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http://72.14.235.104/search?q=cache:yb7_qO1N-EoJ:kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/091/1410/09101241410002c.html+%E3%80%80%E4%BC%9A%E8%AD%B0%E9%8C%B2%E3%80%80%E7%94%B0%E4%B8%AD%E6%B8%85%E7%8E%84%E3%80%80%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%88&hl=ja&ct=clnk&cd=2&gl=jp&ie=UTF-8&inlang=jaましてやそれにまつわる高額の利権料あるいは田中清玄のコンサルタント料、しかも、それが政界に還元しているという重大な疑いさえ持たれているわけですhttp://www2.tba.t-com.ne.jp/dappan/fujiwara/library/petro/02.htmlそれにしても、一年後に再びペトロモンドが日本の国策会社である共同石油とのコネクションで姿を現わし、裏コミッションのパターンまでイタリアの場合に似ていたのだ。 私が記事を読んだのは掲載後一年も経ってからだが、「週刊ダイヤモンド」の一九八一年二月二一日号や、アサヒ・イブニング・ニュース社が出している情報紙「ビジネス」に朝日新聞の早房経済部次長が執筆した記事によると、イラン・イラク戦争によってイランの減産量を補填する形で、共同石油は日産一四万バレル分をサウジアラビアからバレル当り三二ドルで輸入することになった。ところがこの石油はロンドンのペトロモンド社が、バレル当り二ドル七三セントのコミッションを取ることになっていた。この話は元外務省でアラブ担当をしていた森本圭市参事官が共同石油の大堀弘社長に繋いだので、この石油は業界で「大堀原油」と呼ばれた。 この大堀原油の存在は業界外部には極秘になっていたのに、八〇年一一月一三日に田中通産大臣が新聞記者に自宅で何げなく喋ってしまい、それが新聞記事になったので、体面を重んじるサウジアラビア政府は契約を取り消したのだ。実際、契約書の但し書きには、契約内容が表面化した場合には失効する、とうたわれていたことからも、ロンドンのメイフェア地区に事務所を構えたパナマ国籍のペトロモンド・サービス社には、サウジ王室の重要人物が関係していて、サウジ政府を動かしていたことが予想できる。 これを裏づけるかのように、一二月五日付のロンドン発AFP電は「第二次増量分の価格はバレル当り三二ドルよりも高い三四ドル六三セントだという情報が流れていたが、この価格について日本の高官が軽率な発言をしたために、サウジ側が激怒した」と伝えたのだった。 私は日本でこういったことが起こっていた事実を知らないまま、まったく異なった問題を扱っていた時に、親しくしているプリンス筋の中東情報のなかにタナカという名前が頻繁に現われていたので、てっきり田中角栄のことだと早呑みこみをしていた。だが、日本人で石油権益に関係した田中には、首相をやった田中角栄とフィクサー田中清玄のほかに通産大臣の田中六助がいて、その時の田中が田中六助だとあとになって知り、びっくりした。 しかも、その時の話ではペトロモンドが扱うリベートは合計で二ドル七三セントであり、日本側が二ドル五〇セントを受け取り、サウジアラビアは二三セントで、伊藤忠商事のロンドン支店がスイス銀行経由で共同石油に送金し、自民党の金脈として政治献金に化けるということだったが、こういった情報は日本の外では流れていても国内においては誰も知らない秘密情報になってしまうのである。田中清玄の石油利権のポイントですが、インドネシアでスカルノを追い出すときの一連の動きの中で 多大な功績を果たしたことが認められて その世界の中にはいることができたようなのです。コンサルタント料とありますが、裏工作の代理人ということで とにかく 交渉を成立させて なんとか間を抜く そして 自分の会社から 裏金を政界に環流させるということなんでしょうか?外務や 通産の役人にはできませんからね。いまでも だれか 後継者がいるんでしょうね。この人の本質は 実業家でなく こんなところにあるのかと思います
2007年05月31日
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http://72.14.235.104/search?q=cache:NWD8dBxOSRMJ:kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/087/0760/08704250760003c.html+%E7%94%B0%E4%B8%AD%E6%B8%85%E7%8E%84%E3%80%80%E6%B5%B7%E9%83%A8%E5%85%AB%E9%83%8E&hl=ja&ct=clnk&cd=3&gl=jp&ie=UTF-8&inlang=ja小林(進)委員 次に、海部八郎氏との友誼関係があり、政界、官界、財界等に広い分野の知人が多いと言われている田中清玄氏や日本報道新聞社長の森路英雄氏から今回の事件で事情聴取をされたことがございますかどうか。○伊藤(榮)政府委員 何しろ検察当局では三けたの人からいろいろ事情を聞いておるようでございますが、そのそれぞれについてどういう人から事情を聞いたかということは報告も一々受けておりませんし、また報告がございましてもその中身については申し上げるわけにまいりませんので、御容赦をいただきたいと思います。○小林(進)委員 その御答弁なんでございますが、田中清玄氏に五万ドルの領収証のコピーを海部がつくって森路英雄氏に発表を依頼したとか云々というような、なかなか怪談に似たような話が紛々と飛んでおりますので、こういうこともできればひとつ早目にやはり世間の人に知らせていただきたいと思います。ロッキード事件のあとに 立花隆いうところのさしあいで 表面化してきたのが、日商岩井事件であります。この中で 田中清玄も、名前があがっていたようです。この森路英雄さんの知人が、海部八郎の部下で 後に独立して フェニックスインターナショナルという会社を作るのが 有森国雄さんという方です。この方もこの一連の日商岩井事件で 証人として国会で喚問をうけることになったのですが、後に 軍事評論家になった海原治が まだ防衛庁にいたさいの 彼の追い落としに関与したらしいとか ロッキード事件でも検察から事情聴取を受けたともいわれ 当時の海部軍団の裏工作を担当したようです。清玄がどのように関与したのか?海外の隠し口座の管理? この事件には池田首相の秘書官だった 田中六助も関係があったようですから その取り次ぎとか また松野頼三が とある筋から不動産で便宜を受けたとありますが それの媒介とか?たぶん当時の雑誌には さかんに書き立てられたものだと思いますが 清玄の一連の著作はこれ以降でています。この一連の動きを見ていると明らかに この事件は 権力同士のさしあいで浮上したものですが 河野一郎と児玉 児玉 小佐野 田中角栄と 清玄の対立関係が なんとなく見えてきますが、岸との対立関係が実は あまり見えてこないのが 面白いものです。新聞記者が書くことは ヨイショ本出すんじゃなくて この動きをつくことなんですがね。
2007年05月29日
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財界の総意は 池田にスイッチあの時に 河野一郎さんたちのグループは どういうふうにご覧になっていたのですか。福本(邦雄) 河野一郎たちのグループは 安保が騒動になる前ですけれど 大野(伴陸)に政権委譲の約束をしたわけですね。大野に政権委譲の約束をして 大野の次は河野 河野の次は誰 という政権たらい回しの約束をやった。ところが 岸さんが内閣改造をやった時に 河野が入閣を求めたら それに返答しないで 池田を入閣させちゃった。河野はそれで 完全に目を失っちゃったんですね。そういうことがあったんですね。 あの安保に対する河野グループの動きというのは 必ずしも 安保が いかんというものではなくて。福本 もう低次元です。安保がいかんとかいう話ではないです。河野 大野は。これはもっと泥臭い話だから。政権の維持 安定 内閣のポスト これに対する対応ですから。つまり 第一次岸内閣の時には 確か 河野派を非常に優遇したわけです。河野派が六つの閣僚を取ったんじゃないかな。第二次岸内閣になって 、河野派の六つの閣僚を少なくして 官僚派を増やして 岸派の四天王と言われる連中を起用して カーブを切ったと思いますけれどね。だから 河野は安保には そう絡まない。政権基盤で絡みましたね。さきほど 池田派は安保改定に意味があるのかというような立場だったというお話ですたけれども、その時の池田さんは安保改定の支持者だったと思いますが。福本 支持者だったし、最強硬論者です。池田も佐藤も。だから不思議なんだけれども、それが岸退陣と同時に 寛容と忍耐にがらっと 変わっちゃったわけだ。それで所得倍増で 経済で行くということで、いままと 百八十度違うんです。あの変わり様を見て 私は本当に何だろうと思った。中略その 変わるのを演出した人というのは、いるわけですか。福本 それはいるんでしょうね。それが 総資本といわせたんでしょうね。表舞台裏舞台 福本邦雄回顧録 講談社よりいわゆる60年安保に絡んでの政界の動きです。最終的には 岸内閣が財界から引導を渡されて 退陣するわけですが、それ以前にも、岸派 対 池田派の なんともいえない微妙な関係が 当時の政界にはあったわけです。田中清玄の60年安保への介入も、この政界と 清玄のスポンサーの財界の状況を考慮に入れて 考察すべきと思われます。
2007年05月26日
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いままで 田中清玄自伝を読んで ネットや いくつかの本を参考にして考えると おかしな点があるという指摘をしてきましたが、こんなことは素人に指摘されるまでもないという 当たり前の噺です。http://ameblo.jp/nyaonnyaon/entry-10034540614.html(宮崎正弘のコメント) お話に出た田中清玄氏のこと。かれも東大新人会で、マルクス・ボーイで、火炎瓶を投げていた。小生も生前、三回ほど会っておりますが、本人が回想する体験談はともかく、ご先祖をかたる際の、氏の伝記には伝聞箇所が多く、歴史的事実としての誤認が二十数カ所におよびます。http://72.14.235.104/search?q=cache:Yjdu557Dlt4J:www.shonan.ne.jp/~kuri/hyouron_4/ito.html+%E7%94%B0%E4%B8%AD%E6%B8%85%E7%8E%84&hl=ja&gl=jp&ct=clnk&cd=78&ie=UTF-8&inlang=jaそれらと伊藤さんの仕事における聞き取りとは、大きな違いがあります。伊藤さんの聞き取りにたいする態度を要約しますと、まず第一に、運動の現場にいた活動家を対象にした聞き取りがなされているということですね。指導者の聞き取りではなくて、現場の活動家の聞き取りであるということが、ひとつ大きな特徴です。それから聞き取りをそのまま鵜呑みにしていない。非常に細かい、客観的な資料をそれと突き合わせて、本当にそのようなものであったかという検証をずっとしているという点で、大きな特徴があります。 運動にかつて参加した人の聞き取りというのは、やはりどうしても思い込みもありますし、自分自身のやってきたことについての誇りのようなものもあるだろうと思うんですが、往々にして間違った記憶が語られているケースが多いんです。一番ひどいのは田中清玄の聞き取りです。これはもうほとんど九〇%嘘っぱちです。単純に、聞き取りはいいものだというふうには言えない。その点についての伊藤さんの警戒と言いますか、非常に厳密な検討の姿勢に、私は感銘を受けました。
2007年05月25日
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笹川(良一)とは 古くからの盟友である 藤吉男に、故人となった笹川の愛人の氏名を訪ねたとき、よし 聞いてやるよと ぃって 笹川邸のダイヤルを回し 他ならぬ 笹川の愛娘を電話口に呼び出し 誰とだれだったかな と聞いてくれたのには驚いた。女房に内緒で 女を囲っている陰湿な浮気とは、訳がちがうのである。笹川の女道楽については、ある盟友は 威風堂々 戦艦の行進の感じだなと 評していたが 暗さが微塵もないことは確かである。日本の右翼 猪野健治著 ちくま文庫より田中清玄の場合には、共産党時代については、意外に身持ちが堅かったようですが、このあたりについては、日本共産党の研究 立花隆著 講談社文庫などを参考にすると 共産党時代の 警察からの逃走を支えていたのが 中本かな子 そのあとが 後に結婚することになる 小宮山英子になるのですが 愛人関係からでなく いわゆるハウスキーパー はっきり いえば 場合によっては 逃走支援の慰安婦が最初だったようで 最初は 名前も知らぬ間から始まり 家事全般から そして場合によっては 身の下の世話までになるということで 学生運動を含めれば 全共闘の時代まで 継続したようです。 先に紹介したようですが 結婚して 金ができれば 当時の人間は女に走ります。鳩山一郎の愛人を口説き落とすという噺もあったようです。 悪いとか そういう噺ではなく、自伝では 妻一筋という噺をしているわけですし こういうことする人間は 何度もしているでしょう。 自伝のほうでは 従軍慰安婦の噺もでてきますが ハウスキーパーの噺はどうなの?と思わず 口をはさみたくもなります。先に取り上げた 笹川良一の噺と比較して どうのこうのというつもりはありませんが、ずいぶんちがうもんだよなという思いになりますし 死ぬ直前になってまで かっこつけんなよといいたくもなります。
2007年05月22日
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三浦義一の師匠にあたる方に 野依秀市という方がいました。大分出の方で 三浦義一には 同郷の先輩にもなります。慶応義塾商業学校卒 1906年 経済評論誌 三田商業界を発刊 1908年 実業之世界に改題し、社長 会長になり、1932年 大分一区から 衆院に当選 同年に京都日日新聞を刊行 44年 東条内閣を批判して 一時発行停止となる。右翼辞典 堀幸雄著より。これに 小島直記著 日本策士伝から 補足しますと 三田商業界をつくるさいには 慶応に関係のあった人間から 資金を集めたようです。この頃の部下にその後 独立して ダイヤモンド社を創業する石山賢吉がいます。この頃 東京電燈を恐喝して 入獄する羽目になったり、また渋沢栄一ともいろいろあったようです。また策士伝の中では 井上準之助から 野依が 外遊の金を引き出す噺を 後に 当時 井上の秘書であった 一万田氏の回想として 引き出しています。右翼の論客とのが 辞典流の解釈ですが。本質は 会社ゴロだったようです。この時に 井上から 野依が金を引き出すときに使ったネタが 当時の興業銀行に 情実融資を強要したということにあったようで、策士伝はいくつかの会社をあげています おもしろいのは 東武鉄道(根津財閥系) 九州水力電気 九州電気鉄道(麻生財閥系)で 下山事件 最後の証言の中で 三浦義一も絡んだ 亜細亜産業のバックに 間違いなくいた企業の名前がでていることです。京都日日新聞に関係した時点から 三浦の右翼活動が始まり いくつかのテロ活動がなされるわけですが、彼の本質が 会社ゴロ ブラックジャーナリストであり、バックもいれば テロもたいしたことはしていないので 処罰もそれほどではないということになります。彼が 戦後 いち早く 活動できたのも、このあたりの 会社ゴロとしての顔あればこそだったのかもしれません。
2007年05月20日
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暗躍する政商これらの賠償ビジネスに多くの人間が群がった最大の理由は おそらくそれが ボロ儲けできる商売だったからだろう。現在のODAにも言えることだが こうした政府間の取引では クライアントにコスト意識がないので 個別の取引そのものが非常に利益率が高くなるよう設定されるうえ、途中でいくらでもコミッションがピンハネできる構造になっていることが多い。だいいち相手国のクライアント側が、たっぷりピンハネ体質に染まっていたから、こうした商談の場では なによりもカネの配分の話になる。賄賂の相談を日本の外務省の役人が堂々とするわけにもいかないから、そこにフィクサーの出番が回ってくるというわけだ。謀略の昭和裏面史 黒井文太郎 編著 宝島社田中清玄の関係した 三幸建設工業の場合は いまでもありますし、実業なんだろうなというくらいの会社ではないかと思うのですが、それ以外の会社は いわゆるダミー会社ではなかったのか?と思われます。実業家と思いこんでいる方も ネットでは多いようですが、何で収入を得ていたのでしょうか?いわゆる日発の再編成に絡んだ話では、講演費という裏金を受け取り それが政界に環流されたのではないか?ということで 国会で大問題になったようですし、いわゆる石油利権では コンサルタント料を得ていたようですが、なぜなんでしょうか? 自伝では おとぎ話を除くと 利権関係の調整をしていたとしか 読めないようにも思えます。そしてフィクサーの出てくる理由は上記にあげた理由となり 清玄が 三幸建設工業の社長を辞めた直前から 一連の賠償関係の動きが始まったことをあげておきたいと思います。
2007年05月20日
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%B1%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E4%BC%9A中東調査会という シンクタンクの説明ですが、鍋山貞親という、田中清玄の昔の共産党時代の仲間だった方のことを調べていて 気がついたのですが このページには 説明されていませんが、この中東調査会の役員の中に、矢部貞治と 山名義鶴という 鍋山貞親とも関係が深く 彼の主宰の 世界民主研究所のメンバーだった2人が入っています。清玄は 戦後の いわゆる共産党からの転向派とのつきあいは ないようなことを自伝では 語っていますが、清玄が日発の共産党系労働組合の切り崩しをやった後に 誕生したのが 鍋山貞親の人脈も関係している 民社党の支持母体です。清玄の海外での活動については 検証することが難しいのですが、あくまでも仮説ですが、このような背景もあったのかなと思えます。しかし 表舞台にたてたさいに 恩のある右翼人脈と 後の石油利権にもつながる 共産党時代の仲間に対してもつきあいはないという表現は 私の仮説通りなら 清玄というのは とんでもない人という印象を受けます。確かに 両者とも 胡散臭いといわれれば それまでですが 全部 自分が 財界や政界との連携で動いたようにしているのは あまりにもねーえという気がします。そして この線から 中曽根との接点が生まれるようです。
2007年05月15日
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実業界への進出も 全部 自分でやったような印象を自伝では持ちますが しっかりしたバックが後ろにいたというほうが確かだと思われます。右翼辞典 堀幸雄著 柏書房で 田中清玄の項を見ると 1941年に出獄したあと ひもろぎ塾に入り 1944年に 土木請負や造船業を始めるとあり、戦後は横浜で神中組を起し のちにこれが三幸建設工業となるとあります。同じ本の中に、右翼と敗戦の対応という項の中では 右翼運動が敗戦時にどのような対応をしたかの項で 経済活動への転換ということで 東亜連盟の山形県における西山農場 大東塾の大和公社 ひもろぎ塾系田中清玄の土建業神中組 国粋大衆党の銀星デパートなどがある。としてあります。清玄の自伝や 三代目の自伝における 事情説明とは なんだかちがう気がしないでもありませんが。 清玄が尊敬している右翼の中に ひもろぎ塾の人脈とも縁のある 橘孝三郎をあげていること。清玄の後を継いだ 四元義隆が ひもろぎ塾のメンバーであること。3 四元の縁で 西郷吉之助から 大安組の安藤明にコネをつけることができ また佐藤栄作との縁ができた。そして西郷隆秀の縁から 拓大人脈につながることができたこと。このような背景があるのに 右翼人とのつきあいはほとんどないと自伝ではしてありますが いかがなものかと思われます。三代目の自伝にあるように 藤木孝太郎が同じ 横浜ですから 協力したのもあるのかな?とは思いますが。戦前は 右翼活動を行ってこなかったので 活動しやすく また当時の副業というより 本業に近い アカ狩りにも詳しい 清玄が社長に抜擢されたというのが 彼が表舞台に登場できた理由だったのではないかと思われます。
2007年05月14日
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http://aishoren.exblog.jp/5622781 ちなみにこの鳩山さんの雪奴(松室雪子)は、突然居なくなり、どうしたかと思って自民の陣笠たちが調べたら「田中清玄に口説き落とされて、田中の家にいることがわかった」(8P)。これでは鳩山一派や児玉筋とは、仲が悪くなって仕方あるまい。 筋をとおさぬ不埒な横紙破りを清玄がしているのだから、やはり卑劣な印象を受ける。どうしても雪奴を射止めたいならば、鳩山にはきちんと筋だけは通すべきであろう。やはり自伝で良いことばっかり書いているが、清玄というのは如何に信用ならない男かこれでも立証された訳である。上記のURLより 引用自伝では 奥さん 一筋みたいですが、以前にも 中本かな子とかの付き合いもあったようですし、結婚後もいろいろあったようです。しかし 白州次郎の愛人が 麻生和子という噂もあったんですね
2007年05月12日
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ここ半年ほど 黒幕というか 右翼というか 怪しい人たちのことを調べていて いくつか おもしろいことに気がついたのですが。 みなさん 適当に書いてます。この方々のやっていたことなんて 裏のことなんで 所詮 わからないものなんですが まとまった評伝が それぞれの方に意外にないものですから おひれがついて 虚像がひろがる自伝を読んで 鵜呑みにするだけでは子供ですね。 それだけで アマゾンに書評を書いたり ウイッキで 論争したり まだ清玄の同時代の体験を覚えている方にとっては 大笑いでしょうね。また 清玄の靖国の発言を持ち上げたりとか 共産党からの転向だからなぜか リベラルになる?おかしなものです。黒幕といっても 霞を食って生きているわけではありません。集金力と 人脈と 暴力装置がないと 黒幕にはなれません。人間 金がないと生きていけません。坊さんのところで 修行しただけで 人脈はできません。ケツ持ちは闇の世界には不可欠です。お子様にとっては 講談でしょうが 私にとっては 歴史上の人物 いろんな資料に当たって検証したら こんな人物だったということです。 西郷隆盛の縁戚の四元義隆 西郷隆秀と拓大人脈 西郷吉之助からの佐藤栄作と三浦義一と財界との縁 ひもろぎ塾の面々 マス大山との縁 論争ジャーナル これらを 取り上げず 右翼とのつきあいはない?恩知らずもいいとこでしょ?反論があれば 資料を出すことですね。そうでないと ただのお子様のたわごとですね。
2007年05月08日
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田中清玄と 山口組との関係を語る方は 三代目の自伝をあげる方が多いが その三代目と 児玉と町井 または関東の人間の交流をあげるページは読んでいないようですし また大下英治氏の一連の著作の中では 東亜同友会構想のまとまらなかった原因は はっきりと本多会と 山口組の抗争が原因と指摘しており この同友会構想に、田中清玄が多少 絡んでいるというのも、この一連の動きに 自民党の党人派が絡んでいるので それに佐藤栄作の子分の清玄が絡んでいるという時点で おかしいというのが判るし 猪野健治氏は 三代目ノートの中で 山口組についての 清玄自伝の一連の発言を否定しており、清玄と 三代目の利用し 利用されの関係を描いているまた 清玄は 戦後は右翼とのつきあいはあまりなかったと証言しているが 彼の海外活動には 四元義隆の親戚である、西郷隆秀の拓大人脈が欠かせないし、また電源防衛のために、拓大の学生を大量動員できたのも、この縁によるものだろう。また神中組も、四元の縁でのひもろぎ塾を 再編成したものという指摘が 堀幸雄の右翼辞典ではなされています。全学連の支援に 日大の空手部を動員したのも、これは 佐藤栄作の子分の 日大のドンの古田重二良の 了解があったとみるべきでしょう。そして下山事件 最後の証言 柴田哲孝の中では はっきりいって 三浦義一の子分からはじまった田中清玄の姿が描かれています。石油利権については 全部 自分で 見事にやったという噺にしたいようですが、国会議事録 藤原筆の無謀な挑戦という本の中では 多額のコンサルタント料を取るが 成果はない、強欲なフィクサーという姿が描かれています。またインドネシアでは スハルト政権を持ち上げたいようですが そんなに立派なものだったかは インドネシアの歴史を少しでも調べればわかると思いますが?検証というのは 本人や身内の証言をそのままうのみにすることですか?清玄の場合は 特に全部 自分でやったという思いがあるようですが 影になった支えた右翼人脈を、ほとんどつきあいはなかったと 切って捨てたわけですから みるひとからみれば あれはインチキ右翼と言われて 当然かと思います。
2007年05月04日
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