養老館。藩校養老館は、津和野藩主亀井氏8代矩賢により、天明6年(1786)に創設され、儒学を主として漢学、医学、礼学、数学、兵学などが設けられていた。その後、11代茲監は嘉永2年(1849)に新たに国学や蘭医学を設け、規模を拡大するともに人材育成に力を入れた。創設時の建物は、嘉永6年(1853)の大火で焼失してしまったが、安政2年(1855)に現在地に再建され、明治5年に廃校となったと。教会の尖塔が見えた。民家の門も立派。津和野カトリック教会。隣接する乙女峠展示室では、カトリックの殉教に関する歴史資料を展示。国登録有形文化財。ゴシック様式の教会で、鮮やかなステンドグラスが印象的。津和野殿町通りを更に進む。雨上がりの為か観光客の姿も少なかった。本町通り沿いの椿家住宅(国登録有形文化財)。椿家は蝋燭や髪付油を取り扱ったかつての御用商人で、「分銅屋」を屋号としていた。主屋は江戸末期の建築で、改造されている箇所もあるが市街地に残る最古の町屋。鬼瓦は不思議な形。ショッピングウィンドウには、津和野名物の「源氏巻」が。餡をきつね色に焼いたカステラのような薄い生地に包んだ長方形の菓子であり、茶菓子として用いられる。名前の由来は、幕末に藩の御用菓子司が銘名を頂くため、このお菓子に紫色の餡を詰め込んで、藩主に進上した。この際、藩主の妻が紫色の餡に感動し、『源氏物語』の「若紫」に出てくる和歌「手に摘みていつしかも見ん紫の根に通ひける野辺の若草」を詠んだ。それにあやかって「源氏巻」と名付けられたとされる。現役の酒造・古橋酒造(国登録有形文化財)。比較的新しい、大正期の建築ですが、うだつを備えた立派な町屋。手前には古橋酒造の主屋には、モルタル壁の洋風玄関が付属。杉玉(すぎたま、すぎだま)。スギの葉(穂先)を集めてボール状にした造形物。酒林(さかばやし)とも呼ばれる。日本酒の造り酒屋などの軒先に緑の杉玉を吊すことで、新酒が出来たことを知らせる役割を果たす。津和野の陶器屋。和菓子屋・山田竹風軒。創業130年の老舗。源氏巻を代表とする歴史ある和菓子や独自の技術や思いをのせた新しいお菓子を作っていると。和菓子を購入し一休み。店の中にあった雛人形。全国誌の月刊誌に紹介されたと。漸く青空が。今回の旅行で初めての青空を見る。なまこ壁。壁面に平瓦を並べて貼り、瓦の目地(継ぎ目)に漆喰を蒲鉾形に盛り付けて塗る工法によるもので、目地の盛り上がった形がナマコ(海鼠)に似ていることからその名がある。津和野の下水マンホールの蓋。藩校養老館の掘割に泳ぐ錦鯉と満開の菖蒲と町の花ツワブキのデザイン。 中央のマークは旧津和野町章。久しぶりの青空が眩しかった。今回の旅行の最後に、太皷谷稲成神社(たいこだにいなりじんじゃ)に車で向かう。途中左手に津和野城へのロープウェイが。ここも「日本100名城」の一つである。太皷谷稲成神社駐車場からの津和野の街並み。津和野川が流れる津和野町は「山陰の小京都」ともよばれ、古い町屋や掘割の水路など城下町の情緒を残した自然豊かな町。この日は雨の後で濁水が勢いよく流れていた。太皷谷稲成神社の拝殿に向かう。通称「津和野のおいなりさん」。全国で唯一「いなり」を「稲成」と表記する神社とされると。宇迦之御魂神(稲荷神)と伊弉冉尊を祀る。日本五大稲荷の一つに数えられ、出雲大社に次いで県内2位の年間参拝客を数えるとのこと。1969年(昭和44年)に建立された新殿。拝殿内部。元宮(もとみや・旧熊野神社)御祭神 伊弉冉尊(熊野大神)、宇迦之御魂神(稲成大神)御神徳 創造開拓 道開き 病魔退散 鬼門除け 方災除け 願望成就 など江戸後期の安永2年5月15日、藩主七代亀井矩貞公により、京都伏見より稲荷大神を、城内の一角である太皷谷の峰(津和野城の鬼門)に勧請し、稲成神社(=現在の元宮)が建立された。慶應3年7月、津和野藩の神社整理により、津和野乙女山に鎮座の熊野権現社を稲成神社に遷し、相殿として奉斎。以来、社号を熊野神社と称した。大正12年、現社殿を建立し、昭和2年に熊野神社から稲成神社と改称。昭和44年、新社殿建立につき、当旧社殿を「元宮」と改め、熊野・稲荷両信仰の神域として現在に至ると。そして津和野を後にし、石見空港(いわみくうこう)に向かう。途中、「道の駅 シルクウェイにちはら」に立ち寄る。道の駅の2Fでは東海道五拾三次の版画展示が行われていた。「藤澤」遊行寺。葛飾北斎 富嶽三十六景 神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)。石見空港に到着。愛称は萩・石見空港。「萩」と言う文字があるが、萩市内までは乗合タクシー(要予約)のみで約75分、直行バスなどは全く出ていないのであった。帰路はANA便 17:45発羽田空港行き。離陸後は夕焼けが機窓から。離陸後旋回すると右手下には石見空港の進入路指示灯が見えた。山陰の海岸沿い上空を進み羽田空港へ。眼下前方には三隅発電所(みすみはつでんしょ)が。三隅発電所は、島根県浜田市にある中国電力の石炭火力発電所。そして羽田空港に定刻に到着し、2泊3日の長府~下関~萩~津和野のドライブ旅行を終え、羽田空港から最寄りJR駅までバスを利用し帰宅したのであった。萩の町には吉田松陰の門下生が巣立っていった小屋(松下村塾)が松陰神社の中にあった。こんなに狭い質素な空間から、幕末から維新にかけて全国に羽ばたいて明治維新の原動力となり近代日本の礎を築いた多くの人材や、内閣総理大臣まで輩出してるのは驚きそして感動なのであった。小屋の中にはその門下生達の写真が飾られていた。長州藩は公式には石高36万9千石となっていたが、幕末期には実態は100万石以上あったと。歴史的には広島の山奥の守護大名だった毛利家は、戦国時代を戦い抜く中で、全国有数の大名にのし上がり、関ヶ原の戦い時点では、130万石以上の領地を支配していたと。その頃の藩の中心地は瀬戸内海側の安芸広島だったのだ。ところが、関ヶ原後の処分で、かろうじて取りつぶしは免れたものの、瀬戸内海側から日本海側に追いやられ、石高も3分の1以下に減封され、萩という日本海に面した河口の三角州で、当時は人間が住む場所ではないとまで言われた地に追いやられたのであったと。関が原の戦いに敗れた後には、外様大名に分類され所領を周防(すおう)、長門の2国のみに減封されたのである。言いがかりによって所領安泰の確約を裏切られ、瀬戸内海に面する広島から鄙びた裏日本に追いやられた長州藩の徳川幕府に対する恨みは深かったので、倒幕が裏の藩論とされ脈々と受け継がれていた事をこの旅で今更ながら学んだのであった。そして、どんな環境でも強い志があれば成し遂げられるのだと改めて感じる事が出来たのです。明治維新から130年以上経った今日、萩の城下町には、その至る所に歴史を物語る建物や史跡の多くが残されていた。少し町を歩けば、藩政時代に築かれたであろう古い土塀が見られ、武士達が内職の一種として植えた夏みかんの木があちらこちらに点在し、我々の目を和ませてくれたのであった。まるで昔にタイムスリップしたような、何とも言えない情緒深い雰囲気が、萩の町に漂っていた。これほど保存状態の良い城下町は、日本中に一つも無いと言っても過言ではないとも。明治維新後にはしばらくは「忘れられた町・萩」になってしまっていたが、今では人々にとって、「忘れられない町・萩」へと変わっている事をこの旅で知ったのであった。 ・・・END・・・
2018.04.24
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東光寺の次は世界遺産登録を果たした萩反射炉を訪ねる。駐車場に車を駐め反射炉への階段を登る。萩反射炉は、鉄製大砲の鋳造に必要な金属溶解炉で、萩藩の軍事力強化の一環として導入が試みられた。萩藩は安政2年(1855)、反射炉の操業に成功していた佐賀藩に藩士を派遣し、鉄製大砲の鋳造法伝授を申し入れますが、拒絶され、反射炉のスケッチのみを許された。現在残っている遺構は煙突にあたる部分で、高さ10.5mの安山岩積み(上方一部レンガ積み)。オランダの原書によると、反射炉の高さは16mで、約7割程度の規模のものに。また、萩藩の記録で確認できるのは、安政3年(1856)の一時期に試験炉が操業されたということだけであり、萩反射炉はこのスケッチをもとに設計・築造された試験炉であると考えられているのだと。反射炉の遺構は、萩のほか韮山(静岡県)と旧集成館(鹿児島県)にあるだけで、わが国の産業技術史上たいへん貴重な遺跡であると。【国指定史跡】。炉は玄武岩とレンガを使用し、基底は長方形で上部が漸次狭くなり、2本の煙突にわかれていて、高さは11.5m。残っているのは煙突部のみで反射炉の部分は残っていなかった。そして2月に訪ねた伊豆・韮山反射炉は、目的通り反射炉として稼働して大砲をいくつも鋳造した数少ない反射炉であり実際に18ポンドカノン砲が4門、24ポンドカノン砲が1門、80ポンドカノン砲が4門が作られたとのことであったが、この萩反射炉は実用炉としての稼働の存在は認められず、現存する反射炉は試験炉であったという見方が有力視されているのだとボランティアのオジサンが説明してくれたのであった。反射炉の裏側。煙突に貯まる雨水を排水するホース?が2本。反射炉の構造と特徴炉と煙突に大きく分けられる。燃焼室で焚いた燃料の炎と熱を浅いドーム形の天井に反射させて、溶解室に置いた原料鉄に熱を集中させて溶解させる。高い煙突を利用して大量の空気を送り込み、炉内の温度を千数百度にして、鉄に含まれる炭素の量を減らし、鉄製大砲に必要な軟らかくて粘りのある鉄に変えるのだと。反射炉は西洋で開発された金属溶解炉。江戸時代幕府や一部の藩がその導入に取り組んだ。鉄製の洋式大砲を必要としたからである。 1854年佐賀藩が日本で最初に反射炉を完成させた。その後薩摩藩や水戸藩など次々反射炉を完成させたが現存しているのは2か所のみ。我が国の産業技術史上、貴重な遺跡であると。反射炉から離れて再びシャッターを。桜の咲きシーズンは美しい光景になること間違いなし。そして次に車で5分ほどの場所にある恵美ヶ鼻造船所跡(えびすがはなぞうせんじょあと)を訪ねる。こちらも世界遺産。嘉永6年(1853)、幕府は各藩の軍備・海防力の強化を目的に大船建造を解禁し、のちに萩藩に対しても大船の建造を要請した。安政3年(1856)、萩藩は洋式造船技術と運転技術習得のため、幕府が西洋式帆船の君沢型(スクーナー船)を製造した伊豆戸田村に船大工棟梁の尾崎小右衛門を派遣。尾崎は戸田村でスクーナー船建造にあたった高崎伝蔵らとともに萩に帰り、近海を視察、萩市小畑浦の恵美須ヶ鼻に軍艦製造所を建設することを決定した。同年12月には萩藩最初の洋式軍艦「丙辰丸」(全長25m、排水量47t、スクーナー船)が、また万延元年(1860)には2隻目の洋式軍艦「庚申丸」(全長43m)が進水したと。現在も当時の規模の大きな防波堤が残っていた。【国指定史跡】。防波堤のみが残る恵比寿ケ鼻造船所跡。現存する石造防波堤は、当時の史料にみえる「今浦波戸」と考えられると。防波堤下には造船所跡の発掘現場が残されていた。発掘調査後に保存のために埋め戻されている模様。萩市教育委員会では、平成21年度から平成24年度にかけて、恵美須ヶ鼻造船所跡の発掘調査や文献調査等を実施したと。その結果、丙辰丸建造に際して設けられた造船場「スクー子ル打建木屋」想定地点で落ち込み遺構、「大工居屋」「綱製作木屋」と考えられる遺構、「カジ場」想定位置で炉跡遺構等を検出した。また、平成24年度には庚申丸建造時の造船場に関わると想われる石積遺構を検出したと。造船所跡の説明パネル。船の絵は安政3年12月に進水、安政4年春に完成した「丙辰丸(へいしんまる)」。丙辰丸の規模は総長81尺、肩20.15尺、深さ10.3尺、2本マストの「スクーナー君沢形」。造船に必要な原料鉄は大板山鑪場(史跡大板山たたら製鉄遺跡)から供給された。完成した丙辰丸は主に大坂や長崎を往復して物資輸送に当たったと。恵美須ヶ鼻造船所跡前に拡がる湾の景色。体が青みがかった灰色であり、ピンクの嘴と目の上から後頭部にかけて黒い筋が見えるのでアオサギ(青鷺)であろう。そして、再び車を萩城下町の方面に走らせ「野山獄跡」へ。野山獄には、安政元年(1854)海外密航に失敗した吉田松陰が投じられたと。松陰は、ここで仲間の囚人たちに孟子の講義をするとともに自らも俳諧や書を学んだと。また獄吏でさえも廊下で松陰の講義に耳を傾けたといわれており、前例のない教育活動を行ったのだと。野山獄には維新前夜の文久・元治年間(1861~64)、藩内の論争に際して高杉晋作や楫取素彦ら多くの志士も入牢し、また十一烈士など尊皇攘夷派だけでなく、保守派の坪井九右衛門や椋梨藤太など、多くの人が処刑されたところでもある。現在、当時の敷地の一部を保存して記念碑などが建てられており、萩藩の波乱に富んだ維新当時の姿を偲ぶことができ、維新史を語るうえでも重要な史跡となっていた。そしてその手前には「岩倉獄跡」が。正保2年(1645)9月17日、酒に酔った大組藩士禄高200石・岩倉孫兵衛が、道ひとつ隔てた西隣りの同じく大組藩士禄高200石・野山六右衛門の屋敷に斬り込み、家族を殺傷するという事件が起こった。藩は野山宅に岩倉を幽閉し、後に斬首の刑に処したが、喧嘩両成敗ということで両家は取り潰し、屋敷は没収された。後に藩は両家跡を牢獄とし、切り込んだ岩倉に非があるので、士分の者を収容する上牢を野山獄、庶民を収容する下牢をここ岩倉獄としたと。そして萩の最後に未だ廻っていない街並みを急ぎ歩く。北古萩町にあるこの「保福寺」は明治初年に廃寺になっており、山門と地蔵堂(本堂)、墓地のみが残っている。萩八十八ヶ所めぐり霊場の第66番札所にもなっている寺。地蔵堂(本堂)山門前両側にはお地蔵さまが建っており、地蔵堂(本堂)には本尊の地蔵菩薩(向って左側)と身がわり地蔵尊(向って右)を安置している。身がわり地蔵尊は頬が欠けており、言い伝えもあると。境内には水子地蔵を安置している堂があり、今でも水子供養の寺として、萩の人々に信仰されているそうだ。白壁の続く路がここにも。これぞ城下町の風景。亨徳寺(こうとくじ)。道路に面して立つ木造の三門は、荘厳で堂々たる造り。亨徳元年(1452)に創建され、元亀年間(1570~72)現在地に移された。道路に面して立つ木造の荘厳な三門は、元禄8年(1695)に建立されたもので、形式は三間三戸の楼で、上階周囲に高欄付の縁をめぐらしていた。屋根は入母屋造り桟瓦葺きで、桁行6.3m、梁間3.3m、軒高5.26m、棟高8.7m。建立年代が明らかな禅宗楼門として貴重な遺構。(三門は、市指定有形化財)享徳寺は、高杉家の菩提寺で、高杉晋作も墓参りに訪れていたと。明治になり建てられた「高杉家祖歴代墓」と刻む墓碑があったが、平成4年に下関市に移されたとのこと。「しあわせぐるま」「私のために、家族のために、親しき人のために、好きな人、嫌いな人、 生きとし生けるものすべてが、幸せでありますように。 下から、上に回して祈り願いましょう。」だるま堂。 240cm達磨大師、元禄時代作。位牌堂前の水子地蔵か?境内から三門を再び。熊谷美術館(くまやびじゅつかん)。熊谷家は問屋と金融、仲買、製塩を業とし、萩藩御用達として栄えた豪商で、熊谷五右衛門が明和5年(1768)に新築したものといわれる「熊谷家住宅」は、主屋・離れ・本蔵・宝蔵の4棟が国の重要文化財に指定されている。熊谷美術館は、昭和40(1965)年4月に、文化資料を保存及び公開することを目的として開館。萩藩の御用商人・熊谷家の蔵を改造した展示室に、熊谷家代々の当主が収集した美術品が展示されている。収蔵品は、雪舟をはじめとする書画屏風類や、茶道具、香炉や硯箱などの美術工芸品、代々伝わる文書類など、約3000点におよぶと。中でも目を引くのが、4代五右衛門義比(ごえもんよしかず)が長崎において親交のあったドイツ人医師シーボルトに贈られたというピアノ。イギリス製のもので、日本に残る最古のピアノとしても有名。【 国指定重要文化財(主屋、離れ座敷、本蔵、宝蔵)】。北の総門。脇戸付きの切妻造り本瓦葺き、柱間約6m、高さ7mの日本最大級の高麗門。平成16年11月に、「萩開府400年」を記念して復元された。本柱や「冠木(かぶき)」と呼ばれる横材などは、欅(けやき)の巨木を使って復元している。北の総門は、藩政時代に城下から三の丸(堀内地区)に入るために設けられた総門の一つであり、他に中の総門、平安古の総門があった。かつては門番が常駐して人の出入りを監視しており、門は暮れ六ツ(酉の刻)から明け六ツ(卯の刻)までは閉じられ、鑑札を持った者以外の通行を禁止。その後、総門脇の土塁や船着場などが整備され、外堀に架かるものとしては全国唯一となる土塀付き土橋も整備。土塀には白漆喰(しろしっくい)仕上げが施され、平成23年度に萩城跡外堀保存整備が完了したのだと。そして萩を後にし、県道262号線、国道9号線を利用して津和野に向けて車を走らせたのであった。 ・・・つづく・・・
2018.04.23
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吉田松陰生誕地を後にし、坂を下り東光寺総門近くの道路沿いの駐車場に車を駐める。目の前に濃いピンクの桜が満開中。総門。東光寺は、元禄4年(1691)に3代藩主毛利吉就が萩出身の名僧慧極を開山として創建した全国屈指の黄檗宗(おうばくしゅう)の寺院で、大照院とならぶ毛利家の菩提寺。三間二戸八脚門(正面柱間が三間、側面柱間が二間、左柱間に扉、右柱間に板壁、八つの控え柱を持つ)、一重切妻造段違本瓦葺きで、棟の端にはシャチ(鯱)の代わりに摩伽羅を飾り、中央持ち上げの棟式屋根は黄檗風の様式です。材料はクサマキ・マツ等の用材の表面全体にベンガラが塗ってあった。1693年建立、重要文化財。総門に掲げられていた元禄癸酉六年孟春吉日(1693年)の 慧極えごく筆「護国山」と書かれた扁額。東光寺伽藍配置比較図。□部分が現存する建物。東光寺三門に続く参道。三門(国指定・重要文化財)。三門は、東光寺が創建されて121年後の文化9年(1812) 10代藩主毛利斉煕が寄進したもの。「最勝閣」と書かれた額は当山十五世大愚衍操禅師によるもの。左右に上層部へ上るための山廊が。屋根は入母屋造り本瓦葺き、中央に露盤付き宝珠を置き、2階には毘盧遮那仏・十八羅漢などが安置されていると。全体の構造の形式は禅宗様である。規模も大きく地方寺院の三門として見ごたえ十分。「解脱門」と書かれた扁額は即非禅師によるもの。この門は東光寺が創建されて121年後の文化九年(1812年)九月十九日に竣工。10代藩主毛利斉熙(なりひろ)が寄進したもので、「文化八年辛未七月念有八日始斧」、「同九歳次壬申九月十有九日竣工」の棟札があるとのこと。規模は地方寺院のものとしては有数で、桁行11.6m、梁間6.7mの三間三戸(柱間が三つ、戸口が三つ)の二階二重門。入母屋造り本瓦葺き、棟の両端は鯱付き鬼瓦備え、中央は露盤宝珠備えで、ケヤキの素木造り。正面に大雄宝殿。昔は手前・参道が切れた場所に天王殿が建っていたと。左手に鐘楼(国指定・重要文化財)。鐘楼は、黄檗宗特有の一重もこし付きの素木造二層式の建物で、用材はヒバとマツ。屋根は入母屋造りで上層部は本瓦葺き、下層部は桟瓦葺きとなっており、上層には、刎高欄を据えた縁が周囲に廻してある。主屋組物は絵様刳形(えようくりかた)付き大斗肘(だいとひじき)の間斗束構出組納(けんとずかみぞいだしくみおさめ)。上層内部には、毛利家四代藩主・吉広公が当事の藩における鋳物師の名工郡司喜兵衛・信安・信之父子に命じて鋳造させ、寄進された大鐘がある。この鐘楼の建築年代は元禄7年(1694)に4代藩主吉広によって梵鐘が寄進されているので、そのとき同時に建立されたと思われると。建物の形式は、黄檗宗特有の一重裳階付入母屋造り二層で裳階部分は桟瓦葺き、屋根は入母屋造り、本瓦葺、桁行 4.62m、梁間3.65mである。この大鐘の銘は開山の慧極禅師の撰によるもので、それには元禄七年(1694年)五月十五日、すなわち当山開基の毛利家三代藩主吉就公の葬儀が行われた翌日の日付が入っていると。大雄宝殿(だいおうほうでん、国指定・重要文化財)。殿内にはたくさんの装飾品が。今ある天蓋は30年ほど前に作られたものだが、当時の天蓋も残っていると。 また、赤いダルマの元となった菩提達磨の像もあると。大雄宝殿((だいおおほうでん)、本堂)は元禄十一年(1698年)十二月に竣工した。一重裳階(ひとえもこし)付き、入母屋造、本瓦葺きで、用材はクサマキ。組物は三ツ斗出組構えで、前面一間通りは吹放しになっていて、左右と背面の入側は化粧屋根裏、中央は格子天井組など複雑な建築技術を駆使した唐様式の仏殿。黄檗宗では本堂を大雄宝殿と呼びますが、「お釈迦様のいらっしゃる所」という意味。現在でも中国・韓国では同じように呼んでいると。堂内は土間叩仕上げで、中国明時代の法要の法式を継承する黄檗宗の読経は現在でも立ったまま行うのだと。大方丈書院・家臣用玄関。1792年建立と。大雄宝殿から三門方面を振り返る。大雄宝殿前には、行事や法要の時など堂内に入りきれない人々の為に月台という広場が設けられていた。その中央の大きな石を梵壇石(ぼんだんせき)といい、戒律を破った僧が懺悔(ざんげ)のため坐らされたと。回廊を進み萩藩主 毛利家墓所に向かう。四大夫十一烈士の墓 説明板。毛利家墓所敷地内には、「四大夫(しだいふ)十一烈士の墓」がある。元冶元年(1864)の禁門の変と下関戦争の敗北の後に藩の実権を握った俗論派(幕府への恭順を示す勢力)により、尊皇攘夷派の志士たちは一掃された。益田右衛門介、福原越後ら4人の家老(四大夫)は自刃を命ぜられ、前田孫右衛門ら11名(十一烈士)は野山獄に投獄され、斬首された。彼らの墓は各所に点在していましたが、明治22年(1889)彼らの招魂墓が東光寺に建立された。さらに明治31年(1898)、禁門の変の責任を感じて自刃した周布政之助の招魂墓も同所に建立された。緑の木々に囲まれた境内に立つと、幕末の混乱期を全力で生き抜いた志士たちの思いがひしと伝わってくるようで、感慨深いものが。本堂裏手には、毛利家墓所があった。3代吉就から11代斉元までの奇数代の藩主とその夫人および一族や関係者の墓が。藩主夫妻の墓には唐破風(からはふ)の笠石が付けられ、角柱型の墓となっている。墓前には、藩士たちが寄進したとされる500基余の石灯籠や鳥居5基などが立ち並んでいた。墓所内の鳥居、これは神仏習合のなごりであると。毛利家墓所 配置図。萩歴代藩主夫婦の墓が並ぶ。中央に萩藩三代藩主・毛利吉就、同室亀姫(長寿院)の墓。東光寺は、元禄四年(1691年)に萩藩三代藩主 ・毛利吉就公が開基となって創建された黄檗宗の寺院。東光寺の創立以降、歴代藩主は大照院の両寺に交互に葬られることとなったと。即ち、大照院には、初代藩主秀就・2代藩主綱広・4代藩主吉広・6代藩主宗広・8代藩主治親・10代藩主斉熙・12代藩主斉広の7藩主が葬られたと。東光寺墓所 正面左側。東光寺には、3代藩主吉就・5代藩主吉元・7代藩主重就・9代藩主斉房・11代藩主斉元の5藩主が葬られたと。東光寺墓所 正面右側。600基を数える石灯籠が鎮座。大きな魚は、木魚の原型(魚板、魚鼓)と言われていると。左側に位牌堂。堂内部。こんな張り紙も。入場券販売所の傍にあったのは六地蔵か?涎掛け、帽子は赤でなく白。地蔵は何故「帽子」、「涎掛け」を身につけているかについてはこんなページが。帰路の参道右手の「毛利家東光寺供養塔」。御朱印を頂きました。 ・・・つづく・・・
2018.04.22
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松陰神社を出て左に曲がり、そのまま神社の壁沿いを歩いて行くと、道はやや上り坂な細い路に。 江戸時代には、この道を松本新道と呼んでいたと。 この松本新道を少し歩くと、一般住宅の前左側に、石碑が。「吉田稔丸(よしだ としまろ)誕生地」と刻まれていた。江戸時代末期(幕末)の長州藩の活動家。名は栄太郎。後に稔麿と改名。久坂玄瑞、高杉晋作とともに松陰門下の三秀と称される。(入江九一を入れて松門四天王ともいう)。京都の池田屋で新選組に襲われ亡くなった人物。吉田松陰とは親戚関係ではないと。そして更に進み右手に曲がっていくと左手にあるのが「伊藤博文旧宅」が。伊藤博文は、天保12年(1841)熊毛郡束荷村(現在の山口県光市)の農家に生まれた。幼名は利助、のち春輔、そして“博文”と改めた。この旧宅は、木造茅葺き平屋建ての約29坪の小さな家。もとは萩藩の中間 伊藤直右衛門の居宅でしたが、安政元年(1854)に伊藤博文の父・林十蔵が伊藤家の養子となったため、一家をあげて伊藤家に入家。その後、博文が明治元年(1868)に兵庫県知事に赴任するまでの本拠となった家であると。旧宅横の広場に立つ「公爵伊藤博文像」。伊藤博文旧宅の木門。伊藤博文の略年譜。博文が17歳の時に近くの松下村塾に通って吉田松陰の教えをうけ、尊皇攘夷運動の志士として活躍した。28歳の明治元年、兵庫県知事に赴任するまでの14年の間ここを本拠とした。その後、明治憲法制定の任にあたってその功を遂げ、初代内閣総理大臣、枢密院議長、貴族院議長に就任するなど政府の要職を歴任。内閣を組織すること4次、明治の元勲といわれ、政府の最高指導者となったが、明治42年69歳、ハルピン駅頭で凶弾に倒れた。茅葺き平屋建て(7室、建築面積8952m2)で風呂場と便所が野外にある当時の農村にあった典型的な下級武士の住宅。 伊藤博文の学業時代を偲ばせる貴重な史跡。藁葺きの屋根は改修工事中であった。工事前の姿を「地球の歩き方」から転載させていただきました。旧宅は開放されているので上がる事はできなかったが、外から内部も見学する事が出来た。台所土間。旧宅は、いかにも農民の家という感じがしたが、木戸孝允や高杉晋作の旧宅と比べると、どれだけ身分が違ったのかが良く理解出来たのであった。質素な茅葺屋根の家で暮らしていた人が、日本の初代総理大臣に。松下村塾が当時それだけ大きな存在であったこと、明治維新が本当に画期的な革命であったのだ。旧宅の隣に建つ別邸。伊藤が明治40年に東京府下荏原郡大井村(現・東京都品川区大井)に建てた別邸の一部を移築したものと。別邸内部。別邸は、伊藤博文が明治40年(1907)に東京府下荏原郡大井村(現:東京都品川区)に建てたもので、車寄せを持つ玄関の奥に、中庭をはさんで向って右に西洋館、左に書院を配し、さらにその奥に離れ座敷、台所、風呂及び蔵を備えた広大なものであった。萩市へは往時の面影をよく残す一部の玄関、大広間、離れ座敷の3棟を移築していると。別邸の前の説明板。「長州ファイブ」とは、文久3年(1863年)にイギリスに密航留学した5人をさし、ロンドン大学にその名を刻した碑がある。同名の映画も話題になった。ロンドン大学にある「長州五傑」碑。井上馨、遠藤謹助、井上勝、山尾庸三、伊藤博文の5人。井上馨は初代の外務大臣、遠藤謹助は大阪の造幣局立ち上げ、井上勝は新橋横浜間の鉄道建設のパイオニア、山尾庸三は東京帝大工学部の開祖、伊藤博文は初代の総理大臣、といづれも明治新政府等で活躍した。裏面には24名のロンドン大学・留学生の名前が刻まれていると。2013年の日英研究教育大学協議会に参加した安倍首相も視察に来ていると。 【https://ameblo.jp/hisokajuku/entry-12202416915.html】より転載吉田松陰の生家跡に向かって更に進むと左手にあったのが「玉木文之進旧宅」。松下村塾の創立者であり、吉田松陰の叔父である玉木文之進は、文化7年(1810)萩藩士杉七兵衛の三男として生まれ、11歳のときに玉木十右衛門の後を継ぐ。天保13年(1842)松下村塾を開き多くの子弟を教育した。吉田松陰が10歳で藩校明倫館の助教授となったときの後見人でもある。性格は謹厳、剛直、明治9年(1876)の秋、前原一誠の起こした萩の乱を阻止出来ず、養嗣子(乃木大将の実弟)正誼をはじめ門弟が多く参加したことから「自己の教育責任を、一死以ってこれを償ふ」と言い、自刃した。享年66歳。建物は木造茅葺き平屋建てで、8畳の座敷のほか4畳の畳部屋・3畳半の玄関、4畳半の板間と土間の台所があり、別に湯殿・便所がある。玉木文之進 略年譜。玉木家・杉家・吉田家略系図。そして5分程、車を進めると「市指定史跡 吉田松陰の墓ならびに墓所」に到着。吉田松陰の墓は、松陰誕生地に隣接し、団子岩とよばれる小高い風光明媚な場所に建っていた。墓地 入口。吉田松陰之墓所、高杉晋作之墓所と刻まれた大きな石碑。墓前には、当時松陰は罪人であったにも関わらず、前原一誠、久坂玄瑞、高杉晋作、入江九一ら門人17人、それと松陰の妹たちが寄進して、その名を公然と刻んだ石製水盤、花立、燈籠が供えられていた。表に「松陰二十一回猛士墓」、裏に「姓吉田氏、称寅次郎、安政六年己未十月二十七日於江戸歿、享年三十歳」と刻まれていた。以下は下記リンクから転載させていただきました。https://rekisuta.com/early-modern-period/yoshida-shoin/21kaimoushi/『「二十一回猛士」は松陰の号(一種のペンネーム)であると。二十一回猛士という号が使われだしたのは、松陰が25歳くらいの時からと。このころ獄中にいた松陰は、ある日こんな夢を見た。お札(おふだ)を持った神がいて、松陰にそのお札を差し出した。そこに描かれていたのは、二十一回猛士という言葉。夢から覚めた松陰は、この言葉の意味について考えたと。松陰の旧姓は「杉」で、この字を分解すると十と八と三。足し合わせると「二十一」。また現在の性である「吉田」を分解すると、吉が十と一と口、田が十と口。数字だけを足し合わせるとまたも「二十一」となり、さらにふたつの口を合わせると「回」になる。つまり吉田を分解すると、「二十一回」になるのだと。そして松陰は、二十一という数字は自分に与えられた数字なのだと解釈したのだと。』松陰の没後百カ日に当たる万延元年(1860)2月7日、生家の杉家では百カ忌を営み、家族や親戚、門人が出席し霊を弔い、遺髪を埋めたと。そして、同月15日に松陰の墓碑を建立。一番上に「松陰」と刻まれていた。高杉晋作 墓。高杉晋作草庵跡 顕彰碑。文久3年(1863)3月に晋作が藩から10年の暇をもらい、4月から住んでいた場所。この後6月には奇兵隊を結成したのであった。「この花の 松陰を生み 志士を生む」と刻まれた石碑。作者は伊藤柏翠。市街地と日本海が一望できる所に、句が刻まれた高さ100cm、幅140cmの石碑。吉田松陰と金子重輔の銅像が萩城下を見下ろしていた。金子重輔は日米和親条約が締結されると松陰と共に下田へ赴いて米艦に乗り込もうとするがアメリカ側に拒否されたためにやむなく計画を中止、自首したのだ。墓所の奥にある吉田松陰誕生地を訪ねる。地元の小学生の姿も。吉田松陰誕生地内配置図。吉田松陰 生誕地の整備に貢献された方々の「寄付者芳名の碑」。旧宅敷石。間取りは玄関3畳、表座敷6畳、居間6畳、隠居部屋3畳、納戸3畳、台所。そして別棟の納屋と厩。「吉田松陰先生誕生之地」石碑。行啓祈念樹碑。この地は大正15年5月30日に皇太子(後の昭和天皇)殿下が行啓遊ばされた地でもある。 松陰先生産湯の井。生誕地は萩城下町が一望できる風光明媚なところに。萩城のあった指月山の姿そして日本海も。吉井勇 歌碑。「萩に来て ふとおもへらく いまの世を 救はむと起つ 松陰は誰」この歌は、昭和30年(1955)、吉井勇が夫人同伴で萩を訪れ、市内の史跡や萩焼窯などを見学して回った際、色紙にしたためたもので、それを昭和41年(1996)5月22日に有志達によって歌碑として建立したものであると。作者吉井勇は東京都出身の歌人・劇作家・小説家で、早くから「明星」に歌を発表、のち「スバル」の同人として活躍、明治から大正の初めの日本近代頽唐派歌人として多くの歌を残した人物と。 ・・・つづく・・・
2018.04.21
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最後に吉田松陰歴史館を訪ねる。松陰神社の境内にある維新の源流が見えてくる歴史館。短くも激しい吉田松陰の生涯を、20シーン70余体の等身大の蝋人形で再現しています。説明版と音声ガイド付きで、松陰の一生が分かりやすく紹介されていた。松下村塾の門下生の2人の蝋人形が入口横に。山県有朋。伊藤博文。吉田松陰の子供の頃の杉一家の紹介。杉家は、父・母・叔父・三男四女の家族構成で貧しいながらも明るい一家で、その次男が吉田松蔭(寅次郎)、四女が文でした。吉田松陰関係 系図。5歳で叔父(父・百合之助氏の弟)・吉田大助氏の養子となる。6歳の時に吉田大助氏が若くして亡くなり、吉田家を継ぐ。吉田家は、代々、兵学の先生として毛利家に仕えていたので、松陰もそうなった。近所に住む叔父の玉木文之進氏(のちに松下村塾を開く人物で、百合之助氏や大助氏の弟)から、厳格な教育を受けた。この年、松陰の名前は、[虎之助]から[大次郎]になったと。兄と共に叔父の教育を受ける場面。9歳で「家学教授(山鹿流兵学の先生)見習」として、藩校・明倫館に。御前講義。天保11年(1840年)11歳になった松陰は、藩主毛利敬親の御前で兵学講義を行う。16歳で日本の国防に危機感を感じるようになる。長沼流兵学を教わっていた山田亦介氏から、西欧諸国が東洋諸国を侵略・植民地化していることを聞き、衝撃を受けた。19歳で「家学師範」(一人前の兵学の先生)として明倫館で教え始める。身分や勝負にこだわる武士のしきたりのよくないところを堂々と批評するなど、進んだ考え・態度で、まわりを感心させたと。21歳で藩の許可を得て、九州や江戸、東北へ遊学。九州・平戸にて平戸藩士・山鹿万介氏(科学者)や葉山左内氏(陽明学者)から大きな影響を受ける。吉田松陰遺著『士苟得正而斃。何必明哲保身 不能見幾而作。猶當殺身成仁 道並行而不悖。百世以俟聖人』現代語訳・抄訳『士たる者、志を尽して斃たおる、どうして必ずしも明哲が身を保つと限ろうか。 もし時宜を得ずして成らざれば、その一身を捨てて仁を成すべし。 道は常に並行して尽きること無し、されば百世後には、吾が志を知る聖人も現れるだろう。』松陰の歌。『心あれや 人の母たる人達よ かからん事は武士(もののふ)の常』武士には正義の道を貫くために死んでいくことがつきものであるから、人の母となっている妹たちよ十分に覚悟しておきなさい。江戸にて松代藩・佐久間象山氏(西洋兵学者)の新しい考えに強く心惹かれ、入門する。24歳で黒船に出会う。通称を「虎次郎」と改め、再び江戸に来てすぐのこと、浦賀にペリー率いるアメリカ軍艦がやって来た。松陰は、師・佐久間象山氏とともに浦賀へ行き、黒船の様子を観察した。露国使節プチャーチン来日。ロシア帝国クロンシュタットを出港した旗艦パルラダ号がイギリスのポーツマス港に到着、修理を行った後、ボストーク号を従えてポーツマスを出港した。喜望峰を周り、セイロン、フィリピンを経由、父島でオリバーツァ号、メンシコフ号と合流した。ペリーと違い、シーボルトの進言にしたがって、あくまで紳士的な態度を日本に見せるため日本の対外国窓口である長崎に向かった(プチャーチンに日本遠征を勧めたのもシーボルト)。1853年8月22日(嘉永6年7月18日)、ペリーに遅れること1ヵ月半後に、旗艦パルラダ号以下4隻の艦隊を率いて長崎に来日した。下田踏海。安政元年(1854年)3月27日の夜、同志の金子重輔と伊豆の下田港でアメリカの軍艦に密航。乗船はできたが追い出され、自首して伝馬町獄に送られる。松陰が黒船に乗り込もうとして小舟に乗っている姿。江戸の警備の様子。それまで誰も見たことのない、黒く巨大な船が浦賀沖に現れたのは嘉永6年(1853)6月3日であった。黒い煙を吐き、あっという間に沿岸に近づいてきた。黒船と呼ばれるペリー率いる4隻のアメリカ軍艦であった。しかもこれらの艦隊はいつでも大砲や銃を発射できるように戦闘態勢を整えていた。幕府の許可も得ず、武装した測量船が湾内奥に入り込み、江戸湾内の測量を始めた。さらにアメリカ独立記念日などには数十発の空砲を轟かせた。幕府はやむなく久里浜への上陸を認め、浦賀奉行がペリーと会見し、開国を促すフィルモア大統領からの親書を受け取った。萩、野山獄での獄中教育。松陰は萩に送り返され、野山獄に入る。そこで猛烈な勉学を開始した。同志の金子重輔は岩倉獄に入れられたが、病気のためそこで獄死する。獄中の松陰。松下村塾の増改築。安政2年(1855年)12月、野山獄を出て自宅に幽囚の身となった松陰は、親族や近所の者たちに講義していた。そこに子弟が数多く参加するようになったため、杉家の古い小屋を改装し、講義室にあてる事にした。松下村塾の教育方針。「師弟ともに同行し、共に学ぶ」人間関係の中で、学び合うのが松下村塾、近代的な教育方針であったと。嫁ぐ妹、文のために。松陰は愛弟子久坂玄瑞に嫁ぐ文に、一文を草し、お祝いの言葉とした。吉田松陰から高く評価されていた久坂玄瑞は、18歳のときに師である吉田松陰から、松陰の妹の文との結婚を勧められる。しかし 、美男で知られる久坂玄瑞は、不美人の文を嫁にもらうべきかどうか悩んだ、というエピソードが残っている。別れの宴。倒幕以外日本を救う道はなし、と決意した松陰であったが、安政の大獄(江戸幕府が行なった弾圧)の嵐は吹きすさび、 ついに松陰に江戸護送の命令が下った、死をまかれぬと知った松陰はその前夜、送別の宴で、弟門の松浦松洞に書かせた肖像画八枚に形身の賛を書いた。涙松の別れ。籠に入れられ江戸送りとなった松蔭だが、このシーンは旅立つ者が松の大木の間から、涙ながらに城下に別れを告げるという風習があったので涙松と言ったとのこと。江戸評定所の取り調べ。幕府側には松陰を罰するような材料があったわけでなく、取り調べはあっさりと終わってしまった。しかし松陰自ら、「大原三位(公家)を長州藩に招く策」・「老中間部襲撃策」の2つの計画を企てたことを告白する。獄内にて留魂録を記す。松陰はいよいよ死を間近にせまったことを感じ、最後の遺書ともいうべき「留魂録」を書き上げた。松陰の最期。安政6年(1859年)10月27日、獄内に作られた形場で松陰は断罪となった。行年僅か30歳。松陰の門弟は彼におっかけ割腹自殺し、陣没3・斬首1・獄死1となっている。吉田松陰像。山口県出身の7人の宰相。伊藤 博文と山形有朋像。伊藤博文【いとうひろぶみ】。1・5・7・10代首相(初代首相) 天保12年~明治42年(1841~1909) 69歳周防国熊毛郡束荷【つかり】村(光市)生まれ。幕末の志士、明治時代の政治家。元老【げんろう】。萩に出て松下村塾【しょうかそんじゅく】に学び、文久3年(1863)英国に密航留学後、倒幕運動に奔走。明治政府の要職を歴任し、明治18年(1885)初代内閣総理大臣となる。また初代枢密院【すうみついん】議長として明治憲法発布に尽力し、計4度組閣。晩年も元老として政界に指導力を発揮した。山県 有朋 【やまがたありとも】3・9代首相 天保9年~大正11年(1838~1922) 85歳長門国萩川島(萩市)生まれ。幕末の志士、明治・大正時代の軍人・政治家。陸軍大将・元帥【げんすい】・元老【げんろう】。松下村塾【しょうかそんじゅく】に学んで奇兵隊【きへいたい】に参加し、戊辰【ぼしん】戦争に活躍。明治政府の陸軍大輔【たいふ】となり、近代軍制を確立した。第1次伊藤内閣の内務大臣として地方自治制を定め、明治22年(1889)内閣総理大臣となる。計2度組閣し、晩年も元老として政界・軍部に指導力を発揮した。5人の宰相。桂 太郎 【かつらたろう】11・13・15代首相(通算での総理大臣在職日数2886日は歴代1位)弘化4年~大正2年(1847~1913) 67歳長門国萩平安古(萩市)生まれ。明治時代の軍人・政治家。陸軍大将・元老【げんろう】。藩校明倫館に学び、戊辰【ぼしん】戦争に活躍。ドイツ留学後、軍制整備にあたった。第3次伊藤内閣の陸軍大臣を経て、明治34年(1901)内閣総理大臣となる。計3度組閣。ニックネームは「ニコポン宰相」。寺内 正毅 【てらうち まさたけ】18代首相 嘉永5年~大正8年(1852~1919) 68歳周防国吉敷郡平井村(山口市)生まれ。明治・大正時代の軍人・政治家。陸軍大将・元帥【げんすい】。大楽源太郎らに学び、西南戦争に従軍。陸軍大臣、初代朝鮮総督などを歴任し、山県有朋・桂太郎につぐ長州軍閥の巨頭として、大正5年(1916)内閣総理大臣となる。長州閥による超然内閣だったため、「非立憲」【ひりっけん】にかけて「ビリケン宰相」と称された。田中 義一 【たなか ぎいち】26代首相 元治元年~昭和4年(1864~1929) 66歳長門国萩菊屋横丁(萩市)生まれ。明治・大正・昭和時代の軍人・政治家。陸軍大将。陸軍大学校卒。 日露戦争で活躍し、原内閣の陸軍大臣となる。昭和2年(1927)内閣総理大臣となり、金融恐慌による銀行取りつけ騒ぎを鎮静化。翌年中国奉天(瀋陽)で起きた張作霖【ちょうさくりん】爆殺事件の責任を問われ、総辞職した。ニックネームは「おらが宰相」。岸 信介 【きし のぶすけ】56・57代首相 明治29年~昭和62年(1896~1987) 92歳山口県山口町(山口市)生まれ。昭和時代の政治家。佐藤栄作の実兄。東京大学卒。戦前は東条内閣の商工大臣をつとめた。昭和28年(1953)衆議院議員に当選。石橋内閣の外務大臣を経て、昭和32年(1957)内閣総理大臣となる。計2度組閣し、同35年日米新安全保障条約に調印。同54年国連平和賞受賞。佐藤 栄作 【さとう えいさく】61・62・63代首相(連続での総理大臣在職日数2798日は歴代1位)明治34年~昭和50年(1901~1975) 75歳山口県田布施【たぶせ】村(田布施町)生まれ。昭和時代の政治家。岸信介の実弟。東京大学卒。戦前は鉄道省で要職を歴任し、昭和24年(1949)衆議院議員に初当選。岸内閣の大蔵大臣などを経て、昭和39年(1964)内閣総理大臣となる。非核三原則を表明して平和活動につとめ、同47年沖縄の日本復帰に尽力した。同49年ノーベル平和賞受賞。そして、まだ人形は置かれていなかったが安倍 晋三 【あべしんぞう】90代(戦後最年少の首相)・96代・97代・98代首相 昭和29年~ (1954~ )東京都生まれ。父は安倍晋太郎。母方の祖父は岸信介。大叔父は佐藤栄作。成蹊大学卒。株式会社神戸製鋼所勤務を経て、外務大臣をつとめる父晋太郎の秘書官となる。平成5年(1993)山口4区から衆議院議員に初当選。第2次森内閣の官房副長官、第3次小泉内閣の官房長官などを歴任し、同18年内閣総理大臣となる。 ・・・つづく・・・
2018.04.20
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3日目の朝食。甘い物も。部屋からの萩の街並み。手前のホテルの駐車場には多くの車が。右手には阿武川デルタの北西端に突き出た標高143mの指月山が見えた。“天然の要塞”と呼ばれるこの山には萩城の詰丸が築かれ、城内と海を監視していた事が理解出来る光景。萩の街並みの後ろには萩の山々が。この日の最初に松下村塾に向かう。「祝 世界遺産登録」の案内板が。日本は、幕末から僅か半世紀の間に製鉄・鉄鋼、造船、石炭産業において急速な産業化を達成し、非西欧地域で最初の産業国家としての地位を確立した。「明治日本の産業革命遺産」は、平成27年7月に開催されたユネスコ世界遺産委員会で、世界遺産に登録されたのだ。この遺産群は九州・山口を中心に8県11市に23の資産がある。ここ萩エリアは時代順に萩反射炉、恵美須ヶ鼻造船所跡、大板山たたら製鉄遺跡、松下村塾、萩城下町の5つの資産で構成されているのです。駐車場に車を駐め、松下村塾、松陰神社に向かう。松陰神社 境内図。「松陰神社」と刻まれた石柱と石鳥居の扁額。「明治維新胎動之地」と刻まれた石碑。松陰神社の大鳥居をくぐり、石畳の参道を進むと左手にあるのが高さ370cm、幅230cmに及ぶこの巨大な石碑。ここ松陰神社境内にある松下村塾において、吉田松陰が誠心誠意を傾けて門下生たちにその理想を託し、道なかばに倒れた功績を評価しているのだと。松陰による松下村塾での教育が、やがて萩から明治維新の原動力となって活躍する多くの志士や烈士を生み、日本近代化の胎動となったのである。すなわち、萩を「維新発祥の地」とする所以であると。なお揮毫は、山口県出身の内閣総理大臣佐藤栄作の筆によるものであると。干支の「戌」と、吉田松陰、そして戌年生まれの松下村塾生である山県有朋が描かれた絵馬。吉田松陰の辞世の句碑。『親思う 心にまさる親心 今日のおとずれ何と聞くらん』門下生達の責任を取って、江戸まで引き立てられた松陰。そして切腹の宣告を受けた後、両親に宛てた手紙の書き出し。今でも原文は、山口県の松陰神社で奉納されていると。「子が親を思う心よりも、子を思いやる親の気持ちのほうがはるかに深いのだ。 私が死んだと聞いたら、親はどんなに嘆くだろう」松陰神社々務所。「孝行竹」。「孝行竹」は地下茎が横に伸びず、親竹の周りにのみ竹の子が育つという、日本では珍しい竹。このような形態から、「親を守る竹」という意味で「孝行竹」と名付けられたと。吉田松陰は親孝行で竹を愛したと言われており、その記念として植樹されていると。竹の手前にあるのは、天王皇后両陛下・皇太子皇太子妃両殿下行幸の石碑。そして左手に「史跡 松下村塾」。別の角度から。松下村塾は幕末期に吉田松陰が主宰した私塾。天保13年(1842)に松陰の叔父である玉木文之進が自宅で私塾を開いたのが始まりで、後に松陰の外伯父にあたる久保五郎左衛門が継承し、子弟の教育にあたった。そして安政4年(1857)、28歳の松陰がこれを継ぎ、主宰することに。木造瓦葺き平屋建ての50㎡ほどの小舎で、当初からあった8畳の一室と、後に吉田松陰が増築した4畳半一室、3畳二室、土間一坪、中二階付きの部分から成る。松陰神社 松下村塾(8畳控えの間)。松下村塾の講義室の隣の8畳控えの間に掲げられている松下村塾ゆかりの人々の肖像。左上から、久坂玄瑞(塾生)、高杉晋作(塾生)、松陰先生、前原一誠(塾生)、木戸孝允(門下生)、山田顕義(塾生)、品川弥二郎(塾生)、野村靖(塾生)、山県有朋(塾生)、伊藤博文(塾生)、境二郎(塾生)、飯田吉次郎(塾生)、河北義次郎(塾生)。2009年10月28日には松陰没後150年を記念し、松陰神社宝物殿「至誠館」が開館。現存する松陰直筆の留魂録ほか、縁の品々や書状など多数展示されていると。吉田松陰と松下村塾に関する貴重な資料が分かりやすく展示されている必見の資料館。松陰神社のおみくじは、傘の形。傘の形になぞらえて、大吉は「快晴」、吉は「曇」などと書いてあり、楽しいおみくじ。松陰神社拝殿に向かう。1890年(明治23年)、松陰の実家・杉家の邸内に松陰の実兄杉民治が土蔵造りの小祠を建て、松陰の遺言により愛用していた赤間硯と松陰の書簡とを神体として祀ったのが当社の創建である。1907年(明治40年)、共に松下村塾出身の伊藤博文と野村靖が中心となって神社創建を請願し、萩城内にあった鎮守・宮崎八幡の拝殿を移築して土蔵造りの本殿に付し、同時に県社に列格した。現在の社殿は昭和30年に新しく建てられたものである。創建当時の土蔵造りの旧社殿は松下村塾での門人を祭る末社・松門神社となっている。手水舎。拝殿。幕末の思想家・教育者である吉田松陰、および彼の門人である伊藤博文、山県有朋はじめ、松下村塾の生徒を祭神とすると。学問の神として崇敬を受けていると。拝殿内部。創建当時の土蔵造りの旧社殿は松下村塾での門人を祭る末社・松門神社となっていた。 神符授与所。御朱印をお願いしました。御朱印には「至誠」の文字が。「至誠」は吉田松陰の言葉「至誠にして動かざるは未だこれ有らざるなり」 から。(誠の心をもって尽くせば、動かなかった人など今まで誰もいない)第90代、第96代内閣総理大臣 安部晋三も、座右の銘が「至誠」である。 山口県出身の安部首相は、吉田松陰と同郷ということ。「松門神社」の社殿の脇にある建屋。これは蔵か?石碑「明治九年萩の變七烈士殉難之地」。松下村塾出身で、明治新政府で参議に任ぜられていた前原一誠が起こした萩の変より、130年となることを記念して、平成18年(2006)12月3日萩の變130年祭に併せてここに移設された。 この石碑は、明治9年(1876)、萩の変で殉難した、前原一誠をはじめとする7烈士の遺徳を顕彰するために、萩の変より100年にあたる昭和51年(1976)年に建立されたもの。元は7烈士が処刑された萩市恵美須町にあったが、ここに再度建立された。杉家吉田松陰幽囚宅の木門。「松陰先生 実家 杉家旧宅」と刻まれた石碑も。「旧宅は、木造瓦葺き平屋建て214㎡の建物で、8畳3室、6畳3室、4畳、3畳7分、3畳半・3畳および2畳各1室ほか、板間・物置・土間を有するかなり大きい建物。幽囚室は東側にある3畳半の一室。吉田松陰は、安政元年(1854) 3月27日に伊豆下田でアメリカ軍艦による海外渡航に失敗して江戸伝馬町の牢に捕らえられ、ついで萩に送られ野山獄に入れられました。翌年に釈放となったが、父杉百合之助預けとなり、この実家である杉家に帰され謹慎生活を送り、読書と著述に専念した。松陰は家族からの薦めもあり幽囚室で孟子や武教全書などを講じた。次第に多くの若者が参加するようになり、やがて松陰は松下村塾を主宰するようになったと。【国指定史跡】。「史跡名勝天然記念物。「安政二年吉田松陰獄ヨリ許サレテ其ノ幽囚セラレシ所ナリ其ノ建造物ハ後年多クノ 修理アリシト雖モ幽囚ノ室ハ能ク舊態ヲ保テリ」旧宅には注連飾りが。説明板。幽因室は3畳半の小さな部屋だが、もとは4畳半の部屋に神棚がつくられたため狭くなったという。幽囚室に掛けてあるのは木原松桂の書。三余読書(さんよどくしょ、勉強に利用すべき三つの余暇 冬は年の余り、夜は日の余り、 雨の日は時の余り)七生滅賊(しちしょうめつぞく、何度もこの世に生まれ変わって外賊を滅ぼすこと)杉家旧宅の裏側。別の角度から。「皇太子殿下行啓之所」碑。松下村塾の講義室だった8畳の部屋。講義室には松陰の石膏像と肖像画、机が置いてあった。 ・・・つづく・・・
2018.04.19
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東側1Fにあった「工学教育の先駆者 吉田松陰」のコーナー。工学教育の必要性を提唱した吉田松陰の先駆的な役割などを映像やパネルなどで見ることができた。松下村塾のセットは巨大なウルトラビジョン。画面にはペリーの浦賀来航が放映されていた。嘉永6年6月3日(西暦1853年7月8日)、アメリカ海軍東インド艦隊の軍船4隻が浦賀に来航した。これは、その時に来航した艦隊の司令官マシュー・カルブレイス・ペリーが乗っていた「サスケハナ」号。船の両脇に水車のような推進装置を備えた蒸気船。吉田松陰の実績。吉田松陰は萩藩士杉百合之助の次男として生まれ、6歳で山鹿流兵学師範の吉田家を継ぐ。幼少時から叔父玉木文之進の厳しい指導を受け、19歳で藩校明倫館の兵学師範として独立。九州、関東、東北、関西へと全国を遊歴し多くの人々に接して勉強を重ねた。25歳の時、国法を犯し伊豆下田で米国への密航を図るも失敗し、萩の野山獄に投じられる。その後、実家杉家で幽囚の身となり、松下村塾を事実上主宰。書物の解釈に留まることなく、世の中で起きている時事問題を題材にした討論を行い、後に第一線で活躍する多くの人材を育てた。 井伊直弼による安政の大獄で処刑されたのであった。吉田松陰が主宰した松下村塾の塾舎と松陰が工学教育の必要性を説いた画期的論文「学校を論ず、付けたり作場」が紹介されていた。坤輿図識(こんよずしき)。幕末の最もすぐれた世界地理書。洋学者箕作阮甫の養子箕作省吾が,数種の蘭書を基にして編述,1845年(弘化2)刊。5巻3冊。46‐47年補編4巻4冊刊。世界六大州諸国の地誌万般を説き,彼の《新製輿地全図》(1844)とともに,幕末から明治維新に至るまで広く流布し,世人の世界知識の啓蒙に最も貢献した。鍋島閑叟や井伊直弼らが本書を外交指針とし,吉田松陰が愛読したことも著名。長州五傑(長州ファイブ)と呼ばれ、幕末に長州藩から派遣されてヨーロッパに秘密留学。長州ファイブがロンドンで撮影した写真。遠藤謹助(上段左)、野村弥吉(上段中央)、伊藤俊輔(上段右)、井上聞多(下段左)、山尾庸三(下段右)。長州ファイブの人生をたどってみよう。井上馨は外交の、遠藤は造幣の、山尾は工学の、伊藤は内閣の、井上勝は鉄道の、それぞれ「父」とされている。萩から始まった日本の産業化は重工業部門の産業革命として結実した。そして1901年八幡製鉄所に灯がともる。見学を終え正面玄関方面を見る。2Fへの階段には11段の雛飾りが。歴史を感じさせる親王(男雛・女雛)と3人官女。1F全長90メートルの廊下も懐かしく。長年の間、子供達が雑巾がけをして来たのであろう。売店には多くの吉田松陰に関する出版物が販売されていた。明倫学舎を出て、車を駐車してある指月駐車場まで歩く覚悟をしていたが明倫学舎の係員から「萩循環まぁーるバス」を100円で利用すれば良いと教えていただく。バウスに乗り街中を進んでいくと萩市中央公園内にある「久坂玄瑞進撃像」が見えた。そして萩城址入口近くでバスを降り、車に乗り換えこの日の宿に到着。この日の宿は萩市街の東、丘の上に立っホテル「萩本陣」。フロント。我々の部屋。10畳の和室。そして風呂の後は夕食。おしながき。前菜:旬の味覚盛り。刺身。この日も真ふく刺し。道明寺蒸し。黒毛和牛ロース。真ふく唐揚げ。アンコウちり鍋。フカヒレ茶碗蒸し。山口県産コシヒカリとナメコ赤出汁味噌汁。夏みかんスフレとなめらかプリンのフルーツ添え。 ・・・つづく・・・
2018.04.18
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萩城下町散策の最後に、明倫館跡に向かって歩いていると左手にあったのが「山口県立萩美術館 ・浦上記念館」。浮世絵・東洋陶磁・陶芸の3つのジャンルを専門とする美術館。萩市出身の実業家浦上敏朗が収集した浮世絵・東洋陶磁などを山口県に寄贈したことを契機に、1996年(平成8年)10月14日に開館。2010年(平成22年)には、400年の歴史を有する萩焼をはじめとする陶芸の振興を目的に、新たに陶芸館を増築・開館したとのこと。馬に乗る「山形有朋公像」。長州藩領内の蔵元仲間・三郎有稔(ありとし)の子として生まれた。幼名は辰之助、通称は小助、のち小輔、さらに狂介と改名。明治維新後は有朋の諱を称した。高杉晋作が創設した奇兵隊に入って頭角を現し、後に奇兵隊の軍監となる。明治政府では軍政家として手腕をふるい、日本陸軍の基礎を築いて「国軍の父」とも称されるようになったと。晩年も、陸軍のみならず政官界の大御所、「元老中の元老」[2]として隠然たる影響力を保ち、「日本軍閥の祖」の異名をとった。ただし国政に深く関与するようになってからも、自身では「わしは一介の武弁」と称するのが常であった。伊藤博文と並び、明治維新期に低い出自から栄達を遂げた代表的人物。この山形有朋像は1930年(昭和五年)に完成し、最初は東京の霞ヶ関の陸軍大臣官邸に置かれていたが、 上野公園、井の頭彫刻園と場所を替え、現在は萩市のこの位置にと。萩・明倫学舎(世界遺産ビジターセンター)案内の道路標識。現在の萩市立明倫小学校。明倫学舎駐車場を縦断して進むと正面に萩・明倫学舎入口 案内板が。萩藩校明倫館は、享保3年(1718)に5代藩主吉元が毛利家家臣の子弟教育のために萩城三の丸(堀内)に建てた藩校。それから約130年後、嘉永2年(1849)に城下の中心地(現在地)へと移転、規模を拡大した。約1万5千坪(約5万㎡)もの敷地内に、宣聖殿と呼ばれた聖廟を中心に、西側に小学舎、手習所などを含めた主として学問習得のための建物、それも漢学中心の初等・高等の教育施設が配置され、東側には槍場、撃剣場、射術場などの武芸修練場、後方には水練池、北方には約3千坪の練兵場が設けられていた。吉田松陰や楫取素彦(小田村伊之助)もここで教鞭をふるったのだ。創設より慶応3年(1867)廃館に至るまで、前後約150年の長期にわたって藩校としての教育が行われ、幕末の長州藩の中で大きな役割を果たしたと。敷地内には、旧明倫小学校本館(昭和10年に建てられた木造2階建ての校舎)があり、平成8年に国登録有形文化財に登録されている。藩校跡に建つ日本最大の木造校舎が、平成29年3月4日 萩・明倫学舎として開館した。奥にあるのが旧萩藩校明倫館南門。藩校明倫館の遺構で、新明倫館の正門として建てられたもの。門は切妻造り本瓦葺きで桁行3.94m、梁間3.15mの一間一戸の四脚門で、左右に袖があり、潜門がついている。この門は、藩主が聖廟を拝する春秋の「釈菜(せきさい)」(孔子祭)の公式行事以外は開かれないと。本願寺山口別院に移され正門となっていたが、寄付され平成16年(2004)に元の位置に移築されたと。【市指定有形文化財】明倫館南門の扁額。並んで建つ左側の碑は、元文6年(1741)6代藩主毛利宗広が創建の由来を記して建てたもので、旧明倫館から移したもの。右側は嘉永2年(1849)13代藩主毛利敬親が新明倫館の開校を記念して建てたもの。幕府に対する忠心を意味する箇所(幕命而)が削られた跡があると。【国指定史跡】藩校明倫館跡地に昭和10年10月10日に建てられた木造2階建の小学校舎。東西両端と中央玄関の棟に藩校明倫館の聖廟と同じように鴟尾が置かれ、外壁は1階部分は簓子下見板張り、2階部分は白漆喰塗りである。屋根のフランス瓦や連続する窓の意匠が特徴的で、モダニズムへの萌芽も見られる。改修整備し、平成29年(2017年)3月4日、「萩・明倫学舎」としてオープン。平成27年1月に中央公園に建立された『久坂玄瑞進撃像』が迎えてくれた。館内には、旧萩藩校明倫館展示室、豊富な萩の幸を使ったレストランや萩ならではの土産を取り揃えたショップ、世界遺産「明治日本の産業革命遺産」を紹介する「世界遺産ビジターセンター」や、幕末の歴史をひもとく貴重な資料を一堂に紹介する「幕末ミュージアム」などがあった。2号館 配置案内図。 【https://www.city.hagi.lg.jp/site/meiringakusha/2goukan.html】よりまずは2号館1F「幕末ミュージアム」から。小川忠文氏から萩市に寄贈されたいわゆる「小川コレクション」で、江戸時代後期の科学技術史(軍事・天文・測量・医学)及び歴史に関する膨大な資料群であるとのこと。幕末維新動乱期に使用されたゲベール銃・エンフィールド銃などの鉄砲類や武具類などの軍事関係資料が展示されていた。2Fに上がり「天文」コーナー。伊能忠敬が使ったものを複製した天体観測器「象限儀」「子午線儀」。「象限儀」は測量のほか航海などに使われ、円の4分の1の扇形をした目盛りのついた定規に望遠鏡がつき、天体を観測しながら現在地の緯度を割りだしたと。望遠鏡。「地理(測量)」コーナー。「伊能忠敬による測量活動 どのような道具をつかったか?」「医学」コーナー。中央に鍼灸治療に用いられた経絡人形が。もとは萩藩医栗山孝庵が所持していたと伝わる。人身五臓之図(左)頭蓋骨。当時、ヨーロッパから輸入されたものであると。オランダ人医師による外科手術の様子。栗山孝庵:「解剖図誌」と前野良沢、杉田玄白:「解体新書」手術器具。「科学(機巧)」コーナー。江戸時代の手回し扇風機。江戸時代の和時計。映像シアターではペリー来航の映像が。旧萩市立明倫小学校校舎。「世界文化遺産明治日本の産業革命と萩」のコーナー。ここにも在りし日の萩城天守閣の写真が。「製鉄近代化への挑戦」コーナー。萩反射炉。世界遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産のひとつ。恵美須ヶ鼻造船所跡(えびすがはなぞうせんじょあと)。大板山たたら製鉄遺跡。たたら製鉄(たたらせいてつ、英:Tatara)とは、日本において古代から近世にかけて発展した製鉄法で、炉に空気を送り込むのに使われる鞴(ふいご)が「たたら」と呼ばれていたために付けられた名称。 砂鉄や鉄鉱石を粘土製の炉で木炭を用いて比較的低温で還元し、純度の高い鉄を生産できることを特徴とする。「長州ファイブ」との記念撮影コーナー。「長州ファイブ」とは長州藩の密命により、命をかけけて英国に密航しイギリスの文化を学びやがて帰国後は、明治新政府の重鎮として日本の夜明けを支えた英傑達。帰国後5人が5人ともそれぞれの分野で「生きた機械」となり新しい制度や工学や技術の導入に従事した。まさに日本の文明開化、夜明けの推進に大いに貢献したのであった。後左:遠藤謹助 後中央:井上勝 後右:伊藤博文 前左:井上馨 前右:山尾庸三 ・・・つづく・・・
2018.04.17
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萩城下町散策の途中で「萩博物館」に立ち寄りました。萩開府400年の記念日である平成16年11月11日に開館しました。建物や外観は、敷地が旧萩城三の丸にあたる堀内伝統的建造物群保存地区内にあることから、かつてこの地区内にあった規模の大きい武家屋敷の特徴にならっています。萩の歴史・文化発信拠点として、吉田松陰、高杉晋作をはじめ幕末維新関連の実物資料を展示するほか、萩の文化、自然を模型映像を駆使して紹介しています。館内には、萩の素材を使った料理が食べられるレストランやお土産ショップもあります。博物館の入口に向かう途中の砂利の敷き詰められた庭の左手に展示されていたのが消防車「レオ」。昭和7年、萩公設消防組の代表者、田中虎熊氏の努力により町民から、10000円の寄付を集めて購入されたと。レオ消防ポンプ自動車付属品一式で、8600円、残金でフォード・トラック(運搬車)と格納庫を作り8月萩市へ寄付された。萩市では、自動車ポンプ時代のはじまりであった。当時の市の財政は、約44万円でしたから約2%にあたるという実に高価なもの。この消防車は米国よりレオのシャーシをヤナセが輸入し、市原ポンプ諸機械製作所がポンプ車に仕立てた。出力は80馬力あり、毎分1900リットルを放水でき、現在のポンプ車とほとんど同じ性能を持っていた。昭和38年まで実に30年間活躍したのだと。一世を風靡した名車で、現在は全国に2~3台残っているだけと。そして博物館内へ。歴史展示室・高杉晋作資料室・萩の人物コーナー等に分かれていた。萩城・長州藩・長州戦争・明治維新など萩の歴史、高杉晋作に関する収蔵品、萩市にゆかりのある100人以上の歴史的人物の顔写真などを展示。大型スクリーンにより吉田松陰や長州ファイブも紹介されていた。萩の絵図。ジオラマの中央に明倫館が。日本鳥瞰大絵図。藤沢、江の島も描かれていた。日本鳥瞰四国中国大絵図に描かれた萩周辺の街。説明文。旅姿をした吉田松陰像。20代の若き松陰をイメージして作られたと。松陰は全国各地を旅し、5年間ほどで13000kmを歩いたと。吉田松陰の名言。「地を離れて人なく、人を離れて事なし。故に人事を論ずずれんと欲せば、先ず地理を観よ」。土地を離れて人々の生活は成り立たない、また、人を離れて物事が行われることもない。だから、人間社会の生活や物事を論じようと思えば、まずその地域の自然の状態を念入りに見なければならないと。絵でたどる松陰の生涯(「吉田松陰先生絵伝」)吉田松陰の一生を絵でつづった珍しい資料。松陰門下最後の生存者として知られる渡辺蒿蔵〈こうぞう〉の実兄(号は奇陳、渡辺小五郎か)が描いた。松陰の誕生から刑死後まで、15の場面からなるが、うち13枚を蒿蔵の兄が描き、最後の2枚を蒿蔵の娘八百〈やお〉が描き足した。蒿蔵が大正15年(昭和元年、1926)に寄せた序文には「家兄奇陳居士、嘗て松陰伝を読みて感激し、其の状態を描写するを措く能ず」(原漢文)とある。絵心のあった兄が、塾に学んだ弟の蒿蔵から様子を聞きつつ、描いていったものと考えられると。第一、誕生(是は山家の景)【生家】第二、幼年素読を受る所【音読稽古】第三、撃剣【剣術稽古】第四、御前講【御前講義】第五、硯を買ふ所【赤間硯】第六、平戸葉山・山鹿を訪ふ第七、江戸脱邸【脱藩して東北遊歴】第八、下田【米国密航計画】第九、獄【野山獄中で読書】第十、松下塾【松下村塾の講義風景】第十一、江戸へ出発【東送の幕命】第十二、江戸白州【評定所で死罪宣告】第十三、骨ヶ原【小塚原回向院墓所】第十四、若林【遺骨を改葬】第十五、村塾書庫・県社【萩の松陰神社】「松下村塾」で松陰は「長門(長州)の国たる艦して山陽の西順に在り」と、松下村塾のある萩の松本村の地理から説き起こす。吉田松陰の諸国遊歴の足跡。短い生涯の中で広く全国を歩いた松陰は、21歳の時の九州遊歴出発を最初に、西は熊本・長崎、北は青森・津軽の竜飛岬、四国、佐渡ヶ島へも旅しています。22歳の時に関所手形を持たず東北遊歴に出発、翌年脱藩の罪で士籍を奪われますが、藩主の温情により父杉百合之助の育みとなり、10年の諸国修行を許されます。ほどなく萩を発った松陰が再び江戸へたどり着いたのは、ペリー艦隊が浦賀沖に姿を現す2週間前であったと。萩ゆかりの人々。萩の人物コーナーでは、江戸時代末期から現代までの萩ゆかりの人々100人をパネルで紹介。それにしても、同じ萩からこの様に多くの人物が出たとは信じがたいの一言。博物館中庭には竹林が。高杉晋作立志像と久坂玄瑞進撃像原型。高杉晋作立志像は「高杉晋作誕生地」の近くにある「晋作広場」に、平成22年10月に建立された。銅像は、晋作が明倫館や松下村塾に通っていた20歳頃の若々しく凛々しい顔をイメージしており、両刀を差した羽織、袴の立ち姿。銅像の高さは1.8mで、台座を含めて3m。久坂玄瑞進撃像は城下町の近くにある「中央公園」の一角に、平成27年1月に建立された。松下村塾の双璧と称され、尊皇攘夷派を牽引して国事に奔走し、いまから151年前の元治元年(1864)禁門の変(蛤御門の変)にて25歳の生涯を閉じた久坂玄瑞。吉田松陰から「防長年少第一流の才気ある男」と絶賛され、松陰先生の妹・文(大河ドラマ『花燃ゆ』のヒロイン)と結婚した。銅像の高さは1.8mで、台座を含めて3m。尊皇攘夷の先頭に立つ若き玄瑞の立像となっており、右手を上げて力強く東を指す、勇ましく凛々しい姿。高杉晋作関係資料は専用資料室で展示を行っていた。高杉晋作の甲、愛用の道中三味線や瓢箪、奇兵隊軍旗などが展示されていた。高杉晋作の生涯。萩に生まれた高杉晋作は、吉田松陰に師事し、欧米列強の支配下に置かれた上海を視察したことで、日本の危機を救わねばという使命感を燃やす。そして「志」ある武士から庶民までを動員して奇兵隊を結成し、外国や幕府を相手に戦うが、新時代を前に病のため亡くなる。享年29(数え年)という短くも激しい人生であった。高杉晋作直筆の書。「松下村塾で松陰に学ぶ」。長門国萩城下菊屋横丁(現・山口県萩市)に長州藩士・高杉小忠太(大組・200石)・みちの長男として生まれる高杉晋作は19歳のとき、幼なじみの久坂玄瑞に誘われ、松下村塾の門をたたいた。入塾時、自信のあった自作の詩を見せると、吉田松陰は「才能はあるが、久坂玄瑞よりは劣っている。」と指摘したと。吉田松陰のこの一言が、負けず嫌いだった晋作を奮い立たせ、それ以来、勉学に没頭するようになったのだと。松下村塾での勉強は、学んだ知識をどのように実行にし、将来の日本にどう活かすか、ということを中心に進められた。この吉田松陰の思いを忠実に受け継いだ塾生の中からは、明治維新、明治新政府で活躍した、多くの逸材が育っているのだと。その中でも高杉晋作は、久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一とともに、「松下村塾 四天王」と呼ばれ、他の塾生たちからも一目置かれる存在であったと。坂本龍馬肖像画。幕末に亀山社中・海援隊などを率いた土佐出身の坂本龍馬を描いたもの。坂本龍馬(1835~1867)は剣術修行のため江戸へ遊学し、佐久間象山にも学ぶ。脱藩後は勝海舟に師事し、薩長同盟締結を仲介。後藤象二郎を通じ、前土佐藩主山内容堂の大政奉還建白にも関与した。作者の公文菊僊は土佐出身の日本画家で、龍馬肖像を得意として多数作品を残している。賛も公文が揮毫したもので、明治37年(1904)2月、日露開戦前、昭憲皇太后(明治天皇の皇后)の夢枕に龍馬が立ち、日本の勝利を告げたという逸話にちなむ。騎兵隊。高杉晋作が創設した騎兵隊は、武士から庶民までが一丸となり戦った幕末長州のシンボル。萩博物館の外庭。在りし日の萩城天守閣の写真とジオラマ。甲冑や掛け軸も。10万石以上の大名配置図(寛文4年(1664年)当時)。参勤交代用の籠。萩城下に置かれた火消し組の提灯(右)。江戸時代終わり頃の萩城下町絵図。再び在りし日の萩城天守閣。萩城下町の成り立ち。ここにも天守の写真が。旧萩藩明倫館之図。萩城下町の中央部に設置されていた長州藩(萩藩)の藩校明倫館の鳥瞰図。左から順に鄒國亜聖孟子、鄒國守聖曾子、大成至聖文宣王孔子、兗國復聖顔回、沂國述聖子思の木主。孔子の木主は高さ157.3cm、幅65cmとかなりの大きさ。他の四つは高さ90.6cm、幅33.1cm。厚さはいずれも3cm程と薄いもの。この五つの木主は当時明倫館の聖廟内にあったと。木主とは神や人の霊魂にかえてまつる木製のもの。みたましろ、位牌。「ペリー来航と長州藩」。萩藩が初めて建造した洋式軍艦 丙辰丸(模型縮尺約56分の1)。萩藩が建造した2隻目の洋式軍艦 庚申丸 (模型縮尺約65分の1)。時代の流れの中での萩出身の人物の活躍。「吉田松陰と松下村塾」。幕末期の銃。動乱の時代と長州藩。博物館内の庭には夏ミカンが撓わに。そしてレストランで一休み。 ・・・つづく・・・
2018.04.16
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昨日は昼前にホームセンターを訪ね、その帰りに我が市のフジ(藤)の花の名所のいくつかを訪ねて来ました。我が市『藤沢市』の市花はフジ(藤)。市内の公園には多くの藤棚があり、この4月には長い房に紫や白の花を咲かせ楽しませてくれるのです。ところで、「藤沢の地名の由来」は1)藤が多い地だから 2)境川・引地川など蛇行し、淵や沢が多く「淵沢」から転訛した。3)鎌倉時代、藤沢次郎清親という 奉行が治めていたから、などの諸説があるのですが2)が定説となっているのです。まずは端山藤園さん。 一般のお宅ですが、この時期、見事な藤を公開して頂けます。昨日は白の藤が満開でした。この奥の紫のフジ(藤)は既に終わっていました。この紫のフジ(藤)は満開時には約1m近い花房が滝のように垂れ下がり、丹精込めて育てられたその姿は、別格の美しさのなでしたが・・・・。フジ(藤)の育成に70年携わって来られた端山さんとのこと。花片が大きな白藤(フジ)。甘い香りが漂って来ました。そして「淡紅藤(うすべにふじ)」それとも「桃色藤(ももいろふじ)」か?やや赤みをふくんだ薄い紫色のフジ。「加藤さん、伊藤さん、佐藤さん、斉藤さん…日本人に多い苗字には不思議と「藤」の字が多く付いている。実はこれ、平安時代に栄華を極めた藤原氏の影響なのです。藤原氏の一族は全国にひろがり、加賀の国の藤原氏は加藤、伊勢の国の藤原氏は伊藤、と地盤となった国の名を取って家名を変えて行ったのだと。明治になって苗字が義務づけられるようになると、名門・藤原氏にあやかろうと、ゆかりの無い人々も「藤」の字が入った苗字を名乗るようになったのです。」と。そして次に大庭城址公園へ。こちらはポピュラーの紫フジ(藤)。フジ(藤)は古くから振り袖姿の女性に例えられるように、優雅で柔らかい印象を与える花。庭園や公園で目にする藤棚のイメージが強く、自宅で育てるのは難しいように感じてしまうが、実は鉢植えでも楽しめるのです。根の成長が制限されることから、むしろ鉢植えの方が花つきがよくなるほどなのだと。ブンブンと羽の音が。体長2cmを超える大型の蜂クマンバチは、ミツバチ科の蜂で、花の蜜・花粉を主な餌としており、他の小さな昆虫を捕食する事もなく、大きく黒く、大きな羽音で、怖いイメージがありますがとても大人しく攻撃性の低い蜂なのです。フジ(藤)の花に来るクマンバチは雄蜂が多く、ホバリングをするクマンバチは必ずオス。鉢の毒針は産卵管ですので、産卵能力のないオスは毒針を持ちません。捕まえると刺すフリをして尾端から毒針のようなものを出しますが、これは交尾器なので絶対に刺すことは出来ないのです。50cm程度の花房。「藤」という字は「上にのぼる植物」という意味を持つ漢字で、元はつるを作る植物を指したのだと。日本ではこの藤の花に限定して使われるのだと。4月は、サクラから始まり、カイドウ、ツツジ、シャクナゲ、芍薬、牡丹、バラ・・・とさまざまな花木が咲き競う季節なのです。ここ大庭城址公園中のフジ(藤)の大きな花穂が枝垂れる様は見ごたえ十分。たおやかに垂れるフジ(藤)の花姿は、振袖姿のあでやかな女性を思わせます。日本では古くから、フジ(藤)を女性に、松を男性にたとえ、これらを近くに植える習慣があったと。一輪一輪は蝶のような形をしたごく小さな花なのですが、それが房となって50cm以上にも連なって花房となっているのです。一般名称としてのフジ(藤)には、つるが右巻き(上から見て時計回り)と左巻きの二種類があると。右巻きのフジ(藤)の標準和名は「フジ」または「ノダフジ」、左巻きのフジ(藤)の標準和名は「ヤマフジ」または「ノフジ」である(牧野富太郎の命名による)とのこと。紫色の花が、幹の方から先端に向かって咲き進む事が理解出来たのです。フジ(藤)の花言葉は「優しさ」「歓迎」「決して離れない」「恋に酔う」であると。こちらのクマンバチは近くでフラッシュを焚いても、ビクともしませんでした。次に近くの引地川親水公園へ。こちらの古木のフジ(藤)も藤棚いっぱいに枝を延ばして開花していました。見た目とその花言葉も手伝って、フジ(藤)の花からは、どこか甘い女性の気配がするのです。あでやかな、豪華な、おしとやかな、上品な、高貴な・・・と形容する言葉が次次と思い浮かぶのでした。これから開花する蕾のフジ(藤)の樹も。白い花を見せるのでしょうか?そして最後に湘南台公園へ。ここのフジ(藤)は花と共に若葉も頑張っていました。そして紫の色ややや薄め。藤棚の下では親子が弁当を仲良く食べていました。ズームで。中央に薄い黄色が。更に遠くからズームで。偶然?にも旨く撮れました。そして、以下は数年前の白旗神社のフジ(藤)の写真。今年は如何に?白旗神社は、奥州平泉で最期を遂げた源義経を祀る神社。伝承によれば、義経と弁慶の首は鎌倉の腰越の浜で首実検が行われた後、2つの首が白旗神社に飛んで来たのだとの言い伝えが。白の義経藤。そして弁慶藤。花房の長い弁慶藤であった。芭蕉句碑。『草臥て宿かる比や藤の花(くたひれてやどかるころやふじのはな)』「草臥て」とは「くたびれて」で体力を消耗してそれ以上動くのがいやになる、疲れる、疲労するの意味。そしてその横には1805年(文化2年)、江戸の俳人・以足が建立した碑が。背面の 「東路(あずまじ)や華(はな)にくるまる鈴の音」 は以足の句。
2018.04.15
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高杉晋作生誕地を後にし、更に白壁で囲まれた菊屋横丁を北に向かって進む。田中義一誕生地は、菊屋横丁の中ほど白い塀に囲まれて狭い場所の一角に。自然石に田中義一閣下誕生地と刻んだ石碑が石垣の奥に建っていた。萩藩士・田中信祐、みよの三男として萩(現:山口県萩市)に生まれた。父は藩主の御六尺(駕籠かき)をつとめる軽輩者の下級武士だったが、武術にすぐれた人物だったと。13歳で萩の乱に参加。若い頃は村役場の職員や小学校の教員を務めた後、20歳で陸軍教導団に入り、陸軍士官学校(旧8期)、陸軍大学校(8期)を経る。日清戦争に従軍、その後ロシアに留学。日露戦争では満州軍参謀として総参謀長児玉源太郎のスタッフを務めた。戦後の1906年(明治39年)に提出した『随感雑録』が山縣有朋に評価されて、当時陸軍中佐ながら帝国国防方針の草案を作成。その後原内閣の陸相として軍備拡張に尽力し、シベリア出兵を遂行。立憲政友会総裁を経て、昭和2年(1927)内閣総理大臣となり組閣。治安維持法改悪、共産党弾圧を行い、対中国積極外交を推進したが、張作霖(ちょうさくりん)爆殺事件の責任を負って総辞職。ここは何と 「プチカフェ さくら木」の入口門。なまこ壁の並ぶ菊屋横町を更に進む。菊屋横町の十字路を右折。左手に「旧久保田家住宅」。久保田家は、呉服商・酒造業を営んでおり、建物は江戸時代の後期に建てられた。意匠・構造・技術に優れ、酒造業で繁栄した往時の状況もよく伝えており、史跡萩城城下町を構成する重要な建物。右手に「菊谷家住宅」。藩の御用商人を務めていた豪商・菊屋家。屋敷は江戸初期の建築で、現存する商家としては最古の部類に属し、400年の歴史があると。「菊屋家住宅 5棟(主屋・本蔵・金蔵・米蔵・釜場)」が国指定重要文化財(建造物)。全国でも最古に属する大型の町家として極めて貴重であると。これは民家の門か。木戸孝允旧宅入口案内。青木研蔵の紹介パネル。医者青木家に生まれる。日田に出て広瀬淡窓の咸宜園に学び、兄の周弼とともに長崎へ遊学しシーボルトに学ぶ。さらに江戸へ出て、蘭学者伊藤玄朴に学んだ。なお、のちに兄の養子となり、文久3年(1863)兄の没後、青木家の家督をついだ。 種痘法を取得して藩内に広め維新後、明治天皇の大典医となったと。国指定史跡 萩城城下町 説明板萩城三ノ丸中総門の東外を、東西に通ずる中心路である呉服町の通り(通称御成道)と、その南を東西に走る慶安橋筋の2本の東西路に直交する菊屋横丁・伊勢屋横丁・江戸屋横丁に囲まれた区域(外側を含む)は、萩藩御用達の旧家、幕末に活躍した武家住宅等の面影が残り、その配置状況は、よく城下町の特色ある景観を偲ばせるものとして、昭和42年1月10日史跡に指定した。なまこ壁の土蔵、高杉晋作誕生地、木戸孝允旧宅など往時の面影をとどめたものがたくさん残っていると。 木戸孝允誕生地。桂小五郎の名でも知られ、“維新の三傑”と詠われた木戸孝允の旧宅。生まれてから江戸に出るまでの約20年間を過ごした木造瓦葺の2階建ての家は、中に入ると、誕生の間や幼少時代の手習いの書を表装した掛け軸、写真などが展示されていると。木戸孝允は、天保4年(1833)、萩藩医・和田昌景の長男として生まれた。後に藩士・桂家の養子となり“桂小五郎”の名でも知られています。藩校明倫館に通い吉田松陰の兵学門下となり、文久2年(1862)藩の要職に就き京へと出て国事に奔走。慶応元(1865)年、藩命により姓を“木戸”と改め、翌年、坂本竜馬の仲介のもと薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通らと“薩長同盟”を結び明治維新に尽力。維新後は、五箇条の御誓文の起草、版籍奉還、廃藩置県などの推進に功績を残しました。明治10(1877)年、西南の役の途中で病死。享年45歳。「木戸孝允旧宅」を見学した後は、隣にある「旧佐伯丹下家屋敷」に向かう。萩藩大組士佐伯丹下(125石)の屋敷だったと。「旧佐伯丹下家屋敷」の前を通り過ぎ、「青木周弼(あおきしゅうすけ)旧宅」に向かう。13代藩主・毛利敬親の侍医を務めた青木周弼の旧宅。幕末当時、日本屈指の蘭学医でもあった。来客用と家人用の座敷に分けられた母屋が、全国から門下生が集まった青木家の事情を物語っている。青木周弼は、享和3(1803)年、周防大島郡の医師青木玄棟の長男として生まれる。三田尻の名医能美友庵・洞庵父子に学び、江戸に出て蘭方医坪井信道などに学んだ。長崎に遊学した際には、シーボルトに師事。一時、長崎で開業するも天保9(1838)年に能美洞庵などの推薦で藩医となり、嘉永元(1848)年、13代藩主・毛利敬親の信任を得て侍医となる。早くから種痘法に注目し、弟・研蔵を長崎に遣わし研究させ、藩内でこれを施し大いに功を奏した。高杉晋作が10歳のとき疱瘡にかかった際、診療した医者としても知られる。藩の医学館(好生堂)創設にかかわり、後に館長となり、防長医学の発展に大きく貢献。周弼が培った洋学の知識は、村田清風を通じて幕末の藩政改革に生かされた。文久3(1863)年、61歳でこの世を去る。「青木周弼旧宅」の建物では「萩城下の古き雛たち」が開催されていた。毛利藩で栄えた江戸時代の萩、維新の情熱で燃えた萩、静かな佇まいを残す萩。江戸から平成にわたり大切に受け継がれてきたお雛様や、萩ならではの小萩人形など約1,200体を、文化財施設など17会場にて展示しているのだと。金毘羅社 円政寺。高杉晋作、伊藤博文が学び遊んだ大きな天狗面のある寺。真言宗御室派 月輪山 円政寺は、建長6年(1254)の銘文がある鰐口(国指定重要文化財)を所有していたところから、鎌倉時代頃に大内氏の祈願寺として今の山口市に創建。大内氏滅亡後、慶長9年(1604)毛利輝元が萩へ築城と同時に萩城下 塩屋町(現 多越神社)に移転され、毛利氏の祈願寺となった。神仏分離令後、明治3年(1870)円政寺の名が惜しまれ、現在の場所にあった法光院と合併・改称、現在の円政寺になりました。山口市には現在も円政寺町という地名が残っている。寺であるのに、入り口には、石鳥居(市指定有形文化財)、境内には十二支の彫刻が施された金毘羅社社殿(市指定有形文化財)があり、全国でも珍しい神仏習合の形態が今でも見られる点で貴重な遺構であると。境内には、幼年期の高杉晋作や伊藤博文らが遊んだといわれる文政3年(1820)に寄進された木馬(神馬)が残っていると。安政5年(1858年)に萩の町人たちに寄進された高さ5.07mの石灯籠は山口県下で一番大きいと。灯籠に彫刻されている龍は透かし彫りで立体的に彫り込まれている。また、灯籠を支える4つの猫足が動くような仕掛けが施されているため、地震が起きても倒れないと言われていると。城下町 萩市の汚水マンホール蓋。夏みかんが武家屋敷の塀から伸び出ていた。 ・・・つづく・・・
2018.04.14
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昨日は、旅友Sさんと第二回目の三浦半島ドライブ巡りに行って来ました。前回は相模湾に面した油壺まででしたが、この日は城ヶ島から東京湾沿いを北上しJR横須賀駅前にあるヴェルニー記念館まで散策し、帰路に三浦半島を横断し長者ヶ崎に到着。この写真は以前訪ねた時の写真です。三浦半島は太平洋に向けて突き出し、東京湾と相模湾とを分ける。横浜市磯子区の南西にある円海山から藤沢市片瀬にいたる線を北限とし、円海山の北麓で多摩丘陵に接続する。半島東端の観音崎は東京湾の南限であり、浦賀水道を隔てて東の房総半島とともに東京湾を囲む。半島の西には伊豆半島があるのです。 【https://www.maholova-minds.com/sightseeing/index.php】より転載そして昨日4月12日は長者ヶ先から「ダイヤモンド富士」が見ることが出来ると前回訪ねた折知ったのです。ダイヤモンド富士とは. 富士山頂から太陽が昇る瞬間と夕日が沈む瞬間に、まるでダイヤモンドが輝くような光景が見られることがあり、この現象をタイヤモンド富士といいます。富士山と光輝く太陽が織りなす光景は、まさに自然の芸術なのです。16:30過ぎに長者ヶ先に早くも到着。この日の富士山頂への日の入りは17:56の予定。富士山近くには雲は無かったが、上空には雲が。相模湾の水面は「光る海」に。遠く江の島の姿が。そして日の入りを待ちながら、カメラに三脚をSETし刻々と変わっていく富士の姿を追いかけシャッターを押す。やや霞がかかって見える富士山。昨日は気温も上がり、この時期にはやむを得ない現象か。富士山、箱根、伊豆半島の山々の山の端も見えた。時間とともに富士山の稜線もクッキリ見えたり薄くなったりと変化を繰り返すのであった。太陽が富士山の山頂に向かって。相模湾と富士山とそして右手に江の島を再び。カモメが夕陽見物、いや いつの間にか増えていたカメラマン見物に。「光る海」も刻々と輝きの強弱が。このまま富士山頂の廻りに雲の近寄らない、発生しないことを祈ったのであったが。クッキリとした富士山の稜線が。期待が高まる。ますます太陽が富士山頂に近づいていく。カメラのファインダーを覗き続けてシャッターを。しかし・・・・太陽と富士山頂の間にやや黒き雲が発生していることに気がつく。時間は日没6分前の17:50。そして丸い太陽が楕円形に。不安が急激に拡がる!!近くから叫び声も。ズームして確認すると、やはり・・・・。そして太陽の姿が消えていく。時間は17:54。う~~~ん・・・。そして無情にも太陽の姿が雲の後ろに完全に隠れる。そしてダイヤモンド富士の予定時間の17:56に。すると富士山の向かって右の山の端の上が赤く輝き出す。落胆しながらズームで。気持ちと同様にレンズをジワジワと引いて。もっと引いて。赤く染まっていくのは富士山の箱根側のみ。私の気持ちは、ジワジワと冷めていったのであった。(笑)雲さえ無ければ、この様な写真が何枚も撮れたはずであったが・・・。 【http://s.webry.info/sp/hasedon.at.webry.info/201304/article_6.html】より転載。多くのカメラマンが大きな三脚と大きなカメラを重そうに抱えて車にそしてバス停に。我々も車に戻り帰路に。国道134号線を走り2つあるトンネルの内の1つ目「伊勢山トンネル」を抜けて、「飯島トンネル」へと進みこのトンネルを出たところが材木座海岸。快晴の日にこのトンネルを抜けると、そこには太陽の光を受けてキラキラと輝く材木座の海が待ち構えていて、ゆるやかに右へカーブしていくにつれて材木座の海岸が目の前に拡がるのだ。暗いトンネルから、眩いひかりを放つ海へと景色が一変するこの瞬間が、何度行っても気持ち良い絶景の場所なのであったが、昨夜は・・・???。江ノ電・長谷駅の横を通過。そして旅友Sさんに自宅まで送っていただき、19時過ぎに帰宅したのであった。
2018.04.13
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萩城跡を後にし、指月橋を渡る。萩城の外堀跡がそのまま残ったような運河が指月川。「萩八景遊覧船のりば」が指月橋の左手下に。水の都「萩」の景観を水辺から遊覧する「観光遊覧船」。遊覧コースは萩城跡横のここ指月橋を始点に、お城の疎水を通り、常盤島経由で橋本川本流に入り、堀内伝建地区内・平安古伝建地区内の武家屋敷群を川から眺める約40分の往復ルート。この日は天候も悪く、桜も未だで観光客の姿はなかった。「天樹院墓所」を訪ねる。天樹院墓所は中国地方の雄・毛利元就の孫で長州藩祖である毛利輝元の墓所。ここは輝元生前時には輝元の隠居所・四本松邸のあった場所で、その死後天樹院(輝元の法号)が菩提寺として建てられた。しかし、明治2年(1869)に廃寺となり墓所のみが残ったと。この墓所は、山口市に所在する香山墓所、萩市に所在する大照院墓所、東光寺墓所とともに、長州藩36万石の藩主の墓地で、国の史跡に指定されている。入口の唐門。墓の周囲には玄武岩製の玉垣、鳥居、石燈籠、長さ64mの参道の敷石が。竹林に囲まれた静かな場所に五輪塔形の墓が残っていた。 武家屋敷が残る堀内地区内にあるが、小雨の中、緑に囲まれていて、澄んだ空気を感じられたのであった。毛利輝元とその夫人および殉死者長井治郎左衛門の墓石3基があった。毛利輝元(右)と夫人・南の方(左)の墓。輝元のものは高さ2.1m、夫人のものは1.8mといずれも大型で花崗岩製の五輪塔形。毛利輝元夫妻の墓所の手前に、もう1基の墓石が。家臣で殉死した長井治郎左衛門の墓石。長井治郎左衛門の墓石の横の由緒書き「長井元房と忠義の猫 ~猫町伝説~」。元房が若い頃萩を出奔して他国を放浪していたとき、輝元は銀子を与えて庇護し、元房が戻ってくると以前と同様家臣として遇した。そのため元房は輝元に恩義を感じ殉死した。元房のかわいがっていた猫が、元房の墓前を離れず、49日の法要の日、舌を噛んで死んだと。萩博物館の西側の筋に元房の屋敷があったことから、この筋に猫町という名前がついたと。雨に濡れた白壁の路。右手に「北口屋敷」の裏手が。旅館「萩城三の丸 北門屋敷」は、世界遺産「萩城下町・旧上級武家地」の中心に位置し、観光拠点に最適な場所。民家の門も歴史が溢れていた。立派な歴史ある門には「萩セミナーハウス」と書かれた札が。萩セミナーハウスは、旧萩城三の丸に位置しており、その立地条件を生かし、萩の歴史、伝統文化、自然等の資源を活用した多様な研修が可能な宿泊研修施設で、子どもから高齢者まで誰もが利用できると。ここは旧毛利家別邸の表門。建築年代は明治時代、14代藩主・毛利元徳が鎌倉材木座に建てた表門。大正10(1921)年、別邸とともに毛利家萩別邸として市内東田町に移築され、昭和49(1974)年現在地に移築された。桁行10.9メートル、梁間3.8メートル、棟高5.2メートルの雄大な規模を誇っている。屋根の両端には鯱の原型と言われる鴟尾(しび)を乗せた桟瓦葺寄棟造。門の左側は潜門で、更に両脇には内側に向かって覗格子を持たせた10平方メートルの広さを持つ土間が付属する。萩の門の形式としては異色のものであると。城下町の白壁や武家屋敷の土塀からのぞく夏みかんは、その時代の名残とともに萩の情緒を感じさせる風景。陶器製の地図。長い白壁が続く。再び夏ミカンを見つけズームで。「国司信濃親相旧宅跡」と刻まれた石碑が十字路の隅に。国司信濃親相は、寄組藩士・高洲元忠の次男として生まれ、同じく寄組藩士5600石の国司迪徳の養嗣子になった。文久3(1863)年、下関警衛の任に就き攘夷を断行した。馬関総奉行、加判役を歴任たが、元治元(1864)年7月の禁門の変で戦いで敗れ、領地の万倉に帰国。同年11月、幕府への謝罪のため徳山で切腹させられた。享年23歳。現在の萩西中学校の西半分が国司家、東半分が柳沢家の屋敷跡。萩西中学校の北西角に石碑が建っていた。萩市立萩西中学校。萩博物館の角。十字路から北方面の小路。萩博物館前の民家の門。そしてこの後に萩博物館内の見学に向かう(後日ブログ掲載)萩博物館内の見学を終え、更に散策の歩を進める。萩博物館の隅櫓風の建物を振り返る。駐車場を左手に見ながら直進すると右手にあったのが中の総門。萩城三の丸の3つの総門(北・中・平安古)の一つ。中の総門は他の門の中間に位置して中の総門と称し三の丸の表玄関だと。田中義一(大将)の銅像。田中義一は明治から昭和にかけて活躍した軍人、政治家。藩主の御六尺(駕篭かき)の田中家の三男として萩の呉服町に生まれた。13歳の時新堀小学校の授業生(代用教員)に登用され、萩の乱にも参加したが、後に陸大に進学。大正7(1918)年以降、陸軍大臣、次いで大将に進み、再び陸軍大臣に。大正14(1925)年政友会総裁に就任し、昭和2(1927)年には内閣総理大臣となり、外務大臣、拓務大臣を兼任した。萩博物館の東側の公園に銅像が建っていた。萩城外濠。外濠沿いの295号線を歩くと民家の屋根にも多くの鴟尾が。高杉晋作の誕生地へ向かう路地の入口角には高杉晋作立志像が。日本の道百選No77菊屋横丁を歩く。中国・西安でも見た黄梅が咲いていた。菊屋横町の静かな佇まいの中にある高杉晋作の旧宅。門前には、右側に「高杉晋作誕生地」、左側に「高杉春樹旧宅地」と。高杉春樹は晋作の父・高杉小忠太のこと。高杉晋作歌碑。「西へ行く人をしたひて東行く 心の底そ神や知るらむ」(意)西行を慕って頭を丸めたけれども自分の心は逆に東へ行くのだ。 その心は神だけが知っているだろう。東行と名乗ったときに詠んだ句であると。6畳の座敷、6畳・4畳・5畳の居間、3畳の小室、そして玄関と台所があった。土蔵納屋は現存していなかった。だいたい当時の約半分が現存している模様。部屋には高杉晋作と妻・雅子と晋作の長男・東一(とういち、1864~1913)の写真が。実際に使用したとされる初湯の井戸。高杉晋作略伝。『名は春風、字は暢夫、晋作は通称でありますが、最も広く知られています。また谷梅之助、谷潜蔵の変名もあり、東行とうぎょう、西海一狂生、東生一狂生などと号していました。天保10年(1839)8月20日萩藩士高杉小忠太、室道子(大西氏の出)の長男としてここ萩菊屋横丁の宅で生まれました。幼少の頃私塾に学を習い、やや長じて明倫館に文武を学び、また松下村塾に入り松陰の指導を受けました。文久元年(1861)藩主世子の小姓役に抜擢せられ翌2年幕使に随行して上海に渡航する機会に恵まれて海外諸情勢をつかみ帰朝後攘夷の急先鋒として活躍しました。文久3年馬関の外国船攻撃にあたり自ら奇兵隊を組織し、同隊総監を命ぜられました。奇兵隊は日本では、はじめての士農工商を問わない国民的軍隊で、後これにならうもの続出して長州藩の反幕府勢力軍事的基盤として明治維新戦争に大きな働きをしました。ついで一時脱藩し罪を得て野山獄に入りましたが元治元年の四国連合艦隊の馬関来襲にあたり許されて再起用され、講和条約の正使となって堂々と交渉して国土の危急を救いました。禁門変後藩首脳は俗論党により占められたため、晋作は九州に亡命しましたが、時至ってふたたび奇兵隊を指揮し、長府功山寺に軍を起こし、疾風の勢いで諸地に転戦し俗論党を一掃いたしました。第2回長州征伐を前に薩長同盟に尽力し慶応2年第2回征長軍を迎えて、全藩を指揮し、みずからは小倉口を攻めて、縦横の機略を駆使して連戦連勝しましたが、翌3年4月14日、享年29歳で赤馬関に病死し、下関市吉田清水に葬られました。明治24年生前の功労に対して正四位を贈られました。※この旧宅についてこの旧宅は、家禄200石を受けていた、父 高杉小忠太宅で、現存する当時の建物は座敷(六畳床間付)次の間(六畳)居間に(六畳、四・五畳)小室に(三畳)のほかに玄関、台所があります。土蔵納屋もありましたが、現存しておりません。庭園に鎮守、裏庭には井戸がそのまま残っております。』と長々と説明されていた。ここに高杉晋作の肖像画、当時の茶道具などゆかりの品が置かれていた。座敷には上がることができず、外からの見学のみ。黒字に白く鳥の姿が描かれた布幕?が。高杉晋作は天保10年(1839年)に高杉小忠太春樹の長男として長州藩(山口県)は萩城下町ここ菊屋横丁で生まれた。ここは上級武士の家。名は「春風」、字は「暢夫」だが、一般的に晋作という通称で知られている。他にも谷梅之助、谷潜蔵などの変名もあると。幼少期は私塾で学び、のちの裕福な子供が通う萩校明倫館に入学。しかし授業をサボり気味だったと。そして19歳の時に親友の久坂玄瑞(幕末の長州藩士で、松下村塾の双璧と言われた英才)に誘われ、吉田松陰が設けた松下村塾に通うように。その後日本発の身分を問わない軍事組織“奇兵隊”を結成し、功山寺の挙兵を決行、第二次長州征伐で幕府軍を撃破。明治維新のため力を尽くしたが、維新の実現を見ることなく、1867年(慶応3)、享年29歳の若さで病死。維新の扉を開けた革命児は、風のように幕末を駆け抜けていったのだと。庭にあった鎮守堂(高杉家伝来)。毛利輝元公と一緒に萩に入域の際、広島から持ってきたと伝えられていると。晋作の家の庭に、「勲業不朽」の石碑があった。吉田松陰の名言・格言:死して不朽の見込みあらばいつでも死すべし、生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。【意訳:死んでも後世に残るだろうと考えるなら死んでもいい。生き延びて大きな仕事が できそうだと思うならどんな状況でも生き続けろ】。 ・・・つづく・・・
2018.04.12
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指月第一駐車場に到着し、車を降り萩城跡の散策開始。二の丸南門跡。毛利輝元公胴像。毛利輝元は、慶長5年(1600年)関ケ原の戦いにおいて、西軍の総大将として担ぎ出されたが、毛利家の両川と呼ばれていた小早川・吉川の裏切りにより戦わずして敗北。中国地方9カ国120万石から、周防・長門2カ国37万石に減封される。萩城は、慶長9年(1604年)に輝元が築城を開始し、慶長13年(1607年)完成。5層5階の望楼型の天守を持ち、背後にある指月山の山頂には詰丸を配した。その後は幕末に藩庁を山口へ移転するまで毛利氏13代の居城として栄える。二の丸南門跡を過ぎ本丸跡に向かう。「史跡萩城跡」碑。極楽橋(現在は土橋だが往時は木橋)とその先に本丸門跡を見る。 左後ろに見えている山が指月山。国指定史跡 萩城跡 説明板。萩城天守閣跡。美しい曲線の石垣が印象的。入園料 210円/人を払い城内へ。萩城跡 指月公園案内図萩城跡指月公園。旧本丸跡に歴代藩主を祀る志都岐山神社が創建された際、総面積約20万㎡の境内が指月公園として整備された。城跡の構造をよく残していることが特徴で、園内には天守閣跡、梨羽家茶室、旧福原家書院、万歳橋、東園などの旧跡がある。また、幕末13代藩主毛利敬親が安政年間に藩主別邸・花江御殿に増築し、家臣とともに茶事に託して討幕の密議を凝らした茶室「花江茶亭」が明治22年に園内に移築されていた。本丸内門を入っ枡形を右に曲がると志都岐山(しづきさん)神社の石鳥居が正面に。内堀沿いの石垣には、長い雁木(石垣に設けられた階段)が設けられていた。雁木を上り石垣の上を天守閣方向に向かう。天守閣の石垣と内堀。本丸・天守台北側の上り階段。手前に萩城天守閣跡と書かれた碑が。本丸は東西約200m×南北約145m、天守(五層)高さ14.5m、当該石垣高さ11m、郭塀回り528m、萩城は明治6年に発布された廃城令の影響により、櫓などの建物はすべて取り壊されてしまいました。本丸内にある天守への最後の階段。天守台に残る礎石。かつて高さ14.5m、白亜5層の天守閣も、いまは礎石と台座を残すのみ。残念ながら現在ではもうその姿を見ることは出来ないが、石垣や堀の一部は当時のまま残っており、本丸、二の丸、三の丸と壮大なスケールを誇った往時の様子を偲ぶことが出来た。天守からの内堀(西側)天守からの内堀(北側)と指月山。天守からの内堀(東側)と本丸門方向。在りし日の萩城天守閣。萩城は慶長9年(1604)に毛利輝元が指月山麓に築城したことから、別名指月城とも呼ばれ、山麓の平城と山頂の山城とを合わせた平山城で、本丸、二の丸、三の丸、詰丸からなっていた。本丸には高さ14.5mの五層の天守閣があったたが、明治7年(1874)に天守閣、矢倉などの建物は全て解体され、現在は石垣と堀の一部が昔の姿をとどめ、ここ一帯は国の史跡に指定されている。この様な天守閣の写真も残っていると。 【https://blogs.yahoo.co.jp/honmon1968/8806724.html】より。この石碑は???梨羽家(なしはけ)茶室。萩藩寄組(よりぐみ:永代家老のすぐ下の階級、一代限りの家老職を務めた)の梨羽家(3,300石)の別邸にあったものを、明治になってここに移築したもの。木造入母屋造・桟瓦葺(さんかわらぶき)で、花月楼形式の極めて格式のある茶室だと。花江茶亭。元々は、三の丸にあった藩主別邸花江御殿内に造った茶室。13代藩主・毛利敬親が、家臣とともに倒幕について密談した場所でもあると。萩城址の碑。萩城は幕末、藩主・敬親のときに藩庁を山口に移し、順次萩城は取り壊されて行ったのであった。見事すぎる台座にのった志都岐山神社の巨大な狛犬狛犬の先には、藩校・明倫館の遺構の万歳橋が。中国風のデザインを施した太鼓橋。志都岐山神社はもとは指月神社といわれ、毛利元就、隆元(元就の子)、輝元(元就の孫)の3人と幕末の藩主・敬親、元徳(敬親の子。最後の藩主)の5人を主神とし、長州藩の歴代藩主を祀っている。万歳橋を渡り(実際は渡れないので大回りして)階段を登ると、志都岐山神社の拝殿と本殿が。祭神は、毛利元就・毛利隆元・毛利輝元・毛利敬親・毛利元徳を5柱とし、初代から12代までの萩藩主を配祀。「花燃ゆ」の主人公・ふみの夫・楫取素彦が寄進した井戸。東園。萩藩6代藩主毛利宗広(1717~51年)の時代、以前からあった池などを浚渫して整備し、続いて7代藩主毛利重就が庭内の各所に「六景二十勝」の名称を付けたと。「六景二十勝」とは、庭園の中に設けられた建物・池・中島・巨大な石や珍しい樹木などを見どころとして定めたもの。例えば、池の中島は「小蓬莱」と名付けられており、これを仙人が住むとされた蓬莱島になぞらえていたと。海に沿った城壁上の展望台からは城壁、堀、菊が浜を展望出来た。菊が浜の波は静かに。「皇太子殿下行啓の所」碑。本丸北東部の東園跡から東に向かうと浜に沿って石垣が。石垣の切れ目が、かって日本海から物資を城に運んだ「潮入門跡」。潮入門跡の南側石垣からは、白漆喰の土塀が再現されている。土塀の説明板。潮入門の南側の二の丸土塀(四角い銃眼のある土塀)が復元されていた。ここでNHK大河ドラマ「花燃ゆ」のロケが行われたと。二の丸東門内よりから天守閣方面を見るそして萩城跡の散策を終え本丸を後にする。萩城の入城券には、旧厚狭毛利家屋敷長屋の入場券も付いていたので、入ってみる事に。厚狭毛利家は、毛利元就の5男元秋を始祖とする毛利一門。この屋敷は、萩市に現存する武家屋敷の中では最大の大きさを誇ると。幕末に建てられたこの武家屋敷は武士の詰め所で、武士の階級により待機する部屋の広さが異なっていた。実際、長屋の手前の部屋(一の間)は8畳だったが、奥の方に行くと3畳、2畳と狭くなっていき、最後は広い部屋に下級武士が詰め込まれていたのだと。旧厚狭毛利家屋敷長屋全体を写す。梁間5メートル、桁行51.5メートルの長大な入母屋造り本瓦葺きの建物。東座敷一の間には、毛利輝元の肖像画と重要文化財指定書を展示。萩毛利家と厚狭毛利家系図(左)。三矢の訓(右)。毛利元就が嫡男である隆元と、吉川家・小早川家を相続した元春・隆景の3人の息子にあてた教訓。「1本の矢なら簡単に折れるが、3本まとめると折れない。」という有名な話。西座敷一の間には毛利元就の甲冑が。仲間部屋。萩城の模型。本丸と指月山上の詰丸の位置関係が理解出来た。そして次に萩城下町を徒歩にて散策。 ・・・つづく・・・
2018.04.11
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2日目の朝も早朝起床。我が和室の部屋。この日も曇天。関門海峡の流れは少なく、白波も立っていなかった。ややもやっていた。そして朝食はバイキング。甘い物も。そして8:30にホテルを出発し萩に向かう。最初に唐戸市場に立ち寄る。「唐戸市場」はふぐの市場、タイやハマチの市場としても有名。地元の漁師が魚を直接販売もしており、地方卸売市場としては 珍しい市場。農産物の直売所もあり、漁業者や農業者が軒を並べて販売しているユニークな市場。そして毎週末と祝日に ”活きいき馬関街(ばかんがい)”を開催中。”活きいき馬関街”は飲食イベントとして開催しており、旬の魚を買える他 多数の海鮮屋台が出店し、出来立ての魚料理を味わえるのです。その場で調理した寿司、海鮮丼、ふく刺、ふく汁、揚げ物など様々な海の幸を堪能することが出来るのであった。多くの種類の寿司、海鮮丼が並ぶている店。この日の朝食は、ホテルではなくここにすれば良かったと・・・・。しかし朝食のバイキングで満腹状態。大トロ。本まぐろ最高の旨み!!と。とらふく刺しセット(てっさ)。美しい皿の上の芸術品。下関の伝統調理法である菊の花のように盛り付けた「菊盛り」はまさに圧巻。サザエも手頃な値段。生牡蠣。唐戸市場から水族館・「海響館」、大観覧車、「下関あるかぽーと」東防波堤灯台(左)「海峡ゆめタワー」(右)が見えた。「下関あるかぽーと東防波堤灯台」はしものせき水族館「海響館」にある灯台。デザイン灯台として下関のレトロ感を演出。下関市立しものせき水族館は、山口県下関市唐戸にある水族館。2001年4月1日に開業。愛称は海響館。指定管理者制度により、公益財団法人下関海洋科学アカデミーが管理・運営を行っていると。ふくの巨大オブジェを発見。下関では”ふぐ”を”ふく”と言います。幸福の「福」にあやかるようにとの願いが込められていると。ふく唐揚げ・ふく天ぷら、海老フライ、あんこう唐揚げ・・・・。そして旧下関英国領事館を雨の中、車中から撮影。国の重要文化財指定の1906年に建設された旧英国領事館。内部にギャラリーやカフェがある。現存する最古の領事館建物とされていると。海峡ゆめタワー。海峡ゆめタワーの高さは153、展望室の高さは地上143m。これは西日本の自立型タワーの中では最も高い(ただし、超高層ビルを含めた展望室の高さを比較した場合、大阪市の梅田スカイビル空中庭園展望台が170mで西日本一)。形状が特徴的で、展望室が球体状になっている。夜はライトアップされ、関門海峡周辺(下関市街地・門司港レトロ、関門橋など)の夜景を楽しめると。そして響灘沿いを191号線を利用して北上する。海岸に出たところで、やっと見えた岬の最初はここ下関市小串の笠松ノ鼻。手前には山陰本線が。「道の駅 北浦街道 ほうほく」 に立ち寄る。本州最西端の道の駅「北浦街道ほうほく」は北長門海岸国定公園に指定された美しい景観の北浦街道191号線沿い、和久港を眼下に水平線には角島大橋を遠望する丘の上にあった。豊北町8つの漁港で水揚げされたばかりの豊富で新鮮な魚介、採れたての果物や野菜など、海と大地の豊かな恵みを楽しめる道の駅。店内の招き猫が迎えてくれた。特牛(こっとい)産アワビ。地名・特牛で「こっとい」と読むのだと。大きな牝牛をこの地方で「コトイ」と呼ぶことから。下関豊北町で採れた新鮮な海産物、農産物、地元産品が盛りだくさん。2つの水槽では旬の魚たちや全国ブランドの魚が元気に泳いでいた。国内はちみつ200g。豊北梨 王秋。王秋梨(おうしゅうなし)は「慈梨(ツーリー)」という中国梨と「二十世紀梨」との交配種を元に更に「新雪」と交配させて生まれた品種で、2000年10月に品種登録された赤なし。出荷は11月中旬ごろからと、和梨の中では遅い時期になる「晩生(おくて)」の梨。柔らかい果肉ながらシャリシャリ感もあり、上品な甘さと程よい酸味が人気と。「道の駅 北浦街道 ほうほく」を後にし、暫くすると角島大橋が前方に姿を現す。左折し角島大橋を渡る。後続車が無いためスピードを下げて進む。1993年(平成5年)9月6日に着工し、2000年(平成12年)11月3日に開通した。総工費149億円。完成後はその景観から山口県の新たな観光名所となっている。テレビCM、特に自動車のCM(レクサス・GS450h、三菱・ギャランフォルティス、スズキスイフトなど)のロケ地として多く採用されている。また、完成当初は通行料金が無料の離島架橋としては日本最長であったと。ここでもカメラアマンは助手席の妻。快晴であればエメラルドブルーの海が・・・。(パンフレットより)。前回、訪ねた時は快晴で青い海を堪能できたのであったが。橋の中間地点の待避所から。風もやや強く白波が。本州と角島を結ぶ「角島大橋」。エメラルドグリーンの海上を渡る全長1780メートルの白く美しい橋。実はこの角島大橋、2015年には大手旅行サイト・トリップアドバイザーの「口コミで選ぶ 日本の橋ランキング」で栄えある第一位に輝き話題となった。また、ベストセラー「死ぬまでに行きたい! 世界の絶景」でも第3位に選ばれるなど、多くの旅行者が認めた絶景スポットなのだ。橋を渡り、角島灯台を目指して進む。そして島を縦断して角島灯台へ。総御影石造りで白さが際立つ美しい灯台は、日本海側初の洋式灯台。明治9年に初点灯し、以後130年以上経った現在でも毎日点灯している現役の灯台です。その高さ約29メートル、上部は展望台として一般に開放され(有料)、角島の風光明媚な景観を一望にすることが出来る。「あなたが選ぶ日本の灯台50選」にも選定されており、角島観光では外せない必見スポット。そして帰路へ。「しおかぜコバルトブルービーチ」にも白き高波が。 ・・・つづく・・・
2018.04.10
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この日の最後に赤間神宮を訪ねる。赤間神宮は壇ノ浦の戦いにおいて幼くして亡くなった安徳天皇を祀る神社。貞観元年(859年)に阿弥陀寺として開闢。江戸時代までは安徳天皇御影堂といい、仏式により祀られていた。平家一門を祀る塚があることでも有名であり、前身の阿弥陀寺は『耳なし芳一』の舞台であったが、廃仏毀釈により神社となり現在に至る。赤間神宮境内案内図。階段の上の太鼓楼前には今年のえと・戌(いぬ)を描いた巨大な絵馬が。高さ2・5m、幅4mの絵馬で安徳天皇のお姿、水天門も描かれていた。水天門。赤間神宮の神門は“水天門”と呼ばれ、竜宮城を模して作られていると。これは二位の尼が安徳天皇と共に入水する際に「浪の下にも都の候ぞ(波の下にも都がございます)」言ったことに由来すると。外拝殿へと歩を進める。手水舎。赤間神宮外拝殿と扁額。外拝殿前から覗き込んだ内拝殿。この赤間神宮には三種の神器の一つ「八咫鏡(やたのかがみ)」が第10代崇神天皇時代から第81代安徳天皇までの1276年間納められていたと。今現在「八咫鏡」は伊勢神宮に御神体、皇居にそのご神体を模したものが奉納されていると。記紀神話によれば、「八咫鏡」は天照大神の岩戸隠れの際に石凝姥命が作った。天照大神が岩戸を細めに開けた時、この鏡で天照大神自身を映して、興味を持たせ、外に引き出した。そして再び高天原と葦原中国は明るくなった、という。水天供養塔。水天供養塔の由来についての説明板には「安徳天皇は御位のまま御入水され水天皇・水天宮と申し上げます。吾が国民は天皇の御守護のもと斯く永らへ安心して冥黙も出来ます。同時に亦国民同胞の中に或は海難に水難にと幾多の水歿者の方々は即ち水天皇さまの御膝元に冥りたく、此の石塔の台石下に幾多の小石に名を留めて納められています。人は名を留むる事に依り安心を得るもので即ち是を水天供養塔と申します。 一.昭和二十五年三月建立 二.今次大戦中水歿者霊位 赤間神宮十三重御宝塔」。境内には“七盛塚”と呼ばれる、壇ノ浦に散った平家一門14名の墓が。天明年間(1781-1789)に、海峡に嵐が続いて船の行き来ができなくなった時、真夜中になると海上をさまよう平家の武者や女官の亡霊が目撃されたため、祟りであると考えた地元の人々によって平家一門の墓が集められ、そして墓を京都の方角に向けて供養をしたところ嵐は収まったと。七盛塚の14名は知盛(清盛の四男)・経盛(清盛の次弟)・教盛(清盛の三弟)・教経(教盛の次男)資盛(重盛の次男)・清経(重盛の三男)・有盛(重盛の四男)・忠房(重盛の六男)家長(家臣)・忠光(家臣)・景経(家臣)・景俊(家臣)・盛嗣(家臣)・二位の尼。全員が壇ノ浦で亡くなっているのではなく、清経は豊前で自害、忠房・忠光・盛嗣は壇ノ浦後に刑死となっているのだと。高浜虚子句碑は、七盛塚の傍らに建っていた。昭和3年に高浜虚子が下関を訪れた際、「七盛の墓包み降る椎の露」という句を詠んだことを記念するもの。「耳なし芳一」で有名な「芳一堂」が。「耳なし芳一」像。赤間神宮がまだ阿弥陀寺であった頃、芳一という名の盲目の琵琶の名手があった。ある夜、侍がやってきてある貴人の前で琵琶の曲を披露せよという。請われるまま琵琶を弾き語り、また次の夜も呼ばれるまま赴いた。それが毎夜続くため、寺の者が後を追うと、芳一は平家の墓の前で琵琶を弾き語っていたのである。琵琶の腕を見込まれて亡霊に取り憑かれたと察した住職は、芳一の全身くまなく経文を書き、呼ばれても返事をするなと命じた。夜が更けて亡霊がやってくるが、芳一は声を出さない。経文が書かれているために亡霊には芳一の姿が見えなかったが、宙に浮いた両耳を来訪した証としてむしり取っていった。……翌朝、耳をなくし気を失っている芳一を見て、住職は耳にだけ経文を書き忘れたことに気付いたのであった。それからこの噂が広まり、芳一はさらに名声を上げたという。其桃翁(きとうおう)の句碑。「神もあとたれて千歳に 月かなし」其桃翁 翁の姓は西尾、名は弥三郎、俳号を三千堂其桃と称す。明治元年一月十八日播州明石郡垂水村に誕生、のち下関市で医をもって業とす。十三、四歳より俳諧に親しみ、無名庵弟十七世の道統を継ぐ。昭和六年四月八日逝去六十四歳 昭和五十七年十月吉日 創刊五十周年を記念して 其桃社一同 と。安徳天皇の墳墓。安徳天皇の遺体は、合戦の翌日、漁の網に引き上げられ、安置された後、葬られたと。赤間神宮の隣にあった胸像:伊藤博文像、陸奥宗光像。下関条約が結ばれた料亭での交渉の席を、忠実に再現しているのだと。像は日本全権の伊藤博文、外務大臣の陸奥宗光。史跡 春帆楼 日清講和談判場。春帆楼は伊藤博文お気に入りの料亭と言うことで、日清戦争の講和会議の場所として選んだ。記念館の前にある碑:春帆楼碑文。(日清講和記念碑文)伊藤巳代治の撰。癸亥とあるので大正12年?春帆楼の由来等が書いてあるのだと。 日清講和記念館。この記念館は、明治28年(1895)春、この地で開かれた日清講和会議と、下関条約と呼ばれる講和条約の歴史的意義を後世に伝えるため、昭和12年(1937)6月、講和会議の舞台となった春帆楼の隣接地に開館。 浜離宮から下賜されたといわれる椅子をはじめ、講和会議で使用された調度品、両国全権の伊藤博文や李鴻章の遺墨などを展示。また、館内中央には講和会議の部屋を再現し、当時の様子を紹介している。伊藤博文がふぐ食を許可した最初の店としても有名で、「ふぐの碑」も敷地内に建っていた。本場「ふく料理」の由来。「下関と言えば「ふく」ふくの本場は何と言っても下関であります。・ふくの歴史 遠く二千年の昔弥生時代の遺跡から食用のふくが発見され、平安時代より多くの 文人墨客の筆や歌に書き残されて参りました。 豊臣秀吉がふくの禁令を出して以来明治に至る迄、武家社会で食することを禁じられて 来ましたが、伊藤博文公が来関の折、ふぐ料理の美味に感じ、時の條令を不粋として 廃止させ一躍下関が本場として名を高めることになりました。・ふぐの毒と味 今では毒素も解明され、其の知識と技術の向上によって安心してお召し上り頂けます。 淡白な味のよさは、魚の中で王者とも言われ最高のものとされております。 ふくを喰わぬ者は通さぬふくの関 ご来関の皆様には、是非話の種にご賞味下さい。」と書かれていた。そして再び関門橋の下を通過し左折して今宵のホテルに到着しチェックイン。我が部屋からの関門海峡の絶景。大きな貨物船が通過。そして風呂へ。風呂からも関門橋が見えた。露天風呂からの眺め。そして夕食は「ふく一番」。食前酒/梅酒は飲み終わった後にシャッターを。お造り/虎河豚刺し。約3cmの長さに切り揃えた「寸ネギ」と「もみじおろし」、「夏代々(なつだいだい)」。小鉢/身皮和え前菜:二種盛。蒸物:河豚白子シューマイ。御凌ぎ/虎河豚寿司。揚物/虎河豚あら唐揚げ。ビールもお代わり。妻は食前酒の梅酒をお代わり。鍋:虎河豚ちり鍋。この後に食事:虎河豚雑炊。そして香の物:三種果物:季節物アイスクリーム。本場下関「ふく」の王道コースを堪能し部屋に戻る。関門橋はライトアップされていた。そしてこの日の長い一日を終え爆睡。 ・・・つづく・・・
2018.04.09
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国道9号線を関門海峡沿いに車を進めていくと、前方に関門橋が見えて来た。「関門トンネル人道入口」前の駐車場に車を駐める。道路の向こう側には大砲が。関門トンネル人道入口。関門海峡を繋ぐ、全長780メートルの歩行者用海底トンネル。海底に伸びるトンネルは上下に区切られ、上は車道、下は徒歩で通行できるようになっている。人道入口にはエレベーターが設けられ、下関市側は地下約55メートル、門司区側は地下約60メートルまで降りてから通行。トンネルの中ほどには福岡県と山口県の県境の標識があり、珍しい海底の県境として有名であると。関門橋。ウィキペディアによると『関門海峡の最狭部である下関市壇之浦と北九州市門司区門司(和布刈地区)を結ぶ海上橋で、1973年(昭和48年)11月14日に開通。橋長1068m、最大支間長712mは、若戸大橋(橋長627m、最大支間長367m)をしのぎ、開通時点では日本および東洋最長の橋であったと。形式は標準的な3径間の吊り橋で、補剛桁はトラス。橋梁等の防食法には溶射が採用されている。関門海峡は大型船舶も航行する重要航路であることから、桁下から海面までは61mの高さを確保している。主ケーブルの直径は67cm(直径5.04mm素線、14014本)、ハンガーケーブルの直径は53cm。』「関門隧道建設の碑 建設大臣 根元龍太郎」御裳川公園(みもすそがわこうえん)内の松の木々の下には朱の御裳川橋が。御裳川は道路下、公園下を流れ関門海峡に流れ込んでいるようで川の姿はなし。壇ノ浦古戦場址。現在は「御裳川公園」として遊歩道が整備されている。公園前の海は関門海峡の一番狭まったところで「早鞆の瀬戸」といわれ、潮の流れが速く、潮流の変化が激しい海の難所です。壇之浦古戦場を一望できるこの場所は、『今ぞ知る 身もすそ川の 御ながれ 波の下にもみやこありとは』(長門本平家物語)という二位の尼辞世の歌から地名が生じたと。公園内には、源義経・平知盛両雄の像とともに、安徳帝御入水之処碑が配置されており、海峡の激しい潮流を背景に源平最後の合戦に思いをはせることができます。源平の合戦場跡は、寿永4年(1185)源氏と平家の最後の戦いとなった壇ノ浦合戦の跡。源義経像。平教経(のりつね)の攻撃を、船から船へ飛び移ってかわす源義経の「八艘飛び」の姿。平知盛像。「平家物語」には、もはやこれまでと悟った知盛は、浮かび上がらぬよう碇を担いで海に飛び込んだと。平知盛の「碇潜(いかりかづき)」。安徳帝御入水之処。「二位尼辞世今ぞ知る みもすそ川の 御ながれ 波の下にも みやこありとは 」壇ノ浦の合戦のクライマックス、二位尼に抱かれた安徳天皇(8歳)は壇ノ浦の海へ入水し平家は滅亡したのであった。二位尼とは平清盛の妻。重盛・宗盛・知盛・重衡・徳子の母。三后(天皇の配偶者や母・祖母等に与えられた太皇太后・皇太后・皇后の地位の総称)に准ぜられ、清盛没後、剃髪して二位の尼と称された。加藤伴平像。この碑は関門トンネルが開通した1ヵ月後に昭和天皇が関門国道建設事務所の初代所長の加藤伴平氏と歩いたときの記念碑。美しい曲線美の関門橋。御裳川公園は壇ノ浦古戦場跡であり、公園内にはその碑と、幕末に長州藩が外国船を砲撃した大砲のレプリカが置かれていた。長州藩の主力となった加農砲(カノン砲)は青銅製の大砲で、球形の弾丸を発射し、目標を打ち抜いて損害を与えるものであったが、連合艦隊の新しい大砲は距離.威力ともはるかに優れたものであった。この大砲は、幕末に数多くの大砲を鋳造(ちゅうぞう)していた長州藩の安尾家に伝わる20分の1の模型(下関市立長府博物館蔵)を参考に、原寸大に復元したレプリカ(FRP製)。砲身に刻まれた文字は、パリのアンヴァリド軍事博物館が所蔵している、これとほぼ同型の長州製青銅砲の砲身を模刻していると。文久3年(1863)5月から6月にかけて、長州藩は関門海峡を通る外国船を5回にわたって砲撃した(攘夷戦)。翌年8月、アメリカ、イギリス、フランス、オランダの四国連合艦隊17隻が報復のため下関にやって来た。海峡の最もせまい所に築かれたこの壇之浦砲台は、前田砲台と共に重要な役割を果たしたが、連合艦隊に大敗し、すべての砲台が占領・破壊された。外国の進んだ軍備にめざめた長州藩は、開国・倒幕(かいこく・とうばく)へと転換し、明治維新を実現する原動力とななった。攘夷戦長州砲レプリカ。天保15年(1844)、萩城下の郡司喜平治信安が鋳造し下関の台場に配置されていた長州の大砲。元治元年(1864)の四国連合艦隊襲来の際、戦利品としてフランスへ持ち去られ、パリのアンバリッド(軍事博物館)に保管されていた。日仏親善交流の一環として、昭和59年(1984)6月20日、120年ぶりに下関へ里帰りしたことを記念して、昭和60年(1985)に下関東ロータリークラブの手により原寸どおりのレプリカを制作、この地に設置する。実物は現在長府博物館に展示されているとのこと。「馬韓開港百年記念」碑。下関の古称は馬関(ばかん)であったと。松本清張の文学碑。『半生の記』の一節が刻まれていた。松本清張は幼少時、下関市に住んでいたらしい。弾痕のような穴からは穴からは関門海峡の対岸にある和布刈神社が望める仕組みになってるらしい。下関戦争の遺物というわけではないようであった。関門橋の門司方面。関門橋の下関側。妻のリクエストに応えて、関門橋を渡る事とする。妻が我がカメラで助手席から懸命にシャッターを押す。橋梁の前後区間を含む下関IC - 門司IC間の高速道路としての法定路線名は、関門自動車道(かんもんじどうしゃどう)となっており、正式には下関IC以東の中国自動車道でも、門司IC以南の九州自動車道でもないのだと。関門橋を渡り終えるとトンネルが。門司港ICで降り、門司港駅に立ち寄りたかったが、カーナビに門司駅と入力してしまい、時間がかかると思ってしまい諦めてUターンして再び関門橋を渡り下関に戻ったのであった。 ・・・つづく・・・
2018.04.08
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長府庭園と下関美術館 案内図。入場料金200円/人を払い入園。長府庭園 案内図。長府庭園は長府毛利藩の家老格であった西運長(にしゆきなが)の屋敷跡で小高い山を背にした約31,000平米の敷地には、池を中心に書院・茶屋・あずまやが残され、かつての静かなたたずまいが今日まで残されている。園内には蔵が点在しており、一の蔵では1階が下関の銘菓や小物を扱う売店、2階では市内で活躍されている作家さんの作品を展示即売。二の蔵は観光資料のコーナー、三の蔵は無料ギャラリー。一の蔵と二の蔵。雛飾り。他では見ることができない「幸ふく雛」であるとのこと。茶室。三の蔵。最奥の菖蒲田。係の人が菖蒲田の手入れを行っていた。小さな滝が。そして池への流が。流の中の石の上には椿の花が一つ静かに。紅葉時には美しいであろう池。毛利長府藩の家老格、西運長(にしゆきなが)の屋敷跡を整備した回遊式日本庭園。池には大きな鯉も。東屋。モミジに囲まれた東屋を振り返る。孫文蓮田。孫文蓮は中国の革命家、孫文(1866〜1925)が下関市長府の海運業、田中隆から支援を受けた返礼として中国の古代蓮の種を贈ったのが始まりとのこと。大きな書院。東屋の側には書院に向かう太鼓橋が。池から見た一の蔵と二の蔵。書院を別の方向から。書院には2階建ての建物も。ガラスには歪みも有り歴史が感じられた。巨大な芝生の庭。 ・・・つづく・・・
2018.04.07
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下関市歴史博物館を見学後は、長府の街並みを散策する。長府毛利藩5万石の城下町として栄え、明治維新の中心舞台となった街。毛利邸の斜め前右手に「昭和モダン館」。モダン館の前には昭和33年5月1日に発売された「スバル360」が。排気量はたったの360ccなのに、大人4人が乗れて悪路でも走れて、しかも庶民でも手の届く価格のクルマとして、日本のマイカー普及に大きな役割を果たしたのだ。フォルクスワーゲンの「ビートル(カブトムシ)」にあやかるように「てんとう虫」と呼ばれたのだ。懐かしき映画のポスター。市川歌右衛門主演の「旗本退屈男」と片岡千恵蔵主演の多羅尾伴内「七つの顔の男」。昭和の時代を彷彿とさせる駄菓子屋や薬局、郵便局、酒屋などの懐かしいほうろうの看板や小物、当時の商品や生活用品、玩具やフィギュア・・・。懐かしの時代の路地裏を再現した板塀など、昭和のノスタルジックな雰囲気を楽しめると。映画ポスターコレクションでは、映画の寅さんシリーズ全作のポスターもあり、圧巻と。しかし「しばらくの間 休館させていただきます。申し訳ありません。」の張り紙が。惣社町から古江小路一帯は、最も城下町の雰囲気を残す所。現在では「そうじゃまち」「そうしゃまち」と呼んでいるが戦前までは「しょうだ」となまって呼んでいたとのこと。両側を石垣と練塀(ねりべい・土塀)に囲まれた惣社町の小路。「菅家長屋門・練塀」古江小路にある菅家は、長府藩祖毛利秀元に京都から招かれ、侍医兼侍講職を務めた格式ある家柄。この長屋門は、代々藩中医家随一の名門にふさわしい構えを見せており、武家の屋敷構えとその趣を異にしている。また、長屋門を中心に左右に延びた石垣の上の練塀は、建物との調和をよく保っており、練塀が続く小路の家並みと共に、もっとも城下町らしい風情を残している。こちらは現在お住まいの家の門。長府中学校の校門。ここの正門外壁も城下町の風景を壊さないために練塀が使われていた。城下町長府案内図。龍馬の大親友 長府藩士:三吉慎蔵 生家跡。「長府城下町の小路の中でも代表的な通りで乃木家もこの地にあった」と刻まれた石碑。武家屋敷跡が公園になっていた。旧梶山家の間取りが不明であったため、長府に現存する武家屋敷や古文書を参考に平面的に表示したものだとのこと。立派な屋敷門を潜る。梶山家は、長府藩の馬廻。整備前は部材の大半が欠失してたので解体修理、欠失してる部分は長府に現存してる表門を参考に補充したものだと。見事な練塀(ねりべい、関東では土塀)が続いていた。ここは「横枕小路(よこまくらしょうじ)」。武家屋敷が建つ古江小路と並んで、歴史を感じさせる通りが横枕小路。乃木神社。旅順攻略し、明治天皇に殉死した乃木希典を祀った神社。境内には、乃木将軍が育った家が再現されいていた。乃木神社 拝殿。拝殿横の像。乃木希典・妻静子夫人の銅像。馬は壽(ス)号。こちら日露戦争時の旅順開城の際、敵将ステッセルから乃木将軍に贈られた馬。乃木将軍の生家が再現されていた。質素な生活が窺えたのであった。御朱印を頂きました。荒熊稲荷神社。文化・文政年間、長府藩11代藩主毛利元義公が江戸参勤交代の帰途、京都の伏見稲荷大社に詣でて御分霊を勧請し産業の繁栄を祈願した。嘉永元年に現在地に遷して社殿を再建、以来広く信仰をあつめ特に勝運・失せもの発見に霊験あらたかと伝えられていると。一ノ鳥居は平成2年に建てられた朱の鳥居。二ノ鳥居は天保12年に建てられた石造の鳥居。三ノ鳥居は大正2年に建てられた石造の鳥居。四ノ鳥居は享保21年に建てられた石造の鳥居。忌宮神社(いみのみやじんじゃ)。城下町長府の中心に位置し、古事記、日本書記にも記されている伝統ある神社。(延喜式内社)仲哀天皇とそのお后である神功皇后と応神天皇をお祀りし、文武の神(勝運の神)安産の神として歴代の朝廷や武家をはじめ多く庶民の信仰を受けて来たと。境内には放し飼いのニワトリ。チャボか?拝殿。「さかまつ」。神功皇后が新羅ご征討に際し、お手つから小松を逆さまに植えられ「我志を得ば、この松枯れずして生い茂りなむ」と神祇に誓われたと伝えられている。明治初年に火災に巻き込まれ後に枯死し、現在はその根幹が玉垣の内に保存されており、子孫の小さな松が松葉を茂らせていた。願掛けに力を発揮すると。鬼石。豊浦宮に攻め寄せた新羅の武将・塵輪を射倒しその首を埋めたとされる場所。塵輪の顔が鬼のようであった事から「鬼石」と呼ばれているのだと。八坂神社。蚕種渡来の地記念碑。蚕種とはカイコの卵のことで、今から約1,800年のむかし、仲哀天皇の御代に中国から渡来し、ここから日本の養蚕が始まったと伝えられる記念碑。再び長府城下町を散策し、駐車場に向かう。歴史を感じさせる練壁。長府毛利藩は天保年間に「達豊浦家中一統家作定書」を発令し、藩士の身分により家屋造作の制限を行った。特色は、門や長屋それに続く練塀と石垣、その内側の植裁など、街路に面した構えにあり、切り盛りした土地に石垣を築き、その上に粘土を練り混ぜた土塀を築く方法で、中塗りを施しただけのものが多く、漆喰で上塗りしたものはないと。練塀が続く家並みはもっとも城下町らしい雰囲気をかもしだしていた。市指定有形文化財。練壁に上塗りを施した壁と椿の赤い花。赤い線を散策し在りし日の城下町の雰囲気を楽しんだのであった。そして駐車場に戻り、次の長府庭園へ向かう。 ・・・つづく・・・
2018.04.06
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次に下関市歴史博物館を訪ねる。長府博物館を継承する博物館として、平成28年11月18日リニューアルオープン。長府毛利家の遺品や幕末維新期の資料を中心に収蔵・展示をしている。幕末の風雲児・高杉晋作の詩書や坂本龍馬愛用の飯碗と湯呑等も展示。坂本龍馬の手紙は収蔵数日本一を誇るのだと。入口を入って目を引くのは維新の志士たちを顕彰するモニュメント「時代(とき)を拓(ひら)く」。「時代を拓く人の心はつよくて優しい 新時代へのきびしい道を 愛の志を抱いて一步ふみ出す」。博物館の中庭「光の庭」に設置されていた。志士の群像はは、坂本龍馬と妻のお龍や、京都の寺田屋で龍馬の窮地を救った長府藩士・三吉慎蔵、龍馬とお龍をかくまった伊藤九三、長府集童場の創設者、熊野直介ら幕末の志士7人の像。ブロンズ製で高さ約2m、横約2・4m。反対側から。内部は、常設展示と企画展示に分かれていた。最初に、常設展示の方に入ってみた。撮影禁止と書かれている品以外はOKで常設展示はほとんど撮影可能であった。【古代~中世の下関】下関海峡に臨むこの地は、国内外のヒト、モノが盛んに行き交う要衝として重要視され、長門国府のほか、海陸交通の検察を目的とした長門関(下関)が置かれました。国司の管轄の下、軍団(豊浦団)により守護された長門関の廃絶以降も、赤間関の設置により、その地域的重要性は引き継がれました。さらに、古代から中世に時代が移るなかで、赤間関は武士たちの合戦の舞台として、あるいは東アジア社会のヒト、モノの交流の結節点として、その名を歴史に刻むことになるのです。源平合戦図屏風。壇ノ浦の合戦の教経入水の場面。平教経は、源氏方の安芸太郎・次郎兄弟を両脇に抱え、死出の道連れとして入水する。源平両者は激しい戦いを繰り広げたが,頼朝の弟である源義経の活躍もあり,源氏が勝利。平家は壇ノ浦で滅亡した。しかし、勝利の立て役者である義経は頼朝に謀反の疑いをかけられ、追われる身となってしまった。那須与一が扇の的を射落とす場面。赤間神宮(旧阿弥陀寺)の所蔵の「紙本金地着色安徳天皇絵」をもとに、壇ノ浦合戦を再現した模型。源義経の八艘飛び、安徳天皇と二位尼の入水、源氏方に引き上げられる建礼門院、安芸太郎、次郎を道連れにした平教経の最期等を立体的に再現していた。木造二十八部衆立像のうち、神母天像(じんもてんぞう・左)乾闥婆像(かんたつばぞう・右)。【中世~近世の下関】赤間関を領有して外国と通交した大内氏は16世紀の半ばに滅亡し、毛利氏の時代が到来した。この時期、石見銀山の開発によって大陸に日本産の銀が流入し、銀を求める人々が日本に来航したため、東アジア社会で活発な交易が行われていた。赤間関は毛利氏の直轄関となり、大陸から往来する人々との交易でさらに発展。また、支配者が移り変わる一方で、下関地域の住人は、政治・商業・軍事など様々な分野で活動を広げていった。毛利元就像。弘元の次男。庶子(しょし)であったが,兄興元,その子幸松丸の没後,1523年毛利氏家督を継ぐ。初め尼子晴久,のち大内義隆に属した。1529年,安芸石見(いわみ)黒人(こくじん)領主連合を率いていた高橋氏を滅ぼしその位置を継承,1541年安芸守護家の武田氏を滅亡させて広島湾に進出した。【近世の下関】関ヶ原の戦いの結果、毛利氏の領国は、中国地方八ヶ国から周防・長門の2ヶ国となった。そのうち現在の下関市域には萩藩・長府藩・清末藩の領地が存在し、それぞれが独自の藩政を展開した。また海峡は、海陸交通・流通の結節点として下関の人々を刺激し、商業・文化など多方面に繁栄をもたらした。毛利秀元画像 狩野探幽筆。長門長府藩の初代藩主。無三四岸柳仕合の図 歌川芳虎筆。北前船と赤間関。下関は、古くは赤間関(あかまがせき赤馬関)とも呼ばれ、これを略して馬関(ばかん)とも呼ばれた。古来より九州や中国大陸からの本州の玄関口として栄え、また山陽道(西国街道)と山陰道の起点であること、海路では近世に西廻り航路(北前船)の経由地であったことより、ここは、日本史における数々の重要な出来事に関係してきた都市でもある。長府毛利家所蔵の鉄錆地六十四間筋兜、紫糸威二枚胴具足。長門長府藩の藩主像。毛利元運(もうりもとゆき)画像。長門長府藩の第12代藩主。毛利元周(もうり もとちか)画像。長門長府藩の第13代藩主。【幕末維新の下関】幕末の下関は、諸藩士や諸国浪士、攘夷派の公家などが多数往来し、攘夷運動や倒幕運動の一大拠点となった。また、下関では光明寺党や奇兵隊の結成、高杉晋作の挙兵など大小様々な事件や事象が相次ぎ、海峡は、幕末維新期の日本に多大な影響を与えた下関戦争や幕長戦争(四境戦争)の舞台となった。高杉晋作と下関。高杉晋作は、天保10年(1839)、長州藩士高杉小忠太の長男として萩城下に生まれ、藩校明倫館に学ぶ一方、松下村塾で吉田松陰に入門したのを機に希代の革命戦略家として頭角をあらわした。文久2年(1862)には幕府貿易視察団に加わり清国上海に渡り、ヨーロッパの半殖民地と化した街を見て衝撃を受け、文久3年(1863)6月、下関を外国艦から防備するため奇兵隊を結成。奇兵隊は武士以外でも「志」があれば入隊を許した画期的な軍隊となりました。元治元年(1864)8月には、四国連合艦隊の下関砲撃事件の戦後処理にあたり、また同年12月には長府功山寺で挙兵し、藩論を倒幕に統一。さらに下関開港・薩長同盟締結を実現した。慶応2年(1866)には、小倉戦争で奇兵隊などを指揮し、長州再征軍との戦いに勝利をおさめたが、この時、持病の結核が悪化し、慶応3年(1867)4月14日、27歳の若さで亡くなった。下関は幕末英志たちの一大拠点。金比羅山堡塁砲台。下関要塞の一部として明治26年(1893)に完成。備砲は28cm榴弾砲が8門と側面防御用の12cmカノン砲4門。【近代の下関】近世、海港都市として栄えた下関は、明治時代を迎えて近代都市へと急速に変貌。産業構造の変化や海陸交通網の近代的な整備によって前代の下関経済を支えた問屋業が衰退する一方で、銀行や商社が勃興した。また、日本の大陸進出は、下関が再び対外貿易の拠点として重要視される契機となったが、下関の要塞都市化にも繋がった。西日本防衛の要明治時代、四面を海に囲まれた大日本帝国は外敵を防ぐため、全国に砲台を整備する必要に迫られていた。1886年(明治19年)には陸軍省が全国に砲台を建築する事を計画し、関門海峡でも1887年(明治20年)9月より、田の首砲台・田向山砲台を起工し要塞の建設が開始された。この時代の防衛は、敵が海岸付近まで攻めてきた所を船と協力して撃滅する、まさに「陸に砲台、海に船」といったものであった。そのため、陣地は関門海峡の沿岸に集中しており、多くの大砲が設置された。特別企画展示の「史跡が語る幕末の下関」ポスター。下関戦争(馬関戦争)についての映像が。下関戦争は、幕末に長州藩と、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの列強四国との間に起きた、文久3年(1863年)と同4年(1864年)の前後二回にわたる攘夷思想に基づく武力衝突事件。下関戦争(馬関戦争)のとき使われた大砲で長州砲らしい萩野流一貫目青銅砲。木砲(もくほう)。木砲は木をくり抜いて砲身を作り、周りに竹などを巻いて補強した大砲。焙烙玉や棒火矢を発射できた。性能は高くないが、金属が貴重な日本では多用され、大塩平八郎の乱や黒船来航時、日露戦争まで、使用された記録が数多く残っていると。明治時代の下関要塞の砲台、堡塁。下関名所を描いた浮世絵。大日本海陸名所図絵 赤間関。黒船来朝図。1854年(嘉永7年1月16日)、ペリーは琉球を経由して再び浦賀に来航した。幕府との取り決めで、1年間の猶予を与えるはずであったところを、あえて半年で決断を迫ったもので幕府は大いに焦ったのであった。日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)は、嘉永7年3月3日(1854年3月31日)に江戸幕府とアメリカ合衆国が締結した条約である。神奈川条約とも呼ぶ。日本側全権は林復斎(大学頭)、アメリカ側全権は東インド艦隊司令長官のマシュー・ペリーである。この条約によって日本は下田と箱館(現在の函館)を開港し、鎖国体制は終焉を迎えた。吉田松陰画像。下関戦争(馬関戦争)のとき使われた砲弾。占拠された前田低台場写真。 ・・・つづく・・・
2018.04.05
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長府毛利邸を後にし、右手に進み功山寺(こうざんじ)へ向かう。下関市の下水道マンホールには「福(ふく)」の絵が。そして「福(ふく)」の周りは下関の「し」を配し、併せてダイナミックな海の波を海の水泡もかわいくデザインして表現しているのであった。なんとも憎めない表情をした「福(ふく)」に一期一会。格子状に道がある長府の街並み。大化の改新後に長門国に国府が置かれ、「長府」と呼ばれるようになったと『日本書紀』にも記されている歴史ある街。平成25年度には「都市景観大賞」で大賞(国土交通大臣賞)も受賞した美しい街並み。功山寺の帰路に訪れた下関市歴史博物館の前を通る。右手に功山寺総門が。室町時代中期建立、禅宗様、四脚門、木造、瓦葺き、間口4.4m。掲額の“海右第一峰”右側の“不許葷酒入山門”の石牌に古刹感が漂う。ちなみに海右の右は山号の金山の金と共に西を意味し、西方第一の禅刹の呼称か。功山寺建物配置図。「高杉晋作回天義挙之所」と刻まれた石碑。元治元年(1864)12月15日夜、高杉晋作は死を覚悟し、四面の楚歌を排し長州藩俗論派打倒のために功山寺で決起した。伊藤俊輔(博文)率いる力士隊20名と浪士の遊撃隊60名、合わせて僅か80名の小人数であったが、挙兵は成功し藩論を「武備恭順・尊皇倒幕」にまとめた。明治維新の基をつくったと高く評価されているのがこの功山寺挙兵である。「功山寺挙兵」または「回天義挙」と呼ばれるこの決起により、.時代は維新に向けて大きく転換し、長府は「明治維新発祥の地」となったのだ。もし晋作の挙兵が遅れていたら、明治維新が遅れ、日本の近代化が遅れ、我が国も恐らく当時のアジア諸国と同様に、ロシアか英仏などの植民地になっていたであろうか。功山寺は嘉暦2年(1327年)、虚庵玄寂を開山として臨済宗の長福寺として創建された。開基は北条時仲と推定されている。なお、仏殿の建立は上記創建年より早い元応2年(1320年)。正慶2年(1333年)に後醍醐天皇の勅願寺となり、建武3年(1336年)には足利尊氏から寺領が寄進されるなど、朝野の尊崇を得て栄えた。室町時代には大内氏の庇護を得、文明8年(1476年)には大内政弘によって復興された。弘治3年(1557年)、周防大内氏最後の当主大内義長が境内で自害した後、寺は一時衰退する。慶長7年(1602年)、長府藩主毛利秀元が金岡用兼を招聘し、曹洞宗の笑山寺として再興した。慶安3年(1650年)、秀元の没後、功山寺に改名された。参道脇にある地蔵堂。地蔵堂に納まっている木造地蔵菩薩半伽像の説明。階段上に大きな山門が見えて来た。山門は1773(安永2)年に建立され、形式は三間三戸二重門、屋根は入母屋造で本瓦ぶき。幕末の志士、高杉晋作が挙兵した功山寺の象徴的な存在。山門は、二重櫓造りで、長府藩主10代毛利匡芳の命を受けて建立された。入母屋造り、本瓦葺の屋根は美しい反りを見せ、三門三戸二重門の様式。市指定の重要文化財の山門の説明。国宝の仏殿。柱の墨書により元応2年(1320年)の建立と判明したと。入母屋造、檜皮葺き。一重裳階(もこし)付き。方三間の身舎の周囲に裳階をめぐらした形になる。堂内には本尊千手観音坐像を安置する。典型的な禅宗様仏殿で、鎌倉時代にさかのぼり、建立年代の明らかなものとして貴重である。仏殿説明。桁行・梁間とも三間、一重入母屋の屋根に裳階(もこし)がついた桧皮(ひわだ)葺の二重屋根の建物。「鎌倉時代末期の唐様(禅宗様)建築様式の典型的な建造物です。床は四半瓦敷、礎石と柱の間に木製の礎板を入れ柱は上下部分が細く粽型になっています。見事な曲線を見せる桧皮葺、入母屋造りの屋根を支えている化粧垂木は天井中央より放射状に配置され、扇垂木とも呼ばれています。また、二重屋根の内部の組み上がりの高さが異なった箇所を補うために海老虹梁(梁と同意)が用いられています。さらに前面両角には釣鐘型の特徴をもった花頭窓を有するなど、わが国最古の禅寺様式がよく残されており、鎌倉の円覚寺舎利殿同様、寺院建築史上、貴重な建造物です。この仏殿は、内陣柱上部に「此堂元應二年卯月五日柱立」の墨書があることから、西暦1320年に建てられたものとみられています。功山寺はもと臨済宗・長福寺と呼ばれていましたが、毛利秀元により曹洞宗・笑山寺と改称、さらに慶安3年(1650年)秀元の没後、戒名(功山玄誉大居士)をもって功山寺と改称しています」建築年代のはっきりしている禅宗様建築では、この仏殿が日本最古のもの。この仏殿は、毛利元就に追われた大内義長が自刃したところ。仏殿内部。法堂。境内からの仏殿と法堂。境内の桜は未だ硬い蕾であった。輪蔵。輪蔵の説明。「山寺境内に建つ土蔵造りのこの建物は輪蔵(経蔵)と呼ばれ、5.45m(三間)四方、面積29.7平方m。屋根は宝型造りで桟瓦葺きで、中央尖部互の露盤には、蓮弁様縁取枠内に一文字三つ星の毛利家紋が浮き彫りされている。また、入口の向拝(幅一間)は軒下位置に切妻照り破風で正面向きに取り付けてある。輪蔵内部は、中央に八角形の回転式経庫を備えており、経庫には奥書のある一切経の経本が納められ、経庫を一回転させれば一切経の全部を読誦したのと同じ功徳があるといわれている。このような「輪蔵」は、中国に始まる禅宗寺特有の形式であるが当寺の輪蔵は、寛政十一年(1799年)に長府藩第十一代藩主毛利元義公が藩祖秀元公百五十回忌の供養として建立、経本1600冊を納めて寄進したもの。本市におけるその希少性と、長府藩にかかわる郷土史的意義から貴重な遺産として市文化財に指定されている。」と。高杉晋作回天義挙銅像。台座には晋作を尊敬していた 岸信介の書で「高杉晋作回天義挙像」と記されていた。説明碑には「嘉永六年(1853年)米艦四隻浦賀に来航して徳川三百年鎖国の夢破れ、国論は支離滅裂我長州藩もまたその帰結を知りません。国外では欧米諸国が競って全アジアを制圧し最後の塁である我国に迫って来つつあります。時は元治元年(1864年)12月15日夜半高杉先生は遂に意を決して四面の楚歌を排し、この地この処に義挙の一鞭を奮い藩内の俗論派を倒して藩論を尊皇倒幕に統一し薩・長・土の盟約を結び 第二征長幕軍を長州藩の四境に迎え討って皆これを敗退させ 遂に内は王権を復古して明朗闊達な大和民族本然の姿に返し外は四海を圧する明治維新(1868年)の基を作られました。明治維新発祥の地、ここ功山寺境内に、この度回天義挙像の建設成り、高杉先生当時の姿そのままに只今眼前にあります。この誇りを我等永久に語り伝え、言い伝えて、子々孫々教育の糧に致さんと切に願うものであります」と。鐘楼。納経所。御朱印を頂きました。「大悲殿」とは聖観音や千手観音や如意輪観音などの観音菩薩が安置されている建物のこと。この寺の御本尊は「千手観音坐像」。法堂前の庭の一角に古い井戸があった。1ヶ月もすれば「しだれ桜」の花姿を映したりする風情を楽しめるのであろう。以下は、井戸の説明板から引用。「武運つたなく動乱の中 滅亡した大内義長が末期の安堵を得た水。幕末に功山寺に潜居中の五卿や従者、回天義挙の兵を挙げた高杉晋作はじめ諸隊士もこの名水を愛飲して挙兵の成功を祈ったのである。今この名水は絶えることなく歴史の証人として、また生命の水として、参拝に訪れる多くの人々に飲まれている。」と功山寺名水由来が記されていた。また、この井戸の脇には「洗心功徳水」と認められる石碑が。仏殿と法堂の間を進むと正面には毛利家廟所。功山寺は長府毛利家の菩提寺。長府功山寺の仏殿裏手に、初代長府藩主である毛利秀元を始め、9人の藩主達の墓が。毛利秀元は元就の孫で、秀吉の朝鮮出兵において武将として高く評価され、関が原の戦い後、毛利氏の削封に際して長府藩を創設、城下町としての基礎を築いたのだ。ここには、この秀元ほか、5代 元矩、9代 匡満、10代 匡芳、11代 元義、12代 元運、14代 元敏、15代 元雄、16代 元匡と、その正室や側室などが葬られているのだと。墓地のある斜面に上がり毛利家廟所を撮影。山門を境内側から。桜が咲けば見事な光景を楽しめるのであろう。功山寺に隣接してあるのが下関市立長府博物館。こちらの桜もまだまだ堅い蕾。地元出身の桂弥一が京都の尊攘堂にならって建てたもの。鉄筋コンクリート造,石貼りの躯体に和風屋根をのせた姿には時代の特徴がよくあらわれている。屋根を2重にする外観全体の構成は国宝功山寺仏殿と似る。高杉晋作や坂本龍馬のほか、久坂玄瑞、山県有朋ら幕末の志士の書状や愛用品などを所蔵し、幕末から明治維新の下関についての展示を充実させていると。和同開珎遺物をはじめ、旧毛利家遺品・長州藩に関する幕末の人物の貴重な資料・乃木希典に関する資料があるとのこと。下関市立長府博物館を正面から。萬骨塔。明治維新を中心とした国事に命を捧げた名も無き人々の霊を供養するため、桂弥一(かつらやいち)が建てたもの。 塚には「一将功成って万骨枯る」の碑と全国から寄せられた石が供えられているのだと。そして功山寺の見学を終え、山門を潜り総門に向かって階段を下る。 ・・・つづく・・・
2018.04.04
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3月20日~22日に2泊3日で久しぶりに妻と下関・萩に旅をして来ました。早朝、自宅を出発し電車で羽田空港に向かい、ここから山口宇部空港へ。定刻に山口宇部空港に到着。多くの団体ツアー客が乗り込んでいました。山口宇部空港から、レンタカーで最初の訪問地の長府毛利邸に向かう。明治36年(1903)長府毛利家第14代藩主毛利元敏(もととし)によって建てられた邸宅。明治天皇の行在所(あんざいしょ)としても使われ、現在もその部屋が残されていた。また、邸内の池泉回遊式庭園は石灯篭、楓、池など絶妙な配置により、安らぎの空間を演出。紅葉の名所でもあると。小雨の中、白塀の先にある屋敷表門に向かう。総ケヤキ造りの表門。邸内案内図。毛利秀元(もうり ひでもと)公像。毛利秀元は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。長門長府藩の初代藩主。毛利元就の四男である穂井田元清の次男として天正(てんしょう)7年に備中(びっちゅう)(岡山県)猿掛城で誕生。母は村上通康の娘・妙寿院。正室は豊臣秀長の娘・大善院、継室に徳川家康の養女(松平康元の娘)・浄明院。子に光弘、元知など。一時期、従兄の毛利輝元の養嗣子となっていた。朝鮮出兵に毛利輝元の名代として出陣。のち輝元に実子秀就(ひでなり)が生まれたため分家。関ヶ原の戦いの後、宗家より3万6000石を分与されて長門(ながと)(山口県)府中藩主毛利家初代となる。古田織部門の茶人としても著名。慶安3年閏(1650年うるう)10月3日死去。72歳。更に邸内に向かう。長府毛利邸正面。玄関入り口左には入場料200円表示と邸内の四季折々の写真がポスターで。当時来客用として使われていた玄関。襖絵は幕末・明治初期の日本画家である川端玉章によって描かれたと。築113年経っても、色あせることなく美しく保存されていた。「丹頂鶴と青竹図」。裏側には「白い鷹図と松図」。武家屋敷造りの邸宅。書院造の床の間のある部屋。掛け軸には毛利秀元公の歌「降し雨も今日を晴とや我君を待ち得し山の甲斐はありけり」。庭園。明治天皇 御宿泊の間。完成間近の明治35年(1902)には、明治天皇が、熊本で行われた陸軍大演習をご視察の際、当邸を行在所(あんざいしょ)として使用され、一部の部屋は当時のまま残されていて、往時を偲ばせてくれました。また、津軽家に嫁がれ、常陸宮華子妃殿下の御生母となられた久子様(元敏公のお孫さんにあたる)も、この御屋敷で幼少時代を過ごされているのだと。ガラスには歪みが有り歴史を感じさせてくれた。雨に濡れた庭園は風情あり。ミツバツツジのピンクも美しかった。吊し雛と七段飾りの雛人形。長府おさげものひなまつり。子どもの成長を願い作られたつるし飾り。7段飾り。着物衣装の無料着付け体験が出来る部屋。床の間には、咲き始めた雪柳の花が。廻遊式庭園の池。庭園からの邸宅。湧き水による細き流れが池に向かって。四季折々の表情を魅せる純和風の庭園。大きな石灯籠とミツバツツジ。松も見事な姿に。毛利家展示室。毛利秀元画像。「長府毛利家の家紋は「一文字三星」と「抱沢瀉(だきおもだか)」を定紋とし、他に替紋として「菫(すみれ)」・「五七桐」・「十六菊」を用いました。このうち「桐」と「菊」は天正18年(1590)藩祖秀元が元服の際、後陽成天皇から紋章の使用を許されたものです。紋の使用法については細かく文書で規定されており、一般の家庭のように表紋と裏紋等の区別はなかったようです。長府藩のような支藩では萩の本藩と区別するため同じ家紋でも微妙に形を変えたものを使用しています。有名な「一文字三星」紋を例にとりますと以下に示すようになります。一文字の「一」の字の書体が萩藩では普通の筆文字ですが長府藩では四角形、徳山藩では舟形、清末藩では最後の筆抑えがない文字となります。このうち萩藩と清末藩の違いが分かりにくく混同されているのを見かけます。」と。毛利藩 藩領配置図。毛利家 家系図。毛利元就といえば、毛利隆元、吉川元春、小早川隆景の3人の息子に以下のような教訓を残したことで有名。「1本の矢ならば折れる。2本の矢でも折れる。しかし、3本の矢ならば折れない。兄弟3人が力を合わせれば、家が滅びることはない」これは、実は架空の話。まず、毛利隆元は父の毛利元就より先に死んでしまった。その後を毛利隆元の息子の毛利輝元が継ぎ、吉川元春と小早川隆景が補佐を務め、毛利家を守って行く。しかし、皮肉にも「3本の矢」の逆が起こった。関ヶ原の戦いの時、吉川家と小早川家の足並みがそろわず、毛利家は東軍の徳川家康に協力したにもかかわらず、広大な領地を減らされ、周防国と長門国の2カ国を支配するだけなってしまったのだ。緋寒桜の生け花。中庭の風景。見学を終え邸外に。 ・・・つづく・・・
2018.04.03
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先週は四国八十八箇所巡りに行き、満開の四国の桜を楽しみながら無事に結願し、更に高野山へのお礼参りに立ち寄りその後、奈良・長谷寺の桜の絶景を楽しんで帰宅したのでした。そして昨日は、ホームセンターに種蒔き用土を購入しに行った帰路に、地元引地川沿いの堤防の桜並木に立ち寄って来ました。 折しも風が強く花吹雪が舞い散り始めていました。やはり桜には青空。両親が子供達の姿をカメラに。これぞ満開。水面には花片が。堤防沿いの手摺りには桜の花片が切り込まれていた。緩やかにカーブする引地川。川の反対側には白いオオシマザクラが。ソメイヨシノ(染井吉野)は、エドヒガン系の桜と日本固有種のオオシマザクラの雑種の交配で生まれた日本産の園芸品種のサクラ。川面の淀み部分には花片が。 太い幹に可憐な花が。民家の生け垣には紅カナメモチの赤い新葉が。道路の脇にもピンクの花片が。心豊かになる日本の風景。引地川沿いの公園には椿の木々が並んでいた。八重の椿。赤い花を落として。花吹雪が。道路にも。川面にも花筏(ハナイカダ)の準備が。 堤防の中間部の水平部部にも雪の如くに。黄色の花も負けじと。最近、切り倒されたソメイヨシノの古木の姿が。「サクラの伐採について」の説明板。最近「サクラの名所地がなくなる・・・」などという報道を耳にします。ソメイヨシノの寿命が60年なので、第2次世界大戦の終戦後間もなく植えられたものが寿命を迎え、衰弱して枯れてしまうというのがその根拠になっているのです。実は昭和47年頃に「堤防に木を植えると、根が張って穴が開き堤防が決壊する恐れがある」ということから、河川法によって堤防への新たな植樹は原則禁止されているのです。カーブミラーにも。そしてスタート地点の橋に戻り。更に、地元の大学の校庭内にも立ち寄る。ここにも、倒木の可能性がある古木が切り倒された跡が。 競技場の周囲に桜並木が。小、中、高の一貫教育の学び舎の正門の桜。競技場と小田急線線路沿いのソメイヨシノ。校庭内の桜並木は花吹雪が激しく。競技場に学生の姿はなかった。この日は日曜日。競技場トラックの100mのスタート地点から。観客席の裏側にも。桜並木には下校する女子学生の姿も。桜の花びらに座る赤い椿の花。子供達も花片と戯れて。ここにも古木の幹に咲く美しい花片が。校庭内には枝垂れ桜が。帰路の踏切を渡りながら。そして自宅近くの民家の庭にも真っ赤な花が。四国4県、和歌山、奈良そして地元の桜を連日愛でているのです。そもそも、日本人はなぜこんなに桜が好きなのであろうか?仏教には『無常感』というものがあるのです。変わらないものはなにもない、移り変わるものだ、という意味ですが、そんな日本人の感性に桜という花はぴったりなのです。気持ちが寄り添いやすい木だと日本人は考えるのでしょう。はっきりとした四季があり、自然のめぐりを見てきた日本人。たった一週間ほどで散ってしまう桜の、儚さや美しさに日本人は惹かれるのです。
2018.04.02
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昨年の晩秋に植え付けし、防寒、風よけ用にネットトンネルを掛け育てて来たスナップエンドウのネットトンネルを撤去しました。今年の冬は寒さが厳しく、苗の冬越しが心配でしたが、何とか被害も思いの外少なく越冬してくれました。丈の高いものは、もう30cmくらいになっており、「ツルを伸ばしたいので、早く網を張ってくれ!」とスナックエンドウが叫んでいるようでした。支柱を立て、網掛けを行いました。 ネットにスナップエンドウの巻きひげを巻きつけながら成長と共に登っていきますので、あとはスナップエンドウ任せで良いのです。スナップエンドウの収穫時期は、莢の中の実が膨らみ始めたころになります。開花してから28日から30日とも言われています。しかい、無数にある実を何日が経ったか把握するのは無理ですので、莢の中の実が膨らんで太っているものを収穫するのです。そして併せて、葉モグリバエ対策として黄色の両面粘着剤付きの害虫捕獲粘着紙をぶら下げました。害虫捕獲粘着紙「ビタット トルシー」。これもネットで昨年購入した物。ハモグリバエは文字通り葉の中を潜るハエ。絵かき虫とも言われ、幼虫が葉の中を潜って食害しながら進むことで葉に白い筋がつくのです。 まずは体長2mm程の小さなハエ(コバエみたいなの)が葉に卵を生みます。卵からかえった幼虫は葉の中を食べながら進みさなぎになります。さなぎは葉からポロリと落ちてその後また成虫になります。春から秋にかけてこれが繰り返されるのです。梱包用の紐で網に固定しました。シートをぶら下げた直後からこの葉モグリバエは捕獲されたのです。何故かマメハモグリバエはこの黄色に誘引されるので、この黄色い粘着テープをぶら下げておくと被害を減らすことが出来るのです。スナップエンドウは鞘が柔らかく、さやと豆の両方を食べることが出来、鞘は肉厚で甘みが強いのです。さっと塩茹ですると鮮やかな緑と甘みが楽しめ、ビールのつまみに最高。また、天ぷらにするとサクサクとした食感も楽しめるのです。
2018.04.01
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