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ユニークな形の花火も。そして再び大輪が次々と。そして二尺玉のスタート。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.08.31
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19:20になり「打ち上げ花火」👈リンクの開始がカウントダウンにて。印旛沼湖畔の会場で開催されるのは、実に4年ぶり。盛り上がる期待に応え、佐倉名物として知られる個性豊かな花火の打ち上げが企画されていたのであった。そのなかでも最大の目玉となるのが、ビッグ・プレミアム・スターマイン。会場に響きわたる音楽と連動し、約10分間で6,000連発もの花火が打ち上がる光景は圧巻!さらに、直径約500mの大輪が咲く2尺玉花火や、夜空を埋め尽くす尺玉30連発など、迫力ある花火が夏の夜空を彩ったのだ。「花火玉の開花時の大きさと到達高度」をネットから。花火玉の大きさの呼び方は、号や尺を用いられています。日本の昔からの数え方で、玉の大きさは尺貫法の“寸”が基準となっています。一寸は約3.03cmで、直径が三寸の9cmの花火玉は3号玉と呼びます。尺玉は十寸で10号玉、二尺玉は20寸で20号玉と呼びます。当社は20号玉、二尺玉まで製造しております。10号玉と比較すると玉の直径は倍で、重さは倍以上です。セットするときは、クレーンで花火玉を吊って降ろします。花火が打ちあがる高さと、花火が開く直径を考慮して、花火の魅力を最大限に引き出すよう演出構成をしています と。花火の距離と場所花火大会で打ち上げることができる最大の花火の大きさは「保安距離」によって決められている。保安距離とは、花火打上場所から観客、周辺付近の建物までの安全のための距離を言う。この保安距離は、各都道府県によって違う。より広い保安距離を確保できる場所では、大きな花火を打ち上げることができるが、市街地などの人口密集地では花火の玉の大きさや打ち上げ方が制限される。花火を打ち上げる場所には、野球場や陸上競技場、防波堤、畑、空地などがあり、交通規制により道路上での打上を行うこともある。場所によっては高圧電線や空港などの条件により打上が出来ない場所もある。花火の打ち上げ方花火の打ち揚げは手作業で点火するのではなく、安全のため主に電気点火遠隔操作を採用している。日本では1980年代あたりから遠隔操作が導入され始め、北陸火工でも職人・スタッフの安全性を確保すると同時に、正確に打ち揚げすることができるよう電気点火遠隔操作を採用している。また、打ち揚げを全てコンピュータによってコントロールすることも可能。1/30秒単位で発射や連射を実施し、完全な等間隔で打ち揚げをコントロールできます。同時にコンピュータ制御されていることにより、花火の点火をボタンひとつで止めることが出来るなど、急激な天候の変化に対応可能である。雨天の場合でも、防水処理を施しているので打ち上げることができる。また、強風など天候状況に応じて、指定する玉だけを発射させないようにすることも可能。花火ショーの最中に突風などが吹き、危険と判断した場合、小さい玉だけを打ち上げて、大玉を打ちあげない、とすることが打ち上げ中にもできるのだと ネットから。高圧鉄塔の裏側に。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・日本製 ホテルスタイルタオル ビッグフェイスタオル 【圧縮】 【お試しSALE】 楽天1位受賞 / 約40×100cm タオル 小さめ バスタオル 厚手 吸水 1枚 ポイント消化 SALE 送料無料
2023.08.30
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今年は、長女のパートナーのご両親から、8/5(土)開催の「佐倉花火フェスタ 2023」へのご招待をいただきました。千葉県佐倉市で開催される花火大会。昨年・一昨年は打上げ場所を複数箇所に分散した「分散花火大会」として開催されてきたが、今年、2023年は4年ぶりに印旛沼湖畔で開催。印旛沼の広大な敷地を活かした尺玉30連発など大玉花火が打ち上げられ、佐倉の夜空が大輪花々で埋め尽くされるのだと。東海道線、常磐線、京成線を利用して、千葉県佐倉市にあるニュータウン・「ユウカリが丘」駅で下車し妻が予約していたホテルにチェックイン。予約するのが遅かったためか、ツインは満室とのことでシングルを2部屋予約。そして横須賀線、京成本線を乗り継ぎホテルにチェックイン。我がシングルの部屋。「佐倉花火フェスタ2023」ポスター。「佐倉花火フェスタ」は、例年8月最初の土曜に開催される。印旛沼湖畔で開かれる花火大会の歴史は古く、1956年(昭和31年)に開催された「樋之口橋納涼大会」がはじまりだといわれている。1989年(平成元年)から2004年(平成16年)までは「佐倉・国際印旛沼花火大会」として開催されるなど、名称の変遷を経ながらも、印旛沼の夏の風物詩として親しまれて来たのだ。「佐倉花火フェスタ2023」はケーブルネット296でもLIVE放送されるとのこと。そして、チェックイン後部屋で一休みした後、再び「ユウカリが丘」駅から待ち合わせ場所の隣の駅の臼井駅まで向かう。17時過ぎに臼井駅で待ち合わせ・合流し、花火会場の『佐倉ふるさと広場』に向かう。花火会場の印旛沼湖畔(佐倉ふるさと広場)まで徒歩にて向かう。線路沿いにあった「印旛沼浄水場」。工業用水として、JFE スチール や千葉地区の工業地帯に沼の 水が使われているとのこと。京成本線と水田地帯の間の道を歩く。水田の脇の畦道にブルーシートを敷き、無料見学席を確保する多くのお客さんの姿も。「京成臼井」駅からの徒歩の客を対象に多くの売店が並んでいた。そして徒歩約30分で「佐倉ふるさと広場」の花火の見学会場に到着。有料観覧席の入口に向かって進む。私のチケット・「Eブロック96番」。そして我々の有料升席から「オランダ風車」を見る。有料観覧席には、白いレンタルの椅子が並ぶ。西の空には、雲はあったが夕焼けが迫っていた。19時の開会を待つ。佐倉市民の楽団が演奏中。そして、印旛沼上空は赤く染まって来た。観客の数も多くなって。夕焼けを追う。オランダ風車も開会を待つ。佐倉市長・西田三十五氏の姿も。手筒花火用の法被(はっぴ)を纏って待機中。2019年の市長選で現職を僅差で破り初当選した佐倉生まれ、佐倉育ちの市長であるとFさんから。実行委員長?の挨拶。そして19時になり第62回佐倉市民花火大会(佐倉花火フェスタ2023)の開会。「手筒花火」スタートの法螺貝が。そして「手筒花火」👈リンク のスタート。関東内でも珍しい、迫力ある手筒花火を間近で見ることができたのであった。手筒花火は人が小脇に抱えたまま燃焼させる手持ち花火で、竹筒に火薬を詰めて荒縄を巻いた手筒から豪快な火柱が十数メートルも上がる。全身に火の粉を浴びながらの演舞は、圧巻!!2008年からはじまった公益社団法人 佐倉青年会議所による「手筒花火」を追う。オランダ風車を背景に。同時に手筒花火6本の共演。最後は7本の共演により手筒花火、前より増して白煙が猛々と。 ・・・つづく・・・
2023.08.29
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ブログアップが遅れましたが今年も7月末に、今年の最初の趣味の養蜂のハチミツ絞りを行いました。ところで、働きバチが花から集めた花蜜は、実は、ハチミツではありません。巣へ持ち帰った花蜜が働きバチたちによって熟成・濃縮されて、はじめてハチミツとなるのです。まず、働きバチは、「口吻」と呼ばれるストローのような口で花の蜜を吸い胃のそばにある蜜胃(みつい)というところに花蜜を貯めて巣に持ち帰り、巣の中で待っていた別の働きバチに口移しで花蜜を渡すのです。 【http://www.beekeeping.or.jp/honeybee/partnership】よりミツバチをはじめとするハナバチ類は、いずれもその栄養源のすべてを花蜜と花粉に頼っています。花蜜はハチミツとして、花粉はハチパンとして巣に蓄えられるのです。下の写真の巣の中に白や黄色、ピンクの色の付いている部分が、ミツバチが集めた花粉。光っている部分が貯めたハチミツなのです。ハチミツはミツバチが花から集めた花蜜をそのまま巣に蓄えると思っている方もいると思いますが、花蜜と蜂蜜は全く違うものです。ミツバチが花から採ってきた花蜜(ショ糖が主成分)は、働きバチの体内の「酵素」によって蜂蜜(ブドウ糖・果糖)に変換されるのです。よって蜂蜜の主成分は、上記のブドウ糖と果糖。それに各種のミツバチ由来の酵素・植物由来の花粉・ビタミン・ミネラル・その他が混ざっているのです。ネットに「はちみつの話」👈リンク というページがありましたのでリンクさせていただきます。この日の我がミツバチの巣箱のひとつです。この群の群勢は高く、この日までに3段の巣箱としていました。巣箱の入口には多くの換気係?の働き蜂の姿が。下にある白い容器は、予想外の長梅雨のために外に出られないミツバチの為に砂糖水を1回与えたものがそのままになっていました。一昨年、10年以上使っていたプラスチック製の遠心分離機が壊れてしまったため、新たに同じ型式の遠心分離機を購入しました。採蜜は我が家の部屋の室内縁側で。外でやるとミツバチがアッという間に集まって来るからです。「无污染分蜜机」とは「無汚染分蜜機」と言うことでしょうか。もちろん、中国製の格安製品です。今年は、ミツバチたちが溜めてくれたハチミツの量は例年と同等ではないでしょか。蜜蜂と格闘し、巣にいた蜜蜂嬢を刷毛で払った後、蜜のぎっしり溜まった巣碑を巣箱に入れて家に持ち帰りました。この日は3群より11枚の巣枠を家に持ち帰りました。自宅に持ち帰り、早速ハチミツ絞りの実施。持ち帰るものは、巣枠の殆どが蜜の濃縮を完了し、ほぼ全面が蜜蓋で覆われているものとしています。蜜蓋のないものも絞れますが、濃縮が完了していないので、天然ハチミツ特有の味が薄いと感じているのです。ズームして。今年も妻が事前に遠心分離機や包丁、濾過網、ハチミツ容器等を熱湯消毒しておいてくれました。そして妻が熱湯で暖めた包丁でこの蜜蓋を剥ぎ取ります。巣蓋を剥ぎ取るとハチミツが溢れて滴り落ちて来たのでした。そして熱湯消毒済みの遠心分離機に蜜蓋を剥がしたものを入れて、遠心力でハチミツを容器の壁に飛ばし出します。遠心分離機には2枚を入れて、回転させます。1枚ですとバランスが壊れ、遠心分離機の破損に繋がってしますからです。そしてこれを繰り返して行ったのです。白い蜜蓋をズームで。これを四角く切り取ったものが「巣蜜(コムハニー)」として売られているのです。数年前の我が家の「コムハニー」です。スプーンで楽しんだのでした。ミツバチが長雨のために自家消費してしまった場所が。片面は削がずに遠心分離してみました。そして蜜が次第に遠心分離機の下に溜まって来ました。次々に新しい巣枠を。妻も頑張ってくれました。そしてタンク下部を。琥珀色のハチミツが貯まって来ました。ズームで。そして遠心分離機による採蜜は全て完了しました。そして10枚全ての遠心分離が終了し、ハチミツの濾過の開始です。今年も網目の大きさの異なる2段に重ねた金網で濾過。出口を開けると周囲にハチミツの香りが更に拡がって来ました。 琥珀色の濃度・糖度の高いハチミツがダラーーーと。遠心分離機で剥ぎ取られた巣房の欠片もきちんと濾過。横から。近寄って。濾過され容器に移したハチミツ。そしてこのまま1週間ほど放置し、更に容器の底に沈んだ不純物や浮上した不純物らしきものがあれば、これも熱湯殺菌したスプーンやストローでコマメに除去。そしてこれも妻がネットで購入したガラス瓶を大きな鍋に入れ熱湯消毒、蓋も同様な方法で。そして自然乾燥させた瓶にハチミツの充填作業をやってくれました。瓶が水道水で濡れていても、雑菌が入る可能性があるからなのです。そして瓶詰め作業も完了。これらパッケージング作業は全て妻がやってくれたのです。ラベルも印刷して瓶に貼り付けて。『Jinさんちのおいし~い蜂蜜』住所、名前も記入してあります。これは内容量600gのもの。もちろん添加物、加熱操作の全く無い100%天然の超濃縮ハチミツ。そして1本1本ビニール袋に入れて準備完了です。今年も多くの友人、知人からリピート予約を頂きましたが、趣味の素人養蜂家ですので、毎年採蜜出来る量は安定しないのです。全てがミツバチ嬢の頑張り次第なのです。今回も4本、5本等の予約の御連絡も頂きましたが、出来るだけ多くの方にお分けし、楽しんでいただきたいので、今年もお一人様MAX2本とさせていただきました。秋にはもう1回、量は今回よりは少ないでしょうが絞れるのではと期待している素人養蜂家なのです。そしてお陰様で全て発送、手渡し済みとなりました。ご予約いただいた皆様、どうか100%完熟の天然ハチミツをお楽しみください。今年のハチミツの味はいかがでしょうか?「はちみつがコロナウイルスに効く」といった根拠のない内容を標榜する例が、相変わらずインターネット上で後を絶たないとのことです。「コロナに効く」というキャッチコピーに踊らされることなく、「三密」を避ける、手洗いをするといった基本動作の更なる徹底で、これからも続くであろう変異コロナウイルスから身を守りたいと思っているのです。しかし「三密」は避けなければいけませんが、「蜂蜜」は楽しんでいただきたいのです。
2023.08.28
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「旧新橋停車場 鉄道歴史展示室」の見学を続ける。展示物配置案内図。「汐留の記憶」。「汐留の記憶このあたりは、もとは藻の生い茂る海辺でした。江戸時代初期に埋め立てられ、溜池から海に通じる水路が江戸城外堀となりましたが、この付近にあった土橋に堰を設けて潮の干満が中に及ぶのを防いだことから、汐留という地名が生まれたようです。三代将軍家光のころ、龍野藩脇坂家、仙台藩伊達家、会津藩保科家がこの地に屋敷を拝領しました。1870 (明治3 )年、汐留の一角に鉄道建設のための最初の測量杭が打ち込まれ、1872(明治5 )年に鉄道が開業すると、この地は新橋停車場として東京の玄関となり、日本の近代化を象徴する場所となりました。1914(大正3)年の東京駅開業後は貨物専用の汐留駅となって、日本の経済発展を支えました。1934 (昭和9)年から1936 (昭和11)年にかけて汐留駅の大改良工事が行われ、本格的な貨物駅としての機能が強化されました。戦後も増強工事が行われ、復興と高度成長の時代を通じて、汐留駅は物流の大拠点として重要な役割を果たし続けましたが、1986(昭和61)年10月31日、その使命を終えて廃止され、114年の歴史に幕を下ろしました。」「芝口南、西久保 愛宕下之圖」。収図範囲は、愛宕山と増上寺を中心とした芝一帯。芝口橋から南へ金杉橋までの大通りは東海道。江戸最古の通りで、寛永年間には町地が形成されていた。東海道と愛宕山、増上寺に挟まれた一帯が愛宕下で、別名・大名小路。遠山金四郎の屋敷などがある。増上寺は徳川家の菩提寺で、秀忠をはじめ6人の将軍が眠る。増上寺の西には南禅寺塔頭の金地院がある。「黒衣の宰相」といわれた金地院崇伝が住した。愛宕山の愛宕神社は家康が征夷大将軍就任時に建立し、関が原の戦勝を祈願した勝軍地蔵を祀る。景勝地でもあり多くの人が遊山に訪れる名所。「尾張屋版「芝口南西久保愛宕下之圖(寛政2年改正)」左から明治13年迅速図、明治42年測量図(一万分の一)、昭和5年測量図(一万分の一)、平成12年地形図(一万分の一)。「汐留年表」。年表によって、汐留地区の移り変わりと鉄道の発展の歴史を紹介していた。「旧新橋停車場再建駅舎模型縮尺100分の1の模型によって再建された旧新橋停車場駅舎の全容を示していた。」「旧新橋駅停車場 駅舎の再建」「「旧新橋停車場」の駅舎を再建するにあたっては、残された遺構の寸法と当時の鮮明な外観写真に基づき、元と同じ場所に元と同じ外観を復活させることを基本方針としました。現行の建築法令を守り、耐久性のある建物を建てるためには、創建時と全く同じ材料、技法、構造を使うことはできませんが、できるだけ忠実に創建当時の姿を再現するように努めました。また、見学窓を設けて地中に保存される遺構の一部をじかに見ることができるようにしました。当時の外観について明確な資料が残されていない部分(正面玄関の中央部)や現代の必要に応じて新たに付け加えられた部分(電気、水道などの取り入れ部と車椅子用・スロープ)は、再現部分と異なる材料と意匠を用いて新たに創作されたものであることが分かるようにし、創建時の意匠と混同されることがないように配慮しています。」「左の二つの鮮明な竣工時の写真と発掘された遺構の寸法から、コンピューターによる3次元解析によって、外観寸法を正確に割り出しました。上:新橋駅の外観(横浜開港資料館)下:新橋ターミナルの開業式場(横浜開港資料館)」1階展示室の床の一部はガラス張りで、開業当時の駅舎基礎石の遺構を見ることが出来た。移動して。「駅舎とプラットホーム」。「旧新橋停車場の駅舎は、木骨石張り2階建ての左右の棟にはさまれて木造平屋の正面玄関があり、奥にあるプラットホームに通じていました。設計者はアメリカ人のR・P・プリジェンスです。プラットホームは長さ151.5m、幅9. 1m、高さ1.2mで駅舎側約90mに屋根がありました。」駅舎の基礎駅舎の2階建て部分の地盤を強化するために、2本(まれに3本)を一組にした長さ3.6mの松杭が多数打ち込まれていました。角材とカスガイが各組の松杭の頭部をしつかりと繋いでいました。」「石積み駅舎部分では切石の小ロ面と長手面が各段毎に交互に積まれ、5段目には笠石を乗せるための彫り込みの痕が残っていました。プラットホームの切石は最高で5段目まで残っていましたが、もとは笠石を含めて6段あり、上3段が地上に出ていました。最下段部分は小口面を揃えて横に並ばせ、2段目から小口面と長手面を交互に並べて積み重ねていました。上屋は駅舎側約90mの部分に建っていました。」「伊豆斑石石質は、伊豆下田周辺から切り出された凝灰岩の一種である”伊豆斑(まだら)石”。プラットホーム石積みや、駅舎基礎石積み、駅舎外壁にも使用されている。*伊豆石について伊豆石は大きく分けて安山岩と凝灰岩がある,旧新橋駅舎に使用されているのは後者。安山岩は硬い石で火山の溶岩が固まったもの。江戸城を始めとする石垣に利用された。もう一つの伊豆石,凝灰岩(軟石)は火山礫や火山灰が固まったもので構成粒子の違いで出来る層理面が美しく装飾的な部分にも多様された。江戸後期~明治時代の洋風建築に,その色合いの良さからさかんに利用された。現在はほとんど採掘されていない。往時の採掘跡空洞を,温泉浴室として利用しているホテルが下田にある。」「出土面出上した状態のままの面です。風化が進んでいるため当時の切断痕を見ることは出来ません。関東大震災で焼失するまで、約半世紀にわたって外気に触れていた旧新橋停車場の壁面にも、この出土面のような凹凸が出来ていたのかも知れません。」切断面この展示のために切断した面です。旧新橋停車場駅舎の創建当初の壁面についての説明した資料は見つかっていませんが、この切断面のように奇麗に仕上がっていたのかもしれません。」「駅舎玄関遺構こに残されているのは、正面玄関の階段の最下段として使われていた切石です。正面玄関の階段は9段あったことが、当時の写真から分かっています。」再び正面階段前の見学窓を覗く。埋め戻された旧新橋停車場駅舎正面階段の遺構を見ることができたのであった。旧新橋停車場駅舎の北側をみる。その先、左側にあったのが「パナソニック汐留美術館」。「パナソニック汐留美術館は、2003年4月に現在のパナソニック東京汐留ビル4階に、社会貢献の一環として開館しました。当館は、フランスの画家ジョルジュ・ルオー(1871-1958)の初期から晩年までの絵画や代表的な版画作品など約260点をコレクションしており、これらを世界で唯一その名を冠した「ルオー・ギャラリー」で常設展示するほか、「ルオーを中心とした美術」「建築・住まい」「工芸・デザイン」をテーマとした企画展を通じて、私たちのこころとくらしを豊かにする活動を続けています。当館は「東京・汐留」というロケーションを活かした都市型の美術館として文化的空間を創造し、芸術とのふれ合いを通して皆さまに新しい価値観と感動をお届けしてまいります。」と。港区東新橋1丁目5−1 パナソニック東京汐留ビル。次に訪ねたのが「汐留シティセンター」。シルバーに輝く巨大オブジェが迎えてくれた。港区東新橋1丁目5−2。作者:Zhan Wang 「展望 / heaven of matter」壁には巨大絵画も。詳細不明。ここにも。彫刻「Deep Six」。そして徒歩にて「ゆりかもめ新橋駅」の横を通過し「JR新橋駅」まで歩く。「JR新橋駅」の汐留口を出て左側、「ゆりかもめ新橋駅」の入り口の正面にあるモニュメント。港区新橋2丁目17−14。「D51機関車の動輪」。「D51機関車の動輪D51機関車は1936年(昭和11年)に誕生した機関車です。10年間で1115両と、日本のSLでは一形式で最多の両数が製造され、戦前、・戦後を通じて全国各地で、主に貨物用として活躍しました。「デゴイチ」などの愛称で親しまれ、蒸気機関車の代名詞にもなり、1975年(昭和50年)のSL最後の運転まで重用され、使命を全うしました。展示されている動輪は、1976年(昭和51年)の総武・横須賀線乗り入れ記念として、北海道の札幌鉄道管理局から譲り受け、鉄道発祥の地である新橋駅に設置したものです。」鉄道唱歌の碑1957年(昭和32年)、10月4日の鉄道開通85周年記念日に鉄道歌の作家、大和田建樹生誕100年を記念して新橋駅に建立されました。鉄道唱歌は、長い間私たちのために働いた鉄道を讃えるだけでなく、明治時代の文学者大和田建樹自身が実際に汽車に乗ってつぶさに日本国内を旅行した見聞録です。」そして隣に「鉄道唱歌の碑鉄道唱歌の作詞家大和田建樹先生は安政四年(一八五七)四月二十九日愛媛縣宇和島に生まる幼少國漢文に親しみ十五歳以降特に國学に志した明治七年十八歳の秋上京遊学十七年東京大学講師翌年高等師範学校教授二十四年辞任爾来又官任せず門を開いて歌文を教え地方に出講し行餘謡曲能舞を嗜む学は漢洋に亘り著述は辞典註釋詩歌随筆百五十冊を越えたが三十二年鉄道唱歌東海道山陽九州奥州線磐城線北陸地方關西参宮南海各線の五冊を連刊就中汽笛一声新橋をの一句で始まる東海道の部は普く世に流布して津々浦々に歌われ鉄道交通の普及宣傳に絶大の貢献をなした先生明治四十三年十月一日に没す享年五十四今年恰も生誕百年に當って先生の遺弟待宵舎同人の発起により東海道鉄道唱歌にゆかり深い新橋驛構内に碑を建て永く先生を記念する 昭和三十二年十月安倍能成」。作詞は、大和田建樹(おおわだ たけき)作曲は、多梅稚(おおの うめわか) という方々。鉄道唱歌は、日本に初めて鉄道が開業した28年後の明治33年に発表されたとのこと。全5集にわたり334番まであるという超大作※399番まであるという説もあると。地理教育 鉄道唱歌 第一集というタイトルで東海道編が出版されたと。汽笛一声新橋をはや我汽車は離れたり愛宕の山に入りのこる月を旅路の友として右は高輪泉岳寺四十七士の墓どころ雪は消えても消えのこる名は千載の後までも窓より近く品川の台場も見えて波白く海のあなたにうすがすむ山は上総か房州かそして「新橋駅・日比谷口SL広場」へ。この日は「新橋こいち祭り」が行われていた。植え込みもあり、また12:00、15:00、18:00には数秒間汽笛も鳴るとのこと。クリスマスにはイルミネーションで飾られ美しいいのだ。港区新橋2丁目7。2023年7月27日(木)と7月28日(金)の2日間、東京・JR新橋駅周辺で「第26回 新橋こいち祭」が4年ぶりにリアル開催と。お祭りの名称は、新橋地区に住む人、働く人、遊ぶ人に「小1時間 (こいちじかん)新橋で遊んで行ってください」という願いを込めて『新橋こいち祭』と命名されたとのこと。多くの出店ブースが並んでいた。そして多くの客がテーブルを囲んで。JR新橋駅方向を見る。特徴的な低中層階外壁の格子のある「ニュー新橋ビル」方向。港区新橋2丁目16−1。「愛のライオン像」。新橋駅日比谷口を出て交番の前、東京新橋ライオンズクラブ25周年を記念して、身心障害者のための募金箱として設置された作品。台座には「身心障害者に愛の手を」と記されて募金箱が置かれていた。港区新橋2丁目16−2 愛宕警察署新橋駅前交番。近づいて。「乙女と盲導犬の像」。これも新橋駅SL広場ニュー新橋ビルの前、盲導犬普及のために設置された銅像。東京虎ノ門ライオンズクラブによって設置された。この銅像の設置を機に盲導犬パレードや募金活動がはじまったという。当時の盲導犬はシェパードが主流だったことから、銅像もシェパードである。港区新橋2丁目16。台座には作詞家、脚本家の川内康範氏による詩が刻まれていた。「街はこんなにも明るいのにどこかに翳りがあるこころのささくれあなた語らずにぬくもりを求められずにぬくもりをあの街にこの街に 川内康範」そして、この日の目的地の大崎駅近くの事務所に向かったのであった ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.08.27
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次に訪ねたのが「旧新橋停車場駅舎」跡。日本初の鉄道が開通したのは、1872年(明治5年)。新橋~横浜間であった。日本最初の鉄道の始発駅、当時の新橋停車場は、現在の新橋駅からは東へ350mほどの、この汐留地区にあったのだ。港区東新橋1丁目5−3。駅舎の裏には、開業当時のプラットフォームも再現されていた。「プラットホーム構造プラットホームは「盛土式石積」という構造で作られています。両側面の真下には、溝状に地面を掘って基礎石を敷詰め、その上に切石を石垣のように積んで土留め壁が作られ、内側には土が詰められました。基礎石には龍野藩脇坂家・仙台藩伊達家両屋敷の礎石などが使われました。切石は笠石を含めて6段あり、地表には笠石を含めた上3段が出ていました。最下段部分は小ロ面を揃えて横に並ばせ、2段目から小口面と長手面を交互に並べて積んでいます。ただし、一律的に小口面と長手面が交互になっているわけではなく、2・3段目では小口面が続く個所もあり、4・5段目では長手面が並ぶ個所もあります。」「規模プラットホームの全長は151.5m、幅は9.1mありました。再現されたのはそのうち駅舎寄りの25mです。遺跡指定の範囲に残されているプラットホームの遺構は35mです。」正面から、プラットホームと駅舎を見る。「0哩(ゼロマイル)標識」が右側奥に。港区東新橋1丁目5。明治3年(1870年)に、測量の起点としてここと全く同じ場所に杭が打ち込まれた。「0哩(ゼロマイル)標識」。プラットフォームの横には、開業当時のレールのレプリカが。このレプリカは、日本鉄道発祥の地ということで、昭和11年(1936年)に作られたもの。「0哩(ゼロマイル)標識1870年4月25日(明治3年3月25日、測量の起点となる第一杭がこの場所に打ち込まれました。1936 (昭和11)年に日本の鉄道発祥の地として0哩標識と約3mの軌道を復元しました。1958(昭和33)年10月14日、旧国鉄によって「0哩標識」は鉄道記念物に指定され、1965 (昭和)40年5月12日、「旧新橋横浜間鉄道創設起点跡」として国の指定史跡に認定されました。創業時の線路創業当時、枕木やレールの台座(チェアー)は小石や砂の混じった土を被せられ、レールの頭だけが地表に出ていました。レール断面は上下対称のI型で、双頭レールといいます。この復元軌道の半分は小石を被せて当時に近い状態を再現し、残りは枕木や台座が見えるようにしました。双頭レールは錬鉄製で、1873年にイギリスのダーリントンで作られ、官設鉄道で使われたあと、新潟県柏崎市の製油所で使われたもので、新日本石油株式会社、新日本石油加工株式会社の両社からご寄贈いただきました。」。左側に廻り込んで。発掘現場も保存されていた。見学窓からは史跡となっているプラットホームの遺構を見ることができた。さらに駅舎側に廻り込む。「旧新橋停車場 鉄道歴史展示室」を南方向から。「旧新橋停車場 鉄道歴史展示室」を西側から。鉄道博物館 企画展「鉄道と制服~ともに歩んだ 150 年~」の開催案内。その左に「旧新橋停車場」入場案内。「芝地区旧町名由来板」。汐留(しおどめ)昭和七年(1932)、汐留町一、ニ丁目および新銭座町(しんせんざちょう)の一部を合併して設立された町で、当時は町域のほとんどが元汐留駅の構内に含まれており、北東に汐留川、東に浜離宮を控えた場所にありました。汐留川は土橋で堀止まりのため潮汐の干満は外堀には通じず、汐がこの堀で止まることから汐留川と呼ばれるようになりましたが、いつの頃からかこの辺りの地名のようになったとのことです。芝口(しばぐち)かっての豊島郡芝村(後に本芝、現在の芝四丁目)を中心として「芝」と呼ばれる広い地域へ通じる場所ということから芝ロと称されるようです。宝永七年(1710)には、一時期江戸の南の出入口として機能した芝ロ門がたてられ、門の南側の日比谷町一、ニ、三丁目は芝ロ一、ニ、三丁目と改称されました。文政年間(1818 ~ 1830)、芝ロ三丁目の名主を勤めた長兵衛の十一代前の先祖長兵衛は芝ロの前身、日比谷町の開拓者と伝えられています。源助町(げんすけまち)源助町は江戸時代のはじめ、名主役の無浪源助が創設した町屋です。その頃、源助町横丁の桑山家屋敷内には水が赤く、飲料にもならない「油の井」と称する井戸がありました。あるとき、この井戸から弁財天の像を一体掘り出したところ、美しい清水が湧き「弁天の井」と称するようになりました。この弁天様は明和六年(1769)、当時芝ロ三丁目にあった日比谷稲荷へ相殿(あいどの)して祭られるようになったそうです。」「汐留より蒸気車御開業祭礼之図(しおどめよりじょうきしゃごかいぎょうさいれいのず)」(部分)。ネットから完全な絵図を。明治5(1872)年9月12日の鉄道開業式の様子です。イギリスの記念式典の様子を参考にして杉で緑のアーチを作っており、紅白の提灯で飾り付けています。周囲では山車が練り歩き、見物客がごった返す様子はまさにお祭りといえるでしょう。この日、新橋停車場構内も公開されたため、駅舎の窓には人の姿がちらほらと見えています。1883年(明治16年)測量の五千分の一地図。平成18年(2006)の地図。ズームして。現在の周辺地図。「旧新橋停車場 鉄道歴史展示室」案内板。「旧新橋停車場この建物は、1872(明治5)年10月14日(太陽暦)に開業した日本最初の鉄道ターミナル新橋停車場の駅舎の外観を、当時と同じ位置に、できるだけ忠実に再現したものです。新橋停車場駅舎は, アメリカ人 R.P.プリジェンスの設計により、1871(明治4)月5日に着工、同年12月に完成し、西洋建築がまだ珍しかった時代の東京で、鉄道開業直後に西洋風に整備された銀座通りに向かって、偉容を誇っていました。1914(大正3)年, 新設の東京駅に旅客ターミナルの機能が移り, それまでの烏森駅が新橋の名を引き継いで現在の新橋駅となり, 貨物専用駅となった旧駅は汐留駅と改称, 物流の大拠点として戦前戦後を通じて東京の経済活動を支えました。文明開化の象徴として親しまれた旧駅舎は, 1923(大正12)年9月1日の関東大震災に際して火災のため焼失し, 1934(昭和9)年から始まった汐留駅改良工事のため, 残存していたプラットホームや構内の諸施設も解体されました。1986(昭和61)年, 汐留駅はその使命を終えて廃止され, 跡地の再開発工事に先立ち埋蔵文化財発掘調査が1991(平成3)年から行われた結果, 旧新橋停車場駅舎とプラットホームなど構内の諸施設の礎石が発掘されました。1996(平成8)年12月10日, 駅舎とプラットホームの一部の遺構が史跡「旧新橋停車場跡」として国の指定を受け, この史跡を保護しつつわが国鉄道発祥の地を偲ぶために, 駅舎を再建することになったものです。」石段の先に「旧新橋停車場 鉄道歴史展示室」の入口があった。港区東新橋1丁目5−3。入口左側にあったのは、再開発の際に発掘された初代駅舎の玄関遺構 と。「開館中 入場無料」。「鉄道歴史展示室」。「第61回企画展 鉄道と制服 ~ともに歩んだ150年~」。1872(明治5)年10月14日、新橋~横浜間に日本で最初の鉄道が開業して以来、昨年で150年を迎えたが、鉄道の長い歴史はそのまま制服の歴史にもなり得る深い関係がある。制服は「鉄道営業法」(1900年公布の現行法)という法律により、旅客及び公衆に対する職務に従事する職員について着用が義務付けられている。鉄道開業当初、最初に定められた制服はわずか6種だったが、その後の鉄道の発達や世相を反映しながら度重なる改定を繰り返し、今日に至っている。本展では、明治以来の国有鉄道およびJR東日本の制服を中心に、鉄道の歴史をふまえながら制服のたどってきた道のりを振り返る。■会場:旧新橋停車場 鉄道歴史展示室 東京都港区東新橋1-5-3■会期:2023年7月25日(火)~11月12日(日)■休館日:毎週月曜日(9月18日・10月9日は開館)、9月19日、10月10日■開館時間:10:00~17:00■入場料:無料「第61回企画展 鉄道と制服 ~ともに歩んだ150年~1872(明治5)年10月14日、新橋~横浜間に日本で最初の鉄道が開業して以来、昨年で150年を迎えましたが、鉄道の長い歴史はそのまま制服の歴史にもなり得る深い関係があります。制服は「鉄道営業法」(1900年公布の現行法)という法律により、旅客及び公衆に対する職務に従事する職員について着用が義務付けられています。鉄道開業当初、最初に定められた制服はわずか6種でしたが、その後の鉄道の発達や世相を反映しながら度重なる改定を繰り返し、今日に至っています。本展では、明治以来の国有鉄道およびJR東日本の制服を中心に、鉄道の歴史をふまえながら制服のたどってきた道のりを振り返ります。企画展内は撮影禁止でしたので、内容については「鉄道博物館」の「案内書」👈リンクにアクセス願います。「旧新橋停車場復元駅舎 竣工記念」と。「第61回企画展 鉄道と制服 ~ともに歩んだ150年~」会場を出て、他の展示品を訪ねた。「史跡 旧新橋停車場跡史跡指定日本最初の鉄道を新橋横浜間に建設するために、両端から測量が始まった時、新橋側の起点となったのが、この建物の外にある「0哩標識」のある地点です。東京駅が開業するまで東海道本線の起点となりました。当初の駅舎は関東大震災時に焼失しましたが、1934 (昭和9)年から汐留駅改良工事が行われた時、諸資料をもとに起点を割り出し、0哩標識と線路の一部を1936 (昭和11)年に再現しました。1958 (昭和33 )年10月14日、当時の国鉄が「0哩標識」を鉄道記念物に指定し、1965(昭和40)年5月12日には「旧新橋検浜間鉄道創設起点跡」として国史跡に指定されました。1991 (平成3)年6月から開始された発掘調査において、駅舎やプラットホームなどの遺構が良好な状態で出土しました。1996 (平成8)年12月10日には史跡名を「旧新橋停車場跡」と変更し、指定範囲を駅舎とプラットホームの一部(35m)を含めた面積1,824m2に拡大しました。この建物は、史跡を末永く保護しながら往時の駅舎の外観を再現するために、遺構の真上、当時より70cm高い位置に造られました。」明治1 4年新橋停車場平面図この平面図は開業から10年ほど経過した時のものです。施設はそれほど増えておらず、構内の真ん中辺りを通っている会仙川以南には、明治15年に開業する「東京馬車鉄道会社」の建物が記載されていますが、その他はほとんどが空き地となっています。明治中期には空地部分を利用して車両の製造や修繕をする設備が増強され、新橋工場と呼ばれるようになります。」発掘調査により出土した遺構の全体像。右に長くのびているのがプラットホームで、左側が駅舎の跡。駅舎とプラットホームの一部は「旧新橋停車場跡」として国の史跡に指定されています。(東京都教育委員会所蔵)明治14年新橋停車場平面図「新橋停車場平面図 縮尺四千分之弐」「旧新橋停車場の遺構図」。ズームして。「旧新橋停車場の遺構の航空写真」。「ターンテーブル周辺」。「汐留遺跡発掘調査範囲(赤)東京都教育委員会発行「江戸復原図」江戸復原図は、現代の東京の地形図に未の江戸の町割を書き写し、当時の武家地、寺社地、町地などの位置が正確に分かるようにしたものです。」一階展示室の一部の床は、素通しのガラス張りになっていた。その下には、旧新橋停車場駅舎の基礎石が並んでいた。また2階展示室には、懐かしの改札鋏なども展示されており、ああ昔はこんなので切符を切られて改札を通っていたななどという思い出に浸れる展示室になっていたのであった。「出土品が語る旧新橋停車場 汽車土瓶」。お茶を入れる容器として用いられた汽車土瓶。ごみ穴から多量に出土したのだと。「出土品が語る旧新橋停車場 鉄道遺物」。改札鋏やチッキが。チッキは、鉄道などが旅客から手荷物を預かって輸送するときの引換券。手荷物預り証。「出土品が語る旧新橋停車場 鉄道遺物工具類など鉄道業務に用いられた金属製品。」。「旧新橋駅で出発を待つ列車」。鮮明な写真をネットから。写真は1877(明治10年)頃の初代「新橋駅」のホームにて出発を待つ列車の様子で右奥に駅舎が見える。ホームの長さは150mほどであった。SLは1872(明治5)年の鉄道開業時にイギリスから輸入された「15号(開業時は4号)機関車」で、1両の貨車と10両の客車が連結されている。「通信省の塔から見た新橋停車場」。「出土品が語る旧新橋停車場 外国製品」。クレイパイプ、ガラス瓶。「旧新橋駅構内の扇型機関車庫の前に立つお雇い外国人と日本人雇員」手前には転車台が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.08.26
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「銀座三越」で開催中の「アートアクアリウム美術館 GINZA」を楽しんだ後は、晴海通りに出て、「銀座四丁目」交差点から「セイコーハウス銀座 時計塔」を見る。中央区銀座4丁目5−11。現在の建物は2代目で、関東大震災からの復興の証として1932年に完成したもの。火災や地震を考慮して頑丈な天然石が施され、屋上には時計塔が作られた。この時計塔は4面に向けられた時計があり、正時のたびにチャイムを鳴らし、街を往来される方々に時を知らせる役目をしてきた。当時はまだ時計を持ち歩く習慣がない人も多かったため、暮らしの中に時間という概念が浸透することにも貢献してきたのだと。竣工から91周年を迎えたが、これまで外観はほとんど変わることなく、一方で銀座の街はどんどん変化を重ねてきた。時計の会社にある時計塔ですから、高い頻度で丁寧にメンテナンスを行い、常にずれることなく、現在も時を知らせていると。文字通り、銀座の街と共に過ごしてきた建物。時間は13:30前。その対角線上にあったのが、「GINZA PLACE(銀座プレイス)」。地上11階・地下2階の複合商業施設。建物は透かし彫りをモチーフに、日本の伝統工芸の美しさを表現した存在感ある外観デザインが特徴的。まるでフルーツキャップとして使われる緩衝材で覆われているが如し。中央区銀座5丁目8−1。再び「セイコーハウス銀座 時計塔」を見る。「中央通り」を新橋駅方向に進むと、右手にあったのが「ユニクロ銀座店」。「イチローPOSTはじまりました。きみの声がイチローに届く、特別なポストです。「きみが好きなこと、向き合いたいことってなんですか?」小学生・中学生のみなさんに質問です。きみのこたえやイチローさんに伝えたいことを、ユニクロのポストや、WEBサイトから届けてください。答えてくれたきみのことを、ユニクロはイチローさんと応援したい。会いに行きたい。自分の言葉で伝えて欲しい。きっとそれがきみの新しい一歩になる。」中央区銀座6丁目9−5 1-12F ギンザコマツ東館。「ユニクロ銀座店」の店内。そして訪ねたのが「豐岩稲荷神社」。東京都中央区銀座7丁目8。「豐岩稲荷神社」「銀座七丁目 豐岩稲荷神社」と書かれた幟が並ぶ。ビルの狭間の1m程の細い路地にまつられた神社は、ちょっと不思議な異空間。手前左に石碑と手水場。この石碑には「寄進者芳名」と。「参拝者のみなさまへ1.御守り(令和5年)と御朱印書き置きがあります。 お渡し場所は当神社地下1階 社務所 〇参道入り口左にある階段を下りてください。 〇社務所は毎週月曜日・火曜日・金曜日が開いております。 時間は10時30分~ 15時30分 ※12時~ 13時は昼食休憩 社務所の都合で曜日を変更する場合があります。 当神社についてのご質問・照会等は電話またはメールをご利用ください。 定休日に頂いた電話・メールは出勤日に返信いたします。 豊岩稲荷神社社務所 TEL 03-6264-5639 E-mail:ginnana77@yahoo.co.jp」左手に拝殿が。「狛犬」。右(阿形)。左(吽形)。扁額「豐岩稲荷大神」。「豐岩稲荷神社御祭神 稲荷大神、宇気母智神(うけもちのかみ)」例祭日 四月十五日由緒 当社は、江戸初期からこの地(銀座7-8-14)に火防(ひぶせ)神・縁結神として 信仰を集め、銀座7丁目町会の守護神として篤い信仰を集めてきた。 稲荷の神は、保食(うけもち)神(宇気母智神)あるいは倉稲魂(うがのみたま)神と 称し、稲のみ魂、また人間の生活に最も必要な食物を守護し給う神として、伊勢神宮の 外宮、京都の伏見稲荷大社始め、全国の稲荷の御祭神として、広く信仰されている。 当社は、明智光秀の家臣 安田作兵衛により祀られ、昭和の初めには歌舞伎の名優 市川羽左衛門(いちかわうざえもん)丈を始め、芸能関係者の崇敬が厚かった明治3年 (1870年)以降、当銀座の氏神である山王日枝神社(元官幣大社)の神職により 祭祀はとり行われ、永年の宿望であった御社殿以下の御造営事業及び境内地の保全が 平成5年(1993年)秋、地元町会関係者及び特別崇敬者 中塚成紀氏等の奉賛により なされたのである。 平成五年十一月 銀座七丁目自治会」そして新橋駅方向に進むと、右手にあったのが「金春湯(こんぱるゆ)」。文久3年(1863年)、金春湯は銀座に開業。当初は木造建てであったが、昭和32年に改築し、ビル内に銭湯を構える現在の形に。改築当時はビル内に銭湯を構えることは珍しいことであった。また、周囲に高い建物がなく、このビルが一番高い建物であった。江戸時代、この界隈に金春流の能役者の屋敷があったことからの店名と。昭和43年の時点では銀座だけでも8軒の銭湯が存在したが、現在では1丁目の公設「銀座湯」と、こちら8丁目の「金春湯」を残すのみとなってしまった と。中央区銀座8丁目7−5。その先「御門通り」との角の手前にあったのが「金春通 煉瓦遺構の碑」。中央区銀座8丁目7−11。正面から。「金春通 煉瓦遺構の碑平成五年九月吉日銀座金春通会建之」「銀座は日本に二箇所しか建設されなかったきわめて貴重な煉瓦街の一つです。もう一つは丸の内の煉瓦街でした。しかし今日では残されたこうした遺構から明治時代の煉瓦街を窺い知るほかはありません。設計者はトーマス・ジェイムス・ウォートルスというイギリス人です。フランス積みで、明治五年から十年にかけて当時の国家予算の四%弱を費やし、延べ一万メートル余もあったといわれています。この煉瓦は銀座八丁目八番地(旧金春屋敷地内)で発掘されたものでゆかりの金春通りに記念碑として保存される事になりました。下の絵は、明治初期のガス灯や張り板、提灯など当時の金春通り煉瓦街を偲ばせる古い写真を元に銅板に彫金したもので、見る角度により昼夜の陰影が出るよう微妙な細工が施されております。銅板画制作 第十一代 銅昭」。「金春屋敷跡所在地 中央区銀座八丁目六~八番地域江戸時代、幕府直属の能役者として知行・配当米・扶持を与えられていた家柄に、金春(こんぱる)・観世(かんぜ)・宝生(ほうしょう)・金剛(こんごう)の四家がありました。能楽は室町時代に足利幕府の保護奨励を受けて発達し、安土桃山時代には熱心な愛好者であった豊臣秀吉の保護を受け大いに興隆しました。特に、金春家は秀吉の強力な保護を受け、能楽の筆頭として召しかかえられました。江戸幕府も秀吉の方針を踏襲して能楽を保護し、金春・観世・宝生・金剛の四座を幕府の儀礼に深く関わる式楽と定めました。元禄六年(一六九三)頃の江戸市中の状況を記した「国花万葉記」によると、金春大夫は山王町(現在の銀座八丁目)・観世大夫は弓町(現在の銀座ニ丁目)・宝生大夫は大鋸町(現在の京橋一丁目)・金剛大夫は滝山町(現在の銀座六丁目)に屋敷を拝領していたとあります。金春家は、寛永四年(一六二七)に屋敷を拝領したといわれ、寛永江戸図『武州豊島郡江戸庄図』には「金春七郎」の名を確認でき、現在の銀座八丁目六・七・八番辺りに図示されています。後に屋敷は麹町(現在の千代田区)に移りましたが、跡地には芸者が集り花街として発展しました。金春の名は、「金春湯」・「金春通り」などと、今もこの地に残っています。 平成二十一年三月 中央区教育委員会」「第39回 能楽今春祭り」案内。そして首都高速道路をくぐりると左手にあったのが「新橋親柱」。港区新橋1丁目6。「港区の文化財 新橋親柱」。「新橋親柱は、かつて新橋と銀座の間を流れていた汐留川に架けられていた橋で、昭和38年(1963年)、川の埋め立て工事とともになくなりました。現存する新橋親柱は、大正14年(1925年)に長さ20m、幅27mの鉄筋コンクリートで作られた橋の一部です。地域名の由来を今に残す貴重な遺構です。平成30年(2018年)1月15日 港区文化財総合目録登録 港区教育委員会」そして「銀座柳の碑」。~銀座煉瓦街を美しく彩った柳の記念碑~銀座煉瓦街の完成時、街路樹として松・楓(かえで)・桜などを植えたがすぐに枯れてしまった。代わりに柳を植えたところ、それが根づいた。その後、道路拡張や大火により何度か柳が銀座から姿を消したが、地元の人々の尽力によりよみがえり、柳の緑が一面を覆うようになった。記念碑には『銀座の柳』の歌詞と譜面が刻まれている。港区新橋1丁目6−9。「銀座柳の碑西条八十 : 作詞中山晋平 : 作曲植えてうれしい 銀座の柳江戸の名残りの うすみどり吹けよ春風 紅傘日傘今日もくるくる 人通り (その先の歌詞です。)巴里(パリ)のマロニエ 銀座の柳西と東の 恋の宿誰を待つやら あの子の肩を撫でてやさしい 糸柳恋はくれない 柳は緑染める都の 春模様銀座うれしや 柳が招く招く昭和の 人通り」「銀座の柳 二世」。「銀座の柳 二世」の案内板の上には、鳩の姿が。そして次に訪ねたのが「日テレタワーゼロスタ広場」。この先に「日本テレビタワー」があったが、次回に。港区東新橋1丁目6−1。「シオタマ」が並ぶ。シオタマは、日本テレビが本社屋を東京都千代田区二番町(日本テレビ放送網麹町分室)から東京都港区東新橋(汐留シオサイト地区・日本テレビタワー)に移転する際、新キャラクターとして位置づけられたものである。 初登場は2003年8月2日に日本テレビ系列で放送されたスペシャル番組「ダウンタウンのバラエティ50年史」。水玉模様の人型オブジェが沢山!四つん這いになって一列に並んでいたり、円になって並んでいたりと一度見たら忘れられないオブジェ。「日テレタワー」を見上げる。「カレッタ汐留」の「亀の噴水・Turtle Fountain 」[B2F]作者:蔡國強(ツァイグォチャン)港区東新橋1丁目8。10:00~22:00の間、毎時1回・ 20分間のショー👈リンクを行っているとのこと。現在位置はここ!!「ここに陸蒸気の新橋停車場がありました明治5年(1872年) 10月14日に新橋停車場が開業し、新橋~横浜間(現在の桜木町駅)に日本で最初の鉄道が開業しました。開業当時は総延長28.8kmを約53分で結び、陸蒸気と呼ばれたその列車の速度は時速35kmで「風のごとく火竜のごとし」と驚き恐られました。大正3年(1914年) 12月に新橋停車場は汐留駅と名前を変え、貨物専用駅として昭和61年(1986年)まで活躍しました。日本テレビブラザの中に当時の新橋停車場のホーム先端があり、その位置と線路跡をLED(発光ダイオード)で表示しています。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.08.25
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「金魚蒐集(きんぎょしゅうしゅう)」ふだんなかなか目にすることのない珍しい品種を中心に、種類ごとにアートギャラリーのように展示をしています。ライティングの演出とともに、金魚を様々な角度から見られるようにしています と。円型の水槽で様々なシルエット・体色の金魚が一挙に見られる金魚蒐集。この水槽も照明の色合いが刻一刻と変わります。近づいて。「猪目リウム」日本古来から魔除けや福を招く意味合いで使われているハートのような文様、猪目(いのめ)。古くから神社仏閣の建築装飾として随所に見ることができます。その猪目をモチーフとした窓が水槽となり、その窓から外に広がる景色のなかを金魚たちが優雅に泳ぎます。窓に見立てた水槽に伝統的な図柄である猪目をあしらい、気ままに泳ぐ金魚を窓から眺める形式。その窓を覗けば、奥に展示されている天空リウムが現れ、まるで水中に建てられた宮殿のように見える。猪目リウムと天空リウムのコラボレーションをぜひ堪能してほしい と。そして最後にお土産「ショップ」を訪ねた。アートアクアリウム美術館GINZAの想い出をお持ち帰りいただくために、日本を代表する老舗店とのコラボ商品を含め、ここでしか購入できないオリジナルの金魚グッズをご用意しました。様々な柄の手ぬぐい。金魚のぬいぐるみM・L・XLの3サイズ展開の金魚のぬいぐるみ。廻り込んで。団扇。ふきよせ金魚。近づいて。「ふきよせ金魚水辺を泳ぐ金魚を題に、小さな米菓を詰め合わせて夏の風情をを味わうふきよせを作りました。」これは??クリアーファイル。金魚×アート傘。アートアクアリウム・新金魚品評にいる金魚たちそして出口へ。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.08.24
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続いて浮世絵師「歌川国芳」コーナーへ。江戸時代末期の浮世絵師である歌川国芳の作品から、金魚と鯉が描かれているものをニ十点余り収集し展示しています。日本美術を代表する国芳は「奇想の絵師」などとも呼ばれ、ユーモラスで大胆奇抜な作風が人気を博しました。江戸時代に庶民にも親しまれるようになったという金魚鑑賞の歴史を、国芳の作品から感じながら、アートアクアリウムを楽しんでいただきたいという想いでこの歴史ある浮世絵を展示します。「歌川国芳歌川国芳(1797 ~1861)は、幕末の江戸・日本橋に生まれ、画想の豊かさ、斬新なデザイン力、奇想天外なアイデアと確かなデッサン力で、浮世絵の枠にとどまらない広汎な魅力を持つ作品を多数生み山した浮世絵師です。国芳の魅力はなんと言っても、限りなく広がるイマジネーンヨンの世界にあります。物語の夢と冒険とロマンの世界を具現化する手腕においては、他に並ふ者のいない卓越した才能を示し、まさに江戸のグラフィックデザイナーとも呼ふことができるでしょう。題材やジャンルも武士絵、役者絵、美人画、風景画といった伝統的なものだけではなく、ウィットとユーモアに富んた戯画、時事報道画、こども絵とさまざまな分野で個性的な作品をしており、その作品は、浮世絵ファンはもとより現代のデザイン関係者や若い世代にも注日され、国際的にも高い評価を得ています。ギャラリー紅屋1980年、東京・青山に創業江戸時代の浮世絵をメインに援う古美術ギャラリーです。葛飾北斎、喜多川歌麿を含む貴重な浮世絵を多数保有し、なかでも歌川国芳の取り扱い点数は世界屈指を誇ります。過去には、森アーツギャラリー(東京)、シーボルトミュージアム/シーポルトハウス(オランダ)、パリ市立美術館/プティ・パレ(フランス)など国内外の美術館で企画された歌川国芳展に協力するなど、ギャラリー紅屋は世界を席巻する国芳プームの立役者といえるのです。ギャラリー紅屋主宰国芳展実績(作品協力)1995年 東京大丸他 (毎日新聞)2010年 府中市美術館 (日本経済新聞)2011~2022年 森アーッセンターギャラリー他 (日本経済新聞)2013年 福岡大丸他 (日本経済新聞)2013年 ライデン/シーボルトミュージアム (オランダ)2015年 パリ/プティ・パレミューシアム (フランス) (日経新聞)2017~2018年 ミラノ/パルマネンテミュージアム (イタリア)ギャラリー紅屋/〒107-0062 東京都港区南青山3-10-41 ジュエル青山501近年、国内外で展覧会が数多く開催され人気急上昇中の浮世絵師・歌川国芳。その国芳が手掛けた浮世絵シリーズ「金魚づくし」は、金魚に加えてカエルやカメなどの水中の生き物たちを擬人化し、ユーモアたっぷりに描かれています。笑い、走り、歌い、踊る金魚たちの姿は、見る人を思わず「カワイイ」と微笑ませてしまうほど生き生きとしてコミカル。江戸時代後期には、金魚は庶民の間でもペットとして飼育されるようになりました。そんな自分のペットの様子を描いた浮世絵に、江戸っ子たちは夢中になったことでしょう。近年、日本のポップカルチャーを形容する単語として世界に定着しつつある"Kawaii"の歴史は、こうして江戸時代の浮世絵、国芳の「金魚づくし」の中に既に見ることができます。歌川国芳「金魚と源氏 三枚続」歌川国芳「池の金魚とねこ大判錦絵三枚続 嘉永4年(1851)頃」。歌川国芳 「泉水舟乗初」。歌川国芳 「金魚づくし 百ものがたり」。ピンボケなのでネットから。「金魚づくしシリーズは、金魚をはじめとする水中の生き物たちを擬人化し、面白おかしく描かれた浮世絵で、国芳が得意としたいわゆる戯画です。百物語は、江戸で流行った怪談会のことで、百本の蝋燭を火に灯し、怪談話が一つ終わる毎に一本火を消していきます。最後の明かりが消えると闇の中から化け物が現れるとされていました。本図は、まさに最後の話が終わって、化け猫が出てきた瞬間を描いています。」化け猫に驚き、ひっくり返る金魚の姿が愛らしい!!「さらいとんび」。あ!トンビに油揚げをさらわれた!「玉や玉や」しゃぼん玉売りが来たよ!歌川国芳「似たか金魚」。歌川国芳「金魚にめだか」。「歌川国芳 源氏物語/団扇絵」源氏物語10巻「賢木(さかき)」を再現した作品。ネットから。右上に「源氏香」が描かれている。「いかだのり」ひれをまくって男らしく歌川国貞 「鯉 坂東三津五郎 尾上栄五郎 岩井繁三郎」。歌川国芳「鬼若丸の鯉退治」1845年ころ歌川国芳「其面影程能写絵 猟人にたぬき」。歌川国芳「其面影程能写絵 金魚にひごいっこ」。歌川国芳 「三十六會席 大工六三郎(1852)」。歌川国芳「鯉つかみ」。「鯉つかみ」は歌舞伎の演出のひとつ。主人公が鯉の精と水中で格闘する様を主題とする作品の総称。錦絵の画題は『神田川の与吉』で、嘉永2年 (1849年)上演の『天竺徳兵衛韓噺』の四代目坂東彦三郎が演じる一場面として描かれている。ネットから。一勇斎国芳「十六武蔵坊」。歌川国芳の画号は文政初年から万延元年にかけて一勇斎国芳 と。ネットから。歌川国芳「西塔 鬼若丸」。歌川国芳 「坂田 怪童丸」。歌川国芳 「鬼若力之助」。歌川国芳「西塔 鬼若丸」。一勇斎国芳「黒鯉・なまず」。一勇斎国芳「小倉擬百人一首 陽成院」。『筑波嶺(つくばね)の 峰より落つる 男女川(みなのがは) 恋(こひ)ぞつもりて 淵(ふち)となりぬる』現代語訳筑波のいただきから流れ落ちてくる男女川(みなのがわ)が、最初は細々とした流れから次第に水かさを増して深い淵となるように、恋心も次第につのって今では淵のように深くなっている。歌川国芳「稚立功名鑑 鬼若丸」。「コラボアート」そしてこちらは、新世代シンガー「yama」と、3人のイラストレーター「ともわか」「雪下まゆ」「凪」という注目のネットクリエーターたちが、「女性と金魚/鯉」をテーマに制作した新作も展示しています。ミュージアムショップではグッズも販売されています。正面から移動して。ズームして。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.08.23
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次に訪ねたのが「フラワーリウム」。華道家・假屋崎省吾氏とのコラボレーション作品「フラワーリウム」。季節にあわせて花の演出をかえてきた本作は、夏の代表的な花、向日葵“ひまわり”が彩ります。金魚と孔雀との組み合わせ。雀の胴体のところが金魚、羽の部分には胡蝶蘭、そして本物の孔雀の羽が。金魚の部分を追う。世界に誇る日本の芸術と文化「金魚といけばな」を重ね合わせた大胆で華やかな作品。【假屋崎さんコメント】金魚&假屋崎省吾の世界初のコラボレーション企画ということで、期待に胸をふくらませております。金魚と花、この世が生みだした完成された美をどのように共演できるか私自身も本当に楽しみで仕方ありません。世界に誇る日本の芸術、金魚といけばなの世界初のコラボレーションをご来場の皆さまにぜひご堪能いただければと存じます。花瓶に見立てた水槽のなかを金魚が舞う作品。胡蝶蘭も。いたるところにヒマワリの花が。新作の水槽作品「障子リウム」。戸枠の一部がガラスになっている障子“雪見障子”をモチーフにした水槽で金魚が舞い泳ぎ、日本庭園を思わせる美しい景色を楽しむことができるのであった。和の家屋から庭園の季節の移り変わりを眺める雪見障子をモチーフにした作品。京都・大徳寺、塔頭孤篷庵の茶室「忘筌席」にある、下吹き抜け障子に着想を得ている と。障子の下で泳ぐ金魚の奥には雪が降り積もる日本庭園。静と動が共存していて不可思議であり心に染みる風景。「お面蒐集」。狂言や祭りなどで欠かせないお面。鬼、翁、能面、狐など、独自に蒐集された歴史あるお面の数々が壁一面に飾られています。規律よく並んだお面は、生々しくて迫力があり、心の中を」見透かされているよう……。金魚はいませんが、匠の技に触れる必見の場。表情豊かな面を追う。英語版「ART AQUARIUM WORLD GINZA」案内ディスプレイ。「新行燈リウム日本の伝統的な照明器具である行燈をモチーフにした作品。火袋には魔除けの意味合いを持っ麻の葉模様をあしらっています。揺らめく炎のように光の中を泳ぐ金魚たちが道行をいざないます。」中央に「アートアクアリウム美術館 GINZA」のシンボルマークが。「天空リウム」今回の目玉であり、アートアクアリウムの新しい象徴となる大作で、天空に咲き誇る空想の花をイメージした作品であると。アートアクアリウムの新しい象徴となる大作。圧倒的スケールのなかを優雅に泳ぐ金魚の姿を見ることが出来たのであった。さらに、天空リウムには新たなオリジナルアロマを調合。作品の世界観を香りで演出していた。爽やかさの中に神秘的な色香を漂わせ、幻想的で優美なアートアクアリウムの世界を表現。刻々と色合いも変化して。「手毬リウム」日本の伝統的な遊具である手毬を水槽で表現した作品。多彩な糸で織られた紋様と、その合間から金魚たちの優美な姿を覗くことができます。十八の手毬が躍るように壁一面を飾る空間を演出しています。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.08.22
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「オリガミリウム」折り紙に着想を得て作り上げられたという作品。背景を飾るのもまた、折り紙で折られた金魚たち。金魚がチラチラとまるで紙吹雪の様に。沢山の金魚たちが泳ぐ、ひときわ大きな金魚鉢。日本の美しき伝統「折り紙」に着想を得て、作り上げた新作と。五角形と六角形で出来たサッカーボールの如き球体の水槽。千羽鶴ならぬ千羽金魚!!「提灯リウム」「提灯リウム」から奥の「金魚の竹林」をのぞむ。提灯に見立てた球体の水槽作品が小道のように並ぶ約10mの空間。季節に合わせて空間を演出してきたという作品エリアだが、この夏は風鈴が連なり涼やかな音色とともに楽しめる空間であった。見上げると、風鈴が連なり涼やかな音色が。風鈴をズームして。屋根付きの燈籠のごとし。竹に囲まれて。日本の昔ながらの照明である「祭り灯籠」をモチーフにした作品。球体が拡大レンズの働きもして、金魚が大きく見えた。静かな空間に連なる提灯は、祭りの後の参道を思わせるのであった。赤のビーズがイクラのごとし。「金魚の竹林」。ぐるりと立ち並ぶ、水と光の泡の柱の中に、無数の金魚たちが乱舞していた。まるで竹林の中にいるような静寂さと、優雅に泳ぐ金魚の美しさが相まった特別な空間が、光に包まれているのであった。竹に見立てられた水槽にはかぐや姫の様に輝く無数の金魚達が泳いでいた。花火の映像も。線香花火か?各作品の案内板が並んでいた。「お面蒐集神代から歴史に登場するお面は、祭祀をはじめ様々な目的で使われてきました。お面は伝統工芸品として世界でも蒐集対象となっています。当館が時間をかけて独自に蒐集した歴史あるお面の数々を飾っています。」「銀座万燈籠幽玄な灯りに包まれた静寂の空間。奈良・春日大社の万灯籠を思わせる、幾重にも連なる吊り灯籠は、当館が独自に蒐集した歴史あるものです。」「金魚の回廊立ち並ぶ金魚の列柱に足を踏み入れると、そこには無限の空間が広がっています。和柄で装飾された台の上からのぞき込むと、下方向への空間的広がりも見ることができます。寺社建築に見られる回廊を表現した空間型の作品です。」「金魚蒐集ふだんなかなか目にすることのない珍しい品種を中心に、種類ごとにアートギャラリーのように展示をしています。ライティングの演出とともに、金魚を様々な角度から見られるようにしています。」「金魚の滝淡い光の中、波打ちながら重層的に連なる水の壁。静かに流れ落ちる水は、まさに金魚の滝。流れ落ちる水の裏側に回ると、舞い泳ぐ金魚を目の前に見ることができます。」「新金魚品評背の低い四角形の水槽の中を、優雅にゆったりと泳ぐ金魚。水面まで顔をのぞかせた金魚を、上から眺めて鑑賞する作品です。側面の装飾にはお着物の帯を用いています。金魚の無限の可能性を感じ取れる、永遠の世界が広がっています。」「オリガミリウム沢山の金魚たちが泳ぐ、ひときわ大きな金魚鉢。日本の美しき伝統「折り紙」に着想を得て、作り上げた新作です。背景を飾るのもまた、折り紙で折られた金魚たちです。」「提灯リウム日本の昔ながらの照明である「祭り灯籠」をモチーフにした作品です。球体が拡大レンズの働きもして、金魚が大きく見えます。静かな空間に連なる提灯は、祭りの後の参道を思わせます。」「金魚の竹林ぐるりと立ち並ぶ、水と光の泡の柱の中に数の金魚たちが乱舞しています。まるで竹林の中にいるような静寂さと、優雅に泳ぐ金魚の美しさが相まった特別な空間が、光に包まれています。」「フラワーリウムアートアクアリウム初の試みとして華道家・假屋崎省吾氏とのコラボレーション企画が生み出されました。世界に誇る日本の芸術、金魚といけばな。重ね合わせることにより、華やかさが一層引き立っています。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.08.21
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昨日、我がブログは、楽天ブログジャンル「旅行・海外情報」において、久しぶり、そして束の間の1位を頂きました。ありがとうございます。これからも毎日の出来事を『つれづれなるままに、日くらしパソコンにむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ』 の精神で、あくまでも「備忘録」そして体験内容の復習を主眼として、「継続は力なり」の精神でこのブログを書き続けて行きたいと思っています。文章(キャプション)の表現力も乏しく、誤変換や、内容が理解しにくい表現箇所も多々あると思いますが、我が儘にも。あまり「読んで頂く」事を意識せず、あくまでも『自分を表現するツール』、『自分の学びのツール』とし、日々のこのブログを書き続けて行きたいと思っているのです。本日の我がブログへのアクセスありがとうございます。今後ともよろしくおねがいいたします。----------------------------------------------------------------------------------------------------「金魚の飾り棚」日本の伝統工芸である江戸切子と、その器の中で泳ぐ金魚、真ん中には日本の伝統文化である盆栽が飾られていた。器の魅せ方が素晴らしくて、外国からの観光客の人達が感嘆の声を上げて長い間見ていた。「江戸切子とは、江戸時代後期から伝承される、切子加工が施されたガラス製品の総称です。職人の技巧により一つずつ生み出されそれぞれの美しさが光る江戸切子は、伝統工芸品として認定されています。」「当館で並ぶ江戸切子は根本幸昇氏の作品です。幸昇氏の鋭くも妖艶なカットにより繊細な美しさが表現されます。この美しい江戸切子の中を金魚が泳ぎ、日本の伝統文化である盆栽と並べて金魚の飾り棚として展示します」次に訪ねたのが「金魚の滝」。山間の滝は水が流れ、涼やかな緑が生い茂り、夏の自然を感じさせます。青紅葉に囲まれた滝の中を泳ぐ多彩な金魚たちと、実際に水が流れるせせらぎの音とともに夏の幻想景色を楽しむことが出来る展示。「落花流水」「静かな滝をイメージして作られた新しい空間型作品「金魚の滝」が出現。滝の間に設けられた通路を歩きながら、金魚を眺めることができる。」と。「金魚の石灯籠」「神社仏閣に灯りをともす石灯籠をアレンジした作品。日本を代表する石材「御影石」を用いている。灯籠の火袋部分が水槽となり、そのなかを泳ぐ金魚はまるで灯火のようにゆらめきくのであった。」再び「金魚の滝」。滝をイメージして作られている「金魚の滝」。近づくと、アクアリウム水槽の周りには滝のように水が流れていて涼しげ。こちらも時間によって色が変化するので、さまざまな角度から金魚を鑑賞したのであった。次にあったのが「新金魚品評」金魚を上から鑑賞する作品。国内認定品種34種類をはじめとした珍しい金魚が泳ぐ水槽の中を、蓮の花が彩ります。日本をはじめアジアで古来から親しまれている蓮の花には「清浄・純粋な心」の意味が込められており、その爽やかな色合いは、夏らしい景色を表現します。背の低い四角形の水槽の中を、優雅にゆったりと泳ぐ金魚。水面まで顔をのぞかせた金魚を、上から眺めて鑑賞する作品です。側面の装飾にはお着物の帯を用いています。金魚の無限の可能性を感じ取れる、永遠の世界が広がっています。「頂点眼(ちょうてんがん)」。「頂天眼」は飛び出した目が上を向いている奇妙な風貌の金魚。ズームして。中国産の金魚で、アカデメキンの突然変異から生まれ、眼が頭の頂上にあり、天上を向いている。「東錦」。ズームして。昭和18年、横浜の金魚商・加藤金蔵氏がオランダ獅子頭と三色出目金を交配し、作出。その後、東京の金魚商・高橋鉄次郎氏が土地柄(関東地方)にちなんで「東錦」と命名した。「秋錦」。「ショートテール琉金」。「ピンポンパール」。「地金」。「珍珠鱗」。「水泡眼」。「桜琉金」。「らんちゅう」。「土佐錦」。「蝶尾」。「桜オーロラ」。「桜錦」。「竜眼」。「大阪らんちゅう」。「バルーンオランダ」。「江戸錦」。「東海錦」。「ブリストル朱文金」。「ミューズ」。「丹頂」。「江戸茜」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.08.20
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「歌舞伎座」横の「三原橋」交差点から、目的地の「銀座三越」方向を見る。途中の歩道脇「三原橋街角広場」にはミスト発生装置が稼働中。都心ではバス停やベンチのあるところにはミストシャワーが完備されつつある。オリパラのために設置されたようだが、暑いときにミストは気持ち良さ抜群。ベンチにずっと座っていたくなったが、ミストを浴びながらゆっくりと歩く。その先の植栽の中にある「ミスト装置制御盤」を発見。そして「銀座三越」に到着。壁には「銀座シャンデリア」👈リンク。「世界中のあらゆる文化を受け入れ、あらたな輝きを生みだしてきた街、銀座。これからもずっと夢とあこがれに満ち、幸福な思い出が紡がれる舞台でありたい。そんな願いをこめて銀座四丁目交差点に誕生したのが光のファサード「銀座シャンデリア」です。それは銀座に集う人びとの物語がはじまるエントランス。出会いをまばゆく照らし、記憶にやさしく灯る。銀座の今日を彩るあたらしい街のシンボルです。」と。東京都中央区銀座4丁目6−16。銀座の中心で行きかう人々を見守りながら、時代の流れに先立って進化を続ける銀座三越。1930(昭和5)年開店の日本を代表する老舗百貨店。1673(延宝元)年に江戸本町(現在の日本銀行所在地辺り)で呉服店「越後屋」として開業し、1904(明治37)年に日本初の「デパートメントストア宣言」を発した、およそ350年の歴史がある「三越」。1914(大正3)年には、ルネッサンス様式による鉄筋地上5階地下1階建の日本橋三越本店新館が完成。今では三越全店のシンボルでもある英国製の2頭のライオン像や日本初といわれるエスカレーターが設置された。地上6階、地下1階の銀座店が誕生したのは1930(昭和5)年。日本橋三越本店の1/2サイズの日本製のライオン像は1972(昭和47)年に正面玄関に登場。銀座三越は銀座の地域貢献を推進しており、お店の象徴でもあるライオン像がときには火災予防運動に合わせて消防士姿などに衣替えすることあるとか。1950(昭和25)年、猪熊弦一郎画伯によってデザインされ、以来半世紀以上も親しまれているのが包装紙「華ひらく」。英字ロゴ“Mitsukoshi”は、当時宣伝部に在籍していた後の漫画家のやなせたかし氏によるものだと。1950(昭和25)年、猪熊弦一郎画伯によってデザインされ、以来半世紀以上も親しまれているのが包装紙「華ひらく」。日本製のライオン像は1972(昭和47)年に正面玄関に。日本橋三越本店の1/2サイズであると。店内入り、案内の方のガイドで新館エレベーターにて9階まで進み、エスカレーターを一階下り「アートアクアリウム美術館 GINZA」に到着。事前にネットで購入したWEBチケットを見せ、入場。アートアクアリウム美術館 GINZA(所在地/銀座三越)では、6月30日(金)から9月26日(火)まで特別企画「夏のアートアクアリウム展2023~銀座の金魚~」を開催中。館内最大級の作品「天空リウム」を含む新作水槽5作品を公開!合計19の作品エリア、約150基の様々な水槽が華々しく並び、約5000匹の金魚が泳ぐ、スケールアップした幻想的なアート空間が広がっていたのであった。生い茂る緑に囲まれる空間や風鈴の音色など、夏を連想させる演出の中で金魚が優雅に泳ぐ涼やかな空間を大いに楽しむことが出来たのであった。会場は7つのエリアで構成されており、各エリアにコンセプトを設け、それぞれのテーマに合わせてアート作品を設置しているとのこと。「静寂閑雅」「アートアクアリウムの入り口となるエリア。古都・奈良をイメージし、春日大社に代表する万燈籠を表現した「銀座万灯籠」や、寺社建築に見られる回廊から着想を得た新作「金魚の回廊」を目にすることができる。」と。最初に「銀座万燈籠」が迎えてくれた。釣り下げられた燈籠が目の前に入ってくるとその美しさに魅了されたのであった。様々なデザインの燈籠をカメラで追う。奈良・春日大社の万灯籠を思わせるたくさんの灯籠がオレンジの妖艶な光を放っていた。よく見ると1つ1つ形が違い、灯り窓のデザインもそれぞれ個性的。金魚の姿も。これぞ和の世界。そして次に「金魚の回廊立ち並ぶ金魚の列柱に足を踏み入れると、そこには無限の空間が広がっています。和柄で装飾された台の上からのぞき込むと、下方向への空間的広がりも見ることができます。寺社建築に見られる回廊を表現した空間型の作品です。」。色が刻々と変わる金魚の列柱。和柄で装飾された台の上からのぞき込むと、下方向への空間的広がりも見ることができた。無数の金魚が舞い泳ぎ光り輝く水柱で回廊を表現。左右にも無限に広がる没入空間も次々に色彩が変化して。色柄や模様の美しさを堪能するなら、横見がおすすめ。1匹1匹異なる美しさを存分に感じ取ることができるのだ。悠々と泳ぐ「生きた芸術」の姿をしばし楽しんだのであった。「金魚蒐集」では、普段目にすることのない珍しい品種を中心に、さまざまな照明効果で金魚を球形水槽で展示していた。「飛耳長目」「おなじみの金魚コレクション「金魚蒐集」を展示するエリア。光の演出を刷新している。」と。“水族館らしい”一面を楽しむことができたのであった。新しい金魚の名前も表示されていたがいずれの写真も残念ながらピンボケ。「キラキラ出目金」か?「花房」。以下、名前も撮影したがピントが全くあっていなかったので・・・。光の演出をリニューアルしたこちらでは、連なる円形のアクアリウムからこぼれる鮮やかな光と金魚の共演に思わずうっとりできること間違いなし。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.08.19
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この日は7月28日(金)、五反田に用事があるために向かうが、テレビで銀座三越で「アートアクアリウム美術館 GINZA」が開催されているとのことで立ち寄る事とする。小田急線、千代田線、東京メトロの日比谷線を乗り継ぎこの日も「東銀座駅」で下車。地下2階 木挽町(こびきちょう)広場に立ち寄る。多くの土産物屋が所狭しと。正面に「歌舞伎座」と書かれた提灯、そして手前には歌舞伎座の座紋「鳳凰丸(ほうおうまる)」が描かれた提灯が対で並んでいた。「歌舞伎座」と書かれた提灯に近づいて。歌舞伎座の座紋「鳳凰丸(ほうおうまる)」が描かれた提灯にも近づいて。「鳳凰丸」は歌舞伎座の創設者の一人、福地桜痴が、新築した自宅の釘かくしに用いたこの紋をいたく気に入り歌舞伎座の紋に採用したのだと。「鳳凰丸」の原形となったのは法隆寺の宝物「鳳凰円文螺鈿唐櫃(ほうおうえんもんらでんからひつ)」に使われた紋様とのこと。私も大好きな「天野屋の歌舞伎揚」の店。「歌舞伎座切符売り場」と公演中のポスターが並んでいた。2023年3月15日(金)10:00より、この歌舞伎座切符売場がオープンした。この歌舞伎座切符売場は、東銀座駅と直結したGINZA KABUKIZA(歌舞伎座)の地下2階、「木挽町広場」の一角にあった。「歌舞伎座切符売場」と書かれた大きな看板が目印。「七月大歌舞伎 時間表」。昼の部 通し狂言 菊宴月白浪(きくのえんつきのしらなみ) 忠臣蔵後日譚 市川中車 両宙乗り相勤め申し候 序幕 甘縄禅覚寺の場より 大詰 専蔵寺大屋根の場まで 斧定九郎 中車 ※ 金笄のおかる 壱太郎 塩谷縫之助 種之助 腰元浮橋 男寅 角兵衛獅子猪之松 竹松 毛利小源太 中村福之助 丁稚伊吾 玉太郎 下部与五郎 歌之助 高野師泰 青虎 山名次郎左衛門 由次郎 世話人寿作 寿猿 一文字屋お六 笑三郎 加古川 笑也 仏権兵衛 猿弥 斧九郎兵衛 浅野和之 石堂数馬之助 門之助※市川猿之助休演につき、配役変更にて上演いたします夜の部一、神霊矢口渡(しんれいやぐちのわたし) 福内鬼外 作 娘お舟 児太郎 新田義峯 九團次 傾城うてな 廣松 渡し守頓兵衛 男女蔵二、神明恵和合取組(かみのめぐみわごうのとりくみ) め組の喧嘩 竹柴其水 作 め組辰五郎 團十郎 女房お仲 雀右衛門 江戸座喜太郎 権十郎 四ツ車大八 右團次 九竜山浪右衛門 男女蔵 背高の竹 歌昇 おもちゃの文次 種之助 山門の仙太 新之助 島崎楼抱おさき/三ツ星半次 廣松 伊皿子の安三 竹松 芝浦の銀蔵 男寅 御成門の鶴吉 玉太郎 左利の芳松 橘太郎 田毎川浪蔵 市村光 柴井町藤松 九團次 露月町亀右衛門 市蔵 三池八右衛門 齊入 葉山九郎次 家橘 喜三郎女房おいの 萬次郎 焚出し喜三郎 又五郎 尾花屋女房おくら 魁春三、新歌舞伎十八番の内 鎌倉八幡宮静の法楽舞(かまくらはちまんぐうしずかのほうらくまい) 九世市川團十郎歿後百二十年 松岡 亮 作 静御前 團十郎 源義経 〃 老女 〃 白蔵主 〃 油坊主 〃 三途川の船頭 〃 化生 〃 三ツ目/町娘/五郎姉二宮姫 ぼたん 提灯/若船頭/竹抜五郎 新之助 僧普聞坊 廣松 僧寿量坊 男寅 僧隋喜坊 玉太郎 蛇骨婆 九團次 姑獲鳥 児太郎 僧方便坊 種之助「歌舞伎座7月公演」「め組の喧嘩」 市川團十郎。「歌舞伎座7月公演」七月大歌舞伎 菊宴月白浪 神霊矢口渡 神明恵和合取組 め組の喧嘩 鎌倉八幡宮静の法楽舞「歌舞伎座7月公演」鎌倉八幡宮静の法楽舞市川團十郎、ぼたん、新之助「歌舞伎座8月公演」第一部 一、裸道中(はだかどうちゅう) 二、大江山酒呑童子(おおえやましゅてんどうじ)第二部 一、新門辰五郎(しんもんたつごろう) 二、団子売(だんごうり)第三部 新・水滸伝(しん・すいこでん)新登場「江戸の粋と伝統」コーナーが前方に。」日本橋「伊場仙」のお勧めは、紳士・婦人扇子の30%割引販売。創業・天正18年(西暦1590年)400年の歴史を持つ「伊場仙」は、日本橋に本店を構える扇子とうちわの店。その歴史は長く、かつては徳川家康公とともに江戸にのぼった浜松の商人・伊場屋勘左衛門によって創業されたのだと。和菓子屋「むら里」「隈取」の描かれた容器には各種の半生キャラメルが入っていると。朝顔も美しく。近づいて。歌舞伎座土産。そしてエスカレータで地上に。「歌舞伎稲荷大明神」。東銀座のランドマークのひとつである歌舞伎座の一角にあった。地下鉄・東銀座駅から、歌舞伎座正面玄関につながるエスカレーターを上がると、目の前にあらわれる「歌舞伎稲荷神社」。歌舞伎座の荘厳な白に、鳥居の鮮やかな朱が映え、美しい風格に魅了されるのであった。扁額「歌舞伎稲荷大明神」。社殿に近づいて。社殿。歌舞伎座が新たな姿として2013年に竣工される以前は、劇場の敷地内に設けられていた。そのため、歌舞伎座の関係者や観劇者のみしか参拝できなかったのだが、歌舞伎座の建替えを経て今の場所に遷座され、現在は誰もが参拝できる神社となっていると。稲荷神社は全国に3万社以上もあるといわれています。“稲荷大神"または“稲荷神"を主祭神として祀っており、「商売繁盛」「家内安全」「縁結び」など、様々なご利益がある神様として信仰を集めていると。歌舞伎俳優も参拝に訪れるのであろうか?1階にあった「お土産処 木挽町」も覗いて見た」。「源義経 中村福助」、「武蔵坊辨慶 市川團十郎」と。様々な歌舞伎関連の文様の布地が額装されて販売されていた。「歌舞伎座オリジナル手拭」。プロマイドであろうか。五代目 坂東玉三郎。時代物から新歌舞伎まであらゆる分野の女形の技法に精通し、特に世話物や舞踊作品で定評がある女形歌舞伎役者。そして外に出て「歌舞伎座」を見上げる。「七月歌舞伎」のポスターがここにも。「歌舞伎座新開場十周年 七月大歌舞伎」「菊宴月白浪」案内。「歌舞伎座」の唐破風を見上げて。正面から。「歌舞伎座」は昭和20年の東京大空襲でその大部分が焼失、その後の復興工事を経て現在の姿に至る。その改修工事によってもたされた風貌の相違点として第一に挙げられるのが、「破風」と呼ばれる屋根の切妻にある合掌形の装飾板の部分です。(※ 改修時に「破風」が3つから2つに減る)もともとは板張りや漆喰で内部を保護する構造的な目的で考えられた「破風」だが、歴史的に振り返ると戦国時代の城づくりでは、独自にデザイン的な進化を遂げ、「切妻破風」・「反り破風」・「唐破風」・「千鳥破風」など、様々なバリエーションを競うことになった。さらに江戸時代に入ると、地方によっては民家における破風飾りや破風そのものを禁 じたりしたようだ。おそらく町民層の経済的な台頭を恐れた武士階級のメンツが込められていたのであろう。大正時代の和風建築の傑作と賞賛される「旧歌舞伎座」、その生みの親、建築家の「岡田信一郎」。一方、戦後、和風建築のトップランナーとして建築界をリードし、戦後直後の混乱期に全精力を傾けて「歌舞伎座」の修復を手がけた「吉田五十八」。この二人の天才設計者の存在により、歌舞伎座の「破風」は引き継がれているのだ と。唐破風にも歌舞伎座の座紋「鳳凰丸(ほうおうまる)」が。一部の飾り金物や飾り瓦の鳳凰丸には、首に愛くるしい鈴が結ばれているのであった。誰が言ったか、言わずか、「鈴なりのお客様のご来場」というふうにも解釈できるのだと。交差点側から見上げて。左側の掲示板にも「七月歌舞伎」の演目案内が。夜の部一、 神霊矢口渡夜の部 ニ、神明恵和合取組 め組の喧嘩 夜の部三、 鎌倉八幡宮静の法楽舞昼の部(午前11時開園)【菊宴月白波】忍術! 大凧の宙乗り!スペクタクルな展開で描く忠臣蔵の後日譚塩谷の浪士が高野師直を討って一年余。主君の敵討ちを果たした四十七士は義士として讃えられるなか、塩谷の家老斧九郎兵衛の息子、斧定九郎は、敵討ちに加わらず不義士の汚名を着せられた父に代わり、せめて自分は亡君への申し訳を立てたい忠義の心を持っています。そんなある日、塩谷判官の弟縫之助には塩谷家の家宝・花筺の短刀を、高野の養子島五郎には高野家のの家宝・菅家の正筆を献上すればお家再興が叶うとの沙汰が。しかし、縫之助が差し出した花筐の短刀は偽物。定九郎は申し訳に切腹しようとする縫之助の身代わりを買って出ます。いざ切腹、と思われたその時、定九郎は・・・盗まれた家宝を奪い返すため、定九郎は父九郎兵衛から斧家に伝わる忍術秘法を記した秘書こふさきの忍びの一巻を授かります。忍術を手に入れた定九郎は、"暁星五郎”と名乗り、仲間と共にお家再興に立ち上がります定九郎の妻加古川、かって塩谷に奉公していた過去を持っ女伊達・金笄のおかる、縫之助の子を宿す芸者浮橋、浮橋の義理の兄仏権兵衛・・・。お家再興を巡り、それぞれの想いが入り乱れ、花筺の短刀、菅家の正筆は様々な人々の手を渡っていきます。果してお家再興は叶うのか・・・。歌舞伎の三大名作狂言の一つ『仮名手本忠臣蔵』。本作はそんな赤穂浪士の討入り事件を描く「忠臣蔵」の世界を題材に書き下ろされ、「忠臣蔵」では悪役として描かれる斧定九郎がお家再興を目指す忠義者として登場します。原作の設定を巧みに用い名場面の数々を彷彿とさせる構成で、鶴屋南北により独創性豊かに描かれた物語は評判となり大当り。昭和五十九年には初演以来実に百六十三年ぶりに三代目猿之助(現・猿翁)により復活された後、「三代猿之助四十八撰」の一つにも選ばれました。花道上を大凧に乗って飛び去ったかと思うと、たちまち反対側から本舞台へ向かって舞い降りる劇場空間をいつぱいに使った両宙乗りや、大屋根の立廻り、花火など、スペクタクルで波瀾万丈な物語が息をつく間もなく展開されていきます。三十二年ぶり、待望の上演にどうそご期待ください。夜の部(午後4時開園)【神霊矢ロ渡】純粋な娘か命を懸け、極悪非道な父に立ち向かう渡し守の頓兵衛は、足利と新田の争いで、褒美の金欲しさに新田義興の命を奪った強欲者。ある日、義興の弟義峯が恋人の傾城うてなと一夜の宿を乞いに偶然にも頓兵衛の家を訪れます。頓兵衛の娘のお舟は、気品あふれる義峯にひと目惚れ。一方、義峯の素性を知った頓兵衛は、金目当てにその命を狙い・・・。江戸時代に活躍した才人、平賀源内が「福内鬼外」という筆名で書いた義太夫狂言の傑作。極悪非道な父頓兵衛と愛しい人を命懸けで守ろうとする娘お舟の姿が対照的に描かれる、見せ場に富んだ一幕をお楽しみください【め組の喧嘩】江戸の男たちか火花を散らす、鳶と力士の真剣勝負品川の遊廓。め組の鳶と四ッ車大八らカ士たちは些細なことから喧嘩になり、鳶頭の辰五郎がその場を収めます。しかし数日後、芝居小屋で喧嘩が再熱。一触即発の睨み合いとなるも、江戸座の座元喜太郎に止められます。気持ちが収まらない辰五郎は、密かに仕返しを決意。愛する妻と幼い子供に別れを告げ、争いに決着をつけるため命知らずの鳶たちと芝神明へ向かい・・・「火事と喧嘩は江戸の華」を体現する粋でいなせな江戸風俗をたっぷりと味わえる世話狂言の傑作。大詰での鳶と力士の大立廻りも見せ場のひとつです。江戸っ子の心意気を描いた人気作を上演いたします。【鎌倉八宮静の法楽舞】趣向を凝らした迫力溢れる新歌舞伎十八番夜な夜な物の怪が現れるという鎌倉の荒れ寺に、怪しい風と共に現れたのは一人の老女。以前は都の白拍子であったと語る老女は舞を舞い始めます。やがて老女の姿が見えなくなると、次々と物の怪が集まり・・・。劇聖と謳われた九世團十郎が制定した新歌舞伎十八番の一つ。平成三十年に新たな着想により復活上演された本作を、九世團十郎歿後百ニ十年という節目の年に上演します。河東節、常磐津、清元、竹本、長唄囃子の五重奏など、豊かな音楽性とエンターテイメント性溢れる目にも耳にも楽しいひと時をご堪能いただきます。 (令和五年七月)「晴海通り」越しに四代目「歌舞伎座」を見る。こちらが先代・三代目の「歌舞伎座」、ネットから。三代目の歌舞伎座は、建設途中関東大震災に被災しつつも、大正13年12月新築落成した。破風大屋根三棟と、ひときわ際立つ大きな唐破風の正面玄関、その先端で東西に羽根を広げた魔除けの鳳凰像が何とも凛々しく印象的。奈良朝の典雅壮麗に桃山時代の豪宕絢爛(ごうとうけんらん)の様式を併せもつ耐震耐火の鉄骨鉄筋コンクリート造り、さらに、照明設備はアメリカとドイツから取り寄せ、内外とも日本一を誇る大劇場でしたが、惜しいことに昭和20年5月の東京大空襲で焼失した。現在の四代目「歌舞伎座」を振り返る。 ・・・つづく・・・
2023.08.18
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この日の講義会場に入ると、すでに多くの受講者が着席していた。そして30名ほどの受講者の約半数は、中学校、高等学校の歴史関連の先生であることを後に知ったのであった。この講義受講が先生の研修の一環になっているようであった。講義の先生は下記「大庭御厨に生きる人々」等の著者の伊藤一美氏。1948年、東京都生まれ。学習院大学大学院博士課程中途退学。現在、逗子市・藤沢市・葉山町文化財保護委員、NPO法人鎌倉考古学研究所理事、日本獣医史学会理事、日本城郭史学会理事などを務める と。そして約2時間の講義のスタート。題目は「大庭御厨(おおばみくりや)の歴史的意義・・「鵠沼」地域は、中世日本史の出発点!・・」大庭御厨は、相模国高座郡の南部(現在の茅ヶ崎市、藤沢市)にあった、寄進型荘園の一つ。鎌倉時代末期には13の郷が存在した相模国最大の御厨(伊勢神宮領)である。大庭御厨は鎌倉景正(景政)によって開発された。伊勢神宮に寄進されたが、源義朝の乱入を防ぐことは出来なかった。大庭氏は保元の乱以降、源氏の配下となった。大庭氏は和田合戦で滅亡したが、大庭御厨は三浦氏や北条得宗家の所領として存続した。大庭御厨は典型的な寄進型荘園である。在地領主層が脆弱な地位を守るために寄進を行った事、寄進による保護にも限界があり、鎌倉幕府の成立へとつながって行った事の例示としてよく取り上げられる。大庭御厨は長治元年(1104年)頃、鎌倉景正が大庭郷を中心に山野未開地を開発したものである。伊勢恒吉の斡旋で永久5年(1117年)伊勢神宮に寄進した。鎌倉景正は後三年の役(1083年 - 1087年)の勇者として有名である。「(推定)大庭御厨範囲」図。大庭御厨の境界は、東は俣野川(藤沢市の境川)、西は神郷(寒川)、南は海、北は大牧崎だった。伊勢神宮の記録「天養記」によると、大庭御厨の範囲は、東は俣野川(境川)・西は神郷(寒川神社の社領)・南は海・北は大牧崎とあります。大牧崎はこれまでの研究で亀井神社南側一帯を指すと考えられています。大庭御厨は中世の藤沢の重要な土地の一つであった と。すなわち、藤沢市南半部から茅ヶ崎市全域に及んでいた。小糸・台谷などの神明社は伊勢神宮の所領経営の拠点だったと考えられているとのこと。田地の面積は、久安元年(1145年)で95町、鎌倉時代末期には150町に達した。1町≒3,000坪≒10,000m2。大庭郷の成立は、9世紀以前と思われる。「大庭」「庭」も祭司の場を意味すると言う。現在も藤沢市に大庭の地名が残る。御厨は天皇家や伊勢神宮、下鴨神社の領地を意味する。まず大庭御厨と伊勢神宮の関係についての説明があった。大庭御厨は伊勢神宮(内宮)の荘園。御厨(みくりや)というのは天皇家・伊勢神宮・上下賀茂社や摂関家などに、お供え物や食料として魚介類その他諸々を貢物として奉るための所領。つまり、大庭御厨は伊勢神宮(内宮)へその貢物を奉っていたということになる と。伊勢神宮(内宮)は大庭御厨から貢納物を徴収するためにどのようにしていたか、下図に。まず、大庭御厨には下司(げし)と呼ばれる実際に耕作したり漁をする人々に指示したり、それを監督したりする人がいた。この下司と呼ばれる人はそもそもこの荘園を開発した人がなることが多く、いわゆる開発領主という人が務めたのだと。大庭御厨の場合、これを開発したのは鎌倉景政(かまくらかげまさ)であり、この大庭御厨の事件が起こった頃は景政の子孫である大庭景宗(おおばかげむね:景親の父親)が下司を務めていた。そして、大庭御厨にはもう一人、給主(きゅうしゅ)と呼ばれる御厨を運営する人物がいた。それが伊勢神宮から派遣されてきた荒木田彦松(あらきだひこまつ)という人。給主というのは上級領主(この場合は伊勢神宮)に貢納物を送ったり、連絡をしたり、上級領主からの指示を聞く役割も果たした。この彦松は先ほどの下司よりも立場は上。大庭景宗が現場監督だとすると、彦松は事業所の所長のようなもの。また、彼は神職でもあり、大庭御厨内の鵠沼郷(くげぬまごう)にあった伊介神社(いすけじんじゃ:鵠沼皇太神宮の前身)の祝(ほうり:神職の名称の一つ)も務めていた。続いて、伊勢神宮の方はというと、伊勢神宮のトップは祭主(さいしゅ)と呼ばれる人、そしてそれを補佐する役割の大宮司(だいぐうじ)、権大宮司(ごんだいぐうじ)、少宮司(しょうぐうじ)と呼ばれる人たちがいた。この方たちがいわば伊勢神宮の首脳陣であった。大宮司・権大宮司・小宮司は宮司庁(ぐうじちょう)という組織を形作って、下部組織に指令を伝達した。ちなみに、この祭主・大宮司・権大宮司・少宮司は大中臣氏(おおなかとみし)一族が独占していた。そして、その宮司庁の下部組織が禰宜(ねぎ)・権禰宜(ごんねぎ)と呼ばれる人たちで構成される大神宮庁(だいじんぐうちょう)。禰宜・権禰宜は内宮(天照大神〔あまてらすおおみかみ〕を祀る皇太神宮)と外宮(豊受大御神〔とようけのおおみかみ〕を祀る豊受大神宮)にそれぞれ別れ、内宮の禰宜・権禰宜は荒木田(あらきだ)氏が、外宮の禰宜・権禰宜は度会(わたらい)氏が務めてきた。禰宜・権禰宜の定員は時代によって変わるが、この頃は内宮・外宮ともに禰宜が6人ずつ、権禰宜は内宮が34人、外宮に28人いたと。なお、禰宜・権禰宜は全国各地に散らばる御厨などの運営を担っていた。つまり、大庭御厨の荒木田彦松は、この大神宮庁(内宮)に属する人物だったと言えるのだと。「大庭御厨の支配機構」御厨として寄進すると税金がかからなくなったのだと。次に土地をうばったり、むりやりタダ働きをしろという国府の役人の命令を聞く必要もなくなった。また、領地争いもぐっと減ったと。ですから、この時代の豪族(ごうぞく=広い土地を支配する大農民=武士)はこぞって自分の土地を力のある貴族や寺や神社に寄進した.厨(くりや)とは調理場のこと。御厨は神様の食べるものを作る場所という意味が込められている。ですから収穫された米の何パーセントかは、特産品とともに名目上の持ち主に届けられた。大庭の御厨の場合は伊勢神宮(いせじんぐう=三重県)に送っていたのだ。つまり大庭氏は伊勢神宮に収穫されたものを送る見返りに、領地をまもってもらっていたというわけ。図にすると下記のごとくに。「源義朝とは源氏の家系図であるが、源義朝は源頼朝、源義経の実父。保安4年(1123年)、源為義の長男として生まれる。母は白河院の近臣である淡路守・藤原忠清の娘。乳母は摩々局。義朝は少年期に都から東国(関東地方)へ下向し、父・為義が伝領していた安房国朝夷郡丸御厨へ移住した。その後は上総国に移って当地の有力豪族であった上総氏の後見を受け、「上総御曹司」と呼ばれた。丸氏・安西氏や坂東平氏の一部(三浦氏・上総氏・千葉氏など)からも連携して庇護された。東国で成長した義朝は、南関東に勢力を伸ばし、東国の主要武士団を統率して河内源氏の主要基盤となるに至った。三浦義明・大庭景義ら在地の大豪族を傘下に収めた。相馬御厨・大庭御厨などの支配権をめぐって在地豪族間の争いにも介入した。「源義朝」画像をネットから。「源義朝の大庭御厨濫行」天養元年(1144年)9月、源義朝の大庭御厨濫行事件が起きる。源義朝は相模国衙の田所目代(税務の代官)源頼清と組んで、「大庭御厨内の鵠沼(くげぬま)郷は鎌倉郡に属する公領である」と主張し、在庁官人とともに御厨に侵攻して濫妨(暴行・略奪)を行い、神人に重傷を負わせた。伊勢神宮は直ちに政府に提訴する。しかし、その最中に源義朝は、源頼清や在庁官人の三浦義継・中村宗平など「千余騎」によって大庭御厨に再侵攻し、御厨の停廃を宣言して大規模な収奪を行った。下司である大庭景宗は伊勢神宮を通じ太政官に訴え、伊勢神宮は、まず義朝の処罰を相模国司に要求するが、国司は「義朝濫行のことにおいては国司の進止にあたはず」と返答する有様だった。上記の「源義朝の大庭御厨濫行」について詳細に書かれている文書が『天養記(官宣旨案)』。『天養記(官宣旨案)』は2通残っており、ひとつは天養2年2月3日、もうひとつは3月4日。共に漢文全文と、その口語訳が『鎌倉市史・総説編』(高柳光寿著)に載っている。漢文はつらいのでその後者をカナ混じり文にして下さったこちらを参考にあげておきます。主要登場人物は強調の為に太字に。【天養記(官宣旨案)左弁官下す 伊勢大神宮司且つは度々の宣旨に任せ、その妨げを停止し、供祭物を備進し、且つは国司子細を弁え申し、相模国田所目代源義朝並びに同じく義朝郎従散位清原安行、恣に謀計を巧らみ、大庭御厨高座郡内鵠沼郷を以て、俄に鎌倉郡内と号し、供祭料の稲米を運び取り、旁々 濫行を致すに応ずる事右、祭主神祇大副大中臣清親卿の去る月十二日の解状を得て称く、大神宮禰宜等の同月日の解状をに称く、伊勢恒吉の今月七日の解状に称く、謹んで案内を検ずるに、当御厨は本より荒野の地なり。誠に田畠無きの由国判に見ゆるなり。而るに彼の国の住人故平景正(鎌倉権五郎景正)、国判を相副え大神宮の御領に寄進するの刻に、永く恒吉に附属する所なり。即ち御厨の為に開発せしめ、供祭上分に備え進す。漸く年序を経るの間、在廰官人等の浮言に就いて、国司度々奏聞を経せしむの処に、宣旨、院宣等を本宮に下され、子細を召し問うの後、全く綸旨の停廃無きの上、両代の宰吏に問われ、彼の請文に就いて、殊に奉免の宣旨を下さるるの日、国祇承り散位平高政、同惟家、紀高成、平仲廣、同守景朝臣等地頭に臨み文書に任せ、堺の四至に傍示を打ち、立券を言上す。その四至と云うは、東は玉輪庄堺俣野川、南は海、西は神郷堺、北は大牧埼てへり。その最中高座郡内字鵠沼郷、今俄に鎌倉郡内と称し、事を彼の目代の下知に寄せ、義朝郎従清大夫安行並びに字新籐太及び廰官等、去年九月上旬の比、旁々濫行を致し、伊介神社の祝荒木田彦松の頭を打ち破り、死門に及ばしむ。訪行の神人八人の身を打ち損い、供祭料魚を踏み穢し、郷内の大豆、小豆等を苅り取る所なり。その旨を訴え申すの処に、本宮の解状、祭主の奏状すでにをはんぬ。而る間同十月二十一日、田所目代散位源朝臣頼清並びに在廰官人及び字上総曹司源義朝名代清大夫安行、三浦庄司平吉次、男同吉明(三浦義明のこと)、中村庄司同宗平、和田太郎助弘、所従千餘騎、御厨内に押し入り、是非を論ぜず停廃せしむ所なり。爰に彼等の所帯する宣旨の状を承るの処に、更に御厨に入らざるの事、只指せる官省符新立の庄園に非ず。本庄の外加納の一色別符勘じ入るべきの由なり。また隣国他堺の高家若しくは悪僧等、乱入を停止すべきの状ばかりなり。仍って神宮の御領として尤も大悦なり。しかのみならず、当御厨に於いては奉免の宣旨限り有るの由、披陳すと雖も、敢えて承引無く、神人等敵対に及ばざるの間、同二十二日卯の時より始めて、在廰官人等郷々に押し入り、傍示を抜き取りをはんぬ。また御厨の作田玖拾伍町の頴肆萬七千七百伍拾束を苅る。下司家中の私財雑物悉く以て押し取り、神人紀恒貞、志摩則貞、国元、末永、重国、兼次等を簀に巻き死門に及ばしむ。或いは凌轢せらるる所なり。この外供祭料米農料出挙並びに甲乙輩の私物及び有事縁所宿置熊野僧の供米等百余斗を捌き、負人住人逃げ脱すの間、行方を知らず是非他なり。義朝と頼清と同意を成し、名代を出立するの由、御厨の定使井濱御薗検校散位藤原朝臣重親、下司平景宗(大庭景宗)等言上する所なり。その状に就いて案内を検ずるに、勅免の神領に於いては、縦え国衙より沙汰せしむべきの事有りと雖も、若しくは宣旨を申し下し、若しくは本宮使を相具して、進士せしむるの例なり。爰に当御厨の四至の内字殿原、香川郷、宣旨・代々の国判に背き、国役に充てしむるの事、度々彼の目代頼清朝臣に相触るの次いでに、上件子細の披露すでにをはんぬ。皆返報有って、御厨の事専入宣旨の状に有らざるの上、停廃すべきの由、殊に国の定め無しと云々ばかりなり。高座郡内を以て今俄に鎌倉郡内と称し、濫行を成さしむの條、玄隔たるの事に依って、彼等の所行を省みんが為に、惣所御厨を牢籠せしむか。茲に因って子細を熟察し、沙汰を致さんが為に、先ず国司に経訴するの処に、義朝濫行の事に於いては、国司の進士に能わず。停廃せしめんと擬するの事に於いては、在国を尋ね問い、左右すべきの由、返報せしむるに依って、暫く彼の裁許を相待つと雖も、事を左右に寄せ敢えてその沙汰無きの間、義朝乱行の事宣下せられすでにをはんぬ。然れば停廃の事と雖も、重ねて送達せられざれば、殿原、香川郷のその妨げ絶えざるか。就中国役を御厨田に伐ち充て、御厨田を宮寺の浮免を曳き成し、勘責いよいよ重なるの間、僅所に残る住人また以て逃げ脱すの由、下司重ねて言上するなり。重ねて案内を検ずるに、神宮御領を以て院宮御領と号し押し取らるるの時、本宮より子細を言上するの日、その妨げを停止すべきの旨、宣下せらるるの例、諸国に繁多なり。而るに今勅免の神領を停止し、宮寺の浮免を曳き成すの條、神事の不信不浄の基、何事か斯れに過ぐべきか。また先例を訪うに、職掌人を刃傷し、神人等を殺害し、供祭物を取り穢し、神民の貯えを奪い取るの輩は、贖罪の軽重、或いは法の科罪に任せ、或いは乱行人に解謝を致さしむる所なり。而るに彼等の所為、一つとして尋常ならず。先ず以て他郡を鎌倉郡内と号するの條、誠に矯餝の甚だしきなり。各々證文を召すの日、敢えて遁るる所無きか。しかのみならず、宣旨立券の時、祇承の官人、皆以て見在の輩なり。また庄園の宣旨を以て謀計を巧らみ、御厨を停廃せしむるの條、これ唯神威を蔑爾するのみならず、将に綸言に違背する所なり。然れば則ち義朝の乱行に於いては、宣下の旨に任せ沙汰を致さしむと雖も、猥に傍示を抜き取るに至っては、尤も厳制を加え、向後を懲らしめ、本の如く傍示を立てしめらるべきや。また押し取る所の供祭上分料獲稲見米並びに所司住人の私物等、悉く糺返せらるべきや。これ等の如きの所行、早く糺断せられずんば、神威の凌遅、諸国の狼藉、積習して倍増するものか。宮の廰裁を望み請う。且つは重ねて奏聞を経て、且つは早く牒を留守所に送り、糺行せられば、将に神威の不朽を仰ぎ、綸言の軽からざるを厳とするか。てへれば、解状に就いて覆審を加え、庄園の加納を勘がえ入るべきの由宣旨を以て、限り有る勅免の神領を停廃せしめんと擬すの條、神威を蔑爾するのみならず、すでに綸言を違乘するものか。祭主の裁を望み請う。重ねて奏聞を経て、早く糺行せられてへり。仍って言上件の如く相副え天裁を望み請う。禰宜等の解状に任せ、早く糺行せられば、権大納言源朝臣雅定宣べ、勅を奉りて宣ぶ。度々の宣旨に任せ、その妨げを停止し、供祭物を備進し、兼ねてまた国司をして子細を弁え申さしめば、同じく彼の国に下知既にをはんぬ。宮司宜しく承知すべし。宣に依ってこれを行え。 天養二年三月四日 大史中原朝臣(宗遠花押影)少弁源朝臣(師能花押影)】【大意・・・当日の資料より転記させていただきました。左弁官から伊勢大神宮司に命令を下す。先の宣旨に任せて源義朝の濫行行為を停止させ、また犯人を召し進め、また大神宮の例に任せて、祓い清めて供祭のつとめを行え。相模国大庭御厨神人が訴え申してきたことについては、高座群字鵠沼郡をもって謀計を企んで、いま急に鎌倉郡の中にあるといって妨げを行い、清原安行と字新藤太等は、伊介神社祝荒木田彦松の頭を打ち割り、神人八人の身を半死半生の目にあわせたことである。右のことについて、天養元年九月十日に相模国大庭御厨神人等から伊勢大神宮に訴えがあり、そのことは同年九月二十九日伊勢大神宮禰宜の解状に取り上げられ、さらに伊勢祭主神祇大副大中臣清親卿の同年十月四日解状で朝廷に訴えが出されてきた。御厨神人が言うことには、謹んで自分たちの手控えの参考書類を調べてみると、当御厨は、相模国高座郡にあるものである。四至は、東は玉輪御庄の堺となる俣野川、南は海、西は相模ー之宮のある神郷の堺、北は大牧崎の地域となる。代々の国判が神宮に与えられ、それに基づいて奉免宣旨が下された時、伊勢の本宮使は国衙の庁官等を率いて認定された通りに傍示を打って定め、立券文を作成して朝廷には言上してきた。その後になって源義朝が字鎌倉の楯を伝え得たと称して、関係者をそこに居住させていたが、にわかに高座郡方面を鎌倉郡だと号して俣野川を越え、大庭御厨内鵠沼郷住人たちを煩わしめた。この折りに鎌倉郡と高座郡は全然異なるのだ、と承引できない旨を給主である荒木田彦松が国衙に沙汰を申し入れた以降は特に問題なく過ぎてきた。ところが九月八日、上件安行と庁官らが鵠沼郷に乱入し、供祭料の魚を奪い取っていこうとしたおり、「鵠沼郷は鎌倉郡内であることは庁宣で明白だ。明日、いずれにしても処置する」と彼らは言った。神人等は奇異に思っていた。翌九日に運送用の負駄八疋を遣わしてきて大豆・小豆等を刈り取らせてしまった。荒木田彦松は「この鵠沼郷は鎌倉郡内ではない」そのことは先日に沙汰してある。また勅免神領では、たとえこうした収納を行う時は、宣旨を下して行うか、又は本宮に連絡をとって本宮使とともに庁官は進止を行うのが通例だ。なのに今は庁宣があるといっているが、それは留守所の下知状か、ほんとの庁宣なのだろうか。言うことは信用できない。」と主張したが、勝手に苅り負って帰っていった。神人等はその時何も敵対しなかったけれども、夜中ばかりに多数の軍兵を連れて押し寄せ、再び到来して特に理由もなくて郷内住人を絡め取ってしまった。彦松はこの理由を聞こうとして騒動の現場へ出かけて行ったところ、有無を言わせず頭を打ち損じられてしまった。ちょうど用務で来防していた熊野神人八人も同様に被害にあってしまった。いやしくも当郷は神宮の供祭所として慎み清めた漁物の御贄を悉く汚されてしまった。これは神威を侮蔑するだけではなく、天子の権威をも恐れないものである。頭を打ち損じられた神人のうち荒木田日彦松は万死一生を得たが、彼に尋ねたところ留守所目代の下知によって、上件安行と庁官が組んでこの乱行を行ったということである。以上の御厨神人の訴えた内容から伊勢大神宮禰宜当局が勘案すれば、上件安行や国衙役人らの行為は誠に言語道断である。当御厨内にある字殿原・香川の両郷にも宣旨・国判に背いて国衙目代が国役を充て課そうとすることについて、当御厨のこれまで全て免除されてきた子細は、給主である荒木田彦松がニ度にわたって彼の目代に触れ送ったところ、既に二度とも返報を得ている。ところが留守所下知を出して闘乱をなしたることは不当なことである。鵠沼郷が鎌倉郡ではなく高座郡にあることを知りながら国衙庁官が同意したことは甚だ不忠のことである。以上の大神宮禰宜当局の解状を勘案して、全て伊勢大神宮の神威を犯し辱め、諸国を狼藉すこと、これをなんと言おうか。重大なことは言うまでもない。大神宮禰宜の解状を副えて朝廷に言上することは以上の如くである。朝廷では、上卿の左大臣源有仁からの伝達によれば、「先の宣旨に任せて源義朝の濫行を停止し、一方ではその犯人を召し進め、もう一方では伊勢大神宮の先例に任せて祓い清めて供祭の勤めを行え。ということである。弁官では、以上の伝達内容を踏まえて、右大臣中原宗遠がこの宣旨の起草と発布を行ったので、伊勢大神宮司が宜しく承知して、この決定を施行しなさい。】上記を要約すると源義朝の名代(代理の清原安行(きよはらのやすゆき)と郎党である新藤太(しんとうた)、相模国の在庁官人(国衙の役人)が鵠沼郷に乱入、伊勢神宮へ納める予定の魚を奪い取り、「鵠沼郷が鎌倉郡内であることは庁宣(ちょうせん※)に明らかである。明日また指示を出す」と述べて、一旦引き上げていき、翌日運搬用の馬8頭を引き連れてきて、鵠沼郷内の大豆や小豆を刈り取ったのです。※庁宣…この場合は遥任国司(任国に赴かない国守)が現地の代官(目代など)に発給した命令書実はこのような事態に至る前に、鵠沼郷には義朝方の者がやってきて、鵠沼郷は鎌倉郡内であることを主張して帰っていったことがあり、その時御厨側は、大庭御厨はすべて高座郡(こうざぐん)内であるから到底受け入れられるものではないと、特に取り合わなかったのですが、今回のこの乱入騒ぎで義朝方がついに実力行使に及んできたということで、御厨側としていよいよ見過ごすことができない事態となったのです。この事態に給主である荒木田彦松は、「鵠沼郷が鎌倉郡内でないことは先刻申し上げたはず!勅免:天皇の許し)を得た荘園に何か指図することがある場合は、まず宣旨が下され、本家(伊勢神宮)に通達して、本家の使者とともに行うのが通例である。ところが今、庁宣ありと称して狼藉いたすということは、留守所(るすどころ※)の命令によるものなのか!そもそもその庁宣が本物なのか信じ難い!」※留守所…国衙内に設置され、遥任国司が派遣する代官(目代など)が執務する行政機関と義朝方に抗議しますが、義朝方はその抗議を受け入れる様子はなく、そればかりか9月9日から10日に日付が変わろうとする子の刻(23時~1時)に清原安行や在庁官人らは軍勢を率いて再び鵠沼郷に乱入。郷内の住人を捕らえるなどの乱暴を働き、子細を聞くために出向いた彦松の頭を問答無用でかち割って瀕死の重傷を負わせ、さらに鵠沼郷を訪れていた神人(じにん:神社関係者)8人にも怪我を負わせ、伊勢神宮に上納するために保管しておいた魚介類をことごとく踏みにじって穢す行為にも及んだのです。大庭の御厨が豊かな神奈川県央地域にあるのに対して、三浦氏、中村氏(土肥氏は中村氏一族)の領地には丘陵部が多く、水田になる低地(沖積地=ちゅうせきち)が少ないことが分かります。つまり源義朝・三浦氏・中村氏は「水田になるべき沖積地が領内に少ない」という同じ立場にあります。三浦氏や中村氏は相模の有力な在庁官人でしたが同時に源義朝の郎党(ろうとう=家来)でした.彼らは相模の中央に近く豊かな地域「相模平野」への進出という共通の目的を持っていたのです.その後三浦氏は義明の弟「義実」(岡崎義実)を平野の北である大住郡に配し、さらにその子「義忠」(真田与一義忠)を北西部に配しました。一方、中村氏は宗平の息子である実平(土肥実平)を湯河原・早川に配し、その弟の宗遠を土屋に配しました。土屋と真田は距離も近く両氏は姻戚関係(いんせきかんけい=結婚して親戚になること)を結びます。つまりこの時点において平野部を取り囲む三浦一族と中村一族の包囲網ができあがったというわけです。そしてその要が源義朝でした。こちらは鎌倉:「御霊神社」👈リンクはじめは関東平氏の鎌倉氏、梶原氏、大庭氏の先祖の霊をまつっていたが、やがて後三年の役で活躍した武勇が名高い平安時代の武士、そして大庭御厨を開発した「権五郎景政」がまつられるようになった。地元では「権五郎さま」と呼び親しまれている。下の写真は「歌舞伎」の「暫(しばらく)」に登場する「鎌倉権五郎(かまくらごんごろう)」清原武衡(きよはらのたけひら)が、自分の意に従わない人々を家来に命じて斬ろうとするところに、「しばらく」という声とともに鎌倉権五郎(かまくらごんごろう)が登場し、人々の命を助けるというストーリー。江戸歌舞伎では、俳優は芝居小屋と1年ごとに契約を結びました。その契約のスタートする11月の興行は「顔見世(かおみせ)」とよばれ、一座する俳優の顔ぶれを披露する最も重要な年中行事でした。この「顔見世」で上演される作品には、おもな俳優が一堂に会し、「しばらく」という声とともに登場する正義感あふれる人物が、悪人に殺されかけている人々を救う場面を組込む慣習がありました。「顔見世」で上演されたさまざまな作品で、何度も演じられたこの場面は、次第に洗練されていき、一定の演出が完成しました。明治以降は、この場面を『暫』として独立させて上演するようになり、現在に至っています。このような経緯で誕生したため、ストーリーを楽しむというよりも様式化された演出を楽しむ演目といえます。主人公は代々の市川團十郎(いちかわだんじゅうろう)が得意とした「荒事(あらごと)」で演じられるため、『暫』は團十郎家の「家の芸」である「歌舞伎十八番」の1つに数えられている。むすびに「ここは鎌倉郡ではないのだ。神聖な神領に入って乱暴することは許せない。」大庭御厨を預かる神官荒木田彦松は相模国の役所の役人たちに言い放った。源義朝の郎従たちは荒々しく睨んでいた。天養元(1144 ) 9月上旬のことである。相模国高座郡鵠沼郷辺りは収穫の時期を迎え、御厨内では伊勢の祭神に捧げる供祭料の魚介類、大豆・小豆なども保管してあった。また用事で来ていた神人らの供米などもあった。義朝郎従や国衙役人らは、それらを勝手に運んでいってしまったのだ。止めようとした荒木田彦松は頭を割られて死にそうになった。神人たちもまたケガをさせられた。その後も乱暴は続く、源義朝や三浦義継・義明父子、中村宗平、和田助弘など、後に武家政権成立に係わる知名人が出てくるのだ。この大庭御厨こそ、日本の中世を生み出した、一つの政治基盤といってもよいだろう」と講師の伊藤一美先生より。我が藤沢市の境川沿いにはこの「源義朝」を祭神とする左馬神社・鯖神社があること、は以前から理解していたが。そして我が住む地域が「大庭御厨」であったことも。そして源義朝が左馬頭(サマノカミ;サバノカミ)という役職にあったことから左馬神社(サバじんじゃ)と言われるようになったとされているのだ。しかし、その源義朝が大庭御厨内の鵠沼の地で育った伊勢神宮への奉納品の野菜・魚介類を略奪していた事は全く知らなかったのであった。鎌倉幕府成立前の我が住む地域の歴史を大いに学ぶことが出来たのであった。そして2時間の講義が終わり往路と同じルートで帰路につく。国道1号・藤沢バイパス下のカルバートを再び通過。御殿辺公園の水飲み場ではカラスが水分補給中。カラスにとっても、この猛暑がしんどいのであろう。大切な水分補給に夢中であった。「フジロード」案内板。市内を巡ってもらおうと市民団体「藤倶楽部」が発表している「フジロード」は、引地川・境川沿いの藤棚でフジが美しく鑑賞できる場所そして史跡、寺社をたどる2つの散歩道。御殿辺公園の白旗川沿いのウッドデッキの手摺にもモニュメントが。藤沢市の鳥・かわせみ。白旗保育園の前を通り藤沢市民病院前の交差点に向かう。藤沢市民病院。「厚生年金特別融資 藤沢市民病院」。ブロンズ彫刻作品「真心」。真心を帽子の中にしのばせて。藤沢市民病院前の茂みにひっそりと設置された少女の像。大切な人のお見舞いに来たのでしようか。帽子を両手に大事に持ち、少し緊張した面持ちが表れているよう。作者:陶山定人氏 「藤白橋」越しの藤沢市民病院。藤沢市民病院前の藤沢403号線の横のロータリーを訪ねた。「藤沢宿」について紹介するパネル展示スペースとなっていた。「歩いて見よう 藤沢宿 市民病院のおいたち」。1971年(昭和46年)10月1日 藤沢市民病院開設 病床数 一般300床 伝染病30床1975年(昭和50年) 3月 臨床研修指定病院の指定1989年(平成元年) 3月 西館完成 病床数 一般400床 伝染病30床1991年(平成3年) 4月 東館改修 病床数 一般500床 伝染病30床2006年(平成18年)12月1日 救命救急センター(30床)の開設「浮世絵で見る藤沢宿」。今から180年前に描かれた浮世絵。藤沢宿は1601年に誕生。東海道53次6番目の藤沢宿は、東海道、大山街道、江の島道、鎌倉道などの分岐点として大鋸橋(現遊行寺橋)を中心に大鋸町、大久保町、坂戸町の3町で構成されました。その繁栄の様子は歌川広重等の浮世絵に残されています。「夕刻の賑わいの風景」歌川広重「東海道五拾三次藤沢(狂歌入東海道)製作時期:1840年。「うちかすむ色のゆかりのふち沢や雲居をさして登る春かな」」このシリーズは表題の書体から俗に隷書東海道と呼ばれ、保永堂版、行書版と共に三大傑作シリーズの一つです。藤沢宿の夜の風景で、右側にある鳥居が江の島一ノ鳥居(江の島道入口)、左手にあるのが大鋸橋(現遊行寺橋)です。宿場に着いた人々と客引きをする宿の人々の様子が描かれ、にぎわいが感じられます。「江の島詣・大山詣の人々が行き来する風景」東海道五十三次之内 藤沢(行書東海道)製作時期:天保13年(1842)。このシリーズは表題の書体から俗に行書東海道と呼ばれます。 画面右に江の島一ノ鳥居、左に大鋸橋(現遊行寺橋)を描いています。大鋸橋を通っているのは東海道で、この鳥居が東海道から江の島道への入口になっています。橋の上の人物が担いでいるは御神酒枠(おみきわく・大山から水や酒を持ち帰るためのもの)で、一行が大山詣の帰りであることが分かります。「遊行坂上から大鋸橋まで続く行列の模様」東海道名所之内 ふちさハ 遊行寺 作者=橋本貞秀〈1863年作〉十四代将軍家茂の上洛にちなむ東海道シリーズで「上洛東海道」と言われているものの一つ。鳥瞰的な構図で遊行寺坂上から大鋸橋(現遊行寺橋)まで続く行列の長さが強調されている絵。手前の鳥居は江の島一ノ鳥居です。遊行寺の山門は現在と異なり仁王門となっています。「江の島道鳥居・大鋸橋・遊行寺」東海道五拾三次之内 藤澤 遊行寺藤沢は時宗総本山・遊行寺の門前町として参拝客で賑わった宿場。手前は江ノ島道の第一の鳥居。一見、江ノ島が近いので奥の小山をそれと勘違いするが、これが遊行寺である。橋の上の者は大山詣で納める木太刀を担いでいる。「大鋸橋を行く人々」東海道五拾三次 藤沢(狂歌入東海道)製作時期:天保11年頃(1840)。「うちかすむ色のゆかりのふち沢や雲居をさして登る春かな」このシリーズは図柄の中に狂歌が1首づつ折り込まれているために俗に「狂歌入東海道」と呼ばれています。保永堂版と反対に遊行寺の側から大鋸橋(現遊行寺橋)と江の島一ノ鳥居を描いたもので、背景にある山は大山です。橋の上の人物が担いでいるのは御神酒枠(おみきわく・大山から水や酒を持ち帰るためのもの)で大山詣を象徴しています。橋のたもとの高札場など、宿場の様子も窺えます。「藤沢御殿」このバス停東側には「藤沢御殿」がありました。藤沢宿には”藤沢御殿”と呼ばれる将軍専用の宿泊所が置かれ、徳川家康、秀忠、家光の3代に利用されました。(1596年ごろ設置)その後、民間の本陣、脇本陣が設置され、大名や公家などの宿泊所となりました。「藤沢御殿跡絵図」(堀内家文書)江戸時代。江戸時代の初め頃、藤沢にはまだ本陣がなかったので、将軍は自らの宿泊のために今の藤沢一丁目あたり(旧藤沢公民館付近)に藤沢御殿をつくりました。絵図面によると東西約193m、南北約113mの長方形の区画で、記録によると「慶長五年(1600)に家康が宿泊して以来、寛永十一年(1634)に家光が使用したのを最後に廃止の道をたどりました。御殿の周辺には御殿を管理する代官陣屋が配置され、陣屋小路をはじめ御殿辺などの地名や陣屋橋、御殿橋といった橋の名に今では往時のなごりをとどめているのみです。「東海道分間延絵図」に描かれた御殿跡「東海道分間延絵図」は、江戸幕府が東海道の状況を把握するために、道中奉行に命じて作成した詳細な絵地図です。幕府は東海道の他にも、中山道、甲州道中、奥州道中、日光道中の五街道と、それらに付属する街道地図も同時期に作成しています。それらを含めて「五街道分間延絵図」(正式には「五海道其外分間見取延絵図」)と呼んでおり、「東海道分間延絵図」はその一部で、東海道だけで全13巻に及びます。「五街道分間延絵図」作成の命が出されたのは寛政年中(1789~1801)のことで、文化3年(1806)に完成しています。現在、東京国立博物館と逓信博物館に所蔵されています。絵図には、沿道の主な建造物では、問屋、本陣、脇本陣、寺社などが丹念に描かれています。また一里塚、道標、橋、高札なども描かれています。縮尺は、実際の1里を曲尺の7尺2寸に縮尺して描かれており、道の曲がりの急なところは、そのまま描いてしまうと地図の天地が長くなってしまうので、実際にはゆるい曲がりにし、そのわきにたとえば北に何分と記して、本来の曲がり具合を示しています。我が実家の檀家寺・妙善寺も描かれている。「江戸時代の藤沢宿今から174年前に描かれた絵図「相中留恩記路」は1839年に完成した地誌です。この絵図には家並みや人の動きが細かに描かれています。藤沢宿は1601年ごろに誕生しました。」「相中留恩記略」(福原家文書)。「現在の旧藤沢宿」「現在の旧藤沢宿現在の藤沢地区ご案内--「なりわい」が活きる地区マップ藤沢宿は、明治になって肥料や米穀等の農産物の集積地として農業関連の商店等を中心に繁栄しました。現在も蔵や店構えにその面影を残しています。商圏は三浦半島から相模原方面まで及んだといわれています。また、この地区は藤沢の街の発祥地で、現藤沢公民館は町役場で、警察署、銀行等が建ち並んでいました。明治20年に藤沢駅が開設してから駅周辺へと中心地が移りました。バスの車窓から、また、徒歩で蔵や建物を見て「なりわい」が活きる「藤沢宿」をお楽しみだくさい。2 0 1 2年(平24 ) 1 2月 藤沢市民病院・藤沢地区地域経営会議」「現在の旧藤沢宿 国道467号(藤沢橋から白旗交差点)」。「藤沢地区景観の一例」・七福神や境内が緑や木々に被われた歴史ある仏閣が多くあります。・市役所前、伊勢山公園、大清水口一ドなど、桜・アジサイの見どころ。交差点脇にあった石碑。「耕地整理記念之碑」。「神奈川縣知事従四位勲三等井上考哉題字相模東部自北亘東南有川田境川源發東京府南多摩郡境村地界交錯上為武相兩國之境・・・・以下省略・・・」裏側。そしてバスにて帰路についたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.08.17
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この日は7月25日(火)、「藤沢市教育文化センター」で開催された「令和5年度 藤沢市文書館歴史講座」「大庭御厨(おおばみくりや)の歴史的意義」に事前申込をし、参加しました。「大庭御厨」は、相模国高座郡の南部(現在の茅ヶ崎市、藤沢市)にあった、寄進型荘園の一つ。鎌倉時代末期には13の郷が存在した相模国最大の御厨(伊勢神宮領)である。私の住む場所も、「大庭御厨」に含まれる場所であることを知ったのは、高校時代であった。大庭御厨は長治元年(1104年)頃、鎌倉景正が大庭郷を中心に山野未開地を開発したものである。伊勢恒吉の斡旋で永久5年(1117年)伊勢神宮に寄進した。鎌倉景正は後三年の役(1083年 - 1087年)の勇者として有名である。大庭御厨の境界は、東は俣野川(藤沢市の境川)、西は神郷(寒川)、南は海、北は大牧崎だった。大牧崎はこれまでの研究で亀井神社南側一帯を指すと考えられているとのこと。田地の面積は、久安元年(1145年)で95町、鎌倉時代末期には150町に達した。(1町≒3,000坪≒10,000m2)大庭郷の成立は、9世紀以前と思われる。「大庭」「庭」も祭司の場を意味すると言う。現在も藤沢市に大庭の地名が残る。御厨は天皇家や伊勢神宮、下鴨神社の領地を意味する と。自宅から神奈中バスを利用して、「白旗神社前」で下車。藤沢市民病院方向に進む。右手に「ショッピングモール トレアージュ白旗」。神奈川県藤沢市藤沢2丁目3−15。こちらは、「ハックドラッグ藤沢白旗店」。途中、左折し、境川につながる「白旗川」に架かる「人道橋」を渡り、「御殿辺公園」方向へ。御殿辺公園(ごてんべこうえん)【通称:白旗公園】。名前の由来は、この近くに徳川家康が建てた「藤沢御殿」があったことによる。1984年(昭和59年)3月に、約1.1ヘクタールの面積の公園として整備された。西に白旗神社、東に藤沢市民病院と隣接している。秋になると黄葉が美しいイチョウ並木の道路を進む。右側奥には「藤沢市民病院」が見えた。御殿辺公園内には、はちの巣をモチーフにしたカラフル遊具が。そして、正面に「国道1号・藤沢バイパス」下を潜るカルバートが姿を現す。この道は「藤沢404号線」とのこと。歩行者専用道路・自転車は降りて通行して下さい と。カルバートの壁には様々な絵画が描かれていた。制作は、この日の目的地の「藤沢市教育文化会館」の隣にある神奈川県立藤沢清流高等学校の美術部の生徒達によるものと。様々な花が描かれていた。その先には自然の長閑な風景が。蝶やパンダが。ふたこぶラクダ。フラミンゴ。フラミンゴが紅色なのは、餌であるエビやカニ由来のβ-カロテンやカンタキサンチンによるものであるらしい。キリン。魚の絵も。熱帯魚。オヤビッチャに似ていたが。クラゲやタコ。クジラ。制作者のサインもイニシャルで。そしてその先にあった遊水池にはスイレンの赤い花が。ズームして。蓮の花も開花中。蓮の群生場所。そして右手には「藤沢市民病院」が見えた。「藤沢市立白旗廻り第三公園」。そして「境川」に架かる橋が見えて来た。「鷹匠橋」。境川左岸の藤沢市大鋸と右岸の藤沢市白旗1丁目・2丁目とを結び、市道藤沢409号線が通る。橋の手前に海から6.5km標識、左岸下流に下水用の大清水吐口ゲートが接続されていた。下流の御殿橋付近に徳川将軍家の御殿(別荘)や陣屋が在り、江戸時代に鷹狩りの場でもあったそうで、橋名・「鷹匠橋」はそこからと。「境川」。「鷹匠橋」を渡る。名称:鷹匠橋構造種別:1径間PC桁河口からの距離:6.5km橋の長さ:33.5m有効幅員:11m完成:1990年(H2)。下流方向を見る。国道1号・藤沢バイパスに架かる「境川大橋」を見る。歴史を感じさせる橋名ですが、欄干には半透明ガラスにスミレとチョウを描いた洒落たステンドグラス風な絵が飾られていた。橋の欄干にも同テーマの作品が。上流側を見る。こちらにも。「藤沢市民病院」を再び。「境川」沿いの道を北に進むと、左手高台にも学校の校舎が見えた。「聖園(みその)女学院高等・中学校」と。右手道路沿いには「藤沢市立大清水中学校」。1984年(昭和59年)4月2日 - 開校大清水小学校と俣野小学校、藤沢小学校と本町小学校の卒業生の一部が入学する とのこと。さらに「境川」に沿って進む。この場所は「大清水境川アジサイロード」👈リンク と呼ばれ、6月には美しいアジサイの花が楽しめるのだ。そしてこの日の受講会場・「藤沢市教育文化センター」に到着。 神奈川県藤沢市大鋸1407−1。「掲示板」。「藤沢市教育文化センター」👈リンク 案内と講演会「学校はなにをするところ?」案内書。「藤沢市教育文化センター」。 ・・・つづく・・・
2023.08.16
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場所を移動して、さらに「浜降祭」の海の中での「禊」をカメラで追う。漸く、「禊」を行う「担ぎ手」の足元、海面の見える場所に。「南湖下町 住吉神社」👈リンク の神輿を追う。「茅ヶ崎漁港」の防波堤上に移動して。残念ながら、この日は富士山の姿は・・・。再び「南湖下町 住吉神社」の神輿の「禊」を追う。富士山が見えれば、このような姿が。ネットより。そして「禊」の場を後にして、「茅ヶ崎漁港」の防波堤上を歩く。再び遠く「江の島」をズームして。そして再び砂浜へ戻る。「浜降祭」のMC舞台も役目を終えて。多くの出店が。そして国道134号方向へと、祭りを終えた神輿も帰路に。ここも神輿と観客の帰路の中で大混雑していたのであった。「茶屋町 茶屋町大神宮」👈リンク の神輿も帰路に。「鳥井戸 御霊神社」👈リンク の神輿。国道134号が前方に見えて来た。「室田 八王子神社」👈リンク の神輿。手前には「南湖下町 祭典実行委員長」の襷をかけた方の姿も。「西浜小学校入口」交差点付近の国道134号の下り車線は完全閉鎖され、神輿、観光客専用の通路になっていた。「下寺尾 諏訪神社」の神輿。その先の、神奈中バスも浜降祭の担ぎ手の送迎用バスのようであった。神輿をトラックに載せ、帰路につく神社も。そして担ぎ手、神社関係者の送迎用神奈中バス。「上赤羽根 八雲神社」と。トラックに載せられた神輿が次々に地元への帰路に。救急車の姿も。熱中症患者の収容か?国道134号の下り車線は完全閉鎖中。上り2車線を利用して車輌通行が行われていた。どこまで、下り車線は閉鎖されていたのだろうか?「十間坂 第六天神社」の神輿も帰路へ。ズームして。JR茅ヶ崎駅に向かう途中に「茅ヶ崎サザン神社」👈リンク を訪ねたが・・・。残念ながら、スチールシャッターは閉まっていた。「お母さんは太陽だ!!晴れて良し雨もまた良し 心の中は洗たく日和 伸びたり縮んだり自由に生きる 命大切に」と。そしてJR茅ヶ崎駅に到着し、帰宅の途についたのであった。茅ヶ崎市内の34社が一同に早朝の茅ヶ崎海岸に集結する「浜降祭」👈リンク光景は圧巻なのであった。神輿の形も江戸の神輿と違い、2本の担ぎ棒で掛け声はドッコイ!ドッコイ!と担ぐ。 その間に「茅ヶ崎甚句」👈リンクという唄を歌い担ぎ手たちを盛り上げるのであった。この浜降祭は、時間が早朝になってしまうのが難点と言えば難点だが、合計39基(しかも毎年増え続けていると)の神輿が揺れて、練り歩いて、けたたましく音を立てて、さらに海に飛び込むというのは十分なインパクトであった。その派手さから、外国人受けも良いのではないかと思うが、この日は観客の外国人率は驚くくらい低かったのであったが、これも早朝の為なのであろうか。そして、「合同祭典」は約1時間とチョット長いと感じたのであったが・・・更に海の中での神輿の「禊」の写真を撮るためには、私も海に入る覚悟と準備が必要と。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.08.15
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「堤 八坂神社」の神輿。「下寺尾 諏訪神社」👈リンク の神輿。海に入り禊が行われているのだが、海に入っている姿は??「香川 諏訪神社」👈リンク の神輿を追う。そして海に入り「禊」。「菱沼 八王子神社」👈リンク の神輿を追う。「甘沼 八幡大神」👈リンク の神輿も海に入り「禊」を。奥に「中海岸 八大龍王神」👈リンク、手前に「本村 八坂神社」👈リンク の神輿。「新町 嚴島神社」👈リンク の神輿。「中海岸 中海岸神社」👈リンク の神輿。鳥居の方向を見る。「下寺尾 諏訪神社」👈リンク の神輿。さらに次々と竹の鳥居を潜って禊へと。「十間坂 第六天神社」👈リンク の神輿。「南湖中町 八雲神社」👈リンク の神輿。その後に「南湖上町 金毘羅神社」👈リンク の神輿。多くの神輿が海の中に入り「禊」を。ズームして。そして「禊」を済ませて砂浜へ戻る「菱沼 八王子神社」👈リンク の神輿。移動して「本村 八坂神社」の神輿を追う。「新町 嚴島神社」、「本村 八坂神社」の神輿。「新町 嚴島神社」の神輿も「禊」へと。そして「禊」を済ませて。「本村 八坂神社」の神輿はさらに沖へと。「担ぎ手」の法被には「本村」の文字が。「担ぎ手」には「舁夫(かきふ)」という名称もあると。舁く人(かくひと)という意味で『舁く(かく)』というのは二人以上で同じ棒を担ぐという意味。 駕籠屋の人夫の事を『駕籠かき』とか山車を担ぐ人の事を舁き山(かきやま)とも言うと。さらに沖へと。これでもかと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.08.14
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警備員、秘書に囲まれて「合同祭典」会場を後にする河野太郎デジタル大臣の姿。そして7:50を過ぎになり、一斉に海へと向かう「発輿(お発(た)ち)」のスタート。最初に「鶴嶺八幡宮」の神輿が左側に。右側には「本社宮」の神輿。「本社宮」。先導役を務めるのは、「鶴嶺八幡社4社」の「鶴嶺八幡社」、「本社宮」、「日吉神社」、「神明大神」の神輿であると決まっているようだ。「鶴嶺八幡宮」の神輿。「鶴嶺八幡宮」の神輿は、屋根が唐破風型(中央を凸として装飾する造り)、勾欄が二重化されているなどの違いがある と。近づいて。「本社宮 神輿」(右)と「日吉神社 神輿」(左)。「日吉神社 神輿」(右)と「神明大神 神輿」(左)。「本社宮 神輿」。昭和53年(1978年)建造 重量550kg。鳳凰が大きく、無垢の木に彫刻した十二支が特徴。近づいて。「本社宮 神輿」を後方から。竹の鳥居を潜って海に向かって進む。当日の南湖の浜(西浜海岸)は神社の敷地を模して三つの鳥居がしつらえてある。国道134号から神輿が入る際は一之鳥居から、二之鳥居、いったん海に向かって禊を行ったあと三之鳥居をくぐって駐輿する。「発輿(お発(た)ち)」を終え、帰る際は三之鳥居からの逆のルートになるとのこと。「日吉神社 神輿」が「三之鳥居」を潜る。「本社宮 神輿」。そして「寒川神社 神輿」が続く。十六八重表菊紋の提灯が神輿の周囲に。ズームして。側面に二個ずつの環(把手)がついてる。箪笥の引き手のような形をしているため、通称「タンス」と言われている。担ぐ際には、一人で両手にこの環を持ち、台輪に打ちつけてリズムを取るのだ。このタンスの音も神輿によって変わり、神輿自慢の種になる。元々、この環は神輿を持ち運ぶ際の取っ手とだとも言われている と。「菅谷神社 神輿」が三の鳥居を潜る。「菅谷神社の神輿」👈リンクは、天保9年(1838年)五月國府祭(大磯神揃山)に渡御された寒川神社の神輿がその帰路相模川の増水により流失し、南湖の浜に引き上げられたという神輿(湖南地方随一の祭典「浜降祭」のルーツとも一説に伝わる)で、天保10年寒川神社との神縁により譲渡され修復されたもの と。「倉見 倉見神社 神輿」👈リンク。「一之宮 八幡大神」👈リンクの神輿。海に向かって進む神輿の周りには多くの観光客が。「倉見神社 神輿」が海に向かって進む。足元には波が押し寄せて。観光客が多く、担ぎ手の足元は全く見えなかった。上空には「ドローン」が飛来。「一之宮 八幡大神の神輿」も全く同様に。「堤 八坂神社 神輿」も海の中に。さらに深く海に入って。沖には警備用それとも観光用のボートが。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.08.13
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DJポリスの姿も。DJポリス(ディージェイ - 、D.J. Police)は、雑踏警備においてマイクロフォン・拡声器等を駆使し、軽妙な語り口・言葉巧みなアナウンスで安全な交通誘導を行う警察官の愛称・通称。J:COMもライブ映像を撮影中。34社(39基)の神輿が一同に会し「駐輿」中の神輿に近づいて。「浜降祭」は毎年 7月第3月曜日の海の日に行なわれる神奈川県寒川町の寒川神社の祭り。「みそぎ神事」とも呼ばれ,寒川神社を始めとする近隣の神社 34社の神輿 39基が一斉に、茅ヶ崎市の南湖の浜・現サザンビーチまで渡御して海水で清められる。かつては 7月15日に行なわれていたが、2004年以降今日の祭日となった。天保年間(1830~44)に国府祭に参加した寒川神社の神輿が、帰途に発生したけんかが原因で相模川に落ち行方不明になった際、南湖の浜の漁師が御神体を発見して神社に届け、その礼として始まったと伝わる。また祭りに参加する茅ヶ崎市浜之郷の鶴嶺八幡宮が、寒川神社よりも古くから禊の祭りを行なっていたともいわれる。鶴嶺八幡宮では、もともと旧暦 6月29日に近隣の神社 3社とともに浜降りを行なっていたが、1876年に祭日が 7月15日に変更になった際に、寒川神社と合同の祭りになったと伝えている。祭りは当日の夜明け前に寒川神社を出発した神輿が,鶴嶺八幡宮で近隣神社の神輿の出迎えを受けて南湖の浜に向かい、午前8時前に神輿を次々と海に入れ、浜で神事が行なわれる。その際、寒川神社の神輿はハマゴウという植物を敷いた上に据え置かれる。早朝の海に多くの神輿が入る光景の壮観さで知られ,「暁の祭典」の名もあると「コトバンク」より。「鶴嶺八幡社」👈リンク の「神輿」に近づいて。34社39基の神輿が海岸に集結し、寒川神社を中心に、ずらりと海を向いて並ぶさまは圧巻。しかし、その中で唯一、富士山の方向(西)を向くのがこの「鶴嶺八幡社」の「神輿」。鶴嶺八幡宮の神輿は先導を務める「露払い」として寒川神社の前を行く。宮司は「浜で西(寒川神社の方角?)を向くのもお守りするため。摂社として助けていただいた恩返しもあるのでしょう」と推測する と。海へと向かう「発輿(おた発ち)」を待ちきれず、既に予行演習?の「神明大神」👈リンクの神輿の姿も。「本社宮」👈リンクの神輿。「日吉神社」👈リンク、「神明大神」の神輿。浜降祭実行委員会のMC舞台。ここで、浜降祭の進行がコントロールされているようであった。警察官が「合同祭典」の開催に向けて観客先の整理を始めた。来賓席の準備も始まった。そして「合同祭典」の時間が近づいて観光客の整理も進んで。そして「合同祭典」が始まる。以下、J:COMのライブ放送の録画画面を交えて。浜降祭は、1978年に「神奈川県無形民俗文化財」に指定され、1982年には「かながわのまつり50選」に選ばれているのだ。寒川神社の宮司による神事のスタート・玉串の奉奠。寒川神社そして各神社の神職・宮司が並ぶ。そして「献饌(けんせん)の儀」の開始。神前にお供え物(酒、塩、水、山の幸等)を捧げる儀式。最初に寒川神社への「献饌の儀」。まずは米の奉納。神酒と塩。神酒、野菜と続く。最後にスイカ等の果物が奉納された。左から、お供物は果物、餅、米、酒と塩、野菜。引き続き、各神社・神輿への「献饌の儀」が行われた。テレ朝のヘリが取材で上空を何周もしていた。ズームして。そしてそして祭主による「祝詞奏上(のりとそうじょう)」。神社本庁が監修する『神道いろは』から引用すると…祝詞とは、祭典に奉仕する神職が神様に奏上する言葉であり、その内容は神饌・幣帛を供えて、御神徳に対する称辞(たたえごと)を奏し、新たな恩頼(みたまのふゆ)を祈願するというのが一般的な形ということなので、神職が儀式の際に奏上するものを祝詞ということになる。幣帛:食事やお酒のお供えを除く神様へのお供え物の総称恩頼:神々の御神慮や天皇の大御心による恩恵を尊んで用いられる語寒川神社の宮司による祝詞奏上。国家安泰、五穀豊穣と海上安全が祈念された。祭主による玉串拝礼が行われ、引き続き、浜降祭実行委員会関係者、参列者・来賓の玉串拝礼。南湖天王山八雲神社傍に住む網元鈴木孫七家は天孫の屋号で呼ばれ代々寒川神社の御旅所神主(おたびしょかんぬし)を務めてきている。御旅所神主とは祭礼の都度、寒川神社から祭礼の準備万端を依頼され、それを実行する役目である。10代目鈴木孫七氏。寒川神社責任役員。浜降祭実行委員長・亀井信幸氏。茅ヶ崎市長・佐藤光氏。衆議院議員・デジタル大臣 河野太郎氏。衆議院議員・星野つよし氏、阿部知子氏。この後、参加神社の代表者、地元の市役所関係者等々の玉串拝礼が延々と続く!!そして、祭主・寒川神社宮司の挨拶。最後に浜降祭実行委員長・茅ヶ崎商工会議所の亀井信幸会頭の挨拶。約1時間にわたる「合同祭典」がようやく終わり、お発ち(発輿)が始まったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・・
2023.08.12
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この日は、海の日・7月17日(月)。茅ヶ崎市の4大イベントの一つで、県の無形民俗文化財にも指定されている夏の風物詩「茅ヶ崎海岸浜降祭」が4年ぶりに開催されたので、地元の小田急線の駅を始発電車に乗りJR茅ヶ崎駅に向かう。始発電車は5:31発。JR藤沢駅から、5:49発の小田原行きを利用。この時間にJR東海道線に乗車するのは久しぶりであった。そしてJR茅ヶ崎駅に到着。南口に出て、茅ヶ崎海岸に向かって徒歩にて進む。JR茅ヶ崎駅の南口を振り返る。商店街を進む。茅ヶ崎市共恵1丁目8−6。「サザン通り商店街」案内板。「サザン通り」を進む。茅ヶ崎駅西側のツインウェーブから国道134号線サザンビーチまで続く道が平成12年からサザン通りの愛称で呼ばれるようなった。それによってサザン通りと通りを東西に横切る道に面した商店街の名前も南口中央商店街からサザン通り商店街と改称したのだと。「サザン通り」案内板。右手にあったのが「茅ヶ崎警察署 中海岸交番」。鉄砲道と交差する「中海岸ニ丁目」交差点を通過。「八大龍王神」の神輿は既に3時に海へと向かったようだ。「祝 濱降祭」の横断幕。「中海岸ニ丁目」交差点の直ぐ西側にある「中海岸神社」の「濱降祭」案内。この神社の子供御輿、大人神輿は4時に「宮出(みやだし)」したと。「宮出」👈リンクとは神社の祭礼に、みこし(や練り物)が境内から繰り出すこと。「「浜降祭」主なスケジュール」をネットから。「宮出」は午前0時~3時30分 と。各神社の「宮出」時間リスト をネットから。「中海岸神社」の神輿は、海岸に最も近いので一番遅い4時からになっているようであった。トラック「車輌」で「宮出」する神輿もあるようだ。「相州茅ヶ崎 寒川 濱降祭」案内が見事な墨絵で。湘南地方随一の夏の祭典といわれる「浜降祭」は、七月海の日の早朝、茅ヶ崎・南湖の浜(西浜海岸)にて斎行される。寒川神社をはじめ、寒川町・茅ヶ崎市の神輿約四十基が夜明けとともに南湖の浜に参集するその勇壮ぶりから「暁の祭典」とも呼ばれ、湘南地方に本格的な夏の到来を告げる祭りとして地元の人々に愛され続けている。また、全国でもこれほどの数の神輿が一堂に会する祭典は非常に珍しく、神奈川県無形民俗文化財に指定されているのだ。「サザン通り」をさらに海岸に向かって進む。左手には松の老木が庭に何本もある大きな屋敷が。右手には臨時売店が準備中。カラフルなヘルメットが並んでいた。ヨーヨーすくい、スーパーすくい、どじょうすくい、めだかすくいは準備完了か。そして国道134号の地下道・「サザンビーチちか道」へ。「未来手想図 2016」が地下道の左側壁に。手形タイルの設置は公益社団法人茅ヶ崎青年会議所(岩澤あゆみ理事長、以下茅ヶ崎JC)の「未来”手”想図〜私たちのまちの未来のために〜」の一環として行われたもの。子どもたちに愛郷心を持ってもらうことを目的に市と協力して2008年から実施。7月30日に開催された「サザンビーチフェスタ2016」で茅ヶ崎JCメンバーらが会場の子どもたちに参加を呼びかけて手形を採取、集められた手形はタイルに焼き付け、市へ寄贈されたとのこと。サザンビーチ側から振り返る。そしてサザンビーチに到着。時間は6:20過ぎ。正面に「SOUTHERN BEACH サザンビーチちがさき」歓迎ゲート。本村(ほんそん)・八坂神社の「本村(ほんそん)氏子 八坂会」と書かれたテント。海辺まで歩き、我が市にある「江の島」の姿を。ズームして。そして「えぼし岩(烏帽子岩)」。湘南を歌った歌の中に数多く登場する、茅ヶ崎のシンボル「えぼし岩」。正式名称は「姥島(うばじま)」と。茅ヶ崎海岸の沖合約1.4kmにあり、高さは約14.6m。えぼし岩の地層は古く、1,200万年前と調査により判明。地層は砂岩層と火山層が縞をなしていて、海底に堆積した地層が隆起したものが波で形が削られて、現在の形になったと。ズームして。えぼし岩周辺は岩礁で昔から絶好の漁場となっており、江戸時代には伊豆の漁師と地元小和田の漁師との間で漁場争いが起こり、その際に小和田の名主は京都の公卿近衛某が東下りの途中に詠んだという「相模なる小和田が浦の姥島は たれをまつやら ひとりねをする」という歌があったことを思い出し、その短冊を証拠に姥島が小和田の領地であることを主張し、紛争に勝ったという言い伝えがあるのだと。昔のえぼし岩は現在のものより先端部分がより烏帽子らしく西へ長く尾を引いていた。しかし、戦後に米軍の射撃訓練の標的となり、先端部分は消失した。その際に町のシンボルを守るための市民運動が起き、訓練は中止されたのだ と。既に全ての神輿が海岸に到着し、「合同祭典」始まる午前7時を待っているのであった。「鶴嶺八幡宮」の氏子達。湘南の「光る海」。ズームして。再び「江の島」の姿を。左側の出っ張りは「ヘッドランド(Tバー)」。砂浜の侵食を止めるために造られた施設で「T」の字に見えるから「Tバー」と。 ・・・つづく・・・東横INN茅ヶ崎市役所
2023.08.11
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「忍城」・「御三階櫓」からの景色。そして「御三階櫓」を後にして、「行田市郷土博物館」の南側の庭園を見る。「手水鉢(ちょうずばち)」。「手水鉢(ちょうずばち)高八〇センチ 幅五一センチ忍城三階櫓の石垣を用いて明治一九年五月に作られた手水鉢。正面に楓に鹿が陽刻され、頂上を穿って水をたたえて一匹の亀が陽刻されている。裏面に旧忍城三重櫓台石ヲ以テ明治十九年第五月造之 三田姓石工小林源次郎と陰刻してある。」手入れの行き届いた庭園。そして再び「行田市郷土博物館」の館内に戻る。「日本遺産 行田」コーナー。日本遺産ストーリー「和装文化の足元を支え続ける足袋蔵のまち行田」が平成29年4月28日に認定されてから、6周年を迎えた と。「認定証 和装文化の足元を支え続ける足袋蔵のまち行田埼玉県行田市日本遺産に認定する平成29年4月28日文部科学大臣 松野 博一」パネル(中央)。パネル(左)。「和装文化の足元を支え続ける 足袋蔵のまち行田平成29年(2017年) 4月28日、行田市のストーリー「和文化の足元を支え続ける足蔵のまち行田」が日本遺産に認定されました。忍城の城下町行田の裏通りを歩くと、時折ミシンの音が響き、土蔵、石蔵、モルタル蔵など多彩な足袋の倉庫「足袋蔵」が姿を現す。行田足袋の始まりは約300年前。武士の妻たちの内職であった行田足袋は、やがて名産品として広く知れ波り、最盛期には全国の約8割の足袋を生産するまでに発展した。それと共に明治時代後半から足袋蔵が次々と建てられていった。今も日本一の足袋産地として和装文化の足元を支え続ける行田には、多くの足袋蔵等なと歴史的建築物が残り、趣きある景観を形づくっている。」パネル(右)。「認定証最大の田んぼアート計測 17,195m2制作 日本国埼玉県行田市田んほアート米づくり体験事業推進協盟会2015年9月8日」「行田 足袋検定」コーナー。郷土博物館を見学して、足袋に関するクイズを解く検定。館内の展示や資料をヒントにしながら解答し、全問正解で合格となる。合格者には合格認定証を発行する と。主催:行田市日本遺産推進協議会。こぜにちゃんとフラべぇは、行田市のご当地グルメ「行田フライ」と「行田ゼリーフライ」の全国ブランド化に向けて活動中!「フライ」と言えば一般的に揚げ物というイメージがありますが、行田のフライは揚げ物ではなく、焼き物。行田でいう「フライ」とは、小麦粉を水でやわらかく溶き、鉄板の上で薄く焼きながら、ねぎ、肉、卵などの具を入れ、好みでソースまたは醤油だれをつけて食べるもの。クレープのようにふわりとした舌ざわりのお好み焼きのようなものです。「ゼリーフライ」とはフライと名前は似ていますが、「ゼリーフライ」は全く違う食べ物。お菓子のゼリーとも全く別物。衣のついていないコロッケといった風情のもので、そのルーツは、日露戦争の時、中国から伝わった「野菜まんじゅう」だということです。ジャガイモにねぎやにんじん、さらにたくさんおからが入っているのも特徴で、食物繊維が豊富でヘルシー。ソースの味と香りがとても利いていて、モチモチとした食感が大人にも子どもにも大人気。その名の由来は、小判形であることから「銭フライ」と言われていたものの、「銭」がなまって「ゼリーフライ」となったとか。「ミュージアム グッズ」コーナー。御城印やクリアーファイルも販売されていました。「御城印」をいただきました。そして「忍城」、「行田市郷土博物館」を後にして、「道の駅 はにゅう」に立ち寄り遅い昼食を楽しんだ。そしてこの日の最後に、「利根川」に建設されている「利根大堰」を訪ねた。「利根大堰」は、埼玉県行田市と群馬県邑楽郡千代田町の県境、利根川本川・河口から154km地点に建設された、日本でも屈指の規模を誇る堰である。高度経済成長期において、東京都の水需要の急激な増大は深刻な問題となっていった。この為、建設省(現・国土交通省)は、東京の水需要を多摩川から利根川に転換すべく、1963年に利根導水路計画を立案した。元々、東京(江戸)を水害から守るという目的で利根川東遷事業を進めたという経緯があり、水利権の問題はあったが、時の建設大臣(池田内閣)河野一郎の政治的決断で計画されたといわれる。1964年、東京オリンピックを前にして、東京は未曾有の大渇水(通称・東京砂漠)が起こり、危機的状況に陥った。東京都の緊急要請により、建設省は朝霞水路を通して緊急取水を実施した。その後、1965年には荒川に秋ヶ瀬取水堰が建設され、朝霞浄水場へ導水するための整備を行った。こうした中で利根川は「水資源開発促進法」に基づく指定河川となり、水資源開発公団(現・独立行政法人水資源機構)が「利根川・荒川水資源開発基本計画」に従い、利根川から水道用水を取水する為に見沼代用水元入がある地点に利根大堰を建設し、首都圏の水需要に応えようとした。堰は1968年4月に完成した。「独立行政法人水資源機構 利根導水総合事業所」の駐車場の車を駐めて散策する。埼玉県道59号線の「須加大橋」から「利根導水路 須加樋管(すかひかん)」が正面に見えた。「樋管」とは、河川の堤防の中に水路(これが本体)が埋設された構造物のこと。利根大堰でせきとめられた水は、須加樋管を経由して利根川の堤防の外へと流れ出ているのだ。下流側を見る。この後見沼代用水、武蔵水路、埼玉用水路に分かれる水がこの時点では1本の川となっているため、水量が非常に多いのであった。「利根大堰」が見える「利根川」の右岸堤防に向かって進む。「利根導水路 須加樋管 水資源機構」の文字が。現在でも利根川上流ダム群の水は利根大堰・利根導水路 須加樋管を経て、東京都の上水道の40%、埼玉県の上水道の70%を供給している。この堰で取水された水は、荒川、秋ヶ瀬取水堰、朝霞浄水場を経由して東村山浄水場まで行く事もあるとのこと。「利根大堰」案内板。「利根大堰」の上空からの写真をネットから。利根大堰には、魚道(ぎょどう)が3ケ所に設けられている。(1号魚道:1号堰柱の脇、2号魚道:3号堰柱、3号魚道:6号堰柱)魚道とは、魚専用の通路のことで、利根大堰が魚の溯上(そじょう:魚が川上の方へ登ってゆくこと)の妨げにならないように設置されている。1号魚道には魚道観察室が付けられているので、水中の様子を覗ける と。堤防上から「利根大堰」を見る。堰の管理用道路は「武蔵大橋(むさしおおはし)」と呼ばれ、道路橋として供用されている。全長687.2m、有効幅員7m。鋼鈑桁橋の一等橋である。1968年(昭和43年)10月竣工。工費は7470万円であったと。武蔵大橋から上流は約13kmもの区間、刀水橋まで一般道の橋は架けられていない。12の水門機械室。場所を移動して。利根川河口から約154kmにある利根大堰は、長さ約500メートルで、12の水門から出来ている。 農業用水、都市用水、浄化用水の取水を行っている可動堰で、(1)取水口 (2)沈砂池 (3)分水工などの施設があります。利根大堰に係わる施設を管理する利根導水総合管理所が、埼玉県と東京都用水の50%に関わっているそうです。ズームして。「利根導水路 須加樋管」越しに埼玉県道59号線の「須加大橋」を見る。移動してに埼玉県道59号線の「須加大橋」越しに沈砂池そして見沼代用水、武蔵水路、埼玉用水路を見る。「利根導水路 須加樋管」直後の流れ。「施設見学案内図」。「利根導水のあらまし」。「利根導水路のあらまし」をネットから。「利根導水路用水系統模式図」。そしてこの日の全ての行程を終了し、往路と同じルートで帰宅したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・行田天然温泉 ハナホテル行田
2023.08.10
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次に「昔 使われた自動電話交換機(ステップバイステップ方式)」。「昔 使われた自動電話交換機(ステップバイステップ方式)昭和32年9月、県下4番目の自動開式は電話数1,200でスタートしました。行田市が当時のお金で3千万円の債券をお客さまに代わって負担した上、かって病院だった土地を電話局へ提供し、開始時には町で提灯行列をして祝ってくれました。その後、昭和58年1 1月電子交換機に変わるまで26年間活躍しました。」「600号形自動式電話機昭和39年(1964)にわが国電話網の急速な発展にあわせ、通話性能と経済性に優れた電話機として誕生し、昭和46年(1971)からホワイト・グレー・グリーンのカラー電話機が登場しました。国産1号電話機の誕生からほぼ1世紀、通話性能においてほとんど申し分のない電話機の出現でした。【特徴】4号電話機に比べ3倍以上も感度が高く、電気回路にはプリント配線が導入されました。デサイン面では送受信器が自然に正しい位置に収まる様に工夫がされ、ダイヤルもボディに埋め込むなどキメ細かい配慮がされています。」「行田・東京間記念通話」。 「東京都と「自動電話」がつながった!明治42年 113年前 行田に電話がつながる140年くらい前(日本は明治時代のはじめごろ)、アメリカで電話機が発明されました。日本での最初の電話は明治23年(132年前)、東京と横浜の間で始まりました。行田につながったのは明治42年のことです。」「行田の夜が明るくなった!明治43年 112年前 行田電灯株式会社ができる。なんと、忍城のあと地に火力発電所をつくってしまった!(本丸のあと地 いまの博物館の駐車場)埼玉県のなかでも、川越につづいて2つめの電力会社。コークス(石炭からつくるねん料)をねん料とする最新式の発電機で、工場にも電気をおくれました。大正8年 103年前 火力発電をやめ、水力発電の電気を買うようになる。昭和16年 東京電灯(のちの東京電力)の一部になる。」「行田電灯株式会社をつくった人たち発起人(会社づくりの中心になった人)今津徳之助(いまづにくのすけ) 印刷を中心とした実業家 まちづくりに熱心に取り組み、 「行田の渋沢」と呼ばれました。社長 橋本 喜助(はしもときすけ) 大きな足袋屋のあるじ。 実業家てもあり、まちづくりに関わりました。」「足袋だけじゃない!洋服だってつくれるまちへ大正時代 100年くらい前 足袋工場がふえ電動化がすすむ。」「昭和10年代の被服工場」。「銀行とまちの発てん明治29年 126年前 忍商業銀行ができる。銀行とは、みんなからお金をあずかり、そのお金をひつような人や会社にかします。かしたお金はふやして返してもらい、銀行とあずけた人で分けます。」上:「忍商業銀行(創業当時)」下:「忍商業銀行本店 1935年(昭和10年)」「近代産業の発展忍城の城下町として発展した江戸時代から明治時代へと世の中はうつり、行田のまちも近代化への道を歩みはじめた。■交通手段の発展明治時代に入り、鉄道は旅客・貨物の輸送に重要な役割を担うようになった。明治16年(1883年)、日本鉄道が上野-熊谷駅間で開業(現在のJR高崎線)、また、明治34年(1901年)には上武鉄道が熊谷-寄居駅間で開業(現在の秩父鉄道)するなど、行田の周辺でも鉄道を中心とした交通網が整い始めた。■電灯会社の設立明治15年(1882年)、東京銀座に初めて電灯(アーク灯)が灯ったが、行田のまちに電灯が灯ったのは明治43年(1910年)のことだった。忍城址公園内(現在の郷土博物館駐車場部分)にコークスを燃料とした火力発電所がつくられ、行田電灯株式会社が設立された」■銀行の設立明治29年(1896年)、忍商業銀行が設立された。行田周辺の商人や地主などの資本によって設立した地元資本の銀行は、足袋産業と深く結びつき、その発展を支えていくことになった。足袋産業のあゆみー大正から昭和へー大正時代になると行田の足袋産業は大きな転機を迎えた。明治時代の中頃より始まったミシンによる縫製が全ての縫製工程に導入され、現在に続く分業の形が整った。関東大震災で京浜地方の足袋屋が大きな打撃を受けると、発注が行田に集中し震災特需となった。大正時代後期からは足袋に用いる生地もコール天や別珍、キャラコなどへと多様化していき、ファッション化も進み、女性用には赤や紫などの色足袋が流行した。また震災後の衣服の洋装化により、シャツやズボンなどを製造する足袋屋も現れた。やがて日中戦争が始まると忍町に陸軍被服廠行田出張所が開設され、統制経済のもと足袋生産第は減少し、軍需被服品の生産を担うようになった。」「馬車鉄道」。「馬車鉄道明治時代に行田周辺で始まった鉄道の整備だったが、足袋屋が集中するまちの中心部には鉄道が通らず、最寄駅の熊谷駅・吹上駅まで荷馬車などで足袋を運んでいた。■行田周辺の鉄道年表■明治16年(1883年) 日本鉄道が上野-熊谷駅間を開業明治33年(1900年) 忍馬車鉄道が行田-吹上駅間を開業明治34年(1901年) 上武鉄道が熊谷-寄居駅間を開業、翌年秩父鉄道となる。明治37年(1902年) 忍馬車鉄道の事業を行田馬車鉄道が継承、 自動車輸送も並行して行うようになる。大正10年(1921年) 北武鉄道が羽生-行田駅間を開業大正11年(1922年) 北武鉄道が熊谷-行田駅間を開業、 その年のうちに秩父鉄道に合併。大正12年(1923年)行田馬車鉄道が廃線」「馬車鉄道が通った道馬車鉄道は、吹上駅と長野村の間をつなぐ予定だったが、資金難などを理由に計画は変更された。明治33年(1900年)、忍馬車鉄道が吹上-佐間駅の間でひとまず開業、翌年に忍町まで延伸された。しかし、経営はなかなか軌道にのらず、明治38年(1905年)に行田馬車鉄道が事業を継承することになる。大正12年(1923年)、秩父鉄道の延伸をきっかけに廃線となるまで、馬車鉄道は行田の人々の大切な足となった。」「秩父線行田駅」の変遷写真。「埼玉縣北埼玉郡忍馬車鐵道株式會社線 吹上行田間 平面図」。「吹上村」周辺の地図。「成田町」周辺の地図。盤師 吉田寅義 氏。「二代目 吉田寅義 氏昭和2年(1927)、羽生市に生まれる。同25年、初代吉田寅義に師事し、基盤・将棋盤制作に従事、同29年、吉田流太刀盛り皆伝、二代目を襲名した。「太刀盛り」は、日本刀の刃に漆をつけて盤に線を引く日本古来の伝統技法である。作品は木性を生かし盤の個性を表現するため、特に足の彫り、線の流れを強調、裏面の「音ウケ」には物理的理論を基に工夫をこらし、実用面の利点を重視した。作品の多くが、本因坊戦、将棋名人戦などの著名な戦いに使用されている。平成24年(2012)に二代目と三代目吉田寅義氏の技法が「基盤製作技術吉田流太刀盛り」として市指定無形民族文化財に指定された。」吉田流太刀盛り皆伝・「二代目 吉田寅義 氏」。「靴を脱いで比べてみよう!」「足袋のサイズに実測とあるものは、洗濯後の足袋をこちらで測った数字であり、新品の足袋のサイズより1.5~2cmくらい縮んでおります。」力士の足の大きさ左から貴ノ花 29.0cm 若ノ花 28.0cm 小錦 34.0cm 舞の海 25.5cm力士の足袋上段左 曙 太郎(白足袋) 上段右 小錦八十吉下段左 貴ノ花光司 下段右 若ノ花 勝 左から鏡山親方(柏戸) 、大鵬親方(大鵬)、二子山親方(貴ノ花)。「行田市の誕生昭和24年5月3日、忍町は市制を施行し、行田市となった。昭和29年~ 32年までに周辺の8ヵ村、平成18年に南河原村が合併し、環在の市域が確定した。」「行田市の歴史」。「町のうつりかわり明治30年代の行田」。「町のうつりかわり行田市は、15世紀後半の忍城築城以来、忍城の城下町として発達してきた。以後江戸時代を通して、たびたび城下町の拡張整備が行なわれ現在の町並みが形づくられてきた。明治22年の忍城誕生から、昭和24年の行田市誕生までの60年間は、まさに行田足袋の全盛期から衰退期までの時代であった。町には、足袋屋の店先が軒を重ね、家々からは足袋内職のミンンの音が響き、足袋一色に包まれた時代であった。市政施行なら32年の太田村の合併までの行田市域の拡大、30年代以降には学校・公共施設の建設及び上下水道の完成など、町の近代化が進められてきた時代であった。現在は、21世紀に向けて、付加価値のある町づくりを目ざしている。」「炭火アイロン」、「蒸気式アイロン」。「学校のうつりかわり」「学校のうつりかわり天保7年(1836年)、忍城下では藩士の子弟を教育する機関として藩校進脩館が設立され、のちには培根堂・洋学館・国学館などが時代の流れに応じて開設された。また、庶民の子どもたちには手習師匠や寺子屋などが教育を施していた。明治時代を迎えると、明治5年の学制発布により、全国に小学校がつくられた。その後、町村合併や小学校令、学校教育法の整備により学校の統廃合新設などが進められることになる。戦後には中学校の整備、校舎の近代化、通学域の再編成などを経て今日の市内小学校13校・中学校8校が整えられている。」「小学校のうつりかわり明治19年の(1886年)第一次小学校令発布から明治22年(1889年)の「明治の大合併」と呼ばれる町村合併にかけて、1つの町や村ごと、または複数の村の連合によって設けられていた多くの学校は新しい村ごとに統合されていった。昭和24年(1949年)の市制施行を経て、昭和20年代後半~ 30年にかけての「昭和の大合併」期には、14校の行田市立小学校が誕生、昭和40年(1965年)の西小学校・大井小学校の統合により13校となる。昭和時代後半には、人口増加や市街地の拡大から泉小学校・桜ヶ丘小字校が新設、さらに平成19年(2007年)の南河原村合併により市内の小学校は16校となる。しかし、昭和60年代をピークとして行田市でも少子化が進行、適正な学校規模を維持するため、「学校再編」が進められることとなった。」「明治5年の学制発布明治5年(1872年) 8月、近代教育の始まりとして、小学・中学・大学を基本とする「学制」が発布された。のちに行田市となる地域でも、いちはやく小学校の開設が始まることとなり、明治9年段階で29校が開校していた。寺院の建物などを仮校舎としたこれらの小学校は、合併や閉校、新設などを経ながら現在の行田市立小学校へと続いている。」「大木商店足袋蔵・・模型 昭和20年に建てられた蔵です。昭和20年代は行田の足袋産業が復興しはじめ、このような石藏が多く建てられました。」「斎藤医院・・模型斎藤医院は、田山花袋の『田舎教師』に原田医院と出てくる病院で、明治の近代建築でしたが、昭和61年に取り壊されました。」「行田が舞台 田山花袋の小説『田舎教師』明治42年 113年前 小説「田舎教師」が書かれる『田舎教師』ってどんなお話?〇お話の場所 行田・熊谷・羽生(主人公が住んていたまちが行田)〇お話の時代 明治30年ごろ 120年くらい前◯書いた人 田山花袋(明治時代の小説家)〇主人公 小学校の先生になったばかりのまずしい若者 林清三くあらすじ> まずしくて勉強をあきらめ、小学校の先生になった清三てすが、 やりたかったことはほとんどうまくいきません。なやみながらも 先生として生きていくことを決めました。 しかし、しばらくして病気になり、何もてきないままに死んて しまうのてした。清三のモデルは本当にいた人て、かざらないありのままのてきごとをえがいた作品てす。」「斎藤医院」は、作品のなかで「原田医院」として出てきます。主人公の清三が病気になり、心配した友だちが「原田医院」に連れて行くのです。「行田の町の中程に西澤道のペンキ塗りの際立って目につく家があった。陶器の表札には医学博士原田龍太郎と鮮やかに見えて、門にかけた原田医院という看板はもう古くなっていた。午前十時頃の晴れた日影は硝子を通した診察室の白いカアテンを明るく照らした。」『田舎教師』には、他にも本町通りや忍沼、今はもうない牧場やおふろやさんなどが出てます。「昭和30年代の行田忍川のさくら、行田市の10周年を記念して消防隊がパレード、行田の街並み」「戦争・防空訓練」、「戦争・出兵兵士」の写真。当時の「人力車」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・行田天然温泉 ハナホテル行田
2023.08.09
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「町と村」。「町と村忍城の城下町としての行田町は、かつて上、下、新町の3町で、のち八幡町が加わり4町となった。町の行政は、村の名主にあたる町年寄によって統括されており、のちには町年寄の下に、町年寄見習、町年寄格、表立などの役ができ、特に表立は、直接一般町民と接する役割を果たしていた。村の場合、忍藩においては、城周辺の村々を佐間組、持田組、皿尾組、 谷郷組の四組に分け割役名主を置いた。忍城の所領のうち、城周辺以外で最も大きなものは、秩父領であった。藩では大宮郷(現秩父南)に陣屋を置き、勘定奉行、郡奉行の指揮下に代官が民政全般に当たった。」「忍城建物入札番号記」。手前に「両替商看板」。むかしの銀行の看板。「忍城建物入札番号記」ニの丸御殿や大手門、三階櫓など主要な建物に1番から1 8番まで番号をつけ、希望者は名前と金額を書いた紙を提出するよう通達が出た。「忍城入札結果」と「忍城の解体城郭の管理は明治政府の成立後も江戸城、大阪城といった江戸幕府直轄の城郭を除き各藩に委ねられていた。しかし、各藩とも財政の窮乏などから城郭の維持をあきらめ破却や修理取止めを明治政府に申し出た。忍藩も明治3年(1870) 8月に、忍城は破壊するに任せ修理を加えないことを申し出て認可された。明治4年(1871) 7月に廃藩置県が行われ、忍藩は忍県となるとニの丸御殿は忍県庁として利用された。しかし同年11月に埼玉県が成立するとニの丸御殿は政庁としての役割を終えた。明治4年(1871) 12月、城郭を管轄する兵部省は関東地方と甲斐国・駿河国の城郭の存廃調査報告書を提出させた。その中で忍城の評価は「城郭ノ四面悉ク沼地ニシテ水満テリ、土地極メテ卑湿往々水難アリ、其他城外高燥ノ地ナシ、廃シテハ如何」と記されている。明治5年(1872) 2月に陸軍省が設置されると同省は武官を各地に派遣し調査に当たらせ、翌6年(1873) 2月に城郭の存廃を決定し、不要な城郭は大蔵省へと引き継がれた。忍城も廃城と決まり城内の建物は競売に付されることとなった。ニの丸御殿や大手門、三階櫓など主要な建物に1番から1 8番まで番号をつけ、希望者は名前と金額を書いた紙を提出するよう通達が出た。落札金額はニの丸御殿635円、三階櫓175円4銭余などで、これに別ロの建物を加えた総額は2,334円81銭であった。こうして忍城の建物は地上から姿を消していった。」「描かれた忍城下『増補忍名所図絵』は、洞季香斎の編述した『忍名所図絵』を、忍藩士岩崎長容か、藩主の命により増補を加え、天保6年( 1835 )完成したものである。もともとの『忍名所図絵』は、香斎が序文で明らかにしているように、『江戸名所図絵』にならって作ったもので、忍城下の名所・古跡・神社仏閣その他の由来や、物産なとを紹介し、ここに展示した風景画などを加えた地誌である。天保6年に岩崎により増補されたものが現在残されており、当時の忍城下を知る唯一の資料である。岩崎長容は、通称角兵衛といい、国学者であるが、絵を好んだ人である。」「増補忍名所図絵」。上記の繰り返しになるが「増補忍名所図会」は文政8年 (1825)に書かれた「忍名所図会」を元に天保6年 (1835)、 同11年(1840)と2度の改訂を経て作成された地誌です。忍城周辺の忍藩領を 東西南北に分け、神社仏閣、名所旧蹟などを挿絵を交えて詳細に記されています。文政8年 (1825) 洞李香斎が「忍名所図会」を著作。 現在その所在は確認出来ていない。天保6年 (1835) 忍藩主松平忠尭の命によ藩士岩崎長容が「忍名所図会」を増補。 天保 6年版と思われるものの写本 が行田市郷土博物館にある。天保11年 (1840) 岩崎長容が2度目の増補版を作成。 名勝の地、古書の図、古器などの追加と、引用文書・口碑の類いを補足。 忍八景の図と寺院神社は熊谷寺以外の図を削除。 天保 11年版は須加村川島家をはじめ、幾つかの写本が確認できる。「増補忍名所図絵」に向かって右側から「荒川」。左上に「甲州山」そして「富士山」。ネットから(以下同じ)。次に「忍城眺望」。「荒川猟鮎」。「刀禰川(利根川)」。「刀弥(利根)の川原」。「小見村観音 岩窟之圖」。「蓬莱山熊谷寺」。「熊谷次郎直実」。「街道と交通」「街道と交通江戸時代の行田町は館林道と日光脇往週のニつの街道が城下町の手前の佐間ロで合流し、町の中心を貫けていたため、旅行者や物資が行き交う宿場町でもあった。新町と本町の境のT字路には高札場が設けられ、町年寄の家が集まっており、樋口家や加藤家が本陣、梅沢家が脇本陣を兼ねていた。物資の輸送を担う人馬も常備されており、安永5年(1776)には25人・25匹と定められたが、その費用は町民が家の間ロの広さに応じて負担していた。また、埼玉村から館林道に合流する騎西道や、持田村を経て熊谷宿へと向かう道、谷郷村から北上し利根川へと至る道などの間道もあり、城下町行田を中心に道路網が放射状に延びていた。」「忍御領分絵図忍城と周辺の村や道、水路などを記した絵図。城を中心に置き、その周りを城附四組:佐間組・持田組・皿尾組・谷郷組)の村々が囲み、その外に小判型をした他領の村々が表示されている。道を赤、河川を水色、堤を緑、村境を紺色で表し城の記載は省略されているが、領内の寺社名や境標、堰を記している。利根川を右(北)、荒川を左(南)に配置し、ニつの大河に挟まれた藩領の道や水路の位置を一目で眺めることができる絵図である。」「忍御領分絵図」。ズームして。城を中心に置き、その周りを城附四組:佐間組・持田組・皿尾組・谷郷組)の村々が囲み、その外に小判型をした他領の村々が表示されている。道を赤、河川を水色、堤を緑、村境を紺色で表し城の記載は省略されているが、領内の寺社名や境標、堰を記している。「木曽街道」。「木曽街道 上尾宿 加茂之社」作成者:渓斎英泉(けいさい・えいせん)日付: 1835頃木曽街道六十九次は1835年から1842年にかけて出版された浮世絵で、木曽街道(中仙道) 69宿に起点の日本橋と中津川宿の習絵各1枚を加えた71枚からなる。当初、渓尞英泉が日本橋から本庄宿までの11枚に加え、宿場を飛び飛びに13枚の24枚を描いたが、その後、歌川広重が引きいでいる。版元も当初の堂から錦樹堂に変わっている。この作品は、木曽街道のうち、日不橋から数えて5番目の上尾宿付近の農家が、風撲機で毀物を精選し俵詰めしている様子を描いている。農家の家屋内では、座繰りによる糸繰りが行われている。隣接する加茂神社は、当時大衆の信仰を隻めていた。「川舟」。「川舟行田市は北に利根川、南に荒川が流れ、その中心に位置する忍城のまわりにも大きな沼があり、かっては船をつかった往来が盛んでした。また、川での魚とりや利根川の洪水の時に避難するためにも使われたので、町中の商家でも持っていました。利根川の沿岸には、こうした川船を造る船大工がいました。この船は行田市下中条に住んでいた最後の船大工、中島徳ーさんが造ったものです。昔は「利根川の水が上から下に流れるあいだは、船大工の仕事はなくならない」といわれたそうです。しかし、鉄道や道路、橋ができてから船の仕事は減り、今では船大工は一人もいなくなってしまいました。」「駕籠(かご)」。「五海道其外延絵図 館林通見取絵図(国指定重要文化財)」。「五海道其外延絵図 館林通見取絵図(国指定重要文化財)この図は、江戸幕府が作成した五街道と脇往還の絵図集の一つで、館林道を描いたものである。城下町や宿場、街道の様子を俯瞰的かつ詳細に描いており、近世交通史の第一級の資料である。館林道は中山道を鴻巣宿北の箕田から分かれて堤根村、佐間村を通り、城下の手前の佐間ロで荒川を渡って吹上村からきた日光脇往還と合流し、行田町に入る。新町・本町・下町を通り長野村、小見村、荒木村を経て上新郷村(羽生市)から利根川を渡り、館林町を通って例幣使街道の天明宿(栃木県佐野市)に達する。八王子千人同心が日光東照宮の火の番に向かうのに通ったり、将軍の日光社参の際にはこれに従う御三家が日光街道の混雑を避けるために通行したいわば日光街道のバイパスである。特に天保14年(1843)の将軍徳川家慶の日光社参の際には、4月に御三家の尾張藩主徳川斉荘・紀州藩主徳川斉順・水戸藩主徳川斉昭が宿泊や通過、5月に御三卿の清水斉彊、一橋慶壽が通過した。」「岐阻街道 桶川宿 曠原之景(きそかいどう おけがわじゅく ひろはらのけい)」。木曽街道六十九次は1835年から1842年にかけて出版された浮世絵で、木曽街道(中仙道) 69宿に起点の日本橋と中津川宿の習絵各1枚を加えた71枚からなる。当初、渓尞英泉が日本橋から本庄宿までの11枚に加え、宿場を飛び飛びに13枚の24枚を描いたが、その後、歌川広重が引き継いでいる。版元も当初の保永堂から錦樹堂に変わっている。現在の埼玉県桶川市当時は日本有数の紅花の産地でした。軒下で乾燥仕事をしている女性に通りすがりの旅人がにこやかに話しかけている情景です。道中浮世絵では珍しい構図です。「岐阻街道 鴻巣 吹上富士遠望」。作成者:渓斎英泉(けいさい・えいせん)日付: 1835頃この作品は、木曽街道のうち、日本橋から数えて7番目の宿の鴻巣と8番目の宿の熊谷の間にあたる吹上から、遠く望む富士山を背に広がる関東平野を行きかう旅人達を描いている。」「岐阻街道 熊谷宿 八丁堤ノ景」。この作品は、木曽街道のうち、日本橋から数えて8番目の熊谷宿の茶屋付近のようすを描いている。あんころ、うんとん(うどん)の看板を掲けた茶屋では馬子が一服。供を連れた一行。道標には「右おしけうだ(忍行田)道」「左深谷ニ里廿丁」と記されている。「岐阻街道 深谷之驛」。作成者:渓斎英泉(けいさい・えいせん)日付: 1835頃この作品は、木曽街道のうち、日本橋から数えて9番目の深谷宿の夜の遊郭のにぎわいを描いている。深谷宿は木曽街道最大の宿場の一つで、多くの旅籠のほか、本陣・脇本陣、遊郭もあった。「支蘓路ノ驛 本庄宿 神流川渡場」。作成者:渓斎英泉(けいさい・えいせん)日付: 天保6- 8年(1835-1837年)宿より5.5キロ離れた神流川渡し場を題材としている。背景の山は上毛三山であり、右から赤城・榛名・妙義山である。土橋は初代戸谷半兵衛こと光盛が架けさせたものであり、長さ30間(約55メートル)、幅2間(約3.6メートル)。出水で橋が流された場合に備え、別に長さ5間5尺(10.6メートル)、幅7尺の渡し船も用意された。光盛は無賃渡しとする為に金100両を上納した。また、右手前(および向こう岸)の常夜燈は3代目戸谷半兵衛こと光寿が寄進したものである(在地豪商である戸谷半兵衛家の経済力と影響力がうかがえる浮世絵となっている。)」「道標」。「道標 佐間・三軒茶屋左 ささい道 右 加うのす道」。「街道の風景石田堤は天正18年(1590)の忍城水攻めの際に石田三成が築いた堤防である。ー里塚は下忍村と佐間村、埼玉村の境に築かれた。もとは道の両側にあったが、西側は崩されて東側のみ現存している。川俣関所は上新郷村(羽生市)の利根川の堤防付近にあり忍藩が管理していた。現在は石碑を残すのみだが、住来する船や川を渡る人々の取締にあたった。」「県指定史跡石田堤昭和三十四年三月二十日指定この堤は、天正十八年(一五九十年)六月、石田三成によって、忍(おし)城水攻めのために築かれたことから、石田堤と呼ばれています。天正十八年三月に始まる、豊臣秀吉の関東平定に伴い、北条氏に味方する、成田氏の拠城である忍城は、同年六月、石田三成、大谷吉隆、長束正家らによって、包囲されてしまいます。石田三成らは、地形を見て、忍城を水攻めすることにし、全長二十八キロメートルに及ぶ堤を、わずか一週間で作り上げたと言われています。実際には、自然堤防や微高地を、巧みにつなぎ合わせたものと思われ、現在残っているこの堤も、自然堤防上に一~二メートル程盛土をしたものです。こうして堤が完成し、利根・荒川の水を引き入れたのですが、地形的に、城や城下町より、下忍・堤根方面に水が溜ってしまい、遂には堤が決壊して、水攻めは失敗に終ります。しかし北条氏の降伏により、忍城は遂に開城するのです。今日では、ここ堤根に約二百五十メートルの堤を、残すのみですが、江戸時代、日光裏街道沿い樹えられた、樹齢三百年余の松や檜葉が並ぶ様は、往時をしのばせる、貴重なものと言えましょう。 石田堤を守る会 埼玉県教育委員会 行田市教育委員会」「川俣関所」。日光裏街道鴻巣から熊谷に出ないで、行田から上新郷を経て利根川を渡り、日光へ行くことができる。この道を日光街道といっていた。元和3年家康の遺骸は、ここを通って日光へ送られた。その時は八王子から川越に出て忍城にはいり、川俣で利根川に渡った。ここへは慶長年間から明治2年まで250余年間関所があった。昭和橋から約30メートル上流の上新郷別所地先の堤の中段に、高さ2.4メートルばかりの長方形の関所址の碑がたっている。江戸より両毛に通ずるこの要地は、忍藩の番士4人の内2人は帰農し、1人は不明だが、もう1人は横浜で医業にたずさわっていた。関所の所在地は利根改修で廃滅してしまったが、石碑から東北百間を去る堤外地であった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・行田天然温泉 ハナホテル行田
2023.08.08
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さらに「行田市郷土博物館」の展示品を追う。「古代の行田 古代から中世へ 奈良平安時代」。「古代の行田 古代から中世へ 奈良平安時代この時代になると、律令を中心とした国家体制が整ってきます。行田もこの流れと無縁ではなく、武蔵国埼玉(さきたま)県埼玉(さきたま)郷の行政区画の中に組み込まれることになりました。武蔵国は、多摩群に国府が置かれ、各群には群衛があり、行政や租税の徴収などが行われていました。また、この時代の特色は、文字が一般に普及し、集落の中からも文字の書かれた土器や硯などが出土しました。」「武蔵国」。行田は、一番東の武蔵国埼玉(さきたま)県埼玉(さきたま)郷の行政区画の中に組み込まれました。「墨書土器 池上遺跡出土 奈良・平安時代墨書土器は、土師器や須恵器に墨などで文字が書かれている土器。漢字一時や符号などが記されている。」「古代の行田 古代から中世へ 寺の造営」「古代の行田 古代から中世へ 寺の造営行田への仏教の伝播は、比較的早く、古墳時代の終わり頃には、古墳の副葬品の中に仏教的要素をもつ品々が含まれています。市内埼玉字下埼玉通にある旧盛徳寺は、大同年間(806~810)創建の寺伝をもち、市内で最も古く建立された寺と思われます。旧盛徳寺は、現在の聖徳寺のやや西方を中心とした寺で、数度の再建を経て、現在の寺城が残されたと考えられます。」「布目瓦 旧旧盛徳寺遺跡出土 奈良・平安時代布目瓦は、型と粘土の間に布を挟んだため、瓦の内側にも布目が付いている瓦。古代の瓦の一つ。」「万葉集 歌碑」👈リンク 案内。右:「万葉遺跡・防人藤原部等母麿遺跡(さきもりふじわらべのともまろいせき) 所在地 :行田市藤原町1-27-2 八幡山公園内 天平勝宝7年(755)に防人(さきもり)を派遣する際、諸国より選ばれた壮丁 (そうてい:成年男子)が父母妻子と惜別の情を歌った短歌90余詩が「万葉集第20巻」に 載せられています。市内若小玉地区にある春日神社、大御田等の地名等から、この地を 藤原部等母麿の遺跡と考察し、昭和36年5月1日に八幡山古墳に隣接して歌碑が 建てられました。碑表には「藤原部等母麿」とその妻である「物部刀自売」の2首の歌が 刻まれています。 「足柄の 御坂に立して 袖振らば 家なる妹は さやに見もかも」(万葉集 二十巻 四四ニ三) 「色深く せなが衣は 染めましを 御坂たばらば まさやかに見む」(万葉集 二十巻 四四ニ四) 歌の大意は、「夫の等母麿が防人として西国に行く途中、足柄峠で袖を振ったならば、 家に残った妹(妻の意味)にも、はっきり見えるであろうか。」妻からは、「もっと色を 濃く背(夫)の衣を染めればよかった。それなら、足柄のみ坂を通ったら、はっきり 見えるであろうに。」と唱和したものです。地理的には行田から足柄峠は見えるわけがなく、 出発前に衣の色にことよせて、別れの悲しみを夫婦間で取り交わした歌です。中央:万葉遺跡・小埼沼(おさきぬま) 所在地:行田市埼玉2636-3 小埼沼は、現在では小さな池が残るだけですが、上代の東京湾の入江の名 「埼玉の津」 万葉集の遺跡とされています。宝暦3年(1753年)忍城主阿部正允(まさちか)建てられた 万葉歌碑があり、正面に「武蔵小埼沼」の文字、側面にこの碑を建てた目的をあらわした 文章、裏面に小埼沼と埼玉の津の万葉歌2首が万葉がなで彫られています。 碑文では武蔵小埼沼はここだと断定しており、そのことを後世に残すことが、この碑を建てた 理由だったようです」 「埼玉の 小埼の沼に 鴨ぞ翼きる 己が尾に 零り置ける霜を 掃ふとにあらし」 (万葉集 九巻 一七四四) この歌は、埼玉の小埼沼にいる鴨がはばたいて、自分の尾に降り積もった霜を掃っている寒い 冬の早朝の風景を歌ったものです。この歌は、上の句が五・七・七、下の句も五・七・七の 繰り返す形式で旋頭歌(せどうか)と呼ばれています。作者は、常陸国(ひたちのくに:今の 茨城県)の下級役人であった高橋虫麻呂(むしまろ)といわれています。左:日本最古の『万葉集』歌碑、前玉神社「万葉燈籠」 所在地:埼玉県行田市埼玉5450 「埼玉の 津に居る船の 風をいたみ 綱は絶ゆとも 言な絶えそね」(万葉集 十四巻 三三八〇) 歌の意味は、津は船着場・河岸のことであり、埼玉の津に帆を降ろしている船が、激しい風の ために綱が切れても、大切なあの人からの便りが絶えないように、と考えられています。 冷たい北よりの季節風にゆさぶられる船の風景と、男女のゆれ動く恋の感情とを重ね合わせて 詠み込んだ歌で、東歌(あずまうた)の中の相聞歌(そうもんか)に分類されるものです。次に「足袋と行田 行田足袋の歴史 行田足袋の起源」。「足袋と行田 行田足袋の歴史 行田足袋の起源行田足袋の起源は、「真享年間(1684 ~ )に亀屋某が専門的に営業」したのが最初であると言い伝えられてきた。この亀屋については、実際にあったことが文化元年の資料により明らかになっています。明和2年(1765)の道中記に(忍のさし足袋名産なり」とあり、当時名産どいわれる程足袋が商品化していたことが知られます。こうした足袋の生産は、農家の農閇期の内職によって作られていたようです。」「革足袋(江戸時代)現在のような布製の足袋が普及したのは江戸時代で、それ以前は動物の革で作ったもの(革足袋)が主流でした。革足袋は野外で履くことを前提に作られ、耐久性と保温性に優れていましたが、通気性に乏しく蒸れやすいという欠点もありました。江戸時代になると、通気・吸湿性に優れて肌触りも良い素材として木綿布が広まり、庶民の衣料に使われるようになりました。こうした流れの中で、足袋の素材も革から木綿布へと移り変わっていったのです。また、明暦の大火(1657)により革の値段が高騰した影響もあったと考えられています。」「紐足袋(江戸時代)と肩紐足袋(明治時代)昔の足袋は、履きロ近くにある紐を足首で結んで留める形式(紐足袋)でした。幕末の忍藩士・尾崎石城が記した「石城日記」を見ると、汚してしまった衣服を井戸で洗おうとする場面で、脱いだ足袋に紐がついていることを確認できます。現在の足袋と同じく「こはぜ」という金具を用いて留める形式(こはぜ足袋)が登場したのは、明治時代の中頃以降だと言われています。」「足袋布用木綿生地機織り機」。「手縫い足袋工程」手前に裁断された布、奥に裁断用具が展示されていた。行田で足袋製造が発達した理由は色々説明されていますが、綿栽培の発達とその糸を使った「青縞」と呼ばれる小巾の綿布が特産であり、それが足袋用の布として利用できたこと、そして藍染が盛んであったことなどです。 次に「忍城の鐘」。「忍城の鐘亨保2年(1717)、伊勢国桑野で鋳造され桑名城の鐘として使用されたが、宝暦5年の桑名大火で破損したため、同14年(1764)に溶かして改鋳された。文政6年(1823)、転封により桑名藩主松平忠堯(ただたか)が忍藩主となったため、鐘も忍城に運ばれ、ニの丸にあった鐘楼に懸けられた。」形状:総高151センチメートル、口径79.5センチメートル、重さ600キログラムこの鐘は、松平忠雅(ただまさ)が山形から備後福山(広島県)を経て桑名へと三度の移封の後に安住出来たのを記念して、享保2年(1717)11月1日に造られました。それから38年後の宝暦5年(1755)1月12日の大火で、城の中外の300余軒を灰にし、鐘も火災で割れてしまいました。現存するこの鐘は、子の忠刻(ただとき)が、父の愛した鐘を失った事を嘆き、宝暦14年(1764年)に再鋳したもので、文政6年(1823)に松平氏が桑名から忍へ移封されるのに伴い、忍城へ移されました。明治時代の郷土史家・清水雪翁が著した北武八志には「今現に忍城にありて日々時を報する者即ち是なり。曽て総州候が伊勢桑名治城の時、鋳造するものなり」と記されており、忍城に由緒深い名鐘です。鐘楼は、城内二の丸の東隅にありましたが、明治10年(1877)に取り崩され、当時の進修館小学校校庭に再建され、時を報じていました。昭和28年(1953)東照宮に移転の後に、平成4年(1992)4月、鐘楼から鐘を取り外され、現在は行田市郷土博物館に展示されていますとネットから。「忍城御三階櫓 縮尺1/50」。そして「忍城御三階櫓」への連絡廊下を進む。「忍城の瓦」。近づいて。「丸に三つ葉葵」の紋は1590年(天正18年)から1600年(慶長5年)まで城番を勤めた東条松平氏と、1823年(文政6年)から1871年(明治4年)まで城主だった奥平松平氏の家紋。「忍城の鯱」。城の鯱は、海にいるシャチのことではなく、想像上の生き物。「鯱鉾(しゃちほこ)」ともよばれ、高い櫓の屋根や、大きな門の屋根に置かれた。火事になると口から水を吐き出すという言い伝えがあり、城を守ってくれると 考えられていた。「忍城の鯱この鯱は、昭和63年1月完成した新しい忍城御三階の屋根に乗せてある鯱と同寸法のもので、展示用に新しく製作したものである。記録によれは、江戸時代の三階櫓の鯱は、高さ6尺2寸で、行田町の町年奇吉羽惣太郎が藩命を受けて尾張国(愛知県)て作らせたものといわれている。忍城の主要な門は、ニ階建ての櫓門て、屋根に4尺ほとの鯱か乗せられ、3棟の櫓にも各々やや大きな鯱が乗せられていた。」「忍城図」ズームして。「忍城図文政6年(1823)松平家移封以後の忍城図。武家屋敷、本丸などの主要な曲輪、道、水路・堀、町屋、神社、寺院をそれぞれ茶、紫、黄色、水色、挑色、赤、灰色で色分けしてある。松平家では家臣の屋敷が不足したため、城内の矢場や馬場を屋敷に転用した。」「忍城二の丸御殿絵図」。「忍城二の丸御殿絵図忍城ニの丸曲輸とその中の屋敷や庭の平面図。当館常設展示室の「ニの丸復元模型」の原図となった資料であり、現在確認されている忍城内建造物の唯一の詳細な図面である。ニの丸は本丸や諏訪曲輪を南側から東側、北側にかけて取り囲むコの字型をしており、その南側部分に藩主の御殿がある。江戸時代初期を除いて本丸に主要な建物がなかった忍城では、ニの丸御殿が藩政の中心であるとともに、忍藩主の日常生活の場でもあった。」「ニの丸御殿は間ロ48.5間、奥行28間、総坪数608坪、畳の数755畳、部屋数72部屋、厠(トイレ) 11箇所、土間8箇所、湯段2簡所を数える。東側に玄関があり、敷台を上がると御広間、南へいくと三之間、ニ之間、御当院と続く。北側には中庭を挟んで御小姓頭や右筆、目付、御坊主等が詰める部屋がある。この部分が「表」になり御殿の公的な空間を形成している。その西側に御三之間、御ニ之間、御居間が続き、その奥に御神前之間、御居間、御寝所といった藩主が日常生活を過す奥向にあたる部屋があり、その北側には湯殿や台所などがある。御殿の最も奥まったところは女中部屋である。表門を入って右側の建物と東側から北側にかけてL字型に配置された長屋には、掃除方や御籠置場、御茶道、油方など御殿と曲輪を管理する者たちの部屋が並んでおり、その先には厩がある。御殿の西側には庭園があり、池の端には「奥」から突き出た御新屋敷がある。庭内には池のほか、東屋や神社、馬場や弓術場なども置かれている。」「忍城鳥瞰図」。「忍城鳥瞰図この鳥瞰図は、明治6 (1873)年に作成された原図を昭和10年(1935)に印刷・発行した城絵図である。忍城を南側から俯瞰しており中央やや左よりに三階櫓が描かれる。忍城の建造物は明治6年以後に解体されるので、その最後の姿を留めている絵図である。広大な沼地とそのなかに生い茂る芦が随所に描かれ、忍城がまさに沼地のなかに築かれた城郭であることがよく表されている。また、本丸や諏訪曲輪は鬱蒼とした森となっている。」ズームして。広大な沼地とそのなかに生い茂る芦が随所に描かれ、忍城がまさに沼地のなかに築かれた城郭であることがよく表されている。「くらしの道具」。「くらしの道具忍城下町は、行田町とよばれて栄えてきた町である。忍城下の特色は、城を囲むように武家屋敷が並び、町家は東にくちばしのように延びた4町からなる町並みだけであった。町明細図を見ると、町内の職種も多種類にわたり、その内容も時代により大きく変化しているようである。行田町内の人々は、その職種により、生活の仕方も、生活用具も異なったのであり、それぞれ特徴的な道具を今に残している。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・行田天然温泉 ハナホテル行田
2023.08.07
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次に「古代の行田 行田の遺跡 遺跡の分布」。「行田市は、利根川と荒川に挟まれ、古代から豊かな水利と大宮台地から伸びる台地とが入り組んだ地形をしていました。現在ではそうした土地の起伏はほとんどわからなくなっています。しかし、台地であった場所には多くの古墳や集落が遺され、その存在を私たちに教えています。この地では古墳時代だけではなく、はるか前から人々の営みがムラとして展開されていたことがわかっています。」「行田市の遺跡地図」。■酒巻14号墳 旗を立てた馬形埴輪 (国指定重要文化財)■酒巻15号墳 器財埴輪(埼玉県指定文化財) 1.太刀 2.靱(ゆぎ) 3.鞆(とも)「行田市の古代年表」「埼玉古墳群」。「埼玉古墳群埼玉古墳群は、行田市埼玉に位置し、5世紀半ば頃から7世紀初めにかけて築造された大型の古墳群です。武蔵国最大の前方後円墳、ニ子山古墳(全長約138m )や日本最大の円墳、丸墓山古墳(直径約105m )などを擁し、稲荷山古墳から出土した国宝「金錯銘鉄剣」や将軍山古墳から出土した馬具などの豊かな副葬品で知られています。」「戦国時代の「忍城水攻め」で知られる石田三成は丸墓山古墳に陣を置いたと伝えられています。現在でも丸墓山古墳からは忍城址をはるかに望むことができます。」古墳位置の写真下方中央に「稲荷山古墳」、その右「丸墓山古墳」、左「将軍山古墳」。その上、写真中央に「二子山古墳」。「稲荷山古墳出土 金錯銘鉄剣」。「古代の行田 ムラの発展 旧石器時代行田市に人が住み始めたのは旧石器時代からと考えられています。行田市の長野中学校の校庭から旧石器が表採されていますが、この時代のまとまった遺跡はみつかっていません。おそらく台地上を転々と移動しながら生活していたのではないかと考えられます。」。「古代の行田 ムラの発展 縄文時代縄文時代になると行田市内にムラが営まれるようになりました。人々は、縄目や竹管などを利用して複雑に焼文した土器を煮炊きや配膳に用いました。また、石器やナイフや斧のように加工して狩猟や採集を行い、祭祀にも用いていたことがわかっています。縄文時代の遺跡は、前期から後期まで続く〇〇○的なムラである馬場裏遺跡などがありますが、全体的に数は少なく、中期以降は小規模なムラが確認できるのみです。」「縄文土器 深鉢」。「古代の行田 ムラの発展 弥生時代弥生時代になると、大きな変化として稲作の開始が上げられま。ムラもそれに伴い、低湿地に隣接する微高地に展開しました。稲作の開始により、土器などの生活用具だけでなく身分の上下やムラ同士の争いという社会変化ももたらしました。方形周溝墓や環濠集落という遺構は、そうした変化を示すものと考られます。ただし、行田市内においては弥生時代後期のムラは極端に少なく、河川の流路変化などが背景にあると考えられています。」「小敷田遺跡国道17号建設工事に伴う発掘調査で明らかになった弥生時代中期を中心とするムラの遺跡。17軒の竪穴住居の他、5基の方形周溝墓、河川の痕跡が検出された。また、農作業に使う石器や米を蒸すのに使う甑(こしき)が出土するなど、稲作を行っていたことが明らかである。行田市では、弥生時代の遺跡はほとんど見つかっていない中で、北関東地域でも最古の農耕を行っていたムラとして貴重な遺跡である。●方形周溝墓●方形周溝墓は、埋葬部の周囲を浅い溝で5 ~ 15m程の方形に区画し、その土を中央に盛り上げて墳丘を築いた墓。墳丘墓の一種であり、埋葬者は複数の場合もあるが、その様相から身分の差が生まれ始めたことがわかる。」「古代の行田 ムラの発展 古墳時代古墳時代になると低地の自然堤防上に次々にムラが築成されました。これらのムラは農地開発の過程で展開していったと考えられ、古墳時代後期には長野地区や小針地区などに大きなムラが現れました。こうしたムラは、やがて小針遺跡や馬場裏遺跡などの大きな遺跡にまとまっていきました。」「小針遺跡(行田市小針)小針遺跡は、古墳時代前期頃から平安時代かけて発展したムラの遺跡である。行田市一帯のなかでも拠点的なムラであると考えられ、ムラが展開する以前の方形周溝墓も5基みつかっている。やや離れた行田市野に展開した築道下(つきみちした)遺跡とともに、埼玉古墳群の造営を支えたムラであると考えられている。古墳群の造営の背景には、こうした大規模なムラの存在があった。」「池守遺跡(行田市中里)池守遺跡は、古墳時代後期に発展したムラの遺跡である。この地域は荒川扇状地(現在の寄居付近を中心として熊谷、深谷にいたる扇状地)の末端のやや東寄りに位置し、扇状地下を流れた伏流水が湧水する。そのため、沼地・湿地が形成された。こうした沼地・湿地の周辺にムラが営まれ、豊かな水利が農業に利用されていたと考えられる。池守遺跡のような遺跡は「低湿地遺跡」と呼ばれ、その環境から木製品などが朽ちずに残る。池守遺跡からも農具や下駄、織物道具などの木製品が多く出土している。」古墳時代の「下駄」「下駄現代の下駄との違いは、2つある。1つは、鼻緒の穴の位置か、現代の下駄は中心にあるか、6世紀のは左右に寄っている。これは親指の位置に合わせているためで、鼻緒か中心にくるのは7世紀中頃以降といわれている。2つ目は、現代の下駄は歯の部分は別に作り、横から差し込む差し歯であるか、6世紀のは一枚の板から削りだしたもので、ノミやノコギリのあとか良く残されている。」「馬形埴輪」。「馬形埴輪 酒巻1号墳出土 古墳時代後期酒巻1号墳は、全長46メートルの前方後円墳。この埴輪は、高さ130センチメートルと馬形埴輪としては大型であり、足が長いのが特徴。」「馬形埴輪がまとう馬具 --酒巻1号墳出土 馬形埴輪」「古代の行田 古墳の造営 市内の古墳」。「古代の行田 古墳の造営 市内の古墳行田市内では、5世紀後半になると崎玉(さきたま)古墳群という巨大な前方後円墳を伴う古墳群が突然現れました。そして、これを始まりとして市内各地に古墳群の造営が始まりとして市内各地に古墳群の造営が始まり、7世紀後半まで続きました。古墳には円筒埴輪や形象埴輪など多くの埴輪が伴いました。これらの埴輪は武蔵国各地の埴輪文で焼かれ、行田まで運ばれてきたことがわかっています。」「小見真観寺古墳(おみしんかんじこふん)石室」真観寺境内にある全長102メートル、高さ8メートルの前方後円墳で、後円部と鞍部の2ヵ所に横穴式石室があります。後円部の南側にある横穴式の複室の石室は、寛永11年(1634)に発見され、秩父産の緑泥片岩による石室で巨大な石材を用いた精巧なものです。前室は奥行2.7メートル、幅2.2メートル、高さ2.1メートル、玄室は2.4メートル、幅2.2メートル、高さ2.1メートルで両室の間仕切りは、緑泥片岩の一枚石に四角い窓を開けています。鞍部にある石室は、明治13年に発掘され金環、鉄製刀子(とうす)、金銅装頭椎太刀(かぶつちのたち)、銅鋺(どうわん)などが発見されました。出土品は、東京国立博物館に所蔵されています。最近の発掘調査で周溝が確認され、その底付近から埴輪の破片が多く発掘されました。また、出土遺物などから6世紀末から7世紀初め頃に築かれた市内最後の前方後円墳でなはいかと推測されます。「大日塚古墳(1990年頃)」。大日塚古墳は6世紀前半頃に築造された直径18メートルほどの円墳と考えられています。本古墳は佐間古墳群に属し、周辺には他にも数基の円墳が存在していました。昭和52年8月に発掘調査が行われ、木の棺を粘土でくるんだ粘土槨(ねんどかく)が2つ並んで発見され、直刀、刀子(とうす)、鉄鏃(てつやじり)、人骨片等が検出されました。さらに粘土槨のすぐ下からは、長瀞の緑泥片岩を使って組み合わせた石棺1基が確認されています。古墳を保存するため石棺の中身については調査をしていませんが、1つの古墳に3人が埋葬されていたことになります。本古墳の築造時期は埼玉古墳群の稲荷山古墳に近い時期と考えられ、埼玉古墳群と周辺の古墳群との関連を考える上で重要な古墳であるため、平成11年に市指定文化財に指定し、平成13年に環境整備を行いました。墳頂部には嘉禎(かてい)2年(1236)銘の大日種子板石塔婆(だいにちしゅじいたいしとうば)が立っていましたが、昭和36年に県指定文化財に指定され、現在は保護のため史料館内に展示されています。「古墳群位置図」。酒巻14号墳出土埴輪(国指定重要文化財)酒巻14号墳は6世紀後半に築造された円墳で、市内の酒巻地区に展開する酒巻古墳群の中の一基です。多数の埴輪がほぼ原位置で出土しており、一括して国の重要文化財に指定されています。高句麗の古墳壁画にもその姿が見られる「旗を立てた馬」や、渡来系の衣装を着た「筒袖の男子」など、出土した埴輪は全体として渡来文化の影響を強く受けている点が指摘されています。「旗を立てた馬」は、馬の背に旗を立てるための馬具「蛇行状鉄器」の使用法を示す唯一の埴輪で、全国的にも珍しいものです。また、衣服の上から褌をしめて装飾品を多く身に着けた「力士の男子」の埴輪も、他の古墳から出土した力士埴輪とは異なる特徴がみられます。酒巻14号墳出土埴輪は、時期により一部資料の展示替えを行っています。ぜひご注目ください。手前に「馬形埴輪」「旗を立てた馬」は、馬の背に旗を立てるための馬具「蛇行状鉄器」の使用法を示す唯一の埴輪で、全国的にも珍しいもの。「国指定重要文化財 旗を立てた馬 酒巻14号墳出土 古墳時代後期旗を立ててある部品は「蛇行状鉄器」といい、渡来人の影響を受けた馬具である。」「うまがたはにわ 馬形埴輪土をやいて作った"はにわ"の馬です。上にとび出しているのは、馬のせなかに立てた旗です。根元のまがったところは、旗をささえる部品(蛇行状鉄器)をあらわしています。これまてに、版を立てた馬の"はにわ"が見つかったのは、なんと全国で行田だけ.とてもめすらしいものなんですよ。」「蛇行状鉄器--渡来文化を示す馬具--蛇行状鉄器は、まがりくねった筒状の形をしている。馬の鞍の後ろ(後輪)に装着して旗竿の受け部として使われた馬具である。朝鮮半島・大陸から伝わった渡来文化を示す遺物の一つである。日本では10例ほどの出土事例があり、埼玉古墳群将軍山古墳からも馬具の一つとして出土している。蛇行状鉄器を装着した埴輪は酒巻1号墳一例のみてある。」「高句麗古墳群 双楹塚(サンヨンチョン、平安南道龍岡郡)の壁画平成16年(2004年)に世界遺産に登録された高句麗古墳群は、当時の風俗を描いた豊かな彩色壁画で知られている。5世紀に築かれた双楹塚には、旗を立てた騎馬像の壁画が見られる。この他、通溝2号墳、三室塚の壁画などにも同様の騎馬像が見られる。」5世紀に築かれた双楹塚に描かれていた、旗を立てた騎馬像の壁画。手前な別の「馬形埴輪」。後方左は渡来系の衣装を着た「筒袖の男子」など、出土した埴輪は全体として渡来文化の影響を強く受けている点が指摘されています。後右に「力士」の埴輪。衣服の上から褌をしめて装飾品を多く身に着けた「力士の男子」の埴輪。「古代の行田 古墳の造営 酒巻古墳群行田市内に展開した吉墳群のうち、特筆すべき吉墳として酒巻古墳群があります。酒巻古墳群は利根川右岸に展開した古墳群で、現在までに23基の古墳が確認されています。酒巻古墳群からは多くの埴輪が見っかっており、特に酒巻14号墳から出土した埴輪は一括して重要文化財に指定されています。」「酒巻古墳群」「酒巻古墳群酒巻古墳群は、利根川沿いの酒巻地区に6世紀後半 ~ 7世紀台まで展開した古墳群である。現在までに23基の古墳の存在が明らかになっている。これらの古墳は現在の地表面から1 ~ 1. 5mも埋没しており、登頂部は削平されていたが、周溝部などから多数の埴輪や墓前祭祀跡が発見されている。」「酒巻古墳群の分布」。「酒巻14号埴輪出土位置と風景酒巻14号墳は、酒巻古墳群の中でも末期にあたる6世紀末に築造された円墳である円筒埴輪と形象埴輪が墳丘上のテラス部分にニ重に巡っていた。」「古代の行田 古墳の造営 古墳の埋葬方法古墳に死者を埋葬する方法に、石で室をつくり、横から出入りできるようにした横穴式石室があります。この石室模型は、市内の小針にある鎧塚古墳の石室の例です。この石室は、三味線の胴の形をした胴張り型横穴式石室とよばれ、中に秩父産の緑泥片岩を組み合わせた石棺が安置されていました。壁には群馬県榛名山の角閃石安山岩を、奥壁には秩父産の緑泥片岩を使用しています。この石室の断面は、石室を作る順序が良くわかる例です。まず川原石を据え、次に角閃石安山岩を積み上げていますが、裏側には補強として粘土が一段ごとに貼られています。粘土と粘土の間には、石の〇〇があり、一段ごとに粘土の上で加工しながら積み上げたことがわかります。」「副葬品」の勾玉、金環、管玉、小玉。小計塚鎧古墳出土。「ふくそうひん 副葬品古墳は、大昔に作られたおはかです。身分がたかく、つよい力をもった人のために、大きく、ごうかに作られました。古墳の中に入れられた品物を、ふくそうひん(副葬品)とよびます。金やガラスのアクセサリー、よろい挂甲(けいこう)など、当時の宝物があつめられました。」「須恵器」👈リンク。石室に埋葬された死者にささげられる祈りと祭のあとが展示されていた。酒巻八号墳は十四号墳の南東に位置し、全長約ニ十七メートルほどの前方後円墳で、石室は河原石を積み上げた横穴式石室。この石室の南側にむかう位置に下記写真のような須恵器大甕を中心とした祭りのあとが見つかったのだと。この須恵器に何が入っていたかはっきりしていないが、おそらく現代のお葬式でも墓に供物の膳をあげるのと同じように、食べ物や酒などが入っていたと思われます。さらにこの須恵器の前に五頭の馬が配置されており、その馬に囲まれた空間で死者に対してお祭りが行われ、深い祈りがささげられたと。こうした大型の須恵器を使ったお祭りは、近くで酒巻二十号墳やさきたま古墳群の中にある中の山古墳などでも確認されており、六世紀の終わり頃盛んに行われていたようです。」反対側に回って近づいて。中央にあるのが「横甁(よこべ)」胴部を縦に成形してから上下に蓋をして横に口を開けて作るという変わった作り方をしている。横から見る。「古墳に備えられた須恵器--酒巻8号墳の大甕須恵器は、古墳時代の半ば(5世紀はじめ)頃に朝鮮半島からもたらされた青灰色て硬い土器。5世紀の終わリ頃には日本各地に須恵器を焼くための窯が造られ始めた。この須恵器の産地は金山丘陵(群馬県太田市)と推測されている。古墳のまわりで祭祀に使われた須恵器は、その場で打ち割られている事例がある。しかし、この須恵器甕は焼成された段階ですでに焼き歪んで割れてしまっていたと考えられる。」「古代の行田 古墳の造営 墓前祭祀」「古代の行田 古墳の造営 墓前祭祀古墳は、本来死者を埋葬するために作られた墓で、埋葬された死者に対して行われた祭りを墓前祭祀といいます。この墓前祭祀は、前方後円墳である酒巻8号墳において行われたものの一部です。祭りは、両側に23本の円筒埴輪で区画し、須恵器大型甁4個、須恵器横瓶1個、土師器高杯2個、人物埴輪2体、馬形埴輪5体で構成され、冂字形に馬形埴輪で囲まれた広場で祭りが行われたと想像されます。」「8号墳墓前祭祀」の発掘現場の説明図。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・行田天然温泉 ハナホテル行田
2023.08.06
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「忍城復元模型」。忍城は、室町時代中期に成田氏によって築城されたと伝えられている。城は南北を荒川と利根川とに挟まれ、周囲には広大な湿地帯が広がっていた。成田氏はこの湿地帯を、あえて埋め立てようとはしなかった。陸地同士に橋を渡し、沼を堀のように生かしたのだ。いわば自然堤防に守られた要害であり、まさに「攻めるに難く、守るに易い」堅城で、関東七名城のひとつに数えられた。場所を移動して。さらに。そして次に「近世の行田忍城は、阿部氏により整備されて以来、城下町の拡張はあるものの、基本的な形は幕末まで変わらなかったようである。本丸は、うっそうとした木立に囲まれていたが、現在の忍中学校あたりの二ノ丸には。城主の御殿が建てられていた。土塁とその上の土塀に囲まれた水辺には、三階櫓1棟、二重櫓2棟がそびえ、忍藩10万石の威容を誇っていた。」「松平忠吉」。「藩主とその時代 松平忠吉松平忠吉は徳川家康の4男として、浜松城に生まれた。母は西郷氏で2代将軍徳川秀忠の同母弟にあたる。(東条)松平氏の養子となり松平姓を称し、天正20年(1592)に忍城主となり10万石を領した。関ヶ原の合戦の後、尾張国清洲に転封となり62万石を領したが28歳で病死し、嫡子がなく(東条)松平氏は断絶となった。市内持田の正覚寺には、子供の梅貞童子の墓が残されている。」「梅貞童子御守筒(複製)松平忠吉が長男の無事生育を祈念して作らせた御守筒で、中にお経を入れて背負ったという。ところが、生まれて間もなく長男は亡くなり、梅貞童子という法名がつけられた。」「藩主とその時代 城番の時代慶長5年(1600)に松平忠吉が転封してから、寛永10年(1633)に老中松平信綱が城主となるまで、33年間忍城には城番が置かれ、周辺の領地は幕府領となった。この時期に、幕府によって周辺の河川工事が進められるとともに、伊奈氏や大河内氏らが幕府の代官による検知が行われ、年貢割付状が発行されるなど、農業政策の基盤が整えられた時代であった。」右にあったのが「酒巻村検知帳」と「忍領在々御普請役高辻帳」。天正18年(1590)に徳川家康が関東に入ると、江戸を洪水から守り、関東の肥沃(ひよく)な平野を穀倉地帯に変えていくため、大規模な治水対策が行われました。その要の一つが利根川と荒川に挟まれた忍城を中心とした、忍領の治水対策です。この地域は現在の行田市をはじめ、熊谷市や鴻巣市、羽生市の一部も含まれる広い範囲で、戦国時代には成田氏の支配領域となっていました。河川は多くの村々を通るため、治水対策は一村だけではく、流域の村々が共同で当たる必要があります。ところが、武蔵国の村々は幕府領・藩領・旗本領など領主が分散し、忍領もその例外ではありませんでした。したがって領主が違う村々を共同で治水に当たらせるには個別の領主権力を超えた、幕府主導による組合設置の必要がありました。寛永12年(1635)、幕府は忍領111村、合計10万8千石にも上る村々を対象とした利根川と荒川の維持管理に関する組合を設置しました。この村々の名前と石高を記したのがこの「忍領在々御普請役高辻帳(ごふしんやくたかつじちょう)」です。内訳は、幕府領が51村・4万7480石余、旗本領が50村・4万590石余、忍藩領が14村・1万9987石余となっています。村数の合計が合わないのは、一村に複数の領主がいる相給と呼ばれる村々があるためです。高辻帳に記載された各村の石高が、利根川や荒川の堤防工事や用悪水路などの維持管理に必要な人足や資材を負担する際の基準となりました。これに基づき、幕府代官が忍領内の普請などを実施することとなったのですが、寛永19年に組合の管理が忍藩に移管されました。今風に言うと、国が設置した組合を地方に移管して管理させたということになりますが、忍藩が幕府の権限を代行して執行することになったともいえます。この役割は文政6年(1823)の国替えにより一旦は幕府に戻りますが、同13年には再度忍藩が担当することとなり、幕末まで用水管理と普請を管掌し続けたのです。「大御所となり駿府城(現静岡県静岡市)に生活の拠点を移していた徳川家康は、ニ代将軍の秀忠がいる江戸や忍・川越・岩槻・越谷へも頻繁に訪れた。忍城の周辺には沼地が点在していたため、水草が茂り、鷹狩の獲物となる水鳥も多く生息していた。後の忍城主阿部家の事蹟をまとめた「公餘録」には「御本丸ハ権現様殿之御跡」と記されており、かって忍城の本丸に家康が宿泊するための御殿が建てられていたことが判明している。」「忍領在々御普請役高辻帳 中村家文書 寛永12年(1635) 貞享3年(1686)水害の絶えない利根川と荒川の堤・井堰・堀等の維持・管理に要する費用を負担する流域村々を定めた文書。「忍領」と言われる地域に広がっていたため、忍領御普請組合と呼ばれた。組合に属する村は忍藩領だけではなく、本来は江戸幕府の役人が管理を行う。ところが、幕府は近世を通じて忍領御普請組合の管理を忍藩に担当させた。全国的にも珍しい事例である。」「鯱(しゃち)これは”しゃち”とよばれる想像上の生きものです。おしろの屋根や門の上にいて、火事がおきたときには口から水をはき、火をけしてくれるとかんがえられていました。ここにおかれているのは、江戸時代に忍城の屋根にあった”しゃち”です。長いあいだ、おしろを見守っていたんですね。」「阿部忠秋自筆覚書」。「現代語意訳覚え一、徳川将軍家を中心とする幕府を重んじ、そこへ仕えるにあたってあなたは昼夜とも油断してはならない。このようなことはわざわざ口にすることではないが、私たちはこれまで将軍から特別に取り立てていただいてきた。その恩は非常に深いものでありながら、それに報いるほどの働きをしないことは大変に無念なことである。第一にあなたは冥加のためにするべきことは、私たちに対しては言うまでもなく、先祖たちへの孝行なのである。また、将軍家への奉公にあたっては周りの様子を窺うのではなく、たとえ身の丈に合わないことであっても勤めるよう心掛けることが大切なことである。一、家臣として仕える者については、私たちが取り立てて信頼して仕える者であっても、その者の不忠・不義・無作法はもちろん、あなたの意に背く場合は少しの用捨をすべきてはない。しかし、行儀作法を謹み、忠義を重んじ、悪事を行わない者については、家来の上下にかかわらず信頼して取り立て、慈悲深く召すとよい。私たちが取り立てて信頼し用いる者のうら、右のような者たちはニ代にわたる忠義が浅いものではないということをよく承知しておきなさい。一、世の中が泰平てあるので、武土は武道の鍛錬を怠り、武芸の稽古をする者も少ない。また、身の丈に合わない贅沢をして、家業ではない浪費をし、内々に欲深く百姓を困窮させ、家中の同輩に道理に合わない処罰をして、倹約の筋を誤り、武士道の嗜みを怠り、生活が乱れた者もいるようである。わざわざ口にすることではないのだが、あなた自身の慎みが第一のことなのである。もっとも、家臣の下々に至るまで武士の生き方を忘れ作法を取り乱さぬように心を配ることが肝要なことである。右のとおり油断なく心に留めるように。そのほかについては注意すべきことはないので、右の趣旨をもって自ら考えていくようにせよ。寞文十一年六月廿八日豊後守(花押)阿部播磨守殿」「武蔵国の忍藩領 正徳2年(1712)時点」忍藩領は忍城の城付領だけでなく、荒川流域の秩父領や柿かきのき木領、近畿地方の摂津国にまで及び、所領高は10万石を超えていた。「文政6年(1823)の三方領地替え文政6年3月下旬、3つの大名家を転封させる「三方領知替え」が発令されたこれによリ、白河藩の松平定永が桑名(伊勢国)に、桑名藩の松平忠堯が忍(武蔵国)に、忍藩の阿部正権が白河(陸奥国)に移ることとなった。転封の理由については様々に推測されているが、白河藩が房総半島で行っていた海岸警備が遠隔地で大きな負担となリ、松平定永が場所を移リたいという願いを幕府に上げていたこと、阿部正権が病弱で「奉公を勤められるという確認」である将軍への初めての「御目見」を果たせていなかったこと、これらのニ点が大きなものと考えられているこうして、3家が転封されたことによって現在の3市の縁が作られた。」「松平 忠堯 系譜」松平 忠堯(まつだいら ただたか)は、江戸時代後期の大名。伊勢国桑名藩7代藩主、武蔵国忍藩主。官位は下総守。奥平松平家9代。享和元年(1801年)6月9日、桑名藩主・松平忠翼の長男として誕生。嫡出であったため、家祖・松平忠明の幼名である鶴松丸を名付けられた。文政4年(1821年)、父の死去に伴い藩主となり、文政6年(1823年)3月24日には三方領地替えにより、阿部正権の後の武蔵忍藩へ転封を命じられた。天保3年(1832年)、侍従に任官。天保9年(1838年)、弟・忠彦に家督を譲って隠居した。元治元年(1864年)8月14日、死去した。享年64。「近世の行田 忍城 二ノ丸御殿」。「近世の行田 忍城 二ノ丸御殿現在の忍中学校あたりは、かっての忍城二ノ丸にあたり、土塁、土塀に囲まれていた。この建物は、ニノ丸にあった城主の御殿であり、残されている絵図から再現したものである。そのおおよその規模は間ロ48.5間、奥行28間、総坪数608坪。室数72室。畳数755畳。廊下8ヶ所。厠11ヶ所。土間8ヶ所。湯殿2ヶ所である。周囲には、各係の詰める長屋が建てられていた。」軍服・甲冑が並ぶ。「軍服(複製)」 。忍藩士の鎧 「鉄錆地胸取横矧桶側五枚胴具足」。本甲冑(鎧兜)は兜・面頬・胴に中八幡義一の銘が入った非常に状態の良い具足です。中八幡義一は阿波蜂須賀家御抱え甲冑師として伝わります。兜の吹返には金銅(こんどう:銅や青銅に金めっきした物)金具が付き、胴には金で「丸に三つ柏」の家紋が描かれています。縁起の良い伊多羅貝(いたらがい)の前立と品のある美女相の面頬が特徴的な具足です。浅葱色(あさぎいろ)の縅糸も鮮やかで非常に美しい甲冑(兜鎧)です。「鉄錆地胸取横矧桶側五枚胴具足」「鉄錆色漆塗縦矧桶側ニ枚胴具足」。「鉄錆色漆塗縦矧桶側ニ枚胴具足忍藩士柴田家伝来 江戸時代兜は鉄板16枚をつなぎ合わせて漆を塗った十六間筋兜。忍藩主(奥平)松平家の合印である釘貫紋の前立を立てる。しころは鉄板5枚を黒漆塗として紺色で素懸威とした日根野形。胴は鉄板を縦につなぎ合わせて漆を塗った縦矧桶側ニ枚胴で、前立挙と胸板を黒韋(くろがわ)で素懸威とする。草摺(くさずり)は煉革(ねりかわ)5枚を黒漆塗として黒韋で素懸威とした七間五段下り。袖は鉄板6枚を黒漆塗として縹色(薄い藍色)の糸で素懸威にする。籠手は鉄錆色漆塗の六枚筒籠手。佩盾(はいだて)は鎖に鉄製漆塗の骨牌金(かるたがね)を綴じる。」「近世の行田 城下町のくらし 町のようす」。「近世の行田 城下町のくらし 町のようす城下町行田は、阿部氏の整備によりその基礎が定まり、(奥平)松平氏の移對により拡張され、今日に至っている。城下町特有の間口が狭く、奥行が長い地割りは今でも残されている。江戸時代にはこの町もたびたび大火にあい、特に弘化3年(1846 )の大火では町の大半を焼失した。この時以来、土蔵造りの家は火に強いと、本町や新町に多く造られるようになったといわれる。」「日本遺産 足袋蔵のまち行田」。「足袋と行田」ゾーンでは、「行田における足袋製造の歴史」👈リンク を学ぶことができた。行田は近世より足袋の産地として知られた地域。明治中期にミシンや裁断機が導入され、大量生産が可能となり、最盛期の昭和戦前期には全国生産量の80%を占めていた。ここ行田市郷土博物館が開館以来、長年にわたり収集・整理を行ってきたもので、行田の地場産業として営まれてきた足袋製造に関する用具と、製品や販促品等の関係資料から構成されていた。製造用具は全工程を手作業で行っていた時代の用具から、分業に特化したミシンは裁断機等、機械化以降の用具までがあり、我が国における製造業が近代的な製造形態へと移行していく流れを読み取る上でも重要な資料です。関係資料には行田で製造された製品や付随する販促品、足袋屋の店舗で使用された様々な物品等が含まれています。資料を通じて、製造のみならず販売も自ら行う足袋屋が個々に併存し、地域総体の産業として発展したという行田足袋の地域的な特色が窺えたのであった。「裁断機」。「裁断機・・・・・?????足袋生地の上に裁断用の型を置いて、手動で上からハンドルで押し、抜き打ち裁断する機械」。底型 足袋の底の部分 親指と人差し指の間の 指の股にスリットが入っています。 人間の全体重を支えます。四ツ型 人差し指、中指、薬指、小指の四本の指が入る側、前に進む力を作るなど指が快適に包まれて いることが大切です。親型 親指が入る側 踏ん張ったり、バランスをとったりするのに指が自由に動かせることが重要です。「掛通しミシン」。掛糸通しという工程です。かかとで止め金(甲馳=コハゼ)を掛けるための糸(掛糸)を親型に一気に通します。甲馳に対して寸法を気をつけないと履き心地がよくない。二度通しをしないこと、よりの戻った糸は使わないことで、足の動きを快適にしています。「掛通しミシン甲馳(こはぜ)の掛け糸を付けるミシン。生地のカカト部分に針を刺して引き抜くことで糸を通す。布同士の縫い合わせに使われるミシンと比べて大きく異なる形が特徴。」「甲馳付けミシン」「甲馳付けミシン生地に甲馳を縫い付けるミシン。甲馳形のくぼみがついた専用の板を生地の上に置き、くぼみに甲馳を並べて、その上をまっすぐに一往復縫う。針は甲馳に開けられた3か所の穴を的確に通り、甲馳を傷つけない仕みになっている。」「爪縫いミシン」「爪縫いミシン爪先を縫うミシン。生地に均等な大きさのひだを寄せながら縫い、爪先を立体的に仕上げる複雑な動きをする。元は革靴を縫うために使われていたドイツ製のミシンを足袋製造用に改良したもので、通称「ドイツ八方」と呼ばれる。爪縫いは足袋の履き心地を左右する重要な工程であり、また非常に繊細な作業であるため、爪縫いミシンを扱うには熟練した技術が必要とされる。」「廻しミシン」。「廻しミシン爪先を縫った後、残りの部分を縫って底と甲とを縫い付けるミシン。」「仕上げをする職人」。横から。「仕上げをする職人(チャセンとツッコミボウを使う様子)縫い終えた足袋の形を整える一連の作業を「仕上げ」と呼ぶ。見た目以上に力が要るため、主に男性の職人が担う。」左:「紺紐足袋」右上:「刺し子の紺足袋」右下:「東海木曽両道中懐宝図鑑」「紺紐足袋紐足袋の一種。踵(かかと)側に穴が開いており、内側から紐を通して締め具合を調節できる」「刺し子の紺足袋爪先など、すりきれやすい部分に刺し子(補強用の刺繍)を施し、頑丈に作った足袋。「東海木曽両道中懐宝図鑑」に出てくる「忍のさし足袋」は、刺し子の足袋を示すと考えられる。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・行田天然温泉 ハナホテル行田
2023.08.05
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そして「行田市郷土博物館」を訪ねた。「博物館総合案内」かって御三階櫓は、現在の水城公園の付近に建っていましたが、忍城の解体にともない破却されました。現在、忍城址に再建された御三階艪には、郷上博物館の渡り廊下から入ることができ、内部は「忍城と城下町」「近代・現代の行田」を紹介する展示室となっていた。●博物館展示室 ◆テーマ1『中世の行田』 成田氏の忍城築城から1590年の石田三成らによる水攻めにより開城するまで ◆テーマ2 『近世の行田』 江戸時代の忍城主のうつりかわりと忍藩の教育・文化遺産 ◆テーマ3 『足袋と行田』 江戸時代からの足袋製造の歴史と一つの足袋がてきるまての縫製工程 ◆テーマ4 『古代の行田』 古墳を中心とした古代のくらし●三階櫓展示室 (博物館と2階展示室とが連絡通路で結ばれています) 2階展示室 ◆テーマ5『忍城と城下町』 忍城・城下町のくらしと生活道具 3階展示室 ◆テーマ6『近代の行田』 明治以降から昭和30年代頃までの町並みとくらしのうつりかわり 4階展望室 晴れた日には筑波山から日光の山々、さらに群馬三山から富士山までの山並みが 360°の眺望により見ることができます。 入館料:200円/大人 と。「行田市郷土博物館」入口。「ブラタモリ」が7月15日(土)に放送されたのであった。入館料を支払い中に入る。忍城周辺のジオラマ模型。忍城は北に利根川、南に荒川が流れる扇状地に立地。沼地や自然堤防を巧みに利用している。浮き城や亀城とも呼ばれた と。こちらは「忍城」のジオラマ模型。ズームして。「このお城はマッチ棒3,800本を使用して制作したものです」と。「博物館内&御三階櫓」内略図。「歴代忍城主の家紋」が並ぶ。「歴代忍城主の家紋」右から●丸に三つ引き 《成田氏》 戦国時代前期から天正18年(1590) 7月まで 成田顕泰・成田親泰・成田長泰・成田氏長●丸に三蝶の内十六菊葉 《大河内松平氏》 寛永10年(1633) 5月から寛永16年(1639) 1月まで 松平信綱●丸に違い鷹の羽 《阿部氏》 寛永16年( 1639 ) 1月から文政6年( 1823 ) 9月まで 阿部忠秋・阿部正能・阿部正武・阿部正喬・阿部正允・ 阿部正敏・阿部正識・阿部正由・阿部正権●丸に三つ葉葵 《東条松平氏》 天正1 8年( 1590 ) 7月から慶長5年( 1600 ) 10月まで 松平忠吉 《奥平松平氏》 文政6年(1823) 9月から明治4年( 1870 ) 7月(廃置県)まで 松平忠堯・松平忠彦・松平忠国・松平忠誠・松平忠敬まずは第1展示室へ5世紀後半、忍城は忍川の流れ込む沼地に築城されました。展示室では、伝来した城絵図や忍城跡の発掘調査によって発見された資料の数々から、往時をしのぶことができます。天正18年(1590年)の忍城水攻めの経緯についても、戦国武将の書状や石田堤の想定図等から知ることができます。「はじめにわたしたちの郷土『行田』は、水と緑に恵まれた豊かな自然の中にあります。今日の行田を築き上げてきた、わたしたちの祖先は、豊かな自然の中にその歴史を深く刻み込み、また、多くの文化遺産を残してまいりました。長い行田の歴史と多彩な文化を通観すると、大きな三つの特色があります。ひとつは、忍城の栄枯盛衰と城下町の移り変わり。次に「足袋の行田か行田の足袋か」といわれた足袋製造の歴史。最後に埼玉古墳群を中心とする古代の歴史と文化です。常設展示では、この三つの特色を中心にして・行田の歴史と文化が理解できるように構成されています。」「中世の行田」。展示室を望む。「中世の行田 築城と水攻め 成田氏の台頭」天正18年(1590)豊臣秀吉による小田原城攻めの中で小田原北条氏に属していた成田氏の本城忍城(おしじょう、埼玉県行田市本丸)は石田三成の水攻めにも屈しなかったことで有名です。戦国時代、行田周辺の武蔵武士の中から崎西郡成田郷(きさいぐんなりたごう・現在の熊谷市上之)を出自とする成田氏が台頭し、忍城を築城します。文明11年(1479)、古河公方足利成氏(あしかが・しげうじ、1438~1497)の書状に「忍城」「成田」と出てくるところから既に築城されていたと判断されます。当時の城主は成田顕泰(なりた・あきやす、1465?~1524)で、その後親泰、長泰、氏泰と4代に亘り約100年間忍城を支配していました。忍城が築城された地勢状況は北側に利根川、南側に荒川にはさまれた扇状地で小さな川が乱流し、伏流水が集まって広大な沼地となっている地形を背景に、小島や自然堤防を巧みに利用して造られています。永禄3年(1560)越後から上杉輝虎(謙信)の関東出陣に際し成田氏はそれまでの小田原北条氏の「他国衆」の立場を離れ旧宗主に属したものの、鶴岡八幡宮に於ける関東管領就任式において辱めを受ける事態になりこれを機に輝虎(謙信)と敵対関係となり再び北条氏の傘下に入ります。天正18年(1590)いわゆる豊臣秀吉による小田原北条氏討伐に際しては、同氏に属している成田氏は城主氏長(うじなが、1542~1596)は精鋭の家臣を引き連れ、他の他国衆の城主と共に小田原城に籠城、忍城に残された士卒・兵・農民ら数千人は忍城に籠城します。秀吉の使命を受けて石田三成は忍城を攻めますが、堅城の忍城を攻めあぐね、ここで水攻めにより一挙に落城させ秀吉の期待に応えたいと考えます。ここで後世に名を残す約30Kmとなる「石田堤」を造りますが、忍城籠城兵による細工で堤防決壊、逆に石田側の将兵が水死することになり散々な状況に置かれます。最終的には忍城は落城回避されますが、小田原城籠城の成田氏長が秀吉方に内通し功を挙げたことで忍城城兵の助命を受け入れる形で結果開城することになります。「六条八幡宮造営注文建治元年(1275)に行なわれた京都の六条八幡宮造営に際して、その費用を負担した御家人の名前と額を書き記したもの。また成田入道や若児玉次郎、忍入道、津戸入道、久下権守、熊谷三郎入道、西條人々、別符左衛門尉、須賀入道など、行田や熊谷周辺の御家人の名がみえる。」展示品をさらに追う。「天正年間 武蔵忍城之圖」。ズームして。「忍城址発掘出土品」「馬の頭骨 戦国時代本丸東側、諏訪曲輪との間の堀底から見つかった。頭頂部を下にして、右側頭部を堀に架かる橋の橋足で貫かれており、工事の段階で意図的に置かれたものと考えられている。」「土師質土器」、「忍城出土の各地の陶磁器」。「板碑・大日種子板石塔婆(だいにちしゅじいたいしとうば)」鎌倉時代形状:高さ193cm、幅64cm、厚さ8cm。板石塔婆は、板碑(いたび)とも呼ばれ、鎌倉時代以降盛んに造られました。秩父青石(ちちぶあおいし)といわれる緑泥片岩(りょくでいへんがん)等を使った石碑の一種で、一般的に死者の霊を供養するために造立されました。「大日種子板碑 県指定 嘉禎(かてい)2年(1236)佐間大日塚古墳の墳上にあった市内最古の板碑。初期板碑特有の重厚さをもつ。主尊は金剛・胎蔵両界大日如来。造立者「左近将監」が、彼岸に際し、父母の現世と来世の冥福を祈り造立したものである。」「中世の行田 築城と水攻め 祈りの造形--板碑--板碑は、死者の冥福を析る追善供養のため、また生前に自らの死後の冥福を析る逆修供養のため造立されるもので、この地域では、秩父産の緑泥片岩を使用している。行田市には、現400基余りが確認されている。最も古い例は、嘉禎2年(1236)で、最も新しい例は、元亀2年(1571)である。」中央の大きな「板碑」。「阿弥陀種子板碑 市指定 建治元年(1275)市内最大の大型板碑。今はなき主君の冥福と生きとし生けるものへの功徳を願い造立したもので、供養者の「沙弥西念」は在地の領主層と目される。中断には六字名号と図案化した五輪塔を併刻。阿弥陀種子は三宝珠を伴う。」「阿弥陀種子板碑 市指定 元応3年(1321)」元は市内小針地区にあったものを、史料館に移動した。鎌倉時代形状 :高さ216cm、幅52cm、厚さ8cm。「阿弥陀種子板碑 市指定 元応3年(1321)阿弥陀3尊の主尊に梵字光明真言の組合わせという、典型的な武蔵型板碑の内容をもつ。銘文は文字不明の部分もあるか、春彼岸(「ニ月時正」)、故人の三十三回忌の追善供養のために造立されたことかわかる。」「いたび 板碑この大きな石の板は、板碑とよはれるものです。きざまれているもようには、なくなった人をなぐさめ、平和をねがう、いのりの心がこめられています。この板碑のざいりようは、緑泥片岩というしゆるいの石です。秩父の山からたくさんとれる石で、この板碑も秩父の石で作られたと考えられています。」「板碑の形態」。板碑の形態は、頭部を三角形にし、2条の溝が刻まれ、梵字(ぼんじ)(種子(しゅじ))や画像で主尊とする仏(阿弥陀(あみだ)、大日(だいにち)、釈迦(しゃか)、地蔵(じぞう)、観音(かんのん)など)を表現し、その下に銘文が刻まれているのが一般で、この形態の起源については諸説があるが、五輪塔の形態が転化したものとする説が現在もっとも有力である。「中世の行田 築城と水攻め 忍城水攻め天正18年(1590)6月、天下統一を進める豊臣秀吉は、成田氏一族や家臣が立て籠もる忍城を攻めるため、石田三成を大将とする2万の軍勢を派遣した。着陣した三成は水攻めを行うため、忍城の東側から南側にかけて長大な堤を築いた。これに浅野長吉らの武将が加わり、皿尾口などで成田軍と激しい戦いが行われた。しかし、小田原城が降伏したため、忍城を7月14日に開城した。」右に「豊臣軍関東進撃図/天正18年(1590)」と「石田堤想定図」。「豊臣秀吉朱印状(複製) 天正18年(1580)6月12日」「豊臣秀吉から石田三成に宛てた朱印状。三成に対して、水攻めを行う前の施策としてさまざまな指示を与えている。忍城内から命乞いが出されていることや、水攻めをすれば隣郷が荒地となるため、足弱(老人や婦女子)以下は端城に避難させ、岩付城(さいたま市)同様に鹿垣(第・木でつくった橋)内に留置すること、三成を信用しているので別の奉行は派道しないこと、城内の家財道具を散逸させないようにすべきことなどが命じられている。」「忍之城儀、可被加御成敗旨、堅雖被仰付候、命迄儀被成御助候様与、達而色々歎申由候、水責ニ被仰付候者、城内者共定一万計も可有之候歟、然者憐郷可成荒所候間相助、城内小田原ニ相籠者共足弱以下者端城片付、何茂請取候、岩付之城同前ニ鹿桓結廻入置、小田原一途之間者、扶持方可申付候、其方非可被成御疑候間、別奉行不及被遣之候、本城請取急与可申上候、城内家財物共不散様、政道以下堅可申付候也、 六月十二日 (秀吉朱印) 石田治部少輔とのへ」「読み下し忍の城の儀は、御成敗を加えらるべき旨、堅く仰せつけられ候といえど、命までの儀御助けなられ候ようと、たって色々歎き申すよし候、水責めに仰せ付けられ候は、城内の者ども、定めて一万ばかりもこれあるべく候か、しからば憐郷荒所になるべく候間相助け、城内・小田原に相籠る者共・足弱以下は端城へ片付け、いずれも請け取り候、岩付の城同前に鹿垣結廻し、入れ置き、小田原一運の間は、扶持方申し付くべく候、其方御疑を成さるべきに非ず候間、別奉行はこれを遣わさるに及ばず候、城内家財物共、散らさざるよう、政道以下堅く申し付くべく候也6月12日(天正18年) (朱印) (豊臣秀吉) 石田治部少輔」大意)忍城を落としなさいと、きびしく命じました。しかし、命をお助け下さいと、歎願してきたとのことです。水攻めを命じたのは、城内に一万人はいるに違いないから、郷村が荒れる違いないので、それではあまりに気の毒で手を差し伸べようとしたからです。忍城内や小田原城に立て籠もっている者のうち、足軽以下は支城へ移動させ、忍城・小田原城を落城させるようにしなさい。岩付城は忍城と同様に鹿垣をめぐらせ、小田原北条のためと必死に立て籠もっている者へは、食糧をしっかり与えるよう命じ、籠絡しました。このまま落城できなければ、その方の非を疑うようになるでしょう。しかし、別の指揮官を派遣することはしません。忍城を落城させると必ず報告するようにしてください。落城の際城内が散らかっていることがないように、兵士への仕置を必ず行うよう、ここに命じます。■忍城水攻めの経過。忍城は要害堅固な城であったことから戦国時代には関東七名城の一つとなっており、1590年(天正18年)に豊臣秀吉の小田原征伐に伴い発生した攻城戦の際、豊臣方の水攻めに耐え抜いた逸話から浮き城または亀城と称されていました。「増補忍名所図会 明治16年(1883)2月23日写忍城周辺を東西南北に分け、それぞれ名所旧跡、伝承などを記した地誌。洞季香斎が文政8年(1825)に記した「忍名所図会」を忍藩士岩崎長容が天保6 (1835)、11年とニ度にわたり増補改訂した。全四巻からなる。第一巻に石田三成が丸墓山(麿墓山)に陣を張ったとの記載がある。「天正年中忍城水攻の時、石田三成此山に本陣をかまへ城中に石火矢を打入れんと窺いしに、城中さだかに見えず。誤て忍遍照院へ打込たりとかや。此山より城中まで路程ハ、九町もあるべし。山上より行田を望む風景よろ◯◯記るされている。」■忍城と城主のうつりかわりズームして。「天正年間武蔵国忍城之図」(1573年~1592年)。天明年間の「忍御城内外絵図」(1781年~1789年)。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・行田天然温泉 ハナホテル行田
2023.08.04
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そしてこの日の次の目的地の「続日本100名城・忍城(おしじょう)」の「郷土博物館」の駐車場に到着。駐車場が本丸跡になっているのであった。1949年(昭和24年)10月にはここ本丸跡に行田市本丸球場が造られたが後に移転し、1988年(昭和63年)2月17日にはその跡に行田市郷土博物館が開館、御三階櫓は博物館の一部として「忍城鳥瞰図」や文献などを元に、鉄筋コンクリート構造によって外観復興されている。ただし位置や規模は史実とは異なり、内部は展望室や行田の歴史を写真や資料で紹介する展示室として利用されている。また、周囲には土塁の一部が残存している。2017年(平成29年)、続日本100名城(118番)に選定された。 埼玉県行田市本丸17−23。正面に「高麗門」。駐車場隅にあった「忍城御本丸跡」碑。「忍城」周辺の「行田市内 観光案内図」。ここ「忍城」は、以前にも2度ほど来ており、その時に頂いた「行田市郷土博物館」のパンフレットの写真。「忍城は室町時代にあたる15世紀後半に成田氏により築城された城郭です。戦国時代の終わりに豊臣秀吉の関東平定に際し石田三成らによる水攻めをうける中、小田原城の降伏後に開城しました。その後、松平家忠による城郭の修復が済んだのち、徳川家康の四男松平忠吉が城主となります。三代将軍家光の治世には、松平信絅、阿部忠秋が城主となり、以後185年間は阿部家の居城となります。文政6年( 1823 )には伊勢国桑名から国替えとなった(奥平)松平家が城主となり、明治維新、廃藩を迎えます。明治6年( 1873 )に忍城は解体されましたが、現在博物館の周辺にある本丸上塁の一部や櫓の石垣に使われた間知石から当時を偲ぶことがぞきます。」と。「行田市郷土博物館」入口門。「行田の足袋製造用具及び関係資料」が「国重要有形民俗文化財」に2020年3月16日に指定されたと。「有形民俗文化財」とは日本の衣食住、生業、信仰、風俗慣習、民俗芸能、民俗技術といった無形の民俗文化財に用いられる衣服、器具、家屋など形のある資料のことであると。右手がこの後に訪ねた「行田市郷土博物館」入口。さらに奥に進む。「忍城址案内図」。「足袋蔵歴史のまち 蔵めぐりモデルコース」案内板。「蔵めぐりモデルコース」。足袋蔵のまち行田へようこそ足袋蔵と行田市の近代化遺産行田市は江戸時代中頃なら足袋づくりが大変盛んで、最盛期の昭和13年には年問約8500万足、全国シェアの約8割の足袋を生産する"日本一の足袋のまち"として繁栄していました。市中心部には、足袋蔵と呼ばれる足袋の商品倉庫を中心に、その栄華を伝える洋風足袋工場、北側~西側だけを蔵造りにした行田独特の店蔵や住宅など、足袋産業関連の近代化遺産な数多く残されています。近年行田市では、こうした近代化遺産の保存が進められてあり、武蔵野銀行行田支店店舗、十万石ふくさや行田本店店舗、大澤家旧文庫蔵などが国登録有形文化財に登録されています。また、忠次郎蔵、彩々亭、足袋蔵まちづくりミュージアム、足袋とくらしの博物館などさまざまな形での再活用もおこなわれています。」左手前方に「忍城の鐘」。忍城の数少ない遺構として、時鐘(じしょう)があった。この鐘は、1717年(享保2年)に伊勢桑名藩主・松平忠雅によって鋳造され、1823年(文政6年)に松平氏が桑名藩から忍藩へ移封されるのにともなって、忍城へ移されたものであると。忍城の二ノ丸にあり、時の鐘として時刻を知らせていたと。「史跡 忍城の鐘」碑。末広がりの袴のようなクラッシックな造りの鐘楼であった。平安時代頃からはじまり、鎌倉時代に多く建てられたとされる「袴腰付き鐘楼」と呼ばれる様式であると。さいたま景観賞を平成8年に受賞し、これを記念した「都市景観大賞」の「受賞記念碑」。同年平成8年(1996年)、行田市長名で設置したようだ。『都市景観大賞』は、国土交通省が主催して平成3年(1991年)に始まり、景観に関する優れた地区・活動に対し表彰が行われているのだ と。「湧き水」が絶え間なく。更に進むと正面に「東門」が。「忍城の由来忍城(おしじょう)は文明十年(一四七八)頃、成田顕泰(あきやす)により築城された「守り易く攻めにくい」難攻不落の名城であったと伝えられている天正十八年(一五九〇)豊臣秀吉の関東平定の中で戦われた石田三成による忍城水攻めにも耐えこの城は水に浮くのかと恐れられ「忍の浮城」とも称されたという寛永十六年(一六三九)時の老中 阿部忠秋が入城し忍城大改築に着手 孫の正武(まさたけ)の代にいたり忍城御三階櫓の建設 城門 土塀の修築などが完成し面目を一新したという文政六年(一八二三)伊勢の桑名から松平忠堯(ただたか)が移封し忠誠(ただざね)のとき明治維新を迎えた市では維新後とりこわされていた城郭の面影を再建し永く後世に伝えることになった。」この付近は諏訪曲輪。東門は忍城のどこかの門であって、移築されたとのことだが元の場所は不明だと。様々な色彩の風車が竹製の和風格子状衝立に貼り付けられていた。近づいて。東門を潜ると堀には太鼓橋が現れた。「忍城址」碑。堀に架かる太鼓橋・あずま橋を渡る。太鼓橋から「模擬御三階櫓(もぎおさんがいやぐら)」を見る。堀には大きな鯉が。太鼓橋の擬宝珠(ぎぼし、ぎぼうしゅ)越しに東門を振り返る。御三階櫓とは、日本の城における天守建築の呼称のひとつである。天守とは城を象徴する建物であり、3階建て、5階建てなどの域内でも最も高層の建築となることが多く、通常は城の主が指揮をとる場所である。しかし、江戸時代には天守建築の形状であっても、天守閣とは呼ばずに御三階櫓と称された物もあった。これは、江戸城の天守が明暦の大火によって焼失し、そののちは再建をしなかったことから、徳川家へ遠慮をして使われた呼称である。特に関東では、小田原城と沼田城を除き、3階建ての天守建築は御三階櫓とされた。石川県の金沢城のように、5階建ての構造でありながら御三階櫓と称された物もある。現存する御三階櫓では、ここ忍城や青森県の弘前城の物などが知られる。「模擬御三階櫓」と同じ時期の昭和63年(1988年)に復興された「東門」。かつての御三階櫓は、現在の水城公園付近にあたる位置に建っていたが、明治時代の忍城解体にともない破却された。現在の御三階櫓は、郷土博物館の開館に合わせて昭和63年(1988年)に場所を移して再建され、内部は展示室として見学することができたのであった。「『陸王』ロケ地めぐり 忍城址」案内ボード。TBS日曜劇場『陸王』( 2017年10月~12月放送)宮沢紘一(役所広司)が試作ランニング足袋を履いて走るシーンや、宮沢大地(山﨑賢人)と友人が語りあうシーン、茂木裕人(竹内涼真)らダイワ食品選手が走るシーンなどが撮影されました。宮沢社長をはじめ、こはぜ屋のメンバーが何か考え事をする時によくここを訪れていました。」白塀の奥の「東小路」には様々な色の傘のアート展示が。展望ベンチに座り、「御三階櫓」を見上げる。この御三階櫓は実物より大きく外観も異なっており、分類としては模擬櫓になるとのこと。ベンチで暫し休憩して、来た道を引き返す。行田市のマンホール蓋は忍藩10万石の城下町を今に伝える忍城址のシンボル「御三階櫓」と、市の花「キク」を中央に配置し、周囲に市の木である「イチョウ」の葉を 並べたデザインとなっていた。「東門」入口から「御三階櫓」を再び見る。「模擬城門」の扉の光景。柱や扉などに、補強の金属が施され、「鉄門(くろがねもん)」のような光景。立派な石垣の上に建つ「御三階櫓」。「御三階櫓」を支える石垣。「忍城櫓の石垣」が下に並んでいた。「忍城櫓の石垣城内にあった櫓に使用された石垣。元禄十五年(一七〇ニ)に三階櫓一棟、ニ階櫓ニ棟が建てられたが明治六年(一八七三)の廃城により解体された。」この後歩いた「行田市郷土博物館」から「模擬御三階櫓」への連絡通路。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・行田天然温泉 ハナホテル行田
2023.08.03
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「丸墓山古墳」を下り、古墳の周囲を時計回りに進む。古墳脇にある石仏群。元々は墳頂に建てられていたとのこと。全部で7基あり、手前は延宝元年(1673年)建立、岸海上人とある。隣は寛文七年(1667)の庚申塔(三猿の像:見ざる、聞かざる、云わざる、二鶏)。庚申塔としては古い部類だ。この周辺地域には、寛文年間建立の古い庚申塔が数多く分布しているのだ と。引き返して反時計回りに進み、下から「丸墓山古墳」を見上げる。発掘調査により、埼玉古墳群で唯一、葺石(古墳の外表面に貼られた石)をもつ可能性があることがわかりました。埋葬施設については未発掘のためわかっていません。前方に「稲荷山古墳」の全貌が現れた。前方後円墳の前方墳を見る。「稲荷山古墳全長120mの前方後円墳です。周囲には長方形の堀が中堤をはさんてニ重に巡り、墳丘くびれ部と中堤には造出しと呼ばれる張出しがあります。古墳が造られた時期は、5世紀後半ころと考えられ、埼玉古墳群の中で最初に造られた古墳です。前方部は、1937年に土取りエ事て失われましたが、2004年に復原されました。1968年の発掘調査ては、後円部からニつの埋葬施設か発見されました。そのうち礫槨(れきかく)はよく残っており、多くの副葬品が出土しました。その一つてある鉄剣からは、1978年に115文字の銘文が見出され、他の副葬品とともに1981年に国宝に指定されています。平成19年(2007年) 埼玉県教育委員会」「稲荷山古墳」。Googleマップから。前方墳の階段を上って行った。規模・形状墳丘長120.0メートル後円部径62.6メートル・高さ10.4メートル前方部幅82.4メートル・高さ9.4メートル(推定)後円部西側の裾部に(左くびれ部分に)は造り出しがある。前方部長軸は富士山に向いている。墳丘は二段に築成されており、葺石が使用された形跡はない。方形をした二重の周濠を持ち、濠の深さは築造当時の地表面から約1.8メートルと推定されている。周濠は通常は空で、水位が上がったときに水が溜まったものと考えられている。「前方墳」から「後円墳」に向かって進む。この稲荷山古墳の円墳部頂上に立ち前方部を見ると、中心線の先に富士山が見えることは研究者の間では有名な話であるとのこと。同じ埼玉古墳群にある二子山古墳と、鉄砲山古墳も、規模こそ違うが大仙陵古墳と全くの同形である。また二子山古墳は、武蔵国最大の前方後円墳である。埼玉古墳群の中で、稲荷山古墳と二子山古墳、鉄砲山古墳は、同じ形をして、斜め並列に並び、前方部を三基ともが富士に向けている。三つの古墳とも、後円部から西に突出部があることが特徴的である。稲荷山古墳は5世紀後半に築造され、二子山古墳は6世紀前半、鉄砲山古墳は6世紀後半築造である。稲荷山古墳が指す富士山への直線を、富士からさらに延長すると、前回も採り上げた富士山南山麓にある山宮浅間神社に繋がるようである。横にある二子山古墳の直線は、静岡市の静岡浅間神社の山宮である麓山(ふもと)神社に到達する。そして、鉄砲山古墳のものは、富士宮市の富士山本宮浅間大社を指している。さらに、稲荷山古墳の真北を見てみると、日光に栃木を代表する山である男体山が鎮座している。男体山は、およそ7000年前に噴火を起こし、その時の姿を円錐形のまま残す名山である。また北アルプスにそびえる乗鞍岳は稲荷山古墳の真西に位置しているのだと。後円墳の円頂に到着。後円部の円頂には埋葬施設の復元模型があった。ちなみに、埼玉古墳群内の大型古墳で登ることができるのは、丸墓山古墳とこの稲荷山古墳である。墳頂部の礫槨。「国宝 武蔵埼玉稲荷山古墳出土品115文字が刻まれた金錯銘鉄剣には、剣を作らせたヲワケという人物の8代にわたる系譜と、ヤマト王権に代々仕えていたことなどが記されています。多彩な副葬品とともに、古代国家の成立を読み解く第一級資料として、1983年に国宝に指定されました。これらの資料は詳しい解説とともに博物館に展示しています。」「金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)」。「埼玉県立さきたま史跡の博物館」の「金錯銘鉄剣」の展示品(レプリカ)。「剣は両刃」、「刀は片刃」を表します。この時代はまだ剣が主流であった。鉄剣に刻まれていた文字。表面「辛亥しんがいの年とし七月中しちがつちゅう記しるす。乎獲居臣おわけのおみ、上祖かみつおやの名なは意富比垝おとひこ…。」「辛亥しんがいの年とし」とは西暦471年のこと。裏面世々よよ、杖刀人じゅとうにんの首くびと為なり、奉事ほうじし来きたり今いまに至いたる。獲加多支鹵大王わかたけるのおおきみの寺てら、斯鬼宮しきのみやに在ある時とき、吾われ、天下てんかを佐治さじし、此この百錬ひゃくれんの利刀りとうを作つくらしめ、吾わが奉事ほうじの根源こんげんを記しるす也なり。現代語訳代々大王の親衛隊長として朝廷に仕えてきた。ワカタケル大王の寺が斯鬼宮しきのみやにあったとき、私は大王おおきみを補佐したので、この立派な刀にその由来を書き残すことにした。表(おもて)面の拡大。裏面の拡大。史料の本文中に出てくる「獲加多支鹵大王わかたけるのおおきみ」とは雄略天皇ゆうりゃくてんのうのこと。「稲荷山古墳 礫槨1968年の発掘調査で、後円部の頂上から発見された埋葬施設です。舟の形に掘った竪穴に河原石を貼り付けて並べ、その上に棺を置きました。棺や衣服などの有機物は残っていませんでしたが、副葬品の出土位置などから被葬者と木棺の位置が推定できます。実物の礫槨は、地下1mに保存されています。」1968(昭和43)年の発掘調査で、後円部の頂上(地下)に埋葬施設が発見された。舟形に掘った竪穴に河原石を貼り付けて並べ、そこに棺を置いたもので「礫槨(れきかく)」という。こちらからは金錯銘鉄剣や勾玉など多数の副葬品が出土したのだと。廻り込んで。「稲荷山古墳 粘土槨」。「稲荷山古墳 粘土槨この埋葬施設は素掘りの竪穴に粘土を敷き、その上に棺を置いたと推定されます。盗掘の被害を受けたため、出土した副葬品は少量の武器や馬具などの破片でしたが、礫槨出土品とともに国宝に指定されています。」後円墳の円頂から前方墳を見る。天気次第では、この先に富士山の勇姿が見られるのであったが。後円墳頂から、この日は時間の関係で訪ねなかった「将軍山古墳」👈リンク を見る。「稲荷山古墳」を後にして、「二子山古墳」方向に進む。「二子山古墳」を見る。「将軍山古墳」をズームして。「二子山古墳」。「二子山古墳」脇を南に進む。「鉄砲山古墳」案内板。「二子山古墳」を振り返る。「二子山古墳全長132mの前方後円墳です。かっての「武蔵国」(埼玉県、東京都、神奈川県の一部にあたる)で最大の古墳です。周囲には、長方形の堀が中堤をはさんでニ重に巡り、墳丘くびれ部と中堤には造出しと呼ばれる張出しがあります。現在遊歩道になっている高まりが中堤にあたります。内堀は、今は水堀になっていますが、古墳が築造された当時は水はなかったと考えられています。本格的な発掘調査はされていないため、埋葬施設の形や大きさ、副葬品の内容など、詳しいことはまだわかっていません。出土した埴輪の形から、古墳の造られた時期は、6世紀初め頃と推定されています。 平成20年(2008年) 3月埼玉県教育委員会」「二子山古墳」平面図。「前方墳」をみる埼玉古墳群の古墳の大きさ「古墳通り」を右折して駐車場に向かって進む。左手にあったのが「行田はにわの館」。ここが「さきたま史跡の博物館」👈リンク 入口。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・行田天然温泉 ハナホテル行田
2023.08.02
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次に訪ねたのが、「さきたま古墳公園」。第2駐車場に車を駐め散策開始。「埼玉県発祥の地 行田」観光案内板。現在地を確認。「さきたま史跡の博物館」、「稲荷山古墳/丸墓山古墳」、「将軍山古墳展示館」案内。「さきたま古墳公園 案内図」。近づいて。「二子山古墳と祈りの器」展が7/15~8/31に開催されると。前方右手に寺の山門が。「天祥寺由来旧幕時代大名の数、ニ百七十余藩というが、拾万石以上は五十余のみ、而も大名格の溜間詰は最高の格式にして、井伊大老、松平下総守外六家に過ぎず、御三家、加賀百万石より上位なり。初代忠明公は家康の外孫、初代唯一の大阪城主として大阪復興にあたり、後に姫路城主となり西国探題の名君たり。天祥院殿と法名す。即ち天祥寺開基、京都妙心寺に現存する塔頭、天祥院の本寺たり。九代忠堯公、桑名より忍に移封、天祥寺を今の埼玉に建立、十一代名君忠国公、十ニ代忠誠公の三君、この蛍域の地下に眠る。近時、この地、風土記の丘と称し、古墳群を埼玉県名発祥の地として自然公園とす。現在松平家の墓所は行田市の交化財の指定を受けて目下大方の檀家のご協力を得、加藍建立途上にあります。」「山門」を正面から。「臨済宗 妙心寺派 天祥寺」掲示板。「求める心のない奉仕がまことの布施である。」「聖観音像」。「ご案内この仏像は聖観音様です大きな御慈愛の仏様です当山では、聖観音様の足下に永代供養墓を造営しました以前の宗旨、宗派は問いませんお先軽にご相談ください臨済宗妙心寺派 海東山 天祥寺」歌人 濱梨花枝氏の歌碑。「東方より 光は射すと 玉の柩 現れて輝る 一ふりの剣」このうたの意味は、【日本の東の地方から 古代史の道を開くという 美しい柩 その中から現れて輝く 一振りの剣】即ち、【日本の東の地方(埼玉)から美しい一振りの剣が現れて、不明であった日本の歴史の一部を説明する希望の光が射した】という意味で「金錯銘鉄剣」を讃えたもであると。「歌人濱梨花枝先生は 行田市埼玉のご出身で 先生の歌碑建立の企ては 埼玉地区 全域の有志によって結成された当委員会によって昨年二月以来着々と進められました。埼玉県知事畑和先生をはじめ県内外の多数の方々のご協力をいたゞき多額の資金の拠出を賜り県立さきたま風土記の丘の中に建立の運びとなりました 建立の所以は濱先生の歌に託して 県名発祥の地とされる郷土の大地のこゝろを永くとゞめたいと念するところににあります 有形無形にご協力下さった多くの方々に満腔の感謝を捧げ 建立の概略を録して 雅見に供します。昭和五十八年三月十三日 濱梨花枝先生歌碑建立委員会」ここの「蓮池」には蓮の姿はなかった。ここにも「さきたま古墳公園案内図」。「丸墓山古墳(まるはかやまこふん)」入口の先の一段高い道の両脇には桜並木が。右手には「史跡埼玉村古墳群」碑。「丸墓山古墳」案内板と「さきたま古墳公園」案内板。「石田堤(いしだづつみ)この一段高い桜並木は、天正18年(1590)に豊臣秀吉(とよとみひでよし)の命(めい)を受けた石田三成(いしだみつなり)が、忍城(おしじょう)を水攻めした際の堤(つつみ)の一部です。長さ28km(一説には14km)に及ぶ堤をわずか5日間で築き、利根川(とねがわ)と荒川(あらかわ)の水を流入(りゅうにゅう)させたと言われています。三成の陣は丸墓山古墳(まるはかやまこふん)の頂上に張られました。」長さ28kmにも及ぶ「石田堤想定図------」をネットから。さらに「石田堤」上を「丸墓山古墳」に向かって進む。「豊臣方の石田三成は城攻めが上手くいかないので近くの小山に登り地形を鳥瞰して研究し、備中高松城の戦いに倣って水攻めにしようと考え付いたと『関八州古戦録』や『成田記』には記されている。しかしこれは明白な誤りであり、実際には三成が水攻めに批判的で、もっと積極的な攻撃が必要とする書状を6月12日に送ったのに対し、秀吉が改めて三成に水攻めの注意点を事細かに指示した書状を送っている。これらの同時代史料から見る限り、水攻めを主導したのは秀吉であって、三成ではない。すなわち、秀吉は完全なる殲滅戦を意図しておらず、そこから終始水攻めを望み、三成はそれを実行していたに過ぎないのである。さらに6月13日に三成が浅野長政と木村重茲に出した書状を見ると、三成は具体的な戦術については、浅野の指示をたびたび仰いでいるという事実が確認される」 とネットから。右斜め前方にはこの後訪ねた「稲荷山古墳」が見えた。「丸墓山古墳直径105mあり円墳では日本最大です。墳丘は埼玉古墳群の中で一番高く、約19 mあります。墳丘に使われた土の量はニ子山古墳より多かったという試算もあリます。出土した埴輪から、6世紀前半ころに築かれたと推定されています。埋葬施設の内容は、現在のところ確認されていません。南側から古墳にいたる道は、1590年に石田三成が忍城を水攻めにした時に築いた堤防の跡といわれている「石田堤」です。水攻めの際には、古墳の頂上に陣が張られました。平成19年(2007年)埼玉県教育委員会」「埼玉村古墳群」碑。「武蔵北部は隣国上野と共に古墳の遺存殊に多く夙に人煙稠密文運の発達熾なるを察せしむ 本村は実に其中枢を占めて埼玉郡名の基く所県名また此処に由来し百を以て算する大小の古墳 累々起伏するもの故なきに非ず 昭和十三年八月特に顕著なる丸墓山二子山等の九基は埼玉村古墳群として文部大臣より史蹟の指定を受けしが古墳群の指定は僅かに九州の一例のみにして未だ他に見ざる所なり 丸墓山は規模壮大の円墳として希有のものに属し天正十八年豊臣氏乃小田原征伐の際武将石田三成陣営を設けて忍城攻略を計ると伝へられ今回保存の実を全ふせん為め挙村の協力に依り指定地域を村 有すると為すに当り建碑の議あり本史蹟の指定に関係すること前後久しき故を以て予に其記を嘱せらる のち一言を此処に叙す昭和十四年十月 柴田常恵篆並撰 稲村坦元書 」。そして正面に「丸墓山古墳」。99段の南側階段を上って行った。そして「丸墓山古墳」の頂上に到着。「丸墓山古墳と忍城天正十八年(1590)、豊臣秀吉の命を受けた石田三成は、総延長28km (ー説には14km)の石田堤を築き、忍城を水攻めしました。丸墓山古墳は高さが19mもあり、周辺を一望できることから三成の陣が張られたと言われています。北の利根川水系、南の荒川水系の水を流し込んでの城攻めは成功せず、豊臣秀吉が唯一落とせなかった城とも言われています。」「新編武蔵風土記稿 忍城の図(江戸時代末期)」上部に「忍城」、中央に「丸墓山古墳」、「将軍塚古墳」が描かれている。ズームして「忍城 御三階櫓」を確認。「丸墓山古墳登頂、お疲れ様でした。南側の階段は九十九段ありました。北側の階段は九十三段あります。お帰りの際も足元にご注意ください。」「丸墓山古墳」頂上から前方後円墳の「稲荷山古墳」の前方部を見る。「将軍山古墳」も見えた。埼玉古墳群の北東部に位置する将軍山古墳は、全長90mの前方後円墳。明治時代に後円部に造られた横穴式石室が発掘され、多くの副葬品が出土した。石室には、遠方より運ばれた二種類の石材が使われていることがわかっている。墳丘の東側は削平され、崩落も進んでいたため、平成3年から古墳の復原整備工事を行いました。墳丘、周囲の堀の復原や、墳丘に埴輪のレプリカを並べるなど、古墳が造られた当時に近い形で整備している。古墳の内部には、複製の石室や遺物の置かれた状態を見学できる施設、「将軍山古墳展示館」が平成9年にオープンしている。99段の南側階段を下る。「蓮池」、「駐車場」方向を見る、 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・行田天然温泉 ハナホテル行田
2023.08.01
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