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http://www.bunbun.ne.jp/~sagaryus/tireki_11.htm神社の神体はこの巨石で,元来農耕神を祀っていたが,徐福伝説と結びついて徐福も祀るようになった。地元では こう考えられているようです。http://www.pref.akita.jp/fpd/bunka/kamakura,sugawara/kamakura.htmまあ これを徐福や中国と結び付けたい気持ちもわかりますが、神社の縁起はお調べでしょうか?考証されました?ただ そのままで、あれも徐福 これも徐福ですか?伝説の根本にあるのは 上記のような点がベースにあり これに徐福伝説が習合されたとみるべきでは?http://www.geocities.jp/horuhorushiho/index.htm少し 異議はありますが わたしは 徐福についての基本的な アプローチの仕方は これでいいのではないかと思います。
2005年11月29日
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大室天皇の誕生また いわゆる明治帝が 大室帝が摩り替わった点についても、孝明帝の死について いまでも不鮮明な点があるのは事実のようですがなぜ 大室帝かという点については いろいろ事情があるようです。「高松宮殿下、ご災難(昭和五十八年八月二十五日 朝日新聞)」山口県田布施町御訪問中の高松宮殿下に対し、同町在住の大室近祐容疑者(82)が古今未曾有の暴挙に及び、その場で逮捕される。大室容疑者は毎日、明治天皇は南朝満良親王の二十五世の末裔、大室寅之助なりなどと意味不明の発言を繰り返しており、現在同容疑者に余罪があるものと追及中。今回の事件で鹿島昇なる徳弁護士(横浜弁護士会所属)を顧問として今回の犯行に及んだ模様。同弁護士も今回の事件に関与したものとして追求、横浜弁護士会では弁護士資格の剥除を決定。大室容疑者は精神鑑定のうえ、八王子特別鑑別所へ収容される模様とのことでこの前後に 下記のような事情があったようです。もともと電波な人だったんですが、山口県熊毛町田布施町在住の大室近祐(平成8年没)という人の裁判で弁護人に選任された事で大室氏と知り合い、大室氏から大室寅之祐(大室氏の大叔父)が睦仁親王(孝明天皇の皇子)を殺害して明治天皇になった、という話を聞かされ、大室寅之祐=明治天皇説を自費出版したのが始まりです。もともと大室近祐氏は、地元でも有名な詐話氏でして、「田布施の和田喜八郎(東日流外三郡誌の作者)」と呼ばれていました(藁)大室氏は一時あの古田武彦氏にも接近しましたが、古田氏は「私の専門外」と相手にされませんでした。しかし鹿島氏らとは意気投合し、大室氏曰く、「ワシの顧問弁護士」と大変気に入られていたようです。しかし大室氏にとって、鹿島氏は唯一の自己代弁者であり、鹿島氏にとっては、ネタの提供だけでなく、金銭面での最大のスポンサーであり、鹿島氏、大室氏の利害の一致という点で結びついていたのが真相です。もっとも鹿島氏は平成8年に大室近祐氏の死後の相続問題が泥沼化し、長男の大室照元氏、次男の大室弘樹氏双方が告訴する事態になりました鹿島氏は大室弘樹氏の弁護人に選任されましたが、鹿島氏が作成した大室近祐氏の遺言状について、「遺言書は無効」とする判決が平成12年11月に山口地裁から下され、そのショックが大きかったのか、平成12年の12月15日に心不全でお亡くなりになりました。合唱。60 :原田 実 :03/06/23 23:18>>349 >>351 >>353 >>359364 :全土日 ◆qR2CHzz.Xo :03/06/26 19:55原田実先生、はじめまして。2chネットウォッチ板在住の「全土日」と申します。上記349-351の「鹿島狂信者」氏ですが、この人物(以降はG氏と呼びます)は、「大室寅之祐=明治天皇」を言い出した大室近祐氏の親族であり、自分は天皇家に連なる人間だと発言して失笑を買っております。(竹下義朗「帝国電網省掲示板」参照)しかし上記掲示板にて、G氏はたびたび罵倒発言や掲示板荒らし行為を繰り返したため上記掲示板への書きこみを禁止され、さらに2ちゃんねらーの巧妙な誘導に引っかかり、住所、氏名、家族構成、学歴(早稲田大学中退)などを自ら暴露しております(笑)ちなみにG氏は日本史掲示板にて「大室寅之祐が明治天皇になったと言える」というスレッドを八回以上立てていますが、最近はすっかり飽きたのか、「邪馬台国はどこですか」スレッドにて、邪馬台国は西都原にあった、畿内論者はバカ、などと何度も何度も投稿(実際はコピペ荒らしですが)するので、「西都くん」「西都厨」「西都バカ」などと呼ばれております。気が向いたら、HNを「日本@名無史さん」にして、G氏をからかってやって下さい(笑)365 :日本@名無史さん :03/06/26 22:35原田さん。ヤフー板にも参戦してください。http://search.mb.yahoo.co.jp/search?p=%C5%EC%C6%FC%CE%AE&M=&sid=366 :原田 実 :03/06/28 14:56>>362明らかな偽書をもてはやす人が記紀の史料批判云々といっても説得力ないと思うのですが。特に鹿島さんの場合、その立論に三郡誌を根拠とすることが多かったのですから、何をかいわんや、というところです。そもそも素性がある程度判明している史料よりも現代人の偽書の方と親和性が高い古代史像など、現代人の妄想の産物としか言いようがないでしょう。>>364おかげさまで事情がわかりました。20年近く前の話ですが、冨士文献研究家の加茂喜三氏に同行して、生前の「大室天皇」のお宅をうかがったことがあります。「大室天皇」の家(御所というべきか?‘^^)は大きな紙に殴り書きされたメモやイラストが屋内いっぱいに山積みで、「大室天皇」自らそれを広げて、その家の場所が世界文明発祥の地で、宇宙の中心であることを力説しておられました。当時の「大室天皇」からすると明治天皇の出自などはもはや小さなこと、という口ぶりでした。367 :原田 実 :03/06/28 15:06「大室天皇」の書き物のあの膨大な紙の山を思えば、和田氏が一人でダンボール20箱分の書き物をしたというのも、不可能ではなかったことがあらためて実感されます(和田家文書も大部分は清書なしで書き飛ばしたものです)。349-351の方が「大室天皇」のご親族なら、あの膨大な書き物をきちんと保管しておられるのでしょうか。鹿島さんの受け売りよりも、「大室天皇」ご宸筆の歴史論・宇宙論の方がはるかに面白いような気もします(もっとも常人には理解不能かも知れませんが)。2ちゃんねるよりの収録でございます。この原田実氏のレポートについては最近の新潮45にも記載されております。
2005年11月26日
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中丸薫という自称 明治帝の孫という風変わりなオバサンという存在が アタマにあったから 鹿島センセイも大室帝の存在をおもいついたのであろうか?コロンビア大学政治学部、同大学院国際政治学部、同大学東アジア研究所を卒業後、世界各国を歴訪し、国際政治の現場で研鑽を積む。政治経済の実践経験をベースに、各国大統領や国王などとの対談を積極的に行い、民間外交を実践。講演、著述、テレビ出演などを通じ、その正確な国際感覚をアピールすることで、国際政治の大衆化をめざして一貫した活動を続けている。1973年、ニューズウィーク誌テレビ特集版において「インタビュアー世界No.1」の評価を得る。同時にワシントンポスト誌にも取り上げられ、「国際感覚に優れた世界でも希有な女性」と称賛される。1975年、ヨルダンのフセイン国王より独立栄誉賞を授与される。1980年~ 外務省「海外広報協会」評議委員。1989年12月、ソ連より国賓待遇で招待される。1998年3月、南北朝鮮両政府より国賓待遇で招待を受ける。2000年1月、イラン国家より国賓待遇で招待を受ける。『国際テロを操る闇の権力者たち』の著者略歴より抜粋これがこのオバサンの経歴ですがここに出てくる前がこういう問題は、そろそろハッキリさせた方がいいと思い、カキコミ致しました。ご本人の反論をお待ちしております。中丸薫(なかまるかおる)さんについて。中丸薫が明治天皇の血は引いていないとのではないかという噂は以前からありました。しかし、あらゆるメディが報道を避けており、真相は闇の中という状況が長年続いておりました。しかし、最近、副島隆彦さんによって明かにされました。これで、長年、喉に刺さった小骨がようやく取れたっていう感じがしました。以下は、彼の意見です。 『中丸さんの父は韓景堂(かんけいどう)と言って、450年続いた満州の旧家の長男で豪農の出身であり、理工系の大学を出て当時は京奉鉄道の技師でした。 母は中島成子(なかじましげこ)、栃木県小山市出身で、これまた豪農の家の7人兄弟の3番目に生まれ、日赤の看護婦さんとして満州に渡り、帝国陸軍から張学良(ちょうがくりょう)邸に派遣されそこで韓景堂さんと恋愛結婚、姉一人、弟一人の三人兄弟です。当時の中国の風俗習慣をご理解戴きたいと思いますが、韓景堂さんには何人も奥さんがいたのです。 しかし皆正式に結婚した夫婦です。イスラムには4人までと言う宗教的な限度がありますが、当時の中国には正夫人が何人もいたのです。従って中丸薫さんは正式な韓景堂の子供です。韓景堂さんは国共内戦の時には戦禍を逃れて、最後には台湾に行き、大学教授で晩節を全うしました。従って大陸、台湾共に腹違いの人脈があります。生後すぐ中島成子さんの弟夫婦にあずけられ、実父母との縁薄く育ちました。 明治天皇との血縁は有りません。昭和31年にアメリカのコロンビア大学に入学しております。サッチーと異なりチャント卒業しております。中丸さんは昭和12年生まれなのでこんな事を言うのですが、昭和31年、又は昭和32年頃に日本の高等学校を卒業して、アメリカの大学に進学出来ると言う制度はありませんでした。 昭和32年に母中島成子は中共の監獄から無罪として釈放されて日本に帰ってきておりますが、其の時は中丸薫さんはコロンビア大学の2年生で、アメリカにいました。 母子が何処かで出会ってはいるでしょうが、親子の縁は薄い方です。中丸さんの本をよく読んでも、明治天皇の孫とは断定していません。口の中から細胞を取り出してD.N.A.鑑定をした……そこまでです。 中丸さんを米子市にこれまで3回迎えて、講演会を開催しました。私はその主催者ではなく、サブの位置につきました。彼女が明治天皇の血を継承していない事を、幹事会の席上で、私が発言しましたので、何かこう気まずい空気となり、2年半前に米子で開催されて以来当地では開催されていません。』以上です。いかがですか?本の表紙や帯び(通称腰巻)などに、「明治天皇の孫」と印刷されている彼女の本が出版され、今も本屋で売っているということは、大問題ではないでしょうか?この問題について、どなたか詳細な情報をお寄せ下さい。 4.彼女のことはよく噂になるみたいです!名前:党首 日付:5月6日(木) 0時53分 私がいままで関わってきた人から彼女のこと聞いてます。あるときは広島の有名な岩田組の事務所に亀井静香先生を紹介してくれと言ってきたり、ナニワ金融道のモデルになったおじさんの持っている日本の国旗の元だとか言う”赤い玉”をずっと握って何時間も離さないでいたり、よくわかりません。人脈の列記のしかたも、芸能人の横に王様を持って来てたりして。。。インタビューした人たちがなんか彼女と特別の関係であるかのように宣伝してますが、多分ウソでしょう。 彼女は頭もよくて才能があるかもしれませんが、いったい何をしたいのかよくわからないのです。”太陽の会”とかいうのもただの金集めみたいにみえます。北朝鮮にたいして非常に友好的です。韓国や朝鮮系の人たちは日本の皇室コンプレックスが多いようです。彼女は中国系とのことですが、多分皇室コンプレックスでしょう。ギリシャ語では彼女のようなタイプを”メガロマニア”(誇大妄想)と言います。
2005年11月26日
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http://www3.alpha-net.ne.jp/users/tkyjnken/esedouwa.htmエセ同和関係の方々というのは 北朝鮮系の方々も多いという話ですが金正日の息子が 密入国して 日本でその筋の方々といっぱいあったという噺が メデイアをにぎわしたことがありますが エセ同和の方々に多少その筋の方々がいれば 当然 北朝鮮系のかたも多いだろうなという気もします。まえから この手の本は機会があれば 好奇心で読んでみたいなとおもっていたものですが、ネットで見る限りでは 菊地山哉や 三角寛の本のパクリのようです著作権はどうなっているのでしょうか?三角寛の復刊が最近までできなかったのは 遺族の寛子さんの反対等があったようですが寛子さんの旦那さんが 映画館の再建のために よからぬ筋と結びついたせいか逮捕された経緯も、このような事情からなんとなく 裏が見えてくるような気がします。昔も今も 興業は その筋の方々とのお付き合いがあったわけで三角寛も 寛子さんの評伝を読む限りでは 作家というより 山師という印象を受けるかたです。映画館と劇場を建てるさいには いろいろな筋とのお付き合いが当然 あったとみるべきです。>鹿島氏は弁護士でもあり、論理と論証を尊ぶ職業柄、ボンスケ。「部落地名総観の主犯格」「最悪の弁護士」と部落解放同盟から名指しされ、横浜弁護士会から追放されたバ鹿島が「論理と論証を尊ぶ」だと?とは2ちゃんねるからの収録ですが、もちろん 鹿島信者から これは妄言だというコメントがついておりますが、出版社をつくる場合には、金も必要ですが、当然 儲けないといけない そうしますと ある意味 エセ同和というか はっきり言えば金をせびるための小道具にもったいをつける噺が欲しい新国民社がなぜ つくられたのか いくつかの理由がありますが、ふたむかし前の総会屋出版と似たロジックが使われている印象がありますね。鹿島先生も背中に紋々しょっていて その筋との付き合いがたくさんあったかたのようですが。http://www.infact-j.com/kashima/ryakureki.htmこちらが 鹿島昇センセイの経歴なんですが、最近でていた この人の評伝を立ち読みしながら考えたことがありまして、すこし整理してみました。この方の評伝の中にさらっとでてくるのが、かの八切止夫に あなたのネタ本は?と聞かれたというシーンがありますが、鹿島センセイは特にないといわれたようですが、評伝を見た限りでは 八切止夫と木村鷹太郎と そして これになります。このほかにも 契丹古伝を初めとして 当時の満州から朝鮮半島にかけての 意味不明の古伝(翻訳したとありますが、意味不明の漢文なら たんあん当てはめというところでしょうか)が 戦前は 日本が朝鮮半島を領土にしていいという根拠にされましたが 今は逆に韓国では解釈されているようです。そんなところが鹿島先生の発想のベースになっています。http://www.soutokuhu.com/bbs/test/read.cgi?bbs=korea&key=1004075572桓壇古記というのが、鹿島先生のネタ本になっているのは、ほぼ間違いないとおもわれますが、これも由緒ある文書のようにいわれますが、和田文書とか、武功夜話みたいに、20世紀に書かれたような代物のようです。そして 新国民社と この大韓民国在郷軍人会日本支部との関係がよくわかりませんが、かの八切止夫も、鹿島センセイとは断定していませんが、韓国史観と呼び、鹿島センセイの出版社には、在日韓国人在郷軍人会という看板がかけてあると あてこすっておりましたが、当時はわかりませんでしたが、なるほど ひもつきか と最近になって気が付いた次第です。天の朝という概念も 鹿島センセイが見つけ出したと、彼の評伝にもありますが、実際は菊地山哉で 彼の評伝で 著者の田中紀子氏が 菊地先生のことをきちんと書いておかないといけないなと感じたのは、 1980年の 歴史と現代という雑誌(たぶん かの新国民社版)の中で、西垣内堅祐という弁護士(今はトンデモ作家の1人ですね)というセンセイが 菊地先生の息子が 当時 まだ現在なのにも関わらず、故菊地山哉のことが まったくわからないという でたらめも甚だしい文章が書かれていたことによるものからだそうです。また 原田実氏は鹿島センセイについてもこうも指摘しております。鹿島さんは没後になってからの方が影響大きいようですな。もっとも追随者の中にはが、自分の言っていることが鹿島さんの受け売りということを自覚していない人がいるようで、かえって泉下の鹿島さんが気の毒になってきます。黒板勝美が朝鮮の史書を焚書改竄した、というのは総督府の記録に、修史のために史料を収集し、副本を作った上で元の持ち主に返却したとあるのに、恣意的な解釈を加えたもので事実ではありません。『桓檀古記』にいたっては戦後の偽書ですから、総督府が焚書できるはずもない。男狭穂塚は後円部の損壊が激しいだけでれっきとした前方後円墳ですし、後円部の損壊が確認されるということ自体、人為的に後から後円部を付け加えたものではない、という証拠でしょう。そもそも、鹿島さんは晩年、「週刊誌は三郡誌を偽書だというが、そんなヒマがあるなら、記紀の方が偽史だということを考えてみたらよいだろう」(『倭と日本建国史』)とうそぶいていたほどで、史料事実より自分の思い込みを優先させる方でした。その思い込みが伝染した上、自分の(というより鹿島さんの受け売りの主張の)根拠を確かめようともしない人がなにやら居丈高になっておられるようですね。361 :原田 実 :03/06/23 23:22>>360男狭穂塚の「後円部」破損と書いたのは、「前方部」の間違いですね、センセイの著書の三人の天皇の中でも、口きたなくののしられているのが、かの伊藤博文です。韓国で人気がない日本人のナンバー1の方です。だからだよなという思いであります。このへんは鹿島先生の信者が妄言とほざいていますが、このころから韓国との関係があったわけですから もとから紐つきでしょう
2005年11月26日
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http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%A5%9E%E4%BB%8F%E7%BF%92%E5%90%88&diff=3349525&oldid=1115393#.E6.9C.AC.E5.9C.B0.E5.9E.82.E8.BF.B9.E8.AA.AC岩手県に伝わる民間信仰(みんかんしんこう)のなかで、オシラサマと並ぶ代表的なものに「まいりのほとけ」と呼ばれるものがあります。まいりのほとけは、旧暦10月の決められた日《先祖の命日などを移した日》に、掛け軸(かけじく)などをまつる家やお堂に親族や近所の人たちが集まっておまいりするものです。岩手県内の各地で見られる信仰ですが、特に県の中南部の紫波(しわ)、稗貫(ひえぬき)、和賀(わが)、江刺(えさし)によく伝わっています。呼び方も、まいりのほとけの他に、地方によって十月ぼとけ・カバカワサマ・タイシサマ・オヒラサマなどいくつかあります。拝み日には、上の写真のようにおまいりする親類や近所の人たちが賽銭(さいせん)や米一升などをもって集まり、念仏を唱えたり食事を共にしたりします。帰りにはお供え物のダンゴやまんじゅう、お菓子などがお返しとして配られます。まいりのほとけについてはまだよくわからないことが多いですが、庶民の間にまだ菩提寺(ぼだいじ)が無かった昔、亡くなった人があれば枕元にこの掛け軸をかけて、皆で極楽往生(ごくらくおうじょう)を祈ったと考えられています。おまいりする仏の姿は展示している掛け図のような画像)や木像で、その多くは阿弥陀如来(あみだにょらい)や聖徳 太子像(しょうとくたいしぞう)です。この他には、善導大師(ぜんどうだいし)・地蔵菩薩(じぞうぼさつ)・不動明王(ふどうみょうおう)・釈迦涅槃図(しゃか ねはんず)などの仏画や「 南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ) 」などと書かれた名号(図1参照)なども多く残されています。特に聖徳太子は、父である用明天皇(ようめいてんのう)を看病したり(孝養太子像=こうようたいしぞう、図2参照)、黒い馬に乗って3日の間に富士山に登って長野県の善光寺(ぜんこうじ)にお参りして帰ってきたり(黒駒太子像=くろこまたいしぞう)、様々なお姿で数多く登場します。このことから、まいりのほとけは、聖徳太子を信仰していた親鸞(しんらん)を開祖とする浄土真宗(じょうどしんしゅう)が東北地方に広がったことと関係があると考えられています。岩手県に浄土真宗を広めたのは是信房(ぜしんぼう)ですが、その布教のために移り住んだ紫波、稗貫、和賀、の地域には「まいりのほとけ」を所蔵(しょぞう)する家がたくさんあります。由来や呼び名、おまいりの日や方法などはその家や地方によってすこしずつ異なりますが、信仰は代々うけつがれ今日に伝えられています。http://www.city.mizusawa.iwate.jp/htm/roman/mr10101.htmlかくし念仏(ねんぶつ)・まいりの仏(ほとけ)かくし念仏 暗闇の密室で、ひたすら「タスケータマエ、タスケータマエ」と、単純な言葉に抑揚をつけながら、合掌して唱え続ける「おとりあげ」と称する行事がある。公の場であったとしたら、たぶんにその異様な光景に驚かぬ者は少なくあるまい。 宗教集団が権力と結びついているうちは、為政者にとっても好都合ではあるのだが、時には反体制の強大なエネルギーとなれば、権力の危機となる。地下に潜ったものは別として、表向きキリシタン弾圧をなし遂げた幕藩体制にとって、「隠し念仏」もまた厄介な宗教集団と見ていた。 後藤寿庵の地であるためか、とかく隠れキリシタンなどと混同されがちであるが、誤解をおそれずに云えば、「隠し念仏」は仏教の範疇(はんちゅう)以外のなにものでもないのである。 「隠し念仏」の定義は難しく、その発祥や伝播についても諸説がある。東北の民間仏教が、浄土の念仏ではなく、真宗の念仏であったと、柳田国男は見ているが、高橋梵仙(ぼんせん)によれば、浄土真宗の転化したもので、窮極の目的は真言秘密の念仏による即身成仏であるとしている。 だが、おおよそのところは、真言の秘密念仏と真宗念仏が習合し、鎌倉時代に生まれた親鸞(しんらん)の他力本願浄土真宗が、中興の蓮如(れんにょ)に至って、いわゆる本願寺の「表法」ではなく、在家の中に「内法」として江戸中期に、この地域へ伝わってきたとされている。「隠し念仏」が「御内法」と別称される所以である。 浄土真宗は、江戸時代に国内の50%を組織するに至ったといわれているが、肥大化した教団は堕落や不信を募らせた。その反動からか内法「隠し念仏」は急速に広まり、多くの分派をも生んでいった。 ついに「隠し念仏」は邪教、あるいは「犬切支丹」などと呼ばれ、表法の浄土真宗からも敵視された。京都の鍵屋(かぎや)五兵衛からの伝播者と伝えられ、留守家中の士であった山崎杢左衛門(もくざえもん)も熱心な信者であったところから、宝暦4年(1754)に水沢の郊外小山崎において磔刑(はりつけ)に処されたのである。 驚くべきことに、「隠し念仏」に対する偏見と弾圧は、反社会的で風紀さえも乱すいかがわしい集団として、200年近く、昭和初期まで続いたのである。 18世紀に入ると、儒教の全盛期に入り仏教は停滞気味となる。そんな中でも「隠し念仏」は根強く持続してきた。それ故の派閥争いや分派活動も盛んになり、この信仰の起源についても、各派によって異なり、その根源を親鸞、是信房、蓮如、京都の鍵屋などとしているのである。 「隠し念仏」の分布は、水沢を中心とした岩手県南に、最も色濃く流入し布衍(ふえん)してきた。やがて岩手県のほぼ全域、宮城県の北部と広まり、派によっては北海道、福島県にも及ぶといわれている。 一般的な儀式は、子どもが生まれて間もなく行われるいわば洗礼のような「おもとずけ」、小学校の入学前後あたりに「おとりあげ」で即身成仏の儀式があり、定例的な年中行事の法会、死者が出た場合の「お念仏」などが行われる。これらの儀式は大導師、善知識、脇役、御用人などと派によって呼び名は違うが、それぞれの役目が組織的に運営する。 それにしても「隠し念仏」という特性は、解明困難であることが多すぎる。しかし、衰退しつつはあるものの、土着の庶民信仰として、今もなお生き続けている。まいりの仏 黒駒太子、阿弥陀如来、六字名号などの掛軸や像を前に、同族縁者などが集まって拝む。旧暦10月(是信坊の命日10月14日説)に供養されることが多く、「十月ほとけ」とも呼ばれ、岩手特有の民間信仰とされているが、その分布は「隠し念仏」と同じく、県内全域にあるものの、北上川中流域の紫波、稗貫、和賀、江刺などが特に多く、遠野や気仙地域でも盛んである。 発祥については定かではなく、室町末期、奥州地方の豪族たちが、やっと祈願寺や菩提寺を持つようになったが、民間では寺僧の引導仏としたと『みちのくの庶民信仰』の中で及川大溪は記している。菩提寺を持たなかった庶民は、墓所に「まいりの仏」を持って行って拝み、やがてそれが縁者近隣によって、旧家やお堂などで飲食を共にしながら、土俗的な結縁社会を形成していったものである。http://66.102.7.104/search?q=cache:rtOnj92qVssJ:www.jomon.com/~emisi/semi/10semi/nagasima.htm+%E6%93%AC%E6%AD%BB%E5%86%8D%E7%94%9F%E3%80%80%E9%80%9A%E9%81%8E%E5%84%80%E7%A4%BC&hl=ja現在の山伏の儀礼には、シャマニズム的な要素が見られるが、多くは形骸化してしまって、シャーマン的行いは少なくなり、伝統伝承にそった儀式儀礼を形式的に行っているのが大半である。修験に見られるシャマニズムの構造は、脱魂(他界遍歴・操作)、憑依(憑ける・落とす)などがある。脱魂はトランス(恍惚)状態に置いて他界を飛翔したりすることであり、役行者が五色の雲に乗って空を飛ぶなどはこれに当たる。憑依は守護神霊などを他者に憑依させたり、障礙の原因になる邪神邪霊を一度巫女などに憑依させ、その正体を暴き調伏し障害を落とすことなどをする。 現在組織として確立している修験山伏の伝統的な修行は、山形の羽黒、その手向の正善院で行われている。関西では吉野の東南院等で行われている。この峰入り修行は擬死再生の儀礼である。山中を経巡り、人の一生を演じ、小木と言う小枝を自分の骨に見立て、自分で自分の葬式を行う。これを逆修葬礼と言う。これは葬式・受胎・胎児・出産を疑似体験し、それと同時に仏教の輪廻をも体験し、人間とは何かを自問自答することでもある。この山中を跋渉する形態は、近世後半には「十三参り」などと称して、男子の通過儀礼として各地で盛んに行われた。この通過儀礼を担っていた修験山伏は、表向きでは解散させられていたが、それにめげず細々と伝統を守ってきた所もあった。戦後の教育の場やメディアを通した知識階級のプロパガンダによって、古い物や伝統的なことは軍国主義の同類、古い因習のごとく扱われ、その結果戦後急速に精神的民俗遺産も有形遺産も放逐されてしまった。昨今凶悪化に歯止めが掛からなくなって行く少年犯罪も、戦後知識階級により倫理を阻害した、「権利・自由」を強調してプロパガンダされたことが、要因の一つであったと思う。 最近分別ある中高年者が「峰入り」修行に参加し、アイデンティティの模索を、修験山伏の修行の中から見いだそうとする人が増えてきた、時代の転換期に来て、ようやく「温故知新」を噛みしめる時が来たようだ。
2005年11月21日
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2古代異教由来の事物の取り込みと一神教の変容使徒パウロの活動拠点のアンティオケイア教会では異邦人への柔軟な文化適合を重視していた。そのため、その後のローマ帝国と辺境各地への布教でも、現地の異教の風習や祭礼がキリスト教的再解釈されて積極的に利用された。有名な例では、ミトラ教由来の冬至の祭礼クリスマスがある。また禁教下で日付の問題が争われていた復活祭(復活大祭)の日付が正式に確定するのもこの頃である。さらに多神教世界に布教する際、キリスト教は他の宗教の神殿の場所に教会を建立することを奨励した。この結果、多く女神の神殿が聖母マリアに捧げられる教会に変えられた。そのような女神の例としてミネルヴァ・イシスなどがある。時には異教の神像をそのまま流用することもあった。その例として、イシスとオシリスの像をマリアとイエスの聖母子像へ転用したことなどが指摘される。禁令解除以後は弾圧の際の殉教者を積極的に称揚することが行われ、諸聖人の記念日や聖像(イコン)が使用されるようになった。異教の多神教的世界観に慣れた古代人にはキリスト教の一神教的世界観を理解することが困難であるが、これらの一種多神教的な事物を内部に取り込むことは彼らへの布教を推進させる力となった。また東ローマ帝国において、キリスト教の布教は帝国に親和的な環境を作ることにつながるため、東ローマ帝国皇帝は積極的に他民族への布教を後援した。
2005年11月21日
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文化伝達学派 民間学者の学説は主に日本人に あれを教えました もしくは日本のあのルーツは韓国です。という記述で構成されている。民間学者の関心は日本人にいかに多くの文化や技術を教えてやったか、いいかえれば日本人に対して如何に優越感を感じられるか、ということに集中しているからである。民間学者らの研究対象がことごとく 古代韓日史なのも実はこのためだ。逆に 日本独自の文化や技術が存在したことや、朝鮮半島や大陸、または西洋から伝わった文化や技術が日本独自の発展を遂げたことなどは ほとんど考慮されない。日本への優越感を感じることのできない どうでもいいことであるからだ。文化伝達学派のこのような研究姿勢には 韓国人に優越感を感じさせ 民族精神を啓発するというある種の目的意識が働いているといえるだろう。そして その目的のためなら日本の文化や言語 歴史についての理解 従来の学説の検討 十分な史料調査といった七面倒くさい手順はいいかげんでもかまわない、といった傾向もうかがえる。その結果 日本人に対して優越感を感じることのできる事象のみが 十分な検証も無くかき集められ、矛盾だらけのけったいな学説が形成されるのである。半月城通信の歴史についてのレポートはほとんど全部がこれであるしまた徐福論については 韓国を中国にかえれば これがすべて当てはまるい。天孫降臨が神武天皇だということなど どうでもいいのですし。本当は徐福など どうでもいいのです。
2005年11月16日
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よく 歴史学や民俗学で王権という言葉が使われます。定義不明な言葉ですが 天皇家の権威を相対化したいというのが王権という言葉の意味ではないかと思いますが。柳田國男が 弟子から どうして先生の毛坊主考などを単行本化しないのですかときかれたさいに あれは本願寺の起源や 皇室についてふれている部分があるので できないのだと いわれたそうですこのへんは 金枝篇という本から 柳田サンは 影響を受けたようですが 専門的なな部分で 呪術や宗教的なものから 王権がでてきたと さりげなくいうのは 戦前でもOKだったようですが それを広めて 天皇家の根本は 巫女みたいなものというのは 戦前では ある程度 タブーにひっかかるようだったみたいですが。また だいたいこういうことを言う人は 天皇制反対派なんですが マルクス理論が衰退した昨今では 反対の根拠が 天皇の寿命にあわせた元号を暦とするのは 国際的みて可笑しいし 日本が孤立化するとか 天皇家があるから被差別部落があるとか ?なばかりです。革命して 天皇家を追い出せば国民全部が幸福になるといえればいいんですが 笑われるだけですから また革命しても 北朝鮮みたいに王朝ができるだけです。今日は サーヤの結婚式です。先日 日舞を舞う サーヤの写真が 新聞に出ていて いかにも昔のお姫様 というか はえる顔で とても吃驚しました。こういう伝統をいいか 悪いかとりあえず 継続したからのは なにか意味があったのだろうかとは思いますね政治的にみると皇室を中心に閨閥というのは確かにありますが消えるときには消えるし残るときには残る
2005年11月15日
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http://www002.upp.so-net.ne.jp/shikado/muromachi/whatm00.htm15世紀以後、京には商工業組合たる座が発生するが、その多くは祇園社を本所としていた。つまり、祇園社を従える延暦寺がそのトップとして君臨し、京の商工業に睨みを利かせていた、という論理である。また、しばしば延暦寺は祇園会を利用してキャンペーン(例えば嗷訴など)を行ったことも指摘されている。 次に高野山について言及がなされる。こちらは簡略にしておくが、高野山の境内にも都市が発達する。その多くは下級の僧で構成され、ほかに技術者や力者なども多く住んでいたようである。こうした人々が都市を支えていたことを重視せねばならない。京都だけではなく、当然 琵琶湖を中心にした交易にも にらみをきかせていたはずです。
2005年11月13日
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人間の思いというのは意外に 単純なものでして 子孫を育み 伝えていくこと男と女ですることですが また我々も その流れの中にいるわけです。ですから 原始の段階での思いを表現したものはいろいろあっても 実は意外に単純なものが多くだいたい男と女のこと ご先祖さまのことになります。それ以降については これがどんどん複雑になるわけですがご先祖については ミエを張りたい。男女関係のことは はずかしいから オブラートに包む田舎風でなく 都会風古いものより 新しいものへ真言宗が 日本の山岳信仰を取り込んできましたのでおおいごがいつのまにか たいしになり空海がたいしである。浄土真宗で その真言宗を取り込み 組織をつくりあげるさいにやれ さまざまなものが たいし
2005年11月12日
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以下原田実レポートおかげさまで事情がわかりました。20年近く前の話ですが、冨士文献研究家の加茂喜三氏に同行して、生前の「大室天皇」のお宅をうかがったことがあります。「大室天皇」の家(御所というべきか?‘^^)は大きな紙に殴り書きされたメモやイラストが屋内いっぱいに山積みで、「大室天皇」自らそれを広げて、その家の場所が世界文明発祥の地で、宇宙の中心であることを力説しておられました。当時の「大室天皇」からすると明治天皇の出自などはもはや小さなこと、という口ぶりでした。「大室天皇」の書き物のあの膨大な紙の山を思えば、和田氏が一人でダンボール20箱分の書き物をしたというのも、不可能ではなかったことがあらためて実感されます(和田家文書も大部分は清書なしで書き飛ばしたものです)。349-351の方が「大室天皇」のご親族なら、あの膨大な書き物をきちんと保管しておられるのでしょうか。鹿島さんの受け売りよりも、「大室天皇」ご宸筆の歴史論・宇宙論の方がはるかに面白いような気もします(もっとも常人には理解不能かも知れませんが)。
2005年11月08日
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1949年生まれの日本中世宗教社会史研究者が、江戸時代初期1637年の切支丹蜂起である島原の乱についての定説を再検討すべく、2005年に刊行した新書本。本書の主張を並べるなら、第一に、蜂起の背景に飢饉・重税・切支丹迫害(自律的な大名領国への幕府権力の浸透とも関連)があったことは事実だが、蜂起は必ずしも重税に苦しむ領民一般の支持を得たわけではなく、飢饉・重税は蜂起のきっかけにすぎない。第二に、この蜂起は終末論に基づく非常に宗教色が強いものであり、武力による切支丹への改宗強制、寺社・「異教徒」(一向宗など)への攻撃、「偶像破壊」も見られた。この点において、かつての切支丹大名統治下の信仰強制と連続性があり、実際人脈面でもそれは裏付けられる。しかし第三に、蜂起した切支丹の多くが危機に際してデウスにすがった再改宗切支丹であった上、非切支丹であっても強制されて蜂起に加わった村人が多く、実際原城落城以前にかなり多くの投降者が出ている。第四に、当時は未だ戦国の気風が色濃く残っており、島原の乱は中近世移行期の最後の土一揆とも言うべき性格を持っていた。特に民衆動員のやり方、武士と武装農民との関係、女性兵士の活躍にそれが見られる。したがって、史料の少ない戦国の争乱について考える上でも、この蜂起の研究は有益である。第五に、当時大名のみならず民衆の間でも、日本を「神国」と見なし、そこで「天道」が行われるという観念が、超宗派的に既に充分に普及しており、その上に乗る形でキリスト教信仰も切支丹禁令も定着したと考えられる。つまり島原の乱は近親憎悪の争乱であった。史料に即した具体的な記述が多く興味深いが、当該地域の非切支丹民衆はともかく、僧や神官の状況がもう少し分かると、「近親憎悪」の内実が分かり易くなるように思う。 補足上記は アマゾンのレビューよりのコピーです。うまいなと思い 備考録に利用しますが さて 著者は 浄土真宗の研究で有名な方なので キリスト教系の学者サンの陥る身びいきにもならない点は好印象です。当時のキリスト教が 呪術同然とか 有馬晴信がインド副王に、奴隷を献上した件とか、キリシタンが 迫害を受ける前の話とか 興味深い点たたりありです。
2005年11月06日
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%BB%E3%81%A8%E5%86%8D%E7%94%9F%E3%81%AE%E7%A5%9E世界中に共通の死と再生の神というモチーフがあると思われること、殊に地中海沿岸地域にその種の信仰を持つ秘教(en:mistery religion)が存在していること(例えばオシリス、ディオニュソス、アッティス)から、イエスは歴史的に実在した人物というよりも、このカテゴリを「原型」とした統合的発展ではないかと推測する人々がいる。また、イエス自身は実在の人物で、復活に関わる部分が後にその種の秘教の影響下に加わったと考える人々もいる。C・S・ルイスは後者に改宗した後、次のように語った。「もし神が『神話生成の神』であることを選ばれ、そして空(そら)がそれ自体は神話でないなら、私達は『神話病の患者』であることをやめてはどうだろう。」
2005年11月02日
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http://homepage1.nifty.com/wicca-mirai/sabat.htm隠れ切支丹について調べていると どうしても 魔女狩りというものに行き着き そこから ヨーロッパの異教について考えるとユーラシア全域に渡る 普遍的な 信仰について考えをめぐらす必要がでてきます。そうしますと 当然 こんな考えもでてききます。五木寛之サンの 隠れ念仏と 隠し念仏を読み そこから発想を膨らますと 隠れ切支丹というものもキリシタン弾圧というものはいろんな要素があるわけですがその中のひとつに 意外な要素が見えてくるのではないかと私はおもうわけです。
2005年11月01日
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