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通産省設立の裏事情を戦後日本経済史 野口悠紀雄著より まとめてみると 下記のようになるようです1 45年10月の段階で 軍需省から看板を代えた 商工省に貿易庁が新設され 外務省との通商行政の縄張り争いの第一段に 商工省が勝つ2 ただし貿易庁の主軸は 語学ができるということで 外務省からの出向者が 握る。商工省から永山時雄が派遣されるが 白洲次郎に 逆に押さえ込まれる3 商工省と貿易庁を合併して 通産省を作る段階で 白洲が 貿易行政を握るつもりで 通商局をつくり 次官をやるつもりだった4 しかし 旧商工省側との話し合いで 通商局の課長以上は外務省側で 官房長は永山 次官は 旧商工省からとなる5 しかし 白洲が 東北電力会長になり 吉田茂との関係が微妙になり 吉田政権崩壊とともに 永山が通産省を追い出され いわゆる白洲派(国際派)が衰えていくことになる6 このあとに 官僚たちの夏のモデルの佐橋(どちらかというと 反白洲 統制派)などがでてきます。俗に 国際派 統制派といっても そんなたいしたものなのか?吉田系とか 岸系でいいんじゃないかと思うんですが いかがでしょうか?ただの権力闘争といった気もします。角さんが ジローさんのマネをして 両角とか 小長を引き立てて 通産省を握るようになるんですがこのへんをよくご存じの城山三郎が ここが まったく描けていない 占領を背負った男を ヨイショするのは ずいぶんおかしな気もします
2008年07月31日
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疑惑と謀殺 森川哲郎 詳伝社文庫を読む千葉銀行の古荘四郎彦の戦犯疑惑を 矢板玄が もみ消して 館山にある会社を巻き上げたという噺が 最後の証言で 語られていましたが なんのことかというと フィリピンで略奪された ダイヤモンドが日本に持ち込まれて 憲兵から それをうまくまきあげたのが 古荘ですが それが表にでないようにしたのが 諸説ありますが キヤノン機関 そして中丸薫の父らしい 堀川龍吉郎とのことのようです 古荘が 財宝を 預けていたのが のちの世界救世教となる 新興宗教団体 憲兵の一人が たぶん塚本素山で 児玉誉士夫の事務所のオーナーにして 公明党の黒幕です。 こんな 背景があるので 一時期 千葉銀行は いわゆる闇の紳士の貯金箱状態になり 金融王森脇の原資がここから出ていたり 真相という雑誌で 東京温泉 日活 日平産業 新田組 横井産業という怪しいところに 資金をだしていたりという状態になっていたようです いわゆる 松本清張の深層海流も このへんがベースなんですね
2008年07月27日
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http://www.gaifu.co.jp/review/kanshien.html児玉センセイのW計画の裏側にいたのが このかたのような人たちで 日本に紹介される段階では ここが省かれるので 児玉センセイって すごいということになるのですが(笑) タングステンの入手だけみても間に 中国人の協力関係があったことが 伺えるので 略奪だけで 物資を入手していたわけではないことが 考えられます。ちなみに ここには明大の島岡監督の名前がでてきますが 明大からは 吉田彦太郎 岩田幸雄などの児玉機関の人間がでていて 人脈的には じゅうぶんつながりはあるはずです 日本軍に協力した人物は戦後 追放されたような印象を受けますが そうでない人も この本によると いっぱいあったようで 戦時中に児玉機関に協力した人間が 国府軍の中に残り その流れの中で 旧日本軍の人間が国府軍の軍事顧問に参加した白団とか 密貿易の海烈号事件があり そこから いわゆる台湾ロビーにつながるとみるべきでしょう。 ちなみに 三菱化成を絡めたスキームの塩の輸入に 甘志遠は絡もうとしたようです。ここに協力したのが香港上海銀行というのがナイスです。(矢板玄と三菱化成との関係はこんなところからかもしれません) 伝統的に 中国での塩の流通は 怪しい人たちが手がけていた歴史がありますちなみに 南京政府と関係のあった犬養健ですが 南京政府の顧問だったのが 門屋博 この人は 田中清玄の盟友の島野武の兄で 児玉機関の吉田彦太郎と 密貿易で関連のあった方ですジロさんと白人華僑さんたちの関係さらに知りたいものです。
2008年07月20日
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E5%8E%9F%E5%81%A5%E4%B8%89浅原健三という方がいました。十河信二とか 水野成夫とかの友人でもあり いろんな言い方をされますが 当時の大陸浪人 または ジロさんと同じ意味での国士 もしくは怪しいひとですこの方の評伝 反逆の獅子 桐山桂一著 角川書店版に面白いことが書いてあります。彼が事実上の国外追放になった時点で 上海で1ドル2円で 日本から持ち出した円をドルに代え シンガポールで 1ドル10円(闇ルートです)の相場で さらに円に代え それを シンガポールの横浜正銀の支店に持ち込んで 無理矢理 ドルに代えて 金をつくったということが書いてあります。当然 違法ですが 政治的な理由で うやむやになってしまったようですが 当然 だれかがバックにいたんでしょうか? 甘粕正彦も 佐野真一の本では 彼がこのいわゆる闇の為替相場での操作で 機密費をつくったようだとありますここからが仮説ですが さてジロさんが受けた 文平さんからの送金ですが 上海あたりで ポンドにかえて ロンドンで 円にかえて ジロさんが横浜正銀のロンドン支店あたりで ポンドに代える 文平さんというか その友人の池田成彬センセイの機密費にそれが 化けるとか?ジロさんや 文平さんがうまく 借金取りから 逃げられたのも このへんが 理由なんでしょうかね?人脈的には 合うはずなんですがいかがなもんでしょうか 学生が使える金なんて たかが知れてますよ?
2008年07月19日
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http://wpedia.mobile.goo.ne.jp/wiki/804672/%8FI%90%ED%98A%97%8D%92%86%89%9B%8E%96%96%B1%8B%C7//#menu発足当初は、連合国軍と日本政府の単なる連絡機関であったものが、次第に性格を変容させ、終戦から1年半を経過するころには、設営などを含め相当範囲について実行機関としての性質を有するに至った。 外務省の外局です。主導権をとれば 利権がついてきますhttp://www.geocities.jp/since7903/zinbutsu/so.htmこの間大使の更迭があり芳沢謙吉が特命全権大使として赴任してきた。芳沢は英語と中国語には堪能であったが、フランス語は苦手だったとみえ、曾禰を鞄持ちとして重宝した。 昭和六(1931)年、満州事変勃発の際には、芳沢が駐仏大使兼臨時代表としてジュネーヴの国際連盟に赴き、曾禰も随行している。親分の芳沢謙吉ですがhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B3%E6%BE%A4%E8%AC%99%E5%90%89操夫人は犬養毅元首相の長女。孫に国際協力機構理事長・国際政治学者の緒方貞子、国際法学者・元ニュージーランド大使の井口武夫、侍従長・元外務省事務次官の川島裕などがいるそして 緒方 犬養がバックというのは 微妙な位置でありますが さーて もうひとつ広田弘毅については いかが関係しているんでしょうかhttp://www.geocities.jp/yamamrhr/ProIKE0911-31.htmlY項パージ: 昭和22年(1946年)4月、戦後二回目の総選挙直前に「政敵」である芦田均周辺の有力者が次々と追放になった。これは、吉田首相が、インフォーマルな形で指示しなければ不可能であると思われた。このため、この追放を世間では、「Y(吉田首相の頭文字のY)項パージ」と呼んだ。気にいらん奴は追放だということですhttp://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1101477701/348-447くわしくは 上記ですこうしてできたのが 今の宏池会の源流ですね。たえまない権力闘争これが日本の戦後でもあります。ジローさんは この波の乗ったわけですそれから 西尾センセイの 親友が 笹川先生で 笹川先生大好きなナチスとは 国家社会主義 ドイツ労働者党です。いまの民主党のほうが 当時の社会党に社民より近いのかもしれません。どうもうまくまとまりませんが 五島の娘婿が社会党でえらくなっても 全然 おかしくない背景があったわけです
2008年07月17日
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東亜セメントとはhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%8F%E5%8F%8B%E5%A4%A7%E9%98%AA%E3%82%BB%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88#.E6.BB.8B.E8.B3.80.E8.88.88.E7.94.A3滋賀興産1933年(昭和8年)8月 - 昭和セメント株式会社設立。1935年(昭和10年)8月 - 彦根工場操業開始。1939年(昭和14年)5月 - 親会社の日本石綿盤製造株式会社(現・株式会社ノザワ)が吸収合併。1944年(昭和19年)7月 - 小野田セメント製造株式会社(後の小野田セメント)が彦根工場を買収。1944年(昭和19年)10月 - 野沢石綿興業に社名変更。1947年(昭和22年)3月 - 彦根工場返却。1949年(昭和24年)4月 - 野沢石綿セメント株式会社に社名変更。1960年(昭和35年)3月 - 東亜セメント株式会社を設立。1960年(昭和35年)6月 - 東亜セメント多賀工場操業開始。1965年(昭和40年)12月 - セメント製造部門を住友セメントへ譲渡する準備として、滋賀興産株式会社を設立。1966年(昭和41年)1月 - 滋賀興産が野沢石綿セメント彦根工場を継承、東亜セメントを合併し営業開始。1966年(昭和41年)4月 - 住友セメントが滋賀興産を合併。http://chikyuza.net/modules/news2/print.php?storyid=141&PHPSESSID=17b292b71370ca55cebb3ed8167aff4c野沢は、東亜同文書院を辞職したのち、野沢石綿セメント株式会社が設立した昭和セメント株式会社の総支配人に就任(1933年9月)している。さらにその後、野沢石綿セメント株式会社の取締役に就任し、次いで常務取締役(1935年9月)になり、北海道石綿開発株式の常務に就任(1938年12月)している。地下に潜行しながら、どうして社会的なこのような仕事が務まるだろうか。憶測にすぎない。国会議事録を見ますと 公害も出ているボロ工場のような気がしますが さて 一応 実業のような気もしますが 果たして この東亜セメントの出資社に振り当てられた株なんですが 果たして それが適正値だったのか。時期からみて 誰かさんのための裏金作りそれにしても 住友大阪セメントですが 面白い方法で でかくなっていったものです
2008年07月16日
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http://kins.jp/html/65iguchi.htmもう一人そのジャパンロビイのグループに入っているのが、戦後1950年代の半ばに海運関係の大きな会社を育てたマックスウェル・クライマンとK・スガハラという日系人のビジネスマンですが、スガハラを直訳するとフェアフィールド──平らな原っぱ──ということで、フェアフィールド・マックスウェルという大きな海運会社を始めています。そして戦前は外交官で、駐日アメリカ大使を勤めていたジョセフ・グルーの右腕で当時参事官であったユージン・ドゥーマンが、ジョセフ・グルーと共に終戦時に国務省を辞めまして、そのあと民間人としてドゥーマンは再出発しているんですけれども、ちょうどその終戦直後に、K・スガハラとマックスウェル・クライマンと共にニューヨークで真珠商会という真珠の卸売の会社を始めました。これはある意味では表の姿であって、その裏の姿は日本の国内情勢に関する動向分析も担当しているという、そういう二面性のある運営であったわけです。http://homepage2.nifty.com/yarimizu2/kobayashinenpu1.html 4月11日、東京市神田区神田猿楽町三丁目三番地(現千代田区猿楽町二丁目八番五号)に生まれる。(高見澤潤子の『兄小林秀雄』によれば、本当の誕生日は三月末だったという。ちなみに同書によると小林秀雄の血液型はB型) 父、小林豊造は明治七年兵庫県出石(いずし)郡の清水家に生まれ、のちに旧但馬藩の家老職であった小林家の養嗣子になる。明治32年、東京高等工業学校に付設された工業教員養成所の金工科を卒業し、東京高工助教授、御木本真珠店貴金属工場長を経て、日本ダイヤモンド株式会社を設立した。欧米各国に学び、日本で初めてダイヤモンドの研磨技術を習得し、また蓄音機のルビー針を開発した技術者でもある。http://www.enyhoo.net/sinju.htmlところで、神戸と真珠はとてもとても深いつながりがあるんですよ。日本の真珠は世界一の販売シェアを誇っており、そして神戸は、日本の真珠の加工・流通の80%を占めている「世界一の真珠の街」なんです。 明治26年に御木本幸吉さんが世界で初めて真珠の養殖に成功して以来、日本の各地で技術の向上を図り天然真珠に勝るとも劣らない真珠を大量に採取できるようになりました。その頃は日本国内の市場では高級過ぎたために需要が伸びず、アメリカやヨーロッパなどに輸出されていました。 このため、三重、四国、九州などの大きな養殖場から地理的に近い国際貿易港、神戸港に自然と真珠が集まるようになったのです。さらには真珠の選別にかかせない「自然光」が地形的に神戸には備わっていました。神戸の街の北側にそびえる六甲山が降り注ぐ光を反射させ、安定した北光線を六甲山の麓に供給しているため、神戸に真珠加工の会社が集まってきたのです。ジローさんとまちがいなく接点のあった方のシノギと その周辺の噺。こうげいで真珠扱っていたんですかね。それから 小林秀雄って 政治的な方ですよね見方を変えると ほんとジローさんって怪しいです
2008年07月06日
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http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/DetailView.jsp?LANG=JA&METAID=10032068神戸新聞 1926.5.20(大正15)当地居留地の老舗セールフレーザー会社遂に解散但事業縮少してセ氏が継承外商の引揚閉店続出財界の不況以来日本に於ける外国商館の経営亦困難となり閉店の止むなきに至るもの遂日その数を加え材木輸入商であったブラウン商会、嘗て浅野物産と密接なる関係を有して居たダブリュ・アール・グレース最近に於ては外国商館中重きをなして居留サシュエルサシュエルの引揚など続出の有様であるが最近又復嘗てフォード自動車会社の日本代理店であったセールフレーザーが経営難の為め組織を変更し事業を縮小することになったことは注目すべきことである同社は英人セール氏と米人フレーザー氏との共同経営の会社で輸出入貿易、保険海運等の各種代理権を有し手広く営業して居るがフォード自動車会社の日本支店設置と共にこれが打撃を受け収益の上に多大の減退を来しその後一般財界の不況に益経営難となり殊にフレーザー氏は事業の閉止を希望し始めたので遂に解散するに決し、輸出部はクレー商店に譲渡し、残除の事業はシーピーセール氏に於て引受新にセール会社として継続することになった、セール氏は令弟エフ・ジー・セール氏及びその次男イー・オー・セール氏を日本に派遣して拾収せしめ、尚お氏の令息ジョージ・セール氏をも派遣することに決して居る事業の継続に関し未だ確定的ではないが幾分の縮小は免れないらしく唯保険部船舶部は依然従来通り継続する筈であるから神戸支店としては只輸出部が無くなる訳である データ作成:2008.5 神戸大学付属図書館
2008年07月04日
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http://www.yorozubp.com/0407/040717.htmここに出てくる 次郎さんの妹の演子さんという方なんですが 広瀬隆の持丸長者によると 生まれが 1915年 結婚相手の三雄さんが 1914年生まれです。文平さんの破産当時には 結婚の噺すらなかったはず?だと思うのですが 三雄さんの叔父の松方幸次郎の妻が 九鬼隆義の娘なんで つながりはありますが。ある意味 白洲家と松方家の閨閥というのは よくわからないものがあります。http://www.jabira.net/retsuden/ma/mutou.htm武藤山治さんですが、経歴をみて面白いことに気がつきます。三井銀行神戸支店副支配人 慶応卒 新聞記者 兵庫県での工場そして この人の息子さんの妻が 中上川家から来ています。白洲家とつながりがあってもおかしくない方です。また この中上川家と松方家は閨閥で結ばれていますここから 池田成彬などの有力人物に繋がっています。http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/M/matsumoto_j.html松本蒸治さんです。妻が小泉信吉の娘 義弟が 小泉信三です。義妹が 第一銀行の頭取さんに嫁しています。次郎さんとも 祖父の代からの知り合いですかね慶応に金貸したんだから 文平さんが困ったときに 助けてもらうのは当然ですよね?http://www.e.u-tokyo.ac.jp/~takeda/gyoseki/gakushi.htm審査の不在状況を支えてきたのは、つけ回しの利く金融システムであったからではないかと考えられる。しばしばバブル後の状況と比較されることの多い第一次大戦後の時期に注目してみると、この時期には多くの銀行倒産が見られ、その中で有力銀行の地位が高くなった。取り付けにあって営業停止状態になった銀行の預金者は、預金の相当部分を失ったが、同時に経営者や出資者もその地位を追われた。しかし、そうしたなかで見逃し得ないのは、なぜこの時期に都市の中堅銀行が相当数破綻に追い込まれたかである。多くの歴史研究は、その理由を、特定の企業への貸付に偏った「機関銀行」と呼ばれた銀行の経営のあり方に求めている。破綻の原因が、例えば台湾銀行の鈴木商店への、あるいは十五銀行の川崎造船所系企業への貸付の集中であったことは、間違ってはいない。しかし、こうした貸付の集中はバブルがはじけた後にかなり進行した。つまり、大戦好況のバブルの時代にはこうした企業への貸付に積極的であった他の有力銀行は、信用不安が高まると資金を引き上げ始め、返済資金に困った企業が「機関銀行」に駆け込んで不良貸しを雪だるま的に増大させたのである。「晴天」の時には多くの銀行が貸し付け競争に走りながら、「荒天」になったとたん有力銀行は手のひらを返して撤退を始めた。機関銀行にそのつけが回ったのである。メインバンクは、このようなラスト・リゾートとして不良債権を抱え込んでいるのであろうか。あるいは、住宅専門金融機関の不良債権の多くに、こうした形で「つけ回された」不良貸しがあるのではないか。ジャパンアドバタイザーという会社に次郎さんはいましたがこのあとにはいってきた 百万人の英語のJBハリス先生の回想では経営者も外人 記者も外人だったそうですが 身を隠すのに 格好だよな 神戸じゃ 目立つし。弟同様に 半分 いわゆる闇の紳士同然だった 文平さんが なぜ資産隠しをできたのか 正子父がなぜ 文平さんの印象が悪いのか?次郎さんがなぜ外資に勤めていたか判るような気もします
2008年07月03日
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