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http://72.14.235.104/search?q=cache:vKJP-o7TJF0J:www.biwako.shiga-u.ac.jp/eml/nenpo/Vol10_2003/ogawa_vol10.pdf +%E7%99%BD%E6%B4%B2%E9%95%B7%E5%B9%B3%E3%80%80%E9%96%A2%E8%A5%BF&hl=ja& ct=clnk&cd=5&gl=jp&lr=lang_jaこのページを見ますと 白洲長平という方が出てきますが 白洲次郎 の叔父でありますが 大正期の相場師 高倉為三のダミー役(子分?)という役目であったことが 伺えます。白洲次郎の父の文平の仕事自体も 貿易商という 紹介をされますが ここに出てくる長平の仕事をみた限りでは 先物の相場師という方が 間違いないのではないかと思いますが?http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85:%E7%9C%9F%E7%94%B1%E5%A7%AB/%E4%B8%8B%E6%9B%B8%E3%81%8D高倉藤平高倉藤平(たかくらとうへい、1874年(明治7年)-1917年(大正6年)) 堂島株買い占め理事長へ、高倉藤平氏(ニッポン相場師列伝)2005/10/17, 日経金融新聞, 32ページ, 有, 1773文字弱 冠十七歳で家督を相続すると、一挙万金を狙って綿糸相場に挑戦する活路を求めて大阪に出る。堂島や北浜で勝ったり負けたりしながらも株式仲買店を開業、時 に二十二歳。明治三十三年、天一坊・松谷元三郎にそそのかされて、豊川鉄道株の買い占めのお先棒をかついだのが敗着となった。二十四円台に逆戻りし藤平は 破産、仲買店は人手に渡る。 明治三十七年には再び仲買業の看板を揚げる。折から日露戦争の大相場で巨利を占めると、堂島米穀取引所株の買い占め作戦が始 まる。高倉の本邸には脅迫状が舞い込んだり、縁起でもない骨つぼや経帷子(きょうかたびら)が送り付けられる。だが、藤平はひるまない。この時売り方は義 侠の相場師岩本栄之助に哀訴嘆願、売り出動を乞う。 高倉買いの岩本売りで市場は大混乱に陥る。高倉が「二百五十円カイ」と叫べば、岩本は「百五十円ヤ リ」とやり返す前代未聞の乱戦となる。この戦は野村徳七が仲裁に入って落着するが、この時集めた株がモノを言って高倉は名門堂島米穀取引所の第九代理事長 のポストを手にした。まだ三十六歳の若さである。 大正六年、欧州大戦の最中、北浜のドン松井伊助と組んで郵船株の買い占めに乗り出し、近藤廉平 社長に辞任を迫る株主総会を開くところまで追い詰める。「近藤社長を支持する松方正義公と近藤社長追い出しを図る片岡直輝ら関西側のケンカであり、さらに は高倉派の政友会と、近藤派の憲政会の対立でもあった」(宮本又次著『大阪商人太平記』) 憲政会は九州若松の吉田磯吉親分の勢力下の炭鉱夫三百人を総会に送り込む一方、政友会は三百人の院外団を株主に仕立てて同席を画策する。一触即発の危機 を前に、山県有朋公が仲に入って、事なきを得た。 これより先、藤平は北浜銀行頭取に就任する。大阪財界の名物男岩下清周の野放図経営のトガメで 破綻、難題処理にかつぎ出された。営業再開初日、高倉は一計を案じ、ケチンボで有名な大富豪の竹原友三郎にひと役買ってもらう。竹原が雪駄の音も高らかに 窓口に現れると「おめでとうさん」と大金を預け入れた。この一件が伝わると、安心した顧客の預け入れが相次ぎ、業績は回復に向かった。財界大御所への道を 歩み始めた途端、腸捻転で急逝、四十二歳。太く短い相場師(たかくら とうへい 1874―1917) 明治7年大阪岸和田町出身、同24年家業の木綿商 を継ぐが、綿糸の思惑で失敗。日清、日露戦役相場で巨利をつかみ、同44年堂島米穀取引所理事長に就任。大正6年松井伊助と日本郵船株の買い占めに乗り出 し、政友会、憲政会、吉田磯吉親分を巻き込んでの大波乱に発展するが、同9年急逝、42歳。浪速火災保険(明治43年1月頃)-後の太田清蔵、原錦吾らに 売却T7.10日本共立火災保険に改称、後に大倉組に売却され大倉火災海上、千代田火災に合併 高倉為三十合呉服店より高倉藤平の元にきて、気に入られ養子に 高倉藤平の跡を継ぎ、堂島米穀取引所理事長に 日本貯蔵銀行の常務、実質的なオーナー 積善事件にて収監[編集] 破綻の原因当行は、大相場師として有名であった高倉藤平の養子であり、藤平の跡を継いで堂島米穀取引所理事長でもあった常務の高倉為三が実質的に所有、支配していた。高倉為三は、経営困難に陥っていた自己の経営する関係会社に投融資を実施し、その結果として、破綻に陥った。ここに出てくる 吉田磯吉という方が 玄洋社の頭山満の片腕 杉山茂丸の子分だった方で 白洲次郎の叔父の十平さんが 玄洋社の社員だったのも ある意味当然かもしれませ
2008年05月24日
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http://www5e.biglobe.ne.jp/~isitaki/page045.html 樋口 喜走 ひぐち きそう 10・11・12・13 (現在は)喜壮。樋口満の子。早大(政経)卒。〔日魯漁業函館支店〕 昭和19年三幸建設 副社長。三陽取締役社長。 ▼「樋口喜壮」『修猷館同窓会名簿』問題もあるが これが三幸建設工業なら おもしろい
2008年05月22日
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日魯漁業の平塚常次郎さんとか 何人か反主流な財界人がいて そういう人たちは 例えば 河野一郎さんとか 岸さんみたいな人を助けていますよね。福本 (邦雄)反主流の財界人というのは 当時は日魯漁業の平塚常次郎、それから平野赳 それから小松製作所の河合良成 それから東洋製罐の高碕達之助 そんな ところじゃないですか それは河野支持です 新自由会です。それは はっきりしたところです。河野支持ということは 鳩山一郎の時も それを支えていたし だいたいその系譜はあるわけですね。福本 そうです。系統はあるわけです。それで岸さんは 多少の資金援助はうけたけれども 多額の援助は受けていません。表舞台 裏舞台 福本邦雄回顧録 講談社より河野一郎の支持というと 北炭の萩原吉太郎 大映の永田雅一 院外団つながりで 児玉誉士夫ときますが ヤクザばかりではない支持層もあったようですね。私 見ですが これに宇都宮徳馬も加わるような気がしますが 日魯の場合は 河野一郎が社長であったことからの縁 河合良成は農林省役人あがり 高碕達之助は 日魯の堤清六の縁からということで 反米というわけではないのですが ソ連 中共寄りで 有名だったかたでもあります。(だからといって 反共じゃない とかかぎらないのですが イデオロギーじゃなくて お魚の為ですから)故中川一郎が 反共なんだけど 反ソではないという点も この流れを見ると 納得できるわけです。これが今の鈴木宗男にも流れています高 碕達之助が 初代の電源開発の総裁に なったのも、この方の孫は三木武夫の息子と結婚している点 河野 大野の党人系の人間とも親しい 鮎川義介の後の 満州重工業の総裁なんで 満州人脈で 岸系の人間にも抑えが効くという面で 水産業界が長い白洲次郎に眼をつけられたものでしょうね。
2008年05月19日
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http://plaza.rakuten.co.jp/hint2003/diary/200805130001/面白いことに、この昭和二十六年六月。「やる気はあるけんカラダがついてゆかん」というヒソミで鳩山一郎は、なんと脳溢血でぶっ倒れる。夏のまっさかりに日本座敷で氷柱を立てて凌いだそうだ。政界に戻るには、厳しいリファビリと栄養摂取に配慮せねばならぬ。こんな鳩山一郎が、赤坂の芸者のことをまめに世話できたら超人だ。まんまと田中清玄にしてやられたとしたら、こういう時期の話だろうか?そんな気がする。こ の鳩山一郎の必死の治療と回復で、秋九月に日比谷公会堂での政界復帰宣言となる。だが、なんの準備も整っていない鳩山一郎に、吉田茂は爆弾をぶつける。つ まりは「抜き打ち解散」だ。リファビリもそこそこに、選挙準備もあらばこそ抜き打ち解散では足腰が立たないではないか。元親友同士のなんと麗しい友愛であ ることか。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E7%99%BD%E6%B4%B2%E6%AC%A1%E9%83%8Eこんなエピソードも吉田茂の腰巾着であり、吉田の政敵鳩山一郎の公職追放解除を遅らせたとして、鳩山から恨まれ続けたとの指摘(戸川猪佐武)があります。鳩山一郎の件については 元の本にあたっていないので、詳細は知りませんが どうなんでしょうかねーえ愛人はいたらしいのは確実みたいですが 公職追放の陰謀が ほんとうにあったか どうかは別にして 周囲がどうおもったか?誰が最後に笑ったか?を思うべきですが どうでしょうか?ただ この当時 清玄とジローさんが どう見られていたか?その点は 面白いものがあります。
2008年05月17日
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http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/058/0140/05807300140036a.html大谷センセイの名前はまったくでていませんが 山口組 壊滅せず 鈴木達也著という本の中では この京阪神土地と 大蔵省のおえらいさんを結んだのが 大谷センセイと出ています。宝石を絵画のようにして 裏金の仲介とか やっていたんでしょうか?藤木幸太郎を 検事筋から紹介されて その系譜で 田岡を紹介されたという自伝の流れも間違いではないと思うのですが 清玄の周囲を見ていると 自伝にいう綺麗ごとの関係だけではありません。畑時夫という方は嶋中事件で 清玄と一緒に動いた方ですが 元を正せば 佐野学の労農前衛党にいた方で この方は皇民党事件でも影にいた方で(その奥には 大勲位のお姿が、、、、、、)また星井真澄とか 西郷隆秀など 清玄と割と関係の深い右翼の方って 関西系の方が多いのですが(なぜ その奥には 笹川センセイの姿が、、、)それで その畑センセイとか 星井センセイの下にいたのが 白神組長の系列の方々でhttp://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/126/0380/12602150380008c.htmlこんなことが表面化したりします。(どうせネタ元は 大勲位)http://www.asiabunko.com/zatugorin171_180.htm引 き続き調べると、1962年3月2日の、第40回国会予算委員会の議事録に「富士車輌」の名が見つかった。質問者は、社会党の横路節雄。北海道出身の国会 議員横路孝弘の父親だ。質問の内容は、タイの軍部や政治家と特別円がからむ「カネと権力と商売」の話だ、要約するのは長いので、興味のある人はこの議事録 を読んでいただきたい。しかし、実を言えば、読んだってわからないのだ。日本の企業とアジアの権力者のベタベタのカネの関係は、わからないことが多いの だ。 とはいえ、一応、要点だけ書いておくと、日本企業はピブーン派のパオ警察長官にコネをつけたところと、サリット元帥につながる企業があっ た。1950年代のタイは、軍と警察が権力争いを続けていて、火気を使った紛争もあった。今から考えれば、メチャクチャな時代だったのだ。1957年にサ リットはクーデターを起こし、ピブーン政権を打倒し、ピブーンは亡命したから大変というわけだ。これにより、タイ国軍は権力を掌握し、敗れた警察は、軍に 見下される組織となったのである。 権力とカネのそうした話はともかく、国会で「サリット」だの「ピブーン」だのといった名前が登場した時代があったのだなあと感慨深い。この当時 タイにいたのが 田中清玄ですから ねーえ 影でいろいろあったのでしょうhttp://www15.plala.or.jp/gemuseum/gemstry-emrld-smg.htm宝石屋さんで お金を洗う方法で ドンピシャとはまるところがありませんが そごうの宝石屋さんに 清玄がお世話にならなかったとは まずないような気もしますね
2008年05月14日
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E9%87%8E%E7%A2%A91931 年、アメリカを経由してドイツに入国し、ベルリンで医師の国崎定洞らが携わっていた社会主義運動のグループに加入。プロットの代表としてソ連に派遣される ことになり、演出家の土方与志夫妻ともに1933年に入国する。ソ連では世界的演出家のメイエルホリドが主催する国立劇場の演出研究員となり、メイエルホ リドの指導を受けた。やがてソ連は大粛清の時代を迎え、国崎が山本懸蔵の密告により「日本のスパイ」として処刑されると、1937年8月に佐野は土方らと ともに国外追放の処分を受けてソ連から出ることを余儀なくされた。佐野が国外追放された後の1938年1月に女優の岡田嘉子とともにソ連に入国・逮捕され た演出家の杉本良吉が、当局の拷問を交えた尋問に「佐野や土方は日本のスパイである」という虚偽の供述を強要され、これが決め手になってメイエルホリドは スパイとして粛清されることとなる[1]。ソ連を出国後の佐野はフランス・チェコ・アメリカを経て1939年にメキシコに渡り事実上亡命する。当時メキシコは大統領ラサロ・カルデナスの方針でトロツキーやスペイン内戦に敗れた共和国派の関係者の亡命を受け入れていた。た だし佐野のメキシコ入りには、トロツキー暗殺が関係しているのではないかという説がある[2]。当時、アメリカ共産党員としてアメリカ滞在中の佐野を世話 した石垣綾子は、佐野のメキシコ入国に、トロツキー暗殺未遂事件を起こした画家シケイロスが尽力したと回想している[3]。政治評論家の藤原肇は、佐野が シケイロスと組んでトロツキー暗殺に関連したと断言している[2]。佐野はメキシコで演劇学校を創設し、粛清された師メイエルホリドの身 体訓練法ビオメハニカではなく、スターリン体制下で正統派とされたスタニスラフスキー・システムを紹介して多くの演劇関係者を育成した。また、ホセ・グァ ダルーペ・ポサダがメキシコ革命を題材に描いた漫画をモチーフとしたバレエを創作・上演し、多くの観客を集めた。1955年にはコロンビア政府の招請でボ ゴタに3ヶ月間滞在し、ここでも演劇関係者の教育に当った。ボゴタで佐野の教えを受けた一人であるサンディアゴ・ガルシーアは後に民衆劇団「ラ・カンデラ リア」を創設し、その拠点となる劇場を「セキ・サノ・ホール」と命名している。佐野はメキシコで現地人の女優と結婚した。1966年メキシコ在住のまま死去。メキシコで名声を得た後も、日本人や日本とは一線を引いていたと言われる[4]。
2008年05月11日
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赤http://t-t-japan.com/bbs/article/t/tohoho/8/epyqrf/crmqrf.html「新申報」についての情報そういえば以前、渡辺さんが「新申報」についての情報を求めていらっしゃいました。今日たまたま読んでいた、昭和16年発行、馬渕逸雄著「報道戦線」に、「新申報」についての記述がありましたので、紹介します。 事変勃発当初上海には大小三十近い華字紙があつて猛烈な抗日態度を示し、十数の外字紙も亦日本に反抗を続け、上海以外の各地の新聞悉く抗日であつた。之に 対し日本側では僅かにローカルの三紙があつたのみで、而も之等は敵の爆弾によつて工場が潰滅せられ謄写版でニュースを配給するに止まると云ふ有様で、新聞 による宣伝は全く歯が立たない実情であつた。 口では日本帝国の真意を支那人に闡明すると云つても、日本の考へを支那人に知らせる手段なく、戦闘 には勝ちながら敵側の戦勝デマを拱手して見て居なければならないといふ有様で、華字によつて支那人に呼びかけるべく、日本側によつて華字紙を発行するとい ふ事が絶対に必要であつた。 事変前「上海日日」は夕刊として華字版を出して居たが、事変勃発と共に発行を停止して居たので、軍報道部は其の工場 並びに発行権を買収して新たに華字紙を発行する事にした。そして租界の一流紙「新聞報」と「申報」を兼称せしむる意味で「新申報」と名づけ、堂脇少佐、金 子少佐が苦心の末、程克 初め有力な支那人を集め、論説委員として日高、山本氏等を招き、昭和十二年十月一日創刊した。日本人の出した新聞を抗日 意識に燃えた支那人が読む筈がないので、当初は全然その記述も体裁も支那人発行のものとして出し、南京、蘇州、上海等の要人に郵送したのであるが「斯の如 き非愛国の文字を見るに忍びず」とて酷評を朱書して返送して来るものもあり、上海租界では売子が迫害せられ、売ることが出来なかつた。そこで飛行機によつ て支那の戦線に撒布し、抗日支那将兵に日本のニュースを読ませることにした。 赤松克麿君、高谷覚蔵君が報道部の応援に来て、力瘤をこの「新申報」の論説に入れて呉れ、申城、?(パソコンで出ないので一番近い字)城の筆名によつて大いに論陣を張つたものだ。 同文書院の久重福三郎教授は学生を激励するため自ら応召を志願し、一軍曹として柳川兵団の杭州湾上陸作戦に参加したのであるが、其の適材なるを惜しみ、杭 州攻略の後軍報道部に配属を受け「新申報」に其の特有の技能を発揮せしめる様にし、高谷覚蔵君が社長、久重君が副社長と云ふ格で「新申報」の発展に努力し た。次いで亀山嘱託も報道部に入り、専ら「新申報」の経営、紙面の充実に盡力した。(「報道戦線」P223~P224)http://www.waseda.jp/prj-m20th/magazine/magazine4/asahi.html一、 朝日新聞社の「汚点」 朝日新聞社は創刊111周年の1990年に浩瀚な4巻本の『朝日新聞社史』(以下『社史』)を公刊した。中江利忠社長(当時)はその「序」のなかで、「公 平無私」や「不偏不党」の編集方針で言論の自由を貫き、真実の報道と進歩的な評論を展開して来たが、この長い111年の歴史の中には「残念ながら、太平洋 戦争の一時期などのように、この創刊以来の伝統が守り切れなかったり、逸脱して大きな汚点を残したりした事実も、消すことができません」と述べている。 たしかにこの期に日本は有史以来、はじめての敗戦を喫したのであるから、『社史』のなかで「大正・昭和戦前編」の巻が近現代史の中での同紙の評価を自ら問 うものとなっている。最有力紙として日本の開戦に賛成し、国民を戦争に駆り立て、国内外の多くの人命や財産をなくし、外国による占領という不名誉な事態を 導いた責任は厳しく自己評価しなければならない。 自らの戦争責任については、すでに同紙は従来の社史でかなり率直に分析し、反省の姿勢を示している。今回の社史においても、その姿勢は貫かれている。各時点の同社の行動について、今まで以上に新しい資料が公開され、分析にも踏み込みが見られる。 しかし社長が「序」で言っている「汚点」を抉り出し、「過ちは過ちとして包み隠さず記述」しているだろうか。この小論ではこの700ページになんなんとす る「大正・昭和戦前編」を論じ尽くすことは出来ない。そこで、この巻の「昭和戦前編」の第9章「総力戦に協力」にある第5節「南方と大陸の新聞経営」の末 尾の実質1ページの箇所のみを取り上げてみたい。1942年秋から占領地で『ジャワ新聞』、『香港日報』などを軍当局の委託を受けて経営していたことは、 同社のどの社史でも触れているが、小論が対象とする「大陸新報と新申報」については今回の『社史』で初登場したものである。そこでまずその全文を引用して お(1)く。 昭和十四年元日創刊の「大陸新報」は、華中における日本の国策新聞で、陸軍、海軍、外務三省と興亜院の後援で設立、本社 を上海においた。朝日から相当の人員が大陸新報に転じた。これは朝日が軍から委託されて経営したのではなく、朝日が新聞経営に協力したのであった。その点 で、ジャワ新聞などとは発足のときから性格を異にしていた。朝日はアール・ホー高速輪転機二台とオートプレート一台を貸与した。また、大陸新報社は、現地 軍報道部が発行していた華字紙「新申報」を合併して姉妹紙とした。 「大陸新報」設立時の事情について、美土路昌一(当時、朝日新聞常務取締役・東京本社編輯局長)の話は要旨つぎのとおりである。 昭和十二年末の南京占領の後と思う。陸軍の影佐軍務課長が朝日新聞社に来て、「軍の考えで上海で新聞を出したいが、朝日でやってくれんか」といったが、 断った。その後福家俊一が甘粕正彦の使いで来て「海軍も一緒で宣撫工作として新聞を出したい」という。「それでは、朝日は関係はしないが、新聞を出す手伝 いをしよう」といった。私が「そもそも新聞は自主的なものでなくてはいかん。御用新聞は現に上海でも北京でも役に立っておらぬではないか。軍の悪いことは 悪いと書かなければ本当の役には立たない」といったら、影佐も海軍の岡軍務局第一課長も「それで結構だ」といった。そうして、朝日が手伝いをすることに なったわけだ。福家を社長にしたら飛上って喜んだ。……そんな風で“自主民営”を創立方針として出発したわけだが、あのような時勢でもあり、必ずしもその 通りにはゆかなかった。そのうち福家をやめさせて副社長の尾坂与市(朝日出身)を社長にした。尾坂君は立派な男だった。上海でも大分軍にたてついたそう だ。終戦後もみんなを帰して一番あとまで残った。 終戦の八月十五日の午後、武漢の「大陸新報」は徹底抗戦の社説を書き、軍報道部へゲラを提出し た。報道部はやめるよう説得につとめたが、支社長(朝日出身ではない)は「命がけで書いたのだ」と応ぜず、けっきょく軍としては「検閲不許可」にしてし まった。十六日の社説は空白のままであった。 以上が南方および中国での朝日関係の新聞であったが、戦後、美土路は、「私は戦時中の御用新聞発行 には反対だった。しかし当時、私にはそのことで相談もなかった。相談しても賛成すまいということだったろう。村山、緒方、石井君らで決定していたようだ。 それは日本が勝ち、南方地域が日本の勢力範囲に入れば、ますます朝日新聞が発展することになる、部数がふえるという感覚であったのだろう。大陸新報は私が 関係したが、これは別で意味が違うと思う」と語っている。
2008年05月11日
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http://209.85.175.104/search?q=cache:0wi6gndIiiQJ:akikoina.hp.infoseek.co.jp/kk100simp040904.pdf+%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%8F%82%E8%AC%80%E6%9C%AC%E9%83%A8%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E9%83%A8%E3%80%80%E9%AB%98%E8%B0%B7&hl=ja&ct=clnk&cd=3&gl=jp&lr=lang_jaリュシコフ大将に捧げるレクイエム 中田光男(勝野金政氏参謀本部時代の同僚)私には終生忘れることができない三人の巨人がいる。矢部忠太(参謀本部十一班長、最後のソ連駐在武官少将)、リュシコフ大将(ソ連極東地方ゲペウ長官、日本へ亡命)、村井順(初代内閣調査室長、綜合警備保障社長)。三 人とは声咳に接し、公私に亘り指導を受けたが、特にリュシコフ大将とは、戦乱下、再会を約し楽しみにしていたが、可惜四十二才の春秋を日本軍により射殺さ れた非業の死は、私のみならず今日の難局の日本にとっても惜しみて余りある巨人であった。今、勝野金政氏の生誕100 年記念に、親交のあったリュシコフ大将へのレクイエムを捧げることは奇縁といわねばならない。(1 )リュシコフとの出会い一九四一年 春、先輩の紹介で参謀本部に矢部中佐を訪ね、彼の人格に圧倒され(人生意気に感じ)奉職した。最初の仕事は宛名の判らない手紙をロシア語で書くことで、内 容は「貴君の生命財産は陸軍が保障する。今後貴君には自由な生活ができるように計う。毎月充分の生活費を保障する」というものであった。宛名の判らぬ手紙 は書きにくかったが、ロシア語で何とかまとめた。翌日、日本へ亡命した外蒙軍のダンザン・ローダン(作戦部長少将)に引き合わされた。半年間、国内を巡り彼に日本の実情を認識させる様教育せよという命令であった。学校を卒業したばかりの私には難問であった。以後、三ケ月間、全国の施設視察と観光に費やしたが、スターリン体制下、外蒙独立を策した志士も、脱出時の落馬が原因のカリエスとなり、九月、内蒙軍に送って行き、帰路ハルビンのソ連亡命者収容所(保護院)で、調査する機会を持った時の経験は役に立った。十月帰国するや、矢部部長から又、亡命者を托された。ゲンリッヒ・サモイロビッチ・リュシコフ三等大将である。神楽坂を登り切った右手に赤城神社があり、社の森の北側に豪壮な邸宅に憲兵詰所があった。その一室に住んでいた。いわば警備を名とする軟禁状 態におかれていた。私は三年前新聞で大きく報道されていた亡命したリュシコフの印象が残っていた から直ぐ旧知の如く打ちとけることができた。彼は‘38 年 6 月、満ソ国境を突破、日本に保護を求めて亡命したソ連ゲペウの極東地方長官・三等大将であった。話をしているうちに、半年前宛名のない手紙は彼に宛てたも のと気付いた。彼は手紙のロシア語の表現を褒めてくれ、矢部中佐の恩義に感謝した、人物を知るのは人物だと思った。(2 )ソ連事情講述間もなく神楽坂の寓居から目黒区碑文谷公園傍の借家に移った。同時に樋口みよ が家婦として世話することになった。私は連絡係として隔日に 彼のもとに通いソ連事情を親しく教えられた。この二年間はソ連を知る絶好の機会となった。話は政治、経済、社会、文化、芸術、生活、情報政策、粛清等など 全般に及んだ。神楽坂時代既に四つの論文で、スターリン体制を痛烈に批判し、「改造」誌上に発表していたが、私への講述を開始する、「ソ連共産党批判、」 の執筆を始めた。当時はスターリンも執筆した「ソ連共産党小史」‘38 年刊が、国民の書として強制されていたことに反駁したもので、共産党の虚妄を砕することを意図した壮大な作業であった。(彼はワラ半紙を半折し裏表四面に 書き込んだが、’46 年春渡満時、新潟の空襲で惜しくも焼失した)独ソ戦が開戦すると、彼は毎日短波放送で戦況を聞き参謀本部に電話で報告して来た。この担当を高谷が当った。私への講述は引続き継続され私は「情報」の重要性をいやという程叩きこまれたリュシコフは情報とは「予想の科学」であるといい、情報の読み方、考え方、判断を繰り返し教えた。又ある時「ソ連文学の動向」という文学論の翻訳を頼れたが、文学に素養のない私には難解だったことを思い出す。‘42 年戦局は酷しく敗報が相次いだ。一口坂の九段事務所も臨戦態勢となり、リシュコフも毎週水曜日に来て会議を開いた。高野覚蔵、勝野金政、馬場秀夫(毎日新聞外報部)、吉村按里(ニコライ堂総主教)、原書一郎(コロンビアレコード宣伝部長)、岡田桑三(松竹俳優、東方社社長)と私。情勢分析に続き戦場宣伝の媒体を検討した。その後いつだったか高谷は元ソ連共産党員ということでハルビン特務機関に移り、後任として勝野氏が会議を主宰した。一口坂の老舗らしい鰻やの弁当を食べながらの雑談は、皆ソ連体者だったから、その思い出話になった。リュシコフと高谷の談は、コルホーズ強行に反対した村民を並ばせPage 33彼が話すときは回転椅子にかけ片足の靴を脱ぎ他方を膝の下に入れ、常に笑顔を絶やさず、鼻をクンクンさせながら手の甲で鼻の辺りを擦っていたのが印象的であった。私は陸軍で謂う情報が、宣伝、謀略、諜報を含む心理戦で、参謀本部十一班は武力に依らないで敵を屈服する孫子の兵法を範とする心理戦の体系化を構想していたから、この会議で論議は大いに役立った。(3)餞別の言葉‘43年10月に私の入隊が決まった。一夜、リュシコフが神楽坂の料亭で送別会を開いてくれた。彼はシンミリと「この戦争は敗戦必至だ、だが、君は死んではならない。死んだら犬死だ。君に話したソ連革命を思い出して欲しい。“敗戦を革命へ’’と考えたレーニンの所謂“二段革命論”だ。革命は日本の敗戦後に迫っている。その時こそ存分の働きをして欲しい」と言った。‘45年8月、終戦直後のハルビンで脱出を決意できたのも、このリュシコフの教えに従っただけで、私には何の躊曙もなかった。関東軍将兵60万は為すところもなくシベリアに送られ、十年の歳月を抑留されたのである。リュシコフから教示されたソ連の実相は、私の一命を救い、その後も「ソ連を知りすぎた男」として追及を招いたのは何とも皮肉であった。(4)リュシコフ暗殺命令‘45年2月、関東軍司令部からハルビン特務機関の諜報班長へ作戦命令で転属した。任務はソ連の開戦時期の測定であった。これが最後の仕事と覚悟し、思い残すことなく潔く死のうと思った。測定方法として四つの方策を考え出し、部下を督励した。期限は6月初めである。その頃リュシコフから葉書が来た。ノひらがなの文面には間もなくハルビンに行き、一緒に仕事をするのを楽しみにしていると書かれてあった。私も再会を楽しみにしていたが、それは遂に叶わなかった。ソ連侵攻の時期を九月と結論し関東軍司令部に上申したが、現実は広島、長崎に原爆が投下され−ケ月早くソ連は侵攻してきた。鉄壁を誇った関東軍は各地で敗走した。私には開戦と共に満州内異民族の動向を司令部電話する任務が与えられた。電話ボックスから見る参謀達の醜態に情然とした。西方面の白城子辺の砲声に怖気づき、酒で恐怖を紛らさせている醜Page 34態であった。開戦二日目、夕刻山下参謀長に呼ばれた。「リュシコフ大将を暗殺せよ、直ちに大連に赴き、大連特務機関長と連絡し実行せよ」との命令であった。−一瞬考えて「私にはできません。公私混同かもしれませんが・・。なぜ殺さなければならないのですか」「参謀本部からの命令だ」 「陸軍は彼に大恩があります。私にはできません」 押し問答が続いた。室に戻り考えた。命令は絶対である、しかし・・・。夕食時、高谷覚蔵を官舎に訪ねた。この話をするや「それを俺にやらせてくれ。一緒に山下参謀のところに行って高谷にやらせてくれ」と懇願された。思えば彼はソ連の裏切 者である。ソ連に捕まれば縛り首を免れまい。高谷は迫る危機を暗殺に賭け、成功したらと七十万円と飛行機を要求した。後日、彼に確認したら暗殺は勿論でき るわけがない、奉天で時間をつぶしてハルビンに引き返したとのことで、終戦の混乱に紛れた詐術であった。大連のリュシコフはというと、ハルビンから誰も現 れなかったので、特務機関の竹岡大尉が宿舎のヤマトホテルから呼び出し、拳銃を前に自決を迫ったが拒否された。今はこれまでと階段を降りる背後から発砲し たとのことである。歴史にIFは許されないが、私に知恵が働き、上海の租界(バンド)に逃避したら、時代も変わり、リュシコフも晩節を全うすることができ たにであろうにと思い、この知性の巨人を救けつことができなかった不明を恥るばかりである。冥福を祈る。*『情報将校の回想』(未完)を抜粋しました。
2008年05月11日
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http://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/50565361.html金銭感覚がまともとは こういうことですか?http://aishoren.exblog.jp/5622781/岡崎邦輔が新橋の料亭とんぼの女将 望月圭介が紅葉館の女中お福 桜内幸雄が新橋の定丸 松野鶴平が赤坂の名妓小きん 広岡宇一郎が新橋の林屋の女将茂治 三木武吉が神楽坂の待合い松の枝の女将、料亭ぼたんの女将(計六人) 鳩山一郎は赤坂の芸者雪奴 町田忠治は赤坂の料亭中川の女将(7-8P) 吉田茂はこりんちゃん(23P) ちなみにこの鳩山さんの雪奴(松室雪子)は、突然居なくなり、どうしたかと思って自民の陣笠たちが調べたら「田中清玄に口説き落とされて、田中の家にいることがわかった」(8P)。これでは鳩山一派や児玉筋とは、仲が悪くなって仕方あるまい。 筋をとおさぬ不埒な横紙破りを清玄がしているのだから、やはり卑劣な印象を受ける。どうしても雪奴を射止めたいならば、鳩山にはきちんと筋だけは通すべきであろう。 やはり自伝で良いことばっかり書いているが、清玄というのは如何に信用ならない男かこれでも立証された訳である。この種の黒幕とかフイクサーなどと呼ばれる人間には えてして女性関係がルーズであり、金銭感覚もかなりいい加減な人物が多いのが世間一般の印象だが 田中の場合はむしろ逆である田中清玄自伝 ちくま文庫 363ページより
2008年05月08日
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ン元http://page.freett.com/buddyholly/yotumoto.htm四元は、これまで述べてきたように、近衛文麿から小磯国昭、鈴木貫太郎、吉田茂、池田勇人、佐藤栄作、福田赳夫、大平正芳といった宰相たちの、ブレーン、あるいは指南役として重大な影響力を持ちつづけてきた。はたして、四元があえて中曽根に肩入れする理由は何か。 昨年四月、四元に北鎌倉・円覚寺内の蔵六庵でインタビューしたとき、四元になぜ中曽根を担ぐのか、と訊いた。 四元は、中曽根と歩んできた過去をふり返りながら、訥々と語った。「中 曽根を注目しだしたのは、河野一郎が死んでからだ。ぼくは、河野のところへなんか行くんじゃない、やめろ、といったんだけどね。中曽根はいうことをきかな かった。ぼくは、河野一郎が嫌いでね。若いころだったら、叩き殺してやるよ。河野派の連中は、児玉を大先生と呼んでいる。みんな、金をくれるから偉いと 思ってるんだ。 中曽根は、昔から芸者の評判がえらく悪かった。芸者が、ばくに言うんだ。『四元先生、どうして中曽根さんをかわいがるの? あの人は、性格に裏表があって、先生とは違う。先生のお座敷では、きちんとしてるけど、ほかのお座敷ではひどいのよ』古い芸者は、みんなそう言っとった。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E6%9D%B1%E6%AD%A3%E7%BE%A9伊東正義の項より旧制福島県立会津中学校(現・福島県立会津高等学校)から旧制浦和高校(現・埼玉大学)を経て東京帝国大学法学部を卒業。農林省に入省したが、興亜院に出向し、大平正芳(のちの首相)、佐々木義武らと机を並べる。戦後、中国大陸から引き揚げるが、空襲で焼け出され、大平宅に仮寓しその生活がしばらく続く。局長時代には、河野一郎農相と丁々発止のやり取りをして、河野から政治家向きと評価された。事務次官まで進む。1963年、衆院議員に初当選。当選回数9回。河野派入りを拒否し、無二の親友・大平と同じ池田派(宏池会)に属した。田中清玄も 伊東正義を評価していますし 四元義隆も評価しているんですが 会津武士とか 高潔とかそういうのに 点数をつけるかたもいますが この方の元農林省事務次官という肩書きに なんで 目がいかないのでしょうか?そして四元にしても 伊東にしても 河野一郎に距離を置いているのですが それは なぜか?と考えるべきかと思います。
2008年05月05日
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http://blog.livedoor.jp/central_press/archives/28585539.htmlこの農水省の「官製談合」は東北地方だけではなく、全国的に行なわれている。しかし、今回は東北農政局の発注する公共工事に関しての告発となった。それは東北の公共工事を仕切る談合のボス・鹿島と深い関係にあるからだ。この談合の指令塔は実は東北農政局にあるのではなく、鹿島東北支店に置かれた「北杜会」という組織がおこなっており、この「北杜会」の事実上の責任者は幹事役となっている鹿島東北支店の田村秦営業部長である。この田村営業部長に伊東尚海と小野寺章が協力して、この東北農政局発注の工事の割り振りを行なっていた。 では具体的な証言を基に「官製談合」を追っていくことにしよう。これまで一貫して「官製談合」を役所ぐるみで仕切ってきた、それは道路公団などと腐食の構図は似ているが、ゼネコンだけではなく資材納入業者の末端まで、その指令は絶対のものとして通達されている。これが行なわれきた背景には「農政一家」と称されてきた、天下り企業がゼネコンだけでなく広範囲に及んでいるからだ。農政事業だけをやって大きくなった建設業社を抱え込むなど特殊性も際立っている。例えば浅野工事、徳倉建設、アイサワ建設、幾久建設、三幸建設工業などは、中堅ゼネコン各社を上回る天下り(5人から10人)を抱えている。受注したゼネコンが資材納入会社をかってに決定できないのには、設計課長が深く関わっている。設計課長はキャリア組で占められ、全国の各農政局においては絶大な力を持っている。資材メーカーが納入する商品は、この設計の段階で織り込まれているためにゼネコンもかってに納入業者を決められないわけだ。東北農政局の整備部設計課長をしていたこともある段本幸男参議院議員を支援する会が、「大手町会」として作られており、ここが総本山でもある。その下部組織として東北地方にあるのが「北杜会」で、これが東北における指令塔となって「指さし」が行なわれてきた。あ くまでも血盟団は 化粧回しなんです。右翼の大物というのも化粧回しなんですが 横綱が強いのは 化粧回しで強いのではないのです。自民党というか 保守 層の中核である農業と土木の関連に 数十年 携わっていて 農水省内部にコネをもてば(割と タカ派議員とつながりが多いようです)、誰でも 黒幕と言わ れる存在になるような気もしますがそれじゃ つまらないのかな?この方については 資料がないという言い方がされますが 本質は業界ボス それじゃいけないのでしょうか?
2008年05月05日
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