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今日は2019年の大晦日、今年1年を振り帰ってみたいと。読売新聞の2019年十大ニュースは下記のごとし。写真はネットから転載させていただきました。【1位】天皇陛下が即位。『令和』に改元『令和』はとてもいい文字だと。音も字の姿も美しい。そして書きやすい文字。字の下手な私ですが、バランスもとりやすいと。ただし下の官房長官会見の映像を見た瞬間には、伝統的な『手書き』の書き方から考えると、多少の違和感はあった。『令』は下が『マ』の字とは違う文字なの?と。新しい元号は『令和』は万葉集にある「初春の令月(れいげつ)にして 気淑く(きよく)風和>ぎ(かぜやわらぎ)梅は鏡前(きょうぜん)の粉を披き(ひらき)蘭(らん)は珮後(はいご)の香(こう)を薫す(かおらす)」との文言から引用したものであった。この『令和』には、人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ、という意味が込められているのであった。5月1日に皇太子殿下が新天皇に御即位され、その日以降、この新しい元号が用いられることとなったのであった。【2位】ラグビーW杯日本大会開幕、日本8強日本中が『にわかファン』に変身。私も「ルールが詳しくわからない」、「ほとんど選手を知らない」という『にわかファン』に。【3位】京都アニメーション放火、36人死亡犠牲者36人を出した京都市伏見区の京都アニメーション放火殺人事件は今年最大・最悪の事件か。アニメファンの国内外の多さ、海外からの多くのメッセージン内容に驚く。京都アニメーションの国内外への影響力に驚愕、そして犠牲者に合掌。【4位】消費税率10%スタートコーヒーやサンドウィッチを喫茶店で頼むと「外食」扱いとなり10%の消費税がかかる、テイクアウトで買うと8%の軽減税率が適用されややっこしい事を体感。ヨーロッパの国々の消費税は20%以上がほとんど。以前訪ねたベルギーは27%、クロアチアは25%であったが・・・。日本の消費税はどこまで上がっていくのか?【5位】東日本で台風大雨被害、死者相次ぐ長野市にある北陸新幹線の車両センターの新幹線水没の報道映像は衝撃的であった。北陸新幹線の製造費用は1両で3億円程度と。仮に10編成120両車両すべてが廃車となれば、被害額は車両だけで300億円を超えるとの報道であったがその後は?元技術屋の端くれとして、あの場所しか選択肢がなかったのか?決して『想定外』ではないと感じているのだが。【6位】ノーベル化学賞に吉野彰氏リチウムイオン電池を開発した旭化成名誉フェローで、小型軽量で高性能のためスマホやノートパソコンなどモバイル機器の普及に貢献。また再生可能エネルギーの出力変動を補うため風力や太陽光発電の拡大にも役立つなど、その用途は多岐にわたる。元化学屋として嬉しい限り。ご自宅が私と同じ藤沢市の大庭にお住まいとのことで更にビックリ。そしてもちろん『藤沢市名誉市民』に。【7位】沖縄・首里城が焼失10月31日未明に発生した首里城火災は正殿など主要7棟を焼失。沖縄戦で破壊され、沖縄の復興とともに復元の道を歩んだ首里城。沖縄の象徴、アイデンティティー、誇り、遺産、観光資源…とさまざまな表情を見せてきた首里城。我が娘の義母もこの首里城近くで育ち、この城が遊び場であったのだ。強い悲しみとショックを受けられたのであったが。海外からも「驚きを禁じ得ない」「人類の損失」などの反応が相次ぎ、寄付金・支援金も15億円を超えそうだと。早期再建を祈るのみ。【8位】ゴルフ・渋野日向子が全英女子優勝海外メジャー「全英AIG女子オープン」優勝今年世界のゴルフ界に衝撃を与えたと言ってもいいのが、やはりこのトピック。昨年プロテストに合格したルーキーが一躍その名を轟かせたのだ。当初まったくの“無名選手”だった渋野だが、大会が進むにつれ海外のファンやメディアも、その笑顔や天真爛漫な振る舞いのとりこに。“スマイリング・シンデレラ”という言葉が、世界中に配信された。さらに日本では空前の“シブコ・ブーム”が到来。女子ツアーの会場に多くのファンがつめかけるなど、社会現象になったのであった。【9位】マリナーズ・イチローが引退表明日米通算4367安打を放ち、数々の金字塔を打ち立てた米大リーグ、マリナーズのイチロー外野手(45)=本名鈴木一朗=が2019年3月21日、東京ドームでのアスレチックス戦終了後、現役引退を表明。イチローの言葉★「壁というのは、できる人にしかやってこない。超えられる可能性がある人にしか やってこない。だから、壁がある時はチャンスだと思っている。」★引退会見で発した一言 「後悔など、あろうはずがありません」は、私の心の中にいつまでもと。【10位】徴用工問題で日韓関係悪化徴用工問題が日本の過去清算に対する異議表明であると同時に、元軍人・軍属や徴用工など、「慰安婦以外の問題」に真摯に取り組まない韓国政府や運動団体への不満表明であろう。韓国政府は、各種運動団体などを統制して日本へ挑戦状をたたきつけるという状態にはなく、むしろこの反発を抑え込み、落としどころをどこに見出すかに苦労しているのが現実の姿では。問題は彼らが政府を中心にまとまっていることではなく、むしろ、韓国政府がこの問題における当事者能力を喪失していることにある。左右のさまざまな団体の活動や、裁判所の判決に一喜一憂せざるをえない「弱い韓国政府」の存在こそが問題の核心なのではと。金銭的にではなく、被害者のご遺族を精神的に和らげることが必要なのではとも。甘いかも知れないが、やれることからやって誠意を見せれば、韓国は独自で補償の措置を考えるのでは??。そして番外にはなっているが、「東京・池袋で高齢ドライバーが暴走事故、母子死亡」 は忘れられないのである。暴走した88歳「上級国民」の特権についてテレビのワイドショーで「かまびすしい」ほどまでに取り上げられたのであった。事故発生直後においてはメディアの報道でも、「I元職員」や「I院長」といった、本人の名誉を守るかのような耳慣れない呼称が使われたのであった。一瞬の過失により、地位も名誉、名声も崩れ落ちたのであった。ネットには「I氏にやがて下される判決には執行猶予がつくのか、実刑か? そもそも、現在88歳の彼が存命のうちに書類送検がなされて公判が開かれ、判決が確定される可能性はどれほどあるのか?その結果次第で、未来ある母子2人の生命を奪ったI容疑者は、叙勲者としての輝かしい名誉を保ったまま人生を終えることが可能となる。」の文字も。そして我が妻は、私にもそろそろ「運転免許の自主返納」をと。しかし雨の翌朝には、「職場まで載せて行って」とも。個人的には・台風を原因とした自然災害の多かった年・新天皇の即位、新元号「令和」への改元・消費税の増税・法令遵守の重要性(芸能界における闇営業問題、薬物事件、脱税問題など そして最後に国会議員の収賄罪逮捕)・頻発した高齢者に拠る悲惨な交通事故、あおり運転 ・2020年東京オリンピックのマラソンと競歩の開催場所変更 ・スポーツ選手の活躍、引退 ラグビー、卓球、バトミントン、ゴルフ、フィギアスケート、バスケットボール そしてイチローの引退等々が直ぐに思い出すのである。そして我が家の重大?ニュースは。①夫婦元気で越年へ 今年の私は自宅で風や発熱で寝込むこともなく1年健康で今日の日を迎えられた事に感謝。 そして来年は『古希』を迎えるのである。 妻は今年もパートの仕事を皆勤、週末の趣味も横浜に張り切って。 独立している子供たち家族も元気に越年、来年も1月2日の箱根駅伝の朝に長女家族は 我が家に駆けつけ、我々と一緒に沿道応援に向かう予定なのである。②海外旅行は3回、旅友Sさんと格安ツアーに参加1)ポルトガル 2019.2.8~2.15👈リンク2)中国東北部・旧満州 2019.6.19~6.26👈リンク3)ブルガリア・ルーマニア 2019.10.24~10.31👈リンクそして来年も2月中旬に下記ツアーを申し込んでいるのである。③そして2018.2.15に日本橋をスタートした『旧東海道53次を歩く』も今年は正月4日に箱根をこの日は単独で下ることから始まったのであった。1)2019.1.4 箱根宿・箱根関所~三島宿・三嶋大社👈リンク箱根関所跡をスタート そしてその後も下記の行程で旅友Sさんとの弥次喜多道中で歩き続けたのであった。2) 2019.1.16 三島宿~原宿👈リンク3) 2019.1.28 原宿~富士宿4) 2019.3.8 富士宿~興津宿5) 2019.3.15 興津宿~安倍川宿6) 2019.3.20 安倍川宿~藤枝宿7) 2019.3.27 藤枝宿~金谷宿8) 2019.4.3 金谷宿~掛川宿9) 2019.4.9 掛川~磐田(見附)宿10)2019.5.22~5.24 磐田(見附)宿~新居宿11)2019.9.24~9.26 新居宿~御油宿12)2019.10.14~10.16 御油宿~豊明駅(ブログUP中)13)2019.11.23~10.24 豊明駅~四日市宿 (ブログUPは後日)そして四日市宿・諏訪神社で今年の締めのお参り。④趣味の『養蜂』も頑張って。⑤野菜つくり⑥我がブログ2018年4月6日からスタートしたこの楽天ブログも早いもので11年以上も経過しました。延日数は11ヶ年8ヶ月26日➡4287日、そして投稿件数はブログのカウンターによると4326件とのこと。これは1日に2件の投稿もあったからだろう。そして去る10月14日(火)早朝に、我がブログアクセス数も300万回を超えました。皆様の日々のアクセスに感謝申し上げます。200万回通過時から延べ450日になります。そして今日・大晦日2019.12.31の12:30のカウンターは『3176481』を示していた。これからも毎日の出来事を『つれづれなるままに、日くらしパソコンにむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ』 の精神で、あくまでも「備忘録」を主眼として、「継続は力なり」の精神でこのブログを「毎日」書き続けて行きたいと思っています。文章の表現力も乏しく、誤変換や、内容を理解しにくい表現箇所も多々あると思いますが、我が儘にもあまり「読んで頂く」事を意識せず、あくまでも『自分を表現するツール』そして「備忘録」として日々のブログを書き続けて行きたいと思っているのです。そして我が家の正月飾りの準備も昨日に完了しました。門松は12月28日までに飾るか、12月30日に飾るのが良いとされています。その理由は、 29日に飾るのは語呂合わせで「29(二重苦)」に通じ縁起があまりよくないとされているからです。また、12月31日に飾るのは「一日飾り」といい、一日前にぎりぎりで飾ると、神聖な気持ちでゆっくりとお正月を迎えられないので、その日には飾らないことにするのだと半世紀以上前に亡き父より。門の松飾り・輪飾り。特に松を使うのは、神を“待つ”と“松”の語呂合わせによるもの。小さなリース状のわっかに、藁の足がついているような簡易的なしめ縄飾り。ウラジロとユズリハ、紙垂(しで)が付いて。玄関のしめ飾り。立体的な大きめの水引の鶴に扇、松、鶴、南天、紅白の繭玉等の飾りもついて。鏡餅は購入。組み立てました。『ダイダイ(橙)』のセットを神棚と床の間に。飾りには、『ウラジロ(シダ)』、『ユズリハ』を。「代々」栄えるという意味がこめられていると。更に実ったダイダイの果実は冬を越しても落ちることなく、場合によっては2から3年にわたって枝についたままの状態となることがあるのだと。春になるとダイダイ色に熟したように見えた果実が再び緑色になり、若返るようにみえることからこれもまた縁起の良いことと。『ウラジロ(シダ)』はその名のとおり葉の裏が白く「後ろ暗いことがないように」ということや白から「長寿」を連想させることなどから縁起がよいと『ユズリハ』は、ユズリハ科に属する雌雄異株(しゆういかぶ)の常緑高木(じょうりょくこうぼく)です。春になり枝先に若葉が伸びてくると、前年の葉が若葉に後を譲るように落葉し、落ちた葉が肥料になります。このことが親が子を育て、家が代々続いていくことを連想させるため、縁起の良いものと。神棚。牛蒡注連も新たに購入しました。撮影の後に、再び『年末ジャンボ宝くじ』を神棚にソッと戻しました。本日の我がブログへのアクセスありがとうございます。アクセスいただいた皆様も良き新年をお迎えください。ありがとうございます。来年も我がブログをご笑覧いただきたくよろしくお願い申し上げます。
2019.12.31
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次本来の旧東海道は名鉄名古屋本線側にあったのだが、短い距離であったので並行して走る国道一号線を歩く。国道1号線沿いにコスモス畑が拡がっていた。『舞木町東』交差点手前を左に入った場所にあったのが『順念寺』の『山門』。扁額は山号の『法隆山』。『鐘楼』『鐘楼』の横に本堂の先代の『鬼瓦』。『本堂』。『真宗大谷派 法隆山 順念寺』。愛知県岡崎市舞木町字阿形37-2にあり名鉄名古屋本線 名電山中駅から0.6kmの場所にある寺。住職の女性が赤い高級車で到着し降りて来た。そして更に国道1号線を歩くと、左手前方の田んぼの先に朱の鳥居が見えて来た。そしてその参道手前には巨大な常夜灯が。国道1号線の『毎木町西』交差点を左折。実はここで旧東海道が国道1号線に合流していたのだ。『御開運御身隠山』と刻まれた石碑。大常夜灯に向かって田んぼの中の道を歩く。天保四年(1833年)建立の『大常夜灯』。『山中八幡宮』の朱の鳥居。文武天皇三年(699)この地の長(おさ)山中光重が、九州宇佐八幡宮のお告げを受け、山の嶺にかかった祥雲から舞い下がった榊にこもった神霊を祀ったのが始まりと伝わる。右手の『山中八幡宮』社号標には大正12年とありました。『山中八幡宮』。「家康の家臣菅沼定顕が、上宮寺から糧米を強制徴収したことに端を発した三河一向一揆で、門徒に追われた家康が身を隠し、難を避けたという鳩ヶ窟があります。一揆方の追手が家康のひそんでいる洞窟を探そうとすると、中から二羽の鳩が飛び立ちました。「人のいる所に鳩がいるはずはない」と追手は立ち去ったといいます。例年正月三日には、五穀豊穣を祈る御田植神事「デンデンガッサリ」が催されます。」デンデンガッサリの名で当宮に古くから伝わるのは、いわゆる「御田植神事」である。古来旧暦正月三日の夜行われていたが、昭和初期から新暦正月三日の午後に行われるようになった。神事は、前歌・後歌・科白・所作に分かれ、稲の豊作を祈願する。最後に餅投げが行われ、この餅を食べれば夏病にかからないと言われていると。石橋を渡り『山中八幡宮』境内へと。橋の名は『御神橋』。『山中八幡宮』のクスノキ。主幹が二股の巨大なクスノキがご神木。『岡崎市指定文化財 山中八幡宮のクスノキ』。「胸高囲6.6m、根囲10.8mの巨樹である。樹勢旺盛、樹形も整い樹高21mと壮大な姿を見せるクスノキとしては、市内第二の大きさを誇るばかりか、県下でも稀有な存在である。国道1号線や名鉄電車内からも望見できる巨樹として、本市の東部をシンボライズする名木である。」『愛知県山中八幡宮自然環境保全地域』案内板。「山中八幡宮は、岡崎市の南東部の舞木町に位置し、標高106mほどの小さな丘を中心とした社叢5.5haを自然環境保全地域に指定しています。植生●ツブラジイの常緑広葉樹林の社叢としては、県内では規模が大きく、その構成種の中には、県の絶滅危惧種であるルリミノキやオオフユイチゴの群落があります。野生動物●昆虫では、県の準絶滅危惧種であるオオゴキブリが生息しています。また、本社叢は、「ヒメハルゼミの生息地」として岡崎市の天然記念物に指定されています。」石段を上り本殿下の苔むした境内へ。更に階段を上る。正面にあったのが『塵取門』。右手に『手水舎』と奥に『拝殿』が姿を現す。途中にあったのが『百度石』と刻まれた石柱。社寺の境内で、百度参りの往復の標識として立てられている石。『拝殿』。当地に山中光重という人があり、朱鳥14年(699年)9月9日、宇佐八幡大神の夢のお告げで神霊を迎え、当地に社を建てたのがはじめといわれる。敷地内に「鳩ヶ窟」(はとがくつ)と呼ばれる洞窟があり、永禄6年(1563年)に起こった三河一向一揆の戦いで、徳川家康が敗れて逃げ隠れた洞窟といわれる。追手の兵がこの中を探そうとしたが、洞窟から白い鳩が2羽飛び立ったので、追手の兵は「人のいる所に鳩などいるわけない」といって通り過ぎ、家康は難をまぬがれたといわれる。その後、この洞窟を鳩ヶ窟といい、このことにより八幡宮の山を御身隠山(おみかくしのやま)と呼ぶようになった。慶長8年(1603年)8月26日の家康朱印状で180石を寄進された。寛永11年(1634年)8月23日に3代将軍徳川家光が上洛の際に参拝。『拝殿』に近づいて。祭神は応神天皇、比咩大神、息長足姫命。『拝殿』横から『徳川家康と山中八幡宮』の関係は以下と。■竹千代の誕生天文十一年(1542)十二月二十六日、竹千代の誕生に際して本多平八郎が山中八幡宮に竹千代の武運祈願のため来社、神主竹尾安信、岡崎城の竹の間に召出され、守札の献上、御盃を頂戴、竹千代の武運長久の祈願するように仰せ付けられる。■家康の初陣(十七才)弘治四年(1558)二月、松平元康は今川義元の命により、三河の寺部城主鈴木日向守を攻めるにあたり山中八幡宮に戦勝祈願に来社。永禄元年(1568)初陣の功により、家康に旧岡崎領のうち山中の三百貫を返された。■鳩ヶ窟に難を逃れる(二十二才)永禄六年(1563)の秋、三河一向一揆のとき、家康が一揆勢に追われて危機におちいった。逃げ惑い、八幡宮の森に入り、洞窟に身をかくす。一揆勢は洞窟を怪しんで調べようとした時、二羽の白鳩が穴より舞いあがったので、囲みをといて立ち去ったので、家康は危機をのがれる。慶長二年(1597)の春、家康は石川数正、酒井寿四郎に命じ、山中八幡宮の衡門を建て、社殿の造営をした。朱印の下附(六十二才)慶長八年(1603)八月、伏見城において家康は山中八幡宮神主竹尾正照に対して神領百五十石の朱印状をあたえた。■葵御紋寛永十一年(1634)家光上洛の節、山中八幡宮に参拝、東照宮合祀葵の紋の使用を許可される。『拝殿』奥の『本殿』。『本殿』をズームで。境内の竹の群生箇所。『御開運竹』「永禄6年(1563)一向一揆の折、徳川家康公 鳩ヶ窟において難を逃れ、神前に開運を祈り矢をこのところに挿し退化せり。この矢根芽を生じ生育せりと伝う この竹四時たけのこを生ず。」『雲居乃錦』と刻まれた石柱。拝殿本殿裏の小さな『境内社』の『神明社』。『愛知県山中八幡宮自然環境保全地域 特別地域』「この地域内では野生の動植物を採取することができません。また、現状変更行為(木竹の伐採、工作物の新改築、土地の開墾など)を行う場合は知事の許可が必要です」岡崎市指定文化財 天然記念物『山中八幡宮のヒメハルゼミ生息地』。暖地系の種であると『ヒメハルゼミ』👈リンク が生息しています。本種は「生きた化石Jといわれ、大古この地域が暖帯照業樹林で覆われていた頃から生き残っている種で、現在では当時の林相が残されている地域のみに生息する貴重な昆虫です。『奥宮神社』に向かって更に進む。ご本殿から5分ぐらいで到着。『奥宮』『奥宮神籬(ひもろぎ)』。神籬(ひもろぎ)とは、神道において神社や神棚以外の場所で祭祀を行う場合、臨時に神を迎えるための依り代となるもの。 そして帰路に『鳩ヶ窟』を訪ねようと思ったが場所が解らずIPHONESを駆使して探し漸く見つける。永禄6年(1563年)に起こった三河一向一揆の戦いで、徳川家康が敗れて逃げ隠れた洞窟といわれる。追手の兵がこの中を探そうとしたが、洞窟から白い鳩が2羽飛び立ったので、追手の兵は「人のいる所に鳩などいるわけない」といって通り過ぎ、家康は難をまぬがれたといわれる。その後、この洞窟を鳩ヶ窟といい、このことにより八幡宮の山を御身隠山(おみかくしのやま)と呼ぶようになった と。この洞窟に身を隠したのだと。『鳩ヶ窟』石碑。『徳川家康公 御開運の鳩ヶ窟』と刻まれた石碑。『鳩ヶ窟』を振り返る。『拝殿』に向かう際に見落とした案内板がこれ『鳩ヶ窟』。そして『山中八幡宮』を後にし、国道1号線に向かう。『名古屋鉄道 舞木検査場』。名鉄名古屋本線は低地を走っているが、舞木検査場は一段と高い所に。10月12日、台風19号による千曲川の堤防決壊で水浸しになった北陸新幹線の長野新幹線車両センター(長野市)。最新鋭の車両が並んで水没した光景に、衝撃が広がったが、これは完全に設計ミスと熱く語る旅友。前方の如き高台に長野新幹線車両センターは設置すべきと。私も珍しく??旅友の意見に同意。HOTEL Antoinette -SPA RESORT- (ホテル アントワネット) 『LOVE』の看板が建物に。そして左側には『山中八幡宮』へ上る階段がここにも。「旧山中郷の郷社であります。山中八幡宮は、創建千年以上(律令政治時代)とも云われまた古墳の跡とも云われています。元来、市場町は本氏子として八幡宮の東麓に住したが、藤川宿へ加宿以来、徐々に粗縁となり現在に至っています。残念に思います。そして、その証として立派な神輿、郷蔵も移築以来、市場町で管理しています。そして、三河一向一揆の際、身を隠して助かった徳川家康公由縁の神社としても有名です。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.12.31
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道の本宿・岡崎市本宿町南中町を進む。本宿町中集会所の門柱に『不動院』の表札が貼られていた。本宿町中集会所の建物と塀の間に覆屋があり、石仏・石塔が安置されていた。左手に元禄3年(1690)の西国三十三所観世音菩薩と刻まれた『順拝供養塔』。右手に元禄10年(1697)の観世音菩薩と刻まれた『常夜燈』。覆屋の下の中央に『如意輪観音』、左に『青面金剛の庚申塔』、右に『地蔵菩薩』が。右手の民家の大谷石の塀には『本宿古城(もとじゅくふるじろ)』案内板が。「本宿古城(古くは山中古城ともいう)は鉢地川沿いに築かれた東西約76m南北86mの平城であった。城主の松平権兵衛重弘が岡崎城主松平廣忠(家康公の父)に背いたため天文16年(1547)11月徳川廣忠軍の攻撃を受け、激しい戦いの末落城。城跡は名鉄、国道一号、東名の工事により形を留めず往時を偲ぶのみである。」右手の空き地の先には名鉄・名古屋本線が。左手、この坂道を登った場所にあったのが『本宿陣屋跡』と『代官屋敷跡』。工事中の為か、下記の案内板は一時的に撤去されていたようであった。案内には、「元禄11年(1698)旗本柴田出雲守勝門(柴田勝家子孫)が知行所支配のため、本宿村に陣屋を設けた。 以来明治に至るまで存続した。陣屋代官職は冨田家が世襲し、現存の居宅は文政10年(1827)の建築である。」 と記されているようだ。 【https://ameblo.jp/kyomokansya/entry-12390659464.html】より。坂道を50mほど上って行く。すると突き当り右側の目の前に立派な石垣が。左手にあったのが、『代官屋敷』を改装したイタリアンレストラン「ユギーノ・ユーゴ(Yughino Yugo)」。『代官屋敷』の蔵跡は『郷土史資料展示室』になっていた。旗本柴田氏知行所の冨田家住宅(本宿旧代官屋敷・土蔵)が文化庁の登録有形文化財に登録されていると。柴田家家臣として代官を務め、維新後は代々医業により地域に貢献してきた旧家。汚水マンホール蓋には岡崎城とやはぎはしのデザインが。坂道を下り旧東海道へ戻る。こちらにも案内板が。本宿の『本宿陣屋跡』と『代官屋敷跡』が現在では『富田病院』になっているのだった。旧東海道に戻り進むと、左手に日本レトルトフーズ株式会社の『景観重要建造物』があった。建物に貼られたプレートには、「神谷合名會社」「日本レトルトフーズ株式会社」と記されていた。昔は二階で味噌をつくっていたとのこと。日本レトルトフーズ株式会社の斜向かいに建つ『火の見櫓』が青空に突き刺さっていた。『火の見櫓』の下に『本宿村道路元標』が。「旧道路法(大正9年4月1日施行)によって、各市町村に一箇所、道路の起終点、経過地を表示するために設置され、里程の基準となりました」『秋葉山常夜灯』。道路元標の隣のT字路角に寛政13年(1801)の秋葉山常夜燈が建っていた。『本宿東海道めぐりMAP』「参勤交代の大名も下乗して参拝した法蔵寺」と。更に旧東海道を本宿駅方面に向って進む。左手民家の前に立て札が。『十王堂跡』。「街道に沿ったこの地に十王堂(閻魔堂)があり旅行者や村人から尊信されていた。玄関ガラス扉から十王像がのぞけます。本尊木造地蔵菩薩坐像(鎌倉期)は昭和62年岡崎市文化財に指定された(非公開)」。左手奥にあったのが『欣浄寺(ごんじょうじ)』。浄土宗西山深草派に属し、山号を「林光山」、院号を「厭離院」、寺号を「欣浄寺」と称する寺。『本堂』。「ご由来法蔵寺第8代融翁洞文上人は永禄5年(1579年)より18年間在住したのち、53歳で天正7年(1579年)、洞元山の麓に庵を結んで隠栖しました。ここは、鉢地川を隔てて法蔵時本堂が正面に展望できる閑静な場所で、念仏三昧の隠居生活には絶好であったといわれます。これが欣浄寺の始まりでとのことです。東海道が開かれたのち、庶民が参拝するのに不便な地であったため、享保7年(1722年)、第7代啓空序麒西堂は街道沿いの十王堂近隣の現在地に移転し、堂宇を再建しました。幕府旗本の柴田家は信仰篤く、5代にわたる位牌を当寺へ安置しています。近隣の十王堂との結びつきも強く、禎空祥善上人は、弘化3年(1846年)本尊地蔵菩薩を再興し、衣香寺開山と称したそうです。戦後、本宿村公民館西分館を兼ねて本堂を再建し、十王堂が境内に移転されました。現在は十王堂は元の位置に戻っているそうです。」とパンフレットから。扁額『欣浄寺』。本堂内部。ご本尊『阿弥陀如来坐像』境内の地蔵尊。境内の楠の老木。『開運パワースポット』と。日露戦捷記念に植樹されたものか。先代の本堂の鬼瓦も。『岡崎市指定文化財「彫刻 木造地蔵菩薩坐像 一躯」案内板。欣浄寺の本尊である木造地蔵菩薩坐像は、寄木造玉眼崁入(ぎょくがんかんにゅう)で岡崎市指定文化財になっている。かつては、東海道沿いの十王堂の本尊として安置されていた と。『名鉄名古屋本線の本宿駅(もとじゅくえき)』が右手奥に。手前を国道1号線が走る。『本宿駅前にある旧本宿駅舎のモニュメント』蒲郡観光の玄関口として蒲郡ホテルのデザインを取り入れた駅舎。1/3模型が駅前に展示されていた。撮影に行きたかったが国道1号線がありズームアップにて。そして今回の帰路に立ち寄ったのであったその横断地下道には東海道分間延絵図・三州額田郡本宿村絵図が描かれていたのであったが・・。更に旧東海道進むと、右手前方に石柱が見えた。『旧東海道本宿一里塚跡』。ここは江戸日本橋から数えて、78里目の一里塚である。十字路の先左手に無宗派(単立)の『楊珠院』があった。『薬王山 揚珠院』。創建年代等は不詳であるが、本尊は薬師如来。街道に建つ寺標の脇に『地蔵祠』があった。『宇都野龍硯邸跡と長屋門』『宇都野龍硯邸跡と長屋門』「本宿村医家宇都野氏は、古部村(現岡崎市古部町)の出と言われ、宝暦年間(1751-63)三代立碩が当地において開業したのが始まりといわれている。七代龍碩はシーボルト門人青木周弼に医学を学んだ蘭方医として知られている。安政年間、当時としては画期的な植疱瘡(種痘)を施している。『長屋門』。松並木の先で国道1号線に合流する右手に『東海道道標』があった。道標には、「右東海道 左国道一号」 と刻まれていた。傍らには常夜燈と本宿村の歴史解説板『是より東 本宿村』が建っていた。『是より西 本宿村』と前半は同じ内容か。「この辺りは、山綱村、市場村との村境であり、往古の駅家(うまや)はこの付近といわれている。村絵図からは往還筋両側とも家居はなく並木松が続き、南山裾にかけて山綱村の入会地であった。字平五沢は荻野流、高島流の砲術家でもある代官冨田牧太が砲術稽古を実施した所である。また、シーボルトの「江戸参府紀行」に、この辺りの山中から法蔵寺裏山にかけて植物採集したと記述されている。家居の西端に幕末期蘭方医として三河の先駆者であった宇都野氏の長屋門造りの屋敷があった。この辺りから上衣文(かみそぶみ)村を経て宮崎村に至るおよそ三里程の山家在道があり、山地との交流に欠かせない道であった。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.12.30
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『法蔵寺』の参道を進む。境内入口から本殿までまっすぐ参道が伸びていた。『法蔵寺』。「浄土宗西山深草派の三河三檀林のひとつ。二村山と号し、本尊は阿弥陀如来像。寺伝では行基と空海の伝承があり、二村山出生寺と称し、古くは法相宗、真言宗であったと伝える。至徳2年(1385)京都円福寺より来往した教空龍芸が浄土宗に改宗し、その時法蔵寺と改められた。江戸時代には、東海道に接していることから、参拝者も多く、かつ、幕府の庇護も厚かったため、大いに権勢をふるった寺であった。家康が幼児この寺で勉学したとされ徳川家ゆかりの宝物が多く残されている。以下略」『岡崎観光きらり百選 No26 法善寺』の看板。「大宝元(701)年、僧行基の開山と伝えられ、松平初代親氏が深く帰依して、嘉慶元(1387)年に堂宇を建立し、寺号を法蔵寺としたと言われています。家康が幼いころ、手習いや漢籍を学んだとされ、数々の遺品が現存しています。桶狭間の合戦以後、家康は法蔵寺に守護不入の特権を与えるなど優遇しました。また、境内には新撰組で有名な、近藤勇の首塚も祀られています。」『掲示板』。朱の欄干の橋の下を『鉢地川』が流れる。橋の名は『来迎橋』。『来迎橋』手前左の石碑には浄土宗の『南無阿弥陀仏』?と刻まれていた。『来迎橋』を渡りながら『鉢地川』を見る。正面に『山門』、左手に宝形造の『地蔵堂』が。『地蔵菩薩像』か?『山門』貫まで袖壁が設けられた薬医門の山門。門を車で通り抜けできるという事は、今まで見てきた薬医門の山門の中では規模が大きい山門。山門には『浄土宗西山深草派 檀林 大神光 二村山 法蔵寺』と。『法蔵寺』の『山門』には狛犬の彫刻が掲げられていた。山門を超えて石段の参道が続く『二村山 勝徳寺』の山門が右手に。「三河新四国霊場三十六番札所」の幟が立っていた。『二村山 勝徳寺』本堂。『賀勝水』。徳勝寺の対面にあり、竹千代が手習いの際にここから水を汲んだといわれいる『賀勝水』と呼ばれる湧き水とのこと。寺伝では日本武尊(やまとたけるのみこと)がこの地で天照大神ら諸神を勧請して東夷征伐を祈願し、その效験(霊験の徴)を見せ給えと念じて巌を突くと冷泉が湧き出したので勝利の祥瑞として日本武尊は「賀勝ゝ」と三度唱えたと伝わる と。『ムラサキツユクサ(紫露草)』であろうか。階段上の『鐘楼門』を見上げる。ここ法蔵寺には、三河海岸大師霊場を巡礼するとよく見かけるという一間鐘楼門が石段を上がった先に建てられていた。『本堂』。入母屋造瓦葺平入の向拝が設けられた本堂。高覧のある濡れ縁も設けられていた。また、向拝が三間幅(柱が四本)と広く設けられている本堂。『本堂』に近寄って。『本堂』内部は色彩豊かに。御本尊『阿弥陀如来像』。『本堂』前から『鐘楼門』を見る。『法蔵寺境内案内図』本堂左手の入母屋造妻入りの『太子堂』。三河三十三観音霊場十二番礼所 法蔵寺。『太子堂』の裏には『六角堂』が。大宝二年、行基がこの地を訪れた時、輝く杉の大木を見つけたという。すると突然現れた瞳子に「ここは釈迦如来降臨度生の霊山で、この杉は日本武尊が諸神を勧請した際に一夜で生まれた霊木です。この木で観音像をつくりなさい」と啓示を授かり、行基は童子(実は救世菩薩の化身)と共に長さ三尺三寸の正観音(聖観世音)像を彫刻し、山上に六角堂を建てて安置したと。現在の六角堂は、山頂にあった六角堂が大風により倒壊してしまった為、本堂脇に移築再建したもの。『新選組隊長 近藤勇首塚』と書かれた真新しい立て札が。『近藤勇』像。そして首塚台座になっている石に刻まれた氏名、建立の年のところだけ、判読出来ない。土方歳三 戸村静一郎 小笠原新太郎 内田良太郎 鈴木万之助 佐藤善二郎 鈴木源兵衛 菰田幸之助 松下信三郎 市原鐘太郎 太田政一郎 世話人 清水三右エ門、堀川廉之助慶応?年 建立者 内山勝行『近藤勇首塚の由来』。「新撰組隊長近藤勇は、慶応四年(明治元年)四月二十五日三十五才で東京都板橋の刑場の露と消えました。刑後、近親者が、埋められた、勇の死体を人夫に頼んで夜中ひそかに掘り出してもらい、東京都三鷹の竜源寺に埋葬しました。また、勇の首は、処刑後、塩漬にして京都に送られ三条大橋の西にさらされました。それを同士が三晩目に持出し、勇が生前敬慕していた新京極裏寺町の称空義天大和尚に、埋葬を依頼することにしました。しかし、和尚は、その半年前から、三河国法蔵寺の三十九代貫主として転任されていたので法蔵寺に運ぶことにしました。この寺は山の中にあり、大木が生い茂っていて、ひそかに埋葬するのに好適の地でした。しかし当時は世間をはばかって、石碑を土でおおい、無縁仏の様にして沓華していました。そしていつか石碑の存在も忘れられてしまいました。昭和三十三年総本山の記録等に基づいて調査した結果埋葬の由来が明らかになりました。今回、石碑をおおっていた土砂を取り除き、勇の胸像をたてて供養することにいたしたのであります。」なんとか読み切り書き込みました。更に坂道を登っていくと見えてきたのが『東照宮』、そして手前には『三方ヶ原合戦忠死者の墓』が。『松平家御霊廟と三方ヶ原合戦忠死者の墓』。『松平家御廟』家康公が父の廣忠公(慈光院)をここに内葬し、のちに大樹寺に本葬。また、家康公により三方ヶ原の戦いの戦没者もここに祀られている中央の松平廣忠公の五輪塔の墓を中心に松平氏の墓が並んでいた。亀姫(加納御前。家康の長女)の墓。永禄3年生。母は築山御前。天正4年7月奥平信昌に嫁ぐ。寛永2年(1625)5月27日に夫の領地の美濃加納(岐阜県岐阜市)で逝去。誠徳院。徳川家康が九死に一生を得た戦いの一つとされる三方ヶ原の戦いで戦死した武将の墓も名前が添えられて。『東照宮』徳川家ゆかりの東照宮や寺院といえば朱塗りの建物に色鮮やかな彫り物達が想像するが、ここ法蔵寺内の東照宮もまさにそんな感じの建物であった。入母屋造の大屋根に切妻破風が設けられ、さらに向拝が設けられており、その向拝の屋根には唐破風が設けられるという、屋根装飾がこれでもかと取り入れられた本殿。『法蔵寺山内 東照宮』。「■由緒寺伝 御太祖源頼義公 御父子勅命東國御下向の節富山に御参詣有 御子義家公(號 八幡太郎) 両度の御下向御参詣 戦勝御謝恩の為 難事闘戦御勝利の御甲冑御供養の御儀奉る 始祖松平親氏公 三河渡御の折御武運御勝利を御祈願 御手自ら 正八幡之神像を御彫刻 當寺に御宮を御建立され 義家公御甲冑と 御神像を御宮に御遷座奉り 松平御當家の守護神とされた 松平元康(後の家康公)岡崎ご在城の砌 所々ご出陣の節は勿論 平日共に御開運御祈祷を仰付の為 當寺教翁洞恵上人弟子の教山坊 に命じ 元康様初陣御甲冑の御木像を彫刻安置 御供養の御神体は 御相宮にて御遷座 臨時長日共御後裔様御治国平天下の御祈願奉る 御宮は変遷を重ね のち「東照宮」と改められ現在に至る■本殿入母屋 銅板莓 唐破風 極彩色文政 三年(1820)修覆される文政 四年(1821)御遷座平成十一年(1999)大修覆された神前寶鈴「東照宮 元禄元年(1688)」の銘がある神前實鈴が現存する元禄期 御宮は既にこの地に遷座していた神額文政十二年(1829)旗本柴田氏 本宿陣屋代官富田群蔵常業の 願いにより 神祇伯白川雅寿王の染筆である■旗本と御鏡講文化十二年(1815)旗本石川左近衛将監忠房 御宮荒廃を慨嘆 修覆基金「御鏡講」旗本有志の賛同を得て設立する神前には旗本大御番組寄進の奉献石造物が数多く現存している」法蔵寺境内を望む。手前に本堂と回廊で繋がっている『六角堂』が。『東照宮』への階段を振り返る。階段下の鐘楼を入れて。『太子堂』、『六角堂』の屋根越しに『東照宮』を見る。天然記念物 『法蔵寺のイヌマキ』根元近くの幹には、腐朽により空洞があり、年代の古さを物語る。下枝は横に長く伸び、樹冠の拡がりなど自然の樹姿で。『岡崎市指定文化財 天然記念物 法蔵寺のイヌマキ』樹齢1200年、樹高13.0m、幹周2.6m、根周4.0m、枝張り15.0m。行基菩薩が当寺を開創した際に植えたといわれ「行基の開山槙」と称されている。御朱印を頂きに『納経所』へ。『納経所』内部。『納経所』の天井の丸太梁材に歴史を感じるのであった。御朱印を頂きました。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.12.29
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次国道1号線に沿った旧東海道を間の宿『本宿』に向けて進む。豊川市コミュニティバス音羽線『大榎橋』バス停前を通過。そして旧東海道は関屋交差点で国道1号線に合流。左手の工場の小さな建物の中にあった、不思議な形の樹の根が美しく磨かれた巨大な置物が。道路脇には、北アメリカ原産の帰化植物である「セイタカアワダチソウ」の群生地が。もともとは観賞用に導入されたとの説もあるが、急速に広がったのは第二次世界大戦後。蜜源植物として優秀であるので養蜂業者が積極的に種子を散布したとの話もあるのだ。右手には、名鉄名古屋本線が。日本橋からの距離は314.1kmと。これぞ円周率『π☓100』。漸く豊川市に別れを告げ岡崎市に入る。本宿町深田交差点にあった「本宿(もとじゅく)」の石碑。『自然と歴史を育むまち 本宿』。前方に『本宿 案内板』が。『是より西「本宿村」 藤川宿へ壱里』の長文の案内板。「本宿は往古より、街道とともに開けた地であり、中世以降は法蔵寺の門前を中心に町並が形成された。鎌倉街道 は東海道 の南、法蔵寺裏山辺りを通り、鉢地から宮路山中へと続いていた。近世に入り、東海道赤坂宿、藤川宿 の中間に位置する村としての役割を果たしたといえる。享和二年(1892)の本宿村方明細書上帳によれば、家数百二十一軒、村内往還道十九丁余、立場茶屋二か所(法蔵寺前、長沢村境四ツ谷)があり、旅人の休息の場として繁盛をきわめた。東海道中膝栗毛 に「ここは麻のあみ袋、早縄などあきなふれば北八、みほとけの誓いとみえて法蔵寺、なみあみ袋はここの名物」とある。本宿は古くから麻縄(召縄)、麻袋、麻紐などの麻細工が盛んであった。また、家康公が食したといわれる当地独特の法蔵寺団子があり、その他、草鞋、ひさごなどが土地の名物として売られ、街道筋の評判となった。往還南に大宝元年(701)僧行基 開創と伝えられる古刹法蔵寺がある。歴代の松平氏をはじめ、家康公幼少の頃のゆかりの寺として近世を通して下馬の寺であり、往来する諸大名をはじめ旅人の参詣があとを絶たなかったという。そのた、旗本柴田氏本宿陣屋、尾張藩七里役所、高札場、一里塚、常夜燈などが往還筋に設置されていた。慶応四年(1868)柴田勝誠 が新政府に提出した高取調帳には、村高五百三十六石余(柴田知行所四百五十七石余、法蔵寺領七十九石余)と報告している。明治七年(1874)の額田郡誌には百三十五戸、五百五十人と記されている。ここ四ツ谷には立場茶屋があり、幕末期には旅籠屋二、茶屋七、当時の記録から繁盛の様子をうかがうことができる。この地から二本の枝道が南北にわかれている。南は鉢地村道、北は衣文山道である。鉢地村道は、鉢地川に沿って南へ進み、山越えをして西郡(現蒲郡)へ通じるおよそ二里ほどの山道をいう。近代に入り三河湾と東海道を結ぶ唯一の生活道路となり、物資の交流に欠かせない道となった。また、竹島弁財天詣での信仰の道でもあった。衣文山道は、往還より北の山中を越え上衣文村に通じる山道をいう。衣文観音詣での参道として利用された。」地図をズームで。江戸時代の街並み、旧東海道、法蔵寺等が描かれていた。本宿碑の直ぐ先に常夜燈と冠木門があった。ここが本宿の東の入口。いずれもモニュメントであるが、ここは本宿の江戸方口(東口)である。この辺りは旧東海道、国道1号線、名鉄名古屋本線、右側には東名高速道路と交通の要衝地である。『新箱根入口』交差点。ここから蒲郡に抜ける国道473号線が箱根の風景に似ているということで、戦前の一時期ちょっとした観光地になったと。今ではその名残はこの交差点の名前だけ。そして前方に旧東海道(左)の分岐点が。東海道道標・常夜燈・本宿解説が設置されていた。この左手から本宿の集落へ入って行く。左から『東海道道標』・『本宿解説』・『常夜燈』。『本宿の歴史と文化をたずねて』。「法蔵寺(二村山浄土宗西山深草派)大宝元年(701)僧行基 の開創といわれ、法相宗出生寺と号したが、至徳二年(1385)京都円福寺龍芸教空上人により、浄土宗に改め法蔵寺と改称した。浄土宗三河三檀林の古刹である。松平氏初代親氏をはじめ、代々の松平氏の帰依深く、諸堂宇を寄進されている。また勅願所、足利義教 の祈願所ともなっている。近世は家康公お手習いの寺として、江戸期を通じて門前下馬を与えられた。慶応四年(1868)新政府に提出した高取調帳には朱印高八十八石余(本宿村七十九石余、鉢地村九石余)と報告している。本堂は嘉慶二年(1388)松平親氏建立、明治十年(1877)に改築された。寺内史跡六角堂 寺伝によれば弘法大師 建立とある。本寺聖観音像は平安末期の作といわれている。嘉慶二年(1388)龍芸 が再建した。堂内安置の六観音像もこの頃の作である。東照宮 創建は江戸前期、本殿入母屋造り、銅板葺。現存の石造物は、旗本大御番組番士の寄進である。神額「東照宮」は寛政十二年(1800)代官冨田群蔵の願いにより神祇伯白川雅寿王 の染筆である。現本殿は、平成十一、十二年に修復された。その他 草紙掛松、賀勝水、松平家堂廟、三方ヶ原忠死者の墓、県市指定文化財、天然記念物、寺宝等がある。近藤勇首塚 新撰組隊長近藤勇 の首塚である。台石には土方歳三始め十一名の隊士名が刻まれている。本宿陣屋跡 元禄十一年(1698)旗本柴田出雲守勝門(三千五百石柴田勝家末裔)が知行所支配のため設けた。以後明治に至るまで存続した。陣屋代官は本宿冨田家が代々就任していた。一里塚跡 南塚、北塚とも榎が植えられていた。宿村大概帳によれば江戸方七十七里余、京方四十七里余、赤坂一里九丁、藤川一里とある。その他史跡 高札場跡、本宿村道路元標、旧本宿村役場跡、蘭方医宇都野家長屋門、並木松。」旧東海道を進む。本宿の集落に入って間もなく、左に右に連子格子の旧家が建っていた。写真の旧家の向かい側が法蔵寺である。左上に、三河新四国、35番 法蔵寺、36番 勝徳寺の案内板が。街道沿いに無人販売所「草創園芸」があった。『マコモダケ』1袋 100円 と。「名前だけ聞くとキノコの仲間を想像しがちだが、水辺で育つイネ科の植物マコモの若い茎が肥大化したものです。外皮をむいた白い部分を食します。見た目も食感もタケノコに似ています。クセがなく、生でも食べられますが、加熱すると甘みが増します。油との相性も良いので、炒め物や天ぷらにしてもおいしいです。」とネット情報から。こちらが『マコモ』。 【https://konohana-family.org/2019/04/12/wild-rice/】より『御草紙掛松』。法蔵寺の入口に御草紙掛松があった。こちらが『御草紙掛松(おんそうしかけのまつ)』。現在の松は2006年3月に植えられた4代目だと。周囲の石柵は文化12年(1815年)に寄進された物とのこと。「寺伝によれば徳川家康公は幼少の頃、当寺にて学問、手習いに励んだといわれる。この松は家康公手植えの松といわれ、手習いのおり草紙を掛けたことから、家康公ゆかりの「御草紙掛松」として永く人々に親しまれてきた。また「御茶屋の松」「御腰掛の松」ともよばれた。代々受け継がれてきたが、平成十七年八月、虫害により枯れた。その後「慣れ親しんだ松を後世に伝えよう」と、地元有志「もづく会」の手により、平成十八年三月、四代目の松が植樹された。周囲の石柵は、文化十二年(1815)旗本木造清左衛門俊往の寄進である。」『法蔵寺団子の由来』。「この団子は、法蔵寺門前の茶店で売られていたことから「法蔵寺団子」と呼ばれるようになった。本宿村方明細書上帳(享和2年・1802)に「此ノ村名物ハ早縄並餅団子・草鞋ニ御座候。」また、参河聡視録(みかわそうしろく)本宿村記(嘉永2年・1849)にも「法像寺辺り前後茶店ニテ餅ニ醤油ヲ付テ炙リ売ル 名高シ。」と書かれている。以後、昭和の初めごろまで売られていた。この団子の特色は、一本の串に指で押し平たくした五個の団子を炙り溜りで味を付けたものである。この独特の風味が、近郷近在はもとより、東海道筋の名物団子として、評判となったのである。」旧東海道は鉢地川に架かる『法蔵寺橋』を渡り更に西に伸びていたが、ここを左折し『法蔵寺』を訪ねたのであった。この橋は大正9年(1920)10月に架け換えられたものである。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.12.28
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『開運毘沙門天王尊』音羽中学校を過ぎると、右手の細い路地角に開運毘沙門天王尊碑が建っていた。昭和8年(1933)建立で、「開山三百年記念・御嶽教心願講心巴組先達鈴木富象」 と刻まれていた。開運毘沙門天王尊碑の先は、左手に山が迫り、車は殆んど通らない長閑な一本道であった。長閑な街道を進むと、所どころに連子格子の立派な旧家が建っており、往時を偲ばせていたのだった。『大永山 栄善寺 寺標』。左手に山が迫ったところに浄土宗西山深草派の『大永山 栄善寺 寺標』が建っていた。栄善寺は、文永9年(1272)派祖証空善慧上人二世法孫円空立信上人の創立した寺。石段の右側に二つの石室があり、石仏が祀られていた。境内へ上がる石段脇には、役行者・馬頭観音などがあった。役行者は何故か全身が黒く塗られていたが・・・。平安様式という自然石の石段と言われる草の生えた石段を上ると質素な御堂があった。栄善寺は、1272年、円空上人の創立で、弘法大師がこの地で大日仏を刻み、盲目の男を治したという伝説があるとのこと。この寺は無住であり、鐘楼に梵鐘が無く寂れた感が溢れていた。『八王子神社社標』街道に戻って先に進むと、左手筋角に『八王子神社社標』が建っていた。八王子神社の創建年代等は不詳であるが、永禄10年(1568)6月に上八王子の音羽川の辺りにあった社地から現在の地に移されたという。鳥居の先から急な苔むした石段が。石鳥居には『八王子神社』と書かれた扁額が。『洞泉寺』帰路の突き当りを右に入ると、廃寺となった『洞泉寺』の跡地が?本堂の姿もなく、寂しい光景が。旧東海道を進むと、音羽川の手前のガードレール前に、『一里山庚申道道標』が建っていた。道標の下部は地中に埋まって、「是ヨリ」 までしか見えていない。一里山は、一里塚を言うので、この先の長沢の観音堂かその先の庚申堂らしき建物を指しているのであろうか?道標の直ぐ先で、音羽川に架かる八王子橋を渡り、県道73号線(三河湾オレンジロード)の高架をくぐり、まばらになった家々の間の街道を行く。『八王子橋』。前方左手に木柱が姿を現す。『長沢一里塚跡』。長閑な街道を進むと、左手の畑の前に『長沢一里塚跡』が。江戸日本橋から77里目(約302km)、京三条大橋からは41番目(実測で約202km地点、七里の渡しを27.5kmとして測定)の一里塚。両塚とも現存せず。道標の上に、「分間絵図」が描いてあり、それによると、両側に一里塚が造られ、右の一里塚の手前には、御料傍示杭が描かれていた。長沢小学校の構内手前の角の石垣手前にあった『長沢城跡』案内板。「長沢は東西三河の境目にあり、両側から山が迫る地形で、中世において戦略上重要な位置であった。東海道を挟んで南(御城山山頂)に?略寺城跡、北(古城団地)に長沢城跡がある。長沢城は、東西約200m、南北約250mに及ぶ大規模なもので、主郭の前面を土塁や二重の堀が巡り、南側に出入り口があった。現在は宅地化されて、堀の一部をわずかに残すのみである。また、寛永11年(1634)家光上洛のときに休憩所として建てられたといわれる御殿が長沢小学校敷地内にあった。」『長沢城址の図 元禄12年』。右手にあったのが『豊川市立長沢小学校』。左手にあったのが長沢小学校のプール。『プール使用のきまり』が丁寧に、易しく。児子社社標』旧東海道を先に進むと、右手筋に児子社社標が建っていた。この参道は国道1号線・名鉄名古屋本線・東名高速道路によって分断されているようであった。児子社の創建年代は不詳であるが、明暦2年(1656)の棟札が残っているという。直ぐ先の誓林寺前バス停の手前で街道が右にカーブする所に『庚申堂』らしき建物があり、建物前に地蔵尊が建っていた。祠のない『地蔵尊』『誓林寺』街道を曲がると右手に浄土真宗本願寺派の『古谷山誓林寺』の山門があった。『本堂』。誓林寺は、源氏の武士・高梨高直が親鸞聖人の弟子となり、山中村に草庵を建てたのが始まりと言われる。その後、ここ音羽の地に移り、領主松平氏により山号を古谷山と改めた。現在の本堂は、文政7年(1824)に建て替えられたものであると。前代の本堂の鬼瓦であろう。可愛らしい豊川市コミュニティ 音羽線バス停『誓林寺前』。音羽川に沿って旧東海道を進む。このあたりの旧東海道は交通量も少なく。『巓(だけ)神社』。誓林寺の先で十字路を渡ると、右手筋の角に巓神社社標と寛政10年(1798)の秋葉山常夜燈が建っていた。巓神社の参道も児子社と同様、国道1号線・名鉄名古屋本線・東名高速道路によって分断されていた。巓神社の創建年代等は不詳であるが、宝徳元年(1449)の棟札が残っているという。民家の前の花壇には花々が植えられて、楽しませてくれた。街道を進むと、やや上り坂の左手に連子格子の旧家がいくつか並んで建っていた。かなり狭い旧東海道を進む。『観音堂跡』。更に進んだところに建つ連子格子の家の前に観音堂跡があり、観音菩薩・馬頭観音・歌碑などの石造物が建っていた。 歌碑は弘化3年(1846)観音堂の尼・妙香尼が落馬死した旅人の念仏供養のため糟谷磯丸に歌を依頼して建てたものと言われていると。最奥にあった石仏をズームで。『磯丸 みほとけ 歌碑』?と書かれた石柱。磯丸とは、糟屋磯丸のことで、伊良湖村に生まれた漁師で、漁夫歌人と呼ばれた。一生を通じ数万首の和歌を詠じたといわれている。この碑は、観音堂の庵主が、落馬して亡くなった旅人の供養のため建てられたのだと。『観世音菩薩』と刻まれた石碑。カーブする所右手に、『秋葉常夜燈』と対の祠の中には『石仏』が安置されていた。安政6年(1859)の『秋葉常夜燈』を正面から。地蔵堂・観音堂が一対で建っているようだ。堂の中には『石仏』が。観音堂の『石仏』。地蔵堂の『石仏』。唯心橋で音羽川に流れ込む枝流の千束川を渡河。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.12.27
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『見真大師・聖徳太子 御奮跡』の石碑の横を折れ、左に進むと正面に見えて来たのが『正法寺(しょうほうじ)』山門。境内の『鐘楼』。『本堂』。正法寺の創建は聖徳太子が赤坂の地を訪れた際、太子堂を建立したことが始まりと伝えられている。弘仁7年(816)、万巻上人が病により太子堂で亡くなったことから、上人を開基と定め寺院として開山した。当初は天台宗の寺院でしたが貞永元年(1232)に親鸞が太子堂の参拝に訪れた際、当時の住職範円(源範頼の子息)が親鸞に教化され浄土真宗に改宗している。本堂扁額の『正法寺』。寺宝が多く、鎌倉時代に製作された絹本著色釈迦如来像が愛知県指定文化財に指定されている他、室町時代に製作された十三仏唐画、室町時代に呉道子が筆した十三仏画像、江戸時代に制作された関白草紙、江戸時代に製作された業平涅槃之図、室町時代に製作された不動尊画像、鎌倉時代に制作された源範頼の守り本尊である観音立像、聖徳太子立像、江戸時代に徳川家康から寄進された網代団扇、同じく徳川家康から寄進された木蘭地袈裟、鎌倉時代に親鸞が筆した六字名号、室町時代に蓮如が筆した六字名号、室町時代に蓮如が筆した九字名号、が豊川市指定文化財に、正法寺のワビスケ(有楽椿)、正法寺のイヌマキ(雌雄)が豊川市指定天然記念物にそれぞれ指定されている。「正法寺の文化財絵 画:六 幅彫 刻:二 躯工 芸:一 領、一 柄書 籍:八 幅天然記念物:ワビスケ(有楽椿)一樹、イヌマキ(雌雄) 二樹」 真宗大谷派の『太子山』。寺務所。正法寺の山門を入ってすぐ右手にあった、市指定天然記念物『有楽椿(うらくつばき)』。『市指定天然記念物 正法寺の有楽椿(うらくつばき)』。「正法寺のウラクツバキ(有楽椿)ウラクツバキは、茶人織田有楽斎(織田信長の弟)が、茶花として愛好したことからこの名が付いたといわれています。 関東では「太郎冠者」とも呼びます。この木の樹齢は約400年で、花は、1月上旬から3月末まで咲きつづけます。わずかに淡紫色を帯びた桃色で、白斑の入った花もあります。形状は一重中輪です。」花の写真。この日の蕾の姿。旧東海道に戻り進むとすぐ右手にあったのが『御休処 よらまいかん』平成14年にオープンした赤坂宿の旅籠をイメージした休憩施設。当時の建築様式を再現し、2階には赤坂宿を描いた浮世絵を展示しており、宿場町として栄えた江戸時代の様子を観覧できます。また、内外にベンチを配し旅行者が足をのばしてくつろげる空間になっており、トイレ・駐車場なども設置してあります。9時に開館であったが、係のオバチャンが親切にも開けてくれたのであった。『東海道赤坂宿』と刻まれた石碑。「東海道宿駅・伝馬制度 制定400年記念事業 平成13年 音羽町」 とも。京へ四十九里十六町、江戸へ七十六里二十六町と。石碑の横に刻まれた「飯盛女」?の姿か。こちらは大名行列の姿が。施設内部。『赤坂の文化財(絵画、彫刻、工芸)』総木造作りの『御休処 よらまいかん』の天井の梁の造作をしばし鑑賞。『御休処 よらまいかん』を振り返る。『御休処 よらまいかん』の斜め向かいの駐車場の前にあった『赤坂陣屋跡(三河県役所跡)』説明板。「陣屋〔じんや〕とは代官所 ともいい、年貢の徴収や訴訟などを取り扱ったところであった。赤坂陣屋は、三河の天領支配の中心であり、当初この奥の大藪地内に設けられたが元禄二年(一六八九)神木屋敷(現赤坂保育園附近)に移された。幕末に三河県 役所と改められた。手狭になったため明治二年(一八六九)再び大藪地内へ新築移転された。(上図)廃藩置県後、明治五年に廃止となった。」中央分離線のない旧東海道を進む。『赤坂の舞台 伝統芸能公演』が10月27日に行われると。左手にあった連子格子の民家。軒先には販売用?の焼き物が並べられ展示されていた。右側にも2階建ての民家が。エアコンの姿から既に住人は不在か。右手に石鳥居が姿を現す。『杉森八幡社』』入口。「郷社 八幡社」と書かれた柱も。石鳥居の足元には『赤坂の舞台』と書かれた木柱が。『宮路山(みやじさん)』の案内板。標高362mの小高い宮路山は、万葉集などにその名が登場するなど、古くからもみじの名所として知られている。山にはコアブラツツジが数千本自生しており、秋には温かい赤色・オレンジ色などに染まる。山頂からは三河湾や豊川市街が一望でき、天気の良い日には富士山も拝むことができるスポットとなっているのだと。『杉森八幡社』の参道を進む。『郷社 八幡社』の社殿と巨木の楠の木。『郷社八幡社』案内板は木目が美しかった。杉森八幡社(すぎもりはちまんしゃ)は、愛知県豊川市赤坂町に建つ神社である。祭神は天照大神、誉田別尊(応神天皇)、大鷦鷯尊(仁徳天皇)、息長足姫尊(神功皇后)。社伝に大宝二壬寅年(702)10月、持統天皇この地に来られ、頓宮に在りし際、伊勢の大神と八幡大神を勧請し神鏡を納めた。寛和2年(986)以来の棟札あり。慶長6年(1601)2月、黒印の社領三石を寄進する。伊勢の大神の事は旧伝につき正徳年間(1711~5)神主金沢兵部伊勢に行き、度会貞盈神主に尋ねたところ、伊勢にも旧録ありと更に神鏡を下賜せられた。この鏡は正保4年(1647)9月11日、勅使参議左大弁藤原綵光が外宮に12面奉納したものの1面なりという。明治5年10月12日、村社に列し、同40年10月26日、供進指定となり、昭和7年4月20日、郷社に昇格する。『杉森八幡社の楠』。「杉森八幡社の楠杉森八幡社境内・拝殿向かって左側、前から2本がそれであり、根株が一本化し二本に成長していることから「夫婦楠」とも呼ばれている。当社は大宝二壬寅年(702)持統上皇が東国巡幸のとき当地の頓宮におられたとき、伊勢神宮領厨跡に大神宮・八幡社を勧請し、両宮とも神鏡を納められたと伝えられている。社の発生から考察し、また調査したところ、この楠は推定樹齢約1000年と考えられる。目通り6m、高さ20m、根張りが楠の特徴をよくあらわしている。」巨木をしばし見上げる。根株が一本化し二本に成長していることから「夫婦楠」とも呼ばれている。『杉森八幡社 社殿』。社務所であろうか。境内奥にあった『農村舞台』👈リンク。『赤坂の舞台』「明治5年に建てられた農村舞台が復元され、年1回、歌舞伎の公演が行われているのだ。建築面積243m3(間口10.4間 奥行7間) 当舞台は、心棒の先を支点として盆が回るように仕組んだ皿回し式の回り舞台である。奈落はなく、舞台上で回した。赤坂宿では、江戸時代には人形浄瑠璃、明治以降は歌舞伎が演じられていた。現在の舞台は、赤坂の芝居愛好者が中心となって、近隣の同好者に建設を呼びかけ、明治五年七月に舞台開きをしたと伝えられている。平成十二年に改修復元した。」再び『赤坂の舞台 伝統芸能公演』のポスター。赤坂の舞台の『小屋掛け作業見学会』のポスター。拝殿右側の農村舞台の前に建設途中の小屋掛けの姿。見事な竹ドームの屋根も。孟宗竹を組み合わせてアーチ状の屋根が。杉森八幡社の境内にある小さな社は末社。『社殿』と『夫婦楠』を再び。手水舎も。左側の駐車場前にあった『十王堂跡』の碑。『十王堂跡』の碑の上の写真は『地蔵菩薩像(向称寺所蔵』。道路の脇の小さな祠には石仏が。その先左手にあった『常夜灯』。更に西に進む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.12.26
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次赤坂宿の旧東海道を更に西に進む。いまでも東海道の面影を感じさせる町並みが残っていた。路地を左手に折れると、正面に見えたのが『長福寺』の山門。入口は薬医門で左右は白壁になっていた。長福寺のある場所は、行政上の区分から言えば音羽町になる。豊川市のほうから東海道をたどると旧御油宿、御油の松並木、赤坂宿は隣接していてひとつの宿場町の様相を呈していた。江戸時代には遊女の多かった宿場だったというから、単に宿駅としての機能だけではなく近郷から男たちが遊びにくる歓楽街的な機能も持っていたのであろう。いつの世も変わることなく・・・・。山門の扁額には『三頭山』と。山門前右側には「信州善光寺出張所」と記載された石柱が。『鐘楼』。境内にある『長福寺のヤマザクラ』。昭和55年(1980)に豊川市指定天然記念物に指定。町内で一番大きなサクラの古木であると。「この木は、推定樹齢約300年で、幹の周りは目通り約3.3mあり町内で一番大きなサクラの古木です。この木について、幕末の頃、赤坂の代官所に努めていた役人の手紙の中に「長福寺の桜も満開になったでしょう。昔、桜を見ながら囲碁をしたことを思い出します。と記されています。」開花すると・・・。そして『手水舎』と正面に『本堂』。長福寺の創建は平安時代、宮路弥太郎長富が息子である三河守大江定基の愛妾である力寿姫(赤坂の長者の娘:定基との別れを悲しんで自害)の菩提を弔う為開かれたのが始まりとされます。その後、荒廃しましたが大永年間(1521~1528年)善誉慶印が再興した。『長福殿』と書かれた本堂の扁額。正面には見事な向拝虹梁(ごはいこうりょう)、海老虹梁(えびこうりょう)があり、龍の彫刻が配されていた。正面に向かって右側の海老虹梁。正面に向かって左側の海老虹梁。鐘楼と本堂の改修事業供養之宝塔。寺宝である『彫刻 観音立像』、昭和30年(1955)に愛知県指定文化財に指定されている。「この像は、三河の国司であった大江定基が、愛人力寿姫の死を悲しみ、その菩提を弔うために寄進したとされる聖観世音菩薩です。平安時代の11世紀後半から12世紀前半に作られたといわれ、恵心僧都の作と伝えられています。像高190cmのヒノキの寄木造りで、当初は鮮やかな彩色が施されていましたが、現在ではほとんどの彩色も落ち、素木造りの様相を呈しています。」裏山の観音堂へと登る石段があった。石段の途中には弘法堂、鎮守社があるのだと。観音堂の周りにはかわいい石仏群も。更に 本殿裏の山中には三河の国司大江定基との別れを悲しんで 自害した『力寿姫の墓』や『原田伝左衛門の墓』があるとのこと。 石段横の小さな祠。民家の前の電柱横にあったのが『赤坂宿問屋場(伝馬所)跡』説明板。「赤坂宿問屋場(伝馬所)跡。間口六間(10.9m)、奥行三十間(56.4m)。瓦葺きの事務所は、慶長5年、徳川幕府の命令によって設けられた。人馬の継立、即ち、伝馬事務を取り扱い、問屋取締・年寄・帳付・馬差・飛脚役などの役人を置き、人足30人ほど・馬数10頭をつないで、即時の用に供した。」赤坂宿では、初め彦十郎が本陣と兼務していたが、文化年間より弥一左衛門に代わり、幕末には弥一左衛門と五郎左衛門の二人で執り行っていたと。赤坂宿の本陣の門が復元されていた。残念ながら、内部は更地になっていました。説明板によれば、宝永8(1711)年には、間口17間半、奥行き28間。門と玄関がついた建物だったそうだ。「本陣跡本陣は、参勤交代の大名・幕府の役人・公家などが休泊するところで、一般の旅籠屋とは違い、門・玄関・式台・上段の間などを備えることが許されていた。赤坂宿の本陣は宝永8年(1711)の町並図によると、四軒あった。そのうち松平彦十郎家は、江戸時代初期から本陣を務め、人馬継ぎ立てを行う問屋も兼ねていた。」「宝永8年の間取り図によると、間口17間半、奥行き28間、座敷通り422畳で門・玄関付きの立派なものであった。」左手角にあったのが復元された『高札場』と『赤坂宿街並みの図』案内板。広場奥の『高札場』。『きりしたん宗門禁制』。切支丹を密告すれば褒美を出すとして、ばてれん:銀500枚、いるまん:銀300枚、などと書いてある。更にこれらの者を匿ったりしたら名主は元より五人組、一族共に罪科を問うと書いてある。まさに住民による相互監視の推奨。ただイルマンとは?調べてみると「宣教師の称号の一つ。助修士。平修道士。イルマンが司祭職に叙階されると伴天連となる」なるほど、それで伴天連に比べ銀200枚も少なかったのだ。その他、火付け禁止の定め、親子兄弟夫婦仲良くし、奉公に精を出すべきこと、もあった。『赤坂宿街並みの図』。『赤坂宿町並の図 宝永八年(1711)』住民の名前入りの詳細な図。現在では個人情報の観点からすると・・・。右手には『赤坂宿公園』赤坂宿跡公園にあった『赤坂宿のまつり』についての案内板。「赤坂宿の『大名行列』は歴史ある旅籠など江戸時代に栄えた宿場町の面影が残る通りを、参勤交代の一行が練り歩きます。赤坂杉森八幡社の祭礼で、大名行列の最後尾では長持ち衆による寸劇も披露。境内に芝居舞台があることでも知られる八幡社では、古来から人形芝居や神楽などが奉納されてきており、その伝統を偲ばせる余興が祭りの楽しみのひとつです。」毎年10月の第2日曜日に開催されるとのことで、今年は前々日の13日(日)に開催されたとのことであった。「東海道赤坂宿に伝わる『雨乞まつり』は、約300年むかしの宝永年間に発するといわれています。宝永年間には富士山の噴火、大地震、干ばつによる飢饉など、天変地異による被害が多かった。そんな中ここ赤坂宿でも、雨乞いの神事が行われたのでしょうが、それを恒例の『まつり』としてしまったところが面白くてたのしい。三味線、笛、太鼓のお囃子をのせた山車を従えて、武士や歌舞伎役者に扮する地元おまつり青年、町娘たちが練り歩く。しかもゆったりと。のどかな風情がただよう、真夏赤坂宿のまつりです。」『尾崎屋』。曲げわっぱ(木で出来た弁当箱)などの木工品や民芸品を製造・販売している店であったと。二階の連子格子に軒行灯がかかり、「東海道五十三次 赤坂宿 曲物民芸品製造卸問屋」と書かれていた。こちらは『旧旅籠大橋屋』大火後の1733年(享保18)には、家数400軒のうち83軒が旅籠であった。大橋屋は大旅籠に属する部類。間口23間、奥行き9間の大橋屋は旧屋号を鯉屋といい、1716年(正徳6)の建築とされている。赤坂宿の旅籠の中では大旅籠に属し、入口の見世間、階段、2階の部屋は往時の様子を留め、広重赤坂のモデルの旅籠とも言われ、中庭や灯籠も残っているのだと。「大橋屋」は、平成27年に営業終了、保存され内部見学が可能。しかし、この日は残念ながら、時間がまだ早いため、入口の扉は閉ざされていたのであった。広重の『東海道五拾三次』に描かれた旅籠『大橋屋』『豊川市指定文化財 大橋屋(旧旅籠鯉屋』と書かれた石碑。「大橋屋(旧旅籠鯉屋)の間取り大橋屋建物は、文化6年(1809)の赤坂宿大火以降に建てられたと考えられている。その後何度も改修され、間口6間1尺(約11.2m)、奥行7間(約12.7m)の主屋だけが現存する。大橋屋が所有していた間取り図によると、かつては間口8間7尺(約16.6m)奥行23間3尺(約42.7m)の敷地に主屋、継ぎの間、奥座敷、土蔵が建っていた。以下略・・・・・・」『旧旅籠大橋屋』の西隣にある『赤坂宿脇本陣(輪違屋)跡』。『大橋屋(旧旅籠鯉屋)と脇本陣(輪違屋』案内板。「大橋屋の江戸時代の屋号は「鯉屋」といい、一般の旅人が宿泊する旅籠屋を営んでいた。現存する主屋は、文化6年(1809)の赤坂宿の大火以降に建てられたと考えられている。大橋屋に残されていた間取り図によると、間口が狭く奥行の長い宿場町特有の敷地に、主屋、継ぎの間、奥座敷、土蔵が並んで建っていた。明治11年(1878)の東海北陸巡幸のときには、明治天皇の行在所にもなった。鯉屋の西隣には脇本陣「輪違屋」があった。脇本陣は、大名や公家などの宿泊施設である本陣での宿泊が重なったときなどに利用された。以下略・・・・・・・・・・・・・・・・・・」歌川広重『東海道五十三次 隷書東海道 赤坂』『赤坂宿脇本陣(輪違屋)跡』。脇本陣跡に建つ『東海道 赤坂宿・御油宿』案内図。『赤坂宿脇本陣(輪違屋)跡』発掘調査跡?は赤煉瓦が敷き詰められていた。一番奥にも立て札が立っていた。『赤坂代官所(陣屋)跡』。「天和3年(1683)代官国領半兵衛重次のとき、赤坂の大藪地内(よらまい館東)に代官所が設置され、三河国内の幕府領の大半を赤坂代官が支配するようになった。元禄2年(1689)、正法寺と浄泉寺の間(現赤坂保育園)に移され、寛政12年(1800)からは代官所の統合により、遠江国中泉(静岡県磐田市)代官所配下の赤坂出張陣屋となった。東海道から代官所への出入りは、元禄2年の陣屋之図によると西側に門があるので当初は正法寺参道を利用していたと思われる。」『赤坂宿脇本陣(輪違屋)跡』を奥から見る。『赤坂宿脇本陣(輪違屋)跡』、『旧旅籠大橋屋』を振り返る。そして「正法寺」に入る左側への路地の角、郵便ポストの後ろに石柱が。『見真大師・聖徳太子 御奮跡』と刻まれた石柱。見真大師は浄土真宗開祖親鸞(1173~1262)の諡号。「正法寺」は推古天皇の時代に聖徳太子を祀ったのが起源とのこと。舊跡とは?歴史上の事件や建築物などがあったあと。旧址(きゆうし)。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.12.25
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道(長沢国府線)・県道374号線を進むと前方に『御油の松並木』が姿を現した。御油の松並木は、愛知県豊川市御油町の東海道御油宿と同県同市赤坂町の赤坂宿の間にある松並木。松並木はかつて五街道の各所に存在したが、様々な理由で伐採されたりして現存している松並木は少ない。御油の松並木は、現存している数少ない松並木の一つである。御油宿の西端から赤坂宿の東端までの約600メートルにわたって271本(2003年の調査による)の松の木が立ち並んでいるとのこと。松並木が始まる手前、写真中央に関札『松平丹波守宿』、左手に『御油宿と御油の松並木周辺』説明板が。「御油宿は、慶長6年(1601)徳川家康によって、東海道に宿場制が定められ、東海道五十三次の第35番目の宿場として繁栄しました。ここから東の、かつての上五井、中上町、仲町、横町、茶屋町と呼ばれたこの通りぞいには、今でも宿場町の面影を残す旧家がみられます。また、この御油宿と隣の赤坂宿との間には、慶長9年(1604)に整備された御油の松並木があります。 昭和19年に国の天然記念物に指定され、「日本の名松百選」 にも選ばれています。」『御関札立掛場跡』案内板。「御関札とは、諸藩の大名が参勤交代や何らかの用事で出向く際、宿泊先(御休先)となる宿場の本陣や問屋(町役人)に事前に申し伝え、宿泊当日の三日前迄に本陣、町役人は宿場の出入り口に縦3尺半(約1m)、横1尺半(約45㎝)の板に 宿泊年月日・藩主名・出向く先を記入し、長さ3間半(約6m)の太い竹竿に取り付け立掛けられた看板を言います。御関札は、大名の権威を誇示するばかりではなく、本陣前を往来する人々に無礼のない様、通行するように注意を促す目的を持って 立掛けられた看板と云われています。此の御関札案内板は、当時御油宿・問屋役人井上興左衛門の 「御定宿之控」 の記録より作成したものです。」御油宿は、本陣2、脇本陣0、旅籠62、家数316軒、人口1298人であった。京から江戸に向う旅人は、赤坂宿で宿泊し、逆に江戸から京に向かう人は、ここ御油宿で宿泊したのだと。『天然記念物 御油ノ松並木』と刻まれた石柱と説明用石碑が。「天然記念物「御油ノ松並木」この松並木は、慶長9年(1604)、徳川家康が植樹させたもので、以来、夏は緑陰をつくり、冬は風雪を防ぎ、長く、旅人の旅情をなぐさめてきました。当初、600本以上あった松は、長い歳月の間に減少しましたが、旧東海道に現存する松並木のうちでは、昔日の姿を最もよく残すものとして、第二次世界大戦中の昭和19年11月7日、国指定の天然記念物となりました。」道路の反対側にあったのが『十王堂』。「十王堂十王とは、冥界にあって、死者の罪業を裁判する十人の王のことです。仏教では、死者は冥界で順次十人の王の裁判を受けて次に生まれてくる所が定まるとされている。この考えは平安後期に日本に伝わり、鎌倉時代に全国に広まりました。この十王とは、秦広王・初江王・宋帝王・五官王・閻魔大王・変成王・太山王・平等王・都市王・五道転輪王のことで、十王が冠をつけ、道服を着て笏を持ち、忿怒の姿を示すのは道教の影響が強いことを表しています。この建物は明治の中頃に火災にあい再建されたもので、十王堂の創立年は定かではないが、江戸時代に描かれた絵図に印されていることから、古くからこの地にあったことは確かです。」扁額『十王堂』。『十王堂』前の石仏。『御油の松並木』の下を赤坂宿に向かって進む。御油宿から赤坂宿までは、1.7km。この御油の松並木は、江戸時代の初め東海道の並木として御油~赤坂間で整備され幕府によって管理されていた。明治に入り、宿場制度が解体され管理の所在がはっきりしなくなったが、地元御油町で管理を続けた。その後、太平洋戦争の為、多くの松が燃料として切り倒されていることを憂慮し、御油町の人達が存続させるため天然記念物指定を受ける働きかけを行い、その結果、「東海道の松並木として代表的なもの」という理由により、昭和19年11月、国の指定天然記念物に指定された。現在では、町全体で保存活動をが行われており、松の補植も行われているのであった。御油宿の西端から赤坂宿の東端までの約600mにわたって271本(2003年の調査による)の松の木が立ち並ぶ。夏は日差しを避け、冬は防風・防雪の役目を果たしていた。また江戸時代の滑稽本『東海道中膝栗毛』のなかで、弥次郎兵衛と喜多八がここでキツネに化かされた話が描かれていると。枯れて伐採された松の古株、樹齢何年の松であったのだろうか?そして隣には既に新しく植樹された若木が。現在では生活道路が通り、松並木をひっきりなしに車が通るようになったため、松並木を歩く際には注意が必要であったが、2009年に車道部分を狭くして歩道が整備されたため、以前より安全に歩行者が通行できるようになったのだと。左側の公園入口にあった御油松並木愛護会による『弥次郎兵衛、喜多八も歩いた御油の松並木』についての案内板をズームで。「この御油の松並木は江戸時代後期の十返舎一九の著作「東海道中膝栗毛」の主人公、弥次郎兵衛、喜多八も歩いた街道です。お伊勢参りに行く途中、このあたりで弥次郎兵衛は失態を演じました。陽も落ちかけた頃、弥次郎兵衛は御油の茶店の婆さんが、悪い狐が出て旅人を化かすので「此の宿に泊まらしゃりませ」と言うのも聞かず、先に行った喜多八を追いかける。松の鬱蒼と繁ったこのあたりで本物の喜多八に追いつく。茶店の婆さんが言った狐の話をすっかり信じて、喜多八を狐と思い、突き倒し縛り上げてしまう。そして追ったてながら赤坂の宿に向かう。・・・」こんな滑稽なことが生まれたところなのであった。明治のはじめ頃までの御油の松並木の両側は竹藪が延々と続く昼なお暗い所であった。この付近の山々には狐狸が棲息し、夜な夜な餌を求めて、田畑や街道へ出没し、作物を荒らしたりして人々わ驚かせました。日没とともにまっ暗な闇が街道を包み、薄気味悪い松並木を通るには、とても度胸がいったとのこと。家康の命を受けた奉行・大久保長安により、亀の甲のような樹皮が特徴の三河黒松が植樹されたと。この時は比較的交通量は少なかった。『御油松並木公園案内図』。天然記念物「御油の松並木」の保護と、観 光、地域交流の拠点となることを目的とし、松並木に調和した景観となる公園として整備された。 昭和47年には、御油松並木愛護会が発足し、昭和50 年に大規模な松の補植が行なわれた。また、定期的 な見回り、清掃や下草刈など継続的な保護活動によって、 御油の松並木は江戸時代の並木景観を現在もなお留めているのだと。公園内には竹林も。公園内の遊歩道を歩く。『御油の松並木』の終わりの赤坂宿側の松は背が高く、青空に突き刺さっていた。音羽川に注ぎ込む天王川に架かる石橋の場所まで辿り着く。赤坂宿側の『天然記念物 御油ノ松並木』と書かれた木製の碑。『天王川』は小さな川いや水路の如し。橋の名は『一ノ橋』。『一ノ橋』を渡り進むと、すぐ右側のT字路の角にあったのが『見附跡』案内板があった。ここが赤坂宿の東入口となり、赤坂宿中心へと入っていくのだ。「見附跡見附〔見つけ〕とは、宿場の入口に石垣などを積み、出入りする者を見張ったところである。赤坂宿見附は、東西に設けられ、東は東海道 を挟んだこの辺りの両側にあり、西は八幡社入口附近の片側にあった。「赤坂旧事記」によれば、寛政八年(1796)代官辻甚太郎のとき、東側の見附を関川神社の前に移築したとされている。明治七年(1874)に、取り壊された。」『歌川広重 東海道 五十三次 佐野喜版・狂歌入東海道・狂歌東海道 《 赤坂 》』「鳴門静丸 双六と ともにふり出す髭奴 名を赤坂の 宿にとゞめて」更に赤坂宿を進む。道路脇の民家にはコロガキ?がたわわに。数分歩くと天を圧する巨大な老木が左前方に姿を現した。『関川神社』。石鳥居と社殿。長保3年(1001年)5月、赤坂の長者・宮道弥田次郎長富が三河国司の大江定基の命を受け、関川地内に立つ楠の脇に堂宇を建立したのが起源とされる。当初は弁財天と称していたが、明治時代初期に神仏分離の影響を受けて関川神社と改称した。昭和28年(1953年)6月5日、宗教法人として登録を受けた。氏子はおらず、神社の運営は関川区域の住民によって行われている。祭礼は旧暦1月15日・16日であり、福引が行われていたが、現在は太陽暦の1月15日・16日に改められ、余興は行われていない。同じく赤坂町に位置する宮道天神社で例祭が行われる際には、渡御する神輿の休憩所として境内が使用されてきた。確認できる最古の棟札は文政12年(1829年)のものであり、「再建之辨天拝殿一宇」の文字が見える。他には、明治20年(1887年)のものがある。境内には、大正7年(1918年)2月に建てられた常夜灯がある。脇社。『関川神社の楠』を見上げる。「関川神社の楠由来及び沿革については不明であるが古老の説によると、木の根元からえぐられている部分は慶長十四年(1696年)の十王堂近所(宮路山登山口の東側)からの出火による火災で約30戸が焼失しており、その時に火の粉が飛び焼けたものであるといわれている。この木は楠としては町内一の巨木で、幹のまわりは目の高さで約7.29m、高さ25.7mあり推定樹齢は約800年であるといわれています。」社殿を斜めから。芭蕉の有名な「夏の月 句碑」。「夏の月 御油より出でて 赤坂や 芭蕉翁」この句は、松尾芭蕉が夏の夜の短さと、わずか16町(両宿問屋間)と近接する赤坂と御油間の距離の短さを詠んだもの。音羽町のマンホール蓋。歌川広重「東海道五十三次・赤坂」の一部が描かれていた。こちらが原画の『東海道五十三次之内 赤阪 旅舎招婦ノ図 / 歌川 広重』。更に進むと左手700mに『豊川市音羽福祉保健センター』。右手に『音羽郵便局』。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.12.24
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次前夜(10月14日)はホテルへチェックイン後、10月24日から出発するブルガリア、ルーマニア旅行をご一緒する旅友の女性と旅友Sさんそして私の3人で旅行前の親睦をはかる。そして翌朝・10月15日のホテルの我が部屋からの朝焼けの光景。ホテルのフロント横の壁に掲げられていた『東海道五十三次 岡崎 矢矧之橋 / 歌川 広重 』の一部を取り出し、アレンジして織り上げた絨毯が。図の橋の名は矢矧之橋といって、東海道中で一番長い橋で、208間(378m)ある。こちらが、『東海道五十三次 岡崎 矢矧之橋 / 歌川 広重 』。カーブを用いて長さを強調した。川の中は白砂で、水深は浅い。大名行列が橋を渡っているところであり、向こう側には岡崎城の櫓が描かれている。家康誕生の城を当時の人は特別の思いでみたであろう。豊臣秀吉が蜂須賀小六と出会ったのはこの橋である。ホテルで6時半から朝食を取り早々に出発し、乙川に架かる明代橋を渡る。この日の「旧東海道を歩く」は御油宿から豊明駅辺りまでを予定。明代橋から下流を望む、ビルと林の間に岡崎城が小さく見えた。岡崎城天守をズームで。名鉄・東岡崎駅前にあった『ようこそ、岡崎へ』の大きな看板。「岡崎新時代ナビゲーター 竹っちょ」だと。徳川家康の幼名竹千代(松平、徳川の幼名)からとったもの。名鉄名古屋本線の豊橋・豊川稲荷方面の「普通 伊奈」6:53に乗る。定刻に伊奈行きに乗り、御油駅を目指す。御油駅に到着し、改札口を出ると『御油宿・赤坂宿観光案内』が。『御油駅』御油の町は東海道五十三次の御油宿として発展。過去には御油城もあった。しかし、東海道本線は御油宿を経由せず、1888年から1948年の間は、現在の愛知御津駅が、御油駅を名乗っていた。この理由について、勾配を避けるために蒲郡経由で敷設されたのだと。国道1号線を渡る地下道を通る。地下道の壁には子供たちの絵が展示されていた。「この絵は御油小学校の六年生が卒業記念に描いたものだと聞いて、私たちボランティア委員会は地下道のそうじをしました。みんなの地下道をこれからもきれいに使いましょう」と。県道374号線の御油橋東交差点に向かって進む。県道374号線の音羽川に架かる新御油橋を渡る。右手左側に『御油の松並木資料館』、その先に『音戸橋』が見えた。『音羽川』と『狂歌入東海道 御油』の銅板の浮世絵。狂歌は「此ゆふべ櫛やけづらむ妹が髪あけ油てふ宿につく夜は」。反対側には『東海道五十三次之内 御油 旅人留女 / 歌川 広重』。旅人を襲い拉致するかの凄まじい留女が描かれている。なお「御油」の由来は〝日本書記の持統天皇〟が近くに来た際に油を献上したという伝説からとか。『新御油橋』。『行書版 東海道 五十三次之内、御油 / 広重画』。河原には大きな老木が2本。そして左手には旧東海道の『御油橋』が。川沿いを進み旧東海道に突き当たりここを右折して進む。歴史を感じさせる民家には一面の格子戸が。旧東海道・県道374号線を再び進むと、左手にあったのが『御油宿』説明板。ここは『御油宿 鈴木本陣跡(鈴木半左衛門家跡地)』。隣には判読できない石碑も。「御油宿御油宿は、江戸時代に徳川家康によって整備された江戸日本橋から京都三条大橋を結ぶ東海道の35番目の宿場です。次の赤坂宿とは御油のマツ並木(国指定天然記念物)を挟んで、わずか十六町(約1.7km)と東海道の宿場間では最も短い距離です。当初、両宿で一宿分の役割を果たしていた時期もあったようです。天保14年(1843)頃の御油宿の家数は316軒で、本陣が2軒(元は4軒あったが、うち2軒は天保4年の火事で焼失)、脇本陣はなく、旅籠屋は62軒でした。この場所は、本陣鈴木半左衛門家跡地です。本陣とは、参勤交代の諸大名をはじめ、宮家・公家・幕府役人などが宿泊する施設であり、原則として門・玄関及び上段の間を備えるなど、庶民が利用する旅籠とは 異なっていました。」その先にあったのが『イチビキ株式会社』。『イチビキ株式会社 第一工場』。愛知県名古屋市熱田区新尾頭一丁目11番6号に本社を置く調味料メーカーである。ブランドステートメントは「おいしさスマイル」。「イチビキ」の商標は、明治末期から大正にかけて行われた北海道での大豆の買い付けが由来とされる。当時、大豆の品質を調べる際、「サシ」と呼ばれる鉄の半円筒を俵に刺し、中の大豆を取り出して良品のみに荷印を打って粗悪品と区別していた。大津屋(おおつや。現在のイチビキ)の荷印は「スッキリ引いた一本棒」で、これを「一引き」(いちびき)と呼ばれるようになり、商標および社名の基となったのだと。イチビキ第1工場の『味噌の館』。案内板。『味噌の館』入口。昔は味噌蔵だったのであろうか。御油宿で味噌・醤油の醸造を行っているイチビキの工場(蔵)。明治44年に御油工場に完成したと。桶底の直径が1丈3尺(約3.9m)高さ1丈3尺(約3.9m)容量約50tという日本最大級の味噌仕込桶が自慢のようである。一度実物を見てみたいものだ。旧東海道を左に折れ進むと正面にあったのが『東林寺』山門。山門前の大きな石柱には、ごゆ(御油)観音と書かれていた。手水舎。真新しい『本堂』。『普益殿』と書かれた扁額。この鬼瓦には卍と巴紋に似た紋が。「東林寺東林寺は、室町時代の中頃の永享年間(1429~1441)に龍月日蔵和尚によって創建され、当初「洞元庵」と呼ばれていました。本尊の阿弥陀如来は、鎌倉時代初期の中央仏師の作と推定されています。言い伝えによれば、この如来像は奥州に下る牛若丸(義経)と契りを結んだ三河矢作の浄瑠璃姫の念持仏で、龍月日蔵和尚が当寺に移し、本尊として祀ったとされています。この寺には、徳川家康が二度も立寄っています。また、芝増上寺の管長祐天大僧正がたびたび訪れていることからも、当時の隆盛ぶりをうかがい知ることができます。」見事な先代の鬼瓦も展示されていた。本堂の鬼瓦を見上げる。半菊に一の字の寺紋。東林寺の『飯盛女の墓』。境内の墓地には、江戸時代から昭和時代にかけての町の名家や有力者が多く葬られており、東林寺が御油の中心寺院であったことがうかがえます。この墓地の中央、土塀寄りのところに、飯盛女の墓が5つ並んでいた。飯盛女とは宿場にいた遊女のことで、その多くは、生計が苦しい家や年貢を納めることが困難な農家が、金を借りるために年季奉公に出した娘たちであった。御油宿は遊興の宿場として知られ、多くの飯盛女がいたが、彼女らは非常に不遇な立場に置かれていた。これらの墓石は、旅籠屋の抱え主が飯盛女の菩提を弔うために建てたもので、あまり知られていない宿場町の歴史の一つを今に伝えていると。東林寺の白塀。そして隣りにあった『清海寺』にも立ち寄る。西国三十三所観音、九番札所 千手観音の文字が。三河三十三札所順礼御詠歌「此のたびは 花のうでなに よももれじ 千すぢの御手の 糸にひかれて」『本堂』。境内にあった『三界万霊塔』。三界とは仏教の言葉で、欲界(食欲、物欲、性欲の世界)、色界(物質の世界)、無色界(欲も物もない世界)の三つの世界をいう。また、過去、現在、未来をいうこともある。これらの世界の霊、この世の生きとし生けるものすべての霊をこの塔に宿らせて祀りするために建てられた塔である。多くは寺の境内や墓地に建てられて、万霊の供養や無縁仏を供養するものとされている。『清海寺』を後にし、旧東海道(県道374号線)に戻り更に進む。連子格子の古民家が右手に見ながら『御油の松並木』に向かって進む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.12.23
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次気賀関所の案内所の女性から、実際の『気賀関跡』を紹介され、そこに向かう。途中右手に『気賀駅(きがえき)』が。気賀駅は、静岡県浜松市北区細江町気賀にある天竜浜名湖鉄道天竜浜名湖線の駅。駅舎には飲食店「中華屋 貴長」が入居していた。右手にあったのが『郷社 細江神社』。この神社は、天竜浜名湖鉄道・気賀駅の北北東300m程の辺り、気賀小学校の西側に鎮座。由緒書によれば、嘗て浜名湖は淡水だったと。御祭神:素盞嗚尊・奇稲田姫尊明応七年の大地震によって浜名湖は外海とつながり、その時の大海嘯により新居の角避比古神社は流没。しかし、御神爾は奇跡的にこの気賀の地に着御された。里人は牛頭天王社として気賀の総氏神として祀る。以来気賀のお天王さまと尊称し、七月の祇園祭りの船渡御は全国的にめずらしい勇壮な祭りとなっていると。そして『気賀関所跡』に到着。姫街道の歴史は古く、縄文時代にまで遡ることができますが、いわゆる「姫街道」と現代でも称される街道は、天正15年(1587)6月に、本多作左衛門が要所に新宿を設けたことから始まりました。その後、道路も次第に整備され、人馬の継所として発展してゆきました。慶長6年(1601)には東海道宿駅の制が幕府によって定められ、この街道も「東海道本坂越」と名づけられました。この街道は東海道の脇街道、脇往還で、見付から東海道と別れて市野に入り、気賀を通って三ケ日に出て、本坂峠を越えて嵩山(すせ)を通り、豊川を渡って御油(ごゆ)で最終的に東海道と合流する15里14町(約60キロメートル)の道程でした。街道の主な目的としては、浜名湖入口の渡しを避けることにありました。当時、浜名湖を渡ることは大変危険であったためです。宝永4年(1707)10月4日における大地震では、壊滅的な打撃を受けた浜名湖南部を迂回するため、被害の少なかった姫街道はそれまで以上の賑わいとなりました。あまりの混雑ぶりに、宝永7年(1710)3月には幕府により大名の本坂越通行が禁止されましたが、交通量は減ることはありませんでした。その後も幕府から度々禁止令が出ることにより、街道はようやく落ち着きを取り戻しましたが、公家や武家の奥方、姫君女中衆はこの街道を使用し続けました。これにより本坂道は「姫様道」「姫街道」と呼ばれるようになりました。気賀の関所は、この本坂道を監視するために慶長6年(1601)に徳川幕府によって設けられ、箱根、今切(新居)の関所とともに江戸に対する重要拠点となりました。慶長10年(1605)には気賀の町が大火に見舞われ、町並みはほとんど消失しましたが、関所は被災を免れました。このような状況から、関所では何度も茅葺の屋根を瓦葺に改装する願いを出しましたが、「権現様(家康)のとき茅葺であった」という理由で却下され続けました。その後実に100年以上経ってから瓦葺となり、幾つかの大災害をくぐり抜けて、規模と構造はほぼそのままに明治時代まで残りました。明治2年(1869)の関所廃止令により、気賀の関所もその長い歴史の幕を閉じました。本番所は全国で最古の関所建物として昭和35年(1960)まではほぼ完全な形で現存していましたが、ほとんどが解体され、現在ではその一部が民家の屋根として残されているのみとなってしまいました。『史跡 気賀関跡』碑。現在は細江町の街中の一角に石碑だけあり往時を偲ぶよすがもない。『気賀関所 本番所』「気賀は、天正15年(1587)本多作左衛門によって街道の宿と定められました。山手に土塁、南は堀川、東に関所と萱垣、西に石垣と矢来と枡形があり、その中に本陣、問屋場、旅籠をはじめ民家約百軒が町並みをつくっていました。 気賀関所は気賀宿の東の入り口にあり慶長6年(1601)徳川家康により東海道本坂道の往来の取り締まりのために創建されたといわれます。 関所の本番所は、はじめ茅葺でしたが、寛政元年(1789)に杮葺・切妻破風造り、狐格子・瓦棟に改築されました。嘉永7年(1854)に大地震で壊れたため葺きかえられ、 昭和35年まで残されていました。現在の建物は関屋の正面に向って左の部分三分の一で下の間・勝手の間の部分です。屋根の切妻破風造り、狐格子が残されています。 本番所の正面、街道をはさんで向番所と二層の望楼があり、周囲には堀と石垣、矢来が設けられていました。」『堀川城跡 古戦場』『堀川城跡・古戦場』の石碑。『伝 堀川城跡』遠江を手中にしていた今川義元と、今川氏への忠信が強かった気賀の村人たちにより、永禄10年(1567年)に築かれました。場所は、その80年前に起きた明応地震によって、浜名湖が海と繋がってできた三角州の湿地帯。一見無防備に見えますが、湖を背にして、前面に都田川の水を引き、満潮時には湖水がまわって島のようになり、船を使わないと城には入れないようになっていたといわれています。しかし、徳川家康の猛攻の前にはこの細工もむなしく、ひとたまりもなく陥落しました。この戦は、悲惨きわまりないものでした。永禄11年(1568年)三河の岡崎城から遠江に侵攻した家康は、井伊谷城、刑部城を落とし、引馬城からも今川勢を追い出して掛川城に迫りました。そこで一度三河に戻り、再び出陣して翌年の3月、干潮を見計らい3千の軍勢で、堀川城に攻めかかりました。堀川城の城兵2千人の大半は、老若男女が入り交じった武装した農民でした。抵抗しましたが、戦慣れした徳川軍にかなうはずもなく、1日で落城。さらに後日、家康は籠城抗戦を主導した者たちを惨殺し、都田川の土手に首を並べたと伝えられています。家康の若き日の汚点となる、残虐な行いだったとされています。現在、堀川城があった地は、田園の中に、ぽっかり浮かぶ緑の島のように見えます。城跡には、『堀川城跡・古戦場』の石碑と、小さな首塚が一基あり、その所在を知らせています。また、城址の北600mほどのところに、『堀川城将士最期の地』があります。多くの村人がここで処刑されたことからこの地は獄門畷と呼ばれています。小さな首塚が一基。そして天竜浜名湖線にそって浜名湖の北の湖岸の風景を楽しみながら進む。静かな湖面の浜名湖。国道362号線を進む。豊川を渡り国道362号線を左折し、豊川市小坂井地区の国道151号線を進むと右手に『宮下東』交差点に巨大な朱の鳥居が。『白狐ヶ丘』と書かれた扁額。この大鳥居は『白狐ヶ丘五社稲荷社』の鳥居。この地は、白狐ヶ丘といわれ、弥生中後期の住居遺跡で欠山式土器の発掘地として知られており、明暦年間(1656年頃)にこの遺跡の中央前方部大古墳上にこの古墳の尊厳を守り、五穀豊穣を祈るため「保食神(うけもちのかみ)」を斎祀したのが始まりと伝えられています。文政13(1830)年に京都伏見稲荷大社より、五神を勧請し五社稲荷社となり、延享4(1747)年に社殿が改築された記録があり、実際の創立年代はそれ以前にさかのぼるとのことですが、詳細は不明です。五穀豊穣、商売繁盛、福徳円満の神として崇敬され、毎月1日、15日の月次祭(つきなみさい)には、多くの参拝者があるとのことです。この後、先日の『旧東海道を歩く』で旅友Sさんが訪ねそこなった『兎足神社』👈リンクを再び訪ねた。そして旧東海道の県道496号線・白鳥豊橋線を進み飯田線の踏切を渡る。そしてこの後、国道1号線をひたすら走り、何とかこの日の東岡崎駅近くのホテルに到着。そしてチェックイン後、岡崎市内にお住まいの旅友の待つ『世界の山ちゃん』へ。『名古屋名物 幻の手羽先』が人気の『世界の山ちゃん 東岡崎駅前店』。もちろん『名古屋名物 幻の手羽先』を注文。『土手煮』も注文。久しぶりの再会で、そして10月24日出発のブルガリア・ルーマニア旅行もご一緒するので大いに語り合ったのであった。ホテルへ戻る途中の『乙川』に架かる『名代橋』からライトアップされた岡崎城を見る。岡崎城をズームで。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.12.22
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次県道362号線を都田川にそって進むと、『気賀御関所』の案内板があったので急遽立ち寄ることに。文化センター駐車場脇に建つ関所案内板。気賀関所(きがせきしょ)は、17世紀初めに江戸幕府が本坂通の気賀に設置した関所である。東海道の新居関所の裏番所として本坂通(姫街道)の往来を監視した。旗本の気賀近藤氏が関所を監理し、関所手形により「入鉄砲に出女」を取締り、周辺の要害村や新居関所、金指の番所と共同で浜名湖上の通行や「横越し」を監視した。気賀関所は、全国53箇所に設置された関所のうちで、東海道の新居(今切)の関所と同じく重要な関所と位置付けられ、近世関所は、「入鉄砲に出女」を改めるために設置され、「入り鉄炮」の通関には老中証文が必要であり、気賀関所の監視は、東海道の本道の新居関所と同様に厳格だったとされ、領主でも通過する際には手形を必要とした。『ようこそ浜名湖へ』案内板。浜松市 細江図書館の駐車場に車を駐め『気賀関所』の散策開始。北区役所方面からの関所東側石畳と松並木の前方に『冠木門』が。当時の資料を元に、江戸時代の建物が忠実に復元されているのだと。『冠木門(かぶきもん)』。『冠木門(かぶきもん)』。「この門は、東御門又は大門と呼ばれ関所の出入り口にあったもので、毎日明け六ツ(午前六時)に開門し暮れ六ツ(午後六時)に閉門した。」『気賀関所』。「江戸時代、細江町を東から西に横切っていた街道を、東海道本坂越又は本坂道・本坂街道・姫街道などと呼んでいた。気賀関所は慶長6年(1601)に徳川家康によって創設されたといわれている。敷地は547坪(約1805㎡)で裏に竹藪117坪(約386㎡)、東に冠木門(かぶきもん)(高麗門)、この門を入り正面となる北側に旅人を調べる本番所、南側に相対して牢屋が設けられていた向番所、さらにその南に遠見に使用された遠見番所、西側には町木戸門で気賀宿と接していた。江戸時代の関所は、幕府の所在する江戸防備を目的として設置された。一般に「入り鉄砲に出女」といわれるように、鉄砲が江戸に持ち込まれることや、人質として住まわせていた大名の妻子などが国元へ逃げ帰ることを防ぐため関所で取り締まった。気賀関所は、箱根関所・今切(新居)関所とともに東海道の三関所といわれた。気賀関所の関守は、元和5年(1619)から明治2年の関所廃止まで旗本近藤家が代々拝命した。番頭2名、平番4~5名が主に取り調べにあたった。」『気賀関所 施設紹介』。案內所で入場料150円を支払い中に入る(70才以上は無料とのことで旅友Sさんはニッコリ)『冠木門』から入ると右側に『本番書』が。その手前に罪人を捕えるために用いられた三つ道具『刺股(さすまた)・突棒(つくぼう)・袖搦(そでがらみ)』が展示さているようであったが、この日は無かったが。最近の世情から安全上の配慮なのであろうか?『本番所』「この建物は本御番所又は面御番所とも呼ばれ通行の旅人や荷物などを取り調べたところである。」『本番所』のいち番手前の部屋。中央の部屋では、等身大の関守等の人形が置かれており、往時の様子を再現。中央に『番頭』、両脇に『平番』が。本番所西側、一番奥の部屋は『家老の間』。『家老』。後ろの床の間には徳川家康公遺訓の掛け軸が。「人の一生は、重荷を負うて遠き道を行くが如し、急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし、心に望み起らば困窮したるときを思い出すべし。堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え、 勝つことばかり知りて、負けることを知らざれば、害その身に至る。己を責めて人を責めるな、及ばざるは過ぎたるより勝れり。 」『本番所』の真向かいにあった『向番所で行われていた『女改め』。関所の主要任務の一つ、『女改め』。『女改め』とは女性を調べることで、改め姥(大抵は関所の役人の妻)が、女手形に記されていること(本人の年齢、姿形など)が一致してるかを入念に改めた。大名の妻子が国元へ逃げ帰ることを防ぐのも目的のその一つであると。 『天水桶』。防火用に雨水を貯めておく桶。気賀の町が大火に見舞われたことで火災の用心をしていたのであると。『制札』。『気賀関所 制札』。「関所取締りの原則を揚げたものであり以下のようなことが書かれていた。定 一 通行人は関所の前で笠 頭巾をぬぐべきこと 一 乗り物に乗ったまま通るものは乗り物の戸を開くこと ただし女の乗り物は 関所役人の指図に従って改め女に見てもらい通りこと 公家門跡その他の諸大名が 通るときには前もって連絡があるから改めなくてよい ただし疑わしいことが あれば改めること 一 鉄砲は定められた証文と照らし合わせて通すこと 右の定めは必ず守すべきこと 幕府からの命令はこのようである 安政五年(一六五二) 六月十二日 奉行」」『姫様館』を訪ねた。建物の前には、NHKで放送されているた、大河ドラマ「おんな城主 直虎」に関連した次郎法師(井伊直虎)・南渓和尚・虎松の顔抜きパネルが設置されていた。入口には、気賀関所を預かっていた旗本近藤家の家紋である「丸之内抱鹿角」が飾られていた。姫様館には気賀関所の貴重な資料を展示していた。江戸時代に僧侶が使っており、且つ第一回から姫様道中でもつかっていた駕籠なども展示されていた。近寄って。「この乗り物(駕籠)は江戸期のもので、僧侶が使用したものです。細江町では、第1回目の姫様道中の駕籠として使用していましたが、底が抜けて使用できなくなりました。」また、浄円院(八大将軍吉宗の母)が宿泊された時に、付き添いの人に出された料理を再現したものも展示。こちらにも駕籠が。「この乗り物(駕籠)は江戸期のもので、御典医(御殿医者)が使用した駕籠。御典医→江戸時代、将軍や大名のお抱えの医者」『古地図』。『徳川家康の花押』。『中村本陣 関所関係古文書展』。『往来手形』。尾張中納言は御休憩、松平伊賀守はお泊りになったのであろうか?外に出て『町木戸門』へ。この門は気賀関所西側にあって『町木戸門』と呼ばれ、これより西側に気賀宿の町家が広がっていたと。町木戸門右手前側に建つ『気賀関所』跡石碑。気賀宿の町家が広がっていたと言う場所には、土産物屋や休憩所が並ぶ『田園空間博物館』が。奥浜名湖田園空間博物館総合案内所もここにあると。町木戸の隣には『要害堀』があった。関所警備のために作られた堀で、舟で行き来する人も関所に入ることが出来るように、木戸が設けられています。現在では、関所の南側に堀の一部が再現されています。右に『大番所』、左に『姫様館』。次に訪ねたのが『遠見番所』。内部には『関所配置図』が。『諸国関所一覧』。『姫街道と姫様道中』。姫街道の由来 姫街道は、見付宿から御油宿まで、浜名湖の北岸を迂 回する東海道の脇往還です。現在は「姫街道」という名 前で親しまれていますが、この名前で呼び始めたのは、 幕末ごろからといわれています。 江戸時代には、正式には「本坂通」と呼ばれていまし た。当時は安間新田村(東区安新町)あるいは浜松宿(中 区連尺交差点)で東海道と分岐し、浜名湖北岸を通って 本坂峠を越え、御油宿あるいは吉田宿(豊橋)で東海道 と合流していました。本坂通には、市野宿、気賀宿、三 ヶ日宿、嵩山宿が置かれました。沿道には一里塚が配さ れ、市野宿の西や三方原台地上には松並木が続いていました。気賀宿の東端には気賀関所が置かれ、新居関所と 同じく、「入り鉄砲と出女」の取り締まりが厳しく行われ ました。 『山駕籠(やまかご)』。「江戸時代、道中、山路などで使う簡単な駕籠。基本型は、竹で底を円形に編み、網代の屋根が付いていた。」こちらは『虎丸籠(とうまるかご)』。「江戸時代、農民や町人の重罪人を護送した竹製の籠。」『加賀関守 旗本 近藤家』慶長6年(1601)に創設された気賀関は箱根、新居と並んで東海道三関所の1つ。関守は元和5年(1619)から明治2年の関所廃止に至るまで旗本の気賀近藤家が12代にわたり代々拝命した。気賀関所の見どころといえば『向番所』にあった『牢屋』。見張り台からの『町木戸門』側の景色。『遠見番所釣鐘』。『遠見番所』。「この建物は遠くを見張るために使ったもので、上階には釣鐘がかけてあり下の部屋には大砲が入れてあった。」『下雪隠』。雪隠とはトイレのこと。本番所にある雪隠は身分の高い人用で、こちらは一般の人用です。こちらがあるのは遠見番所の前、向番所の裏になります。本番所の雪隠は建物の裏にあると。こちらのトイレのところには陶器製の手水鉢が。内部。再び『本番所』と『冠木門』を見る。南側の道路から『遠見番所』の見張り台を見る。「おんさいね! 気賀関所へ」と幟に。【おんさい】というのはこの地方の方言で 【おいでなさい】や【いらっしゃい】という意味。こちらにも『気賀関所』案内板が。「江戸時代、細江町を東から西に横切っていた街道を、東海道本坂越又は本坂道・本坂街道・姫街道などと呼んでいた。姫街道の要衡地であった気賀上村に、徳川家康は早くから関所を設けて「入り鉄砲に出女」の監視を中心に、通行する人々や荷物の取り調べを行った。その後、箱根にも関所が造られ気賀関所は、 箱根関所・今切(新居)関所とともに、東海道の三関所と言われ明治2年まで続いた。平成元年度ふるさと創生事業として、現存する史料を調査して、寛政元年(1789)初めて瓦葺に改築された気賀関所を冠木門、本番所、向番所、遠見番所、制札場、雪隠、三ツ道具立、槍立、矢来などで再建し、等身大の人形を配置して当時を再現した。」再び案内所内部にあった『気賀関所』の絵画と記念撮影用の鬘や貸衣装等が。貸衣装は忍者、若殿、町娘、直虎、子供姫、子供赤備え甲冑、音羽ちゃんなど大人用、子ども用ともに種類が豊富で迷ってしまうほど。衣装で施設内をめぐることができると。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.12.21
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次更に『秋葉山 上社』境内を進む。右手に『手水舎』。『手水舎』の裏に『天狗の皿投げ』の投射所が。秋葉神社には、『天狗の皿投げ』というちょっと変わった願掛けがあるのだと。素焼きのお皿に願い事を書き、丸い的に向かって投げる。みごと的を通過すれば願い事が成就されるとのこと。残念ながら、的の輪は写真を撮り漏らしてしまったのであった。この写真の下側にあったのだろう。『天狗の皿投げ』。「秋葉山にはむかしむかし天狗が住んでいて、皿を投げては願力を競っていたと言われます。あなたの願いを皿に書き幸運を開きましょう。」<天狗の皿投げ> お皿三枚、おみくじ、お守りもついて500円。更に階段を登る。社務所前を通り過ぎると黄金色の大鳥居が迎えてくれた。『幸福の鳥居』と言われているとのこと。黄金に輝く鳥居。「混迷の世に、人々の幸福を望み、昔に傚い黄金の鳥居を建てたのである」とのこと。『幸福の鳥居』。「昔、秋葉山に正一位の勅額を掲げた金銅の鳥居が建っていた。秋葉大神は火難を始め諸厄諸病の難を免れて幸福を恵む厄除け開運の神徳がある。神徳は神意に沿った行為に依って授かると信ぜられた。幸福を象徴する黄金で造った鳥居を奉納して神にあやかり人々に幸福が与えられるよう冀ったのである。混迷の世に、人々の幸福を望み昔に倣い黄金の幸福の鳥居を建てたのである。」本殿の下方、向かって右に建つ素木の社殿は平成4年に竣工された『神楽殿』。『秋葉の火まつり』で知られる12月16日夜の防火祭で古式豊かに執り行われる三舞の神事の舞台となるのがここであると。置かれている巨大な「絵馬」は、Jリーグ「ジュビロ磐田」の祈願絵馬。毎年、チームの関係者全員で、必勝祈願の参拝に訪れると。『御札所』。そして『本殿』への最後の階段。現在の『本殿』は、1986年(昭和61年)の再建。流れ造りの『本殿』と入母屋造りの『拝殿』を幣殿で繋ぐ権現造りで、建坪130坪、総檜造り。拝殿正面には唐破風の向拝が続く。秋葉神社 『本殿』。『拝殿』内部では、神官による祈願式が行われていた。拝殿正面の唐破風の向拝とその下には見事な数々の彫刻が。右から。干支の動物が刻まれていたのだろうか。「社殿」左前の一段上の砂利の敷かれている場所の先端は展望台になっていた。天候に恵まれれば、「遠州灘」「浜名湖」「天竜川」等が見えるという。拝殿に上る階段左手にある。小さな祠ですが末社である三宮が。正面左から『祓戸』、『内宮』、右が『外宮』。『神恵碞』。詳細は分からないが、「碞」は「がん」とか「いわ」と読み、「岩」とか「大きな石」のことを言ううようだ。『授与所・御札所』を正面から。『社務所』。『社務所』の天井には『神紋』が描かれた巨大な凧が。神紋と社紋を分けており、神紋は「七葉もみじ」(しちようもみじ)、社紋は剣花菱である。剣花菱は武田信玄の寄進と社伝にあると。12月15、16日に行われる『秋葉の火まつり』のポスター。御朱印を頂きました。帰路の階段から見えた袋井市にある『エコパスタジアム』をズームで。ラグビーワールドカップ2019で9月28日(土)に日本がアイルランドに勝利した場所。本殿側から見た『神門』。鬱蒼とした『秋葉杉』を見ながら下山したのであった。そして天竜川に沿って国道152号線に沿って南下する。天竜川にかかる『横山橋』を渡る。昭和50年(1975)に完成したワーレントラス橋。そして右手に見えて来たのが『船明ダム湖』。右手に見えたこの橋は?水道橋か?『船明ダム』を渡る。天竜川上流にある発電及び農業用水用のダム。1門の大きさが高さ15.3m、幅20mの世界最大級の出水ゲートが9門もある大規模なもの。車を止めて、放流の姿を。ズームで。「天竜川源(すわ湖)よりここまで185kmです。」県道297号線の『潮見渡橋』。国道152号線の架かる『鹿島橋』を左手に見る。前方に『天竜浜名湖鉄道』の天竜川にかかる『天竜川橋梁』が。国道362号線を進む。左手にあったのが『常葉大学』。『井伊谷川』を渡り豊川方面にむけてこの先を左折。右手に進むと井伊直虎ゆかりの臨済宗妙心寺派の寺院『龍潭寺』へ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.12.20
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次秋葉神社の御社頭は、山頂の上社と山麓の下社とある。上社は、天竜川畔雲名・秋葉ダム(国道152号線)から夫々登山自動車道に沿って約20分で山頂駐車場に達する。神域には老杉がうっ蒼と繁り、御本殿は昭和61年10月に遷座され、建坪130坪、総桧の入母屋流れ造りであるとのこと。再び車で上社を目指す。気田川(けたがわ(に沿って県道286号線を走る。気田川が天竜川に合流する手前の285号線(大輪天竜線)に架かる赤い橋は『気田川橋』。我々は更に286号線を進み、天竜川沿いの坂道を登って行く。狭いトンネル・「扇岩隧道」の中に入る。そして下社から20分ほどで上社の駐車場に到着。正面に上社本殿に向かう大鳥居が迎えてくれた。駐車場入口部には案内板が。『秋葉山本宮秋葉神社』案内図。『森と水の郷ようこそ北遠』狛犬と大鳥居上社の狛犬はオオカミで、秋葉山にはオオカミ信仰もあるのだと。吽像。阿像。大鳥居の大きな扁額(神額)には『正一位秋葉神社』の文字が。『本殿』への階段を登って行く。鳥居をくぐると本殿まで延々と階段が続いた。数段上ると平らな参道が少しあり、数段上ってまた少し平らな参道が・・の繰り返しであったが、長いのでちょっと大変。階段の両側には秋葉山常夜灯が並ぶ。『秋葉山境内でみられる山野草』平らな参道部。『秋葉山本宮』秋葉山は赤石山脈の遠州平野に突出した最南端で、天竜川上流に位置し、山頂は標高866m。はじめて社殿が建ったのは和銅二年(709年)と伝えられ、秋葉山は御神体山として崇敬されてきたそうです。また、秋葉神社は昔、「岐陛保神ノ社(キヘノホノカミノヤシロ)」と称したそうですが、中世両部神道の影響を受けて「秋葉大権現」と改称し、明治に入り秋葉神社となり、全国の秋葉神社の総本宮であることから昭和27年に「秋葉山本宮秋葉神社」と改称したと。『秋葉山境内でみられる野鳥』再び別の『秋葉山境内でみられる山野草』。更に階段は続く。『秋葉杉』。「遠江(とおつおうみ)を見霽(はる)かす秋葉山(海抜866m)は、千古の杉・桧がうっ蒼と生い寵リ、上古より俗塵を離れ、神の鎮ります霊山と崇められてきました。この神域の大杉は、天然林を始め、古くは文明年間(1469~1487年)より植林により育てられたものであり、秋葉杉と呼ばれています。」『秋葉杉』の大輪。参道沿いの斜面にはモミジの苗木が奉納されていた。更に常夜灯のある参道を進む。石段を10分ほどかけて登ると平成17年に竣功した『西ノ閽の神門(にしのかどもりのしんもん)』が姿を現した。樹齢650年の秋葉杉の切り株が左手に。かなり大きな切り株で、参道の横に。神門を造った木の切り株だと。「私たちは、古来より自然の恵みのなかで生活を行ってきました。あらゆる自然の営みのなかに神威を感じとり、自然への感謝を抱き、その自然との共生を願ってきました。森や山を神々の鎮まる神聖な場所と崇め、樹木は神々の依代ともされてきました。そして、木々は枯れ、伐採されたとしてもその神聖な生命は、切り株や切り出された木材に籠(こ)もり、継承されるものと信仰されてきました。ここ秋葉山では文明年間(1467~1487)より育林事業が行われ、この神門は古くから当地方で植林された杉だけを用いて造営されたものであり、古儀(こぎ)に倣(なら)い木の根と梢を大神に献(たてまつ)り、御神恩(ごしんおん)に感謝申し上げ、更なる御神威(ごしんい)の発揚を冀(こいねが)い、茲(ここ)に西の閽の神門を建立するものであります。」西ノ閽(かどもり)の神門・随身門。御鎮座1,300年記念事業の一環で、スーパー林道沿い参道に造営、材料は、地元天竜杉を使用。この門の両側には想像上の動物の神(四神)が取り付けられていた。玄武・白虎・朱雀・青竜の四神。正面左側に『玄武』。右側に『白虎』。裏側左側には『朱雀』。右側に『青龍』。随身・『右大臣』。随身・『左大臣』。階段の先に建物の姿が見えて来た。こちらは金属製の常夜灯。最後の参道階段を登る。『休憩所』、真ん中に『秋葉茶屋』。『休憩所』入口。さらに階段を上って手水舎と社務所がある南側に辿り着いた。この階段の上に社殿があります。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.12.19
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『秋彩ルーマニア・ブルガリア8日間の旅』のブログアップが1ヶ月以上続き、その後も小原四季咲き桜、香嵐渓の紅葉の絶景をブログアップして来ましたが、再び『旧東海道を歩く』のブログアップの再開です。--------------------------------------------------------------------------------------------------『旧東海道を歩く』ブログ 目次去る10月14日から2泊3日で旧東海道を歩く(御油宿~池鯉鮒宿)に行ってきました。前回と同様に7時に茅ヶ崎の旅友の家を出発し、この日は、台風19号の影響で西湘バイパスが通行止めになっていたため、国道1号線を渡る。一時は洪水の可能性があった相模川を渡る。この朝は既に水位はかなり下がっていた。国道1号線沿いにある創業明治十一年 大磯 井上蒲鉾店前を通過。大磯・滄浪閣前を通過。酒匂川を渡る。小田原の町を通過し、板橋見附交差点先で新幹線を潜る。箱根新道への分岐に向かって進む。箱根新道に入ると大粒の雨が降り出して来た。ここ箱根町では10月12日夜までの24時間降水量が942.5mmを記録し、全国の最多記録を大幅に更新したのであった気象庁が1976年から残している全国統計で、最多の24時間降水量を記録した箱根町。10月の平均雨量は334.3mmで、この約3倍もの雨が、わずか24時間で降っていた計算になる。外の温度は11℃の表示が。箱根峠を超え山中城裏の山中城1号トンネルを通過。山中城2号トンネル前からは駿河湾、伊豆半島が見えた。前方に三島スカイウォークが垣間見えた。国道1号線の交通量も増えて来た。前方に薩埵峠が姿を表す。富士由比バイパスを走り、東名高速道路下を通過。丸子蓼科トンネルを通過。大井川を渡る。大井川の水量は少なかった。島田金谷バイパスから粟ヶ岳山頂近くに『茶』の文字が。小夜の中山トンネルを通過。県道40号線の太田川を渡る。県道58号線三倉川に架かる元開橋を渡り左折する。県道38号線をひたすら走り三倉トンネルを通過。道の駅『春野いきいき天狗村』でトイレ休憩。『春野いきいき天狗村』。春野は、鮎の生息地としても有名な気田川が流れ、豊かな自然に囲まれた山あいの里。2002年4月、塩の道とよばれる春野袋井線沿いに地場産品直販施設がオープンした。町内の生産者などが特産品のお茶やしめじ、しいたけ他、取れたての野菜や林産加工品を店に出していた。また、併設する食堂では、ヤマメの塩焼きや五平餅、自然薯のとろろそば、季節の野菜天ぷら入りそばなどが楽しめるようであった。魔除け『秋葉の天狗』。『抹茶入り 生どら焼き』を購入し楽しみました。そして更に県道58号線の山道を登って行く。『秋葉山本宮』の案内板が姿を表す。県道286号線気田川に橋を渡り左折。『気田川』の流れ。この日は東岡崎のホテルに向かう移動日であったが、途中、最初に秋葉神社下社を訪ねた。山道を進み秋葉神社下社のある秋葉山山麓の駐車場に到着。秋葉山本宮秋葉神社(あきはさんほんぐうあきはじんじゃ)<通称>秋葉山(あきはさん)【鎮座地】〒437-0626 静岡県浜松市天竜区春野町領家328-1 旧遠江国 周智郡門前通り。祭日であったが、紅葉シーズンはこれからの為か閑散としていた。『東海自然歩道(とうかいしぜんほどう)』案内図。東海自然歩道は、東京都八王子市高尾の「明治の森高尾国定公園」から大阪府箕面市箕面の「明治の森箕面国定公園」までの11都府県約90市町村にまたがる長さ1697+kmの長距離自然歩道である。『秋葉山本宮秋葉神社 参拝案内図』。「下社まで遠州鉄道・天竜浜名湖鉄道 西鹿島駅より遠鉄バス「秋葉神社経由春野車庫」行きに乗り、秋葉神社下車。所要時間40分で料金は690円。但し1日5本しかない為、交通機関によるアクセスは決してよくないが、代わりに道路が整備されており、自家用車での参拝は増加している。下社周辺の川原はキャンプ地として夏場には多くの利用客がある。上社まで車・観光バスだと上社駐車場までスーパー林道を通り直接行くことができる。新東名浜松浜北ICより約30分。第一駐車場から本殿までは階段で少し距離があるが、脇道があり、社務所へ連絡すればそこを通って本殿近くまで寄せることができる(地形上、本殿近くに大型駐車スペースを確保できず、高齢者や身体上の理由のある参拝者を優先するためこのような措置が取られている)。しかし第一駐車場から本殿までの道は左右に紅葉の植樹がされ、杉の木立や遠州平野の眺望、山鳥のさえずりが楽しめるため歩く人も多い。第一駐車場の他、第二、第三駐車場もある。10月から翌年1月にかけての参拝の多い時期限定であるが、遠州鉄道西鹿島駅から直通の路線バスが運行される。運行日時は主に土日祝日であるが、毎年バス会社が決定する。冬の積雪について昼間から積る程の豪雪地域ではない。夜間の積雪に対する除雪作業体制も整っているため、午前10時頃には第一駐車場までノーマルタイヤで登れる状態になる。徒歩だと下社から東海自然歩道を登り、片道約1時間30分。ブームもあって下社駐車場を利用して登山を楽しむ参拝客も多い。」と ウィキペディアより。門前通りの横にある秋葉神社の由緒と行事を示す看板。【御祭神】火之迦具土大神(ひのかぐつちのおおかみ) 伊弉諾、伊弉冉二柱の神の御子で火の主宰神である。 上古より火の神の鎮まります御神体山と崇敬され、社殿の建ったのは和銅二年(709)。 元明天皇の御製と伝わるとのこと。【創建】 秋葉山は、赤石山脈の遠州平野に突出した最南端で天竜川の上流に位置し、 山頂に秋葉山本宮秋葉神社を祀る。 上古より神様の鎮ります御神体山として崇敬され、初めて御社殿が建ったのは 和銅二年(西暦七〇九年)元明天皇の御製によるものと伝えられる。【御社号】上古は「岐陛保神ノ社(きへのほのかみのやしろ)」(岐陛は秋葉の古語)と 申し上げたが、中世両部神道の影響を受けて「秋葉大権現」と称し、 明治初年教部省の達で権現の号を改め「秋葉神社」となったが、昭和二十七年 全国の秋葉神社の総本宮であるところから「秋葉山本宮秋葉神社」と改称した。【御神徳】火の幸を恵み悪火を鎮め、諸厄諸病を祓い除く火防開運の神として、 火災消除・家内安全・厄除開運・商売繁昌・工業発展の御霊験あらたかなる ものとして、全国津々浦々から信仰されている。 御霊験は奈良朝以来、屡々顕れ、御神威は海内に行きわたり、朝廷の御信仰篤く 正一位の宣旨を賜って、正一位秋葉神社と申し上げる。『秋葉山 本宮 秋葉神社下社』と刻まれた社碑。ちなみに『秋葉』は「あきば」ではなくて「あきは」と読むのだと。門前の旅館、土産物屋の間を進む入口の朱の欄干が前方に。鬱蒼とした杉などの樹木の茂る中に綺麗に石を積んだ階段の参道参道は玉砂利の敷かれた比較的ゆるやかな階段。下社の参道は上社と比べると格段に短かかったのであった。道の階段を上ると社殿のある境内。左に『授与所』から『社務所』、右に『手水舎』から『休息所』、正面に『社殿』です。『手水舎』手水は自然石を積み重ねた素朴な造り。『社殿』秋葉山の南東麓の当社(下社)と山頂の上社をあわせて「秋葉山本宮秋葉神社」と呼ばれ、東京秋葉原の地名にもなった全国の秋葉神社の総本宮です。公式サイトによると正式名称「遥斎殿(ようさいでん)」で、山上の本殿を遥拝するための建物。御祭神は古事記の伊邪那岐・伊邪那美二神の神生みの最後の場面に登場する火の神・火之迦具土大神、自身の誕生が母伊邪那美の死の原因となり、父伊邪那岐に切り殺されてしまいます。神紋は広島名物のもみじ饅頭そっくりの「七葉紅葉」。通常、下社(里宮)が豪華で、上社(上宮)は簡素であるが、ここ秋葉神社は珍しく反対。『社殿』内部。大きな手筒花火が『社殿』内部の右側に。『社殿』左に巨大な「十能」(右)と「火箸」(左)が。火防(ひぶせ)の神、火を使う道具の象徴として奉納されたもの。昭和29年9月静岡県島田市の鉄工所より寄贈されたものであると。『授与所』『社務所・祈願受付』御朱印を頂きました。御朱印によると、世に名高い秋葉の火まつりは、十二月十五日・十六日両日執り行われるようであった。特に十二月十六日夜半の防火祭(ひぶせのまつり)には、秘伝の弓・剣・火の三舞の神事が古式豊かに壮厳華麗に繰り広げられる。四月二十一日春祭鳴弦式(めいげんしき)、十二月十五日御阿礼祭(みあれさい)等古社にふさわしい特殊神事が執り行われるのだと。 ・・・つづく・・・
2019.12.18
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巴川沿いの土産物屋、食べ物の出店が並ぶ遊歩道を進む。遊歩道からの巴川そして対岸の紅葉。巴川には巨岩がゴロゴロと。巴川沿いの遊歩道を左折して進む。こちらにも様々な食物の出店が並んでいた。今年もこんにゃくの味噌田楽を楽しむ。香嵐渓観光センター前の広場。そして国道153号線沿いにある『足助八幡宮』を訪ねた。木製の鳥居には『八幡宮』と書かれた扁額が。足助八幡宮拝殿前の『神馬』。足助八幡宮の創建は天武天皇白鳳二年(673)と伝えられ、檜皮葺三間社流造の御本殿は国の重要文化財に指定されている。また、県指定文化財で第18回東京オリンピック ライフル射撃競技の手帳表紙図案となった「鉄砲扇的打図」絵馬を始め、数多くの貴重な絵馬が奉納されているが一般公開はしていないとのこと。古くから足、旅、交通の守護神として信仰されて来たと。豊田市 足助支所前の名物の銀杏の老木。樹の上の方の銀杏の葉は既に役目を終えて。銀杏の樹の下で記念撮影する観光客の姿が。樹齢は?真っ黄色の絨毯が敷き詰められていた。豊田市役所足助支所(旧足助町役場)の先にある巴川を渡る国道153号線の『巴橋』を渡る。『巴橋』の先には『香嵐渓(Korankei)』と書かれた道路標識が。『巴橋』から見る香嵐渓の紅葉。紅葉の名所として名高い香嵐渓はこの橋より上流部分に広がっており、秋の観光シーズンには狭い街中に各地から観光客が集うため、交通渋滞が多発する場所。前日の日曜日は大渋滞が発生していたのであろう。朱の『待月橋』が見えた。足助西町第2駐車場前のモミジの樹の紅葉も見事であった。入口に『香嵐渓』と赤字で刻まれた巨大な石碑。以前は適度に苔むして、より一層の味わいを感じることが出来たのであったが・・・。ズームで。『延命地蔵』と『六地蔵』。山麓にある香積寺の『六角堂 』。この山の斜面は約0.5haの「『カタクリ』の群生地」👈リンク でもあるのだ。『カタクリ』とは、片栗粉のとれる植物。『カタクリ』の花を見たことがない人は多いかもしれませんが、薄紫色の花が地面に向かって咲く姿はつつましく可憐なのです。スプリングエフェメラル(早春の妖精)と呼ばれる草花のひとつで、早春の温かい日にだけ咲いて、曇った寒い日や雨の日は花が咲かないのです。夜も花を閉じてしまうという、春の乙女のような繊細な花なのです。巴川を見下ろす。更に紅葉のカオスの中を進む。現在、香嵐渓にはイロハカエデ・ヤマモミジ・ウラゲエンコウカエデ・オオモミジ・コハウチワカエデなど11種類の楓があり、今ではその数4000本とも言われ、見事な景観に。『待月橋』が見えて来た。相変わらず多くの観光客が橋の上に。『五色もみじ』越しに『待月橋』を再び見る。繰り返しになるが、香嵐渓のもみじは、寛永11年(1634)に香積寺(こうじゃくじ)11世住職の三栄和尚が巴川沿いのこの参道に植樹したのが始まりとされ、般若心経を一巻読むごとに楓や杉を1本ずつ参道に植えたのだと。その後、大正から昭和の初めにかけて住民も植え足し、この素晴らしい紅葉名所が生まれたのだ。紅葉の名所と言われているが、紅葉のこの時期に限らず四季折々の美しさが楽しめる。春は新緑の緑とともに美しい花々があちこちで見られ、夏から秋にかけては緑が一斉に色づく光景が美しいと。冬はしんしんと降り積もる雪に風情を感じ、日本の四季を贅沢に楽しむことが出来るのだと。一度新緑、そして雪の香嵐渓も見てみたいとも。奥に香嵐渓・香積寺の25世住職であった風外本高(ふうがい・ほんこう)の「風外碑」が。いつまでも、どこまでも続く紅葉・黄葉の世界。『飯盛山 香積寺 参道入口』。参道の階段を上り詰めた場所から振り返って。山門下から。香積寺参道から山門を振り返る。本殿への階段を上ると、両脇には竹灯篭が。本堂を背に左手。本堂を背に右手。竹にも紅葉シーズンを意識した竹あかり彫刻が施されていた。香積寺(こうじゃくじ) 本殿。香積寺は豊田市足助町にある曹洞宗の寺。山号は飯盛山(はんせいざん)。開基は関白二条良基、足助重範の娘・滝野と、孫である成瀬三吉丸基久・基直(成瀬氏の先祖)などで、滅亡した足助氏の菩提を弔うために飯盛山(いいもりやま)の足助氏の居館」(飯盛山城)跡に建立された。応永34年(1427年)、白峰祥瑞禅師により開山。寺号は維摩経香積仏国品から名付けられた。本尊は聖観世音菩薩。境内には江戸時代後期に建てられた座禅堂が現存し、本道の脇には開山当時から寺の鎮守として豊栄稲荷が奉られている。飯盛山中には歴代住職の墓や十六羅漢の石仏のほか、足助城主だった鈴木氏五代の墓も現存し、二条良基の死を伝え聞いた滝野が良基の残した装束を埋めたと伝わる「装束塚」があるほか、山頂近くには平安時代の末法思想に基づき、仏教の経典や仏具などを土中に埋めた「経塚」がある。ご本尊 聖観世音菩薩。扁額は『飯盛山』。香積寺 木造毘沙門天立像本殿右側の建物(寺務所)には木造毘沙門天立像が安置されていた。平安時代に製作されたもので高さは1.7m。香積寺で一番古い仏様で,少し丸みを帯びた姿を。H27年8月に豊田市指定有形文化財になったと。ズームで。僧堂(坐禅堂)。坐禅堂の内部には、文殊菩薩像が祀られていた。『僧堂(座禅像)』「曹洞宗は、道元禅師に始まり、瑩山禅師(けいざんぜんじ)によって広まり座禅を宗旨としています。当坐禅堂は江戸後期の様式、この地方では唯一つ昔のままで残っています。幕末二十五世風外禅師二十六世俊龍禅師と共に高邁な人格で、随身より多くの俊英が輩出し香積寺の名を天下に伝えました。」本殿前の階段上から山門を見る。幽玄・神秘的な世界が拡がる。参道を歩き山門前まで戻る。香積寺山門前の階段上からの絶景。毎年、電線が気になるのだが。紅葉の色の波のうねり(アンジュレーション)の美。一の谷に向かっての帰路。陽光が射したり隠れたり。再び三州足助屋敷が右手に。巴川の白き流れ。再び朱の吊り橋・香嵐橋。巴川沿いの「紅葉庵」の建物。藁ぶき屋根と紅葉、これぞ和の風景。白の漆喰塀と紅葉、これぞ和の風景。今年2019年の香嵐渓の紅葉も見納め。そして駐車場に戻り自宅への帰路に。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2019.12.17
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11月25日(月)のこの日、小原四季咲き桜の鑑賞の後は、今年も香嵐渓へ向かう。今年も香嵐渓の奥にある駐車場・落部駐車場に車を駐める。足助の街並みからはやや遠いが、香嵐渓へのアクセスは比較的よい落部駐車場。香嵐渓は何故か毎年この駐車場を利用して10年以上連続して訪ねているのである。まるで、小原四季咲き桜、香嵐渓の紅葉の『オタク』の如くに。駐車場の背面の山の紅葉も今が盛りと迎えてくれた。昔は営業していた店『のんびり』も今年も閉まっており、時計も動いていなかった。香嵐渓は、愛知県豊田市足助町にある矢作川支流巴川がつくる渓谷。愛知高原国定公園の一角に当たる。1634年(寛永11年)頃に香積寺第11世住職三栄和尚が巴川から香積寺に至る参道にスギやモミジを植えたのが始まりとされ、大正末期から昭和初期には住民のボランティアでモミジの大植樹が施された。イロハモミジ、オオモミジなど11種のカエデが約4000本あると言われており、赤や黄色に色づく景色は壮観。今年の令和元年11月1日(金)から30日(土)まで開催される香嵐渓もみじまつり期間中は21:00までライトアップされ、夜の幻想的な景色も楽しめるのだ。今年の第64回香嵐渓もみじまつり ポスター。今年の散策も下記地図の右から左へと巴川沿いを。一の谷入口から巴川の下流に向かう。散策を始めると太陽も姿を現し、陽光が射し込み一面真っ赤な世界が拡がって来た。飯森山の巴川沿いは陽光が射しこみ既に絶景に変身。和風料亭・一の谷前から三州足助屋敷(さんしゅうあすけやしき)へと歩いて行く。最初は一の谷前の紅葉。香嵐渓 一の谷の茅葺きの屋根には美しい緑の苔が生え、赤との補色で共演。ズームで。白の漆喰壁を建物を背景に。香嵐渓 一の谷への坂道を下る。地面に映る影も黒から赤に変わりそう。小さな池の後ろの紅葉。藁ぶき屋根の小屋も紅葉の下で存在感を主張。常緑樹の中で黄色の銀杏もエピローグへと。これぞ紅葉の『カオス』。巴川の流れもキラキラと光る。食事処の店の前には綿の実がはじけて、純白の綿花がのぞく。朱の吊り橋・香嵐橋を既に多くの観光客が渡っていた。さらに巴川沿いを進む。この美しさを表現する言葉を探すが・・・・。三州足助屋敷が左手に。三州足助屋敷は、昭和55年に開館した施設で、生きた民俗資料館といわれていると。かつての豪農屋敷を再現し、長屋門、母屋、竹屋などは茅葺の木造建築。足助屋敷の中では、かつてこの地域で行われていた「炭焼き」「木地」「紙漉き」「機織り」など、暮らしに必要なものは手づくりしていた10種の"手仕事"が行われている。手仕事の中には、体験できるものもあるとのこと。既に三州足助屋敷の名物のイチョウの木はほぼ完全に葉を落とし、今年も昨年と同様にわずかに下部に葉を残すLast stage。茅葺きの苔屋根には銀杏の葉が降り積もって。ズームで。銀杏の葉のエピローグには絶好の舞台か?刈り込んだツツジの上にも。再び2019年・今年の『第64回香嵐渓もみじまつり』のポスターを。今年も『山粧う(やまよそおう)』を堪能したのであった。珍しく子供たちの姿がポスターに、そして『私たちの願い、百年先も美しい香嵐渓を』と。三州足助屋敷の土産物売り場、広場には多くの観光客が食事を楽しんでいた。そして今年も広場では猿君が一生懸命働いていた。日光さる軍団?の猿回しのショーもこの時は待機中。「そこら辺の紅葉より顔、真っ赤です」 と使い手の繋ぎの言葉が。なるほど顔と乳首は真っ赤っか。緑、黄色、赤これぞ日本の紅葉。ルーマニアの紅葉も美しかったが、赤が少ない海外の『黄葉』の景色であった。そして紅葉(もみじ)葉の合間から朱の待月橋(たいげつきょう)が下方に見えて来た。前日の日曜日はこの待月橋(たいげつきょう)は多くの人で大渋滞が発生し動きが取れなかった事間違いなし。手前のモミジの木は毎年様々な色合いを同時に見せてくれる香嵐渓の名物の『五色もみじ』。この銘木『五色もみじ』の全体像。種類としてはオオモミジの木で、香嵐渓ではこの木を含む数本が一本で葉がオレンジ、黄色、赤、黄緑、緑などの五色の色が見られるため『五色もみじ』と呼ばれているのだと。この『五色もみじ』の紅葉の『粧い』のClimaxはこれからか。多くの観光客が待月橋の上で記念撮影を。我々も待月橋(たいげつきょう)を渡り巴川の上流側を見る。この時は太陽が雲に隠れてしまった。待月橋(たいげつきょう)を渡り終わり振り返る。名物のモミジの木も紅葉のClimaxに向けての兆しが滲み出ていた。待月橋の近くの小さな滝へ歩を進める。名はあるのか?通称『宮の滝』か? ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.12.16
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瑠璃光山 薬師寺からの帰路は、境内の紅葉を楽しみながら階段ではなく坂道を下る。坂道の両脇の紅葉を楽しむ。山門の下の紅葉。落葉したモミジ葉を美しかった。皇帝ダリアも紅葉に負けじとスラッと。この山道を登り『川見四季桜の里』の頂きを目指す。蔦の紅葉も美しく。坂道を更に登っていく。下から見て黄色の存在感を主張していた銀杏が姿を表す。ここには四季桜の姿はなし。陽光が差し込み一面赤の世界が拡がる。真っ黄色なイチョウの葉。頂上にあった『川見四季桜(せんみしきざくら)の里ウォキングマップ』。そして国道とは反対側の坂道を下る。裏側の紅葉も大いに楽しみながら。そして紅葉が池に映り込む『柏ヶ洞の郷』に到着。池の水面に映り込みメタセコイヤ、銀杏、モミジ』この時はやや風もあったので・・・。風が弱くなる瞬間を狙って。樟茶屋 (くすのきちゃや)のオジサンの詩であろうか。「朝焼けや 映る紅葉や この姿た 夢を追いつつ 老を知ても」再びメタセコイヤの紅葉を撮す。田代川の白き流れ。再び駐車場の裏の法面の紅葉&四季桜のコラボを。樟茶屋前の小原北部生活改善センター中庭には多くのテントが張られ、地元名産品を販売中であった。様々な野菜類が。地元のおばあちゃんが造った布製品も。『ヘボの箱寿司』は700円。へぼというのは、特にクロスズメバチの子のことで、秋が近づくと山に蜂の巣を取りに行き、養殖用の箱で蜂の子を育てます。へぼは値段もかなり高価。ここ豊田市小原で秋に作られるのがこの『ヘボの箱寿司』。大きな柿も。「蜂屋柿」と呼ばれる柿であろうか?表皮が橙色で食感をそそる美しい柿。熟すか、干し柿にして食べますが非常に甘味が強い為、毎年「干し柿にするなら蜂屋柿」と人気があると。そして最後に『樟茶屋 (くすのきちゃや)』に立ち寄る。毎年必ず立ち寄る『樟茶屋 (くすのきちゃや)』。五平餅を作るオバチャンたちも元気。今年も五平餅を注文。ここ樟茶屋の五平餅はユニークなひょうたん型。当茶屋の御主人が食べやすく、他にはない変わった形の物を提供しようとこの形になったのだと以前に。長野県から取り寄せた赤味噌にくるみ、ゴマ、ピーナッツ、醤油、砂糖を調合し、煮詰めて作った特製味噌はちょっと甘めで香ばしく、地元米ミネアサヒとも相性バッチリ。すると樟茶屋を切り盛りするオバちゃんが我々の席に来て、東京に勤めるお孫さんが結婚式前の挨拶回りにそろそろ来ると嬉しそうに。式前の記念撮影も兼ねての訪問と。そしてカップルが到着。嬉しそうな樟茶屋のオバちゃんも孫の好青年と一緒に。すると、店を手伝うオバチャン達そして赤いセーターに青のジャケットのオジイチャンもいつの間にか。そして来年の再会を約束して、川見の四季桜を後にし、香嵐渓へと向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.12.15
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『旧東海道を歩く』で11月23日(土)に愛知県にある豊明駅から名古屋市熱田区の宮宿『七里の渡し』そして翌日の24日(日)は桑名市東船馬町にある桑名宿『七里の渡し』から近鉄四日市駅までの旧東海道を歩いて来ました。江戸から東海道を宮宿まで来ると、本道は次の桑名宿まで海上七里を船で渡ることになる。これを七里の渡しと言ったのです。そして帰路の25日(月)は、今年も小原の四季咲き桜、そして香嵐渓の紅葉を訪ねたのでした。ホテルの朝食を6:30に済ませてまずは小原の四季咲き桜に向けて出発。東岡崎駅近くのホテルから国道248号線を北上する。県道349号線(深見亀首線)を進み猿投グリーンロードの猿投IC下を通過し更に進むと前方に見えて来たのが東海環状自動車道の猿投高架橋。前方に見えたのが『猿投神社 山門』。周囲の紅葉を楽しみながら木瀬川に沿って国道419号線を更に進む。小原町に近づくと道路の脇には開花した四季咲き桜が姿を表す。そして左手に現れたのが目的地の『川見四季桜の里』。いつもの樟茶屋 (くすのきちゃや)の駐車場に車を駐め散策開始。駐車場裏の赤とピンクのコラボがいきなり。黃から赤、朱への色のうねり(undulation)に感激。青空を背景に黃、赤の共演。メタセコイアも負けじと。カメラの向きを変えて。国道419号線を徒歩で戻って行くと樟茶屋を経営するオジサンが以前に造った紅葉が水面に映り込む池が四季咲き桜の合間に見えた。この場所は帰路に立ち寄ったのであった。田代川沿いの紅葉、桜のコラボを楽しみながら進む。銀杏の黄色も交えて。田代川とモミジ。そして見事な『川見四季桜の里』が姿を表す。この日がこの秋のピークの如き光景が拡がる。四季桜の由来はその昔豊田市小原北のひとりの医師が小原に苗を植えたのが最初と言われている。四季桜は春とこの11月の二回花を咲かせ、11中旬から12月上旬に見頃となるのです。『小原四季桜まつり』のポスター。今年2019年の開催は2019年11月1日(金)から2019年11月30日(土)まで。小原地区内の四季桜は約1万本に達していると。これほど多くの四季桜を鑑賞できる場所は他になく、秋は全国で随一の絶景が広がっているのだと。丘の最長部の銀杏の黄色が存在感を主張。マメザクラとエドヒガンの種間雑種と考えられ、花は一重の白又は淡紅色。夏の間に充実した花芽が秋から冬にかけて順次咲き、小さい花芽は冬を越して3月中旬頃から咲き始める。このため、春より秋の方がよく花を咲かせると。田代川の川面に映る紅葉。川見・薬師寺下の紅葉も見事。川見・薬師寺への階段を上る。地元の人から「川見の薬師さん」と呼ばれ親しまれている真言宗高野山派古刹。本堂に安置されている寄木造りの薬師如来像は室町時代後期に作られたもので、市指定の文化財。 本堂は階段を88段、33段、42段最後に12段のぼった上にあります。本堂までの階段は四国八十八ヶ所にちなんで88段の石段になっていると。次は33段、女性33歳の厄除け石段。その次は42段、男性42歳の厄除け石段。最後は12段、十二支にちなんだ石段。33+42+12=87?『是より33段』。階段を登りながら両脇の紅葉を楽しむ。四季桜と紅葉を眺めながら登る急な階段途中の右側にあった石仏群。ズームで。階段の上に鐘楼門(山門)が。『是より四十二段』。階段の上にある鐘楼門(山門)。『瑠璃光山』と書かれた扁額。正面に『無尽堂』、『本堂』はこの左。『薬師観音像』。本堂への階段下から境内を見る。本堂への階段には『南無瑠璃光薬師如来』の幟が両脇に。階段下の大黒天像。手水舎の龍。川見薬師寺(せんみやくしじ):本堂真言宗高野山派 瑠璃光山薬師寺 が、本当の名前です。本寺の開山は記録に残っていませんが、2冊の「中興建立記」によると、寛文5年(1665年)本尊開帳以後本堂改修を始め、次々と伽藍が建立され、整備されました。その当時は、現在の場所ではなく、山の麓の、田代川右岸の今の畑地に建てられました。現在の伽藍は、江戸末期から明治初期にかけて建立されたものです。鐘楼門には、十二支の彫刻と、京都東寺管長筆の山号木額が掲げられています。現在の本堂は、明治3年(1870年)に建てられたもので、宝形造(ほうぎょうづくり:屋根面の頂上を一店に集める)の前面を入母屋造(いりもやづくり)とした、一見すると神社のような変わった形式になっています。間口は3間(5.4m)、奥行きは2間(3.6m)で、本堂向拝の軒下には、精巧な龍の彫刻がされた蝦虹梁(えびこうりょう)があります。本尊薬師如来像は室町末期の作といわれており、日光・月光初め仏像13体は、岩村城内の薬師寺より迎えられました。本尊仏と石灯篭は、小原村(※)文化財に指定されています。真言宗高野山派『瑠璃光山薬師寺』「本寺の開山は不明であるが、二冊の中興建立記によると、寛文五年(1665)本尊開帳以後本堂改修を始め、次々と伽藍が建立され整備された。その地は、山麓田代川右岸の今の畑地である。現在の伽藍は、江戸末期から明治初期にかけて建立された。鐘楼門には、十二支の彫刻と、京都東寺管長の山号木額は立派である。本堂向拝には、龍の彫刻された蝦虹梁(えびこうりょう)は精巧である。本尊薬師如来像は室町末期の作といわれ、日光・月光初め仏像十三体は、岩村城内の薬師寺より迎えられた。村文化財指定は本尊仏と石燈籠である。」『扁額』の文字は?。本堂向拝には欅一木彫りの見事な精細な蝦虹梁(えびこうりょう)を見ることが出来た。蝦虹梁とは曲がりくねった形をした向拝(ごはい)柱と本堂を繋ぐ梁のことを指し、彫刻や彩色を施されている虹梁はよく見かけるが、このような透かし彫りの蝦虹梁はなかなか見掛けることは出来ないのであった。欅一木彫りの龍は、写真手前が降り龍で、後方が登り龍。間近で見れば見るほど、その素晴らしさに感激。豊田市指定文化財(建造物)『薬師寺本堂・鐘楼門』。「本堂は、明治3年(1870年)に建てられたもので、宝形造(ほうぎょうづくり(屋根面の頂上を一店に集める)の前面を入母屋造(いりもやづくり)とした、一見すると神社のような変わった形式が用いられています。間口は3間(5.4m)、奥行は2間(3.6m)で、龍の透かし彫りが施された蝦虹梁(えびこうりょう)は見事なものです。鐘楼門は明治15年に建てられたもので、形もよく、虹梁の彫りや回廊欄間(かいろうらんま)(2階部分)には、十二支の彫刻が配されていて、装飾的に価値が高いものです。」『本堂』内部。本尊『薬師如来像』。市指定有形文化財『木造薬師如来座像』。「この坐像は、高さ40.5cm、台座総高33.5cmです。銘文に天平3年5月8日とあるのは疑わしいですが、弘治とみえることから、弘治年間(1555~1558)頃のものと思われます。なお、蓮華銘文に于時(ときに)元禄2年(1689)11月26日奉彩色臺座とあるのは、この時期に台座部分の彩色を行った記録だと思われます。寄木造の漆塗で、作風もよく工芸的に優れています。」重要文化財 『燈籠』。市指定文化財(有形物)『燈籠』。指定 昭和57年7月23日高さ 香縄(こうつな)燈籠(本堂に向かって右)218cm 内方(うちかた)燈籠(本堂に向かって左)215cm建立 両灯籠ともに元禄16年(1703年)10月8日石材 地元産の花崗岩香縄(こうつな)は上仁木村春日部庄大夫香縄であり、乙ヶ林城主春日部佐渡守の末裔でその子孫は現在の上仁木の春日井氏です。内方は庄大夫香縄の妻です。御朱印を頂きました。 ・・・つづく・・・
2019.12.14
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北京市上空に機体・カタール航空QR812便は近づく。そして北京の上空へ。濃い黄色の照明の場所が故宮博物館(紫禁城)であろう。故宮博物館(紫禁城)をズームで。格子状に区画される街区が美しかった。しばし北京の夜の絶景を楽しんだのであった。空には三ヶ月と金星?が。カタール・ドーハ空港からの飛行ルート。離陸後ペルシャ湾➡イラン➡アフガニスタン上空を通過し、その後中国の北部・新疆ウイグル地区➡甘粛省➡内蒙古自治区上空をひたすら横断して北京上空を通過し、漸く渤海湾手前まで。天津港周辺。渤海湾に出る。河北省唐山市滦南县の上空を通過。2回めの機内食。そして韓国上空を横断して隠岐の島上空を飛行。松江、米子の街の灯り。羽田空港到着まで残り54分、到着予定時間は22:55との表示。京都市内、京都御所のある京都御苑そして桂川、大阪湾に注ぐ淀川も確認できた。その上には、関西空港の灯りも。写真中央付近の灯りがない場所が京都御苑、そしてその右側が二条城では。写真右下に琵琶湖大橋が確認できた。そして写真上には近江大橋も微かに。米原市上空から南の街並みを見る。琵琶湖に浮かぶ沖島の姿も確認できた。知多の伊勢湾沿岸の工業地帯。浜松駅そして駅下を通る広小路通り、中田島街道も確認できた。そして相模湾から東京湾に入っていく。千葉市内上空へ。そして着陸態勢に入り、羽田空港に到着。時刻は22:50。そして入国審査も無事通過し、荷物を受け取ろうとするが荷物がなかなか出て来ない。2~30分待ったであろうかようやく出て来たが、私のトランクのベルトが行方不明。お世話になった旅友との挨拶も済ませながら荷物の最後まで待ったが出て来ず、海外旅行保険の手続きの20分程度かかるとのことで諦め、駐車場の送迎車に乗り込む。時間は23:55。帰路の遅れで公共交通機関に最終便にも間に合わずTXを利用した方帰宅出来ずにホテルに1泊された方もいたとのことであった。我々も駐車場を0:15に出発し、我が家まで旅友Sさんの愛車で送っていたもらったのであった。そして我が家に無事0:55に到着したのであった。 10/24(木)からカタール航空にて成田➡ドーハ➡ソフィアへの長時間移動の格安ツアー旅行・『秋彩ルーマニア・ブルガリア8日間』、総勢28名(女17名、男9名、添乗員:日本から&現地2名を含む)、平均年齢70歳?前後の和気藹々の賑やかなツアーであった。我がグループも、2008年からお付き合いさせて頂いている女性2名も久しぶりに一緒に参加され、楽しいツアーであったのだ。旅の名称は『秋彩ルーマニア・ブルガリア8日間』であったが、まず最初に訪れたのは何故か『ブルガリア』であった。ブルガリアはバルカン半島に位置する東欧諸国の1つで、ルーマニア、ギリシア、トルコと隣接。このためヨーロッパの中でもアジアの影響を強く受けている国であった。15年ほど前は治安の悪い国として知られていたが、2007年にEU加盟してからは経済が安定し、治安がよくなったと。とはいえ、国民1人あたりのGDPはEU加盟国内では最も低い国(2017年時点)とのことで物価が安いことも特徴のひとつとして実感できたのであった。またブログ内でブルガリアといえばヨーグルトと書いが、ブルガリアは実はバラの名産地。アロマセラピーなどで使われるローズ製品の世界シェアは7割もあると。ローズ製品の香りに使われているバラはダマスクローズという種類で、ブルガリアのダマスクローズは特に香りが良く最高級の品質と言われているのだと。ブルガリアのダマスクローズの栽培地としてはバラの谷が有名。バラの谷の中心は、トラキア人の墳墓があったカザンラクという都市でブルガリア中部、首都ソフィアから東に約200kmの場所にあったのだ。そして、カザンラクのバラ祭り自体は5月中旬から6月初旬にかけて行われるが、メインイベントは6月第1週の金曜から日曜の3日間に渡って開催されのだと。最初に訪ねたソフィアはブルガリアの西部に位置し、周囲を山に囲まれた自然豊かな都市。緯度は北海道と同じ程度、冬は11月から3月頃まで降雪も見られ、気温は氷点下になることも多々あるのだと。一方夏は気温30度程度にあがるものの湿度が低く、過ごし易いと。ソフィアはヨーロッパ最古の都市のひとつであり、ローマ帝国時代の遺跡も残っていたが、ブルガリア内の観光や経済の中心でもあるためショッピングセンターなども多くあった。古さと新しさ、アジアのような雰囲気とヨーロッパらしさなど、様々な面を持っているのがソフィアの魅力なのであった。2日目:『ソフィア市内観光』3日目:『早朝散歩』『ボヤナ教会』『リラ修道院』4日目:『ブロブディブ』『カザンラク』5日目:『早朝散歩』『ヴェリコ・タルノヴォ』 『イワノボ』そしてブルガリアからドナウ川を渡りルーマニアへ。ルーマニアは、訪ねる前には、体操のナディア・コマネチとドラキュラ伝説の他には、私にはあまりなじみのない国であった。また、共産主義だったころの独裁者、チャウシェスクの名前、そしてあの処刑の場面のニュース映像を想い出し、どちらかといえば暗いイメージがあるこの国であったが、首都ブカレスト等の市街地においては今ではその姿を大きく変えていた。2007年1月に隣国ブルガリアと一緒にEU加盟を果たし、EU27ヵ国の一つに名を連ねた。人口1,904万人と中東欧ではポーランドに次ぐ規模、国土の面積は23.8万㎢で日本の本州とほぼ同じ、EU 加盟国では9番目の大きさ、国土の多くは肥沃な大地で、歴史的にも農業が大きな役割を占め、石炭や鉄鉱石だけでなく、欧州大陸では珍しく石油とガスを産出する天然資源にも恵まれた豊かな国との予習情報でもあった。しかし、近年、ルーマニアは経済発展がもたらす貧富の差の増大、及び不景気による雇用情勢悪化等から、治安状況は毎年徐々に悪化傾向にあり、スリ、ひったくり、自動車窃盗などの財産犯罪が増大しているほか、横領、脱税、汚職などの経済犯罪が増加しているのだとルーマニア添乗員が自ら語ったのであった。そしてルーマニアは低迷する出生率と加速する国民流出状況がもっとも深刻化している国の1つ。ルーマニアは過去においては、欧州のなかでも高い経済成長率を誇っていたが、国民の生活水準は改善しておらず、多くの国民は希望を見いだせず、西ヨーロッパに移住して行くと。移住先で人気が高いのは北欧やドイツであると。ルーマニアも以前のブルガリアと同様に出生率は1.6と少子高齢化が進み、若年層の西ヨーロッパへの人口流出が激しく、この30年で人口は2300万人から1900万人以下となり、3~400万近くまで減少しているのだと。よって現在の総人口の15~20%近くに相当する数がいなくなったことになるのだ。美人国といわれるルーマニアだが、街を歩く『若い!!』女性は長身で色も白くなるほどと。バルカン諸国で唯一のラテン系民族、ラテンの中でも言語はイタリア語に近く、スペイン・フランスなどの国にも非常に親近感を持っていると。一方周囲がブルガリア、ウクライナ、セルビア、スロバキアなどスラブ語圏民族に囲まれている中で、ローマ帝国拡大の歴史の下にバルカンで唯一のラテン系の国なのであった。106年ローマ帝国軍が、この地の先住民ダキアを征服、その結果移住したラテン系の多くのローマ人が、ダキア人と混血となり、ラテンを基にした言語の源流ができ、またローマ帝国崩壊後、7世紀ごろにかけてこの地域に移動して来たスラブ人の影響も受けて、現在のルーマニア語になって行ったのだと。一方ルーマニアには、ロマと呼ばれるいわゆるジプシーが多く住んでいるのだと。その数は180万人とも200万人とも。総人口が1900万人であり人口の10%近くを占めるのであった。彼らは東方から移動をしてきた民族で、ルーマニアでは14世紀にジプシーの移民が急増。定住するジプシーも少数居たものの、多くは、追放されたり、定住を避けるためのさまざまな措置を各国が取ったことから、差別を受け、社会の外側に置かれ、生き残る戦略として、移民・移住し続けたのだと。今回訪ねた世界遺産の観光地にも、お金を強請る子供たち、そして乳飲み子を抱く若い母親の姿があったのであった。現在、欧州には約1,000万人近いジプシーが居るといわれており、多くは、ルーマニア・ブルガリア・ハンガリー・セルビアなどのバルカン地域を移動している場合が多いのだと、これもルーマニア人の現地添乗員から。ルーマニアの1人当たりGDPは8,000ドル強で、EU27ヵ国中26番目であるとのことだが、首都のブカレストと車窓から見えた地方の農村の間のギャップは他の国のそれとは比較にならないほど大きいのではと感じられたのであった。短時間の滞在いや通過であったが人口190万人を数える首都ブカレストは国際価格並みのホテル、レストランも数多く、カルフール、メトロ、イケアなど西欧資本のスーパーマーケットも多く進出し、他の西欧・中欧の大都市とあまり変わらない顔を見せつつあると実感できたのではあったが・・・。しかし、ブカレスト市街から外に出ると、広大な農地が広がり、車で通る集落では家の前のベンチで穏やかな老人や女性たちがおしゃべりを楽しむ、牧歌的な風景がごく当たり前に続いていたのであった。現在に於いても主要産業が工業ではなく農業が主要産業であり、車窓からは大きな工場等は精油所以外は皆無に近いほど目に入って来なかったのであった。所々に穴があき凸凹の主要国道に、農具と家族を載せ馬車が何台も闊歩しているのが、ルーマニアの現実の姿と感じざるを得なかったであった。6日目:『早朝散歩』『シギショアラ』7日目:『ブラン』 『シナイア』 『ブカレスト』最後に、日本人にとってまだなじみの薄い国・ルーマニアであろうが、今後、鉄道網の改修、高速道路の整備、港湾などのインフラが良くなることで、そのポテンシャリティーがさらに高まるのは間違いないのであろう。現在、自動車産業以外にも既に日本企業400社近くがルーマニアに進出しているのだと。小売りスーパー業、加工製造業だけでなく、その他の企業においても世界展開の中の重要な国の一つであり、欧州、とりわけEUの今後を見据えて、その投資の魅力はさらに高くなるものと思われ、将来が非常に楽しみな国でもあるのではと門外漢ではあるが。昨年2018年1月に安倍晋三首相は、日本の総理大臣として初めてルーマニアを訪問したがこの様な背景、展望の下での訪問であったことは間違いないであろう。しかし、訪問前日にルーマニア首相が辞任を表明するという事態が発生したとテレビ報道され政局が不安定な国であると報道していたと記憶しているが。我がこのブログを訪ねてくださった皆さん、是非一度ブルガリア、ルーマニア両国を訪ねてみてはいかがでしょうか?8日目:『帰路』ブカレスト空港~ドーハ空港~羽田空港への「 long‐distance flight」にも耐え機窓から眼下に拡がるトルコの白き山々、北京、京都、琵琶湖、大阪、関空の市街の夜景を逆に楽しめる帰路となったのであった。そして次回は、来年2月の『中国 6つの絶景巡り 7日間』👈リンク を予定しているのである。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2019.12.13
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ブカレスト・アンリ・コアンダ国際空港(Henri Coandă International Airport)に到着。お世話になったドライバーのクラシミール氏、ルーマニア現地添乗員のアレキサンダー氏に感謝と別れの挨拶をし。空港ロビーに入る。そしてチェックイン、セキュリティー検査、出国審査もなんとか無事完了し搭乗口へ。利用便は23:30発カタール航空QR0220便 カタール・ドーハ行き。何故か国際航空運送協会(IATA)によって定められた空港コード(3レターコード)は『OTP 』。理由をネットで調べて見ると、以前はこの空港は『オトペニ空港(Otopeni Airport) 』と呼ばれており、そのときの空港コード『OTP 』がそのまま継承されているのであった。利用便の機種はエアバスA-320。定刻の23:30に離陸し1時間を過ぎて機内食が。帰路も往路とほぼ同じ飛行コース。ルーマニア・ブカレスト➡黒海➡トルコ➡イラン➡ペルシャ湾上空を経てカタール・ドーハヘ。ペルシャ湾を横断しカタール・ドーハ国際空港へと。ブタペストからドーハまで約4.5時間の飛行でほぼ定刻の早朝5時過ぎにドーハ国際空港(DOH)に到着。ドーハ国際空港ではトランジットゲートに向かう。ドーハ国際空港は世界でも有数のハブ空港でもあり、この早朝も多くの利用客で混み合っていた。搭乗ゲートBゾーンに向かって進む。ドーハ国際空港 ラウンジ配置案内図。この空港を利用するのは10回目近いのではなかろうか。空港に人気者、巨大な黄色のクマの人形に今回も出会う。案内板には『 LampBear by Urs Fischer 』と書かれていた。『 LampBear』は頭に Lampの如きものを被っているから?このクマは、ニューヨークを拠点とするアーティスト、ウルフ・フィッシャー氏の「無題(ランプ/クマ)」という作品。しかも、2016年?にニューヨークでのオークションで、680万ドル(今のレートで約7億3500万円ほど)で落札されたのだと。ラウンジの中央近くでは新車も販売展示されていた。さすが、裕福の国(金持ち国家)世界1位の国なのであった。日本人にとっては「ドーハの悲劇」でも知られるカタール国であるが、中東いや世界で最も金持ちの国なのである。因みに日本は30位であるとのこと。昔の日本は、世界でも5本指に入るほど一人あたりのGDPが高い国であったと記憶しているが1991年から始まったバブル経済崩壊後のデフレや少子化により経済発展が低迷している間にアジア、中東、北欧諸国にアッという間に追い抜かれて今や30位。ポルシェ・Panamera Turbo SE-Hybrid Exective。8気筒、4000ccで3000万以上の高級車。こちらはDUCATIのスポーツバイク。B8ゲートに向かって進む。利用便はカタール航空QR812便 7:00発 羽田空港行き。搭乗ゲートB8でボーディング開始を待つ。Tokyo HND の文字が。搭乗ゲート近くからペルシャ湾(アラビア湾)に浮かぶ『バナナ島 Banana Island』をズームで。ここドーハ空港から沖に約3km、その名の通りバナナの形をした小さな島のリゾートとして注目を浴びている島。利用便はA350-1000。カタール航空はこのA350-1000型機を世界で初めて就航させた会社。エアバスA350-1000型機は900型機よりも胴体を6.8m伸ばし、乗客数を350~412名としており、ボーイングの燃費の良い、ボーイング787-10型機を凌駕。エンジン推力はA350-900よりも11%以上向上させており、航続距離は8,000マイルを越える最新鋭の機体。定刻の7時過ぎに機は搭乗ゲートを離れる。屋根のダイナミックな波状造形が印象的な国際空港。確か建設工事は日本の大成建設が。離陸しペルシャ湾上空へ。ドーハの高層ビル群が見えた。最初の機内食の朝食。離陸後4時間を経てトルコ上空の山々を見る。直ぐに真っ白な山の姿が。ズームにて。冠雪の山が続く。中国・トルファンの南を通過。時間は11:25。機窓から白藍色の場所を見つける。これが、かつて存在した「さまよえる湖」として知られている塩湖・ロプノールの近くにある塩化カリウムの塩田であろうか?再び白き山々が。蒼き湖は甘粛省にある『苏千湖(Sugan湖)』であっただろうか。甘粛省の砂漠地帯であろうか。水の流れた跡であろう。敦煌市(Dunhuang)上空で進路を北に向かう。鉱山資源の素掘りの場所であろうか。大きな川の姿が。夕焼けの光景。三ヶ月が見えた。再び夕焼けの光景。北京上空に向かって進む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.12.12
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バスは1号線(DN1)をひたすら走りプロイエシュチ(Ploiești)の街の手前まで進む。交通量も次第に増えてきた。首都ブカレストの北およそ56km地点にあるプロイエシュチ(Ploiești)。「黒い金の首都」の異名を持つ石油産業の旧中心地で、4つの製油所とその分野に関連したその他の工場があるのだと。そしてガソリンスタンド横のスーパーでトイレ休憩。右手に石油精製所『OMV Petrom S.A.』が現れた。『OMV Petrom S.A.』は、オーストリアのOMVが管理するルーマニアの総合石油会社。ルーマニア最大の企業の1つであり、南東ヨーロッパ最大の石油およびガス生産会社。 2004年以来、OMVの子会社となっている。そしてブカレストに向かう鉄道の跨線橋を再び越える。プラホヴァ(Prahova)川を渡る。プラホヴァ川は南ルーマニアの川で、南カルパチア山脈のブチェジ山脈から流れている。アダンカタ近くでヤロミツァ川に流れ込む。プラホヴァ県の最南部にあるポティグラフ(Potigrafu)の街の入口にあった灌漑用?池。そしてバスは暗くなる中、ルーマニアの首都ブカレスト(Bukarest București)👈リンク の街に入る。ショセアワ・ピペラ(Șoseaua Pipera)通りを走る。『ORACLE』関連のビルが右手に。データベース管理システム関連の会社であろう。下に見えた通りが『カピタン・アレキサンドル・シェルバネスク通り Strada Căpitan Alexandru Șerbănescu』。雨がかなり激しく降っている中、アビアトリロル大通り(Bulevardul Aviatorilor)を進む。アビアトリロール大通りはブカレストの北にある重要な動脈で、セクター1にある。 ビクトリー 広場とシャルルドゴール広場を接続し、ボルデイ公園の始まりまで北に続いている 。『勝利広場 Victoria Palace』付近。再び1号線と合流。雨の中、渋滞が激しくなっていた。『ピアツァ勝利広場(Piața Victoriei square)』。『ピアツァ勝利広場』はブカレスト中心部にある「大通り」が交差する主要な高層オフィスビルと政府ビルディングが建つ主要な交差点の一つ。1989年のニコラエ・チャウシェスクの独裁政権が「ルーマニア革命」によって打倒された際にはニコラエ・チャウシェスク夫妻以外の共産党幹部が処刑された場所との説明が添乗員から。博物館『フィリペスク-チェシアヌ ハウス(Filipescu-Cesianu House』。1846〜50年に最初に建てられ、1892年に改装された元貴族の邸宅であるこの新しく改装されたベルエポック様式の建物は、ブカレストの最も歴史的な大通りの1つであるカレアビクトリー通りにあった。『ジョージエネスク国立博物館(George Enescu National Museum Muzeul Național "George Enescu")』。国立博物館「ジョージエネスク」は、ブカレストで最も美しい建物の1つである歴史的建造物であり、ヨーロッパ遺産ラベルの建物の1つであるカンタクジーノ宮殿に開設されたと。『ルーマニア国立美術館(Muzeul Național de Artă)』。『ルーマニア国立美術館』は、中世から現代までのルーマニア美術、ヨーロッパ美術、装飾美術、東洋美術のコレクションを国内で最も豊富に所蔵している。 カレアビクトリー地区にあり、ナショナルギャラリー(オールドルーマニアンアートギャラリーとモダンルーマニアンアートギャラリーを含む)とヨーロッパギャラリーがあると。ブカレストの中心、革命広場に面した共和国宮殿の一部が美術館として使用されていると。『革命広場の記念碑 Memorial of Rebirth Memorialul Renașterii』その後ろに政府機関・旧共産党『Ministerul Muncii și Justiției Sociale』の建物が。革命広場の記念碑は、共産主義を打倒した1989年のルーマニア革命の闘争と犠牲者を記念するルーマニア、ブカレストの記念碑。記念館は2005年8月に革命広場に建設されたが、1989年12月にルーマニアの共産主義時代の独裁者ニコラエチャウシェスクが公開処刑された場所。アレクサンドルー・ギルドゥシュによって設計された記念碑は、金属製の「王冠」が置かれた高さ25mの大理石の柱が中心にあることが特徴。 この柱は、大理石と花崗岩で覆われた600m2の広場に囲まれていた。革命広場前の東方正教会『Kretzulescu Church』。旧王宮の隣の革命広場の角に立つ東方正教会。1720年から1722年の間に建てられ、ブロンコベヌ時代の遺産に関する限り、ブカレストで最も保存状態が良く最も代表的な正教会の1つ。教会は、Iordache Kretzulescuと彼の妻、Safta(コンスタンティンブランコヴェアヌの娘)の命令により建設された。ルーマニア国立美術館の西端。ここでバスを降り、雨の中、束の間の撮影タイム。ルーマニア国立美術館の建物を見上げて。『インフォユーロパセンター Centrul Infoeuropa』『Centrul Infoeuropa』は、欧州連合への加盟に向けたルーマニアの準備に関する必要な情報をルーマニア国民に促進するために、ルーマニアの欧州委員会代表団によって1999年に開設された。2007年に欧州連合に加盟したことにより、インフォユーロパセンターはルーマニア政府の欧州問題部に引き継がれた。2013年2月1日以降、『Centrul Infoeuropa』はルーマニア・外務省に所属する組織になっていると。再び革命広場の『記念碑 Memorial of Rebirth Memorialul Renașterii』その後ろに政府機関・旧共産党『Ministerul Muncii și Justiției Sociale』の建物。再び『ルーマニア国立美術館』。カロル1世の騎馬像(Equestrian Statue of Carol I)とその後ろに『Centrul Infoeuropa』。『ルーマニア国立美術館』のライトアップ。再び東方正教会を車窓から。四ツ星ホテル『ノボテル ブカレスト シティ センター Hotel Novotel Bucharest City Centre』ビクトリエイ通り沿いの歴史を感じさせる建物の最頂部。そして『Piaţa Constituţiei』でバスを降り、『国民の館(Casa Poporului)』の撮影タイム。ルーマニアの首都ブカレストにあるルーマニア議会の議事堂および観光施設。1980年代に、当時のルーマニア共産党書記長だったニコラエ・チャウシェスクが「宮殿」として造成した。建築物としては、ペンタゴン(延床面積616,540m²)に次ぐ世界で第2位の大きさを誇る。ブカレストで一番に見たかったのは、共産主義時代の独裁者チャウシェスク大統領が1,500億円もの巨額の資金を投じて建設したこの宮殿、「国民の館」であったが。ワシントンにあるペンタゴンに次いで世界で2番目に巨大な建物で、3000を超える部屋を持っているのであったが、到着も遅れ雨も降りライトアップが殆どされていなかったのであった。1984年に着工。昼夜を問わず建設が進められ、しばしばチャウシェスク大統領が現場を視察し、進行状況のチェックなど指示を下したと。1989年のルーマニア革命でチャウシェスク政権が倒されたのを機に、建設計画の7割程度の完成をもって建設が一時中断された。その後建設が再開し、エレベーターなどが増築された。1997年、完工。2004年には建物の西翼部分に「現代芸術美術館」がオープン。また同時に「全体主義と社会主義リアリズムの博物館および公園」として公開されるようになったと。巨大なこの建物は、四角形に造られどこから見ても同じ姿で「正面」がないのだと。豪華な装飾のホールや、廊下など建物の一部は有料で一般公開されており、国内外から多くの観光客を集めている。一部しか公開できないのは、現在部屋数が3,000を超え、あまりに大規模で管理ができないためである。内部の写真撮影は原則禁止されているが、入場料と別に撮影料を払うことで許可を受けることも可能。外周道路が2008年よりブカレスト・リンクとしてブカレストGPの公道コースに用いられている。また、地下には自動車が走行できるトンネルもある とウィキペディアから。天気が良い昼間であればこの様な姿が。 【http://tabisora.com/travel2001/romania2/】よりブカレスト市内に圧倒的な存在感を持って聳える国民の館。かつての独裁者チャウシェスク大統領が日本円にして約1500億円もの巨費を投じて建設を命じた巨大な宮殿。地上10階地下4階、世界2位の広さを誇る国民の館には3000を超える部屋があり、現在ではルーマニア議会の議事堂や政党のオフィス、美術館などが入っていて、一部が見学できるようになっている。写真は憲法広場からの正面全景だが、高さ84m横幅275mもある国民の館全体をカメラに収めるには、建物から相当離れても中々入りきれないのだと。ネットに『国民の館』👈リンク の内部を紹介した動画がありましたので紹介させていただきます。 【https://www.travel.co.jp/guide/article/28307/】より正面からだと、巨大さは実感できなかったが、上空から見ると同様な建物が4面にあるのであった。 【http://uminomukoudemirufuukei.blogspot.com/2015/11/blog-post_7.html】よりつかの間の撮影タイムが終わり、完全燃焼出来ずにバスに戻る。そしてブカレスト国際空港に向けての準備で、デパート内のトイレを借りて帰路のスタートについたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.12.11
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レストラン『Bar Regal』の建物の下の通路を潜り昼食レストラン会場への坂道を上る。こちらも茶色の絨毯が一面に。我々の昼食のレストラン『カバナ ヴァナトリアスカ(Cabana Vânătorească)』に到着。森の中にあるロッジ風のレストランであった。モミの木で作られたというレストランのインテリアに囲まれての昼食。サラダには塩気の多いチーズがかかっていた。ブルガリアの料理、ショプスカ・サラダ(Šopska salata)に似ていたが。旅行会社からのワインのサービスを楽しむ。旅友の熊ちゃんのワインもご馳走になりました。メインディッシュ。デザート。食事も終わり、巨大な熊の剥製の前で旅友の小柄な熊ちゃんが巨大熊と仲良く。もう一つも巨大な熊。昼食を終え、バスの待つ場所まで徒歩で下る。四ツ星のホテル『Vilele Lucia』。バスに乗り込み約126km先のルーマニアの首都ブカレストに向かう。シナイア修道院の真向かいにあった、これもレストラン『Cazare Casa cu Farfurii Sinaia』。ヴィラ『Vila Liliana』。マナスティリィ通りから四ッ星ホテル『Hotel Palace』を右手に見る。往路でも見たカジノ『Sinaia Casino』。カジノ『Sinaia Casino』は大きな広い建物。こちらがカジノの正面であろう。リゾート地・シナイアを代表する建物であるカジノ、スキーシーズンは賑わうのであろう。三ツ星ホテル『Caraiman Hotel』。四ツ星ホテル『RINA Sinaia Hotel』。観光地とは言えシナイア(Sinaia)のホテルの多さにビックリ。『RINA SINAIA HOTEL』の文字が。小さなロータリーから、屋根の上のコックを発見。エステティック サロン『Daniela Toma, Salon』。公証人事務所『Ioniţă Dorina-Bogasiu Gheorghe, Birou Notarial』。『聖エリアス教会 St. Elias Church』。『聖エリアス教会 St. Elias Church』の二つの尖塔が見えた。1号線に合流し南下する。プラホヴァ川(PRAHOVA)を渡る。ブカレストに向かう鉄道の跨線橋を渡る。1号線の両脇に墓地群『Cimitirul Eroilor』。車窓からの山々には雲海が。バスの中は旅の疲れか、わずかなイビキも聞こえて来た。ポサーダ(Posada)の村を通過。旧道のアーチ状の石橋か。アーチ橋を振り返る。陶器の人形が所狭しと。ルーマニアは、機能性高い陶器を美しい遺産として誇っているのだと。ルーマニアの陶器はユニークで多種多様であり、人々の創造性と伝統を表現している。色は黒いMarginea陶器から、赤いSacelという花瓶に、カラフルなホレズ陶器とCorundプレートといった、形も色も異なった陶器が存在していると。特にルーマニアのここトランシルヴァニア地方が有名であるようだ。この建物は?。プラホバ(Prahova)川に架かる鉄道の鉄橋。バネシュティ(Bănești)手前のプラホバ(Prahova)川に流れ込むドフタナ(Doftana)川を渡る。伐採した巨木を載せたとトラック。積載方法が大胆でこの国らしい。日本の輸入材の中でも増えているのがヨーロッパ材。北欧も多いが、目につくのがルーマニア材であると以前テレビのニュースで。原生林を破壊したルーマニアの木材が日本の住宅に化けているのだと。そしてルーマニアは、ヨーロッパに残された原生林の約3分の2を占める国であると。再び田園風景の中をひたすらブカレストに向けて進む。カプ・ロシュ(Cap Roșu)の村にあった教会『Biserica Nașterea Maicii Domnului』。右手にあったのは原油を採掘する油井であろうか。ポンプジャック、ビームポンプであろうか?ルーマニアは、石油産出国であり、石油採掘の歴史も深い。早くも1691年にこの場所から15km程のモレニ油田で最初の原油の採掘が始まったのだと ネット情報から。工場『Phoenixy SRL』はコーン菓子の製造工場。トウモロコシの生産量は世界10位であると。Gustoブランドの『Phoenixy SRL』のコーン菓子、トイレ休憩のガソリンスタンドに隣接したコンビニの陳列棚にも置かれていた。 【https://www.romania-insider.com/index.php/phoenixy-gusto-exports-sales-2018】より ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.12.10
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『シナイヤ僧院』の見学を終え、次の観光場所の『ペレシュ城』に向かってフルニカ通りを徒歩で向かう。ホテル『Vila Intim』の前の坂道の遊歩道を進む。霧雨の中、遊歩道を上って行く。振り返ると、先程観光した『大教会 Holy Trinity Church(Biserica Sfânta Treime)』の尖塔、そして古い教会『聖母被昇天教会 THE DORMITION OF THE HOLY VIRGIN MARY SINAIA』を囲む建物が、黄葉し雲に霞む山を背景に確認できた。遊歩道の両脇には一面に枯れ葉の絨毯が。木々の葉も雨に濡れて絶えずヒラヒラと。土産物屋。遊歩道にも濡れ落ち葉が一面に。滑らないように気をつけながら進む。山の地面の色が全く確認できないくらい一面に茶色の絨毯が敷き詰められて。これぞ晩秋の光景。頭に被るのであろうか。ハロイン用か?土産物屋が左手にズラッと並んでいた。衣類関係の土産が多く吊るされていた。『Valea Peleșului川』の流れが遊歩道の横に。そして右手に見えて来たのが『ペレシュ城 Peleș Castle(Castelul Peleș)』。ペレシュ城(ルーマニア語: Castelul Peleș)は、ルーマニア中部シナヤにあるドイツ・ルネッサンス様式の城。王室の夏の離宮として、初代国王カロル1世により建設された。ルーマニアで最も壮麗な城とされ、部屋数は160以上あると。1875年から39年もの歳月をかけて造営され、1914年に完成した。巨額の建設費を投じての豪華な離宮建設に、国民からは不満の声もあがったという。カロル1世は、この城の完成から数カ月後に崩御した。現在、旧ルーマニア王室に所有権が認められているが、旧王家の意向によって博物館として公開されており、絵画、絨毯、武器や甲冑、伊万里焼を含む陶器などのコレクションがあり、また城自体にもグスタフ・クリムトの装飾画や木彫り装飾などが美しく施されているのだと。端正な塔に優美な壁画や彫刻、メルヘンチックな木組みの構造とが見事に融合した、複雑かつ優雅な外観はため息もの。進むにつれて角度によって多彩な表情を見せてくれる『ペレシュ城』は、見ていて全く飽きることなし。この後、正面から、斜めから、近くから、遠くから、さまざまな場所からその美しい姿を楽しんだのであった。坂道の反対側の『Valea Peleșului川』の白き流れ。白き流れに枯れ葉が迷い込んで。ズームで。ファンタジー世界がそのまんま出て来そうなデザインに驚きと感動。遊歩道を登りながら『ペレシュ城』を追う。ペレシュ城の時計塔を見る。ペレシュ城手前、左手にあったレストラン『Bar Regal』&『La Tunuri』。店の前には大砲が飾られていた。『Castelul Peleș(ペレシュ城)』 見学案内板。『ペレシュ城』アクセスルート&付近案内板。『ペレシュ城』とは道路の反対側にあった『Pelișor Castle ペリショール城』の見学はツアーのコースに残念ながら含まれていなかった。ネット情報・ウィキペディアに拠ると、美しい木組みが施された美しい城。カロル1世が甥のフェルディナンドとその妻マリーのために建てた狩猟用の城であると。ペレシュ城とは異なり、中世ドイツ風の木組みの美しい外観で、1902年に完成。城の内部は、アールヌーヴォー調の家具や装飾が施され、豪華でありながらシンプルな造作。調度品や絨毯、シャンデリア、室内デザインにいたるまで細かく指示したという王妃マリーのセンスが、色濃く反映されているのだと。 【https://en.wikipedia.org/wiki/Peli%C8%99or】より『ペレシュ城』の姿の上空からの写真をこれもネットから。 【https://livedoor.blogimg.jp/sue20-momo/imgs/1/8/180f68a3.jpg】端正な塔に優美な壁画や彫刻、メルヘンチックな木組みの構造とが見事に融合した、複雑かつ優雅な外観はため息もの。ルーマニアの子供たちも遠足であろうか。美しい木組みの構造が向かって左翼の建物に。噴水が設置された城の前の庭園。そこには数々の彫刻が見事な姿で並んでいた。ドイツ・ルネッサンス様式で建てられたこの城は施された多くの彫刻や噴水を用意した庭など、年月をかけて建てられたこだわりが随所に感じられたのであった。そしてカロル1世は、この城が完成して数カ月後に亡くなったのだと。彫刻像のそれぞれがとても豊かな表情をしており、ペレシュ城だけではなく、個々の像をゆっくり見ていたかったのであったが。裸婦像、いや女神の姿であろうか?この城を作ったカロル1世の像と後ろに向かって右翼の建物。1839.4.20. ジークマリンゲンに生まれ、1914.10.10. シナイヤにて没す。ルーマニア王国初代の王 (在位1881~1914) 。ドイツのホーエンツォレルン=ジークマリンゲン家の出身。プロシア軍に任官。従兄のナポレオン3世の仲介で,1866年ルーマニア公となり,81年ルーマニア王国の成立に伴い初代国王に即位,内政改革,軍備拡張,産業振興に努力。しかし農民問題の解決を怠り,1907年の大反乱を招いた。初め親ドイツ的傾向のため不人気であったが,ルーマニアの国際的地位の向上,特にオスマン帝国からの独立に外交的手腕を発揮して支持を集めた。自由党と保守党に交互に政権を担当させ,巧みに内政を操縦したが,結果として責任内閣制の成立を遅らせることになった。『CAROL-1 PRIMUL REGE AL ROMANILOR 1866 1914』は『カロル1世 ルーマニア初代国王 1866-1914』。『ペレシュ城』の奥の擁壁。擁壁手前の庭園への階段。城内は現在は博物館として公開され、各部屋に、カロル1世が集めた美術品や金銀、中世の武器などを展示している。クルミの木に彫刻を施したらせん階段や、黄金の漆喰装飾が美しい壁など、精巧な装飾はため息がでるほどの美しさであるとガイドブックにあったが、我々のツアーに城内の観光は含まれていなかったのであった。『城内の様子』👈リンク を参照ください。城の前から前庭を見る。像も苔むして。多くの像が前庭に並ぶ。写真中央アーチが城内への入口のようであった。ペレシュ城の時計塔。時計塔の上まで上れるのであろうか?『ペレシュ城』前にも大砲とその下にライオン像が。敷地の入口の一段高い場所に置かれていた大砲。レストラン『Bar Regal』&『La Tunuri』を再び。宿泊施設『Vila Economat』。美しい木組みの壁をズームで。束の間の自由時間に『ペレシュ城』手前の庭園を急ぎ足で周り、集合場所に戻ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.12.09
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『シナイヤ僧院』の中庭からホテル『Vila Intim』の建物を見る。中庭を囲む建物の屋根の上の塔の頂部には十字架が。中庭を囲む建物。屋根の先には『大教会 Holy Trinity Church(Biserica Sfânta Treime)』の3本の鐘楼塔の頂部の十字架の姿が。中庭の真ん中にあったのが、小さな『古い教会・聖母被昇天教会 Biserica Adormirea Maicii Domnului』。手前の塔は見張り塔の機能も持つ鐘楼塔。この塔は、1788年の戦争で修道院が破壊され、オーストリア人、そしてトルコ人によって焼かれたのだと。裏側から。下部の開口部にはステンドグラスがはめ込まれていた。入口のポーチには極彩色のフレスコ画が。ズームで。真上の神様からスタートして、教会の入り口に向かって最後の審判の物語が描かれているようであった。門の上の石版の書き込みは?『聖母被昇天教会 THE DORMITION OF THE HOLY VIRGIN MARY』案内板。ミハイル・カンタクジーノ(Mihail Cantacuzino)によって1690-1695年に建てられた。最初の修道院長はジェローム。フレスコ画は、当時の最も重要な画家、PârvuMutuによって作成された。1788年、オーストリア人とトルコ人の戦いの間に、教会はひどく損傷し、鐘楼は破壊され絵は多くの部分がで損傷したと。ここでも、カメラのシャッターを粛々と。ズームしたが残念がらこちらはピンボケ。ステンドグラス。こちらもステンドグラス。フレスコ画を堪能して外に出る。そして再び古い教会を囲む建物を見る。そして更に古い教会を囲む建物を出て広場から『大教会 Holy Trinity Church(Biserica Sfânta Treime)』を見る。塔の再頂部には横3本の十字架・パパル十字(Papal cross)が。教皇十字とも呼ばれ(教皇=法王)、キリスト教の正統教義の一つである「三位一体」を表しローマ法王が儀式などで用いる十字架であると。塔の1本だけにパパル十字(Papal cross)が。トイレの裸電球の配線工事はこれで完成なのであろうか??これがここルーマニアの工業レベルではなかろうが。『大教会 Holy Trinity Church(Biserica Sfânta Treime)』の横にあった建物の壁には、様々なモザイク画が展示されていた。奥から順番にカメラに収めた。そして最後に『大教会 Holy Trinity Church(Biserica Sfânta Treime)』の周囲を一周する。南側。東側(裏側)。北側。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.12.08
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アレエア・ニフォン通りでバスを降り、『シナイア僧院(Mănăstirea Sinaia)』の観光をスタート。ルーマニアのトランシルバニア地方となるシナイア。夏は避暑地、冬はスキーと大自然を満喫できる場所として人気があると。また、「カルパチアの真珠」と表現されるほど美しいことでも知られているのだと。そこにある『シナイア僧院』だが、この僧院の『シナイア』がそのまま地名となったと伝わる程、長い歴史と重要な意味を持っているのだと。中央に『シナイア僧院』の大教会の尖塔が3本。右手は鐘楼。『シナイア僧院』の案内板。シナイアはブラショフから南に約40キロ、バスで1時間ほどのところにある小さな村。ブカレストからだと北に約130キロ、バスで2時間半ほどのところにあった。シナイアという町は中世にルーマニア人貴族、ワラキア公カンタクジー・Cantacuzino(またはワラキア公ミハイMichael the Brave)よってその元が出来た。彼は1695年にイスラエルへ巡礼の旅に出、聖書に登場するシナイ山に参詣し、帰国後シナイア修道院を建てたと。その後、ルーマニア国王カロル1世(在位:1881~1914)がこの地に夏の離宮(ペレシュ城)を建て、このあたり一帯は高級リゾート地として発展したのだと。上空からの写真をネットより(ブログを書くために配置を再確認)【http://9.pro.tok2.com/~yucky/Romania%20Travel%20Castle%20and%20Sinaia%20Monastery.html】より転載。入口の門を入って行く。門の両側にはフレスコ画?イコンが飾られていた。『シナイア僧院』の写真案内図。1695年から順次改修工事が行われて来ていると。門を入り右手にあったのが石積みの上に立つ白き『鐘楼』。正面から『鐘楼』を。そして正面に赤と白の縞模様の鐘楼をもつ建物、『大教会 Holy Trinity Church(Biserica Sfânta Treime)』の姿が。大教会の正面入口。入口で見上げて。柱や入口のアーチには繊細な装飾が施されていた。柱の上も見事なアーチとその上下の彫刻。フレスコ画をズームで。木製のドアがある礼拝堂入り口にある見事なイコン画(フレスコ画)。ズームして。これもイエスキリストの最後の晩餐の様子が描かれているのであろう。天井のフレスコ画。内部では「写真撮影禁止」の札が掲げられていたが・・・??添乗員も何故か止めることもなく・・・・。『大教会 Holy Trinity Church(Biserica Sfânta Treime)』の主な歴史が説明されていた。見事なフレスコ画が次々と。そしてシャッターを粛々と。中央祭壇。黄金に輝くイコンで覆われた内部には、厳かな空気が流れていたのであった。更に近づいて。ドームを見上げる。ズームで。イコノスタシス(iconostasis)。イコノスタシスは「聖障(せいしょう)」と訳される。聖所(せいじょ・内陣)と至聖所(しせいじょ)を区切る、イコンで覆われた壁である。正教会と東方諸教会の聖堂で用いられる。日本正教会ではロシア語の"Иконостас"(イコノスタス)に準拠し「イコノスタス」と呼ばれる事が多いが、ギリシャ語(Εικονοστάσιο)・英語(Iconostasis)に由来する「イコノスタシス」の表記も用いられるようだ。引き続き、カメラのシャッターを。外に出て向かい正面にある古い教会『Biserica Adormirea Maicii Domnului』を囲む建物を見る。17世紀末に「カンタクジノ」の跡を継いだ「ブルンコヴェアヌ公」が細部を増築した「古い教会」がこの建物の中の中庭に建っっていたのであった。大教会前から古い教会の中庭を囲む建物。広場から入口門、鐘楼を見る。再び古い教会への入口門前から『大教会 Holy Trinity Church(Biserica Sfânta Treime)』を見る。大教会から通路を挟んだ反対側にあるのが古い教会『Biserica Adormirea Maicii Domnului』。歴史が感じられる門が。ここから中に入る。細かな木彫り彫刻のある独特の十字架が建つ中庭は、白壁の建物に取り囲まれていた。白い出窓が並ぶ建物や緑の屋根に白壁が美しい建物など、美しい僧房なのであった。大教会の周囲も散策。白壁の上に出窓やベランダが並ぶ建物。古い教会『Biserica Adormirea Maicii Domnului』を囲む建物の入口門を中庭から。花壇も美しくバラが咲き手入れがされて。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.12.07
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三ツ星ホテル『Hanul Bran』手前でバスに乗り込み、約45km離れたシナイア観光に向けてバスは進む。DN73号線沿いのこれもホテル、クラブヴィラ・ブラン-リトルキャッスル(Micul Castel Vila Bran)。DN73号線の山道をシナイアに向けて進む。トハヌ・ノウ(Tohanu Nou)村にあった墓地が右手に。羊の群れ。ラスノフ(Rasnov)村にある聖ニコライ教会(The St Nicolae new church)が遠く右手に。73A号線に入りう山道を進む。プルウル・レチェにあるクネクネとした山道を右に左にと。この山道沿いにも枯れ葉の敷き詰められた山裾が拡がっていた。1号線に突き当たりここを右折して南下。BRANから31kmの場所。ブラショフ(Brașov)からプロイエシュチ(Ploiești)を経由してルーマニアの首都ブカレスト(Bucureșt)に向かう鉄道に沿って走る。流れる川は『Prahova川』。長い時間、鉄道沿いを走るが列車の姿は現れず。そしてブシュテニ(Bușteni)の街に入る。通常の店舗も教会風。Bușteni駅前を通過。カルチャーセンター Aurel Stroe Cultural Center(Centrul Cultural Aurel Stroe)右手にブシュテニ市役所・区役所(Primăria Bușteni)。ブシュテニ(Bușteni)は、ルーマニア中央部のプラホヴァ郡の北部にある小さな山間の町。最大標高が2,505 mのブチェジ山脈の底にあるプラホバ渓谷にある街。ルーマニアの国旗が。レストラン・カライマンホテル『Restaurant Rustic - Hotel Caraiman』。Poiana Țapului駅の手前を通過。1号線を外れ、Sinaia駅手前のフェルディナンド通りを進む。右手にあったのがカジノ『Sinaia Casino(Casino Sinaia)』。カロル1通りのロータリーの標識。山々も紅葉の盛り。Uターンしてエロイロル通りを進むと右手に軍用墓地『Cimitirul Eroilor』が。そして『シナイヤ僧院』に到着。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.12.06
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ブラン城内の見学を終え、外に出て、往路で上って来た同じ坂道を下る。ブラン城の立つ岩山の下の斜面には枯れ葉の絨毯が。再び城内入口(出口)を振り返る。『PARCUL CU LACURI』公園の人の数は少なく。池の水面には黄葉した木々が映り込み。坂道、そしてブラン城を振り返る。空にはどんよりとした雨雲が相変わらず。城の東側の壁は、石積みの壁になっていた。公園には巨大な壺がやや傾いて。城内で使われていたものなのであろうか?公園の中を集合時間までしばしの散策。公園の遊歩道からブラン城を見上げて。枯れ葉の浮く池の水面を。公園の中にも十字架が。岩山の上に立つブラン城は、備中松山城の岩盤上の石垣に似て。雲に煙る周囲の山々。ブラン城の西面を見上げる。こちらが、ブラン城の『タイムトンネル (TUNELUL TiIMPULUI)』の入口の一つ。土産物屋の案内も。このトンネルを入っていくと、城の上部に登る『リフト』が隠れていたようだ。『タイムトンネル (TUNELUL TiIMPULUI)』入口を正面から。公園の遊歩道を引き返しながらブラン城を追い続ける。水面にブラン城が映り込む場所から。場所を変えて水鏡に拘る。これぞ晩秋のブラン城。これでもかとシャッターを押し続けた。こちら側からは、傾きが感じられなかった。そして集合時間まで、土産物屋を散策。ドラキュラの仮面が叫んでいた。いやアメリカ映画で見た面に似て。いやムンクの叫びにも似て。絨毯売り場。幾何学模様の絨毯が並ぶ。翌日(10/31)はハロウィン。仮面舞踏会ヴェネチアカーニバルから流れて来たか?これぞベネチアンマスク!!世界三大カーニバルの1つを是非見てみたいと思うが・・・。土産のチーズ売り場には巨大なチーズが積み上げられていた。ルーマニア語でチーズの総称はブルンザ(branza)、中でも白っぽいチーズが多かった。これは羊の乳のチーズとのこと。ルーマニアのチーズは牛乳もしくは羊乳から作られ、ヤギの乳のチーズはほとんどないと現地添乗員のアレキサンダーから。チケット売り場手前で、添乗員のOさんが26名が揃っているかを何回も確認して。集合時間にはpunctualな旅友達。「They were always very punctual for appointments.」バスに向かってブラン城を後にして進む。城の手前の急カーブの場所から土産物屋そして教会の如き建物。こちらはジャム売り場か。骨董品?の『プレートアーマー』も販売中。様々な古そうな食器も並んでいた。胡椒を潰す金臼の如きものも、そしてその下には水挿しも。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.12.05
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続いて訪ねたのが『武器の部屋(sala armelor)』・左側には紋章付き外衣の盾、右側には様々な武器が掛けてあった。『武器の部屋(sala armelor)』案内板。『プレートアーマー』。人体の胸部、あるいは全身を覆う金属板で構成された鎧。金属板で構成されるため、板金鎧(ばんきんよろい)とも呼ばれる。拷問器具の展示室か。右に『拷問椅子』。椅子の内部は木製であったが棘棘だらけ。拷問の姿の写真をズームで。女性か?ほぼ全裸?これぞ有名な『鋼鉄の処女 アイアンメイデン』であろう。左側に拷問前に人の入っている写真が展示されていた。しかし、本当にこんなものが使われていたのであろうか?やはりドラキュラの世界としか思えなかったのであった。この『拷問器具の展示室』👈リンク を詳しく紹介しているブログに出会いましたのでリンクさせていただきました。こちらは衣装部屋。当時の戦時の衣装が展示されていた。そして1階、中庭を見下ろす。上のフロアから見たブラン城。とんがり頭の塔と木組みの壁が美しかった。物見の塔というが窓が小さい感じがしたが。からっと晴れた晴天であれば、背景の紅葉の山もすばらしかったのであろうが・・・。回廊を進む。中庭には井戸が見えた。回廊からのブラン城の姿を楽しむ。鳥の巣箱のような可愛いらしい煙突と、鐘塔らしきものが。回廊から見上げて。再び『中庭の井戸』ブラン城には秘密の通路がいくつもあり、その出口がこの井戸であるとのこと。井戸を上の回廊から。敵に囲まれた時にも、水が補給できるようになっていた。ブラン城の建築物(BRAN CASTLE’S ARCHITECTURE)の説明板。大砲というより長距離鉄砲。何門か備えてあった。中庭まで降りて井戸の中をのぞくと、水ではなくたくさんのコイン、紙幣が投げ込まれていた。ここにコインを投げ込むと願いが叶うということで、賽銭箱のように。中庭に降りて城を見上げる。見上げる場所を変えて。更に。回廊がクネクネと。回廊から下部の中庭にカメラを向ける人々が。再び『タイムトンネル (TUNELUL TiIMPULUI)』。『タイムトンネル (TUNELUL TiIMPULUI)』の構成物の写真が中央の配置図と共に。15世紀に建立された礼拝堂の近くのこの中庭には、30mの深い井戸があったのだと。伝説によるとこの井戸は12人のトルコ人の囚人によって掘られた。井戸を作れと命令したフニャディ・ヤーノシュが囚人達に水を見つけたら自由にすると約束した。15年後に水は湧いたが、フニャディ・ヤーノシュは約束を破った。そのため、現在でも、井戸の碑文には「陛下、水はあるが魂はない」と書かれているのだと。井戸の釣瓶。そして土産物コーナーに立ち寄る。ドラキュラに関連する様々な土産が。出口の上を見上げると見事な装飾のランプ?が。ブラン城の中庭を後にする。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.12.04
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3階に上る石のトンネルの如き狭くて長く暗い階段。これこそが中世の雰囲気をそのまま残す美しさ。ブラン城の中にはいかにもドラキュラが襲ってきそうな迷路や拷問に使われていた部屋があった。3階と1階をつなぐ秘密の階段は、1930年代になるまで発見されなかったと。城を修復している時に見つかったもので、『秘密の階段』と呼ばれていると。ようやく階段の最上部へ。 そして次の部屋の入口の場所は隠し階段らしく、本棚の間であった。3階からの景色。『音楽ホール Salonul de muzică』メアリーはエディンバラ公爵アルフレッドの長女(イギリスのビクトリア女王とザクセンコーブルクゴータのアルフレッド王子の次男)とロシアの大公爵夫人であるマリアアレクサンドロフナ(皇帝アレクサンドル2世の娘)の長女であった。1893年の華麗な同盟である、ルーマニアのフェルディナンド王子(1865-1927)と結婚。ブラン城の最大の部屋、マリア王妃の音楽ホールと図書館。王宮の最高建築家、カレル・リマンの設計によると。マリア王妃とイレアナ王女。絵の左下に「1909」と年号があることから、マリア王妃と1909年生まれのイレアナ王女であることが判ると。絵の中のマリア王妃はたいへん優しげで「良妻」に見えますが、夫フェルディナンドとの仲はたいへん悪く、3男3女の子供のうち、始めの二人は夫の子であるが、それ以降は父親不明と言われているのだと。おそらく公開されている中で一番大きな、そして白い壁に囲まれた部屋。天井はあまり高くないものの、天井も床も家具もすべて木製で、落ち着いた雰囲気。部屋の中央には、白い壁に囲まれた東屋のような場所も。ここには暖炉があって、この一角はかなり暖かかったものと思われた。団欒の間といったところであろうか。別の角度から。白い漆喰壁に重厚な木彫り装飾が施された家具、美しい装飾の陶器製の暖炉、温かみのあるシャンデリアなど、どの部屋に入っても中世にタイムスリップしたような気持ちに。絨毯の先にはピアノが。精細な木彫り装飾が施された家具が。イレアナ王女の写真。1931年7月、イレアナ妃はトスカーナ大公家の公子アントンと結婚し、二人はウィーン郊外のゾンネブルク城に住み、6子が誕生したと。しかし、1948年に王家は亡命、ブラン城は没収された。その後、ルーマニア革命が起き、2006年にイレアナ王女の子供たちに返還された。2014年、彼らはルーマニア政府に対して売却交渉をしていると。そうなら、返還などしなければ良かったと、政府は思っているのでは。『音楽ホール Salonul de muzică』の部屋からは、広い回廊(Loggia)に出られた。中庭を囲んでこの回廊(Loggia)が作られていた。回廊から中庭を見下ろす。左側に火薬庫の『円塔』が。砦の南西部分に14世紀に建てられた、おそらく砦で最古の塔。テラスから更に階段を上った。ブラン城の階段は特に、木製で使い込まれていて、適度な幅で上りやすかった。鳥の姿の大きな水挿しか?階段を上がると、この屋上兼テラスに出た。ブラン城の南側を見る。DN73号線、そしてそれに沿ってTurcul川、その先に赤い屋根の高等学校の校舎が見えた。高等学校をズームで。屋根の上の煙突か。その屋根には風見鶏が。眼下に瀟洒な民家が。ブラン城の周囲には歴史を感じる古い教会なども建てられていた。チャペル『Capela "Inima Reginei Maria"』、そしてその前方には今も残っている石垣の姿が。眼下に見えた石垣の連なる場所は、トランシルバニアとワラキアの国境で関税を徴収していた場所でもあると。③『Capela "Inima Reginei Maria"』案内板。石垣の手前に『Inima Reginei Maria』の史跡。またまた階段。テラスから中に入ると、狭い部屋にみごとな家具が置かれていた。よく見ると、部屋の奥に短い階段が見えた。あれはどこに行くのであったか?それにしても、城中、階段だらけ。左手に見事な家具が。『ルーマニア王子ニコラエ Nicolae, Principe al Români)ニコラエはフェルディナンド1世と王妃マリアの次男である。母がイギリス王女であったことからイギリス王室との交流が深く、一時イギリス海軍に所属していたこともある。兄のカロルス2世と対立してルーマニアを追放され、スペインへ亡命し1978年に亡命地で死去した。『ヴラド三世』の家系図。一番有名な『ヴラド三世』の肖像画。くるくるロングの髪と髭。。目は二重でぱっちり、鼻は鷲鼻。被っている帽子の宝石や胸のボタンが煌びやか。ヴラド3世(Vlad III , 1431年 - 1476年)、通称ドラキュラ公(Vlad Drăculea) または串刺し公(Vlad Țepeș )は、15世紀のワラキア公国の君主(ワラキア公)。オーストリア・アンブラの美術史美術館(Kunsthistorisches Museum)から提供された無名の画家が描いた肖像画であると。『Certificate of Authenticity 真贋証明書』。映画のドラキュラで使用されていたもので、ブラン城に寄付されたオリジナルのネックレスであると。ブラン城下の公園を見る。『ドラキュラ伝説』説明板。ヴラド3世は当時、敵だったオスマン帝国の兵士や自国の民や貴族を串刺しにして一列に並べたという逸話があり、ルーマニア語で「串刺し」を意味する「ツェペシュ」というあだ名で呼ばれていた。また、悪魔公と呼ばれた暴君の父親の影響でルーマニア語で悪魔の子供を意味する「Dracula(英語発音でドラキュラ)」というあだ名も持っており、これがドラキュラのモデルになったという風に言われているのだ。小説『ドラキュラ』で有名になった『ブラム・ストーカー(Bram Stoker 1847年−1912年)』はイギリス時代のアイルランド人の小説家。『ブラム・ストーカー(Bram Stoker)の生い立ち、経歴案内。『ヴラド3世』 説明板。『ヴラド3世』が行った処刑の様子を描いた展示。なぜ『ヴラド3世』が「吸血鬼ドラキュラ」のモデルとなったのか、彼が実際に行った「串刺し刑」などの処刑の様子が描かれていた。『串刺し』の姿。『Descartes de strigoi』とは『不死の断片』の意か。窓やシャンデリアの装飾も美しかった。色彩豊かな可愛らしい扉も。落ち着いた雰囲気の机、椅子が、美しい模様のタイルを貼った暖炉とともに。ブラン城に文句をつけるなら、各部屋や展示品の説明がやや少な過ぎるのでは。すべての観光客がイヤホンガイドを使うわけではないので、もう少し考慮して欲しいと思ったのであった、そして日本語での説明文も追加して欲しいと我儘にも。『The Saxon Chamber』がサクソン人の部屋?ANTICAMERA DORMITORULUI REGELUI『キングフェルディナンド1世の寝室』。『STEMA REGATULUI ROMANIEI INTREGITE』ルーマニア国王フェルディナンド1世の紋章。フェルディナンド1世の赤いBED。ズームで。王冠。『DORMITORUL REGELUI FERDINAND』『キングフェルディナンド1世の寝室』。『キングフェルディナンド1世の寝室』を別の角度から。ネオバロックスタイルの家具セット。ダイニングルームには19世紀の装飾品と塗りタイルの暖炉が。ズームで塗りタイルの暖炉を。『コスチュームホール』。ここでは、マテイバサラブ(城の所有者の1人)の時代に着用した宮廷コスチュームのレプリカが展示されていた。イレアナ王女のガウンであろうか?若かりし頃のイレアナ王女像。イレアナ王女の経歴を紹介。第二次世界大戦中、夫アントンはドイツ空軍に所属し、イレアナは城をルーマニア傷病兵の病院として使用した。1944年、イレアナは子供たちとルーマニアのブラン城へ移り住んだ。アントンもブラン城へ合流したが、一家は赤軍の監視下に置かれた。それでも、イレアナは城外のブラン村で病院を建設し看護婦として働いた。ルーマニア王制が崩壊し、共産主義国家が樹立されると、王家もイレアナ一家も国を追われた。イレアナらはスイス、アルゼンチンへと移り住み、最終的にはアメリカ・マサチューセッツ州に居をかまえた。彼女はルーマニア正教会で働きながら、共産主義政権の不当性を訴え2冊の本を執筆するなど活動した。この間の1954年、イレアナはアントンと離婚。亡命ルーマニア人のシュテファン・ニコラエ・イサレスクと再婚するが1965年に離婚し、イレアナはフランスでビュシーの生神女庇護修道院に入った。修道女アレクサンドラとなったイレアナは、ペンシルベニア州に修道院を建てるため再び渡米。1981年に引退するまで活動した。1990年にようやく、娘に伴われて故国ルーマニアを訪問した。ルーマニアの国章。鷲が抱えている盾は赤と青の五分割のものである。上部に2つ、下部に3つの枠がある。上部左には、青地に頭上に日月を戴いて十字架を咥え、赤い嘴と脚を持つ翼を広げた金の鷲が描かれている。これはワラキアの紋章である。上部右には、赤地に角の間に金の五角星を戴いた黒い牛の頭が描かれている。これはモルダビアの紋章である。下部左には赤地に金(黄)で銀の剣を掴んだ獅子と橋が描かれている。獅子と橋はバナトおよびオルテニアの紋章である。下部中央には、青地に2匹の金の魚が描かれている。これは黒海沿岸のドブロジャを象徴している。下部右には、青地に黒い鷲が描かれている。これはトランシルヴァニアと、同地方に属するクリシャナ(現在のアラド県やビホル県にまたがる地方)およびマラムレシュ(現在のマラムレシュ県を含む地方)を象徴していると。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.12.03
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この日はツアー7日目の10月30日(水)。この日も早朝起床し朝食を取る。9:45にホテルを出発し、ここブラショフの南西約33kmにある『ブラン城』の観光にバスで出発する。1E号線の山道を進む。道の両脇の山の斜面には、紅葉も終わり枯れ落ちた落ち葉が敷き詰められていた。小雨の中、車窓からの風景を楽しむ。Poiana村を通過。山裾には雲が低く垂れ込めて。ルシュノヴ(Râșnov)の街中を流れるGhimbâșl川を渡る。E574を進むと多くの羊が放牧されていた。そしてブランの街に入ると前方に『ブラン城』が見えて来た。ホテル「Casa din Bran」。バスを降りブラン城に向かって歩く。土産物屋にはドラキュラの顔とドラキュラが苦手なニンニクが。「ドラキュラは何故ニンニクが嫌いなのか」👈リンク を参照ください。左手にあったのがお化け屋敷(The Castle Of Horror)の建物。こちらが入口。そして正面に『ブラン城』。『ブラン城』入口で添乗員アレキサンダーが入場チケットを購入するのを待つ。手前には多くの土産物屋が両側にズラッと並んでいた。ブラン城入場料︰ 40レウルーマニアのほとんどのアトラクションと同様に、観光名所にはローシーズンとハイシーズンがある。それに基づいて入場時間のスケジュールは異なると。ローシーズン、10月1日から3月31日までのスケジュールは次のとおりです。月曜日: 12 PM – 4 PM火曜日から日曜日:午前9時から午後4時最終入場:午後4時ハイシーズンでは、4月1日から9月30日までの間。月曜日: 12PM – 6 PM火曜日から日曜日:午前9時から午後6時最終入場:午後6時ルーマニアと聞いて、多くの人がイメージするのが吸血鬼ドラキュラ。15世紀にルーマニアの一地方であるワラキア公国を治めていた、ヴラド三世(ヴラド・ツェペシュ)をモデルにして書かれた小説が世界的に広まり、日本でも「ルーマニア=ドラキュラ」のイメージが定着したと。そんな吸血鬼ドラキュラのモデルとなった城が、ルーマニアに残っているこの城。その名も『ブラン城』。ブラン村の丘の上60mのところに建っている中世の砦である。14世紀末にはヴラド・ツェペシュの祖父ワラキア公ヴラド1世が居城としていた。15世紀に実在したワラキア公ブラド3世(ヴラド・ツェペシュ)、別名ヴラド串刺し公。ドラキュラと言われた由縁は、裏切り者や当時敵対していたトルコ兵を見せしめのために串刺しにして処刑するなど、あらゆる残酷な方法で処刑したゆえからだと言う。ドラキュラとはルーマニア語で「悪魔」も意味している。『TUNELUL TIMPOLUI』の文字が。『タイムトンネル』の意か。タイムトンネルが発見されていたが、7月1日から観光客に公開されたと。ブラン城へのアクセスを容易にするために、メアリー女王の命令で1930年に建てた。トンネルには、城と公園を約40メートルの距離で接続するエレベーターがあったと。このように、訪問者は、ショートカットで城に到達したい場合にこのルートを利用したのではと。エレベータキャビンの再構築、井戸およびトンネルの修復には、ほぼ100万ユーロがかかったと。『TUNELUL TIMPOLUI』建設の経緯も説明されていた。タイムトンネルのあった場所。ブラン城下の下の緑の多い公園(PARCUL CU LACURI)。この周辺の紅葉もエピローグへ。目の前にブラン城に登る坂道が見えて来た。土産屋が並ぶ。駐車場からブラン城の登り口に行くまでには、土産物屋がこれでもかというほど連なっていた。そしてチケット売り場を過ぎると、やっと土産物屋の喧噪から逃れて、樹木に囲まれた静かな城の雰囲気を味わうことが出来たのであった。 石畳の坂道には、私には無縁な「濡れ落ち葉」が。坂の途中から公園内の池を見下ろす。自然の岩山の上に立つブラン城。山上に聳えるブラン城は、岩と一体化したような造り。城の前にあった十字架(クロス)。ブラン城入口。城内に入って最初の部屋にはブラン城の年代ごとの歴史が絵画や写真入りで。ブラン城の歴史の始まりは、1377年11月19日付のハンガリー王ルイス1世の「ブランの山上に要塞を築く特権をブラショフのザクセン人(ドイツ商人)に与える」という通達書。要塞は1438-1442年、オスマン朝軍との攻防戦に使われた後、ワラキアとトランシルヴァニアを結ぶ街道の税関として使われたが、ドラキュラ伯爵のモデル、ワラキア領主の串刺し公ヴラド3世(1448-1476)との直截的関係を示す事実はないとの由。1533年にマジャール王からブラショフ市に所有権が移り、18世紀中頃まで軍事戦略拠点として機能した。1919年にトランシルヴァニアがルーマニア領に組み込まれると、翌1920年ルーマニア王国の所有となり、夏の離宮として使用された。1948年、共産党独裁政権が誕生し、王族は国外に追放され、ブラン城は没収される。民主政権確立後の2005年、政府から財産継承者であるルーマニア国王の子孫に返還され、2009年6月から私設博物館として一般に公開されているとのこと。オスマン帝国に対する国境を守ることの重要性に加えて、ここは税関の役割も。 トランシルバニアに出入りする商品のほとんどは、この地域を通過したと。 城に入り最初の部屋は、元警備員の部屋であると。下の写真は歴代の城主で、左から3番目がワラキア公国のミルチャ公。ドラキュラのモデルであるヴラド・ツェペシュ公の祖父にあたります。左から4番目のおもしろい帽子を被っているのが、ハンガリーの王、ジギスムント。右から3番目がドラキュラのモデルとなったヴラド・ツェペシュ公(ヴラド3世 1431-1476)。更にズームして。右から4番目がヴラド・ツェペシュ公(ヴラド3世 1431-1476)。ブラン城は創建は14世紀だが、1920年から1947年までは、17世紀後半からルーマニアを統治していたハプスブルグ家の夏の離宮として使われていた。マリー王妃(1875-1938)のお気に入りの城であったと。1938年に末の王女イリアナ(1909-1991)が相続したが、1948年に当時の共産党政権が没収。以降、荒廃してしまったたが、80代後半に入って修復工事が始まり、1993年にやっと部分的に修復が完了。現在はもちろん、ルーマニアの人気の観光地の1つ。それが、2006年5月26日、17世紀後半からルーマニアを統治していたハプスブルグ家の末裔で、ニューヨーク在住の建築家ドミニク・フォン・ハプスブルグ氏に返還されたのだと。写真の中央には王女イリアナ(1909-1991)の姿が。そして右端の写真は現在の所有者3名(ルーマニア国王フェルディナンド1世の孫でありリアナ王女の長男であるニューヨーク州の建築家ドミニク・フォン・ハプスブルク(Dominic Habsburg-Lothringen)と彼の二人の姉妹Maria-Magdalena Holzhausen、Elisabet Sandhofer)の写真であると。持ち主3人とも現在米国在住とのこと。木造りの天井には素朴なシャンデリアが。城は、もともと13世紀にドイツ騎士団が、トランシルヴァニアの南東部を守るため、木材製の国境の要塞を築いたことから始まると。14世紀には、ドイツ商人が侵入してくるオスマン朝群をいち早く発見する目的で、石造りの要塞を築いたと。その後、ワラキア公ヴラド1世がここを居城としたのだと。実際にこのブラン城に住んでいたのは、ドラキュラ伝説の主人公でヴラド・ツェペシュ(串刺し公)という別名がある15世紀に実在したワラキア公ヴラド3世ではなく、彼の祖父ヴラド1世であると。小さな中庭。城内にある様々な部屋を訪ねたのであった。城内は恐ろしい雰囲気を持つものではなく、中世の典型的な城が4階層にわたり、迷路のような階段と廊下でたくさんの部屋が繋がっており、陶器・家具・武器・甲冑などが展示されていた。この部屋は『マリア女王の寝室』。鷲のマークの紋章。こちらは王冠を被り、口に十字架を咥え、両足に武器を持つ、勇ましくも、何やら忙しい姿。左足は、モルダビアを象徴する銀(白)のシュテファン大公の剣、右足は、ワラキアを象徴する銀(白)のミハイ勇敢公の錫杖とのこと。1893年にビクトリア女王の孫娘であるエディンバラのマリー王女とルーマニアのフェルディナンド王子が結婚した後、若いカップルはすぐにルーマニアと海外で有名になった。彼女の優しさ、慈善、そして美のためにすべてに愛された王女は、第一次世界大戦が始まった直後の1914年に夫が王位に就いたとき、ルーマニアの女王に選ばれたのだ。マリー王女orイレアナ王女のウェディングドレスであろうか、あるいはお洒落着か?背後に日傘も飾ってあった。女王マリーがかつて使用していた衣服、芸術、家具、楽器などが展示されていた。コウモリの如き形のシャンデリア。『マリア女王の寝室』の案内板。女性らしい寝室の家具類。写真中央に寝室のベッド。ルーマニア国王フェルディナンド1世が不在の時、一人でいる時の寝室であると。王妃も王女も美女ですから、写真の日付けが無いと、どちらかを判別するのは大変。この写真はイレアナ王女(1909〜1991年)の方でしょうか。第2次大戦中の1944年、アントン公と結婚していたイレアナ王女は、子供達とルーマニアのブラン城へ移り住み、城外のブラン村で病院を建設し働いたのだと。。右手には暖炉が。天井のアーチ状の曲線が美しかった。次の『ゴシックの部屋』案内板。ゴシック形式の家具が置かれていたから付いた名であると。ブラン城の歴史案内板。天井のアーケードに因んで名付けられたゴシックルームは、かって要塞の礼拝堂であり、前庭に続く聖なる場所であった。部屋の配置は台形。ここには暖炉が設置されていた。『Brașov市長 Lucas Hirscher、1528–1539』や14世紀の壁の案内板。出口の横の四角い部分は、上の城の塗装を剥がした14世紀のオリジナルの壁の様子であると。正面のドアからは3階への石の階段が始まるが、昔はドアの前に家具が置かれ、秘密の階段になっていたのだと。14世紀のオリジナルの壁の部分をズームで。この部屋の壁を修理している時に秘密の通路が見つかったのだと。『秘密の階段(Secret staircase)』案内。王妃のガウンであろうか?『応接室 SALA DE CONSILIU(COUNCIL CHAMBER)』『Brașov市長 Lucas Hirscher、1528–1539』像。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.12.02
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ブラショフの中心部に到着し、バスを降り『スファトゥルイ広場(Piata Sfatului)』に向かって歩く。前日にも訪ねた『スファトゥルイ広場(Piata Sfatului)』を再び歩く。『スファトゥルイ広場(Piata Sfatului)』タンパ山(Tampa)にある「BRASOV」の文字を再び、いや三度と。アメリカにあるハリウッドのパクリ??へリューム風船を売る道化師姿の男が『スファトゥルイ広場(Piata Sfatului)』に。広場の噴水前から「スファトゥルイ広場」に位置する「高さ60mの塔」をもつ「15世紀」に建てられた『旧市庁舎(現在は歴史博物館)』。スファルトゥルイ広場の先にある『黒の教会』を訪ねる。『黒の教会』はブラショフの町の中心にそびえ建つ、高さ65mのトランシルヴァニア地方で最大の後期ゴシック教会。名前の由来は、17世紀末にハプスブルク家とオスマン帝国との間で起きた大トルコ戦争の際に、火事でこの教会も焼けてしまい外の壁が黒焦げになったことから「黒の教会」と呼ばれるようになったのだと。教会の内部には、トルコやアナトリア産の絨毯、タペストリー、そして1839年に製作された、4000本ものパイプと4つの鍵盤を備えた、ルーマニア最大級のパイプオルガンが飾られていると。ガイドブックより掲載。『黒の教会』の外壁には城の大理石の彫刻が。『黒の教会』の『黒の門』。斜め前から見上げた時計塔の光景。『黒の教会』では、一番高い尖塔。『黒の教会』の壁に沿って建てられたブロンズ像はヨハネス・ホンテルス(1498〜1549年)の像。ブラショフ地区で初めてドイツ語による説教をした人と。台座に刻まれていた文字のアップ光景。『HONTERUS:(1498〜1549年)』の文字。<台座の下の両側にはレリーフが。像の向かいにあったのが『ヨハネス・ホンテルス公庫』。ヨハネス・ホンテルスに関する資料が納められていると。西のファサード。向かいのジェオルジェ・バリツゥイ通り沿いの店舗の建物。再び『黒の教会』の北西の角。角まで来て。更に北側に回り込む。『黒の教会』の北西側の尖塔を見上げる。北面の壁を見上げて。ピアツァ・スファトゥルイ通りを歩く。正面に『歴史博物館 Muzeul Județean de Istorie』。スーパーマーケット『Magazin Alimentar Alideea Com SRL』を散策。美味しそうなウィスキーのポスター。バリック(Barrique)とは、ボルドー地方やコニャック地方にてワインやウィスキーを熟成させるために使われる、小型のオーク樽のこと。 かつては輸送にも使われていた。 また、この樽を使用することでワインやウィスキーに加わる樽の香りを指す場合もある。ライトアップされたカトリック教会『Biserica Sfinții Apostoli Petru și Pavel』。そして我々のツアーバスを待つ旅友たち。連泊のホテルの部屋に戻り、日本から持って来たソーメンを茹でて4人で楽しむ。麺つゆも日本から濃縮タイプの瓶入りを日本から持参したのであった。私がソーメン&麺つゆを担当、今回は旅友が乾燥ネギも持参してくれたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.12.01
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