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通常時の海面の姿をネットから。そして「砂の道「トンボロ」」時の上空からの写真を、これもネットから。「江の島大橋」の鎌倉側の海が割れて「砂の道「トンボロ」」が生まれるのだ。これがこの日の「砂の道「トンボロ」」。普段は海面に覆われている場所から、約200~250mの「砂の道「トンボロ」」が生まれているのであった。「トンボロとは江の島は、潮が大きく引くと陸続きになり、この地形をトンボロと呼びます。トンボロはイタリア語で、日本語では陸繋砂州(りくけいさす)といいます。波は、島のような障害物があると、回り込んで進みます。波は同時に砂を運び、島と海岸の間には、砂が集まり、トンボロができます。江の島のトンボロは、自然現象のため、必す現れるとは限りませんが、潮位がおよそ20cmより低くなる時に現れます。トンボロは江の島以外にも国内や世界各地で見ることができます。『吾妻鏡』という鎌倉時代の歴史書には、1216年1月突然江の島の海に道が開け、舟を使う必要がなくなって国中の人々が集まった、とあります。将軍源実朝をはじめ大勢の方々が驚いて神のおかげではないかと思ったとのことです。また、1600年6月徳川家康が江の島を訪れています。その時の記録によれは江の島に向かい弁財天に参詣したのですが、ちょうど干潮だったので一行は徒歩で渡り、帰路は潮が満ちてきたので舟で帰ったとあり、潮の満ち引きでトンボロが現れる様子がわかります。江戸時代には江の島参詣の人々でにぎわいましたが、参詣者がトンボロを歩いて渡る様子を描いた浮世絵も数多く残されています。」「トンボロ」・「陸繋砂州(りくけいさす)」の様子の写真。「トンボロ」が描かれている「浮世絵」。歌川広重「相州江之嶋弁才天開帳参詣群集之図」。歌川広重(1799-1858)は本名を安藤といい、安藤広重とも呼ばれます。天保年間より風景画家の道を歩み、東海道五十三次シリーズなどで有名です。この作品は弁才天開帳の際の江の島の賑わいを描いたもので、参詣に向かう4組の女講中を揃いの日傘で描き分けています。「砂の道「トンボロ」」上を進む駕籠の姿も描かれている。「砂の道「トンボロ」」越しに腰越漁港方向を見る。「砂の道「トンボロ」」越しに「片瀬東浜」方向を見る。海面上に大きく現れた「江の島大橋」の橋脚の基礎部。正面の黒い帯が「砂の道「トンボロ」」。ズームして。一番狭い場所でも10m以上の幅が生まれていた。更に黒い帯をズームして。「片瀬東浜」の国道134号沿いのマンション群。護岸近くの広場の「ハマヒルガオ(浜昼顔)」。茎は砂の上を這い、毛はなくてなめらか。時に茎が砂に埋もれて葉だけが出る。葉は腎心形、やや丸くて基部は左右に張り出す。葉はつやのある緑で厚みがある。長さは2-4cm、幅は3-5cm。花は5-6月に咲き、淡紅色で、径4-5cm。花柄は葉より長く、葉の上に抜き出て咲く。そしてこちらは一面の白詰草(シロツメクサ)。クローバーとも言う。再び「砂の道「トンボロ」」を振り返る。江の島での「砂の道「トンボロ現象」👈リンク を描いた様々な浮世絵があるのだ。葛飾北斎『富嶽三十六景』より「相州江の島」。片瀬海岸から江の島を見たところです。江戸時代は、江の島弁財天は江戸から格好の小さな旅先でした。砂洲の参道が現れれているところから、今は干潮時のようです。人々や馬、駕籠など参詣に行くようです。参道の両側に旅館や土産物が軒を連ねています。三角形の屋根は、定規を使って引いたような直線で描いています。その屋根の上の三重塔は、江島神社上之宮の塔です。右端に船を描き、その先の富士に視線を求めています。波打ち際の波の泡の描写など静かな春を思わせます。多少誇張や演出で描く北斎には、珍しく自然な景観を描いています。干潮時で、一筋の砂州の上「トンボロ」には、人々や馬、駕籠などが島に向かって進んでいます。作者 歌川広重(うたがわ ひろしげ)初代 寛政9年~安政5年(1797~1858)作品名 相州江の島の図制作年 天保年間後期(1842年頃)作者 歌川広重(うたがわ ひろしげ)初代 寛政9年~安政5年(1797~1858)作品名 江の島参詣の図制作年 嘉永6年(1853)そして正にこの時の「砂の道「トンボロ」」の航空写真をネットから。私もこの写真に写っているのかもしれません。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.31
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この日は5月21日(日)、前日に妻から、江ノ島で干潮時にしか現れない、江ノ島へ通じる砂の道「トンボロ」が出現することを聞き、訪ねることに。ネットにて、潮見表を。5月21日(日)は大潮で11:33に干潮になり、潮位は-5cmとのこと。江の島は潮位が20cm以下になるとトンボロが現れ陸続きなるとのこと。トンボロを日中歩いて渡れるのは、3月から9月(2022年)の新月または満月の干潮時のみ と。自宅を10:15に出て、小田急線を利用して片瀬江ノ島駅に到着。時間は10:47過ぎ。改札口横には、新江ノ島水族館の協力で、クラゲが漂う常設の水槽があるのだ。水槽は駅舎正面中央に置かれ、開口部が直径二メートルの円形で、二・六五トンの海水が入っており、ゆっくり回転するように流れている。二十匹ほどのミズクラゲがゆらゆら浮遊するしているのであった。新江ノ島水族館によると、館外に水槽を常設するのは初めて。少し離れた場所にろ過装置があり、地中を通した配水管でつなぎ、水温調節機能も備える。異常が生じれば、近くの同館に警報が伝わり、対応する仕組みになっていると。マリンブルーの神秘的な彩りの中をクラゲが回転しながらゆったりと浮遊しているのであった。改札を出て、クラゲ水槽の裏側を見る。小田急線の片瀬江ノ島駅を正面から。駅舎は神社仏閣に用いられる「竜宮造り」と呼ばれる技法を採用。江の島の「五頭龍と天女の伝説」にちなんだ装飾も施されている。1929(昭和4)年の開業時から「竜宮城スタイル」の駅舎で知られた片瀬江ノ島駅。新駅舎は2018年2月に着工し、長年親しまれた旧駅舎のイメージを残しつつ、より「竜宮城らしい」駅に生まれ変わったのだ。真っ赤な柱と緑の屋根、黄金に輝く竜の姿が。楼門上層の窓ガラスには、江の島に伝わる「天女と五頭竜(ごずりゅう)」の伝説にちなんで天女の絵が描かれていた。別の場所からズームで「天女」を。波間から立ち上がる黄金の龍の姿が。屋根の上には鯱ならぬイルカが。下層のアーチ部分の天井は神奈川県産のヒノキ仕上げで、竜宮城らしく四隅にカメの彫刻が泳ぐ。そして江ノ島に向かって、境川に架かる「弁天橋」を渡る。路面には、陽光に輝く、江島神社の鳥居、藤沢市の花・フジそして江ノ島の姿が描かれたパネルが埋め込まれていた。「境川」には水上オートバイ(水上バイク)は走っていた。運転手の背中には「試験中」と。特殊小型船舶操縦士の運転免許試験であったのだろうか。「弁天橋」から国道134号・「片瀬橋」その奥に江ノ島の姿が。「弁天橋」中央に置かれている像。なめらかでふくよかなポーズが悩ましい。「雲の形」と。境川の上流側を見る。そして「片瀬東浜」に到着。時間は10:53。干潮の時間は11:33とのことであった。そして前方を見ると、既に海が割れて砂の道が出来ていたのであった。潮の引いた砂浜には多くの家族連れの姿が。そいて沖には多くのヨットが。熊手、バケツを持ち潮干狩りにTRYしている子供の姿も。「湘南港」、「江の島ヨットハーバー」方向を見る。「腰越漁港」方向を見る。天童よしみの曲:「珍島物語」👈リンク を想い出したのであった。♫海が割れるのよ道ができるのよ島と島とがつながるのこちら珍島(チンド)からあちら芽島里(モドリ)まで海の神様カムサハムニダ霊登(ヨンドン)サリの願いはひとつ散り散りになった家族の出会いねえわたしここで祈っているのあなたとの愛よふたたびと♫♫遠くはなれてもこころあたたかくあなた信じて暮らしますそうよいつの日かきっと会えますね海の神様カムサハムニダふたつの島をつないだ道よはるかに遠い北へとつづけねえとても好きよ死ぬほど好きよあなたとの愛よとこしえに霊登サリの願いはひとつ散り散りになった家族の出会いねえわたしここで祈っているのあなたとの愛よふたたびと♫ズームして。江の島の「江島神社 瑞心門」そして「江の島シーキャンドル」も見えた。海が割れて生まれた砂の道を進んで行った。狭い場所でも10m以上の幅の砂の道が出来ていたのであった。「【湘南】江ノ島 トンボロ現象(藤沢市)」👈リンク江の島側には、平塚方面からの波が「江ノ島大橋」下を通過して押し寄せて来ていた。普段なら、この場所は海の下。「江ノ島大橋」の橋脚用の基礎も海面上に顕わに。妻の話によると、昔は橋に下に砂の道「トンボロ」が出来たと。時代とともに腰越方向に移動していると。下部の円柱状の基礎の部分は海中にあるのだが、今日は!!そして砂の道「トンボロ」の先には、護岸上に上る仮設の階段が設置されていたのであった。仮設の階段前から、歩いて来た砂の道「トンボロ」を振り返る。こちらが通常時の波の様子。東からの波は「江の島大橋」の下を通過し、腰越方向からの波とぶつかるのだ。このぶつかった場所が砂の道「トンボロ」となることが解るのであった。護岸下の保護用の岩も完全に姿を現していた。「江の島大橋」の橋脚用の基礎部を見る。そして「砂の道「トンボロ」」の先にあった仮設用階段を見る。この日の「砂の道「トンボロ」」の観光客用に藤沢市の観光協会が設置したものであった。地元では知られた自然現象を観光コンテンツとして活用しようと、市観光協会が「トンボロ」を渡って安全に江の島に上陸する手法を模索しているようであった。「トンボロ」は長年にわたり江の島周辺地区の名物として知る人ぞ知る現象だった。ただし、海の道が現れるのは3月から9月の新月または満月の干潮時のみで1時間ほど。めったに起きないため、これまで同協会などが観光資源としてPRすることはほとんどなかったとのこと。護岸擁壁の保護用の岩が完全に現れて。再び「砂の道「トンボロ」」を振り返る。仮設階段を正面から。安全管理のために観光協会の方も仮設階段の上で立ち会っておられた。多くの方が私と同様に「砂の道「トンボロ」」を歩き、「片瀬東浜」からこちらに向かっていた。私も仮設階段を上って護岸の上に。最終段の踏み板と護岸擁壁の隙間が大きく子供達の為には、もう少し狭くする処置が必要と感じたのであったが・・・。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.30
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「聖光寺」の「本堂」。蓼科湖周辺にあった中山開拓地の開拓民児童のために旧北山村時代に設置された茅野市立北山小学校蓼科分校(1963年閉校)跡地を転用して1970年、トヨタ自動車を始めとするトヨタグループが施主として建立した寺院である。同年7月9日に薬師寺より長老・橋本凝胤を迎え開眼法要を行った。「交通安全の祈願」「交通事故遭難者の慰霊」「負傷者の早期快復」を三大寺命としており、毎年7月の夏季大祭には必ずトヨタグループの首脳陣が集まり交通安全を祈願する。開 山 昭和45年(1970年)御 本 尊 救苦観世音菩薩(ぐくかんぜおんぼさつ)立像宗 派 法相宗(大本山 薬師寺)三大寺命 交通安全の祈願 交通事故犠牲者の供養 交通事故負傷者の早期社会復帰の祈願本堂の重層の屋根は錣葺(しころぶき)入母屋造に鴟尾(しび)がのる。二重の軒反(のきぞ)りのゆるやかな曲線が美しい。二層目の工夫されたデザインの高欄がキュッと引き締まった感じを与えており、全体のバランスに貢献している。また、正面の柱と桁で区画された方形は中央が正方形に近く、両端は柱間が短くなって下回りの安定感を増している。「本堂」の「鴟尾(しび)」。「本堂」の扁額は「大?通」と。ガラス越しに内陣を見る。写真右側に御本尊「救苦観世音菩薩立像」。御本尊「救苦観世音菩薩立像」。寺務所隣に「不動明王像」。近づいて。「寺務所」。「御朱印」を頂きました。奉納殿奥にある「道場」をネットから。桜並木に中にある「茶室」をネットから。「本堂」前から境内参道を見る。「奉納殿」を廻り込んで。「蓼科山」の扁額が。「奉納殿」では「杉江みどり切り絵展『余韻』2023年4月18日(火) ~ 5月6日(土)10時~16時(無料)」が開催されていた。「茅野市蓼科の聖光寺奉納殿で、人形浄瑠璃文楽をテーマにした切り絵作家杉江みどりさん(64)=大阪府=の個展「余韻」が開かれている。諏訪にゆかりのある八重垣姫など、繊細でシャープな切り絵17点が来場者の視線を集めている。展示作品は「ハ重垣姫乱舞」(本朝廿四孝)、「お三輪回想」(妹背山婦女庭訓)、「静と忠信」(義経千本桜)、「天満屋」(曽根崎心中)など。トレーシングペーパーに下絵を写し、胡粉染めの黒和紙に重ね、その上から切り出す。B1判の大作もあり、登場人物の心情が伝わるような躍動的な場面が目を引く。もう一つのテーマの猫の切り絵も並ぶ。」との新聞記事をネットから。もう一つのテーマの「ネコの切り絵」。「逆櫓 ーひらかな盛衰記ー」。「知盛 ー義経千本桜ー」。「丞和名残 ー菅原伝授手習鑑ー」。「勘助住家 ー本朝廿四考ー」。「十種香 ー本朝廿四考ー」。「八重垣乱舞 ー本朝廿四考ー」。「お三輪回想 ー妹背山婦女庭訓ー」。「八重垣姫」か?ズームして。「静と忠信 ー義経千本桜ー」。ズームして。「岡崎 ー伊賀越道中双六ー」。ズームして。「心中宵庚申」。ズームして。「天満屋 ー曽根崎心中ー」。ズームして。「二人三番叟」。「お七 ー伊達娘恋緋鹿子ー」。「文楽歌留多」。展示風景。「???」。展示風景。「杉江みどり切り絵展『余韻』」の鑑賞を終え、バスに戻る為に参道を引き返す。1週間前には・・・。ネットから。「廻逈功徳観音像」が左手奥に。そしてバスは県道192号線・ビーナスラインを中央高速道路・諏訪南ICに向かって進む。左手にはゴルフ場「蓼科高原カントリークラブ」。「八ヶ岳エコーライン」から「八ヶ岳」の山々を見る。ズームして。左手に「天狗岳」。中央に「赤岳」、その後ろに「横岳」。諏訪南ICから中央高速道路に入り、右から「赤岳」、「天狗岳」、左に「蓼科山」。富士山の山頂が姿を現した。中央自動車道から甲府盆地を見る。「談合坂PA」にてトイレ休憩。もっと混んでいると思っていたが・・・。「圏央道」を厚木方面へ。「相模原愛川IC」を通過。「海老名」の町並みを見る。「海老名IC」にて「圏央道」を降りる。神奈川県道22号線にて新幹線下を通過。そして湘南台駅に到着し、この日の「甲斐・信州日帰りの旅」を終わったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.05.29
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「ビーナスライン」を「蓼科湖」に向かって下っていった。枝垂れ桜が満開出迎えてくれた。「蓼科高原」、「北八ヶ岳ロープウェイ」案内板もあった。左側にあったのが「リゾートホテル蓼科」その先に「ヤマザキショップリゾートホテル蓼科店」。そして左手に「蓼科湖(たてしなこ)」が姿を現した。「蓼科湖」は、昭和27年5月、農業用温水ため池として、また観光のメッカとして誕生した人造湖。湖畔は白樺や落葉松の林にかこまれ、南側に立てば蓼科山の山容が湖面にくっきりと映し出されると。そして右手にあった「聖光寺(しょうこうじ)」駐車場に到着しバスを下車。「蓼科山聖光寺縁起蓼科山聖光寺は 交通安全 一路安穏を専一に祈祷する道場として 、昭和四十五年七月、トヨタ自動車販売株式会社及び関係会社の発願により、山紫明水山嶺神宿の地、蓼科の郷に創建された。本尊は救苦観世音菩薩の霊像にして 日本には稀有なる尊容を示し給い 左手に胡柳を捧持し 右手に花籠を提持し給う この尊体は遥かに天竺と中国を結ぶ天山北路の駅邑湧泉の郷の龕窟に祭祀されたる観世音菩薩なり タクラマカン沙漠を往来する求法僧をはじめキャラバン隊商たちの一路安穩・交通安全の祈りを千年にわたり 一身に受け給う 旅の安全を願うは人間の常なり境内に観世音菩薩の三十三身に化身し給いて慈悲を施し給う尊像を安置す奉斎せる薬師如来は密教蘊奥の浄利 ネパール国将来佛にして 三界所有の有情非情のすべてを安楽なさしめるために 七佛薬師放香報光四十四大願を発願し給い 身心健康の功徳を衆生に施し給う当寺は奈良薬師寺に千四百年の伝統ある唯識教学を伝承する一道場であり その教学は東洋的認識論を説き 世俗にあっては世情認識を正しく得るために正常な人格を養成する修行方法論なり親世音菩薩・薬師如来の脇待尊者として唯識教学を大成したアサンガ(無著)・ヴァスバンドゥ(世親)大士を祭祀し 両大士の完成し給うたる教学により衆生を純真寡悪の世界に導入あらんことを願う」「聖光寺」境内案内図。寺号標石「蓼科山 聖光寺」。「山門」の左前にあった石庭内にあったのは「毘沙門天」。「毘沙門天」をズームして。「観世音菩薩三十三應化身像‥‥‥‥・以下解読不能」正面に見事な「山門」。山門は平安時代の優美さを再現し、観音様の慈悲を示現給う應化身三十三身の中、梵天(ぼんてん)、帝釈天(たいしゃくてん)、天大将軍身(てんだいしょうぐんしん)、優姿塞身像(うばそくしんぞう)が山門に祀られていた。「山門」の扁額は「蓼科山」。「梵天」。「帝釈天」。「格子天井」と「一路安穏」と書かれた提灯が2個。「山門」を境内側から見る。「天大将軍身像」(左)。「優姿塞身像」(右)。「山門」の先にあったのが「旧灯籠」。近づいて。前方に「太鼓橋」。「修行僧」。左手に「放生池」。観世音菩薩の化身、三十三身があちこちに。「伽留羅」。「阿修羅」。「大自在天」。「旧灯籠」、「山門」を振り返る。「本堂」に向かって「太鼓橋」を渡って桜の参道を進む。標高1200mに咲くソメイヨシノの桜はピークは過ぎていたが。本州で最も遅い「ソメイヨシノ」が見られる桜の名所とのこと。1週間前の晴天であれば(ネットから)。この日の桜を見上げて。「本堂」に向かって。右手奥には「鐘楼」が見えた。正面に「灯籠」と「本堂」が。左手に「手水舎」。その先に藁葺き屋根の「奉納殿」。「鐘楼」。「鐘楼」の「軒廻り」をズームして。独特なデザインの「斗拱(ときょう)」。「斗栱」とは、柱の最上部や、軸部の上に設置され、軒桁を支える部位の名称。 基本構造は、斗(ます)と呼ばれる部品と、肘木(ひじき)と呼ばれる部品で構成されている。 斗組(ますぐみ)や、広い意味で組物(くみもの)とも呼称される。「梵鐘」。「灯籠」に近づいて。境内の「枝垂れ桜」も満開。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.28
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「横谷峡」の散策を終えて「横谷温泉旅館」まで戻る。「横谷温泉旅館」入口。我々のツアー「STEPトラベル様」の歓迎ボード。入口にあった湧水?の「水場」。フロントは奥のエスカレータで2階に上がって下さいと。生花に近づいて。エスカレーターから見下ろして。2階のロビーにも「水場」がった。「全館ご案内」。●最大収容人数:530名 と。山奥の旅館とは言えど、造りは旅館というよりも現代的なホテルといった感じ。こちらは増改築を繰り返しているであろう事を感じさせる、informationボード。●室数:80室 新館・仙峡亭 59室 (和室18畳16室/和室15畳20室/和室10畳15室/洋室ツイン8室) 本館・清流荘 21室 (和室9畳+9畳14室/和洋室9畳+ツインベッド7室)「フロント」。そして「大浴場」へ。源泉は湧き出した時には無色透明であるが、鉄分を多く含んでいるため空気にふれると、すぐに茶褐色に。鉄分が沈殿して黄金色の濁り湯となるのだ と。「横谷温泉旅館」には、渓流を臨む2つの露天風呂、渓谷を眺められる2つの内湯、さらに2つの貸切露天風呂があり、鉄分と炭酸ガスを多く含んだ自家源泉を堪能できるのであった。炭酸ガスが溶け込んだ温泉は、血液の循環がよくなり血圧を下げる効果があるといわれ、日本ではめずらしい泉質。また、含鉄泉のため酸素に触れると透明から茶褐色・黄金色に変化する温泉で、貧血や婦人病、神経痛、リウマチ、冷え性、アトピー性皮膚炎に効果があるといわれます。鉄分の多い茶褐色(黄金色)の温泉はややぬるめではありますが、湯上りのあともさめにくいと評判の天然温泉。なお、源泉温度が19℃と冷泉のため加温していると。加水等はおこなっていないとのこと。温泉浴槽の角にはライオンの姿も。「温泉の成分・禁忌症・適応症等」。「温泉」を楽しんだ後は、フロント前のソファで暫しの休憩。「土産物コーナー」を散策。そして「横谷温泉旅館」を」後にして「国道299号・メルヘン街道」を次の目的地の「蓼科湖」近くにある「聖光寺」を目指す。「県道192号線・ビーナスライン」に入り三つ星ホテル「B&B ノマの森」前を通過。ノマの森は 標高1,390m 長野県の蓼科高原のB&Bスタイルの宿。B&BはBed&Breakfastの略「一夜の休息と朝食」を意味すると。部屋は6つ、薪ストーブのあるラウンジ、別棟の貸切風呂のある小さな宿。この周辺の新緑の芽生えはこれから。洋食レストラン「the Switchback TATESHiNA」。北八ヶ岳ロープウェイ方面へ向かう途中、別荘地の蓼科ビレッジ一角に佇む薪窯料理店。長野県内の素材や高原野菜を薪窯で調理する、端まで美味しいピザをはじめとし、シンプルで素材の美味しさが際立つ野菜の窯焼きや蓼科牛Tボーンステーキなどが人気 と。車窓から「蓼科蕎麦・しもさか」入口の「枝垂れ桜」も満開。「ビーナスライン」を更に下って行った。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.27
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「横谷渓谷」を右にみながら、横谷峡遊歩道を更に上って行った。横谷温泉から0.2km、乙女滝から0.6kmと。横谷峡入口にあった「横谷峡遊歩道案内図」を再び。新緑の芽生えもプロローグ。「横谷峡」は乙女滝から渋川の清流に沿ってオシドリ隠しの滝まで約3kmにわたってを横谷渓谷という。ここには、いくつかの滝や巨岩の名所があり、高さ50メートルの壮観で神秘的な王滝、虹しぶき鮮やかな霧降の滝、一枚岩が赤渋をつけて約40メートルにつらなっているめずらしい河床、鷲岩や屏風岩が見られる。側岩の高台には古くから有名な横谷観音が奉られておりここは王滝をながめる絶好の場所でもある。四季折々の景色も又格別である。南八ヶ岳への登山の基地になっているとのこと。至るところに小さな白い滝が。「霧降の滝」。落差はそれほどなく、横谷渓谷の他の滝に比べると地味である と。横から。落差は5mほどか。「横谷峡遊歩道 氷瀑群のご案内見頃12月下旬~ 3月下旬氷瀑は山々からしたたり湧いた水滴が、凍りながら昼夜の寒暖差により成長し、見事な氷の芸術品になったものです。」「屏風岩の氷瀑」。ズームして。手前には赤茶けた岩肌が。赤茶けたような川床の色は、水に含まれる鉄分が酸化した事による。渋川というだけあって非常に強い酸性があり、魚も住まないほど と。注連縄が飾られていた巨岩・「鷲岩・大岩の司」。巨岩の上にちょこんと石祠が鎮座し、 四隅にちゃんと渓谷に棲む「龍」が四つの願いを叶えたと伝えられる御柱があるのがこの地らしかったのであった。山の中にひっそりとたたずんでいる「炭焼窯の跡」。この近くに住居があったのであろうか。中をズームしたが・・・。この近くからは、川床の岩肌は更に赤茶けた色に染まって来ていた。ズームして。さらに。さらに進んで行った。川床全面に白き流れが拡がって。別の場所から。山の斜面には苔むした岩がゴロゴロと。巨木も岩の隙間に根を伸ばし、逞しく。この先に、「屏風岩」、「一枚岩」、「大滝」、「おしどり隠しの滝」があったが、時間が足りずここで引き返したのであった。「屏風岩」が奥に(ネットから)。賽の河原の如き沢山の石積。滑滝の如き「一枚岩」(ネットから)。「大滝」(ネットから)。「おしどり隠しの滝」(ネットから)。そして引き返しながら、赤茶けた川床上の白き流れを楽しみながらカメラで追ったのであった。再び「霧降の滝」をカメラで追う。木橋は壊れて通行不能。ズームして。ここを渡ると何処に行けたのであろうか。白き流れをひたすら追う。樹木の新緑、苔むした岩、キラキラと光る水面、渓流のせせらぎ、野鳥のさえずり…横谷峡はマイナスイオンに満ち溢れ、身も心も綺麗に洗われていくのであった。キラキラと光る水面を追う。マイナスイオンが皮膚で感じられるが如くに。急峻な岩肌には落石防止用の金属ネットが一面に施工されていた。そして「横谷温泉旅館」手前の「河鹿井戸」を再び。数筋の湧水が流れ落ちていた。その下に石仏が。そしてさらに赤茶けた川床と白き流れをひたすら追ったのであった。滝のマイナスイオンとは?滝や小川の近くなど水が激しくほとばしるところでは、マイナスイオンが多く発生する。というのも、元素にエネルギーが加わると不安定な状態となり、イオン化するから。 水が撥ねて急激に水滴が飛び散ると、大き目の水滴についてはプラス側に帯電して落下し、一方霧のように微粒化した極小の水の粒子はマイナス側に帯電するのだ。マイナスイオンはなぜ体にいいのか?マイナスイオンの体に良い作用とは… 血液を浄化させる作用がある。 血液中のガンマグロブリンを増やし、からだの抵抗力・免疫力を高めます。 細胞の新陳代謝を活発にし筋力の活性を高め、内臓を健康にするのだと。可憐なスミレの花が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.26
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昼食会場の「信州手打そば工房 遊楽庵」の先にあったのが「横谷峡」案内板。「八ヶ岳中信高原国定公園 蓼科高原 横谷峡」案内板。その横にも「横谷峡・乙女滝⬆」、「横谷峡遊歩道⬆」、「蓼科パークホテル⬆」、「横谷温泉旅館⬆」とこれからの目的場所の案内板が。「蓼科中央高原周辺 案内マップ」。「横谷温泉旅館」に向かって坂道をバスで上って行った。山桜?が開花中。そして数分で「横谷温泉旅館」が姿を表した。信州蓼科の秘境・横谷渓谷にある一軒宿の「横谷温泉旅館」。黄金色の巨石露天風呂の天然温泉が人気と。駐車場で、バスを降りる。これから約2時間弱の自由行動と。私は最初に「乙女滝」を訪ねて、その後「横谷峡遊歩道」をしばし歩き、「横谷温泉旅館」に戻ることとする。まずは「乙女滝」に向かって、バスで上って来た道を歩いて下って行った。駐車場横の石灯籠。「横谷峡遊歩道 氷瀑群のご案内見頃 12月下~ 3月下旬氷瀑は山々からしたたり湧いた水滴が、凍りながら昼夜の寒暖差により成長し、見事な氷の芸術品になったものです。」。「横谷峡遊歩道案内図」。その下に「乙女滝」案内板があった。案内に従い脇道を下って行った。「世界かんがい施設遺産 大河原堰自然の地形を活かした画期的な水路大河原堰は玉川地区の農業用水不足を解消するため、坂本養川(さかもとようせん)が高島藩に請願し1792年(寛政4年)に開削された農業用水路てす。その全長は約14km、315haの水田を潤しています。現在も見るこができる「乙女滝」も大河原堰の一部で、渋川の急埈な崖を一気に落下させて水の勢いを減らす役割をする人工滝です。蓼科山(たてしなやま)から流れ出る滝ノ湯川の水を、ここから6kmほど上流にある取水口で取リ入れています。取水口の構造は「芝湛(しばたたえ)」と呼ばれ、木や石などで築いた小堤防で河川を堰き止めていますが、全量取水がてきない構造になっています。「乙女滝」から下流は、渋川で水を補給しながら樋(とい)で渡し、泉野地区を経て玉川地区に用水を運んでいます。このように、東西に流れる複数の河川を用水路で結び、水量の多い滝ノ湯川の余水を順々に南部の水不足地域へ送る仕組みは「繰越堰(くりこしせぎ)」と呼ばれ、当時としては画期的な仕組みでした。堰が完成して農業基盤が整備されると、用水が安定供給され、米の収穫量が大幅に増えました。200年以上経過した今もなお、利用者によって維持管理され受け継がれています。平成28年11月には、地域農業発展に貢献し、当時の技術を駆使して造られた歴史ある大河原堰と湯之湯堰が、「世界かんがい施設遺産」として県下で初めて登録された。世界かんがい施設遺産って?建設から1OO年以上が経過し、かんがい農業の発展に貢献したもの、卓越した技術により建設されたものなど、歴史的、技術的、社会的価値のあるかんがい施設で国際かんがい排水委員会(ICID)が認定・登録したものです。」そして右前方に白き「乙女滝」が姿を表した。豪快な水しぶきを上げて落ちる滝の様子は、圧巻。近くによるとごうごうと体を包み込むような音がするため、迫力満点であった。新緑のこの時期、そして紅葉など、四季折々の風景と合わせてみると、さらに美しさが増すことまちがいなし。岩に打ちつけられた滝の水は、空に向かって跳ね返るように勢いよく飛びあがるのであった。晴れていたこの日は、水しぶきの上がる様子が一層美しく、清涼感のある風景として心を癒してくれるのであった。白のカオスをカメラで追う。蓼科にある「乙女滝」といえば、冬の氷瀑の美しさが有名。 氷瀑とは、滝から水が落ちた時の水しぶきが凍ってできるもの。ここ蓼科の乙女滝では、真冬に見事な氷瀑が現れ、素晴らしい景観を楽しませてくれるのだと。これが自然の滝ではなく、人の手で作られた人工の滝であることに驚いたのであった。「乙女滝」を後にして、坂道を上り道路に出て、さらに昼食会場の方へ下って行った。左てにあったのが「横谷峡案内図横谷峡乙女滝から渋川の清流に沿ってオシドリ隠しの滝まて、約3キロメートルにわたってを横谷渓谷という。こには、いくつかの滝や巨岩の名所かあり、高さ五十メートルの壮観で神秘的な王滝、虹しぶき鮮やかな霧降りの滝、一枚岩が赤渋をつけて約四十メートルつらなっているめずらしい河床、鷲岩や屏風岩が見られる。側岩の高台には古くから有名な横谷観音が奉られてありここは王滝をながめる絶好の場所でもある。四季折々の景色も又格別である。南八ヶ岳への登山の基地になっている。」案内板の手前から、流れ落ちる「乙女滝」を上から見下ろす。白の流れの途絶えた場所が、「乙女滝」の「落口」。右手奥にあったのが「蓼科パークホテル」。その手前にあったのが「木戸口神社」。石鳥居の手前左にあった「石仏」。「信玄公ゆかりの地木戸口神社信玄の「上の棒道」の要所、渋川を渡り、川沿いに登って御立場をすぎると、右手に横谷峡が開け、正面に木戸坂(地名)がみえてくる。この木戸坂の入口にいつの頃からか諏訪神社を勧請して、木戸口の入口であることから木戸口神社と命名したという。木戸坂を登ってしばらく迂回路をすぎると向城(むこしろ)に達する。」「木戸口神社の由来木戸口とは昔の関所の代役として居た所で此の口を通りて木戸坂、赤渋平、我党場に至り、此の地よりニ手に別れ一筋は逆さの平から大石峠を経て、松原湖より今の南佐久方面に至り、他の一筋は我党場より馬勢口にて馬を返しそれより足で天祥寺原を経て北佐久方面に通したのである。武田信玄はこの道を利用して捧道と名付け各所に炭を積んで塚を築き又は車用金を埋め又は我が車勢に合図をするために屋根棟(今のバークホテル付近)と我党場は烽火を揚げた場所とし木戸口平に武田勢の勢揃いをした所と聞く、其の后坂本養川に依り水路が開かれ滝が出来てより多くの善男善女が願を達成するためこの滝を潜り身を清め神に祈願し其の願が成就したことに依り乙女滝と呼び其の名は高く世の人の知る所となり今尚、若人達が斎戒沐浴して神に祈願する人跡を絶たずと聞く。又、この木戸口の付近は諏訪大社の古代の牧場にて其の当時の地名が残り遠見場にて見張りをし槙寄せに追込み弓掛木にて獲物を射止め木戸口平に集め御祭事をして神に奉りし所と伝えられ諏訪明神建御名方の大明神の神雲のまします所につき、木戸口神社として祀られたるものなり。」歴史を感じさせる石段を上って石鳥居に向かって進む。扁額「木戸口神社」。正面に「社殿」。近づいて。神社の周りに、御柱が建っていた。御柱は諏訪大社だけのものだと思っていたが・・・。「木戸口神社四之御柱」。そして「横谷温泉旅館」に向けて来た道を引き返す。「横谷峡遊歩道入口」案内図。再び正面に「横谷温泉旅館」が見えて来た。入口のソメイヨシノはほぼ満開。そして駐車場の脇を通り、「渋川」の河原沿いの遊歩道まで下る。「渋川」の清き流れを楽しみながら、上に向かって進む。ズームして。これぞ渓谷の白き流れ。横谷温泉旅館の裏には湧水が流れて落ちていた。苔生す静かな一筋の滝。」「河鹿井戸」と。その先の遊歩道には巨岩が壁のごとくに。さらに遊歩道を上って行った。この周辺は、これからが芽吹き・新緑へと。そして再び「渋川」の清流を楽しみながら。大雨の時は、濁流に変わり岩をゴロゴロと動かすのであろうか? ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.25
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「蓼科チーズケーキ工房」を後にして昼食会場の茅野市北山に向かって進む。「上川」に架かる国道152号「鬼場橋」を渡る。「国道299号・メルヘン街道」に入る。「芹ヶ沢南」交差点手前、「横谷峡」を目指して進む。」車窓から枝垂れ桜を。満開の枝垂れ桜。「石遊の湯 600m先 左入る」案内板。鉄鉱石採掘跡地の人気かけ流し露天風呂「石遊の湯(いしやすのゆ)」。最盛期の鉱床が「石遊場(いしやすべ)」だったこと、岩石を組んだ露天風呂のイメージにふさわしい、ということでその名が付いたのだと。「石遊の湯」をネットから。休業中の文字がネットには。メルヘン街道脇にはミツバツツジ(三葉躑躅)の花が。そして左手に見えて来たのが、昼食会場の「信州手打そば工房 遊楽庵」。「蕎麦&酒 ミュージアムin蓼科 遊楽庵」。長野県茅野市北山5522−281。入口は塔の如き建物が。下方には「打坐(たざ)」の文字が。「打坐」とは「座禅をすること」と。バスを降り入口に向かって進む。中に入ると、八角形のホールの壁には日本酒の一升瓶が壁全面にならんで、圧巻!!「長野県の全82蔵の日本酒が一堂に会する、圧巻のミュージアムも開設し、エンターテインメント要素もプラス。さらに2階にはウェルネスツーリズムをテーマに、宿泊可能なゲストルームを設置しました。常駐する保健師や医師のオンライン指導を受けながら、自然のなかでの運動や温泉療法、地元の食材を取り入れた食事療法で、健康的な滞在環境を提供します。」とネットから。長野の地酒が所狭しと。ズームして。しかし、地震で落下する可能性はないのであろうか?と。ホールの天井を見上げる。ネットには「長野県の酒をずらりと並べた部屋の天井には、この地を守ってきた龍神が。横谷温泉旅館が営んでいる蓼科中央高原のそば店が、改修されて〈遊楽庵 打坐(たざ)〉という医食“農”同源をテーマにした体験宿泊型施設に生まれ変わります。」とあったが、この日は龍神の姿は確認できなかったが・・・工事はこれからか?そしてこの日の昼食。山菜御飯・蕎麦羊羹・蕎麦いなり・くぎ煮・漬物・野沢菜・刺し身・かも鍋・お蕎麦。いなり寿司かと思ったが。中には蕎麦が入っていた。ちょっと甘辛い濃いめの味付け。もう1ヶ食べたかったが・・・。そして、国産玄蕎麦と横谷峡の天然の湧き水をが使われている蕎麦。挽き立て・打ちたて・茹でたて・つなぎなしの十割蕎麦。ボソボソしてなくて、とても滑らか。香りも良く美味しかったのであった。昼食を済ませ、店内を散策。そば打ちも見ることができるようになっていた。「石うす製粉機」であっただろうか。大きな「蕎麦 こね鉢」。残念ながら、蕎麦打ちの実演は見ることができなかった。予約すれば、そば打ち体験などもできるようです。様々な形状の「のし棒」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.24
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「アンブローズアンドカンパニー㈱ 本社」を後にして県道302号線・石和温泉停車場線にて中央自動車道・「笛吹八代スマートIC」に向かって東に進む。左手に見えたのが「遠妙寺」の山門。山梨県笛吹市石和町市部1098。ここ「遠妙寺」交差点を右折。そして「鵜飼橋北詰」交差点を左折して「笛吹川」に沿って進む。左手に見えたのが「笛吹川(ふえふきがわ)」。笛吹川は、日本三大急流の富士川水系の一級河川。山梨県山梨市北部の甲武信ヶ岳・国師ヶ岳に源を発する東沢渓谷と、国師ヶ岳・奥千丈岳に源を発する西沢渓谷を上流部に持つ。広瀬湖(広瀬ダム)を経て甲州市を下り、甲府盆地の南東を潤し、南巨摩郡富士川町で富士川(釜無川)に合流する。 流域に扇状地を多く形成している。灌漑用水を整備した果樹園ではブドウなどの果実栽培が盛んである。笛吹川の名の由来は、「笛吹権三郎」と呼ばれる民話[1]に語られており、川の音が権三郎の吹く篠笛の音のように聞こえることから、誰とはなしに笛吹川というようになったと言われている。深沢七郎は、この川を題材に小説『笛吹川』を書いた。木下惠介監督によって1960年に『笛吹川』として映画化もされている。左手前方の橋は、国道20号・甲州街道(勝沼バイパス)の「石和橋」。「蛍見橋西詰」交差点を左折して、「笛吹川」に架かる「蛍見橋」を渡る。そして「笛吹八代スマートIC」から「中央自動車道」に入る。「中央自動車道」の本線に向かって進む。再び「間ノ岳」が姿を表した。「境川橋」の先から「坊ケ峯送信所」👈リンク を見る。山梨県笛吹市の坊ケ峰にあるテレビとラジオの送信所。左手の小高い丘の上にあったのが「境川自転車競技場」。1983年(昭和58年)3月に完成し、1986年(昭和61年)第41回国民体育大会「かいじ国体」のトラックレース会場となってから、全国大会などの開催、県内外の個人、団体に利用されている。白で自転車の姿と「さかいがわ」の文字が確認できた。山梨県笛吹市境川町藤垈3279。「笛吹川」に架かる「笛吹川橋」・橋長340mを渡る。右:「北岳」、中央左:「間ノ岳」。「笛吹川橋」から下流方向を見る。「双葉SA」を通過し「甲斐駒ヶ岳」・標高2967m(写真右)を見る。その左手に「北岳」、「間ノ岳」の白き山頂が。「甲斐駒ヶ岳」山頂をズームして。さらに。「甲斐駒ヶ岳」は、山梨県にある標高 2,966mの山。かいこまがたけと読む。山域は南アルプス北部に定められている。百名山、夏油三山、甲信越百名山、山梨百名山、信州百名山、一等三角点百名山、日本百高山、新日本百名山に選定されている山。駒ヶ岳という名がつく独立した山は全国に18座あり、その中で甲斐駒ヶ岳は最高峰である。中央自動車道からの右から「甲斐駒ヶ岳・2967m、「栗沢山」・2714m、「アサヨ峰・2799m、「仙丈岳」・3033mを見る白き右側:「北岳」と左側:「間ノ岳」。「韮崎IC」手前から。ズームして。右から「赤岳」、「横岳」、「硫黄岳」を見る。手前に「北杜サイト太陽光発電所」。ズームして。「横岳」にズームして。さらに。「硫黄岳」。南アルプス国立公園内の赤石山脈(南アルプス)の最北の3000m峰。長野県と山梨県の県境にある北沢峠を挟んで甲斐駒ヶ岳と対峙。「仙丈ヶ岳」・標高3,082.6 m(写真右)を再び。「仙丈ヶ岳」をズームして。左側に「小仙丈ヶ岳」・標高2,864mが。「諏訪南IC」で中央自動車道を降りる。県道197号線・払沢茅野線でJR茅野駅方面に向かう。国道20号線・坂室バイパスの「茅野町」交差点に向かう。そいてここを右折。「上川」に架かる「上川橋」を渡る。「仲町東」交差点角にあった「布袋尊」。この場所にある理由は?そして「蓼科高原チーズケーキ工房」に立ち寄った。「蓼科高原チーズケーキ工房」。長野県茅野市米沢127-1。「生ちーずけーき」コーナー。蓼科高原の自然豊かな美味しい水と空気で育った乳牛のミルク。そこから作られたコクのあるチーズを贅沢に使用。まろやかで濃厚、ふんわりとしたチーズケーキを是非ご賞味あれ と。日持ちしない洋菓子類はコールドショーケース内に陳列されており、常温日持ちする各種焼き菓子やゼリー類も非常に充実しており、店内の商品配置もとても綺麗に整備されていた。また、店内も清潔感が溢れており店舗内外共に非常に居心地の良い感じであった。そして、この時は店内には我がグループだけ。ここにも「生チーズケーキ」。「寒天ゼリー試食コーナー」。「驚き!寒天は薬品としても認められている。」地酒、地ビールも販売されていた。別の場所から地ワインを。店内の造花。地元産の「きくらげ」も売られていた。「TV 全国ネットで紹介 きくらげ ダイエットゴースト血管が生き返る!糖を体外に搬出・便秘解消ふりかけなど食べ方ネットで紹介」「ゴースト血管」とは、血液の循環が悪くなり、末端の毛細血管まで血液が届かなくなり、まるで幽霊(ゴースト)のように血管が見えなくなってしまう現象のこと。近年、この「ゴースト血管」が脳梗塞や認知症など病を引き起こすと言われている。「ゴースト血管」の原因のひとつが「ビタミンD」の不足。きくらげには「ビタミンD」の含有量がとても多いため、食べ続けることで「ゴースト血管」が生き返ったというデータもあるんだ とか。屋外の屋根裏には「ツバメ」の巣作りが始まっていた。私の姿に?警戒する「ツバメ」。巣の材料を咥えて一生懸命に運んでいた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.23
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国道137号・御坂みちを北上する。左手に南アルプスの山並みを見る。この▢の範囲がみえていたのであろうか。「間ノ岳」、「農鳥岳」をズームして。車窓から、ニセアカシアの花を見る。ライラックの花。「笛吹川」を渡る。そして次の訪問場所ファッション工房・「さいら甲府工房&アンブローズアンドカンパニー㈱ 本社」に到着。山梨県甲府市川田町 アリア202。駐車場から富士山頂を見る。ファッション公房・「さいら甲府工房&アンブローズアンドカンパニー㈱ 本社」山梨県が誇る伝統地場産業の代表的存在であるジュエリー。宝飾品出荷額は全国シェアの約2割を占め、ジュエリー生産量日本一を誇っている。「さいら」とは「彩楽」と。35周年を迎えたオリジナルジュエリーブランド『Ambrose』を展開する会社。東京・銀座でフラッグシップ店を運営する他、全国のホテルで展示会を行うなど60万人ものお客様に質の高い宝飾品をご提供している。創業62年の歴史を持つ企業で、ここ山梨県・甲府の本社工房で企画・製造。入口には、圧巻の巨大な天然の宝石が。「黄水晶 シトリン 三方晶系 二酸化珪素高さ 195cm幅 135cm(中) 135cm(下)奥行き 55cm総重量 1.154kg産出国 ブラジル リオ・グランデ・ド・スル州」水晶に鉄イオンが混入し、放射線による結晶格子欠陥によって黄色に変色したもの。このような変色種の仲間として紫色のアメジストやピンク色のローズクォーツなどがある と。リオグランデ・ド・スル州で採掘されたものはマデイラ島特産のシェリー酒に似た濃いオレンジイエローをしていることから「マデイラ・シトリン」と呼ばれ、価値が高いとされている。近づいて。シトリンは太陽を象徴する石といわれる11月の誕生石。紫水晶(アメジスト)の原石。近づいて。色ガラスのオブジェ。天然石を使った巨大宝石画玄関ロビーには天然の宝石だけを使った重さ300キロの巨大宝石画が。人が見上げる巨大なキャンバスの中には26種類の天然石がびっしり。少し離れて見ると美しい絵画になり、そのギャップに驚くのであった。様々な表彰状が壁一面に。技能グランプリの表彰状。「この鉄箱の中には、プラチナ鉱石が1トン(1000kg)入っています。」「さてこの1トンの鉱石から、プラチナは何g採れるでしょうか?正解者には、この鉱石を1個さしあげます」と。数百g等様々な答えがあったが、私は3gと当てずっぽうに答えたが、これが大正解との事であった。鹿児島県北部に位置している菱刈鉱山は、鉱石1トン中に含まれる平均金量が約20グラムという高品位を誇っていることを知っていたのであった。このブログの書き込み時の田中貴金属のHPによると金:9644円/g プラチナ:5282円/gなのであった。本社及びさいら甲府工房では販売はもちろん、本来であれば中々見ることのできないジュエリーの製作現場で本物の加工の様子を、職人に手が触れそうな距離で見る事が出来たのも魅力の一つであった。もちろん制作現場内はカメラ撮影禁止であった。下記写真はネットから。そしてプレゼンテーション室に案内された。「Ambrose」。会社名:アンブローズ アンド カンパニー株式会社設立:2003年5月1日「アクアプレーズ(Aquaprase) 世界一新しい宝石」と。アクアプレーズは、2014年にアフリカで発見され、2016年にGIA(米国宝石学会)にて正式に認められた新種のカルセドニーになります。天然グリーンのカルセドニーである「クリソプレーズ」はニッケルの影響の発色ですが、アクアプレーズのブルーグリーンの色はクロムの影響の発色になります。また、クロム発色のカルセドニーは、世界的に見ても非常に希少で、現在ではアフリカのごく一部の地域でしか産出されていません と。「アクアプレーズ(Aquaprase)」。アクアプレーズは、2014年にアフリカのジンバブエで発見された新しい鉱物で、2016年にアメリカ宝石学会で新種の宝石として認定された天然石。カルセドニーの一種で、クロムを含むことでグリーンブルーの色味を持つ のだと。説明員が「アクアプレーズ」に光を当てた。すると、天井には星のごとき輝きが一面に拡がったのであった。「永く愛され継承されている指輪です」。「Pt900 K18YG リング ダイヤモンド 0.31ct ラウンド ストライプ」。「アンブローズ」が製作した真珠のネックレス「TAMAKI」👈リンクは、2023年1月22日に開催された第18回HRDデザインアワード授賞式において第2位を受賞した のだと。代表取締役 堀内 信之氏が2020年12月に「チコちゃんに叱られる」に出演したと。そしてプレゼンテーション会場を後にした。そして宝石展示販売コーナーに行く途中の展示品。トルマリンの原石。近づいて。「トルマリンの原石和名:「電気石」あたためる・こする・水に濡らすと帯電し、体に流れる微弱電流と同じ電気を発発生します。●花瓶に入れると、切花が長持ちした●植物や植木などの水やりに使用すると、植物が元気になった、葉の色が濃くなった、 花がたくさん咲いたという報告も多く寄せられています。宝石言葉 希望、安楽、潔白、寛大、忍耐、無邪気、友情、心中の歓喜主な産地 ブラジル・アメリカ・タンザニア」地球を彷彿とする、美しき水晶。「タッツァ・ファルネーゼ(B.C53年)サードニックスで創られた、精巧なグレコ工ジプトの初期のカメオ。人々はエジプトの神々を表わし、裏例にメドゥサの顔が彫られている。かってパウロ2世の手許にあり彼の死後は、メディチ家のロレンツォの所有となる。現在ナポリ考古学美術館所蔵。(直径200mm)」近づいて。そして。最後に展示総数1,000点以上!圧巻の「ジュエリー販売展示場」へ。これは鑑賞品「瑞祥鳳凰」。「金細工画--松竹梅--日本の熟練した職人が生み出す金のアート。薄さ0.5mmの18金のプレートを一枚一枚切削し、丁寧に磨き上げ繊細なラインで季節等のモチーフを表現しています。松竹梅に鶴と亀は、お正月、また1年を通し最高の縁起物として飾っていただけます。ライトをかざし、浮かび上がるシルエットを楽しんでいただくこともできます。¥500,000-(税抜)※シリーズものとして、春(桜月夜)、夏(凱風快晴)、秋(紅葉)がこざいます。」近づいて。金箔の切り絵の如くに。「優駿」。「伝統工芸品 甲州水晶貴石細工山梨県水晶美術協同組合は経済産業大臣指定 山梨県郷土伝統工芸品認定の団体です。」「水晶五重の塔」。近づいて。「ラピスラズリ名石 駿馬八福ラピスラズリには「成功を保証する」という象徴的な力があり、洞察力、判断力を高めて富と強運をもたらす宝石といわれています。産地はパキスタン・ロシアなどで、「駿馬八福」に用いられた名石は、特に変化に富んだ美しさをもっています。」近づいて。ラピスラズリを原料とした青色顔料に天然ウルトラマリンがある。天然ウルトラマリンはラピスラズリを精製して製造する。ウルトラマリンとは「海(ラピスラズリの場合は地中海)を越えて」きたものという意味。なおウルトラマリンの内、青色のものをウルトラマリンブルーと呼ぶ。19世紀にはウルトラマリンは人工顔料として合成されるようになる。また、フェルメールが天然ウルトラマリンを多用し傑作を残した事から「フェルメール・ブルー」として特に称される。さらに「ジュエリー販売展示場」を散策?する。販売員も買ってくれそうな客を探して!!「瑞龍」、¥19,800,000!!と。様々な宝石。再び「アメジスト(アメシスト)」の原石。「アメジスト(アメシスト)伝統的にアメジスト特有の効力とされているのは酔い覚ましだが、1 5世紀には他にも多くの力があると考えられていた。1 5世紀のイタリア人天文学者、カミロ・レオナルドは、アメジストには邪悪な考えを制御し、知性を高め、商才を授ける力があるとみなした。アメジストを身につけると酔いが覚めるが、酔いをもたらす飲み物を何杯も飲みすぎた者だけではなく、愛情で気持ちが高ぶりすぎている者にも効果があった。さらに、兵士をケガから守って敵との闘いに勝利をもたらし、野生動物を捕らえる猟師にとっても大きな助けとなった。他の多くの宝石のように、身につけている人を伝染病から守る力も持っていた。」「このアメジストの突鉱(原石675kg )は1994年ブラジル、リオ・グランデ・ド・スル州のポルトアレグレ市にて仕入れたものです。濃い紫色、形と大きさが整った結晶が集合した大型クラスクーは大変珍しく、放たれる高貴な輝きに一目で惚れてしまいました。アメジストは月の女神ディアナに仕えた美しく汚れなき女性です。今はアンブローズを護る女神として、ここアリアに鎮座しています。皆様もアメジストのカ、輝きを体中に充満させて、落ち着いた心で健康に日々をお送りください。アンブローズアンドカンパニー株式会社 代表取締役 堀内信之」窓から外の新緑を。ここにも「アンブローズ」が製作した真珠のネックレス「TAMAKI」👈リンク は、2023年1月22日に開催された第18回HRDデザインアワード授賞式において第2位を受賞 報告が。ここにも水晶が。そして屋外に出て再び白き富士山の山頂をズームして。石庭には多種の宝石の原石が置かれていた。宝石原石に負けじと花々が。バーベナタピアン?ノースポール。キンギョソウ。そして白のツツジの花。「間ノ岳」をズームして。「間ノ岳」は標高3190mで日本第3位の高峰であり、日本百名山の一つ。北岳、農鳥岳とあわせて白根三山と呼ばれている。白根三山の中央に位置し、山頂、山稜ともに広大で、東面のカールや二重山稜の地球で地球の歴史が学べる。主稜は展望もすばらしく、爽快な稜線歩きが楽しめる。また、北岳とは違う植生も楽しめる。山頂は静岡県との県境であり、大井川の源流を擁している と。先程覗いた楕円形の窓が。再び白のツツジの花を振り返って。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.22
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この日は4月27日(木)、J:COM主催の甲斐・信州日帰りの旅へ参加。J:COM会員は1名は無料招待、同伴者の旅行代金は20%・6000円と。主な訪問場所は●標高1,200mに咲き誇る満開の桜「蓼科山聖光寺」●渓谷美と黄金温泉で贅沢すぎるひとときを「横谷温泉・横谷渓谷」小田急線の隣の駅の「湘南台駅前」を6:30の出発とのことで地元の駅に向かって徒歩で向かう。途中、民家の前庭には見事な藤棚そして紫の藤が満開であった。ご自分で藤棚の手入れをされているのであろうか?1m近くの濃い紫の花房が「ぎっしり」と。早朝の陽光を浴びて輝く紫の花房は優雅そのもの。ズームして。そして小田急線に乗り、集合場所の湘南台駅東口へ。既に多くの参加者が、観光バスの到着を待っていた。参加者は80名以上で、2台のバスに分乗して定刻に湘南台東口を出発し、東名高速道路の綾瀬スマートICに向かって進む。神奈川県道403号線を進む。左に「藤沢北警察署」。県道42号線・綾瀬中央通りから富士山の勇姿を見る。いつも訪ねている「ハンディーホームセンター綾瀬店」前から。東名高速道路入口の「綾瀬スマートIC南側」手前。「ETC入口」を見る。富士山山頂をズームして。東名高速道路を進むと左手にあったのが「海老名SA」。「海老名JCT」から「首都圏中央連絡自動車道・圏央道」に入り「八王子JCT」に向かって進む。左手の「相模川」越しに「大山」と「富士山」の姿が。「小田急電鉄小田原線」の「相模川橋梁」を。渋滞もなく、「八王子JCT」から「中央自動車道」へ。「初狩PA」手前から。富士山を追う。笹子町の山々の新緑も美しかった。ズームして。その後も中央自動車道をひたすら走り「一宮御坂IC」で「中央自動車道」を降り最初の訪問場所の「甲州わさび漬センター」に立ち寄る。山梨県笛吹市御坂町金川原1185。駐車したバスの中に女性店員が乗り込み、店内の説明があった。そして案内され店内に進む。最初に5種類の「わさび漬け」試食コーナーがあった。試食する旅友たち。既にお土産を購入する旅友たち。ある意味で、この旅行は土産物購入ツアーなのであった。3ケのわさび漬けで1200円と。店内には祭壇があった。狸(タヌキ)の姿が。「紫水晶・アメジスト」の原石。石でできた花。ポスター「近くの故郷(ふるさと)、こうふ。」墨書で様々な言葉が。「白水晶 小菊」。今回の観光バス。「甲斐・信州日帰りの旅 56号車」。横から。駐車場から見えた南アルプスの白き山々。右が「間ノ岳」、左が「農鳥岳」であっただろうか。 ・・・つづく・・・
2023.05.21
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「林泉寺」の藤棚を楽しんだ後、道路の向かいに神社があったので、この日の最後に訪ねた。神社の名前は「山神社(やまじんじゃ)」。道路を渡り、「山神社」の石製の「一の鳥居」へ。静岡県伊東市荻65。扁額も「山神社」と。その下には、歴史を感じさせる色合いの、「前垂れ」が3本ついた大きな「注連縄」が奉納されていた。通常の縄は右へねじりますが、しめ縄は左回りでねじった左綯(ひだりな)いになっており、古くから左側は「神」右側は「俗(日常)」と考えられており、逆向きに編まれているのが特徴とのこと。伊東市には「山神社」と書き、「さんじんじゃ」と読む神社が1社、「やまじんじゃ」と読む神社が3社あり、そのうちの1社がここ と。参道の前方右手には「手水舎」が。「伊東市指定 天然記念物 山神社のムクノ木(群落) 伊東市・萩」と案内柱が。ムクノキという名前の由来には、木が古くなると樹皮が細長い剥片となってはがれる「剥く」、木工用のヤスリになるため「木工の木」、枝葉がよく茂るため「茂くの木」、ムクドリが好んで実を食べる「椋鳥の木」などが転訛したとされる。漢字表記は「椋」のほか「樸樹」など と。ムク(椋)の木はニレ科の落葉高木。関東地方から西に分布している。伊豆では低地にみられるが、この神社の社叢のように大木がある面積にかたまっているのは珍しいとのこと。樹幹はケヤキより赤っぽい。果実が秋に黒く熟し、食べると甘い と。伊東市内の音無神社👈リンク にも大きな木があると。境内のいたるところにムクの老木が茂っていた。見上げて。「ムクノキの葉」をズームして。葉は長さ5~10センチ、幅2~6センチほど。細長い楕円形だが左右非対称で縁に鋭いギザギザがあり、先端に向かって徐々に細くなる。葉の表面に光沢はなく、両面とも細かな剛毛があってザラザラしており、乾燥させた物は、紙ヤスリ代わりに桐の箪笥などの家具、象牙、鼈甲(べっこう)、漆器の木地などを研磨するのに使われるのだ と。緑の実もついていた。実際にこの手で触ってザラザラ感を体験したかったが、手の届く場所には・・・。「ニの鳥居」とその先に「拝殿」。二の鳥居の扁額は「三社宮」。「山神社鎮座地 伊東市荻六五番地御祭神 大山祇命(おおやまずみのみこと)例祭日 十月十五日由緒創建は詳かでないが、元禄十五年八月再建の棟札、並びに元禄年間奉納された鰐ロ等から判断すると、江戸時代初期以前に建立され、山村神社として信仰、崇敬されていた由が分かるが、社殿は幾度かの火災によって、記録を留めた資料はなく、その証を顕著に示しているものは、境内地に繁茂する推定四〇〇年、六〇〇年を越えた老杉、欅や、伊東市より天然記念樹と指定されたムクの木がある。」狛犬(右)。狛犬(左)。「拝殿」。「拝殿」の「本坪鈴」と「扁額」を見上げて。「内陣」。「神宮大麻をおまつりしましょう」と。神宮大麻の「大麻」とは、本来「おおぬさ」と読み、神々への捧げ物、お祓いの際に用いられる木綿や麻を指す。 このことから、厳重なお祓いを経て授けられる清らかなお神札を「大麻」と呼ぶようになった と。ズームして。奥の扉は閉じられていた。内陣の扁額も「山神社」。「宗教法人 山神社 沿革」碑。宗教法人 山神社 沿革祭 神 大山祇命 (おおやまぐいのみこと)例 祭 十一月四日 現行 十月十五日由 緒 當神社の創建年月は不詳なれど、神木の樹令などから考察して五百年以前と推定せられ 寛文十年(1671)正月御西霊元天皇の御代 小岡村崇敬者により鰐口が奉献しあり三百年 以前當時の社の姿を彷彿せるものあり。元禄十五年(1703)八月 東山天皇の御代社の老朽 甚だしきに至り小岡村氏子中により此の地に再建す。文化十三年(1804)十月荻村土屋五左 衛門氏願主となり氏子中と共に初めて石の鳥居を奉献せり。宝暦十年九月同じく石燈籠の 奉献あり其の後明治に至り六年(1873)九月賀茂郡荻村社に列すとの棟札あり。明治十三年 社殿漸やく腐朽し来るにより荻村氏子改築の計を立て當時富戸村棟梁田畑某の弟子荻村政 水傳兵衛氏により前の本殿、拝殿を建立せり。明治二十二年(1889)二月川奈、吉田、荻 十足四村を統合し小室村となり、郷社 山神社となる。大正五年(1917)小室村社となる。 昭和に至り二十年(1945)八月世界第二次戦争の終戦を迎え 二十六年政宗分離による宗教 法人法施行せられ宗教法人 山神社となる。爾来再三に亙り補修を加え来るも神殿を除き 本殿拝殿及び庁舎の腐朽甚だしきに至り四十六年氏子総代相議り神社本庁の認可を得て此 等改築に着手し昭和四十六年八月十三日社務所並びに手水舎を竣功せしめ翌四十七年十月 十五日本殿、拝殿の竣工並に鳥居、狛犬燈籠の建立、幣殿拝殿の内装を完了せり。 ・・・・関係者の名が刻まれていた・・・・ 昭和四十八年(1973)九月 伊東市荻氏子中 建之「山神社本拝殿改築社務所新築寄附芳名(畧敬稱) ・・・・寄付金額と芳名が刻まれていた・・・・」拝殿の蟇股部分はシンプルな彫刻だが、彩色が施されていた。中央に社紋の巴紋があり、左右は鳳凰のモチーフに見えたが。「本殿」を横から見る。そして「山神社」を後にして、「林泉寺」の駐車場のへと。正面に2つの藤棚を再び。駐車場横の藤棚も見納め。これでもかと、カメラで追ったのであった。そして駐車場横にあった石碑群。庚申像群であっただろうか。そしてこの車が、旅友の新車。日産「ノート(NOTE)」とのこと。ガソリンエンジンで発電し、モーター走行する典型的なハイブリッド車・「e-POWER(イーパワー)」と。「e-POWERとは、日産が開発するハイブリッドシステムのこと。初めて採用されたのは2016年に発売した「ノート e-POWER」👈リンク。のちに発表された「セレナ e-POWER」とともに、e-POWERを搭載したことで大ヒット車種となりました。e-POWERの仕組みはEV(電気自動車)に近いと言われていますが、厳密には違います。e-POWERには通常のハイブリッドと同じように、エンジンと電気モーターが搭載されています。しかし車を走らせるために使用するのはモーターのみで、エンジンは発電のみに用いられます。駆動用のバッテリー残量が十分な時は、発電用エンジンは停止し、リチウムイオンバッテリーで走行。バッテリ残量が少なくなると、ガソリンエンジンで発電した電気を駆動用バッテリーに充電しながら走行。ガソリンエンジン車のエンジンブレーキの代わりにモーターを使って減速することを回生ブレーキと呼びます。減速するときに発電するため、発電した電力でリチウムイオンバッテリーを充電することができ、エネルギーを無駄にせず燃費を良くすることができます。」と日産のHPから。そして「林泉寺」を後にして帰路へと。「中伊豆BP入口」交差点を右折し静岡県道12号線・伊東修善寺線に入り、北上し伊豆急行・「南伊東駅」入口を通過。海岸に出て「大川橋」交差点を左折して国道135号手前の道を進みBP.伊東駅入口から国道135号を「伊東オレンジビーチ」を右に見ながら進む。前方右の海越しに伊東市宇佐美にある「伊豆ビューグランドハイツ」を見る。「宇佐美海水浴場」前を通過。「新宇佐美トンネル」710.9m。「御石ヶ沢トンネル」536.1m。前方遠く真鶴半島が姿を表した。熱海市網代の「立岩トンネル」を出る。前方に熱海の海が。下多賀を通過。長浜海浜公園方向を見る。熱海市渚町の「初川橋」を渡って進む。「東海岸町」交差点を通過。右手に「貫一お宮之像」。真鶴半島が大きくなる。国道135号は渋滞が始まっていたので山側の県道740号線・小田原湯河原線を利用。根府川で再び国道135号に合流、前方には大山、丹沢山、蛭ヶ岳の姿が。前方に小田原市街を見る。「小田原城」をズームで。「新早川橋」を渡って「西湘バイパス」へ。西湘バイパスで平塚方面へ。「酒匂川」に架かる「西湘バイパス酒匂橋」を渡る。「酒匂川」上流側を見る。西湘バイパス「橘料金所」。ゴールデンウィークは休日割引適用外 と。「相模川」に架かる「トラスコ湘南大橋」を渡る。外車のクラシックカー?であろうか。「柳島」交差点を左折し産業道路から湘南ベルブリッジを見る。そして国道1号を利用して茅ヶ崎の旅友邸に到着し、我が愛車に乗り換えて帰宅したのであった。この日の走行ルート。走行距離は〇〇kmであった。旅友Sさん、新車の運転お疲れ様でした。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.20
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「林泉寺」の境内の散策を続ける。本堂の左奥にあったのが、旧落雁堂、六角堂の「水子堂」。手前には、この時期でも真っ赤に色付いたモミジが。新芽から赤い「ノムラモミジ」であろうか。春に出る新芽から赤く、そこから秋に葉が落ちるまでずっと赤いのが最大の特徴。 「ノムラモミジ」はアントシアニンという色素が多いため、ずっと赤いのだと。 差し色(アクセントカラー)として江戸時代から庭木として親しまれ、古くは「武蔵野」という名前で呼ばれていたと。内陣には「水子地蔵」が。近づいて。子どもを抱いている水子地蔵は、別名を子安地蔵(こやすじぞう)とも言い、本来は妊婦の安産を守護してくれる地蔵尊。あるいは子どもをなかなか授からない人のために、妊娠の計らいをしてくれる存在でもあるのだ と。その先にあった墓石群。太平洋戦争で亡くなった陸軍兵士の墓が並んでいた。合同墓であろうか。台座には「南無」と。「南無」とは「仏様に帰依します」という意味を持つ言葉。南無とは「なむ・なも」と読み「仏や三宝などに帰依します」ということを表す仏教用語。 帰依とは、神仏や高僧を深く信仰し、その教えに従って威徳を仰ぐこと。山の下にも古い墓石が並んでいた。引き返して再び手入れの行き届いた境内の池を見る。石仏の姿が。これも羅漢様であろうか。水面には庭園の木々が映り込んでいた。ズームして。裏山から湧水が引かれているとのこと。この湧水は、荻地区に水道が整備されるまでは、地域の生活用水として大切に使われていた。湧水地点は、山の林の山腹に掘られた横穴だが、足場が悪いため、訪れるのはおすすめしない と。清らかな湧水が勢いよく。池の前から再び藤棚を見る。左手が本堂。庚申塔。二体の羅漢像の後ろの大きな岩の手前は、金剛杖?を持った庚申像であっただろうか。林泉寺は伊東七福神の「福禄寿」を祀っているがこれは「布袋様」か。熊手を持つ石仏があったが・・??寺務所。本堂を後にして再び六地蔵を。樹齢約300年の大木のフジで、大きさは目通り周囲1.5メートル、枝張りは約13メートル四方に及ぶとのこと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.19
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「ニューヨークランプミュージアム&フラワーガーデン」には入園しなかったので、急遽、これに変わる場所をスマホで検索。そして、伊東市荻にある「伊東温泉七福神」のひとつである曹洞宗寺院の「林泉寺」の境内にある藤棚が県内有数の藤の名所として知られいることを知る。1970年に静岡県の天然記念物にも指定された、樹齢200年超の藤の大木が2株あるとのことで、この寺をこの日の最後に訪ねることとする。「アンティークショップ さくらさくら」を後にして、国道135号線に戻り北上する。途中左にあったのが「いろり水産」。「伊豆のお土産といえば海産物、当店では干物は常に10種類以上揃えてあります。日本一の水揚げを誇る伊豆の金目鯛はもちろん、伊勢えび、あわび、さざえ、お酒がとまらない塩辛など、海の幸が盛りだくさん。その他にも伊豆特産の『ぐり茶』、『わさび漬け』なども取りそろえております。駐車場は小型車30台完備、大型バスも20駐車できます。生干しのイカの看板が目印!伊豆に来たら、ぜひ、お立ち寄り下さい。」とHPから。途中「梅ノ木平」交差点を左に進みし、「一碧湖」方向に進む。「一碧湖」湖畔につきあたり右に進み、ナビに従いこの先を左折して進む。そして静岡県道351号線に合流し進むと、右手にあったのが目的地の「林泉寺」。境内の「駐車場」に車を駐め、「林泉寺」の散策開始。境内入口から寺号標石「林泉禪寺」そして「藤棚」を見る。寺号標石「林泉禅寺」に近づいて。その隣に「静岡県指定 天然記念物 林泉寺のフジ 伊東市・萩」案内柱寺号標石「林泉禅寺」の隣に「南無阿弥陀佛」碑。境内そして本堂を見る。「伊東温泉七福神」のひとつである曹洞宗寺院の「水東山 林泉寺」の境内にある藤棚。県内有数の藤の名所として知られ、1970年に静岡県の天然記念物にも指定された、樹齢200年超の藤の大木。境内参道の左側と本堂入口の2株が見えた。大きな藤棚の前に。花房が長いものでは150cm近くにも及び、貫禄ある美しさ。藤棚を見上げて。紫の世界に暫し閉じ込められているが如し。先端の開花はこれからの房も。「県指定天然記念物林泉寺のフジ林泉寺は、約500年前に建立され、薬師如来像、日光月光菩薩を御本尊とし、今から約300年前に信者がフジを寄贈しました。花の長さは最高1m50cmにものび、平均90cmの紫色のフジが咲き乱れます。 目通り1m55cm 枝張広さ30cm 指定 昭和45年6月2日 伊東市教育委員会」本堂への参道側に廻り込むと「六地蔵」が。すべての生き物は6種類の世界(地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天道)で生まれ変わりを繰り返すとされていて、そのすべての世界で苦しむ人々を救ってくれると言わている六体並んだお地蔵様を「六地蔵」と呼んでいる。赤いよだれかけと頭巾を付けているこの地蔵様。地蔵様は子供を守る神様として信仰される事も多く、自分の子供が元気に育つようにと、よだれかけや丸い頭にかぶせる頭巾を奉納するのだと。ではなぜ赤いものを付けているのか?赤という色は、清く正しい正直な色と信じられており、魔よけの意味もあり、赤ちゃんやお地蔵様に赤いものを着せる風習があるのだと。よく知られている長寿のお祝いの一つである還暦でも赤いものを身につけるが、これは干支が一巡りして赤子に還るという意味で、地蔵様や赤ちゃんが赤いものを身につけるのと同様の意味で贈られているのだと。持ち物、地蔵名については諸説あるようであるが左から「宝珠(ほうじゅ)」を持つ「持地(じじ)地蔵」:「修羅道」を救う。「幢幡(どうばん)」を持つ「宝印地蔵」:「畜生道」を救う。「経巻(きょうかん/お経を記した巻物)」を持つ「日光地蔵」:「天道」を救う。「合掌印」の「除蓋障地蔵(じょがいしょう)」:「人間道」を救う「左手に宝珠 右手に錫杖」を持つ「壇陀地蔵」:「地獄道」を救う。「柄香炉(えこうろ)」を持つ「宝珠地蔵」:「餓鬼道」を救う。場所を移動して。藤棚は鉄骨製。振り返って。そして本堂前には、もう1本の藤の樹が。藤棚の手前には、酒を飲みながら語り合う赤い頭巾の羅漢像の姿が。瓢箪から「まあ、一杯」とばかり酒を注いでいる羅漢像(左)。瓢箪には泉の文字が確認できたが。盃(さかづき)で酒を受けるホロ酔い気分?の羅漢像(右)。この二人の羅漢像と酒を酌み交わしたいと思ったのであった。仲良く語り合う羅漢像の姿も。この姿を見ているのは心温まる時間であったのだ。本堂手前の藤棚の下へ。藤棚の奥に「本堂」の姿が。藤棚を見上げて。こちらはパイプ棚。歴史を感じさせる見事な太さの幹。右側は1711年に植えられた樹齢300年あまりと。ひだりにももう1本。よって合計3本の林泉寺の藤。こちらの花房も150cm以上か。ここにも六地蔵が。藤棚越しに本堂の姿が。ズームして。本堂の正面から。山号を「水東山」と称する「伊東温泉七福神」のひとつで、草創期を1545年の覚隣により真言宗より回収された時とする曹洞宗寺院。本堂には、御本尊である釈迦如来像をはじめ、幸福・財産・長寿の三徳を兼ね備えた福禄寿の他、江戸時代の1802年に当地に移ってきた際に安置された薬師如来像と月光菩薩像、一刀彫りの三十三体観世音菩薩像がある。毎年5月8日には、三十三観音大祭が執り行われる。見事な彫刻。扁額「林泉寺」。道元禅師の文字も。「藤の花志納 ひと口500円 玄関にて2口より林泉寺特製オリジナル和ろうそくをプレゼント」と。内陣。圧倒されるような黄金の天蓋(てんがい)が。ズームして。御本尊の釈迦如来像。更にズームして。比較的新しそうな本尊であったが。斜めから。本堂前、左側にある池のある日本庭園。本堂前から藤棚を見る。緑と紫の競演。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.18
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「小室山つつじ園」を楽しんだ後は、伊東市富戸にある「ニューヨークランプミュージアム&フラワーガーデン」を目指して進む。国道135号を伊豆高原方面に南下する。途中、県道109号線へ左折し進み伊東市富戸のこの交差点を右折。そして「ニューヨークランプミュージアム&フラワーガーデン」に到着。城ヶ崎海岸を背景に230種類以上のあじさいや四季折々の花々が「癒し」を与えてくれる、伊豆シャボテン動物公園グループの「ニューヨークランプミュージアム&フラワーガーデン」。ここが入口門。入口のゲート越しに内部を除いたが、花もピークを超えているような気がしたのでここは、パスすることにした。内部の別館には、約120年前に作られたティファニーのテーブルランプやウィンドウパネルなど珠玉のステンドグラス作品を70点ほど展示しているので見たい気持ちもあったが、入場料も1,500円と高価なことも・・・。入口門の左が城ヶ崎の名所となっている長さ48メートル・高さ23メートルの海の吊橋・「門脇つり橋」👈リンク への遊歩道への入口であった。出店でソフトクリームを楽しむ。二人共、抹茶ミックスを。そして隣にあった「Antique & Shop さくらさくら」を訪ねた。アンティーク中心のみやげの店「さくらさくら」。「ニューヨークランプミュージアム&フラワーガーデン」内にあった「TIFFANY LAMP MUSEUM」のポスター。「展示室とカフェを併設しています。一歩足を踏み入れると、ランプやステンドグラスパネルが煌めく夢空間へ再び舞い降りたような感覚になります。そしてアンティーク家具の中に並ぶ美しいファブリルガラスの器たち。ステンドグラスやアンティーク作品を眺めながらカフェでひと休み。贅沢なひとときをどうぞ。」と店内に入る。様々な種類、色の「アロマライト」が並んでいた。「コンセント型アロマライトセルジョーク」モザイク模様が美しいお洒落なアロマライト。香りを楽しむアロマランプとして使うものと。それぞれの「コンセント型アロマライト」に近づいて。「アロマライト」「アロマライト」とは 電球やヒーターなど、電気の熱を使って精油(エッセンシャルオイル)を温めるディフューザーのこと。温まった精油の香り成分を、空気中に拡散させ香りを楽しむことができるのだ。これも一つ一つ近づいて。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.17
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「小室山観光リフト駐車場」横にあった案内板。「小室山公園案内図小室山公園は、一年を通して楽しめる自然公園です。海抜321メートルの山頂ならは360度の大パノラマがひろがり、つつじ、つばき、小室桜をはじめとする四季折々の花は公園全体を彩ります。」「小室山公園 つばき園約15,000平方メートルの地に1,000種4,000本のつばきが植栽され、10月上旬から咲き始め月中旬までさまざまな種類を観賞できる、日本一の規模を誇るつばき園です。見頃を迎える2月中旬なら3月中旬には「つばき観賞会」が開催され、可憐なつばきの一輪挿しの展示などが行われます。園内にある庵「富士見亭からの、咲き誇るつばきと富士山の眺望も見事です。」「つつじ園公園の西側麓には、約35,000平方メートルに40種・10万本のつつじが植栽されているつつじ園が広がっており、4月下旬頃から5月初旬までの開花時期には、園内は赤い絨毯を敷き詰めたようにつつじが咲き誇り、つつじの絨毯と富士山を望むことができます。4月29日~ 5月5日の小室山つつじ祭りは市内外から多くの観光客が訪れます。」「山頂からの眺望観光リフト、遊歩道で向かう小室山山頂からは富士山をはじめ相模湾と伊豆の島々、天城連山など、360度の眺望をお楽しみいただけます。」「小室神社小室神社は、元禄十六年(1703年)の大地震によって被害を受けた小田原領の西方鎮守として、広く関東一円の沿岸を望み見る小室山山頂に建立されました.地震・海難・火災・疫病から人々を守り、復興を見守る神として信仰されています。」「伊東市」案内板。「伊東市観光マップ春は10万本のつつじと桜、10月中旬なら4月中旬にかけて咲きほこる4.,000本のつばきなど、一年中楽しめる花の名所です。標高321mの山頂までは観光リフトがあり、山頂からは伊豆七島や天城連山など、360度の景観を楽しむ事ができます。」。「伊東市 地図」。「現在地周辺の観光スポット1.道の駅 伊東マリンタウン2.東海館 👈リンク3.一碧湖4.松川湖5.さくらの里・大室山6.城ヶ崎海岸 👈リンク」「小室山公園」碑を再び。「小室山リフト山麓駅」を訪ねた。「小室山リッジウォーク MISORA」「Cafe・321」「展望ブリッジ」「山頂の自然な起伏を活かしたボードウォークからは、北に富士山、東には相模灘や房総半島、南には伊豆諸島、西には天城連山など雄大な景色が360°広がります。」「展望ブリッジ(カフェ利用者専用スペース)山頂の自然な地形を活かし、地中に潜り込むようなカフェ。店内からは相模灘と伊豆大島などが眺望できる絶景ビュースポットです!」「カフェ店内」「リフト乗車運賃表大人 往復 800円 片道 500円」「小室山専用リフト」を見上げて。標高321mの小室山の山頂までは、リフトで約5分。今では珍しいレトロなシングルリフト。「小室山観光リフト駐車場」の北側にあった芝生広場中央の作品。地元彫刻家の重岡建治氏作の平和モニュメント「愛のモニュメント」原水爆禁止伊東市協議会と憲法9条を守る伊東市民の会が市に寄贈した作品で、高さは台座部分を含めて3.2メートル。重岡氏が手掛け、2011年に新築された中国・北京の日本大使館に設置された像とほぼ同じ形とした のだと。「愛のモニュメント K.SHIGEOKA」と。そして再び上って来た階段を下る。この右側に冨士山が見えるのだが。オレンジ色のつつじ。「レンゲツツジ」であっただろうか。斜面を見上げて。写真を加工してみました。つつじのトンネルに向かって進む。ここが最初のトンネルか?身長よりも高いつつじが通りの両脇を覆い、色鮮やかなつつじに囲まれるのであった。最盛期であれば(ネットから)。この辺りは今が盛りと。トンネル出口付近。例年「つつじ祭り」の期間中は、見頃に合わせてライトアップ(19:00~21:00)を開催!闇に浮かぶツツジも、昼間とは違って幻想的な美しさでお薦めと。特にこの"つつじのトンネル"は一見の価値があるとのこと。駐車場に向かって戻る。そして最後に小室山リフトをバックに。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.05.16
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ナビに従い「小室山公園駐車場」に到着し、「小室山つつじ園」の散策開始。「小室山」の山麓に広がる「つつじ園」には約35,000平方メートルにおよぶ園内に40種類・約10万本ものつつじが植えられているとのこと。残念ながら、この日は既に花のピークは過ぎていた。ネットによると10日前の4月15日(土)前後が満開のようであった。ウィキペディアによると「ツツジ(躑躅、映山紅)は、ツツジ科の植物であり、学術的にはツツジ属(ツツジ属参照)の植物の総称である。ただしドウダンツツジのようにツツジ属に属さないツツジ科の植物にもツツジと呼ばれるものがあるので注意が必要である。主にアジアに広く分布し、ネパールでは国花となっている。日本ではツツジ属の中に含まれるツツジやサツキ、シャクナゲを分けて呼ぶ慣習があるが、学術的な分類とは異なる。最も樹齢の古い古木は、800年を超え1,000年に及ぶと推定される。」「ツツジ」とよく似た花に「サツキ」があります。ツツジとサツキの一般的な違いを表に纏めたものをネットから。花の大きさ、雄蕊(おしべ)の数、葉の大きさ、開花時期に判りやすい違いがあるようだ。花の色、ツツジの種類により開花時期が微妙に違うようであった。サツキの名の由来は「旧暦の5月頃に花を咲かせるから」と見当が付きますが、ツツジの由来はよくわかっていないと。ツツジは花が筒状になって、連なり続いて咲くことから『つつじ』となったという説もあると。これは「オオムラサキツツジ」であっただろうか。よく見かけるので、ただ「ツツジ」と言ったときにはオオムラサキツツジを指すことが多いのでは。「ツツジ属の植物は低木から高木で、葉は常緑または落葉性で互生、果実は蒴果である。4月の春先から6月の初夏にかけて漏斗型の特徴的な形の花(先端が五裂している)を数個、枝先につける。また合弁花類である。ツツジは「躑躅」と書くが、「見る人が足を止めるほど美しい」という言われに由来する。「躑」と「躅」はいずれも、たちどまる、たたずむ、の意である。ツツジ属の花の花弁には斑点状の模様が多く見られる。これは蜜標(ガイドマークとも)で蜜を求める昆虫に蜜のありかを示している模様であることがよく知られている。蜜標によって花に潜り込む昆虫による受粉ができるように雄蕊がついており、雌蕊の柱頭は蜜標のある方に曲がっている。」と。一度はツツジの花の蜜を吸った経験があるといった方も多いのでは。そういう自分も。そして我が趣味のミツバチも。それぐらい身近な存在のツツジ。中心が濃いピンクのツツジ。名は?品種改良により造られたものか?この辺りは既にエピローグへと。向かいの斜面にも濃いピンクと薄いピンクのツツジが一面に拡がっていた。階段を上る人の姿が。ズームして。濃いピンクと赤のコラボ。振り返ると。再び斜面を。一面の赤は迫力満点であっただろうが。ネットからピーク時の写真を。自動車の走る道路沿いを。道路沿いの左側にあったのが「小室山 五俳人の句碑小室山を詠む●恋すてふ落暉追ひ落つ寒椿 恭子 『この歌は、恋愛の終わりと季節の移り変わりが対比され、哀切な雰囲気が描かれています。 寒い冬の椿が枯れ落ちる様子が、別れた恋人の追憶や寂しさを象徴しています。』●鄙ぶりのくれなゐ強き椿かな 茂雄 『この歌は、地味でありながらも美しく、厳しい環境でも力強く生き続ける椿の姿勢を 称えています。』●つつじ燃え伊⾖の近か富⼠親しうす 南畦 『この歌は、伊豆の地で見られる美しいつつじの花が、富士山の近くにあることで、さらに 魅力的に感じられることを詠んでいます。』●人語絶ゆるまて繚乱とつゝし燃ゆ 龍人 『この歌は、人々の言葉が絶えるほどの混乱や熱狂が交錯し、情熱的に咲き誇るつつじが 燃え盛る様子を詠んでいます。』●神々の襖をはづす五月富士 器」 『五月になると富士山の周辺で神々が舞い降り、神秘的な光景や出来事が繰り広げられる様子を 表しています。襖(ふすま)は障子や板戸のことであり、それを開くことで神々の存在が 明らかになるという意味合いです。 この表現は、五月の季節における富士山の神聖さや神秘性を象徴的に表現したものとして 使われます。また、文学や詩の中でも、五月富士の美しさや神秘性を表現する際に用いられる ことがあります。』歌の文字の詳細は、文字の達人・師匠が教えて下さいました。 『』内はchatGPTに歌の内容を聞いてみました。句碑「小室山を詠ふ」の説明碑伊東市俳句連盟では伊東市文化協会の主催により例年伊東温泉つつじまつり俳句大会を開催しておりますが、本年第五回大会を迎えるに当りこれを記念して選者五先生の御染筆により句碑を建立しました。選者名 渡辺恭子 曲 水主宰 島村茂雄 笛 主宰 河野南畦 あざみ主宰 小笠原龍人 塔 主宰 神蔵 器 風 土主宰副碑裏面 文字なし昭和六一年四月」階段の途中から振り返って。ツツジやシャクナゲの花びらについているテンテンとした斑点模様。「これは花の模様か?」、「何か意味があるのか?」このツツジの花は、斑点模様が、上部にある1枚の花弁だけにくっきりついていたが。ネットで調べてみると、「これは昆虫に蜜のありかを知らせる、道しるべの「密標(みつひょう)」です。ガイドマーク、ハニーガイド、ネクターガイドなどとも言われてます」と。蜜標の付いている花びらの元は筒状に丸まっている。その奥に蜜腺があるのだ。この薄ピンク色の花では蜜標がよく目立ちますが、赤や白色の花ではあまり目立ちません。しかし、密標は人の目に感じられない紫外線を出してるとのこと。紫外線は、ヒトの眼には感知されませんが、植物にやってくる昆虫たちの眼には感知されることが分かっている と。階段を頑張って上って行った。そしてここでも振り返って。ズームして。下の写真と比較して下さい。10日前には!!(ネットから)。私の写真は▢の部分であるが。階段を上りきって進むと前方に見えたのが、「小室山」と「小室山リフト」。残念ながら、この日はこの写真の右側の「富士山」の姿は確認できなかったが。天候と時期が良ければ・・(ネットから)。更に丘の先には白い建物が姿を表した。左手にあった石碑には「みたまよ麗しくふる里にねむりたまえ」と。「平和への道標(みちしるべ)良い子の皆さんここに祀られている方々は、皆さんの美しい故郷の山や川を守り日本の平和と豊かな暮らしを願いながら、いくたびかの戦争の中でなくなられました。今日の平和を思うとき、私たちは、ここに眠る方々を決して忘れません。この尊い心を受け継ぎ感謝の心をもって一日一日を大切にしてください合掌」「戦歿殉難者慰霊塔」への参道坂道。手前右手には「海軍の錨の墓標」が奉納されていた。参道を進む。「戦歿殉難者慰霊塔」。戦争で命を落とした同市の戦没者計約1500人を慰霊するために1967年に建てられた と。この慰霊塔の中に、「帝国在郷軍人会伊東町分会海軍部旗」があり、東郷平八郎元帥の直筆が添えられているとのこと。 以下2枚の写真もネットから。「帝国在郷軍人会伊東町分会海軍部旗」と「昭和八年八月 元帥伯爵 東郷平八郎」と書かれた直筆。「帝国在郷軍人会伊東町分会 海軍部旗東郷元帥 直筆この海軍部旗は戦後処々を転々としていたが最後は松原区牧野秀吉氏が二十年間自宅に秘蔵した。今度慰霊塔が建立されたので「水漬く屍(みづくかばね)」となった同僚海軍将兵供養の為に(の)献じた東郷元帥は当時松原の別墅に閑居しておられた。」参道横の小高い丘の上にも石碑が。「忠魂碑」。「宇佐美忠霊顕彰会」と。「宇佐美戰没殉難者之碑」。ここには「航空隊のプロペラの墓標」が。白のつつじ。つつじの花には白以外の色があるのが通常であった。白い花は、突然変異で白く咲いたものを改良したのが今の白い花のつつじであると。ここにも「忠魂碑」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.15
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富士宮市内にあった「富士山本宮浅間大社」を後にして、伊豆半島・伊東市川奈にある「小室山つつじ園」を訪ねることにした。静岡県道76号・「富士富士宮由比線」を東に進む。「東高前」交差点を右折して国道139号「西富士道路」を南に向かって進む。正面に「新東名高速道路・第ニ東海自動車道」が姿を表した。「東名高速道路」の「富士IC」への誘導路下を通過。静岡県道353号線➡国道139号・富士清水線に入り、「今井」交差点手前から裾野市にある「愛鷹山塊(あしたかさんかい)」の山並みを見る。最高峰「越前岳」は、静岡県裾野市にある標高1,504.2 mの山。南方にあるのが1,187.5mの愛鷹山峰。日本二百名山の1つ。国道1号・「沼津バイパス」を東に進む。「位牌岳」~「愛鷹山」の山の端。沼津バイパス・「八幡」交差点先を進む。三島市南町を進む。この先200m・「三島玉川」交差点を左折すると三島駅へ。国道1号・沼津バイパスをひたすら進む。国道1号から南二日町IC高架下を通過し国道136号へ。「伊豆の国市」に入る。運転する旅友にとっては、思い出深い「伊豆の国市」なのであった。旅友の思い出の場所「江川邸」の案内が。「狩野川」を右に見ながら進む。国道136号・「道の駅 伊豆のへそ」手前を通過。「三福IC」から県道19号線・伊東大仁線に入る。この家には蔦?が全面に覆われていたが空き家なのであろうか?山道を上って行き、県道19号線・伊東大仁線の「亀石峠」を通過。この先を右に進み伊東市街に向かって進む。伊豆スカイラインの出口の一つでもある「亀石峠」。前方に太平洋・相模湾の水平線が現れた。ヘアピンカーブの先にあったのが巨大な船「安針丸」。こんな山の上に船が座礁?ファミリーレストランのようであったが現在は営業していないのであろう。按針丸(あんじん丸)、サン・ブエナ・べントウーラ号 San Buena Ventura (ship) 120tnsは日本で最初に建造された西洋式の大型帆船は、三浦按針(ウィリアム・アダムス)により江戸湾に係留されていたリーフデ号(慈愛号)が沈没すると、徳川家康の命で、最初は日本の港湾を調査する船として、伊東で80屯の小型帆船を1604年に造っていたが、やはり徳川家康の命で、1607(慶長12)年に三浦按針が指導し、リーフデ号をモデルとして、伊豆国伊東の浦賀で建造されたマ二ラ・ガルレオン型船「按針丸、120屯」であったのだが。その奥にあったのが「うさみ観音寺」。1982年に建立された、聖観世音菩薩を御本尊とする新法華宗の単位宗教法人とのこと。朱塗の大殿堂の中には、750年以上前につくられた仏像が。座像としては国内でも最大規模を誇る、高さ50mの「平和大観音像」や、2万体の「慈母観音像」、「大仏舎利塔」などがある新法華宗の寺。高台にあるので、宇佐美の町とその向こうに相模湾が見える。美しい景色を見渡せる眺望スポットでもある・・・・とネットには。しかし・・・・??伊東市の町並みが眼下に見えてきた。右手の白い建物は「伊豆ビューグランドハイツ」であっただろうか?前方にJR伊東線そして相模湾に浮かぶ「手石海丘」の姿が現れた。「手石海丘」は、静岡県伊東市の手石島北方約1.8km沖にある直径約450m、高さ約10m、最浅部の水深81mの海底火山。1989年(平成元)7月に伊豆東方沖で起こった「噴火」👈リンク によって誕生した。正面に国道135号。「亀石峠入口」交差点を右折して進む。遠く「ホテル サンハトヤ」の姿も確認できた。「ホテル サンハトヤ」の姿。「ハトヤホテル」は「静岡県伊東市にあるホテルのこと」。1947年開業であり、かなり歴史のあるホテル。テレビCMが非常に有名であり、静岡県の宿泊施設の中では知名度は相当高い存在。そしてこの「サンハトヤホテル」も「静岡県伊東市にあるホテル」。場所はほぼハトヤホテルと同じだが、こちらは1975年開業となっている。運営元企業はハトヤホテルと同じ富士商事とのこと。「サンハトヤホテル」の歴史はハトヤホテルよりは古いものの、全室オーシャンビューとなっており、海が臨めるロケーションが特徴。そして、施設内がテーマパークのような雰囲気であると言え、有名な海底温泉が存在する。また、ハトヤ大漁苑というレストランまで完備されている とのこと。その先にあったのが「道の駅 伊東マリンタウン」。「シーサイドスパ(SEASODE SPA)温泉という外観ではないが、「道の駅温泉」と書かれた、海が一望できる階段状の大浴場が人気の日帰り温泉施設。早朝営業もしていて、朝湯後に「マリーナ展望レストラン」で朝食も食べられる。」と。これから通過する伊東港方向を見る。高層の建物は「ラグジュアリー和ホテル風の薫 (Luxury Wa Hotel Kaze No Kaori)」。そして目的地の「小室山公園」の入口に到着し、ここを左折したのであった。「小室山公園 つつじ鑑賞会」と書かれた看板が正面に。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.14
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「富士山本宮浅間大社」の境内の東側の散策を続ける。正面に大きな石碑が。「駿州赤心隊の碑」。石碑の下部には「赤心隊員」の名前が刻まれていた。隊長は富士宮浅間神社宮司富士亦八郎。隊員は鈴木五百重・鈴木楯雄・太田健太郎・森真魚尾・味地瀬兵衛・海野孫兵衛・浅倉勝三郎・名主 彦兵衛・佐藤真次郎・野口一郎・千葉小太郎・卯太郎・三浦千之助・先光右衛門・内藤浪江・大井求馬・八幡主膳 その他 と。「駿州赤心隊富士亦八郎重本 文政九年(一八ニ六年) ~明治三十年(一八九七年)は駿州赤心隊を結成、勤皇に献身した富士山本宮浅間大社の大宮司家に生まれ十五歳で江戸に出て、漢学・武術を学ぶ。ニ十歳で帰郷第四十四代大宮司家を継ぐかたわら塾を開き、国学、漢学、兵学を教える。東征軍に参加、駿川赤心隊を率いて幕軍と戦う。その後、西南戦争に従軍、現靖国神社の前身、東京招魂社の社司となり祭祀を司り最後は東京麹町区長。この石碑は明治維新の激動の時代を勤皇の志士として、国家に尽くした駿川赤心隊顕彰の碑である。」この石碑は1934年に町民によって建てられたもの。その左隣にも「駿州赤心隊之碑建設趣意碑」が。近づいて。カタカナ混じりの漢字が刻まれていたが解読不能。湧玉池の畔に「自当社山宮御神幸道五十丁証碑首也」と刻まれた石碑が立っていた。この首標は、昭和59年に浅間大社境内の土中から発見され、奉納者の子孫の方によって現在地に再建された。御神幸道というのは、神様が里宮と山宮を往来する道のことで、「自当社山宮御神幸道五十丁証碑首也」と刻まれている石碑であると。「当社より山宮神幸道五十丁を証する碑である。これは大宮郷の信心に秀たる同志が造立した。宇佐美忠善が中心となって行った。」というような事が刻まれているとのこと。奉納者には、春田・宇佐美・清・渋谷等の名前が見られ、子孫長久・家内繁盛・福禄円満等の成就を祈って建てたものである。造立年:元禄四年(1691)未年十一月 と。「幸道首評の碑👈リンク明治の初めまで行われていた「山宮御神幸」に利用された御神幸道の起点の碑である。御神幸は、舂秋の大祭前日に浅間大社と山宮浅間神社との間を祭神が往復」するもので祭神は鉾に宿って移動した。鉾を安置した鉾立石が、浅間大社の楼門前と山宮浅間神社の境内に残されている。御神幸道の5 0丁( 1丁は約109m )の間には、1丁目ごとに目安の丁目石が置かれていたが、現在その大分は確認することができない。」「特別天然記念物湧玉池」碑。後ろに見えた朱の橋が神路枚橋」。「国指定特別天然記念物湧玉池湧玉池は、約1万年前の富士山噴火によて噴出した溶岩流の末端に位置している。富士山に降った雨や雪が溶岩流の隙間に貯えられ、溶岩流の末端から押し出されるように湧き出し、池となったと考えられている。湧玉池は、富士山の湧水のうちでも規模が大きく、学術上貴重なものであることなら、昭和27年(1952年) 3月29日に特別天然記念物に指定された。また、湧玉池は世界遺産富士山の構成資産である「富士山本宮浅間大社」に含まれている。池の面積は約2,500m2。水温は四季を通して約14℃、水量は平均毎杪2. 1 m3 (平成25年度)あり、池から神田川に流れ出し、市内を流れている。浅間大社の社伝によると、噴火する富士山を水徳の神(浅間神)の力により鎖めるために、湧玉池の畔に浅間神社を建てたという。また、湧玉池は登山者が身を清めるために禊を行ったところで、室町時代の富士登山の姿を描いたとされる「絹本著色富士曼荼羅図」(国指定重要文化財 浅間大社蔵)には、湧玉池で禊をする道者(登山者)の姿が描かれている。」「湧玉池指定範囲図」写真右・石碑のある場所が「湧玉池」から「神田川」として流れ出る場所。「神田川」に架かる最初の橋が「神幸橋」。「国指定特別天然記念物 富士山御霊水 湧玉池(わくたまいけ)」。「神田川」として流れ出る富士山御霊水。「神田川」は静岡県富士宮市宮町の富士山本宮浅間大社内にある湧玉池に源を発し、南へ流れ、同市浅間町付近で潤井川に合流する。湧玉の池は、富士山の雪解け水がおよそ15年かかって麓に湧き出た清水であって、夏冬通して水温は常に約13度である。市街地であるが天然のカジカが生息しており、上流部においては自然の渓流の流れが再現されている。「神幸橋」から「神田川」の下流側を見る。山を神体山として祀る神社のため、本宮はここ、富士山南麓(富士宮市街地)にありますが、奥宮は、富士山頂上にあるのです。ズームして。毎日約20万トンもの富士山の雪解け水が流れ出していると。25mプールを4~5秒で満杯にする水量!!神田川傍に立っていた石碑。「平成の名水百選「湧玉池・神田川」 認定 平成20年6月25日 環境大臣 鴨下一郎」別の石碑も。「平成の名水百選「湧玉池・神田川」環境省では、全国各地域の生活に溶け込んでいる清澄な水や水環境の中で、地域住民等による主体的かつ持続的な保全活動が行われているものを「平成の名水百選」として認定しました。富士宮市からは「湧玉池・神田川」が選定され、これを記念し伝承するために記念碑を建立しました。 平成20年6月25日 富士宮市長 小室直義 」「湧玉池(下池)」に架かる左から「神路橋」、「川中島」に鎮座する「嚴島神社」そして「神路枚橋」。朱に塗られたアーチ状の「神路橋」をズームして。僅かに波だった水面を朱に染めていた。そして歩いて来た「湧玉池」岸の小路を引き返す。左側にあったのが「社務所別館」。再び「水屋神社」前の藤棚を見る。「湧玉池(下池)」の水面で真鴨たちも気持ちよさそうに戯れていた。ズームして。そして「水屋神社」を右奥に見ながら「東門」まで戻る。「東門」を潜り再び「富士山本宮浅間大社」の「本殿」を見上げた。こちらもネットソフトで切り絵にして見ました。「桜」の巨木・「信玄桜」の周囲にあった「絵馬掛所」。1568年より駿河へ侵攻し今川氏を滅亡へと追いやった、甲斐の武田信玄がお手植えしたとされる枝垂れ桜の2代目とのこと。絵馬掛所は、願いや目標が書かれた絵馬でぎっしりと!駿河湾の波、富士山、太陽がデザインされた絵馬。今年「令和癸卯歳(みずのとうどし)の宝船」の絵馬。そして御朱印を頂きました。御朱印と一緒に頂きました。「世界文化遺産 富士山本宮浅間大社主祭神 木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと・浅間大神(あさまのおおかみ))相殿神 大山祇神(おおやまづみのかみ)・瓊々杵尊(ににぎのみこと)創祀 紀元前二七年富士の荒ぶる山霊(噴火)を鎮める為、浅間大神を富士山麓にお祀りした。大祭 例祭 十一月四日 流鏑馬祭 五月五日富士登山 当社の境内地である富士山(八合目以上)は、夏期の間(七・八月)開山となり、 約三〇万人の登拝者で賑わう。 頂上には、奥宮並びに末社久須志神社が鎖座している。湧玉池 富士の湧水 国指定特別天然記念物 平成の名水百選」境内から見て「楼門」の左側にあった建物には「筆文字」が掲げられていた。「桜爛漫 望月飛秀」。「混混原泉湧玉池 佐野宮峰」。「苑石湖の詩 後藤里果」。「富士爛漫」。「富士爛漫」 兵庫県三田市 三谷祐資富士山の神様は木花之開耶姫の神様であり、又、桜を象徴する所から、神様のお姿を拝しながら、富士山を中心に桜花で飾る構図が浮かんだ。派手にならず大和的な良さも残しながら、右に山桜左に染井吉野、出来るたけ桜花で飾りたい。しかも富士山を邪魔しない。そして何よりも宇宙にまで抜けるような空の青さが欲しかった。ズームして。再び「富士山本宮浅間大社」の「拝殿」、「本殿」を見る。楼門前の流鏑馬の行われる「桜の馬場」では5月5日(金・祝)に行われる「流鏑馬まつり」の準備が行われていた。馬の走る馬場用の仕切りの柱の台座部分なのであろう。今年の「流鏑馬祭り」をネットから。ロープの張られた柱の台座が地下に設置されているのであろう。「楼門」を振り返る。「楼門」の左側にあった「授与所・祈祷殿」。「授与所・祈祷殿」の先にあった石碑群。一番右の石碑には「皇太子手植櫻樹碑」と。「富士山 第三十回登頂記念碑富士山と琵琶湖は 一夜の故事にちなみ世界平和 国土安全を願い毎年登頂 本年五十年目を迎え ここに記念碑を建立する。平成十八年七月吉日富士と琵琶湖を結ぶ会滋賀県近江八幡市」歌碑「思えば千と二百年唄 渡辺通久作詞作曲 後藤良夫編曲 高岡利光一、君と歩いた参道は 木漏れ日のゆれる 石田川 浅間の宮は 天高く 思えば千と二百年 歴史を伝ふ 桜の門ニ、祭囃子か 締め太鼓 あれは若衆の 心意気 水の流れも そのままに 思えば千と二百年 歴史を浮かべる 神田川三、社の向こうに 富士の山 千故の雪を 頂いて 湧玉池に 湧くと聞く 歴史を奏でる 笙の笛」薄いピンクの花の石楠花。丘の上には様々な忠魂碑が。「慰忠」碑。「忠魂毅魄」碑。「毅魄」とは「英霊」のことと。「明治三十七八季戦役 彰忠碑伯爵 西園寺公望 書」多くの人名が刻まれた大きな石碑。「鳥居建設境内整備寄附者芳名昭和四十四年十一月吉日」碑。入口には「忠魂碑」と刻まれた扁額を掲げた石鳥居があった。「楼門」の手前には鯉のぼりが(右)。「楼門」の手前には日の丸が(左)。「三之鳥居」、「ニ之鳥居」を見ながら引き返す。そして「大社通り」を渡った場所にあった「お宮横丁」を訪ねた。「お宮横丁」は「富士山本宮浅間大社」の門前にある屋外フードコート。昼食に名物「富士宮やきそば」を楽しむことにする。店の名は「むすび屋」。「むすび屋」のご主人。ソース味の「富士宮やきそば」を楽しんだのであった。ソース味も塩味も食べたい人のために、お得なハーフ&ハーフもあった。天むすやいなりずしなどもあるので、あわせてどうぞ。噛み応えのあるコシの強い麺と、肉かすやイワシの削り粉を入れた味付けで美味であった。そして駐車場まで戻る。正面、鳥居のそばの巨大な社号標石の隣りにあったのが「富士山大金剛杖」。「富士山大金剛杖」碑。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.13
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「富士山本宮浅間大社」の散策を続ける。藤棚の奥にあったのが「富士山御霊水 水屋神社」。紫の藤の花を追う。「富士」と「藤」のコラボ。見事な紫の花房が1m以上に。その横には「湧玉池」。平安期には歌人平兼盛がつかうべきかずにをとらん浅間なる御手洗川のそこにわく玉」と詠じた。かつて富士の登山者はこの湧き水で身を清め、六根清浄を唱えながら登山する習わしがあったという。藤棚の下へ。藤の花を振り袖姿の女性に例えている俳句があるなど、その姿や色合いから、上品な印象を与える花。昔は藤を女性、松を男性にたとえていたと。日本には2種類のフジが自生し、本州を中心に「ノダフジ」が、近畿地方より西には「ヤマフジ」が自生している。「ノダフジ」のつるは右巻き、「ヤマフジ」のつるは左巻きと、つるの巻き方向で見分けられるとのネット情報。「水屋神社」の社殿。末社水屋神社祭神 御井神(みいのかみ) 木俣神(きまたのかみ)とも言い日本神話の中で、大穴牟遅神(おおあなむじのかみ)が 因幡の八上比売(やかみひめ)に生ませた神。 八上比売は大穴牟遅神の最初の妻で あったが、須勢理毘売(すせりびめ)を正妻に迎えたため、これを恐れ、子を木の俣に 刺し挟んで実家に帰ってしまった。そのため、その子を名づけて御井神という。 鳴雷神(なるいかづちのかみ) 鳴雷(なるいかづち)は伊邪那美神(いざなみのかみ)が死んだために、伊邪那岐神 (いざなぎのかみ)が黄泉の国へ追いかけていくと、すでに蛆が湧き、腐っている体に 発生した「雷神」の1柱。 雷神は雷の後に雨が降ることから水神。また日本人は雷が鳴ることで、稲が妊娠すると 考えていたので、雷神は農業神。その雷神が死体の体に発生するのは、もともと死体を 農業に利用していたからか、雷神に「神罰・祟り」の性質があるのだと。例祭 一月四日「この御霊水は、霊峰富士の御神体に滲み込んた天水がながい年月を経て湧き出している神水です。どうぞ、水徳の神、浅間大神のお恵みを御神徳としていただいて下さい。御霊水のいただき方お気持ちをお供えの上、ニ礼ニ拍手一礼の後、感謝・祈念し手水鉢よりお汲み下さい。この御霊水は古来神様にお供えし、私共も日常の飲料としておりますが、あくまても天水ですのでお気にになさる方は沸かしてお使い下さい。」再び香り豊かな藤棚を追う。「甘く爽やかなジャスミンに似た芳香」か?そして竹でできたパイプから「御霊水」が。古くから、富士山登山者はこの霊水で禊(みそぎ:水浴して身体を清める宗教儀礼)をする習わしがあったのだと。藤棚の下には「竹枝穂垣」の如き生垣が。竹の葉を落とし、竹穂や枝の穂先を上に向けて並べて垣面とした生垣。湧水の池と藤棚のコラボ。「水屋神社」の奥、北側にあった「天神社」。「末社 天神社祭神 菅原道眞公例祭 四月四日」「天神社」社殿に近づいて。藤の花にも近づいて。さらに甘い香りに囲まれて。これも「マガモ」!? 写真では頭が緑ではなく黒く見えるが光の加減か。シベリアから我が国に冬鳥として渡ってくるカモ類のなかでマガモが一番多いのだと。富士山からの湧水の白き流れ。「湧玉池」の底からも湧き上がっているようであった。1944年11月に国の天然記念物に、1952年3月には狩宿の下馬桜とともに静岡県で2件しかない国の特別天然記念物に指定され、2008年6月には環境省か新たに選定した『平成の名水百選』にも選ばれている。毎日約20万トンもの富士山の雪解け水が、石の合間から湧き出ていて、1年間ほとんど増減がなく、水温も年間を通して13℃前後で一定となっているとのこと。「湧玉池」の岸を歩き、廻り込んで「藤棚」を振り返る。ズームして。この時は「湧玉池」に入って池を清掃する作業員の姿が。池底にある賽銭を回収していたのであろうか?今でも流れの音が聞こえて来るのであった。そしてここにも「稲荷神社」があった。「末社 稻荷神社祭神 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ) 猿田彦神(さるたひこかみ) 大宮姫神(おおみやひめのかみ)例祭 ニ月初午」朱塗の橋は「神路橋」。「神路橋」を渡るとその先にあったのが「川中島」に鎮座する「嚴島神社」。ここにも紫の藤の花が。「嚴島神社」。「末社 嚴島神社祭神 市枡島姫神(いちきしまひめのかみ)例祭 六月十七日」「嚴島神社」の社殿。「湧玉池」の中の島に古くから祀られている社で、霊験あらたかな事で知られている と。ここでも藤の花に近づいて。さらに。藤の幹がこの藤の歴史を感じさせるのであった。あくまでも透き通った水を湛える「湧玉池」。水面には新緑が映り込みこれぞ絶景!!そして「嚴島神社」の朱の鳥居の前から「湧玉池」越しに「東鳥居」方向を見る。池の中には7~8人ほどの作業員の姿が。紅葉シーズンも美しいのであろう。「稻荷神社」を再び。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.12
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正面に「富士山本宮浅間大社」の「楼門」。世界遺産「富士山‐信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産のこの「富士山本宮浅間大社」。徳川家康造営の社殿が残されているがこの「楼門」もそのひとつ。2階建て入母屋造り(いりもやづくり)で、正面と両脇に扉が付いていた。間口4間、奥行2間半、高さ6間半2階入母屋造。さらに楼門の左右には慶長19年(1614年)造立の随身が安置されていたのであった。この楼門は、1604年(慶長9年)に、拝殿・舞殿・本殿とともに徳川家康によって造営された建築物(県文化財)。建立後、安永4年(1707年)の大地震では駿府城は3分の1が倒壊、安政元年(1854年)の大地震ではほぼ壊滅という状態であったが、ここ「富士山本宮浅間大社」では楼門、拝殿、本殿などが倒壊を免れているのだと。「楼門」の奥に「拝殿」が見えた。ネットソフトで「切り絵」にして見ました。こちらも設定を変えて。「楼門」に掲げられている「冨士山本宮」の扁額は、1819年(文政2年)、聖護院入道盈仁親王(えいにんしんのう)の筆によるものとのこと。手前左側には大きな「手水舎」が。「楼門」の右側にあった「絵馬」。萬邦共和(ばんぽうきょうわ)天皇陛下御製「世界との往き来難(がた)かる世はつづき窓開く日を偏(ひとへ)に願ふ」令和4年(2022年)歌会始御製御歌で「天皇陛下におかれましては、昨年に引き続き新型コロナウイルス感染症の感染拡大の収束を願うお気持ちを歌に詠まれました。昨年は、人々の願いと、人々がこの試練を乗り越えようとする努力が実を結び、感染症が収束していくことを願われるお気持ちをお詠みになりました。」一陽来復皇后陛下御歌「新しき住まひとなれる吹上の窓から望む大樹のみどり」「天皇皇后両陛下並びに愛子内親王殿下ご一家には、昨年の九月、それまで長くお住まいになりました赤坂御所から、上皇上皇后両陛下が一昨年まで長年お住まいになりました吹上御所に御移居になりました。この御歌は、吹上御所に新たに御移居をされた皇后陛下が、上皇上皇后両陛下への感謝のお気持ちを新たになさりながら、大きな木々の緑深い御所からの眺めをお詠みになったものです。」と。「楼門」を見上げて。楼門の左右には「随身」が安置してあり背銘に慶長19年(1614)の年号があると。随身は「随臣」とも書き、昔、上皇・関白を賜わった貴人が外出するときに、剣を帯び、弓矢を持って供奉する右近衛、左近衛の舎人(とねり:警備や雑用などに従事していた者。その役職のこと)と言われています。隙間から随身(正面右)・左大臣を。正面から。こちらもネットソフトで「切り絵」にしてみました。随身(正面左)・右大臣。正面から。こちらも。そして正面に「富士山本宮浅間大社」の本宮社殿の「拝殿」後ろに「本殿」、左「三之宮」、右「七之宮」。慶長9年(1604)徳川家康が奉賽のために造営したもので、本殿・拝殿・舞殿・楼門等壮観を極めたものであったが、寛永安政等の大地震で破壊したものもあり、当時の建物で現存するのは本殿・幣殿・拝殿・楼門のみ と。「社務所」。「御祈祷受付」、「おみくじ売り場」、「御札 御守授与所」があった。大きな「灯籠」(右)。上部をズームして。「信玄桜」の周囲は「おみくじむすび所」。「富士山本宮浅間大社」案内図。「本殿」。二重の楼閣造で棟高45尺、浅間造りと称し其の構造は他に例がないと。1階は5間4面葺卸の宝殿造り、2階は間口3間奥行2間の流れ造りで共に桧皮葺。明治40年5月27日古社寺保存法により特別保護建造物に指定され以後国宝又は重要文化財として特別の保護を受けている。祭神が木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)であることから桜が御神木。境内には500本もの桜が植えられ、楼門前の道は「桜の馬場」と呼ばれている。5月(4~6日)には「流鏑馬祭」が催される。「拝殿」の左側奥に鎮座する摂社「三之宮浅間神社」。「三之宮浅間神社」。江戸時代には境内・境外に摂社19社、末社15社と多くの摂末社を抱えていた浅間大社だが、安政大地震により大破し内陣に合祀されたり明治以降の統廃合により、現在は境内に摂社2社・末社4社を抱える神社となっている と。御祭神は浅間第三御子神。「駿河国神名帳」に列する正三位浅間第三御子明神と考えられ、江戸期までは三之宮と称されていた。三之宮浅間神社の左隣にある注連縄の張られた盛砂は「富士山 浄砂(きよめずな)」。この砂は敷地の隅に撒いて清めたりする「お砂取り」に使われるもので、富士山奥宮の清浄な土地の砂をお守りとしたり、家の敷地を清める為に撒いて使用する。授与所に申し出れば一握りほどいただけるのだ と。「拝殿」内陣には巫女さんの姿が。内陣では祈祷が行われていた。「拝殿」前より「楼門」を振り返る。再び「拝殿」を正面から。幣殿・拝殿は本殿と同じく徳川家康公の寄造営によるもので、屋根は本殿と同様檜皮葺、外側・内側は丹塗となっているが、極彩色は蟇股・虹梁彫刻などにとどまる。 幣殿は、本殿と拝殿をつなぐ「作合」と呼ばれた部分で、間口5間・奥行3間の両下造、北面には本殿の屋根の端が露出している。元は石畳であったが、現在は床に改められている。 拝殿は、間口5間、奥行5間で、床が幣殿より2段高くなっている。正面が入母屋造、背面が切妻造で、正面に向拝が1間出ている。正面に扉があり、左右は蔀戸によって区切られている。正面左右には濡縁を巡らせてある。巨大な注連縄飾り。色彩豊かな龍の彫刻。「木鼻」(右)。「木鼻」(左)。扁額「浅間神社」。蟇股(かえるまた)の彫刻。祈願絵馬掛所 。左に「名称 火山弾」、右に「南極の石」。「南極の石この石は、南極奥地より氷河に乗り幾億年もの歳月を経て流出し、地吹雪により風化したもので、第七次南極観測船ふじの乗組員により採取されました。富士浅間大神の、御神霊を奉斎して、昭和基地に赴いた砕氷艦、ふじ、の乗組員赤池 稔氏の(富士宮市出身)奉納であります。 富士山本宮 浅間大社」南極の石「名称 火山弾 目方約三十貫 (約百キロ)これは富士山噴火の時に、地中の岩漿が火熱のために溶けて空中に吹き上げられ落下した際に、酸化して冷却したものです。この様に形が整って大きなものは、珍しいといわれています。」火山弾「水屋神社」案内板。「国特別天然記念物湧玉池(冨士山の湧水)」案内板。御朱印場所の案内も。湧玉池への入口の「東門」。「古神札納書」。東門を出ると、明治廿年七月七日 富士山本宮と刻まれた「霊水鉢」。「文化財愛護 重要文化財 富士山本宮浅間大社 本殿 慶長9年(1604)」。再び「本殿」を東門(東脇門)を出て。ズームして。二重の楼閣造で棟高45尺、浅間造りと称し其の構造は他に例がない。1階は5間4面葺卸の宝殿造り、2階は間口3間奥行2間の流れ造りで共に桧皮葺。明治40年5月27日古社寺保存法により特別保護建造物に指定され以後国宝又は重要文化財として特別の保護を受けている。「咲良(さくら)みくじ」近づいて。人気上昇中の水みくじ「咲良みくじ」は結ぶと富士山の形になる と。そして左側前方に現れたのが「湧玉池」。「国指定特別天然記念物湧玉池この池は霊峰富士の雪解けの水が溶岩の間から湧き出るもので水温は摂氏十三度、湧水量は一秒間にニ.四キロリットル、年中殆んど増減がありません。昔から富士道者はこの池で身を清めて六根清浄を唱えながら登山するならわしになっております。つかふべき数にをとらむ浅間なる御手洗川のそこにわくたま 平兼盛」水面にはオスの「マガモ」が。オスは黄色のくちばし、緑色の頭、白い首輪、灰白色と黒褐色の胴体とあざやかな体色をしているのであった。浅間神社は富士山をご神体として、小高い丘の上から霊峰・富士を遥拝する信仰から生まれた。どうして浅間神社と呼ばれるようになったのかは、諸説、伝えられている。どの説も古くは「浅間」を「せんげん」ではなく、「あさま」と読んだことに由来があるようである。たとえば伊勢の朝熊社の社名が元とするもの。あるいは、早朝の富士宮のこの湧玉池の水面から霧が立ち上り、朝雲(あさぐも)と名づけたものが転じたとするものなどがある。その中でも有力視されているのは、「祠林采葉抄(しりんさいようしょう)」に残されている「富士の権現は、信濃の国の浅間大神と一体両座・・・両者ともに浅間大菩薩と申す故なり」の記述。そして「あさま」の意は、マライ語のアサ(煙)からきているのではないか、とする説。この「あさま」=「浅間」を、「せんげん」と音読みするようになり、現在に至っている とネットから。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.11
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「富士芝桜まつり」会場を後にして、次の目的地の「富士山本宮浅間大社(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)」に向かって国道139号を南に向かって進む。山梨県と静岡県の県境手前・富士五湖から朝霧高原へ抜ける道の左にあった銅像。裸婦像にしては身体が細く天使の像であったようだ。台座の柱には「WELCOME TO FUJIGOKO」と。実はこのモニュメントは9体存在しているとのことで、何処にあるのか探してみるのも面白いかと。そして「道の駅 朝霧高原 500m」案内板の先の、富士山の絶景撮影ポイントで停車し写真撮影。静岡県富士宮市からの富士山の絶景をズームして。旅友が記念撮影して下さいました。更に富士山を見ながら進む。トイレ休憩に「道の駅 朝霧高原」に立ち寄る。「道の駅 朝霧高原」駐車場からの富士山。富士山のいちばんの魅力はその形の美しさ。富士山のような「円錐形の美しい山」👈リンク は実は世界にたくさんあるが、この日本の富士山のように裾野まできれいに広がっている円錐形の山は珍しいのである。ここ朝霧高原からの富士山は、●裾野に凹凸の無い●稜線がほぼ左右対称。●山頂がほぼ水平で、●山頂の交点に「角(つの)」が見える場所なのであった。いわゆる画に描いたような富士山を眺望できるのであった。「道の駅 朝霧高原」のサイロを模した「時計塔」。時間は9:35。「売店・特産品展示販売コーナー」から外に出る。この先に「あさぎりフードパーク」があるようだ。再び富士山の勇姿を追う。「時計塔」越しに。そして富士宮市街に入り、国道139号の「万野原新田(まのはらしんでん)」交差点を通過。そして「登山道入口」交差点を右折し、ナビに従い進むと「富士山本宮浅間神社」に到着。時間は10:20。静岡県富士宮市宮町1−1。ここ駿河国一宮『富士山本宮浅間大社』は、全国1300社の浅間神社の総本宮で「富士山本宮センゲン大社」と呼ばれているが、例外として山梨県笛吹市の甲斐一宮『浅間神社』は「アサマ神社」と呼ばれている。同じく山梨県には「河口湖浅間神社」(富士河口湖町)「一宮浅間神社」(市川大門町)の三か所が「アサマ神社」と呼ばれているのだ。浅間山は「あさま」と呼ぶのに、富士山の浅間神社はなぜ「せんげん」神社と言うのであろうか? その疑問には、まず「あさま」の語源を調べてみると良いと。語源には色々な説があるが、寺田寅彦博士の説が面白のだと。曰く:《「古語でアサマは火山を意味したのではないか」という。日本の火山の名称には「ア行音+サ行音(浅間、阿蘇、有珠、恐、恵山、雲仙、等)」という「音の類似」が多くある。》他には:《「アサマ」はアイヌ語で「火を吹く燃える岩」の意味から名付けられた。と言う説。》また南方説で:《マレー語では、「アサ」は煙を意味し「マ」は母を意味するので、その言葉を火山である富士山にあてたとする説。》などなど。いずれも「浅間(アサマ)」は古来「火山」を意味したようだ。それでは「アサマ」がどうして「センゲン」と呼ばれるのか? これは、“元来、浅間は「アサマ」読みだが江戸時代に「センゲン」と読みならわされたようだ。「仙元」とも書いたようで、「浅間嶺」にある浅間神社も以前は「仙元神社」とか言われていたとのこと。「センゲン」と呼び始めたのは鎌倉から江戸時代にかけて、中国文化の影響が大きく、熟語をむやみに「音読み」にしたためと言われている。山や地名だけでなく、学者や芸術家などもこぞって名前は支那くさい名をつけたからだと。静岡県道76号線・大社通り沿いにあった大きな朱の「大灯籠」(右)。「大灯籠」(左)。「富士山本宮浅間神社」案内図。そしてその先、正面に「二之鳥居」と「社号標石」。富士山を入れて。ズームして。「富士山・観光・案内処」。ポスター「2023年(令和5年度)富士宮イベント」。2023年5月4日(木)、5日(金)、6日(土)は「流鏑馬(やぶさめ)まつり」が行われると。富士山と社号標石「冨士山本宮浅間大社」。正面に巨大な「ニ之鳥居」。扁額「富士山本宮」。「冨士山本宮浅間大社」案内図。「ニ之鳥居」手前の左側にあったのが「ここずらよ」。「ここずらよ」とは富士宮の方言で「ここですよ」という意味とのこと。「ここ」にくれば、富士宮の特産品が「ずら」っと揃っています「よ」という意味も込められているのだと。名前の通り、店には「富士宮やきそば」、「虹鱒甘露煮」、「富士のやぶきた茶」、「あさぎり牛乳」や「地酒」など地元の特産品が勢揃いしていたのであった。「家康の浅間神社の造営」と「富士山はだれのもの?~家康と富士山~」。「家康の浅間神社の造営1604 (慶長9 )年、家康は関ヶ原の戦いての勝利を記念して、天正10年から仮殿(かりどの)のままであった社殿の造営を行いました。建物は2年後に完成、正遷宮※が行われました。浅間大社の本殿はそれまで一階建て構造てしだが、この時、現在のようにニ重の楼閣造(浅間造)になったと言われています。本殿は現在、重要文化財に指定されています。※造営などのために移動させた神様を、新しい建物に移すこと」「富士山はだれのもの?~家康と富士山~現在、富士山八合目以上は浅間大社の所有となっています。そうなったことには家康が深く関わると伝わります。江戸時代の1609 (慶長14)年、浅間大社は家康から山頂部の「散銭」(賽銭)を、修理費用として寄進されたとされ、これを足掛かりにした浅間大社は、境内地として山頂部の支配・管理権を強めました。これに対し、他の登山口もそれぞれの由緒から、富士山における権利を主張しました。その結果訴訟となり1779 (安永8)年、幕府の判決文に基づき、浅間大社にハ合目以上の支配が認められました。その後近代になって一旦は国有地となりますが、1974 (昭和49)年の最高裁判決により、浅間大社に返還されました。」一般道を渡った先に「三之鳥居」が見えた。ここにも大きな石灯籠が(左)。石灯籠(右)。さらに「三之鳥居」を目指して石畳の参道を進む。幟「家康公の遺産 FUJINOMIYA」と。2023年大河ドラマ「どうする家康」の放送をきっかけに、富士宮の新たな魅力を全国に発信するため、オリジナルロゴマークを活用したのぼり旗を作ったのだ と。「三之鳥居」の先の朱の「楼門」がだんだん大きくなって来た。「三之鳥居」。手前右手の「狛犬」。大正7年(1918)5月吉日建立。手前左手の「狛犬」。右手に「流鏑馬(やぶさめ)像」。ズームして。逆光?のため、ネットから。台座の「流鏑馬練行之図」。ネットから。「流鏑馬祭縁起社伝によれば建久四(一一九三)年五月源頼朝が富士の裾野で鎌倉武士を率いて巻狩を行ったとき、当浅間大社に参拝し、流鏑馬を奉納したのに起因すると言われる古儀である。当大社所蔵の天正五年(一五七七)の富士大宮御神事帳や、慶安三年(一六五〇)の富士本宮年中祭禮之次第にも、五月五日の条に五月会流鏑馬 と記載されている。又その当時の古文書、朱印状等によれば武田勝頼より流鏑馬料、豊臣秀吉及び徳川家光よりは御朱印の寄進があり神事祭礼として国家安寧のため誠を尽して斎行するように下知されていたことを知ることができる。現在は五月四・五・六日の三日にわたり行われ、四日が前日祭、五日が本祭、六日が後日祭になっている。五日の本祭はこの祭の中心で、拝殿で祭典を行い、ついで練行と称して神馬を中心に宮司以下神職、弓武者、槍武者、射手代官、射手、氏子代表、稚児等が市内を練り歩いた後、桜の馬場に参入して、鎌倉武士を髣髴させる絢爛豪華な神事流鏑馬式が古例によって盛大に行われる。当日は端午の節句でもあり近郷近在から二十万余の参拝者で境内は終日殷賑を極めることは昔も今も変ることがない。 平成七年五月五日」前方に「鏡池」に架かる「太鼓橋」が。「鏡池」は楼門前の池で一名眼鏡池とも。中央の「太鼓橋」は大正4年御即位記念として石造りに改められたのだと。「鏡池」(右)。中央の島には石灯籠が。「鏡池」(左)。「太鼓橋」を渡る。正面に「楼門」。「楼門」前のこの道「桜の馬場」で今年も5/4~6に「流鏑馬」が行われるとのこと。奥には朱の「東鳥居」が見えた。「楼門」前に置かれていた巨石。「鉾立石その昔四月・十一月両度の大祭礼に山宮へ御神幸の際、鉾(ほこ)を立てた石です。」かつて山宮浅間神社(浅間大社の元宮)と浅間大社の間で『山宮御神幸(やまみやごしんこう)』として御鉾の渡御も行なわれた際に、鉾を立てた石とのこと。(山宮浅間神社にも残る)。『山宮御神幸』では、神様が宿る 「鉾」を左肩に載せたまま、途中肩を替えることなく、浅間大社から山宮浅間神社まで歩くのだと。 鉾立石は、今でもここ浅間大社楼門前に1つと山宮浅間神社の参道に2つ残っているとのこと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.10
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さらに「富士芝桜まつり」の散策を続ける。「竜神池」の南側を歩く。青の芝桜の中に白の芝桜で♡の形が。英国式庭園「Peter Rabbit™ English Garden」方向を見る。ここからも「ミニ芝桜富士」を。♡の芝桜と同じ種類の芝桜が「ミニ芝桜富士」山頂にも使われているようであった。♡の芝桜越しに。♡の芝桜をズームして。レンギョウの花。レンギョウは中国原産で、江戸時代に渡来し、当時は主に観賞用として栽培されていた。和名レンギョウの由来はオトギリソウ科のトモエソウ(弟切草、生薬名 小連翹(しょうれんぎょう)の漢名連翹を誤用したとも言われている。雌雄異株の落葉低木で、若枝は長く伸び、垂れた枝が地面につくと、すぐにそこに根付き、新しい株を増やす。高さは2~3mに達する。葉の緑は歯状で、葉のやや出る前につける花は明るい黄色で、花びら部分が深く4裂、雄しべは2本あり、木質の果実を有す と。竜神池越しに英国式庭園「Peter Rabbit™ English Garden」、「-The Cafe-」、「ショップ&ギャラリー」を望む。ピンクの中に巨大な白の♡が。ピンクの芝桜は大輪、色の濃い「マックダニエルクッション」。ピンクの中の巨大な白の♡を正面から。振り返って。前方にも更に♡が。再び正面から。ゴテンバザクラ越しに富士山の勇姿を。富士山と4つの♡を。ゴテンバザクラに近づいて。満開時は花びらの縁は色が濃いのが特徴。 小さな木なのにわんさか咲いているのであった。そして「富士芝桜まつり」会場を1周したのであった。「スカーレットフレーム」。「スカーレットフレーム」の海原。近づいて。展望台方向。そして富士山頂周辺の雲が切れて。デジカメで富士山の勇姿を追いかける。「オータムローズ」。「オータムローズ」の海原。近づいて。更に。これでもかと!!そして「富士芝桜まつり」を満喫して、駐車場に戻り、「富士芝桜まつり」会場を後にしたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.09
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次に訪ねたのが「Peter Rabbit™ English Garden(ピーターラビット イングリッシュガーデン)」。入口門。「Peter Rabbit™ English Garden」。「Peter Rabbit™」が迎えてくれた。「Welcom to Peter Rabbit™ English Gardenピーターラビット™ イングリッシュガーデンに寄せて---監修 マーク・チャップマン---人口に入ると直ぐに庭の中でピーターラビットを見つける事でしよう!田舎のコテージガーデンでよく見かける植物とフルーツの茂みで囲まれ、芝生ではピーターラビツトが家族やともだちと共有している大きな巣穴を見ることができます。その後に続くと、両サイドにイングリッシュボーダーガーデンがあります。反対側には大きな芝生の塚があり、気軽に座って富士山の雄大な景色をお楽しみください。春から秋にかけて、たくさんの素敵な写真スポットを楽しめます。庭はまだ新しく、多くの食物が成長し始めたばかりです。どうぞ、別の季節にこのガーデンに戻ってどのように発展していくのかをお楽しみください。」マーク・チャップマン英国リンカンシャー出身、大規模ランドスケープから個人邸を手掛ける実力派の英国人ガーデンデザイナー。長野県「自馬コルチナ・イングリッシュガーデン」を始め、全国各地のプロジェクトを手掛け、デザイナーだけでなくガーデナー、講師、ショップ運営と幅広い園芸サービスを提案している。英国内、日本国内で開催の様々なガーデンショーで多くのメダルを獲得し、有名プランドとのコラボレーション、NHK「趣味の園芸」ガーデンマスターとしてTV出演等、その実力が広く知られるところとなる。ピーターラビットたちにも出会えるガーデンイングリッシュガーデン内にピーターラビット絵本シリーズの仲間たちがいます。一緒に写真を撮ってお楽しみください。ガーデン内の植物情報イングリッシュガーデンには季節ごとに咲く約300種類の草花が植ええられています。代表的な植物には花名板がついており、QRコードから詳細がこ覧いただけますので是非お楽しみください。「イングリッシュガーデン」を望む。「イングリッシュガーデン」から「展望台」を見る。一面の濃いピンクの芝桜の海原を見る。「イングリッシュガーデン」内の四阿(東屋)。「展望塔」そして「ショップ&ギャラリー」を振り返る。出店前には多くの木製テーブルが置かれていたが、まだ早朝にため、食事を楽しむ人の数は少なかった。「Peter Rabbit™ English Garden ---The CAFE---」案内板。「ジャイヤントローズ」案内板を再び。存在感あるピンクの大きな花をつけます。マックダニ工ルクッションに比べて花びらが細く、咲いている期間も長いのが特徴です。市場ではほとんど流通しておらず、あまり目にする機会のない貴重な品種です。「ジャイヤントローズ」。手前が「ジャイヤントローズ」。「マックダニエルクッション大輸咲きのシバサクラです。濃いめのピンクの花弁を持つ存在感あふれる園芸品種です。北米が原産で寒さにとても強いのも特徴です。」「マックダニエルクッション」。濃いめのピンクの花弁を持つ「マックダニエルクッション」。「オーキントンブルーアイ名のオーキントンは、柔らかい紫を表すオーキッドから来ているのか花色は淡い赤紫で、ロマンチックで甘美な世界へと誘ってくれます。花の中央に、青みの強い顔を持ち清らかさも感じさせます。」「オーキントンブルーアイ」。再び絶景を!!やはり富士山頂の雲は意地が悪いのであった。見事なピンクの海のアンジュレーションを見つめて。「オータムローズ花色は、ローズビンク。一般的に「ピンクのシバザクラ」と呼ばれてます。優雅でエレガント、女性的な優しさに満ちた、たおやかな挑色の雲を想起させます。」「オータムローズ」。一面の「たおやかな挑色の雲」。束の間に富士山頂が姿を見せた。雲は右から左に流れて。カメラのシャッターを繰り返して押す。「マックダニエルクッション大輪咲きのシバサクラです。濃いめのピンクの花弁を持つ存在感あふれる園芸品種です。北米が原産で寒さにとても強いのも特徴です。」「マックダニエルクッション」。「オータムローズ」と「マックダニエルクッション」のコラボ。ジューンベリーに似ていたが。名は、6月(英語でジューン(June))にブルーベリーなどに似た形状の赤い実が熟すことから。和名はアメリカザイフリボク(あめりか采振り木)。「竜神池」と「富士山」。風に湖面が波立ち逆さ富士の姿は・・・・。青空であれば!ネットから。八重咲水仙。「八重咲日本水仙」であっただろうか。「ユキヤナギ」と芝桜のコラボ。ズームして。姿を表した富士山頂。竜神池の隅で釣りをする蛙。「Mr. Jeremy Fisher(ジェレミー・フィッシャー)」であろうか。四阿をズームして。残念ながら「逆さ富士」の姿はなく。「Peter Rabbit™ English Garden」と書かれた切り株に座る「Peter Rabbit™」。小川に掛かる石の太鼓橋。周囲の木々は水面に。この後歩いた竜神池の対岸を見る。竜神池越しにピンクの芝桜の海原を振り返る。水面にはピンクが映り込み!再び「ミニ芝桜富士」をズームして。この後、賑やかな台湾からの団体観光客とすれ違う。再び竜神池の南側の岸に向かって進む。南側の岸沿いに拡がるピンクの絨毯。「ゴテンバザクラ」が今をさかりと。マメザクラ系の交配種(園芸種)とのこと。「ゴテンバザクラ」。名前の由来:静岡県御殿場や須山に植えられていたことから。小さい木でもたくさん花をつけるので庭木、生垣などにこの周辺では人気と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.08
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「富士芝桜まつり」会場の散策を続ける。今年の新フォットスポット「ピンクの海を旅する小舟」。海に見立てた芝桜の中に小舟が置かれ、実際に乗ることができるのであった。ネット経由での撮影は無料であるが、その写真のダウウンロードは有料と。ピンクの海原で舟をこいでいるかのような写真が撮れるのであった。あいにくこの時は富士山頂には雲が。再び「ミニ芝桜富士」を振り返る。「展望台」も。ピンクの海原が拡がっていた。ややズームして。花色が濃い桃色の「マックダニエルクッション」。「ミニ芝桜富士」をあらゆる方向から。ここでもズームして。「マックダニエルクッション」(左)と「多摩の流れ」(右)。「多摩の流れ」。そしてここに、昨年SNSで話題になったフォットスポット「幸せの黄色い扉」が健在。私は、ドアを開けると、「ミニ芝桜富士」と一面ピンクの世界に入り込んだかのような写真を。ドアを開けると、富士山と一面ピンクの世界に入り込んだかのような写真が撮れる「幸せの黄色い扉」。撮影の順番を待つ人が列を作っていた。手前にはこれから開花を迎えるプロローグの芝桜が。こちらは「パッチワーク」の如くに。前方には「イギリス式庭園 ピーターラビット™ イングリッシュガーデン」の案内板が。「展望塔」、「ショップ&ギャラリー」方向を望む。左手にあったのが総ガラス張りの「The Cafe」。「富士芝桜まつり」会場入口方向を望むと一面ピンクの海原が。「ミニ芝桜富士」そして「展望台」方向までピンクの海原は拡がっていた。「PeterRabbit English Garden The Cafe」案内板。こちらは「ショップ&ギャラリー」。旅友の勧めで「GARDEN TOWER」に上ることにする。「展望塔ご利用にあたり」。狭い階段の横の壁には「PeterRabbit English Garden ---Fuji Motosuko Resort---」歓迎ボードが。キャラクターが紹介された絵。「Peter Rabbit(ピーターラビット) 」「???」「Benjamin Bunny(ベンジャミン・バニー)」。「Mr. Jeremy Fisher(ジェレミー・フィッシャー)」。「展望塔」からの絶景を楽しむ。残念ながら富士山頂は雲に隠れて。手前に「PeterRabbit English Garden」。「ミニ芝桜富士」方向。山頂は残雪のごとくに。入口方向には土産物屋が。「龍神池」方向。手前に「」さらに「龍神池」を追って。出店コ-ナーとテーブル。「ピンクの海を旅する小舟」に乗ってポーズをとる御婦人。「展望塔」の階段を下る。「Tom Kitten(こねこのトム)」。「Jemima Puddle-Duck(あひるのジマイマ)」。そしてショップへ連絡通路に。ショップ1階の壁を見る。ショップ1階を見下ろす。壁の花々の絵をズームして。「こねこのトムのおはなし」、「かえるのジェレミーのおはなし」。「Beatrix Potter ビアトリクス・ポター(1866-1943)ビアトリクス・ポターは1866年7月、ロンドンで生まれました。ピーターラビットシリーズは、1893に家庭教師だったアニー・ムーアの息子のノ工ル少年に送った「絵手紙」から誕生した物語です。1901年、自身で『ピーターラビットのおはなし』の私家版を出版。1902年には自黒の線描画だった挿絵に色を付けてフレデリック・ウォ一ン社から出版され、最終的には23作の絵本を世に送り出します。1905年、ビアトリクスは湖水地方のニア、ソーリー村にある「ヒルトップ」と呼ばれる伝統的な農場を購入し、美しいイギリスのコテージ庭園を造りました。晩年は牧羊と自然保護活動に力を注ぎ、1943年にビアトリスが亡くなった時、16の農場と4300工ーカー以上の土地がナショナル・トラストに遺贈されました。彼女の望みどおり、ヒルトップ農場は当時ビアトリクスが住んでいたそのままの姿で保存されており、現在でも「ピーターラビット」を愛する多くのファンが訪れています。」「ピーターラビットとビアトリクス・ポターについて『ピーターラビットのおはなし』は世界で最も愛されている児童書のひとつです。美しい水彩画によって描かれた動物たちののどかでユーラスな物語は、「私家版」を経て、1902年Frederick Warne社より出版されました。そして、100年以上にわたり世界中の人々に愛され続けています。現在、世界110カ国、35カ国語で出版されており、世界累計発行部数は2億5000万部を超え、日本語版においても1971年発行以降1300万部を超えるベストセラーとなっています。物語の舞台となった英国湖水地方は、2017年に世界文化遺産に登録されました。2022年、絵本出版から20周年を迎えました。」「川上未映子 かわかみ・みえこ Mieko Kawakami小説家・詩人2008年、『乳と卵』で芥川賞を受賞。2019年に発表した『夏物語』は40カ国以上で出版が進み、欧米各紙誌で高く評価されるなど、国際的な活動を展開している。「刊行によせて贅沢な時間を過ごしています.瞬きを忘れるような絵の繊細さ、つよさ、ポターがその観察と描写とにかけた思いが、すべての文章、すべてのページから追ってきます。たまらないのは、美しく、たくらみのある音とリズムをどう再現するのか、このユニーク極まりない住人たちの物語と絵の響きあいを、どんなふうに表現するのか。ああでもない、こうでもないと考えながら、しかし楽しくてなりません。言葉のひとつひとつ、声と音の流れ、色と線のすみずみまでをあじわいながら、しっかりやっていきたいと思います。」(2021.12.16)店内を散策する。「百花蜂蜜」を発見。1200円とあるが200gであっただろうか?「ショップ」を出て振り返る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.07
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思っていたよりは早く7:10を過ぎ、駐車場への車の移動が開始した。第1駐車場に案内され進む。正面の林の隙間から芝桜が垣間見えた。そして第1駐車場に車を駐め、入場開始の8:00を暫し待つ。「富士芝桜まつり会場 案内図」。入場開始の30分前、7:30になると周囲の車の方々が移動を開始したので、我々も車を降り、入場ゲートに向けて歩く。既に入場を待つご夫妻が先頭に並んでいた。チケット売り場前には、列整理用の、青い多くのバー付きのカラーコーンが並んでいた。この日は、月曜日の早朝であったが、前日の日曜日に多くの観光客が、この列に並んだのであろう。振り返ると、既に多くの観光客が列をつくり、入場開始を待っていた。時間は7:37。入場用チケット売り場は、現金用とキャッシュレス用の2箇所に分かれていた。私は現金1200円を払いチケットを購入した。時期によって入場料が1000~1200円と異なるようであった。こちらがキャッシュレス券売機コーナー。係員に券売機の操作方法の指導を受ける旅友の姿が。こちらにも後方には、「早くしろよ!!」の列が。「富士芝桜まつり」ポスター。近づいて。富士急グループの株式会社ピカ(山梨県富士吉田市)が運営する「富士本栖湖リゾート」(山梨県南都留郡)では、関東最大級となる約50万株の芝桜の祭典「2023富士芝桜まつり」が、4月15日(土)~5月28日(日)の期間で開幕しているのであった。営業時間:日にちによって異なるようであった・4/16~4/28 8:00~16:00・4/29 7:00~17:00・4/30~5/5 6:00~17:00・5/6~5/7 7:00~17:00・5/8~5/21 8:00~16:00・5/22~5/28 8:00~15:00 と複雑過ぎ!!「2023富士芝桜まつり」会場に向かって進む。「銘菓 さくら葉餅」のポスター。桜餅に使う桜の葉はオオシマザクラのやわらかい新葉であると、先日知ったのであった。 オオシマザクラ以外の葉は使用しないのだと。 桜餅に葉が巻かれているのには、きちんとした意味があると。例えば、桜の香りづけをしたり、お餅の乾燥を防いだりするため。また、塩漬けにした葉を使うことで雑菌の繁殖を防ぎ、餅にはほんのり塩味がつく。桜餅に葉が巻かれているのは、おいしく食べるための工夫なのだ と。「富士芝桜商店」散策は帰路に。そして正面には、首都圏最大級約50万株の芝桜が、富士山麓の広大な敷地に咲き誇っていた。鮮やかな色のコントラストが美しい、富士山を彩る春の風物詩!!。旅友はキャッシュレス券売機でトラブっているのか?来ないので、一人で展望台に向かって進んで行った。富士山の麓にある1.6ha(400m×400m=160,000m2)の広大な敷地に広がる、50万株の芝桜。会場には濃淡の異なるピンクや純白、それに紫がかったものなど8種類の芝桜が花を付け見頃を迎えていた。シバザクラ(芝桜)の基本情報学名:Phlox subulata和名:シバザクラ(芝桜) その他の名前:モスフロックス科名 / 属名:ハナシノブ科 / フロックス属。「スカーレットフレーム赤い芝桜と言えば、この花を指すことが多いです。「スカーレット」は緋色(ひいろ)、目にも鮮やかな赤という意味で、園芸品種としても人気種です。神秘性と幻想性に満ちた花叢(はなむら)です。」花叢とは花が一面に広がった叢(くさむら)の意 と。「ジャイアントローズ存在感あるピンクの大きな花をつけます。マックダニ工ルクッションに比べて花びらが細く、咲いている期間も長いのが特徴です。市場ではほとんど流通しておらず、あまり目にする機会のない貴重な品種です。」「ジャイアントローズ」名前のとおり花は大きくバラのように濃いピンク色で咲いていた。「オーキントンブルーアイ名のオーキントンは、柔らかい紫を表すオーキッドから来ているのか花色は淡い赤紫で、ロマンチックで甘美な世界へと誘ってくれます。花の中央に、青みの強い顔を持ち清らかさも感じさせます。」「オーキントンブルーアイオーキントンブルーアイは芝桜の中では珍しい青色の花の品種。生長は、軸が上に向かって伸びようとするため、地面を覆う速度は少し遅い と。「マックダニエルクッション大輪咲きのシバサクラです。濃いめのピンクの花弁を持つ存在感あふれる園芸品種です。北米が原産で寒さにとても強いのも特徴です。」「マックダニエルクッション」花色は濃い桃色。例えるならショッキングピンク色。成長は遅いですが、芝桜の中で一番病気や暑さや寒さに強い、丈夫な品種。葉は細かくて硬く、触るとチクチクする。芝桜の中で一際大きく、生長した株は花びらで葉が完全に埋まるくらいピンク一色になる。「多摩の流れ花弁の周りに白い覆輪ふちどりを持ち、ピンクがストライプのように可憐な斑(まだら)模様を花びらに描きます。遠くから眺めると肌色を帯びたピンク(トキ色)の群生のように映ります。」「多摩の流れ」白とピンクのストライプがかわいい芝桜。花の時期以外も緑の葉が芝生のように楽しめます。香水のようなかすかな香りがします。「モンブラン白の芝桜を代表する品種です。葉色が黄緑色なので、他の品種と区別しやすく、花がない季節でも明るい印象になります。」「モンブラン」モンブランは清楚な雰囲気の白花。芝桜のなかでも生育スピードは早いほうです。早く地面を覆いたい場合におすすめの品種。全体的に、より明るく柔らかい感じになります。広大な「スカーレットフレーム」の花叢の先に見えたのが「ミニ芝桜富士」そして「展望台」。「ミニ芝桜富士」をズームして。ネットソフトで切り絵にしてみました。この白い花の樹は「梨の木」とテレビで言っていたが・・??「ミニ芝桜富士」の模様・デザインも毎年変えているようだ。「ミニ芝桜富士」手前から北の方向を望む。急いでこの場所まで来たのは、富士山への雲が近づいていたため。近くの桜の樹はエピローグへと。「ミニ芝桜富士」に近づいて。既に「予告 虹の花まつり 9月1日~10月15日開催予定」のポスターが。これぞ「ダブル富士」。青空であれば!! ネットから。雲が富士山頂に。「展望台」に人の姿は少なかったもでこの時にと。「展望台」から濃いピンクの花・「ミツバツツジ」を。ズームして。絶景かな!絶景かな!!。青空が欲しかったが・・。青空であれば!!ネットから。これは合成写真であろうか。展望台からの絶景を楽しむ。そして「展望台」を降りて振り返る。「展望台」へのモニュメントも富士山の姿に。再び「ミニ芝桜富士」をこれでもかと。ピンクの世界。境界をズームして。裾野はあえて芝桜を密植させずに、現実の光景に似せて。「ミニ芝桜富士」に使われている芝桜の紹介であっただろうか?山頂部は「モンブラン」。「オーキントンブルーアイ」。「多摩の流れ」。「多摩の流れ」。「ミニ芝桜富士」山頂をズームして。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.06
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この日は4月24日(月)、テレビの各局で「富士芝桜まつり」の開催、そして満開になっているとの報道が。いつもの旅友を誘い、旅友の新車で行くことに。天気予報からこの週の前半が良さそうなので月曜日のこの日を決断。茅ヶ崎の旅友の自宅まで我が愛車で、そして旅友の新車に乗り換えて5:30に出発。「寒川南IC」から「圏央道」を利用して「八王子JCT」に向かう。時間は5:44過ぎ。この日の日の出時間は5:00であったが厚木市内からの東の空は、雲に覆われていた。「圏央厚木IC」手前を通過。高尾山IC先の「高尾山トンネル」が前方に。そして「八王子JCT」から「中央自動車道」へ。「相模湖東IC」手前を通過。「相模湖東IC」。「JR相模湖駅」近くの右カーブ。標高599mの「高尾山」を見る。左手に富士山の勇姿が。「大月JCT」から「河口湖線・富士吉田線」を進む。右手前方に見えて来たのが「山梨県立リニア見学センター」。「山梨リニア実験線」下を通過。国土交通大臣より工事実施計画の認可を受けた品川・名古屋間は2027年開業を目指して工事を進め、その後、大阪まで実現することとなっているとのことであるが・・・?。時間は6:23。「山梨リニア実験線」下を通過後の右カーブから再び富士山の勇姿が現れた。ズームして。富士山の勇姿をカメラで追いかける。富士山の斜面にジグザグの「吉田ルート下山道」が見えた。前方に「富士急ハイランド」のジェットコースター・「高飛車」が姿を現した。そして富士山の姿も。再びジェットコースター・「高飛車」。■コース全長:1004m■最大落下角度:121度■最高速度:100km / h■最大加速度:4.4G■所要時間:2分50秒■高さ:43m「河口湖IC」手前を通過。再びジェットコースター「高飛車」T富士山を。「河口湖IC」にて降りる。「河口湖料金所」の後方に巨大な富士山の勇姿が。「国道139号・横町バイパス」を進む。前方に標高1641mの「釈迦ヶ岳」の姿が。左手に富士山と白き建物が姿を現した。「ほうとう不動 東恋路店」。富士山にかかる雲が、ふわりと降りてきたような、白を基調ににしたシンプルモダンな建物。「東恋路」交差点を通過し富士山を左に見る。「西湖」方向交差点手前を通過。「富岳風穴」方向への交差点には「富士芝桜まつり会場 10.9km先」と。「青木ヶ原樹海」表示板下を通過。「精進湖」方面交差点手前を通過。この周辺は新緑が始まったばかりであった。そして「本栖湖」方面交差点手前を通過。そして「富士芝桜まつり」会場に到着し、Uターンして既に到着している車の最後尾に。時間は7:10過ぎ。 ・・・つづく・・・
2023.05.05
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鯖神社 「社殿」。扁額「鯖神社」。軒唐破風。内陣。「稲荷社」創建年不詳講が行われている。現小祠は平成9年再建。お稲荷さん(右)。「お稲荷さん(左)」「荒神様」。元禄5年9月井上氏・石井氏造立「コウジンヤマ」より移動現小祠は平成9年再建。「荒神様像」。「本殿」を斜めから。この記念樹の名は?「第六十一回 平成二十二年五月二十三日 全国植樹祭記念樹」小さな「五輪塔」。反対側にも小さな「五輪塔」。「本殿」の屋根。ズームして。奉納された「絵馬」が3枚。「耳を澄ましてよ~く聞こう」。「耳を澄ましてよ~く聞こう」。「耳を澄ましてジックリ聞こう」。「奉納絵馬ビッグ錠(佃 龍二)作」参道を振り返る。「遊水池この施設は、遊水池です。大雨のとき、雨水を一時溜めて、河川へ少しずつ流し河川の氾濫や洪水を防ぐ、大切な役目をしています。」「今田鯖神社」の境内下が遊水池となっているとのこと。境川の守り神である「今田鯖神社」の前に立っていたのが「今田管理センター」。「今田管理センター」の玄関。藤沢市と横浜市戸塚、泉両区にまたがる県立境川遊水地公園内の「今田遊水地」を管理。同センターは、延べ床面積250・77平方メートルの平屋建て。休憩スペースのほか、環境学習などの場となる学習室も完備。遊水地周辺で見られるカワセミやカワウ、ギンブナ、セイタカアワダチソウなどさまざまな動植物を写真パネルで紹介している。また、今田管理センターには、学習室のほか、大雨で河川が増水した際、下流域での洪水被害軽減のため水量を監視、調整する管理事務所も併設されている。「今田遊水地」カーブの高架橋は手前が「横浜市営地下鉄ブルーライン」とその奥に「相鉄いずみの線」。様々な催しの案内ポスター。「今田管理センター ご案内」。以前訪ねた大和市の「左馬神社」にあった説明書きを再度アップしておきます。「特集 左馬神社(さばじんじゃ) ~境川流域に密集するサバ神社について考える~はじめに南大和病院のすぐ側の雑木林の中に『※1左馬神社』という古びた神社があります。この"サバ”という名に珍しさを感じ、調べてみると、大和市、藤沢市、横浜市の瀬谷区・泉区に「左馬」「左婆」「左波」「鯖」と"サバ”という名付け十一社、引地川に一社、計十ニ社密集していることが知られています。祭神は鎌倉幕府を開いた源頼朝とNHK大河ドラマの主役となる源義経の父※2源義朝であり、この義朝を祭神としている神社は全国的に観ても珍しいのだといわれています。更に、近年までそのサバ神社を七社巡る「七サバ参り」という信仰もあったそうです。.今回、この珍しい神社について、サバの名称「左馬」「鯖」、祭神の義朝、七サバ参り、そして、なぜ「サバ」なのか調べようと思います※1左馬神社・・・寛文十年(一六七〇)十ニ月建立。※2源義朝(一一ニ三~六〇)平安末期の武将。詳しくは「1左馬と源義朝」参照。1 左馬と源義朝 源義朝は平安時代末期に起こった※3保元の乱での活躍で「※4左馬頭」となりました。やがて平清盛の出世に不満を抱き※5平治の乱を起こし、敗れます。この時生き残った従者の平賀四郎、鎌田正清、金王丸の三名と※6尾張国知多郡の鎌田正清の義理の父である長田忠致を頼りましたが、忠致の裏切りにあい、金王丸を除いて殺されてしまいました。生き残った金王丸はこの主人を弔うため出家し、土佐坊昌俊となりました。この金王丸(土佐坊昌俊)の兄というのが渋谷重国で、いまの川崎から綾瀬付近、現在の高座渋谷一帯を治めていたといわれています。もちろん、その領域は、サバ神社の建てられた場所も含まれており、この地域は渋谷氏が治めていたことにより、義朝を弔う土壌があったと思われます。更に「極めつけに江戸時代初頭に領主としてこの地域の住民の仇とも言えるあの長田忠致の末裔である長田忠勝、白政兄弟が治めることになります。恐らく、この地域の住民に反感情があったものと思われます。それにより、義朝の役職の「左馬」を用いて「左馬神社」と名付げたのではないでしようか。そして祭神として源義朝を祀ったのではないかと思われます。ただ「左馬」という名称を用いる前の「サバ神社」は大半「鯖」と名付けられた社名が多かったようです。この「鯖」は一体どういうことでしょうか。※3保元の乱・・・保元元年(一一五六)後白河天皇が藤原通憲(信西)を参謀とし平清盛・源義朝を 使って崇徳上皇を破った戦い。※4左馬頭 ・・・平安時代の律令制で諸国の牧場の管理していた役職の長。※5平治の乱・・・平時元年(一一五九)後白河上皇のもと権力を握った信西を藤原信頼と源義朝が 殺し、その後平清盛が両者を滅ほした戦い※6尾張国 ・・・現在の愛知県。2 「鯖」の字について病院の裏手の「左馬神社」もかっては「鯖明神」でありました。境内の古い石燈に「鯖明神社」と刻まれており『※7新編相模国風土記稿』においてこの左馬神社はもちろんのこと、大半は「鯖明神社」と記録されています。この地域で魚の鯖が多く水揚げされるようになったのは昭和の時代に入ってからだと聞いています。マユツバと思いますが、この付近の伝承に「大雨による洪水が発生した後、水が引いて、木に鯖がたくさん引っ掛かっていた」から祀ったといわれています。一説には、初穂の魚を神仏に備える全国的な風習に鯖を用いていたからだとも言われております。サバ神社とは異なる鯖稲荷を紹介してみます。この稲荷は、東京・日比谷神社で別名「鯖稲荷」であり、ご利益は虫歯封じといわれております。虫歯封じとサバにどのような繋がりがあるのかけんとうもつきません。江戸時代の「※8本草書」といういわゆる民間療法の書籍に鯖の"薬効”が書かれています。それによると整陽作用があるそうです。はたして効果はあるのでしようか、謎です。ともかく「鯖」の字が恐らく痛みに対して何らかの効果があったようです。しかしなぜ「鯖」なのか?「あて字」という説には持って行きたくはなかったのですが結局のところ何も見出せませんでした。では「サバ」とは一体何なのでしようか。※7新編相模国風土記稿・・・天保十二年(一八四一)に成立した地詩。林述斎が編集。※8本草学・・・本草とは、薬になる草を意味しており、古代よりそのような研究のため、 書籍が作られていた。初めて何かを食べて効果を見出した人ってすごいと思う。3 では「サバ」とは魚の「サバ」の説はともかく、このサバ神社の「サバ」について様々な考察が行なわれていました。まず、境川が神聖な信仰の境界であったという説です。猟師言葉に「サバワケ」という言葉があります。これは獲物を均等に分ける」という意味で、この「サバ」は境をつける意味合いであったそうで、東側は※9庚申信仰、西は※道祖神信仰の境界とし、両岸に沿って社を建てたとする説です。この説は境川に関してはこの説は通用しますが、その他河川にはあてはまりません。もう一つは、農耕との関係から、「サワ」っまり沢もしくは田の神であったのではないかという説です。東南アジアの言語では水田のことを「サワ」「サバ」と呼んでおり、水に関連するのは確かなようです。歩いて回ってみると、大体のサバ神社は川を見下ろす高台に位置し、その下に水田や現在の住宅地が拡がっていました。沢の神だけで見てみますと、高台に位置し、神社が河川を見下ろすという配置は、水害を恐れていたことに繋がるかもしれません。それに加えて、サバ神社十ニ社中、六社に「稲荷社」、ニ社に「宇迦之魂神」が祀られ、双方とも農耕神であり、田の神です。恐らく、沢の神と田の神として、サバの神は存在していたのではないかという結論に到りました。※9庚申信仰・・・庚申の日に帝釈天・青面金剛・猿田彦などを祭る。 見ざる・聴かざる・言わざるの「三猿」で有名。※10道祖神信仰・・・民間信仰のひとつ。道端に祭られ、五穀豊穣・子孫繁栄を祈った。 男女の神様が仲睦ましく寄り添う姿がかわいい4 七サバ参り今日確認できるサバ神社で「七サバ参り」伝承が残されているのは、このルートです。①境川左岸~和泉川沿いに下ったルート 上和田~瀬谷~上飯田~神田~中の宮~下飯田~鍋屋②境川沿いに両岸を下るルート 瀬谷~上和田~下和田~上飯由~高倉~下飯田~今田このルート以外にも石川(引地川沿い)のサバ神社を含む場合も伝えられているので、自分の出発地点よリ一日工程で巡ることが出来る神社を選び、お詣りしていたように思われます。実際②のルートを歩きましたが、約三時間ニ〇分で踏破できました。しかし明治・大正時代に盛んであった頃に比べ、道路事情の事を考えれば五時間ほど掛ったのではないかと思われます。「七サバ参り」は明治時代の日清・日露戦争に対する先勝祈願や子供が疱瘡・百日咳、はしかなどの流行病にかからないように子供を背負ってお参りしていたそうです。現在は、この七サバ参りも衰退していますが、天明年間(一七八一~八九)に盛んになった"七福神参り”の影響を受け、幕末以降に行なわれるようになったようです。新年あたりに”七サバウォーク”でも皆さんしてみてはいかがでしょうか。おわりに境川流に密集するサバ神社。郷土史の研究者にも注目されている神社でありました。ます、水の神と田の神が合わさり、鯖の字を当て、そして源義朝を祀み事となり、ご利益を求めて七社のサバ参りを行なうようになったのだろうと思います。今年の初詣も鯖神社に"さくらぷらざ”の利用者様を連れて、健康を祈願したいと思います。(文責桜井)みなみやまと平成17年1月25日の記事を再録したものです。」 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.05.04
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この日は4月25日(火)、仕事で南アルプス市に車で行った帰りに「今田鯖神社」に立ち寄った。先日の【藤沢地名の会 地名探索】小栗伝説の残る六会を巡る をブログアップした際に全ての鯖神社関連を訪ね終わっているつもりであったが、この「今田鯖神社」が漏れていた事に気が付いたのであった。 小田急電鉄江ノ島線の湘南台駅(相鉄・横浜市営地下鉄)から東へ700mのところにあった。 境川からは西へ250mほどであろうか。「石鳥居」明神鳥居昭和35年8月杉山氏奉納。扁額「鯖神社」。石鳥居を潜って進む。今田鯖神社掲示板平成17年9月新設。「鯖神社の境内」案内。「古(いにしえ)を今に伝える鯖神社」。 年代 西暦 事項元禄 5年(1692) 9月 村人らにより荒神像造立〈銘文〉元禄15年(1702) 9月 井上瀬兵衛により「鯖大明神」創建(棟札)亨保 5年(1720) 2月15日 村中により鎮守として拝殿を建立(棟札)寛政11年(1799) 秋 片瀬の諏訪山玉蔵院により護摩供養が行われる(棟札)文政 9年(1826) 社殿の再建(『高座郡神社略記』)天保15年(1844) 12月 拝殿の再建(棟札)・天照皇太神宮両屋の再建(棟札)嘉永 4年(1851) 4月 氏子中より燈籠一対奉納〈銘文〉嘉永 5年(1852) 1月 玉蔵院を施主とし、木造の御神体を奉納〈神像台座銘〉・玉蔵院により 永代護摩供養が行われる〈棟札〉明治 2年(1869) 9月 片瀬神主により郷内安全の祈祷が行われる〈棟礼〉明治 6年(1873) 村社に列せらる〈『高座郡神社略記』〉大正 8年(1919) 10月 神楽殿の建設〈碑文〉昭和 8年(1933) 4月 社殿の再建、14日上棟式〈碑文・古写真〉昭和35年(1960) 8月 鳥居奉納〈銘文〉昭和50年(1975) 10月1日 子供神輿(大)奉納(古写真〉この頃今田囃子が復活昭和59年(1984) 5月 今田鯖神社氏子の会(現保存会)設立 この頃拝殿でボヤ、火災保検に加入平成 7年(1995) 8月11日 不審火により社殿焼夫 9月30日 境内周辺樹木伐採平成 8年(1995) 8月~ 擁壁工事(翌年1月完成)平成 9年(1996) 1月24日 起工式、3月30日上棟式 9月 再建記念碑建立、石碑類整備、 玉垣設置、荒神・稲荷の小祠再建 10月2日 遷座式、3日 遷宮奉祝祭平成13年(2001) 3月1日 放火により再度社殿焼失、御神体焼損平成14年(2002) 2月13日 起工式、3月6日 上棟式 5月 新たに御神体を鋳造 6月8日 遷座式、9日 遷宮奉祝祭平成15年(2003) 6月 境内に上下水道・遊水池を設置 7月 社務所の改築平成17年(2005) 3月 参道整備平成18年(2006) 3月12日 旧御神体を本殿に安置 10月1日 鯖神社再建之碑の建立 〈 〉 は出典「玉蔵院ってなんでしょう?鰯神社に残された棟札には、「諏訪山玉蔵院」という名前が記され、護摩供養などを行っていたことがわかります。でも、この名の寺は今田にはありません。「新編相模国風上記稿」という書物によると、境川を下っていった片瀬の上下訪神社の別当寺が玉蔵院で、宗派は修験でした。今田に残された古文書からは、江戸時代にはお正月に玉蔵院へご祝儀を出していることもわかりました。その後、明治の廃仏毀釈で廃寺となり、交流が途絶えたのでしよう。しかし、そもそもどういういわれで神社と関わるようになったのかは謎のままです。皆さん、この謎を解いてみませんか。」「鯖神社再建之碑二度の再建への努力を讃え 鯖神社及び氏子の繁栄を祈り ここに記念碑を建立する今田鯖神社は氏子中の尽力により元禄十五年の創建から数度の社殿の再建を経て今日に到っている。平成七年八月十一日の放火により、昭和八年建立の社殿は失われたが、氏子中は再建委員会を組織し 復興工事を完成させ、平成九年三月には遷宮奉祝祭を執り行った。同十三年三月一日再度不審火により新築の社殿は御神体と共に灰燼と帰したが、氏子中の再建への強い志は途切れることなく、同十四年六月には新社殿に新たな御神体を納め、再び奉祝祭を執り行なうに到った。その成果を讃えると共に二度とこのような災難がないよう末永い神社及び氏子各位の安寧を願い、氏子一同 決意を碑に刻し、その記録を残すものである。 平成十八年(二〇〇六)十月吉日 氏子中」「私たちのすぐ身近の風景にさり気なくとけ込んでいる鯖神社。実は沢山の魅力を秘めた神社なのです。祭神は源義朝公一番の魅力は、なんといっても祭神として源義朝公をお祀りしていることでしょう。源義朝公は、鎌倉府を開いた頼朝、平氏を壇ノ浦で滅ぼした義経の父にあたる方として有名ですが、義朝公ご本人も歴史上きな活躍をした人物です。義朝公は、平安時代末期の1123本拠地を構えて南関東の武士を結集することに努めました。1144年、義朝公が今田の近隣の大庭御厨(みくりや 藤沢市にあった伊勢神宮の荘園)に侵入したことは、関東における源氏勢力を挽回させる出来事として有名な出来事です。1146年頃に義朝公は京に移り、さらなる勢力の拡大に努めました。保元の乱( 1 156 )では、父為義と敵味方に別れて戦って勝利し、実の父を斬る運命を乗り越えて左馬頭(馬を管理する馬寮の長官)に任じられます。しかし平氏への不満と対抗から平治の乱(1159)を共諜します。平清盛と戦って敗れ、再起を図るため東国へ落ち延びる途中、尾張の野間(愛知県知多郡)に辿り着いたとき、旧来からの家臣の長田忠致とその息子景致(かげむね)に裏切られ、湯殿で謀殺されてしまうのです。義朝37才の若い最期でした。「無念なり、我に木太刀なりともありせば」と言い残したと伝えられることから、今も野間大坊の義朝廟には、供養の太刀がうず高く奉納されています。」サバ神社は十ニ社義朝公をお祀りする神社は、今田鯖神社を含めてたった9社しかありません。しかも、その9社の神社名は左馬、佐波、佐姿と漢字が違っていたり、今では別の社名で呼ばれているものもありますが、かってはサバ神社と呼ばれていました。そしてこのサバ神社も全国を探しても12社しかなく、義朝公でなければ同じ清和源氏の満仲公をお祀りしているのですさらに不思議なことに、この極めて珍しいサバ神社12社は、すべて境川・和泉川・引地川沿いの川に向かった高台に建っているのです。なぜ、義朝公をお祀りし、サバと変わった名前の神社が今田の周辺に集中して存在しているのでしようか。その謎の答えを導き出す糸ロは、祭神の義朝公とサバという神社の名前にありそうです。義朝公の死後48年以上もたった江戸時代の初め、義朝公を謀殺した長田忠致の子孫という旗本の長田氏がこの地方を領しました。あるいは、その長田氏が祖先の滅罪に義朝公の霊を祀ったとも考えられます。ちょうど江戸時代の初め頃、この地方は狩場や放牧地を農地として開発し、豊かな収穫を得るようになっていました。水の恵みをもたらす川は反面氾濫を繰り返し、人々の生活を苦しめました。そこで領民たちは、川の精を鎮めるために、また村の結束や繁栄を願い、領主の祀る源氏の勇猛な武将である義朝・満仲を鎮守神に迎えて御神霊とも厄除神、五穀豊穣を祈って礼拝してきたのかもしれません。さらにサバの名の由来には、祭神の義朝・満仲が左馬頭だったことの他に、沢(サワ)の神を祀る小祠や田の神(サンバイ)や生飯(サバ)から転じた、また鯖が持っといわれる強い薬効を願って鯖神社とした、など諸説あり、サバ神社の謎に対する確かな答えはまだありません。答えがなければ、謎はいつまでも謎として残ります。その謎を解いてこの地方の秘められた歴史を明らかにしたい。そんな思いが今田鯖神社の魅力をいっそう深めているのです。七サバ参りサバ神社はこの地域の人々に愛され、崇敬されてきました。その現れの一つに七サバ参りがあります。子供の疱瘡、麻疹、百日咳などの疫病がはやった時に、「相模七サバ」と呼ばれる7社を順次参拝して、早い回復を祈ったものです。子供をおぶって弁当持参、まず近くのサバ神社から始めて、川沿いの道を歩き、橋を渡り、あぜ道をたどって、一日がかりで詣でたのでしようか。病を癒す厄除神参りは、江戸時代末期より大正の中頃迄行われたこの地方の風習でした。「今田鯖神社の棟札を調査しました去る3月12日(日)、今田鯖神社内の新しい厨子に、こ神体であった神像と棟札類が安置されました。同神社は1995年と2001年にニ度の火災にあい、氏子の方々のご尽力で、そのつど建て直しが行われました。当時のこ神体は嘉永5年(1852)に納められた像でしたが、この火災により焼損を受けました。そのため新たに作られた神像にその座をゆずられ、同時に焼損した棟札類とともに、歴史を伝える文化財として末永く保存されることになったのです。それに先立ち、同神社保存会代表総代の方が棟札類に記された内容の調査にみえられたため、当館でも調査をさせていただくことができました。棟札とは、寺社などの建立の際、年月日や関係者の名前を木札に記し棟木に打ち付けるなどしておくものです。棟札類は7点ありました。内訳は、棟札が4枚、祈祷札が3枚です.煤けて文字が見えない部分もあり、生涯学習課の文化財担当と博物館準備担当の協力のもと、赤外線の照射による文字の判読を試みました。その結果、完全に炭化している部分は無理でしたが、かなりの文字を読み取ることができました。棟札の年代は元禄15年(1702)・享保5年(1720)・天保15年(1844)で、天保15年は2枚あり、うち1枚は「天照皇太神宮」の再建のものでした。残り3枚が鯖神社のものです。元禄15年は同神社の創建の年と伝えられていますので、創建時の棟札が残されていたわけです。祈祷札は寛政11年(1799)・嘉永5年(1852)・明治2年(1869)のものです。興味深いのは、棟札1枚と祈祷札2枚に「法主」といった立場で「諏訪山玉蔵院」という名が記されていることです.しかし今田村にこの寺があったという記録はなく、伝承も伝わっていません。調べていくと、片瀬の上下諏訪神社の別当をつとめていた修験の玉蔵院(現存しません)だということがわかりました。今田と片瀬は距離もあり、しかも高座郡と鎌倉郡で郡も異なっています。いったいどういう関わりで、片瀬の玉蔵院が、今田村の法主を務めることになったのでしようか。その謎解きは、今後の課題です。最後になりましたが、調査のきっかけをいただき、また、貴重な史料を快くお貸しくださった、今田鯖神社保存会の皆様に厚く礼申上げます。」参道を望む。更に参道の坂道を上って行った。平成8年石段撤去平成17年アスファルト舗装。石灯籠(右)宗和型嘉永4年4月奉納昭和8年頃拝殿前より移動。石灯籠(左)宗和型嘉永4年4月奉納昭和8年頃拝殿前より移動。朱の木製燈籠が一対。正面に「拝殿」。石灯籠(右)春日型 平成9年10月1日奉納石灯籠(左)春日型 平成9年10月1日奉納神楽殿・大正8年建築と社務所社務所は平成15年7月改築 神楽殿に増築。「鯖神社 由来祭神源義朝公、創立元禄15年(1702)、例祭日10月1日 党利住人井上瀬兵衛により造立される。 祭神源義朝が佐馬の頭であったことから鯖神社と称する。文政9年(1826)に再建し、昭和8年氏子中により本殿・拝殿が 改築された。例祭日には子供御輿や山車が出てにぎやかである。(藤沢わがまちのあゆみより)」石碑群が左手に。手水鉢嘉永4年10月奉納。平成18年9月台座新設。4基の石碑用水堰改築記念碑大正15年11月建立昭和40年代頃境内へ移動。「記念碑相模中央東部有川日境川其○域以跨於高座○○之二郡有地称沿岸各村利用之設堰以便干灌漑者其數甚多六會村丸山地○亦古来有此堰而其築造不堅牢也頗年屡決関係村民毎俢之理之○供干水田八町八反有餘歩之用為之所費貨財常時尚○為尠若其當一朝偶暴風雨被害激甚也其○不可○○村民苦之負擔久村會議員杉山勘五郎選在管理之任苦心多年提唱堰改造時運亦到実現将近而不幸病没偶遭大正癸亥大震災堰悉破壊殆○可拾○杉山氏嗣子松五郎克幹父蠱策混凝土改良工事興衆相諮稟請縣費補助得其許可大正十五年二月十日起工同年四月十六日竣工於是乎得水田復旧労費亦共除焉挙村僉安堵即樹碑欲教子孫永記念之體其労苦無所苟怠屬文於余余因按状爰録其由云 大正十五年十一月吉○ 牧野随吉撰文又書 印(數:数 會:会 餘:余 當:当 擔:担 縣:県 體:体 混凝土:コンクリート)」「記念碑」。「道路改修記念碑」昭和8年建立昭和40年代頃今田西原バス停脇五差路角(今田710番地)より境内へ移動「道路改修記念」。「神楽殿建築紀念碑」大正8年10月建立。拝殿前壇上向かって左より移設。「神楽殿建築紀念碑」。「鯖神社新築記念碑」。昭和8年4月15日建立。拝殿前壇上向かって右より移動。狛犬(右)。平成9年10月1日奉納。狛犬(左)。平成9年10月1日奉納。「忠魂碑」。「再建資金 寄附者芳名」碑。 ・・・つづく・・・
2023.05.03
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「拝殿」への石段の両脇にあった狛犬(右)。角が無いのが獅子でしょうか。ひょろっとしたしっぽが可愛いかった。角がある狛犬(左)。「本来の狛犬には角があったのだ!」👈リンク と。新緑の溢れる石段を上って行った。最初の石段を上りきると、正面奥に「拝殿」が姿を現した。左手に「掛所(えまかけどころ)」。「心願成就 絵馬」。白旗を掲げて馬上の源義経公。弁慶の姿も。「合格絵馬」。「令和五年癸卯(みつのとう)歳 絵馬」。境内には義経公に纏わる「齋源義経公鎮霊碑」が。白旗神社の御首と宮城県栗駒町半官森御葬札所の御骸、両地の魂土を合祀し、義経公の兜を象った鎮霊碑で1999年(平成11年)に建立された と。説明板の根元には「義経松」の碑があった。碑に隠れるように切株があったが松かどうか判断がつかない。松だとしてもさほど大きくなさそうであったが。「是より南の方三丁 「首洗井の史跡」👈リンク あり」と刻まれていた。「源義経公鎮霊碑文冶五年(1189年)閏四月三十日、奥州平泉、衣川の高館で、藤原泰衝に襲撃された義経公は自害し悲壮な最期を遂げた。その御骸は宮城県栗原郡栗駒町の御葬礼所に葬られ、また一方の御薗は奥州箆を経て、同年六月十一二日、腰越の浦の首実検後に捨てられたが、潮に逆流し白旗神社の近くに流れつき。藤沢の里人により洗い清められて葬られたと語り伝えられる。本年、源義経公没後八百十年を記念し、両地有志の方々により「御骸」と「御首」の霊を合わせ祀る鎮霊祭を斎行し、茲に源義経公鎮霊碑を建立する。」そして更なる石段の上に「拝殿」。拝殿前にも狛犬(右)。奉納は「鳶太子講中」として「昭和二年二月吉日」、世話人以下30名以上の名前と「田島 穂良 書」「石工 服部 源次郎」と刻まれていた。太子講とは鳶職など職人さんが聖徳太子を職能神として祀ったもので、旧暦の1月21日、あるいは22日に太子廟を参拝して安全祈願を行ったり会合を行ったりしたのだと。この狛犬もその日に合わせて奉納されたものであろうか。狛犬(左)。「拝殿」。白旗神社がいつごろできたのかは定かではないが、鎌倉時代より以前から、相模国(神奈川県あたり)にある寒川神社の神様・寒川比古命をお祀りして、同じ名前の寒川神社と呼ばれていた。文治5年(1189)閏4月30日、源義経公は兄源頼朝から怒りをかい、追い詰められ、奥州(岩手県)平泉の衣川館において自害した。その首は奥州から新田冠者高平(にったかじゃたかひら)という者によって鎌倉に送られた。高平が、腰越の宿(鎌倉市)に到着すると、そこで和田義盛・梶原景時によって義経かどうか確認された。伝承では、弁慶の首も同時に送られ、夜の間に二つの首は、白旗川を上り、この地に辿り着いたといわれている。このことを頼朝に伝えると、白旗が源氏の旗であったことから、白旗明神としてこの神社に祀るようにと指示した。こうして義経公を神様として祀ることとなり、のちに白旗神社と呼ばれるようになった。弁慶の首は、白旗神社のそばに八王子社として祀られることになった。現在の社殿は、文政11年(1828)から7年をかけて、天保6年(1835)12月に完成した。本殿、弊殿、拝殿を連ねた典型的な流権現造り(ながれごんげんづくり)で、外壁部の彫刻は江戸時代の匠の技が光る貴重な文化財。昭和55年7月に大改修工事が行われ、平成16年2月に社殿回廊に高欄が設置されたと。近づいて。主祭神寒川比古命(さむかわひこのみこと):相模国一宮の寒川神社の祭神。源義経(みなもとのよしつね)共に祀られている神様天照皇大神(あまてらすおおみかみ)大国主命(おおくにぬしのみこと)大山祇命(おおやまつみのみこと)国狭槌命(くにさつちのみこと)日本武尊(やまとたけるのみこと)唐破風下の見事な彫刻。さらに。緻密な彫刻にも目をひかれたのであった。唐破風の懸魚は鶴。奥には龍の彫刻。亀の彫刻。懸魚(鶴)と亀とで、鶴亀が。龍の彫刻。手挟(たばさみ)に龍が彫刻されているのは珍しいか?牡丹などの花が一般的。手挟(たばさみ)には鳥と龍の彫刻。扁額「忠友殿」と。白旗神社近辺の町名が記されていたが、何と呼ぶものなのであろうか?「源氏の家紋・笹竜胆」が多数装飾されていた。「天水桶」には雨水が流れ落ちていた。この正面にも「源氏の家紋・笹竜胆」が。そして「拝殿」の右側の案内板とその下に石が。「白旗神社 弁慶の力石「カ石 の起源 は、石占 (いしうら)といわれています。神社に置かれた特定の石を、老若男女にかかわらず願い事を唱え、持ち上げ、その重い・軽いの感触によって願い事の成否・吉凶を占っていました。しかし、時代の流れによって娯楽や鍛練のための力試しになったといわれています。白旗神社「弁慶の力石 」はその昔、神社の西側古美根茶屋 (現、古美根菓子舗 )前に置かれ、茶屋 で一服する近郊農家や町内の力自慢がこの石を持ち上げカ比べをしたといわれています。この石は神石 とも呼ばれ、この石に触れると健康になり病気をしないといわれています。ご参拝の皆様には、この石に触れ、御加護を頂かれますようにご案内申し上げます。尚、お参りにこられない方・遠方にお住まいの方のために、「弁慶分石守 」をお頒け致しておりますので社務所にお越し下さい。」「力石」。この「力石に触れると健康になり病気をしないと。亀の甲羅に似ている石は茶店で一服した農家や町内の若者たちが持ち上げて力比べをしたのだと。「本殿」の屋根を右側から。白旗神社の幟。「寒川比古命 源義経公 白旗神社」と。寒川比古命(さむかわひこのみこと)は寒川神社の御祭神。「本殿」の屋根を左側から。雨が強くなりだした。拝殿前から参道を振り返る。石段横のモミジ葉の新緑も雨に濡れて輝いていた。境内隅に立つ「祈祷殿」に向かって石段を下りる。再び「鯉のぼり」を見上げた。そして「祈祷殿」。内陣。ズームして。「おみくじ掛け」。「鯉のぼり」と「源義経公武蔵 坊弁慶公之像」を再び。境内の巨大な今年・「令和五年癸卯(みつのとう)歳」絵馬。牛若丸と今年の干支である兎が八艘飛びのように船上で戯れている様子が描かれていた。再び社務所前の雨に濡れた純白の「義経藤」を追う。今年も、相州 藤沢「白旗神社」の「弁慶藤」、「義経藤」を独占・堪能し、そして久しぶりの境内巡りを、これもほぼ独り占めし楽しんで帰路についたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.05.02
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相州 藤沢・白旗神社の「弁慶藤」、「義経藤」を愛でた後は、久しぶりに境内の散策を。手前に白旗川に平成8年架橋された「御典橋」とその奥に「大鳥居」。日本初のグラスファイバー製の「大鳥居」であると。高さ8m、幅6mの明神鳥居で、昭和59年12月に建立された。地震対策のために軽量で耐久性のあるグラスファイバーを取り入れ、建設時には新聞、テレビ、週刊誌等で報道されたのだと。「御典橋」の右側欄干には真鯉(まごい)が。「御典橋」の左側欄干には緋鯉(ひごい)が。大鳥居脇には小さな日本庭園があり、奥に「白旗弁財天」が祀られていた。「手水舎」。この「手水舎」は平成5年7月に建てられた。手水石は真鶴の銘石、小松石で作られている。参拝の前に身を清める場所。亀が鎮座。その昔、街道から白旗神社を望むと、亀の形に見える事から(白旗神社は頭の部分)亀形山と呼ばれているのだ。正面から。「手水舎」の天井には龍が描かれていた。向かい合うようにあったのが「源義経公武蔵丸弁慶公之像」。この「源義経公武蔵丸弁慶公之像」は2019年(令和元年)10月竣工。源義経公没後830年の「記念事業」👈リンク の一つとして建てられたのだ。「義経公・弁慶公の御首は、文治5年(1189)6月13日に腰越の浜で首実検の後、金色の亀に乗り当地に辿り着いたと伝えられています。義経公の首塚は、現在の位置より北に40メートル、当社から南に150メートルの場所にあり、その御霊は当社に祀られました。一方、弁慶公の弁慶塚は藤沢宿 常光寺内にあり、その御霊は常光寺内の八王子社に祀られていましたが、現在は塚のみを残しています。一般的に神社は南向きか東向きに建てられていますが、この八王子社に限っては、主君 義経公が祀られている白旗神社の方を向いていたため北向きに建てられていたと謂います。此度、令和御大典の嘉年と主従役儀830年の佳節を吉年とし、ここに源義経公・武蔵丸弁慶公の銅像を建立し、御霊の平安と隆昌を永年に亘り祈り奉ります。」「源義経公武蔵坊弁慶之像」。馬に乗る「源義経公」。平安武将の大鎧を再現した見事な源義経騎馬像。鎧だけでなく、馬具・轡(くつわ)なども忠実に再現したのだと。ズームして。そして「武蔵丸弁慶公」。武蔵坊弁慶が主君の義経を仰ぎ見る忠義の士の姿。拝殿への階段手前の右側には石碑が並んでいた。右側から「御大典記念 永代御供米三俵 藤澤米穀肥料商組合」と刻まれた石碑。「八海山大神」と刻まれた石碑。「御嶽大神」と刻まれた石碑。「三笠山大神」と刻まれた石碑。「白旗神社御祭神 寒川比古命 源義経公配神 天照皇大神・大国主命・大山祇命・国狭槌命由緒古くは相模の国一の宮の寒川神社の御分霊を祀って寒川神社と呼ばれていた。しかし、くわしくはわからない。鎌倉幕府によって記録された『吾妻鏡』によると、源義経は兄頼朝の勘気をうけ、文治5年(1189年)閏4月30日、奥州(岩手県)平泉衣川館において自害された。その首は奥州より新田冠者高平を使いとして鎌倉に送られた。高平は腰越の浦に着き、和田義盛・梶原景時によって首実検が行われたという。伝承では、弁慶の首も同時におくられ、首実検がなされ、夜の間に二つの首は、此の神社に飛んできたという。このことを鎌倉(頼朝)に伝えると、白旗明神として此の神社に祀るようにとのことで、義経公を御祭神とし、のちに白旗神社とよばれるようになった。弁慶の首は八王子社として祀られた。」「旧東海道・藤沢宿」案内地図。ーーが旧東海道。そして拝殿への階段手前の左側にも石碑が並んでいた。江の島弁財天道標が一番右に。道標の横には、20数基の庚申塔群があった。近寄って。正面に「えのしま道」、側面に「一切衆生」「二世安楽」と刻字されていた。杉山検校が江ノ島弁財天に祈願し、成就したお礼に藤沢宿から江ノ島まで48基の道標を建てた。10基が現存し、そのうちの1基。昭和41年1月17日藤沢市重要文化財に指定された。「庚申供養」碑。藤沢市指定重要文化財となっている「寛文五年庚申供養塔」。近寄って。「市指定重要文化財 寛文五年庚申供養塔(有形文化財)庚申信仰は十干・十二支の組合せによって、六十日に一度めぐってくる「庚申の日」に、徹夜で無病・息災・長寿を願う信仰である。「人の体内にいる三尸(さんし)虫が、庚申の夜、天に登ってその人の罪過を天帝に告げるため生命を縮められる」とする道教の教えに由来している。この供養塔の中央上の梵字は釈迦如来(主尊)、続く八字ナムアミダブソワーカーの一呪、下の梵字はここでは青面金剛を表している。猿像の脚ぼその彫刻は、江戸時代初期のものに見かけられるものである。「江の島弁財天道標(建造物)その昔、杉山検校が「多くの参詣者が道に迷うことがないように」との祈念から建てられたものと伝えられる。もとは四十八基あったといわれ、現在は十基が残存している。いずれもほぼ同型で、この道標も尖頭角柱形の三面に「一切衆生」「金のしま道」、「二世安楽」と刻まれており、造立者の温情がしのばれる。」隣の素朴な石碑。その奥にあったのが「歌川 広重 東海道五拾三次の内 藤澤 遊行寺 」藤沢は遊行寺の参詣者が多く、江ノ島への分岐点として賑わった。遠くに北条時宗の本山、遊行寺の伽藍が描かれ、その右手にある家並は道場坂の存在を示し、大鋸橋を挟んで、江ノ島弁天の鳥居がある。お参りをすませた人々が山門をでて橋を渡り、鳥居をくぐろうとしている。ズームして。江ノ島弁天の鳥居そしてお参りをすませた人々が山門をでて橋を渡り、鳥居をくぐろうとしている様子が。更に奥にあった境内社は共に「稲荷社」。向かって右。向かって左。 ・・・つづく・・・
2023.05.01
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