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http://www.anti731saikinsen.net/saiban/2shin/kanteiiken/kojima.html特別審査局の活動とそこから伺える日本政府の戦争犯罪追及姿勢の欠如 ここで特別審査局がいかなる機関であり、本来どのような目的を以て設立されたのかを検討しておこう。なお以下に関しては主として、荻野富士夫『戦後治安体制の確立』と同氏編『治安維持法関係資料集 第四巻』の「解説」、自治大学校『戦後自治史』、増田弘『公職追放論』によっている。 戦後日本の民主的改革をめざした占領当局は、1945年10月4日「人権指令」を出し、治安維持法に代表される様々な治安法令を廃止すると共に、特高警察と思想検察機構を解体し、刑務所や予防拘禁施設に収容されていた思想犯を解放した。 翌1946年1月4日GHQは指令「公務従事ニ適サザルモノノ公職ヨリノ除去ニ関スル件」を出し、「公職追放」が開始された。これに対応して日本政府は指令の実施に関わる勅令案の検討に入り、GHQに実施計画書を提出する。そして一連の手続きを経て、勅令第101号が1946年2月22日に公布された。その名称は「昭和二十年勅令第五百四十二号『ポツダム宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件ニ基ヅク政党、協会、其ノ他ノ団体ノ禁止ニ関スル件』」と言い、2月25日に出された内務省告示第19号、20号とともに、政党・団体などの結社禁止や公職追放の対象などを規程したものであった(この勅令は、もちろん占領当局の指令に基づくものであり、SCAPIN-54 8がそれである)。 この勅令の第一条は「『政党、協会其ノ他ノ団体ニシテ其ノ目的亦ハ行為ガ左ノ各号ノ一二該当スルモノ』ハ之ヲ結成スルコトヲ得ズ」として、その一に「占領軍に関する反抗または反対亦ハ日本国政府が連合国最高司令官ノ要求二基ヅキテ発シタル命令二対スル反対又ハ反抗」ガあげられている。そして第四条は、「左ノ各号ノ一ニ該当スル団体ハ内務大臣ノ特ニ定ムル場合ヲ除クノ外之ヲ第一条第一項ノ団体ト看做ス」として、以下具体的に列挙しているが、その一の(ロ)において次のものを挙げている。 「昭和五年一月一日以後現役ニアリタル陸海軍将校及相当官(短期現役将校及同相当官ニシテ志願ニヨリ服役ヲ延期セラレタル者ヲ含ム)又ハ特別志願予備役将校タリシ者」 本規程により、戦犯として拘束されなかった多くの将校が公職を追放されることとなった。 公職追放に関係した組織は様々であるが、日本政府の組織としては、首相-所轄大臣の下に中央公職適否審査委員会が置かれ、ここが公職適否の審査に当たった(公職追放が地方に拡大されてからは県知事の下に地方公職適否審査委員会が設置された)。ただし、増田弘によれば、個々の審査決定に当たって、GHQ中でも政治部門担当の民生局(GS)の事前あるいは事後の審査を必要としたと言いう。またGSの他、民間諜報局(CIS)や参謀第二部(G2)なども独自に情報を集めていたといわれる。 このような経緯をへて、「連合国最高司令官の要求に基づく政党、協会、その他の団体の結成の禁止に関する事項」を担当する部局として(それ以外の業務もあわせもっていた、この業務に関しては第三課が担当)、内務省調査局が調査部から昇格したのである(8月7日)。そしてこの組織が後の特別審査局となる(なお調査局の前身の内務省調査部は、もともと軍放出物資所管のため、1945年10月に設置されたもの)。 しかし調査局は必ずしも十分軍国主義的団体や超国家主義的団体の監視や解散を実施していなかったと考えられる。そのため、47年の4月11日に民生局のケーディス次長から、久山調査局長と小倉第三課長が呼び出しを受け、それまでの報告の遅延や虚偽、各地での共産主義者に対する暴行事件の発生について厳しい批判を受けている。さらに4月21日にも、民生局のマーカムは再度久山局長を呼び出し、調査局の報告が「余りにも遅く、不適切かつ不完全で、翻訳はひどく、しかも責任逃れ」に終始していると叱責した(増田著39頁)。旧内務省組織を改変した組織において、戦争犯罪追及の意識が極めて希薄であり、果たすべき任務に対してまったく消極的だったことが伺われる。 この後内務省解体に伴い12月17日付で法務庁法が公布された。ただし、新官庁の用意が整わなかったため、暫定的に総理庁のもとに内事局が48年1月1日に設けられ、内務省調査局は内事局第二局に移行する。 そして2月15日、内事局第二局は法務庁特別審査局に移行した。設置時の特別審査局には、総務課(人事・経理・庶務担当)、監察課(覚書該当者の監察)、調査課(勅令101号に基づく各種団体に関する業務担当)がおかれた。初代局長には、戦前司法官赤化事件で治安維持法違反にとわれ下獄した経験を持つ瀧内礼作がついた。この局長のもとで、軍国主義的団体などの調査・解散は精力的に進められたとされる。いわば本来の目的が追求されたのである。 しかしこの後特別審査局に大きな変化が生じる。占領当局が日本国内の労働運動や左翼勢力の拡大に危機感を強めるなか、これに呼応して日本側の陣容が変化するのである。1948年11月30日、吉田内閣成立に伴い法務総裁に殖田俊吉が就任すると、直ちに特別審査局長は吉河光貞に交代した。吉河は1950年10月に行った特別審査局の新人研修の講演「特別審査局の沿革と使命」の中で、48年末頃から「ようやく左翼もまた対象として取り上げられる」と述べたという(この点は竹前栄治『戦後労働改革』からの再引用)。冷戦構造の中で占領当局の姿勢が変化する中、それを利用して特別審査局の活動にも大きな変化が生じたのである。もっとも左翼に対する監視はもともと内務省調査局時代から業務の中に含まれてはいた。しかし、既に紹介したケーディスらの発言にあるとおり、本来求められていたのは軍国主義者などに対する調査や監察であり、左翼の活動については主たる任務とは程遠かったのである。 1950年9月の『中央公論』に藤井彰が書いた、「特別審査局を衝く」は、吉河が勅令第101号の第一条第1号第7号を根拠とする「占領軍に対する反抗反対、暴力的計画による政策の変更」を、左翼勢力に対しても適用しうると読み替えたとしている(増田著81頁)。いずれにせよ、占領当局の姿勢の変化を利用して、特別審査局の役割を大きく変更させていったことは間違いない。 そして1949年4月4日、団体等規制令の交付・施行にともない、5月に増員となり、本部も機構改革が行われるとこの傾向はきわめて顕著になっていく。このとき第四課課長に就任したのが、上記答弁に立っている吉橋敏雄である(前任は検事)。ちなみに本部には、第一から四課までの四課体制となり、第一課は旧軍人調査と人事・経理・庶務、第二課は公職追放該当者の登録と観察、そして第三課と第四課は旧調査課を受け継いだ。 4月4日に制定された団体等規制令は勅令101号を改正し、GHQの指示に基づくポツダム政令である。本令は1952年廃止され、代わって破壊活動防止法が制定されたことから分かるとおり、特別審査局の役割に大きな変化をもたらすものとなった。第四課長であった吉橋はこの規制令の立案に直接従事したといわれるが、後に二つの論文を執筆し基本的な考えを明らかにしている(「団体等規制令逐条解説」『警察研究』49年5月、「団体等規制令について」『法律時報』50年10月)。 そこでは勅令101号の不備を補うことが強調されたが、第一条、政令の目的については、説明を落としているのである。この第一条は、「この政令は、平和主義及民主主義の健全な育成発達を期するため、政治団体の内容を一般に公開し、秘密的、軍国主義的、極端な国家主義的、暴力主義的および反民主主義的団体の結成及指導並びに団体及個人のそのような行為を禁止することを目的とする」と述べている。このうち「反民主主義的団体」という文言は勅令101号にはなかったものであり、以後特別審査曲が共産党を初めとする左翼の活動などに力を入れていく、根拠となったのである。 1950年になると特別審査局は拡充され、やがて朝鮮戦争の中で、レッドパージに大きな力を発揮するようになる。最終的には法務庁の法務府への変更に伴い、法務府特別審査局となった後、は会活動防止法の制定を経て、1952年7月21日に公安調査庁となる。 以上のように特別審査極の変化の過程をみると、日本政府が保津ダム宣言にもとづき、本来しなければならなかった軍国主義者などへの追及に、特別審査局が当たった期間は1948年前半、瀧内局長時代に限られるといってよいほどである。以後は、冷戦の進行に伴う占領当局(アメリカ政府)の姿勢の変化を利用する形で、戦前以来の検事等が(検事は思想検事を含め、比較的追放などの処分が軽かった、荻野著)、勅令条文の読み替えや、やがては団体等規制令の制定を通じて、本来の戦争犯罪や軍国主義者の追及を放棄し、左翼活動や労働運動の抑圧に向かったのである。このころになると次郎には確かな感触があった 向こうも手段を選ばない相手なのだからこちらも荒っぽい手を使った 次郎は久山内務省調査局長に依頼してケーデイスの身辺調査を行わせ 本国に送還するための材料を集めさせたのだ白洲次郎 占領を背負った男 北康利 講談社より白洲と 怖いオニイサンたちとの関係については いろんな面から語られていますが ここにでてくる 吉河光貞が 田中清玄とは 新人会の時からの友人で この関係は 国会でも追求されたことがあります しかし この白洲が久山に依頼したとありますが ずいぶんおかしな関係ですね
2007年12月31日
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昭和20年12月に発足した商工省外局の貿易庁設置に絡んでも 見事にGHQの思惑をくぐり抜けた人間ドラマが生じ 通産省内ではのちのちまで語り伝えられている占領行政では対外貿易は輸出入ともGHQが直接 行うこととして GHQと日本経済界との橋渡し機関として貿易庁を設置したのであるところが貿易庁の業務といのはGHQを相手にとしたものが大半で英語を使用することが要請された。そこで商工省の外局であるにも拘わらず貿易庁には外務省からの出向メンバーが圧倒的多数を占め 商工省の権限はあまり及ばなかったのである。外務省勢が優勢のまま貿易庁の仕事は進んでいたが 23年10月 第二次吉田茂内閣が発足するとすぐ 吉田は経済安定本部の次長だった白洲次郎を貿易庁長官に任命したこれがドラマの発端である吉田は外務官僚出身 白洲はケンブリッジ大学を出ている外国通である。ふたりは若い頃 英国で出会い肝胆相照らす親しい仲となっていた。吉田は商工省に好感を持っていなかった。現在でも通産省と外務省の抗争はしばしば起こる。国内産業育成が基本的立脚点である通産省と対外友好を優先して考える外務省とがぶつかるのはいわば宿命である。外務官僚出身者に特有のそうした肌の感覚をもつ吉田をは 通産官僚を押さえ込むために白洲を貿易庁長官につけたのだが 白洲は吉田が考えもつかなかった抜群のアイデアを吉田にもたらす貿易庁を外務省優位のまま商工省の内局に編入して これを最右翼の局に格上げするというものである こうすれば商工省を外務省が牛耳ることができるこうして吉田 白洲の意図に気ついた商工省は強い危機感をもった そして素早い対応策を打った 二四年二月白洲のお目付けとして 永山時雄を貿易庁に送り込んだのである永山はまだ40歳にもならない若輩であった ところが通産省幹部の思惑と違って 永山は逆に白洲の部下にされてしまった。お目付けどころか白洲の腹心になって通産主流派を抱き込みに出たのだ これには通産省幹部たちも呆然としてしまった さすがに白洲にはそれだけの器量があったのだろう白洲に手なずけられ白洲の威を借りた永山は すぐ後の通産省発足とともに官房庁として通産省に戻り それから四年の間 省内の人事権を握り 永山天皇と言われる 絶大な権力を手にしたのである小説 通産省 江波戸哲夫 徳間文庫より私には ヨイショ本の解釈より こちらの方が わかりやすいです
2007年12月31日
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ワイルズはやがて 東京旋風というタイトルで 占領軍総司令部の内幕物を刊行した山崎首班問題をあつかって その末尾にこのように記していた国会から 最高司令部に相談に来る連絡役は 司令部の役人が誰も意図せず またしゃべりもしない口頭の命令を持ち帰った。こうして策謀家どもは 党内と国会とに自分の勢力を植え付けた民政局の承認がなくては何事もなし得なかったそれは明らかに 日本側では中井川 民政局では ケージスのような存在を 指摘しているのだった。この同じ本の中で ワイルズは、吉田側近の黒須太郎という男についても 批評を加えていた。黒須は 子爵金山愛之助の女婿であった。貴族好みの吉田にとり入るだけのマスクや雰囲気と タクテイックスを身につけていた 英語が達者であった それで吉田は 第一次内閣のとき、この男を貿易庁長官に起用した。その黒須について、ワイルズはこう記した慣れ慣れしくしく人の肩をたたいて 談笑するという、まるで大学映画の形を真似た態度で、それが占領軍の多くの者に反発を感じさせ、怒りを買っていた 小説 吉田学校 第一部 保守本流 戸川猪佐武著 角川文庫よりモデルは白洲次郎で この本が出た当初はまだ存命だったので 戸川が遠慮したものだろうとおもうのですが。嫌な奴という印象は受けますがただ もう一つ 忘れてはいけないのが 白洲次郎の本質というのが 江戸時代でいうところの側用人でして 当時はこのようなタイプの人間は何人かいたようです。だだ これでは ヨイショする側としては 噺になりませんから 憲法の噺をだしてくるくらいしかない でもねーえ 占領軍に抵抗したというけれど ろくでもない対案だったんじゃないのかねと私はおもうんですが いかがですかね。
2007年12月30日
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新聞では次郎が首相の側近といわれ 茶坊主などといわれるのに、僕はかねがね腹を立てているそれは贔屓で彼のために義憤を覚えているわけではないそういう人々が自分の無知と偏見をさらけ出しているからだ彼が変わり者とか わがまま無法者と非難されるてならば 身から出た錆だと僕も思うが、吉田の爺さん(吉田茂)の太鼓を叩いて 甘い汁が吸える男でははないと僕は何十年つきあって知っている白洲次郎 プリンシパルのない日本 野人 白洲次郎 今日出海 新潮文庫http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%B4%B2%E6%AC%A1%E9%83%8E彼は ケンブリッジ大学時代に築いた人脈を利用して様々な英国企業の個人エージェントを勤めており、ロンドンに設けた個人口座に成功報酬ベースでコミッションを振り込ませていた。そして時々英国に出張してはそのカネを引き下ろしては日本に密かに持ち帰っていた(白洲の「出張」の大半は外交官扱いなので、英国での稼ぎは外交官特権により合法的に持ち帰る事が可能であった。そして、当時の為替レートからすると、英国で稼いだ金額を日本円に換算すると非常な価値があった)。戦後も彼は浮世離れした生活を営んでいたが、それを可能にしたのはこうしたカネの流れがあったからこそなのである。なにを元に上記の文章がかかれたかは判りませんが 当時からコミッションがでていたことは噂されましたし、海外によく出ていたのは問題になったくらいで また最近の文芸春秋にも、娘さんの証言でも まちがいなく海外に口座があったとあります吉田茂の政治資金という見方もありますが また個人だけでなく 複数の方の資金の面倒もみていたのでしょうか?親友でも 見えていない面はあるようですね 今センセイ
2007年12月21日
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http://members2.jcom.home.ne.jp/kaikei36ki/W-iida.htm高島康男君の思い出 小生は坪井経君の勧誘もあり、昭和36年12月に青木建設(当時ブルドーザ-工事)に入社した。その時高島康男君は小生と入れ替わる様に興銀に出向し、更に同行から三幸建設工業に派遣され、同社の社長室長の要職に就任した。突然の事なので、どうしたのか事情を聞いた処、知る人ぞ知る田中清玄氏が経営していた同社が赤字続きなので、昭和30年頃四元義隆氏が代って社長に就任した。然し同氏も建設業に詳しくないので、適当な人物の派遣を興銀に依頼し、興銀から当社に更に依頼があった由であるとの事。 四元義隆氏と言えば血盟団事件に関与した元東京帝大法科学生であり、戦前戦後を通じ歴代総理大臣の政治指南番と称された鹿児島出身者で、西郷隆盛を彷彿させる(西郷隆盛と血縁関係がある)人物と言われていた由。高島君は四元氏の信頼によく応え、同社の運営に貢献された。高島君の後任に更に2名が派遣されたが、同君の評判が一番高かったと聞いている。これもネットから集めたもので 三幸建設工業の内部事情を記したものです。青木建設、日本興業銀行がバックにいたということがわかりおもしろいですが 建設業に詳しくない男が二代連続で社長にというのが とても疑問です。
2007年12月18日
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http://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/50312262.htmlこちらをうけてです。車は途中、渋滞にまきこまれたが、それでも午前11時10分前に小林邸に着いた。水口(水野成夫)の秘書の下田です。 こちらはニッポン新聞販売店の磯貝会長です。下田は 50前後の中川と名乗った男と名刺を交換し 二人は玄関脇の応接室に通された。小林(中)は五分後に着流しの姿で入室した。眼鏡をかけ やや小柄ながら恰幅がよかった。磯貝が起立し、緊張した面持ちで突然お邪魔してすいません 磯貝と申しますと小林に名刺を差し出す。下田もそれに倣った。小林は二枚の名刺をテーブルの上に置き ゆったりとソファに身を沈める。そして国輝同志会というのは?との問いを発した。平たく言えば右翼団体です。大阪を中心に200人の会員がいます。ほーう それは多い。感嘆した割には 驚いた様子はなかったその時、磯貝は隣に座る下田に声を声をかけた。下田さん すんまへんが ちょっと席を外してくれまへんかはい下田は素直に頷き 外に出ていった。それを見届けた磯貝は やや前かがみになって 口を開いた。実は今朝 一番で 水口先生に大阪から呼ばれました。そして二人だけになって 水口先生の口から 鹿野(鹿内信隆)を殺せとはっきり言われました。鹿野社長のことですかと訊きましたところ そうだ。殺せと念を押されたのです。 そこで 磯貝はしばし間をおいた。 水口先生はわかったかといわれましたが 私は承りました。と答えておきました。殺す理由が理解出来なかったからです。そこで 私は この件は私の一存で受けるわけにはいかない。水口先生 鹿野社長の仲をよく知るご友人にご相談する必要があると思ったわけです。そして秘書の下田さんにおたずねしたところ 小林先生のお名前があがったわけです。磯貝の話をききおえた小林は 腕を組み、宙を睨んだ。そして禿げ上がった額を左右でかき 再び 横に三本筋の磯貝の顔を直視した。閨閥 マスコミを支配しようとした男 本所次郎 徳間文庫より水野成夫が死去する直前に 鹿内信隆を暗殺しようとして 産経新聞の販売店をしていた 右翼団体の幹部を大阪から呼び寄せたのですが 右翼団体の幹部が 実行の是非を 小林中に相談し来るというのが このシーンの背景にあるのですが。どこまで事実か?疑問もありますが いまでも新聞販売店とその筋との関わりは 有名な話ですから。それにしても実名で 小林中というのはすごいですが、在りし日の財界四天王の裏側を描いたシーンではあります。その中には 白洲次郎も当然 いたはずです。
2007年12月18日
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http://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/50310122.htmlこちらを受けての感想です。しかし、こんな形での側近政治をやっていて、身内と官僚派を重要しすれば、党人派から 俺たちにも分け前よこせとなるのはあたりまえかなと思います。当時の事情からいろいろいえない噺があるというのはわかりますが、政治というのは 集団でやるもので 個人プレイでやるものでは、絶対にありません。そうでないと持続できないからです。そしてよどみがないように、なにが行われているか 公開されないといけないはずです。それが過去から未来への伝言になります。しかし このへんは 最近の白洲ブームへの視点にはまるでないのが あきれるばかりです。白洲次郎は 後年 自分が、関係していた件の文書をかなり焼いているようですが、かりにも一時は歴史学者を目指した方ですよね。彼は?ある機関に、預けて 一定期間を過ぎたら公開するとか そういう方法は考えなかったのでしょうか?このことからも、白洲次郎は 自分の戦後の仕事に、かなり負い目をもっていたことが伺えるように思えます相当にね。田中清玄にもいえることですが 子供じゃあるまいし ヒーローなんてどこにもいないのです。
2007年12月14日
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共同の記事によると 次のように出ている。列車妨害の手口から見ると 戦時中、大陸や南方で軍隊が行った手口と同じであり、技術面に明るいか またはその暗示を受けたものでなければ不可能である 事件直後 現場を調査した福島管理部機関車係 保線係の総合調査報告によると そう推定されている 旧特務機関 右翼筋の犯行という説は 当時から相当根強く信じられている情報の一つだ。それは犯行手口からの推定だけではない。現場から二十キロ離れた安達郡和木沢村に、当時 反共右翼の巨頭と云われたT氏が土建飯場を持っていた。同氏は 事件前から福島県下で反共演説をブチまくっていた。謀略部隊を潜入させるためには 絶好の足場ではなかったのか もちろんT氏は その後 この噂があるたびごとに否定している。しかし 和木沢村には 日の丸同盟という、そのころ 県下で活動していた右翼団体の関係者がいたり 事件当初のアリバイに不審を持たれ逮捕された元鉄道員I氏がすんでいたり 右翼説にはこの村が必ず登場してくるのである。(昭和34年8月20日付中国新聞)松川の破壊工作班は たとえアメリカ軍関係者であったとしても、軍人を直接に使ったとは思われない。実際の工作班には 日本人側の下請け業者が使われたであろうと想像されるし もし軍人を使うなら たぶん それは2世の隊員であったと思われる松本清張 日本の黒い霧 下 推理 松川事件 文春文庫飯場というのは いろんな会社の人が集まるので 怪しい人が入り込みやすいのですが 周辺から隔離されているので 目立たないという特色があります。またいわゆるT氏とは 田中清玄のことで、松川事件に関与したらしいという推理なんですが 福島県下で 邪魔な共産党筋の組織を押さえ込めれば 東北電力の会長さんには 結果として 貸しにはなるのかな?どうなんでしょうか?
2007年12月11日
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小説 田中清玄母が死を選んだわけは?共産党時代と造船業の関わり四元義隆との出会い西郷吉之助という男血盟団事件のスポンサーは誰だったかひもろぎ塾への参加田中清玄と右翼との関わり亜細亜産業と昭和通商神中組設立安藤明との関わり尾道造船敗戦天皇主義という宣伝手配師集合共産党転向者グループ吉河光貞との関わりまず金ありき下山事件と松川事件電力再編成対立追放間組と住友銀行水野成夫と静岡海外賠償始まるタイとの関わり岸と池田の対立中央公論社への介入怪文書撒かれる警察と全学連そして最後に笑ったのは?四元と 宅見若頭革命ごっこの結末宮崎学の嘘つき児玉と解放同盟の接点岡村吾一とボンノ田岡一雄と関東任侠日活と児玉軍団大映と児玉軍団東映と児玉軍団東宝と児玉軍団ナベプロと児玉軍団興業界と 山口組笹川良一関西右翼と関東右翼の微妙な関係三悪追放と笹川丸善石油と 笹川統一教会と田中清玄田中清玄と 田岡一雄仕掛けたのは誰か?児玉と田中の利権争い田岡 箱根を越える稲川怒るそして狙撃事件歴史のねじ曲げ清玄の影響力低下第一期頂上作戦清玄の狙い公安の狙い児玉の復活大物の死西山幸輝登場今里広記と田中清玄との対立論争ジャーナルへの支援ロッキード事件で 弱いものほどよくほえる田岡一雄死亡引退石油ブローカーということ朴烈と北朝鮮との関わりキヤノン機関との関わり空手軍団との関わり京大新人会と特務機関との接点拓大イスラム人脈中東調査会人脈宇都宮徳馬白洲次郎インドネシア石油利権ジャパンインドネシアオイルアブダビ石油不毛地帯にみる田中清玄イスラム送金岸信介と児玉との対立瀬島とのこと靖国のこと子供っぽいヒーロー願望参考文献
2007年12月10日
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まことに 彼女は素晴らしい女性である。夢見がちな為 ともすれば足元が乱れる夫を支えて いかなることにも動じない いつぞや遊びに行ったとき 二人でダンスを踊ってみせてくれたことがある。それは、男にリードされるというより 辺な動物を一匹抱え込んで あー 困っちゃったわ あきらめましょうという風に見えた 内助の功とは もしかすると そういうものではないかしらん 昭和33年12月白洲正子 心に残る人々 講談社文芸文庫よりご自分と旦那との噺ですか?と声をかけたくなるくらいですが 広島モーターボード利権のドン 岩田幸雄とその奥様の噺です。岩田幸雄という方は 明大の仲間だった 吉田彦太郎 関山義人 らと 右翼活動に入り 北一輝の弟子の岩田富美夫の大化会に入り 児玉機関にも絡んでいた方で 戦後は笹川良一の子分で 広島の仁義なき戦いの方々などや 糸山英太郎とも交流のあった方です。正子さんのこの文の中では 次郎と岩田との関わりには いっさいふれていませんが 知り合った接点の方々と 次郎が交流があったということ。モーターボード利権のために 動いた矢次一夫と次郎が岸信介の戦犯指定に動いた経緯があったらしいこと。白洲と知り合いの池田勇人を含めて 広島には知人が多いということから 当然 次郎とも 岩田は接点があったということは まず確実なはずと思います。しかし この時期は 銀座エスボワールのマダムを含めて 愛人が何人かいたはずですが文中には こんなことばもあります。人を愛する喜びは 人に愛されることの辛さをも忍ばねばなるまい。彼は非常に家庭的な、よき夫であり、よき父である。これは、愛人を持つことと矛盾しない白洲正子の奥の深さは こんなところにあるとおもうんですが いかがでしょうか
2007年12月06日
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http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/077/0750/07708120750022c.html○横路委員 きょうはちょっと従来の議論の角度を変えて児玉譽士夫関係について少しお尋ねをしたいのですが、児玉譽士夫がどうして戦後三十年間、これほどいわば日本の政界や財界の中に力があったのか、力というのは表の力よりむしろ裏の力ですけれども、やはりそういうことの解明なくして、政府高官を挙げただけでロッキード事件終わりということには私はならないのじゃないか。いわばこの事件の構造性ということが言われていますけれども、その構造性の一つというのは、こういう男がなぜこんなに日本の裏の世界で大きな力を持ったのかということにあるんじゃないかと思うのですが、法務大臣、あなたも面識があるようですけれども、どこに児玉譽士夫というのはこんなに力があったのか、その辺の理由というのは法務大臣、どういうぐあいにお考えになっておりますか。○稻葉国務大臣 私はよくわかりませんね。それからまだ、こんなになる前にも別に、そんな力のある大した人物だとは思っていませんでした。○横路委員 政界にも、これは相当な顔がありますね、彼の。ですから、これはあれなんですか、鳩山自由党結成以来の人脈の三木武吉、大野伴睦、河野一郎氏というようなことを言われていますね。何ですか、これはもっぱら金の力なんですか。○稻葉国務大臣 金の力もあるでしょうけれども、あの人たちとしては児玉に人間的魅力を感じておったように私は思いますね。それで私などは、組むべからざるものと鳩山さんも河野先生も組んでるなという気がしておりました、組むべからざるものと。○横路委員 現在の自民党幹事長の中曾根さんとの関係ということも、いろいろ言われていますけれども、これは河野派に彼が所属をしておったということなんですか。中曾根派としても、これは金の関係があったのですかな、どうですか。○稻葉国務大臣 河野派春秋会は、児玉、萩原それから永田、こういう人が三金会というものの幹事役でやっていましたから、これはつながりがありましたね、金において明確に河野派春秋会は。この後の一派ですから中曾根派というのは、新政同志会は。それで続いたと思いますが、私の知る限りでは佐藤三選のとき以来、切れておるというふうに、この間ここで申し上げたとおりです。そういうふうに思っております。金の関係においては切れておる、こういうふうに思っております。○横路委員 その金の関係は最後にちょっと、もう一度触れることにして、もう一つ児玉が力があったのは暴力が背景にあった、これがきわめて大きな要素を占めているのじゃないかと思うのですけれども、これはどうですか、法務大臣。○稻葉国務大臣 その件になると私は余り詳しくありませんけれども、どうも、そうらしいと思わないかと言えば、そうらしいと思いますね。つまり消すぞとか、月夜の晩ばかりじゃないぞという性質の人物のように思いますが。○横路委員 そうすると、そういうことだと思いながら、やはりつき合いを断ち切れなかったというのは、どういうことなんですかな。○稻葉国務大臣 だからこそ私らの先輩では重きを置かない人物ですから、私は児玉譽士夫なる者については、そんな重きを置いていないのですよ。そして、ああそうか、そういうものか、河野さんも組むべからざる者と組んでいるなと言うて、四十三年、佐藤三選のときに、もう金の面においても、おつき合いをやめましょう、こういうことを中曾根君が言うから、いい考えだ、かねがねからそう思っておったと言って、ぴしっと切っているというふうに思いますがな。だから、どうして、そういうのと中曾根がつき合っていたかと言われても、つき合いを切ったのですから、御質問に対しては、そういうふうにお答えしますね。http://kamou.co.jp/keiten/yotu/nakayotu4.htm「四元は、池田とは、なお深い繋がりを持っていましたね.政策的なアドバイスもしていました。大平正芳なんて、池田の秘書でしたから、四元さんには丁重に接してましたよ。大平は、四元さんには対等以下で話していた。それが中曽根になると、先生だからね」(北原勝雄) 中曽根と四元の交わりが一段と緊密になったきっかけは、昭和四十二年四月、中曽根の「拓殖大学総長に就任」であった。 かつて拓大理事長であった西郷降秀の秘書をしていた柴垣昭人(全国飲食業事業協同組合連合会会長)によると、中曽根が、四元に頼んだ。「ぜひ、総長をやらしてください」中曽根は、そのあと、理事長の西郷隆秀に、総長をやらせてくれるよう頼みに行った。西郷降秀は、西郷隆盛の孫にあたる人物である。 中曽根が拓大総長兼理平長に就任すると同時に、四元も理事の一員に加わった。 中曽根は、拓大関係者に四元を「この人は、わたしの人生の師です」と紹介して歩いている。四元もまた、まわりの者にその当時からハッキリ言っている。「こいつは、総理になる男だ。いや、総理にしてみせる。やつには、それだけの力がある」 中曽根は、四元をご意見番に置いた。http://khon.at.infoseek.co.jp/yogo/inaba.html稲葉修斎藤貴男 著「文春文庫 カルト資本主義」(文藝春秋、2000年6月10日 第1刷)より第五章 「万能」微生物EMと世界救世教 (略) 比嘉が回想する。 「四元先生には、大勢の方をご紹介いただきました。そのお一人が、稲葉修先生です」 三木内閣の法相で、中曽根派の顧問格でもあった稲葉(故人)は、農産物の自給自足体制を公約に掲げる“国士”型の政治家だったが、同時に足尾鉱害事件を追及した田中正造を尊敬し、当時では珍しく、環境問題にも理解を示していたと伝えられる。世界救世教とも関係が深かった。(略)右翼の対立構造というのは 意外にいわれないものなんですが ようするに ご主人さまを誰にするかということで 田中清玄 四元義隆の場合は 吉田系 児玉誉士夫の場合は 河野一郎系ということになるようです。当初は 反佐藤で 児玉センセイ スリスリという大勲位ですが 河野一郎が亡くなり 反佐藤で 先輩にかつぎ上げられても もうすでに 四元センセイすりすりというのが 行間からみることができて まさにお笑いです。ちなみに 中曽根に対して 事実上の拒否権発動をしたらしい 稲葉のバックは 四元義隆で いろんな意味で 児玉とは犬猿の中です。正義派みたいにみる人 未だにいますが どうなんでしょうかね?
2007年12月04日
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昭和24年9月ごろから翌25年春にかけて共産党制圧のため 電源防衛運動をおこなったことは忘れられません。共産党は全国の各地に勢力を広げていましたが 群馬県にも眼をつけ 東京に送電している吾妻地区の東京電力の発電所を占拠しようとした。共産党に日本の動力源を与えるなと私どもは立ち上がった。このとき中曽根は 毒を持って毒を制すということを考え 実行したのです。中曽根は内務省の警察畑の出身ですから共産党に関する情報は以前から詳しい 当時 共産党から転向していた田中清玄に密かに会い 説得して連れて来ました。私どもは田中清玄を中心にした共産党転向組を前面に押し出して 反共キャンペーンを展開していった。その中には モスクワ大学を卒業した風間丈吉などもいました。共産主義をもっともよく知る田中清玄たちの 反共 電源防衛運動は大きな効果がありました。日本の地下人脈 岩川隆著 より中曽根康弘の秘書の回想ですが 大勲位との接点は ここから始まるようですが 少しクビをひねるところもあります。内務省で下っ端にすぎない中曽根がというより 恩師の矢部貞治が 鍋山貞親と世界民主研究所で いっしょなんで その線で 清玄に話しがいったというほうが正しいかも?このへんは大勲位自慢しています。また清玄を建設業者というより 政治運動家としていますが 建設業としての顔はダミーだったとみるべきだったのでしょう。この結果 日発の共産党系の労組が切り崩され 佐々木良作を中心にした第二組合が組織されます。岩川さんは これで 中曽根 佐々木良作 田中清玄という人脈が出来たとありますが 清玄自伝には 民社党との関係はありましたっけ?怪しい海外人脈の噺がありますが こういう肝心な点は あまり書いていませんから インチキ右翼といわれるのかもしれませんね。どちらが 清水の次郎長か 黒駒の勝蔵か
2007年12月02日
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